ユトリロ展 美術館「えき」(2)
精神を病みながら描きはじめた絵
ムージスの世話で、16歳の1900年には臨時雇いの外交員の職に就いたが、4か月しか持たなかった。他の仕事もモーリスの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が絶えず、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もモーリスはアルコール依存症が悪化した。
やがてムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年モーリスはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着いた。このころから水彩画を描く練習を始めた。医師はシュザンヌに、彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。モーリスは、最初は真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在したとき、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は悪化し、彼の精神は蝕まれていった。20歳の1904年の初頭には、パリの精神病院に入院した。これがきっかけでシュザンヌとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年ふたりは破局を迎えた。症状の改善が見られたモーリスはモンマニーに戻り、そのころ彼は周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
退院したモーリスは、モンマニーに近いモンマルトルで絵を描き始め、絵画の道に進むことを決心したらしい。シュザンヌも息子の絵に助言することはあったようだが、基本的にモーリスは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派のような点描技法で厚く絵具を置くようなものであった。
20歳半ばのころにモーリスは、やはり画家を目指していた2歳年少のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合した。
このころの作品として「モンマルトルのサン=ピエール広場から眺めたパリ」(1908)がある。
1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けながらも、画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなど、独自の構図を身につけた。絵画は厚塗りのままだったが、やがて白の表現から独特のマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、モーリス自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
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