深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(5)
旧渋沢邸「中の家」
渋沢栄一記念館を出て、まっすぐ南に少し行くとT字路となり、右折して西にしばらく行くと、渋沢栄一生地・旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に着く。
この地は「血洗島(ちあらいじま)」と呼ばれ、早くは戦国時代の天文6年(1537)に下総国の吉岡和泉重行が当地に移住して開墾を始め、戸数は5軒だった、との記録があるそうだが、江戸時代になって、渋沢家も草分け百姓のひとりであったという伝承がある。
「血洗島」の「島」だが、この「島」のつく地名は深谷市内で多くみられ、利根川の氾濫によって形成された自然堤防の上や、島のようにわずかに盛り上がった土地の名前として出現しているそうだ。
この「血洗島」の地名の由来としては、荒れ地を表わす「地荒れ」や、大河川利根川に近い低地で常に川の水に洗われることから「地洗れ」が変化したとも、あるいはアイヌ語で「下」「終」「端」を意味する「ケシ」が「下の外れの島」を意味する「ケセン」に変化したとも言われ、これに「血洗」の文字が充てられたとの説もあるそうである。
渋沢栄一は、赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を失い、その傷口をこの地で洗ったために「血洗島」という村名になった、と伝説を語っている。ちなみに従兄の尾高惇忠の家がある「手計(てばか)」という地名は、切り落とされた手を葬るための墓を掘って埋葬したことから「手墓」となり、それが「手計」となったという言い伝えもあるそうだ。
渋沢家は江戸時代からこの地に複数の分家をもつ一族として存在がわかっている。「中の家」の呼び名は、「東の家」などもあることから、家の位置関係を表していると推測されている。典型的な豪農の屋敷で、母屋のまわりを副屋、土蔵、正門、東門が囲み、この地方における養蚕家屋敷の様式をよくとどめている。
栄一の父渋沢市郎右衛門(元助)は、渋沢家「東の家」から「中の家」のえい(栄一の母)に婿入りしてきた。質素倹約に勤め、持ち前の勤勉で農業に励み、藍玉製造の名手として「中の家」の再興に貢献した。
栄一の妹ていは、明るくユーモアある人柄で、故郷を出て行った栄一の代わりに「中の家」をよく守った。親戚の須永家から婿入りした市郎(才三郎)は、勤勉誠実の人柄で、家業の養蚕に励み、さらに八基村長、県会議員などを歴任し、 小山川の治水、八基信用組合の設立にも尽力した。
市郎・ていの長男渋沢元治は、東京帝国大学工科電気工学科を卒業して欧米に留学の後、逓信省に入り、勃興期の電気事業の監督行政に携わり、電気事業法の制定に貢献した。また工学博士として東京帝国大学教授、名古屋帝国大学初代総長を歴任した。退官後はこの地に戻り、晩年を過ごしている。
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