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ユトリロ展 美術館「えき」(4)

母・義父・画商との確執のなかでの創作活動(上)
Photo_20240215061201  「ラパン・アジル、モンマルトルのサン・ヴァンサン通り」(1910-12)が展示されている。ラパン・アジルとは、「跳ねる兎」という意味で、画面の手前に描かれているモンマルトルの居酒屋の名であった。モーリスは、この居酒屋に入り浸るように通い、ひたすら赤ワインを飲んでいた。店に親しみを感じていたらしく、彼はしばしばこの居酒屋を描いている。
 リボードは、モーリスの絵画の価値が急上昇したのを見て、1912年に専属契約を交わし、ささやかな定期的報酬と引き換えに販売権を独占した。これはモーリス・ユトリロ一家の経済的安定をもたらしたが、ユッテルは自身の芸術家の道を諦め、シュザンヌとともに専らモーリスの絵画の収入に生計を依存するようになった。そのため、リボードとシュザンヌが対立するようになった。Photo_20240215061301
 1912年4月フランソワ・ジュルダンの計らいで、モーリスはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードは、モーリスの絵が彼に利益をもたらしたことで、モーリスの制作を自らの制御下におこうとした。シュザンヌはこれに抵抗したがうまくいかなかった。
 このころ描かれた絵に「クリニャンクールのノートル・ダム教会」(1911)がある。
 この年4月末から5月の初めにかけて、モーリスの健康状態はさらに悪化した。モーリスは早く入院すべきだったが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとシュザンヌの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。
 サノワの病院に入れられると、モーリスはすぐ健康を回復した。入院中モーリスは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン・ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。

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