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2024年5月

東京都心「幕末維新動乱コース」散策(10)

レストランLe Pain Quotidien
 徳川家継霊廟二天門のすぐ近くに、おなじく日比谷通りに面して「ル・パン・コティディアン 芝公園店」があったので、少し遅めの昼食を摂った。Le-pain-quotidien
 ベルギー発祥のベーカリーレストランとのことであった。
 絶好の快晴日和であったので、昨年12月の歴史散策のときと同じように、屋外テラス席で喫食しようかと考えてみたが、お店に問い合わせるとテラス席は喫茶のみで、食事は室内席だけという。しかたなく室内に入って、友人の勧めにしたがい、すこしエキゾチックな料理をいただいた。果たしてなかなか美味で、かつ雰囲気がよかった。
 たっぷり時間をかけて、ランチを満喫した。こうして散策で動き回っているときは、いつもよりスイーツも美味しいし、ほっと一息できる。
さすがに東京都心ともなれば、行き届いた快適な喫食空間があると再認識した、満足なひとときであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(9)


 芝公園4号地から日比谷通りを少し下ったところに、通りに面して豪華な朱塗りの門が聳える。これは、第7代将軍徳川家継の霊廟(有章院霊廟)の門である。Photo_20240530060201
 徳川家継は、第6代将軍家宣が死んだとき、わずか4歳であった。後見人であった新井白石と間部詮房の配慮により、幼少のまま第7代将軍に就任し、7歳に満たずして夭逝した不遇の将軍であった。
 家継のあとを継いだ第8代将軍吉宗が、家継(有章院)のためにこの霊廟を建てた。なお、将軍の霊廟はこの有章院霊廟が最後となり、この後の将軍の御霊は増上寺に歴代将軍とともに祀られるようになった。
 有章院霊廟は、現在の東京プリンスホテル敷地の大きな部分を占めていたが、さきの大戦末期の東京大空襲でこの二天門を残して全焼したのであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(8)

開拓使仮学校跡
 愛宕山を降り、愛宕通りを下り、西新橋三丁目交差点を左折すると御成門交差点に行く。この交差点の南西側は芝公園4号地となっていて、緑地に入るとまもなく「開拓使仮学校跡」の石碑がある。Photo_20240529054201
 明治2年(1869)北方開拓のための明治政府官庁として「開拓使(かいたくし)」が東京芝の増上寺に設置されたが、明治5年(1872)北海道開拓に携わる有能な人材を育成するため開拓使と同じ増上寺の境内に「開拓使仮学校」を併設した。生徒の定数は、官費生50名、私費生50名の合計100名で、卒業後官費生は10年間、私費生は5年間北海道の開拓に従事することが義務づけられていた。この学校の経営は当時の開拓次官黒田清隆が中心となっていたが、招聘され来日したホーレス・ケプロンも開拓使顧問として学校の運営に携っていた。
 東京で創設された「開拓使仮学校」は、明治8年(1875)に「札幌学校」と改称されて札幌に移った。開校式は明治8年(1875)9月7日で、校舎は現在の札幌時計台の側にあった外国人の寄宿舎を改築して使用した。この「札幌学校」も、翌明治9年(1876)には「札幌農学校」と名前を変えて開校した。札幌農学校の原点は、この地の「開拓使仮学校」の創設に始まったのであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(7)

愛宕神社と櫻田烈士愛宕山遺跡碑Photo_20240528072801
 真福寺にほど近く、愛宕神社がある。愛宕神社(あたごじんじゃ)は、京都の愛宕神社を総本社とする神社で、山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高25.7m)の山頂にある。慶長8年(1603)徳川家康の命により、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建したのであった。愛宕山山頂の愛宕神社からは、かつては、江戸市中は勿論のこと、房総半島をも一望する名所であり、江戸の町を眺望する絶好の場所であった。
 慶応4年(1868)3月9日、新政府軍は江戸城進撃を3月15日と決定した。こうして新政府軍による江戸城包囲網が形成されつつあった3月13日、西郷隆盛と勝海舟は、薩摩藩下屋敷で会談するとともに、二人でこの「愛宕神社」に登ったという。
Photo_20240528072802  愛宕山山頂の愛宕神社からは、今ではもうビル群に視界を遮られて遠くまで見ることができないが、当時は江戸の賑わいを見渡せたのであった。ここから大江戸の町並みを眺めながら、西郷と勝は静かに語り合った。「世界に誇れる一大都市である、この江戸の街並みを決して無にしてはならない」。二人は込み入った話はしなかったようだが、ここからの江戸の景色を見つめながら、胸に秘めた思いを一致させたのだと思われる。
 この愛宕神社の端の方に、櫻田烈士愛宕山遺跡碑がある。東京市長大久保留次郎が、碑表の題を楷書で書いている。碑陰記(碑の裏面の銘文)は大東文化大学教授峰間信吉撰・金子栄一書とある。この愛宕山は、万延元年(1860)3月3日朝、雪の中を「桜田門外の変」決行直前に水戸藩浪士など18名が結集したところであった。碑に皇紀2601年とあるから、この碑は昭和16年に建てられたもののようだ。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(6)

真福寺
 内幸町交差点を右折して西方向に進む。霞ヶ関二丁目交差点で左折して南南東に向かう。この桜田通りの道路脇は、工事中のところが多く、そのためかガイドブックに紹介されている工部大学校跡、江藤新平君遭難道跡碑、新聞創刊の地、乃木希典旧居跡などが見つからなかった。
 絶好の快晴のなか快適な散策だが、少し喉も渇き小休止をと、喫茶室に入ってスイーツと珈琲をいただいた。こういうときは、甘いものがとてもリフレッシュになる。Photo_20240527070701
 虎ノ門二丁目交差点から愛宕通りに入り、ようやく真福寺を見つけることができた。
 真福寺(しんぷくじ)は、真言宗智山派の寺院である。真言宗智山派総本山智積院(京都市東山)の別院であり、真言宗智山派の宗務出張所が置かれている。
 慶長10年(1605)中興照海上人によって開山された。鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にあった小庵を、徳川家康より愛宕下に1360坪のこの土地を賜り、開創・寺院化した。
 元禄年間(1688~1704)になると江戸でも弘法大師四国八十八ヵ所札所詣りの信仰が盛んになり、宝暦年間(1751~1764)には府内にも八十八カ所霊場が定められ、真福寺は第67番札所となった。「愛宕のお薬師さん」と親しまれ、縁日(毎月8日)には門前市を成す賑わいで、広く庶民の信仰を集めていたという。
 そして幕末期には、江戸城に近いことから外国使節の宿舎に充てられた。オランダのクルティウスやロシア帝国のプチャーチンなどが宿泊していたのである。
 平成7年(1995)「真福寺・愛宕東洋ビル」という近代的ビルの高層建築物に建て替えられ、真言宗智山派の拠点にもなっているが、今では江戸情緒は皆無である。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(5)

農産陳列所・蚕病試験場跡
 日比谷門から日比谷通りを渡り、帝国ホテルの壁に沿って内幸町交差点に向かう。この途中の道沿いに「農産陳列所・蚕病試験場跡」の説明板がある。Photo_20240526082401
 明治7年(1874)明治政府は農業の開拓と振興のため、内藤新宿勧業寮出張所(現在の新宿区)に蚕業試験掛と農業博物館を設立した。蚕業試験掛では蚕糸業の振興と蚕病研究を目的として試験や研究が行われ、博物館では農産物や農業関係の物品を収集・展示を行った。明治16年(1883)麹町区内山下町の現在地に、博物館の業務を継承する農産陳列所を設置し、続いて翌年に農商務省農務局の一分課として蚕病試験場を設置した。陳列所では水陸の農水産物の他、関連図書など5,000点近くが展示された。
 明治19年(1886)北豊島郡滝野川村西ヶ原(現在の東京都北区)に移転して、農務局蚕業試験場および東京高等蚕糸学校となり、研究が続けられた。昭和15年(1940)北多摩郡小金井町(現在の小金井市)へ移転し、戦後に東京農工大学繊維学部(現在の東京農工大学工学部)となって現在に至っている。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(4)

日比谷公園祝田門と萩藩毛利家屋敷跡Photo_20240525060801
 まもなく日比谷公園の祝田門に来るので、ここから公園内に入る。明治時代の記念物として、明治36年(1903)の開園当時からあった「水飲み」と「アーク灯」がある。いずれも鋳鉄製の重厚かつ繊細なデザインで見応えがある。水飲みは明治のものらしく、馬も水を飲めるような形に設計されていて、当時陸上交通においての牛馬の重要性を伝えている。「アーク灯」は、当時には破格の1200カンデラの明るさを誇る電気照明塔であり、開園当時にはこの公園内に10基設置されていたという。
Photo_20240525060901  幕末期には、このあたりは萩藩毛利家の屋敷があった場所であった。
 改めて日比谷公園の大きさを実感するが、早々に、なかほどの日比谷門から出て、帝国ホテル横に向かう。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(3)

法務省旧本館・法曹会館と上杉弾正屋敷跡庭石Photo_20240524064201
 桜田門を過ぎて凱旋濠に沿って少し行くと、煉瓦造りの法務省旧本館がある。その法務省旧本館を過ぎて、日比谷公園へ向かう道路に面して法曹会館がある。その入口に向かって左手の花の咲く植え込みのなかに「上杉弾正屋敷跡から出土した庭石」という説明板と大きな黒い庭石らしきものがある。
 この地は、江戸時代には米沢藩江戸上屋敷櫻田邸があったところであり、昭和11年(1936)法曹会館を建設したとき、地下数メートルから巨石が出てきた。土地の経緯から、米沢藩江戸屋敷の庭石ではないかと推定された。明治後半から昭和にかけて、わが国の洋画・日本画・挿絵・報道画などで活躍した小杉放菴(明治14年1881~昭和39年1964)がこの石を見て、「一見無類の名石」と激賞して写生し、それが法曹会館落成記念の絵葉書のモチーフとなったという。
 この石に関連して、勤倹貯蓄をモットーとした米沢藩主上杉鷹山が、上屋敷の庭で手植えの萩の花の宴を催し、家中の上下の者の「上和下睦」の麗しい遊びをした、という逸話が『鷹山公偉蹟録叙』に伝えられている。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(2)

国会前庭公園の尾崎行雄記念館と井伊彦根藩上屋敷跡Photo_20240523053901
 国会議事堂の敷地をぐるっと回って東側の「国会正門前」に出ると、幅広の緩やかな坂があり、皇居櫻田濠に向かっている。この坂の両脇が国会前庭公園という意外に広大で静かな緑の公園となっている。坂道をはさんで北庭と南庭にわかれている。
 北庭には、三角柱の細長い時計台が聳えている。憲政記念館(元は尾崎記念会館)建設時に建てられたものであり、3つの柱が組み合わさる姿は「立法・行政・司法」の三権分立を象徴しているという。高さは31.5mで、努力の上にさらに努力を重ねて向上するという意味のことわざ「百尺竿頭一歩を進む」の百尺30.3mを超えるという意味が込められているらしい。この北庭は江戸時代の初めには加藤清正の屋敷があり、後に彦根藩井伊氏の上屋敷となって大老井伊直弼が居住していた場所であった。
 Photo_20240523054001 万延元年(1860)3月3日午前9時頃、この彦根藩邸上屋敷の門が開き、大老井伊直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から櫻田濠に沿って桜田門までわずか300メートルほど、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織って、刀の柄・鞘ともに袋をかけていた。そのため、素早く抜刀する事が難しい状況にあり、とっさの迎撃ができず、それは襲撃側に決定的に有利な状況だった。そして水戸藩脱藩者16名、薩摩藩士1名の襲撃に、井伊直弼は殺害されたのであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(1)

 今回も黒田涼『江戸東京の幕末・維新・開化を歩く』光文社、2018に掲載されている「動乱コース」をガイドブックとして、東京在住の旧友と二人で東京都心を散策した。たまたま私自身が、慢性変形性関節炎で膝が痛くなり、長距離の歩行が困難となったため、やむを得ずレンタサイクルを利用しての散策となった。
 この日は、前日の雨天・肌寒さとうって変わって快晴・夏日で、絶好の好天のなかの散策であった。

国会議事堂前からスタート、大久保利通屋敷跡地Photo_20240522062001
 ガイドブックには、地下鉄国会議事堂前駅からのスタートとなっているが、この付近にはレンタサイクルのステーションがないため、確実に借り出しできそうな場所として、コースの後半に位置する浜松町駅からスタートした。私も友人も、レンタサイクルは初体験であった。
 なんとかレンタサイクルを借り出し、先ずはガイドブックの散策スタート地点たる国会議事堂前に直行した。行程は5キロ以上あるようだが、自転車で移動するのでさほど遠くは感じなくて済む。
 国会議事堂の南側のゆったりした坂道は、茱萸坂(ぐみざか)あるいは番付坂とも呼ばれ、さきの大戦後の区画整理でその敷地が道の下に埋もれてしまったのだが、この場所に明治維新の三傑のひとり大久保利通の屋敷があったという。江戸時代『新編江戸志』には丹羽家の表門側から見通すことができ、内藤紀伊守、本多伊勢守の間をぬけて九鬼長門守の屋敷前へ出る小坂で、「両にぐみの木ありし故の名なり」と書かかれている。また、明治維新後には『東京名所図会』に「番付坂は茱萸坂の一名にして昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の所に花車の番付札ありて、其行列を改めしよりいう」と書かれている。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(5)

木島桜谷
 私は、木島桜谷の個展を10年余り前に泉屋博古館と木島桜谷旧邸での特別展で観たことがある。今回の展示作品も、10年余りぶりの再会である。
 木島桜谷(このしま おうこく、櫻谷とも、明治10年1877~昭和13年1938)は、京都市三条室町に木島周吉(二代)の次男として生まれた。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師、祖父周吉の代から内裏に高級調度を納入する「有識舎」という店を興し、父もその店を継いでいた。父は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったという。
 木島は、京都府立商業学校予科へ進んだが、簿記や算術に興味を持てず中途退学した。明治25年(1892)末、同年亡くなった父の知己で当時の京都画壇での大家であった今尾景年に弟子入りした。景年は「桜谷」の号を与え、父を早く亡くした桜谷の父親的存在となった。
また同じころ、儒医・本草学者・写生画家だった山本渓愚に儒学、本草学、経文漢学を学んだ。元来文学少年だった桜谷は「論語読みの桜谷さん」とあだ名されるほどの愛読家となり、昼は絵画制作、夜は漢籍読書の生活を送った。
 明治30年(1897)「景年塾」を卒業した桜谷は、展覧会への出品が増えていった。四条・円山派の流れを汲む写生を基本とし、初期は動物画を得意とし、一気呵成な筆さばきで迫力ある大作をあいついで発表した。明治32年(1899)全国絵画共進会に出品した『瓜生兄弟』は宮内省買い上げとなり、桜谷の出世作となった。明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会出品作『揺落』も天皇買い上げの栄誉に浴した。
 画題も花鳥画、山水画、歴史人物画へと広がっていった。文展では明治40年(1907)の第1回から第6回まで、連続受賞し、早熟の天才という印象を与えた。この躍進は、桜谷自身の画才に加えて、その作風が展覧会の時代に適合していたからとも考えられる。展覧会が西洋建築の大空間で頻繁に開かれるようになると、大きな画面への要求が高まった。桜谷は、左右を対として描かれることが多い屏風絵を、連続する一つの絵画空間として構成し直し、幅広な横長の画面を動感のある充実した構図によってパノラマ的に描き出した。

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 こうして制作された作品のひとつが「寒月」(大正元年、1912)であった。
 冬の夜、静けさに包まれた冬枯れの竹林を下弦の月が明るく照らす。冴えわたる雪面には、まばらに生える竹や若木のシルエットが浮かび、凍てついた空気が流れる。さまよう狐は餌を求めて鋭い視線であたりを窺っている。孤独な生命が広大な厳冬の静寂を深めている。
 大正元年(1912)京都市立美術工芸学校(現 京都市立芸術大学)教授を委嘱され、大正2年には早くも文展の審査員に挙げられた。同年、京都市街北西の衣笠村に建設した邸宅(現在は旧宅として残る)に移り住んだ。竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。ただ、絵の依頼は引きも切らず、制作数も多かった。
 昭和に入ると平明な作風となったが、帝展にも変わらず出品を重ねた。昭和8年(1933)の第一四回帝展に『峡中の秋』出展を最後に、衣笠村に隠棲するようになった。祇園などにも遊びに出ず、野人とあだ名されるほど粗末な服を着て、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の隠遁者のような生活を送った。しかし、徐々に精神を病み、昭和13年(1938)11月3日、枚方近くで京阪電車に轢かれて非業の死を遂げた。享年62であった。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(4)

梥本一洋(下)
「鵺」(昭和11年、1936)が展示されている。Photo_20240520054401
 鵺(ぬえ)は『平家物語』にも登場する、平安時代からよく取り上げられる想像上の怪物である。猿の顔と狸の胴体を持ち、足は虎、尻尾は蛇という奇天烈な妖獣だが、そのような怪物の姿ではなく、三人の上臈とみられる高貴な身分の女性が舟上で悲嘆にくれている様子が、洗練された筆致と抑制的に施された色彩で端正に表現されている。
 この絵は謡曲の名作「鵺」を題材に描かれた作品とされている。
 武勇の貴族源三位頼政(1104-1180)によって退治された鵺の亡霊と旅の僧による対話劇で、零落した妖怪が成仏を願い僧に回向を頼みつつ消えていくという、陰々滅々とした悲しい幻想譚である。ただ、謡曲の筋を追っても、鵺の正体が貴顕の女性とは明示されてはいない。そもそもこの妖獣の性別すら明確ではない。しかし、梥本一洋は鵺を三人の上臈として描いた。
 どういう思いで画家はこのように絵を仕上げたのだろうか。かつてここ京都市美術館で学芸員を務めていた美術評論家の加藤一雄(1905-1980)によれば「一洋が描いた上臈たちの姿には、懊悩した近衛ノ院をみることができる」という。
 頼政によって仕留められる前、鵺は夜な夜な内裏に出現し奇怪な鳴き声を発しながら、ときの近衛天皇(1139-1155)を苦しめていたとされている。天皇が鵺のせいで重病に罹ってしまったため、武勇で名高い頼政に成敗の命が下された、というのである。3人の女性は、それぞれ猿の顔と狸の胴体の部、虎の脚部、蛇の尻尾部のアレゴリーとすると、絵でも折れた矢が女性に突き刺さっているようだ。
 しかしこの絵の3人の女性からは、派手な化物退治奇談とも違う、何やら妖しげに官能的な空気すら立ち上っている。近衛院は荒々しい幻獣の剛力に苦しめられたというより、艶やかに妖しい女性(にょしょう)の色香に悶え悩んでいたという連想すら浮かんでくる。それで加藤一雄は、「懊悩」とは、鵺ではなく近衛ノ院のものだと解したのだろう。
 いずれにしても、一洋の古典への憧れ、尊敬が窺える作品である。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(3)

梥本一洋(上)
 梥本一洋(まつもと いちよう、明治26年1893~昭和27年1952)は、京都市中京区油小路に、染色図案を営む家の長男として生まれた。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号したが途中で諦め、息子たちを日本画家に向けて教育した。Photo_20240519055601
 梥本一洋は、京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校に進み、大正4年(1915)に卒業した。卒業後、山元春挙の画塾早苗会に入門して、一洋の号を名乗るようになった。春挙死後は川村曼舟に師事し、同会の重鎮となり歴史画を得意とした。
 大正4年(1915)第9回文展に「壬生狂言の楽屋」で初入選、大正8年(1919)第1回帝展で「秋の夜長物語」が入選、以降帝展において常連となった。
 昭和3年(1928)第9回帝展で特選を獲得したのが、この「餞春」であった。
 朱色の着物姿の舞妓が扇子で拍子をとりながら唄の稽古にいそしんでいる。背後の日本庭園には見事な枝ぶりの松を中心に、立石や築山が配され、池には橋が渡されている。藤の花が咲き、松の新芽が立ちあがる様子から、春が過ぎて新緑の季節を迎えていることがうかがえる。
 これ以降の帝展・新文展では無鑑査となり、しばしば審査員を務めた。また大正13年(1924)京都府立美術工芸学校教授に就任、翌年京都市立絵画専門学校助教授となり、昭和11年(1936)から同校教授としてさきの大戦後の昭和24年(1949)まで後進の指導にあたった。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(2)

菊池契月(下)Photo_20240518054301
 大正7年(1918)師であり義父でもあった芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員に就任した。文展が翌年帝展に改組されたのちも、引き続き審査委員をつとめた。このように画壇での地位を着実に高めながらも、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、生々しいまでの写実的表現を導入し、師匠から受け継いだ四条派の伝統を守るだけでなく、それを踏まえたうえでの新しい独自の画風を確立しようとした。
 大正11年(1922)1年間ほど欧州滞在の機会を得て、フランス、イタリアを中心に各地を歴訪し、ルネサンス期のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、いくつもの作品を模写した。古典的作品の偉大さや価値を再認識し、帰国後も仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究し、収集した。
 昭和に入るころからは、こうした傾向の作品と並行して、均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の作品が生み出されるようになり、作品に二つの系統が認められるようになった。こうした路線の最初が「敦盛」(昭和2年、1927)である。
 治承・寿永の乱(源平合戦)の一の谷の戦いにおいて、源氏の攻撃から逃れようと味方の船へ急ぐ平敦盛は、ついに敵方の熊谷直実に見つかり捕らえられる。直実は、わが子に近いまだ16、7歳の美しい少年の敦盛を討つことを躊躇ったが、苦悩しながらも斬殺する。敦盛は藝術を愛し笛の名手であったとされ、この逸話は若き才能が戦で散り果てる悲劇を伝えるものとして『平家物語』や幸若舞の演目として伝えられてきた。この絵では、聡明で美しい敦盛の姿を繊細な筆致で表現している。全体に抑制された色彩と、経典を手にする無常観を示すような姿が、儚い最後をきわだたせている。
 契月は昭和7年(1932)京都市立絵画専門学校と京都市立美術工芸学校両校の校長となり、その翌年にはそれらの職を退いて絵画専門学校専任の教授となった。
Photo_20240518054302  昭和11年(1936)絵画専門学校専任教授を退官して帝国芸術院会員となったが、この前後から当時の日本を巡る情勢を反映してか、戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになった。とくに昭和16年(1941)の日米開戦以降は、日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などの展覧会に作品を出品し、地位と名声のある画家として、戦争画を通じて戦時下における銃後の志気高揚に協力した。
 そのころの作品のひとつが「紫騮(しりゅう)」(昭和17年、1942)である。
 これは平安時代の名馬を描いたものとされている。紫騮とは馬の種類で、黒栗毛の馬をいう。『源平盛衰記』に、紫騮であった「いけずき(生食)」という馬が登場する。高さ4尺8寸(145センチメートル)で太くて逞しく、生き物に食らいつく猛々しい気性であったという。もとは源頼朝の所有であったが、家来の佐々木高綱に与えられ、高綱とともに戦場で活躍したことから、戦勝をもたらす神馬として有名となった。
六曲一隻の屏風の大画面に、いけずきが胸を張り前を見据える堂々とした姿で描かれる。張りのある輪郭線が立派な体格を強調する。栗毛の毛色は丁寧で緻密な筆致できれいな彩色となっている。洗練された上品な雰囲気の、緊張感ある作品である。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(1)

 冬晴れの午後、京都市京セラ美術館のコレクションルーム冬期展を鑑賞した。Photo_20240517060401
 コレクション展なので展覧会そのものの企画に明確な方向性はないが、「昭和前期の日本画と古典」という副題があり、そのような範囲の作品が展示されていた。
 私もすでに観たことがある作品もかなりあり、一部の気にとまったものについてメモしておく。

菊池契月(上)
 冒頭に、菊池契月の5点の作品が「昭和前期の日本画」として展示されている。
 菊池契月(きくち けいげつ、明治12年1879~昭和30年1955)は、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)の素封家の次男として生まれた。少年時代から絵を描くことを好み、13歳で南画家児玉果亭に入門して「契月」の画号を与えられたという。小学校高等科卒業後、呉服屋・製糸工場・町役場などで勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑した。
 明治29年(1896)17歳のころ、同郷の友人町田曲江とともに故郷を出奔、京都に出て南画家内海吉堂に入門した。やがて翌明治30年(1897)18歳で京都の日本画家菊池芳文(きくちほうぶん)の門下となった。
師の菊池芳文は、竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「幸野楳嶺門下の四天王」と呼ばれて、京都画壇正統派の四条派の高名な画家であった。彼のもとで研鑽を積み、入門翌年の明治31年(1898)には第4回新古美術品展で『文殊』で一等賞を得た。さらにその翌年にも第2回絵画共進会展出品の『資忠決死』が一等賞となり、その後も毎年受賞を重ねた。
 明治39年(1906)27歳のとき、芳文の娘アキと結婚し、菊池家の婿養子となった。以後菊池姓を名乗るようになった。
明治41年(1908)創設されたばかりの文部省美術展覧会(文展)の第2回展で『名士弔葬』が二等賞、翌年の第3回展で『悪童の童』が3等賞、その翌年の第4回展では『供燈』で二等賞をあいついで受賞した。同作は1911年にローマで開催された万国芸術博覧会にも出品された。この年には京都市立絵画専門学校の助教諭となった。

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2024年度高槻こいのぼりフェスタ

 今年は「高槻こいのぼりフェスタ1000」というタイトルで1000匹の鯉のぼりを翻すとのアピールらしい。
 4月29日例年通り、河川敷広場で午前10時から昼休みをはさんで、午後3時半までステージイベントが行われた。家人とふたりで、芥川高校の和太鼓を中心に観に行った。1000_20240516060501
 キッズ・ダンスという子供から青年までのそれぞれの演技があった。幼稚園児や小学生も、楽しそうに踊るのは可愛い。
 芥川高校の和太鼓部は、創部30周年、部員60名を誇り、全国高校総合文化祭に19回出場し、優秀賞・文化庁長官賞(2回)、優良賞(4回)を受賞、国立劇場公演(2回)にも参加という輝かしい実績をもつ。海外活動でも、2001年からイギリス、トルコ、韓国、スペイン、オーストリア、インドネシア、ベルギー、アメリカ、中国(日中高校生友好交流事業)、シンガポール(文化庁派遣)で公演を行い、11回目の海外公演となったポーランドの世界民俗芸能フェスティバルで「特別賞」を受賞している。リズムだけでこれだけの表現力を実現するのには、感動する。また、笛を2人加えた演奏もあるが、この笛のボリウムにも驚いた。
 高槻こいのぼりフェスタの恒例のイベントとして、すっかりこの地に定着している。

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嵐山光三郎『昭和出版残侠伝』筑摩書房

 雑誌出版の編集を生業とした著者が、もっとも親しかった上司と過ごした自らの人生ピークの時代を、回顧的に綴った自伝である。とくに「月刊ドリブ」という「カネとオンナに強くなる雑誌」をキャッチフレーズとする雑誌の、発刊準備から成功と転変のエピソードが山場である。
 著者は、自嘲的あるいは自省的に「雑誌の編集という生業は、消耗品だ」という。私は、読み進めて途中までは、それならなぜそんなに命を削るほどに没頭し熱中して打ち込めるのか、よく理解できなかった。しかし読み進めるうちに、つまるところこの人はヒト、つまり人間がほんとに好きなんだな、とわかった。
 ヒトという生身の生物は、一筋縄でいかないし、また定義できない。「清濁あわせ飲む」などと簡単に言えない複雑・微妙・困難な存在である。それを探求するために、著者は浮浪者と生活を共にしたりもする。
 私自身は、反省してみると、世界観に人間以外の領域、つまりモノ=物理的・非生物的存在との共存を前提とするなかで生きてきた。モノを用いて、物理学に基づいてモノを製造することを生業としてきた。常にアタマのなかは、人間以外のものがかなり占めていた。もし、自分の生きる世界が非生物的要素の比率が少ない、生ものの人間が主要部分を占めるものであったとしたら、嵐山光三郎のいうような感覚となる可能性もあっただろうことが、年齢を重ねた今ではわかる気がする。
 私は、年齢を重ねるにつれて、生身の人間の存在、つまり自分の世界のなかの家族や友人の存在の比率が漸増している。家族と一緒にいること、友人との他愛のない会話で過ごすことの大切さ、ありがたみを、ますます深く感じるようになっている。ヒトへの愛着、ヒトとの関りの大切さ、不可欠さをますます重視するようになってきている。
 命がけで取り組む営みが、振り返ったら、冷静に考察したら、実はとても消耗的であった、ということは、若いころの私には到底耐えられなかったろうと思うが、生身の人間の人生とは、実はそのようなものかも知れない、と今では思う。
 たまたま私は今、世界を二分して闘争している新冷戦を分析しようとするDavid E. Sanger, "New Cold Wars"という本を読んでいて、また一方で友人から『技術革新と不平等の1000年史』という新自由主義に苦悩する人びとを救済するための議論を書いた本を紹介されて、これもいずれ読んでみようと思っている。かつて読んだ斉藤幸平トマ・ピケティの議論も、おそらくこれと同様だ。これらの本が問題として取り上げる「人間とその暮らし」に現れる「人間」と、嵐山光三郎が格闘する雑誌編集者あるいはその読者という「人間」が、同じ「人間」としてどのように交絡し位置づけられるのだろうか、私なりに考えてみたいと思っている。
 生身の人間とガチに取り組み合ったヒトの自伝として、私なりに興味深く、とてもおもしろかった。

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2024年度 第26回高槻ジャズストリート(下)

高槻ジャズストリート 5月4日
 4日は、まず、午後1時ころから高槻市立第一中学校グランドで「大阪大学 The New Wave」を聴いた。大阪大学にビッグバンドのクラブがあるとは知らなかったので、一度聴いてみたい、というのもあった。内容としては、かなりよく練習しているらしく、音もリズムもよく合っていて、心地よい演奏であった。とくにバリトン・サクソフォンなのか、あるいはもっと低音用なのか、とても大型のサクソフォンを演奏する女性奏者の落ち着いた演奏は、印象に残った。
 続けて他のビッグバンドも聴きたかったが、絶好の晴天で真昼の高温が過ぎて、直射日光に耐えがたくなり、室内会場に移動することとした。The-new-wave
 高槻城公園芸術文化劇場南館中スタジオでは「ミユキJAZZ(クアルテット)」「AniSound Technica(クアルテット)」「竹田利恵オルガントリオ」を聴いた。
 ミユキJAZZのヴォーカル ミユキさんは、スウィング感や声は良いが、英語の歌詞の発音が不明瞭なのが気になった。AniSound Technicaは、もっぱらアニメ・ソングをジャズにアレンジして演奏することをモットーとして活動している、という。たしかに今や「アニソン」は、「演歌」などと同様にひとつのジャンルを構成し、その勢いは演歌などをはるかにしのぐものとなっているようだ。演奏はジャズとしてみごとに成功していると思える。竹田利恵オルガントリオは、偶然からボンゴを追加して、クアルテットとして元気に演奏していた。
 つぎに近場で移動して、隣の太陽ファルマテックホールで、Dexter Goldbergのピアノを聴いた。フランス人で、フィアンセを同伴して来日し、京都でつい先日プロポーズして結婚を決めたばかりといい、そのフィアンセたるLouise Akiliとともに舞台に登場した。彼女はクラシックのピアニストで、Dexterはジャズのピアニストで、互いに相手の領域の演奏はできないのだという。ドビュッシー、ショパン、サティーなどのクラシック曲をまずLouiseが演奏し、そのあとDexterが同じ曲をジャズにアレンジして演奏する、という競演を披露した。最後はジュードという、水辺の踊りをテーマとしているという曲を、2人で交代で弾いたり、一緒に連弾したりして披露した。幸せ感で満たされ楽しいひとときであった。
Photo_20240514060001  この会場は入れ替え制なので、また会場を移動し、今度は南館サンシュレックホールに「篠原良知with Denys Irkha」の演奏を聴いた。
 このひとの演奏は、たしか去年も同じ場所で聴いた。良い声・広い音域・十分な声量で、ひとまず申し分ないのだが、プロの歌手としてはなにかひとつ足らない気がする。よくはわからないが、あるいは自分の声と技量に酔ってしまうのか、一方的な叫びのようになっているように思う。視聴者がいて、その相手がそれぞれ感覚と感情をもっていて、彼の歌を受けとろうとしている、その存在を意識してなんらかの配慮が必要なのかもしれない。言い換えれば、視聴者がその歌の世界に入れるような配慮が必要なのか、などと思った。
 高槻市には、昨年から高槻城公園芸術文化劇場が大幅に拡張され、1つしかなかった本格的劇場ホールが、民間企業の支援も得た拡張プロジェクトにより、大小あわせて5つに増えて、人気の演奏者を扱える場所が分散できるようになった。それにより混雑してもある程度なんとかみんな楽しめるようになった。お陰で今年も、高槻ジャズストリートを十分に楽しめた。
 あとひとつ、この度の高槻ジャズストリートで、ジャズのスタンダード・ナンバーとされる「Misty」を、たまたま3人の別々のヴォーカルで聴いた。私もこの歌は聞いたことはあると思うが、なかなかいい歌で、しかもこんなに多様な歌い方をしていいんだということを知った。私も練習して、歌えるようになりたいと勝手に思った。

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2024年度 第26回高槻ジャズストリート(上)

 5月2日まで天気が芳しくなくて心配したが、3日から急に気温が上昇するとともに夏のような快晴となり、それでも湿気はなく快適な天候に恵まれて、恒例の高槻ジャズストリートを迎えた。

高槻ジャズストリート 5月3日
 今年は、3日にまず高槻城公園芸術文化劇場北館3階で「西成ジャズクインテット」、「リエ様ですけど何か(クインテット)」、「菊池英亮カルテット」、「古谷充とThe Freshmen」を聴いた。いずれも演奏はそれぞれ、なかなかの達者ぶりを発揮して、十分楽しめた。会場での写真撮影は禁止であった。
 菊池英亮カルテットは、正統的ジャズらしい、メリハリのある美しい演奏であった。
 古谷充とThe Freshmenは、ピアノ担当の山崎善章から、2022年古谷充が84歳で亡くなったのちもグループの名前として「古谷充」を残し、息子の古谷充広をサックス奏者として加えて活動していたが、その古谷充広が今年2月、リハーサル中に心臓停止で急逝した、と経過説明があった。50歳であった。若いメンバー2名を補填して、引き続き同じグループ名で活動を続ける意向であるとの声明があった。ベテランのトランペット田中洋一の軽快で鋭い演奏も素晴らしいが、なんといっても山崎善章の90歳の年齢を感じさせない元気な姿と演奏に感動した。26
 このあと、20分ほど費やして高槻市立桃園小学校グランドに移動し、ここでは「新羅慎二(にら しんじ、若旦那)」、「Shiho with 桑原あい」、「TOKU」を聴いた。
 Shiho with 桑原あいは、これまでShihoをなんどかこの高槻ジャズストリートで聴いたので、今回また聴いたわけである。悪くはないが、今年は野外ステージだったからか、少し物足りなかった。
 TOKUは、フリューゲル・ホルンという独特の楽器とヴーカルを演奏するユニークな音楽家である。私は、彼のヴーカルよりは、楽器演奏の方が好きである。
 そのあとも、もうひとつ聴いてから帰るつもりであったが、夜の7時ころ太陽が沈んでから急激に気温が下がり、弱いながらも風が感じられて一気に寒くなったので、予定より早く帰途に就いた。

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後期高齢者の景色

 今年が明けてまもなく、私は無事に後期高齢者となった。いや、そのように思っていた。
 しかしやはり、現実は厳しい、甘くない。「無事に」とは行かなかったのである。
 それと気づかぬうちに、友人や知人が突然病気になったり、あるいは亡くなったりしていた。私は、気づいてみたら、親戚や友人のなかで最長老に着実に漸近していることに気づいた。振り返ってみれば、ここ数年以内のことが多い。しかも、どちらかと言えば元気そうな人が突然、というケースが多い気がする。明日は我が身か、という心境にもなる。
 それと気づかぬうちに、頭脳のみならず、身体の老化が着実に進んでいた。今年の2月、いつものようにジョギングしていたが、天気もよく身体も軽く、ついつい調子に乗って爽快に走ってみようと、数百メートルほど、いつもよりかなり速いペースで駆けてみた。そのとき、あとから思い起こせばわずかに違和感があった。しかしその日はなんということなく、就寝した。翌朝起きると、少し膝のまわりの筋肉が痛い。まあいつもの筋肉痛の少し強いヤツだろう、とあまり気にしなかった。しかし筋肉痛は1週間たっても軽減せず、感覚としては部位が少しずつ変位する。3週間あまり経って、筋肉痛がスーッと消滅すると、入れ替わりにまともに膝関節が痛み出した。1週間ほど様子をみていたが改善がないので、とうとう整形外科医に診てもらったら、よくある加齢による慢性変形性関節炎だという。地元では名医と評判の高い先生は、水を抜く、痛み止めを処方するなどで傷みは抑え得るが、いずれも対象療法に過ぎない。治す方法は、これから教える筋肉トレーニングを励行して、膝廻りの筋肉を増強する以外にはない。よって、もう来院は不要、筋トレがんばるように、と明快な診断。それから2か月弱、筋トレ励行の成果か、ゆっくり歩く分には数キロ歩けるし、ときに膝を曲げて歩くので少し不格好だが、痛みに苦しむことはない。でも走れるようになるには、3か月あるいは半年は必要なんだろう。
 そうこうしているうちに、なにをしたからなのか不明なまま、突然手首が、軽い捻挫なのか痛み出した。脚が悪くてジョギングできない上に、私に残されたわずかな運動たる腰痛対策の腕立て伏せもマッケンジー法ストレッチもできなくなった。ないない尽くしの老人となった。さいわいこの手首の痛みは、数日で消えたが。
 昨年末に歯周病から突然前歯が一本スーッと抜けた。放置すると両側から他の歯が倒れてくるから入れ歯かインプラントが要る、と言われて、大学の歯学部附属病院に診てもらった。すると問題の歯だけでなく、私の口腔内は思いがけず歯周病が進んでいて、他の歯もやはり抜けるかもしれない、まずは歯周病の対策と処置から、と問題は想定外に拡大している。
 この他にも、一昨年白内障で眼科に診てもらったら、眼底が少し傷んでいて、黄斑変性症の可能性がある、とのことで経過観察を続けている。
 今とのころ、内臓など体幹内に顕著な疾患は発見されていないものの、明日はどうなることやら、一瞬先は闇である。
 引退して高齢者になって思うのは、勤務がなく、対外的に責任をともなう仕事がなく、自由度が大きいことである。したがって幸いにも「現在の自由」は確保している。しかし「未来の存在」は保証されない。いつ、余命○○と宣告されてもなんら不思議はない。
 それでも、未来の保証がないという以外は、本質的に愉快な身分である。
 不調法な私は、カッコイイ趣味をなにも持ち合わせず、ただ読むこと、絵画などを観ること、気分転換にゆっくり、季節による光と空気の変化を体感しながらジョギングすること、くらいしか楽しみがない。老朽化した頭脳では、本を読んで理解するのに時間をより多く必要とするけれども、命が続いている限り時間は十分ある。
 さらに、歳をとって月日の経つのがとても速くなった。これも、考えようによってはメリットがある。私の膝がもっと回復して、またジョギングできるようになるのは3か月先、半年先、あるいはもっと先かも知れない。それでも、もし命が続いていれば半年も1年もそんなに遠い先ではない。待っていれば、やがてその時はやってくる(知らんけど・・・)。
 頭も身体も、確実に老朽化して劣化しているが、後戻りできないことを考えても生産性がない。できないことを悔やまず、できることを迷わず実行して、毎日の自分の時間を少したりとも無駄にせず、丁寧に大切に過ごしていきたい、と思う。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(25)

新たな時代の女性画家たち
橋本花乃
 橋本花乃(はしもとはなの、明治30年1897~昭和58年1983)渡月堂製菓の娘として大阪市天王寺に生まれた。14歳ころから北野恒富の内弟子となり、恒富門の雪月花星のひとりと謳われるまでになった。大正9年(1920)第2回帝展に「愛」で入選し、続いて大阪美術展覧会や白耀社展などに出品した。大正14年(1925)在阪女性画家13名による向日会結成に参加し、さらに先の大戦後も大阪女人社同人として、城田花乃の名で制作を続けた。
 「七夕」(昭和5-6年1930-31)が展示されている。
 おかっぱ頭の少女が7人、七夕の笹飾りを準備している。右隻の3人は墨をすり、短冊や飾りを笹につけている。中央付近の少女たちは吹き流しを選んでいる。年恰好や容姿が似通っている少女たちは、鮮やかな着物の柄で描き分けられ、明るい画面をつくっている。七夕を迎える喜びと楽しさが伝わってくる作品である。この絵は、帝展落選であったが、高い人気を得ているそうである。

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 今回の展覧会を観て、あらためて明治から昭和にかけて大阪での女性画家の活発な活動を知った。まずは、大阪だけでこんなに多数の女性画家がいた、という事実に感動した。また、時代的慣習や傾向も影響してか、女性画家はほとんどの作品が女性を描いていることにもいささか驚いた。現代とは違って時代の社会的制約も大きかったと思うが、絵画に対する強い意志と熱意と実行力には、敬意を禁じ得ない。充実した鑑賞であった。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(24)

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吉村鳳香
 吉村鳳香は(よしむらほうか、明治40年1907~没年未詳)は、大阪に生まれた。森二鳳に師事し、動物画を得意とした吉村鳳柳の弟子とされる。女性画、花鳥画などの作例があり、書家番付にもしばしば登場した。昭和5年(1930)の『日本現代画家一覧表(日本美術通信社)』の「各地写生派閨秀画家名人席」に名前が掲載されている。
 「汐汲図」(大正時代)が展示されている。
 歌舞伎や日本舞踊の演目として知られる「汐汲」から題材を採っている。その物語の内容は、松風と村雨という海女の姉妹が在原行平に恋して、やがて都へ去った行平が残した形見の品を着て、桶に水を汲む所作を見せて踊るというものである。この絵では、浜辺で汐を汲むための桶を持つ松風を横向きに描く。松風が身に着けるのは行平の狩衣だが、烏帽子はなく、白い手拭を姉さん被りにしている。斜めに大きく描かれた老松の枝は、重厚で存在感がある。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(23)

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小方花圃
 小方花圃(おがたかほ、明治13年1880~大正14年1925)は、大阪府三島郡に生まれた。幸野楳嶺門下の画家高谷篁圃に入門して花圃と号した。その後、京都で竹内栖鳳に学んだ。明治43年(1910)日英博覧会に「美人舞踏の図」を出品した。大正3年(1914)第8回文展に「西の窓」を出品、大正9年(1920)第2回帝展に「夏浅し」で入選を果たした。大阪美術展覧会にも出品している。
 「唐美人」(大正時代)が展示されている。
 中国女性を画題として、池のほとりで新緑の葉を着ける樹下で、顔を隠すための道具である翳(きぬがさ)を手にした女性が小さな橋を渡ろうとする情景を描く。池には睡蓮が花をつけ、涼風のなか女性は戸外の散歩を楽しんでいる。
小方花圃の作品の多くは日本女性を描いた女性画だが、大正3年(1914)文展に初入選した「西の窓」は、それもまた六曲一双の中国女性の風俗画であった。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(22)

新たな時代の女性画家たち
 島成園・木谷千種の門下以外の女性画家たちである。Photo_20240508054001
鳥居道枝
 鳥居道枝(とりいみちえ、明治35年1902~昭和5年1930)は、海軍技師鳥居榮の長女として東京に生まれた。父の大阪勤務にともなって一家で大阪に転居し、大正8年(1919)大阪府立清水谷女学校を卒業して岡山大更に入門した。土田麦僊の門下であった時期もあるという。大阪美術展覧会や蒼空邦画会展、第一次作家同盟展などに出品した。日本画家山本紅雲と駆け落ちして結婚し、京都に暮らしたが、肺結核のため20歳代後半で没した。
 「少女像」(大正9年1920)が展示されている。
 北方ルネサンスに傾倒していた草土社(そうどしゃ)風リアリズムの人物表現に、制約の多い日本画の顔彩を使って敢えて挑戦したもので、鳥居道枝の初期の実験的作品である。手の指の描写など多少ぎこちなさが残るものの、ほつれ毛や瑞々しい顔の細密描写などには20歳未満とは思えない巧みさが際立つ。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(21)

5.新たな時代を拓く女性たち
木谷千種門下の女性画家たちPhoto_20240507055001
西口喜代子
 西口喜代子(にしぐちきよこ、生没年未詳)は、木谷千種に師事した。昭和2年(1927)第2回八千草会展に「麗日」を出品、翌年の第3回八千草会展に「少女と狗」「卓上静物」を、昭和4年(1929)第4回展には「琵琶を弾く」をそれぞれ出品した。
 「淀殿」(大正後期)が展示されている。
 女性画家たちにとって、戦国時代に波乱万丈の数奇な人生を過ごした淀君は、とても興味が尽きないようだ。師の木谷千種も先述のように淀君を描いたが、弟子の西口喜代子も、自分の思いで淀君を描いている。
 孔雀の羽を手に取る垂髪の女性がその淀君である。着物の柄には太閤桐があり、菊の御紋が染め抜かれている。その前には孔雀を描いた絵巻が広げられ、おそらく南蛮貿易で招来された雌雄の孔雀を珍しそうに眺める日本人がいるのであろう。権力を手に入れ、欲しいものはすべて手にした淀君の得意満面の場面である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(20)

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木谷千種門下の女性画家たち
三露千鈴
 三露千鈴(みつゆちすず、明治37年1904~昭和元年1926)は、大阪船場で三露商店を営む三露家の長女として生まれた。母三露千萩とともに庭山耕園塾で花鳥図を学び、木谷千種の画塾では女性画を学んだ。白耀社展、大阪市美術協会展、八千草会展などにあいついで大作を出展した。大正15年(1926)最晩年にキリスト教に入信し、22歳の若さで死去した。
 その最晩年の作品「秋の一日」(大正15年1926)が展示されている。
 丸髷を結った若い母が、庭先で幼女を抱きかかえている。これは千鈴の母、やはり画家であった千萩(昌園)の若き日の姿であろうという。病弱な千鈴が絵の道一筋に生きようとするのを支えてくれた母への深い感謝を込めた作品となっている。
 千鈴は母をテーマとして多くの秀作を描いた。母親の足もとに芙蓉の枯れ葉が一枚描かれ、季節が移ろうように命が継がれていくことが示唆されている。第3回大阪市美術協会展に出品された。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(19)

5.新たな時代を拓く女性たち
木谷千種門下の女性画家たち
原田千里
Photo_20240505080201  原田千里(はらだちさと、明治36年1905~平成5年1993)は、原田藤兵衛の子として大阪市に生まれた。木谷千種に師事し、八千草会研究所の常任幹事を勤めた。大正11年(1922)第4回帝展に「由良の湊」で初入選を果たした。大正14年(1925)第6回帝展で再び入選した。昭和7年(1932)土田麦僊塾に移り、土田の没後は郷倉千靭、安田靭彦、小倉遊亀にも師事した。再興院展に晩年まで出品をつづけた。
 「二人の少女」(大正後期)が展示されている。
 姉妹のように顔立ちがよく似たふたりの少女が寄り添って何かを見つめている。庭のコスモスが少女たちの背丈と同じくらいで、少女たちの幼さを表わしている。少女たちのまるい頬は血色よく、赤い着物に兵児帯を締めて幼い掌を広げるしぐさが愛らしい。千里は、帝展出品作でも妖艶な美人でなく少女の世界を好んで描いた。後に美智恵と雅号を変えた千里の、希少な八千草会時代の佳作である。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(18)

5.新たな時代を拓く女性たち
木谷千種門下の女性画家たちPhoto_20240504091001
狩野千彩
 狩野千彩(かのうちあや、明治39年~平成4年1992)は、大正12年(1906)大阪府立夕日丘高等女学校を卒業して木谷千種に入門した。その年、第4回女流展に「夏を唄へる」を出展した。大正14年(1925)第6回帝展に「ガラシャ忠興の妻」で入選を果たした。その同じ年、木谷千種の第6回帝展出展の問題作「眉の名残」のモデルを勤めていた。後に八千草会研究所の常任幹事となっている。
 狩野千彩「手燭」(大正後期)が展示されている。
 吹輪という髷(高く大きな髪型)に鼓(つづみ、武家の姫特有の飾り)を着け、愛嬌毛の束を耳から下へ左右に垂らして立っている細面の美人が、手に手燭を持っている。この姿は、『本朝廿四孝』の奥庭狐火の段に手燭を持って登場する八重垣姫であろうか。師の木谷千種は仮装が好きで、宴会では八重垣姫に扮していたこともあり、その影響で描かれた作品と思われるという。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(17)

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岡本成薫
 岡本成薫(おかもとせいくん、明治40年1907~平成4年1992)は、大阪市に岡本喜兵衛の三女として生まれた。大正15年(1926)父の死にともない、島成園に内弟子として入門した。内弟子として、成園の母の没後は家事一切を切り盛りし、師の画業と生活を献身的に支えた。すでに中島成薫が島成園門を離れていたこともあり、雅号成薫を譲り受けた。
 昭和11年(1936)青龍者展に出品した。昭和12年春からは島成園の夫森本豊治郎の赴任地に成園とともに同行した。さきの大戦後は、島成園と二人展を開催した。昭和46年(1971)成園の死にともない森本豊治郎の養女となった。
「美人」(昭和2年1927)が展示されている。
 岡本成薫が描く女性像は明るく洗練され、そこはかとなく洋風な雰囲気を漂わせる。この絵では、髪をモダンに結い上げた清楚な若い女性を描いている。明るい色彩の組み合わせが、やわらかな雰囲気をもたらしている。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(16)

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中島成秋
 中島成秋(なかじませいしゅう、生没年未詳)は、島成園に師事して成秋を号とした。大正9年(1920)第6回大阪美術展覧会にこの「泥」を出品した。
 この絵では、大きな傘をさして出かけた雨の日、下駄履きの脚に泥が跳ねあがって、足元を気にして振り向く少女の姿が描かれている。敢えて輪郭線を描かず色の面を活かして表現する西洋画風の描写を用いて、さりげない瞬間をやわらかい筆致で描き上げている。少女のまるい顔は赤く染まり、健康的で瑞々しい。成秋は島成園に師事したけれども成園とは少し異なる作風である。大正期の画家たちが試みた写実を取り入れて、独自の描写を達成している。

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「女性画家たちの大阪」展 中之島美術館(15)

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中島成薫
 中島成薫(なかじませいくん、生没年未詳)は、島成園に師事して成薫と号した。大正13年(1924)ころから菊池契月の塾に移り、号を変えたので、成薫の雅号は後に内弟子となった岡本成薫が使用した。大阪美術展覧会や菊池契月の塾展に作品を出展した。大正14年(1925)第6回帝展に中島園子の名で出した「手袋」が入選した。昭和6年(1931)第12回帝展に「部屋にて」で再び入選を果たした。同じ菊池契月門下の藤本孝と結婚して、藤本姓でも活動した。
「春雨」(大正前期)が展示されている。
 春先の雨の降りだし時に、女性たちが華やかに傘を広げる風情を描いている。後ろ側の渋い色の着物を着た女性は眉をそり落とし、埃除けの冠り物を頭につけている。手前の娘は、花柄の華やいだ外出着をまとい、前頭部に帽子を被っている。江戸時代の女性は外出時に頭部を晒して歩くことはなく、笠や衣被(かづき)、頭巾や手拭、冬には綿帽子などを着けていたという。画面右奥に桜の古木を配置した大胆で重厚な構成と筆致がおもしろい。中島成薫が菊池塾に移る前の希少な作品だという。

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