20世紀の大きな芸術運動であった「シュルレアリスム」は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に、フランスで起こった文学・芸術運動である。文学者・詩人であるアンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して運動が本格的に始まった。ブルトンはシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとするものであり、理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた思考の書き取りである」と定義した。ブルトンが医学生のころ、フロイトの精神分析における夢の世界と現実の世界、睡眠状態と覚醒状態の関係に関心を抱いたのがきっかけであった。フロイトの精神分析とマルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求と表出によって人間の全体性の回復を目指す運動であった。
今年2014年は、この『シュルレアリスム宣言』から100周年にあたり、これを記念して主にシュルレアリスムの影響を受けた日本の絵画作品を通して、多様なイメージの展開と、彼らが生きた時代を振り返るものである。
1.先駆者たち
日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、大正14年(1925)にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が、はじめて紹介したといわれる。西脇順三郎は、何度もノーベル文学賞候補にノミネートされたわが国の碩学だが、文学・語学のみならず絵画にも深く精通した学者であった。明確な形で残っているのは、昭和2年(1927)に創刊された詩誌『薔薇魔術学説』と、西脇を中心とする慶應大学の文学サークルに集まった瀧口修造らが出版した詩誌『馥郁タル火夫ヨ』である。
絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、昭和3年(1928)3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号であった。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。また、雑誌「美術新論」1928年5月号において、仲田定之助が「超現実主義の画家」と題した記事を書いており、これはフランスで起こったシュルレアリスムの絵画運動を日本で初めて紹介した記事であった。
わが国最初期のシュルレアリスム絵画のひとつとして、阿部金剛「Rien No.1」(昭和4年1929)が展示されている。
阿部金剛(あべこんごう、明治33年1900~昭和43年1968)は、岩手県盛岡市に内務省官僚や東京府知事を歴任した阿部浩の子として生まれた。東京府立第一中学校から慶應義塾大学文学部予科に進み、在学中から岡田三郎助に師事した。大学中退の後、1926年に渡仏した。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催、同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動をした。シュルレアリスム的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。
作家・評論家として高名であった三宅艶子との1930年の結婚は、当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸である。
福沢一郎「他人の恋」(1930年)がある。
福沢一郎(ふくざわいちろう、明治31年1898~平成4年1992)は、群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に、後の富岡町長の子として生まれた。第二高等学校英法科を経て、大正7年(1918)東京帝国大学文学部に入学した。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門して彫刻家を志した。大正11年(1922)第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選した。大正12年(1923)の関東大震災を機に渡欧を決意し、翌1924年から1931年までパリに遊学した。おりしも1924年はアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を著した年であり、ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストなど、最先端の美術潮流の影響を受けて創作活動を彫刻から絵画制作へと転換した。
昭和5年(1930)には、帰国に先立って、福澤一郎等とともに独立美術協会の結成に参加し、翌年1月第1回独立美術協会展に滞欧作品が特別陳列され、日本の美術界に衝撃を与えた。その作品が今回の展示作品「他人の恋」(昭和5年1930)である。
以後も旺盛な創作活動と執筆によりシュルレアリスムの紹介に努め、前衛の主導的立場となった。
他にも、シュルレアリスムに草創期から参加した、古賀春江、東郷青児、前田藤四郎などの作品が展示されている。
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