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京セラ美術館 コレクションルーム展(2)

菊池契月(下)Photo_20240518054301
 大正7年(1918)師であり義父でもあった芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員に就任した。文展が翌年帝展に改組されたのちも、引き続き審査委員をつとめた。このように画壇での地位を着実に高めながらも、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、生々しいまでの写実的表現を導入し、師匠から受け継いだ四条派の伝統を守るだけでなく、それを踏まえたうえでの新しい独自の画風を確立しようとした。
 大正11年(1922)1年間ほど欧州滞在の機会を得て、フランス、イタリアを中心に各地を歴訪し、ルネサンス期のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、いくつもの作品を模写した。古典的作品の偉大さや価値を再認識し、帰国後も仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究し、収集した。
 昭和に入るころからは、こうした傾向の作品と並行して、均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の作品が生み出されるようになり、作品に二つの系統が認められるようになった。こうした路線の最初が「敦盛」(昭和2年、1927)である。
 治承・寿永の乱(源平合戦)の一の谷の戦いにおいて、源氏の攻撃から逃れようと味方の船へ急ぐ平敦盛は、ついに敵方の熊谷直実に見つかり捕らえられる。直実は、わが子に近いまだ16、7歳の美しい少年の敦盛を討つことを躊躇ったが、苦悩しながらも斬殺する。敦盛は藝術を愛し笛の名手であったとされ、この逸話は若き才能が戦で散り果てる悲劇を伝えるものとして『平家物語』や幸若舞の演目として伝えられてきた。この絵では、聡明で美しい敦盛の姿を繊細な筆致で表現している。全体に抑制された色彩と、経典を手にする無常観を示すような姿が、儚い最後をきわだたせている。
 契月は昭和7年(1932)京都市立絵画専門学校と京都市立美術工芸学校両校の校長となり、その翌年にはそれらの職を退いて絵画専門学校専任の教授となった。
Photo_20240518054302  昭和11年(1936)絵画専門学校専任教授を退官して帝国芸術院会員となったが、この前後から当時の日本を巡る情勢を反映してか、戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになった。とくに昭和16年(1941)の日米開戦以降は、日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などの展覧会に作品を出品し、地位と名声のある画家として、戦争画を通じて戦時下における銃後の志気高揚に協力した。
 そのころの作品のひとつが「紫騮(しりゅう)」(昭和17年、1942)である。
 これは平安時代の名馬を描いたものとされている。紫騮とは馬の種類で、黒栗毛の馬をいう。『源平盛衰記』に、紫騮であった「いけずき(生食)」という馬が登場する。高さ4尺8寸(145センチメートル)で太くて逞しく、生き物に食らいつく猛々しい気性であったという。もとは源頼朝の所有であったが、家来の佐々木高綱に与えられ、高綱とともに戦場で活躍したことから、戦勝をもたらす神馬として有名となった。
六曲一隻の屏風の大画面に、いけずきが胸を張り前を見据える堂々とした姿で描かれる。張りのある輪郭線が立派な体格を強調する。栗毛の毛色は丁寧で緻密な筆致できれいな彩色となっている。洗練された上品な雰囲気の、緊張感ある作品である。

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