藤井泰則『杉本伝』デザインエッグ(株)
自前プール造成・クロール改良そして「水泳日本」の先駆者
杉本伝(すぎもとつたえ)は、明治23年(1890)大阪市北区に生まれた。
明治36年(1903)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高校)に入学、第9回生として卒業すると日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進み、明治44年(1911)卒業とともに母校の茨木中学校に体育教員として就職した。昭和14年(1939)茨木中学校を退任するまで、28年間の教諭生活を茨木中学校で全うした。
茨木中学校着任の2年後に、大阪府知事から中学校で夏季水泳の訓練を必修にせよ、との訓令を受けたことが契機となり、生徒を動員して水泳訓練のための人工池を造成することを発案し、46日間の生徒の労力により、茨木川の河水を引き込んで、川の近くに長さ30メートル、幅18メートルの砂利敷の人口池を実現した。しかし、濁りが激しく不潔でもあり、そのままでは無理と判断した。
2年後の大正4年(1915)大正天皇即位の御大典記念事業として、校長は水泳池を造り直して本格的な水泳場とすることを同意・決断し、杉本の指導の下、校庭内に半年にわたるまたも生徒の労働奉仕によって、水泳場の造成が行われた。長さ42メートル、幅27メートル、深さ1.2~1.8メートルの、ひとまず立派な教育用の水泳場が完成した。
この間、杉本は他府県の中学、高校、大学などの水泳教育についても研究を進め、全校皆泳を実現し、さらにスポーツとして他校との競技会に勝つために、水泳の教育法と泳法の改良の研究を蓄積していった。
他校さらに世界と共通の基準で競技するために、水泳場を規格に準拠したプールへと改造することが必要であった。大正8年(1819)には、ついに規格に準拠した50メートルのプールを実現し、計測した記録を国際基準記録として認められるようになった。
杉本はこのころに、泳法の改良を進め、日本の伝統的泳法ではなく、より合理的なクロールの導入と改良を進め、生徒とともに泳法に磨きをかけ、当時の中学生の水準をはるかに凌駕し高等学校生にも勝るレベルを実現した。大正9年(1920)東京帝国大学主催の全国競泳大会に参加した茨木中学校の競泳選手は、驚くべきことに多くの競技種目で高校生、大学生をはるかに凌駕して、総合優勝を獲得した。こうして大阪府立茨木中学校は、全国的にもトップクラスの水泳強豪校となった。
杉本は、水泳の教育と訓練に必要かつ有効なプールの整備と、合理的な先進的泳法を研究し、大きな成果を達成したのであった。なにごとにも合理的かつ着実に取り組み、確実な成果を達成した。同様なアプローチで、水泳の飛び込み競技にも水球にも取り組んで、大きな成果を獲得していった。
杉本は、こうして茨木中学校を水泳王国にするのみでなく、この後日本全国の学校でのプールの普及、泳法の改良に尽力し、わが国水泳のレベルアップに大いに貢献していった。
典型的な成果が、昭和7年(1932)ロサンゼルス・オリンピックであった。日本は競泳男子22名、女子6名、水球9名の選手が参加し、5個の金メダル、5個の銀メダル、2個の銅メダルを獲得した。一躍「水泳日本」の名を、世界に轟かせたのであった。
さきの大戦の最中、昭和14年(1939)杉本は51歳にして茨木中学校を退任した。戦後は、天理短期大学教授として、やはり水泳の指導をした。
茨木高校同窓会の事務に携わった藤井泰則氏が、日本の水泳教育・水泳競技に多面的に大きな貢献をした杉本伝についての伝記がこれまで全くなくて、ほとんどその名も知られることがなかったことを知った。それが、この本を書く動機となったという。
私自身、この茨木高校の出身者ではあるが、杉本伝については、これまでほとんど知らなかった。同窓生の大先輩だから、というわけでなく、ひろく尊敬すべきひとりのパイオニアとして、その人となりや経歴をより深く知るに値すると、興味深く読むことができた。
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