竹内栖鳳展 京都京セラ美術館(8)
体制側に寄り添った人生
栖鳳は、大正13年(1924)フランスからレジオンドヌール勲章を授章、昭和6年(1931)にはハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞を、そして昭和12年(1937)に第1回文化勲章を授章した。こうして栖鳳は、国内でも世界的にも広く高く評価された。
そして昭和期が進むと、日本はさきの大戦に入っていった。戦時下では軍部に協力の姿勢を貫き、絶筆となった作品『宮城を拝して』は陸軍省から委嘱されたものであった。
そんな経緯もあって、昭和12年(1937)には「国瑞」という作品を残している。
これは、その年に文化勲章を授章した祝儀として贈られた朱盆と、その上に載せた大きな鯉を描いたものである。鯉は、彼が愛した潮来の産で、彼が滞在していた湯河原まで移送されたものであった。あまりに大きくて立派なため、盆からはみ出している。純白の布の上に置かれた朱盆を日の丸に見立て、タイトルをつけている。
栖鳳は、敗戦を見届けることなく昭和17年(1942)逗留していた湯河原の天野屋旅館で病気療養中に、肺炎のため亡くなった。
私は、さきの大戦で日本国のために働いた芸術家が、そのために責められる所以はないと考える。戦争そのものの良し悪しは、戦争の勝敗を含めて後付けで議論するものであり、そこで政治家・政治責任者が責任を追及される可能性は当然あっても、戦争の最中に国民が自国のために尽力することは自然で正当な行動である。たとえば、戦後になって藤田嗣治がマスコミから従軍制作活動の経歴を咎められてフランスに脱出したことなどは、理不尽である。当然、竹内栖鳳も、なんら責められる所以はない。
美術界においても、終始官展にとどまり、在野の横山大観と画壇の双璧をなし「西の栖鳳、東の大観」と称された。弟子の育成にも注力し、画塾「竹杖会」を主宰した。上村松園、西山翠嶂をはじめ、西村五雲、伊藤小坡、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、橋本関雪、徳岡神泉、吉岡華堂ら、京都画壇の大半を送り出している。
まとまった数の栖鳳の作品を久しぶりに観て、感銘を新たにした。栖鳳は、西欧の絵画を尊敬し深く学びつつも、日本画の伝統と技術を基礎に、西欧の印象派やゴッホなどとは異なる精緻で迫力ある独自の表現を開発した。描写のみならず、絵画のテーマや主張についても西欧画を参考にして、日本画に新境地を拓いた。まさに伝統と革新を、身をもって体現した画家であった。
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