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2025年3月

What's New特別展 大阪市立美術館(7)

3.知られざる考古コレクション(上)Photo_20250331055701
 大阪市立美術館は、かつて考古隊を組織して大阪府下の遺跡の発掘調査を実施したことがあった。この考古の調査は、昭和35年(1960)大阪市立博物館開館にともない、その博物館に移管されたが、この機会に大阪市立美術館の関連コレクションを展示した。また、一部の外国の考古コレクションもあわせて展示されている。
 「須恵器 皮袋形瓶」(古墳時代・6世紀)が展示されている。
 これは大阪市平野区の瓜破遺跡から出土したもので、須恵器の瓶(ヘイ: 液体を入れるかめ)なのだが、皮袋のようなおもしろい形状が目を引く。かなり珍しい出土品らしい。
Photo_20250331055801  磁州窯「白釉刻花 牡丹文如意頭形枕」(中国・北宋、11–12世紀)が展示されている。
 これは「東洋のポンペイ」とも呼ばれる中国河北省の鉅鹿(きょろく)で発掘された陶器の枕である。鉅鹿は、1108年に川の氾濫で水没した町であった。住居跡の発掘調査で、多数の磁州窯のやきものが出土した。陶枕は、墓に副葬するためのもの、との認識が普及していたが、この鉅鹿の住民の住居からの発掘で、日常生活に実用されたものがあることが判明したという。
 この作品は、枕面に大柄な牡丹が描かれていて、装飾的な枕である。

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What's New特別展 大阪市立美術館(6)

2.金工品にみる表情(下)
 尊永寺伝来「金銅 三鈷鈴」(平安・鎌倉期12-13世紀)が展示されている。Photo_20250330060201
 「三鈷鈴」とは、金剛杵(こんごうしょ)の下部に鈴を組み合わせたものである。静岡県の尊永寺には、この展示作品以外にも4種の鈴が所蔵されている。
 この作品は、先端が尖り、勢い余ったかのように折り重なる鈷(こ: インドの護身具・兵器の一種。煩悩を打破する仏具として用いられる)の部分の勇壮さ、鈴部の端正さを共存させた美しい造形美を達成している。
 「鍍金銀透彫 鴛鴦宝相華文簪」(中国・唐・9世紀)が展示されている。
 唐の時代、貴婦人たちは高髻(もとどり、たぶさ)を結っていたので、この作品のようなきわめて長い差し込み部分をもつ簪(かんざし)が必要だったのだろう。
 龍の口から吹き出された蓮華唐草に、ツガイの鴛鴦(おしどり)が顔を向き合わせて飛翔する姿を、うすい板金に透かし彫りで表現している。文様の表面には、鏨(たがね)で形態に即した毛彫りが施されている。じつに繊細で精緻な装飾品である。

Photo_20250330060202

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What's New特別展 大阪市立美術館(5)

2.金工品にみる表情(中)Photo_20250329055001
 「銅 湯瓶」(鎌倉時代)がある。
 これは日本の中世の器物で、神仏に水を献ずるために用いられた器である。名前が「湯瓶」となっているのは、かつての用途を推測するうえで興味深い。形状は、奈良平群郡信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)に伝来した名器に由来するとされ、「信貴形」と称されている。蓋の鈕(つまみ)は宝珠形、注ぎ口の基部は龍形とし、天界を象徴するかのようなデザインである。造形の全貌として、とても美しい作品である。
 天命「鉄『極楽律寺綱維坊』尾垂釡(おだれがま)」南北朝期・文和元年1352)がある。
 天命(てんみょう)とは、製造された場所を意味していて、下野国佐野庄天命(栃木県佐野市犬伏町)で作られた茶湯釜の総称である。 天命釜は、「天明」、「天猫」と書かれることもある。茶釜の名品として、表面が荒れた天明釜Photo_20250329055002 (栃木)と、表面が滑らかな芦屋釜(福岡)で高名である。この展示品は、天明釜のひとつの代表作とされている。
 この作品で注目すべきは、尾垂釜(おだれがま)だということである。尾垂釜は、茶の湯釜の形状のひとつで、胴の下部が不規則な波形に欠けて垂れた形の釜である。尾垂は、古芦屋や古天明など、古い釜の下部が腐食して破損したものを、その部分を打ち欠いて取除き、新しくひと回り小さな底に付け替えたとき、打ち欠いた個所を不揃いのまま残したところからの形態で、後には始めから尾垂の形を様式として制作した例もある。
 この釜は、肩の文字から、もとは鎌倉あるいは筑波の極楽律寺で使用された湯釜のようである。

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What's New特別展 大阪市立美術館(4)

2.金工品にみる表情(上)Photo_20250328060201
 大阪市立美術館のコレクションには、多くの中国や日本の金工品がある。さまざまな政治あるいは宗教の儀式や儀礼に用いられる厳粛な作品から、貴族あるいは庶民が日常に用いる実用的な日用品まで、多くの種類がある。このセッションでは、中国の古代から近代までの作品の紹介と、日本の江戸時代を中心とした金工品が30点以上展示されていた。私は、たいてい美術館に絵画や彫刻を鑑賞しに出かけるので、このような作品を観るのは、ある意味新鮮であった。
 Photo_20250328060202 「青銅 蒜頭瓶」中国・秦(紀元前3-2世紀)が展示されている。
 すっきりと長い頸の上の口縁部が柔和な感じに分割されてニンニクのような形になっている。酒の容器として使用されたようで、盛酒器に相応しい安定感がある。底裏には環があり、かつてはそこに鈴が取り付けられていたのではないかと考証されている。動くたびに鈴の音を響かせ、祭祀または墓に供されていたと推測されている。中国のしかも古代の作品だが、時空を超えた普遍的とも言える斬新感、優美さと、そして気品がある。
 「鉄 八角水注」中国・宋(10-13世紀)が展示されている。
 鉄製の八角形の身に、優美な注ぎ口と把手をつけている。ずっと後の宋時代には、ほとんど同じ形の陶磁器の作品があるそうだが、こんなに古いこと、しかも鉄という腐食しやすい材質にもかかわらず、こうして美しい形をいまに残していることに感銘を受ける。
 2023年に、丁寧な保存修復処理が施された成果だという。

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What's New特別展 大阪市立美術館(3)

1.近世の風俗画(3)
 三畠上龍「立美人図」(19世紀)がある。Photo_20250327054701
 華やかな美人が艶やかな着物を着てポーズをとっている。着物に大きくあしらった満開の桜は、その幹と枝が四条派の「付け立ての技法」で描かれていると解説にある。「付け立ての技法」とは、没骨法の一種で、一筆の中に濃淡をつけるもので、輪郭線を描かずに形をとり、幅の広い線(面)を一筆で濃淡をつけて描くという、水墨画の基本の技法のひとつだそうだ。
 三畠上龍は、画中画のような独自の衣装の絵画的表現をみせている。美人が胸に抱くのは、日本では古くから愛玩されてきた狆(ちん)である。じつに艶やかな肉筆画である。
 三畠上龍は、生没年などの詳細はわかっていないが、江戸時代後期の天保期を中心に活躍した浮世絵師であった。
三畠上龍は、京都に生まれ、岡本豊彦に絵を学んだのち大坂に住み、浮世風俗を描いて一家を成した。門人に吉原真龍などが知られている。
 三畠上龍は、肉筆美人画を専門とした絵師として知られている。天保15年(1844)刊行の『近世名家書画壇』に「今世又京師に乗(上)龍、江戸に国貞あり」と記され、すでに名声を得ていたことがわかる。また弘化4年(1847)刊の『京都書画人名録』では、すでに故人とされていた。
 Photo_20250327054801 三畠上龍は、四条派の洒脱な様式を受け継いで、花鳥画を巧みに織り込みつつ、美人の着る衣装の描写において勢いある粗笨な筆を使い、華麗な色調と磊落の雰囲気を合わせ持つ独特な一人立ちの美人風俗画を多く残している。上龍の画風は追随する多くの画人を産んで、幕末の上方美人画の基調となり、その影響は上村松園ら近代の美人画にまで及んでいる。
 東洲斎写楽「三代目市川八百蔵の田辺文蔵」寛政6年1794)が展示されている。
 東洲斎写楽は、生没年も師弟関係もほとんど何もかもが不明で、その活動期間も1年に満たないとされる謎多き浮世絵師である。版元の蔦屋重三郎本人ではないか、とさえ噂されるという。この作品は、東洲斎写楽の他の作品と比べて、なんとなく表現の個性、クセがいささか抑え気味でおとなしい気がする。

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What's New特別展 大阪市立美術館(2)

 「邸内遊楽図屏風」(17世紀)が展示されている。

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 描かれている邸宅は、池泉、湯殿(風呂)を備える数寄屋風の二階建てで、おそらく遊里(花街)の一画であろう。大勢の男女が入り乱れて、双六、かるた、射的、蹴鞠、風流踊りなどの遊興に耽っている。「遊びをせんとや生まれ来る」の世界である。Photo_20250326054001
 礒田湖龍斎「秋野美人図」(江戸時代17世紀)が展示されている。
 この絵では、強い追い風を受けながら、秋の野をひとり駆け抜ける美人が描かれている。乱れた裾から顕わになっている赤い下着や白いふくらはぎが目を引く。「伊勢物語」の武蔵野を連想させる画面で、古典の女性を当世風美人のあぶな絵に変容させた見立絵と考えられている。
 歌川豊広「芝浦二美人図」(18-19世紀)がある。
 縁側だろうか、見晴らしが開いて長閑な江戸湾が見える。二人の遊女がなにか話している。絵の上にある賛は「女は髪のめてたからむこそ人のめたつへかれ」と、徒然草第九段「愛著(あいじゃく)の道」が鏡文字で記されている。女性の執着への戒めを、鏡文字という読みづらい表現で書いて、遊びこころと教養を示している。
 歌川豊広(うたがわ とよひろ、安永3年1774~文政12年1830)は、歌川豊春に入門し、一柳斎と称して天明8年(1788)ころから絵暦の作画を始めた。中村座の狂言と考証されている二世小佐川常世のおさんと三世沢村宗十郎の茂兵衛を描いた細判錦絵がある。版本の挿絵が活動の主体で、寛政12年(1800)ころから、文化7年(1810)にかけて、主に敵討物の黄表紙や合巻、噺本の挿絵を多く手がけていた。山東京伝や曲亭馬琴、十返舎一九らの作品に携わっていた。また風景画も残している。
 縦二枚続は豊広の創案と考えられている。文化3年(1806)から文政10年(1827)ころまで、曲亭馬琴に認められてその読本に数多くの挿絵を描いた。
 豊広の門人には「東海道五十三次」の作者として著名な歌川広重のほか、息子の歌川豊清、歌川広近、歌川広演、歌川広兼、鳥羽広丸、歌川広恒、歌川広昌、歌川広政、歌川直広などがいる。

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What's New特別展 大阪市立美術館(1)

 大阪市立美術館は、耐震補強と設備の全面更新のため、令和4年(2022)10月から令和6年度(2024年度)末まで休館していた。ようやく修復補強工事が完成して、令和7年(2025)3月1日にリニューアルオープンした。これを記念して「What's New特別展」が開催された。
 展覧会のタイトル「What’s New」には、久しぶりに会った相手に「お変わりはありませんか」と軽く近況を尋ねる挨拶と「最新情報・新着情報」の2つの意味がある。この展覧会名には、約2年半に及ぶ休館期間を経て久しぶりに鑑賞に訪れる来場者への親しみを込めた挨拶と、リニューアルした最新の姿をお披露目するという2つの意味が込められたという。
 大阪市立美術館の所蔵品は、日本・東洋美術を中心として、昭和11年(1936)5月1日に開館してから現在に至るまで充実への努力が続けられ、すでに約8,700件にのぼる。
 本展では、館内の全フロアを4つの特別展示会場として、絵画や書蹟、彫刻、漆工、金工、陶磁など多種類の作品を、テーマごとにセッションに別けて約260件を一堂に展示している。

1.近世の風俗画
 冒頭のセッションは、広く人々に親しまれた風俗画から、近世の作品を特集している。
 冒頭には「洛中洛外図屏風」(17世紀)がある。

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 近世(江戸時代)初期の都市風俗を描いたもので、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の賑わいを表現している。近世の京の町は、江戸時代に先だって豊臣秀吉によって大規模な都市改造が行われたもので、この屏風絵は、江戸時代の初期の様子をかなり詳細に描いている。上に引用した左隻には、二条城と徳川将軍の大名行列が主題となっている。右隻は、祇園祭の山鉾巡行が主題である。寺社参詣、芝居見物など庶民が都市生活を楽しんでいる活気ある姿が、細やかに描き込まれている。
 「邸内遊楽図屏風」(17世紀)が展示されている。

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 描かれている邸宅は、池泉、湯殿(風呂)を備える数寄屋風の二階建てで、おそらく遊里(花街)の一画であろう。大勢の男女が入り乱れて、双六、かるた、射的、蹴鞠、風流踊りなどの遊興に耽っている。「遊びをせんとや生まれ来る」の世界である。

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30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年(5)

5.國府理
 國府理(Kokufu Osamu)は1970年京都府に生まれた。京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻に学んだ。
 大学院在籍中に美術家 野村仁が主宰するソーラーカーによるアートプロジェクト「Solar Power Lab」に参加し、1994年にアートスペース虹(京都)で初個展「KOKUFUMOBIL」を開催した。自動車や工業製品を用いた、実際に機能する立体作品を手がけた。1999年にはソーラーカーによるアメリカ大陸横断旅行「HAAS project」に協力、2000年代に入ると初期の立体作品に加え、自動車に植物を生育させる作品や、植生を人工的に制御する温室など、人間、機械、自然を対比させ、それぞれの関係性を見つめ直すことを目指す作品を制作・発表した。Photo_20250324055801
 今回展示されている「水中エンジン」は、東日本大震災の福島第一原子力発電所事故をきっかけに制作した作品である。愛用の軽トラックのエンジンを水中に沈めて稼働の不可能を実証的に表現しようとするもので「原子力発電所と同じ構造を持ち、システムを維持することの難しさや脆さの可視化を試みた」としている。
 2014年、国際芸術センター青森での個展「國府理展 相対温室」で、自然と人間の営みについての寓話のような庭や温室の形の作品によって創作スケールを拡大させることを試みた。芸術的理由のためとして、温室内のガス排気パイプの取付を拒否したため、展示作品の点検中に、温室内の一酸化炭素中毒で死亡した。享年44歳であった。
 陸上を走行する自動車のエンジンを、水中に沈めたら動作しないことは子供でもわかることである。「原子力発電所と同じ構造を持ち」とはどういう根拠なのだろう。原子力発電の機構は、はるかに洗練された精緻なものである。それでも今回のような原発事故は発生した。それはそれで大きな問題ではあるが、自動車エンジンを水中に沈めて動作しないことから「はたして人間に電気の源というものが、ほんとうに必要なのだろうか」などと極端に飛躍した「問題提起」をしても、普通のまともな人びとにはまったく響かない。たとえば航空機もその利便性から現代人の生活に欠かせないものであるが、エンジンが止まると確実に墜落して多数の犠牲者を発生する。飛行機も有害だ、不要だというのだろうか。極端に科学技術を無視したままでは、なにも伝えることはできない。國府理の作品とその問題意識は、私には皆目理解できなかった。

 兵庫県立美術館の歴史に関わる阪神淡路大震災の30年目の企画特別展と言うことで鑑賞したのだが、芸術というよりジャーナリズムへの参加あるいは挑戦だったのだろうか。私の感想としては、阪神淡路大震災のあと日本を襲った東日本大震災や能登北陸大震災と比べると、いずれの震災も多数の人命が失われた悲惨な事件には相違ないが、なんといっても阪神地域は人口も多く、経済的潜在力も大きくて、復興が速く合理的に進んだのに対し、東日本大震災、とりわけ能登北陸大震災においては、災害の以前から潜在的に存在した過疎化とそれにともなうインフラ維持の問題など深刻な問題がすでにあり、あるべき復興後の姿が描きにくく、これからの復興も前途多難であろうというものであった。
 結論として、この展覧会そのものとしては、取り立てて印象に残る、あるいは感動する、という展示はなかった。震災の災害という事象に対して、とくに自然災害に対して、美術や芸術が、誰にも理解できて感動できる、あるいは納得できるプレゼンテーションを提供するのは、難しい、あるいは無理なのかもしれない。

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30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年(4)

4.やなぎみわ
 やなぎみわ(Yanagi Miwa)は、1967年神戸市に生まれた。京都市立芸術大学工芸科に学び、染色を専攻し、在学中から布による造形やインスタレーション(空間藝術)を制作していた。Photo_20250323060201
 1988年はじめて個展を開催の後、1993年エレベーターガールをテーマにした作品で一躍話題を集めた。私もこの「エレベーターガー」シリーズの一部は、観たことがある。エレベーターガールという存在は、いまでは無くなったようだが、私たちか若いころにはあった。その情景と周囲の環境が、女性に対する社会的・物理的な制約・抑圧の象徴として表現されていた。
 以後国内外で個展を多数行い、2009年第53回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本代表作家となった。
 2011年より演劇活動を開始し、近代美術の黎明期をテーマに美術館や劇場で公演、北米ツアーも果たした。
 古代にまでさかのぼる芸術の歴史をテーマとした多彩で多様な芸術活動を展開しているようである。
 今回の展覧会では、演劇活動に関連していると思われる、古事記を題材とした能楽を取りあげた絵画と映像などが展示されている。
イザナギとイザナミが桃の木や果実と絡まるストーリーなど、何点かにわたる展示だが、私には内容がよくわからない。
 アートとしての価値はさておき、今回の「30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年」というイベント・テーマとの関係が、私には不明のままであった。

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30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年(3)

3.束芋
 束芋(Tabaimo)は、陶芸家の母の三人姉妹の次女として1975年兵庫県に生まれ、3歳の時に大阪府に転居した。6歳の時毛筆で描いた仏画が母の手によって家に飾られ、6歳児の作とは思えないその出来映えが訪れた人を驚嘆させたという。中学2年生のとき、陶芸の修行中だった母の独立に伴って、兵庫県内の窯付きの家に転居した。中学校までは一般の学業も好成績を保っていたが、1991年に市立西宮高校理数コースに入学後は成績を落とした。3年生の夏、当初薬科大学を受験しようとしたが成績が芳しくなく、美大志望に切り替えた。京都造形芸術大学芸術学部日本画コースを受験したが不合格となり、宝塚の受験用の画塾に学んだ。翌年、京都造形芸術大学芸術学部情報デザイン学科に一般入試に補欠で入学し、グラフィックデザイナー・映像作家の田名網敬一に師事した。大学卒業後はグラフィックデザイナーを目指して就職活動を始めたが、何らかの賞を取って就職活動の武器にしたいと制作に没頭した結果、卒業制作の「にっぽんの台所」で学長賞を受賞した。
 1999年、キリンコンテンポラリーアワードの最優秀賞を受賞し、これがデビュー作となった。これを契機に就職活動は休止し、制作に専念することを決心した。
 2001年には「平成12年度咲くやこの花賞(美術部門)」を受賞し、翌年26歳の若さで出身校である京都造形芸術大学情報デザイン学科の教授に就任した。しかしまもなく辞任している。
 2003年春からロンドンで1年間、あらためてグラフィックデザインを勉強した。そこで、グラフィックデザインの仕事はやはり自分には出来ないと感じて、グラフィックデザイナーへの就職活動再開をまたも断念した。
 2004年に第23回京都府文化賞奨励賞を受賞した。
 小説の挿絵や、様々な舞台作品にも取り組んでいる、多彩な女性現代美術作家である。本名は田端綾子で、陶芸家の母・田端志音の子の姉妹として、姉が「たばあね」、彼女が「たばいも」と友人たちから呼ばれていたことがアーティスト名「束芋」の由来であるという。手描きドローイングと日本の伝統的な木版画の表現と色彩を思わせるアニメーションを用いたインスタレーション作品で知られ、現代日本社会に潜む問題をシュールかつシニカルに表現している。
 今回の展覧会では「神戸の学校」「神戸の家」のアニメーション2作が上映されていた。とても繊細で精密な筆致ながら、敢えてデフォルメして親しみやすさ、身近さを感じさせ、かつその裏側から震災というなにか不気味な雰囲気を伝える、独特のとても達者な描写である。

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30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年(2)

2.米田知子
Photo_20250321054901  米田知子(Yoneda Tomoko)は、1965年兵庫県明石市に生まれ、1989年アメリカのイリノイ大学シカゴ校芸術学部写真学科を卒業してイギリスに渡り、ロンドンの芸術大学院大学たるロイヤル・カレッジ・オブ・アートを1991年修了し、以後主にロンドンに在住して活動している。
 写真を通じて「目には見えないもの」を追求することを目指し、20世紀のイデオロギーをテーマに、戦争や震災の傷跡が残る日本国内、ヨーロッパ、東欧、アジアなど幅広い地域での、人々の記憶が強く残る場所を訪れ、徹底した対象へのリサーチを重ねながら制作を続けている。
 ここでは30点あまりの写真が展示されている。1995年の地震直後のもの、それから10年ほど後の景観、そして現在のもの、と大きくは3グループに分かれる構成である。
 「西洋窓、北野」(1995)は、地震から時間が経っていないときの建物の破損状況をジャーナリスティックに表現している。敢えてモノクローム作品としている。私も、地震で亡くなった知人の葬儀のために、地震から数か月後に神戸市内を訪れたが、さまざまな破壊の風景、瓦礫の山など、壮絶な光景を目撃した。
Photo_20250321054902  「川(両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ)」(2004)は、それから10年ほど後の神戸市内の風景である。川の両側は、かつて被災者の仮説住居が林立していた跡地であり、現在その一部には真新しい高層建築が建っている。正面遠景には現在も仮設住宅が残っているのが見える。無機質な景観のようでも、記憶が重なると時間の経過と生命の復興のようなものが感じられる。
 米田知子の創作には、代わらない一貫性があるという。追求するべきテーマに20世紀の「記憶」と「歴史」を掲げ、それらを表すためのコンセプトとして「見えるものと見えないもののあいだ」という概念を設定する。用いるメディアはいつも写真で、綿密なリサーチと取材を重ねるジャーナリスティックな制作手法をとっている。写真を通して土地やものに宿る歴史的真実に迫り、詩的な感性を添える作品を蓄積している。

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30年目のわたしたち ─阪神淡路大震災30年(1)

 兵庫県立美術館の前身である兵庫県立近代美術館(1970-2001)は、1995年1月17日の震災で、建物や収蔵品に大きな被害を受けた。もちろん兵庫県立近代美術館は、その後も残り、私もしばしば訪れる大切な場所であった。
 私が海外赴任から帰国した2002年になって、兵庫県立近代美術館を引き継ぎ震災復興の文化的シンボルとして場所を改めて開館したのが、ここ兵庫県立美術館であった。Photo_20250320055701
 兵庫県立美術館では、これまでも震災後の節目の年に震災関連の展示を開催してきたが、今回初めての特別展会場での自主企画展が開催されるというので、真冬で風が強いが晴天に恵まれた一日、鑑賞に訪れた。
 阪神淡路大震災の1995年から現在までの30年の間に、世界は多くの自然災害や紛争に見舞われた。「明るい未来を想像することはますます困難な状況となっていますが、そのような時代に求められる希望とは――。簡単には答えの出ないこの問いを、それでも、あるいはだからこそ考え続けるための、ひとつの場となることを目指し、本展を開催します」というキャッチフレーズが掲げられている。「アーティストとその作品、何らかの出来事と、それらと出会うみなさんが展覧会という場につかのま集うこと。言い換えれば、今それぞれに生きる「わたしたち」こそ「希望」の出発点にほかならない、そのような思いを展覧会名に込めています」との宣言が掲げられている。
 今回の特別展は、6組7名のアーティストによるグループ展をなっている。私が関心をもった5人のアーティストと、展示作品のごく一部にかんして、感想を簡単に記しておく。

1.田村友一郎
 展示の冒頭は、田村友一郎の、展示会場の一部屋を占めるインスタレーションである。
 田村友一郎 (Tamura Yuichiro) は京都府在住のアーティストである。
1977年富山県に生まれ、日本大学芸術学部写真学科を卒業した。東京藝術大学大学院映像研究科博士後期課程修了の後、ベルリン芸術大学空間実験研究所に2年間留学した。
 既存のイメージやオブジェクトを導入したインスタレーションやパフォーマンスを手掛けているという。
「高波」とタイトルされたこのインスタレーションは、今回特別展の企画段階から、展示の冒頭をかざるという前提で制作されたことが、解説のかわりに掲示されている電子メールのコピーからわかる。

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 作品は、写真、映像、インスタレーション、パフォーマンス、舞台と、多彩なメディアを横断し、土地固有の歴史的主題から身近な大衆的主題まで幅広い着想源を用いて、現実と虚構を交差させつつ多層的な物語を構築する、と謳う。従来の美術の領域にとらわれない独自の形式を用いて、現代美術の観客へのメッセージの発信だけでなく、観客とのあいだに特異なコミュニケーションを実現しようとしている、との解説がある。
 1995年1月17日のひとつのシーンを構成している。正面に大きく掲げられているのは大きなガラス窓である。震災を直接示すようなガラスの破砕やひび割れはないが、窓ガラスを経てながめる少し不自然な色彩の樹木が不穏な雰囲気を醸し出している。床の上には、コンクリートの地面の破砕のような、彩色の絵の断片が配置されている。部屋の片側には、当時のオフィスによく見かけた、何世代か前のスチールデスクとイスがあり、机の上には、あのころの主流であったブラウン管モニターのパソコンが置かれている。奇しくもMicrosoft Windows95が発売されたのが、この1995年の夏であった。このNECのパソコンは、おそらくコマンドライン・インタープリタでマンマシン操作をしていたものであろう。この30年間は、展覧会のメッセージにあるように、世界中でじつにさまざまなことがあった一方で、とくにパーソナル・コンピュータをめぐる著しい変化と進展があったことを、あらためて思う。
 地震の惨状を生々しく表現するのでなく、さりげなく異変を暗示することで、私たちもその当時の雰囲気を思い出して、改めて地震の記憶を取り戻す、という面はたしかにある。惨事があったともに、時間の経過がある。多くのところで、日常が淡々と過ぎていて、それでも実は悲惨なことが発生していた。このインスタレーションは、成功しているといえるかも知れない。

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南座「三月花形歌舞伎」

 久しぶりに京都南座に歌舞伎公演を鑑賞した。
 演目は「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿の場」と「於染久松色読販」のふたつであった。
 「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)三笠山御殿の場」は、江戸時代中期に近松半二など5人が合作した全五段の歌舞伎で、明和8年(1771年)正月に大坂竹本座で初演された。
 この物語は、日本古代の西暦645年「乙巳の変」、いわゆる「大化の改新」から採ったもので、話の内容は大きく脚色され、敵対する関係者の間に恋愛・悲恋のストーリーを混ぜ合わせて、ストーリーのテーマがあたかも歌舞伎版ロミオとジュリエットのような構成となっている。Photo_20250319054801
 蘇我氏が権勢をふるっていた7世紀中ごろが舞台である。蘇我入鹿は天皇の権威をも抑えるほどに権力の最盛期を謳歌していた。これをなんとかして打ち倒そうと画策していたのが中臣鎌足とその息子の不比等であった。不比等は歌舞伎では「淡海」という名で登場し、ここでは俗世に潜み込むため烏帽子折つまり烏帽子職人として「求女」と名のり、庶民に身を窶(やつ)している。ところがこの求女は(その名の通りか)女性にもてる。奈良の三輪に潜伏していたとき、その地の杉酒屋(つくり酒屋)の看板娘お三輪がぞっこん惚れ込んでしまった。しかし求女は、入鹿の妹である橘姫とも昵懇の仲であった。求女にすれば、入鹿討伐の手段の一環だったのかも知れない。
 舞台の幕が上がると、場所は蘇我入鹿の御殿である。中央に居丈高に鎮座する入鹿に対して、女官や家臣が取り巻き、入鹿の栄光を讃えている。
 そこへ下賤の身なりをした漁師鱶七(ふかしち)が登場してくる。ふてぶてしい漁師鱶七は、自分は中臣鎌足から遣わされた者で、鎌足からの手紙を持参した、という。うさんくさいと思った鎌足は、とりあえずこの男を捕らえて人質にせよ、と家臣に命ずる。鱶七は簡単には家臣の拘束に応じなかったが、やがてふてぶてしい態度は崩さないまま拘束に応じ、大胆にも御殿の座敷で昼寝に入る。
 そして橘姫が登場し、まもなく求女が出てくる。求女は、白色の苧環(おだまき)という糸巻きを持ち、その糸の端を橘姫の袖に結びつけて、橘姫の行先をたどることができるようにしていたのだ。求女と再会した橘姫は喜ぶが、実は求女が兄入鹿を狙う人物であることを知り、それでも求女の役に立ちたいと言う。この言葉に感じ入った求女は、結婚して添い遂げようと橘姫に誓い、二人は婚礼の準備に屋敷の中へ入っていく。
 そこへこんどはお三輪が迷いつつ御殿にたどり着く。お三輪は赤い糸の苧環を持ち、その糸の端を求女の衣服に密かに結びつけていた。途中で糸が切れたが、迷いながらもようやく御殿まで来たのだ。お三輪は、出てきた女官たちに求女らしき人物が来なかったかを訪ねる。女官は、その人物なら、これからお姫様と祝言を挙げる婿の男だという。
 恋心を募らせるお三輪は、なんとしてもその男に合わせて欲しいと女官たちに懇願する。意地悪な女官たちは、お三輪の純情につけ込んで、さんざんにいたぶり、泣かせる。
 途方に暮れたお三輪が、いったん帰って出直そうとしたとき、御殿の中から祝言が始まったことを大声で祝う声が聞こえた。これでは帰ることなどできない、とお三輪は嫉妬の炎を燃え上がらせて形相を変えて御殿のなかへ侵入しようとした。そのとき、御殿のなかから突然鱶七が現れて、とっさにお三輪の腹を短刀で刺した。
 断末魔のなか、なぜ自分がこうして殺されねばならぬのかを問うお三輪に、鱶七は、実は自分は中臣鎌足の家臣金輪五郎で、蘇我入鹿を討伐するために動いているという。蘇我入鹿は、その父蘇我蝦夷が、朝廷で飼育する禁漁の鹿の血を妻に飲ませて生まれた子であり、そのような高貴な鹿の血と、さらに嫉妬に狂う女の生血をあわせて鹿笛にかけて吹けば、入鹿の力が衰える魔力があるのだ。お三輪が慕う求女は、実は中臣鎌足の子不比等であり、彼は入鹿を討とうとしているので、お三輪の生き血は恋人の役に立つのだ、喜べ、というのであった。
 この物語は、乙巳の変の前にこんな裏話があったとするフィクションであり、ずいぶん時代が古い。ところが舞台に出てくる人物の衣装も、建物の内装も、多くが近世江戸時代の雰囲気であり、そういう意味ではいい加減な時代考証ではあるが、江戸時代の人気歌舞伎なのだから、それはそれでいいのだろう。歴史に題材をとる点で、この歌舞伎は「時代物」なのかもしれないが、内容的には「世話物」の要素が強い。
Photo_20250319054802  この舞台で主人公となっているお三輪を演じるのは、五代目中村米吉である。彼は五代目中村歌六の子で、端正で美形の女方である。もうひとりの重要な役鱶七は、四代目中村福之助が演じている。私たちの世代では中村橋之助として知られていた八代目中村芝翫の長男である。求女こと淡海は、中村虎之助が演じた。中村虎之助は、長年にわたって歌舞伎界に君臨した四代目坂田藤十郎を祖父とし、三代目中村扇雀を父とする。ちょっとだけ顔を出す豆腐買おむらとして、中村壱太郎が出ている。中村壱太郎は、同じく四代目坂田藤十郎を祖父とし、四代目中村鴈治郎を父とする。いずれも、私たちの世代が馴染んだ役者の子の世代で、当然ながらこの歌舞伎の世界も世代交代がすっかり進んでいることを痛感する。
 2時間にわたる長時間のどっしりした演目であった。
 次は「於染久松色読販(おそめひさまつ うきなの よみうり)」である。
 四世鶴屋南北がつくった歌舞伎狂言で、文化10年(1813)江戸森田座で初演された。 主演の役者がお染・久松・お光・竹川・小糸・お六・貞昌の七つの役を「早替わり」の技法を用いて一人で勤める演出で、通称「お染の七役」と云われてきた。 初演時は、歌舞伎史上最高の美形女方と云われた五世岩井半四郎がお染と久松、久松の許嫁お光、奥女中竹川、後家貞昌、土手のお六、子守お作の計七役を演じ、大当たりを記録したという。
 今回は、現代の若手女方を代表する中村壱太郎が、「お染の五役」としてお染、久松、久作娘お光、雷、土手のお六の五役を演じている。進行も変化も早い40分余りの舞台で、私は「雷」なる役がよくわからなかった。
それにしても、中村壱太郎の早変わりの演技は見事であった。大変なエネルギーを要すると思う。長い重厚な演目を見た後でもあり、こういう軽快でスピーディーな演目も、とても新鮮でよかった。

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歌川国芳展 中之島美術館(10)

「芸術の職人」歌川国芳と「芸術の学者」吉川静子)Photo_20250318150501
 歌川国芳は「武者絵の国芳」と称されて高名となり、役者絵、美人画、風景画と何でもこなしたが、中でも三枚続のパノラマ的な構図の武者絵や歴史画、ウィットに富んだ戯画は大衆の心をつかんだ。その基礎として、自由で大胆なアイデア、構図設計、緻密な描写に長けていた。大衆文化への抑圧を感じたときは体制批判も怠らず、親分肌の人柄から人望も厚く、落合芳幾、月岡芳年、河鍋暁斎ら多くの優秀な門人を集めた。堂々たる絵師の生涯であった。
 歌川国芳は、人々に受け入れられる絵、売れる絵を徹底して追及した、芸術の職人であった。今回の展覧会は、奇しくも「吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展」と同時並行で開催された。もちろん私は、自分の鑑賞能力のキャパシティーの問題もあって別々に日にちを変えて鑑賞したのだが、ともに人生を賭けた芸術の探求者であったが、典型的な芸術の職人たる歌川国芳と、芸術の学者たる吉川静子とを、並べて鑑賞する機会となった。
 計400点を超える国吉の展示作品の鑑賞は、なかなかしんどいものがあったが、十分に楽しみ、感動したひとときであった。

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歌川国芳展 中之島美術館(9)

奇想天外なユーモア ─ 戯画と動物の登場(5)Photo_20250317055201
 「吉野山合戦」嘉永4年(1851)が展示されている。とても縦に細長い特異な形態の作品である。高さを素直に表現するため、思い切り縦に伸ばしてみた、という感じである。
 長い絵のちょうど真ん中あたり、三層目の屋根のあたりに画面の視線があり、それから下は上を見上げる角度で、それから上は下を見下ろす角度で描いている。こうして周到に設計された、理屈にあった構図と表現が実現されているので、長いあるいは高い絵ながら、安定感と安心感がある。
塔の上にいるのは源義経の家臣たる佐藤忠信、それを地上から見上げるのは僧兵たる横川覚範である。睨み合う両者の視線が画面中央で火花を散らす。国芳はドラマティックな瞬間を、みごとに演出している。
 歌川国芳は、これまで錦絵が高い評価を得て、作品の収集においてもほとんどが錦絵で、肉筆画の発見・保管は進んでいない。とくに展覧会では、これまでほとんど肉筆画が展示されたことがなかったそうである。今回の展覧会では、数少ない肉筆画が20点余り特別展示されていた。
 Photo_20250317055301 そのひとつが「遊女道中図」弘化・嘉永期(1844–54)である。絹本着色の本格的な日本画作品である。ここではオーソドックスな美人画として花魁の艶やかな姿が描かれている。花魁は帯をほどき、右肩に掛けて前に垂らしている。
 嘉永6年(1853)浦賀にペリーの黒船が来航して世相が幕末に向けて慌ただしくなり、国芳は安政3年(1856)初めころから中風を患い、人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始めた。華々しい武者絵の世界を築いた国芳は、ひとつの時代の終焉に合わせるかのように文久元年(1861)に65歳の生涯を閉じた。

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歌川国芳展 中之島美術館(8)

奇想天外なユーモア ─ 戯画と動物の登場(4)
 「日本駄右ェ門猫之古事」弘化4年(1847)が展示されている。怪猫が現れる物語としては、古くは元文5年(1740)大坂竹本座で初演された文耕堂・千前軒・三好松洛ら合作の人形浄瑠璃「今川本領猫魔館(いまがわほんりようねこまたやかた)」があり,今川家のお家騒動に怪猫を配していた。歌舞伎では文政10年(1827)江戸河原崎座にて四世鶴屋南北作「独道中五十三駅(ひとりたびごじゆうさんつぎ)」が有名で、この絵はこれをテーマとしている。十二単衣を着た怪猫が,行灯の油をなめるシーンの絵である。怪猫の出現に驚く人間たちの前で、頬かむりして魚にかぶりついたり、はしゃいで踊りだす子猫がおもしろい。
 「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」弘化4年(1847)が展示されている。

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Photo_20250316060302  戯画のうち「寄せ絵」と呼ばれるもので、人間の目、鼻、口から眉毛、丁髷(ちょんまげ)にいたるまで、そしておそらくは着物の中の身体つきについても、さまざまな姿態の人間を組み合わせて表現するというユニークな趣向に富んだ作品である。丁髷の部分は黒珊瑚を持った黒人なのだろうか。全部で何人いるのだろうか。
 「大ぜいの人がよってたかってとうといゝ人をこしらへた とかく人のことは人にしてもらはねばいゝ人にはならぬ」と教訓めいた文章が添えられている。
 イタリアの画家 ジュゼッペ・アルチンボルドが植物や果物などを使い、同じ手法で人体を表現する試みをしていることが知られているが、両者の関係性については定かでない。また着物の文様から鎌倉時代の武将 朝比奈義秀との関係性も取り沙汰されている。

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歌川国芳展 中之島美術館(7)

奇想天外なユーモア ─ 戯画と動物の登場(3)
Photo_20250315055301 「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」弘化2年(1845)が展示されている。
 大判錦絵で、十人の任侠を描いたシリーズの一枚である。野晒悟助(のざらしのごすけ)とは、1か月のうち前半は僧侶のように穏やかに静かに過ごし、後半は強きを挫き弱きを助けた任侠という人物で、いつも野晒模様の着物を身につけていたとされる。この絵では、刀に手を掛け、睨みを利かせた凛々しい姿は、今にも動き出しそうな力強い躍動感に満ちている。「野晒」とは野辺にさらされた人の頭蓋骨のことである。着物の柄は髑髏(どくろ)模様だが、よく見ると猫が集まった寄せ絵となっている。また鼻緒の切れた下駄も、髑髏模様に見える。Photo_20250315055401
 女郎が描けなかったときもあり、町の若い女性を描いた団扇絵「鏡面シリーズ 猫と遊ぶ娘」弘化2年(1845)が展示されている。
 美人が大好きな猫を抱き上げて、鏡に向かってあやしている。猫は、鏡に映る自分の姿と主人たる女性の顔を見つめている。猫は、主人の愛情は十分理解しつつも、手まで掴まれて思うように動けないのか、迷惑そうな顔つきである。猫の表情と心理まで表現する、猫好きの国芳の本領発揮と言えよう。このような団扇絵も、国芳の得意分野であった。

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歌川国芳展 中之島美術館(6)

奇想天外なユーモア ─ 戯画と動物の登場(2)
 弘化元年(1844)国芳は葛飾北斎門人の大塚道菴の紹介により、北斎と面会する機会を得た。

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 弘化3年(1846年)の大判3枚続の錦絵『里すずめねぐらの仮宿』がある。遊郭の絵をそのまま描くことができないので、雀を擬人化して遊郭の賑わいを表現している。しかしこの絵は、雀の衣服の紋に名主印が捺されたことで問題となったという。

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 やがて弘化初年に入って、元凶であった老中水野忠邦が失脚して、天保の改革はフェードアウトしていった。
 国芳は「待ってました」とばかりに弘化から嘉永期には奇想漲る武者絵三枚続を次々に描いて、江戸の人々の度肝を抜く新機軸の作品を世に送り出した。
 「宮本武蔵と巨鯨」嘉永元年(1848)は、浮世絵3枚分に描かれた大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りないとし、桁違いの大きさの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝えている。国芳を称える声が満ち溢れることになった。

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歌川国芳展 中之島美術館(5)

奇想天外なユーモア ─ 戯画と動物の登場(1)Photo_20250313055401
 江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げ、大喜びした。しかし幕府は、そんな国芳を要注意人物として徹底的にマークするようになった。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら幕府を風刺する国芳に、江戸の人々は喝采を浴びせた。ついに国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達したのであった。
 さはさりながら、絵を生業とする国芳は、幕府に抵抗するだけというわけにも行かず、天保の改革以後、美人画では遊女が描けないために市井の女たちを、遊郭そのものは描けないので猫や雀などの動物の擬人化で、などと国芳独特の工夫を凝らした絵が相次いで登場するようになった。
Photo_20250313055402  「流行猫の変化」天保12-13年(1841-42)という福笑いのような遊び絵がある。
 擬人化した猫が、流行を追ってさまざまな髪型、髪かむり、笠などを選ぶという趣向で、当時の世相を反映して皮肉ったり煽ったりしている。
国芳は、動物の中でもとりわけ猫を好み、仕事部屋にはたくさんの猫を飼い、遊ばせていたこともあったと伝えられている。
 猫のみならず金魚も現れた。「きん魚づくし ぼんぼん」天保13年(1842)がある。金魚の胸鰭を腕と手に、尾鰭を脚にそれぞれ見事に見立てて、とても愛らしく微笑ましいシーンを構成している。国芳の空想力、創造力、表現力の素晴らしさが見事に発揮されている作品と言える。

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歌川国芳展 中之島美術館(4)

天保の改革
 天保12年(1841年)国芳のもとに、歌川芳宗が入門した。国芳は版画家・画家として独り立ちしたのであった。
 ところが天保13年(1842)国芳45歳のとき、運命は一変した。老中・水野忠邦による天保の改革である。質素倹約、風紀粛清の号令のもと、天保13年(1842)には国芳や国貞らの版画・挿絵も人情本、艶本の取締りによって絶版処分となった。浮世絵も役者絵や美人画が禁止になり、大打撃を受けることとなった。
 江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子気質の国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけるようになった。

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 「源頼光公館土蜘作妖怪図」天保14年(1843)は、平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治に仮託しつつも、本意は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられている頼光にことよせて実は、それこそが将軍徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっていることへの批判を込めている。主君の危機に公然とソッポ向く卜部季武こそは、天保改革の中心人物である老中水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱は真田幸貫、坂田金時は堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光は土井利位、土蜘蛛は筒井政憲、矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小者類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には「歯なし」つまり噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに悪政に対する風刺が組込められているのである。

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歌川国芳展 中之島美術館(3)

西洋絵画への深い関心
Photo_20250311062401  国芳はこのころ、武者絵だけでなく『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)、美人画や役者絵、狂画(戯画)など多彩で多数の力作を残している。
 そのひとつで興味深いのが「忠臣蔵十一段目夜討之図」天保2-3年(1831-32)である。夜の闇にまぎれて吉良邸に討ち入る赤穂浪士を描いている。ほとんどモノクロームで描かれた吉良邸と浪士たち、その背景の淡い控えめな色彩が施された木々や空の描写が、討ち入りという物騒な事件にそぐわないまでの静けさで美しい。各所に遠近法と陰影が施された西洋の風景画のような描写が、通常の武者絵とは雰囲気を大きく異にしていて、奇妙な違和感とともに、観る者に強烈な印象を与える。美術研究家により、この絵は、ニューホフ著『東西海陸紀行』の第7章に掲載されている銅版画挿絵を国芳が見て、それをもとに描いたものと推定されている。Photo_20250311062402
 「近江の国の勇婦於兼」天保2-3年(1831-32)が展示されている。
 これは、当時近江で有名であった怪力で勇猛な美形の遊女の伝説で、荒馬の手綱を下駄で踏み止めて鎮めたというエピソードを描いたものである。画面左側の女性は伝統的な美人画の技法で描いているが、対峙する馬はまるで西洋画のようなリアルな立体感が、丁寧な陰影によって表現されている。
 実は武者絵で大成功を収めた国芳は、一方で西洋絵画に強い関心を持ち続けていた。国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。国芳は「西洋画は真の画なり。余は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。その研究の成果が「近江の国の勇婦於兼」に、そして「忠臣蔵十一段目夜討之図」に顕れていたのである。

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 「本朝名橋之内 江都日本橋略図」天保7-9年(1836-38)が展示されている。
 これは、現実にはあり得ないないほどの人だかりを橋の上に描き込んで、江戸の庶民社会の賑やかさと交通の隆盛を明るく表現している。漫画のようだが、描写は丁寧である。

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歌川国芳展 中之島美術館(2)

「武者絵の国芳」の時代
Photo_20250310054901  師匠豊国の没後、文政11年(1828)ころに発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズや、天保元年(1830)ころの『本朝水滸伝豪傑八百人』など『水滸伝』のシリーズで、ようやく好評を得た。そのひとつ「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 浪裡白跳張順」が展示されている。
 こうして「武者絵の国芳」と称されるようになり、ようやく人気絵師の仲間入りを果たした。
 武者絵のなかには、勇ましい子供の武者絵もある。「坂田怪童丸」天保7年(1836)が展示されている。Photo_20250310054902
 怪童丸とは、坂田の金時、すなわち金太郎のことである。「怪童丸は父なく足柄山の老婆夢中に赤龍通ると見て孕みし子なりとぞ 猛勇無双 頼光に随ひ坂田公時と名のり四天王のその一人 雷名四方に震武功数度におよび、後にあしがら山に隠棲す」と画中に記されている。この文は『前太平記』にある坂田金時の伝である。江戸時代には正徳2年(1712)近松門左衛門の浄瑠璃「嫗山姥(おうなやまんば、こもちやまんば)」のなかで怪童丸とされ、以後この怪童丸と呼ばれることが多いという。この絵では、巨大な魚と格闘しているが、幼いとはいえ驚くほど筋骨隆々で逞しく表現されている。
 国芳は、天保元年(1830)ころには、武者絵だけでなく、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画などを、近代的な写実眼によって制作するようになった。

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歌川国芳展 中之島美術館(1)

 大阪中之島美術館で「歌川国芳展」が開催された。
 私はこれまでになんどか歌川国芳の絵は観てきたが、国芳の個展は15年ほど前に一度きり、そのあとは江戸時代の絵画・版画展の一部として観た。歌川国芳は、じっくり見つめてみるとなかなか魅力があることはすでに知っていた。あらためて歌川国芳個人に絞ってじっくり鑑賞できるということで、期待して冬の快晴の半日を、美術館で過ごしたのであった。

歌川国芳の誕生と初期の活動
 歌川国芳は、寛政9年(1798)江戸日本橋(現在の東京都中央区日本橋)に生まれた。父は染物屋を営む商人であった。版画・風景画で世界的に 有名な歌川広重とは同い年で、同時代に活躍した。Photo_20250309060901
 国芳は幼少期から絵を描くことが好きで、10歳になる前から北尾重政や北尾政美などの絵を模写し、12歳のとき描いた「鍾馗提剣図」が初代歌川豊国の目に留まり、15歳のときに入門したという。豊国は華麗な役者絵で大人気の花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞がいた。国芳の名は入門後間もない文化10年(1813)ころ、戯作者・浮世絵師の相撲見立番付で前頭27枚目にすでに挙げられていた。文化11年(1814)ころに出た合巻読み本『御無事忠臣蔵』の表紙と挿絵が初作とされている。
 このころの初期の作品として「春けしき王子詣」文化12年(1815)がある。細かいところまで丁寧に描かれているが、ここではまだ国芳の個性までは現れていないようだ。
 このころから、役者絵はすでに描いていたようだ。「三代目中村歌右衛門の鬼一、三代目尾上梅幸の牛若」文化12年(1815)などが展示されている。
 国芳は学資が乏しかったので、すでに歌川派を代表していた兄弟子たる歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨いていた。役者絵や挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず、作品も多くない。また勝川春亭にも学び、さらにすでに高名となっていた葛飾北斎の影響も受けたという。文政初年には「源頼光と四天王に襲いかかる土蜘蛛」などを描いたが、師たる豊国や兄弟子国貞の人気には勝てず、しばらくは不遇が続いた。
 この絵でも、国芳の特徴たる不自然なまでに巨大な動物、妖怪、人物の肉体の表現、内容豊富で技巧を凝らした緻密な描写、そして力強い筆致、などがすでに認められる。

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J.D. Vance ”Hillbilly Elegy”

貧困を救い得るのは身近な人間たる家族・コミュニティとアイデンティティーである
 今年は年初から、アメリカでトランプ氏が大統領に復帰して大きな話題となっているが、トランプ政権の副大統領に就任したJ.D. Vanceが、10年ほど前、まだ政治にまったく従事していなかったころに自伝を出版していて、アメリカでベストセラーとなっていることを知り、読んでみることにした。

1.J.D. Vanceの生い立ちと親族
 J.D. Vance(ジェームズ・デイヴィッド・ヴァンス)は、1984年アメリカ合衆国オハイオ州の、シンシナティとデイトンの間にある小さな町Middletownに誕生した。母は十代に妊娠して姉を生み、ジェームズの幼少期に離婚し、その後次々に何人もの男と一緒に暮らしては別れる不安定な生活であった。母は彼女なりに息子を愛したが、重度の薬物中毒に蝕まれて感情が不安定で、昼夜構わず大声で喚くことはしばしばであった。母との生活は安定せず、落ち着いた日常生活ができなかった。それでも幼いながらもジェームズは、次々に入れ替わる母の男たちと、できるだけ良い関係をつくろうと試みた。まだ少年のころ、憤って興奮した母に、突然無理やり車に乗せられ無理心中させられそうになった事件は、ジェームズの心に苦い思い出としてずっと残り、母との関係に暗い影を落とした。Hillbilly-elegy
 ジェームズにとって、真に親らしい存在は、母の両親つまり母方の祖父母であった。
 祖母は、12歳のとき侮辱しようとした男に対して銃殺を試み、すんでのところを止められた。信仰が深く思慮もあり、ジェームズに慈愛を惜しまなかったが、激しい性格の人であった。
 祖父は、十代で妊娠した祖母をともなってケンタッキー州の小さな町Jacksonから、当時重工業地帯として繁栄していたオハイオ州Middletownに出てきたのであった。大企業たる製鉄会社アームコArmcoに勤務して、堅実な生活を獲得した。しかしやがてMiddletownは、大企業が相次いで撤退して「ラストベルト」と呼ばれる寂れた町に変貌していった。
 祖父母が生まれたケンタッキー州Jacksonは、アパラチア山脈南西部のちいさな町で、Hillbilly(山の田舎者)と呼ばれるScots-Irishの移民の子孫が多数集まっている地域である。全般に教育水準は低く、頑固で荒々しい白人貧民層とみなされている。祖父も、実直でよく働いたが、アルコール中毒で祖母との喧嘩が絶えず、その荒れた生活が娘たるジェームズの母にも影響したと祖父母は考え、責任を感じていた。
 祖父母は、孫のジェームズに惜しみなく深い愛情を注ぎ、さまざまな面から彼を助けたり導いたりしたことが、いくつも具体的に記述されている。ジェームズは、祖父母のいたケンタッキー州Jacksonこそが、自分の心の故郷だと言う。
 喧騒と不安の絶えない少年期を経て、ジェームズは地元のMiddletown Highschoolに進んだ。落ち着いて勉学に励む環境にはなく、遅刻や欠席も多く、落第に近い成績となるなど、なんども学生生活中断の危機があったが、なんとか乗り越えた。このころ、祖父母のアドバイスにより地元のスーパーマーケットでレジのアルバイトをした。そこで、貧しい人たちは生鮮食料品より加工済みの惣菜を買い、また赤ん坊には粉ミルクを買うが、それに対して金銭的に余裕のある人たちは自炊するので生鮮食料品を買い、また母乳で育てるらしく粉ミルクを買わない、という著しい違いがあることを観察した。貧しい人たちは、たいていフードスタンプ(貧困層のための政府の食糧支援制度)で商品を買うが、ジャンクフードの消費が目立って多いことも知った。これら白人貧困層の人たちと貧困層でない人たちとの間に、生活、習慣、感覚の大きな違いをはっきり知り、考え込むようになった。
 高校を卒業して大学に進学したいと思ったが、学費も生活費も生活環境も到底それが許されるような状況にはなかった。祖父も従軍経験があり、自分も愛国心があったので、とくに希望が強かったわけではなかったが海兵隊に入隊することにした。
 ジェームズは、海兵隊での4年間に、厳しい訓練とイラクへの戦場派遣を経験した。
 イラク従軍中に戦場で、引っ込み思案のイラク人の男の子にふと遭遇した。2セントの消しゴムをわたしてやると、男の子はそれを「意気揚々と掲げながら、家族のもとへ走っていった」。ジェームズは「私はそれまでずっと、世の中に対して恨みを抱いていた。しかしその男の子と遭遇して、自分がどれだけ幸運なのかを実感した。誰かが消しゴムをくれたら、にっこり笑う、そんな人間になろうとこの瞬間に誓った」と述懐している。
彼は4年間の海兵隊での経験で、体力の向上と健康維持に必要なことをしっかり学ぶとともに、みずから努力して目標を達成したことで自信を獲得した。かろうじて金銭的目処も得て、オハイオ州立大学に進学することができた。彼の親族の中では、はじめての大学進学者となった。
 また、在学中にアルバイトとして共和党上院議員Bob Schulerのもとで働く機会があった。ジェームズは政治家としてのBob Schulerを信頼・尊敬し、それまでの政治家と政治に対する見方が、がらりと変わったと述懐している。この本を書いた時点では、ジェームズはまだ政治に直接関係する仕事には就いていなかったようなので、この経験が後の上院議員、副大統領というキャリアに直接つながったのではないようだが、結果的には遠因だったのかも知れない。
 海兵隊の経験を経てかなりの自信を持つようになったジェームズは、優等生の評価を得て飛び級でオハイオ州立大学を卒業した。
 そして全米で最高峰のイエール大学ロースクールに入学を認められた。学費はとても高額であったが、ここにはきわめて行き届いた奨学金制度があって、その点では問題なく学ぶチャンスを得た。しかしジェームズは、イエールではこれまで経験しなかった大きなストレスを経験した。イエールで学ぶ学生は、学力が最高レベルであるのみならず、出自の環境がジェームズとはまったく違うのである。ジェームズは、おそらく経済的最下層からのほとんど唯一の学生であった。学問を学ぶという面ではついて行けても、生活習慣、価値観などで大きな違和感を持ちながらの学生生活であつた。
 しかし、良い先生たちとのめぐり逢いがあった。彼にこの自伝を書くことを推奨してくれた指導教官エイミー・チュア教授がそのひとりである。また、後に妻となる素晴らしい恋人、同級生だったウシャ・チルクリUsha Bala Chilukuriとの運命的な出会いがあった。こうして結果的には大成功の学生生活を送ることができた。
 かなり壮絶な半生であったが、ともかく成功といえる結果を得たのだ。この本を書いた時点は、まだ上院議員になる以前であったので、主要なことは以上である。

2.Hillbillyと白人貧困層
 J.D. Vanceの出自はHillbillyである。Hillbillyは、17世紀以降19世紀までにわたって、アイルランド北東部のUlster地方からアメリカに移民してきたScots-Irish(スコッチ・アイリッシュ)と呼ばれる人たちである。そのうち、アパラチア山脈南西部のケンタッキー州近辺にかなりの人たちが集住して、それがHillbillyと呼ばれるようになったのである。
 Hillbillyは、彼らの伝統的特徴を自覚し、誇りをもってそれを維持している。キリスト教の敬虔な信者であり、政治的には保守的で、家族を愛し、コミュニティを尊重し、世界でもっとも強力なアメリカの国民であることに誇りを持ち、愛国心が強い。ハードワークに耐え、頑固に努力する。
 しかしその反面で、大部分の人たちが高度な教育を受けておらず、貧困であり、離婚が異常なまでに多い。
 ハードワークの尊重をエトスとすると唱えつつ、現実には実行できないこともあり、アルコール依存あるいは薬物依存が蔓延しているという現実がある。J.D. Vanceの認識としては、アメリカに住んでいる黒人、ヒスパニックなどのいわゆる被差別層を上回るほどに、貧困層の比率が高い。それにもかかわらず、自分がHillbillyであるとのアイデンティティーの意識は強く、そのプライドはとても高い。
 アメリカには黒人などの非差別階層などに限らず、根強くこのような貧困層が存在する。それに対して、広範囲にわたるフードスタンプなどの政府による大規模の支援制度が存在しているが、そのような経済的措置は、大きな恩恵を与える半面で、Welfare Queenウエルフェア・クイーンなどとも呼ばれる「福祉依存」に陥って自立への意欲を喪失してしまう慢性的貧困層も現実に多数存在している。救済のための制度が、実は貧困層を定着させてしまう現実があるのだ。
 J.D. Vanceは、結局ヒトを救うことはヒトにしかできない、と断言する。彼自身の場合は、祖父母こそがかけがえのない救済者であった。彼が経済的なことも含めあらゆる困難に遭遇したとき、祖父母がさまざまな形で彼を救済してくれた、とジェームズはなんども述べている。
 救済する主体が存在できるのは、家族(ここでは血縁者・親族・同居者などを含む広義の家族をいう)、共同体などの濃密な人間関係の存在と機能の結果である。それを支えるものとして、宗教も慣習も重要な貢献をする。これらはアイデンティティーに支えられているので、けっしてアメリカ人一般に及ぶようなものではない。J.D. Vanceの場合は、Hillbillyであり、それはHillbillyの外の人びとには無縁である。それでもHillbillyの人びとにとっては、Hillbillyのアイデンティティーこそが、なにものにも代えがたく重要だとするのである。

3.私の感想とコメント
 この本はJ.D. Vanceの自伝なので、当然さまざまな事象が綿々と綴られていて、その内容は多岐にわたる。そのなかで私が注目したのは、J.D. Vanceが貧困で崩壊した家庭環境の当事者として成長したこと、そこから彼がいかにして脱し得たのか、そしてその彼が社会や政治をどのようにとらえているのか、である。
 アメリカの貧困層の存在については、ルポルタージュでは堤美果『貧困大国アメリカ』のシリーズがあり、堤は権力を掌握する少数の政府・大企業・マスコミが結託して多数の民衆から収奪し、多数の貧困を発生していると糾弾している。この堤の論考に対しては、アメリカ国内でも日本でも、取材と考察に偏向があるとの指摘もあるが、アメリカ国内にかなりの数の貧困層が存在することは事実らしい。そういえば、貧困層の実像の一端を表わすものとして、クリントイーストウッドの映画『ミリオンダラー・ベイビー』があった。政府のフードスタンプに依存して自立する意欲を失い貧困から抜け出せない人たちが、主人公の家族として描かれていた。
 経済学者の視点からは、半世紀前にJohn Kenneth Galbraith, ”The Nature of Mass Poverty”が、ガルブレイス自身のインド・アフリカ諸国での勤務経験から、貧困脱却の困難さの要因として、貧困者が生き延びるために貧困に順応してしまうことを指摘していた。ノーベル賞を受賞したAmartya Sen(アマルティア・セン)は、『貧困の克服 ―アジア発展の鍵は何か』で、貧困問題の解決のために、教育、医療、民主主義と人間の安全保障(Human Security)、弱者の救済、潜在能力(capability)の尊重と育成、市民的自由(権力からの自由)、寛容、などの要因が重要であると述べる。
 これらはそれぞれ視点と考察が異なるものの、いずれも外部からの観察にもとづくものであり、客観的・普遍的真理を求めようとするものであり、結果として抽象的で、解決への有効な具体的アクションに乏しい。ただ、貧困はカネの不足が露呈しているものの、貧困問題はカネだけで解決できないことは縷々議論されている。
対してこのJ.D. Vanceの著作は、貧困の当事者による論考である点で、希少かつ貴重なものであり、非常に具体的な内容を持つ指摘および提案となっている。
 J.D. Vanceは、政府や諸団体など外部からの貧困者への支援は、もちろん重要ではあるものの、決定的なものとは決してならない、と断言する。貧困な人間を救済できるのは結局人間しかなく、そのためには家族・コミュニティ(共同体)の人間関係に基づく愛情を基礎とする対応が必須で、それを支えるものが宗教であり、郷土愛であり、愛国心であり、その自覚がアイデンティティーとなる。それは、普遍的に誰でもが共有できる価値観に一致するとは限らない。
 J.D. Vanceが言う通り、これらは当事者の属する生活の「文化」と言える。それはデイヴィッド・ランデス『強国論』(David.S.Landes, "The Wealth and Poverty of Nations")に述べられていた「経済的成功のための文化の重要性」に通ずるものである。
 こうした「文化」を育成し維持するために、J.D. Vanceはいわゆる「保守」主義者となった。そういう観点からは、現在のとくにわが国の「そんなのは古い」「今はそんな時代ではない」「多様性がなにより大事だ」「西欧に比べてあまりに遅れている」「国連から改革を求められている」などの安易で軽薄な進歩派的なあるいはアンチ保守的な言葉の蔓延や風潮は、要注意である。一部のマスコミが煽る「保守=守旧的・頑迷」「保守=右翼」「保守=好戦的」などという馬鹿げた風潮に惑わされることなく、私たちの生活文化を冷静にみつめて、そのよりよい維持と育成に努め続けなければならない、と私は思う。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(13)

鑑賞を振り返って
 この度の鑑賞は、私には難解であった。最初ひととおり観てまわったとき、どれも同じような十字形がいろいろに描かれているだけで、いったい何が伝えたいのだろう、と理解できなかった。しかし幸い今回は、その後でこの展覧会を企画・構成した主任学芸員の方がギャラリートークをしていただき、分かり易い丁寧な解説を得て、ようやく私なりにかなりの範囲を理解できたように思う。
 かつて環境や外部の「美しいもの」から感動を得て、それを写生して表現するのが近代以前の美術であったのが、近現代では写真技術の出現によって、対象を再現することだけでは美術が成立しないこととなった。その対策としてさまざまなアプローチが行われたが、「コンクリート芸術」では、何を表現するかのひとつ前段階たる、なぜ作品が鑑賞者になにかを伝えることができるのかを課題とし、その原理やメカニズムの解明を探求したようだ。文学で対比すれば、小説・演劇などにおいて、どのようにその内容が読者や鑑賞者に伝わるのかのメカニズムを探求する、言語学・心理学のポジションと言えよう。感覚的・感情的ではなく、理知的・論理的なプロセスをとりあげたものといえる。
 そういう視点から見ると、吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマンとは、同じ問題意識とアプローチをしていたことがよくわかる。
 ただし、私はこの二人の芸術家に決定的な相違点があると思う。ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンは、顧客、すなわちクライアントとポスターを見る者を、すなわち自分以外の外部の反応を主軸に創作する芸術の職人であったのに対して、吉川静子は、自分以外の外部の存在を優先することなく、あくまで自分の美への探求に傾注した芸術の研究者・学者であった。そのように互いに共感して協調するのでなく、相違して補完的であったことが、二人の関係を持続的で相互刺激的でより創造的にしたのではないだろうか。
 吉川静子の芸術に対する思想とアプローチがわかるようになって、最初は多様なパターンの繰り返しに見えていたものが、たしかに考え抜かれた変遷を遂げていたこともある程度納得できた。率直に絵を観て感動したとはならなかったが、アーティストの制作に対する思考過程のひとつを理解できたという意味で、最終的には充実した鑑賞であった。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(12)

10.ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンのグラフィック・デザイン(下)
4_20250306054901  1955年制作した「第4回特別コンサート ベートーベン」は、世界的に高い評価を獲得し、現在に至るまで彼の代表作とされている。この構図の設計は、かなり厳密な計算に基づくもので、その下絵やスケッチが残っており、参考資料として展示されている。これらの設計の手続きや方法は、「グリッドシステム」として体系化されていく。
 1956年には、アメリカ・コロラド州での国際デザイン会議で講義を行った。ここでヨゼフは、ポスターに用いる活字体として「スイス・スタイル」をプロモーションし、以後のグラフィック・デザイン業界に大きな影響を与えた。スイス・スタイルとは、国際タイポグラフィー様式として、チューリヒ美術工芸学校のテオ・バルマー (Théo Ballmer)、マックス・ビル (Max Bill) などが、Akzidenz-Grotesk(アクチデンツ・グロテスク)と呼ばれる字体に改良を加えて考案した、ポスターなどに適した明瞭な活字体であって、以後世界に普及していったものである。
 ひとつの例として、「第4回特別コンサート ベートーベン」でもみられるように、文字をすべて小文字に統一し、丸みをおびた字体としている。音楽の軽やかで優しい雰囲気により整合する、という主張でもある。名詞のすべてが大文字ではじまるドイツ語では、これは非常に大胆で画期的な改革であった。
 1957年には、チューリヒ美術工芸学校のグラフィック・デザインの教授となったが、まもなく時代遅れのカリキュラムに反対して学校を去ってしまった。
 1960年、東京で開催された世界デザイン会議に登壇者として来日したが、このときが吉川静子との初対面であった。
7_20250306055001  1964年、不慮の事故で妻フェレ―ラが亡くなった。
 1967年、IBMヨーロッパのデザイン・コンサルタントに就任し、吉川静子と結婚した。1971年には、吉川静子との共著で『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』を刊行した。
 1974年、ラッパースヴィールの工科大学に「黄金分割による7つの部分をもつ柱」とタイトルされた彫刻を完成した。ヨゼフはほとんど彫刻作品を残しておらず、これは希少な彫刻作品とされる。この作品の縮小スケールのものが大阪芸術大学にあり、今回の展覧会で展示されていた。
 1975年、大阪音楽センター・モーツアルトサロンにおいて「ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンと吉川静子展」が開催された。
 1981年、ヨゼフがかねてより探求・主張していた理論書『グラフィック・デザインにおけるグリッドシステム』が刊行された。グリッドシステムとは、グラフィック・デザインの対象たる画面において、まず分割して、戦略的に描き込む要素を数学的考察に基づいて配置する、という理知的で戦略的な画面構成メソッドである。
 以後、世界の多数の権威ある褒章を受賞した後、1996年8月チューリヒで、80歳で亡くなった。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(11)

10.ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンのグラフィック・デザイン(上)
 Photo_20250305060501ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンは、1914年5月スイスのチューリヒ湖畔の小さな町ラッパースヴィールに生まれた。わずか1歳のとき父が亡くなり、8人の子どもたちを母がひとりで支えることとなり、生活は貧しかった。16歳で中学校を終えると、すぐにチューリヒのグラフィック・デザイナーの見習いとして働き始めた。20歳前に見習い仕事を辞めて、チューリヒ美術工芸学校に潜り込み、非公式に学んだという。20歳を過ぎて、自力でフリーのグラフィック・デザイナーとして独立した。
 1937年に制作した初期のポスター作品「ラッパースヴィール」が展示されている。故郷のラッパースヴィールは、薔薇の街として有名な観光地であった。6_20250305060601
 しかし1939年から6年間、ヨゼフは第二次世界大戦に従軍を余儀なくされた。
1943年ヴァイオリニストのフェレーナ・ブロックマンと結婚し、以来ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンと改名した。
 当初は、舞台芸術の一部を担当したり、イラストレーションをやったり、時には演劇で使用する小物や人形を制作したりもした。そのころの写真や記事が参考展示されている。
Photo_20250305060701  1950年ころになって、徐々にグラフィック・デザイナーの仕事に専念するようになっていった。「チューリッヒ管弦楽団 6月の祝祭週間コンサート」(1951)のポスターが展示されている。ヨゼフは、音楽コンサートのポスターに、楽器や音符を描くのでなく、音楽を連想させる抽象的でリズミカルな図形を導入している。
 やがて劇場の仕事を辞めて客観的で構成的なデザインに専念するようになっていく。事務所も拡張した。
 1953年制作した「スイス自動車クラブ 子供を守れ!」で初めて大きな賞を受賞し、グラフィック・デザイナーとしての地位を確立することができた。これはポスターに写真を導入するという、当時としては画期的な独創性が高く評価されたのであった。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(10)

9.晩年の作品:鼓動
16_20250304061101  2008年以降、吉川の制作は「脈」シリーズと「生命の脈動」シリーズで、それまでの色の棒から成る十字形から離れ、色鮮やかな円や正方形をカンヴァスにリズミカルに撒き散らすような作品へと変化した。
「生命の脈動 16」(2011-12)がある。
 これらのエネルギーあふれる印象を与える様式は、最初は小さな正方形のカンヴァスで、のちにはより大きな長方形のカンヴァスで描かれるようになり、新たなダイナミックな動きの感覚を生み出した。
 体系性は維持されているが、その構成要素はいささか硬直していたかのような幾何学的フォルムを超えて動き出し、生命が脈動しているかのような表現を達成した。Photo_20250304061101
 吉川の制作活動は締めくくりに近づいた。傾いた正方形と時計回りに縮小して収斂していく円で構成される構図で表現した「自分の中心に目を向ける」(2016-17)において究極に到達した。この最後の作品は、吉川が人生をかけて追及してきたテーマである、フォルムが互いに補い合ってバランスを達成する様子を、思い通りにとらえているとされる。
 吉川は2017年、フォルムと色の調和と完全性という自らの芸術目標を達成したとして、絵画制作から引退したのであった。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(9)

8.マイ・シルクロード
54_20250303060601  吉川の制作活動は、1998年から10年ほど「マイ・シルクロード」シリーズが中心となった。それまでの作品とローマでの滞在経験からインスピレーションを得て、東と西を結ぶ古代の国際的交易路たるシルクロードを象徴的に描くものである。イメージとしては、吉川自身がシルクロードを経て日本に帰る旅を考えていた。
 最初は縦長のフォーマットで、やがて大きな風景画のようになり、層を成す鮮やかな色彩は、この時期に吉川が訪れた中東、中国、モンゴルなどの印象を想起させる。明るい黄色の背景にトルコ石の鮮やかな色彩が現れたりする。

Blue

 ダークブルーの背景の上に、赤や黄の星の光あるいは船舶の光を思わせる十字形がちりばめられているのは、あきらかに海面をイメージしたものだろう。吉川の父が無線従事者として、世界中の海を商船で行き来したことの思い出、そして吉川自身がヨーロッパに旅出ったとき、日本からベネチアまで海上航路で行き、そこから陸路でドイツに入ったときの思い出などを反映したものと推測される。
 海路をもシルクロードに含めて、移動する感覚と、時空を旅する体験を捉えたものなのだろう。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(8)

7.ローマにて
Photo_20250302054101  吉川62歳の1996年、20歳年長の夫ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが他界した。これは吉川静子にとって、とても大きなショックであった。吉川は、夫の死を悼む一方で、これからの創作活動の新たな可能性を探ることとなった。
気持ちを切り替えるためにも、吉川は旅が必要であった。こうしてローマに赴いた吉川は、芸術において重要な転機を迎えた。
 イスティトゥート・スヴィッツェロ・ディ・ローマで過ごした1997年から1999年にかけて、吉川はパステル色のチョークを使って、ローマの豊かで暖かい太陽を描いた。それまで実物の形や景観を避けて、ひたすら頭脳から引き出す形象だけを描いてきたコンクリート芸術家であった吉川には、はじめてのことであった。Z646
 非具象的なスタイルからはじめて離れて具象的な表現を用いた絵は、粗く塗りつぶされたり、淡い雲のように描かれたりした独特の風合いをもつ背景が描かれ、吉川の作品に新たな深みを与えることとなった。
 こころを奮い立たせるかのように、これらの絵は、地中海という明るい環境の影響を反映している。

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吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン展(7)

6.ふたつのエネルギー
 No20a 吉川静子は、1990年代のはじめに「ふたつのエネルギー」や「空白からのエネルギー」を含むいくつかの作品シリーズを制作した。正方形のカンヴァスに回帰した吉川は、外へ向かうエネルギーと、中心へ集まってくるエネルギーという概念を探求した。
 これらさまざまな大きさのコンクリート芸術的な抽象絵画は、吉川のそれまでの作品をベースにしながらも、新しいアプローチを加えていた。吉川は、テンペラとアクリル絵具を使用し、対立するふたつの力が、一方が他方に対して優勢となる前にバランスを保っている緊張状態をとらえている。Photo_20250301060301
 作品の構図から、宇宙の調和を象徴する仏教の曼荼羅を連想する人もいるかも知れないが、吉川自身はそれに言及はしていない。
 吉川の関心は、自身の芸術における微妙なバランスの達成にあった。これらの作品を通して、今にもバランスが崩れそうな繊細な瞬間を表現している。

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