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2024年6月

水戸市街散策(4)

徳川慶喜と至善堂(下)Photo_20240623054402
 至善堂は、藩主の休息所や藩主の家族など諸公子の勉学所となっている。斉昭の七男で後に将軍となった徳川慶喜も、斉昭の教育方針のもと江戸から水戸に帰って、ここで勉学したという。
 最後の将軍であった徳川慶喜は、慶応4年(1868)1月の大坂城からの突然の逃避と鳥羽伏見の戦い敗戦の後、江戸寛永寺に謹慎していたが、江戸彰義隊の敗北のあと新政府軍の江戸総攻撃回避のために3月14日に行われた東征軍参謀西郷隆盛との会談のとき、勝海舟が慶喜の謹慎場所を岡山でなく水戸にしてほしいと嘆願して認められた。慶喜は4月11日明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かい、松戸、藤代、土浦、片倉を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した。水戸ではこの弘道館の至善堂にて謹慎した。
Photo_20240623054401  しかし水戸藩の前藩主の子である慶喜が水戸にいることが、水戸藩士に担がれて新たな挑戦を引き起こしかねない懸念があったので、慶喜は3か月のみの至善堂滞在で、7月19日に駿河にむかった。
 まもなく10月初めには、藩内抗争の最後の激戦とされる弘道館の戦いが起こった。この戦いの背景と経過については、しばらく後で述べる。この激しい藩内戦争で、文館、武館、医学館など主要かつ重要な建物が焼失した。その後、藩内の行政改革で学校組織が再編され、小規模ではあったものの文館と武館が再建された。苦難を経てようやく教育活動が軌道に乗ろうとしていた矢先の明治5年(1871)維新政府の学制発令によって、弘道館は停止・閉館となり、30年余の歴史に幕を下ろしたのであった。

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水戸市街散策(3)

徳川慶喜と至善堂(上)Photo_20240622053701
 この弘道館の敷地面積は32,000坪で、わが国の藩校のなかで最大である。ちなみに2番目の福山藩誠之館(せいしかん)が23,700坪という。
 中心の「学校区」は、水戸城の大手門に向かい合う正門、庭園をはさんで建物が建ち、建物は主要部の「正庁」と、十間畳廊下を渡って、4間の「至善堂」とからなる。「正庁」を挟み、正面から見て右(北側)に文館、左側(南側)に武館があり、斉昭の「文武一致」に基づいた構成としている。
 Photo_20240622053801 この正庁は、学校御殿ともよばれる管理棟で、藩主臨席での試験や儀式が行われるもっとも格式ある施設である。
 正庁の入側と呼ばれる畳敷きの廊下の南縁側に面して、藩主以下の藩幹部立ち合いで行われる剣術試練の場「対試場」がある。
 現在は庭園となっているが、かつては至善堂の北側にあった文館では、講義室と、学力優秀と認められた「居学生」のための個室たる「居学寮」が63もあったという。学生たちがしずかに自学自習できるようにとの配慮であった。

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水戸市街散策(2)

徳川斉昭と弘道館
 この弘道館、そしてこの後訪れた偕楽園と、現代の水戸の代表的なスポットとなった場所は、ともに水戸藩主であった徳川斉昭(なりあき)の創建・造営によるものであった。
 徳川斉昭は、江戸時代後期の寛政12年(1800)3月水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸屋敷で生まれた。水戸徳川氏は御三家として参勤交代がなく、藩主は江戸常勤であった。徳川斉昭は、第8代藩主の兄斉脩(なりのぶ)早世のあと、文政12年(1829)30歳のとき水戸藩第9代藩主となった。この藩主就任の前後からすでに水戸藩内部では、守旧派とされる門閥派と斉昭を推す改革派との激しい内部抗争があった。Photo_20240621060101
 水戸藩は御三家の一角として、自藩のみならず日本国家全体に責任を感じる立場であり、当時は藩内には財政的不安があり、日本国家には対外的危機がせまり、水戸藩はなんらかの行動をとる必要があった。藩主となった斉昭は「天保の改革」と呼ばれるラディカルな藩政改革に取り組んだ。
 斉昭は、学問の師であった会澤正志斎、水戸学の重鎮藤田東湖等、彰考館の学者とともに、中・下層出自の藩士の登用、倹約の励行、武備の充実、全領知にわたる検地の実施、税制改革、寺社改革などを強力に推進した。
 そのための重要施策として、斉昭は藩校の建設に意欲を燃やした。天保4年(1833)初めて水戸に入ると、学校建設計画をはじめようとしたが、反改革派の強い抵抗と、折しも飢饉による財政困窮のため進展はできなかった。二代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』の編集のために建設した彰考館がすでにあり、そこで藩士の教育は行われていたので、財政不足のなか新しい学校の必要はない、という意見も根強かった。
Photo_20240621060102  藤田東湖、会澤正志斎等の努力により、天保10年(1839)城内三ノ丸に校地を定め、そこに住居していた重臣たちに移転を命じ、ようやく天保12年(1841)3月斉昭41歳のとき、校舎が落成し開館式が施行された。ただ、このときは神道・儒教の手続きが未完で、「学制」も未定であったため、「仮開館」となっている。
 天保14年(1843)には、斉昭の意志から医学館が弘道館内に加えられた。また江戸小石川の水戸藩上屋敷のなかに「江戸弘道館」が開設され、江戸詰め藩士の子弟の教育が行われた。
 斉昭は、改革の一部として武備の充実・拡大に真剣に取り組み、寺院の釣鐘や仏像を没収して海防のための大砲の材料とし(毀鐘鋳砲)、廃寺や道端の地蔵の撤去までも行った。弘化元年(1844)鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などで仏教関係者たちの反発を買い、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上に、強制隠居の身となった。水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って一時は専横を行なったが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって、2年後の弘化3年(1846年)に謹慎を解かれた後、斉昭は嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。
 そして仮開館から16年後の安政4年(1857)、斉昭の致仕・謹慎や江戸大地震などの苦難を乗り越えながら、ようやく弘道館の本開館を迎えた。

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水戸市街散策(1)

 私はこれまで首都圏にかなり長く住んでいたのに、東京の他には、神奈川と一部の埼玉にはなんどか散策したものの、千葉や茨城はほとんど行ったことがなかった。ごく最近になって広い千葉県を少しずつ歩き回っているが、まだまだ一部にとどまっている。
 茨城県は、つくばになんどか、日立市に少し、仕事で行った以外はほとんど知らない。そこで今回は、幕末期から注目を浴びた水戸に行きたいと思った。あいにく旅行の前に左膝を痛めてしまい、一時はどうなることかと思ったが、レンタサイクルという移動手段があると知って、未経験ながらも横浜市街、東京都心の歴史散策に続いて、水戸市散策もレンタルサイクルで行くこととした。
 朝から東京浅草の宿を出て、乗り継ぎがさほど良くない常磐線で水戸駅に着いたのは、すでに午前11時前であった。駅を降りて、観光案内所でアドバイスとマップをいただき、北口のレンタルサイクル貸出所で電動アシスト自転車を借りて、まずは水戸弘道館に向かった。Photo_20240620053701

弘道館 正門
 水戸駅からほぼ真北に坂道を登ると、水戸京成ホテルを過ぎてすぐに弘道館がある。
 最初に邂逅するのは「正門」である。
 これは天保12年(1841)の弘道館創建時に建てられたもので、本瓦葺四脚門という荘重な様式の総欅造りである。この門は、藩主が来館のときあるいは儀式のときのみ開いた門である。門柱には、明治元年(1868)の弘道館の戦いのときの弾痕が残っている。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(3)

 22時13分、不審船は巡視船と銃撃戦の末、突然爆発炎上を起こして、東シナ海沖の中国EEZ内で沈没した。不審船が自爆する瞬間まで、乗組員は巡視船に向けて自動小銃を発砲し続けた様子が映像に記録されている。その後の捜査で、爆発の直前に不審船から北朝鮮本国に「党よ、この子は永遠にあなたの忠臣になろう」「マンセー」とのメッセージを含んだ電波が発信されたことが判明しており、自爆したものと推測された。この事件で、日本側に3人の負傷者、北朝鮮側に15人の死者が出た。
1_20240619060201  この事件の後、沈没した不審船の船体および海底に散らばった遺留品は、平成14年(2002)9月に海中より回収され、鹿児島県の港に運び込まれ、鑑識による分析が行われた。その結果、「船は北朝鮮の工作船であり、遺体で回収された乗組員は北朝鮮の工作員である」と断定されたのである。Photo_20240619060301
 工作船は、「長漁3705」との銘板があり、全長30メートル、幅4.7メートル、総トン数44トン、速力33ノット、と漁船に比べて異常なまでの高速・高馬力と戦闘に対応するための鋭い船首形状を備え、常識的な漁船の船体とは大きく異なっており、はじめから特殊目的で建造されたものと思われた。さらに工作船のなかには、別の1隻の小型舟艇が格納されていて、それは全長11メートル、総トン数3トン、速力50ノットで、スウェーデン製と見込まれた。
 武器は、ロケットランチャー、無反動砲、二連装機銃、自動小銃、軽機関銃、手りゅう弾、など多数が搭載されていた。
 ある程度大型の漁船というものはあろうが、取った漁獲物を貯めおくように器はなく、代わりに怪しげな小型高速船を搭載しており、強力な武器が多種・多数搭載されていた。これはまぎれもなく重武装船である。
 さらに引き上げた回収物資をもとに捜索を展開した結果、この工作船は不法薬物(覚せい剤)の運搬(密輸)に使用されていて、それは日本の反社会勢力に販売され、その仲介をしていた北朝鮮系の人物は、日本に住み着いて朝鮮大学校の幹部を勤めていたことなどが判明した。さらに、工作員の不法出入国などにも利用されていた。北朝鮮は、国家という組織になっているがためにさまざまな追及を免れているが、やっていることの実際は、マフィアやヤクザとなんら異なることがないと言える。
Photo_20240619060401  海上自衛隊は海上警備行動こそ発動しなかったが、海上保安庁と連携して対応に当たった。一連の不審船事件は海上防衛の在り方にも一石を投じた。海上保安庁は今回の事件を教訓に、現場の海上保安官(乗組員)の生命保護のため巡視船艇の防弾化および相手船舶を安全な距離から停船させるための高機能・長射程の機関砲の搭載、船艇の高速化、海上警備における水産庁の漁業取締船との連携強化、航空機の輸送力アップなどを急速に進めることとなった。
 展示の説明を読んで、そして展示されている想定外に大きな本格的な軍事船舶である工作船を見て、なんとも重苦しい気持ちになる。こういう事件の内容や詳細は、マスコミはほとんど報道しないが、実はかなり深刻な国家間の軍事的衝突が現実に発生していて、海上保安庁や海上自衛隊が黙々と動いてくれているのである。とても教育的、広報的、啓発的な展示であると思う。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(2)

Photo_20240618060201  そして、16時13分から不審船の船尾にあると推定されるエンジンを破壊するために、警告放送の後に20mm機関砲による射撃を行った。しかし効果はなく、なおも不審船は逃走を続けた。16時58分「撃つぞ、船首を撃つから船首から離れろ」と警告の後、不審船の左舷側より20mm機関砲により、船首への射撃を行った。その後、不審船の右舷側から船首への威嚇射撃を行ったときに、発射された曳光弾が船首の甲板上のドラム缶に備蓄されていた予備燃料に命中して引火し、不審船に火災が発生した。これにより17時24分、不審船はようやく停船した。しかし30分ほどで不審船乗組員によって鎮火がなされ、南南西に向けて11ノットで逃走を再開した。Photo_20240618060202
 21時00分に、再び船体射撃を行ったところ、この射撃を受けて21時35分には不審船は再度停船したが、2分後には再度動き出した。
 逃走する方向には、10キロほど離れたところに無関係の中国の漁船団が多数操業していることがわかり、不審船はここに紛れ込むことを目論んでいると判断されたことから、SSTの到着を待たずに不審船を確保する必要が生じた。22時00分、逃走する不審船に対し巡視線が距離を取って監視し、右舷側と左舷側の両側から、サーチライトを照射しながら2隻の巡視船が不審船を挟撃、強行接舷し、小銃で武装した海上保安官の臨検要員の突入を試みた。その際、不審船に乗っていた複数の乗組員が軽機関銃と自動小銃による銃撃を、巡視船と海上保安官に対して開始してきた。これを受けて海上保安官は、正当防衛射撃を直ちに行った。対して不審船乗組員は機関砲や小火器を用いて執拗な攻撃を繰り返してきた。防弾の施されていない巡視船は、銃撃戦による被害が大きく、船橋を100発以上の銃弾に貫通され、乗組員3名が負傷した。
 銃撃戦が長引いた理由としては、海上保安庁は警察機関の一つであり、該船(取締り対象の船)の撃沈や乗員の殺傷による無力化ではなく、拿捕・検挙を目的とするため、20ミリ機関砲が持つ本来の3,000発/分の発射速度を500発/分に制限しており、弾薬も警告射撃のときに被疑者に光で警告する効果を期待して曳光弾と普通弾を保有しているが、炸薬を充填した榴弾を保有していないことがあった。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(1)

 横浜市市街散策のとき、「赤れんがパーク」の一角に「海上保安資料館横浜館」という展示館があり、2001年に発生した北朝鮮工作船の不法侵入事件にかんする展示を行っていたので閲覧した。
1_20240617072401  これは平成13年(2001)12月22日の早朝から同日夜までに起こった領海不法侵入事件である。
 平成13年12月18日、在日米軍から海上保安庁に不審船の情報があったのを受けて、北朝鮮にかんする無線の傍受を各通信所で行ったところ、19日に喜界島通信所で不審な通信電波を捕捉した。それにより海上自衛隊機が喜界島近辺海域を哨戒した。
 12月21日夕方、対潜哨戒機が九州南西海域(奄美大島の北北西150キロ)において、漁船に似た不審船を発見した。防衛省は撮影した画像を解析し、その船が工作船の可能性が高いと判定した。内閣関係部門と協議のうえ、政府は特殊警備隊(SST)の投入を検討した。
 通報を受けた海上保安庁は、近隣の海上保安部に捜査本部を設置し、捜査を開始した。政府からは、海上自衛隊の特別警備隊(SBU)に出動待機命令が発令された。2_20240617072501
22日6時20分、奄美大島沖で西進する不審船の船影を確認、20分後不審船に対して停船命令を発した。不審船はこれを無視し逃走を続けたため、音声と無線、朝鮮語を含む多言語さらに発煙筒などで重ねて停船命令を伝えた。しかし不審船は逃走を続け、午後3時ころにはEEZの日中中間線を超えてなお西進を続けた。
 この時点で「漁業法違反容疑(立ち入り検査忌避)」が成立したため、巡視船は「停船しなければ銃撃を行う」という意味の旗旒信号(きりゅうしんごう)をマストに掲揚し、多言語で射撃警告を行った後、逃走防止のため、不審船の上空および海面への威嚇射撃を行った。以後、45分間にわたって断続的に計5回、段階的に警告度を高めつつ威嚇射撃を実施したものの、不審船はいずれも無視して逃走を続けた。

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横浜市街散策(4)

みなとみらいからベイクオーターへ
Photo_20240616082901  日本丸に隣接するさくら通りを北東に上がるとパシフィコ横浜に行き当たる。しかし自転車ではこれ以上進めないので、左折して国際大通りを北西に進み、いちょう通りを南西に下る。自転車だとわずかの間に横浜美術館に着く。
 横浜美術館は、鎌倉に住んでいたころ美術館会員となり、かなり頻繁に訪れたとても懐かしいところである。しかしここ数年間老朽化の修復工事で閉館していたという。思えば私が1980年代半ばに鎌倉に移転の後、平成元年(1989)新規開館した美術館であった。美術館は老朽化したが、私も老朽化するわけだ。
 美術館のファサードなど外観は修復前と違いはないが、美術館の周囲の景観はかなり変化した。私がよく訪問していたころは、美術館の前からはみなとみらいの超現代的な高層ビル群を眺めることができていた。しかし現在では、美術館の真正面に大きな商業集合ビルが建って、景観はそれなりに美しいものの、眺望はない。そもそも横浜市街全体に、高層ビルや超高層ビルがかなり林立するようになっている。大都市は、どんどん変わる。Photo_20240616083001
 横浜美術館から、さらにいちょう通りを下り、みなとみらい大通りで右折してJR横浜駅に向かう。
 みなとみらい大通りを北上して帷子川(かたびらがわ)に架かるみなとみらい大橋を渡ると、横浜ベイクオーターという飲食街スポットがある。自転車散策で少し疲れ喉が渇いたし、雲が厚くなっていまにも雨がきそうなので、この一角のスイーツのお店に入って甘い洋菓子をいただいた。
 旅行などで動き回ったとき、珈琲やスイーツはリフレッシュにとても有効なことを最近実感している。

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横浜市街散策(3)

汽車道と日本丸
Photo_20240615060001  「赤れんがパーク」から西方向に、水上に橋を架けて鉄道線路を敷いた「汽車道」が桜木町方面につながっている。旧「新横浜港駅」と桜木町駅を結んでいた汽車路線の跡である。平成9年(1997)遊歩道として整備された。
 この道から見上げるとロープウエイが走り、足元には過去の遺物の線路と、その空には未来のイメージのロープウエイと、そこはかとなくシュールな雰囲気がある。
その整備からすでに四半世紀が過ぎ、今は床板の入替補修工事の最中であった。
 こうして横浜も、少しご無沙汰しているうちにどんどん発展・進化して、さらに老朽化していく。いや、私自身が自分で思うより年月を経ているのかも知れない。
 汽車道が終わる「日本丸交差点」から北西に折れると、まもなく「帆船日本丸」がある。日本丸(にっぽんまる)は、日本の航海士養成のための大型練習帆船であった。Photo_20240615060002
 神戸市の川崎造船所で昭和5年(1930)建造された。その美しい姿から「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」などと呼ばれ、約半世紀にわたり活躍した。昭和59年(1984)引退し、航海練習船としての役割は日本丸2世が引き継いだ。平成29年(2017)国の重要文化財に指定されている。
 進水の後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、さきの大戦が激化した昭和18年(1943)には帆装が取り外され、大阪湾や瀬戸内海で石炭などの輸送に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,400人の引揚者を輸送し、遺骨収集にも携わった。昭和25年(1950)にはじまった朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送など特殊輸送任務にも従事した。昭和27年(1952)帆装の再設置が行われ、訓練帆船に復帰した。翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。その後昭和49年(1974)以降は遠洋航海の規模を縮小したが、「アメリカ建国200年祭」の記念行事「オペレーション・セール」に参加するため、昭和51年(1976)4月日本を出帆し、ニューヨークの北東ニューポートに6月末到着、独立記念日にニューヨークでアメリカの「イーグル」を先頭に他の大型帆船20隻と共に航走した。
 昭和59年(1984)の退役までに約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。
 この日本丸も、今回私は自転車随伴のため、見学を諦めた。

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横浜市街散策(2)

赤レンガ倉庫群
Photo_20240614060301  横浜港の海沿いの道路を西にとって返すと、赤レンガ倉庫群に着く。ここは、私が鎌倉から関西に引っ越したころになって、観光地として整備されたところである。
 明治政府が明治末期から大正期に、横浜新港埠頭建設の一環として横浜税関新港埠頭保税倉庫として建設した。保税倉庫としての役割は平成元年(1989)までに終わり、その後しばらく放置されていた。平成14年(2002)になって「横浜赤レンガ倉庫」として、1号館は展示スペース・ホールなどの文化施設、2号館は商業施設に生まれ変わり、赤レンガ倉庫の付近一帯は広場と公園を備える「赤れんがパーク」として整備された。
Photo_20240614060401  明治も中後期に入ると、江戸時代安政期(1950年代)開港から半世紀を経て、港湾の近代化への再整備が必要となった。再整備は、明治22年(1889)からの第一期で大桟橋、防波堤が、明治32年(1899)の第二期で横浜税関施設の拡張が行われた。赤レンガ倉庫はこの第二期前半の埋め立て工事の後、第二期後半に陸上施設、すなわち上屋、倉庫、鉄道、道路などの整備の一環として建設された。
 この赤レンガ倉庫の基礎工事、および地下構造がわかる遺構が残っている。
 かくてここは横浜港の新港地区であり、海運の要であった。Photo_20240614060402
 ここには「新横浜港駅」という国鉄の駅があった。明治44年(1911)横浜税関構内の荷扱所として貨物駅がつくられ、大正9年(1920)「新横浜港駅」となり、乗客が乗り降りし、東京駅から汽船連絡列車が乗り入れるようなった。列車はその後「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれた。
 関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「新横浜港駅」のプラットホームが設けられ、華やかな海外航路時代を迎えた。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用するにあたり、傷んでいた上屋を新材料で復元した。

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横浜市街散策(1)

山下公園
 大阪府の自宅を朝出て新幹線に乗り、荷物を横浜駅のコインロッカーに預けて、関内駅に降りた。Photo_20240613055001
 今回は、少し前に膝を痛めたので、いつものように歩き回ることができず、やむを得ずレンタルサイクルを借りだして、自転車で散策することとなった。
 関内の比較的見慣れた町並みを、今日は自転車で走る。「馬車道」、「万国橋通り」から大桟橋までは、あっという間についてしまう。しかし問題は、自転車では大桟橋の遊歩道に入れてもらえないのである。大桟橋も久しぶりに歩きたかったのだが仕方がない。東方向へ馴染みのある山下公園に向かう。
Photo_20240613055002  山下公園は、やはり自転車の通過は禁止だが、降りて押して歩く条件でひとまず公園には入ることができる。公園は、春の花が咲き乱れていて、長閑で華やかな雰囲気である。あいにく天候は曇りで、雨が心配な気配だが、平日なのに人出はかなり多いようだ。
 膝が心配で自転車を押しているので、軽快に動き回るわけにはいかない。ゆっくり海岸沿いに歩いて、日本郵船氷川丸のところに来た。
 「氷川丸」は、横浜船渠(現在の三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船で、日本郵船が昭和5年(1930)に竣工させた。さきの大戦中には病院船として使われた。戦後は、昭和35年(1960)まで北太平洋航路で運航された。これも自転車を置く場所があれば、船内に入場できるのだが、今回は無理である。

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「第75回研水会展」宝塚市立文化芸術センター(下)

Photo_20240612055901  他の作品を観た感想としては、今回の作品はそれぞれの画家が「なにに興味を持ったのか」「なにに美をみいだしたのか」について、その有無、強弱がかなりわかり易かったように感じた。
 木原徳子「来福門扉」という作品がある。「笑門来福」すなわち、笑う門には福来る、という言葉があるが、ここに描かれた門扉は、すっかり古ぼけて塗装も剥がれ落ち、幸せそうには見えない。この門扉がみてきた家族やその人生などを、つい想像してしまう。画家が、この画面に興味を持ったことが、私なりに理解できるような気がする。Photo_20240612060001
 芝田順子「昼下がり」は、ごくなんでもない秋の好天のなか、とてもおいしそうに成熟した柿の実がなっている、という風景である。平凡な題材で平凡な絵とも思えるが、柿のいかにもおいしそうに熟れたその輝きが見事に描かれていると思った。描く対象とそのアピールポイントを明確に意識してその表現に注力する、という一つの絵画の基本として、私は好きな絵である。
 Photo_20240612060002 児玉真澄「夕暮れ」がある。この絵は、描かれる対象はきわめて現実的な都会のビルの連なりと道路の景観なのだが、表現、とくに色彩がシュールレアル=超現実的である。ごく平凡な市民たる私でさえ、ときに都会の街並みの景観のなかで、周辺の景観と自分の存在とのあいだにふと距離を感じて、なにか不思議な超自然のなかに孤立しているように感じる瞬間がある。その感覚からは、この絵がよく理解できる気がする。ユトリロが描く爛れた人肌をあらわすかのような人間臭い建物とは対照的な表現である。Photo_20240612060101
 このところ不慣れな英語の本を読んでいて、辞書に疲れ、気分転換を兼ねて軽い気持ちでリラックスしながら絵を見てまわったので、丹精込めて作品を制作された画家の方たちには失礼だったかも、といささか後ろめたい気持ちもありつつ、全体としては楽しい鑑賞であった。
 帰途は、すぐ近くのカフェでお薦めメニューというバンケーキを食して快適な小休止を過ごしてから、再び花の道を取って返して駅までの散策を楽しんだ。ほのぼのとした初夏の快適な半日であった。

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「第75回研水会展」宝塚市立文化芸術センター(上)

Photo_20240611072701  絵画団体一水会に参加している友人が、その関西支部にあたる研水会の展覧会を紹介してくれたので、鑑賞した。6月に入ったが、今年は寒気が上空に停滞していて、梅雨をもたらす停滞前線が東南の太平洋に押しやられ、不安定な天気ながら湿度が低く、カラッとした穏やかな初夏の天候が続いている。その快適な日を、久しぶりに宝塚の街並みを楽しみつつ、絵画鑑賞に過ごした。
 阪急宝塚駅を降りて、東方向に「花の道」という緑にかこまれた快適な道を歩くと、宝塚ホテル、そして宝塚大劇場の前を経て手塚治虫記念館に突き当たる。そのすぐ隣が少し低い公園のようになっていて、宝塚市立文化芸術センターがある。私は社会人になったばかりのころ、勤務先の新人研修寮が宝塚市の東端にあったこともあり、また友人の結婚式などもあったり、宝塚にはなんどか訪れたが、こうしてゆっくり花の道を歩いたのは初めてであった。
Photo_20240611072702  休日でもあってか、宝塚市立文化芸術センターの建物の前の公園には、快適な天候のなかで寛ぐ多くの家族連れで賑わっていた。
 会場は1階と2階で、計200点ほどの作品が展示されている。
 まずは、友人の作品を観た。「飯豊連峰の朝」とのタイトルである。
 彼の作品は昨年11月に兵庫県立美術館で観て以来である。今回もおだやかな山の光景である。飯豊連峰は、新潟・宮城両県との県境に近い山形県南部の山だが、山登りを嗜むわけでもない私は、実際のこの景色を見たことはない。澄み切った朝の透明な光に輝く山肌と、おだやかな空気が描かれている美しい作品だ。尾根伝いの小径も、人間を受け入れる山の穏やかさ、あたたかさを表している。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(20)

江戸開城会見之地
 慶応義塾大学正門を出て、桜田通りへ戻り、慶応仲通り商店街を抜けて地下鉄三田駅に向かう。田町タワーにある三菱UFJ銀行三田支店の東側に入ると「江戸開城会見之地」の丸い石碑が建っている。Photo_20240610053401
 円形の石に「江戸開城/西郷南州/勝海舟/会見之地/西郷吉之助書」と大書され、裏には「慶応四年三月十四日此地薩摩邸に於いて西郷勝両雄会見し江戸城開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す」と記されている。なお西郷吉之助は、西郷隆盛の孫である。
 慶応4年(1868)年3月13日、高輪の薩摩藩下屋敷で第1回目の会談が行なわれ、続いて翌3月14日に田町にあった薩摩蔵屋敷で会談が行われた。第1回目の会談のとき、勝と西郷が一緒に愛宕山に上ったことはすでに記した。
蔵屋敷の陸側にあった田町の薩摩藩上屋敷は前年暮の「江戸薩摩藩邸焼討事件」で焼失していたため、当時は江戸湾に面していた蔵屋敷が利用されたのであった。
 会見の地については諸説あるが、通説は高輪の薩摩藩下屋敷と田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)だとされているようである。
この「江戸開城会見之地」が今回の散策コースの終点であり、私たちはJR田町駅ガード下のレンタサイクルのステーションに、借りていた自転車を返納して、散策を無事終えた。
 今年2月の突然の左脚膝関節の故障で、一時は旅行を断念しかけたが、レンタサイクルのお陰で、一日がかりの散策も無事完了することができた。前日とは打って変わって絶好の晴天のなか、とても充実した楽しい歴史散策であった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(19)

三田演説館
 福沢諭吉終焉の地の脇の坂を登り切ると、正門の正面の階段を上がり切った、校舎が立ち並ぶキャンパスに着く。この南西の隅に三田演説館が建っている。Photo_20240609055801
 この演説講堂は、今日の慶應義塾において福澤諭吉の存命中から存在する唯一の建造物であり、日本の重要文化財指定建造物となっている。
 日本銀行初代副総裁・第二代総裁を勤めた富田鐵之助を通じてアメリカから取り寄せられた図面を基に造られ、基本が洋風でありながら外観は木造寄棟瓦葺になまこ壁といった日本風のデザインが用いられている、品格のある美しい擬洋風建築である。
 通常は一般人が館内に入ることができないが、館内は2階の左右にギャラリーを設けたオーディトリアムの形式が採用され、聴衆400-500名を収容することが可能で、正面奥の演壇の背後には曲面状の壁が廻らされ、音響的にも優れたものとなっているという。
 諭吉の『学問のすゝめ』第12編に「演説とは英語にてスピイチといい、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝ふる法なり。(中略)この法の大切なるは論を俟ず。今世間にて議院などの説あれども、仮令ひ院を開くも、第一に説を述べる法あらざれば、議院も其の用を為さざる可し」と述べて、その重要性を説いている。「スピイチ」を演説、「ディベイト」を討論と翻訳したのは福澤自身であり、小泉信吉(小泉信三の父)がスピイチの方法と重要性を説いた英語冊子を福澤に示したところ、福澤がそれを認めその冊子を翻訳したときに生まれた言葉であるという。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(18)

福沢諭吉終焉の地
 三田春日神社の裏側には、慶応義塾大学のキャンパスがひろがっている。三田春日神社から桜田通りを下って三田二丁目交差点を右折して慶応義塾大学正門からキャンパスに入る。
 多くの校舎が立ち並ぶ場所に向かう正面の階段ではなく、その右脇の坂を登ると、植込みのなかに「福沢諭吉終焉の地」の碑がある。Photo_20240608054301
 幕末から擢んでた才能を発揮し、敢えて政権中央から距離をおき、さまざまな業績を残して明治維新を側面から支えた福沢諭吉だが、慶応義塾のキャンパス内に居住して、晩年にも午前中に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米搗きも続け、最期まで無造作な老書生といった風貌の生活を送ったという。このころまでに慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人にのぼる巨大高等教育機関となっていた。また時事新報も、信用の厚い大新聞となっていた。
 晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』の著作、北里柴三郎の伝染病研究所の設立への援助、などが挙げられる。また明治30年(1897)8月に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂慮する手紙を残している。
 諭吉は明治31年(1898)9月、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥ったが、このときには回復して、慶應義塾の『修身要領』を編纂した。
 しかし明治34年(1901)1月25日脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年66歳であった。衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議した。諭吉の葬儀ではここ三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わったという。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(17)

三田春日神社
 NECビル北側の道を西へ行き、桜田通り(国道1号線)を渡って南にすぐ三田春日神社がある。
 三田春日神社の前身は、平安時代の天徳2年(958)武蔵国国司の藤原正房が赴任していたとき、春日大社の第三殿に祀る天児屋根命(あめのこやねのみこと)の御神霊を、目黒区三田に勧請して建立した春日神社であった。そして戦国時代の天文年間(1533~1555)この地へ遷座した。
 なお最初に鎮座した目黒区三田には昭和9年(1934)跡地に目黒三田春日神社が再興され、昭和22年(1947)よりこの三田春日神社の兼務社となっている。Photo_20240607054801
 幕末期、ちょうどこのあたりに江戸の治安維持、とくに薩摩藩上屋敷を監視する任務を帯びた庄内藩兵の屯所があった。この庄内藩兵の主力が「新徴組」であった。
 先述の通り、文久3年(1863)清河八郎により将軍上洛の警護を目的とした浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した際に、清河八郎の「将軍より攘夷決行」との翻意を告げられ、同意できなかった者たちは京で壬生浪士組を経て新選組を旗揚げすることになったが、清河八郎に同意した者は清河に率いられて江戸に戻って「新徴組」を結成した。この新徴組は清河八郎の死後、元治元年(1864)庄内藩酒井家の預かりとなり、幕府より江戸市中警護、海防警備の命令を受けた。直接庄内藩酒井家によって強力に指導・支援・指揮される新徴組は「酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」と謳われるほど江戸の治安維持に貢献した。おまわりさんとは、古からある市中巡回の官職である御見廻り(おみまわり)に由来する愛称であるが、この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ、現代の警察官にまで続いている。
 慶応3年12月20日(1867)かねてより新徴組が薩摩藩邸を見張っていたところ、中から武装した「御用盗」たちが出てきたためこれを追撃、御用盗たちが藩邸内に逃げ帰ったことで薩摩藩の関与が決定的となった。「御用盗」とは、討幕派の武士、浪人、博徒たちを使って放火や、掠奪・暴行などを繰り返しては幕府を挑発する薩摩藩の武装行動集団のことで「薩摩御用盗」とも呼ばれた。
 数日後、今度は新徴組と庄内藩の屯所が相次いで御用盗に襲撃され、使用人が殺害された。ここに至って堪忍袋の緒が切れた庄内藩は、幕府と協議のうえ新徴組と他藩の藩兵を引き連れ、江戸薩摩藩邸を包囲し討ち入りする「江戸薩摩藩邸焼討事件」を引き起こした。これが徳川幕府を終焉に導く戊辰戦争の発端となったのであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(16)

芝さつまの道
Photo_20240606055401  古川の一之橋を渡り、古川の南側の道路を取って返して、国道1号線赤羽橋南交差点を渡り、都心環状線に沿って芝3丁目に進み、日比谷通りの1筋手前で右折して南下すると、真正面にNECビルが聳えている。その南北の道を半ばまで進むと「芝さつまの道」として整備された、少し広がった緑の多い地区に入る。これは「ホテル・ザ・セレスティン東京」を建設した三井不動産が、この地にかつて存在していた薩摩上屋敷の歴史の顕彰を目的として、島津家の子孫たちとも話し合って、薩摩ゆかりの工芸・歴史・文化を、できるだけ反映して保存しようと、地域整備したものである。Photo_20240606055402
 ホテル・ザ・セレスティン東京のロビーには、薩摩切子をあしらった壁のレリーフが設えられ、島津家の家紋である丸に十の字のモチーフが、内装のデザインに用いられている。
 江戸時代この地域周辺には、多くの大名の江戸屋敷があった。とくにこのホテルのある場所は、薩摩藩上屋敷のほぼ中央部に重なる。薩摩藩上屋敷の敷地は、東は第一京浜道近くから日比谷通りをはさみ、西は桜田通り(国道1号線)まで、東西800メートル、南北300メートルの広大なものであった。その広大な敷地の中央部分のごく一部を占めるのが、このホテル・ザ・セレスティン東京なのである。
Photo_20240606055501  このあたりには、薩摩藩のみでなく、阿波の徳島、土佐の高知、讃岐の高松、伊予の松山の四国の諸大名の藩邸があったことから、明治5年(1872)に名づけられた「三田四国町」と呼ばれた地区もある。文久元年(1861)には鹿児島藩松平(島津)修理太夫のほかにも、鳥取新田藩松平(池田)伊勢守、拳母(ころも)藩内藤山城守、徳島藩松平(蜂須賀)阿波守、山形藩水野和泉守などの屋敷があったことが記録されている。なお、水野邸は、神崎与五郎以下8名の赤穂義士が切腹した場所としても知られている。
 このスクエアの南端にあるNECビルの北辺の植込みにも「薩摩屋敷跡」の碑がある。実際、ホテル・ザ・セレスティン東京から少し離れたこの地も、やはり薩摩藩上屋敷の敷地なのであった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(15)

清河八郎暗殺現場
 中之橋を戻り、古川の北岸沿いに麻布十番まで進むと、古川には一之橋が架かり、地下鉄の麻布十番駅の上に、整備されて噴水のある小さなスクエアがある。この付近で、かつて清河八郎暗殺事件が発生した。
 清河八郎は天保元年(1830)、出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)の郷士斉藤豪寿(ひでとし)の長男として生まれた。 幼少の頃から聡明で、7歳から父親に「論語」などを学び、14歳で清川関所の役人畑田安右衛門に師事し、学問に励んだ。Photo_20240605054401
 弘化3年(1846)、17歳となった元司(八郎)は、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受け始めた。同年5月、東北巡遊中だった藤本鉄石(当時30歳、後の天誅組総裁)が齋藤家を訪ね清川村に滞在した。鉄石との出会いは、17歳となった八郎に江戸遊学の志に火をつけ、八郎の人生の転機となった。
 鉄石の話にじっとしていられなくなった八郎は、弘化4年(1847)18歳のとき、書置きを残して独断で出奔して江戸に出ると、古学派の東条一堂に入門、その後、安積艮斎塾に移って学びに励んだ。嘉永4年(1851)22歳で北辰一刀流の玄武館に入門、熱心に稽古に励み、29歳で自ら道場を開くことのできる中目録免許、31歳で北辰一刀流兵法免許を得た。まさに文武両道の人物であった。
 安政元年(1854)には師の安積艮斎の推挙を得て、最も権威ある学校であった幕府の学問所昌平黌に入学した。しかし八郎は内容のない講義に失望して退校し、25歳にして神田三河町に「経学・文章指南」の塾を開いた。それが清河塾で、八郎は初めて清河八郎を名乗る。故郷の清川村の川を河に変えた苗字であった。
 安政4年(1857)ころ、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らと出会い、尊王攘夷論で意気投合した。安政6年(1859)には神田お玉が池に三度目の塾を開き、学問だけでなく剣術も教授するという、八郎ならではの文武両道のユニークな塾であった。
 翌安政7年(1860)桜田門外の変が起こると、衝撃を受けた八郎は山岡鉄太郎をはじめ、松岡万、薩摩の伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助ら、尊王攘夷に共鳴する者たちを集め、「虎尾の会」を結成した。この同じ年(3月18日以降改元して万延元年)の12月、先述のヒュースケン事件が発生したが、「虎尾の会」のメンバーこそがヒュースケン暗殺の張本人なのであった。幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件の落着を図る一方、事態を重く見た幕府は辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになった。八郎の虎尾の会も幕府に監視されるようになった。しかし攘夷派による外国人、公使館への襲撃はおさまらず、東禅寺襲撃事件、坂下門外の変など、多くの襲撃が実行された。当然、清河八郎は危険人物として、本格的に幕府から睨まれた。
 文久元年(1861)、両国に出かけた帰り道、八郎は男にからまれ、斬り捨てた。これは幕府の罠で周囲には捕り方が潜んでいたが、八郎の腕前を恐れて近寄らず、八郎は姿を消した。しかしこの一件で八郎は幕府指名手配のお尋ね者となり、家族や仲間が捕えられた。
 その後、八郎は仙台、京都などに潜伏後、九州で遊説し、尊王攘夷の機運を高めていった。興味深いのは尊王攘夷といっても関東では攘夷を強調すべきで、西国では尊王に重点を置くべきだと認識していた点である。どうすれば人が動くのか、彼なりに計算するようになった。政治的解決には、権謀術数が必要だと考えたのだろう。八郎の言動は、複雑さ・不可解さを増していった。
 そして文久2年(1862)の薩摩藩国父島津久光の率兵上京を好機として、八郎は一気に倒幕の挙兵に持ち込もうとした。これがその後の伏見寺田屋の惨劇につながり、八郎はいわば寺田屋事件をプロデュースした男となった。もっとも寺田屋事件が起きた時、八郎は他の同志と意見が対立してすでに立ち去っており、事件には巻き込まれていなかった。
 大藩は頼るべきでないと考えた八郎は江戸に戻り、政事総裁職の松平春嶽に「急務三策」と題する建白書を提出した。その内容は「攘夷の断行、大赦の発令、天下の英才の教育」を求めるもので、尊攘派浪士に手を焼いていた幕府は、八郎の案を採用して大赦を発するとともに、上洛する将軍家茂の護衛のための浪士組をつくることにした。これで八郎は大赦により、お尋ね者を免じられた。
 文久3年(1863)2月およそ200人の浪士組は将軍家茂に先駆けて上洛、八郎も盟主的な立場で同行した。そして一行が洛西の壬生村に到着すると、八郎は一行を集め、突然独断で宣言した。
「われわれは幕府の募集に応じたが、その本分は尊王攘夷の魁たらんことにある。われわれの志を朝廷に奏上したい」
 清河八郎の本意は、将軍の警護よりも攘夷決行にあり、そのためには幕府の権威を利用して攘夷実行部隊を早急につくりあげることを目的としていたのだ。浪士たちにすれば狐につままれたような話で、幕府の役人も八郎の意外な言動に驚いた。そして八郎の奏上は、学習院を通じて朝廷に聞き届けられた。朝廷に認められた八郎は意気揚々と、再び浪士たちを集め、これより東帰し、横浜で攘夷を実行すると宣言した。これに対し「我らは将軍家の護衛が任務のはず」と従わず、京都に残ったのが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら後の「新選組」の面々であった。
 構わず八郎は、大多数の浪士を連れて江戸に戻った。しかしこの八郎の不可解な動きは幕府にマークされ、4月13日、外出した帰り道にここ麻布一ノ橋付近で、佐々木只三郎をはじめとする幕府の刺客に待ち伏せされ暗殺された。享年34歳であった。
 学問あり剣の腕にも優れ、弁舌爽やか、容姿も立派、と志士として申し分ない清河八郎ではあったが、彼の言動は複雑怪奇で、彼を評して「百才あって一誠なし」ともいわれた。人としての真情が認めてもらえず、言葉巧みに人を欺いて世の中を動かそうとした、と受け止められたのだろうか。
 いずれにしても、わずか2年半前に自分の意志でヒュースケンを殺害した現場のすぐ近くのこの場所で、今度は自分が暗殺されることになったのは、いかにも皮肉なめぐりあわせである。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(14)

中之橋とヒュースケン事件
 飯倉公園の南側道路を西に行き、ビルに突き当たるところを左折して南に少し下ると、古川という小さな川とそこに架かる「中之橋」という小さな橋がある。Photo_20240604101401
 古川は、もとは渋谷川の下流であったが、現在の渋谷川の東端となった天現寺橋で中断し、天現寺橋下の笄川(こうがいがわ)合流点から浜崎橋先の河口までの、江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていた小川である。現在は流れてはいないようである。
 「中之橋」は、新堀橋架設以前、赤羽橋と一之橋の間にあったので、この橋名になったといわれている。
 この中之橋の通路の両側の車道側欄干に、かなり古びた縦長小型で金属製の説明板が計8枚ほど設置されている。金属板の腐食があり、文字もかなり読みにくくなっている。
 この一部に、幕末のヒュースケン事件について触れられている。
ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(1832~1861)は、アムステルダム生まれのオランダ人で、14歳の時に父を亡くし、21歳の時に母を残し単身アメリカに渡り、アメリカ国籍を取得した。
 渡米後は職を転々とし、食うや食わずの生活を余儀なくされたが、彼が日頃よく足を運んでいた教会の牧師から「今度日本に派遣されるタウンゼント・ハリスという男がオランダ語を話せる若者を通訳として雇いたがっている」という話を聞き、応募して採用された。安政3年(1856)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに伴われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。
 万延元年(1860)12月プロイセン王国使節宿舎であったさきほどの赤羽接遇所から、ここからわずか500メートル余りのアメリカ公使館が置かれた麻布一丁目の善福寺への帰途において、この中の橋の北側で清河八郎がつくった攘夷派『虎尾の会』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助らに腹部を深く斬られ、善福寺宿舎に運ばれたが翌日に死去した。28歳であった。
 1855年から1861年まで記された『ヒュースケン日本日記』((Japan Journal, 1855-1861) 青木枝朗訳、校倉書房のち岩波文庫)は、下田に到着するまでの日本に向う南方航路の印象、外交折衝や日本での見聞をつづったもので、幕末外交史の貴重な史料となっている。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(13)

赤羽接遇所跡Photo_20240603072201
 日比谷通りを芝公園交差点まで下り、右折して外苑東通りを西に進む。国道1号線を渡ってまもなく右折すると、少しほそい小径のさきに「飯倉公園」というちいさな公園がある。この公園の一角に「赤羽接遇所跡(あかばねせつぐうしょあと)」という説明板が建っている。
Photo_20240603072202  赤羽接遇所は、幕末の安政6年8月(1859)それまで講武所付属調練所であった飯倉五丁目の地2800坪(現在の東京都港区東麻布1丁目12番、14番などを含む)に、作事奉行関出雲守行篤らによって建設された外国人のための宿舎兼応接所である。黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれ、内部は間口10間、奥行20間のものと、間口奥行各10間のものとの2棟の木造平屋家屋から成っていた。
 幕末に日本を訪れたプロイセンの使節オイレンブルクは、上陸後ただちにここを宿舎として日普修好通商条約を結んだ。またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケーヴィチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(12)

遣米使節記念碑
 同じ緑地内のペルリ提督の像に向かい合うかのように建っているのが「遣米使節記念碑」である。
 安政7年(1860)1月、米国海軍の外輪フリゲート艦「ポーハタン号」は、日米修好通商条約の批准書を交換する正使の大役を帯びた新見正興(しんみまさおき)、副使村垣範正(むらがきのりまさ)、監察小栗忠順(おぐりただまさ)など日本使節団77人(役人20人、従者51人、賄方3人など)を乗せ横浜を出港した。
 途中で時化(しけ)に遭遇し、石炭を余分に消費したためハワイ王国・ホノルルに立ち寄り、サンフランシスコに寄港の後、ようやくパナマへ着いた。Photo_20240602060701
 パナマ地峡鉄道(パナマ〜コロン、世界最短の大陸横断鉄道)で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク」に乗って大西洋を北上し、さらに小蒸気船に乗り換えてポトマック川を遡り、首都ワシントンD.C.に万延元年(1860)閏3月25日到着した。
 一行は大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日国務長官ルイス・カスと日米修好通商条約の批准書を交換した。
 同時に別船として派遣された幕府海軍の「咸臨丸」(木村喜毅、勝海舟、福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎などが乗船)が知られているが、勝海舟は船酔いに悩まされて実務ができず、往路の嵐はジョン・マーサー・ブルック大尉などアメリカ人11人が運航に携わったなど、後世に伝えられる「活躍」「勇躍」とは異なる状況であった。それでも、勝海舟はアメリカでの砲台、製鉄所、ガス灯などの視察を行い、帰国後に神戸に海軍操練所を設けるなどして活かしていた。
 使節団が渡米していた9ヶ月の間、日本国内では桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されるなど、尊皇攘夷運動が高まり、アメリカでの経験を十分に直ちに幕政に活かすことはできなかった。
記念碑はちょうど100年後となる昭和35年(1960)、日米修好通商百年記念行事運営会が建立した。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(11)

ペルリ総督の像
 日比谷通りを東側に渡って、芝公園緑地の道路を挟んだ飛び地のような区域に入り、日比谷通りをはさんで増上寺の三解脱門が見えるところあたりに「ペルリ総督の像」が日比谷通りに面する方向に建っている。Photo_20240601053601
 「ペルリ」というのは、英語的な読みではなく、外国語としては当時わが国に親しみがあったオランダ語的な読みからそうなったそうだ。
 この容貌は、私たち普通の日本人が教科書などで知るペリー提督の顔とは、かなり違う。一言で言って、クラシックの歌手や俳優のような、細面の西洋的な美男子である。そうなった原因は、日本の瓦版や初期の新聞に登場していた似顔絵が、実はペリー提督を直接目にしたことがない絵描きによる似顔絵であった、と言うことらしい。実物はもっと西洋的、たぶん美男子だったようだ。
 歴史史料の検証には、こうした側面も大事だと改めて思った。

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