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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(15)

清河八郎暗殺現場
 中之橋を戻り、古川の北岸沿いに麻布十番まで進むと、古川には一之橋が架かり、地下鉄の麻布十番駅の上に、整備されて噴水のある小さなスクエアがある。この付近で、かつて清河八郎暗殺事件が発生した。
 清河八郎は天保元年(1830)、出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)の郷士斉藤豪寿(ひでとし)の長男として生まれた。 幼少の頃から聡明で、7歳から父親に「論語」などを学び、14歳で清川関所の役人畑田安右衛門に師事し、学問に励んだ。Photo_20240605054401
 弘化3年(1846)、17歳となった元司(八郎)は、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受け始めた。同年5月、東北巡遊中だった藤本鉄石(当時30歳、後の天誅組総裁)が齋藤家を訪ね清川村に滞在した。鉄石との出会いは、17歳となった八郎に江戸遊学の志に火をつけ、八郎の人生の転機となった。
 鉄石の話にじっとしていられなくなった八郎は、弘化4年(1847)18歳のとき、書置きを残して独断で出奔して江戸に出ると、古学派の東条一堂に入門、その後、安積艮斎塾に移って学びに励んだ。嘉永4年(1851)22歳で北辰一刀流の玄武館に入門、熱心に稽古に励み、29歳で自ら道場を開くことのできる中目録免許、31歳で北辰一刀流兵法免許を得た。まさに文武両道の人物であった。
 安政元年(1854)には師の安積艮斎の推挙を得て、最も権威ある学校であった幕府の学問所昌平黌に入学した。しかし八郎は内容のない講義に失望して退校し、25歳にして神田三河町に「経学・文章指南」の塾を開いた。それが清河塾で、八郎は初めて清河八郎を名乗る。故郷の清川村の川を河に変えた苗字であった。
 安政4年(1857)ころ、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らと出会い、尊王攘夷論で意気投合した。安政6年(1859)には神田お玉が池に三度目の塾を開き、学問だけでなく剣術も教授するという、八郎ならではの文武両道のユニークな塾であった。
 翌安政7年(1860)桜田門外の変が起こると、衝撃を受けた八郎は山岡鉄太郎をはじめ、松岡万、薩摩の伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助ら、尊王攘夷に共鳴する者たちを集め、「虎尾の会」を結成した。この同じ年(3月18日以降改元して万延元年)の12月、先述のヒュースケン事件が発生したが、「虎尾の会」のメンバーこそがヒュースケン暗殺の張本人なのであった。幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件の落着を図る一方、事態を重く見た幕府は辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになった。八郎の虎尾の会も幕府に監視されるようになった。しかし攘夷派による外国人、公使館への襲撃はおさまらず、東禅寺襲撃事件、坂下門外の変など、多くの襲撃が実行された。当然、清河八郎は危険人物として、本格的に幕府から睨まれた。
 文久元年(1861)、両国に出かけた帰り道、八郎は男にからまれ、斬り捨てた。これは幕府の罠で周囲には捕り方が潜んでいたが、八郎の腕前を恐れて近寄らず、八郎は姿を消した。しかしこの一件で八郎は幕府指名手配のお尋ね者となり、家族や仲間が捕えられた。
 その後、八郎は仙台、京都などに潜伏後、九州で遊説し、尊王攘夷の機運を高めていった。興味深いのは尊王攘夷といっても関東では攘夷を強調すべきで、西国では尊王に重点を置くべきだと認識していた点である。どうすれば人が動くのか、彼なりに計算するようになった。政治的解決には、権謀術数が必要だと考えたのだろう。八郎の言動は、複雑さ・不可解さを増していった。
 そして文久2年(1862)の薩摩藩国父島津久光の率兵上京を好機として、八郎は一気に倒幕の挙兵に持ち込もうとした。これがその後の伏見寺田屋の惨劇につながり、八郎はいわば寺田屋事件をプロデュースした男となった。もっとも寺田屋事件が起きた時、八郎は他の同志と意見が対立してすでに立ち去っており、事件には巻き込まれていなかった。
 大藩は頼るべきでないと考えた八郎は江戸に戻り、政事総裁職の松平春嶽に「急務三策」と題する建白書を提出した。その内容は「攘夷の断行、大赦の発令、天下の英才の教育」を求めるもので、尊攘派浪士に手を焼いていた幕府は、八郎の案を採用して大赦を発するとともに、上洛する将軍家茂の護衛のための浪士組をつくることにした。これで八郎は大赦により、お尋ね者を免じられた。
 文久3年(1863)2月およそ200人の浪士組は将軍家茂に先駆けて上洛、八郎も盟主的な立場で同行した。そして一行が洛西の壬生村に到着すると、八郎は一行を集め、突然独断で宣言した。
「われわれは幕府の募集に応じたが、その本分は尊王攘夷の魁たらんことにある。われわれの志を朝廷に奏上したい」
 清河八郎の本意は、将軍の警護よりも攘夷決行にあり、そのためには幕府の権威を利用して攘夷実行部隊を早急につくりあげることを目的としていたのだ。浪士たちにすれば狐につままれたような話で、幕府の役人も八郎の意外な言動に驚いた。そして八郎の奏上は、学習院を通じて朝廷に聞き届けられた。朝廷に認められた八郎は意気揚々と、再び浪士たちを集め、これより東帰し、横浜で攘夷を実行すると宣言した。これに対し「我らは将軍家の護衛が任務のはず」と従わず、京都に残ったのが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら後の「新選組」の面々であった。
 構わず八郎は、大多数の浪士を連れて江戸に戻った。しかしこの八郎の不可解な動きは幕府にマークされ、4月13日、外出した帰り道にここ麻布一ノ橋付近で、佐々木只三郎をはじめとする幕府の刺客に待ち伏せされ暗殺された。享年34歳であった。
 学問あり剣の腕にも優れ、弁舌爽やか、容姿も立派、と志士として申し分ない清河八郎ではあったが、彼の言動は複雑怪奇で、彼を評して「百才あって一誠なし」ともいわれた。人としての真情が認めてもらえず、言葉巧みに人を欺いて世の中を動かそうとした、と受け止められたのだろうか。
 いずれにしても、わずか2年半前に自分の意志でヒュースケンを殺害した現場のすぐ近くのこの場所で、今度は自分が暗殺されることになったのは、いかにも皮肉なめぐりあわせである。

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