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2025年7月

生誕150年記念 上村松園展(2)

第1章 人生を描く
Photo_20250731053801  女性の人世の一大トピックが結婚式である。「人生の花」(明治32年1899)が展示されている。緊張した花嫁が、母であるらしい年功の女性に連れられて歩く姿である。ピシっと一分の隙もなく着つけられた美しい花嫁が描かれている。このころ松園は24歳、彼女自身も結婚・花嫁というものに興味や憧れがあったのだろうか。
 明治35年(1902)松園は27歳のとき、長男信太郎(後の松篁)を出産した。相手は最初の師匠松年とも言われているが、先方に家庭があるためか松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産したのであった。この松篁は成長して画家になり文化勲章を受章している。
Photo_20250731053802  27歳のときには「姉妹三人」(明治36年1903)という作品を残している。
 三人の美しい姉妹が、肩を寄せ合って一冊の本を覗いている。謡曲の本なのだろうか、との解説がある。
 三人の女性は、一番手前がもっとも若い娘、中ほどの女性はおそらく若妻となっているだろう。いちばん奥の女性は最年長らしい渋い色目の着物をつけている。いずれも美人でかつ上品である。美しいが妖艶さは皆無とも言える。

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生誕150年記念 上村松園展(1)

 大阪市の中之島美術館で、生誕150年記念として開催された上村松園展を観た。
Photo_20250730060301  私はこれまでにも日本画の展覧会で、なんども上村松園の作品は観てきたつもりである。しかし振り返ると、上村松園の個展や特集展は経験がなく、あまり知らないことに改めて気づいたので、この機会にじっくり勉強したいと思ったのである。
 上村松園(うえむらしょうえん 明治8年1875~昭和24年1949)は、京都市下京区の葉茶屋(はぢゃや)「ちきり屋」の次女として生まれた。誕生後、まもなく父が死んだので、以後母はひとりで子供を育て上げた。
 幼少期から絵を描くことで好きで上手であった。12歳にして京都府画学校(現在の京都市立芸術大学の前身)に入学し、北宋科に属し鈴木松年(すずき しょうねん)に師事した。翌年には、はやくも雅号として「松園」を用いるようになった。師の鈴木松年が京都府画学校を辞職したため、松園も退学し、鈴木松年が率いる松年塾に入った。

第1章 人生を描く
 明治23年(1890)松園が15歳のとき、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品した。Photo_20250730060401
 これは一等褒状を受賞し、さらに来日していたイギリス王室のコンノート殿下が、この絵に感銘を受けて買い取る、という大きなニュースとなった。コンノート殿下は、ヴィクトリア女王の三男であった。
 この作品は、同じタイトルで何点か制作されたもので、そのひとつが今回の展覧会に展示されている。4つの四季の変化を女性の人生の変遷に擬えて、若い娘から老女にいたる4人の女性を描いているものである。たしかに素人の眼から見ても、描写の技能が卓越していたことはわかる。
 このセッションでは、女性の人生にまつわるさまざまな通過儀礼、また人生で経験する時空にわたる感動などをテーマとする作品が展示されている。松園の初期の作品には、このようなテーマが比較的多いようだ。
 松園は、十代のころから女性の人物画を極めたいと考えていたらしい。しかし師の鈴木松年は、風景画や動物画など勇壮な絵が得意で、荒々しい描線を特徴としていた。そのようなこともあって、松園は師の松年の許可を得て明治26年(1893)18歳のときから、より柔らかな描写を得意とする幸野媒嶺(こうの ばいれい)に師事するようになった。また、市村水香から漢学を、長尾雨山から詩を学んだ。
 明治28年(1895)20歳のとき、幸野媒嶺の死にともない、媒嶺の高弟であった竹内栖鳳に師事するようになった。

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関西大阪万国博覧会(14)

シンガポール館
Photo_20250729060601  日没からほどなくしてオランダ館に隣接するエスカレータで大屋根リングを降りた。オランダ館への入場を期待したのだが、あいにく今日は午後5時半で閉館したという。しかたなく、近くのブルガリア館、シンガポール館を打診すると、シンガポール館が待ち行列約20分というので、ともかくここに入ることにした。
 シンガポール館は、さきほど大屋根リングを散策したとき上から間近に見下ろすことができたが、建物の外観の赤い球体「ドリーム・スフィア」が目立つ。
 この真っ赤な球体は、SNS映えするスポットとして人気を集め、とくに夕方から夜にかけては、ライトアップされた球体が幻想的な雰囲気を醸し出し、より印象的な景観をもたらす。Photo_20250729060602
 館内に入ると、天井が高く開放的な空間が広がっている。壁面には大型スクリーンが設置され、シンガポールの都市風景や自然、人々の暮らしを映し出す映像が常に流れている。
 2階には体験コーナー「ドリーム・ランチャー」がある。
Photo_20250729060801  ここでは、観客がタブレット端末に自分の「未来への夢」を絵で描いたり、メッセージを入力したりする。その夢が仮想空間内で光の粒子となって、まずタブレットの上に現れ、書いたヒトの手に収まる。そしてその粒子は大きなスクリーンに映し出され、夢の玉となって天井に舞い上がる。自分の描いた夢が天井に舞い上がる様子は幻想的で、他の来場者の夢と混ざり合って、美しい光の渦を作り出す。
 さらに坂をのぼって上の階に上がると、シンガポールの過去から現在、そして未来の町並みの景観が天井いっぱいに広がるプラネタリウムのようなスクリーンの球面に一面にひろげて動画で照射される。そのなかに、「ドリーム・ランチャー」で観客が描いた絵やメッセージが現れる。この天井にひろがるドーム状のスクリーンこそ、パピリオンの赤い球体「ドリーム・スフィア」の内部なのだろう。
 シンガポール館は、気候変動問題を中心課題として取り上げ、総合環境のモデルを提案し、2050年までに炭素排出量をネット・ゼロにするとのメッセージを軸として、観客の夢とあわせて夢の豊かな未来像を映像化しようとしている。Photo_20250729060603

 午前10時半ころから夜まで、まる一日を万博会場で過ごした。
 大屋根リングの下には多くの木製のベンチがあり、雨さえ降らなければ休憩スポットには困らない。ただ日陰が少ないので、この日は曇りで助かったが、日差しの強い暑い日はいささか大変だろうと推測する。会場は午後10時に閉じられるが、私たちもオランダ館やポーランド館で経験したが、会場が閉じられるよりも早くから閉館となるパピリオンもあり、夜間での散策には注意が必要である。
 会場内の売店やレストランは、総じて価格が高いと言える。これはわが日本が長年にわたってデフレと円安に安んじてきたことも関係しているのだろう。いまや国際的な平価はかなり上昇しているようだ。そのうえ、多くのパピリオン附属のレストランが、いつも満員で、ほとんどが利用しづらい。今回の私たちは、結局どのレストランにも入れず、持参したおにぎりのみで過ごすことになった。
 いろいろ入場や入館にかんする手続きが複雑で、全体に混雑して待ち行列も長い、など不満な点は多々あるが、なんといってもめったにない国際的な非日常の祭典である。一日を過ごして満たされるものは多かった。

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関西大阪万国博覧会(13)

大屋根リング散策
Photo_20250728054201  万博会場から西ゲートに向かう通路から、大屋根リングに上るエスカレータがあり、そこから夕暮れ時の大屋根リングをしばし散策した。その登り口は、大屋根リングの西北西のところであった。
 大屋根リングは西ゲートに向かう出口の少し北、リング全体の北北西の位置から、リングのほぼ真南の位置までの、全周長の4割ほどが二重の歩道になっていて、ビルの1階分ほど外側の歩道が高くなっている。したがって、私たちがリングに上がったところは、二重の歩道の内側の低い側の歩道であった。
Photo_20250728054301  登り口から左回りに歩きだすと、およそビル4階ほどの高さから、ベルギー館、イタリア館、シンガポール館、ブルガリア館、オランダ館と見てまわることができる。かなりの高さから、非日常的な万博会場の景観を見下ろすことができるので、これはたしかにおもしろい。
 ただ、二重リングの内側、低い方の歩道なので、リングの内側のパビリオン群を眺めるには好都合だが、海は見ることができない。
 しばらく歩いて、リングの南西の位置にくると、リングは海上の位置となり、ウォータープラザと名づけられた水上ショーの会場の上となる。Photo_20250728054302
 そこから少し歩くと、リング外側歩道につながる分岐路があるので、海を見たいと外側歩道に向かった。ちょうど日没が近づくころだが、残念ながらこの日は曇っていたため、日没の夕日を見ることはかなわなかった。しかし、日没後の太陽からの残照らしい赤みは明らかに眺めることができた。

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関西大阪万国博覧会(12)

イタリア館
イタリア館の印象
 Photo_20250727054501 イタリア館は、たしかにこの日のうちに観ることができたパピリオンのなかでは、圧倒的に充実していた。その要因は、①世界にアピールできるネタがきわめて豊富で、出し物に事欠かない、②世界的に希少かつ貴重なモノを実際に万博会場に運び込んで展示する決断力と実行力があり、③パピリオンの建物の構成・展示の雰囲気などにイタリアらしい粋なセンスがある、などが挙げられる。一言で言えば、驚くほど貴重で珍しく印象深いモノを、おしゃれな雰囲気の中で、イタリアの現地を訪れたかのように手で触れるほどの身近さで眺めることができる、ということだろう。
 屋上はイタリアン・ガーデンとなっていて、ここにはその庭園の景観を眺めながら食事を摂ることができるレストランがある。しかしパピリオンへの入場ですら大変な倍率の抽選に当選することか必要なうえに、レストランは輪をかけて入場希望者が多く、普通はとても入ることはできないようだ。
 ともかく、今日一日の苦労が報われたような鑑賞であった。

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関西大阪万国博覧会(11)

イタリア館
イタリアの先端技術の特許の例
 イタリアが、現代の先端技術においても優れていることを紹介している。

エクステンデッド・モビリティのタイヤPhoto_20250726060501
 タイヤの側壁内に補強インサートを配置して、完全に空気圧が失われた状態(ランフラット時)でも、車両の荷重を支えつつ走行可能としたタイヤの特許である。
 ドライバーは緊急時も安全に移動し、修理工場まで到達できるため、レッカー車を要請する、あるいは危険な状態でのタイヤ交換が不要となる。
 空気圧がゼロ(ランフラット)の場合、タイヤは特定の距離、速度での走行性能を確保する。この機能は「エクステンデッド・モビリティ」と呼ばれる。通常の空気圧での運転時にも、優れたハンドリング性能と快適性を維持する。
 このプロジェクトは、自立支持型タイヤの性能を向上させ、転がり抵抗を低減することで燃費を向上させるとともに、ランフラット走行時での快適性を保証する。

フェラーリの最新アクティブサスペンション
Photo_20250726060502  フェラーリが発明したTASV(True Active Spool Valve)技術を採用したアクティブサスペンションシステムは、高精度の油圧ショックアブソーバーと電動モーターによる駆動を一体化した完全統合型システムである。電動モーターは、従来のアクティブまたはセミアクティブサスペンションシステムと比較してもより高い精度と高い周波数で車体および車輪のアクティブ制御を実現する。
 高密度三相ブラシレス電動モーターは、フェラーリによって特別に開発されたものであり、ステータにスロットレス巻線技術を採用することで半径方向の寸法を最小化しつつ、電力密度を最大化する構造となっている。

GITA:革新型二輪車両
Gita  イタリアの創造性・起業家精神とアメリカの技術を融合した革新的な二輪車両のプロジェクトは、Piaggio Fast Forward(ボストンに拠点を置くPiaggioグループの先端研究センター)によって構想され、アメリカのソフトウェア専門家チームとイタリア・ポンテデーラにあるPiaggio本社研究開発所のイタリア人エンジニアチームの共同開発により実現した。
 GITAは、イタリアとアメリカのチームワークの賜物であり、イタリアらしいビジョンとPiaggioの豊富なデザイン経験が反映され、個性的でダイナミックな形状をもつ。GITAの革新性は、日常生活において人びとの行動範囲を拡大し、荷物搬送能力を補填する点にある。完全自立型で、周囲を観察し、コミュニケーションを行うことができる。最大18㎏の荷物を運搬可能であり、ヒトの後ろを追従しながら最高35km/hで走行できる。

骨折治癒の外部環状固定器
Photo_20250726060701  この装置は、骨折した骨に直接取り付け、骨折部をバイパスする外部ブリッジを作成する。
 四肢を囲むリングと、それらを連結する伸縮式ロッドで構成され、スクリューと糸で骨に固定される。X線透過性の高い材料をリングおよびロッドに使用することで、X線撮影時の視認性を向上させている。
 本装置は史上初の事前に組み立てが済んだ(プレアセンブル)滅菌済みの外部環状固定器であり、手術時間の削減に貢献する。さらに、本装置には外部コンポーネントを追加せずに骨折部位に動的負荷を適用できる機構が組み込まれており、術後の医師の判断に応じて適切な負荷をかけることで、血流促進・仮骨形成の促進・治癒期間の短縮が可能となる。

 これらの他にも、陸上植物を海底で水耕栽培して新しい代替農法を実現する装置、深海3000mの深度で運用可能な水中ドローン、高効率のフレキシブル太陽電池セルとの統合を可能とする繊維織物とエラストマー系ポリマーを組み合わせた複合材、混合プラスチック廃棄物のリサイクルから新たなポリマーの原料となるリサイクルオイルを生成する技術、摩擦材から発生する熱の制御と排出を改良して制動性能を向上したクルマ用ブレーキ、などの多方面にわたる多彩な先端的特許の紹介が展示されている。
 たしかにイタリアは、科学技術での業績も多々ある。古くはガリレオ・ガリレイ、エヴァンジェリスタ・トリチェリ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、アメデオ・アヴォガドロなどが有名であり、近現代にもグリエルモ・マルコーニ、エンリコ・フェルミなどが世界的に活躍した。

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関西大阪万国博覧会(10)

イタリア館
スペースライダー
 イタリアは、古代とルネサンスだけじゃない、と言わんばかりの、現代イタリアにかんする展示もある。
 ひとつは、イタリアの現代先端技術を紹介するもので「スペースライダー」プロジェクトである。Photo_20250725053901
 スペースライダー (英ːSpace Rider, Space Reusable Integrated Demonstrator for Europe Return) とは、欧州宇宙機関(ESA)が計画する無人軌道宇宙飛行 リフティングボディ スペースプレーンである。手頃な価格で日常的な宇宙へのアクセスを提供することを目指している。 機体と地上インフラの建設に関する契約は2020年12月に締結され、初飛行を今年2025年の第3四半期に予定している。
 スペースライダーの開発はイタリアがESAと協力して、欧州再利用可能軌道上実証機プログラム (PRIDE プログラム) によって主導している。
 このスペースライダーの十分の一のサイズの模型が、展示室の天井から吊り下げて展示されている。太陽光パネルを着けた翼の全長が266cm、本体の長さが155㎝だという。

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関西大阪万国博覧会(9)

イタリア館
 「シチリアの旅」プロジェクト「GIFT-返礼のジェスチャー」
 私たちがイタリア館を訪問したころ、時限的な催しとしてシチリアにかんする展示があった。イタリア文化遺産局が提案した「芸術は命を再生する。古典から現代へ、シチリアの旅」というプロジェクトのインスタレーションが展示されていた。何千年もシチリア島で栽培されてきたもっとも古い象徴のひとつである小麦を通じて、シチリアの文化遺産の物語を紹介している。Gift
 農業と豊穣の女神デメテルは、古代シチリアでもっとも重要な神であり、島の歴史を形作ってきた神話の主人公である。
 ここでは、現代版として芸術家ガンドルフォ・ガブリエレ・ダヴィドによるアート・インスタレーションで「GIFT-返礼のジェスチャー」として表現している。
 パンにまつわる儀式や伝統に着想を得て、シチリアで復活祭のとき設置される聖ヨセフの奉納祭壇を思わせる木製の構造物をつくり、赤い幔幕を張り、ちいさなパンの彫刻を展示し、パフォーマンスの舞台としている。
 来場者は、パンの彫刻を贈りものとして受け取り、その返礼として未来への願いや思いを小さな紙に書く。それらの言葉(Written thought)は、赤色の幕に貼り付けて飾られる。このメッセージの滝は、日本の七夕などの伝統にも似通ったものであり、対話と共有された記憶の感覚をつたえる。
 展示コーナーの壁には、動画でデメテルの神話とパンの彫刻の伝統が紹介されている。このシチリアを特集した週のうちにインスタレーションの赤い幕への言葉の貼り付けを済ませて催しを閉じるという。

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関西大阪万国博覧会(8)

イタリア館
史料 レオナルド・ダ・ヴィンチ 『アトランティックコード』
 「アトランティコ手稿」ともよばれるレオナルド・ダ・ヴィンチの8,000ページにものぼる大部のノートから、2枚のページが展示されている。Photo_20250723054501
 ちいさなノートのページなので、鑑賞するに行列に並び、ひとり1枚の写真が撮れるかどうか、という短時間のいささか忙しない見学となる。
 今回展示されている2枚は、いずれもダ・ヴィンチの発明した機械の図面である。
 ひとつ目は「紡績機」、すなわち糸をつむぐ機械である。一般には、繊維を加工して糸をつくる器械は、1530年ドイツ人ユルゲンが発明し実現したとされている。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチは、それより数十年以前に同様な機械の設計をしていたらしい。それのみならずダ・ヴィンチは、1794年にイギリスで発明された紡糸分配器も、併せて図面にしていたらしい。紡糸した糸が同じ場所に重なってしまわないようにするもので、現代のミシンにも同様の仕組みが取り入れられているという。
Photo_20250723054601  ふたつ目の図面は、「金箔製造機」、すなわち当時の女性の衣服を飾る金を薄く伸ばして金箔を造るためのものであった。きらびやかな衣装を身に纏いたいという女性の願いを形にする発明であった。
 金の薄板を機械の下部にある金床に置き、上部のフレームに連動したハンマーで連続的に叩きつけて薄く伸ばすという仕組みである。効率よく高品質な金箔を製造できる工業技術の先駆けであった。
 暗くて詳細を見ることができなかったが、こうして写真を見つめると、機構の構成や、各部分の駆動にかかわる機構など、かなり詳細・具体的かつ現実的に描かれていることに驚く。

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関西大阪万国博覧会(7)

イタリア館
絵画 カラヴァッジョ 「キリストの埋葬」
 ミケランジェロ「キリストの復活」の大理石像の横にある入口から、次の展示室に入ると、カラヴァッジョ「キリストの埋葬」(1602-1603)が展示されている。この大きな絵画作品は、イタリア・バロック期の巨匠カラヴァッジョが制作した絵画で、彼の代表作とも言われている。Photo_20250722055701
 キリストの十字架降架後の埋葬までの物語を描くが、キリストはまだ埋葬されておらず、石板の上に立つ会葬者に、ほぼ水平に横たわり抱えられている。この石板は、その上でキリストが香油を塗られた「終油の石」であり、同時にその上に教会が建てられる「隅石 (すみいし)」としてのキリストを象徴している。登場人物は皆、この石板の上に立っている。
 ニコデモは死せるキリストの足を持ち、ヨハネは上半身を支えている。ニコデモの肘は石板の角とともに鑑賞者の側に突き出ており、カラヴァッジョがよく用いた「突出効果」が駆使されている。
 キリストを抱える二人の男の背後では、聖母マリア、聖母に同行したマグダラのマリア、そしてクロパの妻マリア、の3人のマリアがそれぞれキリストの死を嘆いている。死せるキリスト、それを支える2人の男、その後ろに哀悼する3人の女という1、2、3の構図になっている。
 人物たちは、右端のクロパの妻マリアからキリストの水平な遺体にいたるまで扇状に配置されている。左側のヨハネと右側から2番目のマグダラのマリアの顔は陰に沈み、ほかの人物の顔には光が当たっていて、光の当たる顔と陰の中にある顔が交互に配置されている。この光と陰のリズムが画面に奥行きと変化を与える。鑑賞者の目が暗闇から下降していくように、右端にいるクロパの妻マリアの激しい動揺が、他の人物たちのより落ち着いた感情を経て、最終的な感情の喪失としてのキリストの死へと下降していく。スペインの芸術において病的なほど残酷に描写される磔刑後のキリストとは異なり、イタリア美術のイエスは血を流さずに死に、幾何学的に計算された構図で力なく横たわっている。死せるキリストが痛みを感じることができないことを強調するかのように、ヨハネの手がキリストの脇腹の傷の中に入っている。キリストの身体は通常の骨と皮ばかりの描写ではなく、逞しく筋肉質で、静脈があり、太い手足を持つ肉体労働者の身体となっている。
 2人の男がキリストの遺体を運んでいる。若々しい姿と赤いマントのみで識別される福音書の作者ヨハネは、死せるキリストを右膝と右腕で支え、うっかりその傷口を開いてしまっている。ニコデモは石板の端に足を乗せ、両腕でキリストの膝を抱えている。カラヴァッジョは、キリストの身体の威厳のある安定感と、ヨハネとニコデモの動きのある不安定性との間にバランスを取っているようだ。
 この作品は、ローマのキェーザ・ヌーヴァのヴィトリーチェ礼拝堂のために制作され、ナポレオンによりフランスに持ち去られ、一時はルーヴル美術館に展示されていた。現在はフランスから返還されて、バチカン美術館に収蔵されている。

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2025年参議院選挙への雑感

 2025年参議院選挙が終わった。結果は、これまでの政権与党たる自民・公明の歴史的大敗であった。
 報道では、物価対策などへの政権公約の問題、米の問題、自民党議員の失言問題など、いくつか取り上げているようだが、選挙に負けた要因は、ずばり有権者の石破政権への不信感に尽きる。もっとはっきり言えば、石破さんの存在そのものが敗因である。
 選挙に限らずあらゆる社会的行為において、道徳的・倫理的問題はさておき「見た目」はとても重要である。「見た目」は持って生まれた容貌の優劣も逃れがたいが、芸能生活でない限り容貌の造形は決定的ではない。表情・雰囲気こそが大事である。石破さんの問題は、顔の造作以上にその表情である。このヒトは実は悪人ではないためか、満足な「作り笑い」ができないらしい。このヒトの作り笑いは、自ら無理強いしています、と外観に顕れていて、いささか不気味ですらある。暗い陰鬱な表情で「明るい未来」「楽しい日本」などと演説しても、マイナスこそあれ決してプラスの要素はない。このヒトの顔をみるたび、あーあ、今の日本の「顔」はこのヒトなんだなあ、と情けない気持ちになる。
 もちろん選挙に大敗したのは、石破さんの顔の問題だけではない。意味不明のアジア版NATOや防災省の構想(夢想)、いい加減なコスト無視の脱炭素構想、NATO国際会議欠席やトランプ関税問題への「自ら動く態度」の欠如、そしてルール違反にも近い総裁選挙直後の衆議院解散声明や野党との安易な約束と反故など、「そういうことをすると、信頼を失う」姑息な態度と行動が続いた。それに加えて、これまで孤立していたためか人的ネットワークに事欠き、歴代の内閣より数段劣る閣僚たちの面々が国民を失望させた。
 要するに「評論家的」「他人事的」態度・行動に問題がある。評論家と異なり政治家は「言って終り」では済まされず、「実行して、成果を出して」こそ存在価値があるのに、そういう要素がほとんど感じられない。
 今回の参議院選挙は、驚くほど矮小化された「非改選議席を合算して自公過半数確保」などという姑息で恥ずべき低水準の「目標」で臨んだ挙句、さらにそれをはるかに下回る惨めな歴史的敗退となった。
 驚くべきことに、そんな状況にもかかわらず、石破さんは退陣するつもりはないらしい。歴史的大敗にもかかわらず「比較第1党」を根拠として、首相の座に居座る、と宣言している。その自民党の「比較第1党」をもたらしたのは石破さんではなく、彼に先行したそれぞれの首相たちの遺産である。それをこれから石破さんが潰して行こうとしているのだ。
 ここからは石破総裁を選出してしまった自民党の議員たちにお願いしたい。なんとしても石破さんを首相の座から引きずり降ろして、党の抜本的改革のための新体制を構築していただきたい。そうしなければ、ほんとうに自民党は壊れる。
 あと、今回の選挙では、自民党の歴史的大敗にもかかわらず、立憲民主党は停滞、社民党や共産党の衰退は継続した。ようやくわが国も、いわゆるサヨク勢力の衰退が明瞭になりつつある。これは、これから日本がまともな国家になっていくチャンスの兆しでもある。健全な保守勢力が、安定して育っていくことを祈念したい。

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関西大阪万国博覧会(6)

  イタリア館
彫刻 ミケランジェロ「復活のキリスト」
Photo_20250721060201  もうひとつの貴重な彫刻が、ミケランジェロ「復活のキリスト」(1514〜16)という高さ約2メートルの大理石像である。この彫刻は、イタリアのラツィオ州バッサーノ・ロマーノのサン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会が所蔵しているのを、これもまた現物をここまで移送したものである。
 もともとローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に設置するために、メテッロ・ヴァリがミケランジェロに制作を依頼した最初のキリスト像だと伝える。
 ミケランジェロが制作した原作は、その後、キリストの顔に黒い大理石の筋が現れたことから一度放棄された。その後1600年代初頭になって売りに出され、1618〜19年にかけて若きベルニーニが修復したと推測されている。
 この像は、よく見ると手には釘の孔の痕跡、胸の下には槍で突かれた傷跡が残っていて、十字架に添えた縄も相俟って、十字架から降ろされた直後であることがわかる。キリストが右手に力強く十字架と縄を抱く姿を表していいて、キリスト復活の瞬間を象徴している。
 イタリアは極めて多彩で高度な芸術があるが、そのなかからこの1点が選ばれた背景には、ミケランジェロという世界的なマエストロを紹介するだけでなく、バッサーノ・ロマーノという小さな村にもこのような秀作が秘められている、ということを伝える狙いもあったという。

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関西大阪万国博覧会(5)

イタリア館
 大阪・関西万国博覧会にはじめて行くことにしたが、交通手段のシャトルバスにも、入場ゲート通過にも、パビリオンへの入場にも、すべて予約することが強く推奨されている。つまり、予約が無ければそれぞれ長い待ち行列での長時間の待機が求められるのである。
Photo_20250720055701  メディアによれば、数多のパビリオンのなかでも、アメリカ・イタリア・フランスの御三家がとくに人気が高く、予約の抽選が高倍率だという。私と家人とは、なんとか一つだけでも予約を確保したいと、日本のまずまず人気のパビリオンを本命に重複応募し、その上で、ダメもとでひとつだけ有名パビリオンに応募する、という方針で1週間前の抽選に応募した。結果は、4回重複して当選を目指した日本のパピリオンは落選し、なんとダメモトのつもりであったイタリア館に当選したのだった。
 午後5時14分から入場可能とのことで、大事をとって少し早めにイタリア館の入口に着くと、予約された時刻から入場許可となるのでそれまで待ってほしいと言われた。
 ようやく時刻がきて無事入場すると、パビリオンのなかでもかなり厳格なグループ分けと時間区分の規制があった。
 だいたい30~40人のグループに分けられ、その単位で順番に各展示室に案内される。最初は映画館ホールのようなところで映像によるイントロダクションとウエルカムの映像動画を観る。そしていよいよ最初の展示ルームに入る。

彫刻「ファルネーゼのアトラス」
 冒頭をかざるのが「ファルネーゼのアトラス」と呼ばれる、紀元150年ころ古代ローマ帝国の、高さ2メートルにも及ぶ巨大な大理石彫刻である。Photo_20250720055801
 アトラスは、ゼウス率いるオリュンポスの神々と戦ったティタン族のひとりとされ、戦いに敗北した後、天を支えるという永遠の刑罰を課せられた。彫刻は、マントをまとい、膝を曲げ、体を屈めながら、両手で天球を支えるアトラスを描写している。アトラスが支える天球には、プトレマイオスの天文学にもとづく星座・黄道十二宮・子午線などの浮彫が精緻に施されている。この天球は、16世紀オランダで作られた「天球儀」のモデルになったともいう。
 この作品は、厳重な梱包を施され、イタリア・ナポリの国立考古学博物館から移動距離およそ1万キロを、10日かけて飛行機とトラックで運ばれてきた。イタリアから万博会場に到着すると、作業員がフォークリフトで梱包された箱を展示室に慎重に移動させてふたを取り外したという。このように、世界的な文化遺産として知られる作品の現物を、はるか遠方の外国の会場に移動させるというのは、とても希少なことであるという。

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関西大阪万国博覧会(4)

国際機関パビリオン(国際機関共同館)
 国際機関パビリオンは、ブラジル館に隣接する団体休憩所の筋向いにあり、とくに入場者の待ち行列もなかったので、入ってみた。Iter
 ここでは「東南アジア諸国連合(ASEAN)」、「太陽に関する国際的な同盟(ISA)」、「国際核融合エネルギー機構(ITER)」の3つの国際機関が展示していた。
 私は、エネルギー問題に興味があったので、国際核融合エネルギー機構(ITER)の展示と解説を見学した。
 「太陽に関する国際的な同盟(ISA)」も主張するように、太陽光エネルギーの有効活用は重要ではあろうが、今後たとえば世界的にAIの拡大普及が見込まれることをはじめ、ますます急速かつ膨大な電気エネルギーの需要の拡大がみこまれるので、太陽光発電などではとうてい莫大な電力需要を満たすことはできない。したがって国際核融合エネルギー機構(ITER)が説く核融合発電はとても重要な発電手段となる、という説明は説得力がある。ただ、この展示場の解説者が「太陽では太陽の中心部の超高温と、きわめて大きな重力による圧力で核融合が起こっている」との説明は、いささか粗雑に感じた。太陽内部の中心部に極端に大きな重力はない。
 このパビリオンの入場者が少ないのは、展示内容にアピールポイントが鮮明でないこと、分かり易い解説が不足していることが挙げられると感じた。

中国パビリオン
 国際機関パピリオンの向かいに中国パビリオンがある。待ち行列は、20分くらいで入場できた。Photo_20250719060201
 中国パビリオンの建物の外観デザインは、古代中国で使われていた記録媒体「竹簡(ちくかん)」からインスピレーションを得ている。竹を薄く削って文字を記した竹簡は、紙が普及する以前の中国で、重要な文化的役割を果たしていた。ちなみに日本の古代では、主に木簡(もっかん)が使用された。
 この竹簡のイメージを現代的に解釈し、縦に連なる細長い板状の外壁が特徴的な建築となっている。竹簡の上には、論語や漢詩の文章が種々の漢字で記されている。昼間は太陽の光を反射して明るく、夜はライトアップされて幻想的な雰囲気を醸し出す。伝統的なモチーフを現代建築に取り入れることで、中国の歴史の深さと現代の技術力を同時にアピールしている。
 このパビリオンの入り口の前で、私たちが待ち行列に並んでいたとき、中国が誇る二足歩行ロボット「Walker 行者」が出てきて、観衆の声援に応えていた。
Walker  身長約1.5メートルのヒューマノイドロボットである。今年の4月、テレビの報道番組で人間のランナーとヒューマノイド(人型)ロボットが一緒に走る初のハーフマラソン大会が北京郊外で開催されたことを伝えていた。計21体のロボットが参加し、うち4体が完走に成功し、そのうちもっともタイムが良かったのは2時間40分であった。スタート直後のロボットには転倒や頭部の脱落、転倒して機体がバラバラになるなどコミカルな場面も見られ、また多くがスピード不足などの問題で途中リタイアしたという。まだまだ人間のランナーにはかなわないが、ここまで到達したのは素晴らしいことだと、技術者であった私は評価したい。
 このときパピリオンの前に登場したロボットは「Walker 行者」と名づけられ、身長約1.5メートルで、自然な歩行と流暢な会話で来場者のガイド役を務めることができるという。
 ようやくパビリオンに入ると、最初の1階展示場の冒頭には、さまざまな映像インスタレーションが中国古代の紹介をしている。
 「良渚文化」という、一般に中国の古代として紹介される夏・商・周(紀元前2000年から)に先立つ、もっと古い歴史についての紹介がある。Photo_20250719060301
 中国ではすでに5000年以上前(紀元前3300年ころ)に巨大な城市があったとし、そのひとつとして「良渚文化」の遺物とされる「玉銭」が展示されている。インドのインダス文明に負けない中国の歴史の古さをアピールするのである。
この他にも、商の時代の青銅の仮面、他の古代の青銅器や仮面など種々展示されている。
Photo_20250719060401  ともかく古い、凄いという中国古代のアピールを見た後、2階に上がると今度は現代中国の先進性のアピールが続く。
プレゼンテーション・ジオラマの印象がすっかり変わって、グリーンとブルーを基調とした宇宙や未来や緑の大自然を連想させる場面となる。
 水、健康、生態系、交通、文化、ディジタルデータ、産業、エネルギーの8つのネットワークが統合された未来都市のビジョンがジオラマとして展示されている。
 この他、日本での万博開催ということを意識して、日中友好にかかわるディスプレイもたくさんある。廊下や階段の壁には、田中角栄をはじめ日中関係の構築・改善に貢献した日本人のレリーフや写真が飾られている。
 また、月の表面から採取した土(砂)も幾種類かが小さなシャーレにサンプル展示されている。まあ、見ただけではただの砂と違わないけど。中国の月面探査機「嫦娥5号」と「嫦娥6号」が持ち帰った月の表側と裏側の土壌が展示されているのである。宇宙開発における中国の貢献についても、かなり詳しいプレゼンテーションがある。
 パビリオンは3階建てでかなり大規模なものであり、中国が国威を世界に知らせようとの熱い意志を感じることができるが、展示としての華やかさや魅力は少ない。

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関西大阪万国博覧会(3)

ポルトガル館
Photo_20250718054601  気を取り直してまずは近くの比較的容易に入場できそうなパビリオンから観て行こうと、レイガーデンからほど近い「ポルトガル館」の列に並び、15分ほど待って入場できた。
 ここは物品の展示はごくわずかで、全館のほとんどは映像プレゼンテーションであった。
 ポイントは、ポルトガルが古くから日本と交流があること、もうひとつはポルトガルが伝統的にも海洋国家であり、海の環境保全の問題に熱心に取り組んでいることのアピールである。
 大きくてきれいなプロジェクション・プレゼン テーションだが、やはり映像だけというのは、どうしても満足するには不十分な気がする。
 ポルトガル館を出て、近くのトルクメニスタン館、北欧館、マルタ館、チェコ館などの待ち行列を見たが、どこも短時間では入場できそうになかった。

いのちの遊び場クラゲ館
 セミ屋外タイプですぐに入場できそうな「いのちの遊び場クラゲ館」に立ちよった。Photo_20250718054701
 ここは、五感を使った展示や音の体験を通して、みんなでわくわくできるオープンな、公園のような半屋外の遊び場をコンセプトとしている。さまざまな五感を使う、インタラクティブでプレイフルな遊具があり、遊び方に正解はなく、自分なりの楽しみ方をみつけたり、会場にいる誰かとさまざまな「音」を共に奏でたりすることができる。ひとりひとりの多様な想いや創造性をアンサンブルし、集積することで「いのちの高まり」を感じていただきたい、と謳っている。
 「創造の木」は、「プレイマウンテン」を登った丘の上にひろがる「いのちのゆらぎ場」の中央にそびえる、万人万物のいのちの創造性を象徴する木だという。4,600本ほどの吉野杉からできた角材が、解体ができるよう丁寧に組み合わされ、粘菌アルゴリズムによって複雑なゆらぎのクラゲを形成している。創造の木の下には、実は水族館から提供されたクラゲ3匹の映像と、バーチャルクラゲ3匹が泳いでいて、各々音を持ち、創造の木の光と呼応し、時にクラゲたちが近づくと不協和音となる。
Revived-organ  その傍には、美術家・長坂真護氏と中島プロデューサーらのコラボレーションによる、ごみアート作品として「ミドルクラゲ海月(くらげ)」がある。長坂氏は、かつてガーナのスラム街の廃棄物を使ったアート作品を作った。今回は長坂氏の活動するガーナのほか、カンボジア、日本国内の各地の学校(未来の地球学校)でワークショップを実施し、ペットボトルのごみを集めて大きなアート作品を作った。ペットボトルには、作品作りにかかわった子供たちや大人たちの未来への思いや夢、願いがたくさん書かれているという。太陽光発電によって海月は光を灯し、昼間と夜で違う顔を見せる。作品の真下に立つと頭上から長坂氏と中島氏のピアノの音が降ってくる。
 「転生オルガン Revived Organ」とタイトルがつけられたロボットのような形態の楽器がある。全国の家庭や職場などで不要になったパソコンの解体廃材を用いて生まれたのが「転生オルガン」である。キーボード、メモリ、電子基板、CPU、モニター、ケーブルなど多くの電子廃棄物によって構成されており、捨てられるものにいのちを吹き込み「転生」した体験型展示だとする。
 フットペダルを踏むことで、古いパソコンの中にあったファンを通じて音が出る仕組みとなっている。手で押すもよし、足で押すもよし、五感に導かれるままに自由に奏でてよい。
 そこで、「いのちの循環」「正しいパソコン・リサイクルの必要性」について、世代・性別を超え多くの人々の共感を求めている。Photo_20250718054801
 1977~1992年のアフリカ・モザンビークの内戦では、初めて「子ども兵」を生んだ。内戦終結後、市民の手に残された武器を市民自らが回収し「銃を鍬(くわ)へ」プロジェクトが市民主体で開始された。回収された武器の約5%は切断され、現地のアーティストにより平和を訴える「武器アート」に生まれ変わった。その展示もある。
 平和運動と環境保護運動の一環なのだろうが、全体として雑然とし過ぎていて、わかりにくい印象があった。

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関西大阪万国博覧会(2)

バングラディッシュ館からレイガーデンへ
 Photo_20250717081801 11時にはなんとか着けそうなので、まず近くの待たなくても観られるパビリオンを取り敢えず覗いてみようと、西端に近い場所にあるバングラディッシュ館を訪れた。
 このパピリオンは空いていたが、展示はしっかりしていた。いまでは世界的に有名となっている衣料品の製造受託、農業ではお茶の生産、そして工芸品の陶磁器の製造にポイントを置いて展示されていた。衣料品にかんしては、資源の有効利用・リサイクルまでを見通した、環境問題に配慮した戦略、お茶と陶磁器は高級品種への展開がアピールされていた。
Photo_20250717081901  バングラディッシュ館を出て、東に向かう。まもなく「静けさの森」のコーナーに差し掛かる。地面から霧を吹き出して来場者を霧で包むようなインスタレーションがある。
このあたりから右折し、南下して「null2」の特徴ある外観の建物あたりで左折してまた東方向を目指す。
 そして11時少し前に、お目当ての「レイガーデン」に着いた。ところが、ここではすでに定員以上の希望者が殺到していて、私たちが到着したときはすでに待ち行列が締め切られていた。やはり特別の催しとなるとますます大勢の人たちが殺到するようだ。

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関西大阪万国博覧会(1)

チケットと予約の準備
 5月末ころようやく大阪万博に行く日程が決り、不慣れながらチケットにかんするネットでの手続きを開始した。まず自分の入場チケットを登録し、入場する日付を決め、入場時間帯を決め、その上で入場の予約を登録して、最低限の入場チケットの情報を確定する。この日時にあわせて、交通ルートを決定し、必要な交通機関の予約を申し込む。たとえば西ゲートから入場するためには、シャトルバスの予約購入が必要である。
 次に、パビリオン入場のための予約手続きとなる。これはルール上では多くのパビリオンで必須ではないが、人気の高いパビリオンでは、実質的に予約なしに先着入場の待ち行列は数時間を要するものとなる。予約手続きに先だって、予約申し込みのたびに先ず同行者のチケットと自分のチケットの紐づけ登録を行う。そうしていよいよ7日前の予約申し込みの場合、入場希望のパビリオンを5つまで抽選に応募できる。当選するのはこのうちの1つだけである。当事者にとって不満なのは、抽選の当否の連絡の有無と、その経路が事前に説明されていないことである。結果的には、当選の旨電子メールで連絡があったが、それを受け取るまではなにもわからなかった。
 結局どのパビリオンにも入場予約ができない、というケースも多い。次のチャンスは、3日前の先行順予約手続きがある。ただこれは3日前の午前零時から受付が始まり、抽選はなく、あくまで申込入力の先着順なので、夜中の作業となる。さらに、一回ごとに同行者とのチケットの紐づけ入力が必要で、実際には通信回線の混雑からネットの応答が何十分と遅れるので、圧倒的に同行者のない単独入館希望者が有利である。
 万博に行くには、とても長いプロセスの大変な事前作業が必要なのだ。

Photo_20250716054301

万博会場までと初めての会場内
 当日はいつものように朝5時台に起床して、お弁当の代わりのおにぎりを買い、ペットボトルの水をリックザックに収めて、8時前に自宅を出た。JR環状線西九条駅から桜島線に乗り換え、桜島駅から万博シャトルバスに乗った。
 この間、いろいろあって混雑のなか乗車待ちもあったが、とりあえず入場予約の10時台には適合する10時10分ころに万博会場西ゲートバス停に着いた。しかしバス停から入場ゲートに至るまで長い待ち行列があり、10時半過ぎにようやく入場ゲートを通過して、大屋根リングの下あたりまでたどり着いた。
 万博は、現実には万博会場への入場以前にすでにひと苦労する現実を思い知った。
この日は、フィンランドのナショナルデーで、会場の東端に近いナショナルデーホール「レイガーデン」で11時から特別の催しがあるとのことであった。そこで会場マップの大きな掲示板の前に控えていた会場内案内者に聞いて、大屋根リングの真ん中を横切って、大屋根リングの東端まで15分余りだと聞いた。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(13)

第6章 新たな始まり
 「花のテラス」(1937)という作品がある。Photo_20250715053701
 題名の「テラス」は、地理用語で「段丘」を意味する。水平線を丘として見れば、地面からさまざまな緑色の植物が生い茂り、ところどころ花の咲く風景が浮かび上がる。画面真ん中の「S」の字の黒い線は、まわりから明らかに浮き上がって異質な存在だが、段丘を這い登るヘビをあらわしているのだろうか。そうだとすると、ここに描かれた豊かな段丘は、創世記に語られたエデンの園なのか。しかしここにいるのは這い回るヘビだけで、アダムとイヴの居場所はない。この「花のテラス」に描かれたのは、西洋絵画の伝統的テーマとしての「楽園」の追放であり、それは晩年のクレーが受けた芸術界からの追放に重なり合うのかも知れない。
Photo_20250715053801  「山への衝動」(1939)という作品がある。
 画面の上部に記号のように重なる黒い線は、山の稜線や木々のように見えなくもない。ならば右上の青色は空か。左上のうすぼんやりと明るい緑色は月なのか。画面の下は、はっきりした連郭線で登山鉄道と、その奇怪な形の列車を見て驚く人物が描かれている。登山鉄道の車両は、背景から浮き出て明らかに異質の暴力的な尖った形と赤色である。2両目の列車の上には青く色づけされた旗がある。
 1939年9月ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した。これらの作品の制作に影響を与えたのだろう、とされている。
 クレーが死んだとき、アトリエには作品番号が付けられていない作品が32点残されていた。そのひとつが「無題(最後の静物画)」(1940)である。息子のフェリックスによって「最後の静物画」と名づけられたという。Photo_20250715053802
 描かれているのは、腕を切断された彫像、切り離されてバラバラに散乱し枯れていくのを待つばかりの花々、花瓶のなかには、なにかが放り込まれているようだ。画中画として描かれているのは、「天使、まだ醜い」というタイトルの天使の絵だという。画面全体に死の予感が漂う。それでも鮮やかな色彩や、画中画のタイトルの「まだ」という言葉に、未だに強い意志と意欲を表しているとの解説があった。

 パウル・クレーは、近代絵画が印象派やキュビスムなど変革が華々しかった時代を経て、新しい芸術・美術の運動が渦巻いていた時代に登場した。クレーは、思弁的・理知的・論理的で、自分の芸術に対して常に懸命に思考し、その考え方や方針を堅持し、まさにマイペースでじっくり丁寧に活動を進めた。当時の先端的な芸術家から注目され、評価され、誘われたが、クレーは自分の方針をあくまで堅持し、いかなる芸術運動にも取り込まれることはなかった。けっして孤立したわけでも孤高でもなかったようだが、独自路線で生涯を終えたのだろう。さらにクレーが生きた時代は、第一次世界大戦があり、ナチスの台頭があり、苦難の時代でもあって、それがクレーの芸術に大きな影響を与えた。
 今回の展覧会は、クレーの作品以外にクレーに関連した他の画家の作品も少数あり、合計150点ほどの多数の展示があった。学芸員さんの解説も丁寧で、絵を観て解説を読んで進んでいるうちに思わず3時間以上を費やした。充実感は大きかったが、とりわけ疲労困憊の鑑賞となった。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(12)

第6章 新たな始まり
 バウハウスで教鞭をとりつつ、多方面に多様な芸術家と議論する機会を得たクレーは、多くの刺激を得て充実していたが、制作に思うままに専念できるという環境ではなかったようだ。1931年、クレーはより制作に集中できる環境を求めて、デュッセルドルフ美術アカデミーに移籍した。Photo_20250714055101
 ところがそれから間もない1933年1月、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になり、バウハウスをはじめとする「非ドイツ的」な芸術への弾圧が急速に強まった。かつてバウハウスのマイスターであったということで、クレーは4月にアカデミーから停職を申渡された。同じころ、クレーの作品はナチズムから幼児的で錯乱した精神の現れとみなされ、批判の的となった。ドイツ国内での芸術活動は不可能となり、クレーは1933年12月故郷のベルンへ逃れた。ドイツ国内の銀行口座が凍結され、経済的な困窮に陥った。1937年には、非ドイツ的な芸術作品を展示する大規模な「退廃芸術展」がミュンヘンで開催され、クレーの15点の作品が出品・展示された。さらにこの展示を名目として、全国の美術館から134点のクレーの作品を含む2万点以上の作品が没収された。そのうえ、亡命の2年後に原因不明の難病である自己免疫疾患の皮膚硬化症が発症し、晩年の5年間は療養と闘病のなかで制作を行うことになった。
 これ以降クレーは、かつての理知的で繊細な作品ではなく、粗野で即興的な表現で、かつそれ故に切実さをともなう多数の作品を制作した。
 ナチズムからの攻撃が急速に強まり、故郷ベルンへの亡命を余儀なくされた1933年は、多数の肖像画を描いた。そのひとつが「殉教者の頭部」(1933)である。
 これらの肖像画は、ナチズムに苦しめられた人びと、とりわけクレー自身の姿を連想させる。ごつごつと荒れた肌、ほとんど抜け落ちてしまった歯など、「殉教者」に与えられた試練の大きさを物語っている。その顔貌表現に喜劇的な要素が窺えるのは、ナチズムの絶対主義に対するアンチテーゼとしての相対主義の表明なのかも知れない。
 クレーは「反ファシストの芸術などというものはない。あるのは芸術だけだ。」と考えていた。
Photo_20250714055201  そうした逆境のなか、クレーは創造への意思をますます燃え立たせた。制作のペースを加速させ、最晩年の1939年には生涯最多の1253点を制作した。この頃の作風は手がうまく動かないこともあって、単純化された線(色のある作品では太い場合が多い)による独特の造形が主なものとなる。一時期は背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返していた。クレーは、もはや以前の様式に戻ることはせず、イメージと文字の中間に位置するような記号的表現を用いながら新たな創造を続けた。
 作品の販売への努力も怠らず、1938年以降はニューヨークの画商カール・ニーレンドルフを通して、販路をアメリカへと拡大し、これは成功した。
 「恐怖の発作」(1939)という作品がある。
 自己免疫疾患の症状が進んでからは、クレー自身の身体的苦痛や、死に対する恐怖が作品により一層現れてくる。身体をバラバラに分解され、口と目を大きく開いて叫ぶ顔が、暗い背景から浮かび上がる。ただ、これらは単なる苦痛の表明だけではない。クレーは分割された身体のそれぞれの部分にその単位としての完結性を与え、記号化している。その記号化された身体の部分が、まるで単語が文章を成して行くように自由に組み換えながら構成される。晩年のクレーが抱いた記号的表現への関心が認められる。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(11)

第5章 バウハウス
バウハウスの変遷─ロシア構成主義の影響など
 Photo_20250713053901 設立から4年が過ぎた1923年夏、バウハウス展が開催され、バウハウスの活動を対外的に紹介した。グロピウスは「芸術と工業技術の新たな統一」とのタイトルで講演し、バウハウスが中世の職人ギルドのモデルから、次第に近代的な工業生産へと歩みより、合理主義的な傾向を帯び始めたことを公表した。
 この展覧会の開催と同じころにイッテンが去り、後任としてロシア構成主義の影響を受けたラースモー・モホイ・ナジが着任した。このことがさらにバウハウスに大きな変化を与えた。構成主義は、芸術家の直観的・恣意的なコンポジション(=構図の原理)から、客観的・規則的なコンストラクション(=構成の原理)への移行を求めた。
 クレーもまた構成主義から少なからず影響を受けたが、そのまま受け入れたわけではなかった。1928年のバウハウスの雑誌に、クレーは「私たちは構図し、そして構成する。ただ直観は依然として重要な問題である。直観なしでもかなりのことができるが、全てではない。」と書いている。芸術作品は、構図と構成のふたつの原理のうちに組織されてはじめて完全性を獲得するのである。
 「蛾の踊り」(1923)という作品がある。
 暗から明への段階的な移行が垂直・水平方向に重ね合わされて、塗り残された白く明るい上下2カ所の中心には、光のエネルギーが集束している。この背景の上に、天を仰ぎ見ながら上昇してゆこうとする女性に擬人化された蛾の姿を重ねている。
 Photo_20250713054001 この作品は、心理学者ユングが著書に引用した統合失調症の女性による詩「太陽に向かう蛾」に着想を得たのかも知れないという。そこには「ただ、あなたの栄光に近づくために。そして恍惚のなかひと目見ることができたのなら、私は満足して死ぬことができる」とある。色彩の段階的な移行で構成された十字架は、まもなく訪れる死を暗示しているかのようである。
 「北方のフローラのハーモニー」(1927)がある。
 この作品に先行して、1917年オランダで画家・建築家テオ・ファン・ドゥースブルフは、ピート・モンドリアンらとともに「デ・ステイル」を結成した。ドゥースブルフは、1921年からバウハウスに積極的に働きかけを行い、影響力を拡大していった。表現手段を垂直線・水平線、赤・黄・青の三原色と無彩色に限定したデ・ステイルの教条主義は、直観的な判断を重視するクレーヘの方針とは合わなかったはずである。
 この「北方のフローラのハーモニー」では、垂直・水平の直線を強調しながらも、色彩は三原色に限定せず、さらに題名にある「フローラ」が示すように多様な花々の姿やローマ神話の花の神と結び付けて多様で抽象的な構成を実現している。クレーはドゥースブルフに対して、彼らの様式を参照しながらも批判しているようだ。  
 「大聖堂(東方風の) 」(1932)がある。

Photo_20250713054101


 これは横に長い画面に、全面的に点描が際立つユニークな作品である。色調の変化をともなう青・紫・赤・橙・黄・緑などさまざまな色彩で点描を行い、画面全体が覆い尽くされている。丸屋根を連ねた建物を描く茶色の輪郭線がこれらの点描を振り分けて画面を明確に分節している。点描は繰り返されることでリズムを構成し、輪郭線でせき止められてひとつの丸屋根として個別的なまとまりを成す。さらにそれらのまとまりは、連続する丸屋根として再び繰り返されてより大きなリズムを構成する。そして最終的に、大聖堂という完結した「音楽」のようなものとして帰結している。背景に施された薄い色面は、この音楽と対位法的に関連つけられているように見える。まさに構図と構成のふたつの原理でみごとな調和が達成されていると言える。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(10)

第5章 バウハウス
バウハウスのマイスターに就任
 1920年10月クレーのミュンヘンの自宅に、突然一通の電報が届いた。それは前年1919年ヴァイマルに設立されたばかりの造形学校バウハウスに、クレーを「マイスター」として招聘したいとの初代校長の建築家ヴァルター・グロピウスからの知らせであった。グロピウスの他、画家のリオネル・ファイニンガー、精神主義的教育者のヨハネス・イッテンら6名のマイスターの連名で招聘が記されていた。Photo_20250712054001
 グロピウスは、バウハウス設立宣言で「あらゆる造形活動の最終目標は建築である」と謳い、そのために建築家、画家、彫刻家たちが協働する必要があるとした。芸術家と手工業者(職人)のあいだに本質的な差はないとして、中世の職人ギルドをモデルとし、教師と学生という関係に代えて、マイスター(親方)、ゲゼレ(職人)、レーリング(徒弟)という発展的な段階を定義した。
 「女の館」(1921)という作品がある。
 薄青色のドレスをまとった二人の女性が舞台の幕を左右に開こうとしているようだ。舞台のすぐ上には三角屋根の館があり、左右には同じく三角屋根の塔のようなものがある。周囲には、赤、緑、淡黄などの色とりどりの樹木が点在する。ここでは、小さな舞台を設えた館の内観と外観、そしてその庭の風景が重なり合っている。画面には、立体的な凹凸をもつ点線が波打って水平線が表現されていて、これが画面の空間を立体的に水平に分節している。樹木の樹冠と幹、幕に付された円形の装飾などは、この水平に分節された構造のなかにリズミカルに収められ、まるで五線譜のなかの音符を連想させるようである。
Photo_20250712054101  「橋の傍らの三軒の家」(1922)がある。
 アーチ型の橋脚が規則的に並ぶ石橋の先に、三角屋根の家が三軒、形を変化させながらリズミカルに並んで建っている。橙、黄、青などの鮮やかな色彩が印象的だが、単色で塗られた色面はほとんどなく、すべての色彩は移行のなかにあるといえる。たとえば橙の色面は部分的に黄と重ねられることで色味のある灰色を帯びている。さらにこの灰色は、背景の黒へと連なっている。
 クレーは後の1924年2月のバウハウスでの講義の中で、有色彩と有色彩とのあいだの移行だけでなく、有色彩と黒、灰、白など無彩色とのあいだの移行も包含する立体的な色彩体系を論じたという。

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アメリカの追加関税と石破首相

 2025年7月7日トランプ大統領は、8月1日から日本からのすべての輸入品に25%の関税を課すと石破首相宛に書簡を送付したことを公表した。これに対して石破首相は、「(米国との関税交渉は)国益をかけた戦いだ。なめられてたまるか。私たちは言うべきことは、たとえ同盟国であっても正々堂々言わねばならない」、「私はトランプ大統領と直接首脳会談してでも、改善を図ってまいりたい」と参議院選挙の街頭演説で発言した。
 もしほんとうに大規模な追加関税が課せられると、その影響は現在日本経済の基幹産業たる自動車産業を中心に、まず一番弱いところ、具体的には製造の下請け、およびサプライチェーンや流通の中小企業に打撃を与え、やがて日本の全産業に波及するであろう。「もっとも苦しんでいる人たちを救わねばならない」と連呼している石破首相としては、なんとしても打開せねばならない事態のはずである。自ら「小物中の小物」と称するいかにも頼りない赤澤さんを、なんど訪米させてもなんの成果もないのが現実だ。
 私は、石破首相は参議院選挙の応援をするのでなく、直ちに訪米して首脳会談で事態改善に集中すべきだと思う。参議院選挙投票日7月20日までは待てない。
 もちろんトランプ大統領という難しい相手のある問題であり、石破さんが動いたからと言って問題が好転する保証はない。「トランプ大統領とは相性が良さそう」などという石破さんの言葉を信じるわけでもない。それでも問題の大きさと緊急性を考えると、日本全体の最高責任者として、自分の政党の選挙運動よりもこの関税問題を最優先にすべきだと思う。
 たしかに自民党と与党にとっては、苦戦を極めているとされる今回の参議院選挙がとても重要なのは理解できる。それでも誰が見ても、石破さんが応援演説することが与党にさほど役に立たないという可能性も大きい。また、石破さんが直接トランプ大統領と対峙したとして、その会談と折衝が成功するかどうかもまことに心許無い。それでもなお、首相の責任としては、国内の選挙よりも国益の方が大切だと判断して、最大限の努力を傾注する必要があろう。
 政治は、結果がすべてである。それでも状況を正しく判断して、なすべきことを実行しなければ、なにも生まれない。
 そもそも参議院選挙に対する石破首相の「目標」に大きな疑問がある。参議院での与党過半数たる125議席を実現するために、与党合算での当選議席数50(非改選75+今次50=125)という目標は、本来あまりに少なすぎる卑屈な目標と言わざるを得ない。これまでより16議席(25%)も減らして「選挙に勝った」などとは、とても言えない。今回改選議席数総数の125議席の過半数63議席を下回るようでは、与党政権が信任されているとはとうてい言えないであろう。
 すでにNATO国際会議を欠席した石破首相が、こんどはトランプ大統領との関税問題の折衝に動かない、という事態は、トランプのTACO(Tramp Always Chicken Out)ならぬIARA(Ishiba Always Run Away)と、世界から軽蔑されるであろう。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(9)

第4章 シュルレアリスム
Photo_20250710071401  第一次世界大戦の開戦で青騎士の芸術家の多くが不在となってしまったドイツでは、クレーへの評価と期待が高まった。ドイツの絵画の流通の要である画廊や画商は、クレーをますます重視するようになった。終戦後の1919年10月、クレーは、ミュンヘンのゴルツ画廊と総代理店契約を結んで、クレーの作品の独占的販売権を渡す見返りに、売れ行きに関わらず一定額の報酬を保証された。クレーは、経済的安定を得た。
 ゴルツ画廊は1920年クレーの大規模な個展を開催し、画廊と親密な批評家レオポルト・ツァーンは『パウル・クレー 生涯・作品・精神』を出版した。この本にクレーは、自筆の言葉を寄稿した。「この世では、私を理解することなど決してできない。なぜなら私は、死者たちだけでなく、未だ生まれざる者たちとも一緒に住んでいるのだから。最も遠いところで、私は最も敬虔となる。」こうして、クレーは「彼岸の芸術家」としてのイメージを築いた。
 「小道具の静物」(1924)が展示されている。Photo_20250710071402
 画面の真ん中にはデ・キリコやマックス・エルンストの作品を想起させるかのようなマネキンあるいは人形の姿がある。舞台道具としてのそれは、両腕を外されて、花瓶、水差し、打楽器、マレット、楽譜、旗、その他の得体の知れない道具たちと一緒に雑然と倉庫に収められているかのようだ。舞台を降りて人眼から逃れた道具たちは、人知れず静かに生命を帯び始める。円や四角といった自然の原型たる形を内部に秘めながら、自ら光を発して「眼」を開こうとしているかのようだ。クレーの作品に頻繁に登場する「眼」は、世界を観察するのみならず、ときには世界を照らし出し、生命を呼び起こす神秘的な働きを担うのである。
 「彼岸の芸術家」としてのクレーの芸術家像は、次第にパリにも及んだ。シュルレアリスム運動の中心人物たる詩人アンドレ・ブルトンは1924年発行の『シュルレアリスム宣言』で、クレーをこの運動の美術の分野での先駆者のひとりとして言及した。シュルレアリストたちは、理性による統制や支配を受けることのない人間の無意識から生まれる言葉やイメージこそが芸術に新たな創造力をもたらすと考えた。それゆえに、自由な線描によってさまざまな形象を紡ぎ出すクレーの作品は、彼らの目には先駆者として映ったのであった。クレー自身としては、主体的にシュルレアリスム運動に参加したわけではなかったが、彼の作品の一部は確かにシュルレアリスムと共鳴する要素があったようである。
 「周辺に」(1930)という作品がある。
 中央に太陽が描かれ、その太陽を囲むように一周する大地には、その光を浴びてさまざまな植物が根付いている。植物は、太陽の光で光合成、養分の吸収、生長、交配など生理機能を使って生きている。太陽から降り注ぐエネルギーが、生命の力に変換されて、空に向かって成長する植物の姿が表現されている。唯一の動物として描かれた鳥は、太陽を目指して羽ばたくことができるので、天上的な太陽の領域と、地上的な植物の領域を行き来する芸術家の隠喩となっているようだ。
Photo_20250710071501  周辺にエネルギーを供給する太陽に焦点をおいた作品に対して、そのエネルギーを使って生きる植物の側に焦点を移した作品が「熱帯の花」(1920)である。
 植物が土壌から養分を吸い上げ、維管束を経て葉や花へと送るダイナミズムが表現されている。ところどころに蓄積された汁液によって、植物は自ら成長するとともに、雄しべを発達させて新しい個体を生み増やす準備もしている。自然の解剖学的で静態的な理解を前提としながらも、そこから推測される生理学的かつ動態的な動きをも重視するクレーの態度は、自然の対象をたえざる変化のなかでとらえようとするゲーテの形態学の影響が認められるという。
 「バラの風」(1922)がある。Photo_20250710071601
 バラの周囲にはさまざまな方向を向いた太い矢印があるが、これは強い風を表わすらしい。バラの周りに循環する強い風が、バラの花弁の螺旋形と呼応している。クレーは、動物を中心に据えたマルクの自然観と自身の自然観との違いを述べた日記の一節のなかで、自分は「遠く離れた創造の根源的な極点」に、「動物、植物、人間、火、水、風、その他すべての循環する力に同時にあてはまるある種の根本形式を予感している」と述べていた。ここで「創造の根源的な極点」とは、神の創造のことにほかならない。描かれたバラの花弁は、植物の一部であることを超越して、神の創造をつかさどる根本形式としての螺旋を意味しているという。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(8)

第3章 破壊と希望
反戦運動としてのダダイズム
Photo_20250709054101  永世中立国スイスのチューリッヒに1916年に集まった芸術家たちによる「ダダ」の活動は、第一次世界大戦と密接な関係がある。
 ドイツの作家・詩人フーゴー・バルは、母国ドイツのベルギー侵攻を目の当りにして反戦運動を開始し、歌手・アーティストのエミー・ヘニングスとともにチューリッヒに移った。1916年2月、彼らはチューリッヒにキャバレー・ヴォルテールを開設した。そこにはトリスタン・ツァラ、マルセル・ヤンコ、ハンス・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベックたちの芸術家・アーティストが集い、バルの主導のもとにダダが結成された。
 ダダイストは戦争、制度、規範、ブルジョワ文化に反対した。このキャバレーで、彼らはヨーロッパを大戦の悲劇に導いた文化・社会・理性を全面的に否定するパフォーマンスを行った。ツァラは、同時進行詩としてドイツ語・英語・フランス語の互いに内容が無関係の3つの詩を同時並行に朗読して、単語を音に分解し、言語から意味を剥奪した音響詩とした。伝統の破壊という点で彼らの運動はイタリアの未来派にも通じるが、ダダイストたちは戦争とナショナリズムを明確に否定・拒否していたところが異なる。
 ダダは美術にも活動を広げ、1917年春にはギャラリー・ダダを開設して、展覧会を開催した。カンディンスキーやクレーの作品も展示された。1917年7月雑誌『ダダ』第1号が発刊され「ギャラリー・ダダの狙いは、選び抜かれた際立った作品によってダダイズムの理解を広く得ること、そして交戦中の国々からやってくる芸術家たちにコミュニケーションの機会を提供することである。芸術は純粋で倫理的な効果をもつものなのだ」と書かれていた。Photo_20250709054301
 トリスタン・ツァラはダダの活動のために幅広い人脈を確保したいと、1916年11月従軍中のクレーに手紙を送り、クレーの作品をダダの展覧会のために貸してほしいと書いた。今回展示されている「都市の描写」(1915)は、そのひとつである。
 これは当時のクレーの作品の中でもとくに抽象性の高い作品である。ダダイストたちは、従来の言語から意味を剥奪し、言語を新たに再編することで社会を変革しようとしていた。そのゆえに彼らはクレーの抽象的な作品に、自分たちの活動との共通性・共鳴性を見出したのであろう。
 終戦後スイスへの短期間の逃亡を経てミュンヘンに戻ったクレーは、それまで直接に言及しなかった戦争に対して目を向け、その惨禍をいくつかの作品に描いた。そのひとつが「破壊された村」(1920)である。
Photo_20250709054302  十字架を頂く教会堂を真ん中にして、まわりに暗い窓の並ぶ傾いた建物が林立する。村には人影が見えず、灯火の消えた蝋燭がひとびとの営みの終焉を象徴するかのようである。空には不気味な太陽が昇っているが村を明るく照らすことはない。当時、激戦で著しい損傷を受けたフランス北部の町ヴィレ・ブルトヌーの光景は写真を通じて知られていた。クレーは戦争における破壊を、ここでは抽象化も神話化も無しに具体的に描いているのである。
 クレーは第一次世界大戦がはじまった1914年から、近代的な兵器など機械的装置を図式的に描きはじめている。それは『ダダ』4・5号合併号に掲載された、フランシス・ピカビアの機械の線描画の刺激があったのかも知れないという。機械と人体を併せた作品のひとつが「淑女の私室でのひとこま」(1922)である。
 この作品では、性的な連想を誘う有機的な形が横たわり、その両端には車輪をつけた奇妙な機械、アンテナのような装置、雌蕊を連想させる機械などが描かれている。機械が生命的な形態をとり始めていて、人体と機械の境界があいまいになる未来が予測されているかのようだ。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(7)

第3章 破壊と希望
第一次世界大戦の破壊
Photo_20250708061001  クレーの画業に大きなインパクトを与えたチュニジア旅行から3か月ほど後の1914年8月、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入した。夏の帰省でクレーはベルンに居て、当初は戦争の直接的な影響は免れたが、ロシア国籍のカンディンスキーは母国への帰国を余儀なくされ、ドイツ国籍のマッケとマルクは、「8月の体験」とも呼ばれる開戦直後の高揚感のなか自ら従軍した。青騎士のメンバーたちは、こうして開戦により瞬く間に散り散りとなった。
 まもなく9月にはマッケが戦死した。クレーは戦場のマルクに宛てた手紙で、戦争の先には淡い期待しかないのにその代償はあまりにも大きい、と嘆いた。しかしマルクは信念を揺るがすことなく「この偉大な戦争はヨーロッパの内戦であり、ヨーロッパの精神の内側に潜む見えざる敵との戦いだ」と考えていた。そのマルクが1916年3月戦死すると、その知らせとほとんど同時にクレーも、父方の家系によりドイツ国籍であることによって徴兵を受け、ドイツ軍に従軍した。
 戦争の先に希望を見ていた友人たちの死と、自らの従軍を経て、クレーは戦争に対する態度を複雑に変化させていった。「この戦争が今日のように恐怖に満ちていればいるほど、芸術は抽象的になる」とクレーは日記に記している。戦時中のクレーの作品は、戦争を直接・間接にテーマとしながら、抽象の度合いを増していった。その過程で、自作の作品の切断と再構成というショッキングな手法も採用された。クレーは、幸いにして戦争の前線に立つことはなかった。
 「深刻な運命の前兆」(1914)は、身体の断片を思わせる不可解で不気味な形が画面に参戦し、重ねられたジグザグの線が戦争の暴力を連想させる。大きな間隔を空けて台紙に貼り付けられた2つの画面は、もともと1枚だった画面を切断して生じた断片であり、しかも本来とは上下の関係が逆転しているそうだ。自作を切断して再構成することで、クレーは戦争との距離を図ったのかも知れない。Photo_20250708061002
 第一次世界大戦直前のマルクの作品としてフランツ・マルク「冬のバイソン(赤いバイソン) 」(1913)が展示されている。 カンディンスキーと同様に、芸術に精神的な価値を求めていたマルクであったが、彼にとって抽象的な表現は選択肢のひとつに過ぎなかった。マルクは精神的な価値を、動物を通して世界を見ることで表現しようとした。この作品は、南チロル地方への旅行の直後に制作されたもので、背中を丸めて雪の上に座るバイソンが、幾何学的な形へと還元されている。その形は初期キュビスムを連想させるが、ここではむしろその形が周囲の雪や木々、さらに背景に連なる山々の形と呼応・調和している。ここでは動物たちが、その絶対的本質たる原初的な形において、自然の全体と調和しているのである。
Photo_20250708061101  戦時中のクレーは、文字と形象(イメージ)との間を横断するような表現を試み始めた。「日傘のあるヒエログリフ」(1917)では、古代エジプトのヒエログリフに関心が向けられた。ヒエログリフは、漢字と同様に表意文字に分類され、慣習性に基づいて音と意味を表現する。ただヒエログリフは、しばしばその起源たる形象を明瞭に引き継いでいて、少なくともそれを「読む」ことができない者に対して、それは文字でありながらも形象(イメージ)として振舞う。クレーは言語的な論理に代わる視覚的な論理を構築するために、ヒエログリフが鍵になると考えたのかも知れない。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(6)

第2章 色彩の発見
キュビスムのクレーによる昇華
 「北方の森の神」(1922)が展示されている。Photo_20250707080201
 クレーは、これより10年以前にすでにキュビスムを発見していたが、ここで制作されたこの作品は、明らかにピカソらによるキュビスムの肖像画を下敷きとしながら、その忠実な継承ではなく、キュビスムを独自に昇華してパロディのような性格すら帯びている。
 ほんらいのキュビスムの肖像画は、カンヴァスの平面と遠近法的な奥行きとの緊張感を主張しているのに対して、クレーの「森の神」はごく浅い空間に閉じ込められている。キュビスムに見られる様式的特徴は、この作品では長方形のなかのバツ印として記号化され、その本来の役割を喪失している。一方でその題名は、キュビスムの肖像画のうす暗さを、神の住む森の不気味なうす暗さに結びつけて、意味性の希薄なキュビスム絵画に詩的な含意を与えている。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(5)

第2章 色彩の発見
チュニジア旅行と色彩への覚醒
Photo_20250706054301  1914年4月から2週間ほどのあいだ、クレーは青騎士の仲間たるアウグスト・マッケ、ルイ・モワイエとともに、北アフリカのチュニジアに旅行した。
 この旅行にかんして制作された作品が「三人のアラビア人」(1915)である。題名は3人のアラビア人であるが、登場人物はクレー、マッケ、モワイエの3人組らしい。それは日記の記録から裏付けられる。「私はパイプに火をつけた。マッケはそれを見て私と仲良くなった。彼はそれまで私を完全無欠の怪物だとみなしていたが、いまやくつろいでタバコを吸っているのだ。」この作品で、クレーは自分たちをアラビア人に重ね合わしているのだ。
 クレーは、この旅行中の日記に「色彩が私を捉えたのだ」と書いている。彼が長年にわたって苦戦していた色彩の問題を、このチュニジアでついに克服したらしい。ただ、チュニジアの光が神秘性を介して画家クレーを生み出しただけでもなさそうだ。Photo_20250706054401
 クレーにとって旅行の目的のひとつは、ヨーロッパの外側の世界を自分の目で見ることであり、もうひとつは旅行をともにする芸術家たちと、お互いに刺激を与えあって新たな活力を得ることであった。
 クレーはマッケやモワイエと、ドローネーをはじめとするパリのキュビスムに対して関心を共有していた。旅行の間に、3人は風景を格子(グリッド)構造に分割し、そこに鮮やかな色彩を配置することを着想した。
「ハマメットのモティーフについて」(1914)が展示されている。
 クレーの色彩表現は、チュニジアのまばゆい光のなか、マッケとモワイエ、そしてパリの芸術家たちとの対話と交流のなかで獲得されていった。
Photo_20250706054402  「チュニスの赤い家と黄色い家」(1914)は、チュニジアで描かれた30点のうち最初に描かれた水彩画と推定されている。チュニジアに到着して2日目の日記に、次のような記述がある。「アラブ人地区で水彩画を描いた。都市の建築と絵画の建築の総合に着手する。まだ純粋ではないが、なかなか魅力的だ。」
 この作品では、描く対象としての建築の構造をいかに絵画の構造として組織化するかに力点が置かれている。同様の試みは、1912年のクレーのパリ訪問時に目にしたと思われるドローネーの「ランの塔」にも認めることができるという。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(4)

第2章 色彩の発見
国際的前衛芸術への参加と影響
 1912年の第2回青騎士展には、ミュンヘンの芸術家たちのみならず、彼らに大きな影響を与えたパリのキュビスム芸術家たち、すなわちパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネーらの作品が展示された。この展覧会に17点出品したことで、クレーは国際的な前衛芸術への参加を果たした。Photo_20250705053901
 クレーは、カンディンスキーの紹介状によりパリのドローネーのアトリエを訪問することもあった。そしてチューリッヒの展覧会に出展されたドローネーの作品に感銘を受け、雑誌『ディー・アルペン』に批評を寄稿した。クレーはそのなかで、ドローネーを「自律的な絵画」の創始者として絶賛し、その作品を彼自身が愛してやまなかった「バッハのフーガ」に比している。
 1912年10月ミュンヘンに巡回してきた「未来派」展覧会に、クレーは「この血の気の多い若い連中」が新しい時代を切り開いたことを評価した。
 その未来派のひとりジャコモ・バッラの「太陽の前を通過する水星のための習作」(1914)が展示されている。
 望遠鏡で観察された水星による日食が、宇宙的な運動のイメージをともなうダイナミックなものとして表現されている。
 「未来派」は、ちょうどこのころイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが「未来派宣言」を起草してはじまった芸術運動で、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会を称えるものであった。未来と進歩をほとんど全面的に肯定的にとらえる点が特徴である。未来派の芸術家たちの一部は、やがて好戦的・攻撃的となり、ファシズムや右翼団体とも関りを持ちはじめ、崩壊していった。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(3)

第1章 詩と絵画
同志カンディンスキー
 パウル・クレーは、社交的ではなく限られた友人たちとの交流のなかで過ごしたが、芸術家人生のなかでとりわけ親しくつきあったのがロシア出身の画家ヴァシリー・カンディンスキー(1866~1944)であった。カンディンスキーは、クレーより13歳年長の画家であり美術評論家であり、抽象絵画の創始者ともされる人物である。Photo_20250704054301
 カンディンスキーは、絵画を学ぶために1896年30歳でミュンヘンに来た。カンディンスキーは積極的に芸術家のグループを結成し、1911年12月フランツ・マルクらとともに「青騎士」をつくり、展覧会を開催した。その直前に、クレーはベルン時代からの友人ルイ・モワイエの紹介でカンディンスキーに会っていた。クレーは、カンディンスキーの印象を「彼は逸材だ。格別に明晰な頭脳を持っている」と日記に記していた。
 カンディンスキーは、絵画においては色彩と形が本質的だと考え、その上で具象的な要素を取り除いた「純粋な絵画」を目指した。作品がもつ意味・内容よりも、表現それ自体を重視するカンディンスキーの考え方は、印象主義以降のモダニズムの全般的な傾向を受け継いだといえる。しかしクレーは、芸術家による詩的な創造力を重視して「すべての造形芸術は題名に由来する」と考え、彩色絵画よりも詩的な着想を表現するにふさわしいとして、モノクロで線描画の制作を続けていた。
 1909年組織された「ミュンヘン新芸術家協会」が保守派とカンディンスキー・マルクの急進派の対立で分裂し、協会を退会したカンディンスキーとマルクが1911年末「青騎士」を結成したのだが、その「青騎士編集部による第1回展」をクレーは鑑賞し、さらに翌1912年の第2回展には17点の線描画を出品した。クレーは友人への手紙に「私の評判は大きくなっていくだろう。なぜならこの表現主義の地方的集団は、ドイツの中心とみなされているのだ」と書いている。
 カンディンスキーのそのころの作品「黒い斑点「響き」より」(1912)が展示されている。「響き」とは、彼の詩画集のタイトルで、38編の自作の散文詩とともに56点の木版画が収められていた。
 カンディンスキーの絵画は、青騎士の活動が開始される直前の1910年ころから抽象的な傾向を強めていった。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(2)

第1章 詩と絵画
若き日のパウル・クレー
Photo_20250703081201  1906年26歳のとき、クレーはリリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンで新婚家庭を持った。そのころにリリーの肖像画を描いている。
 それに先立つ1905年クレーは、初めてパリを訪れてパリの多彩な画家の作品に触れた。当時、線描的な表現から明暗の表現に進もうとしていたクレーにとって、色鮮やかな印象主義より、明暗の関係を巧みに操るマネやホイッスラーの絵画に強い関心を持った。この時パリで観たホイッスラーの作品「灰と黒のアレンジメント」の構図と表現は、この「リリー」(1905)の肖像画に影響を与えているという。
Photo_20250703081301  「座っている少女」(1909)が展示されている。
 色彩を取り入れても独自の表現を獲得しようと、クレーはこの作品において大胆な方法を取り入れた。最初に具体的な対象を描いてから彩色するのではなく、先ず美的な感覚に基づいて即興的に色彩の斑点の集合を画く。そのなかに「座っている少女」の姿を読み取り、それを輪郭線と明暗によって浮かび上がらせるという方法である。クレーは日記のなかで、この方法を幼少期に大理石のテーブル面のなかにいろいろな形を見つけて遊んだことと重ね合わせている。クレーはこの作品を特別に思い入れがあるものとして、非売品として手元に残していたという。

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パウル・クレー展 兵庫県立美術館(1)

 特別展として紹介される機会が少ないパウル・クレーの個展が兵庫県立美術館で開催されたので、これは見逃せないと初夏の神戸に出かけた。
 パウル・クレーに関しては、四半世紀ほど前、まだ家族と鎌倉に住んでいたころ、いまは閉館されてしまった神奈川県立近代美術館で個展を観たことがあったが、当時はまだ私の美術にかんする知識も未熟すぎて、よくわからなかった。2009年には、今回と同じ兵庫県立美術館でピカソとともに紹介された展覧会があり、2022年には、東京のアーチゾン美術館で、国の違い、文学・音楽・美術など芸術ジャンルの境界、などさまざまな境界を超えた美術についての特集展で、音楽・文学と絵画、スイスとドイツとをまたがる画家のひとりとしてクレーが紹介されていた。2023年には、大阪中之島の国立国際美術館で「ピカソとその時代」で、このときもピカソを軸とした現代美術の紹介としてクレーの紹介があった。
 今回は私にとっては久しぶりのパウル・クレー単独の個展であり、これまでクレーの周辺の画家の作品もある程度観てきて多少の予備知識もできたと思うので、大いに期待して鑑賞に臨んだのであった。

第1章 詩と絵画
若き日のパウル・クレー
 パウル・クレー(1879~1940)は、スイス・ベルン近郊の町に音楽教師の父と声楽家の母の子として生まれた。クレーも幼少期からヴァイオリンを学び少年時代からベルンのオーケストラに参加していた。文学や絵画にも関心が高く、音楽家・詩人・画家のいずれに進むか、若いクレーは真剣に悩んだという。後に画家の道を選んだが、音楽や文学・詩への関心は生涯ずっと継続していた。Photo_20250702060001
 19歳で画家の道に進むためにミュンヘンに移り、ミュンヘン美術アカデミーに学んだ。そこでカンディンスキーの師でもあった象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックに師事したが、学校の画一的な教育になじめず、まもなく退学した。とくに色彩を用いた絵画的表現に困惑し、そのような絵画の制作から離れて「最も単純な表現」として、専ら線を黒インクあるいはエッチングで描いた。こうして10点組の版画連作「インベンション」を制作した。このクレーの初期の作品のひとつが「喜劇役者(インベンション)より」(1904)である。
 この「喜劇役者」はシリーズとして何点も再制作している。この展示作品のひとつ前のバージョンでは、グロテスクで喜劇的な仮面の背後に真剣な表情の役者の姿が描かれていて、喜劇の笑いと、その笑いを通じて明らかとなる嘆くべき真実とが対比されていた。しかしその後クレーは、喜劇と役者の関係を、芸術作品と芸術家との関係として捉え直し、仮面と人物は有機的に関連すべきだと考えた結果、この展示作品のように両者の容貌はともに似通ったグロテスクな表情で表現されている。クレーは絵を描くにおいても、詩的あるいは思弁的な要素を重視している。クレーは、この作品をなんども繰り返し描いており、このテーマが若きクレーにとっていかに大切であったかを物語っている。
 クレーは、この作品シリーズを1906年のミュンヘン分離派展に出品し、芸術家としての第一歩を踏み出した。

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気分の晴れない日日

 6月22日に国会が閉会したことを受け記者会見を開いた石破首相は、「今日より明日はよくなる」と実感できる日本を実現させたい、と宣言した。今年1月には「楽しい日本」を目指すと言っていたが、まあ類似の発想なのだろう。
 2040年に名目GDPを1000兆円に引き上げる、平均所得を5割以上増加させる、を改めて自民党の参院選公約の目標に掲げた。これらを実現するため「今日の悩みを取り除く」「明日への不安を払拭する」「希望ある未来を創る」の3つのアプローチで政策を推進させると訴えた。しかしこれらは具体性のない目標の羅列に過ぎず、到底「政策」とは言えない。誰しも「結構なことですね」と思うだけである。どうやってそれらを達成するかの具体的行動こそが肝要である。
 石破首相は、賃上げや物価高対策、アメリカによる関税措置への対応や社会保障改革、肝入り政策である地方創生などに注力していくという。その上で「まずは既存の予算、施策、それを総動員して的確な経済財政運営を行っていく」と言うのだが、これらも石破さん得意の「○○(に向けて)マイリタイ」に過ぎず、具体性のある政策には至らない。希少な具体的な政策は、国民一人ずつ2万円給付のようだが、アクションとしては小さ過ぎて、高邁な目標との関連は見えない。いまのところ大きな目標実現のためにはどこが問題でなにが打開策なのかは不明なままである。
 あれほど「アジア版NATO」などと夢想を吹聴していたのに、実在のNATO会議には欠席というのも情けない。これこそ外交的「熟議」の大きなチャンスだったのに、世界のリーダーたちからは、熟議を避けて逃げていると見られるであろう。
 直接の責任主体でなかったときに鋭く政治の現状を批判できた石破さんは、馬鹿でも不誠実でもないとは思う。「きちんとした行動してるのに、なぜ酷評ばかりされるの?」と身近なヒトに嘆いているらしい。責任のない評論として批判はできても、責任を引き受けて実現するのは容易ではない。政治は簡単ではない、という本来政治家には簡単な真理が未だにわかっていないのかも知れない。すでに願望的な目標を公約として掲げ、その結果「政治ドットコム」からは、公約達成率ゼロという厳しい評価を得る結果になっている。
 そしてなにより政治家はヒトを動かそうとするなら、見た目の雰囲気は決定的に重要である。疲れ果てて夢も希望もない暗い表情で、「今日より明日はよくなる」「希望ある未来」などと発言しても、到底響かないし説得力はない。「このヒトがわが国の首相であることが誇らしい」と思う国民が沢山いるのが正常な状況のはずである。せめてどこに出しても恥ずかしい、と思われることのないようになんとかしていただきたい。
 昨年の石破政権の衆議院選挙惨敗の直後、英誌エコノミスト(2024年10月28日付)は「有権者が連立与党に歴史的な一撃を与えた。しかし自民党は政権にしがみつく可能性がある」「選挙後の混乱からどんな政権が誕生しても、構造改革や防衛力増強のための増税など不人気な課題に取り組む可能性は低いだろう。安倍首相の下、日本が世界的なリーダーシップを発揮していた時期も終わりを告げるだろう。日本政治の次の段階は波乱に満ちたものになる」と記していた。イギリスでは、かように冷徹な観測をしていた。それからすでに8か月が経過したが、エコノミスト紙の予測は着実に現実化する一方で、石破さんが説く「今日より明日はよくなる」気配は皆無のように感じる。
7月の参院選は、石破さんの3連敗となる可能性もあるが、もし参院での与党過半数をなんとか維持(参院選の自民党改選議席は少なく1/4減っても過半数は維持可)しても、石破さんの茨の道は続く。そもそも惨めな少数与党をもたらしたのは石破さん本人であり、その石破さんを首相に選出したのは自民党なのである。なによりその茨の道でいちばん被害を受けるのは、われわれ国民なのである。

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