深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(2)
皿沼城跡
まずは少し東に行き、唐沢川に行き当たり、その左岸の土手上の小径を北に向けて走る。土手沿いの道に入ると、両脇はほぼ一面の田園風景である。
少し行くと「三号橋」という橋があり、その近くに「皿沼城跡」という説明板があった。その脇に大きな石碑が建っているので、最初は城跡の石碑かと思って表記を読むと、それは「唐澤放水記念碑」とあり、よくわからないが明治時代の用水に関わる石碑らしくて、城跡には関係がないようだ。城跡の痕跡も無く、ただ説明板のみがある。
上杉氏は公家藤原氏の支族であった。室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、初代関東管領を勤めた上杉氏四代当主上杉憲顕(のりあき)に始まり、鎌倉の山内に居館を置いたことから山内上杉家とよばれる。足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。
深谷上杉家(ふかやうえすぎけ)は、上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称したものである。憲英・憲光父子は、室町幕府から奥州管領に任じられた。深谷上杉家は、ここより1キロ余り南南西の現在の深谷小学校に近い深谷城址公園にあった深谷城を拠点としていた。
深谷上杉氏家臣であった岡谷香丹(おかのやこうたん)は、深谷城北辺の守りのため延徳3年(1491)に皿沼城を築いたとされている。近くを走っている鎌倉街道を利用して、利根川を渡って古河公方が攻め込んでくるときに備える防御のための城であった。
皿沼城は、変形の方形館を基本とし、西側に湿田を挟んで唐沢川が天然の防御堀となり、南側は水堀を挟んで城門・小口・虎口が2つ置かれて、東側には水堀を設けて真ん中に城門を開いていたと推測されている。北側は水堀で囲って伏見稲荷を城内に祀って、諏訪神社を鎮守としていた。
城主の岡谷氏は、深谷上杉の三宿老の一人で筆頭家老を勤め、息子の岡谷清英は文武両道の武将で上杉謙信からその武勇を讃えられていたという。
扇谷上杉家と共に武蔵国で割拠していたが、扇谷上杉家が北条氏康に敗れ滅亡し、後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、憲英から数えて7代目の憲盛の代に、後北条氏に降伏し、天正18年(1590)深谷城と共にこの城も滅亡した。
以後は後北条氏の傘下となったが、憲盛長男の氏憲のとき、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われた。氏憲は子息の憲俊と共に信州に隠居したが、憲俊はのちに池田輝政に取り立てられて岡山藩士となっている。
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