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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(3)

2.衝撃から展開へ(下)
 三岸好太郎(明治36年1903~昭和9年1934)は、札幌に生まれた。札幌一中(現在の札幌南高)を卒業して画家をめざして上京し、苦労を重ねながら独学で絵の勉強を続けた。大正12年(1923)20歳のとき、春陽会の第1回展に「檸檬持てる少女」で入選を果たした。続いて翌年の第2回展では「兄及ビ彼ノ長女」など4点で春陽会賞を首席受賞し、画壇の注目をあつめた。このころの作品は、オーソドックスな具象画であった。Photo_20240404061601
 昭和元年(1926)三岸は中国を旅行した。このころ彼は制作の新たな方向を模索して、当時画壇のひとつの傾向でもあった日本画風の表現なども試みている。昭和4年(1929)三岸は道化をモティーフとした作品を発表した。その特異な主題と表現は、彼の新しい境地を示すもので、その後昭和7年(1932)にかけて、どこか憂愁を感じさせる道化やマリオネットなど一連の作品が制作された。
 昭和5年(1930)には、新しい美術団体たる独立美術協会の結成に最年少の創立会員として参加していた。このころから作風は奔放さを増し、道化の主題をはじめ、女性像、風景、静物など、多様な制作が意欲的に続けられた。
 昭和7年(1932)末から翌年にかけ、大きく作風が転換した。「オーケストラ」をはじめとして、ひっかき線による作品や抽象的作品、コラージュ(貼り絵)など、さまざまな前衛的な手法を試み、斬新な表現が生まれた。さらに最晩年となる昭和9年(1934)作風はまたも大きく変貌した。蝶や貝殻がモティーフとなり、夢幻的な光景が描かれるようになった。その作品のひとつが展示作品「海と射光」であり、彼の代表作ともされている。
 「私は建築家になるべきでしたね。建築は絵画なんかより先進的です」と語るほど、三好は建築に関心を持っていて、亡くなる年の昭和9年(1934)斬新な構想を盛り込んだ新しいアトリエの建築を計画した。しかし、そのアトリエの完成を見ることなく、同年7月、旅先の名古屋で胃潰瘍の吐血で倒れ、心臓発作を併発して31歳の短い生涯を終えた。

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