深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(10)
日本煉瓦製造株式会社とホフマン輪窯 深谷・渋沢栄一遺跡を巡って
あかね通りを北上していくと小山川に行き当たるが、手前で大きく右折すると南北に走る道路に面して、かつての日本煉瓦製造株式会社の大きな煙突が聳えているのが見える。
明治政府は、東京新都心として日比谷周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、その実現のために明治19年(1876)臨時建築局を設置した。
財政的に厳しい明治政府は、実業界の実力者渋沢栄一に大量生産ができる機械的レンガ工場の設立を要請した。渋沢は、従来から瓦の生産が盛んで、煉瓦の原料となる良質な粘土が採れること、小山川から利根川に入り、江戸川、隅田川を経由して東京へ煉瓦を運ぶ舟運が持込めることから、自分の実家近くの上敷免村を工場建設地として選定した。
建設にあたり、ドイツ人煉瓦技師チーゼを雇い入れ、設計を進めた。製造の要の窯は、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンの考案による当時最先端の「ホフマン式輪窯」を採用し、明治21年(1888)から操業を開始した。翌年には2号窯と3号窯が完成し、操業を拡大した。
現在遺構が残っているのは、明治40年(1907)建造のホフマン輪窯6号窯で、煉瓦の連続焼成が可能な、長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの煉瓦造りである。大きな楕円型の炉の内部を18の部屋に分割し、窯詰め・余熱・焼成・冷却・窯出しの行程を、各部屋ごとに順次行いながら移動していき、約半月で窯を一周する。焼成の過熱は、部屋の天井にある小さな孔から石炭を落下させて燃焼する。各部屋には18,000枚の成形された焼成前の煉瓦を収納して焼成し、全体で月産65万枚の製造能力を持っていた。昭和43年(1968)までの約60年間、煉瓦を焼き続けた窯であった。
当時は、世界最大クラスの煉瓦量産工場であった。明治時代に東京に相次いで建設されたレンガ造りの建物の多くは、この工場の製品を使っていたことになる。
戦後の最終段階では、電気加熱も導入されたという。平成18年(2006)工場の操業は停止された。
電動アシスト自転車を使って、20km弱ほどの行程を6時間程度かけて散策した。深谷駅直近の中心市街部以外は、田畑に囲まれた美しい豊かな田園都市という風情であり、おおいに楽しめた。
ただ、観光案内所や訪問先でいただく案内マップに統一性・一貫性がなく、訪問したい場所を探すのに、地域は重なっているはずなのに、何枚もの別々のマップを探す必要がある。散策してまわる者の側からすると、かなり使いにくい案内マップとなってしまっているのである。これは市の観光担当部署あたりで、統合・整理していただければ有難いと思った。
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