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2024年4月

「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(14)

5.新たな時代を拓く女性たち
三笠成雅
 三笠成雅(みかさせいが、生没年未詳)は、島成園に師事して女性画を描いた。書画家番付にも登場し、昭和10年(1935)福本五嶺が日本美術通信社から発行した「日本現代画家一覧表」の「各地閨秀作家」の欄に名前が掲載されている。Photo_20240430055701
 「王朝美人」(大正-昭和時代)が展示されている。
 タイトルが王朝美人などの場合は、古のなんらかの故実をモチーフとする場合が多い。この絵では歌合で盗作の罪を着せられようとした「草紙洗小町」の逸話がモチーフなのだろう。「草紙洗小町」というのは、
 都の清涼殿で歌合が催されることになり、大伴黒主の相手は小野小町と定められた。黒主は実力では小町に敵わないと思い、歌合の前日、小町の屋敷に忍び込み、小町が歌合のために詠んだ歌を聞き取った。そして小町の詠歌を万葉集の草紙に書き加え、小町の盗作を演出しようとした。翌日の歌会では、帝以下の歌人が居並ぶなかで、小町の歌が披露され、帝が小町の歌を讃えた。そこへ黒主は、小町が万葉の古歌を盗作したと主張し、証拠として書き込みをした万葉の草紙を提示した。汚名を着せられた小町は、草紙にしっかり目を通し不自然な点を見つけた。そこで小町は草子を洗わせてほしいと願い出て、草紙を洗うと、書き入れられた歌だけが流れ落ち、黒主の悪企みが露見したのであった。
というものである。
 水を入れた角盥で紙を洗う平安風俗の女性が描かれている。また、画面上部には蓮池が描かれている。当時は故人が生前に書いた手紙などを漉き直して、その上に写経して供養する風習があった。この絵では、故人が記した文を洗い、魂が救われて極楽浄土へ行けるように、と願う女性の姿なのかも知れない。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(13)

5.新たな時代を拓く女性たちPhoto_20240429060101
金澤成峰
 金澤成峰(かなざわせいほう、生没年未詳)は、島成園に師事し、成峰の号で活動した。大正12年(1923)第9回大阪美術展覧会に「子供」を出品し、ついで第2回自由画壇展などに出品した。
 「哀しみ」(大正後期)は、婚約者を戦争で失ったばかりの花嫁の姿なのだろうか。白無垢のような振袖に格式の高い丸帯をつけた女性が佇む。髪型は婚礼のようだが激しく乱れ、ひどくほつれている。髪の元結は白黒で婚礼向きではない。笄(こうがい)を差すべき髪の部位には折れた矢が差されていて、戦で敗れたことを暗喩しているのだろうか。必死に耐えて目を閉じて口を結び、霊魂を抱えるかのように両腕を差し出している。絶望的な哀しみが伝わる絵である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(12)

5.新たな時代を拓く女性たち
平山成翠Photo_20240428064401
 平山成翠(ひらやませいすい、生没年未詳)は、福岡市に生まれた。東京の日本女子大学校に在学中に、上野公園内の文展会場で島成園「宗右衛門町の夕」を観て感動し、卒業を待たずに大阪に来て、島之内の成園宅前に移り住んで、成園から日本画を学んだという。
 大正4年(1915)第1回大阪美術展覧会に「淀の川瀬」が入選した。現在確認されている作品は少ないが、少女や可憐な女性を描くのを得意としていた。
 「子守」(大正時代)が展示されている。
 季節はハモクレンの花咲く春、黒地に絣風のぼかし柄の着物を着て、華やかな花鳥柄の前掛けをして、頭には赤いリボンを着けた少女が、幼女を背負いながら後ろに傘を抱えている。少女の背中には、白いエプロンを着けた幼女が手を広げ、小さな口を丸くしている。少女の眼は、子守すべき幼女には目もくれず、なにか前方に視線を向けている。現代の少女漫画の一コマのような不思議な感じの絵である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(11)

5.新たな時代を拓く女性たちPhoto_20240427225201
伊東成錦
 伊東成錦(いとうせいきん、明治30年1897~没年未詳)は、高知県の生まれである。大正3年(1914)島成園の名声を頼って大阪に出て内弟子となった。島成園に人物画を学びながらも、独自の画風を持つ。大正9年(1920)第2回帝展に「目を病む人びと」で入選を果たした。
 伊東成錦「扇売り」(大正後期)、江戸時代中期まで続いていたという扇売りという夏の風物詩を描く。扇売りとは、扇型の地紙を売り歩き、注文があるとその場で紙を折って扇を作り売りさばく商人のことである。浮世絵では扇売りは若い色男として描かれることが多いという。この作品では、商家の2階にいる若い女性が扇売りを呼び止めて、両者の視線が合った瞬間を描く。これから地紙を選んで親密なひとときを過ごすのだろう。縦長の画面を効果的に用いて、この古い風俗の風情を巧妙に表現している。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(10)

5.新たな時代を拓く女性たち
Photo_20240423055001  大正から昭和初期にかけて、女性画家の絵、とくに美人画は、雑誌の表紙や口絵・挿絵として普及し好評を得て、女性画家の知名度は全国的になっていった。島成園の画塾には、関西のみならず東京や高知など遠方からも入門者があり、「成」の字を雅号に授かって制作する多数の弟子が輩出した。ここからは、秋田成香と伊東成錦が帝展入選を果たした。
 木谷千種の画塾「八千草会」からも、50名以上の後進を輩出した。弟子の多くが雅号に「千」の字を授かり、原田千里と狩野千彩(かのうちあや)が帝展に入選した。八千草会は、絵の技術のみならず美学や歴史なども教授した。
 大阪画壇を代表するひとり北野恒富の画塾「白耀社」には、多数の女性画家が所属した。「白耀社の雪月花星」と謳われた星加雪乃、別所月乃、橋本花乃、四夷星乃は、いずれも帝展に入選した。当時の伝統的な画塾では男女別学であったが、白耀社は男女共学でリベラルな雰囲気もあり人気が高かった。その他には、京都の竹内栖鳳や上村松園、菊池契月、土田麦僊などの画塾に学んだ女性たちもいた。
 当時の女性画家の多くは、活動期間が短く、生没年や本名などの基本情報が不詳なことも多いけれども、この展覧会で紹介された女性画家たちは、社会的な制約のあるなかで確かな足跡を残していた。

(1)島成園門下の女性画家たち
秋田成香
 秋田成香(あきたせいこう、明治33年1900~没年未詳)は、島成園と同じ堺市に生まれ、島成園に師事した。やわらかい筆致で子供の世界を描くことを得意とした。大正9年(1920)第2回帝展に「髪洗う子」で入選を果たした。
 秋田成香「ある夜」(大正9年1920)は、そのころの作品である。真っ暗な闇のなかで、置き行燈の光の前にしゃがみ込む若い女性が描かれる。灯りに照らされて、白っぽい着物とうなじを含む女性の白い肌が美しく闇の中に浮かびあがる清楚な美人画である。この絵のモデルは、作者の成香自身である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(9)

4.生田花朝と郷土芸術
 生田花朝(いくたかちょう、明治22年1889~昭和53年1978)は、大阪市天王寺区に国学者の子として生まれた。現在はその地に生誕地の碑が建っているらしい。小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わり、成人ののち大正元年(1912)菅楯彦に師事して大和絵と有職故実を学んだ。大正10年(1921)北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。大正14年(1925)第6回帝展に出品した「春日」で初入選を果たした。翌昭和元年(1926)第7回帝展に出品した「浪花天神祭」が、帝展における女性画家による史上初の特選となって注目を集めた。この原作品は、今では行方不明だそうだが、とても人気の高い作品として多くのひとびとの記憶に残っていて、生田花朝は要望に応えて、元絵の簡略版のような作品を多数制作した。そのひとつが、今回展示されている「天神祭」である。Photo_20240422054401
 さらに翌昭和2年(1927)第8回の帝展に「四天王寺曼荼羅」を無鑑査で出品した。これ以降、昭和9年(1934)第15回帝展まで連続入選した。以後も先の大戦後の昭和後期まで、関西の女性画壇の代表格として活躍を続けた。
 この展覧会では、20点余りの作品が展示されている。私は、この中之島美術館での展覧会を中心に、これまでに観たことがある作品が多い。
 作風としては、伝統的な日本画とひとあじ違って、ある意味とても現代的な感覚で、平面的な描写や、軽い色彩、そして漫画に通じるような軽快で明るい表現が特徴である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(8)

3.伝統的絵画─南画・花鳥画
Photo_20240421061101  わが国では、近世以前から日本画以外に中国からの影響をベースとした中国趣味の南画の伝統があり、また装飾画として花鳥画があった。これらは日本画の世界と比べると関わる画家の人数は少なかったが業界の上下関係や約束事などがなく、自由で女性もアプローチしやすいという側面があった。
 この展覧会でも30点弱の作品が展示されている。
 跡見花蹊「猛虎の図」(明治-大正時代)は、女性画家が描いたとは想像できないほどに、勇壮で力強い描写が際立つ作品である。跡見花蹊(あとみかけい、天保11年1840~大正15年1926)は、摂津国(現在の大阪)に寺子屋の子として生まれ、幼少期から英才の誉れ高く、書、漢籍、南画を学んだ。大阪の父の私塾「跡見塾」を継承し、塾頭の英才の評判から、関西圏の良家から多数の若い女性を集め、教育した。明治になってから上京し、明治8年(1875)東京神田猿楽町に、日本初の女性の教育機関たる「跡見女学校」を開校した。これは現在の跡見学園のルーツとなった。学校での教育者のみならず、画家として著名な存在で、書家としても「跡見流」といわれる書風を築きあげた。
 川本月香「木蓮図」(大正7年1918)が展示されている。
 穏やかな絵だが、白と薄紫の木蓮の花は、堂々としっかり大きく開花している。きっぱり堂々と咲き誇る木蓮を、見事に美しく描きあげている。
 賛の書もとても丁寧に書かれ、丁寧な絵とともに、画家の誠実で几帳面な人柄が偲ばれるような作品である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(7)

2.女四人の会
松本華洋
 松本華洋(まつもとかよう、明治26年1893~没年不明)は、会計学の学者を父として東京に生まれた。生来の虚弱体質に加え、2歳のときに怪我で足の自由を失ったため、学齢に達しても学校には通えず、家庭教師を通じて一般教養を身につけた。
 17歳ごろ、京都の上村松園、大阪の島成園とともに「三都三園」として知られた東京在住の池田蕉園に入門し、「蕉蔭」を名乗って作品制作を開始した。Photo_20240420060201
 大正2年(1913)第13回巽画会展に『かへり路』を出展して入選し、画壇デビューを果たし、やがて「華羊」の画号を用い始めた。
 大正4年(1915)父が大阪へ転勤したのに伴い大阪に転居した。引き続き作品を制作・発表し、その年の第9回文部省美術展覧会(文展)では「青葉の笛」が入選した。
 そして大正5年(1916)「女四人の会」に参加したのであった。
 大正7年(1918)文展に出展した「殉教(伴天連お春)」は、この人の代表作とされる。 しかしこの作品は、落選した。
 これは「じゃがたらお春」の物語を題材とした作品であると、従来は考えられてきた。しかし近年ではこの絵を、岡本綺堂作の新歌舞伎『切支丹屋敷』に登場する、キリスト教信仰を捨てなかったために自らの恋人でもある刑吏に処刑されるヒロインたる遊女朝妻の、その死の直前の姿を描いたものではないか、とする説が有力視されている。
 この大正7年の第12回文展には、女性日本画家栗原玉葉が、同じ主題を扱う「朝妻桜」と題した作品を出品していたが、玉葉は『読売新聞』大正7年10月11日付に掲載されたインタビューで、自分と同じ題材を取り上げた大阪の画家がいるようだ、と語っている。一方、『時事新報』大正9年9月20日付夕刊は「栗原玉葉さんも(中略)信仰に悩める遊女を、また大阪の松本華羊さんも同じく『切支丹の女』を描く」と報じた。時期はやや下るが大正期の美術評論家・金井紫雲も、『婦人世界』誌の大正10年8月号に、第12回文展では栗原玉葉と松本華羊が同じ朝妻を描いたものの、栗原のみが入選した、という内容の文章を掲載していた。
 華洋は、大正11年(1922)ころ、大阪毎日新聞記者の和気律次郎と結婚し、武庫郡精道村(現在の芦屋市)に居住した。大正14年(1925)木谷千種、星野更園、三露千鈴らを会員とし、日本画家北野恒富、菊池契月らを顧問とする「向日会」結成に参加し、その後も大阪女流展などに作品を出品するなど制作を続けた。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(6)

2.女四人の会
木谷千種
 木谷千種(きたにちぐさ、明治28年1895~昭和22年1947)は、大阪市堂島に、唐物雑貨商吉岡政二郎の娘として生まれた。本姓は吉岡である。幼くして母を失った後、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学んだ。明治42年(1909)帰国し、大阪府立清水谷高等女学校在学中から深田直城(ふかだちょくじょう)に師事して花鳥画を学んだ。しかし火災のため堂島の自宅を焼失し、女学校卒業間際に東京に移住し、大正2年(1913)から2年ほど在京の日本画家池田蕉園に師事した。
 吉岡千種の名前で明治45年(1912)第6回文展に出品した「花譜」で初入選を果たした。Photo_20240419055801
 大正4年(1915)再び関西に戻り池田室町に住む叔父の吉岡重三郎のもとに寄寓した。この叔父は小林一三を助け、宝塚少女歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに尽力した人物で、千種はこういったモダンな環境のもとで、本格的な絵画活動を行うことができた。帰阪してからの千種は野田九浦と北野恒富の指導を仰いで美人画を学び、第1回大阪美術展覧会に「新居」を出品した。
 そして大正5年(1916)「女四人の会」を結成して展覧会を開催した。Photo_20240419055901
 大正4年(1915)の第9回文展入選作「針供養」に続いて、大正7年(1918)第12回文展入選作となったのが「をんごく」であった。当時、わらべ歌をうたって町内をまわり、幼児に聞かせてやるという慣習が残っていて、木谷千種は3歳で夭逝した弟を思い出してこの作品を描いたという。
 こうした相次いでの活躍により注目を集め、後に文展無鑑査決定を得ることとなった。やがて京都に居を移し、竹内栖鳳の紹介により菊池契月の門を叩いた。千種は同門の梶原緋佐子、和気春光とともに「契月塾の三閨秀」と呼称された。
 大正9年(1920)近松門左衛門研究家の木谷蓬吟と結婚してからは再び帰阪し、美人画だけでなく文楽や歌舞伎を題材とした作品も多く手掛けるようになり、主として女性を題材とした作品の発表を重ねて文展、帝展併せて通算12回の入選を果たした。
 昭和2年(1927)の作品「化粧(不老の願ひ)」が展示されている。これは木谷千種が、同じ女として淀君を見て、淀君の飽くなき美貌への執着と不老への願望を想像して描いたものだという。とくに淀君の異様とも思える眼の表現が衝撃的でさえある。
また、夫蓬吟の著作「解説註釈大近松全集」の装丁や蓬吟が発行・編集を務めた郷土趣味雑誌『大阪人』の表紙絵を描くなどして夫を支えた。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(5)

2.女四人の会
岡本更園
Photo_20240418064201  大正5年(1916)5月、成園はかねてから親交のあった同年代の女性日本画家たる木谷千種、岡本更園、松本華羊と「女四人の会」を結成し、第一回展覧会を大阪で開催した。テーマとしては、井原西鶴の『好色一代女』に取材した絵画作品を、他の三人とともに分担して出品した。
 妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼ぶ一方で、身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材として、若い女性画家が絵画を描き、それらを発表する、ということが、識者たちからは生意気な挑発的行動と受け取られた。「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(『中央美術』大正5年6月)と揶揄された。またこのころから、女流画家たちに対して、北野恒富、谷崎潤一郎の弟谷崎精二、人気力士大錦卯一郎らとの恋愛ゴシップを書き立てられるようになり、有名人としての苦悩も味わうことになった。Photo_20240418064301
 岡本更園(おかもとこうえん、明治28年1895~没年不明)は、 兵庫県に生まれ、当初は義兄の岡本大更の更彩画塾で日本画を学び、女性日本画家として島成園や生田花朝らと親交を深めた。美人画を得意とし、新聞や雑誌の挿絵も手掛けた。
 20歳前半にして文展に入選した才能の持ち主で、19歳のときに描いたとされるのが「秋の歌」(大正2年1913)である。この絵は、当時の人気歌手であった松井須磨子を描いたものとされていたが、自分の姿を鏡で見て描いたものらしい。
島成園らと結成した「女四人の会」の第一回展覧会では、井原西鶴の『好色五人女』を題材として、「西鶴のお夏」を担当した。お夏の相手である同性愛者のおまんは、島成園が担当し「西鶴のおまん」を出展した。
 大正14年(1925)北野恒富、菊池契月らを顧問にして、木谷千種、三露千鈴らを会員に「向日会」を発足した。以後も大阪から文展に入選を果たしていった。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(4)

1.先駆者 島成園(4)
Photo_20240417055701  ただそのころの作品でも、「桜花美人」(大正12年1923ころ)は、今日まで人気の高い美しい作品である。
 ここでも、描かれた美人の華やかさとともに、首を傾げて腕を組む女性の表情は、なにか思案か悩みを抱えているようでもあり、まもなく儚く散り去る桜は無常観をあらわしているかのようにも思える。
 結婚のこうした一方では、夫豊次郎が同年に上海に転勤し、成園自身もその後数年間にわたって同地と大阪を往復する生活のなかから、「上海にて」「上海娘」「燈籠祭の夜」などといった、中国の風俗に取材した異色作が生まれた。
そして昭和2年(1927)第10回帝展に「囃子」が入選した。これは彼女の中央の展覧会での最後の入選となった。
 昭和に入って以降は、夫の度重なる転勤に同行して小樽、中国・大連、同じく芝罘、横浜、松本、岡谷と転居を繰り返し、自らの芸術の故郷と考えていた大阪から離れたことによる創作意欲の減退、さらに体調不良などにより、作品はほとんど生み出されなくなったという。Photo_20240417055801
 こうして島成園の画業を振り返ると、女性の自発的あるいは能動的、積極的な創作活動が期待もされず、機会も与えられないなかで、この画家は苦悩しつつも多様な挑戦を成し遂げ、成果も上げた偉大な芸術家・クリエーターであったことがわかる。大阪の草創期の女流画家のリーダーにふさわしい画家であったといえよう。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(3)

1.先駆者 島成園(3)
Photo_20240416055001  成園のこうした傾向は、大正9年(1920)第2回帝国美術院展覧会(帝展)に出品して入選した「伽羅の薫」で一層深められた。
 成園の母がモデルをつとめたこの作品では、老齢に差し掛かった着飾った遊女を、上下に長くデフォルメしたグロテスクな造形で描き、肉体美に執着する女性の業を表現したとされ、今日なお彼女の代表作とされている。石川宰一郎に「美に陶酔せる一種の強き情味を発揚した力作だ。閨秀画家としてあすこまで突つ込んだのは異とすべし(『新公論』大正9年11月)」と賞賛された一方で、石井柏亭には「明らかに邪道に入って居る。衣裳の赤と黒の毒々しさ。妖艶と陰惨とを兼ねたやうなものを現はさうとしたのかも知れぬが、画の表われは極めて下品な厭味なもの(『中央美術』大正9年11月)」と批判された。
 この年大正9年(1920)11月、成園は銀行員森本豊次郎と結納を交わし、同居生活に入った。しかしこれは本人の十分な合意を得ないままに強行されたらしく、それによってもたらされた生活環境の変化は、彼女の創作活動に大きな影響を及ぼした。
 大正12年(1923)に開いた結婚後初となる個展で発表した新作「春怨」「女歌舞伎」「春之夜」などは「精魂の抜け足許も定かならぬ有様(中略)技巧は練達していても(中略)女史の個性は見当たらない。唯の綺麗さ、手際の良さ、職工的な熟練さが認められるのみである(『大阪日日』大正12年4月10日)」とこれまでにない酷評を浴びた。Photo_20240416055101
 「自画像」大正13年(1924)は、32歳のときの自画像である。重ね着して、目の周りには隈があり、まるで病床にふせっているかのようなやつれた姿が過剰なまでに演出されている。背景の大きな羽子板に描かれた、舞台衣装した役者の顔立ちも成園自身によく似ているようにも思える。役者の右手が突き出て、成園を殴ろうとするのか、あるいは喝を入れようとするのか。自分を美化するどころか、突き放して、不幸な女として描いている。結婚生活で制作上のスランプに陥った情けなさを表現しているのだろうか。西洋絵画では、自分自身の自画像で自らの内面を描くことはあったが、日本画というジャンルでは、元来馴染みのない画題であった。ようやく成園などが先駆けとなって、日本画においても、ひとりの個人として自分を見つめて表現する自画像が普及していったのであった。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(2)

1.先駆者 島成園(2)
Photo_20240415055801  大正5年(1916)には、後述のようにかねてから親交のあった同年代の女性日本画家3人とともに「女四人の会」を編成し、第一回展を大阪で開催して、大阪の女性画家の存在をアピールした。しかし、これら女性画家の積極的行動と、その前年の第9回文展で女流画家が多く入選し、また急に多くの美人画が出品されたことに対する画壇の反発・反動があったのか、大正5年(1916)の文展では「燈籠流し」という鏑木清方も絶賛した自信作が落選するという、美人画受難の年となった。
 このころ大正6年(1917)の作品として「おんな(旧題:黒髪の誇り)」がある。
乳房もあらわに上半身をはだけた女性が、ただならぬ眼差しで髪を梳っている。着物には、女の情念を暗示するかのような般若が描きこまれ、官能的でかつ不穏な印象を与えるインパクトの強い作品である。当時は、裸体画に厳しい批判がよせられる時代であり、父の助言を容れて、当初よりも性的な印象を弱めた作品として仕上げたというが、その年の第4回院展では落選した。
 その翌年の作品に「無題」(大正7年1918)がある。
Photo_20240415055901  「おんな」と同様に「無題」もまた、感覚的な洗練を追求するそれまでの「美人画」から一歩抜け出し、成園自身ともされる画中の女性の顔に痣を描きこむことによって、その内面をも表現しようとした意欲作であった。しかし「何故ソレに適合した画題を付けない、無題などとは卑怯千万(『大正日日』大正7年6月12日)」と非難され、別の展覧会では「画室の女」という題を勝手に付けて展示されたこともあり、物議を醸した。北野恒富、金森観陽、水田竹圃らとともに、成園も会員として加わった「大阪茶話会」が大正7年(1918)に発足したが、その設立の趣意に「絵画は自己の精神の内にどんなものがあるかを示すことによって、他人の精神に自己の知己を見出すものである」と謳っていた。この「無題」は、同年6月に開かれた同会の「第1回試作展」に出品されたものであった。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(1)

 明治時代後期から昭和にかけて、大阪では多くの女性日本画家が活躍した。大正元年(1912)に島成園(しま・せいえん)が20歳で文展に入選すると、その成功に触発された木谷千種(きたに・ちぐさ)や生田花朝(いくた・かちょう)などが官展に入選を重ねた。また、美人画や歴史風俗画にとどまらず、江戸時代から大阪に興隆していた南画(文人画)の分野においても、女性画家たちが実力を発揮していた。成功を収めた女性画家は、自らの画業の追求にとどまらず、後進の女性を育成する画塾を開いた。門下生たちも公募展や塾展に挑み、大阪の女性画家の裾野はさらに拡大した。当時の美術界は、東京と京都がその中枢を担い、制作者は男性が大多数を占めていたが、女性日本画家の活躍において大阪は決して遅れを取らず、その存在は近代大阪の文化における大きな特色のひとつであった。
 今回は、昨年の美人画コレクター福富太郎の個性的なコレクション展に続き、2006年の「島成園と浪華の女性画家」展以来の調査研究に近年の新たな成果を加えて、全国的にも注目を集めた50名を超える近代大阪の女性日本画家の活動を約180点の作品と関連資料によって展覧会を構成したものである。

1.先駆者 島成園(1)
Photo_20240414054501  島成園(しませいえん、明治25年1892~昭和45年1970)は、襖などに絵を描く画工で日本画家でもあった島栄吉の長女として、大阪府堺市に生まれた。幼少期は母の実家である遊廓街の茶屋でしばしば日常を過ごしていた。明治37年(1904)堺女子高等小学校を卒業した後に、北野恒富、野田九浦に師事した。この翌年に一家で大阪市南区に転居したが、ここも大阪の「ミナミ」に近い場所であり、引き続き花柳界の習俗に親しむ機会が多かった。
 15歳ごろから父や兄の仕事に興味をもち、見よう見まねで絵を独習し「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品した。さらに北野恒富、野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を独自に学んだ。
 大正元年(1912)ころ、第12回巽画会展では「見真似」が、ついで第6回文部省美術展覧会(文展)では「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選して、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たすことになった。東京・京都が中心であった当時の日本画壇において、大阪からの若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されるようになった。各方面から多くの制作依頼が寄せられ、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。大正2年(1913)にも「祭りのよそおい」で文展に入選し、朝香宮允子内親王など皇族からも制作依頼が寄せられ、高い社会的知名度を得た。

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人間とAIについて

 一昨年末ころ以来、世界的に「生成AI」「Chat GPT」などAIの著しい進歩が話題となり、それを受けてわが国でも、これからは人間の知的な仕事がかなりの範囲でAIにとって代わられるのではないか、さらに青年たちはもはや大学に進学する意味があるのだろうか、などという議論が発生している。
 AIにも、大学などの高等教育にも、私は深いかかわりや知識をもつわけではないが、ひとりのエンジニアOBとして、これらの話題にかんして思うところを簡単に述べたい。
 まずは、人間の頭脳の働きにかんしての考え方である。
 「知識の4段階」という命題がある。この内容は、以前に丸山眞男が、最近はユヴァル・ノア・ハラリが、似たような、あるいはヒントになるようなことを言及していたことを私なりに理解して、私が非常勤講師として大学で講義するとき雑談として話していたものである。なぜ「知識」を取りあげるのか。人間の精神活動の究極を論ずる哲学においても「哲学は、人間の究極の普遍的知識であるべきだ」とされることもあり、少なくとも「知識」が、人間の精神活動の主要な要素であることは間違いないと考えるのである。概念を図で示す。4_20240413060101
 まずもっとも次元の低い水準の知識として「データdata」がある。これは単なる事実の集合であり、「今日は天気が良い」とか「富士山の高さは3776メートルだ」とか、内容は正しいが、誰もが価値を見出すものではない。
 その「データ」から当事者の価値観あるいはニーズにもとづき選別されたものが「情報information」である。進学しようとする高校生にとっての「この大学には、こういう学部がある」とか、製造業で「これを造るためには、この原料が要る」などである。
 その「情報」を自分の頭脳に取り込んで、必要な量の「情報」を、自分の関心・必要性・意欲に応じて能動的に「思考」して、頭のなかで個々の情報の関係を整理し、必要に応じてつなぎ合わせ、構造化する。こうして、多数の「情報」の要素を絡み合わせ構造化したネットワークのようなものとして「知識knowledge」が構成される。これが「本当の知識」というべきものである。これは、当事者の関心と目的と意志に基づいて独自の構造化がなされるため、個々のヒトそれぞれに個性があり、かならず差異がある。
 その当事者独自の本物の「知識」を材料として、渾身の努力・没頭・熟考・ひらめきなどにより、なんらかの飛躍を遂げて析出するのが「叡智wisdom」である。霊感=artistic inspirationとも言うべき頭脳の働きによる賜物と言える。これは本来的に独創的なもので、目的に照らして役に立つ「叡智」に到達すれば、他に擢んでることができる。
 だれでも「データ」を集めることは容易にできるし、現代ではネット検索で広範囲のデータを簡単に入手することができる。
 「データ」を選別して、自分に役に立つ「情報」を得るためには、自分の要求を明確に定義して「データ」の値打ちを評価する必要はあるが、そんなに難しいことではない。「情報」を自分の頭脳に取り入れることは、記憶力に頼れば、かなりの蓄積ができる。ただ、このままでは、いわゆる断片的な知識にとどまる。
 「情報」を材料として自分なりの「本当の知識」を構築するためには、関心・必要性・意欲をもって、目的を据えて自発的に考えることが必要となる。つまり「能動的な思考」と知的努力が必須となる。
 「知識」を材料として「叡智」に到達するためには、決まりきったルーチンに止まらない、なんらかのブレイクスルーが必須であり、その飛躍のためには、熱意・没頭・熟考・ひらめきなどの意欲的で大きな努力が必要である。
 いわゆる「試験test」という手段で評価できるのは、「情報」のすべてと「知識」のごく一部のみである。「個性化」する本質を有する「知識」を、客観的に外部から把握することは基本的に簡単ではないからである。これは、人間に対する「試験」という評価手段の本質的限界を意味し、ひらたく言えば、試験で優秀であってもほんとうの知識が有るか否かは判明しない、ということである。
 しかしながら、なんらかの具体的な問題を解決するためには、本当の「知識」を必要とすることは多い。さらに、擢んでた成果を実現するためには、本当の「知識」のうえに、飛躍を遂げて「叡智」に達することが必要となる。
 つぎに「Chat GPT」を代表例とするAIについて考える。「Chat GPT」が最近話題を席巻したのは、基本的には「自然言語インターフェース」と「ビッグデータ」の結合に成功したためである。
 ビッグデータは、10年余り以前からとくにスーパーコンピューターの活用によって、人間が扱いかねる規模の大量のデータから、それまで知られなかった意外な新情報が獲得できることが指摘されて、注目されるようになった。データ処理アルゴリズムとスーパーコンピューターなどのデータ処理手段の進歩の成果である。
 自然言語インターフェースは、プログラム言語など機械が理解できる形態のテキストではなく、人間が日常的に使用する言語そのままを機械が判読するもので、キーボードで文章を入力すればリクエストできるし、すでに進化している音声認識技術と組み合わせれば、ヒトの発声を理解して反応する機械が実現できる。この実用化はごく最近であった。
 したがつて「Chat GPT」は、我々が日常使っている言葉でリクエストを入れると、ビッグデータあるいはそれに準ずる大きなデータベースを迅速に処理して、回答を返してくれるのである。
 ここで、AIが実行していることは、本来的には人間が発生した大量の源情報を、人間の要請に応じてコンピューターで処理し、その結果を新情報として回答する、という働きである。通常の人間の能力では到底手におえない膨大なデータを短時間で処理できるので、たしかに有力・有効ではある。
 先述の人間の頭脳の「知識の4段階」に照らすと、大規模な「情報information」の蓄積を機械的に実現し、通常の人間のキャパシティーを凌駕する規模で「情報information」のネットワークを機械的に構築し、そこから新しい結果を得ることができる、というものだと位置づけられる。
 ただここで、源の材料たる大規模・大量の「情報information」は、人間の知力の成果の収集であり、情報のネットワークから構成される「知識」は、ネットワーク作成の手続きは機械的に行われるとしても、人間の関心・必要性・意欲によるリクエストからはじまるものであり、したがって人間が選別したものから成る。さらに、コンピューターによる情報処理は、基本的には統計的相関関係を用いるもので、ジューディア・パール『因果推論の科学』文藝春秋社、2022に指摘されているように、正しい因果関係が保障されるわけではない。正しい因果関係の確認のためには、ヒューリスティックな検証、すなわち人間の頭脳の介入が必要な場合も多いのである。
 そして、最終的に人間のartistic inspirationが達成する「叡智wisdom」を実現することは、AIにはできない。
 AIは、人間の知的行動に対して強力な支援ができるものであり、有効に活用すべきものであると思うが、本質的に人間の頭脳にとって代わるものではない、と私は考えている。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(11)

6.具象画/シュルレアリスム/キュビスム/抽象画
 この展覧会で、はじめて明確に、シュルレアリスムが「無意識」の表現・伝達を前面に押し出した芸術運動であったことを知った。今後の自身の学びのためにも、現時点での私の理解を簡単にとりあえず整理しておく。
 具象画(典型的には写実画)は、目に見える対象を具体的に表現する。それを観る私たちは、自分も眼にできるその対象についての新しい側面、新しい見つめ方を発見し学ぶことができる。そういう道筋はわかりやすい。したがって相対的に理解しやすい。
 キュビスムは、絵の対象となるものをそのまま表現するのではなく、絵の制作者が対象の形を分析し、解体して、再構成する。それを観る私たちは、対象の形態の捉え方・考え方・意味について、新たな視角を教えられ、考えることができる。もちろんすべてがわかりやすいわけではない。それでも絵の対象は、現実に存在する実体であり、具体的である。
 シュルレアリスムは、観る者に人間の「無意識の世界」を提示する。絵はそのための表現手段であって、描かれる対象は現実に存在するものに限らず、「人間の意識のなかに存在し得るもの」すべてが対象となる。それを観る私たちは、絵を描いた制作者の意識を自分で想像して探ることになる。人間の意識はきわめて個性的で多様だから、これは本質的に難解になりがちである。
 抽象画は、具体的な対象物を描かない絵画である。制作者は、具体的な対象物を提示しないのだから、それを観る私たちは、制作者が表現したいこと、主張したいこと、を自発的に間接的に想像するしかない。わかりにくいことは本来的である。シュルレアリスムの作品は広義の抽象画、あるいは抽象画の一部だと思う。鑑賞者たる私たちの理解も、当然多様性があるし、理解できないことも含めて多様性が許されるべきである。一方でキュビスムは、ときとして表現の難解なことがあるとしても、抽象画という概念からは距離があるのだろう。
 この度、気軽な気持ちでシュルレアリスムの展覧会を鑑賞したが、展覧会の構成としては、とてもよく整理され、まとまっていて、絵画について自分なりに学び、また考えてみるとても良い機会となった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(10)

5.戦後のシュルレアリスム(下)
 阿部展也「飢え」(昭和24年1949)が展示されている。Photo_20240411055801
 阿部展也(あべのぶや、大正2年1913~昭和46年1971年)は、新潟県五泉市に生まれた。詩人で美術評論家の瀧口修造との昭和12年(1937)の共作である詩画集『妖精の距離』で一躍注目され、画家としての本格的なスタートを切った。また前衛写真家としても、雑誌『フォトタイムス』を中心に旺盛な発表を行い、戦前期の日本写真史に足跡を残している。
 戦時中は陸軍報道部写真班員としてフィリピンに徴用され、記録写真の撮影とともに、陸軍が発行に関わった雑誌『みちしるべ』の表紙絵なども手掛けた。
戦後画壇に復帰した後は、キュビスムやシュルレアリスム、アンフォルメル、幾何学的抽象へと目まぐるしく画風を変化させた。国際造形芸術連盟の執行委員を務めるなど、文化交流の最前線に立つ機会も多かった。世界の新しい美術潮流にいち早く接し、それらを貪欲に吸収するだけでなく、雑誌への寄稿等を通じて日本へ紹介する役割も担っていた。
 画家、写真家、評論家、中世墓石彫刻の研究家など、さまざまな顔をあわせ持ち、58歳でローマにて客死するまで、世界を所狭しと駆け回った。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(9)

5.戦後のシュルレアリスム(中)
 岡本太郎「憂愁」(昭和22年1947)がある。Photo_20240410074401
 自分の頭部のイメージのように思えるが、額の上には9本もの白旗が付けられていて、いかにも戦に完璧に敗れました、という表明のようだ。先の大戦での敗戦から間もないころでアメリカ軍も駐留してきて、世の中の雰囲気もこのようなものだったのかも知れない、と思う。
 戦前、パリで活動していた岡本太郎は、親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレにより、岡本の名前が1936年よりビジネスネーム「ゲルダ・タロー」として引用されたことがあった。ゲルダの活動期間はとても短く、まもなく1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材時に自動車事故で死去してしまった。このあと制作した「傷ましき腕」が、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム簡易辞典」に掲載された。岡本太郎は、海外でシュルレアリスムの作品を制作・発表したことが認められたわが国で唯一の画家なのであった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(8)

5.戦後のシュルレアリスム(上)
 戦後、自由な作品発表が徐々に可能になり、戦前にシュルレアリスムにかかわった画家たちも、新たに独自の表現を模索していった。Photo_20240409054701
 わが国のシュルレアリスムを創成期から牽引してきた福沢一郎も、戦後活動を再開した。昭和23年(1948)発表した「敗戦群像」は、日本の近代美術史において、しばしば戦後美術の起点と位置づけられている。福沢は昭和27年(1952)渡欧し、その後ブラジルやメキシコ、インド、オーストラリア、ニューギニア等を旅してまわった。高度経済成長をとげる日本の社会状況にむしろ逆らうかのように、プリミティブなエネルギーから想像を膨らませた作品を多く描いた。そして昭和27年(1952)美術文化協会を脱会し、以後無所属を通した。
 同年、第4回日本国際美術展にて「埋葬」で日本部最高賞を受賞した。昭和33年(1958)ヴェネツィア・ビエンナーレ副代表として瀧口修造とともに渡仏し、さらに昭和40年(1965)公民権運動が高まりを見せていたアメリカを旅し、自由を求める運動のエネルギーを、アクリル絵具を駆使したすばやいタッチの連作として描いた。1970年代以降は旧約聖書や神話の世界に主題を求め、力強く奔放なタッチに鮮やかな色彩を特徴とした。多摩美術大学、女子美術大学で教授をつとめ、昭和48年(1978)文化功労者、平成3年(1991)文化勲章を授章している。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(7)

4.シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで(下)
 吉井忠「二つの営力・死と生と」(1938年)が展示されている。Photo_20240408054301
 吉井忠(よしいただし、明治41年1908~平成11年1999)は、福島県に煎餅屋の子として生まれた。福島中学(現在の県立福島高校)を卒業後、画家を志して上京し、太平洋美術研究所に学んだ。昭和3年(1928)帝展に「祠」を出品して初入選を果たした。以後その帝展で5回入選している。
 昭和11年(1936)第6回独立展に出品した後、渡仏した。翌年帰国し、東京豊島区に住んだ。昭和13年(1938)創紀美術協会を結成し、さらに翌年福澤一郎らと美術文化協会の結成に加わった。昭和19年(1944)従軍するが翌年帰り、福島県岩瀬郡仁井田村(現在の須賀川市)の農場に入った。
 昭和9年(1934)ころ、プロレタリア芸術運動が政府の弾圧を受けて壊滅し、表現者の間で閉塞的な空気が立ち込めるようになってきた。そのなかで文芸評論家の小松清らが唱えた「行動主義」、すなわち社会的・政治的変化をもたらすために特定の思想に基づいて意図的な行動をすべきと主張する思想に、福沢一郎も共鳴した。福沢は、古典的なイメージを引用しそこに象徴的な意味を忍ばせた作品を描き、社会批評的表現を試みた。福沢絵画研究所を昭和11年(1936)開設し、後進の指導を行った。昭和14年(1939)福沢は、シュルレアリスムに抵抗を持ち始めた独立美術協会を脱退し、若手の画家たちとともに新たに美術文化協会を結成した。以後、この団体がシュルレアリスムの影響を受けた画家たちの一大拠点となった。
 しかし、福澤は昭和16年(1941)4月5日詩人・評論家の瀧口修造とともに、治安維持法違反の疑いにより逮捕・拘禁され、シュルレアリスムと共産主義との関係を疑われ尋問を受けた。同年11月に二人は釈放されるものの、その後は軍部への協力を余儀なくされ、戦争記録画を手掛けるようになった。
 こうしてわが国のシュルレアリスムは、高揚期を迎えてまもなく低迷を余儀なくされた。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(6)

4.シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで(上)
 昭和10年を過ぎると戦争は激化の一途となっていったが、日本国内ではヨーロッパの直接的影響を離れて、独自の円熟した作品が次々に生み出されていった。Photo_20240407054901
 靉光「眼のある風景」(1938年)がある。
 地球ではないかのような怪しげな空間のなか、岩石とも巨大生物ともつかない暗い色の塊が横たわり、陰鬱な表情の眼がいくつか描かれている。なにかを監視しているのか、それとも助けをもとめているのか、いずれにしても緊迫した悲惨な状況を感じさせる。
 靉光(あいみつ、明治40年1907~昭和21年1946)は、広島県山県郡壬生に農家の二男として生まれた。高等小学校を卒業後、印刷所に奉公して製版技術を習った。大正13年(1924)大阪に出て天彩画塾に洋画を学び、画家を志すようになった。このころから靉川光郎(あいかわみつろう)と名乗る。靉光(あいみつ)の名は、これを略したものであった。翌年17歳で上京し、太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受けて作風はめまぐるしく変化した。昭和元年(1926)二科展に初入選した。「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求していった。次第に前衛的作品が増え、二科展の他、中央美術展、独立展などに出品して多くの賞を得た。
 昭和13年(1938)第8回独立美術展に出展したのがこの『眼のある風景』であった。独立美術協会賞を受賞し、靉光の代表作とされる。
 靉光はシュルレアリスム風や宋元画風など特異で多彩な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来を大いに嘱望されたが、敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(5)

3.拡張するシュルレアリスム(下)
 小牧源太郎「民族系譜学」(昭和12年1937)が展示されている。Photo_20240406054601
 小牧源太郎(明治39年1906~平成元年1989)は、京都府に生まれた。龍谷大学予科(在学1年)、大谷大学専門部(同2年)を経て、昭和8年(1933)立命館大学経済学部を卒業した。このころ皮膚病に悩まされ療養生活を余儀なくされながら画家を志し、同10年北脇昇がその開設に尽力した独立美術京都研究所に入り、須田国太郎らの指導下に同14年まで学んだ。精神分析や土俗的な民間信仰に関心を寄せ、昭和12年(1937)第7回独立展に「夜」で初入選を果たした。この作品はすでにシュルレアリスムの傾向をもつ作風であった。その一方、同13年の「民族系譜学」や、第8回独立展に入選しながら反戦的であるとして撤去された「民族病理学、祈り」などの作品では、日本的土俗性を画面に盛りこむ特異な作風を示した。
 昭和14年(1939)北脇昇、福沢一郎らと美術文化協会の創立メンバーに加わり、日本におけるシュルレアリスムの草分けとなった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(4)

3.拡張するシュルレアリスム(上)
 1930年代半ば以降、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)や東京美術学校(現在の東京藝術大学)で、シュルレアリスムを指向する学生たちによって新造形美術協会など複数の絵画グループが結成された。芸術界のオピニオンリーダーのひとりだった瀧口修造も芸術雑誌『近代芸術』などを通じて彼らを支援した。こうしてシュルレアリスムは、外から受け入れる潮流から、内外で認められる自律的な活動へと成長していった。Photo_20240405055801
 北脇昇「独活」(昭和12年1937)が展示されている。
 北脇昇(きたわき のぼる、明治34年1901~昭和26年1951)は、名古屋市に生まれた。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、明治43年(1910)母親と京都に住む叔父の元貴族院議員・実業家であった広瀬満正を頼った。以後、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。同志社中学校を中途退学して、鹿子木孟郎の画塾に入り、30歳近くになって津田青楓の画塾に移った。
 昭和7年(1932)第19回二科展に初入選した。この年9月、京都洋画協会の結成に参加した。昭和8年(1933)独立美術京都研究所が開設され、その委員となった。昭和12年(1937)には京都青年芸術家クラブ結成に参加している。昭和14年(1939)福沢一郎ら40名の前衛活動家と共に、シュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となった。
 日本あるいは東洋の文化(仏教、禅、易、曼荼羅など)、さらには数学等の自然科学との融合の方向性を探り、ヨーロッパのシュルレアリスムの真似にとどまらない、日本的な独自の境地をめざした。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(3)

2.衝撃から展開へ(下)
 三岸好太郎(明治36年1903~昭和9年1934)は、札幌に生まれた。札幌一中(現在の札幌南高)を卒業して画家をめざして上京し、苦労を重ねながら独学で絵の勉強を続けた。大正12年(1923)20歳のとき、春陽会の第1回展に「檸檬持てる少女」で入選を果たした。続いて翌年の第2回展では「兄及ビ彼ノ長女」など4点で春陽会賞を首席受賞し、画壇の注目をあつめた。このころの作品は、オーソドックスな具象画であった。Photo_20240404061601
 昭和元年(1926)三岸は中国を旅行した。このころ彼は制作の新たな方向を模索して、当時画壇のひとつの傾向でもあった日本画風の表現なども試みている。昭和4年(1929)三岸は道化をモティーフとした作品を発表した。その特異な主題と表現は、彼の新しい境地を示すもので、その後昭和7年(1932)にかけて、どこか憂愁を感じさせる道化やマリオネットなど一連の作品が制作された。
 昭和5年(1930)には、新しい美術団体たる独立美術協会の結成に最年少の創立会員として参加していた。このころから作風は奔放さを増し、道化の主題をはじめ、女性像、風景、静物など、多様な制作が意欲的に続けられた。
 昭和7年(1932)末から翌年にかけ、大きく作風が転換した。「オーケストラ」をはじめとして、ひっかき線による作品や抽象的作品、コラージュ(貼り絵)など、さまざまな前衛的な手法を試み、斬新な表現が生まれた。さらに最晩年となる昭和9年(1934)作風はまたも大きく変貌した。蝶や貝殻がモティーフとなり、夢幻的な光景が描かれるようになった。その作品のひとつが展示作品「海と射光」であり、彼の代表作ともされている。
 「私は建築家になるべきでしたね。建築は絵画なんかより先進的です」と語るほど、三好は建築に関心を持っていて、亡くなる年の昭和9年(1934)斬新な構想を盛り込んだ新しいアトリエの建築を計画した。しかし、そのアトリエの完成を見ることなく、同年7月、旅先の名古屋で胃潰瘍の吐血で倒れ、心臓発作を併発して31歳の短い生涯を終えた。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(2)

2.衝撃から展開へ(上)
Photo_20240403060601  昭和7年(1932)年から翌年にかけて、ブルトン、エリュアールらと交友のあった詩人山中散生(やまなかちるう、明治38年1905~昭和47年1977)が「巴里新興美術展覧会」を開催し日本各地を巡回した。エルンストやマン・レイ、デ・キリコらによるヨーロッパのシュルレアリスム絵画が、わが国で初めてまとめて紹介されて、多くの若い画家たちが触発されることになった。戦後「具体美術協会」で一世を風靡、国際的にも高く評価されることになる吉原治良らも、早くからシュルレアリスムの影響を受けた。
 六條篤「らんぷの中の家族」(1933 年)が展示されている。
 六條篤(ろくじょうあつし、明治40年1907年~昭和20年1945)は、奈良県磯城郡多武峰村に生れた。大阪市立東商業学校を経て、天理外国語学校支那語科広東語部を卒業の後、郵便局長、さらに多武峰の談山神社神主を歴任した。「モダニズム短歌」を嗜み、青山霞村主宰誌「カラスキ」のほか、「短歌創造」「短歌建設」「立像」を経て「短歌と方法」の同人であった。油絵を描き、シュルレアリスムの作品を制作し、独立美術協会展に出品した。そのひとつが、この作品である。
 画面中央に赤い椅子があり、その上に火を灯されたランプがある。そのランプの周りには8人の家族らしい面々がランプを囲んでその火を眺めている。周りの景観には、空があり、太陽らしいものがあり、しかしその他のものは、樹木のような、ビルのような、壁のような、しかし正体が判然としないもろもろのものがランプと家族たちを取り囲む。正直なところ、なにを読み取れるのだろう、何を感じたら良いのだろう。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(1)

 20世紀の大きな芸術運動であった「シュルレアリスム」は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に、フランスで起こった文学・芸術運動である。文学者・詩人であるアンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して運動が本格的に始まった。ブルトンはシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとするものであり、理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた思考の書き取りである」と定義した。ブルトンが医学生のころ、フロイトの精神分析における夢の世界と現実の世界、睡眠状態と覚醒状態の関係に関心を抱いたのがきっかけであった。フロイトの精神分析とマルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求と表出によって人間の全体性の回復を目指す運動であった。
 今年2014年は、この『シュルレアリスム宣言』から100周年にあたり、これを記念して主にシュルレアリスムの影響を受けた日本の絵画作品を通して、多様なイメージの展開と、彼らが生きた時代を振り返るものである。

1.先駆者たち
 日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、大正14年(1925)にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が、はじめて紹介したといわれる。西脇順三郎は、何度もノーベル文学賞候補にノミネートされたわが国の碩学だが、文学・語学のみならず絵画にも深く精通した学者であった。明確な形で残っているのは、昭和2年(1927)に創刊された詩誌『薔薇魔術学説』と、西脇を中心とする慶應大学の文学サークルに集まった瀧口修造らが出版した詩誌『馥郁タル火夫ヨ』である。Photo_20240402053901
 絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、昭和3年(1928)3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号であった。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。また、雑誌「美術新論」1928年5月号において、仲田定之助が「超現実主義の画家」と題した記事を書いており、これはフランスで起こったシュルレアリスムの絵画運動を日本で初めて紹介した記事であった。
 わが国最初期のシュルレアリスム絵画のひとつとして、阿部金剛「Rien No.1」(昭和4年1929)が展示されている。
Rien-no1  阿部金剛(あべこんごう、明治33年1900~昭和43年1968)は、岩手県盛岡市に内務省官僚や東京府知事を歴任した阿部浩の子として生まれた。東京府立第一中学校から慶應義塾大学文学部予科に進み、在学中から岡田三郎助に師事した。大学中退の後、1926年に渡仏した。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催、同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動をした。シュルレアリスム的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。
 作家・評論家として高名であった三宅艶子との1930年の結婚は、当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸である。
福沢一郎「他人の恋」(1930年)がある。
 福沢一郎(ふくざわいちろう、明治31年1898~平成4年1992)は、群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に、後の富岡町長の子として生まれた。第二高等学校英法科を経て、大正7年(1918)東京帝国大学文学部に入学した。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門して彫刻家を志した。大正11年(1922)第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選した。大正12年(1923)の関東大震災を機に渡欧を決意し、翌1924年から1931年までパリに遊学した。おりしも1924年はアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を著した年であり、ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストなど、最先端の美術潮流の影響を受けて創作活動を彫刻から絵画制作へと転換した。Photo_20240402054201
 昭和5年(1930)には、帰国に先立って、福澤一郎等とともに独立美術協会の結成に参加し、翌年1月第1回独立美術協会展に滞欧作品が特別陳列され、日本の美術界に衝撃を与えた。その作品が今回の展示作品「他人の恋」(昭和5年1930)である。
以後も旺盛な創作活動と執筆によりシュルレアリスムの紹介に努め、前衛の主導的立場となった。
 他にも、シュルレアリスムに草創期から参加した、古賀春江、東郷青児、前田藤四郎などの作品が展示されている。

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キュビスム展 国立西洋美術館(13)

ピュリスムへの展開
Photo_20240401055601  スイス生まれのル・コルビジュエは、パリのオーギュスト・ペレやドイツのペーター・ベーレンスの建築事務所で働いて、トルコ、東欧、ヨーロッパをめぐる旅の後、1917年にパリに活動の拠点を移した。この年知り合ったアメデ・オザンファンとともに、1918年末に絵画展を開催し、あわせて共著『キュビスム以後』のなかで「ピュリスム」を提唱した。これは合理性や秩序を重視し、簡素な形態と厳格な構図を特徴とするもので、その方針にもとづき緻密な静物画を描いた。
 ル・コルビュジェ「静物」(1922)とアメデ・オザンファン「食器棚」(1925)が展示されている。
 対象となるモティーフは、ワインボトルや食器、パイプや本のようなごく身近な日用品であり、他にはヴァイオリンやギターなど楽器に限定されている。それらは、身近でありふれているだけに、長い年月を経て洗練され成熟した純粋な形態に達していると考え、それゆえに機能美をまとったオブジェであるとみなされている。
 このふたつの絵を見るかぎりは、コルビュジェとオザンファンの絵画は、かなり似通っているように見える。Photo_20240401055701
 1925年パリ装飾芸術国際博覧会では、エスプリ・ヌーヴォー館が公開され、ピュリスムの最大かつ最後のプロジェクトとなった。ル・コルビュジェの構想によるパリ中心部大改造のプランと、その計画に含まれる住戸ユニットを接続したもので、そこにはピュリスムとキュビスムの絵画や彫刻が展示された。一切の装飾芸術を排斥し、建築から家具・食器までもが「規格化と大量生産」の原則にもとづく近代工業の美学によって統一され、「住宅は住むための機械である」というル・コルビュジェの言葉を体現していた。しかしここで主張されたル・コルビュジェの方向性とオザンファとの方向性の違いは決定的なものとなり、この後ピュリスムの運動は終焉に向かった。

 今回のキュビスムの展覧会は、たんに作品展示会という以上に、私たちに対するよく編集されたセミナーのようなものとなり、少なくとも私には学ぶことがとても多かった。
 キュビスムという運動が、これほど迅速に拡散・普及し、しかもかなり長い間生き続け、20世紀の近代美術にこれほど奥深くかつ広範囲に影響をあたえたものであったことは、私は知らなかった。じゅうぶんにアカデミックであるとともに、美術のおもしろさ、奥深さを教えてくれる良い展覧会であった。

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