2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
フォト
無料ブログはココログ

« 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(13) | トップページ | 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(15) »

東京都心「幕末維新動乱コース」散策(14)

中之橋とヒュースケン事件
 飯倉公園の南側道路を西に行き、ビルに突き当たるところを左折して南に少し下ると、古川という小さな川とそこに架かる「中之橋」という小さな橋がある。Photo_20240604101401
 古川は、もとは渋谷川の下流であったが、現在の渋谷川の東端となった天現寺橋で中断し、天現寺橋下の笄川(こうがいがわ)合流点から浜崎橋先の河口までの、江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていた小川である。現在は流れてはいないようである。
 「中之橋」は、新堀橋架設以前、赤羽橋と一之橋の間にあったので、この橋名になったといわれている。
 この中之橋の通路の両側の車道側欄干に、かなり古びた縦長小型で金属製の説明板が計8枚ほど設置されている。金属板の腐食があり、文字もかなり読みにくくなっている。
 この一部に、幕末のヒュースケン事件について触れられている。
ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(1832~1861)は、アムステルダム生まれのオランダ人で、14歳の時に父を亡くし、21歳の時に母を残し単身アメリカに渡り、アメリカ国籍を取得した。
 渡米後は職を転々とし、食うや食わずの生活を余儀なくされたが、彼が日頃よく足を運んでいた教会の牧師から「今度日本に派遣されるタウンゼント・ハリスという男がオランダ語を話せる若者を通訳として雇いたがっている」という話を聞き、応募して採用された。安政3年(1856)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに伴われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。
 万延元年(1860)12月プロイセン王国使節宿舎であったさきほどの赤羽接遇所から、ここからわずか500メートル余りのアメリカ公使館が置かれた麻布一丁目の善福寺への帰途において、この中の橋の北側で清河八郎がつくった攘夷派『虎尾の会』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助らに腹部を深く斬られ、善福寺宿舎に運ばれたが翌日に死去した。28歳であった。
 1855年から1861年まで記された『ヒュースケン日本日記』((Japan Journal, 1855-1861) 青木枝朗訳、校倉書房のち岩波文庫)は、下田に到着するまでの日本に向う南方航路の印象、外交折衝や日本での見聞をつづったもので、幕末外交史の貴重な史料となっている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(13) | トップページ | 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(15) »

散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(13) | トップページ | 東京都心「幕末維新動乱コース」散策(15) »