竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(2)
幼少期から美術学校教諭になるまで
すでに14歳ころから四条派の土田英林に絵を習い始め、17歳のとき円山・四条派の重鎮であった幸野楳嶺(こうの ばいれい)の私塾に入門した。まもなく頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳の他に都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名)の筆頭と呼ばれるようになった。明治20年(1887)23歳で結婚し、これを機に絵師として独立した。その年、京都府画学校(現京都市立芸術大学)を修了し、京都の若手画家の先鋭として注目された。
このころの作品のひとつが「池塘浪静(ちとうろうせい)」明治20年代(1890ころ)である。まだこのころは、古典的技法を丁寧に学ぶ姿勢が強く、円山派の画風で、池とその水に生きる鯉を丁寧に描いている。
ただ、一尾の鯉が非現実的な高さまで飛び跳ねた状況を描いていて、静止的になりがちな絵に見事な動きを添加している。
栖鳳は、新古美術会や日本絵画協会などに出品する一方、明治24年(1891)山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興した。明治26年(1893)には、シカゴ万博にも出品した。そして明治32年(1899)自らの母校でもあった京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。
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