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2025年6月

オディロン・ルドン パナソニック汐留美術館(5)

第3章 新時代の幕開け 1896~1916
1900  1894年、ルドンは老舗画廊デュラン=リュエルで大規模な個展を開催した。続いて1899年、同じ画廊でナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、別格としてルドンを迎えたグループ展を開催した。ルドンはここではナビ派として紹介された。
 新印象主義のスーラは1891年に亡くなり、ゴーギャンはタヒチに去っていた。ルドンはほかの画家たちと群れをなすタイプではなかったが、このころには若い画家たちが求めていた新しい絵画の先駆者として認識され、若い芸術家たちがルドンの周囲に集まるようになっていた。
 1890年から何枚も描いた幻想的な女性像「眼をとじて」は、1900年には、色彩豊かかに、花に囲まれ、さらに花を抱きつつ心地よく瞑想する女性を、夢の世界のように描いている。
 花の描写については、「黒い花瓶のアネモネ」(1905)がある。1905
 かつての黒の絵の時代とはまったく異なって、華やかな色彩にいろどられた華麗な花が描かれている。
 ルドンが晩年の66歳ころに制作した「窓」(1906)は、タイトルの通り窓をモチーフにした作品で、ステンドグラスのような窓の向こう側は光にあふれ、羽根をもつ聖なる人物と色彩豊かな花々が描かれている。具象画的な表現なのだが、独創的で緻密な微細構造をもつ面の表現、窓を通して見える景観の夢想的な表現など、幻想的かつ幸福感にあふれた、ルドンの集大成の一枚といえるものだろう。
 実はルドンは、20世紀初めから多くの日本人に深く愛されていた。ルドンの名は洋画家・石井柏亭が1912年に『早稲田文学』に寄稿した文章に登場し、翌年の1913年には雑誌『白樺』にルドン単独の記事が掲載されている。執筆したのは記者S.Mと表記され、これは武者小路実篤だと推察されている。
 1906 ルドンの作品も数多く日本にもたらされた。梅原龍三郎、中川一政、岡鹿之助、須田国太郎、伊藤清永などの洋画家や、竹内栖鳳、土田麦僊といった日本画家が作品を所有した。ほかにも多くの芸術家がルドンに夢中になり、漫画家水木しげるは代表作『ゲゲゲの鬼太郎』の原型となる『墓場鬼太郎』の主要キャラクター「目玉おやじ」を着想する際に、ルドンの作品を参考にしたという。
 現在も日本国内にある数多くの美術館がルドンの作品を所蔵しているが、なかでも岐阜県美術館のルドンコレクションは総数250点以上。質・量ともに世界屈指といわれ、美術ファンの間では“ルドンの美術館”というイメージが定着している。
 そんな岐阜県美術館のルドンコレクションを中心に、国内外の名品を加えて、ルドンの画業の全容を紹介する展覧会「PARALLEL MODE:オディロン・ルドン―光の夢、影の輝き」として開催したのが、今回の展覧会なのであった。

 この度の鑑賞は、私にとって最初はなかなか難解であった。一見、とても古風に見える描写と、描かれた非現実的、幻想的なものを含む内容の幅、範囲の広さ、しばらくみつめているとますます難解さの奥行きが深まるような感覚、と気軽に楽しめるような作品ではなかった。それでも個展の特性である時系列を追っての鑑賞を繰り返して、ようやく画家の意図、思考、主張がわずかながら少しずつ分かるような気がしてきた。
 ルドンの絵画は、表現の形象としては具象的であり、その一方で表現の目的は見た目の美ではなく人間の内面の心理の深奥の動きである。ルドンの絵画が、美術愛好家より以前に文学者から注目されたのも理解できるような気がする。
 時間も労力も、高齢者にはいささかタフな鑑賞ではあったが、納得のできる時間であった。

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オディロン・ルドン パナソニック汐留美術館(4)

第2章 忍び寄る世紀末 1885~1895
188590  1886年には待望の長男ジャンが生まれたが、僅か半年で夭折し、ルドンは深く落胆した。ルドンの画風は以前にも増して鬱々としたものになっていった。しかし、3年後の1889年、次男アリが生まれたことで、ルドンの人生模様は一変したのであった。
 「注目の画家」となったルドンのもとには、エミール・ベルナールやモーリス・ドニら若い画家が集まった。彼らは新しい芸術の先導者としてルドンを慕ったが、一方のルドンも彼らから大きな刺激を受けたのは間違いない。
 「光の横顔」(1885-90)が展示されている。
 この作品は、木炭画の黒色一色のものだが、繊細かつ精緻な線で描かれた女性の横顔は、崇高なまでに美しい。まるで後光が差しているかのようである。もうそれまでの陰鬱な印象、暗い不安な雰囲気は消え去り、黒い絵なのに希望や光、柔らかさ、優しさが感じられる。188994
 1890年代になると、パリで物質主義的な思想に反発が起こり、精神主義や神秘主義の芸術・文化の運動が起こり始める。具体的には写実主義や印象派に対する反発として、ルドンやモローのような象徴主義がムーブメントとなったのであった。そこで現実の自然を手がかりにしながらも現実描写だけでは満足できないルドンのような画家が、若い芸術家たちに歓迎される時代が来たのである。
 ルドンの絵画においても1890年頃から作風が大きく変化し、黒色にこだわらず豊かな色彩を用いるようになった。
 ルドンはこれまで、石版画の「黒」を用いて主に闇の世界を表現していたが、それが「黒」を使いながらも光の世界を表現するものへと変わっていったのであった。そしてやがてルドンは、油彩やパステルによる制作にも取り組み始めた。こうしてルドンは徐々に「色彩の画家」へと変貌を遂げていった。
1890_20250629053401  世紀末が近づいて、絵画はむしろ色彩の華やかさを増すという傾向は、ロートレックやクリムトなど多くのこの時期の芸術家に見られたが、ルドンも例外ではないと言える。
 「まなざし」(1889-94)が展示されている。
 この作品は、これまでの木炭に加えて、パステル、コンテ・クレヨンを用いて、色彩を導入している。これまでの黒の作画方法から色彩の採用への過渡期の作品と言える。これまでの黒の世界で画力を蓄積していた成果をいかんなく披露するかのように、顔の色彩の明るさ、陰影の精細な表現、帽子の緻密な描写は見事である。
 「眼をとじて」(1890)が展示されている。
 これは油彩の作品で、色彩を控えめかつ繊細に用いて、静かな宗教的な崇高さを思わせるかのような美しい表現を達成している。
 なお、1900年以降になるとルドンはこれまでの「ノワール」を制作しなくなった。

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オディロン・ルドン パナソニック汐留美術館(3)

第1章 画家の誕生と形成 1840~1885
Iv1883  1880年、アフリカ沖のレユニオン島出身でルドン自身の母と同じクレオール(出身が植民地でフランスに同化しフランス市民権を取得した者)の女性カミーユ・ファルテと結婚した。これ以降、石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として生活するようになった。1882年には、新聞「ル・ゴーロワ」の新聞社で、木炭画と版画による個展を開催した。
ルドンは、エドガー・アラン・ポーの作品を意識した2番目の石版画集『エドガー・ポーに』を刊行した。
 このころの作品として、シリーズ『起源』IVから「セイレーンは無数の針をつけて波間から現れた」(1883)が展示されている。
 形象は具象的であるが、描かれた内容は非現実的であることが特徴である。
 「沼の花」(制作年不詳)がある。
 全体の由来は植物のようだが、花の部分は人間の顔となっている。これもとても幻想的・非現実的な不思議な絵である。Photo_20250628074701
ルドンは、1884年に発刊されたデカダン派作家ジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』で、ルドンの絵が取り上げられるまで、ほとんど無名だった。そして、1886年、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始した。ギュスターヴ・モロー、フランシスコ・デ・ゴヤ等とともに、ルドンも象徴主義の画家として認知されるようになった。
 こうしてルドンは、当時華々しく注目を浴びていた印象派に加わることなく、独自のテイストを確立していった。それはひそかに画家たちの注目を集め、尊敬をもって寓されることになって行った。

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オディロン・ルドン パナソニック汐留美術館(2)

第1章 画家の誕生と形成 1840~1885
 子供のころから絵を描き始めたが、父 親の意向もあって、建築家となろうとエコール・デ・ボザールの試験を受けた。しかし合格できず、建築の道は諦めざるを得なかった。なお、弟は長じて建築家となった。
1879  ボルドーで水彩画家スタニスラス・ゴランに素描や模写を学んだ後、本格的に画家を志してパリへ移住した。1864年、画家ジャン=レオン・ジェロームの私設アトリエに入門し、デッサンの指導を受けた。だがアカデミックな美術教育が肌に合わず、短期間で退学した。その後ルドンはボルドーに戻り、1870年に普仏戦争に出兵したが、翌年病気を理由に戦線を離れてボルドーに戻った。そして、再び美術についての学びを深めていった。そんな生活のなか、植物学者アルマン・クラヴォーと出会った。ルドンはクラヴォーとの交流から、自然科学や文学や哲学への興味を深め、この時期に培われた思想が彼の芸術表現の礎となった。
 1874年に再びパリに戻ったルドンは、プロフェッショナルの画家となろうと、木炭画とリトグラフに専念する方向で芸術活動を再開した。黒の色合いが中心の自身の作品を「ノワール」と呼んだ。 彼の作品「水の精霊」が認知される1878年まで、彼の世間的な認知はなかった。ルドンは奇怪ともいえる幻想的なイメージを木炭画と石版画で表現していった。ルドンの手にかかると、文学をモチーフにした作品でさえ、グロテスクで異様なものへと生まれ変わる。「空を飛ぶ目玉」「人の顔を持つ植物」。こうした個性的な表現は世紀末のデカダンスの象徴として多くの文学者たちに注目され、ルドンは「黒」の画家として名を高めることとなった。
 1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行した。これは植物学者クラヴォーに捧げたものであった。1880
 そのうちのひとつに、今回展示されている『夢のなかで』幻視(1879)がある。
 このころからすでに、実在する人物や物が主たるテーマではなく、夢の世界、幻想、幻視など、人間の深奥の心理を表現しようとする作品が多い。
 パリでは、放浪のボヘミアン画家として知られた版画家ロドルフ・ブレスダンの指導を受けた。また1878年ころには、静物、花などの、また作家やクラシック大作曲家などの版画、肖像画、絵画で高名となったアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の指導を受けている。
 このころの作品として「絶対の探求─哲学者」(1880)が展示されている。
 いささか尋常な人間とは印象が異なる人物が、なにかを発散しているかのような不思議な三角形を見つめている。テーマそのものは、まさにシュールだと言える。

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オディロン・ルドン パナソニック汐留美術館(1)

1867  パナソニック汐留美術館にて「オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き」というタイトルの美術展を鑑賞した。私は、このパナソニック汐留美術館は初めてであった。パナソニック社のオフィスビルの最上階を展覧会場にしていて、そんな事情もあり写真撮影は厳しく禁止されている。建物と展覧会場は、とても近代的で快適な空間である。
 19世紀の後半、折しも印象派などの新しい美術運動が盛んななったころ、ルドンも活動していたが、彼は印象派には参加せず、孤高の芸術家として知られている。
 私自身は、ルドンの作品はこれまでごく少数を断片的に観ただけであり、ほとんど予備知識がなかった。

第1章 画家の誕生と形成 1840~1885
 オディロン・ルドンは、1840年4月20日南フランスの大都市ボルドーで生まれた。つまりルドンは、印象派の代表的画家クロード・モネと同年齢なのである。
Photo_20250626060101  ルドンの本名はベルトラン・ジャン・ルドンであったが、若いころから死ぬまでの愛称である「オディロン」は、母親の名前に由来する。裕福な家庭であったが、生後すぐにボルドー近郊の町ペイルルバード(Peyre-Lebade)へ里子に出され、11歳までの少年期を、親元を離れて寂しい田舎の地で過ごした。幼いルドンは、病弱で内向的な子供であったという。ルドンは子どものときから素描を描き始め、10歳のときに学校で素描の賞をもらった。
 制作の時期は未詳だが、ルドンの初期の作品に「ペイルルバードのポプラ」があり、今回の展覧会に展示されている。
 木板に張り付けた紙の上に、油彩で描いたものである。見たままを丁寧に写生するというのでなく、自分のテイストを主張した絵を描きたい、という意志をすでに感じさせる。画力も素朴ながらしっかりした筆致を認めることができる。

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藤井泰則『杉本伝』デザインエッグ(株)

自前プール造成・クロール改良そして「水泳日本」の先駆者
 杉本伝(すぎもとつたえ)は、明治23年(1890)大阪市北区に生まれた。
 明治36年(1903)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高校)に入学、第9回生として卒業すると日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進み、明治44年(1911)卒業とともに母校の茨木中学校に体育教員として就職した。昭和14年(1939)茨木中学校を退任するまで、28年間の教諭生活を茨木中学校で全うした。
 茨木中学校着任の2年後に、大阪府知事から中学校で夏季水泳の訓練を必修にせよ、との訓令を受けたことが契機となり、生徒を動員して水泳訓練のための人工池を造成することを発案し、46日間の生徒の労力により、茨木川の河水を引き込んで、川の近くに長さ30メートル、幅18メートルの砂利敷の人口池を実現した。しかし、濁りが激しく不潔でもあり、そのままでは無理と判断した。Photo_20250625060001
 2年後の大正4年(1915)大正天皇即位の御大典記念事業として、校長は水泳池を造り直して本格的な水泳場とすることを同意・決断し、杉本の指導の下、校庭内に半年にわたるまたも生徒の労働奉仕によって、水泳場の造成が行われた。長さ42メートル、幅27メートル、深さ1.2~1.8メートルの、ひとまず立派な教育用の水泳場が完成した。
 この間、杉本は他府県の中学、高校、大学などの水泳教育についても研究を進め、全校皆泳を実現し、さらにスポーツとして他校との競技会に勝つために、水泳の教育法と泳法の改良の研究を蓄積していった。
 他校さらに世界と共通の基準で競技するために、水泳場を規格に準拠したプールへと改造することが必要であった。大正8年(1819)には、ついに規格に準拠した50メートルのプールを実現し、計測した記録を国際基準記録として認められるようになった。
 杉本はこのころに、泳法の改良を進め、日本の伝統的泳法ではなく、より合理的なクロールの導入と改良を進め、生徒とともに泳法に磨きをかけ、当時の中学生の水準をはるかに凌駕し高等学校生にも勝るレベルを実現した。大正9年(1920)東京帝国大学主催の全国競泳大会に参加した茨木中学校の競泳選手は、驚くべきことに多くの競技種目で高校生、大学生をはるかに凌駕して、総合優勝を獲得した。こうして大阪府立茨木中学校は、全国的にもトップクラスの水泳強豪校となった。
 杉本は、水泳の教育と訓練に必要かつ有効なプールの整備と、合理的な先進的泳法を研究し、大きな成果を達成したのであった。なにごとにも合理的かつ着実に取り組み、確実な成果を達成した。同様なアプローチで、水泳の飛び込み競技にも水球にも取り組んで、大きな成果を獲得していった。
 杉本は、こうして茨木中学校を水泳王国にするのみでなく、この後日本全国の学校でのプールの普及、泳法の改良に尽力し、わが国水泳のレベルアップに大いに貢献していった。
 典型的な成果が、昭和7年(1932)ロサンゼルス・オリンピックであった。日本は競泳男子22名、女子6名、水球9名の選手が参加し、5個の金メダル、5個の銀メダル、2個の銅メダルを獲得した。一躍「水泳日本」の名を、世界に轟かせたのであった。
 さきの大戦の最中、昭和14年(1939)杉本は51歳にして茨木中学校を退任した。戦後は、天理短期大学教授として、やはり水泳の指導をした。
 茨木高校同窓会の事務に携わった藤井泰則氏が、日本の水泳教育・水泳競技に多面的に大きな貢献をした杉本伝についての伝記がこれまで全くなくて、ほとんどその名も知られることがなかったことを知った。それが、この本を書く動機となったという。
 私自身、この茨木高校の出身者ではあるが、杉本伝については、これまでほとんど知らなかった。同窓生の大先輩だから、というわけでなく、ひろく尊敬すべきひとりのパイオニアとして、その人となりや経歴をより深く知るに値すると、興味深く読むことができた。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(6)

海岸沿いの国道134号線の歩道の事情
 稲村ケ崎を後にして、鎌倉高校前まで約2.5㎞の海岸べりの道路をのんびり海を見ながら歩いた。
 Photo_20250624055001 この七里ヶ浜近辺は、植木の自宅から山崎跨線橋、手広、腰越、江の島、七里ガ浜、稲村ケ崎、由比ガ浜、巨福呂坂(こぶくろざか)、北鎌倉、山崎跨線橋、岡本、植木と15㎞ほどのジョギングコースのなかでも、この付近の道路の海岸側の歩道は、もっとも景色の良いハイライトの区間であった。40代まではこの地に住み、週末の楽しみであった。しかし平成21年(2009)10月の台風18号と令和元年(2019)10月の台風19号による被災の復旧工事で、海岸側の歩道があった箇所が断続的に工事中であり、歩道がある区間でも立ち入り禁止となっている。 そのうえ海岸通りの海側の歩道は、多くの区間で歩道が無くなっているのである。今回、道路の山側の歩道を歩いたが、ジョギングする人たちは、この歩道を走っているようだ。私は、高齢化のみでなく、もはやこの地に住んでいないので、ここでジョギングすることもないのだが、懐かしいコースがなくなっているというのは、やはりとても寂しい。
 電車に乗る鎌倉高校前駅の前も、すでに海岸側の歩道はなくなっていた。ともあれ、快晴に恵まれて、心地よい散策のひとときであった。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(5)

稲村ケ崎
Photo_20250623055901  十一人塚から左折して稲村ケ崎温泉の横の坂を下ると、海岸通り(国道134号線)の自動車道に出る。この付近の自動車の道路としては、主にこの海岸通りのみでもあり、通行量はとても多くて、目の前の稲村ケ崎にいくためにこの道路を横断する必要があるのだが、押しボタン信号機のボタンを押しても信号が変わるまでとても時間がかかる。
 ようやく海岸通りの道路を渡って、鎌倉海浜公園稲村ケ崎地区のある稲村ケ崎の岬を登っていく。その途中に「西田幾多郎博士記念歌碑」がある。この歌碑は、もともとここから海岸通りを1㎞ほど西に行ったところの海岸に面した道路脇に設置されていたのだが、令和元年(2019)10月、この地を台風19号が襲い、高波のため歌碑の直下の崖が削られてしまい、地盤の土台が崩れてしまった。このため歌碑をここ鎌倉海浜公園稲村ケ崎地区に退避した後、令和4年(2022)再設置したのであった。
Photo_20250623060001  西田幾多郎は「善の研究」など多くの著書を残した哲学者である。58歳で京都大学を退官後、昭和8年(1933)から亡くなる昭和20年(1945)まで、春と秋は京都で、夏と冬は同郷の親友で仏教哲学者の鈴木大拙が住む鎌倉で、それぞれ過ごした。
 七回忌の昭和26年(1951)鈴木大拙をはじめ友人らが発起人となり、鎌倉・七里ヶ浜の砂浜に歌碑を建立した。西田は歌人としても多くの短歌を残しており、鎌倉の海にまつわる短歌も多く、この歌碑には「七里濱 夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果し知らずも」が刻まれた。
 歌碑の設計は、モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエに師事し、神奈川県立近代美術館鎌倉(現在は鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム)などを設計した建築家坂倉準三が担当した。歌碑は御影石製で、高さは約2.5メートルある。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(4)

日蓮袈裟掛松跡
Photo_20250622054801  阿仏邸旧跡碑のある場所から600mほど西に歩くと、道の山側の小さな崖に、「阿仏邸旧跡碑」と刻まれた石碑がある。
 文永8年(1271)9月、日蓮は幕府に捕らえられ、処刑の場まで裸馬に乗せられて、滝ノ口まで連行された。その途中、着けていた袈裟が血で穢されるのは畏れ多いと言って、道の途中にあった松の枝に袈裟を掛けた、と伝える。この松の木がその木だという石碑である。

十一人塚Photo_20250622054901
 日蓮袈裟掛松跡から400mほどさらに進むと、小道の左側に小さな公園のような平地があり、そこに「十一人塚」と刻まれた石碑が建っている。
 元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉に討ち入ったとき、極楽寺切通から攻め込もうとした新田勢の大将大館宗氏らは奮戦したものの、多数が討死し、最後に残った11人も自刃した。その11人の武士たちの遺骸をここに葬ったと伝わる。
 この十一人塚碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑で、鎌倉市指定史跡となっている。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(3)

阿仏邸旧跡碑
 極楽寺から線路沿いの小道を、西方向に歩く。数分して線路の山側に少し大きな石碑が建っているのが見える。「阿仏邸旧跡碑」(あぶつてい きゅうせきひ)という石碑である。Photo_20250621053501
 阿仏尼は、藤原定家の息子為家の妻で、和歌の師範である冷泉家を起こした藤原為相(冷泉為相、れいぜい ためすけ)の母でもある。
 為相の義理の兄為氏が、播磨の細川にある為相の領地を横領したので、これを北条時宗に訴えるために、建治3年(1277)に京都を出て東に下り、鎌倉の月影ヶ谷に住みついた。ここがその地であった。
 その時の日記こそ世間によく知られた「十六夜日記」である。
 裁判は長引きなかなか決着しないうちに、弘安4年(1281年)ここで亡くなった。
 石碑の右手には俳句のようなものが刻まれている。俳句は近世からのものなので、阿仏尼よりずっと後の来訪者によるものだろう。「月影の 若落葉の香 道清し」と読めるようだが、どうだろうか。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(2)

極楽寺(下)
Photo_20250620055101  さて境内は、さすがに京都の寺院などに親しんでいる者としてはごくささやかだが、入口の大きさにしては意外に奥行きがある。山門から本堂に行く小径の脇には、「北条時宗お手植え八重一重咲分け桜」という可憐な遅咲きの桜が咲いていた。これはかつて北条時宗がお手植えされた桜の古株から発生したものを植え直したものとされ、一枝に八重と一枝とが混生して淡紅色の花を咲かせるもので、「御車返し」との異名をもつ珍しい桜だという。原産地は鎌倉桐ケ谷と言われ、この桜はこの地に存在する唯一のものという。
 元弘3年(1333)後醍醐天皇の綸旨を得て寺領を安堵されたが、同年から翌年にかけて鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱に巻き込まれ損害を受けた。その後も度重なる火災により焼失と復興を繰り返した。Photo_20250620055102
 寺は応永32年(1425)にも火災で焼失した。永禄年間(1558~1570)に当時の住職性善が中興したが、元亀2年(1571)にも火災に遭っている。戦国時代末期の天正19年(1591)には徳川家康より九貫五百文の朱印地が与えられた。
 近世に入り、寛永10年(1633)極楽寺を訪れた沢庵宗彭は、当時の寺の様子について「壁は落ち、屋根は破れ、棟木はたわんでいる」と描写しており、江戸時代初期には荒廃が進んでいたことがわかる。
その後、明暦2年(1656)には当時の住職恵性が再度中興した。
 近世後期の天明5年(1785)には、極楽寺の檀家と称名寺(現在横浜市金沢区にある真言律宗寺院)から、本山の西大寺に「後住決定願」という文書が提出されている。これは、本山に対して、極楽寺の次の住職を派遣してほしいと願うものであり、当時の極楽寺が無住であったことが伺われる。
Photo_20250620055201  近代に入っても、大正12年(1923)の関東大震災で本堂が倒壊するなどの大きな被害に遭った。現存の伽藍は山門が文久3年(1863)の建立であるほかは、近代以降の再興である。
 極楽寺から出ると道路より低い江ノ電の線路を渡る小橋があり、その橋の上から東方向に「極楽洞」という鉄道トンネルの抗門が見える。
 江ノ電、すなわち江ノ島電鉄は明治35年(1902)開業し、ほぼ当時のままの路線で営業している電車としては日本最古である。
 極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで、明治40年(1907)竣工し、藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されている。建設当時の煉瓦貼りがそのまま残されている。
 平成22年(2010)鎌倉市の景観重要建築物に指定された。

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鎌倉 極楽寺・七里ガ浜散策 春の首都圏小旅行(1)

 この度の小旅行の最終日、午後には友人たちとの会食なども予定していたので午前中のみの短い時間だが、鎌倉の街はかつて20年近く住んだ私にとって懐かしい地であり、今回も少しだけ散策することにした。Photo_20250619060401
 朝は早めにホテルをチェックアウトして、午前9時半ころ鎌倉駅に着いた。江ノ電に乗り換えて、極楽寺駅に向かった。ゴールデンウイークの少し前という時期だが、江ノ電は相変わらず混雑している。とくにここでも外国人観光客の多いことに改めて驚く。江ノ電の車窓から由比ガ浜など海の景色をのんびり楽しもうなどと考えていたが、それは甘かった。電車はほぼ満員で、車窓など見えないのだ。

極楽寺(上)
Photo_20250619060501  ほどなく電車は極楽寺駅に着いた。20人近い乗客が降り立った。これらのひとびとは日本人が多かった。極楽寺は、鎌倉市の西部、鎌倉七口のひとつである極楽寺坂切通の近くにある。
 この寺院は鎌倉市西部の深沢にあった念仏系の寺院を、正元元年(1259)北条重時(ほうじょう しげとき、北条義時の三男、執権北条泰時の弟)が、当時地獄谷と呼ばれていたこの地に移したものという。地獄谷の名の由来は、死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためらしい。Photo_20250619060502
 開山は良寛房忍性(にんしょう)で、弘長2年(1262)北条業時(なりとき)に招かれて多宝塔寺住持となり、その後文永4年(1267)極楽寺に開山として迎えられた。この前後に、極楽寺は浄土教系の寺院となった。
 極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275)に焼失したが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49の子院が立ち並んでいたという。
 徳治3年(1308)にも火災で焼失し、修復費用獲得のため、鎌倉幕府公認のもと、正和4年(1315)ごろ元へ寺社造営料唐船(交易船)が派遣され、極楽寺の僧侶円琳坊が同乗していた。

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ミロ展 東京都美術館(8)

5.絵画の本質へ向かって(下)
 「焼かれたカンヴァス 1973」(1973)が展示されている。Photo_20250618053301
 これは幅2mもの大きなカンヴァスにアクリルで描かれた絵を、部分的にほんとうに焼いて、焼け落ちた欠損部分からカンヴァスの向こう側が見えるという代物なのである。
 欠損部分は画面全体の2割余り程度のようだが、カンヴァスのまん中付近に欠損があり、もともと描かれていた絵の内容を推測することは容易でないように思う。画家が意図的に焼いたのだろうから、焼け切れた欠損の存在も作品の一部なのだろうと思うが、この作品の鑑賞、評価は私にはなかなか難しい。ただ、自然にこんな形状でカンヴァスが焼け残るというのもいかにも不自然なので、これは画家の意図的な造形の一部であるはずだと考える。欠損部の周囲の微妙な形に意味があるのかも知れないが、私には解読できなかった。
Photo_20250618053401  ミロはポスターも制作していたが、そのひとつが「ユネスコ:人権」(1974)である。なんども戦乱を経験し、そんななかで人権が侵される状況を見てきただろうから、この問題には真剣に取り組んだのだろう。この絵は、もちろん具象画ではなく、思い切った大胆で独創性のある構図であるが、とても分かり易く説得力のある描写となっている。ユネスコがミロにポスター制作を依頼したのは賢明であった、と納得できる作品である。ミロは、この作品に限らずしばしば自らの手形を絵画に導入したらしいが、この作品でも手形の導入が有効に機能していると思う。奇抜そうだが安定感があり、良い意味でのユーモラスな感じも漂い、爽やかな作品となっている。
 ミロは、晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を数多く残した。成功した芸術家の王道とも言える。
 ミロは1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで、老衰のため90歳で死去した。
 私にとって、ミロの生涯にわたる作品をまとめて鑑賞したのは初めてであった。断片的に観たときにも、そこはかとない魅力は感じていたが、こうして若いころから熟練した大家となって高齢まで生きた、その生涯にわたる作品を観て、画家の苦悩、思考、その変化・成長を多少なりとも理解できたのは幸いであった。充実した良い鑑賞の時間であった。

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ミロ展 東京都美術館(7)

5.絵画の本質へ向かって(上)
Photo_20250617060401  ミロは、かねてから日本にも興味をもっていて、1966年はじめて来日した。1969年には日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に、陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日したのだった。
 このころからのミロは、名声も確立して、生活も安定し、画家としての円熟を増していったようだ。
 「 賑やかな風景」(1970)が展示されている。
 ここでは、画面に登場する要素の数は多めだが、シンプルな背景に、色数少なく着色した要素は小さく描く一方で、黒色の太い線で速い筆跡で主役を描いている。筆の運びで派生する絵具の飛沫も積極的に利用して、力強い表現を達成している。
 「涙の微笑」(1973)が展示されている。Photo_20250617060501
 「太陽の前の人物」のころからそうだったのかも知れないが、ここでは登場する要素の数が少ないのが目立つ。そして、抽象的なミロの絵画のなかでは、例外的とも言えるほどわかりやすい。シンプルな背景の上部分に現れる青くて一部を欠く丸い部分は、明らかにヒトの顔ないしは眼であり、その欠けた部分から滴り落ちるのは明らかに涙である。
 画面下方の赤と黄色と黒の色分けはなんなのだろう。血と皮膚と土の寓意なのだろうか。背景におぼろに浮かぶ白いボヤケタもの、また放射状に描かれた細い黒い線は、なにを表わすのだろうか。ただなんとなく表現に軽みが感じられ、絶望的なものではないような気がする。

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ミロ展 東京都美術館(6)

4.夢のアトリエ 内省を重ねて新たな創造へ(下)Photo_20250616060301
 「女と鳥」(1967)というタイトルの高さ2m、幅1mほどもある大きな造形がある。
 「女と鳥」というタイトルの1940年の絵画があったが、この「彫刻」は、以前の絵画の暗さが消えて、すっかりユーモラスで楽観的になっているように思える。
 「ダイヤモンドで飾られた草原に眠るヒナゲシの雌しべへと舞い戻った、金色の青に包まれたヒバリの翼」(1967)と長いタイトルの作品が展示されている。
Photo_20250616060401  画面の全体が先ず太い黒石の輪郭線で大きく区切られ、草原が緑色に塗られた四角い領域で象徴的に表現され、ダイヤモンドが赤い小さな丸で描かれ、大きな黄色い下地のなかに、ひばりの翼が青色の周囲に囲まれた黒い楕円で表現されているのだろう。「金色の青」が、黄色の背景の中の青のことなのか、よくわからない。ただ黒で区切られた緑と明るい黄色の領域のコントラストと小さな赤丸が空間にエネルギーを与えている。
 「太陽の前の人物」(1968)という作品が展示されている。
 幅2.5mほどもある大きなカンヴァスに、鮮やかなアクリルで大胆かつ簡明な絵が描かれている。タイトルから推測してみると、おそらく右手の大きな赤丸が太陽で、中央を占める黄色い三角の頭あるいは身体をもって力強く屹立しているのが人物なのだろう。太陽に負けないぞ、と宣言している人物なのかも知れない。この絵に、暗さはまったく無い。Photo_20250616060402
 ミロの絵画は、技法的には大きな変化はなかったようたが、絵画の印象は変化して、かなり明るく楽観的になったようだ。

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山尾志桜里元衆院議員の公認を見送る国民民主党

国民民主党は(6月)11日の両院議員総会で、夏の参院選比例代表への擁立を発表していた山尾志桜里元衆院議員の公認を見送る方針を決めた。過去の不倫疑惑への批判が相次いでおり、玉木雄一郎代表は「十分な理解と信頼が得られないと判断した」と説明した。
山尾氏は衆院議員だった2017年に不倫疑惑が持ち上がり、事実関係の説明をしないまま21年にいったん政界を引退した。先月、同党が公認内定を公表すると、SNS上には疑問、批判の声が殺到。このまま擁立すれば、あす13日告示の東京都議選、夏の参院選での党勢拡大への影響が大きいと判断した。(日刊スポーツ)
 私個人は、「日本死ね」という「流行語大賞」の授賞式に、不愉快極まりない喜色満面で登場した山尾氏に対して、まったく良い印象を持っておらず、嫌悪感さえある。それにもかかわらず、今回の国民民主党の態度には強烈な違和感をもつ。
 不倫という非道徳的な行動は、もちろん咎められてしかるべきである。しかしそれが直ちに選挙に出馬すべきでない、というのも極論である。そんなことを言いだしたら、わが国でも外国でも、歴史的な政治家で失格者が続出する。たとえば世界中のとくに進歩派が称賛するF.D.ルーズベルトなどは、猛烈な不倫者であった。私は、不倫者を政治家から排除すべきだとまでは思わない。
 その上、今回のケースをみると、国民民主党のトップたる玉木雄一郎氏自身が高名な前科者なのだ。どういう論理で玉木が許されて山尾が許されないのか。「(国民/有権者に)十分な理解と信頼が得られないと判断した」という説明のようだが、玉木は十分な理解を得たというのだろうか。
 政党にとって、選挙は死活的に重要だというのは、当然であり、私もよく理解できる。しかし有権者に理解を得る、という内容が問題である。政治運営と不倫とが、同じレベルで重要である、と宣言するならそれもひとつの考え方であろう。しかし今回の場合、そうは言えまい。玉木氏がいったん腹を据えて、山尾氏の政治家としての能力を認めて出馬を求めたのであれば、たとえ「国民民主党=『不倫党』」とメディアに罵られようが、あくまで踏ん張るべきであった。山尾氏の不倫を懸命に糾弾しているのも、いつもの無責任なメディアである。メディアの無責任な煽りに簡単に屈するようでは、国民民主党の今後も期待できない。
 なんとも情けない思いがするのは、私だけだろうか。

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ミロ展 東京都美術館(5)

4.夢のアトリエ 内省を重ねて新たな創造へ(上)
 ミロは1930年代から、バルセロナ、バレンシアの拠点に加えて、ちょうど三角形の一角に相当する場所、地中海に浮かぶマヨルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを開いて制作するようになった。さらに1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていった。Photo_20250614060101
 そして第二次世界大戦が終わった1947年、ミロははじめて絵画制作のためにアメリカを訪れた。アメリカでは、ヨーロッパとは全く異なる生活や文化に触れ、とくに若い芸術家たちと親密に交流したことで新鮮な刺激を得た。
 「自画像」(1937–60)がある。
 下地には、月日の経過によって変化し蓄積された自分の顔が鉛筆で繊細かつ精緻に描かれている。その上から、大胆で太い連郭線が書き加えられている。幼少期に絵画に強く惹かれ、しかし絵画への道を父に反対されて青年期には精神を病んで苦悩し、少壮期には戦乱の荒廃と苦悩を体験した。ここではそれらの波乱を経た後、新しい文化や若い芸術家のエネルギーに触れて気分が一新し、ようやくなにかふっきれたような、覚悟と新しい意気込みが感じられる。
 1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、作品の規模も大きくなっていく。また、このアトリエでは絵画以外の分野の職人との共同制作を行い、陶器、壁画、彫刻などを次々と制作し発表した。

Photo_20250614060201


 1963年、孫への贈物として制作したのが「絵画(エミリ・フェルナンデス・ミロのために)」であった。横に3m近くもある大きな作品である。
 この絵は、ミロの代表作のひとつともされ、私もかつて観たことがある。ちょっと変な魚のような生き物が描かれるが、背景の明るい青色とも相俟って、けっして恐ろしげではない。色使いも明るい。

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ミロ展 東京都美術館(4)

3.逃避と詩情 戦争の時代を背景に
Photo_20250613103201  1914年から1918年まで、ヨーロッパ全体を第一次世界大戦という深刻な悲劇が襲った。当然ヨーロッパではいずこも生活も文化も雰囲気が変わった。戦乱を経験して、やがてミロの絵は変化しいった。それまで画面に登場するヒト、動物、モノなどの要素は、少数であったのが、1930年代に入ると、画面に登場する要素の数が増加して賑やかになった。
 絵画(カタツムリ、女、鼻、星)(1934)が展示されている。
 「オランダの室内」では、一見にぎやかな画面にみえても、登場する要素は数多くなかったが、ここではカタツムリ、女、鼻、星など要素が大勢となり、さらにその要素の相互の関連性は自明ではなく、どうやらそれぞれが指向する方向が同じでない。そのためか、画面に調和や安らぎがない。それを補うかのように画面上方には文字でことばが記されている。ミロは絵画と詩との結合を試みてきたが、ここでは詩が必須となったようだ。カタツムリ、女、鼻、星など多様で多数の登場者が、それぞれに戦乱あるいは戦乱後の苦悩にもだえ苦しみ、そこからの脱出をばらばらに叫んでいるようだ。ここには「オランダの室内」のような調和ある楽しさはまったく感じられない。
 ミロの母国スペインでは、第一次世界大戦に続いて、1936年スペイン内戦が勃発した。1940
 それはスペイン第二共和国政府に対して、フランシスコ・フランコに率いられたスペイン陸軍がクーデターを起こしたことにより始まった。内戦は1939年4月まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランコに率いられた独裁政府が樹立された。ミロは共和国政府側に立って戦った人民戦線を支持して絵画「スペインを救え」(1937)を共和国政府支援のための切手デザインとして制作したが、その切手は発行されることはなかった。
Photo_20250613103301  ミロは、1940年から「星座のシリーズ」を制作した。
 「明けの明星」(1940)が展示されている。
 星があって宇宙・世界が広がっているなかに、さまざまな静物が生息している。一見のどかで平和そうに見えるが、画面左下に描かれているような、密かに大きな口を開けて他の生き物を狙っているかのような怖そうな者がいる。1940_20250613103401
 「カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち」(1940)は、清澄な青色の世界に人間をより多数参加させているが、やはり「明けの明星」と同様な不気味さ、不安が感じられる。
 「女と鳥」(1940)では、背景まで暗くなって、陰鬱で不穏な気配すら感じられるようだ。

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ミロ展 東京都美術館(3)

2.モンロッチ─パリ 田園地帯から前衛の都へ
Photo_20250612054101  ミロは、1919年にパリに出て、パリでの創作を開始した。この頃からモンロッチとパリを往復しつつ制作するようになった。パリではピカソら当時の美術界に大きな影響を与えていた芸術家たちとも親しく知り合い、大いに刺激を得た。モンロッチという田舎から、パリという世界の前衛の中心に来た、その衝撃は大きかった。ミロは心機一転して自由奔放に描くことに専念した。
 またシュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンとも出会った。
 同じシュルレアリストでも、ベルギーのルネ・マグリットのような画風と、ダリらの古典的・写実的描写法とはまったく異なっていたが、ミロの作風はそのどちらでもない自由奔放なものとなっていった。ブルトンはこうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして評価し共鳴し、ミロを激励した。こうしてミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなった。
 しかしミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリではアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流を深めた。
 絵画(喫煙する人の頭部)(1925)という作品が展示されている。
Photo_20250612054102  煙草を吸っている男の顔とパイプと、パイプの先から発する火と煙を描いているように見える。しかし口元を中心に男は赤くなって興奮し、パイプの根本はなにかを放射しているかのようだ。ある評論家は、これは性欲を感じた男の興奮と射精の暗喩である、と理解している。顔の紅潮は性的興奮の現れであり、火と煙は射精の象徴だという。たしかにそのような絵と理解するのであれば、シュルレアリスムの作品なのだろう。
 「絵画=詩(栗毛の彼女を愛する幸せ)」(1925)という作品が展示されている。
 この絵では、画面の左上に詩のようなフレーズで「栗毛の彼女を愛する幸せ」と書き込まれている。表現は簡素化されてはいるが、そういえば二人の人物は、そこはかとなく可愛げが感じられ、やわらかい描写は、幸福感を表現している。ミロは、パリで制作した時期、絵と詩を結びつけようとしたかのような作品を何点か描いた。これもミロの絵画のオリジナリティ追及のひとつだったのだろう。
 「オランダの室内」(1928)が展示されている。Photo_20250612054103
 この作品には、ここに至る変遷を示す何枚かの他の絵がある。オランダの室内楽の風景だが、とくにリュートを演奏する左側の男の表現が徐々に変遷して、リュートの形も変遷し、このような作品に結実している。演奏者とそれを聴く人と、少数の動物が登場しているが、みんな奏でられるリュートの音楽を楽しみ、全体として意識の調和がある。形態をデフォルメすることで表現におもしろさを与える試みのひとつなのだろう。音楽演奏の軽快さ、動き、楽しさ、が心地よく伝わってくる。キュビスムでもなく、シュルレアリスムでもなく、それでも心理の表現も、形の軽快かつ動的な表現も、とても巧妙に表現されている。このあたりから、ミロの個性、オリジナリティが明確に顕れはじめたと思われる。

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ミロ展 東京都美術館(2)

1.若きミロ(下)
Photo_20250611060401  ミロは1911年18歳の時に、うつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在した。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたようである。ミロはこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学した。
 「ヤシの木のある家」(1918)が展示されている。
この絵では、ヤシの樹、畑の様子、そして建物など、すべてがかなり精緻に具象的に描写されている。強いて言えば、少し平面的な描き方ではある。「バイベルの森」とは、かなり印象が違う絵だが、しっかりした精緻な筆力は間違いなく認められる。当時流行していたとされるフォビスムの画風ともかなり異なることがわかる。
1919  このころの「自画像」(1919)も展示されている。
 この絵では、精緻な具象画というよりも、多少キュビスム的な描き方も入っているが、指向性としては具象的に自分の性格、おそらくはカタルーニア人としての誇りと自覚と強さを、できるだけ表わそうとする意気込みが感じられる。
このように、ミロは当時の絵画界の動向には当然留意しつつも、独自の道への試み、キュビスムの試み、写実の試み、などさまざまな模索を繰り返し、自分の芸術の方針を探っていたと思われる。
 しかもミロのこの時期は、うつ病との戦いがあり、その療養のためのモンロッチでの滞在が中心で、彼の絵画の基礎を育成する苦しい修行の時代であったと思われる。

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ミロ展 東京都美術館(1)

1.若きミロ(上)
2025  東京都美術館に「ミロ展」を鑑賞した。ミロの作品は、これまで断片的にはなんどか観ているが、まとまった古典として、生涯の彼の芸術の推移がわかるような展覧会は、今回がはじめてである。
 ジョアン・ミロ(1893~1983)は、1893年スペイン・カタルーニャ地方の中心都市バルセロナに生まれた。幼少期から絵を描くことが好きで、絵を生業にすることを希望していたが、父からはもっと堅実な職業を求められ、薬局の会計係を勤めたりしていた。しかしそれは、自分のやりたいことではなかった。

1.若きミロPhoto_20250610055601
 そんな苦悩多き時期に描いたと思われる作品のひとつが「バイベルの森」(1910)である。空と森の樹木と大地を、グラデーションはあるもののほとんど黄色と青色のみで描いた作品で、早くもかなりの独自性・独創性を顕わしている。無機的な色彩を用いる一方で、樹木を縦に長く上に向かって伸ばすことで、植物の成長のエネルギーと生命力を表わし、精細な繊維のような多数の縦方向の線で有機的な表情を表現し、明るい黄色と暗い青の対比で陽光と日陰を強調して、太陽光の明るさとエネルギーを表わしている。わずか17歳とは思えない、そこはかとない強烈なものを感じさせる。
 この絵は、なにかシュルレアリスム的な印象すら感じさせるが、若いころのミロは、シュルレアリスム風のものだけでなく、キュビスムのような表現があったことが、今回展示されている作品「無題(座る裸婦)」(1916)などからわかる。しかもこの絵では黒と黒に近い暗い少数の色しか使っていない。ミロの後年の原色を多彩に使う画風とは大きく異っていた。

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高輪ゲートウェイ駅 春の首都圏小旅行

 実はこの日、予定では東京在住の旧友と一緒に、都心を歴史散策する予定であった。この前日まで快晴が続いていたが、突然この日になって早朝から雨天となった。友人と相談して、それなら案外これまで訪れる機会がなかった、しばらく前に新設なった「高輪ゲートウェイ駅」を見に行こうということになった。Photo_20250609074301
 平成26年(2014)6月JR東日本は、田町駅と品川駅の間に新駅を建設し、令和2年(2020)の東京オリンピック・パラリンピック開催にあわせて暫定開業する計画を発表した。新駅設置は、山手線では昭和46年(1971)開業した西日暮里駅以来、京浜東北線では平成12年(2000)開業したさいたま新都心駅以来であった。
 そして令和2年(2020)3月14日のダイヤ改正にあわせて開業した。鉄道駅としての開業後も駅や周辺の開発整備を続け、令和7年(2025)3月27日TAKANAWA GATEWAY CITY第1期の街開きと同時に「本開業」した、との発表があった。しかし、実際にこうして訪れてみると、THE LINKPILLAR 1 SOUTH / NORTHや、そのグルメ&ショップ、「ニュウマン高輪」などには、まだほとんど店舗が入っておらず、閑散としたままである。
 駅名については、JR東日本が公募したが、決定した「高輪ゲートウェイ」は、公募で多数票を獲得した候補ではなかった。このため、決定・発表後も世間からは反対意見が噴出したらしい。私の感覚としては、決して悪いネーミングではないと思っている。
Photo_20250609074401  駅舎の基本設計は国立競技場などで実績のある隈研吾が、照明デザインは面出薫(めんでかおる)が担当している。
 国際交流拠点の中核施設として"Japan Value"を発信していくため、鉄道に関わる安全性や高い技術と品質を守りつつ、折り紙をモチーフとした大屋根や障子をイメージさせる膜・木といった素材を使用することにより、日本的な価値を体感できるものを目指しているという。開放的な空間を実現するため、コンコースやホームから空の色や雲の流れを確認できるように、屋根は光を透過させつつ熱は遮断する膜構造を採用した。カーテンウォールはガラスを使用し、あわせて街との空間的な連続性を保つため、風 雨を遮る最低限の範囲に留めている。
 たしかに、基本的な機構は鉄骨造りだが、床も階段も壁もベンチも、ヒトに触れる表面の材料は、ほとんどすべて木が採用されていて、とても美しく、あたたかく、やさしい雰囲気がある。もっとも、木材は耐久性には限度があり、メンテナンスや補修にはより費用がかかるだろうから、いささか贅沢な設計なのだろう。それどもともかくインパクトがあり、快適な景観であり、好感が持てた。

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河村小百合・藤井亮二『持続不可能な財政』講談社現代新書

借りたカネは返すのが当たり前との経済理論
 日本総合研究所のベテランエコノミストによる日本の財政政策、とくに国債の問題についての論考を読んだ。Photo_20250608060001
 欧米では政府から独立した「独立財政機関」たとえばアメリカではCBO: Congressional Budget Office(議会予算局)が国家のネット債務残高の見込みを提出するが、日本は内閣府がやるので甘々の見通しが発表される。このため、国民に危機意識が高まらない、というのがこの著者の警告ポイントである。
 以下、先ずこの本が述べる内容を要約する。

第1部は、このままではどうなってしまうのかを解説している。
 日銀の金融政策が国民の危機意識の不足を誘発した。極端な低金利を継続したために、国債の利払い費が増えなかったことが大きな誘因であった。そして国内の取引の金利は、国債の金利が基準となるのである。
 日本は国債の5割を日銀が引き受け、市場にでないため、市場メカニズムが機能しない。このため国債の金利は低いまま維持された。しかしこれはインフレが無い場合のみ持続可能なのである。インフレを抑制するためには政策金利を上げる必要があるからである。
 長らく続く低金利は、激しい円安を発生してきた。これは、国内で評価する企業業績を押し上げた。しかしいまのままでは、インフレが続くとともに外国に対して為替の円安が激しくなってしまう。日銀が金利を引き上げないから、インフレを抑制できない。このため、原状はさらにインフレ要因による円安も進んでいる。
 この対策としては、財政赤字と債務超過を免れるため、国債の売却と金利を上げることが必要となる。しかし日銀が政策金利を上げれば、日銀=中央銀行が債務超過に転落してしまうため、つまるところ大増税と歳出カットが必要である。
 2025年度時点の国債発行額は172兆円で、一般会計税収の2.2年分に相当している。

第2部では、行き詰まりを回避するためにどの程度の改善策が必要かについて述べられている。
 基礎的財政収支(プライマリーバランス)と政府債務残高の今後の推移見込みが、内閣府財政試算の見込みではとても楽観的だが、同じ対象のOECD経済サーベイの試算でははるかに悲観的である。
 OECD経済サーベイでは、消費税20%までの引き上げ、年金受給年齢先送りなど厳しい条件を追加したうえでも、見通しははるかに悲観的である。この大きな乖離の要因は3つ、
①内閣府の名目経済成長率の見込みが甘すぎる。特段の対策なしに自然に高成長するとの見込みである。
②その根拠のない名目経済成長率が、金利を上回ることを希望的に見込んでいる。
③金利とインフレの関係の矛盾。金利は常に物価上昇率より高いのが当たり前のはずで、内閣府の見込みたる低い金利は非現実的である。利払い費はもっと大きくて、基礎的財政収支をもっと厳しく悪化させるはず。
 中長期経済成長率は、ヒト(労働量)+カネ(資本投資量)+技術革新力(全要素生産性=TEP: Total Factor Productive)で決まる。人口減少が進み、財政が悪化し、技術開発の国際競争力が低迷傾向にある日本は、いずれの要因も非常に厳しいのが実情である。
 内閣府と財務省とで、今後の利払い費の見込みが、不思議にも毎年5~8兆円もの乖離がある。このような不自然な利払い費の過小評価が日本の財政健全度への疑惑となり、自由経済の国際市場において円が異常に低下する危険性すらあることを指摘したい。
 異常なまでに巨大な日本の債務残高だが、日本の場合は国内で貸し付けられていることがギリシアとは違う。それでも最近のコロナ対策の国債は、引き受け手がいないために長期国債とできず短期国債であったのが現実であることを忘れてはならない。高度成長時は、物価、給与、生産コストのすべてが上昇していた。それは歳出の増加を必然とするが、税収増で賄われていた。現状においては、国民生活を護るためにはインフレにあわせた歳出増は必須だが税収は低成長のため追いつかず、高度成長時と同じような財政再建は不可能である。同様に、インフレ時の財政増加を無視した「インフレで財政破綻が回避できる」も同様に不可能である。
 財政再建のためには、利払い費と債務償還費(定期的に毎年1/60ずつ返済分)が必須で、プライマリーバランスのみではまったく足りないことを強調したい。
 以上の結論として、国債の増加を止めるのみでなく少しずつでも確実に減らし、これまで積みあがった利払いも必要なので、プライマリーバランス達成などという甘いことでなく、具体的には最低限でも毎年30兆円規模の財政改善(一般会計115兆円の三分の一)が必要である。

第3部では、必要な財政改善実現のためには聖域なき歳出削減が必須であり、そのなかからとくに社会保障と地方財政の問題を論じている。
 社会保障費は年金62兆円、医療43兆円、介護14兆円、その他19兆円の138兆円になる。そのうち保険料(53%が個人、47%が事業主負担)が80兆円、国庫負担(税と国債)が38兆円、地方税が17兆円である。
 医療費は、1978年に8兆円であったのが40年余り経過した2021年には42兆円にまで増加している。その背景は、長寿高齢化、医療高度化などで不可避の要因によると思われる。
 医療費の負担状況は、当事者の自己負担分6.1兆円、公的医療給付費13.7兆円、保険料22兆円、公費14兆円である。医療費の半分は医師・看護師の人件費が占めている。
 2025年、815万人の要介護者がいるが2040年には1000万人へ増加が見込まれている。
 年金受給者へは、国民年金6.8万円/月、厚生年金11.5万円/月が平均で支給されるが、これのみでは生活困難だろう。
 昭和時代の夫=サラリーマン、妻=主婦を前提として成立していた第3号被保険者制度が、共働きの増加、結婚への柔軟対応化(非婚パートナーなど)など、もはや実態から乖離してきて、新たな不公平感が増加しつつある。
 地方財政は、その地方自治体内で自足するのではなく、地方交付税制度で、一般会計115兆円のうち19兆円(総額の1/6)が国から支給されている。税収では国税:地方税=63:37なのに対して、歳出では国:地方=44:56となっている。地方交付税、国庫支出金、地方贈与税で国から地方へ供与しているのである。
 国庫支出金は、受取側自治体の財政力に関係なく医療・介護、健保、義務教育などに目的別に支給される。
 地方交付税は、財政力の弱い自治体へ使途指定なしに(実態はブラックボックス)支給される。ただ東京都のみ圧倒的地方税収をもつため国からの支給は無い。地方交付税制度は、国の税収が足りず国債に依存(数十兆円)せざるを得ず、事実上破綻状態というのが実情である。

第4部では、日本の税制は平等・公正なのか否かが論じられる。
 2024年度一般会計予算の歳入は112.6兆円。うち税収が70兆円(60%)、公債金が35兆円(30%)である。税は、所得税、法人税、消費税の基幹三税が8割をしめている。
 しかし税には抜け道がある。租税特別措置(特別に免税する、2兆円以上)が環境問題対策費用(二酸化炭素削減など)、研究開発費、中小企業活性化、賃上げ促進、などに適用されているが、既得権益化している。
 金融所得への税率が一律20.315%と庶民の給与所得税率より低いことから、実態として金融所得比率の高い1億円以上の高所得者への税率が低くなる、いわゆる「1億円の壁」が発生している。
 その他、宗教法人無課税の妥当性の検証、開業医は税制が優遇されている、高齢者は金融資産で優位でかつ収入比率で増加傾向にある、などの問題点がある。

第5部では、改革の具体的な選択肢について問題提起がある。
 金利を上げれば日銀は赤字となり債務超過に転落するので、日銀は金利を上げられない。しかし低金利が続くと日本国の経済的信用が大幅に低下する。すべては日銀が国債を過大に買い入れたためである。
 欧米の中央銀行は、利上げして赤字・債務超過になったが、利上げと並行して国債を手放して中央銀行の資産規模を縮小し、赤字・債務超過克服の目処を立てている。こうして苦労しながらも信用を回復している。
 わが国では、国債の利払い費が今後の最大の鍵となっている。
つまるところ、国民(個人、企業)、政府の日本の構成員すべてが痛みを分け合って、真剣に財政再建を開始し、かつその努力を継続しなければ、日本が国家として破綻することになる、と警鐘を鳴らしている。

 以上のように、現在の日本の財政運営について、財源と歳出と負債の実情、そしてその中身の問題について、具体的なデータを詳細に提示したうえでの議論が、民間の経済専門家の意見として展開されている。
 国債の利払いの財源確保と債務縮小の必要性にかんしては、この本の著者のように、本来の貸借関係と同様に返済すべきとの正論としての議論がある一方で、古くは亀井静香元議員など、外国ではなく国内から借用する限りでは本質的に問題はない、とする議論が根強く存在して、経済学の門外漢たる私には正しく判断する自信がいまのところないのが実情である。
 日本の歴史においても、徳政令や大名貸しの一方的清算など、品が良いとは言えない道徳的でない強引な対処法も多々存在していた。アメリカでも、MMT: Modern Monetary Theory(現代貨幣理論)が提唱され、民主党リベラル派A.O.コルテス下院議員は、世界中から米ドルが欲しがられている以上、財政はドル紙幣を刷れば解決する、とトランプ大統領も驚くような大胆な発言をしている。
 それにしても、国債、すなわち政府の債務が無制限に拡大してもなにも問題が無い、というのも極端な議論だと思う。どこまでが許容範囲かの判断基準が、私にはわからない。
 さらに、低い金利がより激しい円安を招来する危険性もあり、そうなるとすでに懸念がある外国人による日本の不動産、とくに土地の買い上げの拡大を深刻に心配しなければならない。
 折しも現在、日本でも野党中心に「減税」が盛んに叫ばれている。この本の著者が言うとおり、最近の政治家は国債の問題をはじめからスルーしたまま、あまりにも安易に減税を主張しているのは事実だろう。私は市井の一老人に過ぎないが、少なくとも政治家はこの財政・税収の問題に対して、自分なりのきちんとした見解を表明して欲しい。
 ともかく、日本の財政の実情とその問題点についての詳細で丁寧な論述であり、この分野に疎い私には、大いに勉強になった。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(13)

6.旧篠原家住宅(下)
帳場と茶の間と大黒柱
 篠原家は、醬油の醸造・販売、そして肥料の販売を主な生業としていた。この商売のため、入口を入ったところが土間となっていて、左側にサクラ材の上り框(かまち)の帳場がある。Photo_20250607053801
 帳場には三方囲いの帳場格子を置き、その中で番頭さんが金銭の出納や帳簿つけを行っていた。格子のなかには硯箱やソロバン、ダイヤル式の電話機などがある。格子の前には銭箱が置かれ、売上金を一時保管していた。冬季には手あぶり用の小型の火鉢が置かれた。
 帳場の奥側の壁面には、欅の一枚板戸、上下二段の押入れが並ぶ。帳場格子の後ろの押入れの板戸だけは鍵が付けられ、商売上重要な書類や通帳などを保管していた。さらに、この戸だけは開閉するとき音が出るようになっていて、防犯に役立つようになっていた。
 帳場の帳場格子横の障子のある面からは、茶の間に行くことができる。帳場が対外的対応のための間であるのに対して、茶の間は生活の間である。ここには、とても大型の箱会談が据えられている。これは欅材で造られ、2階へ上がる階段の役割に加えて、側面に多数の引き出しがあり、収納家具でもある。
Photo_20250607053901  帳場と茶の間の間にとても太い柱が立っている。この家の誇る大黒柱で1辺が一尺五寸(45㎝)の欅の柱である。土間をはさんで向っているのが、一尺一寸(33㎝)の小黒柱(しょうこくばしら)だという。
 大黒柱は全長11mを超える通し柱で、2階床の間の床柱を兼ね、さらに上に伸びて棟木(むなぎ)まで達している。
 2階の床が1階の天井になっているのだが、ひときわ大型の木造住宅を支えるため、ひときわ太い欅と赤松を組み合わせた頑丈そうな梁が走っている。その豪華さと豪壮さを誇るためか、見世梁と言って、敢えて天井板を使わず、木組みが見えるようにしている。
 この住宅は、平成7年11月宇都宮市の文化財に指定され、平成8年2月宇都宮市に寄贈された。また、平成12年5月には主屋と新蔵が国の重要文化財に指定されている。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(12)

6.旧篠原家住宅(中)
3つの蔵
 母屋を正面にして、向かって左側に、南北に3棟の蔵がある。Photo_20250606054901
 いちばん南、すなわち母屋の出入口に連なる蔵は「新蔵」といい、母屋と同じ明治28年(1895)に建てられた。総2階建てで、1・2階ともに6坪(20㎡)ある。ひな人形や古文書、着物など普段あまり使用しないものを収納していた。
 真ん中の蔵は「文庫蔵」といい、幕末近い嘉永4年(1851)に建てられた。総2階建てで、1・2階ともに10坪(33㎡)ある。このなかには、日常生活でよく使用するものを収納していた。書画、骨董などの美術品、古文書などだけでなく、衣類などの生活日用品も納めていた。木造だが、外壁には土を塗った後、上に大谷石を全面にわたって貼り付けている。火事が多かった近世に、耐火構造を目指したものと考えられている。
 いちばん奥の蔵は「石蔵」といい、幕末の安政4年(1857)に建てられたと思われる。もとは2階建てだったようだが、戦後吹き抜けに改造している。約12坪半(41㎡)の広さがある。ここには醤油醸造のための道具や、肥料にもちいる醤油の搾りかす、米や味噌などを貯蔵していた。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(11)

6.旧篠原家住宅(上)
 二荒山神社を出て、朝と反対に大通りを駅方向に走り、朝、レンタルサイクルを借りだした駅前のステーションで自転車を返還した。それから、ここから歩いてすぐの旧篠原家住宅を訪ねた。Photo_20250605054301
 篠原家は、宇都宮市を代表する旧家のひとつである。近世後期(19世紀の初め)から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を広範に営んでいた。
 現在の「旧篠原家住宅」は、明治28年(1895) に建てられたものである。第二次世界大戦の空襲により、母屋と石倉3棟を残して、醤油醸造蔵や米倉などの建物は焼失してしまった。
篠原家住宅の復元模型が展示されている。この模型のうち、南側・下側の三分の一余りのみが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物として現在に残っているのである。
 母屋も現在残っている蔵も、黒漆喰や大谷石を外壁に用いたために、戦火で類焼を免れたという。
 商家を特徴付ける店先の格子などとともに、二階建て延べ100坪という規模の大きさが、豪商らしい堂々とした風格を顕わし、JR宇都宮駅前の歴史的シンボルとなっている。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(10)

4.宇都宮の餃子
 昼どきになったので、オリオン通りの餃子店で昼食をとることとした。
 もっともシンプルなメニューの「餃子ランチ」で、ただ「餃子ダブル」という20個の餃子がついたのを食した。たしかにここの餃子は、カラッとした焼き上がり、塩辛くなく薄めの味付け、たっぷりの具で、とても美味であった。私も加齢のせいか、近頃はすっかり食べる量が減っていて、ごはんを「小」としたのに、美味しい餃子だけですっかり満腹になり、コメの供給不足が話題になっているときに、大事で貴重なコメを食べ残してしまったのが心残りであった。

5.二荒山神社
Photo_20250604054501  オリオン通りを北に出て、朝に西向きに走った大通りに出ると、まもなく二荒山神社の案内板が見える。神社に近寄ると、いまちょうど神社のアプローチと舞台などが改修工事中で、立ち入り禁止となっていて、脇手の小径から石段の登り口に行くように案内があった。
 神社の石段はかなり急で段数もたっぷりある。
 二荒山(ふたあらやま)は宇都宮市のほぼ中央にあり、昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・城下町馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二つの峰を持った小高い荒山であった。山姿からして瓢(ひさご)型の墳墓であったという説もあるらしい。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っている。
 二荒山神社は歴史が古く、第10代崇神天皇の御代に遡る。二荒山神社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13年(1585)、安永2年(1773)、天保3年(1832)、さらに明治維新の戊辰の役と4度もあって、古い記録のほとんどが焼失している。Photo_20250604054502
 現在残っている社記には、第16代仁徳天皇の御代に毛野国(けぬのくに)が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の四世孫奈良別王(ならわけのおう)が下毛野国の国造に任ぜられた。このとき祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5年(838)に現在の地臼ケ峰に遷座されたと伝えられている。
Photo_20250604054601  延長5年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」との記載がある。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきた。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としたが、二荒山神社も「下野国一之宮」とよばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説がある。
 宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄した。宇都宮城は、まさに二荒山神社の真南に隣接して造営された。
北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、 お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れている。
 また、 宇都宮市の多くの祭りが二荒山神社に由来しており、 神輿が担がれる盛大なお祭りは、地域に賑わいを与えている。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(9)

3.カトリック松が峰教会Photo_20250603054501
 宇都宮城址公園を出て、少し北に上り、来た広い通りのさらに一筋北の道路を少し西に行くと、カトリック松が峰教会がある。とはいえこの教会の周囲は、いまでは背の高いビルに囲まれていて、大きな教会なのだがその建物の全貌をながめるのは結構難しい。写真をとるにも、よいアングルがみつからない。
 明治21年(1888)パリ外国宣教会カディヤック神父は、この地のキリスト教拠点として宇都宮天主公教会を創設した。カディヤック神父は、本格的な聖堂の建設のため、当時横浜に在住し、函館のトラピスティヌ修道院なども設計したスイス人建築家マックス・ヒンデルに聖堂の設計を依頼、宮内初太郎に施工統括を委託、大切な壁材たる大谷石については石工棟梁安野半吾らに委託し協力を得て、昭和7年(1932)大聖堂が竣工した。
 設計にあたってヒンデルは、故郷スイスで最大のロマネスク建築であったグロスミュンスター大寺院をヒントに、地元の大谷石を採用し、わが国では数少ない双塔の大聖堂を実現した。大谷石のそこかしこにロマネスク様式の装飾を導入した。
Photo_20250603054502  昭和20年(1945)宇都宮大空襲で、屋根と礼拝堂が焼失したが、戦後まもなく復元された。
 30年ほど前に、私はこの宇都宮の大谷石の洞窟を訪れたことがある。偉大な遺跡だが、当時見た洞窟は、あまりに陰鬱で、たのしい散策ではなかった。宇都宮では、その大谷石を産出する地であることを活かしてこの教会だけでなく、二荒山神社の石垣、宇都宮大学の庭園、中央公園の旧商工会議所遺構、星が丘の坂道、上野本家住宅、宇都宮貞綱・公綱の供養塔、そしてこのあと訪れた旧篠原家住宅の壁など大谷石が広く採用されたようだ。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(8)

2.宇都宮城址公園(下)
Photo_20250602054101  土塁の北西端に清明台櫓がある。江戸時代の絵図には、二階建て瓦葺きとして描かれており、約6m×7mの広さである。この清明台櫓は、土塁でもっとも高い場所に据えられ、天守閣のような役割を果たしていたのではないか、とも推測されている。土足を脱いで中に入ることができ、中からは窓から市街の景観を眺め降ろすことができる。
 清明台櫓からは、土塁の尾根をつたって土塁の南西端に位置する富士見台櫓に行くことができる。今では、高齢者や車いすも登れるよう通路の半ばの位置にエレベーターが設置されている。Photo_20250602054102
 富士見台櫓は、土塁南西部にあり、江戸時代の絵図では二階建て瓦葺き、広さ6m×8mと記録されている。ここも中に入ることができる。現在では周囲に多くの高層建築物があるが、江戸時代周りに高い建物がなかったころは、遠く富士山を眺望することができたであろうと推測されている。
 今後はこの城址公園に、徳川将軍家の日光社参時の宿泊所として本丸敷地内に建てられたといわれる「本丸御成御殿」、御殿北側の本丸櫓門であった「清水門」、同南側の櫓門であった「伊賀門」を、順次外観復元する計画があるという。

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宇都宮散策 春の首都圏小旅行(7)

2.宇都宮城址公園(上)Photo_20250601060701
 栃木県立博物館を出て、今度はJR宇都宮駅に向けて東方向に2キロ余り走った。中央公園から大通りとほぼ平行に走る「いちょう通り」という道路を行く。NHKの建物の手前で右折して南下し、ほどなく宇都宮城址公園に着く。
 宇都宮城は、平安時代後期より500年にわたって宇都宮氏代々の居城となり、近世には本多正純の大普請によって約4km四方の近世城郭へと発展し、歴代譜代大名の居城であった。関東七名城の1つに数えられている。近代になって、とくに昭和期の近代戦争の戦火や、戦後の都市開発によって殆どすべての構造物が失われ、昭和中期には建物は皆無で、わずかに本丸土塁の一部が残されるのみとなっていた。
Photo_20250601060702  この遺構は「御本丸公園」として整備され、市民の間に宇都宮城復元の機運が盛り上がったのに応じて、市は入念な発掘調査と文献調査を実施した後、当時の「御本丸公園」を改修・再整備し、往年の宇都宮城本丸の一部であった「清明台」、「富士見櫓」、「石垣と土塁」、「土塀」および「堀」を外観復元し、改称して「宇都宮城址公園」とすることとした。改修復元工事は平成18年(2006)12月に竣工、公園の運営方針を刷新したうえで、平成19年(2007)3月宇都宮城の開園式が執り行われた。建物としては、清明台櫓と富士見台櫓のみが再建されている。

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