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2025年1月

TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(6)

6.夢と幻影
Photo_20250131060401  眼前に存在するモノではなく、心の中の動きを表現する抽象画においては、世界的大家たるシャガールとダリが登場している。
 マルク・シャガール「夢」(1927)がある。
 女性を背中に乗せたウサギとロバが合わさったような動物が、足元に月、頭上に地面がある天地さかさまの空間にいる。まさに超現実で緊張感もあるが、そこはかとない温かみと安らぎさえ感じさせる。
 ダリ「幽霊と幻影」(1934)がある。Photo_20250131060402
 巨大な雲や虹、逃げ水のような水たまりなど不気味さを漂わせるものに囲まれ、後ろ向きに座る女性は、タイトルからするとこの世の存在ではなさそうである。私たちがよく知っているものを登場させつつ、現実世界の重力やものの大小、自然のことわりを無視したこれらの不思議な空間は、夢や無意識、幻覚など、理性がおよばない世界を具現化している。
 遠近法をあからさまに導入しているわけでもなさそうなのに、座っている女性が悠久の別世界まで見通しているかのような、画面の深さ・奥行きを感じる。いつ見てもダリの描写力はすごいと思う。

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TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(5)

5.都市・ストリートのグラフィティ
 20世紀の芸術の都であるパリとニューヨークでは、路上もアートが生まれる舞台となった。
1960年に美術評論家ピエール・レスタニ(Pierre Restany)と芸術家イヴ・クライン(Yves Klein)がフランスで結成した芸術家グループ「ヌーヴォー・レアリスム Nouveau Réalisme」に参加していた、あるいは影響を受けた2人の作品が展示されている。
 フランソワ・デュフレーヌ「4点1組」(1965)がある。

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 実験詩の詩人であったデュフレーヌは、複数の層になったポスターを壁から剥がし、それらをカンヴァスに貼ることで作品にした。そうすることで、色彩は薄れ、文字は上下左右が反転して、単純な記号となる。これはレトリスム(仏:Lettrisme、英:Lettrism)あるいは文字主義(もじしゅぎ)とも呼ばれ、ルーマニア出身の詩人イジドール・イズーが第二次大戦直後にパリで創始した前衛的な芸術運動であった。シュルレアリスムとダダイスムの理念を継承し、詩作からはじまって映画、演劇、彫刻、絵画、写真、ダンスと多方面で、既存の芸術形式を解体するラディカルな表現を追求した。
Photo_20250130055301  ジャン・ミシェル・バスキア「無題」(1984)がある。
 バスキアは、ニューヨークのアトリエとストリートの両方で作品を制作した。1980年代、彼はしばしば日本を訪れて、個展やグループ展を開催している。ニューヨークと東京にインスパイアされた1984年の作品には、科学的図式や英語とともに漢字もちりばめられている。そこからは、ストリートのエネルギーと多国籍文化へのまなざしが浮かびあがる。ストリートの空気を漂わせるこれらの作品では、画面に浮遊する文字が存在感を放っている。

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フジテレビ・中居正広不祥事疑惑騒動

 今年は、年明けから情けない話題がテレビ番組を占拠している。
 人気タレント中居正広が、ある女性に性的加害したらしいが、それがフジテレビからの「女性上納」であった可能性がある、という事件である。
 事件から長い時間が経過しており、ずいぶん以前に加害者たる中居氏と被害女性の間には金銭的示談が成立していて、被害者のプライバシー問題から事件の詳細は秘密事項となっている。その事件に、間接的であれ大手のテレビ局が関与したということであれば、貴重な公共有限資源たる電波を使用して公共活動を担うべきテレビ局としては、大きな問題だというのである。
 私は関心を持って詳しく調べたわけではないが、垣間見るに本件は、事件にかかわる多くのステークホルダーがそれぞれ問題・欠点・汚点を露呈している。
(1)ことのはじまりは、週刊誌「週刊文春」の記事であった。フジテレビが独自取材したわけではない。
 マスコミが元ネタを自ら取材するのでなく、週刊誌に依存する傾向は最近珍しくない、情けない状況である。
(2)フジテレビは、この事件に関わりが疑われて、釈明・説明を求められたが、報道機関としてあるまじき非公開の不完全な会見を行い、しかも事件に関わるほとんどすべての事情・経過について質問に答え得なかった。
 他者に対して厳しく追及することをモットーとするマスメディアが、自分の不都合はひた隠しにしたいとの姿勢を露呈した。
(3)そのため激しい非難を浴びたフジテレビは、今度は長時間のオープンな記者会見を実施したが、記者の質問に十分対応していない、と参加した記者たち、さらに外部マスコミからまたも非難を浴びた。
 フジテレビは、問題が発生した時の社内関係者の情報共有、コンプライアンスの重視、社内のガバナンスに、多くの欠点を露呈した。
(4)一方で、フジテレビに質問と罵声を浴びせた記者たちは、その態度・マナーのみならず、知的水準までもが酷いものであった。
 第三者委員会をフジテレビが設定して事実確認作業を委任した以上、すでに示談が成立し被害者のプライバシー毀損の可能性がある事実の詮索は、フジテレビとして勝手に回答できないのは当然である。それにも拘わらず、第三者委員会の存在価値を毀損するような質問を執拗に迫ることは明らかに不当で、質問者の知的水準が疑われる。我々がテレビやメディアをみるとき、こんな連中がつくる番組や記事が、実はたくさんありそうだとうことを肝に銘じたい。こんな連中がSNSなど「オールドメディア」以外の発信を批判しても、なんの説得力もない。
(5)問題の震源地たる週刊文春は、フジテレビの公開記者会見の後に、実は「些細な」誤報があったと密やかに報じた。
 しかしその内容は、今回のフジテレビの責任範囲に大きくかかわる「重大な」内容であり、このような週刊文春の態度は、十分な裏付けの取材を実行していないうえに、姑息なものであった。危うい報道をしていると思わざるを得ない。「正義の味方」を装って、多くの人たちを破綻に追い込んだメディアなのだが、こんな連中なのだ。
 フジテレビも、社内のコンプライアンス、ガバナンスなどに大きな問題を抱えていることが明らかとなったが、フジテレビを攻撃する側の他のテレビ会社、マスコミの記者たちも、大きな問題や懸念を露呈している。「どっちもどっち」ということでは済ませない、双方ともに重大な問題を抱えているのだ、というのが実態である。
 フジテレビに限らずテレビというメディアは、大きなエンタメ媒体であり、視聴率を競うために、有名人や人気タレントを大切にしたいとするのは自然であろう。ただそれに止まらず最近のテレビの報道は、しっかり自分で取材して裏付けの努力を尽くしたうえでその事実を正確に伝達する、という基本から乖離して、取材を他のメディアや週刊誌に依存し、視聴率を稼ぐ目的で敢えて非ジャーナリストたる芸能人・お笑い芸人・その他素人を動員して放送している。ニュースをエンターテイメントにすり替えているのである。
 私たち団塊の世代が若いころの「小川宏ショー」「木島則夫モーニングショー」などは、当時としては新しい試みで、ニュースに「ショー」的あるいはエンタメ的な要素を取り入れた番組であったが、ニュースに関わらない話題で芸能人をゲストに呼んだりすることはあっても、ニュースのコメントをさせるのはジャーナリストであり、芸能人やお笑い芸人ではなかった。現在は、ニュースのエンタメ化がいささか度を越してしまっている。
 こんなことで「社会の木鐸」たるまともなジャーナリズムを実現できるはずもない。テレビ業界全体が、他山の石として真剣に反省・内省してくれることを望みたい。
 この事件は、事件当事者にとっては重大な事件だろうが、世の中全体からみてトップ・プライオリティの事件とは到底思えないにも関わらず、いつものように延々と毎日マスコミをにぎわす騒動となっている。これも、嘆かわしい「ニュースのエンタメ化」の結果の一部なのだろう。

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TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(4)

4.加速する都市
 ウンベルト・ボッチョーニ「街路の力」(1911)がある。Photo_20250129055501
 電車や地下鉄などの近代都市の新たな交通手段は、人間や物の移動時間の劇的な短縮をもたらした。機械のエネルギーやダイナミズムを称揚し、スピードという要素をいち早く芸術に取り入れたのが、1909年にイタリアで発祥した未来派の運動であった。
 ボッチョーニのこの作品はその代表的なものである。街灯が照らす中、街なかを路面電車が疾走する様子を、画面に3回も電車を登場させて表現している。
Photo_20250129055601  イタリアに生まれ、ローマで学び、青年期にパリに移住して印象派・ポスト印象派の作風を獲得し、ミラノに移って色彩分離派の画家たちと交流、1910年未来派画家宣言に加わったボッチョーニは、マルクス主義者であり、アナキストであった。慌ただしく人生を駆け抜けた芸術家は、33歳で兵役訓練中に夭逝した。
 フェリックス・デル・マルル「メトロのモンパルナス駅」(1912-14)がある。
 パリで未来派の運動に参加したデル・マルルは、メトロの駅を題材に、梁などの構造物を直線と曲線で大胆に表現し、そこに看板の文字や駅を訪れる人々を断片化して重ね合わせた。

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TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(3)

3.都市と人びと
 Photo_20250128055201 三都それぞれの風景を象徴する場所を、人々の生活する情景とともに切り取ったコーナーである。
ユトリロが描く「セヴェスト通り」(1923)は、パリのモンマルトルの丘に近い通りで、石造りの建物が両側に並び、遠近感のある風景を描く。ユトリロの絵としては比較的人物が多いが、腰まわりが大きな女性たちは、壁や看板に施された明るい色彩とともに、1920年代のユトリロに特徴的とされる。
 河合新蔵「道頓堀」(1914)が描くのは、「水の都」大阪を代表する風景、道頓堀川である。川端に壁のごとく立ち並ぶ建物と、川を行き交う船をとらえる。水彩画の名手でもあった河合は、手すりや張り出し窓、洗濯物などを細かく写実的に描写し、当時の雰囲気を生き生きと伝えている。Photo_20250128055202
 河合新蔵は、慶応3年(1867)大坂に生まれた。鈴木蕾斎、前田吉彦に洋画の手ほどきを受けたのち、明治24年(1891)上京し、五姓田芳柳、ついで小山正太郎の不同舎で学んだ。明治33年(1900)満谷国四郎、鹿子木孟郎らと渡米、翌年フランスへ渡りパリでアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシへ通った。明治37年(1904)鹿子木と共に帰国し京都に居住、第3回太平洋画会展に出品し同会会員となった。さらに明治39年(1906)大下藤次郎らと日本水彩画研究所を創設した。明治30年代後半からの水彩画隆盛期を代表する作家の一人である。

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TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(2)

2.川のある都市風景
 小出楢重の「街景」(1925)は、大阪市中心部を流れる堂島川を高所から眺め、遠景に黒煙を吐く工場の煙突をとらえて、「煙の都」と呼ばれた大正末の大阪を描写している。Photo_20250128090601
 小出楢重(こいで ならしげ、明治20年1887~昭和6年1931)は、大阪市南区長堀橋に生まれた。小学校から日本画の手ほどきを受け、明治40年(1907)東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科を受験したが不合格、日本画科への編入を許されて入学した。下村観山の指導を受けたが、のち洋画に転向した。大正8年(1919)二科展出品作「Nの家族」で樗牛賞を受賞した。挿絵等の仕事を手がけ、ガラス絵の制作にも着手した。大正10年(1921)から2年間渡欧し、帰国後大正12年(1923)二科会員に推挙された。翌大正13年(1924)仲間と4人で信濃橋洋画研究所を設立した。当時、洋画の本格的な教育機関は、東京美術学校と関西美術院(京都市)のみで、大阪では最初であったこともあり、昭和初期には研究生が約400人に達した。
 晩年に集中して描いた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画し、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価されている。

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石破首相の第217回国会所信表明演説への雑感

 2025年となり1月24日、石破首相の第217回国会所信表明演説が表明された。私の雑感を簡単に記しておく。
国づくりの基本軸としては「人財尊重社会」を築いていく。そのためには価値観の転換が必要で「楽しい日本」を目指していきたい。構想として「令和の日本列島改造」を打ち出し、地域の持つ潜在力を最大限引き出し、若者や女性にも選ばれる地方の実現のため、ハードだけではないソフトの魅力が新たな人の流れを生み出すようにしたい。省庁機能の地方移転や地方公務員の兼業・副業の推進も、具体的手段とする。
新時代のインフラ整備として、脱炭素電源の整備と新たな産業用地や関連インフラの整備を促す施策を具体化したい。150兆円超のGX投資を呼び込むための成長志向型カーボンプライシングの制度化及び循環経済への移行に向けた法案を提出する。
などが述べられている。
 石破氏は、田中角栄を師とあおぎ、あやかって「令和の日本列島改造」としたようだが、名前は似ていても、中身の濃さ・具体性がまったく違う。田中角栄の日本列島改造論は「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成により、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させて地方分散を推進する」というしっかりした基本構想にもとづき、日本国土に広範囲にわたる新幹線や高速道路・海上架橋などの高速交通網を設置して、過疎と過密を解決し、公害問題も解決していくなど、かなりのページ数の単行本ができるほど詳細で具体的な内容であった。実際にはさまざまな経緯から全面的な予定とおりの実現には至らなかったが、形を変えながらも日本の高度経済成長に貢献したことは、現役時代には徹底的に田中角栄に反対していた石原慎太郎氏が認めている。翻って石破氏の「令和の日本列島改造」は、現状の日本の問題点をピックアップして、改善の「目標」を部分的にリストアップするにほぼとどまり、その具体化は石破氏お得意の「これから熟議せねばならない」ということらしい。田中角栄の「ハード重視」から石破氏は「ソフト重視」だというが、「アンコンシャス・バイアス、すなわち無意識の思い込みの解消」などの抽象的な難しい言葉を用いてみても、内容の希薄さは明らかである。
 さらに私は、国連がもてはやす「脱炭素の推進」にはかねてから懐疑的である。過去120年間で日本・東京の平均気温が1.5℃ほど上昇したことは事実だが、その上昇がほんとうに致命的なものだとは到底思えない。ましてそれが二酸化炭素の増加に起因することは、仮説はあっても証明されてはいない。妥当な範囲で対策に努力することはあっても、150兆円超もの驚くべき巨額を投入すべきだとは決して思えない。政府としてやるのであれば、しっかり評価して、国民に向けて明瞭に説明してからにすべきである。
 その他の内容も、これまで前任の首相たちがすでに問題として取り上げてきたことの範囲を出るものは少ないし、しかも抽象的な目標のリストアップはあっても、解決の方法はこれも漠然とした抽象的な表現にとどまり、具体的な内容に乏しい。この演説では「内閣府に『防災監』を設置」とされているが、かねてより石破氏は「防災省」たる新しい省庁を造りたいとなんども発言している。首相就任前には「アジア版NATO」などというよくわからない構想をアメリカのシンクタンクに投稿していた。どうもこのヒトは、新しいハコを造ることを好むらしく、それらの中味については「これから熟議せねばならない」ということなのか、具体的な言及はきわめて少ないのが気になる。いずれの組織・機構も、新設する前に、そこではどのような目的でなにをどのように実施するつもりなのか、しっかり具体的に説明してほしい。
 今回の所信表明演説を聞いて私は、やはり石破氏は「実践する政治家」というよりは「評論する学者」という人なのだろうな、と思った。学者は、自分の思考を自由に膨らませて論ずれば済むし、周囲とコミュニケーションを深めたりする必要もないし、税金を費やしたり、国民の生活に直接関与することはしない。一方政治家は、税金を使って、国民・議員たちにコミュニケーションを深め、広範囲に訴えかけてその気にさせて、国民の生活に関与・貢献することが必要である。人柄がどうかとか、素質が優れているか否かとかいう問題ではなく、そういうしんどいことをできそうなヒトとは思えないと感じるのである。知的能力や人柄のことではなく、本人の指向性の問題である。私たち国民が権力を委任する政治家、とくにそのトップたる首相としては、もっと具体的で実践的であって欲しいと思うのである。

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TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展(1)

1.3つの美術館
Photo_20250126054501  大阪中之島美術館は、来る2025年2月に開館3周年を迎える。この開館3周年記念特別展として、ヨーロッパと日本の第一級の美術館たるパリ市立近代美術館、東京国立近代美術館の協力を得て、競演のコレクション展覧会を開催した。
 パリ市立近代美術館は、パリ16区、パレ・ド・トーキョー東翼内、シャンゼリゼ通りとエッフェル塔の間に位置する。1937年のパリ万国博覧会の際に開館が構想されたが、実際の開館は1961年であった。オリジナルのアールデコ建築を特徴とする1930年代を代表する壮麗な宮殿様式建築の一例となっている。Photo_20250126054502
 収蔵作品は20世紀の絵画や彫刻、約15,000点にのぼる。1937年の万博で制作・展示された近代美術作品や家具・製品デザインも、コレクションの核となっている。
 東京国立近代美術館は、東京都千代田区北の丸公園内にある日本で最初の国立美術館である。横山大観、上村松園、岸田劉生らの重要文化財を含む13,000点を超える国内最大級のコレクションを誇る。
Photo_20250126054503  明治時代後半から現代までの近現代美術作品(絵画・彫刻・水彩画・素描・版画・写真など)を随時コレクションし、常時展示したわが国初めての美術館であり、それまで企画展等で「借り物」の展示を中心に行われていた日本の美術館運営に初めて「美術館による美術品収集」をもたらしたのであった。
 ここ大阪中之島美術館は、令和4年(2022)、大阪市中心部に開館した。19世紀後半から今日に至る日本と海外の代表的な美術とデザイン作品を核としながら、地元大阪で繰り広げられた豊かな芸術活動にも目を向け、絵画、版画、写真、彫刻、立体、映像など多岐の領域にわたる6,000点超を所蔵している。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(11)

6.新形而上絵画(下)
 「瞑想する人」(1971)がある。Photo_20250125060301
 ここに描かれた極端に脚が短く足も小さい人体の描写は、キリコが古典絵画を含む表現の研究の結果、このように脚と足を小さく描くほうが、人間の威厳や荘厳さをより明確に表せるという理由らしい。描かれた男の頭は小さいが、身体全体を覆う衣服に現れる複雑な構造と模様から、考えている瞑想は深く難しいものだと推測できる。大きな右手が、瞑想に努めるこの男の強い意志を表している。

 この度、デ・キリコの個展をはじめて鑑賞して、この不思議な画家の歩みの全貌を概観することができた。これまで断片的にしか観てこなかったので、キリコという画家は、なにかピリリと刺激は感じるものの、芸術家としての基本思想、活動方針などについてはよくわからないままであった。こうして彼の人生の歩みを俯瞰して眺めると、彼の思考発展の過程がかなり鮮明にわかったように思った。
 キリコは、芸術で先端を切って走る意志と意欲は明確であったが、自分の過去の作品を後になんどもコピーしたような作品を制作したらしい。それもあってか、作品の制作された時期の同定は、かなりあいまい、あるいは困難なことも多いようだ。他人の作品のコピーではなく、あくまで自作のコピーなのだから、なんら問題はない。晩年の「新形而上絵画」の時代には、自分の過去の作品から自由にモチーフを切り出して導入して、楽しみながら制作していたことが窺える。むしろひとつひとつ全力で制作した作品を、自分の貴重な蓄積・財産と明確に認識して、着実に自分の能力と実績を加算していく堅実な戦略と思われる。
 画風や制作の傾向も、長い創作生活のなかでずいぶん変遷している。とくに、抽象的な作風から具象的あるいは古典的な作風に回帰する、あるいは変遷する、というのはかなりユニークなのではないだろうか。後にまた抽象へ転換したのもおもしろい。
 同時に顧客の要望にも積極的に対応したようで「(顧客の)希望に応えるために、ほんとうに飽きるほど同じような絵を何枚も描いた」と述懐していたらしい。それだけプラクティカルでタフであったとも言えるだろう。100歳の天寿を全うした、不屈の独創的な不世出の芸術家であった。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(10)

6.新形而上絵画(上)
Photo_20250124064001   第二次世界大戦の後、キリコはローマに移住した。この時期、キリコはそれまでに描いた様々な作品を自由に組み合わせ、また変容させることで、これまでの様式に新たな変化を加え、あらためて形而上絵画に取り組み「新形而上絵画」と呼ばれる独特の様式をつくりだした。
 「神秘的な水浴」(1965)がある。
 キリコは、子供のころの記憶として、海岸で裸で泳ぐ人たち、それを監視する軍人のような制服を着た人たちを見て、裸の人たちの脆弱さ、か弱さ、それに対しての着衣した人たちの権威、力強い印象が心に残ったという。その記憶が晩年で残り、裸で水浴する人たちと、そばに居ながら着衣の人たちを、彼の独自の目線で描いた作品である。
 私は、彼の記憶の背景を知った後でも、この絵をどう理解していいのかわからなかった。Photo_20250124064101
 「オデュッセウスの帰還」(1968)は、キリコの人生の自伝的証言となっている。肘掛け椅子と衣装箪笥はパリのアパートにあったものに似ており、オデュッセウスが海の上で船を漕いでいる様子は、ギリシアで航海していたキリコの若き日々を反映して、大胆にもカーペットに仕立てられた。右の壁の窓から望む風景には生まれ故郷のギリシアにある神殿が描かれている。左側の壁には、キリコの若いころの代表作たる「バラ色の塔のあるイタリア広場」が額縁に入れられて飾られている。正面の洋服箪笥らしきものも、「谷間の家具」で登場したものである。
 右側のドアは開いており、暗闇に向かって開いている。これは、ノスタルジックな少年時代を過ごした画家の、老いの日々のメタファーといえる。
 「燃え尽きた太陽のある形而上的室内」(1971)がある。
Photo_20250124064201  形而上的室内に、窓から太陽と月の明るい光が差し込んでいる。それに対応して室内にはすっかり冷却してもはや光を発し得ない絵のなかの太陽と模型のような月がある。おもしろいことに、屋外の輝く太陽と室内の黒く光が消えた絵の太陽、そして屋外の明るい月と室内の光が失せた月が、それぞれ電気コードのようなもので接続されている。まるで1990年代にポストモダン哲学とされるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが言い出した「生命も非生命も一緒になった『欲望する機械』から成る機械仕掛けの無意識の世界」のコンセプトに四半世紀ほど先駆けるかのようなイメージの構図である。キリコは、やはり先見性があったのかも知れない。
 初期の形而上絵画は謎と違和感を前面に出し、マヌカンは人間から生命と意志、さらにエネルギーを奪った。つまりアクティブさを否定していた。こうして半世紀ほど後になると、機械仕掛けの自然を彷彿とさせるアクティブなモノが出現している。これはこれで、とてもおもしろいと思う。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(9)

5.伝統的な絵画への回帰から「ネオ・バロックへ」(下)17
 「17世紀の衣装をまとった公園での自画像」(1959)がある。
 キリコは、多数の自画像を描いたが、これはとくに古典的な画法にこだわって描いた特徴ある作品である。ここでのキリコは、深紅のビロードに豪華な刺繍の布地、そして襟元も豪華な17世紀風の衣装である。ローマ・オペラ座から舞台衣装を借用したようだ。敢えて古い時代の衣装を纏ったのは、現在の自分から時間的に脱出しようとしたのだろうか。あるいは古の巨匠たちに自己の姿を重ねたのかも知れない。堂々とした姿でこちらを見つめるキリコ、という自己陶酔的な表現は、当時批評家の間で話題になったそうである。
 背景には、古典的な衣装を纏った馬を引く人物や、神話の登場人物のような彫刻などが配されている。キリコは、絵具の層の重なりや色の複雑な組み合わせなど注意深くこだわって描いたようだ。

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 「アレクサンドロス大王の上陸」(1962)がある。
 この作品ともなると、形而上絵画、シュルレアリスム、マヌカンなどの、これまでのキリコのイメージからはすっかり距離のある、正統的な具象画、古典的絵画と言えるだろう。
 キリコは、このような具象画もしっかり描いていたという証拠になる。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(8)

5.伝統的な絵画への回帰から「ネオ・バロックへ」(上)

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 キリコは、1920年ころからティツィアーノやラファエロ、デューラーといったルネサンス期の作品に、次いで1940年代にはルーベンスやヴァトーなどバロック期の作品に傾倒していたと言われる。このころキリコは、シュルレアリスムの画家たちとの交流を絶ち、古典的な絵画に向かっていったのである。
 「横たわって水浴する女(アルクメネの休息)」(1932)がある。
 キリコは、古典絵画研究の先駆者としてルノワールに大いに敬意を感じていて、その筆致を参考にして描いたのがこの作品であった。水浴する若い女の柔らかな肌とその輝きの表現に注力していることがわかる。

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「風景の中で水浴する女たちと赤い布」(1945)がある。
 この作品は、ルーベンス、ベラスケスなど、バロック時代の画家の筆致を参照して描かれていて、写実的で生々しい色彩表現が実現されている。この絵画の画面中央に描かれた女性はキリコの妻のイーザーだと言われているが、後ろで水浴する女性と比べてみると、遠近感がやや不自然であり、見るものを独特の違和感へと導いている。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(7)

4.1920年代の展開
 1919~1920年ころから第一次世界大戦後の「秩序の回復」の雰囲気の時代、キリコは古典作品のオマージュと思われるような作品を制作し始めた。Photo_20250121060201
 それまでも表現はきわめて個性的で斬新であっても、題材は神話や古典にもとづくような作品も多かったが、いよいよ画法や表現までも古典に接近する時期を迎えた。
 ギリシアの哲学者たち、考古学者たち、などを発表した。
 その後、オーソドックスな画法の絵として「谷間の家具」(1927)がある。
 ただシチュエーションはやはり奇想天外で、家の中にあるべきソファや洋服箪笥が、敷物とともに屋外に置かれている。キリコは、子供のころギリシアでなんども地震に遭遇し、突然破損した家から家具を引き出して露天に置いているのを目撃したそうだ。
 そういえば、地中海気候の青い空の下、瓦礫に覆われた地面の上に、かろうじて家具を置くだけの床と敷物があり、狭苦しく家具が載せられている。キリコが自身で体験した非日常の一コマなのかも知れない。Photo_20250121060202
「緑の雨戸のある家」(1925-26)がある。
 この絵では、個々の対象の描き方はかなり普通であるが、部屋の中に別の小さな2階建ての家が入っているという奇想天外な面がある。中心に描かれた小さな家だけでなく、隣部屋にも別の家があり、その家の背後にはなにやら岩のようなものが聳えている。
 キリコの言葉によると、ギリシアの空は手に届くような感じがするらしく、ギリシア神話の神と人間の関係もドイツやフランスの神とは異なり近しいのだそうで、そんなイメージからこういう室内の家のような発想が来るのだそうだ。
 ただいずれも個別の対象に対する描き方は、かなり古典的なものに回帰する兆しが出てきている。これがやがてさらに進展していく。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(6)

3.マヌカンの登場(下)
 「ヘクトルとアンドロマケ」(1924)がある。Photo_20250120055501
 題材は、ホメロスの「イリアス」におけるトロイの攻防から一場面である。 ヘクトルはトロイの王子で向かって左側の人物、アンドロマケはヘクトルの貞節な妻で右側の人物を指している。ヘクトルは、トロイアの戦いに出る前に城壁の上で妻アンドロマケと別れを告げている。やがて戦闘に敗れたヘクトルは、敵将アキレウスによって遺体を戦車につながれ、曳きまわされる。その光景を見て、アンドロマケは気絶することになる。これも、戦争の悲劇を表わした作品と言える。
 ここでは主人公の2人は、キリコが偏愛を寄せた無機的なマネカンに変えられ、背景には冷たい構築物が特異な遠近法によって描かれている。キリコの形而上絵画に現れる街路の映像に霊感を与えたのは、トリノのアーケード街だったという。イタリアの街かどの憂鬱を描いたキリコの作品は、20世紀が若かった時代にシュルレアリスムの風を受けて生まれた特異な産物であった。
 この作品では、マヌカンも身体を持ち、衣服も描かれている。マヌカンの表現は、時期が下るにしたがって描かれる範囲が広がり、描き方も徐々に変化した。
 「不安を与えるミューズたち」(1916-18)がある。
 キリコは、この時期滞在していたフェラーラを、完璧な幾何学的な街と感動し、フェラーラの神秘的な街並みを何度も作品に描き込んでいる。本作品も、フェラーラの街並みを描いたものである。
 当時、キリコが住んでいた場所の近くにあったエステンセ城が背景に描かれている。また煙突のある工場や作品全体にかかるサビの赤色が特徴的である。
 絵の中には3人のミューズが描かれている。
Photo_20250120055601  前景には、古典的なドレスを着た2人のミューズがいる。1人は立っており、1人は座っている。彼女らの周辺には赤い仮面や積み木など、古代ギリシア神話のミューズであるメルポメネやタリアであることをほのめかすオブジェが配置されている。後景の台座の彫像に立っているのはアポロと言われている。
 タリアは、そばにある「遊び」を象徴する積み木を拒否しようとしている。中央のメルポメネは座って佇み、憂鬱そうに見える。2人のミューズの間にはコミュニケーションを遮断することをほのめかす棒のようなものが立っており、何か不安な空気が漂っている。
これはおそらく、第一次世界大戦の不安を象徴しているものだと言われている。奥のアポロは、この2人を不安気に見つめている。
 なお「不安を与えるミューズ」というタイトルは、アメリカの詩人シルヴィア・プラスの詩の「不安を与えるミューズ」から着想を得て引用しているようだ。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(5)

3.マヌカンの登場(上)
Photo_20250119055201  西洋絵画において人物像というのは、元来対象たる人間の人格・性格や地位など象徴的な意味を表現するテーマであった。しかし、デ・キリコは人物を幾何学的な面や定規などの日用品で構成されたマヌカン(マネキン)に置き換え、人間性の存在を否定した、いわば「理性的な意識を奪われた人間」として扱ってみせた。
 強い匿名性を包含するマネキンというモチーフの導入は、第一次世界大戦でモノのように扱われた無力な人間、戦争を引き起こした非理性的な人間を暗喩しているのかも知れない。理性的な意識を奪われた人間として描くことで、見る者に、多くの人命が失われる絶望的な状況の戸惑いと無力感を与えようとした。また当時、デ・キリコ自身が抱えていた心理的な状況や危機感を表しているのかも知れない。
 「予言者」(1914-15)は、そのマヌカンの初期の代表作である。
 この絵では、マヌカンはイーゼルを前にしており、キリコ自身の姿とも考えられている。予言者であるとすると、絵に着手もしていない。腕も手も出していない。予言者として、やるべきこともわかりかねる絶望の境地なのかもしれない。イーゼルもどういうわけか、脚を開いていないので、いつ倒れるやも知れない不安定な様子である。予言者の足許の画面は、遠近法を用いず奥行も不安定だが、正面の背景の建物だけは直立して揺るぎが無いようだ。そこからも孤立感が漂う。Photo_20250119055203
 「形而上的なミューズたち」(1918)がある。
 この絵では、身体はなく頭だけで、しかもヘルメットのような頭頂部と空洞の顔だけであり、生命を感じさせる要素は皆無である。一方で、彩色は明るく明瞭で、あたかも現代ポップアートのようでもある。見方を変えてみると、兵士に徴発された若者は、もはや人間性を奪われ、無機的な戦争機械の一部とされている、との寓意かも知れない。そこはかとなく寂寥感と悲壮感が漂う感じもする。明るい彩りは、戦意高揚の叫びなのか。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(4)

2.形而上絵画と室内(下)
 「球体とビスケットのある形而上的室内」(1971)がある。Photo_20250118062701
 ここでは、設計図的な几帳面さと不定形の構成は、細部のモチーフまで1つ1つしっかり描かれているが、集合体として見ると全体的な違和感を作り出している。対象を見つめる視点もごく近く寄せていて近視眼的で、室内なのに周囲の空間は排除される。あたかも人間の存在をも阻むかのようである。
 「孤独のハーモニー」(1976)がある。
 この絵では、中心に描かれるものは、キリコがかつて描いたさまざまなモチーフが、これでもかといわんばかりに雑多に整理せずに盛り込まれている。これもやはり室内の狭い世界のなかに配置されているのである。背景にある屋外の景観さえ、おそらくキリコがかつて描いたものであろう。
Photo_20250118062801  「孤独」というからには、それを表現するために、中央に置かれたさまざまなモノが、この部屋にマッチしないことが前提なのだろう。
 こうしてさまざまなモチーフを差し込むことで、ポップな雰囲気さえ難じさせるようになっている。戦時中の物資不足を背景にキャンバスも小さくなり、軍の事務所の中にあった三角定規や海図、そしてビスケットなど、彼の身の回りにあったモチーフが脈絡なく並び、閉所恐怖症的なイメージを作り出している。
 形而上室内を描き始めた初期の作品が閉塞感の強い、どこか抽象的で暗い画面構成なのに対し、中期~後期の作品では部屋の内部に窓が描かれるようになり、それにともなって画面全体の明るさと奇妙な奥行き感が強調されている。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(3)

2.形而上絵画と室内(上)
Photo_20250117110701  1914年、第一次世界大戦が勃発した。翌年キリコはイタリア軍に召集され、フィレンツェの連隊に入隊し、北イタリアのフェッラーラに駐屯した。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のデ・キリコの風景画に影響したともいわれている。ともかく後に「フェッラーラ時代」とも呼ばれる多作な時代となった。
 イタリア広場で展開した形而上絵画は、とくにキリコが病院に勤務するようになってテーマが室内となり、「形而上的室内」とも呼ばれる新しい展開をみた。
「運命の神殿」(1914)がある。
 ここでは明らかに遠近法は破綻し、外景は画面の上部にわずかに覗き、古典的絵画とモダン表現とがコラージュのように寄せ集められ、部分的な落ち着きと、そこはかとない不安感が同居している。Photo_20250117110702
 「ダヴィデの手がある形而上的室内」(1968)がある。
 キリコは、小道具やオブジェなどを、本来在るべき場所とは無関係に併置させている。さらに、自分の過去の作品からも、自由にモチーフを引っ張り出して導入している。この手法は「デペイズマン」と呼ばれ、後にシュルレアリスムが、このデ・キリコの形而上絵画に触発されて、盛んに用いられるようになったものである。デ・キリコは、シュルレアリスムの代表的な画家であるダリやマグリットよりも一歩先に、このデペイズマンを実践していたのである。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(2)

1.イタリア広場と形而上絵画
 ヒトラーがそれを愛して執務室に飾っていたという、アルノルト・ベックリンの「死の島」(1880ころ)という作品からインスピレーションを得て、キリコが描いた「神託の謎」(1910)という作品を、サロン・ドートンヌに初めて出展した。これがキリコの形而上絵画の初めだろうとされる。「形而上」とは言葉通りの意味では「存在しないもの」という意味だ。
 Photo_20250116061801 「形而上絵画」とは、キリコの言葉によると、見慣れていたものが、あたかも夢のシーンのように、いつもとは違った謎めいた感じに見えるのを絵に表現したものである。絵の技術的な特徴としては、遠近法を敢えて歪ませ、観る者を意図的に混乱させ、日常にある景観に非現実的な見せ方をする。キリコは、ある日ぼんやりと広場を眺めていたとき、ふと気持ちが現実から遊離して、自然と生物と人間が不可分の抽象的な存在に思えて、非現実的な、謎めいた夢のような気分になったことからインスピレーションを得たと話している。キリコは「謎以外になにが愛せようか」という哲学者ニーチェの言葉を、こよなく愛していた。「イタリア広場」というシリーズで、キリコは形而上絵画を連作した。
 「沈黙の像(アリアドネ)」(1913)がある。
アリアドネは、ギリシア神話に登場する姫で,クレタ王ミノスの娘である。ミノタウロス退治に来たテセウスに恋し,糸玉を与えて迷宮を通り抜けさせた人物で、勇者に捨てられ神に選ばれる王女の象徴とされる。ニーチェにとって、アリアドネは単なる神話上の人物ではなく、深い哲学的な象徴を持つ存在であった。ニーチェはアリアドネを「永遠回帰」と結びつけ、人生や運命の永遠の循環を象徴するものとして解釈した。アリアドネの孤独と待つ姿は、ニーチェの哲学における人間の存在の孤独と葛藤を反映している。
 Photo_20250116061901 アリアドネの像は、実際に広場に設置されているものだが、この絵では建物が不思議な印象で小さく背景に退き、静かに沈黙を続けながらひたすらに待つアリアドネの像が大きく張り出している。
「バラ色の塔のあるイタリア広場」(1934)がある。
これは1913年に制作した同タイトルの自作を、1934年頃に再制作したものである。複製をつくることについてキリコは「より美しい素材とより洗練された技法をもって描かれていること以外、欠点はないでしょう」と記している。
 そんな逸話を残すこの絵には、形而上絵画のエッセンスが詰め込まれている。歪んだ遠近法、不自然に長く伸びる影、画面全体に漂う不穏で幻想的な空気。キリコは対象を客観的に描いていた従来の西洋絵画の伝統を捨て去り、自分の主観を前面に押し出しているのである。この作品は、形而上絵画の記念碑的な作品とされている。
これらの作品は、美術評論家のギョーム・アポリネールに注目され、絶賛された。キリコの絵が売れるようになったのであった。20歳代の半ばであった。

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デ・キリコ展 神戸市立博物館(1)

 神戸市立博物館で「デ・キリコ展」が開催されたので、これはぜひ観ておこうと秋の快晴の日、神戸に出かけた。1922
 デ・キリコの作品は、学校の教科書にも出てきたし、複数の画家が登場する展覧会でも何点かは観ている。しかしデ・キリコだけの個展は今回が初めてであった。
 デ・キリコは1888年、ギリシアのテッサリアのヴォロスに、イタリア人の両親のもとに生まれた。父は、鉄道の敷設を管理する技師であった。その翌年、家族とともにギリシアを離れ、フィレンツェに移住した。彼にとって、父の死はショックだったようで、腸疾患とうつに悩まされたという。
 19歳のころキリコは、ドイツ・ミュンヘンの美術アカデミーに入学した。ここで、キリコはクリンガーやベックリンを研究し、ニーチェやショーペンハウアーの哲学にも影響を受けた。
 1909年21歳のとき、母親と両親の故郷イタリアのフィレンツェへ移った。そして最初の「形而上絵画」を手がけることになった。

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エクアドルの青年と

 京都美術館の「一水会展」に出かけて、その帰途しゃぶしゃぶランチのあるレストランで昼食を摂っていたら、隣の席に30歳前後と見える外国人の青年が来て、同じようなメニューを摂った。
 この店は、格安でまずまずのランチメニューを提供してくれるので重宝だが、従業員が極端に少なく、食事を注文すると出汁の入った鍋と、皿に盛った牛肉だけを座席に運んできて、ガスコンロに着火してすぐ立ち去る。あと、野菜、ご飯、飲料水、お茶、デザートのアイスクリームなど、すべてセルフサービスである。
 隣で青年は、テーブル上に置かれていたしゃぶしゃぶ用タレを知らず、タレなしでぎこちなくしゃぶしゃぶの肉を食べていたので、「この2つのディップ・ソースで食べたらいいよ」とアドバイスしようとした。ところが「ポン酢ダレ」と「ゴマダレ」の説明で、情けないことに酢も胡麻も英単語が咄嗟に思いだせない有り様であった。思ってみればここ5年間くらい英語で会話する機会がなく、その間ますます記憶力が劣化していた。
そんな頼りないぎこちない会話からはじまったが、それをきっかけとしてあっと会う間に2時間くらい話し込んだ。
 彼は、南アメリカのエクアドルから、エクアドル産の魚介類など海産物の売り込みのビジネスで日本に来たという。以前から寿司の美味しいこととは知っていたが、日本に来てみたら食べ物がほとんどすべて美味しい、といくつかの都市観光も含めて1週間ほどの日本滞在を満喫していると言う。
 エクアドルは国が小さくマーケットが小さいため、多くの人々が外国相手の仕事についていると言う。輸出は現在のところ石油が多く、またアメリカ向けに偏っていて、彼の見込みではこのままでは将来が見えないので、太平洋に面していることを活かした海産物に期待しているということらしい。
 彼は、両親がかつてドイツの小さな町に滞在していて、ドイツで誕生したらしいが、幼少期をエクアドルで過ごした。その後ハイスクールと大学をドイツで、さらにビジネスの勉強のためフランスの大学にも学び、母国語のスペイン語の他、英語、ドイツ語、フランス語を話すという。少し前にはドイツで海軍の兵役に就いて、さらに一昨年にはフルマラソンにも挑戦した、と体力にも自信があるらしい。Photo_20250114060201
 エクアドルの若者は、しばらく前までは、外国で学ぶにはまずアメリカへの留学を考えたらしいが、ここ十年余りアメリカの物価高が激しく、とくに彼の場合親の代からドイツに縁があったこともあり、ドイツで学んだという。
 とても話し好きで、京都の観光スポットや文化などの話題のみならず、日本、エクアドル、そして世界の政治、経済、国際問題、またアメリカ大統領選挙で勝利したばかりのトランプ氏への感想などまで積極的に聴いてきて、かなり多面的な話題で盛り上がった。
ヨーロッパになじみがあることでもあり、ウクライナ戦争はずいぶん気になっていて、彼の意見ではアメリカ大統領がハリスでは頼りない気がする一方で、トランプもどう出るかわからないという懸念はある、と。故郷の国ではなくても、ヨーロッパにかんしてはずいぶん心配して、熱心に話していた。
 レストランの従業員が少ないのが幸いしてか、長時間テーブルを占拠してもまったく急き立てられることもなく、思いがけず「会食懇談会」みたいな興味深いひとときであった。

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巨匠たちの学び舎展(8)

4.昭和、戦後、日本画の可能性(下)
 下村良之介(大正12年1923~平成10年1998)は、大阪市に生まれ、12歳のとき京都府に移った。昭和18年(1943)京都市立絵画専門学校日本画科を学徒動員のため繰上げ卒業している。Photo_20250113053801
 戦後は、日本画界のなかにあって革新運動を目指し、昭和24年(1949)パンリアル美術協会の結成に参加した。同協会の第1回展から出品を続け、やがて指導者的役割を果たしながら旺盛な活動を展開して、最晩年まで同協会とともに歩んだ。「反骨の画人」とも称されているが、「日本画」という伝統的なジャンルにとどまりながらも開拓精神を貫いている。
 初期はキュビスムの影響を受けたような制作を残したが、戦争体験を経て、優雅で美しい花鳥風月の表現を中心とする日本画に満足できず、社会的な主題にも眼差しを注ぐようになっていった。題材としては「鳥」を主軸に据えるようになり、表現の上で長く鋭い直線を求めて建築用の墨つぼを使用した独特の線描が特徴となった。
「池畔」(昭和32年1957)が展示されている。
 1950年代末ころから、アメリカ、中南米など海外の展覧会にも積極的に出展して、国際的な視点から制作するようになった。このころから紙粘土を画面に盛り上げてレリーフ状にし、化石のような鳥の形象を表現するなど、独自の質感を持った作風を確立した。日本画のみならず、版画や陶芸、舞台美術なども手掛けた。昭和46年(1971)から平成元年(1989)まで大谷大学教授をつとめた。

 今回の展覧会は120点ほどの作品が展示され、なかなか見応えがあった。京都のひとつの伝統校にまつわる作品だけ、それも日本画のみ、ということだが、絵画作品としての題材、技法、表現、描写、構図など、さまざまなヴァラエティがあり、時代の変遷もあり、とても奥の深い世界だと改めて感じた。いつもながら鑑賞は多少疲れたが、充実した良い時間であった。

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巨匠たちの学び舎展(7)

4.昭和、戦後、日本画の可能性(上)
 第一次世界大戦が終わり昭和に入ると日本の世相は、関東大震災後の復興、近代インフラの整備、さらに否応なく軍事大国となって政府予算が漸増するなか、慢性的財政不足に苦しむ政権のもと長く厳しい不況が続いた。第二次世界大戦となり、息苦しく困難な戦中を経て、失ったものは莫大であったが、戦後は復興に向けての大きなエネルギーが爆発した時代でもあった。Photo_20250112060201
 この間、美術も変化した。
 菊池契月(きくち けいげつ、明治12年1879~昭和30年1955)は、明治後期から活動していた高名な画家だが、昭和に入っても作品を発表し続けた。
 菊池契月は、長野県下高井郡に素封家細野家の次男として生まれ、少年時代から絵をよくした。13歳で南画家児玉果亭に入門し、そこで「契月」の画号を与えられた。小学校高等科を卒業後は、呉服屋、製糸工場、町役場などで勤務し、そのかたわら近所に滞在中であった高島雪松に私淑した。画家になりたい思い止み難く、17歳のとき妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人とともに故郷を出奔し京都に上った。
 京都で当初いろいろあった後18歳のとき、幸野楳嶺門下の四天王と呼ばれた菊池芳文の門下になることができた。そこで研鑽を積んだ契月は、入門の翌年明治31年(1898)第4回新古美術品展で『文殊』を出展、一等賞を獲得した。
 その後も毎年受賞を重ね、17歳のとき師 菊池芳文の娘と結婚、婿養子となり、以来菊池契月と名乗るようになった。
 菊池契月は、明治44年(1911)京都市立絵画専門学校の助教諭となった。さらに帝展に改組された文展の審査委員をつとめるなど、画壇での地位を着実に高めていった。
契月は、明治期には歴史上の故事に取材した作品が主であったが、大正期に入ると身近な 風物を題材とした作品が主流となった。
菊池契月「散策」(昭和9年、1934)もそのひとつで、ごく普通の少女の日常のひとこまを描いている。すでに大家となっていた契月には相応しくないほど世俗的な絵だ、という批評もあったようだが、しっかりした構図と描写、それに支えられた品性はさすがだ、とも評された。

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巨匠たちの学び舎展(6)

3.大正時代、個性際立つ画家のエネルギー(下)
 中村大三郎(なかむらだいざぶろう、明治31年1898~昭和22年1947)は、京都市下立売に染色に携わる父の長男として生まれた。弟も日本画家になっている。Photo_20250111060701
 明治44年(1911)京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、卒業すると京都市立絵画専門学校に進学した。この在学中に第12回文展で「懺悔」という作品で初入選を果たした。
大正8年(1919)京都市立絵画専門学校を首席で卒業した。この後も、各種の展覧会で入賞を続けた。「九名会」が結成されると、堂本印象・福田平八郎らと共にその一員となった。
 大正13年(1924)京都市立美術工芸学校教諭となった。翌年には京都市立絵画専門学校助教授に任ぜられた。
 大正15年(1926)画家西山翠嶂の長女 都由子と結婚した。この年の第7回帝展に妻をモデルに描いた「ピアノ」を出品し、帝国美術院賞候補となり、帝展委員となった。
 この後も、さまざまな展覧会での数多の受賞、美術大学の教授、帝展など主要な展覧会の審査員など、数々の顕職を歴任した。それは中村大三郎が目指して進んだ方向が、時勢の主流派・正統派に近かったと言うことかも知れない。
 大正13年(1924)竹内栖鳳がときの京都市立絵画専門学校摂理(校長)と、学校の移転にからむ問題で激しく対立し、ついに教員を辞職するという騒動があった。大正デモクラシー時代の終焉とも重なる事件であった。

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「巨匠たちの学び舎」展 京都京セラ美術館(5)

3.大正時代、個性際立つ画家のエネルギー(上)
 大正時代は、鉄道、水道、電気など近代的都市インフラがようやく普及しはじめ、人々の日常生活の西洋化も徐々に進み、大正デモクラシーの自由で新鮮な雰囲気も出てきた。
 そんななか、京都市美術専門学校からも自由と青春を謳歌したいとするような、若々しいエネルギーを帯びて、岡本神草、稲垣仲静、中村大三郎らの新時代の画家が登場した。
 Photo_20250110061401 岡本神草(おかもと しんそう、明治27年、1894~昭和8年、1933)は、神戸市に生まれた。大正4年(1915)京都市立美術工芸学校絵画科を卒業し、京都市立絵画専門学校に進学し、大正7年(1918)卒業した。
 その直後、第1回国画創作協議会展に出品して入選したのが「口紅」であった。口紅を塗る若い女の表情を、煽情的とも思える挑戦的な表現で描いている。このとき、この作品を上位の「入賞」にするか否かで審査員が大論争を繰り広げた。高い評価を与えた土田麦僊と、低評価をした村上華岳とが互いに譲らず、結局両人の師であった竹内栖鳳の仲裁で、別の画家の作品が受賞となったのであった。
 大正9年(1950)第3回帝展に「拳を打てる三人の舞妓」を出品して、画壇に大きな話題を広げたことは、私もすでに書いた。
 神草の作品は、いずれも多少悪魔的な、少し毒を含んだ濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的な美しさをモティーフに独自の作風をみせている。
 稲垣仲静(いながき ちゅうせい、明治30年1897~大正11年1922)は、京都生まれの早逝の画家である。
Photo_20250110061901  明治45年(1912)京都市立美術工芸学校に入学し、精緻な写生の技術を身につけた。大正6年(1917)京都市立絵画専門学校に進学した。
 当時、文学界では白樺派の活動があり、自然主義にかわって理想主義・人道主義・個人主義的な芸術を追求する風潮があった。稲垣仲静はその影響を受け、単に目に見えるものを再現するのではなく、写実を通して自己の内面的深化を試みたとされる。対象の生態に執拗に迫ろうとして緻密な表現を衝き進め、次第に凄みと不気味さが加わるようになっていった。
 在学中の大正8年(1919)第2回国画創作協会展に「猫」を出品して初入選を果たした。なによりも人間の睨みつける眼差しを思わせる鋭い眼、感情を露呈したかのような不自然にまで丸く突き出た背の湾曲、俊敏かつ自在を見せつけるような脚を巻き付ける尻尾等のそれぞれが見る者に強烈なインパクトを与える。
 続いて大正10年(1921)の「太夫」では、おはぐろを見せてにたりと笑う薄気味悪い女の表情を、強い印象を与える毒々しい表現で描いた。
 大正9年(1920)京都市立絵画専門学校を卒業すると、西洋絵画的リアリズムから離れ、中国南宋時代の花鳥画風の作品を描き始めるようになった。大正11年(1922)京都の画商 福村祥雲堂が主宰した「九名会」のメンバーに選出された。この会は、菊池契月、西山翠嶂、西村五雲らの当時の京都画壇の重鎮たちが、次代の京都画壇を担う新進作家9名を推挙するもので、稲垣仲静は正統派と認められたのであった。
しかし、九名会の第1回と第2回展に出品した直後、流行していた腸チフスに罹患し、わずか25歳で死去してしまった。
 早逝したため現存する作品は極めて少ないが、徹底した写実性と、朽ち果て滅びゆくものに注がれる厳しく温かい視線に裏打ちされた仲静作品の強烈な印象は、大正期の京都画壇に刺激を与えた。

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「巨匠たちの学び舎」展 京都京セラ美術館(4)

2.卒業生、いざ画壇へ(下)
 村上華岳(明治21年1888~昭和14年1939)は、大阪に生まれ、本名は武田震一であった。実家は甲州武田氏の末裔を称していた。家庭の事情で幼少期から叔母の嫁ぎ先であった神戸の村上家に預けられた。13歳のとき、実父が死んで武田家の家督を継ぐこととなったが、3年後には武田家の廃絶が決り、震一少年は養父母の「村上」を名乗ることとなった。Photo_20250109055001
 明治36年(1903)京都市立美術工芸学校に入学し、卒業後上級学校である京都市立絵画専門学校に進学し、さらに同専門学校研究科に進学、大正2年(1913)に修了した。在学中の明治44年(1911)すでに文展で褒状を得ていた。
 専門学校研究家を修了して3年後、大正5年(1916)に描いた、村上華岳にとって最初の仏画が「阿弥陀」であり、第10回文展で特選を得ている。
 先述の「国画創作協会」に参加し、やはり日本画の新境地を求めて、怨念をさまよう女を描く「日高河清姫図」、涅槃をテーマにした「聖者の死」、単なる「裸婦」というよりは菩薩のような生身の女性の官能美と菩薩の聖性という、本来相反する要素を追求した「裸婦」などを相次いで制作した。
 大正10年(1921)国画創作協会の他の仲間たちが渡欧したことはすでに触れたが、華岳は持病の喘息が悪化したことで渡欧できなかった。
 華岳は、仲間たちとも少し別の、世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という、相反する要素を不思議に調和させた、独自の世界をつくったのかも知れない。

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「巨匠たちの学び舎」展 京都京セラ美術館(3)

2.卒業生、いざ画壇へ(上)
 明治末、京都市立絵画専門学校を卒業した土田麦僊、小野竹喬、村上華岳らは、次世代日本画を背負うニュースターに成長していった。Photo_20250108060901 土田麦僊(明治20年1887~昭和11年1936)は、新潟県佐渡に農家の三男として生まれた。17歳のとき竹内栖鳳に弟子入りし、明治44年(1911)京都市立絵画専門学校を卒業した。同期に小野竹喬がいる。早くから、前衛的な絵画運動「仮面会(ル・マスク)」を結成したり、「黒猫会」に参加したり、ゴーギャンに傾倒したりした。
 麦僊は、大正7年(1918)京都市立絵画専門学校の同窓であった村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬らとともに「国画創作協会」を旗揚げした。当時の文展の審査に対する不満がきっかけであったが、西洋美術と東洋美術の融合と新しい日本画の創造を目指し、近代における日本画革新運動の先駆けとなった。
 麦僊は、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエール、幾何学的な構図、合理的な空間把握、などを取り入れた新たな絵画の創造を目指した。大正10年(1921)麦僊は竹喬らとともに約1年半渡欧し、西洋絵画の研究と制作を行っている。
 土田麦僊「髪」(明治44年、1911)が展示されている。
 若い女性を描くが、側面から少し顔を背けたような角度で、しかも腕の後ろに隠れるので、顔の表情はわからない。タイトルの「髪」よりも、専ら目を引くのは、女性の艶めいた腕である。この構図と着眼を、師の竹内栖鳳は「麦僊は、なによりモデルの女性の艶めかしい腕の魅力に注目して表現しつくした」と賞賛した。たしかに伝統的な日本画とは、少し視点が変わったのだろう。
 小野竹喬(明治22年1889~昭和54年1979)は、岡山県笠岡市に四男として生まれた。祖父と長兄は画家であった。14歳のとき、長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事して「竹橋」の号を授かった。栖鳳の勧めで同門の土田麦僊とともに明治42年(1909)京都市立絵画専門学校の第一期生として入学した。
Photo_20250108061001  そのころ師の栖鳳は、すでにカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いたりしていたが、その革新的な師の洗礼を受けて、竹橋は西洋近代絵画と南画などを取り入れた、大胆な筆致と鮮やかな色彩による制作を進めていった。
 大正5年(1939)には洋画的手法を取り入れた作品「島二作」が第10回文展で特選を得たものの、翌年は落選した。やはり文展の審査に不満をもつ麦僊や村上華岳らと「国画創作協会」を結成し、独自に「国展」という公募展を行って、自由な芸術の創造を目指した。
 先述のように大正10年(1921)には渡欧し、洋画を研究する機会を得た。その後、竹橋は東洋画における線の表現を再考することとなり、江戸時代の南画を改めて研究した。
大正12年(1923)号を「竹橋」から「竹喬」に変えた。
昭和14年(1939)ころからは、線描と淡彩による南画風の表現を、面的な対象の把握に重点を置く大和絵的な画風に変わった。
 戦後の昭和22年(1947)京都市美術専門学校教授に就任した。戦後の竹喬は、写生を意識しつつもより抽象的で装飾的となり、明るく柔和な画風となった。
小野竹喬「沼」(昭和45年、1970)は晩年の作品である。竹喬が注力した線の繊細な表現、抽象的な色彩と構図など、晩年の成熟した竹喬の特徴がよく表れている。

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「巨匠たちの学び舎」展 京都京セラ美術館(2)

1.画学校・美工・絵専で教えた画家教員(続)
Photo_20250107054801  望月玉泉(天保5年1834~大正2年1913)は、京都室町に代々宮中の御用を務める望月派の絵師の家に生まれた。6歳から絵を描きはじめ、16歳から父の指導を受け、13歳から伊勢・駿河など他国を歴遊して写生の研鑽を積み、円山派と四条派を折衷した山水画、花鳥画を通じて京都画壇で広く知られるようになった。幸野楳嶺らとともに京都府画学校の設立に当初から加わり、開校後は東宗の副教員として学生の指導にあたった。
 早くから京都御所や皇室に収める作品に関わり、各種の展覧会や博覧会で受賞した後、明治22年(1889)のパリ万国博覧会では「冨嶽図」を出品した。
 ここで展示されている「宇治川上流之真景図」は、描かれた時期ははっきりしないが、水墨画のような題材のなかに、樹木や水に光と動きの表現が加えれ、明らかに近代的な息吹が感じられる作品となっている。Photo_20250107054901
 久保田米僊(嘉永5年1852~明治39年1906)は、京都錦小路に割烹料理店を営む父の一人息子として生まれた。幼少から絵が大好きで、寺子屋へ行っても手習いはせず、絵ばかり描いていた。矢立を腰に挿し、町内の白壁や門に勤王の志士のさらし首の絵を描いてまわったりして親を困らせたという。家業を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いたともいう。16歳ころ、宮廷絵師の田中有美の紹介により父に内緒で、四条派の鈴木百年に師事した。
 明治維新を経て青年時代の明治6年(1873)第二回京都博覧会の在洛五十名の揮毫者のうちに選ばれて、「奔馬」を描いた。この頃から幸野楳嶺との親交が始まり『京都日日新聞』の挿絵を描いたり、風刺雑誌『我楽多文庫』の編集に関わったりした。
 楳嶺、玉泉らとともに、京都画壇の興隆を目指して、明治11年(1878)京都府画学校の設立を建議した。開校とともに同校の議事・工業委員として出仕し、学生の指導にあたった。しかし、画壇刷新のための政治活動に熱中し、国会に請願したり、立憲改進党に加入したりするなどの活動が災いして、まもなく職を辞した。
 それでも画業は続け、明治15年(1882)第1回内国絵画共進会では、京都の画人を代表して出品人総代として上京し、楳嶺らとともに審査員を務め、自身の出品作は銅牌、絵事功労賞を受けた。
 明治22年(1889)私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会では「水中遊漁」が金賞を受賞、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈してローヤル・アカデミー賞を贈与された。
 その後も、国民新聞社の挿絵画家、画塾の経営、報道記者、日清戦争の従軍画家など、幅広く活躍した。
 今回展示されている「蔦もみじ」(明治15年、1883)は、早い時期の作品だが、遠近感の表現に、西洋画の透視図法に対抗して、前面の樹木は色彩も明度も強め、後面の樹木は彩度を下げぼやかして、そのグラデーションを活かした画法で、巧みに表現している。
 Photo_20250107055001 竹内栖鳳(元治元年1864~昭和17年1942)は、半世紀にわたってわが国の日本画を牽引した大家である。彼については、私も何度も書いてきたので、ここでは詳細を省く。
 竹内栖鳳は、25歳にして明治22年(1889)に京都府画学校に出仕し、学生の指導をした。栖鳳自身は、すでに京都の若手画家のホープであった。
 栖鳳は36歳のとき、パリ万博に出展した『雪中燥雀』が銀牌を受け、その視察をきっかけとして7か月の間ヨーロッパを旅行した。そこでターナー、コローなどから強い影響を受けたとされる。翌年帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めている。
 栖鳳は、写生を重視し、学校の学生への教育においてもそれを強調していた。
 竹内栖鳳「獅子巌壁」(明治37年、1904)は、ヨーロッパ旅行から帰国後の作品である。彼は、当時日本国内では実物のライオンを見る機会が少なかったなか、ヨーロッパの動物園で実物を詳細に写生し、非常に写実的でリアルなライオンを描いている。早い筆致で力強さと俊敏な動きを表現し、輪郭線で筋肉のみならず骨格まで窺わせ、ぼかし技法や濃淡の繊細な描写で立体感とリアルさと迫力を実現している。左双の岩の景観は、かなり純日本画的に描いて、新しい西洋画的な写実との対比を取り入れている。

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「巨匠たちの学び舎」展 京都京セラ美術館(1)

 京都市立芸術大学の新築移転を記念して「巨匠たちの学び舎」展が、京都京セラ美術館で開催された。
 京都市立芸術大学は、明治13年(1880)に日本初の公立絵画専門学校として開設された京都府画学校を母体とする。
 明治維新を経て首都は東京に移り、京都市域の人口は35万人から20万人あまりに激減した。人口減に加えて経済低迷、さらに有力な絵の買い手であった朝廷や公家など有力者が激減し、伝統的な絵師たちは困窮した。さらに文明開化による伝統文化の冷遇などから、円山派や四条派などの京都画壇の諸派が危機に陥っていた。美術を立て直すために市民の間から美術家養成機関としての近代的な「学校」を作ろうという地元の人びとの熱意が絵画専門学校創立を導いたのであった。やはり文明開化で低迷していた京都の主力産業たる伝統工芸の保存と近代化を支援する目的もあった。
 学校設立に奔走したのは官でなく市井に生きた絵師たちであった。明治11年(1878)、府知事に出された学校設立の建議書には、京都芸術界の主流である四条派を率いた幸野楳嶺のほか、鈴木派の久保田米僊らが名を連ねた。画家 田能村直入は南画界の大御所であったが、自ら広く各地の有力者を回って資金を集めた。田能村直入は、明治13年(1880)開校された京都府画学校の初代摂理(校長)を勤めた。
 以後、学校は移転を繰り返し、また名称も京都市美術学校(1891~1894)、京都市美術工芸学校(1894~1901)、京都市立美術工芸学校(1901~)と変遷した。さらにより専門的な教育・育成のため京都市立絵画専門学校を新設(1909)した。
 昭和25年(1950)京都市立美術大学となり、昭和44年(1969)市立音楽短期大学と統合して京都市立芸術大学となって現在に至る。

1.画学校・美工・絵専で教えた画家教員
 日本画家であった幸野楳嶺(こうの ばいれい、1845~1895)、久保田米僊(くぼた べいせん、1852~1906)、望月玉泉(もちづき ぎょくせん、1834~1913)らは、開校当初から教員として出仕し、やがて竹内栖鳳(たけうち せいほう、1864~1942)、菊池契月(きくち けいげつ、1879~1955)、木島櫻谷(このしま おうこく、1877~1938)などが教員として後進の指導にあたった。Photo_20250106060801
 本展覧会の冒頭は、これらの教職者を勤めた画家たちの作品である。
 幸野楳嶺(弘化元年1844~明治28年1895)は、京都の富裕な金穀貸付業を営み市内六軒の町奉行を勤めていた父の四男として生まれた。8歳のころ平安四名家の一人とされる円山派の中島来章(なかじま らいしょう)に入門した。四条派とされるが、円山派の影響も大きいという。
 画風は、知性と感情が調和して重厚緻密であり、ときに抒情的な作品もある。
 楳嶺は、高名な画家という以上に教育者として名高く、実際に貢献も大きい。弟子たちには、厳しく徹底的に基礎教育をたたき込み、基礎が出来たら自由にさせていたようである。また、常に門弟たちを引き立たせる努力をしていたようでもある。弟子が少し慢心していると絵の批評も痛烈にやるが、悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったと伝える。
 その幸野楳嶺の「花鳥山水貼交屏風」(明治期)が展示されている。たしかに清澄な雰囲気のなかに知性と感情が調和して重厚緻密である。

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渡辺哲弘『認知症の人は何を考えているのか』講談社

 著者は長年にわたり介護の現場で介護士、介護管理、そして介護の啓蒙に携わってきたベテランの実務経験者である。介護にかかわる周囲の人々の誤解を解き、認知症の本人とその周囲の人びとの状況の合理的で具体的な改善について解説している。
 認知症でヒトはどのような症状となるか、まずはそれをよく理解する必要がある、と著者は述べる。
 認知症の基本的な症状は、記憶の喪失である。Photo_20250105061001
 ヒトの判断・行動はそれぞれが単独・独立ではなく、複数要素の連鎖から成るプロセスで成立している。その連鎖・プロセスの重要な一部を占めるのが記憶である。
 なんらかの欲求が起こり、状況を観察して、あるいは相手からの発言を聴取して状況を受容し、理解する。しかしもしここでそこまでの理解の結果を忘れてしまうと、そのヒトは突然どうしていいかわからなくなって混乱し、強いストレスと不安に襲われて、正しく行動できなくなる。たとえば、生理的欲求からトイレに行こうとしてトイレを探すが、その場所や外観を忘れてしまうと、どこで用を足すべきかわからなくなって混乱し、ストレスと不安から暴れたりすることさえある。
 ヒトは記憶を失ったとき、必要な連鎖・プロセスの一部が壊れ欠損しただけで「段取りを組めなくなる」「手順が混乱する」など判断や行動ができなくなる。
 ヒトは、状況が理解できないとき、やりたいことができないとき、自分の気持ちが相手に伝わらないとき、焦り・不安を感じて、激しいストレスに襲われる、ということそのものは、認知症患者に限らず健常者も同じである。認知症についてよく知らない人たちは、認知症になってしまった人はなにもわからないから幸せだ、周囲のひとたちこそ迷惑で被害者だ、と勝手に推測することが多いが、現実は認知症の本人こそが大きなストレスと不安に激しく苦しんでいるのである。
 認知症は、頭脳のすべての機能が不全になっているわけではない。ごく一部の記憶機能が不完全になるだけで、突然正しく動けなくなり、困り果てる結果となるのである。そして「こころのなか」は焦りと不運に満たされ、ますます混乱する。認知症は、ヒトの認知機能、行動機能の全面的あるいは広範囲の機能停止なのではなく、認識・行動連鎖のごく一部の欠損から大きな症状を引き起こしている、ということを理解することが先ず重要である。
 ここで周囲のヒトは、認知症という病気に目を向けるのではなく、まず根本にある「人としての気持ち」に目を向けることが事態改善のポイントとなる。
 この認知症のヒトのこころの動きのメカニズムをよく理解・把握して、多くの要素の連鎖・プロセスのなかの障害ポイントを見つけ出して的確にサポートすると、行動が驚くほど正常に近づくことが多い。認知症のヒトの「こころのなか、こころのうごき」を察知して対応することで、認知症の当事者と周囲の健常者の両方を大きく救うことができる。
 この書の要点は、上記のようなことである。
 これを読んで、改めて私自身が晩年の母や義母の認知症と向き合っときの経験を思い出すと、たしかに十分彼女たちの「こころのなか」に向き合えていなかったことを想う。ここで述べられていることは、振り返って考えてみればそういうことだったのかも知れないとも思えることで、私たちにとってまったく意外なこと、まったく想定不能だったことでもないものの、現実を前にするとふと遠ざけてしまいがちなことばかりである。
 こういう気が付きさえすればあたりまえのことと思えそうなことこそが、説明して相手に理解させること、自分自身がほんとうに理解することが難しいのかもしれない。
 私自身も後期高齢者となり、何時みずからが認知症の当事者になるやもしれない境遇である。もっと言えば、急速に高齢化が進み高齢者人口が多数派を占めつつあるわが国においては、いまや認知症は大きな現実課題、社会的問題として、国民全体に関わる問題であるともいえる。
 そういう意味でも、ある意味当たり前のようで実はむずかしいことを、具体的に丁寧に説き聞かせてくれる本であった。

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J.カリーリ、J.マクファデン『量子力学で生命の謎を解く』2015

生命を担うミクロで繊細な構造の機能は本来的に量子力学がふさわしい
「量子力学」と「生命」とをいきなり並べると、直観的にはそんなの関係あるのか?とふと思うのも自然だが、少し落ち着いて冷静に考えると、密接な関係があるのはごく当然だと思える。Jj
 量子力学は物理学のひとつの分野で、20世紀も4分の1を過ぎてから確立してきた比較的新しい科学である。量子力学は、私たち人間の生活感覚ではとうてい想像しがたいミクロな世界を支配する物理であり、日常生活では縁が薄いようにも感じる。しかし、あらゆるモノの「ファイン」なところ、ミクロなところでは中心的な科学であり、その意味では生命や生物という分野は、とても微細なミクロな領域を扱うので、量子力学が大きく関与してくるのは何の不思議もない。
 そもそも化学のかなりの領域に、量子力学が深く関与する。化学結合、化学的励起、化学変化など化学の基本的な振る舞いに量子力学的考察・分析が広く深く関わる。
生命現象、生物化学、生物生理学では、とても小さな領域での物質の振る舞いが主役となるので、量子力学的アプローチが必須になるのは当然と言える。
 コマドリが、数千キロを超える長距離の旅を、その体内に有する微弱な地磁気の検出能力で達成している。イソギンチャクの脚の間に生息するごく小さな魚たるクマノミ、また大海を回遊するサケが、海洋中のかすかな臭いを敏感にかぎ分けて、とてつもない遠方を間違えずに旅する。蝶のオオカバマダラは、敏感な視覚・嗅覚に加えて体内時計を持っている。植物の葉緑素が驚くべきエネルギー効率で光合成を実現している。などなどの驚くべき実例が列挙される。
 これらの生物の驚くべき能力を実現しているのが、生物組織の微小領域で働く量子現象、すなわち量子トンネル効果、量子コヒーレンスのなかの量子もつれ、量子効果が主たる貢献をしている酵素などの働きによるのである。
 この本に紹介されているめざましい成果は、30~40年以内の新しいものが多い。しかし、この書でも登場するリチャード・ファインマンは、半世紀以上前に記した高名な『ファインマン物理学』で、すでにそのような事態を見通していた。ファインマンは、シュレーディンガー方程式など物理の基本方程式を実際に計算して解くのは、物理屋だけではない、むしろ物理の専門家は数学的に説きやすい計算を優先するのに対して、化学者(物理化学者)は、化学的見通しのもとに大胆な(冒険的な)近似をものともせず難解な方程式に挑戦し、とても有用な計算を成し遂げる、と言明していて、量子力学の化学分野、生物化学分野への大きな波及・発展を予測していた。
 この書で唯一、「ヒトのこころと量子力学」に関する論考のみは、議論の前提となるべき「こころ」の定義があいまい過ぎて、意味のある議論になっていない。「結びつけ問題=脳が得たさまざまな領域に情報が、意識のなかでどのように一つに結びつけられるのか」という程度の定義では、論理的に不安定過ぎてよくわからない。
できるだけ門外漢の人たちにもわからせようとの努力は感じられるし、それをかなり達成していると思うので、まずまず良書だと思う。

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DIC川村記念美術館(9)

フランク・ステラの挑戦
 アメリカ、ボストン郊外に生まれ、プリンストン大学で美術史を学んだフランク・ステラが、ニューヨークで作家活動を始めた翌年、23歳のときに手がけたのが「ブラック・ペインティング」と呼ばれるシリーズであった。商業用の黒いエナメル塗料とペンキ用の刷毛を用いて、大画面にストライプを繰り返し描いた作品は、非常に限られた要素で構成された抽象美術=ミニマル・アートの先駆と見なされてもいる。黒一色の寡黙な画面は、そこから何かを読み取ろうとする鑑賞者たちの意志を拒み、難解な印象を抱かせるが、ステラはそうした人々の見方を牽制するかのように「あなたは、そこに見えるものを見ているのです」の言葉を残した。テレビやコンピュータの映像に見入るように、現実には“そこに存在しないもの”の姿があると思い込むのをやめ、目の前にある絵画の存在をそのまま受け入れるのが、この絵の見方だと主張するのである。<

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 その翌年ステラは、矩形のカンヴァスという絵画の定式すら捨ててしまって、描く絵の外形のままの形状に切り出した大きな木板の上に作品を描いている。眼鏡のような形の「ヒラクラ Ⅲ」1968年 は、半円形のユニットを組み合わせた「分度器シリーズ」のうちの1点である。まさしく角度の目盛がついた分度器のように、半円の中心から外に向かって放射線状に色分けされている。こうした形は、ステラが描こうとするイメージと作品の外形を完全に一致させようとした結果生まれたものであり、最初に四角い画面が与えられて、その中に対象を描くのとは全く逆のアプローチがとられている。ここにもまた、絵画は、何かを映し出すスクリーンではなく、ひとつの物体であるとするステラの考えが反映されている。また、単色で描かれた前作と異なり、蛍光塗料を含む多色づかいは観る者の視覚を刺激し、平面でありながら躍動感ある絵画空間を実現している。ちなみにヒラクラというのは、彼の故郷の地名らしい。

あとがき
 この美術館は、オーナーたる川村家の趣味を生かした重厚なコレクションと荘厳な建築が、わが国の他の美術館とは一味違う独自の世界を創生している。ヨーロッパのクラシックなお城か、西欧の古い時代の大富豪の邸宅を思わせる、ゆったりした時間が流れるかのような、非日常の世界を提供しているのである。
 レンブラントの作品やマーク・レスコの作品の扱いのように、作品の特性を殺さないよう贅沢な空間配分がある。そのうえ天井も高く、通路も狭くないので、鑑賞者の気持ちも自然にゆったりする。
 たとえばアメリカ・ボストンにあるイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館と同様に、絵の説明は除き、壁に占める展示作品の密度もできるだけ余裕をもつようして、できるだけこの館の住人が生活のなかで楽しむためのものであるかのような雰囲気を演出している。もっとも来場者には作品の説明が必要なので、解説番組が聴けるアプリをスマホにインストールして個別に来場者が拝聴する、というシステムも導入している。
 建物を囲む景観も、豊かな緑がふんだんにあり、池の水に移る日差しもひときわ美しい。
 来場者にとっても、ひとときの理想郷のような快適な環境であり、これが閉館されるのは、実に惜しいと誰もが思うのも当然である。
 もちろん何とか存続して欲しいとは思うが、これを経営する側からすると、維持・管理のコストは膨大であり、やむを得ない決断だったのだろう。
 この美術館については私もかなり以前から聞いていて、ぜひ訪ねてみたいと思いながらも、私の住処たる大阪からはずいぶん遠くて、これまで訪れる機会がなかった。せめて閉館直前であっても、こうして鑑賞できた幸運を感謝したい。

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DIC川村記念美術館(8)

抽象表現主義からミニマリズムへ
 ヨーロッパでは、第一次世界大戦を機にさまざまな前衛美術が登場した。そして第二次世界大戦時には、多くの芸術家たちが戦禍と迫害を逃れて、活動の拠点をアメリカに移した。彼らはアメリカの若い世代の芸術家と積極的に交わり、アメリカの芸術家たちはこうした交流から最新の美術動向を吸収していった。こうして第二次世界大戦後、ヨーロッパ美術にかわり、アメリカ美術が世界を牽引する時代がやってきた。人の背丈をはるかに超える巨大なカンヴァスの一面を、色彩や筆致が覆いつくす、新しいタイプの抽象絵画が誕生した。

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  アメリカの芸術家たちは、巨大な絵画空間に、悲劇性や崇高性といった人間の根源的なテーマを表現する作品を制作して、抽象表現主義と呼ばれるようになった。ジャクソン・ポロックは、マーク・ロスコと並んでこの新しい潮流を創り出した芸術家であった。「緑、黒、黄褐色のコンポジション」1951年 は、カンヴァス一面に白、黒、緑、銀をはじめ色とりどりの絵具が滴り、跳ね、そして飛び散り、無数の線が交差するポロック特有のスタイルで制作された作品である。ポロックの作品は、線を主たる要素としながら、それらが何らかのかたちを指し示してはいない。また、現実世界に存在するものを抽象化した作品とも異なる。これまでの伝統的な絵画の構造を完全に棄て去り、描く身振りと表現が直接的に結びついたポロックの作品は、新しいアメリカ美術の誕生を告げる象徴となったとされる。
 ここで作品の解説を聴くと、理解したような気にもなるが、私としては、作者の意思・意図を作品に伝えるためには、どうしてもそれなりに作者の意思にしたがう描写のプロセスが必要だと考えるので、ポロックのような「オートマティズム」は、やはり受け入れがたいのが本音である。

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DIC川村記念美術館(7)

マーク・ロスコの『シーグラム壁画』
 順次展示を鑑賞して進んでいくと、ただひとりの画家のただひとつの作品シリーズのために、わざわざひとつの部屋全体を提供している展示室がある。マーク・ロスコの壁画シリーズ『シーグラム壁画』の展示室である。
 この美術館が所蔵するマーク・ロスコの作品群はシリーズのうちの7点で、作品制作時のコンセプトが、ひとつの部屋の各面の壁を飾るためのものであった。
 すでに大家と認められていたロスコが、マンハッタンに新しくできるシーグラム・ビル内のレストラン「フォー・シーズンズ」のために、作品制作の依頼を受けたことがきっかけであった。最高級の料理と優れた現代アートをともに提供するというコンセプトのもと、ロスコも作家のひとりに選ばれ、レストランの「一室の装飾」を任せられた。 当時のロスコは、グループ展などで他人の作品と同じ部屋に自分の作品が並ぶことを嫌い、自分の絵だけでひとつの空間を創り上げたいと切望していたところであった。そこで、全身全霊をこめて、およそ1年半を費やして30点の絵画を完成させた。

No4

 これら『シーグラム壁画』は、雲のように茫洋と広がる色面が内に孕んだ光を静かに放つような、それまでのロスコの代表的な絵画とはいくつかの点で異なっている。まず全体の半数以上が横長の画面で、多くは横幅が4.5mに及ぶものとなっている。これまでにない大作となったのは、ロスコがこれらを「絵」ではなく「壁画」と考えたからであり、紙に残されたスケッチからは、複数の作品を、間隙を空けずに連続して設置し、まさに壁全体を作品にするような構想であった。また、雲のような色面は姿を消し、代わりに深い赤茶色の地に、赤、黒、明るいオレンジのいずれかで描かれた窓枠のような形が現れるというものであった。それは現実の窓ではなく、いわば概念としての「窓」、すなわち赤い広がりとなった彼岸への窓あるいは扉と言うべきものであった。それらは閉じたまま、あちら側の世界とこちら側の世界の境界を示すのみで、あちらへ踏み入ろうとする鑑賞者の意志を拒むようにも見える。あるいは、乾いた血を思わせる色合いや、薄く何層にも塗り重ねられた独特の絵肌に恐ろしさ、気味悪さを感じる鑑賞者もいるかも知れない。しかし、しばらくこの壁画群に囲まれていると、まるで自分の意識が赤く染まるような感覚を覚え、やがては深い内省に導かれるようなものとなっている。
 この作品を制作後、ひとあし早くオープンした店を訪れたロスコは、その雰囲気に幻滅し、契約を破棄してしまった。このため完成後にレストランに実際に飾られることはついになかった。しかし、一度は行き場をなくしたこの絵画群も、1970年にロンドンのテート・ギャラリー(現テート・モダン)にうち9点が寄贈され、1990年には7点がここDIC川村記念美術館に収蔵されることとなった。以降、このふたつの美術館ではそれぞれの『シーグラム壁画』のために一部屋を設け、常時公開しているのである。

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