東京都心「幕末維新動乱コース」散策(12)
遣米使節記念碑
同じ緑地内のペルリ提督の像に向かい合うかのように建っているのが「遣米使節記念碑」である。
安政7年(1860)1月、米国海軍の外輪フリゲート艦「ポーハタン号」は、日米修好通商条約の批准書を交換する正使の大役を帯びた新見正興(しんみまさおき)、副使村垣範正(むらがきのりまさ)、監察小栗忠順(おぐりただまさ)など日本使節団77人(役人20人、従者51人、賄方3人など)を乗せ横浜を出港した。
途中で時化(しけ)に遭遇し、石炭を余分に消費したためハワイ王国・ホノルルに立ち寄り、サンフランシスコに寄港の後、ようやくパナマへ着いた。
パナマ地峡鉄道(パナマ〜コロン、世界最短の大陸横断鉄道)で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク」に乗って大西洋を北上し、さらに小蒸気船に乗り換えてポトマック川を遡り、首都ワシントンD.C.に万延元年(1860)閏3月25日到着した。
一行は大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日国務長官ルイス・カスと日米修好通商条約の批准書を交換した。
同時に別船として派遣された幕府海軍の「咸臨丸」(木村喜毅、勝海舟、福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎などが乗船)が知られているが、勝海舟は船酔いに悩まされて実務ができず、往路の嵐はジョン・マーサー・ブルック大尉などアメリカ人11人が運航に携わったなど、後世に伝えられる「活躍」「勇躍」とは異なる状況であった。それでも、勝海舟はアメリカでの砲台、製鉄所、ガス灯などの視察を行い、帰国後に神戸に海軍操練所を設けるなどして活かしていた。
使節団が渡米していた9ヶ月の間、日本国内では桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されるなど、尊皇攘夷運動が高まり、アメリカでの経験を十分に直ちに幕政に活かすことはできなかった。
記念碑はちょうど100年後となる昭和35年(1960)、日米修好通商百年記念行事運営会が建立した。

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