モネ展 中之島美術館(3)
サロンへの挑戦と挫折
当時のフランスには、サロン・ド・パリというフランスの王立絵画彫刻アカデミーが、パリで開催していた公式美術展覧会があった。その後フランスの政体が変わっても1880年までアカデミーまたは政府によって開催されたので官展ともいう。当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは、絵が売れるかどうかを決める決定的な要素であった。
モネは、1865年のサロン・ド・パリに、海景画「オンフルールのセーヌ河口」と「干潮のエーヴ岬」を初出品し、2点とも入選した。画家としては、願ってもない順調なスタートに思えた。しかし1867年から、サロンは審査基準を突然厳しくしたらしく、モネも以後は落選を重ねた。サロンへの落選はモネにとって大きなショックで、ルノワール、バジール、シスレーも同様に落選したことから、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった。
同じ年の8月には、パリに残していた恋人のカミーユが、長男ジャンを出産した。それ以前から、カミーユとの結婚は、父や叔母から強く反対されていた。
1870年のサロンに、モネはカミーユと長男ジャンを描いた『昼食』を応募したが落選した。モネは知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いていた。
最近のコメント