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2024年2月

テート美術館展(10)

光と動きの印象をつくりあげるさまざまな方法
 20世紀に入り、マーク・レスコ(1903~1970)、バーネット・ニューマン(1905~1970)、ゲルハルト・リヒター(1932~)などが現れ、色彩と形への関心について同じように言及した。ロスコは、普遍性の表現に挑戦した。特定の事物にこだわることを放棄し、縦長の画面のなかにぼんやりと浮かび上がる、振動するような長方形を配置する独自の様式を確立した。ニューマンは、ユダヤ教の天地創造の神話に関心を抱き、神と人類をひとすじの光として表現する画面の縦方向に走る線を描いた。Photo_20240229054801
 リヒターは、カンヴァス全体に絵具を塗り、削り取り、そして引っ掻いて最初に描いた画面を破壊し、その上に新しいイメージをつくりあげる。そのひとつの作品がゲルハルト・リヒター「アブストラクト・ペインティング」(1990)である。リヒターは抽象絵画を「見ることも記述することもできないが、存在していると結論づけられる現実を視覚化するものだ」と言っている。
Photo_20240229054802  オラファー・エリアソンの「星くずの素粒子」(2014)は、光線を透過する構造の彫刻と照明とを組み合わせて、照明の条件や鑑賞者の立つ位置によって表情を変化させる彫刻作品である。結晶構造のような造形は、爆発した星くずの素粒子を拡大したもののようであるが、なにか新しい生命を象徴するもののようでもある。
 主に絵画をとりあげ、造形芸術の18世紀末から現代までの変化を、「光」を軸として考えるという趣旨の展覧会であった。そもそも造形芸術、とくに絵画は、光があって初めて意味をもたらすのだが、顕わに「光」を意識し、また強調した芸術活動というと、私たちは「印象派」を連想する。しかしあらためて「光」と芸術との関係を歴史的に俯瞰してみると、この展覧会のように、芸術家の光との格闘はさらに少なくとも100年ほど遡るのだろう。そしてヨーロッパ、とくにイギリスでは、時代背景に産業革命があり、それにともなう都市の発達、社会の変化があった。その変化に対する芸術家の反応にもさまざまな立場があった。
 芸術もヒトが創造するものである限り当然のことではあるが、時代から強い影響と規制を受ける。「光」という芸術の要素を軸にして、あらためて振り返った展覧会は、私にとっても新鮮な視覚を与えられたことで、とても興味深い鑑賞であった。

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テート美術館展(9)

色彩と光の関係の探求
 19世紀にジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナーは、ロイヤル・アカデミーの生徒のために光線の反射・屈折、影の生成などを説明する図解をたくさん用意し、それまで視覚芸術で再現されることのなかった視覚的な感覚をとらえることを教えた。
Kv  そのターナーを「称賛すべき先達」とした作家・写真家・画家でもあるハンガリーの美術教育家モホイ=ナジ・ラースロー(1895~1946)は、そのような実験の歴史に触発され、19世紀末に出現した写真が絵画のもっとも革新的な側面をも追い越すことができると考えた。
 彼がドイツの前衛的な芸術学校であるバウハウスの教育に関わったことで、写真を用いたさまざまな実験や作品制作が多くの芸術家たちによって進められ、幾何学的な形態を用いて光と色彩の関係を考察するアーティストたちが大きな足跡を残した。
 ドイツ出身のヨーゼフ・アルバース(1888–1976)は、色は周辺の色との関係によって見え方が変わることを追究し、幾何学的な造形の中に色を配置することで、ある色の面が手前に見えたり、一方で奥に見えたりするといった現象が起きることを示した。モホイ=ナジ・ラースローや、ロシア出身でのちにドイツで活躍するワシリー・カンディンスキー(1866–1944)も色同士の関係性が生み出す視覚的効果を探求した。Photo_20240228054301
 この視点は、第二次世界大戦後の抽象画家の最も重要なテーマのひとつとなった。 1960年代半ば、英国の画家ブリジット・ライリー(1931~)は、様々な色の四角形や線を規則的に配置することで鑑賞者に錯覚をもたらす作品を発表した。「ナタラージャ」(1993)は、ヒンドゥー教のシバ神を意味するナタラージャを主題とした作品を制作した。それ以降も、ライリーの作品は絵画表現における光と色の関係を問い続けている。

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テート美術館展(8)

室内の日常に光を発見Photo_20240227055701
 都市の近代化がさらに進んだ19世紀末には、室内というプライベート空間をどう描くかについてもアーティストたちの関心は広がった。窓から入ってくる光の効果などを作品に取り入れることで、人と人の心のつながりや、個人の内面を鮮やかに映し出そうとする試みが出てきた。
Photo_20240227055702  イギリスのウィリアム・ローゼンスタイン(1872–1945年)の「母と子」は親子の何げない日常を描いた作品であるが、人物と同様に周囲の空間にも繊細な注意が払われ、2人の親密な関係性を裏付けるために光をできるだけ柔らかに描いている。
 デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864–1916年)の「室内」(1903)は暗めの色づかいに統一して、淡い光を効果的に描くことで室内の静けさ、空気の冷たさなどの感覚を巧みに表現している。柔らかで控えめな光と、物思いにふけるような女性の後ろ姿が、画面に深い静寂観を与えている。Photo_20240227055801
 同じくハマスホイ「室内、床に映る陽光」(1906)は、人物はなくただ窓と、その窓から差し込む光が床を照らす光景のみの絵だが、床に映る光は、まるで自身が光を発しているかのような精確さと鮮明さで描写されている。ハマスホイは、ジャポニズムに取り組んだホイッスラーに影響をうけているとされる。

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テート美術館展(7)

ヨーロッパの画家たちの自然界への強い関心
 19世紀後半になると、ヨーロッパの画家たちは、自然界への関心が一層強くなったようである。急激に変化する技術や社会への反応とも考えられる。Photo_20240226054701
 イギリス出身のジョン・ブレットは、画家活動の初期には明るく繊細な風景画の名手として名を馳せていた。ラファエル前派とも交流を持ち、宗教的モチーフも作品に取り入れていた。その後、航海の旅を好むようになり、海や海岸などをなじみ深いテーマとして制作するようになった。1870年夏、スクーナー船(帆船)「ヴァイキング号」でイングランド南西の沿岸を航海し、そのときに記録したスケッチや情報をもとに描かれたのが「ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡」(1871)である。海に差し込む陽光を丹念に描写するが、これは19世紀初頭にラファエル前派が推進した思想に基づくものと思われる。
Photo_20240226054702  ブレットは、画家であると同時に天文学者でもあったので、科学的な観点からも対象にアプローチしている。
 アメリカで生まれたジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーは、ロンドンとパリを主な拠点として活躍した。「シンフォニー」や「ノクターン」といった音楽用語を作品名に取り入れ、絵画によって教訓や物語を伝えることよりも、色彩と形の調和を重視した。「ペールオレンジと緑の黄昏」(1866)は、スペインと南米との間に起きた戦争(1865~79)の舞台となったチリの港町バルパライソの海辺の風景を描いている。穏やかな海と船を照らす薄暗い光を表現するために、青、緑、灰色の淡い色調を活かしている。近づいてよく見ると、帆や帆柱に細く薄い水平線が細かく描きこまれ、隠し味のように画面の安定感を増している。ホイッスラーは、細部を注目させることより全体の印象を創り出すことに注力したことが窺える。Photo_20240226054801
 印象派として知られるフランス人画家たちにとっては、光そのものが作品の主題となった。クロード・モネ(1840~1926)、カミーユ・ピサロ(1830~1930)、アルフレッド・シスレー(1839~99)等は、風景を描くために郊外へ積極的に出かけた。Photo_20240226054901 彼らは自然のなかで光や大気、さらにそれらの束の間の動きをとらえ、スケッチや下絵にとどまらず仕上げまでのすべての制作の行程を屋外で行った。当時は、風景画は屋外でスケッチ、せいぜい下絵くらいまでをすませ、あとの仕上げはアトリエに戻ってからするのが通常であったので、彼らの制作手法は当時としては画期的であった。印象派はそれまでの伝統から脱却し、キャンバス表面の絵具を強調し、遠近法に拘泥せず平面的な表現をも駆使し、奇抜な方法も取り入れて構図を切り取った。

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テート美術館展(6)

「ラファエル前派兄弟団」のイギリス近代化への反発
 19世紀イギリスのめざましい地方経済の産業化と都市への人口流出など、イギリス社会の劇的な変化に反発して、15世紀のイタリア美術への回帰を訴える動きがあった。Photo_20240225055801
 ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~96)、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828~82)、ウイリアム・ホルマン・ハント(1827~1910)が設立した、イギリスの画家たちが緩やかに結束する集団「ラファエル前派兄弟団(ラファエル前派)」は、生活に密着した作品を制作しながら、光の効果をとらえることに細心の注意を払った。細密描写と強烈な色彩、そして複雑な構図が特徴であった。
 ジョン・エヴァレット・ミレイ「露に濡れたハリエニシダ」(1889-90)が展示されている。ミレイが「木霊の力強い声」に触発されたというこのテーマは、森の朝露と朝日が主題となっている。画面中央から照らし出す陽光と、それを受けて光るハリエニシダの葉の露が精細に描写されている。
Photo_20240225055901  エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ「愛と巡礼者」(1896)が展示されている。キリスト教の天使や古典的な愛の神であるキューピットの姿をした愛の化身が、巡礼者を孤独の闇から救い出そうとする場面が描かれている。画家はこの制作にあたり、中世フランスの詩『薔薇物語』から着想を得たという。この物語は14世紀のイギリス詩人、『カンタベリー物語』を書いたジェフリー・チョーサーが翻訳していた。鳥にかこまれた天使の羽は、巡礼者の解放と自由を象徴し、愛に導かれた巡礼者は光に照らされている。バーン=ジョーンズは、絵画のみならずデザインの分野でも活躍した芸術家で、この作品には20年以上を費やし、完成まで至った最後の代表作とされている。
 ウイリアム・ホルマン・ハント「無垢なる幼児たちの勝利」(1883)が展示されている。Photo_20240225060001
 ハントは、1870年代に聖地エルサレムを訪れてこの絵を描きはじめたという。この絵では、ヘロデ王がベツレヘムに生まれたすべての長男、いわゆる「無垢なる幼児たち」を皆殺しにするなか、マリア、ヨセフ、幼子イエスがエジプトに逃れる様子が描かれている。ハントは、画面中央に描かれた泡、すなわち「空気のような球体」で「永遠の生命の流れ」を表現しているという。

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テート美術館展(5)

風景画の改革─ありのままの自然の表現をもとめて
Photo_20240224055001  ジョン・コンスタブル(1776~1837)は、自然を理想化するのではなく忠実に表現することで「これまで知られていなかった自然の特質」を表現できると考えた。そして画業後期に大作を多作し、イギリスにおける最も重要な風景画家のひとりとして名声を築いた。晩年には、自らを「革新者」と述べている。
 そのコンスタブルの「ハリッジ灯台」(1820出品)が展示されている。イングランド南西部エセックス州ハリッジの港で描いた下絵がもとになった作品である。自然のなかで油彩の下絵を描き、アトリエに帰って制作に反映させる、という方法であった。明るい陽光を浴びる灯台と、空の厚い雲が陸上に落とす暗い影とが、見事なコントラストを成している。白い絵具を散らすことで、水面のきらめきを表現する特徴的な表現も見られる。Photo_20240224055002
 コンスタブルのライバルとして名を馳せたのは、若き画家ジョン・リネル(1792~1882)であった。リネルは、光の効果に細心の注意を払いながらも、周囲の世界をできるだけ忠実に描写することをめざした。彼は、意図的に牧歌的な風景を避けたが、それは当時としては珍しいことであった。
 ジョン・リネル「風景(風車)」(1845出品)が展示されている。雲、動物、草木などの生々しいまでの丁寧な写実が目立つ。

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テート美術館展(4)

哲学・科学の啓蒙主義とその合理的理想への反発
 イギリス産業革命の成果を受けて、画家たちも科学的・技術的な思考のもとに、光と陰の強いコントラストを活かすことで、対象を客観的にドラマティックに描こうとした。ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー(1734~97)はそのような画家のひとりであった。Photo_20240223060001
 ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー「噴火するヴェスヴィオ山とナポリ湾の島々を臨む眺め」(1778-80)が展示されている。光と陰のコントラストが活きて、ドラマティックで写実的な絵で、迫力も美もあるが、事象がそこはかとなく他人事である。科学的・客観的な観察という感じがする。
Photo_20240223060201  啓蒙主義者たちは理性と秩序を理想として掲げ、普及させようとした。しかし18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパと北米の芸術家たちは、こうした考えに異議をとなえるようになった。自然と人間のつながりを重視し、世界を理解し経験するにおいて、理性や秩序のみでなく感情が果たす役割を重視しようとした。ダービーより半世紀ほど後のジョン・マーティン(1789~1854)は、こうしたロマン主義を代表する画家のひとりである。
 ジョン・マーティン「ボンベイとヘルクラネウムの崩壊」(1822)が展示されている。題材はダービーの絵と同じように火山爆発にかんするものだが、観る者と描かれた対象との距離感が違う。ここでは観る者を画面のなかに引きずり込んで、恐怖と入り混じった畏怖の念を呼び起こそうとしている。

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テート美術館展(3)

ターナーの「自然現象をとらえる新しい手法」Photo_20240222053801
 ターナーの作品は、直観的であるとともに科学的でもあった。「色彩はすべて光と闇の組み合わせである」としたドイツの作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩論から大きな影響を受けていた。
 彼はロイヤル・アカデミーで教授を勤めたが、その講義のために制作した図解スケッチがある。ターナーはこれらの図を用いて、反射と屈折、そしてさまざまな状況による光の状態を説明した。
 Photo_20240222053802 たとえば、遠近法の図の例がある。またひとつの磨かれた金属球と一対の磨かれた金属給における反射の図がある。
 ターナーは、このような科学的検討をもあわせた技法として、18世紀の画家・建築家ピラネージの作品からヒントを得て、「監獄の内部」という作品で、強い陰影を用いて奥行を表現し、劇的な表現を生み出したという。

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テート美術館展(2)

19世紀の光と闇の宗教的世界の表現
 光をはじめて創造したのは神である、というのがユダヤ教とキリスト教の教えである。光は、善と純粋を表わし、暗闇は悪と破滅を意味する。イギリスでは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、宗教を主題とする作品が再び人気を得た。芸術家は深い精神性をあらわすために画面を闇に包み、そのなかに鮮烈な光を取り入れて、苦しみと希望を対照的に表現した。Photo_20240221060001
 ウイリアム・ブレイク「アダムを裁く神」(1795)が展示されている。ウイリアム・ブレイクは、当時の先駆的な画家であり、神秘思想家であり、詩人であった。ブレイクは、産業革命の根底にある効率主義や科学万能主義、そして当時の思想の主流であった理性や秩序を重んじる啓蒙主義や合理主義に反発した。ブレイクは、神が創り出した人間の精神や魂の追求に向かった。この絵は、彼自身が創作した神話『ユリゼンの書』(1794)が背景となっている。炎の光のなかに現れる旧約聖書の神の姿は、その神話に登場する専制的な立法学者ユリゼンを思わせる。膝に置いた「永遠の真理の書」の掟を宣言する神は、頭を垂れるアダムに「ひとつの命令、ひとつの歓楽、ひとつの願望」に従うように命じている。
Photo_20240221060002  ジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナー「陽光の中に立つ天使」(1846出品)が展示されている。1775年ロンドンの下町に理髪店の子として生まれたターナーは、ろくに学校へも行けなかったが、14歳のころ風景画家トーマス・モルトンに弟子入りして絵を習ったことで絵の才能を見出され、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に学ぶことができた。
 画家として初期は、パトロンの好むロマン主義的な具象画を描いていたが、44歳でイタリアに行ったとき、大気と光の表現に目覚めた。それ以来、描かれる事物の形はあいまいになり、抽象に近づくような作品も出てきた。この作品でも、天使は太陽の光を背景として、まるで黄色い炎のなかから姿をあらわすかのように、詩的で抽象的なイメージで描かれている。

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テート美術館展(1)

 大阪中之島美術館で「テート美術館展─光─ターナー、印象派から現代へ」というタイトルの美術展が開催された。

テート美術館(TATE)の由来Photo_20240220055501
 テート美術館(TATE)は、英国政府が所有する美術コレクションを収蔵・管理する組織で、テート・ブリテン(ロンドン)、テート・モダン(ロンドン)、テート・リバプール(リバプール)、テート・セント・アイヴス(コーンウォール州アイヴス)の4つの国立美術館から構成されていて、現在は単に「テート」と呼ばれている。
Photo_20240220055502  19世紀末ころ、砂糖の精製で財を成したヘンリー・テート卿(1819~99)が、自身が持つ当時の現代絵画のコレクションを、ナショナル・ギャラリーに寄贈しようと申し出たが、場所の余裕がなかった。それがイギリス国内に「現代絵画を収蔵・展示できる国立美術館を建造すべき」という世論を巻き起こした。おりしもフランスでは、当時の現代絵画のための国立美術館リュクサンブール美術館を開設したところであり、イギリス人の対抗心を刺激したのであった。Photo_20240220055601
 紆余曲折の後、1897年ナショナル・ギャラリーが分館を増設するかたちで、現在のテート・ギャラリーの前身が建設された。1916年からは、サー・ヒュー・リーンの外国の近代美術・現代美術コレクションも受け入れることとなり、規模の拡大が求められた。

Photo_20240220055701  1980年代以降、リバプールとセント・アイブスに分館を開設し、また2000年には新館「テート・モダン」が加わり、収蔵品の分担整理も行われ、2001年以降は現在の4つの国立美術館の連合体となった。
 今回の展覧会は、「テート」のコレクションから「光」をテーマにして作品を選び、18世紀末から現代までの約200年におよぶアーティストたちの創作の軌跡に注目するものである。


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ユトリロ展 美術館「えき」(8)

色彩の時代(下)
 また、20年前の作品と同じものを描いたものとして「聖トマス教会、モンマニー(ヴァル=ドワーズ)」(1938-40)が展示されている。20年前の絵では、専ら屋根の面の描写、とくにその色の組み合わせが目を惹いたが、ここでは建物全体の均整が図られ、また樹木も明るい緑が目立ち、20年前の暗い枯れ葉と著しい対照を示している。生活の安定化、名声や地位の向上などが関係しているのだろうか。Photo_20240219054701
 生涯にわたってアルコール依存症に悩まされたモーリスは、1955年11月5日、ダックスのホテル・スプレンディッドにて肺炎で、71歳で死去した。
 私はこれまで、モーリスがほとんど終生にわたって、そこまでアルコール中毒に悩まされていたことを知らなかった。また、家族の愛情に飢え、絶望感、そして喪失感があったのだろう。あらためて眺めると、彼の苦悩の影が、彼の絵のなかにいくつも見いだせる。
 モーリスは、たくさんの絵を描いたが、人物像や肖像画を一切描いていない。やはり人間に対する渇望とともに、深い不信感や絶望があったのではないだろうか。
 それにもかかわらず、彼が描く街の建物は、ほとんど人物が描かれないのに、明らかに人間の存在、人間の匂いがする。彼がこだわったマチエールに満ちた白い壁は、刃物で切りつけたら今にもヒトの血が溢れてきそうな感じさえするのである。「パリを愛したユトリロ」というキャッチフレーズがよく用いられるが、彼が街の景観を愛するのは、明らかにそこに住む、生活する人間の存在を前提としているに違いない。このような感想は、こうしてまとめて個展で観る以前から、なんどか断片的にユトリロ作品を観た時から、漠然と感じていたことであった。今回、ユトリロの個展をじっくり観て、その要因がようやくわかるとともに、これまでの感想を確信した。
 「白の時代」において、ユトリロは絵のバランスなど考えていない。しかし建物の壁は、まるで人間の肌を描くように、表面の微妙な光や影、そして感触、繊細な質感まで、とことん追求して丹念に表現している。その後ろ、その背後に生息する人間の息遣い、その肌、その温もりを求めて、生身の人間の肌のような壁を描いたのである。
 「色彩の時代」になると、引き続きアルコール依存は続いたようだが、経済状態が安定し、結婚もできた。精神的には、かなりの安定を得たのだろう。絵も、自然にバランスの良いもの、「より多くの観衆にわかり易いもの、馴染みやすいもの」を目指したのかも知れない。しかしその結果として、彼が意識的あるいは無意識的に表わそうとしたものが失われ、私が観ても月並となり、明らかにその魅力は喪失した。
 これまでまったく断片的にしか観ることができなかったユトリロの絵を、こうして制作年代を追ってじっくり鑑賞することができた。充実した鑑賞のひとときであった。

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ユトリロ展 美術館「えき」(7)

色彩の時代
Photo_20240218060402  モーリスは1914年末、暴行と器物損壊で逮捕され、警察に連行された。そして精神病院で3週間の拘束の後に、治療のため別の精神病院に移送された。1915年1月に退院したが、その直後、今度は軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし医学的検査の結果「精神病」と診断され、あらためて兵役免除となった。この後、モーリスは例のセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求し始めたという。
 1915年6月、祖母が85歳で死去した。モーリスはその後も、絵を描くこと、酒におぼれること、そして精神病院に入院することを繰り返した。
Photo_20240218060401  その一方で、この時期ころからモーリスの作品はより高く評価されるようになっていた。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展で、彼の作品は数枚を出品され、とても高い評価を得た。1920年までに、国際的にも評価されるようになった。
 1928年、フランス政府はモーリス・ユトリロに、レジオンドヌール勲章を授与した。
 「雪のサン・リュスティック通り、モンマルトル」(1933)が展示されている。
 10年間ほどの間に、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出される壁面を軸とするコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成して、フォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行したのである。Photo_20240218060501
 1935年、52歳で年長の資産家未亡人ルーシー・ヴァロアと結婚し、パリ郊外の高級住宅地ル・ベジネットへ移ったが、そのころまでに彼の病状はさらに悪くなっており、外出さえ困難になっていた。モーリスは、部屋の窓から見える都市風景を描いたり、またポストカードや記憶をたよりに絵画を制作した。
 このころの作品として「ボワシエール・エコールの教会と通り(イヴリヌ県)」(1935)と「ラヴィニャン通り、モンマルトル」(1940-42)が展示されている。

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ユトリロ展 美術館「えき」(6)

母・義父・画商との確執のなかでの創作活動(下)
 一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにモーリスの作品が出品され、シュザンヌとユッテルは自分たちもそれぞれ展覧会に参加する一方で、モーリスの発表・出展の面倒も見た。モーリスの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街にあるウジェーヌ・ブロ画廊でモーリスの最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を展示した。しかしこの展示会は商売としては失敗に終わった。リボードは、モーリスが多作過ぎることが原因だと考えて、月6点以上描かないようシュザンヌに手紙を送った。Photo_20240217055901
 1913年10月には、モーリス、シュザンヌ、ユッテルはコルシカ島に向い、そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。
 コルシカ島から帰った後、モーリスはシュザンヌを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユは、モーリスにとってリボードよりはるかに好い条件を提案し、契約はすぐに成立した。モーリスはこの収入でモンマルトルの丘の酒場を徘徊したが、その結果またもアルコール中毒を悪化させ、治療を受けることとなった。モーリスは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。
 しかしこの後、これまでの画商だったリボードの干渉、シュザンヌ・ユッテルとリボードとの決裂など問題が発生して混乱し、それらの結果、モーリスは安定した収入を失った。
Photo_20240217055902  1914年7月、第一次世界大戦がはじまった。モーリスは、診療所を出た後軍隊に志願したが、8月末医学的理由で兵役を免除された。9月1日シュザンヌ・ヴァラドンとユッテルは結婚を役所に届け出たが、その月の末にユッテルは従軍してしまった。これらショッキングなことが重なり、モーリスはまた酒場に入り浸るようになった。
 このように、モーリスの制作活動のもっとも多作で豊穣な時期とされる「白の時代」は、モーリスのアルコール依存のとくに重い時代に重なっていて、モーリス・ユトリロ本人にとっては、けっして幸福な時代とは言えなかったようである。
 「白の時代」の最末期ころの作品として、「ブール・ラ・レーヌのスペイン皇女の館」(1915)、「サン=ディディエの教会、ネイロン(アン県)」(1917-18)が展示されている。このふたつの作品を観ても、モーリスの画風が少しずつ変化し、色彩も増しつつあることがわかる。

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ユトリロ展 美術館「えき」(5)

母・義父・画商との確執のなかでの創作活動(中)
Photo_20240216053801 「可愛い聖体拝領者─トルシー・アン・ウァロアの教会」(1912)が展示されている。入院するうちに、モーリスは信仰心を高めるようになり、単に建築物の美としてだけでなく、その内面に向き合うようになっていったという。「可愛い聖体拝領者」という表現は、美しい白壁の教会の建物を、聖体拝受を行う少女のエプロンに見立てて、モーリスがそのように呼んだものだという。
 モーリスが芸術家であることを尊重した医師は、治療の手段として絵を描くことを勧め、モーリスはますます多くの絵を描くようになった。この治療は効果的で、1912年7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを、医師は認めた。
 ルイ・リボードはそれを知ると、その作品の専売契約とともに、絵の価格維持を図るため「1ヶ月に6枚以上描かない」約束をモーリスに迫った。モーリスは、シュザンヌ、ユッテルと共にウェサン島で2ヶ月以上過ごした。そこでもモーリスは絵を描いたが、リボードとの約束のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトン(下絵)しか描かなかった。シュザンヌは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた。Photo_20240216053901
 ウェサン島から帰ったモーリスは、サロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出展した。しかし12月に再びモーリスの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなった。
 「モンマニーの教会」(1913)は、このころの作品である。モーリスが青少年時代を過ごしたモンマニーにある教会を描いたもので、ここでは壁以上に屋根の細やかな描写が特徴である。灰色をベースとしてその上に赤褐色、紺、緑が緻密に配され、面と質感が、さらにそれをとりまく空気の湿気までが感じられる。建物の形は、ぱっと見た目以上に精密な透視遠近法が実行されていて、どっしりとした安定感がある。

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ユトリロ展 美術館「えき」(4)

母・義父・画商との確執のなかでの創作活動(上)
Photo_20240215061201  「ラパン・アジル、モンマルトルのサン・ヴァンサン通り」(1910-12)が展示されている。ラパン・アジルとは、「跳ねる兎」という意味で、画面の手前に描かれているモンマルトルの居酒屋の名であった。モーリスは、この居酒屋に入り浸るように通い、ひたすら赤ワインを飲んでいた。店に親しみを感じていたらしく、彼はしばしばこの居酒屋を描いている。
 リボードは、モーリスの絵画の価値が急上昇したのを見て、1912年に専属契約を交わし、ささやかな定期的報酬と引き換えに販売権を独占した。これはモーリス・ユトリロ一家の経済的安定をもたらしたが、ユッテルは自身の芸術家の道を諦め、シュザンヌとともに専らモーリスの絵画の収入に生計を依存するようになった。そのため、リボードとシュザンヌが対立するようになった。Photo_20240215061301
 1912年4月フランソワ・ジュルダンの計らいで、モーリスはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードは、モーリスの絵が彼に利益をもたらしたことで、モーリスの制作を自らの制御下におこうとした。シュザンヌはこれに抵抗したがうまくいかなかった。
 このころ描かれた絵に「クリニャンクールのノートル・ダム教会」(1911)がある。
 この年4月末から5月の初めにかけて、モーリスの健康状態はさらに悪化した。モーリスは早く入院すべきだったが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとシュザンヌの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。
 サノワの病院に入れられると、モーリスはすぐ健康を回復した。入院中モーリスは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン・ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。

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ユトリロ展 美術館「えき」(3)

モーリス・ユトリロの「白の時代」のはじまり
 1909年の春、以後モーリスの画商となるルイ・リボートが最初の買い手として現れた。Photo_20240214061601
 これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売っていたが、画商としてではなかった。リボートは、モーリスの作品に目を留め、将来性を感じたのだった。
 1909年、25歳になっていたモーリスはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがモーリス・ユトリロの作品が世に出た初めての展覧会となった。
 この年、シュザンヌとムージスが破局を迎えた。友人ユッテルと母シュザンヌは、ムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街のアトリエを独占し、やがてモーリスは祖母と共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこのころ離婚の手続きを開始したが、シュザンヌは一切を拒絶し、離婚は難航した。
Photo_20240214061701  シュザンヌもモーリスもユッテルも収入が全くなかった。モンマニーに移り住んだ一家は経済的に困窮することとなった。シュザンヌとユッテルは、大きな年齢差にもかかわらず夫婦同然で、モーリスより年少のユッテルは義父きどりであった。一時期シュザンヌとユッテルは、モーリスを石膏採掘場に労働に行かせたのだが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になって終わった。ユッテルはモーリスの冒した失態の仲裁をした。また時間があるときは、モーリスも自身の描いた絵を売ろうとした。
 モーリスの才能とその絵の商品価値を理解したリボードは、モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入・転売に成功し、かなりの利益を稼いだ。Photo_20240214061801
 1911年シュザンヌ側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚が控訴院で確定した。モーリスはアルコール中毒の影響が抜けず、泥酔と性器露出など猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けた。
 この後モーリスは、セザール・ゲイという元警察官と知り合った。ゲイは「カス・クルート」という酒場と「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。モーリスはそこに出入りし飲食するだけではなく、店の奥で絵を描くことを許された。完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが来客の好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。
 このころモーリスが、アルコール中毒に苦しみながら、その呻吟のなかで描いた絵は、建物の壁の白色をベースに、質感まで丁寧に表現するユニークなもので、後に「白の時代」と呼ばれるようになった。
 「モンマルトルのポワソニエ通り」(1910)、「モンマルトルのノルヴァン通り」(1910)、「パリのサン=セヴラン教会」(1910-12)などが展示されている。絵具に貝殻や漆喰を混ぜ込んで、白い壁の色の微妙な陰影と質感の表現が特徴である。「パリのサン=セヴラン教会」では、漆喰の壁が風雨にさらされてヒビが入り、その白色の汚れとともに劣化している微妙な表面までもが丁寧に写実表現されている。

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ユトリロ展 美術館「えき」(2)

精神を病みながら描きはじめた絵
 ムージスの世話で、16歳の1900年には臨時雇いの外交員の職に就いたが、4か月しか持たなかった。他の仕事もモーリスの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が絶えず、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もモーリスはアルコール依存症が悪化した。
 やがてムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年モーリスはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着いた。このころから水彩画を描く練習を始めた。医師はシュザンヌに、彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。モーリスは、最初は真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在したとき、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は悪化し、彼の精神は蝕まれていった。20歳の1904年の初頭には、パリの精神病院に入院した。これがきっかけでシュザンヌとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年ふたりは破局を迎えた。症状の改善が見られたモーリスはモンマニーに戻り、そのころ彼は周囲を驚かせるほど穏やかであったという。Photo_20240213054301
 退院したモーリスは、モンマニーに近いモンマルトルで絵を描き始め、絵画の道に進むことを決心したらしい。シュザンヌも息子の絵に助言することはあったようだが、基本的にモーリスは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派のような点描技法で厚く絵具を置くようなものであった。
20歳半ばのころにモーリスは、やはり画家を目指していた2歳年少のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合した。
 このころの作品として「モンマルトルのサン=ピエール広場から眺めたパリ」(1908)がある。
 1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けながらも、画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなど、独自の構図を身につけた。絵画は厚塗りのままだったが、やがて白の表現から独特のマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、モーリス自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。

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ユトリロ展 美術館「えき」(1)

 JR京都駅伊勢丹にある美術館「えき」で、生誕140周年というユトリロの展覧会を観た。
 モーリス・ユトリロの絵は、これまでなんども個別には観ていて、いつも大いに惹きつけられるものがあった。今回は、私にとっては初めてのユトリロ限定の個人展覧会であった。

モーリス・ユトリロの誕生から幼少期
 モーリス・ユトリロの人生は、奔放な母のもとに生まれたことで、不安と波乱に満ちた、「普通」・「正常」からはほど遠いものであった。
 モーリス・ユトリロは、1883年12月パリ・モンマルトルの近くでシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれた。母親シュザンヌは、絵のモデルや針子をしながら、すでに画家としても活動していたため、モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、息子の世話を母親マドレーヌに任せ切っていた。モーリスは2歳のころから激しいてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残り、就学しても学校に馴染めなかった。このころ母シュザンヌは画家として自立できていたらしく、やがて息子モーリスをフレスネルという私立学校に入れた。Photo_20240212060201
 モーリスが7歳のとき、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョMiquel Utrilloが、モーリスを自分の息子として認知し、モーリスは「モーリス・ユトリロ」に改姓された。しかしミゲルが実の父親か否かはわかっていない。またシュザンヌは、そのミゲルを通じて異色の作曲家エリック・サティとしばらく愛人関係を結んだ。
 モーリス・ユトリロが8歳のとき、シュザンヌは息子を精神病の診療のため病院へ連れて行った。モーリスが10歳の1894年半ばから、シュザンヌは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街に引っ越した。ここでシュザンヌは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになった。ムージスのおかげでモーリスとシュザンヌは、ようやく安定した生活を得た。しかしモーリスは幼少期から育てられていた祖母から、精神安定のためかアルコールを習慣的に与えられていて、すでにアルコール中毒に陥っていたとみられる。
 モーリスが12歳のころ、ムージスとシュザンヌは結婚を役所に届け出た。またムージスの財力によりモーリスをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、毎週日曜日にシュザンヌとムージスが息子モーリスを訪れるという生活となった。
 モーリスはその後、パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入学し、優秀な成績を収めていたが、最高学年まで進んだときさまざまな問題を起こして、中学を退学した。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(8)

体制側に寄り添った人生
 栖鳳は、大正13年(1924)フランスからレジオンドヌール勲章を授章、昭和6年(1931)にはハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞を、そして昭和12年(1937)に第1回文化勲章を授章した。こうして栖鳳は、国内でも世界的にも広く高く評価された。
 そして昭和期が進むと、日本はさきの大戦に入っていった。戦時下では軍部に協力の姿勢を貫き、絶筆となった作品『宮城を拝して』は陸軍省から委嘱されたものであった。
 そんな経緯もあって、昭和12年(1937)には「国瑞」という作品を残している。
 これは、その年に文化勲章を授章した祝儀として贈られた朱盆と、その上に載せた大きな鯉を描いたものである。鯉は、彼が愛した潮来の産で、彼が滞在していた湯河原まで移送されたものであった。あまりに大きくて立派なため、盆からはみ出している。純白の布の上に置かれた朱盆を日の丸に見立て、タイトルをつけている。
 栖鳳は、敗戦を見届けることなく昭和17年(1942)逗留していた湯河原の天野屋旅館で病気療養中に、肺炎のため亡くなった。Photo_20240211054901
 私は、さきの大戦で日本国のために働いた芸術家が、そのために責められる所以はないと考える。戦争そのものの良し悪しは、戦争の勝敗を含めて後付けで議論するものであり、そこで政治家・政治責任者が責任を追及される可能性は当然あっても、戦争の最中に国民が自国のために尽力することは自然で正当な行動である。たとえば、戦後になって藤田嗣治がマスコミから従軍制作活動の経歴を咎められてフランスに脱出したことなどは、理不尽である。当然、竹内栖鳳も、なんら責められる所以はない。
 美術界においても、終始官展にとどまり、在野の横山大観と画壇の双璧をなし「西の栖鳳、東の大観」と称された。弟子の育成にも注力し、画塾「竹杖会」を主宰した。上村松園、西山翠嶂をはじめ、西村五雲、伊藤小坡、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、橋本関雪、徳岡神泉、吉岡華堂ら、京都画壇の大半を送り出している。
 まとまった数の栖鳳の作品を久しぶりに観て、感銘を新たにした。栖鳳は、西欧の絵画を尊敬し深く学びつつも、日本画の伝統と技術を基礎に、西欧の印象派やゴッホなどとは異なる精緻で迫力ある独自の表現を開発した。描写のみならず、絵画のテーマや主張についても西欧画を参考にして、日本画に新境地を拓いた。まさに伝統と革新を、身をもって体現した画家であった。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(7)

旅に出る栖鳳
 栖鳳は、日本画の古い起源に関わる地として、中国を2回訪れて、多くの写生をした。Photo_20240210055501
 そして帰国してからも、中国のイメージを探したという。そして彼が頭の中で理想化できる風土に近い場所として、蘇州の風景を連想させる潮来を見つけ出して、好んで潮来の風景画を描いたという。
 「潮来小暑」昭和5年(1930)がある。
 小暑というのは、梅雨が明けて本格的な夏がはじまる少し前のころを言う。栖鳳が蘇州に似た地と思ったこの地には、少なくとも4度訪れたという。栖鳳がそれまでに確立した、墨あるいは絵具の濃淡と擦れと明暗のグラデーションによる樹木の立体的表現、それを応用した投影法ではない独自の遠近法、風景画のなかに小さく、しかし要として描き込まれる人物と動物と舟、安らぎをもたらす茅葺屋根の控えめな家、など栖鳳が得意とする構図・技法がたくさん詰め込まれたという意味で、密度の高い作品である。そしてこの絵は、結果としてなんとなくポップに見えるのである。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(6)

躍動する写生
 「写生」の領域の拡張ともいうべき努力もみられた。Photo_20240209054601
 「蹴合」大正15年(1926)がある。
 これは闘鶏の生々しい様子を写生したものだが、死に物狂いに闘う軍鶏の様子である。激しい闘いで羽毛が剝ぎ取られて散乱し、脚の周りの毛が削がれ、傷まみれになって睨み合う2羽の軍鶏。動物の本性の攻撃性を冷徹に表現していて、自然主義絵画のような印象もある。動きがあるのみならず、登場する動物の性格や情動まで表現しようとしている。
 「夏鹿」昭和11年(1936)がある。

1936


 栖鳳は、動物を多く描いたが、その動物の生命としての状態にも深く興味を持ち、観察していた。鹿は「鹿の子模様」という如く、その背に美しい斑点がある。この斑点は、夏にもっとも鮮明で美しくなるので、栖鳳は夏を選んで奈良に赴き、鹿を写生したのであった。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(5)

Photo_20240208060301 本画の革新─日本画の破壊と創造
 栖鳳は、明治40年(1907)文展開設とともに審査員となり、以後大正7年(1918)まで歴任した。帝展(現日展)審査員にも就任し、さらに大正2年(1913)「帝室技芸員」に推挙され、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。
 栖鳳は、つねに「日本画の伝統を重んじ、古典絵画を尊重することは大切だが、それをまねるようなことに終わってはならない。つねに新しい息吹を取り込んで、研鑽を積んで、変化していくことが必要だ」、「先ずは、思い切ってこれまでの日本画を破壊するくらいの気持ちで取り組まねばならない」と後進を𠮟咤激励した。
 専ら風景と動物を描いてきた栖鳳が、はじめて人物画を描いたのが「アレ夕立に」明治42年(1909)であった。
 このタイトル「あれ夕立に」は、京舞井上流の舞踊で、曲は清元「山姥(やまんば)」の「あれ夕立に濡れしのぶ」からの引用であることが、京都産業大学日本文化研究所特別客員研究員の石塚みず絵の研究で裏付けられた。
Photo_20240208060401  ここで登場する舞妓の着物の表現が鮮烈である。栖鳳がとくに好む鮮やかな群青の地と、その上に描かれる華やかな白の芙蓉、帯は色彩が地味なだけでなく、よく見ると彩色を敢えて省いて下地をのこす表現としている。着物の描写は、かなり速いタッチで描かれたようであるという。舞妓が持つ扇は、京舞井上流で使用するものと分かり、井上流の記録映像を精査したところ、芸妓が舞踊会で清元「山姥」で舞っている姿が、竹内の絵と同じ振り付けであると判明した。人物画であるが、精緻な写生画でもあったらしい。
 「潮沙永日」大正11年(1922)がある。
 この作品は、タイトルのとおり春の日永の表現である。静謐で穏やかな海は鮮やかな青色に光り、画面全体に落ち着きと癒しを感じさせる。ごく小さく描き込まれた舟と人物が、長閑さを一層引き立てている。海岸の樹木の幹も、か弱いほどに細く、あくまでも優しい。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(4)

ヨーロッパ旅行とその成果─ヨーロッパの遺跡
 風景の写生としては、ヨーロッパの遺跡にとくに興味をもったらしい。1903
「羅馬遺跡図」明治36(1903)がある。
 栖鳳は、日本とも中国とも異なるヨーロッパの風景のなかでも、とりわけ古代遺跡、とくに古代ローマに興味を持った。ローマの古代遺跡だけでも、何枚ものデッサン、下絵、絵画を残している。
 この作品では、彼の他の作品には見られない遠近法的な画面が、いくつも連なるアーチの連なりから構成されている。さらに小さく描かれた羊たちの存在が、古代遺跡の建物の壮大さを表わしている。栖鳳は、青色を好み多く用いる傾向があるが、これらの一連の作品では、古代にふさわしいのか、褐色系が多く用いられている。
 他にも「羅馬之図」などが展示されている。
 彼はそれまで棲鳳あるいは霞中庵と号していたが、明治34年(1901)年2月帰国の後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めている。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(3)

ヨーロッパ旅行とその成果─外国の動物への関心
 明治33年(1900)栖鳳は36歳のとき、西欧を訪れる機会を得た。パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、それにあわせてのヨーロッパ視察として7か月かけてヨーロッパを旅行したのであった。
 このヨーロッパ旅行で、栖鳳はターナー、コローなどの西欧の風景画の精緻な写実性に深い感銘を受けた。かねてより栖鳳の師幸野楳嶺は「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」と説き写生を奨励していて、栖鳳も写生を重視していた。
 栖鳳は、写生の対象としての動物に興味を持ち、日本では見ることができない大型動物にとくに注目した。Photo_20240206080901

 「虎・獅子図」明治34年(1901)がある。これは、六曲一双の屏風絵である。
きわめて精緻に細かな毛並みを表現し、墨および色彩の濃淡と、おそらく当時の日本画には珍しいと思われる光の効果を併用して、みごとに立体感と量感を表現している。それまでの日本画とは、ひとあじ違う表現だったであろう。
「象図」明治37年(1904)象図 明治37年(1904)がある。これも、六曲一双の屏風絵である。Photo_20240206081001

 ここでは、金地の台紙の上に、筆の刷毛の効果を直接活かした線の勢いと擦れと濃淡を用いて、金地を意図的に透かせて、巨大な像の皮膚の張りとともにその立体感と量感をみごとに表現している。こんな技法は、油彩のような重ね塗りは不可能なために、否応なく軽快な速筆が必須であり、卓越した筆遣いが求められる。見事な技術である。
 青年時代から描き続けた「写生帖(虫類、鳥類写生)」には、雉の肩や首筋、部位ごとに本物の羽を貼りつけた写生などが残されている。栖鳳は、研鑽を積んだ綿密な写生の完成度から「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と評されるほどの卓越した描写力を達成した。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(2)

幼少期から美術学校教諭になるまで
 すでに14歳ころから四条派の土田英林に絵を習い始め、17歳のとき円山・四条派の重鎮であった幸野楳嶺(こうの ばいれい)の私塾に入門した。まもなく頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳の他に都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名)の筆頭と呼ばれるようになった。明治20年(1887)23歳で結婚し、これを機に絵師として独立した。その年、京都府画学校(現京都市立芸術大学)を修了し、京都の若手画家の先鋭として注目された。Photo_20240205060201
 このころの作品のひとつが「池塘浪静(ちとうろうせい)」明治20年代(1890ころ)である。まだこのころは、古典的技法を丁寧に学ぶ姿勢が強く、円山派の画風で、池とその水に生きる鯉を丁寧に描いている。
 ただ、一尾の鯉が非現実的な高さまで飛び跳ねた状況を描いていて、静止的になりがちな絵に見事な動きを添加している。
 栖鳳は、新古美術会や日本絵画協会などに出品する一方、明治24年(1891)山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興した。明治26年(1893)には、シカゴ万博にも出品した。そして明治32年(1899)自らの母校でもあった京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。

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竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(1)

 京都京セラ美術館で、この美術館の前身であった昭和天皇即位大礼記念「京都市美術館」の開館90周年記念展として「竹内栖鳳展」が開催された。私はちょうど10年前に、この同じ京都市立美術館で竹内栖鳳展を観た 。あのときも期待していた以上に感銘を受けたことを思い出した。Photo_20240204054601
 竹内栖鳳(たけうち せいほう、元治元年1864~昭和17年1942)は、京都の御池通油小路の川魚料理屋の一人息子として生まれ、幼少期から絵の優れた才能を見出され、順調に研鑽と経歴を積み、わが国の日本画界を牽引する大家に上りつめた高名な画家である。
 私にとっては、10年前の鑑賞時と観る作品もかなり重複するが、そのような作品も再度鑑賞して感銘を新たにした。ここでは、前回との重複をできるだけ避けて、今回の展覧会のサブタイトル「破壊と創生のエネルギー」に沿った方向で感想をまとめておきたい。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(8)

7.最後の晩餐
 最後の展示コーナーは、暗闇に包まれた部屋のなかに、ひとつだけの大型の絵画作品であるLast Supper 2022が、局部照明に照らされて展示されている。井田は、何世紀にもわたってさまざまなアーティストたちが取り組んできた古典的モチーフである「最後の晩餐」に対して、超現代的な表現を試みた。
 井田は言う「実はこの絵には人がいない。現在、女性の社会的地位はますます高まりました。人工知能が発達し、人間に代わってロボットが新たな時代を築こうとしています。そんな時代に最後の晩餐を描いたので、現代の人間に対するアイロニーとして表現したいと思いました。」Last-supper

 この絵では、イエスとその12人の弟子たちが一見女性のようにみえるが、よく見るとそのすべてがロボットに置き換えられているのだ。晩餐と言いつつも、ロボットが食べないであろう食べ物は、机の上に一切置かれていない。人工知能が人間にとって替わろうとする現代に対応して、神話や信仰を形成するもっとも究極的な場面から人類を排除したのである。この展示のように、壁に映写されたかのようなシーンは、ロボットが動いているフリーズフレームのように見える。
 この展覧会を観ることになったのは、ほぼ偶然といえる。何気なく見ていたネット記事で「「一期一会」をテーマにした絵画や立体作品などで海外でも高い評価を受けている若手の画家・現代美術家」との紹介があり、その展覧会が京都の京セラ美術館で開催されているという。残暑が厳しかった9月が終わり、10月になって一気に秋めいて、せっかくの好天候に、家には籠っていられないという気にもなっていた。
 はたして、展覧会を観た結果は、わざわざ出かけた値打ちが十分にあった。
 この若い造形アーティストは、絵画・彫刻の分野の範囲だが、具象から抽象まで領域・表現手段を限定しないで、かつ表現ジャンルはしっかり意識しながら、実に広範囲に自由に創作活動を展開している。
 これまでに少なくとも数百年以上にのぼる人類の美術への活動の蓄積は、実に膨大なもので、私たち門外漢が眺めて楽しむ分には、楽しみはあっても苦痛はない。しかしこの世界で生涯を賭して新たな価値を創造しようとするアーティストにとっては、既存の壁は実に高くて厳しいものだろうことは、私のような素人でも十分想像できる。そんななかで、まだ30歳をようやく過ぎたばかりの若いアーティストが、どんな気持ちで、どんな考えで、どんな風に格闘しているのか、それだけでも興味はつきない。
 創造性も個性も知識もない評論家や「識者」に限って「日本人にはクリエイティビティが欠ける」などとのんきに無責任に発言したりするが、日本人に限らず、世界中のだれにとっても難しいものは難しい。それでも日本にも、懸命に格闘している人たちがいる。
 井田幸昌の作品そのものは、私にとってわかり易いものではなかったが、彼の創造への姿勢、考え方、思想などはかなり理解できたように思う。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(7)

6.木製彫刻
Self-portrait-2023  井田は木製彫刻について「斧で細部を破壊し、再度色付けして構造を描きます。これを繰り返しながら理想のバランスを見つけていきます」という。
 井田は、人間や動物の体を分割し、それを不自然にずらして並べた「破損絵画」や、描かれるものとそこから連想されるさまざまな意味を切り離すために、主題をすべて反転させて描く「さかさまの絵画」など、著しく常識を否定した手法や作品を発表してきた旧東ドイツ出身の前衛アーティスト、ゲオルク・バゼリッツ(1938~)からインスピレーションを得ていると言われている。Selflessness
 かなり大きな木材をチェーンソーで切り出して荒々しい造形を造り、その上から絵具で彩色する。切り口や削り傷を意図的に残した荒々しい造形は、原始的なトーテムを想わせる。この手法は、自然、歴史、現在との戦いをイメージさせる行為であり、儀式的でもある。
 独特かつ抽象的な方法で、過去や美術史に積極的に言及しながらも、それらと適度な距離を維持し、自分の芸術を切り開こうとしているのかも知れない。

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井田幸昌 パンタ・レイ展 京都市京セラ美術館(6)

5.End of today
 井田は言う「時間が経つにつれて、大切なものが手からこぼれ落ちていくように、ある日の記憶はどんどん薄れていきます。そこで絵日記『End of today』シリーズを始めました。記憶を絵画に植え付けると、心が解放されることにある日気づいたのです。」End-of-today
 このコーナーの展示室は、肖像画、風景画、心象風景の絵など、さまざまな小品が365点、井田が日々綴る絵日記のような作品群として壁を埋めている。今の実践の経験、今の瞬間をなんとか記録したい、という強い欲求の結果であろう。押し寄せては去っていく日々の慌ただしい時間のなか、経験や情報の流れを、なんとか忘却から救い出したい、と時間と戦い続けているのだろう。形式的にでも自身の経験をともかく記録することは、シューレアリスムのオートマティズムの考え方から、創造につながる行為なのかも知れない。
 創造への意欲と努力からの行為ではあるが、彼自身が「絵日記」というように、彼の存在の物語をひとつの作品として、毎日の時間を丁寧に刻んでいるという側面・効果もある。

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