亀岡市散策(2)
明智光秀像と南郷池(下)
この後ころから、光秀は実質的に信長の家臣となり、やがて木下(後の豊臣)秀吉、丹羽長秀、中川重政などとともに、信長支配下の京都とその周辺の政務につき、事実上の京都奉行の役割を担った。
信長が関わった数多の戦国大名との戦い、さらに比叡山焼き討ちにも参加した。
元亀2年(1571)信長から近江国滋賀郡5万石を与えられ、坂本城を築いた。名実ともに信長の家臣となった光秀は、足利義昭に暇願いを提出したが許可されなかった。
元亀4年(1573)2月、足利義昭が武田信玄を頼みとして信長に対して挙兵したとき、光秀は信長の直臣として参戦した。足利義昭は追放され、室町幕府は滅亡した。このころから光秀は、落成した坂本城に住んだ。
天正3年(1575)信長の重臣となった光秀は、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦などに参加し、さらに丹波国・丹後国の平定を命ぜられた。多くの国人が割拠する丹波国は、その国人の多くが親義昭派で、平定は難航した。光秀は、国人たちの内訌に巧みにつけ入り平定を進めた。光秀は、このころ丹波余部城を丹波での拠点としていたが、天正5年(1577)亀山城の建設に着手した。
翌天正6年(1578)園部城の荒木氏綱を降伏させたが、信長により毛利攻めを率いる秀吉の援軍として播磨国へ派遣を命ぜられた。しかしまもなく丹波国の国人たちの大規模な反乱が発生し、亀山城防衛の要地であった馬堀城が占拠され、亀山城が危機に瀕した。光秀は、急遽亀山城に戻り、奪われた城を奪回した。
天正7年(1579)ようやく丹波国で抵抗勢力として残っていた八上城と黒井城を陥落させ、丹波平定が成った。さらに細川藤孝と協力して丹後国も平定した。
天正8年(1580)信長は光秀の丹波平定を賞賛し、丹波一国29万石を加増し、光秀は合計34万石の領主となった。南山城をも与えられ、亀山城、周山城に加えて、横山城を修築して福知山城と改名し、光秀の重臣明智秀満を入れた。この時期は、光秀はまさに丹波の主であった。
しかし天正10年(1582)の本能寺の変で、すべてが一変した。この有名な事件については、ここでは説明を省く。
« 亀岡市散策(1) | トップページ | 亀岡市散策(3) »
「散策」カテゴリの記事
- 談山神社紅葉見物(5)(2024.12.07)
- 談山神社紅葉見物(4)(2024.12.06)
- 談山神社紅葉見物(3)(2024.12.05)
- 談山神社紅葉見物(2)(2024.12.04)
- 談山神社紅葉見物(1)(2024.12.03)
コメント