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2025年4月

Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(8)

3.縫うこと
 織物、刺繍、パッチワークなどの針と糸による表現は、歴史的にはコミュニケーション伝達の創造的媒体としても機能してきたはずである。しかし男性を中心に構築されてきた美術史や美術の活動領域において、「縫うこと」は、女性の家庭内労働や趣味として周縁的活動とみなされてきた。たとえば男女の差別なく入学できたドイツのバウハウスにおいてさえ、女性は織物工房で学ぶ以外の道がなかった。
 1970年代になって女性解放運動(ウーマンリヴ)を源として発生したフェミニズム運動は、アートの世界にも新しい風を導き、家父長的かつ格差的な社会に対する抵抗の表現として、針と糸を用いた創造が改めて注目されるようになった。

草間彌生Photo_20250430055101
 草間彌生の早い時期の作品として「銀色の希死」(1976)が展示されている。
 身の回りにあったシーツなどの布をミシンで縫い合わせ、中に綿を詰めた突起状のオブジェをたくさん作り、日用品を覆うソフトスカルプチャー(織物、布、フォームラバーなどのやわらかい材料で構成した彫刻)とした作品である。木や金属とは異なる柔らかな質感や可塑性は、それまでの彫刻の概念を大きく拡大するものとなった。現代美術の領域に「縫う」という行為が初めて導入されたことも特筆に値する。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(7)

2.絡み合う素材と関係
工藤哲巳
 工藤哲巳(くどう てつみ)は、昭和10年(1935) 青森県五所川原市出身の画家工藤正義の長男として、大阪に生まれた。父正義は東京美術学校を卒業後、大阪の堺中学校で美術教師を勤め、母淑子も兵庫県加古川女学校でやはり美術の教師をしていた。やがて戦争の激化とともに一家で青森に戻り、正義は青森師範学校で教えた。そうした環境下で哲巳は、幼少時から絵を描きはじめた。Photo_20250429055601
 終戦後、父正義が亡くなると、五所川原市から弘前市に転居した。中学三年の時、母の郷里岡山市に移り、新制の東京藝術大学に入学した。専門課程では林武の教室に籍を置いたが、反発して授業には出ず、自らの制作の方向を模索しながら、物理学関係の本や、科学雑誌の鉱物の結晶、細胞の電子顕微鏡写真のカラー図版などをながめて、大きく影響を受けたという。
 大学で教える美術から離反した工藤の初期作品は、点の集合である平面であったが、白や黄色のビニール紐を結び合わせてタワシに絡ませた立体作品へと展開し、昭和35年(1960)第12回読売アンデパンダン展に出品した「増殖性連鎖反応(B)」は、美術評論家東野芳明により「ガラクタの反芸術」と酷評された。
 しかし昭和32年(1962)パリの第2回国際青年美術家展において大賞副賞を獲得し、そのヨーロッパ行きの切符で夫人とともに、パリに渡った。そのショッキングな表現と猥褻な表現を組み合わせた作品で「ヨーロッパの不能化したヒューマニズムを攻撃した」とする。
 昭和44年(1969)から一時帰国し、千葉県の南房総国定公園鋸山の岩壁に、巨大なレリーフ「脱皮の記念碑(サナギ)」を刻みつけるプロジェクトを遂行した。その後パリに戻ると新たなテーマとして「環境汚染」をとりあげ、昭和45年(1970)ころから「環境汚染―養殖―新しいエコロジー」の一連の作品を制作・発表した。
 そして1970年代後半には、一転して内省的、瞑想的な作品を制作し始めた。その代表作が、ここに展示されている「危機の中の芸術家の肖像」(1976)である。
 ぐるぐると巻きつけられた糸の玉、絡んでもつれる糸は、記憶の集積や、人間の手では制御できない社会の構造やメカニズムを表わすという。編み物や綾取りも、引き抜けばただの一本の糸に還元されてしまう点で、無力感や不毛さのイメージとして使用されている。そしてなにより、鳥かごのなかに閉じ込められた人間の頭は、現代の閉塞感の象徴である。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(6)

2.絡み合う素材と関係
ソピアップ・ピッチ
 ソピアップ・ピッチは、1971年カンボジアのバッタンバンに生まれ、幼少期をポルポト政権下で育った。クメール・ルージュから逃れるために1979年から5年間、タイ国境近くの難民キャンプで過ごした。このとき、NGOが運営するアートスクールに通い、絵画に興味を持つようになった。No1
 1984年に一家でアメリカに移住して、1990年マサチューセッツ大学アマースト校医学部に入学したが、1995年にファインアート専攻に転部した。その後、シカゴ美術館附属美術大学に進んでペインティングを専攻した。1999年に修了し、その後ニューヨークを拠点に活動していた。
 アメリカで絵画制作を模索するなかでも、常に故郷の風景を思い浮かべていたという。2002年に帰国すると、農村の暮らしや手仕事の美しさに感銘を受け、竹や籐(とう、ラタン)、ワイヤー、蜜蝋など、地域に根ざした素材を用いて立体作品の制作を開始した。
 作品のモチーフは、木々や花などの植物、医学を学んだ経験から人体の器官、また都市の建造物など、広範囲におよぶ。
「夜想曲 no.1」(2023)が展示されている。
 自宅の庭で育てた竹をオイルインクで黒く着色し、節を削り取り素地を露出させ、棒状に細く削いだものを格子状に重ねている。西洋のモダニズムに特徴的なグリッド構造をベースにしつつも、そのなかにカンボジアの歴史、物語、風景を現出させようとした作品である。この竹とラタンをワイヤーで粗く編み込んだ有機的かつ幾何学的な形態は、軽やかさと重量感を併せ持ち、見る角度によって様々な表情を見せる。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(5)

2.絡み合う素材と関係
寺内曜子
Hotline89  寺内曜子(てらうち ようこ)は、昭和29年(1954)東京都に生まれ、昭和52年(1977)女子美術大学芸術学部造形学専攻を卒業した。昭和53年(1978)同大学研究科を修了し、1981年イギリス・ロンドンのSt. Martins School of Art, Sculpture Advanced Course を修了した。
 1979~1998年の20年間ロンドンに在住して制作活動を行った。1998年帰国し「私たちが普段何気なくしている世界の理解の仕方」への疑問を提起し、内/外、表/裏、等の対立関係が、実は言葉の上だけの存在であることを具体的に証明する彫刻や、人間の知識や見ることの限界を体験する状況としてのインスタレーションを制作・発表している。
 寺内は、彫刻の定義そのものの変革を主張し、鉄やブロンズによる造形の代わりに、身の回りにある日用品にわずかに手を加えることで、人々の認識に変化をもたらすことを試みた。
 「Hot-Line89」(1987)は、イギリス製の古い電話用通信ケーブルの黒いチューブに切れ込みを入れ、その裏側で絡み合いうねる多数の銅ワイヤー戦を剥き出しにして、モノの表と裏、内と外を並列に提示することで、私たちが普段なにげなく見て認識しているものの本質が、実は全体の部分にしか過ぎないことを表そうとした、という。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(4)

2.絡み合う素材と関係
 このコーナーでは、身近な素材を用いて、我々の認識や歴史、ヒトとモノのつながりを考えるような作品を紹介する、とされる。Photo_20250426063701
塩田千春
 塩田千春(しおたちはる、1972年生)は、大阪府岸和田市出身、京都精華大学美術学部(現・芸術学部)洋画科を卒業し、さらにオーストラリア国立大学(ANU)キャンベラスクールオブアートに交換留学生として留学した。糸を用いたインスタレーション作品で知られる。
 ベルリンに在住して制作を続け、京都精華大学客員教授をも兼任する現代美術家である。
 ここでは「眠っている間に」(2002)が展示されている。
 起きたばかりの女性が裸体でベッドに座っている。空間には、びっしりと黒い糸が蜘蛛の巣あるいはもっと濃密に張り巡らされ、なにか不穏なわるい予感が漂う。
 線の表現に、絵具をカンバスに描く代わりに糸を導入し、立体的に画面を埋めることによって表現の可能性を拡張し、画面全体の雰囲気を強調している。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(3)

1.起点の三人のアーティスト(下)
ルース・アサワ
 ルース・アサワ(Ruth Aiko Asawa)は1926年にアメリカ・カリフォルニア州ノーウォークで7人兄弟のうちの1人として生まれた。両親は日本からの移民で、連邦政府が第二次世界大戦中に日系人収容を開始するまで、父親は遠郊農業を経営していた。ルースは、幼少期からアートに強い興味を示し、13歳のとき、学校の芸術大会で受賞した。
Photo_20250425222801  一家は1942年から日系人収容所に送られ、そのとき日本に偶然帰っていたルースの妹と戦争のため別離を強いられるなど、戦争下で苦悩の時代を過ごした。収容施設の高校を卒業したが、大学のあったカリフォルニア州では、戦争のため日系人の立ち入りが制限されていた。そのためルースはウィスコンシン州に移り、州立大学で美術教師を目指した。しかし卒業するために必要な指導演習につくことができず、資格を得ないままウィスコンシンを去った。
 ようやく戦後になって、ルースはノースカロライナ州のブラックマウンテンカレッジに入学し、ドイツ出身の美術家ヨゼフ・アルバースから指導を受けた。アルバースは、手に入れやすいものを積極的に利用してアートを制作することを教えた。ルースは、世界中のものづくりの技法を活用し、ロープや皮革、コルク、木材、真鍮やゴムなどを使いながら、独自のフォルムを生み出すことを研究した。
メキシコの金物職人から学んだメタル・ワイヤーを用いたワイヤー・バスケットも、そのうちのひとつであった。ルースは、1950年代以降、天井から吊り下げるようなさまざまなワイヤー彫刻を多数制作した。
ここには「無題S.317」(1965)と題された、壁掛け式で、中央部は開いた五芒星と枝が重なりあう形にワイヤーを縛った作品が展示されている。
 砂漠に自生する植物を友人からプレゼントされたルースは、それをまず素描し、さらにその形をより深く理解するためにワイヤーで再現させることを試みた。中央で束ねられた銅線の束が、枝分かれしながら放射状に広がっていく。壁に掛けられたこの作品は、吊り下げ型とも異なる、独自の特異な彫刻となっている。金属から構成されているため明らかに無機質なのだが、繊細で複雑にひろがる形状は生命を暗示して、不思議な魅力がある。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(2)

1.起点の三人のアーティスト(中)
レオノール・アントゥネス
 レオノール・アントゥネスは、1972年ポルトガル・リスボンに生まれた。リスボン大学美術学科(視覚芸術・彫刻)を卒業の後、ドイツのカールスルーエ州立美術アカデミーで学んだ。現在はベルリンを拠点にして活動している。世界各地の個展や国際展にも多数出展し、日本では国際芸術祭「あいち2022」に参加した。
 レオノールは、20世紀に活躍した女性の表現者を研究し、彼女たちが制作した造形からインスピレーションを得て創作を重ねた。
 2023年の新作「道子」シリーズは、デザイナーであった山脇道子(1910-2000)の生涯からインスピレーションを得た大型の立体作品である。
 山脇道子は、お茶の水の東京女子高等師範学校を卒業し、婿養子となった巌と結婚、一緒に1930年にドイツの造形大学バウハウスに留学した。そこではカンディンスキーやアルバースから親身な指導を受け、クレーの前で日舞を踊り、ミース・ファン・デル・ローエとすき焼きパーティーをたのしむなど、黄金のモダニズム期を痛快に生きた「おしゃまな」モダンガールであったらしい。そしてそれまでの経歴とも学歴とも関係がなかった織物工房でテキスタイルデザインを専攻し、みごとに才能を開花させ、帰国後はテキスタイルデザイナー、教育者として活動した。しかし当時の社会的習慣からあくまで夫を立て、自分を前面に出すことはなく、十分に評価されなかったようだ。

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 レオノールは、山脇がバウハウス在学中にデザインした絨毯のデザイン画から、その織り方の構造を分解・拡張し、素材を金属に置き換えて新たな造形へと再構成した。絨毯では、当然ながら糸の撚り合わせはごく小さな体積に凝集されるので、その立体的構造は外部からはほとんどわからない。それを飛躍的に拡大して、さらに繊維の糸を真鍮の線材に置き換えて織り方を再現して見せた。この作品そのものが幅数メートルにおよぶ大きなものだが、そこまで拡大しても真鍮ワイヤーの織りなす絡み合いの構造はとても複雑である。レオノールは、山脇道子のテキスタイルのパターンを根本的な手がかりとして、多次元の文脈を備えた新たな立体のシリーズへと発展させた。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(1)

 大阪市中之島の国立国際美術館で開催された今回のコレクション展は、最近この美術館が収蔵に至ったルイーズ・ブルジョワ、レオノール・アントゥネス、ルース・アサワという、革新的な3作家による作品を起点にしている。
 これらの3人はいずれも、これまでの造形アートの手法、テクニックを踏まえ、その内容を先ず分解し、分析し、その上でそれらの諸要素を新たに再構成することで、独自なものを創造していくというスタイルを特徴とする。この展覧会では、そのような作家を取りあげるというのである。
 本展覧会のタイトルは、ブルジョワが2000年にテート・モダンのタービン・ホールで発表した作品のタイトル「I Do, I Undo(もとに戻す、ほどく、破壊する), I Redo(再び行う、やり直す、再編する)」の文言と、2023年度に2作品を収蔵した手塚愛子をはじめとする作家の制作行為に着想を得ているとのメッセージが冒頭に掲げられていた。
 私にはむずかしそうなテーマだが、いつもの好奇心で、ともかく虚心坦懐に鑑賞してみることとした。

1.起点の三人のアーティスト(上)
ルイーズ・ブルジョワPhoto_20250420060201
 ルイーズ・ブルジョワは、1911年フランス・パリ郊外でタペストリーの修理をする工房の経営者を父として誕生した。ソルボンヌ大学で数学を学んだが美術の道に転向し、エコール・デ・ボザールを含むいくつかの美術学校で学び、フェルナン・レジェのアシスタントとなった。
 1938年、アメリカ人の美術史家ロバート・ゴールドウォーター(1907-1973)と結婚し、ニューヨークに移住した。
 自身の少女時代からインスピレーションを受けたフェミニズム・アート作品が多いという。1960年代のアメリカで隆盛したフェミニズム・アート運動でもリーダー的存在であった。
Photo_20250420060202  1990年代からシリーズで制作し、世界的に有名になったのが、巨大な蜘蛛の彫刻「ママン」である。ルイーズは、すでに1947年ころから紙に描いた小さな蜘蛛の絵が残っていて、蜘蛛は早くから彼女の関心の高いテーマであった。蜘蛛は、紡績、織り、養育、保護の全ての能力を持つルイーズの母親の強さを象徴した存在とされる。80歳代以降もこのような精力的な制作を続け、2010年に100歳を手前に亡くなるまで活発に芸術活動を続けた。
 今回展示されている「カップル」(1996)は、幼少期から針仕事をする母親の姿を間近に見ていたルイーズが、80歳を超えた老境になってはじめてその技術を自身の制作に取り入れたものである。長くしまい込んでいた自身や家族の古着を取り出して、それらを改めて裁断し、新たな形に針と糸で縫い合わせている。針仕事の経験や技術を無視したかのような粗い縫い目もあり、その過程には痛々しささえも感じられる。熱く抱擁を交わすカップルを表現するが、なにかぎこちない、危うい雰囲気をともなっている。展覧会のタイトルにふさわしい、幼いころの記憶を引出し、解き放ち、自らの手で修復・再構成したアートである。

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『安倍晋三回顧録』中央公論新社(下)

3.読後の感想について
 安倍晋三氏は、通算3,188日、8年8か月の長きにわたって首相を勤め、令和2年(2020)9月退任し、それから2年弱経った令和4年(2022)7月突然凶弾に倒れた。この間の事績を本人に語ってもらった本を読んでみると、知らなかったこと、キーワードのみ聞きかじってはいたが内容はほとんど知らなかったことが沢山あった。もっとも私自身がさほど政治に詳しくないことが大きな要因だろうが、新聞やテレビなどマスコミが政権の瑕疵や疑惑問題はなんども執拗に報道するのに、政治の本筋のところ、ほんとうは大事なところは事実の一部しか報道していない、ということもある。とくに外交や軍事にかかわること、外国の政治状況にかんすることついては、とりわけ情報が少ないうえに、精粗や偏りが大きいと思う。
 そして史上最長の政権を担ったのだから関わった案件が当然多いということもあるだろうが、安倍氏が関わってきた政治案件、成し遂げたことが、思っていたよりずっと広範囲で大きいことに改めて感銘を受けた。さらにそのかなりの課題が、国論を二分するような、すなわち反対勢力も多いようなものであったことは注目に値する。したがって、政権運営はいつも困難を極めたし、いつも反発も強かった。それにも関連するのだろうが、本来の政治案件ではない、さまざまな不要なトラブルに揺さぶられ妨げられ続けた政権でもあった。
 そのような厳しい状況下で8年8か月にわたって、ともかく奮闘を続けてきた安倍氏の特徴として、いくつかを取り上げることができる。
 まず、安倍氏の政治の基本的な方向性、思考軸の安定性である。安倍氏は、広く知られまた自らも自覚する政治的保守派であった。それゆえに、朝日新聞をはじめとする進歩的勢力、ひらたく言えば左翼的勢力からは目の敵にされた。
 しかしこの本を読んでよくわかったが、安倍氏は冷徹なリアリストであった。判断と行動において柔軟性に富んでいた。それは多くのいわゆる右翼とは明らかに違う面である。
 外交における中国、ロシア、イランなどとの関わり方、習近平、プーチン、ハメネイなどの権威主義国家の指導者たちとの関係構築は、まさに戦略的であり、政治的であった。憲法改正や靖国参拝などについても、いわゆる右翼たちの期待からみると、距離があるのもその故である。
 民主主義国家の政治家である以上、選挙は大切である。姑息な行動で選挙に勝ち続けることはできない。有権者に伝えるべきことは徹底して発信し、信念あるリアリストとして行動した。
一流の政治家として、自分の政治に対する姿勢・方向性にブレがないのは当然であろう。とくに野党のリーダーたちには、ブレの有無以前に、そもそもいったいなにを目指しているのかが具体的にわからない人物が多いのとは、まさに対象的である。
 そうした戦略面に加えて、戦術面でも多くの工夫と努力があった。
 国会がない日には、できるだけ秘書官や官邸詰めの参事官らと昼食をともにし、政治にかかわらずさまざまな雑談をして、みんなで一体となってがんばろうという雰囲気ができていったという。
外国のリーダーたちに対する見方や理解と、それにもとづく人間関係の構築についてもこの本で縷々触れられているが、おそらく的確なのだろうと思われる。
 それにしても改めて考えてみると、日本憲政史上最長の政権と言っても、下野の期間をはさんで通算で8年8か月、連続した政権としては第二次から第四次までの7年9か月である。アメリカ大統領は任期4年で2期勤める大統領が多いが、すでに8年である。途中の選挙も、アメリカは中間選挙が4年の任期中に1回あるのに対して、日本では最長でも4年毎の衆議院選挙に加えて、3年毎に参議院選挙があって、全体として選挙の頻度、すなわち政権の主導権が脅かされるチャンスがやはり多くなる。安倍首相の第二次から第四次までの連続政権の7年9か月に、衆議院選挙3回、参議院選挙4回の計7回の選挙に勝ち続けることが必要であった。
 そして他の制度的要因もあろうが、日本の首相に比べてアメリカの大統領は、ごく最近のトランプ大統領の自由奔放で強引なふるまいにもみられるように、実質的な自由度と権限が大きいという差異があるように思われる。日本のように、行政官僚が政府に有形無形に隠然たる介入をするということも、アメリカでは多くなさそうである。
 そのような要因から、わが国の首相は常に選挙対策を前提に政治を進めることが求められている。念願の憲法改正がなかなか実現できない理由に、議員の3分の2以上の合意と国民投票が改正に必要という「硬性憲法」の規定の他に、これらの要因がある。
 欧米の政治指導者たち、さらには政権中枢に関わった官僚たちまでもが、大統領や首相を辞めるあるいは官僚の職務を辞すと、時を経ずに回顧録を発刊するのが通例である。市井の国民のひとりに過ぎない私にとっても、それらの政権の当事者、あるいは側近やブレーンとして政権に直接・主体的に責任ある当事者として関わった人たちによる著作は、学者や評論家あるいはジャーナリストたちの無責任な論評とはまったく異なる重みや学びがあって興味深く読んでいる。しかしわが国の場合は、そのような著作が極端に少ない。したがって、本書のようにインタビューを記録したものであっても、貴重な書物として大きな関心をもって読んだのであった。
 まして政治家であれば、そのような書物は徹底して批判的に読むとしても、学ぶべき貴重なケーススタディの教科書となるはずである。そんな書物が少ないのが、わが国の政治家のハンディキャップのひとつなのかも知れない。
 巻末の謝辞で、著者の橋本五郎と尾山宏は、「1年間18回、のべ36時間にわたる長いインタビューで、御用聞き質問は極力避けて、多くの国民が疑問に思うこと、批判することなどをできるだけ率直・直截に聴いた。当然安倍首相としてはムッとするような質問も多かったが、結果として安倍氏は誠実に対応してくれた。北村滋国家安全保障局長は内閣の膨大な資料の提供、事前の安倍氏との打ち合わせ、インタビューのすべてで支援してくれた。事後の原稿チェック、掲載写真の選定もしてくれた。」と補記している。
 それでも自伝的な書であるかぎり、程度の差異はあっても、どうしても我田引水の要素、自己正当化の側面はあるのだろう。そうであっても、本人が当事者として語る内容は、詳細であり正味であり、事後となった今ではかなりの範囲がなんらかの記録を通じて検証可能である。
 とくに政治家・学者・ジャーナリストで安倍政権に批判的、あるいは批判的でありたい立場の人たちは、ぜひまじめにこの書物の内容を検証して、瑕疵、間違いを指摘し、具体的な反論を実行して公表して欲しい。それは、私たち門外漢の市井の民にも、とても勉強になるので大いに歓迎したい。

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『安倍晋三回顧録』中央公論新社(中)

2.第二次から第四次の安倍内閣(続)
(3)2017年~2018年 トランプの登場、働き方改革関連法、中国の脅威の拡大
・日米同盟の強化
 特異な性格と政治手法をもち異例づくめの行動をするトランプ氏がアメリカ大統領に就任し、その下で日米外交の基軸たる日米同盟の強化に邁進した。経済摩擦の共同記者会見の直前には、トランプと二人きりの場をつくって、①日本企業の個別名をださない、②為替の話をしない、を頼みこんで了承を得ることができた。
・働き方改革関連法
 1947年以来の労働基準法の改訂であり、2015年電通女性社員の過労死が直接の契機であったが、伏線としては2006年第一次安倍政権時の「ホワイトカラーエグゼンプション」プランが、「残業代ゼロ法案」と野党の批判を受けて実現できなかったのを、リベンジしたいと「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」にヴァージョンアップして取り組んだのであった。
 内容は①罰則付き残業上限規制、②同一労働同一賃金、③高収入専門職の脱時間給制度(高プロ)、④裁量労働時間制の対象拡大、である。
 労働側の既存システムへの固定観念が露呈して抵抗もあったが、労働環境への社会の認識を変え、労働環境の水準を改善し、さらに若手人材のブラック企業への敬遠などに貢献したと考えている。
・トランプの米朝接近を拉致問題解決に役立てよう
 トランプ大統領は、軍事行使にはきわめて消極的で、どんな相手に対してもディールを持ちかけることを好む。北朝鮮とディールをすると決心してしまったトランプには、金正恩に会わないでくれと言っても無駄である。トランプが実は軍事行使に消極的であることを金正恩にはできるだけ知らせず、トランプの北朝鮮接近を前提に日本としてメリットを期待できることを考えるしかない。安倍首相は拉致問題をトランプに説明して、協力を求めた。そして実際にトランブ大統領は会談でその解決を金正恩に対して求めてはくれた。結果として進展はなかったが。
・中国の「一帯一路」とAIIB
 このころ中国は、尖閣諸島への行動を抑制していた。日本の経済界は、AIIBを投資と貿易拡大のチャンスととらえていた。李克強は、日本の協力がないと国際社会で信用がないことに焦っていた。
 安倍首相はダナンで習近平と会談して、日中協力方針として「第三国での日中協力ビジネスを進める方針」を合意し、さらに李克強との会談で中国との「海空連絡メカニズム」に合意した。キューバ危機後の米ソと同様、尖閣諸島問題などで不測の事態を防ぐために必要と考えたのだ。
・消費税増税延期をめぐる財務省との戦い
 財務省と対峙し闘ったのは安倍政権の特徴のひとつである。小泉政権時は、安倍氏は財務省の方針に従っていたが、経済振興のために自分の政権時には対立し闘った。安倍氏は、財務省は税収の増減のみを考え、実体経済を考えないと思っている。政務秘書官はそれまで財務省出身者であったが、安倍政権では経産省出身の今井政務秘書官とした。財務省は、平気で政権を潰しにかかるとても手ごわい相手である。7年9か月連続した安倍政権の期間中、財務省との暗闘が続いた。森友問題の文書偽造事件も、財務省の策略との疑惑があると安倍氏は思っている。
・自由で開かれたインド太平洋戦略FOIP
 ケニアで開催されたアフリカ開発会議の基調講演で、安倍首相は「自由で開かれたインド太平洋戦略FOIP: Free and Open Indo-Pacific Strategy」を発表した。これは安倍氏が長年温めてきた構想であった。主にインドがターゲットで、中国への刺激を配慮してまずはアフリカで発信したのであった。
 インド・太平洋の経済圏として日米豪印が主役であり、軍事協力でも重要であり、これがQUADに結実した。日露戦争でロシアに勝ち、政府開発援助でインド発展を支援したので、インドの日本に対する印象は良好である。モディ首相は、米豪だけなら乗らないが、日本が主導するならQUADに乗ると語った。
・中国との関係安定化のため訪中
 防衛白書では中国を「懸念」と表記しているが、現実は「脅威」である。安倍首相は、中国対策を念頭に置きつつ、自由で開かれたインド太平洋構想、安全保障関連法、特定秘密保護法を実現してきた。さらにTPPで共通の価値観をもつ貿易ルール造りを進めた。
 しかし対立のみでなく、並行して対中関係の安定化は必須である。外交の基本はあくまでもリアリズムである。中国は、こちらが勝負を仕掛けるとこちらの力を一定程度認めるところがあると思っている。ただし長期政権でなければ対抗できない。
 実は中国から態度を軟化してきたのであった。中国は、韓国とはまったく異なって非常に戦略的な外交をする国であり、対中外交には綿密なプランと長期政権が必須である。
 訪中して、習近平には「我々の決意を見誤らないようにしてもらいたい」と繰り返し言明(直近では尖閣諸島問題)した。その上で「南シナ海を平和・協力・友好の海とする」ことを首脳会談の成果文書に入れた。
 このときも、外交では、長く首相を勤めることが存在感を大きくすることを経験した。
・プーチンとの北方領土問題協議
 2018年9月ウラジオストクでの東方経済フォーラムで、突然プーチンから「年末までに前提条件なしに平和条約を結ぼう」と申し入れてきた。このときは「北方領土問題があるから呑めません」と返事した。
 ただプーチンが踏み込んできたのはチャンスとみて、思い切って勝負しようと考えた。日ソ共同宣言に基づく2島返還で交渉をスタートしたところ、2018年12月時点で、プーチンは2島返還で口頭では合意していた。ところが、2019年に入って、ラブロフ外相とモルゴロフ外務次官が、これをロシアの原理主義的外交方針から壊しにかかってきたため、結局合意は成立しなかった。

(4)2019年~2020年 新元号「令和」、中東との外交、コロナ対策、持病の悪化
・行政の瑕疵露呈と議員の失言
 賃金調査の一環であった厚生労働省の毎月勤労統計に調査方法の不備(全数のはずが東京都では抽出調査のみ)が露呈した。2006年「消えた年金」、2008年働き方改革の裁量労働制のデータ杜撰発覚など、厚生労働省はいささか政府に迷惑をかけ過ぎだと思う。
 閣僚などから失言が続出した(桜田義孝五輪相の盛岡での復興軽視かの発言、塚田一郎国土交通省副大臣の麻生副総理地元の道路建設に関する「忖度」発言、など)。過失は事実であり更迭したが、政府には多様な人材が必要であり、失言はある程度覚悟している。
・トランプ大統領国賓来日
 当初は心配があったが、トランプ大統領は、天皇への敬意と礼儀はしっかりしていて、拉致被害者へは暖かい心配りも示してくれた。
・イランのハメネイ師・ロハニ大統領との会談
 古くからイランと日本は良い関係にあり、世界最大級のアザデガン油田の開発権益があったのに、アメリカのイラン制裁強化で撤退を余儀なくされ、そこへ中国が穴埋めして開発契約を結んでしまった。この状態を放置するのはもったいないと考えた。
 トランプ大統領は、日本がイランとの関係を尊重することには反対せず、イラン核合意の有限期間(サンセット条項)をハメネイに変更してもらえないか、安倍に期待した。
・G20大阪会議(2019年6月末)
 会議議長として、プラスチックごみ問題、気候変動問題、自由貿易、の協議を主導した。トランプ大統領は、気候変動問題には最後まで譲歩しなかった。来日した習近平は、北朝鮮の金正恩に北朝鮮拉致問題の解決が必要なことを直接言ってくれた。当時は日本でも中国への歓迎ムードがあったので、日本の求めに応じてくれたようだ。
・老後2000万円問題(2019年6月初め)
 金融審議会が総務省の家計調査データで単純計算したものを、安倍首相への事前説明なしに突然金融庁が公表した。7月参院選を前に騒ぎになる公表であり、金融庁は乱暴過ぎだと思った。対策として、民主党政権時よりも年金財政は安定化したことを訴えた。結果的には7月参院選で勝利できたが。
・自衛隊の中東派遣
 安倍首相イラン訪問時の6月、日本のタンカーがホルムズ海峡で攻撃を受けた。同じころイランのイスラム革命防衛隊が、イギリスのタンカーを拿捕していた。
 ホルムズ海峡は原油・天然ガスなどのシーレーンの要所で、日本の原油の8割が通過する場所であり、航行の安全責任は当事者たる日本が当然負うべきであった。関係が良好なイランにも理解が得られる形で防衛行使したかった。トランプ大統領も、日本はイランとの関係を切らない方が良い、と言ってくれた。
 中東中東問題に対して、ネタニヤフ首相、パレスチナのマフムード・アッバース議長、アメリカの中東担当クシュナー大統領上級顧問の3人を東京に呼んで協議するという計画を考えていた。アッバースは乗り気、ネタニヤフ首相は「アメリカがいいと言うなら、日本に行こう」と言ってくれたが、残念ながら実現にいたらなかった。
・2020年のコロナ禍と首相辞任
 2020年に入ると、最大の課題はコロナ禍となった。こまごまと問題が起きては対策に追われたが、読んだ私として特記するほどの内容はない。
 そして不本意な過労も重なり、6月の検査で持病の潰瘍性大腸炎の悪化が判明し、8月28日辞任を表明、9月16日総辞職で首相を退任した。

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『安倍晋三回顧録』中央公論新社(上)

 2年前の春、ふとこの本の発刊を新聞記事で知り、検索すると市立図書館に蔵書があったので、さっそく借り出そうとしたが、予約で60人ほどの待ち行列があった。ようやく借り出すことができたのは、2年後の今月初めとなったのであった。
 これは読売新聞の橋本五郎・尾山宏が、退任した直後の安倍晋三氏に1年間・18回にわたるロングインタビューを行い、それを橋本五郎と尾山宏が記述したものである。
 まず内容の梗概を書く。470ページほどの本なのですべては書けず、ごくかいつまんでまとめる。

1.第一次安倍内閣(2006年9月~2007年9月)
 このときの主要成果は3つ挙げられる。
・教育基本法改正
・防衛庁の省昇格
・憲法改正への国民投票法の制定
 それまで政府として必ずしも明確でなかった国家観と時代認識を明らかに示したという点では成果があった。
 しかし、自分でやりたいようにやると決心して肩に力が入って人事もした結果、党内への目配りや配慮に欠け、安定な政権ではなかった。
 ただ、著者の橋本五郎や、当時の兵庫県選出の議員から私自身が直接聞いた話によれば、この時の政府の法案提出と成立は、それまでの政府に比べてきわめて積極的でかつ驚異的な迅速さであったという。

2.第二次から第四次の安倍内閣 平成24年(2012)12月26日~令和2年(2020)9月16日
 第二次安倍内閣ではその経験を生かすべく、第一次で一緒に失敗・苦労した仲間に協力を仰ぐとともに、できるだけ広く党内の結束を図った。第一次安倍内閣で、政権が揺らぐのは自民党内の信頼を失うときであることを痛感した。第二次安倍内閣以降では、世論の反対が多いときは、党大会の演説で、わが党の使命だ、やるべきことを成して行こう、と明確に訴えるようにした。
 官邸スタッフも積極的に同じ目標に向かって協力してくれる人を選んだ。幸運にも恵まれて、出身官庁のみにこだわらず、日本の針路に携わるやりがいを感じるヒトに恵まれた。たとえば今井政務秘書官のような、発言がいささか耳障りであっても、率直に意見を言ってくれるスタッフは大切であった。

(1)2012年12月~2014年 民主党政権の負の遺産解消の初期2年間
 民主党政権下で悪化した経済の回復、同じく悪化した日米関係の修復、その間進行した中国・北朝鮮の脅威への対策としての防衛力補強、が主な課題となった。
・アベノミクスの開始と実行
 民主党政権の後、デフレが続き、起業倒産が増加し、雇用情勢がとても悪くなっていたので、デフレ脱却が喫緊の課題との認識から、濱田宏一エール大学教授・岩田規久男学習院大学教授から金融政策の提言を得て、またアメリカのバーナンキFRB議長の金融緩和をみて、金融政策から対策に着手した。キーポイントは「三本の矢」すなわち①金融政策、②機動的財政出動、③民間投資喚起(成長戦略)であった。
 この結果、失業率の改善を達成し、若年層の支持が拡大し、コロナ禍までは景気拡大が続いたのが成果である。しかし生産性向上・賃金引き上げは道半ばで、景気拡大の実感が少なかったことは認める。
・防衛力補強のための集団的自衛権の憲法解釈変更
 選挙公約実行のため、憲法解釈変更を認めない内閣法制局山本庸幸長官を更迭し、駐仏大使小松一郎を充てた。小松氏は小泉政権時に、岡崎久彦氏とともに集団的自衛権勉強会をしていた仲間であった。法制局は、憲法解釈と机上理論の府にとどまり国を守る意志がなかったので、首相としての決意を明示するための人事であった。
・特定秘密保護法の制定
 「特定秘密」の明確化と法的定義が必要、さらに外国からの情報入手のために必要と考えて制定した。特定秘密保護法が無ければ、アメリカは安心して機密情報を日本側に出せない。官僚による恣意的な運用を防ぐためにも法制が必要である。核兵器の(再)持込みの密約は、第一次安倍内閣のときまでは外務省が首相に伝えなかった。こんなことは決して許されてはならない。2010年尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件では、当時の首相菅直人は事件のビデオを非公開とした。そんな法的根拠はなく、まったく恣意的な判断であった。
・国家安全保障会議(NSC)設立
 それまで外務省/防衛省/警察でばらばらに扱っていた安全保障問題は、ほんらい一体化して検討すべきであり、その協議の一体化のために必須と考えて設立した。

(2)2015年~2016年 戦後外交の総決算の2年間
・北方四島問題の整理と再出発
 それまでの膠着から脱するため、ソ連と国際法上合意した1956年日ソ共同宣言に立ち戻り、戦後の冷戦による日ソ間の関係隔離を経て、今こそわが国の安全保障(とくに対中国)からロシアとの関係を良くして、あわせて2島の取り戻しを目指した。
 日ソ共同宣言は、敗戦国日本としては歯舞・色丹の2島だけても取り戻せたら良いとの認識であったのが「日本はソ連と関係回復してはならない、島の返還は当分止めよ」とのアメリカの「ダレスの恫喝」の後、日本は日ソ共同宣言を離れて、観念的・理念的に目いっぱい4島返還を求めるようになっていたのであった。
・憲法改正の実現について
 公明党が憲法改正に消極的で、現実には困難だった。憲法改正に必要な3分の2の議席を維持・継続するためには、選挙で公明党の協力が必須なのが現実である。
 野党の改憲議員にアプローチを試みたが、選挙のことがあり難しいと判断した。
 さらに森友学園問題・加計学園問題が発生し、憲法改正に反対するマスメディアの猛烈な煽りもあって、支持率が下がり、憲法改正の実現には見通しが立たなかった。

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姫路城の桜

Photo_20250416055201  今年は、姫路市夢前町にある夢乃井というホテルに泊まって、姫路城の桜を観ることとした。 姫路城は、高校時代からときどき、さらに離職の後大学での日本史の勉強での史料探しなどでかなり近年までもなんども訪れてはいるが、桜の季節というとただ二度目である。
 姫路城大手門の前まで来てみると、お堀に船が浮かび、観光客が菅笠を冠って長閑に乗っている。Photo_20250416055202
 これは「和船(わせん)」と呼ばれる日本独自の構造の観光用の小舟で、全長約9.5m、最大幅約2.3mの、かつて姫路藩が使用していた高瀬舟を、当時の工法・道具を使って復元したものだという。船頭が櫓を操作してゆっくり進む。姫路城を背景として、とくにこの桜の季節に相応しい春らしいのどかで美しい情景をつくっている。
 大手門の前に内堀に架かる桜門橋と呼ばれる橋がある。この日は絶好の快晴ということもあり、花見の観光客で混雑している。この橋は、近年の発掘調査にもとづいて平成19年(2007)江戸時代の木橋をイメージして再建したものであるとの説明がある。
Photo_20250416055301  桜門橋を渡ると大型の高麗門である大手門がある。元来の大手門は、三重の城門から成る厳重な構成であったが、現在の大手門は昭和13年(1938)再建されたもので、位置も大きさも江戸時代のものとは異なるらしい。
 大手門をくぐって場内に入ると、まもなく天守閣を正面から見上げる大きな広場に着く。この広場をかこむように多数の桜が植えられていて、どの桜もまさに満開である。
 来場者も多いが、それでも広大な広場のまんなかは、十分な空間が残されている。広場の周囲に咲き誇る桜木の下には、ぎっしり花見客がグループで茣蓙を敷いて座り込み、弁当を食べたり、お酒を飲んだり、それぞれに寛いで花見を満喫している。Photo_20250416055302
 私たちは天守閣を正面から見上げる外周部のベンチに座って、華やかな桜と穏やかな春の空気をのんびり味わった。
 同じベンチに座ってきた同年代の男性と、しばし語らった。彼は、鹿児島県川内市に生まれ、警察官となって兵庫県姫路市に勤務したという。阪神淡路大震災にも遭遇し、被災者を救済すべき立場として苦労もあったらしい。姫路の土地柄がすっかり気に入って、ながらく姫路市の海岸べりの自宅に住んでいるという。一期一会のご縁での、長閑で楽しい談話のひとときであった。
 春の絶好の快晴と、私にとってはここ数年では最高の満開の桜に恵まれ、とても貴重で快適な花見の時間を過ごすことができた。

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摂津峡公園の花見

Photo_20250415055901  私の自宅は、芥川という京都府と大阪府にまたがる一級河川の傍にあり、川べりの桜が楽しめる。ほぼ毎年、少し上流まで歩いて「摂津峡公園」の桜を見るのが恒例となっている。
 今年は、3月末近くに開花宣言があり、それから花冷えがあって花見気分がいささか削がれたが、花冷えのためか満開が1週間以上後となって、4月上旬にもっとも楽しめる状況となった。Photo_20250415055902
 さいわい春の快晴となったので、午前10時ころに自宅を出て、川の堤防沿いの小径を3キロほど緩やかな上り坂を歩く。芥川の右岸を歩くのだが、途中には市のテニスコートや、バーベキューができる広場、「アクアピア」という公民館のような施設などがある。そのところどころに桜の木が植えられていて、七分咲きかそれ以上となって咲き誇っている。
Photo_20250415060001  それでも遊歩道にかんしては、さほどの人出はなく、春の快晴ののんびりした心地よい雰囲気が続いている。
 ゆっくり歩いて1時間もしないで、摂津峡公園の入口に着く。ここまでくると、満開に近く晴天の休日でもあり、たくさんの自転車がならび、駐車場は自動車が満車で、さらに少し上った奥の駐車場へと導くアナウンスが流れている。Photo_20250415060002
 公園に入ると、広場が大勢の人たちで埋め尽くされていることに、いまさらながら驚く。
 開花の下の一角に腰掛けて、ゆっくり持参した弁当を食する。きれいな桜のお陰で、弁当も美味しい。こうして今年もなんとか健康にここまで歩いてこられて、平和に、無事に、桜を見ながら昼食を摂ることができたことを、改めて有難いと思う。

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石破首相の政治とsocial capital

 昨年10月以来のわが国政治の混乱と低迷をみて、馬鹿でも悪人でもなさそうな石破茂首相の、なにが問題の核心なのだろうか、と政治のド素人ながら考えた。
 つまるところ、聞こえよく言えば「孤高」、率直に言えば「孤独」なのが石破さんの最大の弱点かつ問題なのだろうと思う。
 J.D.Vance "Hillbilly Elegy"を読んで、私は「アメリカの貧困層の状況とその問題の本質」にまず関心があって、ヴァンス副大統領がアメリカ白人貧困層の出自からどのようにして貧困のネガティヴ・スパイラルから脱出したのか、貧困の当事者としてのヴァンスの貴重な経験に先ず注目した。
 ただこの本のなかでは、貧困問題の他に、アメリカのトップエリートたちの注目すべき特質としてsocial capital(社会関係資本)についても具体的に書かれていた。たしかにHillbillyの貧困スパイラルから脱出するキーポイントは家族・親族・共同体であったけれど、ヴァンスがアメリカの本格的エリートになれたのは、ヴァンスのアイデンティティたるHillbillyには決して存在しない、イエール大学というsocietyの全米トップクラスの学力に加えての「social capital=社会関係資本」のお陰であった。
 ヴァンスは、イエール・ロースクールの恩師Amy Chua教授から推薦してもらったお陰で、将来の就職のために彼が求めていた学術専門誌の編集委員になることができた。しかしそれだけではない。ヴァンスがよくわからないまま推薦を求めた厳しいハードワークを求められる就職先を、その恩師は、ヴァンスのごく個人的事情にまで踏み込んで敢えて否定して、恋人との時間と関係を最優先すべきことを忠告したのであった。この恩師の忠告がなければ、その後のヴァンスの上院議員から副大統領という現在の経歴はあり得なかった。
 ヴァンスは「成功者たちの世界が実際にどう働いているかがやっとわかった。身の回りにあるsocial capitalを、うまく使えば成功につながるが、うまく使えなければ大きなハンデを抱えたまま走ることになる。」と書いている。このようなある種のネットワーク、あるいは特殊な狭い人間関係が、ときとしてヒトの成功の決定的要因となる。Hillbillyのアイデンティティに基づく家族・親族・身近なコミュニティの愛情を基礎とするネットワークとも異なる、信頼・尊敬にもとづく知的で合理的で積極的な協力関係による強力なネットワークの力をヴァンスは発見したのだ。
 どんな分野であれ、ヒトは個人的能力のみでできることは限られている。とりわけ、政治という、実現へ向けてのプロセスが複雑で困難で時間と手間を必要とする仕事は、決して個人の能力と努力だけでは達成できない。そして政治のトップの成功は国家と国民の全体におよぶし、その失敗は国家と国民全体の不幸をもたらすのである。
 石破さんが孤立しているのは、いまに始まったことではないらしい。オタクを自称し、友人たちとの会食や雑談を好まず、自宅でひとりプラモデルをいじるのが趣味という。
 これまでの政治活動において、もっぱら「党内野党」と自称・他称して政権トップへの批判を励行してきた。その結果、自ら主体的に政治を担うという姿勢が退き、政治を他人事と位置づけて、責任を引き受けることなく客観的に「批判」「評論」する術を磨いてきた。その「評論家気質」が石破さんの本質になってしまっているように思う。
 首相就任前に議会解散宣言をフライングして顰蹙を買い、政治資金規正法にてらしてグレーだとして安倍派議員多数を総選挙で非公認として排斥し、選挙が始まると立候補者の事務局にひっそり資金をばらまいて有権者の反感を買い、総選挙に大敗して少数与党となって連日青息吐息で妥協・譲歩を余儀なくされ、医療費の重要法案への態度を二転三転して民意の怒りを買い、野党の一部を裏切ってまで無理やり予算成立の目処まで漕ぎつけたのに、新たに当選した一年生議員への「お土産商品券問題」という政治資金規正法にてらしてグレーな行為を自らしでかして与野党両方からサンドバッグ状態に陥った。そのうえ、予算案議決の直前になって、まるで自分が主導した予算案の中味がまるきり不完全だといわんばかりに「予算案が成立したら、それから強力な物価対策を行う」などと気楽に発言した。
 石破さんというヒトは、肝心なところで姑息なことをやりがちで、やはり評論家はできても首相はムリだったのだろうと思ってしまう。このタイミングでこれだけは絶対マズイということを、見事に残らずやらかして自ら墓穴を掘り続けているのが実情である。
 とくに一年生議員へのお土産商品券問題は、「これまで人づきあいが悪い、ケチだと言われ続けたことが気になっていた」と自ら述懐している。内閣の「仲間」をみても、たとえば村上誠一郎総務大臣は「アベノミクスは評価しない」「安倍首相は国賊だ」などと威勢のよい批判・評論をするものの、はたして自分の政治家としての代案政策が具体的に示されない点で、石破首相と同類の「評論家気質」のようだ。石破さんは、これまで孤独あるいは孤高に過ごしてきたため、政治家に仲間が少なすぎて信頼し合える議員、親しい有能な議員に事欠き、せっかく野党に比べて人材が豊富であった自民党なのに、内閣と党幹部の顔ぶれはこれまでより数段見劣りする。力を発揮できそうなネットワークとは程遠いのだが、そのことに石破さんは気づいていないようだ。
 他人事のように、評論家のように、「皆様のご協力のおかけで熟議を尽くしました」というが、貴重な議事の時間を延々と、政策の本論でない政治資金疑惑や商品券問題などで空費しても、国民にとってはなんの利益も意味も無い。少数与党政権の脆弱さそのものが、わが国の国際的地位を確実に低下させ国益を毀損している。政治は、なによりも結果が重要だ。
 石破さんの「評論家的傾向」も、彼のsocial capital欠如の結果でもあるのだろう。批判・評論ならひとりで言い放題で済むが、責任を担って政治を進めるには、個人の思考だけではとうてい不可能であり、なんとしても何人もの信頼できる仲間を得なければならない、という政治家としての初歩の初歩を、教えてくれるヒトがいなかったのだろう。
 私の個人的希望としては、政治資金の禁止や抑制など些末なことよりも、多少カネを使ってでも他の議員たちとの関係をきちんと構築して、議員たちから真に信頼され尊敬されるリーダーになって、抽象的な「議論」ではなく、具体的・実際的な「行動」で政治を導き、さっさと進めて欲しい。それが無理なら、せめて早めに辞職していただきたいと思う。

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What's New特別展 大阪市立美術館(20)

9.大阪の洋画(下)
Photo_20250413055201  国枝金三「都会風景Ⅰ(信濃橋)」(大正14年1925)が展示されている。第12回二科展に出展されたものである。
 国枝金三(くにえだ きんぞう、明治19年1886~1943)は、大阪に生れ、山内愚僊、赤松麟作から油彩を学んだ後、関西美術院を卒業した。大正3年(1914)第1回二科展出展以来出品を続けた。大正12年(1923)には二科展会員となり、関西洋画壇に重きをなした。作品には都会風景画が多数あり、晩年の花鳥の作品には日本画風の味があつた。とくに「大大阪」時代の大阪の都市風景を多数描いた。
 信濃橋洋画研究所の創設に参加し、関西洋画壇の振興に貢献した。
松本鋭次「地下鉄工事(工事場風景)」(昭和7年1932)が展示されている。第13回帝展に出展した作品である。
 松本鋭次(まつもと えいじ、明治27年1894~昭和43年1968)は、大阪府箕面市に生まれ、赤松麟作に師事し、東京美術学校西洋画科を卒業した。大正12年(1923)フランスに留学し、帰国後は心斎橋の丹平ハウスにあった赤松洋画研究所の講師もつとめた。夫人はフランス人であった。
 展示作品は、昭和8年開通の地下鉄梅田駅の工事現場を大阪鉄道管理局の上からの眺望として描いたものである。御堂筋線梅田駅と、当初谷町線梅田駅に予定されていたアーチが2つ並んでいる。画面正面を横切るのが省線(現在のJR)で、真ん中後方の建物が阪急百貨店で、左側に阪急の線路と駅舎も見える。Photo_20250413055301
 松本鋭次は、戦後は新世紀美術境界設立に参加した。

 今回鑑賞した展覧会は、コレクション展ではあったが、リニューアルオープンの記念展覧会として、いつも観る通常のコレクション展とは一味違う、なにかプライドをかけた気合のこもった雰囲気が感じられた。大阪という地において、大阪市立美術館の存在価値がこのようにあるのだ、との主張があった。
 コレクション展なので、展示に大きな焦点はなく、10のセッションごとに小テーマを設けて260余りの展示を観たわけだが、こうして多数の画家や芸術家の作品を与えられるままに鑑賞するという経験は、自分の関心を絞れない反面で、これまで知らなかった芸術家の存在と作品に初めて出会う機会という意味で貴重でもある。
 途中休憩をあわせて約4時間近くのロングランの鑑賞でかなり疲れたが、結果的にはそれなりに充実したひとときであった。

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What's New特別展 大阪市立美術館(19)

9.大阪の洋画(上)
 最後のセッションでは、静かに、しかし着実に成長してきた大阪市立美術館の洋画コレクションから、大阪近代を彩った洋画家たちから12人を選び、戦前までの軌跡とともに展示されている。Photo_20250412060401
 大阪もそれなりに人口も多く、ともなって日本画壇に貢献してきた画家たちも多い。佐伯祐三をはじめ高名な人たちも展示されているが、私はこれまでよく知らなかった、私にとっての初めての画家を少数取りあげておく。
 山内愚僊「海景」(大正6年1917)が展示されている。
 山内愚僊(やまうち ぐせん、慶応2年1866~昭和2年1927)は、幕末の江戸に慶応2年に生まれた。青年期から高橋由一(ゆいち)、五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)、渡辺文三郎等わが国西洋画の草分けの画家に師事して洋画を学んだ。明治22年(1889)ころ、京都を経て大阪に移り住み、 大阪日日新聞社に入社して、挿絵画家として働いた。
 明治27年(1894)松原三五郎とともに、大阪で関西美術会(第一次)を結成した。明治34年(1901)には京都で、松原三五郎、田村宗立、伊藤快彦等とともに関西美術会(第三次)を結成し、発起人・委員となった。さらに赤松麟作、松原三五郎等と大坂洋画会を結成した。このように、画家人生の大部分を大阪で過ごし、昭和2年(1927)死去した。
Photo_20250412060501  赤松麟作「翁」大正2年(1913)が展示されている。
 赤松麟作(明治11年1878~昭和28年1953)は、岡山県津山市に生まれ、幼少期に家族とともに大阪に転居し、ペンキ屋などを経て偶然大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合い、16歳で弟子入りした。
 19歳のとき、東京美術学校西洋画科専科1年に臨時試験で入学し、本来なら4年通うところを、選抜試験を受け、2年半で繰上げ卒業を果たした。
 三重県で美術教師をした後、明治27年(1904)大阪朝日新聞社に挿絵画家として入社した。当時は写真印刷が未熟だったので、絵の出来は売上を左右するほどであり、麟作は正社員待遇を獲得した。ポーツマス条約反対記事に添えた挿絵「白骨の涙」は大きな評判を得た。
 大正期に入ると写真技術が飛躍的に向上したため挿絵記者の需要が減り、新聞社を退社して画家に専念するようになった。大阪市心斎橋の丹平ハウスに赤松洋画研究所を開いた。当時の門下生に佐伯祐三がいた。
展示されている作品は、竹取物語からテーマを得て、西洋画として描いたものである。

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What's New特別展 大阪市立美術館(18)

8.住友コレクション(下)Photo_20250411055001
 中村大三郎「山本元帥像」(昭和18年1943)が展示されている。
 中村大三郎(なかむら だいざぶろう、明治31年1898~昭和22年1947)は、京都市生れの日本画家であり、京都市立美術工芸学校絵画科で学んで、後に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)教授となってわが国日本画壇を担うとともに、後進の指導にも注力した画家であった。
第二次世界大戦がはじまったころの日本海軍の総帥を、尊敬の念を込めて丁寧に描写している。
 菊池契月「北政所」昭和18年(1943)が展示されている。
Photo_20250411055002  菊池契月(菊池桂月、明治12年1879~昭和30年1955)は、長野県出身で京都に出て文展を中心に活躍した日本画家である。やまと絵の手法を近代に活かした人物画や歴史画を多数制作した。
 この作品は、大阪市立美術館の収蔵となることを踏まえて、大阪に因んだ人物を画題として選んだという。
 淀君の肖像画は、たいていいささか癖の強い、あるいは気の強い女性として描かれがちだが、北政所となると、そこはかとなく落ち着いて情緒の安定したしっかりもののイメージで描かれるようだ。

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What's New特別展 大阪市立美術館(17)

8.住友コレクション(上)
 大阪市立美術館は、戦時中に「この美術館を真に美術の殿堂として善美なる内容を持たしむ」とその活動を支援せんと、住友家からコレクションを寄贈された。Photo_20250410072901
 戦前、大阪市立美術館設立計画は建設用地の選定に難航していた。そこへ第15代住友吉左衛門友純氏からその邸宅地を大正10年(1921)に譲り受け、昭和11年(1936)に美術館を設立することができた。さらに父の遺志を受け継いだ第16代住友吉左衛門友成氏は、同館の厳しい収蔵品状況を鑑み、戦中の厳しい時局のなか、出品作品を寄贈することを前提に「関西邦画展覧会」の開催を発案した。住友家は、上村松園、北野恒富ら当時の京都・大阪を忠心とする日本画壇の代表的作家20人に制作を依頼した。そして昭和18年にその展覧会が実現し、翌19年春に住友家から同館に一括寄贈されたのが住友コレクションである。
Photo_20250410073001  このセッションでは、その住友コレクションのなかから16点を展示している。橋本関雪「讃光」昭和18年(1943)が展示されている。
 第二次世界大戦がはじまったころであり、その時局を反映した兵士の絵である。愛国心にもとづく戦意向上の意思とともに、戦死者を悼む心情が表現されている。
 矢野橋村「那智奉拝」昭和18年(1943)が展示されている。
 矢野橋村(やのきょうそん、明治23年1890~昭和40年1965)は、愛媛県に生まれ、福岡青嵐らとともに市立大阪美術学校を設立した画家である。
 那智の滝は、延命長寿の霊験があるという飛瀧神社の御神体でもある。大画面に真正面から見上げる視点から描かれていて、いまにも水しぶきが飛んできそうな迫力に満ちている。

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What's New特別展 大阪市立美術館(16)

7.近世の動物画
 日本画のテーマは、「山水」「人物」「花鳥」の3つである。このうち「花鳥」は、実際には花と鳥だけでなく鳥獣、すなわち動物、虫、魚をも含んでいる。このセッションでは、その鳥獣をテーマとした作品が展示された。
 長谷川等伯「烏梟図屏風」(桃山時代・慶長12年1607)が展示されている。Photo_20250409173101
 これは長谷川等伯の作品の中でも、一見してもっとも地味なものだろう。
 木の枝に、一羽のフクロウが留まっている。昼間はフクロウは目が見えず、動けないのだ。それをあざ笑うかのような風情で、二羽のカラスが鳴き立てて周囲を飛び回っている。なんでもない描写のようだが、右手の中ほどに描かれたフクロウと、画面上半分に配置された二羽のカラスの絶妙な距離感、そして画面左側のとくに下側の設計された空間、これらが見事に動きを表現している。じっくり眺めるほどに、十分に考え抜かれた絵だとわかる。
 長谷川等伯69歳のときの動物画で、墨だけを駆使した巧みな表現力がわかる作品である。
 岸駒「牡丹孔雀図」(江戸時代・天明5年1785)が展示されている。
 当時の写実派の最先端であった沈南蘋風の、濃密で精緻な孔雀の描写である。孔雀の眼差しは鋭く、首を曲げた自然な立体感の表現に見事に成功している。わが国のこの時代に、すでにこれだけの精緻な写実があったということである。Photo_20250409173201
 岸駒(がんく、宝暦6年1756[推定]~天保9年1839年)は、江戸時代中期から後期の絵師である。生地は加賀国金沢(石川県金沢市)と推測されているが、誕生年とともに詳細は不明である。
 貧しい商売人の子として育ち、幼少期から絵を描くことに熱心であったが、師匠につくことはかなわなかったらしい。しかし画風から岸駒が南蘋派(なんぴんは、中国清代の画家沈南蘋にはじまる写実的な花鳥画の一派)に学んだことは間違いない。
 安永7年(1778)絵師として名を立てようと上京した。岸駒は、丹丘、黄筌、李思訓、呂紀などの中国画から学んだことを作品に記し、沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。また、上洛当初は応挙に師事」していたとも推測される。
 天明2年(1782)版『平安人物誌』に名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たした。以後も死の年の版まで『平安人物誌』に漏れ無く岸駒は記載され、生涯京都を代表する絵師であり続けたようだ。
 天明4年(1784)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描いた。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって享和2年(1802)に右生火官人(ういけびのかんにん)という地下官人(朝廷に仕える廷臣のうち、京都御所の清涼殿殿上間に上がれる堂上家に対し、上がれない階位の者を指す)となった。天保7年(1836)には蔵人所衆に推補のうえ従五位下叙爵、翌8年越前守に任ぜられた。文化6年には加賀藩主の招きに応じて金沢に赴き、金沢城二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。天保9年(1838)83歳あるいは90歳の長寿を全うして没した。
 現在、一般に岸駒を初めとした岸派は認知されているとは言いがたいが、京都の社寺のみならず町家の至る所にまで岸派の作品が残っている。

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What's New特別展 大阪市立美術館(15)

7.おもてなしのうつわ
Photo_20250408060001  このセッションでは、大阪市立美術館のコレクションに豊富な東アジア、東南アジアからヨーロッパまでの、広範囲におよぶ陶磁器作品から「おもてなし」というキーワードで日本の九谷焼や鍋島などの陶磁器の名品20点ほどが展示されている。
 柄本曉舟「磁製魚紋赤絵花瓶」(昭和11年1936)が展示されている。
 柄本曉舟(つかもと ぎょうしゅう)は、近代九谷焼の画工である。この大阪市立美術館が落成した記念展覧会に出品された作品が、この「磁製魚紋赤絵花瓶」であった。その後、橋本関雪の作品とともに美術館に買い上げられてコレクションとなったものである。
 胴部を六角にされた壺で、赤や金で華やかに金魚を描き、水色や白で泡や渦巻きを添えている。どっしりと落ち着いた美しい陶磁器である。Photo_20250408060101
大聖寺焼「色絵 五艘船図鉢」(19世紀)が展示されている。
 江戸時代の伊万里焼に「古伊万里金襴手様式(こいまりきんらんでようしき)」という色絵と金彩を施した絢爛豪華な高級食器が人気を博した。この展示作品もその代表的なものである。
 内面に三隻、外面に二隻の船が描かれ、船の間にはオランダ人が描かれている。船とヒトとのサイズの比率はずいぶん実際とは違うが、それぞれの描写の細部は精緻に写実的である。
 これは「大聖寺伊万里」と呼ばれる九谷焼の一種で、明治初期から昭和らにかけて、石川県の旧大聖寺藩の地域で制作された。

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What's New特別展 大阪市立美術館(14)

6.中国書画(下)Photo_20250407053901
 阮元「行書七言聯」(中国・清・19世紀)が展示されている。
 阮元(げん げん、1764~1849)は、中国清代の高位の政治家であり考証学者であった。地方官として功績を残すとともに、学者として多くの編纂事業を手掛けた。
 1764年揚州に生まれ、1789年科挙に合格して進士となった。官僚としては山東・浙江の学政、浙江・江西・河南の巡撫の任についた。とくに浙江には足かけ10年ほど在任して、海賊の取締を行った。西湖の浚渫事業を行い、そのときに出た泥で築いた湖内の島は「阮公墩」の名で現在も残っている。
8_20250407054001  1817年からは、広州で両広総督を勤めたが、前年にウィリアム・アマーストが三跪九叩頭の礼を拒否する事件が起きたばかりであったので、阮元は砲台を築いてイギリスに武力で対抗することを進言した。1835年には体仁閣大学士の官職に昇り政治の中枢を担った。
 この書は、台紙として黄色に染め彩色で草花をあしらった美しい絹本を用い、大官に相応しいゆったりした温厚で力強い行書で揮毫している。
 王震「東坡抱研図」(中華民国8年1919)が展示されている。
 王震(おう しん、1866~1938)は、清末から中華民国初期にかけて上海で活動した事業家かつ書画家であった。
 この作品で描かれている蘇軾(そしょく)は、北宋時代の文人で、硯を愛好したことで知られる。肌や衣服の陰影は、光源の方向が意識されていて、近代画らしい傾向が現れている。

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What's New特別展 大阪市立美術館(13)

6.中国書画(上)
Photo_20250406060001  大阪市立美術館は、国内の公立美術館としては珍しく中国美術のコレクションが豊富である。なかでも阿部コレクションの中国書画は世界的にも知られているという。
 阿部房次郎(1868~1937)は、大阪の実業家で東洋紡績株式会社、現在の東洋紡の社長を勤めていた。中国の文物は、1911年の辛亥革命以降世界各地に流出が激しくなり、散逸の危機に瀕していた。当時わが国の貿易拠点であった神戸港にも多くの文物が流入し、関西の実業家たちは積極的に買い付けていた。早くから書画の鑑賞を趣味としていた阿部房次郎は「中国美術こそは東洋美術の冠たるものである」との信念をもち、自らの財力を傾注して中国書画を蒐集した。阿部房次郎は亡くなる前、蒐集した作品が再び散逸することを懸念していたが、その遺志を継いだ子息により、160点のコレクションが昭和17年(1942)大阪市立美術館へ一括寄贈されたのであった。Photo_20250406060101
 鄭思肖「墨蘭図(ぼくらんず)」(中国・元、大徳10年1306)が展示されている。
 鄭思肖(ていししょう、1239~1316)は、宋代末から元代初めにかけて活動した詩人かつ画家であった。宋朝の滅亡後も引き続き宋に忠誠を示していたという。
 この作品では、君子の象徴として蘭が描かれ、しかしその根を描いていない。これは異民族に土地を奪われたことを暗示するもので、元朝に対する抵抗の精神を表現しているとされる。
 李鱓「風荷図」(中国・清時代・18世紀)という、とても大きくて長い掛軸の絵が展示されている。
 李鱓(りせん、1686~1762)は、清代中期の画家で江蘇省興化の人であった。揚州八怪のひとりとされる。花鳥画を宮廷画家の蔣廷錫(しょう ていしやく)に学んだが画院に認められず,退官して揚州南郊に浮漚(ふおう)館を建てて住み,明初の林良に私淑して、奔放な筆勢による花卉(かき)・樹石を得意とした。
 画中の詩には、前夜の激しい雨で打ちひしがれた蓮と、それを表現した筆墨の様子が重ねられている。大ぶりの葉の描写は墨がにじみ大胆だが、其の奥の白い蓮華は楚々と咲いている。

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What's New特別展 大阪市立美術館(12)

5.祝杯! 華やかな酒器たち(下)Photo_20250405055801
 羊遊斎(花押)銘「魚介蒔絵杯」(江戸–明治時代・19世紀)が展示されている。
 これは、江戸時代後期に活躍した高名な蒔絵師 原羊遊斎(はらようゆうさい、明和6年1769~弘化2年1846)の銘がある漆塗の杯である。鮮やかな朱色と、繊細で巧みな浮彫が見事である。
 「近江八景蒔絵燗鍋」(明治時代・19–20世紀)がある。
 Photo_20250405055901 燗鍋(かんなべ)とは、酒を温めるときに用いる小型の鍋のことである。たいていは金属製で、胴体に注ぎ口と把手があり、蓋がついている。この作品は、蓋の表面に近江の景勝を金蒔絵で装飾した豪華なものである。余計なことかも知れないが、漆は高分子化学の材料なので、高温には強くないから、この燗鍋を使うとき、まちがってもお湯の沸騰以上の温度にならぬよう十分な注意が要りそうに思う。こんなにみごとにきれいな漆なので、使うときに過剰に緊張しそうな気がする。
 「枝垂桜蒔絵徳利」(江戸時代・17–18世紀)がある。
 金色の背景に枝垂桜を蒔絵した実に華やかな徳利である。さっきの燗鍋と同様に、あまりに豪華すぎて、とても実用にはできなさそうな徳利である。じっとながめて楽しむだけでも十分満足できそうである。

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What's New特別展 大阪市立美術館(11)

5.祝杯! 華やかな酒器たち(上)Photo_20250404054501
 このセッションでは、主に漆工の作品、とくに「祝杯」をテーマにして、カザールコレクションを中心に、飲食器具の芸術品を展示している。
 カザールコレクションは、明治45年(1912)貿易業で来日し、第二次世界大戦勃発で帰国するまで日本に定住したスイス人ウーゴ・アルフォンス・カザール(1888~1964)が、ビジネスの傍ら日本文化、とくに蒔絵作品を中心とする日本の漆工芸を数千点にわたって収集したものである。帰国前に大阪市立美術館に寄託した膨大なコレクションは、カザール氏の没後、遺族により大阪市立美術館に譲渡されたのであった。
 「花卉蒔絵行厨」(江戸–明治時代・18~19世紀)が展示されている。
Photo_20250404054502  行厨(ぎょうちゅう)とは、いわゆるピクニックセットやランチボックスのことをいう。ここに展示されている行厨は、まるでおとぎ話の世界にでも出てきそうなとても賑やかで華やかな食器セットである。把手のついた外枠、酒の肴や料理を詰める重箱、皿や小盆、徳利や杯、などなどさまざまな食器が、持ち運びが便利な形態で収納できる。観劇、花見、紅葉狩りなど四季折々の催しを随分楽しませてくれたのではないだろうか。
 こんなに華麗で美しい食器セットは、見ているだけでも楽しくなる。
 羊遊斎(花押)銘「魚介蒔絵杯」(江戸–明治時代・19世紀)が展示されている。
 これは、江戸時代後期に活躍した高名な蒔絵師 原羊遊斎(はらようゆうさい、明和6年1769~弘化2年1846)の銘がある漆塗の杯である。鮮やかな朱色と、繊細で巧みな浮彫が見事である。

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What's New特別展 大阪市立美術館(10)

4.中国の仏像(下)Photo_20250403060101
 「石造 如来像頭部」が展示されている。
 中国7~8世紀の唐代のころの石造である。このお像は、髻が高く、地髪に細かな毛筋とともに、大きく優雅な渦巻き状の頭髪を刻んでいる。眼・鼻・口を面長の面相の中央に集め、鼻筋の通った凛とした相貌である。瞼は細く抑揚があり、唇は小さく尖り気味である。これらの表情の特徴は、7~8世紀の龍門石窟近隣で見られるもので、その周辺で造立された可能性が指摘されている。
Photo_20250403060201  「石造 菩薩立像頭部」が展示されている。
これは中国6世紀前半ころ南北朝(北魏)のころの石造である。
 北魏7代宣武帝が父孝文帝のために造営したもので、河南省龍門石窟の賓陽中洞から発見された。
 面長の面相に高い冠を頂き、広い額とアジア人らしくない深い眼窩、そのなかに端正にひかえる切れ長の眼、大きな鼻、と重厚で明快な表情である。人種を超えた、ひとつの理想的な男性の相貌である。
北魏彫刻美術を代表する優品だというのも納得できる。

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What's New特別展 大阪市立美術館(9)

4.中国の仏像(上)Photo_20250402054701
 大阪市立美術館は、中国の仏像においてもわが国屈指のコレクションを有する。このセッションでは、中国の仏像と、とくに仏像のお顔というふたつのテーマで展示するとの由であった。
 「石造 太子半跏思惟像龕」(中国・南北朝北魏、太和16年492)が展示されている。
 シャカがまだ若かりしころ、王宮を抜け出して出家しようとした。このとき、シャカ愛馬のカンダカが別れを惜しんで、シャカに縋りつき、シャカの足を舐めた。その姿を表現した彫像である。
 しかしシャカは未だ出家を果たす前であり、王子の姿であるはずなのに、この像では出家して長らく修行を積んで悟りを開いた後の如来の姿であり、さらにとても珍しい半跏思惟像となっている。この構成の仏像はきわめて珍しい作例であるという。
Photo_20250402054801  紀年銘のある北魏の作で、当時の現地のさまざまな信仰の状況を探る貴重な史料でもある。
 「石造 如来坐像頭部」が展示されている。
 6世紀中ごろの中国南北朝(北斉)の石像である。髻(もとどり、たぶさ)がきわめて低く、地髪も髪の厚さが薄く、ほとんど立体感がない。額は比較的狭く、丸い面相に大きな鼻をあらわし、目尻をあげて釣り目ぎみとなった眼は、抑揚に富んでいる。丸顔だが、表情は深く厳しい。飾り気はまったく無く、簡素で美しい仏像である。
 北斉時代に造営された山西省天龍山石窟の第一窟西壁の壁龕(へきがん)から発見された。なお、壁龕あるいはニッチ(niche)は、古典的建築意匠の一種であり、またこの場合のように岩のへこみや隙間などを指すこともある。宗教的にはそこに崇拝対象の像を安置するという意味があった。

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What's New特別展 大阪市立美術館(8)

3.知られざる考古コレクション(下)
 「青花 墓誌」(李氏朝鮮、正祖7年1783)が展示されている。
Photo_20250401060601  陶磁器の青花(せいか)とは、白色の胎土を成形した素地の上に酸化コバルトを主成分とした絵の具で絵付けをし、その上から透明釉を掛けて高温で焼成した陶磁器で、酸化コバルトが藍〜青色に発色するので、その模様の色にちなんで中国や朝鮮ではや釉里青(ゆうりせい)あるいは青花と呼ぶものをいう。日本では染付(そめつけ)とも呼ばれる。
 李氏朝鮮の時代には、しばしば白磁に青花で記された墓誌が残されている。側面に「朝鮮贈吏曹参判朴公泰宇貞夫人合葬墓誌 第四」とあり、別面に「共四」とあることから、本来は4枚組であった墓誌の4枚目であることがわかる。Photo_20250401060602
 「黒色土器 広口壺」(バンチェン/タイ・紀元前2500–1500年)が展示されている。
 これは、ユネスコの世界遺産にも指定されているタイのバンチェン遺跡から出土されたものである。丸底に高台(こうだい)をつけて安定させた壺である。うねるような細い線が全面に刻まれ、そのまわりを櫛歯(くしば)文様でびっしりと埋めている。表面は磨いて艶を出している。この様式の壺は、バンチェン文化の最初期から登場しているそうである。

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