東京都心「幕末維新動乱コース」散策(18)
福沢諭吉終焉の地
三田春日神社の裏側には、慶応義塾大学のキャンパスがひろがっている。三田春日神社から桜田通りを下って三田二丁目交差点を右折して慶応義塾大学正門からキャンパスに入る。
多くの校舎が立ち並ぶ場所に向かう正面の階段ではなく、その右脇の坂を登ると、植込みのなかに「福沢諭吉終焉の地」の碑がある。
幕末から擢んでた才能を発揮し、敢えて政権中央から距離をおき、さまざまな業績を残して明治維新を側面から支えた福沢諭吉だが、慶応義塾のキャンパス内に居住して、晩年にも午前中に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米搗きも続け、最期まで無造作な老書生といった風貌の生活を送ったという。このころまでに慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人にのぼる巨大高等教育機関となっていた。また時事新報も、信用の厚い大新聞となっていた。
晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』の著作、北里柴三郎の伝染病研究所の設立への援助、などが挙げられる。また明治30年(1897)8月に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂慮する手紙を残している。
諭吉は明治31年(1898)9月、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥ったが、このときには回復して、慶應義塾の『修身要領』を編纂した。
しかし明治34年(1901)1月25日脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年66歳であった。衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福澤諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議した。諭吉の葬儀ではここ三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わったという。
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