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2024年3月

キュビスム展 国立西洋美術館(12)

キュビスムと第一次世界大戦(下)
 ピカソ「輪を持つ少女」(1919)がある。Photo_20240331054301
 ピカソやブラック、グリスといったキュビスムを代表して牽引してきた画家たちの作品も第一次世界大戦の後、「秩序への回帰」とよばれる保守化の傾向のなかで変化をとげた。パピエ・コレのような戦前の複雑で実験的で難解な試みは遠ざけられ、伝統的な技法による絵画に復帰してきた。テーマも、静物や古典的なものへと向かっていった。
 ここでは、おだやかなキュビスムともいうべき、控えめの分解と再合成、安定した平面的描写とともに、十分具象的で古典的な描写の背景などが合体し、全体として保守的で静謐な雰囲気の絵となっている。キュビスムの要素はあるものの、挑戦的なエネルギーや躍動感というより、大家としての落ち着きや安定感が際立つしっとりした作品である。
Photo_20240331054401  アンリ・ローランス「果物皿を持つ女性」(1921)がある。
 ローランスは、石工として修行した後、1911年にブラックと知り合いキュビスムを知り、生涯の友となった。足に障害を持っていたため戦時中も徴兵されずパリにとどまった。ピカソの影響を受け、パピエ・コレや、木や金属板で構成するキュビスム彫刻を制作した。1918年12月レフォール・モデルヌ画廊で初の個展を実施した。以後、画廊主のレオンス・ローザンベールが推進する秩序や伝統を重視するキュビスムの新たな展開の方向へ向かった。この作品は、細長い直性的フォルムに、彼が感銘を受けたシャルトル大聖堂の人像円柱の影響が表れている。テーマとしては、伝統的に「豊穣」を示唆する果物を持つ女性が表現されている。

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キュビスム展 国立西洋美術館(11)

キュビスムと第一次世界大戦(上)
 ヨーロッパの美術家たちは、1914年勃発した第一次世界大戦で多大な影響を被ることになった。Photo_20240330060001
 交戦国のフランス人芸術家の多くは前線に送られてしまった。一方、非交戦国であったスペイン出身のピカソやグリス、そして女流画家であったマリア・ブランシャール、ジャンヌ・リジ=ルソー等は銃後にとどまり、大戦中のキュビスムを担った。
 戦争に送られる前に、戦争を予兆するような彫刻作品「大きな馬」(1914)を制作したデュシャン=ヴィヨンは、戦地で病を得て、1918年に43歳で早逝した。
Photo_20240330060101  アルベール・グレーズは、従軍中のスケッチをもとに、「戦争の歌」(1915)を制作した。フランス北東部の前線に近いトゥールへ送られたグレーズは、「戦争の歌」を作曲中のフローラン・シュミットと出会った。「戦争の歌」は、この愛国的な歌を指揮する作曲家シュミットの姿を描いた肖像画のひとつである。グレーズがシュミットに宛てた手紙によれば、人物像を取り囲む同心円状の曲線や色彩の選択は、シュミットの音楽から着想をえており、この絵における音楽と絵画の結びつきが示されている。現地のトゥールでは物資不足のため絵が完成できず、準備の素描のみが描かれ、1915年亡命したニューヨークで制作が完成したという。

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キュビスム展 国立西洋美術館(10)

東欧からきたパリの芸術家たち
Photo_20240329054901  キュビスムの運動には、ロシアやウクライナなど東欧出身の芸術家も多く関わっていた。1912年の「セクション・ドール(黄金分割)」展では、キーウ出身の彫刻家アレクサンダー・アーキペンコをはじめ、東欧の芸術家が参加していた。
 1920年に2回目の「セクション・ドール」展が開催されたとき、中心となったのは、グレーズやアーキペンコに加え、モスクワ出身の画家レオポルド・シュルヴァージュであった。参加者には、エレーヌ・エッティンゲン(画家名ではフランソワ・アンジブー)、セルジュ・フェラ、ナターリア・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ等、多くのロシアや東欧の芸術家がいた。Photo_20240329054902
 画家であり、また詩人、作家でもあったエッティンゲンは、いとこのフェラとともに第一次世界大戦以前からキュビスム運動を支えた。アポリネールと親交をむすび、1913年からは雑誌『レ・ソワレ・ド・パリ』に出資し、編集にも携わっていた。モンパルナスのフェラのアトリエや彼らのアパートは、前衛芸術家たちが交流する拠点となり、その常連だったシュルヴァージュが描いたのが「エッティンゲン男爵夫人」(1917)であった。
 この絵で中心に描かれているエレーヌ・エッティンゲンは、「無題」(1920)というタイトルながら、興味深い絵を残している。彼女自身と、シュルヴァージュ、フェラ、アポリネールなど、彼女を取り巻く芸術家たちの顔が集結していて、集団肖像画となっているのである。ただ、このあたりになると、キュビスムの所以たる「立体」「キューブ」のイメージはほとんど喪失して、自由な表現、平面的な描き方への躊躇のなさなどくらいがキュビスムの影響なのだろうか。

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キュビスム展 国立西洋美術館(9)

芸術家アトレエ「ラ・リュッシュ」(下)
 シャガール「白い襟のベラ」(1917)がある。Photo_20240328060401
 シャガールは1910年ころパリに移住し、5年間ほど滞在した。この間は、もっぱらキュビスムに感化されたという。この間に、母の死と、愛するベラとの結婚があった。この作品では、後のシャガールに特徴的な非現実的な構図や思い切った平面的な描写は見られず、キュビスムの影響と思われる色面の導入、背景の表現や、丁寧な色彩配置からは、ドローネーの影響が見られる。
 私はこれまで、シャガールの作品でこのようなタッチの絵を見たことがなかったので、今回はとても感銘を受けた。
Photo_20240328060501  アメデオ・モディリアーニ「女性の頭部」(1912)がある。
 イタリアのリヴォルノ出身のモディリアーニは、フィレンツェとヴェネツィアの美術学校に学び、1906年にパリに来た。はじめはピカソがいる「洗濯船」にいたが、1909年モンパルナスへ移り、一時「ラ・リッシュ」に滞在した。このころからブランクーシと交流するなかで石彫りによる彫刻に没頭した。プリミティヴィスムやキュビスム、古典や古代の様式などさまざまな様式を吸収して、この作品のような簡潔な独創的フォルムにいたった。
 この細長い輪郭とアーモンド型の眼をもつ単純化された顔は、モディリアーニの様式として確立し、経済的問題や健康上の理由で1915年ころからは彫刻を去り絵画に専念するようになった後も、継続的に受け継がれた。

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キュビスム展 国立西洋美術館(8)

芸術家アトレエ「ラ・リュッシュ」(上)
Photo_20240327060401    「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」(ラ・リューシュとも)とは、もともと1900年のパリ万国博覧会のとき、ギュスターヴ・エッフェル (1832-1923) がヴォージラール屠殺場の跡地に、「ボルドー・ワイン館」として設計したものであった。1902年に彫刻家アルフレッド・ブーシェがこれを買い取り、周囲にアトリエを計140室ほどに増築し、欧州各国からやってきた貧しい画家や彫刻家らに提供した芸術家の住処であった。ラ・リュッシュに部屋を借りていた芸術家はほとんどが貧しい外国人で、とくに1910年代にはソ連や中東欧での弾圧を逃れてきた若いユダヤ人が多く、「貧乏人のヴィラ・メディチ」と呼ばれていた。
 この芸術家アトリエ「ラ・リッシュ」は、芸術革新運動のアジトでもあり、彼らは「自由のヴィラ・メディチ」と呼んだ。若く貧しい芸術家たちは、最先端の美術革新運動であったキュビスムを吸収しながら、それぞれが独自の前衛的な表現を創生していった。Photo_20240327060501
 そのなかには、当時ロシア帝国領であったベラルーシから来たマルク・シャガール、ルーマニア出身のコンスタンティン・ブランクーシ、イタリア人のアメデオ・モディリアーニ等がいた。
 ブランクーシ「接吻」(1908)がある。ブランクーシは、描写する対象のパーツや形態を思い切ってそぎ落とし、必要最小限のものを強調して表現する。この作品もきわめて素朴でストレートな表現、それだけだが、それだけに強烈なインパクトをもつ彫刻である。

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キュビスム展 国立西洋美術館(7)

デュシャン兄弟とピュトー・グループ
Photo_20240326055501  画家・版画家のジャック・ヴィヨン(本名はガストン・デュシャン)と彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄弟が、パリ郊外のピュトーに構えたアトリエに、1911年ころから末弟のマルセル・デュシャンや、フランティシェク・クプカ、フランシス・ピカビアなどのサロン・キュビスムの芸術家たちが毎週日曜日に集まった。これは「ピュトー・グループ」と呼ばれた。
 キュビスムの大規模な展覧会「セクション・ドール(黄金分割)」を組織した中心的なグループこそ、この「ピュトー・グループ」であった。「黄金分割」の名称から明らかなように、「ピュトー・グループ」は黄金比や非ユークリッド幾何学などの数学、四次元の概念、さらに運動の生理学的分析といった科学を、キュビスムと理論的に結びつけようとした。
 これらの理論そのものがいつも彼らの作品に現れているわけではないが、運動のダイナミズムの表現は、彼らの作品の大きな特徴のひとつとなっている。
 フランティシェク・クプカ(1872-1957)「色面の構成」(1911)がある。
 世紀末のプラハとウィーンで絵画を学び、象徴主義や神秘主義から影響が受けたクプカは、1896年パリに移り、生理学や色彩論など多面的な知識を吸収しながら制作を続けた。1906年にピュトーに移り住み、「ピュトー・グループ」に参加した。連続写真、映画、X線写真などの当時の科学が生み出した新しい視覚イメージへの関心をもちながら、とりわけ絵画における運動の表現を追求した。この作品では、女性のシルエットの動きが帯状の色面の連なりによって表現されている。クプカの具象から抽象への移行が顕われているともいえる。
Photo_20240326055502  レイモン・デュシャン=ヴィヨン(1876-1918)は、医学を学び、1900年ころから独学で彫刻をはじめた。当初はロダンの影響を受けていたが、解剖学の観点にもとづきつつ身体の幾何学的な抽象化へと向かっていった。1907年兄ジャック・ヴィヨンのいるピュトーに移り住み、「ピュトー・グループ」の芸術家たちと運動の科学的分析への関心を共有しつつ、彫刻や建築におけるキュビスムを追求した。
 レイモン・デュシャン=ヴィヨン「恋人たちⅡ」(1913)がある。おなじテーマで第6作まで制作されたシリーズの2番目である。顔を寄せ合う一組の男女のダイナミックな運動感が特徴である。

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キュビスム展 国立西洋美術館(6)

同時主義とオルフィスム─ドローネー夫妻
Photo_20240325053901  ギョーム・アポリネール(1880-1918)は、フランスの詩人・小説家・美術・文芸評論家である。彼は、ロベール・ドローネーを「オルフェウス的(詩的)キュビスム」の発明者と呼んだ。そこから「オルフィスム」という名称が生まれ、色彩によって構成された「純粋な」絵である、と捉えられた。
 ロベール・ドローネー(1885-1941)自身は、妻であるソニア・ドローネー(1885-1979)とともに「同時主義」という独自の概念を提唱した。それは、フランスの化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールによる「色彩の同時対照の法則」に依拠して、色彩同士の対比的効果を探求するものであった。
 二人の「同時主義」は単なる色彩論にとどまらず、よりひろく異質な要素を同一画面に統合する方法でもあった。
 ロベール・ドローネー「パリ市」(1912)がある。
 ここでは、伝統的な古代的三美神と現代的なエッフェル塔、さらにアンリ・ルソーの作品からのモティーフの引用など、多様で異質な要素がみごとにひとつに美しくまとめられている。キュビスムの多面性、具象的表現と抽象的表現、多様な美しい色彩などが矛盾なくきれいに統合されて、装飾的でさえある。

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 「同時主義」は空間・時間、さらに動きを表わす原理でもあり、それはソニア・ドローネーがダンスホールで人々が踊る情景を描いた「バル・ビュリエ」(1913)にも遺憾なく示されている。

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キュビスム展 国立西洋美術館(5)

サロンにおけるキュビスム
 キュビスムの創始者たるピカソとブラックは、カーンヴィラーの画廊以外では作品を展示しなかった。それに対して二人の影響を受けた若いキュビストたちは、おもにサロン・デ・ザンデパンダン(独立派のサロン)やサロン・ドートンヌ(秋のサロン)などの、年一回開催される公募による大規模な展覧会で作品を発表したため、「サロン・キュビスト」と呼ばれるようになった。Photo_20240324060201
 こうして1911年と1912年のサロンでは、多くの画家が同じ展示室で多くのキュビスムの作品を公開するようになり、キュビスムは一躍注目の的となり、スキャンダルを引き起こした。新聞や雑誌の風刺画や映画などさまざまなメディアで、キュビスムが揶揄の対象になった。
 サロン・キュビストたちは、ピカソやブラック以上にキュビスムを理論化し、アルベール・グレーズとジャン・メッツァンジェは『キュビスムについて』という著書を1912年発表した。同じ年「セクション・ドール(黄金分割)」展というキュビスムのグループ展も開催された。
Photo_20240324060301  アルベール・グレーズ(1881-1953)「収穫物の脱穀」(1912)がある。グレーズは、メッツァンジェ等とともに1911年春のサロンにおける最初のキュビスムの集団展示を計画し「サロン・キュビスム」を牽引した。これは1912年「セクション・ドール」展に出品された彼の代表作である。
 画面中央には小麦を収穫する人びと、右側には昼食を終えて仕事に戻ろうとする農夫などが描かれる。画面左上あたりの円形の換気扇がついた赤い煙突のようなものは、トラクターか脱穀機を思わせる。機械が導入された近代的な農村風景なのだろう。キュビスムという新しい造形言語で農作業という伝統的テーマのなかに現代性を融合させたこの作品は、キュビスムをフランス美術の伝統の延長線上に位置づけようとするグレーズの主張が反映されている。
 ロジェ・ド・ラ・フレネー「腰かける男性」(1913)も、この流れに乗る作品のひとつである。

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キュビスム展 国立西洋美術館(4)

レジェとグリスの登場
Photo_20240323055101  ピカソとブラックが創始したキュビスムは、新しい表現を求める若い芸術家たちの間に瞬く間に広がった。多くの追従者の中でも、レジェとグリスの二人は、画商カーンヴィラーから見てもキュビスムの発展に欠かすことのできない存在とみなされた。
 1907年のセザンヌ回顧展を見た後、フェルナン・レジェ(1881-1955)の作品は構築的となり、「コントラスト(対照・対比)」という概念を自らの制作の原理として、直線と曲線、色彩同士の対比など、さまざまな要素の二項対立的構造によって動感のある画面を作り上げた。この動向は、後に抽象絵画へも発展した。
 典型的な作品として、レジェ「形態のコントラスト」(1913)がある。
Photo_20240323055201  スペイン出身のファン・グリス(1887-1927)は、1906年にパリに移り、ピカソと知り合った。ピカソが住んでいた同居住宅「洗濯船」を拠点に挿絵画家として活動の後、1911年から本格的に油彩を描くようになり、また彼もセザンヌを学ぶことからはじめ、やがて1912年からキュビスムの画家としてデビューした。鮮やかな色面を組み合わせて、対角線や水平線、垂直線を強調した厳格な構成と、複雑な空間を特徴とする静物画を発表した。
 グリス「ヴァイオリンとグラス」(1913)がある。カンヴァス自体がテーブルに見立てられ、断片化したグラスや楽譜、楽器などのモティーフが折り重なっている。緑色のグラスには、フランス語でヴェールと発音する「グラスverre」と「緑vert」とがかけ合わされた視覚的な韻が踏まれている。

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キュビスム展 国立西洋美術館(3)

ピカソとブラックの造形的実験
 ピカソとブラックが知り合ったのは1907年であったが、毎日のようにお互いのアトリエを訪ねるほどに交流が深まったのは、1908年のブラックのカーンヴィラー画廊発表以後であった。Photo_20240322060701
 ブラックは「私たちはザイルで結ばれた登山家のようだった」と当時の二人の関係を回顧している。
 1909年には、二人の造形的実験は「分析的キュビスム」の段階に入った。描かれた対象は、いくつもの部分に分解され、多数の切子面によって構成されるようなほとんどモノクロームの画面となった。1910年以降は、描かれている対象の識別が困難なほどに描写は抽象化の度合いを増していった。何かを「写実」するのではなく、自律的なイメージを「分析」して「構築」する場となっていった。
 ピカソ「腰掛椅子に座る女性」(1910)がある。すでに色調を少数に限定して、対象の形を陰影のついた細かな切子面に分割して表わすようになっていたが、ここではさらに背景を敢えて未完成のまま残すことによって、複雑に断片化された女性の身体が、モニュメンタルな存在感として強調されている。
Photo_20240322060702  ブラック「果物皿とトランプ」(1913)がある。ブラックは、画面に新聞紙や壁紙を貼り付けるパピエ・コレ(紙の糊付け)など、総合的キュビスムの展開に重要となる新しい技法を試みていた。油絵具で騙し絵のように再現される木目模様、砂やおが屑を混ぜ込んだ絵具でつくられる荒い絵肌などがあった。これらはブラックが塗装職人として働いていた経験を活かしたもので、実物と再現、高級芸術と日常生活といった境界をまたがるものであった。この作品ではブラックが、その前に制作したパピエ・コレ作品に対して、絵具での再現を試みている。貼り付けられていた壁紙の木目模様は、家屋塗装業者用の櫛ベラで引っ掻いて再現され、その上に果物やトランプや文字などが置かれた重層的な空間構成となっている。
 このような経過をたどることで、キュビスムは抽象的で難解なものとなっていったが、ピカソとブラックは抽象絵画へは向かわず、絵画と現実の関係、リアリズムの新しい表現方法を問い続けた。

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キュビスム展 国立西洋美術館(2)

ブラックのセザンヌへの応答
 ピカソに触発されたブラックは、セザンヌの回顧展に、それまで経験しなかった強い感銘を受けたという。そこでは「自然を円筒形、球形、円錐形によって扱いなさい」という有名な一説を含むセザンヌの言葉が、画家エミール・ベルナールによって紹介されていた。多面的観察、分解、再構築というセザンヌのコンセプトを探求すべく、1906年から1910年までセザンヌが制作した地として知られるマルセイユの西にある小さな漁村レスタックに4回滞在して、セザンヌに応答する作品を描いた。1908
 「レスタックの高架橋」(1908)が展示されている。
 セザンヌの教えに対する解釈を示すかのように、橋や家を立方体など簡素な幾何学的形態に還元して、それらを、遠近法を除外した浅い平面的な空間に再合成する、新たな表現方法に挑戦している。
 これらのブラックの作品が、ドイツ人画商カーンヴィラーの画廊で1908年11月に個展として展示されたとき、「彼は形態を軽んじていて、景観も人物も家々もすべてを、幾何学的図式や、キューブ(立方体)に還元してしまう」と評された。これが「キュビスム」という名称の起源となった。
 ダニエル・アンリ・カーンヴィラー(1884-1979)は、23歳からパリに移住して画廊を開いていた。まもなくピカソと知り合い、1908年にはブラックの個展を開催し、二人と専属契約を結び、彼らの活動を支えた。以後はピカソとブラックの作品展示は唯一カーンヴィラーが行うようになり、その画廊はキュビスムの震源地的な存在となった。

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キュビスム展 国立西洋美術館(1)

 わが国で開催されるのは50年ぶりだというキュビスム特集展覧会が、上野の国立西洋美術館で開催された。
 キュビスムというと、私は漠然とピカソとブラックは思いだすが、それ以上にはそんなに大きく連想はふくらまない。近代絵画の歴史として、19世紀末に印象派が現れ、それに続いてポスト印象派、キュビスム、表現主義や抽象主義などの普及・拡大があった、などはなんとなく連想するが、キュビスムそのものが普及・発展・影響を与え周りを主導したという知識はなかった。そんな事情を前提に、ひとつの展覧会を構成できるほどの広い芸術運動との意識がないまま、気軽に鑑賞したのであった。

キュビスムのはじまり
 19世紀の終わりころ、印象主義とも違う美術の動きがたしかにあった。この展覧会では、セザンヌ、ゴーギャン、ルソーの3人をキュビスムの先駆けとして取りあげている。Photo_20240320055301
 セザンヌは、描こうとする対象を基本的な形態の要素に分解して、再構築することで新しいリアリズムを探求した。そのため、それまでのひとつ方向の視線だけでなく、複数の方向からの視線に基づく複数の画面を絵画に取り入れた。多面的観察、分解、再構築などがキーワードである。
 ゴーギャンは、西洋の外に眼差しを向け、アフリカ、アジア、オセアニアなどの原初的な文化のなかから「プリミティブ」と呼ぶ素朴で大胆な造形や絵画を美術に取り入れた。これはエネルギッシュでインパクトを与える表現をもたらしたが、「プリミティブ」という価値観は、背景により遅れた文化という含意もあった。
 ルソーは、ヨーロッパの正規の美術教育を受けなかったために、それまでの画家が思いつかなかった自由で意外な美を発見して表現することができた。
Photo_20240320055302  これらの動きに最初に鋭敏に反応したのが、パプロ・ピカソとジョルジュ・ブラックであった。ピカソは、パリの人類博物館で見たアフリカ彫刻を見て、制作中であった「アヴィニョンの娘たち」を突然大幅に描き直した。それを見たブラックは、その過激さに驚いて、ピカソへの応答として「大きな裸婦」(1907)を描いた。同じころにピカソが描いた「女性の胸像」(1907)がある。
 これらの作品は、セザンヌの多面的観察、分解、再構築を明らかに意識しており、プリミティブの大胆さもあるが、まだ具象画の域をはみ出すものではなく、かつ実験的である。色彩も、たとえばピカソの描く女性の鼻に常識的ではない色が使われてはいるが、実験的描写に必要な最小限に絞り込んでいるかのようである。ビカソもブラックも、人体のそれぞれのパーツの大きさや位置とそのバランスには、思い切ったデフォルメを取り入れている。
 このピカソとブラックの反応が、キュビスムのはじまりであったとされる。

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大学と父と息子たち

 ある友人から「AIやSNSなどが発達・普及した現代、もはや「大学」は必要なのか」と、私の感想・意見を問われ、私自身の学生生活が半世紀以前のことでもあり、ビンと来ないままに思い付きで回答して過ごしてしまった。そのあとその問いかけが頭に残り、30年余り前に他界した父の言葉、私自身と弟の大学受験など、ずいぶん古いことをなんとはなしに思い出し、ぼんやり考えたりしたので、この機会にひとまず記録しておきたい。
 私の父は、明治末年に兵庫県明石市に生まれた。その父、つまり私の祖父は、江戸時代明石藩の大庄屋の孫の嫡嗣として明治前半に生まれ育った人物だが、問題児で、生涯ちっとも働かなかった。ただ漢詩や書には興味と才能があり、明石ゆかりの文化人たち(菅原明朗、伊藤明瑞など)をしばしば自宅に招いて、飲んでは放談し、普通のマトモな勤め人たち、いわゆるサラリーマンを「俗人ども」と放言して勝手に蔑んでいたそうだ。自分が稼ぐ収入が皆無なので、相続した土地・田畑・屋敷を生活のために相次いで売り払い、父が高等小学校を出て中学に進むころには、400坪余りの屋敷から40坪ほどの小さな家に移っていた。
 祖父は、父の旧制中学進学にまで反対し、見かねた祖母が高等小学校の先生に頼んで説得してもらったという。
 旧制中学を終えた父は、祖父を反面教師として、「実業」でまともに働きたいと考え、役に立つ知識を身に着けたいと進学を希望したが、金銭的にも苦しかった。この時も祖父は父の希望に反対し、またも中学校の先生に祖父を説得してもらったそうだ。
 父は結局、旧制国立高等工業専門学校電気工学科に進んだ。
 狭い自宅に帰ったら、飲んだくれの祖父がいて落ちついて勉強できる環境が無かったので、父は授業中に最大限集中して学ぶ、どうしても必要な予習・復習は、校舎の机に居残って暗くなる、あるいは追い出されるまでにやってしまう、との方針だったと話していた。当時の高等専門学校の図書室は、学生の閲覧スペースがじゅうぶんになかったそうだ。
 祖母は親類から借金して、近隣から「武家の商法」と揶揄されながら、ぎこちなく質屋を営み家計を支えた。祖母は大坂天満の最下層の武家たる同心の孫だったことが知られていた。
 父は、高等専門学校時代の3年間を、学生らしい寛ぎも余裕もなく、くたびれた一着の学生服と帽子で通し、卒業して国鉄に勤めた。昭和初期の「大学は出たけれど」の流行語があった大不況の時期で、希望する製造業には求人がなかった。しばらく後に製造業に転職した。
 高等専門学校を終えたとき、同級生の何人かは大学に進学した。同級生に、旧制帝国大学を経て、後に大学教授や大学学長になったひともいた。父もそれらの友人から、一緒に進学しよう、と言われたそうだが、とてもそんな余裕はなかった。
 就職後の父は、エンジニアとしてもっと知識を補いたいと、最小限のコストで内容が多いだろうと思って「電気工学ハンドブック」という数百ページの本を入手し、それで数年間は勤務の後、帰宅してから自習したそうだ。
 父が、祖母の親類からの借金を皆済したのは、戦争への応召直前に32歳で結婚した後の、戦後になってから40歳前だったとの由である。
 一応高等教育に近い教育を得た父だが、彼なりに苦労も残念な思いもあったらしい。父は、2人の子どもたる私と弟には、本人が望むだけ何年でも学ばせたい、大学院や博士課程へ進むのもよい、と言った。ただ若いころのフレッシュな頭脳は加齢すると戻らないから、少しでも早く専門知識を学び始めるほうが良い、大学はブランドではなく実質が大事だから、浪人するより確実に入れる大学へ先ず入ってきちんと学べ、と教えた。
 私は、父と同じく実業で役に立つ知識を得たいと、現役で国立大学工学部に進み、大学時代は興味と関心を持ってかなり熱心に学んだので、大学では優等生であった。
 弟は、父に言わせるとちょっと祖父に似ていて、理科系よりは文科系、とくに小説家に憧れがあったようで、高校時代はじめは文学部進学を真剣に考えていたようだった。しかし途中で、やっぱり作家だけでは生活が難しい、でも性格的にサラリーマンは向かないし、小説を書く医師もいることだし、医師になるか、と現役で公立医科大学に進学した。ただ、デモシカで進学してしまったためか、彼なりに悩んだようで、1年間留年して、さまざまなアルバイトで過ごした。高校時代はあれほど熱心だった文学や小説だったが、長年勤務医として大都市にも地方にも勤務を経験した現在では、ほとんど文学に興味がないように見える。
 父は「自分の父親を尊敬できないのは、不幸である」と述懐していたが、幸い私も弟も父を尊敬している。ただ、父が言うことだけがすべてでもないとは思っている。大学が、学問や技術を学ぶだけでなく、大学時代しかできないさまざまな楽しみ、交友、歓楽なども意味はあると思っている。
 私は、父がもっと高等教育を受けてもっと知識を得たかったのにできなかった、という思いを知らされていたので、大学に行かない、という発想は初めからなかった。
 人生75年を経て、私自身が言えるのは、大学に進学するにせよ、しないにせよ、大学云々以前に、「自分がこれからなにをしたいか」を知ること、知るようになれること、知るように努力することが一番大切だろうと思う。37年間の企業勤務で、大学で学んだことが役立ったと思うし、また大学での知識だけでも不十分だということも知った。
 ある大学で非常勤講師をしているが、講義中の雑談のとき「大学に入るまでは楽しくなくても得点を追い求める受験勉強は必要だったが、入ってしまったうえは試験の点数なんてどうでもよい。そんなことより、自分が没頭できる、楽しめる目標をできるだけ早く探し求めることが大切だ」と話している。
 最初の「大学は必要か」との問いに戻ると、一般論としては、絶対に必要とも言えないが、大学の機能としてある程度の歴史と実績があり期待はできるので、進学する意味はおそらくあるのではないか、もちろん確固たる自信とはっきりした他の目標があれば、大学を否定する、あるいは進学しない道を採るということもよいかも知れない、と当たり障りのない回答となる。非常勤講師を勤める大学で学生に言ったことも同様で、一般論として言ってしまうと、まちがってもいないだろうが、説得力がないことを自覚する。
 19世紀のドイツ・プロイセンを率いたオットー・フォン・ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言を残したけれど、私たちが強く影響を受けるのは、家族、先生、先輩、友人など、身のまわりに実在して直接接触できる人たちを含めた「経験」がいちばん重い。「歴史」に学ぶという要因もあるかもしれないが、それは実際には、自分のなかに求めるものがあり、その希望やビジョンの熱量のフィルターを通した要素だけを、自分流に料理して受け入れるのだと思う。
 私のささやかな個人的感想としては、この大学にかんする件に限らず何にしても、やはり自分の個人的でささやかでつたない経験から判断、決定、実行して人生を積み重ねてきている。その結果については、満足できることもあるし、未達のままで残念なことも多々あるが、総じて自分で決めたことの結果は、あまり後悔に悩むことはない。
 この度の「大学」にかんしての問いかけや問題は、全体からみればごく狭い特殊な例に過ぎないが、私が多少の自信を持って言えることは、すべからく実はとても私的かつ個人的な経験にもとづくものであって、到底他の人の役に立つようなものではないと思えてくるのである。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(6)

4.横尾忠則─水のように(下)
 60年代の横尾の作品は、画面の中心に大きなモティーフがあるものや左右対称のシンメトリーの構図をとるものが多かった。そこで描かれる水は、突進する飛行機や沈没する船など事件・事故を思わせるものが添えられていたり、物語の展開を盛りあげる仕掛けとして登場人物を囲んでいたりする。こうした水の要素が画面に入り込み、ほかの断片的なモティーフと衝突することで、元々の構図にあった秩序や調和を乱す動きが生まれてくる。

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 水面にすがたが映ることから「水鏡」というように、水は今いるところとは別の世界を映し出す鏡にもなる。横尾はこうした鏡の力で、見たことがあるようで見たことのない世界を開いていく。作品のなかのひとつひとつは、何が描いてあるか判別でき、また何かの模写や引用も多くある。けれども、文字が反転していたり、ほかのものと組み合わされたりすることで、不可思議な世界が目の前に広がっていく。横尾の作品は鏡のようにあらゆるものを自由自在に画面に取り込み、あたかも万華鏡のようにイメージが反復し増殖していく。横尾にとって「ヤレ(破れ)」はイメージの重なり合いを示すものである。破れ目から思いがけない世界が覗くように、横尾はこの世もあの世も混然となった世界を創り出している。Photo_20240318060301
 「天地の愛」(1994)がある。水の中なのか、それとも空中なのか、判然としない空間のなかで、ふたりの男の死が描かれる。
 画面右下は、篠山紀信が撮影した写真集『男の死』をもとにした三島由紀夫の姿である。左上は、『横尾忠則遺作集』に掲載された写真が下敷きとなっている。『男の死』は当初、横尾自身が被写体となる予定であったが、横尾の原因不明の病によりながらく実現しなかったという。この作品でようやく二人の「男の死」がひとつの画面に表現されたともいえる。三島と横尾の交際は、深く長く続いていた。
 「暗夜行路 ふたつの闇」(2001)という作品がある。
 「Y字路」は、一本の道が左右二本に分かれてできたところを画面の中央に置く風景画のシリーズで、横尾にとって継続的でライフワーク的なひとつのテーマとなっている。
故郷の思い出の場所が、写真に撮ってみたら、ただの夜のY字路だった。そうしたY字路との出会いからこのシリーズがはじまった。この誰もがどこかで見たことがあるような風景は、実際には異なる場所で撮影した写真を組み合わせてできるもので、どこにもないのである。
Photo_20240318060401  1981年の画集で語られた「ぼく自体、生きるということに形を持っていないということが必要だと思うんです。」という言葉がある。その水のような生き方が、あちらとこちらを自由自在に行き来する創造に繋がっているようだ。
 関東大震災やさきの大戦の後の、荒廃した街の風景を、なにか思想的な批判をもこめて丹念に描いた絵は、今ではあまり見る機会がなかったので、興味深かった。
 そして横尾忠則の絵画を、この展覧会で初めてまとめて観ることができた。
 コレクション展というので、さほど期待しないで、ただ懐かしい東京都現代美術館を訪れてみたいというだけで行ったのだが、展示企画が優れていてなかなか充実した内容であった。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(5)

4.横尾忠則─水のように(上)
 この展覧会では、横尾忠則の画業の総括的な展示が含まれている。
 私たちの世代が1960年代にはじめて出会った横尾忠則(1936-)は、グラフィック・デザイナー、イラストレーターであり、その斬新で刺激的な独特の世界は、ヒッピーや学生運動が高揚した時代の若者たちに大きなインパクトを与えた。
 横尾はその後、1980年代に絵画に主軸を移し、現在にいたるまで、幅広い分野でたゆみなく、たくましく制作をつづけている。
 「20年目のピカソ」(2001)という作品がある。
20_20240317054001  横尾は1980年、ニューヨーク美術館でピカソ展をみたことが、画家になる決意を固めたきっかけであった。ピカソのように、感情や感覚を正直に表現すること、遊びのなかにこそ人生や創造があること、を直観したのであった。この作品では、正位置で描かれた滝と滝壺に対して、橋を渡る男の子と女の子が逆さまになっている。画面に貼り付けられた道祖神がこちらとあちら、この世とあの世の境界に立つように、作品のなかで相対する二つのものが結び付けられている。ピカソを見て感動してから20年経ったことへの、横尾なりの表現なのだろう。
 1980年に画家になる決意を表明して最初に出版された作品集『横尾忠則画帖』(1981)に、美術評論家の東野芳明(1930-2005)との対談「水のように─横尾忠則の変貌」が掲載された。まさしく「水のように」横尾の作品は千変万化している。今回の展示では、とくに「水」の表現に注目したという。
 横尾の作品には風景画も多い。風景画では、とくに水のある風景が多く描かれている。海、波、水平線、滝、洞窟、雨、水浸しの室内などが含まれる。こうした水のある風景は、横尾が兵庫県西脇市の加古川のそばで育ったことや、蟹座で一白水星という水に関わりの深い生まれであることの自意識と、どこかで繋がっているのかも知れないという。
Photo_20240317054001  「実験報告」(1996)という作品がある。
 少年たちが目の前で繰り広げられる光景に見入っている。画面の手前では、女性が骸骨を拾い集めている。この女性をはじめとして、画面奥の空の星まで、連続番号が付けられている。これは画家が描いた順番である。この不思議な洞窟の舞台に、お互い素知らぬ様子で、あちこちから集まってきたようである。しかしよく見ると、それぞれがなにがしかのペアになっているものが多い。滝から流れ落ちてきた水さえも、洞窟ののなかでふたつがひとつになっている。「ふたつでひとつ」というのがテーマのようである。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(4)

3.生誕100年 サム・フランシス
 カリフォルニア生まれの抽象表現主義の画家として知られるサム・フランシス(1923-1994)の生誕100周年を記念し、この美術館に寄託されている大型の絵画作品を展示している。1_20240316054201
 サム・フランシスの画業は、1944年、アメリカ陸軍航空隊の飛行訓練中の事故によって脊髄結核を患っての病床に始まった。寝たきりの入院生活中に、セラピーの一環として水彩画を描き始めたフランシスは、やがて本格的に美術を学び始めた。1950年パリに渡ると、アンフォルメルの興隆するヨーロッパで、新進画家として注目を集めた。1957年には世界旅行を敢行し、初めて来日して以来、日本と深いかかわりを持ちながら画業を展開した。
 ここに展示された1985年制作の一連の作品は、過去の自作に見られる様々な要素が大胆かつおおらかに再構成された大作で、日本国内を巡回した個展を機に日本にもたらされた。
 フランシスは1960年代半ばには、ヨーロッパや日本にもアトリエを残しつつ、故郷カリフォルニアに拠点を置いた。そのころからカンヴァスを床に置き、乾きの早いアクリル絵具を用いて制作するようになったという。

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 水をたっぷりと含んだ色の滲みや、白い空隙を内包しつつ上下にたゆたう帯状の流れは、絵具の飛沫や、鮮やかな色の塊、宙を舞うように放たれた細い線などを伴い、独特の浮遊感をもたらしている。フランシスは「自分は本当は、飛んだり浮かんだりしていたいんだけど、重力というものが自分を縛っているからできない。絵を描くことはそれから解放される唯一の方法だ」との言葉を残している。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(3)

2.清澄白河を歩く
 現在この美術館が建つ地域、深川、木場、清澄白河などを歩いた作家たちの作品が展示されている。Photo_20240315060101
 戦時下に銀座で開かれた新人画会展で、松本竣介の作品に感銘を受けて交流を深めた中野淳(1925-2017)は、戦後1948年に自由美術協会の最年少会員となり、まもなく生まれ育った下町から杉並に拠点を移した。
1975  かつて隅田川沿いで空襲による死者を数多く目撃して、戦後10年以上たってから、「惨めな戦後」を見出しつつ、そこに「おさないころの清らかな追想」を重ねるように「下町シリーズ」を描いた。
 そして1970年代には深川木場の一連の風景画を、その集大成として「下町スケッチ」シリーズを仕上げた。天気や季節を問わず運河を歩き筆を走らせた「下町スケッチ」シリーズには、都市計画による新木場への移転によって消えゆく風景の記憶と郷愁が留められている。これらの作品の場面は、まさに現在の木場公園に美術館が建つ位置と重なる。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(2)

1. 東京を歩く─災害に対峙して
Photo_20240314054301  大正12年(1923)9月1日に起こった関東大震災は、9万人を超える死者をもたらし、甚大な火災をも引き起こした未曾有の大災害であった。鹿子木孟郎(かのこぎ たけしろう、1874-1941)はその直後、日本画家の池田遙邨を伴い京都から上京した。二人は、焼け野原となった隅田川を挟んだ下町の風景を写生してまわった。現地で描いた数多のスケッチで、焼け跡の倒壊した建物や、瓦礫を掘り起こす人々を、少し距離を置いた冷静な眼差しで、迷いのない線でその輪郭を捉えている。Photo_20240314054302
 鹿子木孟郎「大川端」(1923)が展示されている。
 同様な作品として、さきの大戦敗戦後の荒廃した風景を描いた桂ゆき「戦後スケッチ」などがある。
1291  鹿子木孟郎は後に、写真やスケッチなどを元に油彩の大作「大正12年9月1日」を描いた。フランスの歴史画家ジャン=ポール・ローランスにアカデミックな写実技法と画面構成を学んだこともあるそうで、ドラマチックに構成した精緻で写実的な歴史画となっている。

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歩く/赴く/移動する 1923→2020(1)

Photo_20240313054601  東京都現代美術館を訪れるのは、ほんとうに久しぶりである。鎌倉に住んでいたころは、この美術館の会員となり、ときどき特別講演会に招待がきて、そんな機会でもない限り知ったり聴いたりする機会のない芸術家や蒐集家などの講演を聴いた。安藤忠雄さん、池田満寿夫さん、福富太郎さんの講演もとても刺激的で楽しかったことを覚えている。
 新橋から都バス1本で到着した現代美術館は、外観からしてすっかり記憶から消えていて新鮮な印象であった。
 コレクション展「歩く/赴く/移動する 1923→2020」を選んで入場すると、冒頭に巨大な彫刻作品たるアルナルド・ポモドーロ「太陽のジャイロスコープ」(1988)が据えてある。ジャイロの心臓部たるローターを、敢えて半分に切断して、直角にひねって継ぎ合わせてある。この断層は、人間の深層意識を表現しようとしているのだ、と解説にある。ともかく重厚でずっしりと重みが感じられる作品である。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(11)

5.不易と流行(下)
Photo_20240312055401  昭和16年(1941)3月、安井は丹平写真俱楽部の有志とともに、ナチスドイツによる迫害を逃れて神戸にたどりついたポーランド系ユダヤ人たちを撮影した。それらはメンバー6名による連作として同年の第23回丹平展で発表された。その一部は『アサヒカメラ』と『アルス写真年鑑2601年版』に掲載された。この最後のものには「流氓ユダヤ 母」が掲載され、愛用のライカで撮影されたことも記されている。
 私にとっては、これまで安井仲治の名前で記憶に残っていた唯一の作品群がこれであった。
 安井の「流氓ユダヤ」関連作はヴィンテージプリント17点が現存するが、昭和17年(1942)の『安井仲治写真作品集(遺作集)』に掲載された4点中の3点とネガ全点は、戦災により失われたと考えられている。
この撮影から間もない昭和16年(1941)夏、安井は不調を覚える。同年10月には病をおして朝日新聞社主催の講演に登壇し、個人の人格の表現としての芸術の重要性を訴えた。
Photo_20240312055402  それから半年を待たずに安井は腎不全のため、38歳の若さでこの世を去った。
 「月」(昭和16年、1941)は、彼が病床から撮った絶筆にちかい一枚のようだ。
 『丹平写真俱楽部会報』1941年11月15日号に、安井は下記のような記事を寄せていた。
とうとう病気で例会へ出られなくなった。心に懸るのは此時局下例会出品の質だ、・・・若し感慨を自然に託して吐露するのが無理のない藝術であるならば淡如たる風月の裡に烈々たる心事を潜ませる事も出来、修羅の巷の描写に爲樂の相を表はす事が出来る。そこが藝術する人間のよろこびである。・・・僕の大切にするそして大切にしてくれる友人は皆それがわかってゐると確信し安心して養生する。

 この度の安井仲治の写真作品展覧会は、私にとっては絵画の展覧会にきわめて近い写真展だった、というのが素朴な感想である。作品創作の問題意識や意欲、その実現のための作品制作の創意工夫において、そして作品の結果的な印象として、絵画とほとんど共通するようなアーティストであったことが理解できた。
私は、絵画の展覧会を観るのは好きで、かなり頻繁に鑑賞に出かけるが、写真展を観ることは少ない。今回もあまり期待せずに出かけたのだったが、とても印象の深い鑑賞となった。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(10)

5.不易と流行(上)
Photo_20240311054501  昭和12年(1937)日中戦争の開戦以降は、アマチュア写真家たちの活動も徐々に制限されていった。そうした状況下で、安井は戦時社会を生きた人々の姿を象徴的に捉えた作品を残した。それらは悲哀や緊張を感じさせるものがある一方で、どこかユーモアを感じさせるものもある。
 「犬」(昭和14年、1939)が展示されている。
 一匹の犬があばら家のような家の前で、所在なさげに、おだやかに佇んでいる。背景には乱雑にたくさんの掲示が貼り付けられている。まず目に入るのは、日本軍の九龍半島での戦況やドイツ軍のポーランド侵攻、イギリスや中国との険しい外交問題などの掲示板である。その一方で左側には、全国中等学校野球大会の速報らしき表示が掲げられている。人びとが学生球児たちの熱戦に熱中する一方で、世界では戦況が深刻化している状況が、静かなトーンで伝わる。
 「馬と少女」(昭和15年、1940)が展示されている。
 この作品は、今回の展示会のポスターに採用されたものである。
Photo_20240311054502  昭和15年(1940)ころ、安井は子供たちを連れて山根曲馬団というサーカス興行の公演をなんどか訪れた。ネガからは、丹平写真俱楽部のメンバーも同行したことがわかる。ただこれらの写真の生前の発表歴は未詳らしい。5点のヴィンテージプリント(撮影者自身による焼き付けプリント)と35ミリネガが現存し、ネガアルバムには「山根曲馬団」と名前がつけられている。安井の視線を記録したフィルム5本分におよぶネガの内容が後年知られるようになり、その新鮮さと充実が安井仲治の再評価のひとつの要因となったという。
 この時期には集団による撮影の実践も行われており、丹平写真倶楽部の有志とともに「奉仕」として取り組んだ「白衣勇士」や、神戸でナチスドイツによる迫害から逃れてきたユダヤ人たちをとらえた「流氓ユダヤ」などがある。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(9)

4.夢幻と不条理の沃野(下)
 「夕」(昭和13年、1938)が展示されている。Photo_20240310060101
 昭和12年(1937)の盧溝橋事件の後は、社会の緊張感が高まり、国防のための「撮影禁止区域」が設けられるなど風景写真にも制限が課されたりした。そのころの雰囲気を暗示する作品のひとつである。
 「物さびた秋の夕日が、四角な建物へ最後の光を投げてゐます。姉らしいのが妹に何か話しながら世話をしてやつてゐます。早く帰らないとお母さんが心配しますよ。
 写友T君が応召しました。戦地への出発の前の最後の面会日を知らしてもらったので出掛けました。其帰途こんな風景へ通りかかりました。建物と子供の関係等に心惹かれて撮りましたが、少し寂しい写真ができました。(『カメラクラブ』1939年1月号)」
 ぶっきらぼうで単調な四角い建物の無機質な壁が、時代の閉塞感を表している。
 「地上」(昭和14年、1939)が展示されている。
撮影時のネガを見ると、この作品は兵庫県西宮市で行われたモデル撮影会の合間に取られたことが判明した。安井が視線を、ふと女性モデルから、すでに止んだ雨にぬかるんだ地面に落としたとき、その地面の光景を作品としたのであった。安井ならではの作品といえる。本人は次のように回顧している。
Photo_20240310060201  「浅い泥の下を這ったのは、多分蚯蚓だろう。複雑なファクター、緊張した、確実な、抑揚に富む、線と其隆起、明るい太陽のもと、地上の営みは美しい。(丹平写真俱楽部『寫眞画集 光』1940年6月)」
 「半静物」にはじまる独自のシュルレアリスムを創始した安井は、何を表現しようとしたのか、その答えを示唆するものとして、『アサヒカメラ』1938年夏の特別号に寄せた次の文章がある。
 そしてこの科学的な精細な描写の効果(新即物主義がもたらした写真表現を指す)は、写される物のコントラストの飛躍、相反した性質と思はるゝ物たちの形而上の融合の発見及び此バイスバーサ、物体の中に潜む驚異の剔抉(てっけつ: 何かをえぐり出すことやあばき出すこと)、存在する事自体の秘密の嗅ぎ付け、等等・・・、非常に詩的な、悠けき美しさを表現し得ると思ひます。
 写真のみが達成し得る精緻な写実を、いわば逆用することで「物体の中に潜む驚異」「存在する事自体の秘密」、詩情と美しさを具備した驚異の世界が現出することを安井は理解していた。多彩な解釈可能性を孕んだ豊沃な写真が生まれることを彼は望んでいた。
 安井のシュルレアリスムを援用した実践においては、実はフォトモンタージュはほとんど使われず、その不条理かつ夢幻的なイメージのほとんどは、その平凡な何でもない風景の中に発見されている。まっさらな眼で世界をとらえ直し、そこに新鮮な驚きをもって対峙した安井の感嘆と喜びが、彼の作品から伝わってくるのである。
 器械で写した画面が勝手に画かれたものにもまさって夢を持つ・・・現実そのものの幻想・・・
 これが可能であると思うだけでも面白いのもならず、実際着々実験されつつある事柄だから愉快です。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(8)

4.夢幻と不条理の沃野(上)
Photo_20240309062101  安井は、シュルレアリスムに影響を受けた作品も制作していた。1930年代半ばになると「新興写真」は退潮し、写真表現はまた新たな展開を迎えていた。その中でシュルレアリスムの理論を積極的に取り入れた写真は「前衛」と形容され、報道写真とともに際立った存在感をみせた。安井も、これらの前衛写真の運動を牽引したひとりであった。
 既述の安井の「半静物」の取り組みも、写真だからこそ達成できる現実世界の精緻な再現によって、シュルレアリスムの手法たるデペイズマン(異化作用)に通じる非現実的な詩情と美しさを備えた世界を生み出すことを目指すものとして展開していった。学校教材の標本や模型などをモチーフとする作品や、モデルの撮影会での偶発的な作品、海や湖を舞台にした作品など、被写体そのものはありふれていても、それらが置かれた状況の中に不条理かつ夢幻的なイメージを見出して表現したのである。
Photo_20240309062201  「構成 振り子」(昭和13年、1938)が展示されている。
 昭和13年(1938)春、大阪市の北野中学校で丹平写真倶楽部の会員による撮影会が開催された。この撮影会では教材用の模型や標本、実験器具などを素材として、シュルレアリスティックな世界をいかにして生み出すかが競われたのであった。この作品も、そのひとつであった。
 この他、動物の骨格標本を用いたもの、「蝶(二)」のような蝶や蛾の標本と鉱物の標本、あるいはイソギンチャクの模型と組み合わせたものなど、多彩な前衛写真作品が制作された。関西の「前衛写真」の先進性を全国に印象づける機会となり、『フォトタイムス』1938年9月号の特集記事「前衛写真座談会」で議論の的となった。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(7)

3.静物のある風景(下)
Photo_20240308061001  「秩序」(昭和10年、1935)が展示されている。この作品にかんして安井は「美しきもの」は実に随所にある。誰かが良き眼でそれを摘出してくれれば、吾々人間に感ぜられる美の範囲がそれだけ拡張されるのだ、と思ってゐましたから、自分の写真もまたそんな積りで撮ったので、材料は棄てられたトタン板の切れっぱしですが、それが自ずからなる或秩序を成して陽光の下にあったのに刺激されたのです。私はこんな場合に材料に手を触れて配列しなおす場合もありますが、自分が小さい智恵で細工出来ぬ姿に出くわした時は、其儘率直にこれを撮ります。この写真は後者です。(『アサヒカメラ』1938年5月号)」との言葉を残している。
 「海浜」(昭和11年、1936)が展示されている。Photo_20240308061101
これは愛知県知多半島にある野間埼灯台を撮った作品である。空を背景として開放的な風景を撮っているのだが、斜めに傾いだ灯台と、草むらの上に放置された藤製の籠、そしてシルエットのみの人物が、そこはかとない儚さを暗示し、崩壊の兆しさえ感じさせる画面である。この作品は、浪漫写真倶楽部の浪展において、話題を呼び模倣作品が続出したという。
 安井は「兎に角、感じる事だ、光を見る事だ。(「新しい風景写真」)『カメラアート』1937年1月号」、あるいは「一体に良き作品を得たいがために手段を持つと云うよりも、ここでは手段を媒体とし、利器として自然に交友を求め、その結果自づから作品が生まれると云った方が楽しみが深く、万一作品が出来なくとも、そんな気持ちで風景の中に居ることがどんなに嬉しいことでしょう。(『風景撮影の実際(写真実技講座5)』玄光社、1938年)」との言葉を残している。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(6)

3.静物のある風景(上)
Photo_20240307060901  1930年代は、日本の写真史における一つのピークであるとされる。それは安井仲治にとっても、さまざまな手法やスタイルが試みられ、代表作の数々が生まれた充実した時代であった。
 新興写真やシュルレアリスムといった特定のジャンルや傾向には区分しがたい作品も制作された。
 自邸の窓ガラスに止まった蛾を写した「蛾」(昭和9年、1934)が展示されている。1930年代に、安井は4人の子供たちを授かる一方で、弟と妹を、さらに次男を相次いで亡くしている。こうした私生活における出来事がカメラを小さな生き物たちへと向けさせたのかも知れない。
 昭和7年(1932)安井は「半静物」の語をもって、撮影場所で静物を即興的に組み合わせて現実と超現実との混合、あるいは合成を現出させる方法を語っている。この独自の手法はその後の安井の実践において重要なものとなっていった。
 「斧と鎌」(昭和6年、1931)が展示されている。Photo_20240307060902
 この作品は、その「半静物」なる新たな取り組みを予告する作品と考えられている。たまたまその場にあった道具を何気なく動かしているうちに、ふと興が乗って撮影したという。こうして、ものとものとを人為的に組み合わせる、あるいは秩序ならざる秩序を連想させる「もの」を見つけ出して撮影することで、シュルレアリスムの手法デペイズマン(Dépaysement、異化作用)に通じる効果をもつ作品を生み出すようになった。この独自の方法は、後の本格的なシュルレアリスムの受容へと発展していった。
安井の「結局アマチュアの楽しみでやっているので、新鮮な魅力を感ずるときは飛び込むのも必要だろう。(『アサヒカメラ』1934年2月号)」、「要するに、僕はこんな美しいものを見たよ、と報告すればいいのである(「振興写真に就いて」『アサヒカメラ』1934年9月号)」という言葉も残されている。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(5)

2.都市への眼差し(下)
 Photo_20240305054001 「凝視」(昭和6年、1931)がある。
 この作品のオリジナルプリントは戦災で失われたが、2010年「安井仲治ポートフォリオ」の制作に際しての考証で、多重露光に使われた3枚のネガが同定された。3枚のネガそれぞれの部分を取り出して、それを使って合計4回露光されたと考えられた。ネガの2枚は反転して使用され、1枚は2回露光されたと考えられる。今回の再現プリントは、オリジナルネガを接写してディジタル化し、計4枚の画像をトリミングして重ね合わせ、1枚の画像を合成し、それをネガとして出力した後、ゼラチン・シルバープリントでプリントしている。
 写真を用いた近代美術のひとつの例である。
 安井は、昭和6年(1931)5月1日、大阪で開催されたメーデーを撮影した。中之島公園に集まり、旗を翻し、歌声を響かせて行進するデモ隊が、警官隊と衝突するまでを追っている。
 「メーデーの写真」(昭和6年、1931)が展示されている。Photo_20240305054002
 デモ隊を追って大阪の街を移動しながら撮った写真である。安井は「報道写真であるが、斯う云うものは特に気合ひが出なくては駄目だ。形ぐらゐ少々悪く共掴むべき時に掴むで置く必要がある。水平線の傾斜も応用した。動くものをその最良の瞬間にキャッチする事は実に愉快だが、MUNKACSI(独乙)の如きは実に此名手である。(『アサヒカメラ』1934年9月号)」と言っている。なおここで触れているムンカーチ(MUNKACSI)とは、『フォトグラフィ』に掲載されているオートバイのダイナミックな写真作品の写真家を指すと考えられている。
 このとき約40枚にのぼるネガを残している。ブレの効果を活かしたもの、画像を反転し大胆なトリミングで画面から不要な要素を除外したもの、複数のイメージを合成したもの、など多様な作品を発表した。カメラアングル、シャッターチャンスなども含めて、精密な戦略にもとづく撮影であることがわかる。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(4)

2.都市への眼差し(上)
Photo_20240304060401  昭和6年(1931)ドイツからもたらされた写真作品を展示する「独逸国際移動写真展」が東京・大阪を巡回した。これは当時の日本の写真界に大きな衝撃を与えた。この後、日本、とりわけ関西の写真界では、それまでの「芸術写真」からいわゆる「新興写真」と呼ばれるものに表現の主潮が移行して行った。こうして1920年代末から1930年代前半ころは、日本でモダニズム写真が隆盛した。他の同時代の写真家と同様に、安井も新興写真の開花に多大な影響を受け、新技法を取り入れた実験的作品に取り組んでいく。
 そのはじめのころの作品として「草」(昭和4年、1929)がある。
 これは印画の技術としては通常のゼラチン・シルバープリントだが、撮影がそれまでの方法から転換して、意図的に逆光で、対象たる花のシルエットのみを強調する作品である。草花の美を表わす方法として、写真がモノクロームであることを最大限活用したような表現に成功している。新興写真を単純に模倣するのではなく、作画のための一手段として消化し、安井は独自の写真表現を追求していった。Photo_20240304060501
 「平野町」(昭和4年、1929)がある。
 安井は、すでに時代遅れとなりつつあったブロムオイル印画への強い拘りも見せ、この作品は記述のブロムオイル法によるものである。
 このころの大阪は、近代的な建物が相次いで建てられ、街の都市化とそれにともなう景観の変化が急激であった。新しいビルの増加、高い電柱の間を走る電線など、当時の最先端の景観であったのだろう。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(3)

1.写真家安井仲治の誕生(下)
 「眺める人びと」(大正14年、1925)がある。これも、上の「農夫喫煙」と同じ技術による印画である。Photo_20240303061601
 猿回しを眺める観客のみを切り取った写真である。
 安井は、猿の演芸そのものよりも、周りを囲む観客の表情に関心を向けている。猿回しの旅芸人とそれを観る人たちの社会的立場の違いに注目して、眼差しの力学を、画面を通じて表現しようとしている。状況を俯瞰してとらえる安井の姿勢は、当時高く評価されたという。安井の初期の代表作となっている。
 安井は「見る者と見られる者、その間には何の関係もないようで、しかし又、目に見えぬ何か大きな糸ででも結ばれているように思われます」(『写真界』1925年7月号)と言っている。これらの作品は、穏当な「芸術写真」の枠組みを拡張するものとして注目を集めた。
Photo_20240303061701  「静物」(昭和2年、1927)がある。
 この作品も上記と同様な技術によって制作されたもので、写真ながらもまるで本物の絵画であるかのような落ち着きと重厚さを醸し出す、まさに「静物画」となっている。
安井は20代前半にして同倶楽部の指導的立場となり、昭和2年(1927)の秋には、倶楽部の実力者とともに銀鈴社を結成し、精力的に制作し発表した。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(2)

1.写真家安井仲治の誕生(上
Photo_20240302073601  安井仲治は、高校卒業後は家業の安井洋紙店に勤務しながら写真を続け、10代末に関西の名門アマチュア写真団体である浪華写真倶楽部に入会を果たした。そのころ芸術表現としての写真を追求する「芸術写真」の機運が高まっていた。「芸術写真」の実相はきわめて多様だが、その多くが情緒ある「絵画的」な写真表現を志向するもので、顔料でイメージを形作るピグメント印画法がしばしば用いられていた。
 「西大阪所見」(大正2年、1923)がある。
 大阪の北港近辺かと思うが、当時の産業を支える港湾の風景である。ブロムオイル法(後述)という印画作成方法により、モノクロームではあるが絵画のような質感から、画面に自然な奥行き・立体感を出している。安井は、産業的発展が進みつつあり都市文化が展開してきた時代に写真活動をはじめ、都市が近代化してゆく風景にカメラを向けている。Photo_20240302073701
 「農夫喫煙」(昭和2年、1927)がある。
これは銀鈴社の第1回展覧会のポスターに採用された作品である。
印画の技術としては「ブロムオイル法」と呼ばれるもので、通常のゼラチン・シルバープリントの上からオイルメディウムと油絵具を塗布した技法による作品である。農夫の頭から肩のがっしりしたなだらかな曲線と、逞しい腕が造る直線、それらの筋肉の隆起で身体表現を構成している。まさに絵画と同じような表現をめざしていることがわかる。

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安井仲治写真展 兵庫県立美術館(1)

 安井仲治(やすい なかじ 明治36年1903-昭和17年1942)は大正期から先の大戦まで、大正ロマンから戦争にいたる激動の時代に、徹底して写真の技法と可能性を追求し、忘れがたいイメージの数々を印画紙に焼き付けた写真家だという。生誕120年を機に、その全貌を改めて広く紹介するとして、この展覧会が行われた。
Photo_20240301054701  私にとって、安井の写真は「流氓ユダヤ」のみが記憶に残っているだけで、その全貌は知らなかったので、私には興味深い鑑賞となった。
 現在の大阪市中央区に富裕な安井洋紙店の子として生まれた安井は、高校生時代に親から与えられたカメラに魅せられ、10代にして同好の士が集う関西の名門浪華写真倶楽部の会員となり、まもなく日本全国にその名を知られる写真家となった。印画紙への焼き付けに技法を駆使した「ピグメント印画」という絵画的な作品や、1930年前後の日本で流行した新興写真と呼ばれる絵画とは異なる写真ならではの画面を志向する作品など、時代の潮流に敏感に反応しながら、カメラを介して積極的に世界と向きあう芸術としての写真を追求し続けた。しかしその途中、病により38歳の若さで亡くなった。

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