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2024年12月

DIC川村記念美術館(6)

ジョゼフ・コーネルの小箱の世界
 小型のコラージュ作品として、ジョゼフ・コーネル「無題(オウムと蝶の住まい)」1948年 が展示されている。Photo_20241231060201
 アメリカ生まれのジョゼフ・コーネル(1903–1972)は、ユニークな「箱のアーティスト」であった。エルンストやダリなどのシュルレアリスム芸術に感化され、1931年に自らコラージュを制作した。それ以後コーネルは、生涯を通じて両手で抱えられるほどの大きさの手作りの箱にお気に入りの品々を閉じ込めた作品を作り続けた。それらはコーネル自身にとって宝箱であり、同時に彼独自の世界観を表現するショーケースであった。
 専門店で見つけた蝶や虫の標本が図鑑から切り抜かれた仲間たちと戯れ、その様子を二羽のオウムが隣でじっと眺めるこの作品は、一見して博物館の陳列棚のように整然として見える。しかし少し見方を変えれば、金網で仕切られ、捕虫網が壁に掛かったこの小屋に棲息するオウムと蝶は、異国に憧れを抱きながらも母と弟の面倒をみるため、住まいのあるニューヨークから一生離れられなかったコーネル自身の姿と重ねることもできる。

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DIC川村記念美術館(5)

抽象美術の誕生と展開
 ロシア・アヴァンギャルドを代表する画家カジミール・マレーヴィッチは、1915年ペテルブルグで開かれた「0.10最後の未来派絵画展」で、白地に黒い正方形、円形、十字形などの幾何学的形態だけを描いた作品約40点を発表し、これらを「シュプレマティズム(至高主義)絵画」と名づけた。Photo_20241230053201
 マレーヴィッチとその門下生たちは、目に見える自然の形象を、描いて表現することを一切否定し、質量や動き、宇宙エネルギーといった抽象的で目に見えないモノ(対象)を表現することを目指すという絵画理論を掲げた。この活動は、革命直後のロシア国内に大きな影響力を持つようになった。
 ここに展示されている「シュプレマティズム」1917年 は、ロシア革命と同年の作である。画面上部に消失点を据えた単純でダイナミックな形態は、画面上で絶妙なバランスを保ちながらも謎めいた魅力を放ち続けている、と理解された。しかし、シュプレマティズム運動はスターリン主導となったロシア共産党に批判され、実質的に短命で終わった。それでもマレーヴィッチが遺した抽象絵画理念は、20世紀の絵画に計り知れない影響を与えたとされている。
 ヴァシリー・カンディンスキー「無題」1923年 が展示されている。
Photo_20241230053202  ロシア出身の画家ヴァシリー・カンディンスキーは、現実のモノの描写とは無関係に色と形を描く、すなわち具象ではなく抽象を描く「抽象絵画」、あるいは「非対称絵画」の重要な創始者のひとりであった。ヴァイオリンの名手でもあった彼は、音楽が拍子と響きの合成によって心に訴える空間を生むように、絵画も色や形など純粋に造形的な要素の組み合わせだけで、現実から独立した固有の抽象世界を創造できないかと考えた。白い背景に、色、大きさ、形のさまざまな形状をリズミカルに構成したこの作品は、ジャズの即興演奏を思わせるような軽快な印象がある。作者がこのような色彩と形態による画面構成に至るには、いくつかの物語的な主題を繰り返し描き、その形態を徐々に削ぎ落して単純化していった過程があった。中央に位置するブーメラン状の形とその上に並ぶ色とりどりの方形は、カンディンスキーが1910年代にしばしば、旧約聖書のノアの大洪水を思わせる情景と一緒に描いた「山上の城塞」の形から派生しているという。また画面右下隅に位置する赤黒い三日月形とそこから左上に向かって伸びる白と黒を分けて塗られた斜めの直線は、やはり1910年代にカンディンスキーが熱心に描いた「龍の口に長い槍を突き刺す聖ゲオルギウス」の絵柄に由来しているとう。世界の終末にかかわる大洪水や龍退治という画題は、抽象絵画の創造に邁進する作者の精神を奮い立たせたのかもしれない。

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DIC川村記念美術館(4)

ダダとシュルレアリスムから
 ジャン・アルプ「臍の上の二つの思想」1932年がある。ごく小さい作品である。Photo_20241229060401
 第一次世界大戦で全土を壊滅的な戦火に巻き込まれたヨーロッパでは、人々は虚無と絶望に陥った。そのような暗い時代を背景に、既成の価値観を破壊し「無意味」や「偶然」を取り入れたダダイスムの運動は、文学および美術の表現においてヨーロッパ社会に新風を送り込むことになった。
 この運動に参加したジャン・アルプは、パリに本拠地を移してシュルレアリスム運動にも関わった。アルプはいくつかの紙片を空中に放り投げ、それらが床やテーブルに着地した偶然の配置を画面にコラージュするような作品を手がけた。そして1930年代には有機的形態のブロンズ彫刻に本格的に取り組むようになった。
 「臍の上の二つの思想」は、人間の「へそ」を暗示するドーナツ状の形態の上を、「思想」を暗示するナメクジ状の物体が這い回っているように配置されている。人体の一部と下等動物のようなものを同列に組み合わせた冷笑的な作品は、人間万能主義・人間至上主義を揶揄し、宇宙・自然・動物と人間とを同列にとらえるアルプの思想を反映したものと思われる。
Photo_20241229060402  一世を風靡したダダイスムであったが、パリのダダイスムの中心的人物であった詩人アンドレ・ブルトンやポール・エリュアールなどの芸術家たちは、やがてこの運動に限界を感じ、完全に決別していった。かわりに彼らは、睡眠中の口述実験や自動記述といった心理学的実験などの方法によって、「無意識の世界」に深く注目して新しい芸術表現を探求した。その無意識の世界への展開から、近代の合理主義に反発するシュルレアリスム(超現実主義)運動が始まったのであった。
 「フロッタージュ」や「デカルコマニー」など様々な技法を駆使して形而上的世界の表現に腐心したマックス・エルンストは、シュルレアリスムを代表する画家のひとりであった。
 詩人ポール・エリュアールとその妻ガラによって才能を見出されたエルンストは、エリュアール邸に居候をしていた時期があり、滞在中にエリュアール邸のさまざまな部屋の壁や扉に、幻想的な絵画を描き残した。しかし、エリュアール家の転居とともに建物が人手に渡ると、扉は外され、壁も塗り重ねられ、いつしか室内に描かれたエルンストの絵は人々の記憶から忘れ去られていた。年月を経て1967年、エリュアールの娘セシルの記憶によって、壁紙の下や倉庫からエルンストのいくつもの絵が発見された。その中の1点である「入る、出る」1923年は、もともとダイニングルームの扉に描かれた作品であり、エルンストと愛人関係にあったガラがモデルであったと考えられている。
 この絵などの表現は、1世紀のちの現代でも、パンチがあってとても新鮮さを感じる。

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DIC川村記念美術館(3)

レンブラントのコーナー
 次の展示場の入り口に、小さな前室のようなコーナーがあり、ただ1点、レンブラント・ファン・レイン「広つば帽を被った男」1635年 が展示されている。Photo_20241228055201
 この絵は、この美術館の最初期のコレクションの重要なもので、またひとつだけ時代が古い作品でもあり、敢えて他の展示と分離して展示しているという。
 レンブラントは、神話や聖書に基づく主題や肖像画などを、丁寧なバロック的明暗法と巧みな心理描写によって見事に表現したことで、17世紀の代表的画家とされている。もっともこの時代は、絵画職人たちの集団が協力して作品を制作していたので、近代のような個人芸術とは異なるが。
 アムステルダムは、17世紀初頭にはヨーロッパの国際商業の中心地であり、著しい経済的発展のただ中にあった。1631年末ころ、レンブラントはこの繁栄を誇る都市に移り住み、富裕な商人や聖職者、市政に携わる人々など、アムステルダムの豊かな市民の肖像画を数多く制作した。
 モデルの男性はその風貌から、この大都市の裕福な市民のひとりであったと推察される。モデルの顔は、画面左方から光が当てられ、その活気にあふれた表情が陰影豊かに描き出されている。肌や髭・髪の毛、黒い衣裳など、質感と量感をリアルに再現した細部の描写は見事である。レースの襟の繊細で鮮やかな表現は、とりわけ目を引く。

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DIC川村記念美術館(2)

エコール・ド・パリなど
 展示は、コレクション展と彫刻家 新川勝人の企画展の2本立てで、両方を鑑賞したが、私が印象にのこったコレクション展の作品の一部について記しておく。Photo_20241227060201
 最初のコーナーに、ピエール・ボナール「化粧室の裸婦」1907年がある。
 ボナールの妻マリア・ブールサン(通称マルト)が化粧室にいる場面を描いたものである。ボナールの作品に描かれる女性の多くがマルトをモデルにしているという。マルトは、病弱な上に神経症の気味があり、また、異常なまでの入浴好きで、一日のかなりの時間を浴室で過ごしていたと言われる。実際、ボナールがマルトを描いた絵は、浴室の情景を描いたものが多く、当然ながらヌードが多い。また私的な状況をそのまま描くので、描かれることを通常のモデルのようには意識しないための自然さとともに、なにかのぞき見のようなわくわくする雰囲気がある。技術的には印象派の影響が強く、それでも独自のスタイルを主張している。
Photo_20241227060301  藤田 嗣治「アンナ・ド・ノアイユの肖像」1926年 がある。
 描かれた女性は、藤田を支援した伯爵の夫人で、とても気位の高い人物だったらしい。藤田の絵の描写に常に不満をもち、もっと目を大きく、もっと華やかになどつぎつぎと注文をつけていたという。藤田も閉口して、疲れてしまって背景が描かれないままの未完成品になった、との美術評論家の説明がある。
 マルク・シャガール「ダヴィデ王の夢」1966年がある。
 シャガールは、ベラルーシのユダヤ人の家に生まれたアシュケナージ(東欧系ユダヤ人)で、サンクトペテルブルクの美術学校に学んだ後、20歳台にパリに出た。パリはシャガールにとって決定的な影響を与え、ユダヤ差別、戦争、ナチス迫害などの問題から、故郷に帰ったり、アメリカに亡命したりしたが、結局はパリに帰って活動した。Photo_20241227060302
この作品は、ユダヤ人としてのアイデンティティを軸に、画面中央に母と子が、そのまわりには家族あるいは親しい人びとが囲み、右端にはダヴィデがいる。いずれの人物も宙に浮遊するかのように描くのはシャガールのスタイルだ。ダヴィデは、若いころのように石を投げて敵をたおすような猛々しい表現ではなく、優しくひとびとを護るかのように描かれている。背景には、パリの風景がさりげなく描かれている。
 パブロ・ピカソ「肘掛椅子に座る女」1927年がある。
 画面は、薄いあるいは濃い諧調の褐色をベースに、丸みある曲線と直線が幾何学的な形を描く。海辺の木片や石など雑多な漂流物を組み合わせてならべたような構成である。ピカソは、眠る女性の姿を表したようだ。中央の円形が白い歯の並んだ口、その周りを囲む椎茸のような形が頭と首で、二つの三日月型ラインは閉じた瞼なのだろうか。長く伸びた首の下に重なるのは豊満な胸なのかも知れない。個々には平面的な印象の形が、重なるように描かれていることにより奥行き感が生まれる。ピカソは、口を開けて眠る女性像を他にも何点か描いているという。対象の形を分解して、独自の方針にもとづき再構成するというキュビスムの典型のひとつである。

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DIC川村記念美術館(1)

Photo_20241226054701  DIC株式会社は、「川村インキ製造所」として創業以来の事業である印刷インキとその原材料をもとに事業を拡大し、PPSコンパウンド、液晶材料、工業用粘着テープ、各種の顔料、接着剤、樹脂、フッ素化学品、ヘルスケア食品などの幅広い事業を展開する、世界的な化学製造業会社である。創業100周年を機として、平成20年(2008)商号を大日本インキ化学工業株式会社からDIC株式会社に変更した。
 社会貢献事業の一環として、平成2年(1990)DICの総合研究所敷地内に、川村記念美術館を設立した。30万平方メートルのDIC株式会社総合研究所の敷地内に建つ、ヨーロッパの古城かワインセラーを思わせる壮麗な展示館は、海老原一郎の設計である。Dic
 所蔵の美術作品は、印象派、抽象表現主義、ミニマリズムなど広範囲にわたり、「日本が誇る、至宝ともいえる美術館」と評価されている。
 しかし今年の夏、DIC株式会社の取締役会は、来年2025年初めに、これを閉館することを決定した。私は首都圏までそう頻繁には出て来ないので、おそらく今回が最初で最後の訪問となる。
 早めに都内のホテルを出て、京成佐倉駅に降り立ち、美術館の送迎バスで美術館に着いた。
Dic_20241226054801  京成佐倉駅から乗ったときは、バスには10人程度で空いていたが、10分ほど後JR佐倉駅からは30人程度が加わり、バス内の空き座席の多くが埋まった。来年初め閉館のニュースの影響で、ごく最近は来場者が急に増加しているとのことである。
 バスで、40分弱で美術館に着く。公共交通機関の便がさほど良いとは言えないことが、これまで入場者が比較的少なかったことに影響していることは間違いがないであろう。しかし美術館に着いてみると、日常を忘れさせるような豊かな自然の中にあり、建物の周囲の庭園の緑と水が素晴らしい。

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鎌倉市街散策(3)

鎌倉文華館
 鶴ヶ岡八幡宮の境内に、鎌倉文華館がある。ここは私が鎌倉に住んでいたころは神奈川県立近代美術館があったが、私たちが引っ越した後、平成28年(2016年)閉館となっていた。
 令和元年(2019)コロナ騒動が始まる直前に、「鎌倉文華館鶴ミュージアム」として生まれ変わったのである。これはもはや美術館ではなく、鶴岡八幡宮の歴史を軸に鎌倉の魅力を紹介する季節展示や、一つのテーマを掘り下げた特別展を行い、鎌倉の新たな文化発信拠点を目指す、という。私は、この開館以来は初めての訪問であった。
 この度は「鶴岡八幡宮の季節展 詩歌 ~後世へつなぐ和心」というタイトルで、鎌倉幕府の武士の文化と季節の詩歌(おもに和歌)についてのテーマ展示であった。Photo_20241225060101
 会場は、以前の近代美術館のときと比べると、かなり小さくなっているように感じた。中世(平安時代まで)と鎌倉幕府創建とのそれぞれの文化的特徴と変化について、多面的に展示・解説があった。
 とくに今回、私が印象に残ったのは、近世から近現代にかけての20名あまりの歌人による30句余りの和歌の展示であった。和歌を毛筆くずし字と活字翻刻を併記して展示し、適冝解説が記されている。この小さなコーナーに、私は1時間近くとどまった。なにより今回は、外が雨天で行くところがないのである。しかし、いつもはすることのない、じっくりと和歌を繰り返しながめて読んで、そして考えて、という経験から、私には発見があった。井原西鶴、上田秋成に始まり、与謝野晶子、谷崎潤一郎までの和歌がある。西鶴や秋成の歌もじっくり鑑賞すると、なかなか響くものがあることを発見したのだが、とくに与謝野晶子の歌には新鮮な感銘を受けた。これまでなにかでみたことがある和歌だが、与謝野晶子の歌の言葉とその音韻効果が、じつに考え抜かれて適切につくられ、強いインパクトがあることがわかったように思った。けっしてわかりにくくないが、平易で安直ではない、深い魅力と力がある。近年は、俵万智のような口語短歌も普及して、それはそれで良いとは思うが、与謝野晶子以前の古典的和歌には、やはりかけがえのない魅力があることを、私は後期高齢者になってやっと知ったように思った。
 また、アメリカ進駐軍のダグラス・マッカーサー元帥の興味深いエピソードの紹介があった。マッカーサーは、終戦のずっと以前1906年(明治39年)、父親であるアーサー・マッカーサーJrの副官として来日し、大山・乃木など日本の軍部トップと面会し、武士道について聴き、さらにこの鶴ヶ岡八幡宮を訪れていたという。そして昭和20年(1945)8月占領軍最高司令官として来日したが、9月2日アメリカ艦ミズーリ号での日本の降伏調印式に参加した後、部下12名を連れて鶴ヶ岡八幡宮に参拝した。彼らは、宗教の違いを尊重しつつも、日本的な礼儀に準拠してきわめて紳士的かつ厳粛に参拝・拝礼したという。このとき座田(さいた)宮司は、事前になにも知らされず、米士官が朱印帳への捺印を求めて社務所に立ち寄ったことで、マッカーサー元帥一行であることをはじめて知った。マッカーサーは宮司に、実は40年前の1906年にここに参拝に来たことがあると語ったというのである。せっかくなので少憩を、と薦める宮司に「ありがとう。今日は急ぐので、また来ます」と答えた。そして実際に9月26日にマッカーサーは、ジーン・メアリー夫人と一緒に参拝に来て、宮司との約束を果たした。マッカーサーは、知日家として知られるが、日本の文化・宗教にまで実に深い知識と理解を示したのであった。
 雨天でほかに術がないなか、予期せぬ長時間を文華館のなかで過ごしたが、私にはまたとない良い機会となった。

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鎌倉市街散策(2)

鶴ヶ岡八幡宮
Photo_20241224054401  こんな雨のなかでも、やはり鶴ヶ岡八幡宮には参拝したい。さすがにここも、ヒトの出はとても少ない。
 まずは段葛を南から上る。私が鎌倉に住んでいた間にも、この段葛の景観は変化していた。10年ほど前だったか、路面も並木も全面的に改装して、現在のような景観となった。とくに地面がすっきり平坦になった。以前の自然の土の道も良かったが。
かつては毎週とはいかないまでも、月に2回程度は鎌倉市街に出て、この小径をのんびり歩いていた。とくに何といってないのだが、歩いていて飽きない空間である。なにか恒例の祭りか催しがあるときは、小路の両脇に灯りが点いて提灯に地元の文化人の名が連ねられたりする。そんなことを思い出しながらゆっくり歩くと、雨天を忘れて懐かしく心の満たされる気持ちがする。Photo_20241224054501
 鶴岡八幡宮の境内に入ると、少し長い参道の通路がある。この道も、なんど訪れても懐かしい。たしか2回くらい、正月の初詣にこの神社を訪れたとき、ほんとうに驚くほどの参詣者の多さに、いささか驚き呆れたことをふと思い出す。通路いっぱいに大きな幅の待ち行列ができて、前後に3カ所ほど両脇に警備員が登る台が設えられ、拡声器で「みなさん整然と、ゆっくりと」と声をかけ続ける。最後列から本殿に行く階段の下まで2時間以上はかかったと覚えている。みんな懐かしい思い出である。
 本殿に向かう石段の向かって左わきに、かつて樹齢1000年以上と言われた巨木の大銀杏があったが、2010年春、当時の「異常気象」で強風があり、突然倒れてしまったのであった。たまたまこの年、私は37年間勤めた会社を辞した。偶然ではあるが、そういう事情で、私にとっては、自分が会社を去った年次は覚えやすい。
 今回は混雑がないなかで、じっくりお参りできた。

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鎌倉市街散策(1)

 半年ぶりに首都圏に出かけた。あいにく初日は雨天で、あまり歩き回ることはできなかった。それでも20年近く住んだことのある町なので、懐かしさも思い出もあって、ゆっくり時間を過ごすことにした。

小町通りで昼食Photo_20241223055702
 鎌倉駅を降り立つと、雨は本降りだ。取り敢えず昼時も近いので、早めの昼食を摂ることにした。駅から小町通りまではすぐだ。今回は、私ははじめて旅行に折り畳みでない本格的なビニール傘を持参した。本降りの雨には好適でとても重宝した。
 小町通りに入ってすぐのところが左横に拡張して、「小町小路」という名の新しいスポットができたようだ。真新しいお店が軒を並べている。懐かしい小町通りだが、こういう新しいスポットというのも悪くない。街は常に変遷するものだ。
 平日のうえにあいにくの雨で、さすがに人出は少なめで、好天の休日のような混雑はない。旅行客らしい人たちは、中国人らしきアジア人が比率としてかなり多いようだ。私もそうだが、遠路からの旅行者は、雨天だからといって予定を簡単には変えられないという事情があるのだろう。
Photo_20241223055801  「小町小路」にある「小町珈琲」というカフェに入った。昼食には少し早めの上に雨天なので、店内は空いていた。
 ランチを発注した。メニューを選んで発注時に会計を済ませ、呼び出しブザーを受け取って好みの席に座る。料理が出来上がるとブザーが鳴って、自分で食事を受け取りに行く。食後は、所定の食器改修窓口に返却する。合理的なシステムで、30人余りは入場できそうだが、従業員は見える範囲で3人程度と少ない。最近は、サービス業に人手不足が拡がり、ここに限らず飲食店はスマホアプリでの発注なども取り入れて、合理化を進めている店が増えているようだ。
 ともかく満足できる適量な昼食を摂ることができた。店を出るころは、正午も過ぎてかなり来客が増えていた。

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テレビ報道番組のコメンテーターと元アイドルの嘆き

 最近、テレビの報道番組あるいはいわゆる「ニュース・バラエティー」で、コメンテーターとして「活躍」する、元アイドル出身がウリの山崎怜奈が、別の番組で嘆いている。
「専門家でもない人間がメディアでフランクに政治の話をしても受け入れてもらえる世の中になったと思ったけど、私、間違ってました。(中略)フランクに自分たちの生活に直結する話ができた方がいいじゃないですか? 本当は。高尚な賢い人だけがしゃべっていいものだから取っつきにくいのに、経験のない何者かよく分からないタレントって人間がフワッとしゃべると、すっごい怒られる。徹夜ですっごいメモしていっても、すごい怒られる。もう少し血の通った人間だと思って話していたのにAIに返されたみたいな。寂しい気持ちになる。私は怒ってはいないけど、悲しい気持ちになる。」
 ニュースあるいは報道番組は
(1)事実の伝達が基本(NHKの定時ニュースは、ほぼこれのみ)であり、
(2)伝達される内容・問題の解説が付随していることがある。
さらに最近の多くの報道番組やニュース・バラエティーでは
(3)事実とその解説に対する感想というのが追加されている。
 まず、本筋としてできるだけ正確を期した事実の伝達が必須であって、報道番組の基本である。それに「解説」があることは望ましいが必須ではない。ただ、解説はその問題に真剣に取り組んでいる本当の意味での専門家がするべきだ。視聴者は、それで新しい知識を得て、理解が深まり、自分で考えてより正しく判断することに役立つ。
 最近のテレビでは、報道番組の多くがバラエティー化していて、事実の伝達、その内容の解説のあと、ひな壇にならんだ「コメンテーター」と呼ばれる作家、普通の弁護士、俳優・モデル、芸人などの非専門家が、適当に思い思いの感想を喋る、という構成のものが多い。これはおそらく視聴率の向上手段の一環なのだろうが、これが問題である。それは視聴者にとって新しい情報あるいは学ぶべきことというより、その場の思い付き、あるいは単なる「感想」に過ぎないことが多い。単になんとなく共感できる気がする意見に逢うと、同感・付和雷同して、なんらかの有名人がこう言っていた、世の中の多くの人たちはこう思ってるのだろう、という受けとめをして、視聴者の判断材料になってしまう懸念がある。そんな無責任な感想がメディアに蔓延することで、視聴者の側に、知識を蓄えるより感覚的に判断していいんだ、という無責任な文化を伝染させることさえある。個人的になにを考えようが、どんな意見を持とうが勝手であり、フランクに話し合うのも結構なことである。ただ、メディアを通じて、とくにテレビなど有限な資源たる電波を通じて広く不特定の視聴者に向けて発信するのであれば、それは悪影響さえあり得るのだ。
 ニュースに関心の低い視聴者にもわかりやすく、親しみを持たせて関心を高めたい、という説明があるが、実は関心が高まるというよりも、知識も十分でなく真剣にものを考えないままで、感覚的に判断していいのだ、という文化を拡散する。話題が政治なら、衆愚政治を促進するのである。
 専門家でもない人の話は、聴く立場からは有益なことはほとんど無い。私は、必要な知識と真剣な思考をともなわない「感想」「コメント」は、不要であり、往々にして有害でさえあると思う。
 本来コメンテーターは解説者であるべきで、解説はその問題に真剣に取り組んでいる本当の意味での専門家が行うべきである。専門家はその専門対象とする問題に対して、自分の立場、存在、あるいは人生を賭けて発言すべきであり、発言した内容に完全に責任を負わなければならない。そうであってこそ、視聴者は意味のある知識を得て、自分で考える材料を獲得することができるのである。
 山崎のような「フワッと喋りたい」というコメンテーターの一方で、話題の当事者を口を極めて罵ることで、視聴者と話題の当事者を極力刺激し、むしろ炎上することで視聴率を稼ぐ戦略らしい者として、たとえば玉川徹がいる。彼は自称ジャーナリストだが、自ら取材するケースは少ないらしく、虚勢を張りたいのか「その件は、ヒアリングを受けたんだけど」などと吐露している。その発言内容の多くは、論理的な主張ではなく単なる感想、あるいはその場での思いつきである。これらこそ視聴者にとってなんの知識にも参考にもならない。ただ、なにも考えないで同感したいヒトには好評で、視聴率を稼いでいるらしい。
 山崎も、自分のセカンドキャリアとして無責任なコメンテーターではなく責任ある解説者になりたいのであれば、「元アイドル」に縋りついてたった一度の徹夜でメモをつくる程度の努力で罵られて悲しくなるようなことではなく、自分の専門領域を定めて、時間をかけてまじめに知識を蓄積して、さらにそれ以上に真剣に自分で論理的に考え抜いて、視聴者を納得させ得る準備をした上で仕事に挑まなければならない。フワッと感想を呟くのでなく、ビシッと論理的に主張しなければならないのだ。現状のテレビでは、実際にそこまでできている評論家やコメンテーターは希少なので、きっと視聴者から歓迎されるだろう。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(14)

坂本龍馬の銅像
 「浜川砲台」の場所から、今回の旅の終点京急立会川駅はすぐである。
 その立会川駅の前に、かなり新しい「坂本龍馬の銅像」が建っている。Photo_20241222055601
 坂本龍馬は、ごく最近、その歴史的な存在価値が人気のほどにはない、との歴史研究者の方針から、中学・高校の歴史教科書から除外されるという話題もあった。それでも、伝説的な坂本龍馬の人間的魅力、エネルギーの密度、圧倒的なオーラはいまでも高い人気を誇っている。
 幕末の一大事、ペリー艦隊の来航は、嘉永6年(1853)であった。このとき坂本龍馬は18歳であった。後に有名な薩長同盟など近代を切り拓く大きな貢献をして活躍する彼の青春と人生のスタートの地がここであったという。
 この立会川には当時土佐藩下屋敷があり、浜川砲台を構築して海岸防備に従事する土佐藩の警備任務に、若き坂本龍馬も参加していたという。
 この地の地元有志、品川龍馬会、東京京浜ロータリークラブの協力・支援によって、新しい坂本龍馬の銅像を、20歳の若き日の容貌・姿で再現したものである。平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片も溶かし込まれているという。
 今回も電動アシスト自転車で散策したのだが、意外に時間がかかった。いつもながら、幕末維新の大変革の時代、さまざまな立場の人たちがそれぞれに苦心してさまざまな難題に立ち向かったことが偲ばれる。秋の絶好の晴天のもと、快適な一日であった。【完】

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(13)

浜川公園の復元大砲
 15号線に戻り、京急立会川駅に向かって進む。その駅の少し手前に道路に面して浜川中学校がある。その近くの浜川公園の一角に「浜川砲台」と明示された銘版とともに、復元大砲が設置されている。この付近は、幕末期には土佐藩下屋敷(鮫洲抱屋敷)があった。Photo_20241221055901
 ペリーが浦賀に来航して、きっと再訪すると言い残して帰ったので、その翌年の嘉永7年(1854)、ペリーが再び来航するときの防備の一環として、土佐藩が屋敷内のかつての立会川河口左岸に浜川砲台を構築したのであった。
 そのとき砲台に据えられた8門(6貫目ホーイッスル砲1門、1貫目ホーイッスル砲2門、鉄製5貫目砲5門)の大砲のうち、30ポンド6貫目ホーイッスル砲を原寸大(全長3m、車輪の直径1.8m)の外観を模型で復元したものである。
 防備を命ぜられた他藩では、実物の大砲の製造・設置が苦しいため、大砲らしく見せただけの木造の偽物もあった。そんな中で立派な大砲を8問も備えた土佐藩を賞賛して、江戸っ子が狂歌をつくった。
  品川の 固めの出しのよくきくは
  下地もうまく なれし土佐武士
 これは土佐の鰹節にかけた狂歌で、堅めのダシがよく効くのは、料理の下ごしらえも上手にできる土佐ぶし(鰹節─土佐武士)だからだ、というのである。
 若き日の坂本龍馬が警護についていたとされることから、地元品川龍馬会の有志、立会川駅前商店街などが協力して製作し、品川区に寄贈されたものである。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(12)

山内容堂の墓
 旧東海道をさらに南下して京急鮫洲駅まで進む。鮫洲駅の下と15号線をくぐり、大井公園の東南側に沿って行くと立合小学校がある。この立合小学校の校庭の西南側に校庭への入口があるが、閉鎖されているので、校庭と校舎をぐるりと廻って、校舎の北東側の校門から入場した。入口で敷地内にある山内容堂の墓を拝観したいと申し出ると、係の方が親切に案内いただいた。Photo_20241220054601
 山内容堂、もとの山内豊信は、文政10年(1827)土佐藩主の別家(連枝)南邸山内家に藩主の弟の子として生まれた。通常歴代藩主は江戸屋敷の誕生であったが、山内豊信は連枝で国許生まれ、かつ身分の低い母の子であった。そのため、山内家の藩主山内豊熈(とよてる)が死んだ後、あとを継いだ実弟の山内豊惇(とよあつ)が急死し、御家断絶の危機に瀕したため、幼少期から英名を馳せていた豊信が、異例ながら紆余曲折を経て藩主に就任したのであった。このとき、薩摩藩主島津斉彬や筑前福岡藩主黒田斉溥、伊勢津藩主藤堂高猷、伊予宇和島藩主伊達宗城等の周旋があった。さらに薩摩藩主島津斉彬は当時幕府の実権を握っていた老中首座阿部正弘と親交があり、幕府も裏工作を黙認した。このように幕府の恩情を受けたことが、豊信の倒幕的行動から常に距離を置こうとする傾向をもたらしたと言われる。
 安政の大獄で隠居してからは、山内容堂と名乗った。
 幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることもあった。
 明治維新後、名誉職の内国事務総裁に就いたが、旧幕期には家臣や領民だったような身分の者と馴染むことができず、明治2年(1869)早々にに辞職した。板垣退助は「維新前後経歴談」の中で容堂について、「維新後不平から酒を飲み芸者を妾にしたが、本来は慎み深い人だった」と晩年の様子を惜しんだ発言をしている。明治5年(1872年)6月46歳で死去、土佐藩下屋敷があったこの場所に葬られた。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(11)

太政大臣岩倉具視公御墓参拝道の石碑
Photo_20241219055901  山手通に戻り目黒川に行き当たると、目黒川に沿って西に進んで粟津橋を渡り、日本ペイントの工場に着く。ここの守衛所で申し込めば「煉瓦造りの明治記念館」が見学できるとのことだったが、守衛所に聴くと、少し前からそのサービスは終わっているとの由であった。
 仕方ないので、粟津橋からの道を南下し、突き当りを東に進み、15号線の南品川交差点を直進して渡り、旧東海道に行き当たると、右折して南下する。青物横丁駅の近くで「釜屋」跡の解説板を探したが、結局見つからず、旧東海道をさらに南下して、15号線の南品川3丁目交差点に続く道との交差点道沿いに「太政大臣岩倉具視公御墓参拝道」の石碑が見つかった。
 岩倉具視の墓は、この石碑から西に進み、15号線を渡ってすぐ北側の曹洞宗海晏寺にあるが、非公開である。寺院にあるが、神式の墓だという。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(10)

東海寺大山墓地の井上勝の墓
 官営品川硝子製作所跡石碑の向かって右脇に、東海寺大山墓地に至る小径がある。この墓地所有の主たる東海寺は、ここへ来る途中の北品川4丁目11番にあり、さきほど訪れた板垣退助の墓の地にかつてあった塔頭が属した寺院なのだろう。Photo_20241218055901
 この墓地には、沢庵宗彭(1573~1645)の墓をはじめ、江戸~昭和にかけて活躍した偉人たちが眠っている。そのひとつがわが国鉄道の父とされる初代鉄道頭井上勝の墓である。
 井上勝は、天保14年(1863)長州毛利藩の上級藩士の子として生まれた。早くから教育環境に恵まれ、藩校、江戸番所調所留学を経て、文久3年(1863)から明治元年(1868)まで毛利藩の支援を得てイギリスに留学し、鉱山学と鉄道を学んだ。ほぼ同年配の伊藤博文とも親しかった。
 帰国後は木戸孝允の呼びかけに応じて大蔵省に勤めたが、折しも鉄道敷設計画が持ち上がり、中核的人材として参加した。明治4年(1871)には初代鉄道頭に就任し、明治5年(1872)新橋・横浜間のわが国初めての鉄道を完成させた。
 その後も、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に注力して、生涯を鉄道に捧げた。外国から取り入れた鉄道を、日本の鉄道として発展させるのに大きな貢献をした。生前から自らの墓地として、東海道線と山手線に挟まれたこの地を望んでいたが、それは死後も鉄道を見守っていたいとの意向からであった。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(9)

官営品川硝子製作所跡
 国道15号線に戻って北品川2丁目交差点まで南下し、そこを右折して山手通を西に進む。JR東海道線の下をくぐるガードを抜けたすぐ右手に「史蹟 官営品川硝子製作所跡」の石碑が建っている。Photo_20241217055101
 その隣に「近代硝子工業発祥之地」と題された昭和40年建立の石碑がある。石碑には、古字文語調で、以下のような内容の記述がある。
 ここはわが国最初の洋式硝子工場があったところである。明治6年(1873)太政大臣三条実美の家令丹羽正庸が発起して、イギリスの最新機械を導入し、外国人の指導のもと当時としては大規模な民営工場を設立した。
 しかし技術至難のため経営不振に陥り、明治9年(1876)政府の買上となり、官営の品川硝子製作所として事業を再開した。
 明治17年(1884)再び民営に移され、西村勝三により明治21年(1888)品川硝子会社となって再興を図ったが採算が改善せず、明治26年(1893)またも解散の止むなきに至った。
 しかしこの間に育成された技術者たちは、わが国各地に拡散して硝子産業の開発に貢献し、こんにちの硝子工業の基礎・原動力となって、わが国産業の興隆に寄与するところ大なるものがあった。
 これらの業績を偲び、顕彰のため遺跡の保存を図ったが、この挙に賛同した三共株式会社が進んで建設地を無償提供された。その結果、この「近代硝子工業発祥之地」を建てることができた。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(8)

品川神社と板垣退助の墓
Photo_20241216060301  聖跡公園から旧東海道に戻り、山手通に入るすぐ手前に西に走る北馬場参道通を15号線に向かって進む。北品川交差点に面して品川神社への参道があり、少し長い石段を上ると品川神社本殿に着く。品川神社は、元准勅祭社として東京十社のひとつで由緒ある大きな神社だが、この神社境内の西南端に隣接して、板垣退助の墓が建っている。
 ここにはかつて臨済宗大徳寺派の品川東海寺の塔頭高源院があったのだが、大正12年(1923)関東大震災後に世田谷区烏山に移転し、墓だけが残されたのであった。Photo_20241216060401
板垣退助は、天保8年(1837)土佐に300石の上級藩士の子として生まれ、幕末に藩主山内豊信(とよしげ)の側用人となった。倒幕運動や戊辰戦争に参加し、功績をあげた。明治新政府に参加したが内部対立から明治7年(1874)愛国公党を創設し、自由民権運動を牽引した。 明治14年(1881)自由党を結成して総裁となり、日本の議会政治・政党政治の黎明期に深くかかわった。明治15年(1882)岐阜に遊説中刺客に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされる。因みにこのとき負傷した板垣を診断・治療したのが医師時代の後藤新平であった。
 明治29年(1896)から伊藤内閣や大隈内閣の内相を勤め、明治33年(1900)引退している。大正8年(1919)亡くなり、ここにあった品川東海寺塔頭の墓地に葬られた。明治以降、板垣は神道に改宗したので、結果的には品川神社に隣接した墓は、実は本望だったのかも知れない。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(7)

聖跡公園の旧本陣跡
 台場小学校から八ツ山通を過ぎて旧東海道に戻り、少し南下すると山手通に入る手前の左折できる小径から聖跡公園に行き着く。Photo_20241215054601
 今は小さな市街地の公園だが、ここにはかつて品川宿本陣があった。
 品川宿は、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発展したが、この場所には本陣があり、品川三宿の中央に位置していた。参勤交代の諸大名をはじめ、公家・門跡などが宿泊・休憩するところであり、江戸時代には大いに賑わった。
 ここの最寄りの鉄道駅は、北品川駅あるいは新馬場駅という名だが、江戸時代の「品川」はこの場所こそが中心であった。現在の「品川駅」の場所は品川区でなく港区にあり、もとは品川に非ず「三田」だったのである。
 Photo_20241215054602 ここは明治元年(1868)明治天皇が東京に行幸されるときに行在所(あんざいしょ)となった。
 明治5年(1872)宿駅制度が廃止されると、かつての品川の賑わいは衰退し、ここには警視庁病院などができた。
 昭和13年(1938)に公園として整備され、かつて行在所となったことに因んで聖跡公園と名づけられ現在に至っている。
 園内には当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来の碑」「聖徳の碑」「御聖蹟の碑」「石井鉄太郎胸像」などの記念碑、公園入口には、土山宿から贈られた街道松がある。
 また、公園の一画の地面には、かつての本陣の見取り図が描かれた舗装タイルが敷かれている。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(6)

御殿山下砲台跡
 高輪森の公園から品川駅前に戻り、ガイドブックにある「駅前ロータリーの品川駅創業碑」を探したが、あいにく工事中で見ることはかなわなかった。旧東海道をさらに南下し、箱根駅伝で毎年テレビを通じておなじみの八ツ山橋交差点を経て、新八ツ山橋から御殿山トラストシティのエリアに入る。ここは京急北品川駅に近いが、私がこのあたりを何度か仕事で訪れた四半世紀以前とまったく景観が変貌して、モダンな大型ビルが林立している。
 トラストコートにあるマリオットホテルに入り、ラウンジでしばしコーヒー・タイムを寛いだ。ガラス越しに秋の快晴の陽光に映える緑地の樹木をながめ、ゆったりしたソファに沈んで、スイーツと珈琲を楽しむ、友人と二人の非日常の快適なひとときであった。
 残念ながら庭園には自転車のため入れず、ふたたび国道15号線に戻って、北品川駅の南端を左折して、北品川駅の少し北で15号線から分岐した旧東海道を渡って八ツ山通に入り、南下して東品川交差点で左折して台場小学校に行く。Photo_20241214054601
 この小学校の校門の前に、小さな灯台の模型があり、その土台が大きな石で、それがかつての御殿山下砲台の記念碑となっている。
 嘉永6年(1853)のペリー来航で海防強化の必要を痛感した幕府は、江戸を護ることを目的に品川沖から深川須崎にかけて東京湾岸に沿って11の台場を造ることにした。
 この実施にあたり、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍は、オランダの書物を調べ砲台建設の指導を行い、第一・第三と第五・第六の台場を完成させた。しかし残りの第四・第七の台場は中途で中止を余儀なくされ、第八以下は着工もできなかった。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになった。それがこの御殿山下台場(砲台)であった。
 明治になると埋め立てられて姿を消してしまったが、幸いにも台場の輪郭は道として残り、その位置と形を知ることができる。跡地に建てられた台場小学校の敷地は、もとの台場の半分ほどの面積を占めるのである。台場からは石垣が発見され、小学校の門のそばにその石垣を使った記念碑が建てられたのである。
 石垣の上に立つ小さな灯台は、明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に建造された品川灯台をモデルに模型としたものである。品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されている。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(5)

高輪森の公園と江戸無血開城交渉の場
Photo_20241213055401  国道15号第一京浜道路(旧東海道)をさらに少し南下し、JR品川駅の正面から西に入る柘榴坂を下り品川税務署の手前を右に入ると、「高輪森の公園」という公園がある。大部分を森が占めているので、ベンチなどがある平地はごく小さい。
 ここには江戸時代、薩摩藩島津家の下屋敷があった。明治に入ると後藤象二郎の屋敷となった後、宮家の邸宅として昭和22年(1947)まで使われた。この園地は、かつての朝香宮(あさかのみや)邸の一画に当たる。昭和8年(1933)朝香宮が白金台に転居の後、東久邇宮(ひがしくにのみや)が邸宅として使用した。その後、宮内庁、大蔵省の管轄を経て、昭和50年(1975)から管理を委ねられた港区が森の遊び場として区民に開放し、平成18年(2006)港区が財務省から用地を取得して「高輪森の公園」を開園した。
 この地は、幕末期に西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城交渉が行われた場所とも言われている。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(4)

東禅寺山門と攘夷派の襲撃事件
 桂坂下の高輪2丁目交差点から少し南下し、次の右に登る少し広い道を入ると、高輪公園横を過ぎて東禅寺の山門に着く。ここに安政6年(1859)最初のイギリス公使館があった。Photo_20241212060001
 幕末期に、このイギリス公使館で「東禅寺事件」とも呼ばれる2回の攘夷派による襲撃事件があった。
 一回目は文久元年(1861)5月であった。水戸藩脱藩の攘夷派浪士14人が、イギリス公使ラザフォード・オールコックを襲撃した。このとき、オールコックは長崎から江戸に向かう途中に、イギリス公使館が置かれたこの東禅寺に入った。幕府は事前に、警備上の懸念から海路での移動を推奨したが、オールコックは条約で定めた国内旅行権を強行に主張して陸路で江戸に向かったのであった。
 攘夷派の志士たちは「夷狄」たる外国人が神国日本を穢したと憤激したのである。水戸藩脱藩の攘夷派浪士有賀半弥ら14名は、5月24日に常陸国玉造湊を出航し、東禅寺門前の浜に上陸すると、品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わした後、5月28日午後10時頃、東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士、西尾藩士らが応戦し、双方に死傷者を出した。
 オールコックは危うく難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。
 攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗して逃走したが、有賀半弥など3名がその場で討取られ、榊鉞三郎は現場で捕縛された。逃げた浪士も「虎屋」で包囲され、2名は切腹、1名は捕えられ後に処刑された。
Photo_20241212060002 事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。しかし、この交渉に基づき品川御殿山に建設中であった公使館は、翌年12月に高杉晋作らによって放火されている(英国公使館焼き討ち事件)。深谷血洗島の若き渋沢たちを触発した事件でもあった。
 二回目は1年後の文久2年(1862)5月、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2名を斬殺したのであった。
 第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士伊藤軍兵衛は、東禅寺警備のために自藩が重い出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。
 伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、前年の事件後駐屯したイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。
 幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生した。幕府は翌文久3年(1863)4月、生麦事件の賠償金ともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。
 これらの事件を経て、イギリスは日本の攘夷運動の予想以上の烈しさと具体的な危険性を身をもって知ることとなった。

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電車で赤ちゃんと

 大阪に出かけてその帰途、JR新快速に乗ると、赤ん坊を抱えて席から立ちあがり泣く子を宥めている若いお母さんがいた。優先席シートで通路を挟んで向こう側だった。
 その赤ちゃんを見つめていると、赤ちゃんと偶然目線があった。赤ちゃんはふと泣き止んで、私を怪訝そうに見つめた。赤ちゃんが泣き止んだので、お母さんは、ヨッコラショと座席に座った。ほどなく私も目線を外していると、また赤ちゃんが泣き出して、お母さんが席から立ちあがって赤ちゃんをあやし始めた。やがて私が赤ちゃんを見ると、また目が合って泣き止んで、むずかしそうな表情をしていた。目線を外すとほどなくまた泣き出した。それを3回繰り返し、お母さんがなにか気づいたのか、軽く会釈してくれた。電車が目的の駅に着いて、私は下車した。
 私も赤ちゃんを宥めよう、泣き止ませようなどと大それた思いはなかった。ただ最近初孫が生まれたこともあり、自然にいつもより赤ちゃんに関心があって、赤ちゃんと目が合うと、つい頬が緩んで微笑んだような気がする。赤ちゃんも周りの乗客が、うるさいな、煩わしいな、という堅い表情で孤立していたのかも知れない。思いがけず微笑むヘンな老人を見て「コイツはなんや?」と怪訝に思ったのかも知れない。泣き止んでいたが、なにか思案するかのようなむずかしい顔をしていた。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(3)

桂坂下の旧東海道護岸石
 伊皿子坂を下り、泉岳寺の前を過ぎ、泉岳寺交差点で右折して国道15号第一京浜道路(旧東海道)に入り高輪2丁目交差点まで進む。この交差点は西側の桂坂に交わっている。Photo_20241211054301
 桂坂の名の由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途急死したことによる、などともいわれる。桂はよい字を当てたものである。
 この角に「旧東海道護岸石」の一部が説明板とともに置かれている。
 江戸時代には、この旧東海道のすぐ脇まで海であり高輪海岸が迫っていた。その海岸線に沿って造られた護岸のための石垣に用いられた石なのである。平成7年(1995)高輪2丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡発掘調査で出土したものである。
 石垣には、おもに相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられた。発掘では、3段の石積みが確認されたが、この最上段は幕末ころに積み直されたものと考えられている。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(2)

歯科医学教育発祥之地
 聖坂をさらに進むと、坂は緩い下りになり、やがて伊皿子(いさらご)交差点に着く。ここから左折すると東南へ高輪2丁目方面に下る坂となり「伊皿子坂」と呼ばれる。江戸時代にはここから江戸湾が一望に見渡せたという。Photo_20241210055301
 この交差点の角に「歯科医学教育発祥之地」と刻まれた高さ1.5mほどのかなり大型の黒い石碑がある。アメリカ留学を終えた高山紀齋(たかやまきさい)は、明治23年(1890)1月、芝区伊皿子町70番地に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)を設立した。それを記念する黒御影石の碑である。
 高山紀齋は、嘉永3年(1850)12月、備前国岡山(現在の岡山市)に岡山藩家老陪臣の武士の子として生まれた。幕末には新政府軍に参戦し、上野戦争で彰義隊と戦い、神戸事件では備前藩兵に加わっていた。
 慶應義塾に入塾し英学を修め、明治5年(1872)12月、横浜から船で渡米してサンフランシスコのヴァンデンボルグ博士(Dr.Daniel Van Denburgh)から歯科医学を学んだ。帰国後、明治11年(1878)京橋区銀座3丁目に高山歯科診療所を開設し、さらに明治17年(1884)には東京医術開業試験委員に就任した。
 明治23年(1890)自宅に隣接する芝区伊皿子町のスペイン公使館の跡地に「高山歯科医学院」を創設し、黎明期にあった日本の歯科医学教育に尽力した。
 昼は銀座の診療所で診察にあたり、夜は自宅で欧米の歯科医学書を学ぶなど、先進的な医療知識と治療技術の移入に注力し、明治29年(1896)日本歯科医会を設立、明治35年(1902)その初代会長に就任した。
 高山歯科医学院は、わが国最初の歯科医学の教育機関であり、後には野口英世の支援者でもあった血脇守之助がこれを継承し、東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校、そして東京歯科大学と発展して現在に至っている。

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東京都心歴史散策 ─「攘夷コース」(1)

 今年4月の東京都心歴史散策に続いて、今回も黒田涼『江戸東京の幕末・維新・開化を歩く』光文社 を参考に、地下鉄三田駅から京急立会川駅までの12kmほどを散策した。
 前回に続いて、私の膝故障から、電動アシスト自転車を利用しての散策となった。この度も東京在住の友人との二人旅であった。午前9時過ぎにスタートした。

最初のフランス公使館跡
Photo_20241209054901  国道1号線桜田通に出て、三田3丁目交差点から「聖坂」に入る。この坂は緩やかだが長い上り坂で、こういう時電動アシスト自転車はありがたい。かつてこの付近に高野聖の宿があったことからこの名がついたという。
 三田3丁目にある済海寺の境内に「最初のフランス公使館跡」の碑が建っている。
 安政5年(1858)10月徳川幕府と第二帝政フランスの間で日仏修好通商条約が結ばれ、翌年8月この地にフランス公使館が設置された。初代公使としてド・ベルクールがここに駐在した。公使館としては、書院、庫裏(寺院の僧侶の居住する場所)があった。さらに慶応2年(1866)には玄関、門、門番所が増設された。明治3年(1870)4月、ここから公使館が引き払われたが、それまではこの公使館が使用されていた。
 済海寺は、明治年間に敷地が分割され、かつてのフランス公使館の敷地は、現在の済海寺本堂敷地とその西隣の地域であった。現在は、この寺院は建物全体が鉄筋コンクリート造に改装されている。

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マルクス・ガブリエル『新実存主義』岩波新書、2020

妥当だが「新実存主義」と振りかぶるほどにも思えず
 何人かの友人から、この本を薦められたので読んでみた。
 結論から言えば、書いてあることは飛躍も独断も誤謬もなく至極妥当で、ごく自然に納得できるものである。ただ、これを敢えて「新実存主義」と名づけてオリジナリティある新しい思想と謳っているのであれば、それは感覚的には受け入れにくい。私は、現代の思想界に詳しい者ではなく、知識はごく限られていることを先ず断ったうえで、凡人の個人的感想を記す。
 たしかにソビエト崩壊ころから、ドゥルーズ・ガタリの『アンチオイディプス』などをはじめ、無意識の重視、普遍的機械主義、欲望する機械としての人間、スキゾなどの人間存在の機械への接近・吸収のような風潮が思想界に蔓延したのかも知れない。それに反発する哲学者がいるのは当然だろうと思う。
 自然科学が取り扱う「宇宙」と、人間が考える「世界」とは概念が異なる。人間の「心」、とくにそのなかで機能する「精神」は、決して自然科学が扱う「自然」の範疇には入り切らず、発見による知識の獲得・増加、決意による意志の発生など、到底自然科学で説明できない範囲がある。
 この本では明示的には触れられていないが、人間の思想・信仰の自由という重要な条件は、自然科学だけでは存在し得ないと思う。自然科学では、広義の実験・実証を通じて、事象の異同を客観的に判別・識別し、それら相互間の優劣(性能など)を客観的に実証できる。そんな状況下では、選択の自由の余地が無いことになるであろう。
 現代思想の動向は、たしかに常識的にも不自然な動きがあったと思うが、それに対する我々凡人の反応は、哲学的専門用語による詳しい議論はさておき、この本に書かれているような判定に近いと思う。「哲学者」として思考に名前を命名して講義しないと立場がないのかも知れないが、私のような凡人からみれば、いささか大げさな議論であると感じた。

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談山神社紅葉見物(7)

神廟拝所
1_20241208060201  往路は権殿の前の石段を登ったが、復路は本殿を観てぐるっとまわって、緩い坂を下って、境内で最初に目に入っていた神廟拝所を訪れた。
 藤原鎌足の長男 定慧和尚が白鳳8年(679)父の供養のため創建した妙楽寺の講堂が元である。十三重塔の正面に仏堂を置く伽藍の配置としている。建物の内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。
 現存の建物は寛文8年(1668)再建されたものである。本尊であった阿弥陀三尊像は、明治時代の神仏分離によって安倍文殊院に移され、現在は釈迦三尊像(奈良市指定有形文化財)となっている。
 この室内の真ん中には「鎌足公神像」がある。Photo_20241208060201
 この絵は、鎌足の肖像を真正面から描いた貴重な絵で、珍しいものである。
 強い意志と権力・実行力を象徴するかのような強い眼光を湛える両眼と、エネルギッシュな堂々とした躯体が特徴である。鎌足の両脇には、他の鎌足の肖像や曼荼羅と同様に、定慧和尚と不比等とが控えている。釈迦三尊像の文殊菩薩と普賢菩薩のような存在なのだろう。ここでは、藤原鎌足は、単なる貴族に非ず「神」として描かれて、据え置かれているのである。
Photo_20241208060301  かつて談山神社にあった狩野派の襖絵は、のちに大英博物館、シアトル美術館、青森県中泊町の宮越家の所有になっていた。そのうち大英博物館所蔵の「秋冬花鳥図」は、株式会社キヤノンのプロジェクトによって複製された。精密な写真で原図を造り、その上から専門職人が金箔なども含めて精緻に彩色加工したものである。それが神社に寄贈され、神廟拝所室内の一面を飾っている。なかなか壮麗である。

 今回、結果としてはまだ紅葉が盛りとなる前に訪れてしまったのであった。それでも私たちにとって談山神社は、一度はゆっくり訪ねてみたい場所だったので、来た甲斐はあった。
こんな山がちの厳しい環境の土地に、古代のひとびとはこんなに立派な建物をたくさん建造して、数多の豪華な物資を納めた。いつも歴史的建造物を訪ねる度に感動するのである。

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談山神社紅葉見物(5)

本殿
 木造十三重塔を過ぎて少し東に進んだところに、本殿(旧聖霊院)がある。2_20241207054301
 大宝元年(701)十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂が建立され、聖霊院と号したのが現在の本殿の由来である。
 大織冠社や多武峰社とも呼ばれていた。三間社隅木入春日造という珍しい造りである。日光東照宮造営の手本とされたという。幕末の嘉永3年(1850)に造替が行われた。
 靴を脱いで建物のなかに入ると、広々とした部屋、高い格子天井、朱色の柱と梁など、非日常的な雰囲気の美しい空間である。すくなくとも室内の内装は、最近手を入れてきれいにしたのかも知れないと思った。
Photo_20241207054301  室内には、「多武峰曼荼羅」と名づけられた藤原鎌足・定慧上人・藤原不比等の3人を描いた絵の写しが展示されている。この本物は、権殿に展示があった。
 曼荼羅の絵の最上段には三面の神鏡があり、その前に御簾が垂れている。それから両脇に向かって帳(とばり)が降ろされる。藤が絡む松の描かれた衝立を背景として、画面中央に藤原鎌足が少し左方向に顔を向けて座っている。画面の右下には鎌足の長男定慧上人が、画面の左下には鎌足の次男藤原不比等が、それぞれ中央に顔を向けて座っている。定慧上人の手前には鎌を咥える狐が、不比等の手前には矢を咥える狐が控える。
 同じく室内展示として「増賀(ぞうが)上人坐像」がある。Photo_20241207054401
 木造、玉眼、彩色の増賀上人坐像である。法衣を纏い禅定印を結んで結跏趺坐している。静かに端座する老僧の姿は、端正で静謐な趣に満ち、多武峰で浄行を行った増賀上人の面影を彷彿とさせている。
 比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して天台教学を学び、応和3年(963)如覚の勧めで多武峰に住んで「摩訶止観」「法華文句」を講じ、「法華玄義鈔」「無限念仏観」などを著した。また、毎年四半期ごとに法華三昧を修した。一方不動供(不動明王を供養する修法)などの修法や法華経読誦を行い、奇瑞を現したという。高い名誉や利権を嫌い、奇行譚を多く残した。即身仏となったと伝わる。

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談山神社紅葉見物(4)

権殿
 石段を登ったところの正面にある大きな建物が権殿(ごんでん、重要文化財)である。2_20241206060401
 権殿は、天禄元年(970)摂政右大臣藤原伊尹(これただ)の立願によって創建され、実弟の如覚(にょかく、多武峰少将藤原高光)が阿弥陀像を安置した常行堂(天台宗において四種三昧のうち常行三昧の修行をするために建てられた仏堂)であった。また、室町時代には、ここで「延年舞」が行われた。
室町後期の再建によるものが500年ほど残ったが、平成時に大修理を行い再生した。
 古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩など広義の芸能に携わる人たちの守り神として、また芸能上達を祈願する「祈りの場」として、あるいは「集いの場」として崇敬を集めている。
 私たちが訪れたときは、中臣鎌足や大化改新にまつわる絵・絵巻物・衣装の展示を催していた。

十三重塔
1_20241206060501  権殿にすぐ隣接して、高く聳える十三重塔がある。これは高さと特徴ある形態から、かなり遠くからでも見つけることができる談山神社のメルクマールである。
 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後、天武天皇(白鳳)7年(678)鎌足の長男たる定恵(定慧)が唐から帰国後に、父の墓を摂津国安威(大職冠神社の将軍山1号墳=阿武山古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが、この談山神社の発祥であるとする。すなわち談山神社の起源となった建造物である。現存のものは享禄5年(1532)再建されたものである。
 木造十三重塔としては、現存で世界唯一の貴重な重要文化財の建造物である。

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談山神社紅葉見物(3)

閼伽井屋
 総社本殿から権殿に向かう途中、権殿のある高台に上る石段に向かう手前に閼伽井屋(あかいや)がある。Photo_20241205060601
 閼伽(あか)とは、仏に供える水のことで、その「閼伽の水」をくむ井戸を閼伽井戸と言い、その井戸を納める小屋を閼伽井屋という。
 この小屋は、屋根はこけら葺き(薄板の積層)で、江戸時代初期元和5年(1619)の造営である。この中の井戸は「魔尼法井(まにほうい)」と呼ばれ、その昔中臣鎌足の長男定慧(じょうえ)和尚が法華経を講じたとき、龍王の出現があったと伝える。これも重要文化財である。


比叡神社
2_20241205060701  権殿(ごんでん)の前の石段を登り、左手奥に行くと比叡神社(ひえじんじゃ)がある。
 この建物は、江戸時代初期の寛永4年(1627)造営の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、すなわち切妻の屋根の正面側は非対称に長く、正面を構成する2本の柱の間隔は1間であり、小型の様式である。しかし正面には軒唐破風をつけ、檜皮葺の小さくも豪華な様式となっている。もとは飛鳥の大原にあった大原宮がここに移築されたもので、明治維新までは「山王宮」と呼ばれていたという。これも重要文化財である。

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談山神社紅葉見物(2)

総社拝殿
 境内に入ってすぐ、ちいさな広場を挟んで神廟拝所の向かいに総社拝殿がある。Photo_20241204055301
 これは寛文8年(1668)、本殿の建て替えなど神社全体にかなりの規模で改築・改修が行われたときに造営された建築物で、重要文化財である。この談山神社の拝殿を縮小したような様式で、正面・背面ともに唐破風を備えた優美な風貌である。今は、布袋存(ほていそん)の木彫像が祀られている。
 内と外の小壁には、狩野永納(かのう えいのう)が描いた壁画が残り「山静」の落款が見られるという。

総社本殿
1_20241204055401  総社拝殿をぐるりとめぐって背面に入ると、末社・総社本殿(重要文化財)がある。
 これは延長4年(926)の勧請というから、起源は平安時代前期でとても古い。日本最古の総社と説明板にある。寛文8年(1668)談山神社本殿を造替した元の本殿を、寛保2年(1742)ここに移築したものとされる。

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談山神社紅葉見物(1)

 秋の快晴の日、家人と奈良多武峰の談山神社に、紅葉見物に出かけた。


Photo_20241203061201

 今年は残暑が厳しく、10月の後半までは夏の名残が続き、11月も後半に入ってようやく涼しくなった。ただ気温の降下がかなり急速であったので、遅れていた紅葉の見ごろのネット情報が始まると、紅葉の見ごろも早く過ぎ去るのではとの懸念と、急速に下がった気温から紅葉の鮮明さへの期待とから、いささか気が急いて紅葉見物に赴いたのであった。
 鉄道の桜井駅から談山神社まではバスで30分程度だが、1時間に1本以下の頻度である。早めに家を出て桜井駅に着くと、早くもバス乗車の待ち行列ができていた。紅葉シーズンとあって、バスは同じ時刻ながら増発していて、2台が同時にバス停に来た。私たちは1台目で幸い着席できたが、立っている乗客も混雑して、ほぼ満員であった。
 江戸時代の三間道路くらいの幅(5メートル余程度)の道が続き、対向車とすれ違うことが難しい場所もあり、ときどき停車する。道幅の狭い道路で緩やかな上り坂が続く。
 談山神社に近づくと上り坂が急になり、ようやくバス停に到着した。まだ午前10時過ぎだが、早くも帰り路に向かうバス乗客が列をつくって待っていた。Photo_20241203061301
 談山神社は、案内パンフレットや案内マップがないので、バス停前の土産物のお店で神社への道筋を聴いた。ゆるやかな坂の小径をぐるっとまわって、神社の入口に着いた。
 入口に境内の案内図の説明板が建っているのが貴重な情報源である。入場受付所で入場料を支払うと、靴を脱いで上がるときの靴入れのポリ袋をいただくが、入場券はないらしい。
 談山神社は御破裂山の麓にあり、傾斜があって、入口から境内の全貌を見ることはできないが、とりあえず十三重塔とその手前の神廟拝所のまわりの木々を眺めることはできる。まだ紅葉は一部にとどまるようだ。
 入場してすぐの場所で、神廟拝所と十三重塔を背景にして記念写真を撮るビジネスが営業していた。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(10)

日本煉瓦製造株式会社とホフマン輪窯
 あかね通りを北上していくと小山川に行き当たるが、手前で大きく右折すると南北に走る道路に面して、かつての日本煉瓦製造株式会社の大きな煙突が聳えているのが見える。
 明治政府は、東京新都心として日比谷周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、その実現のために明治19年(1876)臨時建築局を設置した。
 財政的に厳しい明治政府は、実業界の実力者渋沢栄一に大量生産ができる機械的レンガ工場の設立を要請した。渋沢は、従来から瓦の生産が盛んで、煉瓦の原料となる良質な粘土が採れること、小山川から利根川に入り、江戸川、隅田川を経由して東京へ煉瓦を運ぶ舟運が持込めることから、自分の実家近くの上敷免村を工場建設地として選定した。
 建設にあたり、ドイツ人煉瓦技師チーゼを雇い入れ、設計を進めた。製造の要の窯は、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンの考案による当時最先端の「ホフマン式輪窯」を採用し、明治21年(1888)から操業を開始した。翌年には2号窯と3号窯が完成し、操業を拡大した。Photo_20241202055001
 現在遺構が残っているのは、明治40年(1907)建造のホフマン輪窯6号窯で、煉瓦の連続焼成が可能な、長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの煉瓦造りである。大きな楕円型の炉の内部を18の部屋に分割し、窯詰め・余熱・焼成・冷却・窯出しの行程を、各部屋ごとに順次行いながら移動していき、約半月で窯を一周する。焼成の過熱は、部屋の天井にある小さな孔から石炭を落下させて燃焼する。各部屋には18,000枚の成形された焼成前の煉瓦を収納して焼成し、全体で月産65万枚の製造能力を持っていた。昭和43年(1968)までの約60年間、煉瓦を焼き続けた窯であった。
 当時は、世界最大クラスの煉瓦量産工場であった。明治時代に東京に相次いで建設されたレンガ造りの建物の多くは、この工場の製品を使っていたことになる。
 戦後の最終段階では、電気加熱も導入されたという。平成18年(2006)工場の操業は停止された。

深谷・渋沢栄一遺跡を巡って
 電動アシスト自転車を使って、20km弱ほどの行程を6時間程度かけて散策した。深谷駅直近の中心市街部以外は、田畑に囲まれた美しい豊かな田園都市という風情であり、おおいに楽しめた。
 ただ、観光案内所や訪問先でいただく案内マップに統一性・一貫性がなく、訪問したい場所を探すのに、地域は重なっているはずなのに、何枚もの別々のマップを探す必要がある。散策してまわる者の側からすると、かなり使いにくい案内マップとなってしまっているのである。これは市の観光担当部署あたりで、統合・整理していただければ有難いと思った。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(9)

あかね通り
 次の訪問先は、渋沢栄一らによって設立されたレンガ工場「日本煉瓦製造株式会社」の史跡である。14号線を少し南下して、大寄小学校の横を左折して、国道11号線中山道に並行して東西に走る道に入る。唐沢川を渡り少し行くと「あかね通り」という遊歩道に行き当たる。この道は、ヒトが歩行するラインと自転車が通行できるラインとの2つに分けられ、両脇に並木のある個所も多く、ある程度整備された道となっている。Photo_20241201055301
 「日本煉瓦製造株式会社」のレンガ工場は、利根川の支流小山川に近接しており、明治21年(1888)の操業開始から、製造された煉瓦は舟運により小山川から利根川へ、そして江戸川に入り東京に至るというルートをとっていた。
 しかしやがて輸送力向上を目的として明治28年(1895)日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって、日本初の製品輸送専用鉄道が敷かれた。この専用鉄道が開業した4年後、舟運による輸送は廃止された。専用列車は、大正時代ころは1日に3往復が運行していた。
 しかし、大正12年(1923)関東大震災によって建築物の煉瓦構造の脆弱性が指摘されたこと、日本煉瓦製造株式会社が秩父セメント(後の太平洋セメントの一部)を設立してセメント製造業に進出したこと、などによって煉瓦の出荷量が減少した。さらに鉄道による貨物輸送の衰退も相まって専用鉄道は存在意義が減少していった。
 ついに昭和47年(1972)から休止扱いとなり、昭和50年(1975)3月に全線の廃止が決定し、翌年3月に線路用地が深谷市に譲渡された。
 その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」となっているのである。

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