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2024年1月

井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(5)

4.抽象絵画

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 井田は「私の仕事は、自由を求める行為の結果として生まれます。比喩的であろうと抽象的であろうと、それはその日の私にとって最も現実的な状況です。それこそ私がめざしているものです」という。
 このコーナーでは、部屋全体を覆う壁紙に、井田幸昌の絵画のひとつを拡大した断片がプリントされ、その上に抽象的な絵画が重ねられている。ちょうどパソコン画面で複数のタブを開いたときの図やチャートの重複を模したかのような展示である。Monets-garden
 井田は「ヒトの動き、樹木の揺らぎをとらえたい」という。日没、川、音楽など、瞬間に出現してすぐ次の瞬間に消え去るつかみどころのないものの象徴を、抽象的な様式で描く。それは、モノ、記憶、情報をめぐる旅となる。
 Monet's Garden 2022がある。
 これも具象画コーナーでの絵画と同様に、歴史的な先達の偉業に敬意を表しながら、インスピレーションを受け取り、自分の作品に創作したものである。表現方法が、ここでは具象絵画ではなく抽象絵画となっているのである。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(4)

3.具象絵画
 井田は「革新とは伝統を引き継ぎ、それを更新することだと信じています。私は過去の偉大なアーティストに救われてきました。伝統的な表現の影響下にあるという事実を無視することはできません。しかし私は、現代に生きており、その価値観のなかで生きています。その意味で、私自身も前衛的でありたいという願望があります。これらは同じコインの表裏のようなものです。それは私のなかでは矛盾しておらず、私の存在は両者の架け橋なのです」という。The-starry-night
 The starry night 2022がある。これは晩年のフィンセント・ファン・ゴッホが、フランスのサン=レミ=ド・プロヴァンスのサン=ポール=ド・モゾル修道院の精神病院で療養中に描いた、ゴッホの代表作のひとつである「星月夜The starry night」(1889)を原案としている。このゴッホの作品は、井田のみならず多くの画家や音楽家に大きなインスピレーションを与えたと言われている。ここでは原案の構図に拘らず、独自の構想で、美しい星空の下で裸形の踊り子が歓喜を表現して輪になって踊っている。
 Cinderella 2017がある。

Cinderella

 これは、印象派の描写法を尊重したような画風で、鮮やかな色彩と光が活かされている。
 美術史を横断するかのように、井田は、ベラスケスからピカソに至るまで「芸術の偉大な人物たちと対峙したい」という画家としての絶え間ない欲求から、絶えず過去にある芸術作品を振り返って自分の作品に取り込んでいる。そして圧倒的で厚い過去の芸術の蓄積を前に、近代美術における今日の画家の立ち位置について、絶え間なく疑問を抱えつつ、新しい芸術の創造を目指しているようだが、それは井田に限らず現代芸術家たちの共通の立ち位置であり課題なのだろう。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(3)

2.ブロンズ像
Study-for-the-pope  井田は「私は絵画的な彫刻とは何か、彫刻的な絵画とは何かについて、横断的な視点を持っています。粘土を造形する感覚と、絵具を厚く塗り重ねる瞬間の感覚はどこか通じているように感じます」という。
 Study for the Pope 2019というタイトルの作品がある。
 これは、ベラスケスの肖像画「インノケンティウス10世の肖像」(1650)を手直しして1950年代に、具象画ではあるが大きくデフォルメさせた独自の肖像画をシリーズ作品として多数制作したフランシス・ベーコンを彷彿させるとされる。Donald-trump-no2
 このコーナーにあるブロンズ彫刻は、すべて色が真っ黒で掘り込みが荒々しくてデフォルメも強く、さらに照明が控えめでもあり、顔の表情を見るのが少し難しいが、教皇の顔は潰れて歪んでなにかを絶叫しているようである。彫刻の制作方法は、絵画表現と同じように、絵筆で描きだすかのような処理が施され、絵画表現の延長、あるいは井田のいう「絵画と彫刻の横断的アプローチ」というコンセプトが理解できる。井田の肖像画と同じく、圧し潰され空間で渦を巻くような造形で、モデルが誰であるのか認識できそうにないし、また表情も細かくはわからないような表現である。結局、彫刻というよりは、デフォルメの強い絵画の立体化のような制作といえると思う。
 Donald Trump No.2 2020がある。これはもちろんアメリカ元大統領トランプ氏の顔だが、特徴ある前髪と唇の歪みだけが表現され、顔面の他のパーツはすべて省略されている。それでもまぎれもなくトランプ氏だとわかるのがおもしろい。普通の人間に対する日常の顔の認証も、案外このように単純なのかも知れないとふと思ったりする。

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 これらのブロンズ像作品の展示レイアウトもおもしろい。権力者のトランプの像の横に、イギリス女王の像を配置するかと思えば、そのすぐ横には井田が日常的に顔を合わせている同僚たちの像を配置する。アンディ・ウォーホルがやるように、有名無名、権力の有無に拘らず、人々の間に分け隔てを設けず、出会うすべての人びとを記録したい、という欲求を表わしているという。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(2)

1.肖像画
 絵画の歴史をたどると、肖像画は人物の容姿を精緻に描き、その人の経歴や附属データとともに記録する、いわゆるアーカイヴの役目を担ってきたが、現代では写真の進歩・普及のみならず、ディジタルカメラや、記録・蓄積・保存能力に優れたディジタル画像データの著しい進歩と普及で、アーカイヴの用途や役割はほとんど消滅した。そこで井田は「ヒトは自分を映す鏡であり、したがって肖像画を描くことは、他人を通して自分自身を知ることである」という。結局、表現のすべては自画像なのだ、というのである。Self-portrait
 Self Portrait 2021という自画像がある。
 全体の構成として、人物の顔らしいことはわかるが、具体的な描写としては細部は省かれ、そのかわりに大きくデフォルメされていて、顔の各部分の形態を表わそうという意図は皆無である。ただ、描かれた人物の熱やエネルギーのようなものは明確に感じさせるように描かれている。したがって描かれたモノが生きている、との表現は鮮明である。観る者になにかせまるものがあるのも明らかである。
 There is no death. There will be but another world. 2023というタイトルの作品がある。哲学的な命題のようなタイトルだが「ここには死はない。あるとしたら別の世界だ」というような意味だろうか。
There-is-no-deaththere-will-be-but-anoth  この会場での展示は通常とおり壁面に並べる形式だが、もともとこれらの「肖像画」群は床に描かれ、鑑賞者はその上を歩くように配置されていたという。観る者は、作品に正面から対峙するのではなく、キャンバスが展開する新しい人工的な世界へ、自然に誘い入れられるようになっていたらしい。鑑賞者と作品との新しい関係性の提案なのだろう。鑑賞者は、作品との特別な距離を全身で体感できるようになっているという。
 もはや絵画としての意味を喪失しかけているとする具体的な輪郭や形状は存在を薄められ、大胆で力強い筆致で表現される生命感やエネルギーが中心となる。躍動感ある筆致は、時間の流れを表わしているのかも知れない。デフォルメは激しいけれども、決して苦痛や悩みを表現するのではなく、人間としての息吹、意志、動きを感じるような表現である。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(1)

 ようやく秋らしくなった京都に、京都市京セラ美術館を訪れ、井田幸昌「パンタ・レイ展」を鑑賞した。「パンタ・レイ」の意味は、ギリシアの「万物は流転する」である。
 井田幸昌(いだ ゆきまさ)は、平成2年(1990)彫刻家の子として鳥取県に生まれた。幼少期から身近にアートに囲まれ、絵を描いたり創作したりするなどして育った。父と親交があった彫刻家故ロバート・シンドルフに師事し、多くを学んだという。16歳から本格的に油彩画と出会った。Photo_20240127054901
 高校卒業後にいったん就職したが、絵を諦めきれずに東京藝術大学に入学し、平成28年(2016)東京藝術大学油画専攻を卒業、ついで令和元年(2019)東京藝術大学大学院油画専攻課程を修了した。
 すでに学生時代から積極的に作品を発表し、多くの個展やグループ展を開催していた。
 平成28年(2016)当時長崎県立美術館学芸課長であった野中明氏の推薦を受けて「VOCA展 2016」に参加し、また同年行われた現代芸術振興財団主催の「CAF賞」で「審査員特別賞」を受賞した。
 平成29年(2017)レオナルド・ディカプリオ・ファンデーションオークションに、他の著名アーティストと共に最年少で招待され参加した。その年からニューヨーク、ロンドンに滞在し、日本と海外アーティストとの違いを肌で感じたことから、株式会社IDA Studioを設立し、代表取締役社長に就任した。これにより世界中にコレクターを有し、しかもギャラリーに属さない新しいタイプの芸術作家としての地位を確立している。
 平成29年(2017)ロンドンで初の個展『Bespoke』を開催し、海外でも積極的に活動を開始した。これまでにパリ、北京、ロンドン、シカゴなど、世界各地で個展・展覧会を多数開催している。平成30年(2018)Fobes JAPANが表彰する「30 UNDER 30 JAPAN」のひとりに選ばれた。このように、斬新な創作活動で注目される若手ホープのひとりである。

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長沢芦雪展 中之島美術館(7)

奈良・広島・兵庫などでの活躍(寛政元年から寛政11年まで)【完】
 やはりとても珍しい作品として、長沢芦雪「方寸五百羅漢図」(寛政10年1798)がある。Photo_20240126055801
 これは方寸(約3センチ四方)の中に少なくとも300以上の羅漢や動物を、一部の着色を含めて超微細な描写で表したもので、近年再発見された貴重な作品である。
画面中央付近に、三蔵法師と法師を載せる白い牛が描かれ、周囲にさまざまな姿勢と様子の羅漢たちの群れが集積している。
 類似のものとしては、幕末の絵師狩野一信が約10年の歳月を費やし描いた「五百羅漢図」がある。羅漢の修行の様子や衆生を救う場面が全部で100幅にわたり細密に描かれ、その執拗な描写と濃密な色彩は圧倒的である。
  これらに感化されて、現代画家の村上隆は、「五百羅漢図」を制作したという。
 こうしてのびのびと多面的に活躍した芦雪であったが、この「方寸五百羅漢図」を制作した翌年の寛政11年(1799)に、旅先の大坂で急逝してしまったのであった。その死因は、病死・自殺・他殺など、諸説あって、まったく未解明であるらしい。
Photo_20240126055901  私は、長沢芦雪と聞いただけではまったく知らなかった。通常なら、自分で鑑賞に出かけることはなかっただろう。しかし大阪に待望の中之島美術館が昨年完成・開館し、私は美術館会員となった。その特典としてそれぞれの特別展覧会を自由に鑑賞することができるようになった。このことがきっかけで、関心がなくても少し覗いてみるか、とごく軽い気持ちで出かけたのであった。
 果たして、100点ほどの展示作品を眺めて、やはり思い切って来てみてよかったと思った。伊藤若冲や曽我蕭白と活動年代がかさなり、比較されることも多い。たしかに良きにつけ悪きにつけ、長沢芦雪は伊藤若冲とも曽我蕭白とも違う。パッと見は、伊藤や曽我に敵わないようにも思ったが、少しじっくり眺めていると、たしかに魅力的な個性があると思った。
 幸い、疲労し過ぎるほどの展示点数でもなく、結果的には私としての楽しい発見もあり、充実した鑑賞であった。

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長沢芦雪展 中之島美術館(6)

奈良・広島・兵庫などでの活躍(寛政元年から寛政11年まで)[下]
 長沢芦雪「群猿図」(部分)(寛政7年1795)が展示されている。

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 この絵は、私がかつて観た記憶がある希少な例である。たしか伊藤若冲の展覧会で、同時代の画家の絵として展示されていたのではなかったか、と思う。猿の具体的な描写もさることながら、それぞれの猿の居場所、行動、その背景としての動物たる個々の猿の性格などまで追及しようとするかのような、多様性、個性の表現を感じる。そういう意味でも、新しさを感じることができるおもしろい絵である。Photo_20240125054602
 長沢芦雪「大仏殿炎上図」(寛政10年)が展示されている。
 寛政10年(1798)落雷による火災のため全焼した方広寺大仏殿(京の大仏)が、炎上する様子を描いた、抽象的な雰囲気さえある特異な絵である。方広寺大仏殿は、当時日本最大規模の木造建築であった。注目すべきは、落款に「即席漫写 芦雪」とあり、芦雪は実際に方広寺大仏殿が眼前に焼け落ちゆくのを眺めながら、記録映画のカメラマンであるかのように描いたとされている。それがほんとうであれば、とても稀有な絵画作品だと言えよう。

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長沢芦雪展 中之島美術館(5)

奈良・広島・兵庫などでの活躍(寛政元年から寛政11年まで)[中]
 鳥を描いた作品として、長沢芦雪「岩浪群鳥図襖」(18世紀)がある。Photo_20240124060801

 おそらく海の岩礁から飛び立つ鳥の群れを描いたものだろう。波浪の形と鳥の羽ばたきの表現から、かなりの強風のなかを力強く羽ばたいているようだ。鳥の細かな美ではなく、仲間とともに行動する鳥たちの、動きや強さの美、生き物たる鳥のエネルギーを表現している。Photo_20240124060901
 長沢芦雪「富士越鶴図」(寛政6年1794)が展示されている。
 背景には、必要最小限に描かれ、しかも勇壮な美を表わす富士山の山肌がある。一見荒い筆遣いのようだが、壮大さも力強さも遺憾なく表現されている。右上に小さく薄めに描かれた太陽も、みごとに生きている。その前景には、美しく連隊を編成して飛ぶ鶴たちが描かれている。
 この絵に記された「魚」朱文氷形印は、赤い囲み線の右上部分が欠けていることがわかる。さきほど述べた、芦雪の決意表明の跡である。
Photo_20240124061001  芦雪の絵としては、かなり珍しいとされる何点かの作品も展示されている。
 長沢芦雪「幽魂の図」(18世紀)は、幽霊の絵である。この絵は、筆致は簡単なようだが、ある意味とても写実的で、幽霊の恐ろしさがしっかり表現されている。恨めしそうな焦点の定まらぬ眼、ぼかしと速筆が活きた少な目の髪の毛、意図的に大胆に描き残した画面が、幽霊の幽玄を巧みに表している。こんな絵でも、芦雪はうまいのだよ、と言わんばかりである。
 長沢芦雪「宮島八景図」(寛政6年1794)がある。Photo_20240124061002
 芦雪の作品としては、このような鳥観図のような絵は珍しい。ぼかしを巧みに使った海面の表現、意外に緻密で立体的な建物の描写と、薄墨の利用による湿った空気感の表現、など芦雪らしい達者さが見て取れるが、芦雪がこのような作品を描きたかったのだろうか、と思ってしまう。事情はよく知らないけれど、発注者の意向なのではないか、と推測する。

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長沢芦雪展 中之島美術館(4)

奈良・広島・兵庫などでの活躍(寛政元年から寛政11年まで)[上]
Photo_20240123060401  紀南滞在の後、芦雪は、大火で消失した御所の襖絵制作への参加などに加えて、奈良や広島に赴き、滞在して現地で精力的に制作を行った。芦雪は、紀南滞在期と同様に、応挙の弟子として師から学んだ成果に加えて、師匠の画風の再解釈、変容を目指し、独自の画風の確立に努力を惜しまなかった。
 長沢芦雪「牛図」(18世紀)が展示されている。
 この牛の表現は、一見してわかるように当時の日本画らしくはない。大胆な構図と色遣いの単純化など、明らかに新しさを感じることができる。
 ところで、この絵の右下に、小さな赤い「魚」の字を同じ赤色の線で囲んだマークがある。この「魚」朱文氷形印は、芦雪が天明5年(1785年)頃から使い始めたものであった。この印章にかんする逸話として、次のようなエピソードがあったという。ある寒い冬の朝、修行時代の芦雪が、往きの途中の小川に氷が張り詰め、魚がその中に閉じ込められて苦しそうであったのを見た。気になって帰りに覗いてみると、氷がだいぶ溶け、魚は自由に泳ぎ回っていた。次の日芦雪が、師の円山応挙にこのことを話すと、自分も修行時代は苦しかったが、そのうち修行で力をつけて、次第に氷が溶けるように画の自由を得たのだと諭され、これを肝に銘じるため終生この印を使い続けたという。
Photo_20240123060501  この印章は、寛政4年(1792)ころから右上の枠線が大きく欠損し、作品の制作年代を知る上で指標の一つとなっている。「魚」朱文氷形印は現存していて、実際に故意に割ったらしい痕跡があり、おそらく画の自由を得た決意表明として、芦雪自身が故意に割ったものと考えられている。
 動物を描いたものとして、長沢芦雪「降雪狗児図」(18世紀)がある。
 子犬が2匹、雪の中で寛いでいる。暖かそうな毛並みと寛いだ表情から、この子犬たちは寒さを厭うよりも楽しんでいるかのようだ。子犬の可愛さが強調されている。

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長沢芦雪展 中之島美術館(3)

紀南での活躍(天明7年から寛政元年ころまで)
 長沢芦雪「寒山拾得図」(天明7年1787)が展示されている。Photo_20240122060001
 寒山拾得は、日本画の画題としてきわめて広く普及していたものだが、芦雪の表現は敢えて荒い筆運びで画面をリラックスさせ、描かれた人物にもユーモアを感じさせ、そこはかとない暖かさを醸し出す絵となっている。このあたりの絵となると、芦雪独特の世界の絵と言えるのだろう。
 龍を描いた別の絵として、長沢芦雪「龍図襖(昇龍図)」(18世紀)がある。
 背景の描写は無く、薄墨でおそらく速筆で一気に描き上げたのだろう。龍の身体はかなりデフォルメされて力強く躍動し、頭部はいささか不自然に上を見上げている。無量寺の襖絵とはかなり違う構図と描写であり、芦雪の作品のヴァラエティの広さを感じる。こうして、芦雪は筆遣いもいっそう奔放になり、構図もより大胆となっていった。

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長沢芦雪展 中之島美術館(2)

紀南での活躍(天明6年1886ころまで)
 天明6年(1786)10月頃から翌年2月にかけて、芦雪は、紀南地方(現在の和歌山県南部)に赴き、 本州最南端の町・串本町にある無量寺をはじめとする寺院の襖絵を描いた。師・応挙が襖絵の制作を依頼され、招聘を受けて出張する予定だったのが、事情で行けなくなり、子弟の代表格として芦雪が、師の作品を携えて代理で派遣され、滞在したのであった。師のもとを離れた芦雪は、温暖な気候も手伝って、それまでとは異なるより自由で大胆な筆遣いによって多くの作品を描くようになった。大画面の作品も増加した。


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 紀州に赴く寸前に描かれた作品ではあるが、大画面の襖絵として長沢芦雪「龍図襖」(天明6年1786)が展示されている。
 ここでは龍は全体を詳しく描写しないで、怒りを表わす頭部と狂暴さを強調する前足、とくに爪の表現に絞り込んでいる。顔の描写も、墨の擦れを巧みに利用して自然な立体的表現を実現し、鋭い両眼と歯をむき出した口とで憤怒を表わしている。焦点を絞り込んだ構図と描写は、現代的な絵画に通じる新しさを感じるものである。


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 これに相次いで描かれた作品が、長沢芦雪「虎図襖」(天明6年1786)であり、このふたつは和歌山県串本の無量寺の拝殿座敷に、正面の仏像に対して両脇の襖面として対峙している。
 描かれた虎は、動きも表情も実に勇猛に描写されているが、顔の表情はそこはかとなく親しみを感じさる。おそらく芦雪は、愛好して描いていた猫の顔を参考として描いたのではないか、と推測されている。

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長沢芦雪展 中之島美術館(1)

Photo_20240120055601  伊藤若冲・曽我蕭白らとともに「奇想の画家」のひとりとして注目を集めるとされている長沢芦雪の生誕270年を記念した特別展「生誕270年 長沢芦雪 ―奇想の旅、天才絵師の全貌―」が、大阪中之島美術館で開催された。
 私は、長沢芦雪の絵はこれまでごく少数を、伊藤若冲か曽我蕭白の展覧会でみたように思うが、はっきりとは覚えていない。
 長沢芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年1754~寛政11年1799)は、丹波国篠山に篠山藩士の子として生まれたらしい。同時代の高名な絵師と比べるとその履歴を示す資料はごく少ないという。

円山応挙の弟子としての活動(安永後期1770年代末から天明5年1885ころまで)
Photo_20240120055701  長沢芦雪は、20歳前までに、写生画を得意とした円山応挙に弟子入りしたらしい。すでにそれまでにかなりの力量を積んでいて、師の応挙に完全にしたがうような立場ではなかったと思われている。早い時期から独自の作風を模索し、一門のなかで頭角を現すようになった。Photo_20240120055801
 「西王母図」(天明2年1782)が展示されている。主人公として描かれた若い女性が抱きかかえているのは、三千年に一度咲く仙桃という神聖な果実で、それがこの女性が中国西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王であった西王母であることを表現している。このとき芦雪はすでに29歳になっており、師の応挙に倣った画風から徐々に独立しつつあることが顕れているとされる。西王母は、古代中国では人間の運命を支配する恐ろしさを持つ存在とされていたが、時代が下るにしたがって、姿も「人頭獣身の女神」から「天界の美しき最高仙女」へと変化し、不老不死の仙桃(蟠桃)を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにようになっていた。絵のテーマとしても、写生画を好む師の応挙が選好するようなものではない。
Photo_20240120055901  長沢芦雪「牡丹孔雀図」(18世紀)が展示されている。この絵では、樹木や花の鮮やかな表現、孔雀の羽毛の美しさの表現など、応挙から受け継いだ技術や感覚がみごとに結実しているように思う。
 長沢芦雪「梅花双狗図」(18世紀)が展示されている。
 ここでは愛くるしい子犬が主人公である。芦雪は、子犬や野猿などの小動物を好んで画材にしている。実際にも、間近に犬や猫を飼って詳しく観察して、その描写を探求し、適冝他の画材の描写に応用したと推定されるという。
 芦雪は、応挙のもとで、師から学ぶとともに、独自の画題・表現を探索し続けていたようである。

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人間を不安・孤立から救うための「新しい中間共同体の提案」にかんして

 戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)の一部から再編集したとする「「保育園落ちた日本死ね」がバズったのは当然だった…日本人があらゆる問題を「国家」のせいにする理由」という題名の記事が、President Onlineに掲載されていた。まずその梗概を示す。
 2016年にユーキャン新語・流行語大賞のトップテンにランクインした話題として「保育園落ちた日本死ね!」とのブログ記事があった。この投稿者の生きている世界には、家庭と国家しか存在しないかのようである。自分の声を聴いてくれるコミュニティ、中間共同体の存在がなくなってしまって、中間共同体への信頼は皆無なようである。実はそうした信頼こそが、私たちが自分の人生を自分の人生として引き受けるための必要条件なのである。
 日本の現状を見ると、核家族化が進行し、地方の若者が都市部へ流入して郊外へ居を構え、そこで新たな家庭を築くようになっていった。その結果、従来の地縁的コミュニティは成立しなくなり、近隣に住む人々との共同性は希薄になった。誰も私の話をきいてくれないという不安感、孤立感が蓄積しているのである。
 伝統的な地縁的コミュニティは、因習・固陋的な問題もあり、偶発的にではなく構造的に歴史の流れに従って解体した。したがってかつての地縁的コミュニティの復活を期待することは、単なるノスタルジーに過ぎない。私たちは別の可能性を考える必要がある。
 それは、人為的に対話の場を創出すること、具体的には「哲学対話の営み」である。これは欧米で発祥した対話型ワークショップの形式であり、数人から数十人の人々が、特定のテーマについておよそ2時間かけて語り合うもので、筆者たる戸谷洋志自身が携わっていて、伝統的な地縁コミュニティに代わる、新しい中間共同体の可能性を感じている。
 しかしクリアされなければならない問題がある。苦境に陥っている人々にはそうした対話の場に赴く時間的あるいは経済的な余裕がない。その余裕は、社会によって保障される必要がある。
以上がその記事の梗概である。
 「日本死ね!」の稚拙はさておき、人間同士を交流させるコミュニティが枯渇しつつある傾向はたしかにあり、それが重要な問題であるのは事実だろう。エマニュエル・トッドも「人間=ホモサピエンスがもっとも恐れるのは、死よりも孤独だ」と指摘する。
 戸谷は、伝統的な地縁的コミュニティが本来的な問題もあり、歴史的必然性に基づいて解体した、というが、私は伝統的社会や関係の在り方に対して、一方的に保守反動的、時代遅れ、復古趣味的などと過剰に否定して煽ったメディアや「識者」の寄与もあったと思う。どんな制度や慣行にも、かならずメリットとデメリットが併存するのであり、「新しい」「多様性」「個性」などといった安易で軽薄な言葉で否定を吹聴することに対しては、つねに警戒が必要だと思う。
 対策として、戸谷が提案する「哲学対話の営み」も、ひとつの方法となる可能性はあるだろうが、それが機能するためには対話や議論が成立することが前提である。そのためには、前提条件としてヒトとヒトとが語り合えるコミュニティへの価値観・文化の共有が必須である。時間的・経済的余裕を与えられさえすれば、それが可能となるという単純なものではない。「日本死ね!」の投稿者が参加しそうには、到底思えない。自由の尊重と享受・謳歌、個性の主張は大切だが、あわせて人間同士の交わり・コミュニケーションの重要さを正しく認識することこそが、それ以前に必須である。
 現状では、時間的・経済的余裕以前に、他人との会話、コミュニケーションに価値を感じない傾向がある。たとえば、住居近隣の自治会活動に対して存在価値を認めない、という事実がある。「余裕は、社会によって保障される必要がある」などという主張は、安易な「社会への依存」であり、社会の問題の解決を社会に委ねる、という循環論的な自己矛盾的提案に過ぎないように思える。あるいは、間接的に「国が保障せよ」というのだろうか。それなら「日本死ね!」の投稿者と同じである。
 現在の日本は、少子化、人口減少など全体としてはメリットの少ない傾向なのだが、人数が少ないことで、人間同士のコミュニケーションには好都合な側面も、工夫すれば見いだせるのではないだろうか。安易に西欧の模倣を提案するのではなく、自由を尊重し個人の拘束を回避することに留意しつつ、わが国の伝統的なコミュニティを基盤として、新しい人間のコミュニティを、協力して工夫して改善し構築していく地道な努力を、焦らず着実に進めて行くことも必要だろう。ネットやSNSも、あらゆる手段と同様に、メリットもあればデメリットもある。たとえば遠隔の友人とヴァーチャル対話できるのは、大きなメリットである。無責任な発言が蔓延るのは、明らかなデメリットである。
 かく言う私自身も、後期高齢者に近づいて、ようやく心置きなく語り合える友人たち、その友人ネットワークの存在のありがたさを心底から認識できたように思う。若いころは、特段に自己中心的というものでなかったとしても、自分のことにもっと関心が集中していた。エマニュエル・トッドが、また戸谷も指摘する、人間は他人との関りがなければ生きて行けないということを、本心から理解するのに時間と経験を要した。
 コミュニティの重視・尊重の文化の普及には、教育、メディア、環境など多様な要因を担うヒトの主体的な協力と貢献が必要なのだろう。とりあえずは、メディアやマスコミの存在とその自由度を最大権尊重したうえで、それらの主張する内容を参考にはしても鵜呑みにはしない、必ず自分の頭で能動的に考えて判断する、という簡単そうではないがそれでも最低限のことを、みんなで教育・普及・実践していくことが、きわめて大切だと思う。

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鎌倉 天園ハイキング(下)

Photo_20240118054401  天園から20分弱ほど、上がったり下がったりの道を歩くと、大平山という鎌倉市最高地点の海抜160メートルにいたる。
 ここからしばらくは少し下りが多いものの、やはり上り下りの繰り返しが続く。下りの道は、ときにかなり険しく、昨晩の雨で少しぬかるんでいて滑りやすいので注意が必要である。
 スタートから1時間半ほどで「十王岩」に来た。ハイキング・コースもいよいよ終盤である。
 十王岩から10分ほどで、建長寺半僧坊への降り口の道標があるところに来る。私は建長寺方向に向かう。Photo_20240118054402
 まもなく少し眺望が開けて、海側の景色が眺められる。さらに少し降りると、勝上嶽展望台からの眺望がある。
 そしてさらに10分ほどで、建長寺半僧坊にいたる。朝はいささか曇っていた空も、すっかり晴れ渡って気温も上昇したのだろう、歩き続けたこともあり、上着を脱いで厚めの長袖シャツ1枚でも、少し汗ばんでいた。
 Photo_20240118054501 建長寺の法堂近くまで降りると、大勢の子供たちが集まって、餅つき大会が開催されていた。もうすぐ新年を迎えることになることをあらためて思う。恒例年中行事も、季節感があって、微笑ましく楽しいものだ。
 若いころ何度か訪れたコースなのに、一部にかすかな記憶があるもののほとんどを忘れてしまっていた。それにしても、結果的には冬の好天に恵まれて、楽しいハイキングができた。Photo_20240118054502
 帰途は北鎌倉に向かった。久しぶりのハイキングで、いささか腹も減ったので、途中の高台のレストランで軽く昼食を摂った。ここも寛げる心地よいレストランであった。

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鎌倉 天園ハイキング(上)

Photo_20240117062601  もう四半世紀の昔となるが、20年弱ほど鎌倉に住んで、その間なんどか天園ハイキング・コースを歩いた。このたび、ほんとうに久しぶりにこのハイキング・コースをまた歩くことにした。
 鎌倉駅から大塔宮までバスに乗る。バス停でバスを待つ間に列をつくる人たちは、私と同年代に近いと思われる高齢者が多い。多くが、申し合わせてバス停で待合わせているらしく、挨拶と懐かしさの話題が溢れている。Photo_20240117062602
 バスに乗り終点大塔宮、つまり鎌倉宮につくと、天園ハイキング・コースを目指す人たちは、瑞泉寺方向に向かう。ここでかなり人数が減ったが、一緒にハイキング・コースを行く人たちがいるのは、久しぶりに来て道に疎い私としては心強い。
 スタートしてまもなく「永福寺跡」の石碑があるところに来る。ここは、現在鎌倉市が史跡の整備に向けて、発掘調査と土地の買収を進めている最中で、その整備工事の途中であるとの解説標示板がある。解説板の日付が2012年なので、私がこれまでまったく知らなかったのも当然か、と納得する。
Photo_20240117062603  天園への登り口に向かって進む。最初のころは比較的道幅も広く、傾斜も緩やかである。30分ほど歩くと、紅葉がまとまって鑑賞できるエリアに来る。もう12月中旬で本来なら紅葉には遅いのだが、今年は9月末まで残暑が厳しかったためか、今頃でもかなり美しい紅葉が残っている。
 スタートして45分くらいで天園に着く。ここからは海側に眺望が開けている。解説板と休憩エリアが設置されている。何人かの人たちが、座り込んでひと休みして、水やお菓子を採っている。
 昨晩雨が降り、今日は少し天候が危ぶまれるとの天気予報であったが、幸いに本格的な雨はないとの朝の予報であった。まだ少し雲が多いが、まずまずの天候と言える。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(15)

吉田松陰終焉之地
 水天宮通りをさらに南下すると、散策コース終点の地下鉄日比谷線小伝馬町駅にいたる。その駅の地上の一角が十思公園(じっしこうえん)となっていて、そこに吉田松陰の終焉にかんする石碑が建っている。Photo_20240116060301
 吉田松陰は、嘉永7年(1854)ペリーが浦賀に来航したとき、アメリカへの密航を図って自首して捕らえられた下田渡海事件のあと、国許蟄居となり、実家の杉家に幽閉の身となった。そのような状況下ではあったが、安政4年(1857)実家に隣接して松下村塾を開き、わずか1年程度の短い期間に幕末維新の大きな変革を推進して日本の運命を背負い切り開いた多数の志士たちを教育・育成した。
 しかし翌安政5年(1858)幕府が勅許なく日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝要撃、毛利敬親の伏見要駕などを試みようとした。いずれも期待した同志の協力を得られず実行できなかったため、草莽崛起を唱えるようになり、倒幕までも訴えるにいたった。
Photo_20240116060401  安政6年(1859)安政の大獄に連座し、江戸に送られこの地にあった伝馬町牢屋敷に投獄された。ここでの評定所の尋問において、松陰はみずから老中暗殺計画への加担を告白し、死刑を宣告された。安政6年10月27日、この場所で処刑された。
 この十思公園に、「吉田松陰終焉之地碑」も隣接して建っている。
 また辞世の句「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂」の石碑がある。
 吉田松陰の学問や講義の内容の詳細は明らかでないが、研究者によると松陰の思想の内容に特段の独創性は見られないという。ただ松陰の生き方や生活態度そのものが真に一途で強烈に熱を帯びたものであったことはさまざまな記録や伝承から判明している。頭脳だけでなく、その高潔な人格を前提とした全身全霊での教育だったようだ。【完】

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(14)

お玉ケ池種痘所記念碑
 昭和通りの岩本町交差点から靖国通りを東に向かうと、すぐに水天宮通りに差しかかる。水天宮通りを南下してすぐ次の交差点・岩本町三丁目の右角に、四角く黒く大きな「お玉ケ池種痘所記念碑」がある。Photo_20240115060501
 さらに進むと、次の角の少し入った小路のなかほどに「お玉が池稲荷」があり、そこから2つ先の角の右に「お玉ケ池種痘所跡」のレリーフと標柱がある。
 わが国では嘉永2年(1849)長崎出島のオランダ商館の医師によって最初の種痘所が開設された。それとは別に、長崎の通詞から京都へ痘苗が送られ、日野鼎哉により京都でも少し遅れて「除痘館」が開設され、種痘が開始された。これを知った緒方洪庵は、すぐ後に大坂でも「除痘館」をつくった。これらの動きは、さらに備中、越前などへかなり速く波及していった。
 江戸では、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし安政5年(1858)蘭方解禁となり、革新的な蘭方医たちが幕閣の開明派であった川路聖謨に働きかけ、川路を通して幕閣に働きかけ、種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとした。
Photo_20240115060502  安政5年(1858)老中堀田正睦から許可が下り、蘭方医83名の資金拠出により、この地にあった川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。この種痘所は11月に火災で類焼するが、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮所として種痘は継続され、翌安政6年(1859)9月に別な場所に再建された。こののち幕府直轄とされ「西洋医学所」(東京大学医学部の前身)と改名し、種痘は同施設の一部門となった。
 医学所初代頭取は大槻俊斎であったが、大槻の死後、伊東玄朴らが大坂の緒方洪庵を推薦し、幕府の強い要請に応えて緒方が大坂から江戸に来て頭取に就任した。文久3年(1863)2月に医学所と改称した。緒方の死後、新選組の沖田総司を診察したことでも知られる松本良順が頭取となった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(13)

玄武館・瑶池塾跡
 中央通りに出たら南へ向かう。万世橋を渡って須田町交差点で左折して東方向に進む。須田町2丁目交差点で右に入り、すぐ左へ折れた先の右手に「玄武館・瑶池塾跡」の解説板が建っている。Photo_20240114061801
 北辰一刀流開祖の千葉周作は、文政5年(1822)日本橋品川町に道場「玄武館」を開いた。やがてそれはこの神田お玉が池の地に移転し、練兵館・士学館と並び称せられて、幕末の江戸三大道場に数えられた。
 この地は、当時学者が多数いて、門人たちも学門に接する機会が多く、政治に関心を持つ者が増えて、幕末の志士の運動に影響を与えた。千葉周作以下の千葉一門は、道場を経営しつつ水戸藩の師範となった者も多い。
 玄武館の東隣には、文政4年(1821)儒者東条一堂が儒学と詩文を教授するために「瑶池塾」を開いた。一堂は、京都の皆川淇園(みながわ きえん)の下で儒学を学んだ後、江戸で亀田鵬斎に師事して儒学をおさめたのであった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(12)

講武稲荷
 聖橋の脇の階段を下り、橋の下を東へ行くと、左側には湯島聖堂の壁が続く。坂を下りきると昌平橋交差点に行き当たるが、そのまま直進して、中央通りの方に少し行くと、左手に赤い小さな神社の祠が見える。これが「講武稲荷社」である。Photo_20240113060001
 神田旅籠町と呼ばれたこの付近は、もともと防災目的の火除地であったが、その目的に反しない範囲で食物屋や娯楽などに使用されていた。講武所を設置するとき、この地はその附属地とされ、附属地の利用料を徴収して講武所運営の資金の一部としていた。
 その後、大貫伝兵衛という男が講武所付属地の払い下げを出願した。大貫伝兵衛は、浅草の長昌寺にあった稲荷社に払い下げ成就の祈願をし、無事成就したので、感謝の意を込めて安政4年(1857)当地に稲荷神社を創建したのが当社の起源とされる。
 当地が火除地だったことから「火伏せの神」として、また幕末以降花街として発展したことから「水商売の神」として尊崇されるようになったという。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(11)

近代教育発祥の地
 明大通りをそのまま直進すると、まもなくJR御茶ノ水駅に出会うが、右折してその駅の前の道を少し行くと神田川にかかる聖橋があり、それを渡って右に行くと相生坂になる。かつてこのあたり一帯は昌平坂学問所がひろがっていたという。道の左側は東京医科歯科大学が聳えるが、その敷地内道寄りに「近代教育発祥の地」との解説板が建っている。Photo_20240112054801
 江戸時代このあたりは儒学の府たる孔子廟(聖堂)があり、その一部が昌平坂学問所(昌平黌)となっていた。寛政9年(1797)昌平坂学問所の学寮と宿舎が建てられ、旗本や諸藩の藩士に対して教育が与えられていた。
 明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校・大学校・東京大学と発展して行くことになった。
 明治4年(1871)政府に文部省が設置され、わが国の教育行政が本格的に着手された。この地には、明治5年師範学校(翌年、東京高等師範学校と改称)が開校し、ついで隣接地に東京女子師範学校が開設された。
 東京高等師範学校は、明治36年に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学、さらに筑波大学となった。東京女子高等師範学校は、昭和7年大塚に移転し、後に新制大学となるときこの地の地名を校名に冠して「お茶の水女子大学」となって現在にいたっている。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(10)

法政大学発祥の地碑
 明大通りを御茶ノ水駅の方向に少し上ると、杏雲堂病院の前に「法政大学発祥の地」の石碑が建っている。実際の発祥の地は、明大通りからこの杏雲堂病院の後ろ側に入ったところであったらしい。Photo_20240111060601
 明治13年(1880)フランス法学に属する金丸鉄・伊藤修・薩埵正邦・堀田正忠・元田直ら7名の法律家・司法省関係者によって、この地に東京法学社が創立された。フランス法学とわが国の新法を講義する構法局と、裁判の代言(弁護)を勤める人材を育成する代言局で構成されていた。翌年、構法局が分離・独立して東京法学校となった。学生に弁護士体験をさせるリーガル・クリニックを備えた現代の法科大学院の原型でもあった。
 明治16年(1883)には明治初期から来日し、わが国の不平等条約改定、日本の法制整備に大きな貢献をしたフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを初代教頭に迎えた。
 一方で明治政府は、明治19年(1886)フランス学の普及を目的とする教育機関の設立を計画し、「仏学会」を組織し、同年11月東京仏学校を設立した。この学校は、当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置の後は法律学校としての性格を強めた。やがて明治22年(1889)の仏学会臨時総会で、東京法学校と東京仏学校の合併ならびに和仏法律学校への改称が決議された。明治36年(1903)学校名を法政大学と改称した。さらに、大正9年(1920)大学令に基づく大学となり、わが国で慶応義塾大学、早稲田大学とともに、最も古い段階で大学令に基づく大学になったのであった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(9)

小栗上野介生誕の地
 そのまま猿楽通りを進み、左折して金華公園の横の坂を登ると山の上ホテルの前に出る。このホテルのレストランは、とても居心地の良いところで、鎌倉に住んで居たころは何度か訪れたのが懐かしい。そこを経て明大通りに出会うと、YWCAビルがあり、その前に「小栗上野介ここに生まれる」と書いた解説板が建っている。Photo_20240110055401
 小栗上忠順(おぐり ただまさ、文政10年1827~慶応4年1868)は、2500石の旗本小栗忠高の子としてこの地に生まれた。成長するにつれて文武に卓越した才能を認められ、少年時代から自身の意志を憚りなく主張する性格となった。小栗家の屋敷内に安積艮歳が私塾を営んでいたので、ここで栗本鋤雲と知り合った。剣術は直臣影流免許皆伝を得た。
 結城敬之助から開国論を学び、大きな影響を受けた。天保14年(1843)17歳にして登城し、傑出した文武の才から若くして両御番となった。
 嘉永6年(1853)アメリカからペリー総督が来航したので、小栗は異国船に対処する詰警備役となった。小栗は、このころから外国との積極的通商を主張し、まず造船所の必要を主張するようになった。
 安政7年(1860年)幕府遣米使節一行の目付として、ポーハタン号で渡米した。代表は外国奉行新見正興であったが、目付の小栗が代表と勘違いされた。新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いて堂々としており、そのため代表に見えたとされる。
 フィラデルフィアでは通貨の交換比率見直しを交渉した。日米修好通商条約で定められた交換比率が不公平で、経済の混乱が生じていたのである。小栗は小判と金貨の分析実験データをもとに主張の正しさを論理的に説明したが、比率の改定には至らなかった。しかしこの交渉で、多くのアメリカの新聞は記事で小栗を絶賛した。また小栗はワシントン海軍工廠を見学し、日本との製鉄や金属加工技術の差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。帰国後は渡米時の功績を認められ加増され、外国奉行に就任した。
 慶応元年(1965)には横須賀に製鉄所の建造に着工し、また小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した。これらは、明治維新の後もわが国の近代化におおきく貢献した。
 鳥羽伏見の戦で幕府軍が敗北した後も、小栗はあくまで幕府と徳川慶喜の政権維持を絶対視し、恭順でなく主戦論を主張した。
 慶応4年(1868)1月、慶喜の天皇恭順方針にもとづき御役御免を申渡された後、小栗は自身の領知たる上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町)に隠棲した。まもなく同年閏4月4日、小栗は新政府東山道軍の命を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩の兵により捕縛され、取り調べもされぬまま家臣と共に引き出され、すぐ斬首された。享年42であった。徳川氏への忠誠の断固たる主張と、卓越した能力のために、新政府は彼の存在に危機感を抱いたのだろう。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(8)

東京音楽大学発祥の地の石碑
Photo_20240109054001  三崎町交差点に戻り、白山通りを南下して次の信号で左折して明大附属高・中等学校に突き当たったところで右折すると猿楽通りになる。まもなく左手の建物の前に「東京音楽大学発祥の地」の石碑が建っている。
 明治40年(1907)作曲家・音楽教育家であった鈴木米次郎によって、この地に「東洋音楽学校」が創立された。これを前身とし、昭和38年(1963)東洋音楽大学となったので、わが国最初の私立音楽大学ということになる。昭和44年(1969)名称を「東京音楽大学」に改称して今日にいたる。
 「音楽を通して社会に貢献する」という理念に基づき、西洋音楽に関する学問の探求と高度な音楽技量の修得を通じて、教養豊かな音楽家および音楽教育者を育成することをモットーとしてきた。これまで卒業生には淡谷のり子、黒柳徹子、船村徹、広上淳一、池田理代子、佐藤直紀、松下奈緒、藤田真央、小野あつこなどがおり、クラシック音楽界だけでなく広く芸術、芸能分野に多数の人材を輩出している。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(7)

講武所跡
Photo_20240108061701  喫茶店を出て東に行くと、間もなく水道橋に至り、これを渡って少し南下すると三崎町の日本大学の建物が林立するエリアとなる。三崎町交差点を左折すると、法学部の建物が並ぶが、そのうちのひとつの入口の横に日本大学建学者の山田顕義の銅像の横に「講武所跡」の解説板が建っている。
 嘉永6年(1853)アメリカのペリー艦隊の来航は、日本の支配者たる徳川家に重大な対外的危機感をもたらした。翌嘉永7年(1854)、老中安倍正弘は軍事力向上の一環として、旗本・御家人の武術奨励のための調練場たる講武所を設置した。当初は、砲術調練場を築地・筋違橋外・四ツ谷門外・越中島に、騎戦調練場を神田橋門・一橋門外に設置する計画であったが、完成したのは築地と越中島だけであった。
Photo_20240108061801  安政6年(1859)築地の講武所が軍艦操練場となり、ここ小川町(現在の神田三崎町)に講武所が移転された。用地には越後長岡藩などの屋敷地約14,000坪が充てられた。
 講武所では、剣術・槍術・砲術の他に、柔術・弓術が行われ、とくに砲術は西洋式砲術の導入が試みられた。慶応2年(1866)には、講武所は旗本・御家人への砲術・士官育成教育を目的とした陸軍所に名称も改め、明治維新後には陸軍練兵所となった。
 当時は、このあたりのかなり広大な地域一体が講武所であったようだ。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(6)

ちょっと珈琲タイム
Photo_20240107054801  後楽園を出て、かなり歩き続けたところで、幸運にいい感じのオープンテラス・カフェが目に入ったので、しばし珈琲で一服しようということになった。
 出てきたのは小石川後楽園、後ろは東京シティアトラクションズ、その北隣は東京ドームで、どれもかつての水戸家藩邸の領域なのだが、さすがに徳川戸時代の御三家の邸宅はスケールが大きいことを、あらためて感じる。眼前には神田川があるが、これは江戸時代の初期から貴重な水道たる神田上水の水源でもあったのだ。東京は、わが国のなかでもとりわけ街の変化が速く、私が関西から上京するたびに何かが変わっている。国全体としては少子化が問題となっているが、東京に活動する人たちの数はおそらく増え続けているのではないだろうか。
 そんなことなどぼんやり思いめぐらしつつ、しばしゆったりした快適な時間を過ごした。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(5)

小石川後楽園と藤田東湖護母致命之碑
 安藤坂を下りきって道なりに左に曲がると、小石川後楽園の北西端にいたる。小石川後楽園の西側の道を南に下ると後楽園の西門があり、ここから後楽園に入った。Photo_20240106060301
 江戸時代には、この小石川後楽園、隣接する東京ドーム、東京シティアトラクションズなどの土地が、すべて水戸藩邸の土地であり、水戸藩の屋敷が建てられていた。
 小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629)水戸徳川家の祖であった頼房が、中屋敷(のちに上屋敷となった)として着工したもので、完成したのは二代目藩主光圀のときであった。回遊式築山泉水庭園の様式で、光圀は造成にあたり日本に来住していた明の遺臣朱舜水の意見を用い,円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、名称も朱舜水の命名による中国趣味豊かな庭園である。この名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽楼記」のなかの「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によるという。
 12月も中旬に入り、さすがに見ごろからは遅れたが、この夏の残暑のためかまだかなり鮮やかな紅葉が残っていた。
Photo_20240106060401  この広大な庭園の北東端に「藤田東湖護母致命之処」との石碑がある。
 藤田東湖(文化3年1806~安政2年1855)は、常陸国那賀郡の百姓の家系であるが、曽祖父の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを得て「藤田屋」という古着屋を営むようになった。そのころからすでに学問を好み、東湖の父も学才を知られ神童と呼ばれていたという。
 東湖は次男であったが、兄が東湖の誕生以前に早世しており、嗣子として育てられた。
 文政10年(1827)家督を相続し、進物番200石となり、水戸学藤田派の後継として才覚を認められ、藩主水戸斉昭の絶大な信用を獲得して水戸藩彰考館総裁代、郡奉行、江戸通事御用役、御用調役など要職を勤めた。さらに天保11年(1840)には側用人として藩政改革にあたった。
 安政2年(1855)安政の大地震のとき、東湖は一度は地震から脱出したが、火鉢の火を心配し母がふたたび邸内へ戻ると、その後を追って落下してきた鴨居から母を護るため自らの肩で受けとめたため、なんとか母の命は救ったが、自身は力尽き下敷きとなって圧死した。
 この石碑は、もとは藩邸跡があった東京ドームシティの植え込みの一角にあったが、この地に移されたものである。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(4)

安藤坂と中島歌子「萩の舎」跡
 伝通院から春日通りの伝通院前交差点まで戻り、さらに直進して安藤坂を下る。この坂は、伝通院から神田川にいたるかなり幅広の長い急坂である。もとはもっと急な坂道であったが、明治42年(1909)路面電車を通すにあたり、傾斜を抑えたという。Photo_20240105055101
 かつて坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことから、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになった。
 古くは坂下のあたりまでは入江で、漁を営む人たちが坂上に網を干していた、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干していたことから「網干坂」とも呼ばれていた。
 その安藤坂のなかほどに「萩の舎跡」という解説版が建っている。
 萩の舎(はぎのや)は、明治の歌人・小説家樋口一葉が学んだ歌塾であった。
Photo_20240105055102  塾主中島歌子(弘化元年1844~明治36年1903)は、武蔵国入間郡森戸村の名主・豪農・豪商の家に生まれた。生まれてほどなく江戸牛込町に移り住んで、この地にあった水戸藩御用達宿「池田屋」の養子となった。この家の父が水戸の藤田東湖と交際があった縁で、歌子は10歳から水戸支藩府中松平家の奥に奉公した。そして水戸藩士林中左衛門と恋に墜ち、18歳のとき結婚した。しかし夫は、元治元年(1864)天狗党の乱に加担した罪で自害して果ててしまった。
 歌子はこの地にあった実家に戻り、桂園派の加藤千浪に歌を師事し、実家に隣接して歌塾萩の舎を開いた。おもに上・中流層の女性に歌を教授し、門人は1000人を超えたという。
 明治36年(1903)歌子の死により、この歌塾は廃絶した。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(3)

伝通院の幕末関連遺跡
 春日通りに戻りさらに南東へ500メートル弱進むと、伝通院前という表示の交差点に差しかかる。ここを左折すると正面に伝通院が現れる。
 伝通院は、室町時代に小石川に開祖された浄土宗寺院たる無量山寿経寺が前身である。Photo_20240104060601
慶長7年(1602)徳川家康の生母於大の方が京都伏見城で死去したとき、家康は母の遺言にしたがいその遺骸を江戸へ運び火葬した。翌慶長8年(1603)家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、寿経寺をこの地に移して堂宇を建て、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院と改めた。
 寺は江戸幕府から寺領600石を与えられ、威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となって、増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。また檀林(仏教学問所)として、多いときには1000人もの学僧が修行していた。正保4年(1647)三代将軍家光の次男亀松が葬られると、さらに幕府の加護を加えられ伽藍などが増築された。後に享保6年(1721)と享保10年(1725)の2度大火に遭っている。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
Photo_20240104060701  幕末の文久3年(1863)新撰組の前身となる浪士組が、山岡鉄舟と清河八郎を中心に境内の大信寮で結成され、近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が終結した。その清河八郎の墓がこの寺にある。
塔頭処静院(しょじょういん)の住職・琳瑞は尊皇憂国の僧であったが、幕臣の子弟により暗殺されたとの解説板が建っている。
 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
 明治維新で江戸幕府と徳川将軍家が瓦解し、その庇護は失われた。明治2年(1869)勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動のために塔頭・別院の多くが独立して、規模がかなり小さくなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があったので、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになった。縁受院は明治17年(1884)に善光寺と改称して現在に至る。
 明治から昭和にかけて、江戸時代に郷愁を持つ、あるいは日本の伝統文化を愛する多くの文人や芸術家に愛された寺院であった。二葉亭四迷、永井荷風、夏目漱石などが、その作品で伝通院を登場させている。
 昭和20年(1945)5月のアメリカ軍による空襲で、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが、墓を除いてすべて焼失し、かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消失した。昭和24年(1949)本堂が再建され、さらに昭和63年(1988)再建された鉄筋コンクリート造りの建物が現在の姿である。平成24年(2012)3月には山門が木造で再建されている。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(2)

徳川慶喜終焉の地
Photo_20240103065201  播磨坂の「山岡鉄舟・高橋泥舟住居跡」から春日通りに戻り、やはり南東方向へ350メートルほど進んでから右手に少し入ると、国際仏教学大学院大学がある。かつてこの大学のキャンパス内に徳川慶喜が晩年を過ごした旧水戸藩の屋敷があった。
 徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北した後、天皇に対して恭順を誓い、水戸、つぎに駿府に隠棲した。長い駿府での生活の後、明治30年(1897)東京に上り巣鴨に住み、さらに明治34年(1901)誕生の地であった旧水戸藩邸に近いこの地に移った。慶喜は、明治政府から公爵、さらに勲一等旭日大授章を授けられ、朝敵の過去から名誉回復を得た。
 大正2年(1913)11月、急性肺炎のため76歳でこの地で没した。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(1)

 東京在住の友人と一緒に、東京都文京区の地下鉄茗荷谷駅から南東方向に歩き、地下鉄小伝馬町駅まで9キロメートルほどの道を、幕末維新期の幕府側の人たちの足跡を中心として、歴史散策した。

山岡鉄舟・高橋泥舟住居跡
 茗荷谷駅の東側、つまり小石川植物園の側に出て、春日通りを300メートルほど南東に下ると播磨坂の広い通りに出会う。ここには道路中央に緑地帯が設けられていて、坂を少し上ると緑地に「山岡鉄舟・高橋泥舟住居跡」の解説板が立っている。Photo_20240102000901
 山岡鉄舟と高橋泥舟の二人はともに、江戸自得院流槍術の名手山岡家の出自であり、また幕末期には隣り合わせに住んでいた。高橋家は享保5年(1720)から、山岡家は文化8年(1811)からこの地に移り住んだのであった。
 高橋泥舟(天保6年1835~明治36年1903)は、槍術の名門旗本山岡家に、名手で名高い山岡静山の弟として生まれ、やはり高名な槍の名手であった。兄が家督を継いだこともあり、母方の高橋家に養子に入った。幕末の幕府軍制改革で設立された講武所の槍術師範となり、文久2年(1862)一橋慶喜に随行して上京、翌文久3年に清河八郎主導の「浪士組」結成にともない浪士取締役、その後遊撃隊頭取、槍術教授頭取を勤めた。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗れたとき、徳川慶喜に官軍への恭順を説得し、あわせて慶喜の護衛を勤めた。
 泥舟は、慶喜からその人格と信用を認められ、江戸城開城と徳川家存続のための官軍西郷隆盛との折衝に、当初は使者として選ばれていた。しかし泥舟は、護衛のために慶喜のもとを離れ得ず、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦した。
 山岡鉄舟(天和7年1836~明治21年1888)は、武芸を重んじる旗本小野家に生まれ、剣術に優れ「一刀正伝無刀流」の開祖となった。山岡家では男子がみな他家へ出た後に当主静山が早世してしまったので、旗本小野家から鉄舟を迎えたのであった。
 鉄舟は文久3年、清河八郎とともに「浪士隊」を結成した。既述のとおり義兄泥舟の推薦で慶応4年、慶喜から直々に使者として官軍の滞在する駿府へ派遣され、単身で西郷と面会した。この結果、江戸城無血開城の大枠を妥結し、すぐ後の勝海舟と西郷隆盛の「無血開城」の会談を導いた。
この二人は、勝海舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれて、江戸の保全を達成した功労者として尊敬を集めた。

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本納町─荻生徂徠の青少年期を訪ねて(4)

蓮福寺
 本納城跡のある本納山の山麓に、蓮福寺(れんぷくじ)というこれも顕本法華宗のかなり大きな寺院がある。
 16世紀後半、土気城主であった酒井康治の配下にあった本納城主黒熊景吉(黒駒景吉とも)が、里見氏に内通したため、酒井康治に攻撃されて自刃した。本納城主を兼ねることとなった酒井康治が、黒熊とその城兵たちの菩提を弔うため、天正8年(1580)日遊上人を開山として、この蓮福寺を創建したという。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられ、妙満寺派本山輪番上総十ヶ寺のひとつであった。
Photo_20240101062001  広大な境内のなかに、ひときわ大きな銀杏の木がある。「蓮福寺の大公孫樹(おおいちょう)」と表記された解説板が建っている。昭和45年(1970)ころ焼失した同じ境内の蓮見池のほとりの名木「臥竜の松」とともに、蓮福寺の開祖たる日遊上人によって植えられたと伝える。
 樹齢440年、樹高約17.5メートル、目通幹囲約3.8メートルで、枝葉は四方に繁茂し幹の中央に樫の寄生木を抱え、枝間約13メートルにおよぶ大古木である。残念ながら紅葉の季節を過ぎてすっかり落葉していたが、立派な樹である。
 樹齢からみて、荻生徂徠はこの大公孫樹を見たことであろう。
 話を徂徠に戻すと、この環境のなかで、独学で訓読なしに直接中国語を理解するようになったことが、後年彼の独創的な世界をもたらした。江戸で儒学塾を芝増上寺の前に開いたころの徂徠は、弟子も集まらず、あまりの貧乏ぶりを見かねた近所の豆腐屋が、せめて食事の足しにとしばしばおからを差し入れてくれた。やがて30歳ころには、ときの権臣柳沢吉保に見出されて扶持を得るようになったが、豆腐屋への恩返しを忘れなかったという「徂徠豆腐」なる逸話も残した。Photo_20240101062002
 ただ吉保に仕官したころの徂徠は、朱子学派のひとりの秀才に過ぎなかった。それが40歳ころになってふとしたきっかけから、明代の儒学者李于鱗と王世貞の文章に出会い、彼らが中国語の「今文」(後漢以後)ではほんとうの儒学は理解できず「古文」(前漢以前)の中国語で書かれた文章を虚心坦懐に読み解かなければならない、と述べていることを知った。徂徠は「今文」にあたる当時の中国語をマスターしていたからこそ、その「古文」との相違を明確に認識・識別することができた。訓読して語順を変えて読んでしまえば、ただ漢字の古さがわかってもそれ以上のことはわからないが、徂徠は訓読しないことで日本の他の儒学者が認識できないことを理解したのであった。
 これがきっかけとなり、徂徠は「古文」を猛勉強し、「古文」の儒学文献を学んで朱子学を離れ、独自の「古文辞学」を創設して、真に画期的な儒学者となり得たのであった。本納での青少年時代は、荻生徂徠の独創性の土台を育成したのであった。

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