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2024年11月

深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(8)

誠之堂と清風亭
 尾高惇忠生家を出て下手計(しもてばか)交差点を右折して14号線に入り、小山川の橋を渡ってすぐのところに大寄公民館がある。この公民館の敷地に、誠之堂と清風亭がある。Photo_20241130054901
 これらはともに東京都世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていた建物を、この地に移築・復元したものである。清和園にあったときはあまり公開されることがない建造物であったが、建築研究者や建築関係者の間では、いずれも日本建築史上、大正期建築を代表するものとして注目されていた。
Photo_20241130055001  しかし昭和46年(1971)清和園の敷地の過半は、聖マリア学園(セント・メリーズ・インターナショナルスクール)に売却された。建物と敷地は第一勧業銀行の所有であったが、平成9年(1997)学園の施設拡張にともない、これらの建物は取り壊しの危機に瀕することとなった。渋沢栄一を輩出した深谷市としては、貴重な文化遺産が取り壊されるのを看過できず、譲り受けに乗り出したのであった。
 ただ、このような繊細な煉瓦構造物の移築はわが国でも先例がなく、移築方法に検討が必要であった。深谷市につくった移築保存検討委員会の研究・検討の結果、煉瓦壁をなるべく大きな単位で切断して搬送し、移築先で組み直す「大ばらし」という新規な工法を採用することとした。2年間の解体・復元の工事を経て、平成11年(1999)8月移築・復元が完了した。
 誠之堂は、大正5年(1916)渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行の行員たちの出資により建築されたものである。
 渋沢栄一の大きな業績のひとつが第一国立銀行の創設であり、渋沢栄一は自らその初代頭取を勤めた。栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任したが、こうして誠之堂建設の出資にその行員たちの多数が関わったことから、栄一が行員たちから深く敬愛されていたことがわかる。
 「誠之堂」の命名は栄一自身によるもので、儒教の「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也」、すなわち、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり、のことばに因んだものである。
 設計は、当時の代表的建築家のひとり田辺淳吉が担当した。設計の条件として、西洋風の田舎屋で、建坪は30坪程度とされ、田辺淳吉独自の発想を凝縮してこの建物が実現した。建築面積112㎡、煉瓦造平屋建て、外観はイギリス農家風ながらも、室内や裏面のところどころに日本風あるいは中国・朝鮮の東洋風のデザインを取り入れ、独特の魅力的な建物を実現している。Photo_20241130055101
 外部壁面には白色・薄茶色・褐色の3色の煉瓦をリズミカルに配置して、装飾性と心地よい軽快さを与えている。いずれも深谷市内の日本煉瓦製造株式会社で焼かれたもので、実は白色や薄茶色の色の薄いものは、製品規格から外れた不合格品を有効活用したという。
 化粧の間や大広間には、森谷延雄のデザインによるステンドグラスを取り入れた窓がある。大広間の円筒型漆喰天井(ヴォールト天井)は、石膏レリーフで雲、鶴、松葉の緑、寿の文字が配され、次之間の天井は、日本的な網代天井で数寄屋造りを取り入れている。
 清風亭は、大正15年(1926)当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂に並べて建てられたものであった。建築資金は、誠之堂と同様に行員たちの出資による。
Photo_20241130055102  佐々木は、28歳の若さで第一国立銀行本店支配人に就き、大正5年(1916)渋沢栄一を継いで第一銀行第2代頭取となった人物であった。勤勉精励、謹厳方正な人柄で、終始栄一を補佐したという。
 清風亭は、当初佐々木の雅号をとって「茗香記念館(めいこうきねんかん)」と称されたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになった。
 設計者は、銀行建築で高名な西村好時である。建築面積168㎡で鉄筋コンクリート造り平屋建、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントを加えている。「南欧田園趣味」として当時流行していたスペイン風の様式が取り入れられている。大正12年(1923)関東大震災を契機に、建築は煉瓦造りから鉄筋コンクリートに主流が代わったが、その最初期の建造物として建築史上貴重なものとされる。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(7)

尾高惇忠生家
Photo_20241129055101  旧・渋沢邸「中の家」と諏訪神社がある血洗島から14号線下手計交差点を目指して東方向に行く。下手計交差点の少し手前の北側に尾高惇忠生家がある。
 尾高惇忠は、渋沢栄一の10年年長の従兄であり、天保元年(1830)この家に生まれた。この家を建てて住み始めたのは惇忠の曽祖父尾高磯五郎であった。「油屋(あぶらや)」の屋号で呼ばれ、この地の有力な豪農でかつ商人であった。Photo_20241129055102
 磯五郎の3代後の惇忠は、尾高勝五郎保孝の長男であった。惇忠は、栄一の妻となった千代の兄であり、栄一の見立て養子となった平九郎の兄でもあった。また富岡製糸場長を勤めていた惇忠の依頼・指示により富岡製糸場の伝習工女第一号となった、惇忠の長女ゆうがいた。これらのひとびとがみなこの家で生まれ、成長した。
 また若き日の惇忠や栄一らが尊王攘夷運動に共鳴して、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議を行ったのもこの家の2階座敷であった。
 この屋敷は、やはり典型的な豪農の屋敷であるが、天井が高く、畳は江戸畳よりひとまわり大きく、それぞれの部屋が大きく、商いの店頭としても便利なように、広く開いた2間続きの間口が特徴である。
 煉瓦造りの大きな土蔵も特徴である。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(6)

諏訪神社と渋沢青淵翁喜寿碑
 渋沢邸「中の家」を出て、すぐ近くに諏訪神社がある。Photo_20241128060401
これはこの地の鎮守社で古来より武将の崇敬が厚く、古くは源平時代に岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が戦勝を祈願し、戦国時代は皿沼城が鎮守社とし、江戸時代には領主安倍摂津守が参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)渋沢栄一の喜寿を記念して、境内に渋沢青淵翁喜寿碑が村民によって建てられた。神社の拝殿は、渋沢栄一がこれに応えて造営・寄進したものである。
Photo_20241128060501  栄一は、帰京のたびにかならずこの社に参詣したという。そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを、楽しみとしていたという。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。

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フーバーの著作からウクライナ戦争と日本を考える

 ハーバート・フーバー『裏切られた自由』を読んで、私は大きな衝撃を受けた。私たちが教えられてきた近現代史に間違いがあることも大きな問題だが、現在の世界情勢を考えると、目の前にもっと切実な懸念がある。いちばん具体的なのは2年以上続くウクライナ戦争である。そしてそれは日本にとって、決して他人ごとではない。

フーバーの考え方
 著書でフーバーが主張していることを簡単にまとめる。
(1)もっとも重要なのは国民の自由であり、その前提のもとに民主主義の政治を行うことである。共産主義・社会主義は、必然的に独裁体制をともなうので、間違っている。
(2)自国に直接関係しない戦争・紛争には関わってはならない、という原則、は自国にとっても相手国にとっても重要である。
(3)相手国が戦争に直面しているなら、その国の行動はその国の判断・行動に任せ、戦争が終わってから、その国が望む支援に努めるべきである。
(4)それぞれの国がどのような方針でどのような政治体制を選ぶかは、その国の意志によるべきであり、相手の国に自国の政治信条(自由、民主主義など)を押し付けてはならない。
 フーバーは、第二次世界大戦直前にヨーロッパ諸国を歴訪して、ヒトラーのドイツの猛威に脅かされるベルギーなどヨーロッパのいくつかの国々の首脳に面談した。そこでアメリカから軍事支援が欲しいわけではない、自分たちの国にも独自の考えがあり、アメリカの政治方法・政治文化をそのまま取り入れることも望まない、しかしもし戦争になったら終戦後に復興支援をして欲しい、アメリカは自由で開かれた大国として悠然と構えていて欲しい、と要望された。
 しかしドイツの脅威に怯えたチャーチルは、アメリカの参戦を熱望するとともに、ヒトラーに対抗するためにソビエトのスターリンに接近した。なぜか容共的で共産主義シンパともとれるルーズベルトは、ヨーロッパに積極的に介入し、チャーチルとともにスターリンに接近し、日本に真珠湾攻撃を起こさせてアメリカを参戦させ、大戦末期になってソ連に対日参戦を働きかけた。
 このようなチャーチルとルーズベルトの行動、とくにルーズベルトのヨーロッパ介入とスターリンへの接近に対して、フーバーは厳しく非難している。
 第二次世界大戦とその後の冷戦において、フーバーの考えは、戦争の拡大と戦後の共産主義国の拡大を回避するうえで、きわめて妥当で合理的なものであったと思われる。

第二次世界大戦におけるルーズベルト大統領について
 ルーズベルトは意外にも、ソビエトのスターリンに対して異常なほど好意的で依存してさえいた。その要因を考える。
(1)ニューディールをはじめ、経済に政府が介入する計画経済を重視する考えを持ち、アメリカでも保守派から「共産主義的」と非難されることさえあったように、反社会主義、反共産主義の意思はなく、ある程度共産主義を許容する傾向があったようだ。
(2)その傾向とも関連して、身近にアルジャー・ヒス、ディーン・アチソンなど多くの共産主義者を抱えていた。
(3)当時は、ソ連が建国してまだ10年余り(東日本大震災から現在まで程度)だったので、共産主義の深刻な問題、数々の裏切り、その悪辣さをまだよく理解していなかったのではないだろうか。
(4)戦争が始まってしまうと、勝つことこそが最大の目標と義務になって、利用できるものは最大限利用することが当たり前になってしまった。対日戦争の勝利のために、建国後まだ日の浅いソ連の指導者スターリンを、都合よく利用できると楽観したと推測する。
(5)もとから積極的であったかどうかはともかく、イギリス・フランスなどヨーロッパの国々の首脳から頼まれると、なんらかの支援をせざるを得ないと考えたようだ。

自由・民主主義の他国への要請
 第二次世界大戦終戦後、アメリカがまもなく始めたVoice of Americaなどの情報戦のアプローチは、冷戦の始まりが明確になると強化され、1989年の冷戦の終焉(ソビエトの崩壊)まで、軍事力を行使しないで共産主義国家を攻撃する有力な手段であった。アメリカは、このアプローチの成功を受けて、相手国に、アメリカの自由の重視、民主主義の政治体制を宣伝し教え込み、その実現を求める傾向があった。この傾向は、1989年のソビエト崩壊のあと、ますます強くなり、アフリカなどの新興国をはじめ、ソビエト体制が崩壊した後のロシアや、アフガニスタンに適用しようとしたが、いずれも失敗している。

ウクライナ戦争にどう対処すべきか
 現在、私たちの目の前に大きな脅威が立ちはだかっている。これまでの経緯としては
・バイデン政権は、ウクライナ戦争に対して、武器供与という手段でウクライナを支援している。理不尽なロシアの侵略行為という国家の悪にたいする正義の行動と考えられる。そしてヨーロッパ諸国も日本も、このバイデンの考えに同意している。
・しかしこれは、フーバーの考える方針とは食い違っている。ウクライナはヨーロッパではあるが、アメリカからは遠く、アメリカが直接侵略されたわけではない。
・バイデンは、これまではロシアとの直接戦争に突入することを慎重に回避しようと、ウクライナに提供した武器の使用に対して、大きな制限を加えてきたが、戦争の当事者たるウクライナにすれば、このままでは戦争に勝利できる見込みが立たず、バイデンの要請を遵守するにも限度があるだろう。
・しかし最近になって、北朝鮮の参戦などウクライナ戦争がより激化し、複雑化し、さらにバイデンの政権も終わりに近づいて、ウクライナに対する武器使用範囲の制限も緩和の傾向にある。
 さて、これらがルーズベルトの時代と大きく異なるのは、現在では共産主義国家を母体とする現在のロシアの非正義・悪辣さがよくわかっている。また、バイデンは、ルーズベルトよりはるかに反共産主義、反社会主義の意志が明確である。しかしロシアが核の脅しなどを持ち出してきて、この局地的戦争がロシアとアメリカの全面戦争になる可能性も否定できなくなっている。
 これからどうなりそうかを考えると
・アメリカの大統領がバイデンからトランプに代わることとなった。トランプは、ウクライナへの武器供与に否定的で、ウクライナとロシアに対して停戦を呼びかけると言っている。その表明には、ウクライナのみならず、多くの西側諸国が違和感と反感で困惑している。しかしこのトランプの方針は基本的にはフーバーの意見により近いと言える。
・しかし、その場合大きな確率で、不当に侵略されたウクライナが、ロシアに大きな譲歩(領土割譲)を強いられる見込みである。プーチンの残虐な暴力が、結局は成果を獲得するという結果を導くのだ。

日本の立場から考えた場合
・日本は、法文的には憲法九条で軍事力保持まで否定し、防衛のための交戦さえ明確には保証されていない。防衛の軍事力は大きくアメリカに依存している(つもりである)。
・日本がもしウクライナのように、他国から侵略を受けたとき、どのようにして国土を防衛するのかは、われわれ国民にとって深刻で重大な問題である。
・フーバーの考えによれば、地理的に日本はアメリカから遠く離れていて、アメリカが介入すべきでない、すなわち日本を軍事的に支援すべきでない、ということになる。日本は、まずは自分で(自国の力で)防衛を実行すべきである、ということになる。
・十分な防衛力を保持しない日本は、軍事的に強大な国から蹂躙されたら、ほぼ無抵抗に降伏して、ひれ伏さざるを得ないことになる可能性が高いが、独立主権国家としてそれがほんとうに正しいのか。
・日米安全保障条約はあるものの、当然ながら直接的な世界大戦への拡大を回避したいアメリカが、日本が自力で十分に戦えないとき、どこまで日本の防衛に関与してくれるのか。
・そもそも現時点では、他国から侵略を受けたとき、自国の防衛のために(自衛隊はともかく)日本人が自ら戦う意志と覚悟があるのか。
 このような深刻な問題が迫ってきている状況下で、私たちは憲法改正ができないのを傍観し、被団協のノーベル平和賞を喜んでいて良いのだろうか。マスコミも野党も学者先生も評論家も芸人も、毎日朝から晩までさまざまな「疑惑問題」や「政治とカネ」ばかりを、ほとんど同じことを繰り返し報道している。それで視聴率や支持率を支えるわれわれ視聴者や国民にも大いに問題があろう。
 フーバーの時代と現在とでは、状況や条件が異なる、という指摘も可能性もあるかも知れない。それならそれで政府も国民も、そういうことも併せて真剣に考えて、対処方法と手段を具体化しなければならないであろう。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(5)

旧渋沢邸「中の家」
 渋沢栄一記念館を出て、まっすぐ南に少し行くとT字路となり、右折して西にしばらく行くと、渋沢栄一生地・旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に着く。Photo_20241127074101
 この地は「血洗島(ちあらいじま)」と呼ばれ、早くは戦国時代の天文6年(1537)に下総国の吉岡和泉重行が当地に移住して開墾を始め、戸数は5軒だった、との記録があるそうだが、江戸時代になって、渋沢家も草分け百姓のひとりであったという伝承がある。
 「血洗島」の「島」だが、この「島」のつく地名は深谷市内で多くみられ、利根川の氾濫によって形成された自然堤防の上や、島のようにわずかに盛り上がった土地の名前として出現しているそうだ。
 この「血洗島」の地名の由来としては、荒れ地を表わす「地荒れ」や、大河川利根川に近い低地で常に川の水に洗われることから「地洗れ」が変化したとも、あるいはアイヌ語で「下」「終」「端」を意味する「ケシ」が「下の外れの島」を意味する「ケセン」に変化したとも言われ、これに「血洗」の文字が充てられたとの説もあるそうである。
 渋沢栄一は、赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を失い、その傷口をこの地で洗ったために「血洗島」という村名になった、と伝説を語っている。ちなみに従兄の尾高惇忠の家がある「手計(てばか)」という地名は、切り落とされた手を葬るための墓を掘って埋葬したことから「手墓」となり、それが「手計」となったという言い伝えもあるそうだ。
 渋沢家は江戸時代からこの地に複数の分家をもつ一族として存在がわかっている。「中の家」の呼び名は、「東の家」などもあることから、家の位置関係を表していると推測されている。典型的な豪農の屋敷で、母屋のまわりを副屋、土蔵、正門、東門が囲み、この地方における養蚕家屋敷の様式をよくとどめている。
栄一の父渋沢市郎右衛門(元助)は、渋沢家「東の家」から「中の家」のえい(栄一の母)に婿入りしてきた。質素倹約に勤め、持ち前の勤勉で農業に励み、藍玉製造の名手として「中の家」の再興に貢献した。
 栄一の妹ていは、明るくユーモアある人柄で、故郷を出て行った栄一の代わりに「中の家」をよく守った。親戚の須永家から婿入りした市郎(才三郎)は、勤勉誠実の人柄で、家業の養蚕に励み、さらに八基村長、県会議員などを歴任し、 小山川の治水、八基信用組合の設立にも尽力した。
 市郎・ていの長男渋沢元治は、東京帝国大学工科電気工学科を卒業して欧米に留学の後、逓信省に入り、勃興期の電気事業の監督行政に携わり、電気事業法の制定に貢献した。また工学博士として東京帝国大学教授、名古屋帝国大学初代総長を歴任した。退官後はこの地に戻り、晩年を過ごしている。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(4)

渋沢栄一記念館
 カフェを出て、一般道を少し北に向かい45号線に入って西に向かう。新成交差点を過ぎて大塚交差点を右折して14号線に入り少し北上すると「渋沢栄一記念館」の案内標識があって、それにしたがって進むと渋沢栄一が名乗った号である「青淵」に因んだ緑地「青淵公園」に行き当たり、やがて渋沢栄一記念館に到着する。Photo_20241126055301
 渋沢栄一記念館は、この地深谷市八基(やつもと)の公民館と併設の形で1995年11月建設された立派な建物である。1階は渋沢栄一の生涯の歩みを丁寧に解説・展示している。
 渋沢栄一は、幕末の天保11年(1840)この地の血洗島村に穀物と野菜に加えて藍玉と養蚕を営む豪農の長男として生まれた。渋沢家は、製造のみならず買入・販売をも営んだので商業的な才覚に富み、栄一も若くして村を出て藍玉の目利き・買入、販売にかかわり、商いの基礎を学ぶ機会に恵まれた。当時の商業のさまざまな問題・課題を熟知していたことが、後にヨーロッパを訪れたときに、近代的・合理的な経済システムや諸制度を能動的に理解・導入する下地となり、さらに現実的な合理主義の意識形成につながった。
 父は漢籍の知識も有り、さらに従兄の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は論語・四書五経・日本外史などに詳しく、これらの人たちから早くから多くを学ぶことができた。剣術も在郷の師範から神道無念流を学んだ。
 安政5年(1858)18歳のとき、尾高惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代と結婚した。
 文久元年(1861)江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入門、勤皇志士と知り合うと、尊王攘夷の思想に染まり、文久3年(1863)従兄弟の尾高惇忠や渋沢喜作たちと、高崎城を襲って占拠し、横浜外国人居留地を焼き討ちにするという計画を断行しようとした。しかしこのとき、尾高惇忠の弟長七郎の諫めを受け入れて断念した。
 しかしここまでの挙動から、親族への類が及ぶことを避けようと、勘当されたことにして喜作とともに京都に出た。折しも文久3年8月18日の政変があり、勤皇派は京都を追われ、立場を失った二人は、偶然の縁で一橋家家臣平岡平四郎の推挙を得て、当時朝議参与であった一橋慶喜に仕えることとなった。期せずして反幕府側から幕府側に転じたのであった。
 慶応2年(1866)12月、主君の慶喜が将軍になり、栄一も幕臣となった。その翌年、幕府はフランスのパリで開催される万国博覧会に参加・出展することとなり、栄一は渡航団代表徳川昭武に随行する御勘定定格陸軍付調役の肩書でフランスに行った。
 この外遊は、栄一に大きな刺激とチャンスを与え、外国語の学習、先進的な産業・諸制度の見分から多くを学んだ。この経験は、渋沢栄一の人生を大きく変えたようだ。
 帰国までにすでに大政奉還がなされ、徳川慶喜は駿府に謹慎していた。慶喜に面会のため静岡に赴いた栄一は、慶喜への報恩もあり静岡藩に出仕し、フランスで学んだ株式会社制度を実践した。商法会議所の設立も行った。
 明治2年(1869)10月、明治新政府から招請を受け、栄一は静岡から東京に移った。新政府の民部省改正掛長として、度量衡制定、国立銀行条例制定を進めた。明治4年(1871)から民部省が大蔵省に統合されると、通貨の改正、東京の都市計画など広範囲に活躍した。富岡製紙工場ができると、従兄の尾高惇忠を初代場長として事業立ち上げを託した。
 明治6年(1873)井上薫とともに大蔵省を退官した後、第一国立銀行を設立して総監役となった。さらに全国の国立銀行の設立・指導・支援を推進した。
 並行して、近代化を目指す明治時代に必須の洋紙の国産化のために、東京北部の王子に「抄紙会社」を設立し、これが現在の「王子ホールディングス(王子製紙)」につながっている。その地にも、東京ガス、廻米・生糸貿易、石川島平野造船所、印刷業、新聞、東京海上保険などの保険業、鉄道網の建設、倉庫・運輸業、煉瓦製造・電灯・電力、紡績業、セメント、など、広範囲の起業・育成に貢献した。
 産業方面の他にも、福祉・医療・教育・文化娯楽・国際交流・民間外交など、実に多彩に活躍した。
 私たちはさいわいNHK大河ドラマで概略を予備知識として持っているし、私は20年近く前だが東京都北区飛鳥山のもうひとつの渋沢栄一記念館を訪れたことがあるので、おどろくような新情報はなかった。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(3)

カフェ「豊土の里農園」
Photo_20241125054901  土手道をさらに走ると、唐沢川は小山川(こやまがわ)に合流して利根川に注ぎ込む。その小山川への合流地点近くの橋をわたり、川から離れて少し曲がりくねった道を行くと、左手に「豊土の里農園(とよとのさと のうえん)」と暖簾がかかった瀟洒なカフェがあった。
 ここは古民家の家屋と蔵を改装してこじんまりしたホテルとカフェにしたもので、身近な非日常が楽しめる1日1組限定の「キャンプもできる蔵籠りの宿」と、そこに併設された「自家焙煎のカフェ」となっている。原則すべて予約客にのみ対応するとのことだが、たまたま空き席があったので、コーヒーのみなら可とのことで私も入場させていただいた。Photo_20241125054902
 店の経営者は農業にも関わっておられて、店内には新鮮な野菜の即売コーナーもあり、車で来店した人たちのなかにはかなり大量に買い込む人もいる。
 昼前のカフェの店内は、地産の米と野菜を使った人気のランチを予約して来店する人が多いようで、なじみの客もいるようだ。和気あいあいとした心地よい空間で、おいしいカフェラテをいただいた。こうして少し遠出の散策のときは、このようなスイート・ドリンクがとりわけ有難く美味しい。
 私は室内の座席で喫茶したが、この日のような快晴のなかでは、庭の屋外席もとても快適のようだ。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(2)

皿沼城跡
 まずは少し東に行き、唐沢川に行き当たり、その左岸の土手上の小径を北に向けて走る。土手沿いの道に入ると、両脇はほぼ一面の田園風景である。Photo_20241124100101
 少し行くと「三号橋」という橋があり、その近くに「皿沼城跡」という説明板があった。その脇に大きな石碑が建っているので、最初は城跡の石碑かと思って表記を読むと、それは「唐澤放水記念碑」とあり、よくわからないが明治時代の用水に関わる石碑らしくて、城跡には関係がないようだ。城跡の痕跡も無く、ただ説明板のみがある。
 上杉氏は公家藤原氏の支族であった。室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、初代関東管領を勤めた上杉氏四代当主上杉憲顕(のりあき)に始まり、鎌倉の山内に居館を置いたことから山内上杉家とよばれる。足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。
 深谷上杉家(ふかやうえすぎけ)は、上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称したものである。憲英・憲光父子は、室町幕府から奥州管領に任じられた。深谷上杉家は、ここより1キロ余り南南西の現在の深谷小学校に近い深谷城址公園にあった深谷城を拠点としていた。
 深谷上杉氏家臣であった岡谷香丹(おかのやこうたん)は、深谷城北辺の守りのため延徳3年(1491)に皿沼城を築いたとされている。近くを走っている鎌倉街道を利用して、利根川を渡って古河公方が攻め込んでくるときに備える防御のための城であった。
 皿沼城は、変形の方形館を基本とし、西側に湿田を挟んで唐沢川が天然の防御堀となり、南側は水堀を挟んで城門・小口・虎口が2つ置かれて、東側には水堀を設けて真ん中に城門を開いていたと推測されている。北側は水堀で囲って伏見稲荷を城内に祀って、諏訪神社を鎮守としていた。
 城主の岡谷氏は、深谷上杉の三宿老の一人で筆頭家老を勤め、息子の岡谷清英は文武両道の武将で上杉謙信からその武勇を讃えられていたという。
 扇谷上杉家と共に武蔵国で割拠していたが、扇谷上杉家が北条氏康に敗れ滅亡し、後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、憲英から数えて7代目の憲盛の代に、後北条氏に降伏し、天正18年(1590)深谷城と共にこの城も滅亡した。
 以後は後北条氏の傘下となったが、憲盛長男の氏憲のとき、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われた。氏憲は子息の憲俊と共に信州に隠居したが、憲俊はのちに池田輝政に取り立てられて岡山藩士となっている。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(1)

 私はかつて20年近く神奈川県に住んでいて、東京都心にも勤務していたが、埼玉県は大宮と川越に行ったことがある程度で、ほとんど知らなかった。3年前の2021年に、コロナ騒動で延期された東京オリンピックが一部メディアから中止せよと罵られながらも無観客競技場で開催され、それはひとまず成功裡に終始したが、そのあおりを受けてスケジュールがいささか混乱したNHK大河ドラマがあった。渋沢栄一の生涯を取りあげた『青天を衝け』であった。このドラマが契機となって、深谷市に1995年開館した渋沢栄一記念館などを軸に、この地への観光客が急激に増加したという。
 私も、今年発行された新一万円札の主人公でもある渋沢栄一の故郷を訪れたいと思い、深谷市の渋沢栄一ゆかりの史跡を中心に、深谷市を散策した。

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深谷市街の金物店
 東京を早朝に発ち、午前10時前ころに深谷駅に降り立った。今年は膝を故障していることもあり、また渋沢栄一記念館など渋沢栄一関係の史跡は駅からかなり離れていることもあり、徒歩で散策することを諦め、レンタルサイクルを利用しようと考えた。事前にウエブで検索したレンタルサイクル・ショップは、来てみるといくつか閉鎖・閉店となっていて、観光案内所でも現状がよくわからないという。取り敢えずウエブに掲載されている場所を訪ねたが、やはりすでに無くなっているようだ。仕方ないので、最寄りのお菓子屋さんに飛び込んで聴いてみると、知り合いが自転車店を経営していて、そこが貸出をしているかも知れない、と親切に電話で問い合わせていただき、借りだし可能のようなので、ここまで行きなさい、と教えていただいた。果たして、その自転車店で、電動アシスト自転車を借りることができたのであった。Photo_20241123055801
 市街の道路沿いの金物店を見ると、店先にはさまざまな種類の多数の鍬が並べられている。私は製造業に勤めていたので、埼玉・群馬・栃木などの、さまざまな製造業の工場には行ったことがあり、このあたりも最近は製造業がメインとなっているかのような印象を勝手に持っていたが、この地は実はかなり農業に注力していることが推測される。
 後で渋沢栄一の生家や尾高惇忠家などに立ち寄ったとき聴いてみると、近年は米以外に東京都など大都市向けの生鮮野菜の生産が盛んらしい。
観光案内所で薦められた川沿いの土手道を渋沢栄一記念館目指して、まずは8キロほどの行程をスタートした。

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古澤明『量子もつれとは何か』講談社ブルーバックス

わかりやすく図解説明も多い優れた入門書
 前に藤井啓祐『驚異の量子コンピュータ』岩波科学ライブラリーを読んで、量子コンピュータ実現のうえで、量子もつれが重要であるとの記載があった。しかし私はこの「量子もつれ」なるものの内容にまったく不案内であった。それがこの本を選んだ理由であった。
 この書は、光の量子化、レーザー光と量子揺らぎ、そして量子エンタングルメント(=量子もつれ)とはなにか、量子もつれを形成する方法、それができたか否かの検証法、量子もつれの具体的応用の例、という順序で、とてもわかりやすく論じている。Photo_20241122055101
 量子力学の原点である不確定性原理からはじまる。すなわちある特定の関係にある(古典力学的には)独立した2つの物理量(位置と運動量、あるいはエネルギーと時間など)は同じひとつの量子のなかでは同時に(正しくは「一緒に」)決められない。この物理量の関係を共役関係という。しかし2つの量子のそれぞれ共役関係にある2組4つの物理量を取り出し、2組の物理量のある種の組み合わせとしての相対関係(たとえば位置の差と運動量の和)は、同時に決めることができる。これが量子エンタングルメント(=量子もつれ)である。これらの現象を解析するとき、量子力学に基づく量子の波動現象としての性質が基礎になっている。
 そして、この書では量子もつれの当事者たる量子の具体例として、光(=光子)をもちいて解説している。光は電磁波たる波動であるため、4分の1波長ずらした2つの独立な波、すなわち正弦波と余弦波があり、それらが相互に独立でありかつ共役関係にあること、が説明される。
 光は量子の1種たる光子であり、振動数(=周波数)が高いために1個の量子のエネルギーが熱エネルギーより格段に大きいので、熱によるノイズの影響を相対的に受けにくい。その半面では、量子を加工するのに大きなエネルギーを要するので、実験においては、非線形光学素子とレーザーを用いた光パラメトリック過程などが必要となる。
 光は電磁波であり、電磁波で操作する手法が活用できて、極端に周波数が高いラジオのような考え方と手段で推論と実験検証ができることが示される。
 説明の順序も的確で飛躍が無く、簡明な図解が多く、わかりやすい入門書である。

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第85回記念一水会展 京セラ美術館(2)

2.その他の作品
 村上千晶「午后の漁港」がある。Photo_20241121054001
 漁猟は早朝から働くだろうから、午後は猟師さんも陸にあがって一息つくのだろう。この絵は漁に使う網やロープがふわりとゆるくまとめられて、岸の港に置かれている。これらの漁猟の道具たちも、一仕事の後のリラックス・タイムという風情である。
 漁猟の厳しさと、その合間の貴重な休息、そのメリハリを感じさせる、ほのぼのと暖かい作品だと思う。
 河西昭治「瞑想にふける」がある。
Photo_20241121054002  おそらく川の水面に静かに浮かぶ小舟なのだろう。その小さな舟に、ひとりの男が腕を組んで物思いに耽って、後ろ向きに座っている。岸の雑踏を逃れ、ただひとりだけで過ごす、彼にとって貴重で贅沢な時間なのかもしれない。波らしい揺らぎもほとんどなく、心理的にも静かに瞑想できているのだろう。画面に描かれた周囲の静謐が、彼の心の中の静穏を象徴している。しっかりしたタッチの、落ち着いた良い絵だと思った。
 城本明子「鉄橋の支柱」がある。
 なんとPhoto_20241121054003 いう特徴のある絵ではないのかも知れないが、この絵をみると、ふと自分の心象風景を連想する。私は、「この思考の土台は」とか「この発想の基盤は」など、何らかのむしろ抽象的なことを考えているとき、頭の中には漠然とこの絵のようなシーンをイメージするのである。
 そういうこともあってか、絵を自分では描かない私も、このような光景を目の当りにするとなんとなく気になってしまうのである。
 森本光英「自画像・95才記念」がある。
95  この作品は、題名から考えて、絵を嗜むご高齢の女性が、95歳の誕生日を記念して自画像を描いたものらしい。達者な絵で描かれた姿が若々しいのも感動するが、なによりそのご高齢でなお筆をとって絵を描けるということに敬服する。
私たちも、出来得るならそのように歳をとっていきたい、と思う。
 私は、絵は見るだけで自ら制作することはないが、絵を嗜み、かつすてきな作品を完成させる人たちが、このようにかなりの多数おられることに、改めて感銘を受けた。

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第85回記念一水会展 京セラ美術館(1)

1.並川靖生「岩稜」
 並川さんからこの展覧会の案内をいただき、秋の晴天のなか京都に出かけた。Photo_20241120054201
 一水会展の会場は、思っていたより大きくて、並川さんの絵にたどり着くのに少し手間取った。
 作品「岩稜」は、タイトル通り険しい山の稜線に注目した絵である。夏の早朝なのだろうか、晴天の澄み切った空気のなか、少し低めの方向から射す陽光と、その光に映える清涼な山肌と緑、そして自然の厳しい美しさを顕わす岩稜が聳える。彼は山の絵をたくさん描いていて、なんどか見ているので、見る側にとっては安心感がある。静謐で雄大で爽やかな、心地よい作品である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(10)

5.歴史
 谷原菜摘子「創世記」令和3年(2021)がある。

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 谷原菜摘子(たにはらなつこ、平成元年1889~)は、埼玉県に生まれ、京都市立芸術大学美術研究家を終了後、兵庫県に住んで、多数の作品を発表してきた。
この作品は、ベルベットを支持体として、油彩、アクリル、グリッターなどで玉虫色に輝く独特の画面を実現している。画題として「創世記」という世界の始まりの物語を取りあげるが、怪しげな美しい人魚たち、電車のつり革のような情景など、そこはかとなく現代的な要素が混入していて、作家が自由に新しく編んだおとぎ話のような世界として描かれている。今回の展示のなかで、もっとも新しい作品である。
 ソニア・ドローネ=テルク「リズム・色」(1936/1973)がある。
 ソニア・ドローネ=テルク(1885~1979)は、ロシア帝国の現在のウクライナに、ユダヤ人の両親のもとに生まれた。幼いころに母の兄弟でサンクトペテルブルクの富裕な弁護士であったヘンリ・テルク夫妻のもとに預けられ、やがて正式にテルク夫妻の養子となった。18歳でドイツのカールスルーエ美術学校に留学し、20歳を過ぎてパリに出た。
Photo_20241119055501  1910年、画家のロベール・ドローネーと結婚した。ソニアは「私は、ロベールに詩人を見出しました。言葉でなく、色で書く詩人です」と語っている。翌年、息子のシャルルのためにパッチワークキルトを作った。ソニアが「キュビスム的着想」というように、幾何的な模様と色を用いた作品であった。ドローネー夫妻の作品は、批評家のギョーム・アポリネールから「オルフィスム」と名づけられた。これはキュビスムの形態重視による色彩の排除の傾向に反発し、明るく豊潤な色彩を積極的に取り入れるものとして、ギリシア神話の音楽家オルペウスからとった命名であった。色彩のニュアンスや対比と形など、さまざまな組み合わせで豊かな表現が生まれるというもので、科学的知見にもとづく研究がベースとなっている。
 ソニアの芸術において、テキスタイルデザインはその初期から重要な位置を占めていた。この作品「リズム・色」においても、抽象画のように見えつつも、頭・肩・身体のシルエットが浮かび上がってくるようでもあり、服飾との深い関連性を感じさせる。

 今回は常設コレクション展だが、女性の制作を軸にテーマを絞りこみ、分野と歴史を包括的にまとめる企画により、期待した以上におもしろく、私にとっては大いに勉強になった。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(9)

5.歴史
 ニキ・ド・サンファール「ボンジュール マックス・エルンストより」(1976)がある。Photo_20241118055101
 ニキ・ド・サンファール(1930~2002)は、フランス貴族を先祖とする父と、アメリカ人実業家とフランス女性の間の子であった母との娘として、パリ郊外に生まれた。富裕な家の子として幼少期からアメリカのニューヨークに住み、「ナナ」というニックネームをもつ乳母に育てられた。両親ともに愛人をもつという複雑な家族関係もあって、ニキはナナをひとつの理想化された女性像に形成していく一方で、反抗的な少女となり、優れた容姿からモデルにスカウトされ、『ヴォーグ』『タイム』の表紙にも載った。
 幼馴染でやはり富裕層出身の作家ハリーと結婚し、モデル、女優などを遍歴した後、統合失調症となり、そのときのアートセラピストにより絵画を勧められ、はじめた。
 1960年ころからアサンブラージュ(立体を含むコラージュ)の制作を経て、独自の「射撃絵画(ティール)」を創出した。これは絵具を入れた袋や缶を石膏でキャンバスに固定し、離れた場所からピストルやライフル銃で撃つパフォーマンスによる絵画である。「私は絵が血を流して死ぬのを見たかった。誰も殺さない殺害だ。」と語っている。過激な射撃絵画シリーズは、ニキを世界に知らしめた。
 1965年ころには、豊満な女性像「ナナ」シリーズを発表し、ひとつの開放的な女性の理想像を提示した。
 展示されている「ボンジュール マックス・エルンストより」は、シュルレアリストの芸術家マックス・エルンストが逝去した年に発表された版画集『ボンジュール マックス・エルンスト』に参加したものである。本作には、エルンストとパートナーであったドロテア・タニングが描かれている。「ナナ」としてのドロテアと、鳥の姿をしたエルンスト、そしてガラガラヘビ、サボテンなどが、エルンストたちが暮らしたアリゾナのピンク色の夕日を背景に描かれている。ニキは、自分自身の人生を通じて精神世界や神話、文化、政治への関心を、独自の芸術世界として展開した。
Photo_20241118055102  マックス・エルンストのパートナーたるドロテア・タニングによる「ボンジュール マックス・エルンストより」(1976)も展示されている。
 ドロテア・タニング(1910~2012)は、アメリカ合衆国イリノイ州に生まれたシュルレアリスムの画家・版画家・彫刻家・作家である。
 1936年ニューヨーク近代美術館で開催された、ダダとシュルレアリスムの展覧会に衝撃を受け、作品制作をはじめたという。その後、シカゴの美術学校に通ったものの、ほとんど独学で画業を成したという。
 1943年フランスからアメリカに亡命してきたマックス・エルンストと出会い、結婚し、マックスの最後の伴侶となった。
 マックス・エルンストの死去の年に編纂された版画集『ボンジュール マックス・エルンスト』に収録されたのがこの作品で、このなかには"I LOVE MAX"が組み込まれ、その感情が窺える。
 ただ、ドロテア・タニングは晩年、マックス・エルンストの妻という型にはめられることを嫌い「マックス・エルンストと過ごしたのは30年だが、それから私は36年も生きている」と語り、その後も豊かな制作を継続していった。
この作品での裸体のような部分は、同時期に制作していた布と綿による身体を模した作品と類似していて、ドロテア・タニング独自の表現である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(8)

4.女性と風景
 神中糸子「揖保川風景」明治21-26年(1888-92)がある。Photo_20241117055001
 明治期前半のころは、女性の画家が少ないのみでなく、女性が風景画を描くとき、ひとりで旅行することや、写生旅行のために長く家を留守にすることにも困難があり、女性による風景画はごく稀であった。現在では、性別に関わらず遠方まで自由に出かける機会は増えている。
 この神中糸子の作品は、そういう意味でも貴重な初期の例である。落ち着いた静謐な筆致の立派な作品だと思う。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(7)

3.女性と身体
 イイタニ ミチコ「無題 ハイポイント・コンタクトより」平成5年(1993)がある。Photo_20241116061001
 イイタニ ミチコは、昭和23年(1948)兵庫県に生まれ、大学卒業後に単身渡米した。アメリカのシカゴ・アート・インスティテュート在学中から、アメリカ・日本・ヨーロッパなどで作品を発表した。
 この絵にあるのは、まぎれもなくエネルギッシュな力強い肉体の表現だが、敢えて性別を避けているようだ。具体的な肉体の機能だけでない何かを表現しようとしているのだろうか。さらに、あわせて描かれる直線は、肉体や生物から離れた、空間の区切りとして、あるいは力強い運動の表現として、肉体とは対照的に印象づけられて描かれている。ちょっと不思議な絵である。
 青木千絵「BODY 10-1」平成10年(1998)がある。
 青木千絵(あおき ちえ、昭和56年(1981)~)は、岐阜県に生まれ、金沢美術工芸大学美術工芸学部を修了した彫刻家である。布、発泡体、ラッカーなどを駆使した独特の彫刻作品を制作している。
Body-101  この作品は、スタイロフォーム(発泡スチロール)と麻布と漆を用いて、自分の肉体を表現している。しかし頭や顔は塊だけの造形である。不安定な人体を表現するのが、この彫刻家の特徴だという。「自分のなかにある得体の知れないなにかを、この素材で表現できると感じた」と語る。実存的な葛藤を表現するアルベルト・ジャコメッティの彫刻作品から影響を受けているとも語っている。
 溶けだした塊のような上半身と艶のある漆黒の身体は、作家が自身の潜在意識と向き合うことの結果である。作家自身が自分の身体をモチーフとして不安定・不完全ながらも具象的な人体を表現することで、人間の内面、不安や悲しみ、あわせて力強さを、普遍的なものとして伝えようとしているようだ。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(6)

3.女性と身体
 ルイーズ・ネヴェルスン「セルフ・ポートレイト─サイレント ミュージックⅣ」(1964)がある。Photo_20241115054301
 ルイーズ・ネヴェルスン(1899~1988)は、ロシアのキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)に生まれ、後にアメリカへ家族とともに移住し、1920年結婚を機にニューヨークに住んだ。既製品や廃材を寄せ集めて芸術作品に昇華させるアッサンブラージュの手法で、1940年代には立体作品を制作し、1957年ころからは、この作品のように箱状の形態を積み重ねる手法を確立した。
 具体的な形を持たず、木箱のなかで黒一色に調和された小片は、タイトルの「サイレント ミュージック」を奏でているように思わせる。1950年代から発表された黒や白で塗装された木材による作品は、一色で統一されてもなお、塗りつぶされることのない作家自身の主張と個性が投影されているようだ。
木下佳通代「88-CA497」昭和63年(1988)がある。
 昭和14年(1939)神戸に生まれた木下佳通代は、すでに別記事で書いた通り生涯を通じて「存在」を問いかける制作を続けた。京都市立芸術大学で学んだ後、1970年代は写真を用いた作品を主に発表し、1980年ころからはキャンパスに油彩で描いた絵具を拭うことで画面にニュアンスを形成する方法で絵画に取り組んだ。
88ca497  この「88-CA497」は、そうした拭う絵画を経た後、線の描写が目立ち始めた時期の作品である。線が往復する画面の制作論を、木下佳通代は以下のように語っている。
 私には、ひとつのイメージとして成り立たないことが必要でした。見えかけたと思ってもすぐなくなってしまう、それでいて存在する。何も見えなくて、どんなイメージにもならない、描かれた線とか色とか形が、空間の緊張感をつくっていて、それぞれが必然的にそこに必要になれば、作品が完成するのです。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(5)

3.女性と身体
 ここでは、作家にとってもっとも身近な「自画像」を中心に展示されている。
最初に自画像ではないが、尊敬する人の追悼を表わしたケーテ・コルヴッツ「カール・リープクネヒト追悼」(1919)がある。Photo_20241114055201

 ケーテ・シュミット・コルヴィッツ( Käthe Schmidt Kollwitz, 1867~1945)は、ドイツの版画家、彫刻家である。ケーテ・コルヴッツは、東プロイセンのケーニヒスブルクに左官屋の親方の子として生まれた。幼少期から仕事場の職人から銅版画を学んだ。ベルリンに絵の勉強に出ると、ベルリン分離派の画家・版画家から感化された。学業を終えて、ミュンヘンに移り、フランス印象派から影響を得た。
 1891年ケーニヒスブルクに戻ると、自画像に取り組み、生涯描き続けた。貧民街に出かけ、マルクス主義にも近づいた。そのひとつの作品がこの「カール・リープクネヒト追悼」(1919)である。ドイツ共産党を創設し、射殺されたリープクネヒトを描いた。彼女は彼について書いている。
 ひとりの芸術家に、まして女性の芸術家にこの気ちがいじみて複雑化した状況の勝手がわかるはずがない。私は芸術家として、あらゆるものから感情の内容を引出し、心に刻み込み、外に向かって差し出す権利を持っている。だから労働者とリープクネヒトとの別れを表現する権利があり、しかもその際には、政治的にリープクネヒトを追及せずに、それを労働者に捧げる権利がたしかにあるのだ(1920年10月の日記)。
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 同じケーテ・コルヴッツの「犠牲」(1922)がある。

 これは木版の連作「戦争」の7点のシリーズのひとつである。目を閉じて自ら幼い子供を捧げる母親の姿は、この8年前に第一次世界大戦で次男のペーターを戦死で失ったケーテ・コルヴッツ自身の姿である。シリーズ「戦争」の冒頭に置かれたこの作品は、1931年魯迅が中国に初めて紹介したことで知られていて、後の中国や日本における木版画運動に大きな影響を与えた。魯鈍は、この作品について、以下のように述べている。
 この画集によって、実際に世界の多くの場所で、まだまだ辱められ虐げられた多くの人々がいること、彼らが私たちと同じ友であること、しかもその人々のために苦しみ、叫び、闘っている芸術家もまたいることがわかる。(飯倉照平「魯迅にとっての1930年代上海」より)。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(4)

2.女性と生活
 吉原英里「夏の影─七本のチューリップ」平成18年(2006)がある。Photo_20241113054901
吉原英里(よしはらえり、昭和34年1959~)は、大阪に生まれ、昭和58年(1983)嵯峨美術短期大学版画専攻科を修了した。
 昭和59年(1984)大阪の画廊で初個展を開催し華々しいデビューを飾った。帽子やティーバッグ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作した。版画紙と雁皮紙の間に本物のティーバッグや荷札、新聞記事などを挟んでプレスする手法で、版画にコラージュ的な要素を導入することで表現の幅を拡大した。
 実物の帽子などを版画や絵画に組み合わせたインスタレーション作品も展開している。2000年代からは寒冷紗(かんれいしゃ)と呼ばれる平織の布を組み合わせた絵画作品も発表している。
 この「夏の影─七本のチューリップ」にも見られる「影」の表現によって、描かれたモチーフや人物の不在と時間の経過が表現されるとともに、生花の瑞々しさが際立つ作品となっている。
1530  田菊ふみ「15:30の石」平成19年(2007)がある。
 田菊ふみは、昭和15年(1940)新潟県に生れ、昭和35年(1960)ブラジルに移った。1980年ころからサンパウロ在住の廣田健一に師事していた。廣田健一は抽象的な繰り返しのモチーフを特徴としたが、田菊ふみは具象的な表現で作画している。
 この作品は、タイトルの「15:30の石」が示すように、昼下がりの強い日差しを受けて大きな画面が色面によって分割されている。石、鍵、蝶番、スパナなどの生活に結びついた道具が描かれているが、自然物と人工物が平面と奥行きの表現で、全体として軽やかなリズムを感じさせる作品となっている。題材はごく地味な生活用品だが、画面全体に明るく、活動的で前向きな意欲が感じられる作品である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(3)

2.女性と生活
Photo_20241112061001  ユタカ順子「あの窓のそばで」昭和43年(1968)がある。
 ユタカ順子は昭和12年(1937)兵庫県西宮市に生まれ、昭和33年(1958)武庫川学院国文科を卒業した。その年に初の個展を催した。マクダウェル・コロニー・フェローシップによる渡米を経て、関西を中心に精力的に政策を続けた。この兵庫県立美術館の前身であった兵庫県立近代美術館の公募展に多数出品した。平成6年(1994)には亀高文子記念兵庫県文化協力会赤艸社賞を受賞した。
 この絵の、椅子や草花はいずれもユタカが好むモチーフであり、ユタカの絵は、背景とモチーフが入り混じる、いささかシュルレアリスムの風情の表現である。ユタカは「私の絵は、私から私への手紙である」と語っていたという。
 奥村リディア「エネルギー・アンサンブル」平成4年(1992)がある。
 奥村リディアは昭和23年(1948)サンパウロにブラジル移民の子として生まれ、1973年アルマンド・アルバレス・ベンテアード美術大学を卒業した。美術集団"Equipe3"に所属して活動したが、このグループは1973年サンパウロ・ビエンナーレでサンパウロ文化庁賞を受賞した。
 1970年代には個人の制作活動においても、ドローイングや針金・糸などで空間を分割して構成するインスタレーション作品を発表した。Photo_20241112061101
 「エネルギー・アンサンブル」は、力強い色面がエネルギッシュに空間に展開するもので、モチーフの分割と再合成が特徴である。
 奥村リディアは、1974年に渡米し、ニューヨークでミニマル・アートやコンセプチュアル・アートなどの芸術活動で知られる彫刻家ソル・ルウィットの助手を勤めながら活動した。1978年国際交流基金の奨学金を得て日本に滞在し、その後はニューヨークとブラジルを拠点として活動している。メトロポリタン美術館や原美術館などにも作品が収蔵されている。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(2)

2.女性と生活
Photo_20241111055201  女性、とくに絵を描く女性にとって、生活はどのように関わったのか。わが国の女性画家の先駆者のひとり亀高文子(1886~1977)は、「私の作画活動は絶えず生活の中心に直結している。つまりは、絵は作者であり、生活である」と語っている。亀高は、1910年代から20年代には子供の絵、その後50年代には花の絵を、しばしば描いている。子供を育てているときは子供を、花を育てているときは花を、というその変化には、女性がしばしば強いられる性役割が反映されているとともに、日常と制作活動とが固く結びついた画家の矜持も含まれているとも思える。
 神中糸子「はるの像」明治27年(1894)がある。
 神中糸子(じんなか いとこ、万延元年1860~昭和18年1943)は、明治期に活躍した数少ない女流画家のひとりであった。明治9年(1876)日本最初の美術教育機関として、工部省の管轄である「工部大学校」の付属機関として工部美術学校が設立されると、神中糸子ら女性たちの一部は、ここに絵を学んだ。しかし明治16年工部美術学校は廃校となり、明治33年(1900)女子美術学校が設立されるまで、女性は学校で美術を学ぶことはできなかった。
「はるの像」は、神中糸子が姪の春野を描いたもので、たどたどしくお茶を給仕する頬を赤く染めた可愛い少女を描いている。背景には、さりげなく軍帽とサーベルがあり、日清戦争の世相を反映している。明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会に出品されたものである。前年から日清戦争が勃発していたが、「殖産興業は戦時中であっても重要である」として開催された。同時期、かつて工部美術学校で学び舎を共にした浅井忠などの男性画家たちは、戦地での兵士たちを描いた戦争画を多く残していた。神中糸子は戦地に向かうことはなかったが、戦時下の女性の生活を表しているという意味では、女性や子供の戦争画でもあったのかも知れない。
Photo_20241111055301  亀高文子「けしの花」昭和45年(1970)がある。先述の亀高文子の晩年の花の時代の作品である。
 亀高文子(かめたか ふみこ、明治19年1886~昭和52年1977)は、横浜に生まれ、明治35年(1902)女子美術学校洋画科に入学した。卒業後、満谷国四郎に師事し、明治42年(1909)第3回文展に初出品した「白かすり」が入選した。その後も入選を繰り返し、神戸に移った後、大正15年(1926)赤艸社女子絵画研究所を創設して、後進の指導にも注力した。当初、女性の油絵は単なるお稽古事と見られていたが、亀高の赤艸社からは帝展出品者を輩出した。
 この晩年期の「けしの花」は、菊の花の質量感と色彩に現代的な感覚と表現が取り入れられていて、亀高文子がたゆまず進歩・変化・充実を実現していたことが現れている。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(1)

 兵庫県立美術館の所蔵作品の作家のうち女性作家は約100名で、これは全体作家数の1割を占めるという。この「わたしのいる場所─みるわたし」と題する今回のコレクション展では、女性作家約60名による絵画、写真、立体作品を「生活」「私の身体」「風景」「素材」「歴史・物語」「反復と拡大」という6つのキーワードをもとに紹介している。日本ではじめて女性の教官として油彩の技術を教育した工部美術学校卒業生の神中糸子(1860-1943)から最年少作家の谷原菜摘子(1989- )まで、世代を超えた作品で構成する。
合計120点余りの多様な出品のなかから、私が印象に残ったと思ったものについて、簡単にまとめておく。

1.特別展示
Photo_20241110054701  冒頭に、特別展示として、わが国でほとんど最初に女性を油彩で描いた本多錦吉郎「羽衣天女」明治23年(1890)が展示されている。
 本多錦吉郎(ほんだ きんきちろう)は、幕末期の嘉永3年(1851)広島藩士の長男として広島藩江戸屋敷で生まれた。広島藩校で最新の洋式兵学を学び、慶應義塾で英語を学び、明治新政府の工部省計量司の測量学校に学んだエリート学生であった。その時のイギリス人測量教師から画才を見出されたという。
 明治7年(1874)イギリス留学から帰国した洋画家国沢新九郎に師事して本格的に 洋画を学ぶとともに、持ち前の英語力を生かして国沢が持ち帰ったイギリス絵画の技法書を翻訳し、講義し、また出版した。明治10年(1877)ころから週刊新聞「団団珍聞」に風刺漫画を描いたりもしていた。
 明治22年(1889)岡倉天心、フェノロサたちが日本美術の革新運動を活発化して洋画を排斥した東京美術学校を設立するなど、わが国の洋画にとって厳しい時期に入った。そんななか、明治23年(1890)第3回内国勧業博覧会に、しばらくぶりに洋画の出展が認められて、展示したのがこの「羽衣天女」であった。羽衣も羽根も敢えて両方併せ持つ天女が誇り高く描かれているのも、時勢に対する本多錦吉郎の意地なのかも知れない。Photo_20241110054702
 ふたつ目の特別展示は、桜井忠剛「壺と花」明治33年(1900)である。
 桜井忠剛(さくらい ただたか、慶応3年1867~昭和19年1944)は、尼崎藩主の弟であった松平忠顕の子として生まれ、勝海舟の側近など公務の傍ら洋画家として活動した。後には初代尼崎市長を勤めた。本多錦吉郎から少し若い世代の、わが国初期の洋画家である。
 この静物画は、一見なんでもないものに思えるが、よく見ると画家の社会的環境を反映していることが感じられる。壺は直に置かれるのではなく敷台に置かれている。傍らにある植物の種類がコデマリや撫子である。壺は文様のない青白磁のものである。すなわちしかるべき人によって、これから活けられ床の間などに飾られようとしているのだと思われる。

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亀岡市散策(8)

丹山酒造
 本町から東側に行くと旅籠町があり、旅籠町の東端から少し南下した呉服町のすぐ東側に、地酒の酒蔵「丹山酒造」がある。Photo_20241109060301
 さっそく店内に入ると、ここは酒造と販売をあわせて行う店で、営業責任者の若い女性が利き酒を勧めてくれた。それを諾けると、ずっと店の奥まで案内されて、荷造りの部屋の前を通って突き当りのコーナーに座り、このお店の紹介ビデオを見ながら6種ほどのお酒を味わった。
 ここの主人の娘さん2人のうち、お姉さんが営業責任者で、妹さんがまだ二十歳を過ぎたばかりの若い方だが、杜氏を勤めて修行中だという。紹介ビデオは2年ほど前に、その杜氏を勤めるお嬢さんが、はじめて純吟醸酒を醸造したときの様子を撮影したものであった。この方は、小学生のころから家業をぜひ継ぎたいと志を立て、ときには桶や樽など重いものをも担がなければならない厳しい仕事を懸命に励んでいる。良い後継者を子に持って、主人も幸せだと思った。【完】

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亀岡市散策(7)

城下町町並み案内所
 寿仙院と本門寺のある通りのすぐ南側の道の西角は、旧山陰道に面している明治初年建造の町屋である。江戸時代末期の町屋などの建物から、種々の建材を移して建てたので、古い趣が残るという。Photo_20241108054401
 ここは、現在「城下町町並み案内所」となっている。ここに入って、コーヒーを飲みながらこの家の人と、もう一人訪問中のこの地の人から、亀岡の昔話や近況など、いろいろゆっくりとお話しを聴くことができた。
 「亀山城跡」があるとおり、この地の名は元来「亀山」であった。しかし明治維新の後、三重県の伊勢亀岡と名前がかぶるためなのか、ともかく「亀岡」となった。先祖代々のこの地の人たちのなかには、いまでも亀山の名に郷愁を抱くヒトもいる。
 亀岡は、古くから都たる京都の最初の宿場町であり、さまざまな物資の出入り口であり、すぐに京都に出入りできる地の利もあり、ことごとく京都に依存して栄えてきたらしい。しかしごく近年は、他の地域と同様に人口減少がひとつの大きな悩みであるらしい。亀岡市の人口は、9万人を割ったそうだ。
興味深いエピソードとして、私が住む高槻にも関わる「樫田村の高槻市併合」問題があった。
 明治政府が都市部自治体のうち町と村の制度について規定した「町村制」によって、明治22年(1889)田能村、中畑村、出灰村、杉生村、仁科村を統合して、京都府南桑田郡樫田村が発足した。村名は、地域にあった樫船神社の「樫」と、母体となった田能村の「田」から「樫田村」と名づけたものである。
 Photo_20241108054402 戦後、南桑田郡内18町村合併構想が持ち上がったが、郡内の他町村が亀岡市への合併参加を相次いで表明する中で、樫田村は村を挙げて、地勢的・経済的に結び付きの強い大阪府高槻市への合併を強く要望した。府境と分水界の不一致、さらに樫田村を襲った再三の水害発生時の京都府の冷遇対応が理由として挙げられたという。住民の8割が高槻市への合併に賛同したのに対して、当時の京都府知事蜷川虎三から慰留意欲はほとんどなかった。しかしこれは府境を越える合併要望のため、各方面で時間をかけて慎重に検討されたという。
 昭和33年(1958)4月、高槻市と府を越えた合併が成った。この越境合併をする前は地図上では府境が平らになっていたが、合併後は大阪府高槻市北部が凸形になり、京都府南西部は凹形になった。凹凸形の府県境による越境合併は、これが初めてであった。
 亀岡は落ち着いた住みよい町であり、とくに引退した老人などには快適らしい。ただ、町の良さの広報活動はいささか不足気味かも知れない。私たちがここを訪れる際に、旅行ガイドなどをいろいろあたったが、亀岡について記された記事はごくわずかであった。
 のんびりと、とりとめなくさまざまなエピソードを聴くことができて、思いがけずおもしろいひとときであった。

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亀岡市散策(6)

寿仙院と本門寺
 大手門の南西の区域が本町であり、寺院と町並みが賑わっていた。Photo_20241107060101
 寿仙院がある。戦国末期の元亀3年(1572)霊松山浄土寺として創建されたという浄土宗の寺院である。
 明智光秀が厚く帰依した大誉春光和尚(だいよしゅんこうおしょう)を中興開山として亀山城本丸の地にあったというが、天正2年(1592)小早川秀秋が息子の一存の菩提を弔うために米二石を寄進した五箇寺のひとつとして寺名を寿仙院と改名したと伝える。さらに亀山城主が前田玄以のとき、現在地に移された。
Photo_20241107060102  寿仙院の隣にある本門寺は、法華宗の開祖で日蓮上人の弟子日弁上人によって開かれた千葉県茂原にある長国山鷲山寺(じゆせんじ)の表本山として、室町時代の正和年間(1312~1317)に日弁の弟子日寿(にちじゅ)によって京都二条柳馬場に創建された。
 その後、応仁の乱でその寺が焼失してしまったため、明応2年(1493)に七世日園(にちおん)により、丹波国桑田郡内郷奥条村(現在の稗田野町奥条)に移転再建された。さらに、慶長5年(1600)十二世日近(にちごん)のときに、亀山城主前田玄以により亀山城下の現在地に移されたのであった。
 明治期になって士族離散、商家逼塞により廃寺同然となったが、本能寺日応の丹波布教で檀信徒を大きく増やし、明治36年(1903)鷲山寺より本能寺へ本山交換して現在に至るという。門前に東向きに建てられた鎮守堂には、大黒天が祀られている。

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亀岡市散策(5)

城下町散策
 城下町の景観を、江戸時代寛政年間(1789~180)の城下町絵図をもとに、亀岡高校日本文化コースの学生が1998年に制作した立体模型が亀岡市文化資料館に展示されている。
 この絵図を参考にしながら、散策した建物などについて簡単に記す。

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形原神社
Photo_20241106072501  お城の南側少し西手に大手門があった。この大手門にむかってすぐ右の東に形原神社がある。江戸時代中期の寛延元年(1748)形原松平信岑(のぶみね)が丹波篠山からこの亀山藩に入封した。この松平信岑以下の歴代藩主を祀る神社として、明治13年(1880)に旧藩主を偲んで創建されたのがこの神社である。
 正面に唐破風(からはふう)を設けた重厚な門と、透き塀に囲まれた一間社流造(いっけんしゃながれづくり)と、銅板葺の本殿大棟の鬼板など随所に「八丁子」の紋がある。これは形原松平家の家紋である。手水覆屋の鬼瓦には、まるに「利」の字の紋がみられるが。これも松平氏の家紋である。
 この場所は、亀山城の三ノ丸の亀山藩の政務を行っていた御館(おやかた)と呼ばれた藩庁のすぐ南にあたっていた。

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亀岡市散策(4)

大本教と丹波亀山城跡Photo_20241105073001
 明治22年(1889)廃城の遺構は、石垣なども含めて市町村に払い下げされ転売された。城跡はまったくの廃墟となった。
 大正8年(1919年)新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎は、管理されず荒廃していた本城を購入して、大規模な復元整備を開始した。「大本」の従来の拠点は綾部にあったが、豊岡出身の出口王仁三郎は、故郷の歴史的建造物跡を新しい拠点としたいと考えたのである。
 Photo_20241105073101 大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、昭和10年(1935)12月第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えた。そして王仁三郎を拘束して、所有権を格安値で亀岡町に譲渡させた。裁判結審前にもかかわらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により昭和11年(1936)5月から1か月にわたった。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。昭和12年(1937)に訪れた坂口安吾は『日本文化私観』のなかで、鉄条網で囲まれた城の様子を描いているという。Photo_20241105073102
 昭和20年(1945)裁判の無罪判決により、大本事件は全面解決し、本城の所有権は再び大本に渡り、信者の努力で再度再建が行われて、大本の聖地「天恩郷」として現在に至っている。
 廃城となったときには、石垣でさえバラバラに崩されていたそうだが、信者たちの共同作業により石垣も積み直されて、現在その一部が残されている。石の一部には、刻印がなされたものもあり、近世城郭の考古学的資料として貴重なものがある。
 また、かつての城の本丸への入り口の場所が同定され、そこには入口の木戸が再建されている。

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亀岡市散策(3)

亀山城
 亀山城は、丹波の他の城と異なり総構えが掘られていて、一国の拠点となる城を意識して設計されたようだ。明智光秀の丹波平定後は、丹波経営の拠点となったが、天正10年(1582)本能寺の変の後、羽柴秀吉に敗れて、光秀は逃走中に討死した。
 その後は豊臣秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )、豊臣秀俊(小早川秀秋)、そして豊臣政権五奉行の一人前田玄以などが入った。
Photo_20241104060001 秀吉の死後に天下を取った徳川家康も亀山城を重要視し、慶長14年(1609)譜代大名たる岡部長盛(在任1609~1621)を入封させ、丹波亀山藩が成立した。徳川幕府は「天下普請」として西国大名に命じて、亀山城を近世城郭に大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610)完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
 以後、大給松平家、菅沼家、藤井松平家、久世家、井上家と受け継がれ、寛延元年(1748)から形原松平氏が藩主を勤めて幕末までつづいた。
Photo_20241104060101  明治維新により明治2年(1869)亀岡藩と改称され、明治4年(1871)に廃藩置県により亀岡県となった。そして明治10年(1877)明治新政府により廃城処分が行われ、城は破壊された。
 明智光秀が建造した亀山城については、記録がなくその形はわかっていない。明治10年の廃城処分の前、明治8年(1875)のころの写真が残っている。

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亀岡市散策(2)

明智光秀像と南郷池(下)
 この後ころから、光秀は実質的に信長の家臣となり、やがて木下(後の豊臣)秀吉、丹羽長秀、中川重政などとともに、信長支配下の京都とその周辺の政務につき、事実上の京都奉行の役割を担った。
 信長が関わった数多の戦国大名との戦い、さらに比叡山焼き討ちにも参加した。
 元亀2年(1571)信長から近江国滋賀郡5万石を与えられ、坂本城を築いた。名実ともに信長の家臣となった光秀は、足利義昭に暇願いを提出したが許可されなかった。Photo_20241103055901
 元亀4年(1573)2月、足利義昭が武田信玄を頼みとして信長に対して挙兵したとき、光秀は信長の直臣として参戦した。足利義昭は追放され、室町幕府は滅亡した。このころから光秀は、落成した坂本城に住んだ。
 天正3年(1575)信長の重臣となった光秀は、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦などに参加し、さらに丹波国・丹後国の平定を命ぜられた。多くの国人が割拠する丹波国は、その国人の多くが親義昭派で、平定は難航した。光秀は、国人たちの内訌に巧みにつけ入り平定を進めた。光秀は、このころ丹波余部城を丹波での拠点としていたが、天正5年(1577)亀山城の建設に着手した。
 翌天正6年(1578)園部城の荒木氏綱を降伏させたが、信長により毛利攻めを率いる秀吉の援軍として播磨国へ派遣を命ぜられた。しかしまもなく丹波国の国人たちの大規模な反乱が発生し、亀山城防衛の要地であった馬堀城が占拠され、亀山城が危機に瀕した。光秀は、急遽亀山城に戻り、奪われた城を奪回した。
 天正7年(1579)ようやく丹波国で抵抗勢力として残っていた八上城と黒井城を陥落させ、丹波平定が成った。さらに細川藤孝と協力して丹後国も平定した。
 天正8年(1580)信長は光秀の丹波平定を賞賛し、丹波一国29万石を加増し、光秀は合計34万石の領主となった。南山城をも与えられ、亀山城、周山城に加えて、横山城を修築して福知山城と改名し、光秀の重臣明智秀満を入れた。この時期は、光秀はまさに丹波の主であった。
 しかし天正10年(1582)の本能寺の変で、すべてが一変した。この有名な事件については、ここでは説明を省く。

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亀岡市散策(1)

 盛夏のなか、1泊2日で亀岡市を訪れた。私が住む大阪府高槻市の自宅から、直線距離で20キロもない京都府南西部の町である。高槻市の山道を車で駆ければ、1時間もかからずに到達できそうだが、私と家人は東海道線と山陰本線(この区間は嵯峨野線ともいう)の迂回路を乗り継いで、それでも1時間ほどで到着できる、まさに近場である。Photo_20241102060801

明智光秀像と南郷池(上)
 駅から南方向に道を進むと、亀山城跡の北側の堀にあたる南郷池のほとりの南郷公園に行き当たる。その入口に、明智光秀像が建っている。令和2年(2020)のNHK大河ドラマで明智光秀がテーマとなったのにあやかったものだと推測するが、令和元年(2019)に建てられた新しい銅像である。
 明智光秀は、ここ丹波国では重要な歴史的人物である。その略歴を簡単におさらいしておく。
 美濃国明智荘に永正末年ころ(1520ころ)生まれたらしいが、詳細は不明だという。
 美濃国で土岐氏に仕え、朝倉氏にも頼り、斎藤道三と土岐氏の抗争を生き抜き、若いころから学んだ医学的知識を活かして、永禄8年(1565)ころ将軍足利義昭に接近したと伝えられている。
 足利義昭は、足利幕府再興のため、織田信長と上杉謙信に期待をよせながら、光秀を使者としてさまざまな工作を試みながら、自身は朝倉義景などを頼って各国を転々とした。光秀は、朝倉義景よりも信長に頼るべきだと進言し、種々の工作を遂行した。永禄11年(1569)信長は足利義昭を自領となった美濃国岐阜に招き、さらに同年9月には足利義昭を上洛させた。

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木下佳通代展 中之島美術館(8)

「存在」と美術
 この展覧会は、私にとって難解であった。最初1回ざっと見まわして、ほとんど感銘も感動もなかった。木下佳通代は「存在」の表現を求めて、さらに「認識」や「視覚」の探求を進めた、と学芸員の解説には書かれている。それが、私には理解できなかった。
 しかし木下佳通代よりちょうど10年年少の私が思い返してみても、1960年代からしばらくは、わが国はサルトルやカミュ、ハイデガーなどの「実存主義」の全盛期であった。17世紀以来のデカルトを代表とする、神の存在と人間の理性に疑いを持たない理知的な近代哲学が、進化論や自然科学、フロイト哲学、マルクス唯物論などの波乱を受けて後退し、理性の哲学再建のために、人間にしかないと思われた「意識」を基底として「人間の存在、現存在」をあらためて中心に据えた「実存主義」が希求された時期であった。そのころに哲学に関心を注いだ木下佳通代が、「存在」に取りつかれていたことも不思議ではない。前掲の中原祐介の評論も、キュビスムに対する理解なども含めていまでは稚拙にも見えるけれども、当時の雰囲気では真剣な議論だったのだろう。
 19世紀の進化論の出現で人間と他の生物との区別が失われた。哲学から分離独立した自然科学が目覚ましく発展し人間の生活に大きく介入してきて、人々の宗教への敬意と依存を大きく削減するとともに、自然科学は世の中に存在するものを分析し解析し、構成要素に分解して原理的に再現可能なモノと位置づけるに至った。人間の理性に基礎を置く哲学そのものが、「人間の理性」を特別なものとして位置付ける根拠を失った。
 実存主義の哲学者は、「かけがえのない価値」「一度きりの感情」「感動や印象」などといったものが、客観的に分析できて再生可能なモノと同列になることが許せなかった。そのためサルトルは、人間の存在はそこにあるモノではない、「無」なのであり、それこそ個々の人間が自分で創生するものなのだ、として「実存主義」を説いた。
 「存在」を主張する美術とは、それらの決して代替可能とはならないもの、科学的に説明できない情動や感動などの重要性・特異性を、造形芸術として表現したかったのだろうと思う。
 ところが折しもソビエト連邦崩壊のころから、哲学の世界もミシェル・フーコーの生命哲学やドゥルーズやガタリなどの生命機械論哲学が押し寄せてきて、今ではサルトルはまったく過去の人となって顧みられることもなくなってしまった。現在では「存在」を問うという意図が、かつてのようには理解できないのも当然なのかも知れない。
 しかし考えてみれば、有史以前から蓄積されてきた芸術や美術というものは、本来そのような範囲、つまり「かけがえのない価値」「一度きりの感情」「感動や印象」などこそを主題にしてきたのではなかったか。目前にした一期一会のかけがえのない感動を絵画に描きとめることこそが、ごく普通のアーティストの行動だったのではないのか。そのように考えると、敢えて「存在」を取りあげて主張するまでもなく、たいていの美術活動はその意味での「存在」を専ら扱ってきたと考えることもできる、と私は思う。
 今回の展示を再度眺め直すと、「存在」の表現について画家が意図したように「成功している」と言えるかどうかはさておき、心の動きを表現する「抽象絵画」としては、この画家なりの苦闘と成長が明らかに感じられ、その点では納得できる鑑賞となった。

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