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亀岡市散策(7)

城下町町並み案内所
 寿仙院と本門寺のある通りのすぐ南側の道の西角は、旧山陰道に面している明治初年建造の町屋である。江戸時代末期の町屋などの建物から、種々の建材を移して建てたので、古い趣が残るという。Photo_20241108054401
 ここは、現在「城下町町並み案内所」となっている。ここに入って、コーヒーを飲みながらこの家の人と、もう一人訪問中のこの地の人から、亀岡の昔話や近況など、いろいろゆっくりとお話しを聴くことができた。
 「亀山城跡」があるとおり、この地の名は元来「亀山」であった。しかし明治維新の後、三重県の伊勢亀岡と名前がかぶるためなのか、ともかく「亀岡」となった。先祖代々のこの地の人たちのなかには、いまでも亀山の名に郷愁を抱くヒトもいる。
 亀岡は、古くから都たる京都の最初の宿場町であり、さまざまな物資の出入り口であり、すぐに京都に出入りできる地の利もあり、ことごとく京都に依存して栄えてきたらしい。しかしごく近年は、他の地域と同様に人口減少がひとつの大きな悩みであるらしい。亀岡市の人口は、9万人を割ったそうだ。
興味深いエピソードとして、私が住む高槻にも関わる「樫田村の高槻市併合」問題があった。
 明治政府が都市部自治体のうち町と村の制度について規定した「町村制」によって、明治22年(1889)田能村、中畑村、出灰村、杉生村、仁科村を統合して、京都府南桑田郡樫田村が発足した。村名は、地域にあった樫船神社の「樫」と、母体となった田能村の「田」から「樫田村」と名づけたものである。
 Photo_20241108054402 戦後、南桑田郡内18町村合併構想が持ち上がったが、郡内の他町村が亀岡市への合併参加を相次いで表明する中で、樫田村は村を挙げて、地勢的・経済的に結び付きの強い大阪府高槻市への合併を強く要望した。府境と分水界の不一致、さらに樫田村を襲った再三の水害発生時の京都府の冷遇対応が理由として挙げられたという。住民の8割が高槻市への合併に賛同したのに対して、当時の京都府知事蜷川虎三から慰留意欲はほとんどなかった。しかしこれは府境を越える合併要望のため、各方面で時間をかけて慎重に検討されたという。
 昭和33年(1958)4月、高槻市と府を越えた合併が成った。この越境合併をする前は地図上では府境が平らになっていたが、合併後は大阪府高槻市北部が凸形になり、京都府南西部は凹形になった。凹凸形の府県境による越境合併は、これが初めてであった。
 亀岡は落ち着いた住みよい町であり、とくに引退した老人などには快適らしい。ただ、町の良さの広報活動はいささか不足気味かも知れない。私たちがここを訪れる際に、旅行ガイドなどをいろいろあたったが、亀岡について記された記事はごくわずかであった。
 のんびりと、とりとめなくさまざまなエピソードを聴くことができて、思いがけずおもしろいひとときであった。

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