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2025年5月

宇都宮散策 春の首都圏小旅行(6)

1.栃木県立博物館
三嶋通庸
 明治14年(1881)6月、水にも困る「不毛の地」と呼ばれた那須連山の山麓に広がる那須野が原で、和歌が詠まれた。
 「神代より荒れし那須野を拓(ひら)きつつ 民栄えゆく里となさなん」Photo_20250531073101
 作者は三島通庸(みしま みちつね)である。開発への強い思いを歌に込めた三島は、後に第3代栃木県令(知事)に就き、この地の開拓の祖となった。
 「土木県令」の異名で知られる三島は就任翌年の明治17年(1884)栃木町から宇都宮町への県庁移転を断行した。陸羽街道(国道4号線)や塩原新道(国道400号線)など県内交通の大動脈の整備にも貢献した。
 とくに県北地域の都市開発に尽力した。那須疏水の開削、那須野が原の開墾に力を注いだ。強力に土木工事を進め「鬼県令」とも言われた三島だが、那須野が原博物館の松本裕之(まつもと ひろゆき)館長は「まさに本県のインフラのベースを築いた人物」と讃える。
 那須塩原市内には今も「三島」の地名が残り、三島をまつる神社では毎年、例大祭が催されている。

旧木村輸出織物工場
Photo_20250531073201  足利市にある木村織物工場は、初代木村浅七(きむら あさしち、天保14年1848~大正5年1916)が建設したもので、足利で最も古い近代工場のひとつとして知られている。
 旧工場棟は明治25年(1892)、木造平屋建寄棟(よせむね)桟瓦(さんがわら)葺き建築として建造された。外観は伝統的な土蔵造りだが、小屋組に純洋式の洗練された骨組みを用いているところに大きな特徴がある。
 また旧事務所棟は明治44年(1911)建築と伝えられる木骨石造2階建・寄棟越屋根石綿スレート葺きの洋風建築であり、当時としては本格的なルネサンス風の外観を備えている。
 これらの2棟は県内でも有数の特徴ある工場建築、本格的な洋風建築で、「織物のまち足利」の歴史を語る上で欠かせない貴重な明治の産業遺産である。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(5)

1.栃木県立博物館
近世下野と二宮尊徳(金次郎)
Photo_20250530071601  江戸時代後期、関東の村落部では都市部への人口流出とそれに伴う耕作放棄地の増加が問題になっていた。中でも荒廃が著しかったのは下野国であるといわれている。下野国では享保6年(1721)に約56万人だった人口が、弘化3年(1846)には約37万8千人にまで減少していた。この村落の復興事業に力を尽したのが二宮金次郎(尊徳)であった。
 二宮金次郎は天明7年(1787)相模国(現在の神奈川県)の百姓の家に生まれた。努力の末に、没落した二宮家の再興を果たし、領主である小田原藩家老の家政再建に貢献したことから、35歳の時に同藩の分家宇津(うつ)家が治める下野国桜町領(現在の真岡市)の復興を任されることになった。こうして二宮尊徳は家族とともに下野国に移住した。
 当時の桜町領は直近100年間の間に人口が半分以上減り、多くの田畑が荒地になっていた。当然ながら宇津家の財政も大きな赤字に苦しんでいた。尊徳は桜町領で10年にわたって復興事業に取り組み、ついに復興を果たした。最後の年には米の収穫量が事業開始前の2倍になったため、宇津家と領民から頼まれて、桜町領での事業を5年延長した。
 この事業を通して確立された尊徳の復興策は「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれた。報徳仕法は各地で反響を呼び、関東地方各地から尊徳の教えを受けようと弟子たちが集まるようになった。天保の改革を進めていた江戸幕府も報徳仕法を高く評価し、尊徳を幕臣に取り立てた。Photo_20250530071602
 そして尊徳は67歳の時に、全耕地の23%が荒地になっていた日光神領89カ村(現在の日光市全域と鹿沼市北部)の復興を命じられた。尊徳は、今市宿(現在の日光市今市)に拠点を設けて仕法を開始したが、その矢先に病に倒れて亡くなってしまった。仕法は息子に引き継がれて江戸幕府がなくなるまで続けられた。日光神領の仕法の成果は荒地復興、新規開発、植林を合わせて4.79㎢(東京ドーム約102個分)にもなった。
 県内には尊徳一家が暮らした桜町陣屋をはじめ、報徳仕法にまつわる史跡が多く残されている。また、真岡市の二宮尊徳資料館や日光市の二宮尊徳記念館では多くの貴重な資料を見ることができる。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(4)

1.栃木県立博物館
壬生藩校「学習館」Photo_20250529060201
 壬生藩校であった「学習館」と推定される写真2枚が、壬生町歴史民俗資料館の調査で初めて確認された。明治5年(1872)ごろの撮影で、近世末期の建物が写されているものと考えられ、確認されている藩校の写真としては全国で最も古い可能性がある。校舎の全景や生徒の様子が収められており幕末維新史の貴重な写真である。

鹿沼市の彫刻屋台
Photo_20250529060301  鹿沼の屋台は、全面が「豪壮な彫刻」と「緻密な彫刻」で飾られている点や骨組みの部分に筋交い等を有しない構造に特徴があり、200年の時の流れを経て「彫刻屋台」として現在に至っている。
 この地域は、例弊使街道と日光西街道の宿場町であったことから、日光山の彫刻師が冬場、仕事が無く下山し、あるいは日光の帰り道に宿場や村の依頼により造ったものであるという伝承がある。
 構造は、単層館型で四つ車、屋根は唐破風つきで、周囲に彫り物が嵌め込まれている。内部は、内室と芸場の2室からなり、内室には囃子方が入り、側面に障子を入れ、高欄を後ろに回し、芸場側面に両面彫りの脇障子を入れ、屋根は唐破風つきで、棟は箱棟となっている。
 屋台の大きさは巾3m・奥行き3.6m・高さ3.6mが標準である。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(3)

1.栃木県立博物館
『解屍新編』と諸葛琴台
 時代が下り近世のコーナーで、先ず目についたのが『解屍新編』(人体解剖書/写本)である。
 この書物に先立って、京都の河口信任は原田維祺とともに、京都西土手刑場で明和7年(1770)4月、みずから執刀して刑死体の解剖を行い、2年後その記録と画を入れて出版した。河口信任は古河藩医であり藩主土井利里が京都所司代に任じられたのに随行して入洛していたのであった。こうして『解屍編』という書が明和9年(1772)年刊行された。
 この『解屍編』に疑問を抱いた下野国那須郡出身の儒者諸葛琴台(君測)が監督して、寛政年間(1789~1800)に日光で行われた解剖を晁貞煥(俊章)著、元正匡輔画で図示したものが『解屍新編』であった。本書に「日光山御医師山中療養院蔵」の蔵印があることから,山中療養院の旧蔵であったことがわかる。京都大学富士川文庫にも1点あるという。
 なお、明和8年(1771)3月、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、江戸小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen " をそれぞれ所持していた。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案した。こうして翻訳書ができ、安永3年(1774)日本橋で『解体新書』が刊行された。
 安永から寛政年間の短い期間に、このようにわが国の各地で人体解剖についての関心が高まり、江戸・杉田玄白らの『解体新書』のみならず、日本各地であいついでレベルの高い研究書が出版されたのであった。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(2)

1.栃木県立博物館Photo_20250527055801
古代の宇都宮
 古代の宇都宮市周辺は、ほとんど海面の下にあり、宇都宮市は断続的な島の集合体のような岬の先端付近に位置していたらしい。日光もここから少し北西にあった岬の先端にあった。
 その海底が隆起して現在の内陸の栃木県となったので、西部の山岳地帯からは距離があるのだ。

縄文犬
 栃木市藤岡神社遺跡から、縄文時代前期(約3000年前)の土杭からイヌの骨が発見された。性別不明、頭骨の分析から年齢2歳、肩までの高さ37センチと推定された。現在の柴犬ほどの大きさという。ムラに隣接した場所にミニチュア土器や石鏃(せきぞく、矢じりのこと)とともに丁寧に埋葬されていたので、猟犬としてヒトに飼育されていたものと推測されている。この縄文犬を復元した模型が展示されている。Photo_20250527055901
 このころのイヌは、体高が40㎝ほどと小型で、頭部に段(トップ)が無く、オオカミやキツネに似て目が細く、手足が太く、胴長で野性味が強いという。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(1)

 私は若いころ、仕事で栃木県の中堅企業の工場をなんどか訪れたことがあったが、栃木の街をゆっくり見てまわるという機会はなかった。今回、はじめて宇都宮市を散策することとした。
 朝早めに東京の宿を発ち、9時半ころに宇都宮駅に着いた。さっそく観光案内所に立ち寄り、マップを入手するとともに、観光散策のアドバイスを受けた。
 栃木や宇都宮市を知るために栃木県立博物館にはぜひ立ち寄りたいが、駅からは少し距離があり、公共バスで行くことができるが、アクセスの頻度は多くない。レンタサイクルはほぼサービスがなくなったが、LUUPという新しい電動アシスト自転車の借り出しができると言う。LUUPのガイドブックをいただき、それに沿ってスマホで登録手続きをして、マップを追ってLUUPステーションにたどり着き、なんとか1台の電動アシスト自転車を借りだすことができた。

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1.栃木県立博物館
中央公園
 宇都宮駅近くのLUUPステーションから栃木県立博物館までは3.5キロ程度の道程である。先ず大通りを西に進む。広い平坦な道路で、さすがに関東平野の北辺なのか、山は遠方に見えるけれども、大阪府下の街のように「里山」というべきものはないようだ。宇都宮記念病院、裁判所、いくつかの学校などの前を経て、桜通りという2号線に至り、左折して少し行くと文星芸大附属中学校・高等学校、宇都宮短大附属中学校・高等学校などを経て、中央公園に着く。この公園の奥に栃木県立博物館はある。Photo_20250526061001
 中央公園は、とても広くて、美しい。平日のためか、広大な公園に人の気配はごくわずかである。公園の入口から栃木県立博物館までは数百メートルあるが、自転車を降りて押して歩くことが求められている。
 公園の景観を楽しみつつ奥へ歩き、ようやく栃木県立博物館の入口に着いた。
 栃木県立博物館に入ると、ここも来場者はごく少なく、ゆっくり贅沢な時間を過ごせた。興味を感じた展示のみ、簡単に記しておく。

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東京フラワーカーペット 春の首都圏小旅行

Photo_20250525054701  東京駅をじっくり見たあと、ふと東京駅丸の内中央から皇居の方向を見ると、広い道の石畳の上に、なにか敷いたようになっている。
 近づいてみると「東京フラワーカーペット」と題して、花絵の展示をしていた。
 「花絵=インフィオラータ」とは、イタリア語で『花をまく』という意味であり、400年以上続くイベントである。市民が教会までの道のりを花や種子等で宗教画を描くもので、イタリアやスペインを中心に世界各国で現在も盛大に行われているという。
 花の短い命の中で成り立つアートは『エフェメラル・アート=儚い命のアート』とも呼ばれ、毎年その瞬間の美しさを求め、会場には多くの鑑賞者が訪れるという。Photo_20250525054702
 日本でも2001年から20年間、市民アートイベントとしてインフィオラータを各地で開催、これまでに350か所以上の会場で作品を作り上げてきた。
 インフィオラータの最大の魅力は、作品をアーティストひとりではなく、市民が協力をして作り上げるその過程にある。大きな花絵は1人の力では完成できない。チームで創る楽しさ、作品を創り上げる達成感、そして完成した花絵の美しさに、完成後は誰もが心を暖かくする。
Photo_20250525054703  今年の「TOKYO FLOWER VARPET 2025」は、江戸の文化を伝える浮世絵で描いた歌舞伎絵を約50,000本のカーネーションの花びらと約350鉢の胡蝶蘭のリサイクルフラワー、カラーサンド、セリン(木くず)を画材として。200名の市民参加の人びととともに創作したもので、日本の玄関口たる行幸通りに13枚の花絵を敷き詰めたのであった。
 地面の上に数メートル四方にわたる大型の花絵の作品があるので、どうしてもかなり斜めから眺めることになり、実感がわかるようなリアルな撮影が難しい。かなり斜めから眺めた平たくなってしまった写真だが、敢えて掲載する。

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東京駅 春の首都圏小旅行(下)

 設計された駅舎は鉄骨煉瓦造のもので、荷重を煉瓦の壁面だけではなく鉄骨を組んだ柱や梁で支える構造になっていた。煉瓦のみで建物の強度を確保しようとすると、壁は肉厚となって内部の面積が狭くなり、窓や扉などの開口部の面積も制約を受けた。それに対して東京駅では、鉄骨が強度を受け持つことによって壁を薄くでき、煉瓦の建物としては大きな室内面積を確保できるようになった。また、折しも鉄筋コンクリートの適用が始まる時代であり、それまで煉瓦造の建物では内部の床に木材を使うことが多かったが、東京駅では防火構造の鉄筋コンクリートスラブを床材に導入するなど、新しい材料の組み合わせによって大きなドームを備え得る建物を可能とした。Photo_20250524055801
 東京駅は石帯(せきたい)により水平線を強調したルネサンス風建築となった。当時のように鉄筋コンクリートの技術が発達していなかった時代には、大規模な建物は煉瓦積みか石積みで造るほかなかった。その石帯には、花崗岩粉に石灰とセメントを調合したものを塗った後、清水で洗い出して花崗岩の表面を模した擬石(ぎせき)という材料を導入した。
 後に、東京駅の外観が、オランダのアムステルダム駅に似ているとの指摘もあったが、辰野がアムステルダム駅を参考にしたとの証拠はなく、どちらの駅も通過式の配線路を前提にその線路の脇に駅舎を配置することから、構成は類似せざるを得ないこと、またオランダのゴシック・リヴァイヴァル建築は、辰野の歴史主義建築に通底していることもあり、両者が似た印象を持つことはある意味必然であると指摘されている。
 東京駅の丸の内駅舎は第二次世界大戦後なんども建て替えの計画が出た。
Photo_20250524055802  それに対し昭和52年(1977)10月、日本建築学会から東京駅を慎重に取り扱うことを求める要望書が国鉄総裁に提出された。さらに昭和62年(1987)12月には、日本建築学会から「東京駅丸の内口駅本屋の保存に関する要望書」がJR東日本社長に提出された。重ねて「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」も発足して、原状の復原を目指した要望書提出の活動が始まった。
 平成11年(1999)10月、当時の石原慎太郎東京都知事と松田昌士JR東日本社長の会談で、創建当初の形態に復原することで基本認識が一致した。
 平成19年(2007)5月末、起工式が行われて保存復原工事が着手された。この復原では、赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用することが目的とされ、耐震性能を確保する必要があった。この耐震性能を満たすために、在来工法のままでは壁の5割ほどに補強を施す必要があったが、免震工法を取り入れると耐震補強はほとんど不要であることが判明した。

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東京駅 春の首都圏小旅行(上)

 Photo_20250523054401 東京駅は、これまでなんども見ながらもなんという感慨もなく過ごしてきたが、近年の大改修の後ということを知り、改めて眺めると、建物の美しさに新鮮な感慨を覚える。
 明治21年(1888)8月、新橋と上野を結ぶ高架鉄道の敷設とともに、中央停車場を建設することが決った。明治31年(1898)ドイツから技術者フランツ・バルツァーが新たに招聘され、その設計に着任した。
Photo_20250523054402  しかしバルツァーの設計は、彼の日本贔屓が災いして、半ば日本建築のテイストを含むことが、専ら西欧化を目指していた当時の日本指導層の反感を買い、明治36年(1903)12月に、東京大学教授辰野金吾に改めて設計が依頼された。設計に際して辰野が受けた注文は、バルツァー案では建物が5棟並べられていてみすぼらしいので、建物を連続させて見栄えを壮観なものにしてほしい、ということであった。結果的に辰野率いる辰野葛西建築事務所による駅舎設計は足掛け8年にも及んだ。
 明治43年(1910)12月、ようやく中央停車場の設計作業が完了した。

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豊洲散策 春の首都圏小旅行(3)

豊洲公園とららぽーと豊洲
 市場を出て、ゆりかもめの高架線路に沿った道路を北東に進む。Photo_20250522055901
 公園まで行く途中、ゆりかもめ新豊洲駅の前には「チームラボプラネッツ」というコンピューター・グラフィックを用いた新しいアートシーンを体験できる美術館がある。しかしここは事前予約しないと入場できないとの由で、今回は諦めざるを得なかった。
 さらに少し行くと「がすてなーに・ガスの科学館」という施設がある。残念ながらここも月曜日は休館日だそうだ。そしてその横に、豊洲公園がある。
 豊洲公園は、2面を晴海運河に面して立地し、北西にららぽーと豊洲が、北東に三井住友銀行豊洲支店がある。三井住友銀行の一階部分の公園側には、木造のブルーボトルコーヒー店がある。
Photo_20250522055902  1200メートルほどを歩いたので、気分転換を兼ねてベンチにひと休みした。となりに座ったカップルの話では、今日は平日で空いているこの公園も、週末にはかなりの人出になるという。それでもブルーボトルコーヒー店には、かなりの客が入っているようだ。
 春の快晴で、しばし快適な空気を楽しんだ。
 公園を出て、すぐ隣接する「ららぽーと豊洲」に入った。最近郊外にもたくさんできている現代的なモール・ビルである。地下1階から3階までがさまざまな店舗がゆったり配置され、4階は医院と薬局がある。複数のゆったりしたエスカレータで各階がつながれ、家族でのんびりできる雰囲気もある。
 ららぽーと豊洲の東側にゆりかもめ豊洲駅があり、隣接して都バスのバス停があった。帰途は都バスで勝鬨橋などを経て、東京駅に戻った。

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豊洲散策 春の首都圏小旅行(2)

千客万来(続)
Photo_20250521060501  とりあえず、せっかく鮮魚の市場まで来ているので、海鮮料理でも食したいと店をのぞいたが、想定していた以上に高価である。通路の真ん中付近にある階段を登って3階の店舗に行くと、相対的にはより庶民的なフードコートがあり、価格も比較的安価だったので、ここで海鮮丼をいただいた。相対的に安価とは言え3,300円ほどと安くはないが、新鮮な食材のお蔭か味はじゅうぶん満足した。円安効果もあるのか、多数派を占める外国人客からみるとリーゾナブルな価格で、エキゾチックでおもしろいエリアと感じるのかも知れない。1_20250521060501
 通りの奥には、温泉もあり、また宿泊施設も設えられている。
 通りの突き当たりから下りの石段を降り、1階の店舗街になる。
 ここは大きな道路に面したひとつながりの商店街となっていて、2階に比べると人出は少ないようだ。
Photo_20250521060601  築地は古くからあり、現代の建築基準からかなり外れた危うい、しかしおもしろいあばら屋の店舗がたくさんあった。むしろ、その雑々とした少し怪しげな雰囲気が、外国人たちの興味をさそったのかも知れない。円安の見かけ上の安値が崩れても、この豊洲千客万来が引き続きインバウンド客で賑わうか否かは、これから様子を見なければならないだろう。

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豊洲散策 春の首都圏小旅行(1)

千客万来
 今年も春の首都圏小旅行を楽しんだ。
 初日は新幹線の移動もあり、半日余りと時間も少ないこともあり、新設なった豊洲市場だけでも見ておきたいと、ゆりもめで訪れた。
 ゆりもめは、四半世紀余り前の会社勤務現役時には、東京ビッグサイトに行くためによく利用したことを思い出す。仕事で利用するときは、さほど車窓からの景観に関心が無かったが、今になってこうして高みから東京湾を囲む都心のビル群を見下ろすと、なかなか壮観であることに改めて気づいた。平日の昼時でもあり、社内乗客の多くは観光客、しかも過半数が外国人で賑わっている。彼らは思い思いに車窓の景観を写真撮影している。2_20250520053501
 終点豊洲駅の手前2つめの市場駅で降りる。降り立った場所は2階であり、湾曲した広い通路を経て、豊洲市場の2階につながっている。
 豊洲市場は、現在も都知事を勤める小池百合子氏が中心となって、築地市場の存続・継承などですったもんだの後、平成30年(2018)10月開場した新しい場である。
 50年先まで見据えた首都圏の基幹市場として、築地市場が果たしてきた豊富で新鮮な生鮮食料品流通の円滑化と価格の安定を維持する機能に加え、消費者の意識が高まっている食の安全・安心の確保、効率的な物流の実現など、産地や顧客・消費者の様々なニーズにも対応すると謳う。さらに、環境に配慮した先進的な市場とするとともに、築地市場の築いてきた歴史と伝統を継承・発展させていくことで、豊洲市場の魅力すなわちブランド力をいっそう高めていくことを目指している。
 Photo_20250520053601 市場の取引は、昼前にもなるとほぼ終盤だという。もっとも素人の私は市場取引のプロの現場に特段の関心も知識もないので、昼時でもありまっすぐに新しく飲食店エリアとなった「千客万来」に向かった。
 これはさほど大きな飲食街ではないが、当然ながらいずれの店舗も真新しく、その狭い通路は外国人を中心にずいぶん賑わって、いわば満員状態である。
 駅からの通路の連続で、まずは2階の飲食店の通りから入った。通りの中ほどには木造の火の見櫓が設えられ、折しも観光客向けのエンターテインメントとして、武士の装束をまとった女性二人による殺陣の実演ショーが行われていた。

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姫路城好古園(4)

5.夏木の庭
 Photo_20250519054801 「流れの平庭」に隣接して、水の流れは繋がりながら、庭を松明垣で区切った「夏木の庭」がある。ここは夏木すなわち落葉樹ばかりを配した庭で、新緑から紅葉まで季節感が、景観の移り変わりで感じられる場所となっている。ここにも「鷺望亭」と名づけられた四阿(あずまや)が配置され、ここからは姫路城天守閣が望めるとあったが、四阿は来場者で混雑していて私は見ることができなかった。
 ナツツバキ、板屋楓(いたやかえで)、山紅葉、桂、幣辛夷(しでこぶし)柏などの落葉樹が植えられている。秋の紅葉時には美しいのだろう。


6.築地池泉の庭と竹の庭
Photo_20250519054901  「夏木の庭」から「松の庭」「花の庭」を通り、「築地池泉の庭」に至る。「築地池泉の庭」と「竹の庭」は、ひとつながりの区域として塀で囲まれ、出入り口が付けられている。
 「築地池泉の庭」は、周囲の水系とは独立のこじんまりした池泉を配する典型的な日本庭園となっている。紅葉や黒松など、とくに日本的な植木が多い。池の北側には亀を、南側には鶴をイメージした岩島を配している。こここには茅葺の四阿「臨泉亭」があり、説明によれば冬の降雪時には風情ある景観をもたらしてくれると言う。
 「築地池泉の庭」の南側には、池がなく、さまざまな竹が生い茂る「竹の庭」が隣接する。ここには15種類の竹を植栽して、まんなか付近に八角形の和傘をイメージした四阿「聞竹亭(もんちくてい)」がある。この四阿も、来場者が大勢座り込んでいた。Photo_20250519054902
 好古園は、さほど大きな規模ではないが、ていねいに造成された庭園と建物は、なかなか見ごたえがあった。京都などに比べると入場者も過密ではなかったが、レストラン、茶室、四阿のような場所に限ってはほぼ満席であつた。また、オーストラリアや欧州からの団体旅行客もそこそこ目立った。

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姫路城好古園(3)

3. 双樹庵
Photo_20250518060001 「双樹庵」は、裏千家第十五代家元千宗室氏の設計・監修により、京都の数寄屋大工が施行した本格的数寄屋建築の茶室である。姫路城天守閣を向いて建てられているというが、私たちが入ることのできる場所からは、よくわからなかった。ここでは昼時の短時間ではあるが、来訪者が茶室に入場して抹茶をいただくこともできるようだ。しかしレストランと同様に、とても混雑していて現実に喫茶できるチャンスは少ないようだ。


4.流れの平庭
 Photo_20250518060002 ここは、どうやら「御屋敷の庭」の池泉とは独立に、小川の流れをひき込んで池とし、流水を眺めることのできる庭園となっている。
 この場所は「平庭」と名づけるとおり起伏はごくわずかで、岸辺に「流翠亭」という四阿(あずまや)がある。流翠亭は、木造で、土足でなければ上がり込んで腰掛けることができる。流れる水はゆったりしていて、庭園全体としても伸びやかな落ち着いた雰囲気がある。

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姫路城好古園(2)

2.御屋敷の庭
Photo_20250517060501  好古園の入口からは一本の細い道が「御屋敷の庭」に導いている。「西の御屋敷」は、江戸時代初期の元和4年(1618)本多忠正が造営し、その本多氏の後入封した榊原氏の時代に榊原政岑(さかきばらまさみね)が新吉原から高尾太夫を落籍して住まわせたと伝える。
 この政岑の派手な豪遊は、折しも質素倹約令を出していた将軍吉宗の怒りを買い、吉宗より強制隠居・蟄居を命じられ、家督は嫡男の政純が継いで、越後高田に懲罰的な転封を命じられた。

潮音斎からの眺め
 Photo_20250517060502 御屋敷の庭は壁で囲まれていて、ここにも入口がある。入口を入るとすぐ正面に「活水軒」というレストランがある。献立説明板を見ると、和洋を問わず予想以上に多種のメニューが提供されていて、しかもさほど高価ではない。ただ問題はこの好古園で唯一のレストランであり、とても混雑していることである。混雑具合を示すディジタル表示があり、50組以上の待ち行列が表示されていた。
 活水軒から、「唐傘割工法(からかさわりこうほう)」によるという優美な曲線の渡り廊下を経て、美しい池を眺めながら「潮音斎(ちょうおんさい)」に入る。
 池泉を中秋の名月とともに眺められるようにつくられた建物であり、最良の方向に向けた観庭台(かんていだい)があり、姫山樹林を借景にした雄滝と大池を眺望する。Photo_20250517060601

池端に降りてみて
 潮音斎は、建物のなかから池泉をながめる施設であるが、もちろん庭に出て、歩いて野外の景観を楽しむこともできる。
 池には、途中にくびれのように幅の狭いところがあり、そこには石橋がかかっていて、渡ることができるようになっている。
 この度は、桜の鑑賞を主目的に姫路城に来たのだが、この好古園はそんなに桜は植えられていない。遊歩道の一部に小ぶりの枝垂れ桜が在ったりするが、それだけである。場内の整備と警備をしている従業員の方に聞くと、この場所は秋の紅葉がもっとも美しいと仰っていた。
Photo_20250517060701  池を漫然と眺めていたときには気づかなかったが、この池には実はたくさんの大きな鯉が飼われていた。庭園の維持管理をする従業員の方が、桶とバチを持って池の端に来て、突然パタパタパタとバチを打って音を立てた。するとその場所に多数の鯉が集まってきた。その昔、映画『華麗なる一族』で豪邸の主が手を拍つと、大勢の鯉が集まるというシーンがあったのを鮮明に覚えているが、ここではバチの音が相図らしい。この音の元に集まれば、エサがもらえることを鯉たちはよく知っているようだ。

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姫路城好古園(1)

 姫路城に花見に出かけたとき、お城の一画にある大名庭園「好古園」を初めて訪れた。
1.好古園の名の由来と歴史
Photo_20250516054701  姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、姫路市制百周年を記念して建造された。姫路城を背景にした池泉回遊式の約1万坪の日本庭園で、文化財の保全と活用を兼ねた新しい文化施設として平成4年4月(1992)開園した。私は、半世紀以前の高校時代からすでに10回余り姫路城を訪れたが、この庭園は比較的新しい建物なのである。
 整備に先立って7次にわたる姫路城西の丸の発掘調査が実施され、元和4年(1618)本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、通路跡などがほぼ正確に確認された。
 姫路城西の丸一帯の豊かな原始林を借景とした庭園の計画・設計は、京都大学中村一教授の設計・監修によるものであり、確認された屋敷割や通路の地割を活かした9つの大小庭園群、およびアプローチ樹林帯、広場で構成している。Photo_20250516054702
 この「好古園」の名称については、竣工・開場に先んじて愛称を公募して選定した結果、江戸時代後期にこの城の城主となった酒井忠恭(さかい ただずみ)が、寛延2年(1749)前任地上野国厩橋城(まやばしじょう、場所は現在の前橋市)から移ってきたとき、厩橋城で経営していた藩校「考古堂」を姫路城内大名町東南総社門内の元藩会所跡に移設したことに因んでいる。
 その後、好古堂は桜町大手門前南側を経て、天保13年(1842)酒井忠学により大手門西側(現在の好古園入ロ付近)に移転拡張された。
好古園入ロの扁額は、酒井藩校「好古堂」の督学(とくがく: 学校の監督責任者)であった松平孫三郎が後に開いた家塾において塾頭を勤めた結城義聞の子息で元東京大学教授結城令聞(ゆうきれいもん)氏の書である。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(6)

アンゼルムスここにありき
 アンゼルムが若いころ、父の残した軍服を着て、ナチス式の敬礼をした写真作品をいくつも発表していたことはすでに述べた。その制作活動の展開として、19世紀初頭のドイツ・ロマン派の名画カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの「雲海の上の旅人」という作品からヒントを得て、雲海ではなく海岸で海に向かってナチス式敬礼をする人物を撮った写真作品がかつてあって、それと同じ構図で森林に向かって立つ男の作品があった。
 この展覧会でも、アンゼルムのその活動に関係する作品が展示されている。

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 「アンゼルムスここにありき 」(2024)は、人物は描かれないものの、そのシチュエーションを踏襲して、ナチス式敬礼する男が向き合う対象を描いている作品である。
 ここでは海のかわりに、おそらくアンゼルムの故郷のシュヴァルツヴァルト(黒い森)を描いているのだろうと推測する。

 アンゼルムの「異様」とも言える巨大な作品を展示する場所として、二条城は最適であった。最高権力者たる将軍の居所として建てられ、最後の将軍徳川慶喜はついにここを出て将軍職を行うことがなかった。展示会場と巨大な作品が、心地よい相乗効果を発現していた。
 アンゼルム・キーファーは現代美術家の中でもとりわけ作品における「主題」「意味」を重視する作家であるとされる。コンテンポラリー・アートにおける表現主義的傾向を「新表現主義」(Neo Expressionism)と称するが、アンゼルムはアメリカのジュリアン・シュナーベルらとともに、こうした傾向の代表的作家と見なされている。
 アンゼルム・キーファーは、私がこれまで観てきた画家・芸術家とは、その作品の物理的寸法においてだけでも驚異的な相違点があり、そのうえとりわけ哲学的、詩的であり、激しく思索・思想の表現を追求する、なかなか難しいアーティストであった。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(5)

「古代の女たち」シリーズ
 アンゼルムは1980年代以降、これらの縦横ともに3メートル以上、ときには10メートル以上におよぶ巨大な画面の作品に取り組むようになった。実物の藁が塗り込められ、あるいは鉛のオブジェが貼り付けられ、素材の物質性を強調した作品が多くなった。こうした作品にもワーグナーの作品名や古代の神話などにちなんだ題名が付けられ、その題名はしばしば画面に書き込まれた。
 1992年、彼はフランスに拠点を移した。生産を辞めた古い工場を買い取り、工場内の広い空間で巨大な作品を相次いで制作した。映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』では、アンゼルムが自転車で広大な工場内を動き回り、ハシゴ車に乗って巨大な作品を制作するアンゼルム自身の姿が描かれている。
 作品のテーマも、さきの大戦のみならず、ドイツの過去を遡り、さらにドイツに限らずヨーロッパの歴史をさかのぼり、古代ギリシア、古代ローマ、古代エジプトにまで思索を巡らせて作品を制作した。
 「古代の女たち」シリーズと呼ばれる多くの女性像がある。

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 これらは、ステンレス鋼、鋼鉄、鉛などで女性の装束を形成し、その頭部を欠き、頭部のかわりに書類、書物、岩石、蛇、その他多様なもろもろを載せた、いささか異様な造形である。サッフォー、シェキナ、ソラリスなどの古代の女性の名がつけられている。
 サッフォーは、古代ギリシアのレスボス島出身の詩人であった。愛と友情をテーマにした詩を数多く残し、その独特なスタイルとテーマは後世の文学や芸術に大きな影響を与えた。
 シェキナ(shekhinah)は、「住居」または「定住」を意味するヘブライ語であり、神の存在の住居または定住を意味する。それが展開して、安息日の花嫁としてのシェキナのテーマが派生した。
 ソラリスとは、元来太陽に関わる言葉で、古代ローマの太陽神の名でもあった。
 映画のなかでアンゼルムは「私はこれら古代の女性たちのことを何も知らない。彼女たちは、自らなにかを発し、残すことができなかった。残されたものはすべて男たちによる伝承のみであった」と語っている。女たちは、存在を正しく認められず、発言できず、抑圧されたまま世を去った、というのである。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(4)

モーゲンソー計画
 ボイスの下で学ぶうちにアンゼルムは、ドイツ文化の深淵を探る一方で、日用品を作品に取り入れる手法も取り入れた。画家として先行していたゲオルグ・バゼリッツのスタイルにも影響を受け、草や藁など損傷しやすいものを絵画に使うようになった。

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 「モーゲンソー計画」(2025)という御清所(おきよどころ)の一室床全面を覆う、巨大な彫刻ともインスタレーション作品ともとれる作品がある。台所の一室である御清所には、4畳の大きさの大きな囲炉裏があり、料理を調理したり温めたりする台所の中核の部屋であった。この場を使って展示しているのがこの作品である。スチール、砂、綿、⽯膏、布、粘⼟、アクリル絵具、シェラック、⾦箔、テラコッタ、⽯、鉛などなど、多様な材料を駆使して、小麦とトウモロコシの畑が再現されている。Photo_20250513054601
 「モーゲンソー計画」というタイトルは、第二次世界大戦の末期、連合国側の第2回ケベック会談で、アメリカのモーゲンソー財務長官から、ドイツは工業が強くて、ロシアはじめ多くの隣接国の工業を破壊させたことに鑑みて、ドイツが再び軍事的脅威にならぬよう、敗戦国ドイツを純農業国にしてしまうという案が出されたことからきている。当然それは、非情で過酷なプランであり、ドイツには到底承服しかねるものであった。
 この作品の小麦畑のなかほどに、一匹の金の蛇が潜んでいるのが見える。そんな勝手なことはさせない、ひそかにそんな考えを覆してやる、とのアンゼルムの意思を暗示しているのだろうか。
同じように、本や瓦礫など、さまざまなモノが畑のなかに潜んでいる。分断されたドイツの国家、破壊された文化・学術などを象徴しているかのようだ。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(3)

オーロラ
 アンゼルムは、青年時代はじめフライブルク大学で法律を学んでいた。しかし偶然、フランス・リヨンのラ・トゥーレット修道院を見て、衝撃を受けた。それはル・コルビュジェが設計した建物であった。
すぐにアンゼルムは大学を中退し、美術に転じた。カールスルーエの大学、次いでデュッセルドルフ芸術アカデミーで絵画を学び、ヨーゼフ・ボイスらに師事した。
 アンゼルムは、18歳のころはゴッホが好きであった。しかし彼自身は美術へ、ゴッホとはまったく違うアプローチで参入して行った。カメラを用いて、父が残したドイツの軍服を自ら着て、右手を差し出すナチス式敬礼をして、フランスやイタリアの、第二次世界大戦のときには戦火に見舞われた土地を訪れ、ナチス式の敬礼をして立つポーズの自撮り写真を撮り続け、「占領」というタイトルのシリーズ作品とした。そのポーズは、そのころドイツでは禁止されていて、彼の行動と写真作品は大いに物議を醸したという。
 これらの活動からはじまったアンゼルムの作品は、古代の神話からナチス・ドイツのいまわしい時代まで含めたドイツの歴史全般をテーマとし、第二次大戦後のドイツが忘れようと努めていた暗い過去をも白日の下にさらそうとするものであった。
 「オーロラ」(2019–22)という、これも幅5メートル弱の大きな絵画がある。

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 題名の「オーロラ」は、日露戦争のときのロシア艦船の名に因んでいるらしい。
 画面の下の方には、実物の乳母車が貼り付けられている。その乳母車のすぐ上には、焼けて建物の骨組みの一部のみが残された学校のような大きな焼け跡が描かれている。映画では、これは日本の広島のある小学校が原爆で焼け、その焼け跡にあった光景からヒントを得たものだ、とのアンゼルム自身の発言があった。乳幼児にも容赦なく災害をもたらす戦火を表しているのだろう。
 乳母車は、映画『戦艦ポチョムキン』の有名なオデッサの階段のシーンに登場する、階段を転げ落ちる乳母車から引用されたモチーフらしい。戦争、弾圧、戦災に苦しめられる民衆がテーマであることは明らかだ。
 アンゼルムは、戦後なんどか日本を訪れ、日本の歴史や文化に大いに関心を注いできたという。日本の金箔を用いた絵画にとても興味を惹かれた、とも話していた。「金は不変で残るという優れた特性がある。一方錆は時間の経過とともに変化するという特性があり、これも時間の経過を表現する大事な画材だ」と話している。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(2)

オクタビオ・パスのために
 台所の建物に入ると、すぐに対面するのは「オクタビオ・パスのために」(2024)という幅10メートル近くにおよぶ巨大な絵画である。

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 巨大なカンヴァスの上に、金属、土、砂、木などを吹き付け、塗り込んで、部分的にはレリーフのように盛り上がっているところもある。  
 画面は混沌としていて、いったいなにが描かれているのか、直ちには判然としない。ただ、中央部にあるレリーフのように浮き出た部分は人間の顔で、逆さになって大きく口を開けて絶叫しているようだ。周りの不気味な木の幹か根が走るように見えるものは、よくわからないが掘り削られた土の表面のようにも思える。もしそうなら、戦場の塹壕の内側なのだろうか。
 タイトルにあるオクタビオ・パスとは、メキシコの詩人かつ外交官で、ノーベル文学賞を受賞した文学者であり、また第二次世界大戦後は日本やインドに駐在したメキシコ大使でもあった人だ。この人物も情熱的な反戦活動家であったらしく、このアンゼルムの作品も戦争に深くかかわるもののようである。
 アンゼルム・キーファーは、1945年ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ドナウエッシンゲンに生まれた。そこは、シュヴァルツヴァルト(黒い森)と呼ばれる地域で、深く暗い森が多いところであった。
 第二次世界大戦が終戦した年に生まれたアンゼルムは、幼少期に瓦礫と廃墟のなかで成長した。彼の実家は、戦災で焼失していた。そんな経験から、アンゼルムは独自の反戦思想を育み、1960年代の末からナチスを主題とした作品に取り組むようになったという。

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アンゼルム・キーファー:ソラリス展(1)

 アンゼルム・キーファーというアーティストの名を知ったのは、テレビの「日曜美術館」を見た家人からであった。家人の提案で、京都の二条城で開催されていた「アンゼルム・キーファー:ソラリス展」を一緒に鑑賞した。これは日本の歴史遺産二条城の台所、御清所(おきよどころ)、それらを囲む庭園を展示場として、アンゼルム・キーファーの巨大な作品を30点ほど展示する希少な催しであった。
 はじめて観るアンゼルム・キーファーの作品は、私にはとても難解であった。そのうえ、この展示会では作品の題名の表示も、学芸員の解説もない。
 私は、家人が見たテレビ番組の録画を見た。それでもよくわからず、ちょうどこの時期に、全国で唯一、京都のアップリンク京都というシネマハウスで上映していた映画『アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家』を観た。こうして、アンゼルム・キーファーというアーティストの経歴と作品について、広く、また繰り返し情報を集めて、ようやく少しずつ理解に近づいたように思えたのであった。

エジプト神話の太陽神ラーPhoto_20250510073901
 二条城の会場にくると、最初に目に入るのは二条城台所の建物の前に、聳えるように展示されている「ラー」(2019)という巨大な作品である。
 ラーRaというのはエジプト神話の太陽神のことである。よく見ると、絵画制作の道具たるパレットに巨大な羽根が生えたような形となっている。雄々しく逞しく力強く大空に飛び立つ姿である。しかしそれを支える柱の下には、巨大な蛇がとぐろを巻いて、頭に上に向けて翼に近づこうとしている。なにか不穏な雰囲気がある。この巨大彫刻は、基台部分は鋼鉄で、羽根の部分は鉛でできている。
 異様な形態なのに、不思議に二条城の背景に溶け込んでいるようにも見える。

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映画『教皇選挙』 春の首都圏小旅行

 雨で予定を変えた日の午後、東京在住の友人の提案で、急遽映画を観ることにした。
 ごく最近、バチカン市国のフランシスコ教皇が亡くなったこともあって、この映画も話題になっていたことはテレビなどで知っていたが、その内容についてはなにも知らなかった。
 教皇選挙の源語Conclaveとは、「鍵をかけて」というラテン語に由来する。死去した教皇の部屋を閉鎖して封印し、世界中から枢機卿がシスティーナ礼拝堂に集合し、外界から完全に隔離されたなかで全枢機卿が互選投票し、新しい教皇として全員の三分の二以上の票を獲得する枢機卿が選出されるまで、なんども選挙を繰り返すものである。投票・開票のたびに、投票用紙は焼却され、その煙がシスティーナ礼拝堂の煙突から放出される。投票結果が未決であれば黒い煙が、ようやく決まれば白い煙が出て、一般のひとびとが選挙の状況を知ることができる。Photo_20250509060201
 この映画では、選挙の運営をローマ教皇庁首席枢機卿たるトマス・ローレンスが勤める。彼は、自分の信仰心に確信を持てなくなり、生前の教皇に辞任を申し出たが、教皇から「君は教会を管理して欲しい」と告げられ、懸念とともに失望を感じていた。それは彼が宗教者としてではなく管理者として能力を認められている、と理解したからであった。
 国も人種も文化も大きく違う世界中から、百数十人の枢機卿が集まるのである。投票が始まる前から、互いに牽制し合い、論争しあい、喧々囂々の騒ぎとなった。水面下では陰謀や差別、スキャンダルの数々が犇めいていて、権力闘争も当然あった。大きくはカトリック教会の保守派と改革派の対立である。保守派は、ローマ教皇時代を理想とし、本来教皇はイタリア人であるベきで、長らくイタリアから教皇の選出がないことと、近年のカトリック教会の「過剰な寛容」に苛立ち、危機感さえ感じている。改革派は、世界の文化や歴史の変遷にカトリック教会も順応して、たとえばLGBTなどの進展にも柔軟に適応しつつ、より広範囲に人々に貢献すべきだと考える。各候補者たちには、この保守・革新の間にさまざまなレベルの階層がある。それぞれの国でカトリック教会のトップたる人びとなのに、このような場では紳士的な態度を放り投げて、激しく罵り合ったりする。ローレンス首席枢機卿は、これらの多様で難しい人々をなんとか取りまとめようと苦悩しつつも努力を続ける。
 いろいろな思わぬ問題が続発して、またまた喧々囂々となり、手がつけられなくなったかに思えたその時、なんの権限も持たないシスターのリーダーが登場して、誰もが敵わない毅然とした冷静な態度で全員を糺す。騒がしさを極めていた場が、一瞬で静まり返った。私はこのシスターを演じた女優を知らないが、その確信に満ちた表情、ゆっくり静かにしかし途轍もない鋭さと力強さで発言するその演技には、心底感動した。
 そんなこんなで紆余曲折を極めるが、最後は誰もが納得する、しかも驚くべき結果が訪れる。ローレンス首席枢機卿は、教皇選挙を無事に指導し得たことで、故教皇のことばを改めてかみしめたようだ。
 この映画は、美男美女などの目を引くような登場人物もなく、表立った波乱万丈もなく、ただ人間同士の深刻で真剣な葛藤・対立・相互理解など、微妙で繊細な心理のうごきを丁寧に描いた、いわば最良の映画らしい映画と言える。じゅうぶん納得し、満足できる映画鑑賞であった。

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木村健『アメリカで医者をやるにはわけがある』

多元性のなか自由を重視するアメリカと均質な世間で協調を重視する日本
 約30年前に出版された本である。著者は、アメリカの現場の第一線で活躍しながらアメリカに永住するつもりで、実体験に基づいてアメリカと日本の違いについて考察し、文化エッセイを記しているので、とても具体的で迫力があり、説得力がある。
 極端に単純化してまとめるならば、世間のなかの個人を大事にする日本人と、個人の自由を生活の本質とするアメリカ人との相違と葛藤ということになろう。当然両者の間には、かなりの相違があるが、その要因には、歴史的に同胞で社会を形成してきた日本と、多様な地域から来た民族が混じり合って社会を形成してきたアメリカとの違い、という枠組みがある。
 著者の専門領域である医療については、アメリカの自由優先の医療システムに優れた側面はあるが、日本の医療皆保険にもとづく患者負担を抑えた医療システムにも優れた側面がある。それでも著者が指摘するように、たしかに日本の現状はあまりに窮屈すぎるという欠点はあるのだろう。人口減少による生産年齢人口の減少、高齢化による医療総需要の増加、医療科学や医療機器の高度化にともなう医療コストの増加があり、原状のままでは医療サービス側でも、それを支える経済側でも医療システムの存続は困難になる。日本の厚生労働省の役人が悪いというだけでも埒が明かないものの、冷静な世論形成と政治の対応は必須である。Photo_20250508060901
 ひとつだけ、私の個人的感想と距離があるのは、日本人のアメリカ駐在者およびその家族の状況は、1980-90年代には、著者が具体的に指摘するような日本流にへばりついたものよりは、すでにもっと柔軟になっていたと理解している。ただ一部の、専ら在米の日本人を相手に仕事する業種などでは、言葉のみにとどまらず日本の社会習慣や文化をそのままアメリカに持ち込んで暮らす人たちがいたことは事実である。ただ、著者の立場も同様だと思うが、日本人駐在者が少数派として圧倒的多数のアメリカ人のなかで研究なり製造なり、緊密に協力して仕事せざるを得ない場合には、当時でさえ日本人はもっとアメリカをそれなりに理解し、親和的であったと思うのである。
 この本が出版されてから、すでに四半世紀以上が経過している。アメリカと日本の、為替水準も経済的立場も大きく変わった。それでも、相互にかけがえのない重要な位置を占める関係であることに変わりはない。
 均質な文化にもとづく日本にとって、元来から多元的な文化で発展・蓄積してきたアメリカには、いろいろな問題に対処するにおいて学ぶべきことも多い。さらに日本・アメリカという問題にかかわらず、この著者が自ら実践しているように、仕事は頑張るものではなく、たのしむものだということなども大事なことである。私たち市井の日本人が、この本から学ぶべきことは多い。

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高槻ジャズストリート2025 5月4日(下)

3. Music SQUARE1624 Tenjin
Music-square1624-tenjin-little-prayer-ja  レンタルスペースWoooを出て、北西に少し歩いて、高槻上宮天満宮の鳥居の近くのビルの2階にある、ライブハウスMusic SQUARE1624 Tenjinに行った。
 入ってみると、そこそこの観客収容スペースと舞台を備えた本格的なライブハウスである。入場には、なにがしかのドリンクを購入して座席に着く。月に数回のライブを催しているという。身近に本格的なライブハウスがあることを知ることができた。高槻ジャズストリートのような行事のお陰である。
 ここでは3つのセッションを聴いた。
 ひとつ目は「Little Prayer Jazz Orchestra」というビッグバンドである。サックス4人、トランペット2人、トロンボーン2人、ピアノ、ベース、ドラムの合計11人の構成である。
 ピアノとサックスは、少し前にたまたま太陽ファルマテックT-Linksで聴いたRisa Ishida Group33℃のメンバーが参加していた。Music-square1624-funky-rabbits
 どの演奏者もかなりのベテランらしく、引き締まった良い演奏を聴かせてくれた。とくにトランペットのJames Barrettはメリハリのある鋭い演奏が印象的であった。
 ふたつ目は「Funky Rabbits」というギター、キーボード、ベース、ドラム、トランペット、テナーサックス、アルトサックス、パーカッション、ヴォーカルの9人構成である。
 このバンドでは、とくにヴォーカルの村田千穂子のパワフルな歌唱に迫力があった。「ピンキー・パンサー」「チュニジアの夜」など、しっとりしたものやハイテンポのエネルギッシュなものまで、よく通る声量たっぷりまさに全力投球という圧倒的な歌唱で、観衆もすっかり魅了されていた。
Music-square1624  三つめは「じゃずぐり!」というビッグバンドであった。ドラム、ピアノ、ギター、ベース、サックス5人、トランペット4人、トロンポーン2人の合計15人という、今回聴いた中では最大人数の構成であった。
 今年の高槻ジャズストリートは、人気が高すぎて入場に長い待ち行列を成すようなセッションを回避して、できるだけ円滑に入場できるようなセッションを聴くという戦略で臨んだが、果たして多くの会場で無事座席を確保して、落ち着いてじっくり鑑賞することができた。
 会場で再三アナウンスがあったが、高槻ジャズストリートは、一昨年が219万円、昨年が750万円の大幅赤字を計上し、存続の危機にあるという。私は、日常的にジャズをよく聴いているわけではないが、こうしてさまざまな生演奏を演奏者の間近で気軽に聴けるという貴重な機会は、やはり存続して欲しいと願うものである。

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高槻ジャズストリート2025 5月4日(上)

 2日目最終日の5月4日は、家人とともに3つの会場を巡った。
1. 太陽ファルマテック(株)T-Linksカフェテリア
Tlinks  最初は、ごく最近新しい会場になった太陽ファルマテック(株)T-Linksカフェテリアである。やはり最近新設された関西将棋会館とJRの線路をはさんですぐ近くにある、モダンな美しい建物である。
 この会社は、戦前から80年以上にわたり第一三共グループの西日本主力工場で、2019年10月太陽ホールディングスのグループ傘下に入り、太陽ファルマテックとして事業を開始した医薬品製造業である。多様な固形製剤・注射製剤の製造をしている。今回会場となった建物は、ごく最近改築されたものらしい。
 民間会社の建物の中に入るので、受付で記名して入場許可証として紙の腕輪をうけとり装着して入場する。立派な体育館に隣接した大きなカフェの部屋がここでの高槻ジャズストリートの会場となっている。
この会場では3つのセッションを聴いた。Tlinkstmeeting
 最初は「橋本仁+近藤奈津子 ザ・まめなっつ」という6人のポップスバンドである。男女2人のヴォーカルとコーラスを兼ねるヴォーカルの女性とキーボード、エレキ・ベース、ピアノの構成である。男性ヴォーカルはファルセットが得意のようで、個性ある歌唱をきかせてくれた。
 ふたつ目は「T-Meeting」という男性4人のファンク・バンドである。ファンクというのは、ジャズをベースにしたビートの強い音楽、あるいはブラック・ミュージック(主にアメリカの黒人音楽)という意味らしい。このバンドはヴォーカルが「日本の歌だけ歌う」と宣言し、「見上げてごらん夜の星を」、「限りなき永遠の愛」などを熱唱していた。
Tlinksrisa-ishida-group33  3つめは「Risa Ishida Group33℃」という4人のジャズ・ファンクのグループで、”サーティスリー・ディグリーズ”と発音させるらしい。サックス、ピアノ、ベース、ドラムの構成である。リーダーのサックス奏者石田梨沙は、昭和音楽大学短期大学部を卒業後、カナダ留学を経て、バンドを結成してCDを発刊しているという。京都などでサックスの教室もしている。元気な力強い演奏で、バンド演奏を引き締めていた。
 演奏も良かったが、なにより新しいきれいな建物のなかは、それだけでも快適だ。

2. レンタルスペースWooo
 太陽ファルマテックT-Linksを出て、JR京都線の線路をくぐって西側に出て、Woooという名のミニライブや楽器・ダンスの練習に借りることができる、収容人数40人以下程度のごく狭いレンタルスペースに行った。Wooo
ここでは「ムラキヤスノリ」というベース演奏者の「ピン芸演奏」を聴いた。
 この人は、40年以上ベースを演奏しているといい、あるときからベース1本でピン演奏をして生きていくと決断したと話す。時には、ベース奏者3人で一緒に演奏したりもするという。
 狭い会場には、彼の同業者や共演者たちの、いわゆる「身内」と称する人たちもいて、客席からいろいろ合いの手や野次を飛ばすのに対して、関西弁のノリで応えるという場面が多々あって、雰囲気を盛り上げていた。
 エレクトリックな装備も活用しながら、達者な演奏で満喫させてくれた。

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高槻ジャズストリート2025 5月3日

 高槻ジャズストリートは、今年で27回目だという。私たち家族は、2003年に転勤で大阪に帰って来たが、高槻ジャズストリートはすでに1998年から始まっていた。Vp
 初日の5月3日は、鑑賞に出かける戦略として、自宅から近い会場から1時間ずつ南の方向にシフトして鑑賞するというものであった。
 最初は、高槻阪急5階屋上で「VPデュオ」のエレクトリック・ピアノと女性ボーカルのジャズを聴いた。高槻阪急は、6階がレストラン・フロアになっていて、5階に屋上とは知らなかったが、キッズコーナーとして小さな屋外エリアがあったのだ。こうして身近なところにも、こんな催しのお陰で発見があったりする。少人数の椅子なしだが、それなりに楽しめた。Photo_20250505054501
 次に行ったのは、阪急高槻市駅の高架下広場である。清水玲奈グループのクインテットの演奏であった。清水玲奈のテナーサックスは、なかなかパンチのあるダイナミックな演奏であった。杉山悟史のキーボードは、エレクトリック・ピアノに加えて、3種類くらいのシンセサイザーを駆使した手の込んだ達者な演奏で、これもなかなか聞きごたえがあった。鶴田伸雅のリードギターもとてもテクニックの手が込んでいて、おもしろいものであつた。音量はてとも大きくて、それでもまったくうるさくは感じない、よく息の合った素晴らしい演奏であった。
 高架下の屋外で、ステイタスを感じる演奏場ではないが、毎回ここにはかなり有名なプレイヤーも来てくれる。立ち席のみのぎっしり満員だったが、なかなか充実していて、みんな満足そうであった。
Jk  3番目は、城北通りのJKカフェに入った。2時間続けて立ったままの鑑賞であったので、椅子席を期待したが、それはかなわず、カウンター前の立ち席で、それでも演奏者にかぶりつきの場所となった。「マシュカパピア」というピアノ、ギター、パーカッションのラテン・バンドであった。ラテンとは言っても、ハチャトゥリアンの「剣の舞」やモーツアルトの「アイネクライネ・ナハト・ムジーク」などを、ラテンのテイストにアレンジして、とくにパーカッションを活かして、楽しく演奏していた。
 4番目は、高槻城公園芸術文化劇場北館2階でKOYOJAZZ AND CONTEMPORARY MUSIC LABという神戸甲陽音楽専門学校卒業生によるジャズを聴いた。ピアノ、トランペット、サキソフォン、ウッドベース、ドラムのオーソドックスなジャズ・クインテットである。若々しい力強い演奏で、なかなか迫力と勢いがあった。2koyojazz-and-music-lab
 最後は、高槻市立第一中学校の屋外グランドで、白山タカシ&ザ・フレンズのR&Bフュージョンの11人による演奏であった。昼間は快晴で温度が高くカラッとしていて、快適な天候であったが、陽が傾き風が強くなって、屋外ではいささか寒くなってきた。昼間に適合させて長袖シャツのみで出かけてきて、それでも昼間は暑すぎるくらいであったが、このころにはそんな服装では肌寒くなってきた。

Photo_20250505054601  それと、この会場はグランドに露天の舞台を設え、そこから少し離れた場所に聴衆者のためのパイプ机とパイプ椅子を並べて聴衆者席が設えてあるため、舞台と聴衆者席の座席の間に、立ったまま聞く大勢の聴衆がいて、せっかく座席を確保しても舞台の演奏者がよく見えないという難点があった。
 結局、風邪をひくのも嫌なので、演奏の途中ではあったが失礼して退席した。
 とくに昼間は快晴に恵まれ、たのしいひとときであった。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(12)

3.縫うこと
手塚愛子
 手塚愛子(てづか あいこ)は、昭和51年(1976)東京都に生まれ、平成11年(1999)武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業し、平成13年(2001)同大学大学院造形研究科油絵コースを修了した。04
 絵画の不可逆な構造を解明する方法として、生成過程を巻き戻しできる織物や刺繍に着目し、織物や刺繍の糸を解くことでその構造を表出させる独自の手法で制作を行っている。クラシック調の布から緑、赤、青、黒、黄の縦糸のみを引き抜いて束ねた初期の作品「縦糸を引き抜く-五色」(2004)では、複雑な模様がわずか5色の編み込みで形成されていることを顕示化すると同時に、原色の重なりでさまざまな色調を生み出す絵画の基本構造を明示的に解明することを試みた。解体・再構築される作品は、たんに構造を示すだけでなく、糸を紡いだ人々の時間や織物に宿る歴史までをも顕わにしようとする。
 そのような作品のひとつとして「織り直し #04」(2017)が展示されている。
 花柄模様と幾何学的模様の2つの既成の織物をほどき、ほどいた糸が改めて一本一本織りなおされている。こうして両者のまんなかにできた織物は、すでにあったものの混合物であるが、織交じりであるがゆえの新たな存在感をもたらしている。まさに、分解と再構成の典型の作品である。
 2010年よりロンドン、2011年よりベルリンを拠点に活動し、近年は外国で生活をするなかで自身が感じる齟齬・違和感などをテーマに、歴史上の造形物を引用した作品を手がけているという。

 今回の鑑賞は、私にはとても難しいというのが最初の印象であった。
途中で休憩を挟んで、また最初からのんびりながめ直し、学芸員さんの解説を再読する、そんなことをしているうちに、作品に感動する、というのではないがなんとなく納得するものがあった。
 近代絵画が印象派の「光の発見」や、キュビスムなどの「形の分析」、また抽象絵画の「心理の探求」など、絵画をめぐって実に多面的に芸術家たちは思考し、試行し、また冒険し、葛藤を繰り返してきた。それは今も続いているのだろう。
 今回のテーマは、既存の作品あるいはありふれたものを、思考のために分解し、新たな意味を考えて再構成する、という美術家たちの奮闘の一部を特集したものと理解する。そういう意味では、芸術家たちの生きざまを鑑賞した気分であった。
 考えてみれば、美術作品を観て感動する、という事象の中味は、第一義的には作者を忘れてその作品そのものに感動するのが王道だろう。しかしとくに個展などで時系列に並べて特定の作者の作品をまとめて眺めると、単品では気づかなかった作品の魅力に気づくことも多々ある。その要因の大きな部分は、人間たる作者自身への発見や関心である。美術作品に感動するのは実際には、純粋に作品そのものに感動する部分と、その作者への関心から作者その人に感動する部分の両方が混交していることがあると思う。
 敢えて単純化を恐れずに言えば今回の鑑賞は、芸術家の作品を観て感動する、というよりも、作品を観てその作者たる芸術家の態度について考える、学ぶ、納得する、あるいは感動する、という鑑賞であった。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(11)

3.縫うこと
芥川(間所)紗織
 芥川(間所)紗織(あくたがわ(まどころ)さおり)は、大正13年(1924)愛知県に生まれた。Photo_20250503061101
 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)声楽部を卒業した後、在学中に知り合った作曲家芥川也寸志と結婚した。夫也寸志は「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と妻が声楽を続けることに反対したため、歌うことを諦め、女学校時代に描いていた絵画を再開した。猪熊弦一郎の研究所に通って油絵を、ろうけつ染めを野口道方について学んだ。
 昭和29年(1954)第6回日本アンデパンダン展に出品して新人賞を受賞した。昭和30年(1955)岡本太郎の勧めにより二科会に入った。同年9月メキシコ美術展があり、そこで観たメキシコの画家ルフィーノ・タマヨの作品について「前にタマヨの絵を美術雑誌の原色版で見て、その魔訶不思議な色彩にひどく惹かれていました」と発言し、大きな感銘を受けたと吐露した。
 沙織は、染色という全く独自の技法で、当時女流画家はほとんど描かなかった前衛の絵画作品を制作した。そのひとつが、今回展示されている「『神々の誕生』神話より」(1956)である。
 日本の神話や民話にも深い関心を寄せ、古事記など古い物語に自身の洞察を加えて、奇抜で奔放な神々や怪物を、エネルギー溢れる画面として表現した。髪を逆立て、叫び、笑うといった、それまでの女性画家が決して描かなかった女の姿を、ろうけつ染めの技法を用いて大胆に描いたのであった。これは画壇の注目を集めた。
 昭和32年(1957)芥川也寸志と離婚し、後に間所幸雄と再婚したが、画業を続けた。そのため名前を芥川(間所)紗織と表記している。
画家としての活動は海外にも展開して活躍を続けたが、昭和41年(1966)41歳にして病死した。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(10)

3.縫うことPhoto_20250502055701
片山真理
 片山真理は先天性の障害のため、9歳のとき両脚のひざから下を切断したアーティストで、東京芸術大学大学院を修了した歌手・芸術家である。
 2011年、アルバイトで、クラブで歌っていたとき、酔客からハイヒールを履いていないことを論われて、プライドを維持したいこともあり「ハイヒールを履いて生きよう」と決断した。それから「ハイヒール・プロジェクト」を開始して、義足に適合するハイヒールの開発を進めてきた。それを2022年には第二弾のプロジェクトに発展させた。
Photo_20250502055801  女の子なら普通におしゃれして外出したい、というごく普通のことが、福祉制度では認められていない事実も知ったという。
 展示されている2点の作品は、いずれも「ハイヒール・プロジェクト」開始のころの写真作品である。

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Undo, Redo ─わたしは解く、やり直す─(9)

3.縫うこと
石原友明
Ism  石原友明(いしはら ともあき)は、昭和34年(1959)大阪に生まれた。昭和59年(1984)京都市立芸術大学を卒業した。
 セルフポートレイト写真を紡錘形のカンバスに感光乳剤を塗って焼き付けた作品や、革で縫い合わせた巨大な彫刻など、写真、絵画、彫刻を横断しながら美術のメディアの枠組みや、見ることの意味や構造を問い直す作品を制作してきた。
 さらに石原は従来の意味での全身や顔の自画像を撮影するだけでなく、身体の一部(毛髪、血液等)を素材にした「自画像」を平面あるいは立体作品で制作している。石原は、制作行為とは「ものを身体化すること、身体をイメージ化すること、イメージをもの化すること、を繰り返すひとつのプロセス」であると主張し、「からだ」の有限性を拡張する試みだと言っている。
 ここでは「I.S.M.(スカート)」(1988)が展示されている。
 皮革を手縫いして袋にし、そのなかに縫い目が裂けそうになる手前までいっぱいに砂や発泡スチロールを詰め込む。それを組み合わせてテーマにふさわしい形状に組み合わせる。皮の袋が内圧と外圧とがせめぎ合う緊張感と、複数のパーツが積み重ねられ組み合わされた絶妙のバランスが、素材に用いられた動物の皮と有機的な形状、人為的な縫い目とともに、観る者の身体感覚に訴えかける。
 ヒトの身体の形と存在を分解し、パーツごとに緊張感のある形を作り、それを改めて組み立てることで「身体をイメージ化」し「ものを身体化」しているのだろう。一見ありふれた遊びの造形のようだが、しばらく見つめていると独特の重みを感じる。

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