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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(7)

4.シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで(下)
 吉井忠「二つの営力・死と生と」(1938年)が展示されている。Photo_20240408054301
 吉井忠(よしいただし、明治41年1908~平成11年1999)は、福島県に煎餅屋の子として生まれた。福島中学(現在の県立福島高校)を卒業後、画家を志して上京し、太平洋美術研究所に学んだ。昭和3年(1928)帝展に「祠」を出品して初入選を果たした。以後その帝展で5回入選している。
 昭和11年(1936)第6回独立展に出品した後、渡仏した。翌年帰国し、東京豊島区に住んだ。昭和13年(1938)創紀美術協会を結成し、さらに翌年福澤一郎らと美術文化協会の結成に加わった。昭和19年(1944)従軍するが翌年帰り、福島県岩瀬郡仁井田村(現在の須賀川市)の農場に入った。
 昭和9年(1934)ころ、プロレタリア芸術運動が政府の弾圧を受けて壊滅し、表現者の間で閉塞的な空気が立ち込めるようになってきた。そのなかで文芸評論家の小松清らが唱えた「行動主義」、すなわち社会的・政治的変化をもたらすために特定の思想に基づいて意図的な行動をすべきと主張する思想に、福沢一郎も共鳴した。福沢は、古典的なイメージを引用しそこに象徴的な意味を忍ばせた作品を描き、社会批評的表現を試みた。福沢絵画研究所を昭和11年(1936)開設し、後進の指導を行った。昭和14年(1939)福沢は、シュルレアリスムに抵抗を持ち始めた独立美術協会を脱退し、若手の画家たちとともに新たに美術文化協会を結成した。以後、この団体がシュルレアリスムの影響を受けた画家たちの一大拠点となった。
 しかし、福澤は昭和16年(1941)4月5日詩人・評論家の瀧口修造とともに、治安維持法違反の疑いにより逮捕・拘禁され、シュルレアリスムと共産主義との関係を疑われ尋問を受けた。同年11月に二人は釈放されるものの、その後は軍部への協力を余儀なくされ、戦争記録画を手掛けるようになった。
 こうしてわが国のシュルレアリスムは、高揚期を迎えてまもなく低迷を余儀なくされた。

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