亀岡市散策(3)
亀山城
亀山城は、丹波の他の城と異なり総構えが掘られていて、一国の拠点となる城を意識して設計されたようだ。明智光秀の丹波平定後は、丹波経営の拠点となったが、天正10年(1582)本能寺の変の後、羽柴秀吉に敗れて、光秀は逃走中に討死した。
その後は豊臣秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )、豊臣秀俊(小早川秀秋)、そして豊臣政権五奉行の一人前田玄以などが入った。
秀吉の死後に天下を取った徳川家康も亀山城を重要視し、慶長14年(1609)譜代大名たる岡部長盛(在任1609~1621)を入封させ、丹波亀山藩が成立した。徳川幕府は「天下普請」として西国大名に命じて、亀山城を近世城郭に大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610)完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
以後、大給松平家、菅沼家、藤井松平家、久世家、井上家と受け継がれ、寛延元年(1748)から形原松平氏が藩主を勤めて幕末までつづいた。
明治維新により明治2年(1869)亀岡藩と改称され、明治4年(1871)に廃藩置県により亀岡県となった。そして明治10年(1877)明治新政府により廃城処分が行われ、城は破壊された。
明智光秀が建造した亀山城については、記録がなくその形はわかっていない。明治10年の廃城処分の前、明治8年(1875)のころの写真が残っている。
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