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2025年8月

日本美術の鉱脈展 中之島美術館(4)

第3章 素朴画と禅画
Photo_20250829060401  わが国ではすでに15~16世紀ころ、世界的にもいち早くイノセントな幼稚美を愛でた、というのが監修者山下裕二の主張である。素朴絵は日本の美術史が生んだ魅力的なオリジナリティの表現のひとつだという。しかし率直に言って、私はさほど興味を持つことができず、感動には至らなかった。
 このセッションでは、江戸時代の禅僧、白隠慧鶴の禅画のみに注目した。
 白隠慧鶴(貞享2年1685~明和5年1768)は、駿河国原宿(現在の静岡県沼津市)の商家に生まれ、15歳にして松蔭寺で得度し、行脚も含めてさまざまな修行を経て苦労して42歳にして悟りを得た。そして臨済宗中興として崇敬される高僧になった。
 白隠は、専門的に絵を学んだわけではなく、広く民衆への布教のため、禅の教えを表した絵を数多く描いた。その総数は、1万点かそれ以上とも言われる。その素人であるがゆえの破天荒で力強い作品は、曾我蕭白や長沢芦雪などの「奇想の画家」たちに影響を与えた。
 展示されているのは「大達磨」である。白隠は、実に多数の達磨の絵を描いているが、これは一種の自画像なのかも知れないと思う。眺めていて、とても奥行きがあり、深みを感じることができる。

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日本美術の鉱脈展 中之島美術館(3)

第2章 室町水墨画の精華
 わが国の水墨画は、主に近世つまり江戸時代になって大きく発展した。それ以前についてはせいぜい戦国時代の狩野派の初期程度がよく知られるのみで、残存する作品数は少ない。
 このセッションは、展示作品数も5点ほどと少ないが、私が知らなかった画家もあり、その点では興味深い。

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 武部輝忠(しきぶてるただ)という画家がいた。式部輝忠は、山下裕二の修士論文のテーマだったという。室町時代後期に東国で活躍したということ以外、その出自や経歴はほとんどわかっていないという。1500年ころから天正期(1573~)ころの人物と推測され、小田原狩野派や狩野元信などの影響を得て、独自の画風を確立したという。金泥を多用し、戯画化したモティーフを人工的に再構成して画面を組み立てる点に特色がある。
 ここでは「海樹叭々鳥図屏風」という作品が展示されている。この作品は金泥などはなく戯画的な要素も少ないが、のびのびと力強い印象である。
 雪村周継(明応期1490ころ~天正期1580ころ)という画家がいた。常陸国部垂(へたれ、現在の茨城県常陸大宮市)に佐竹氏一族の長男として生まれた。本来なら長男として家を継ぐはずだったが、雪村の父が他の妻の子を跡取りとしたため、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に修行に入った。正宗寺は佐竹氏の菩提寺で、絵画をはじめ多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風に影響を与えた。Photo_20250828054501
 絵画の制作を続け、50歳代には関東各地を放浪し、さまざまな作品を残した。60歳代には東北に行き、晩年は三春藩に庵を結んだとも伝えられている。
 雪村は、その名からもわかるように雪舟を強く意識し尊敬していたようだが、画風に影響は受けず、極めて独自性が高い画風を確立した。江戸時代の尾形光琳は、雪村の自由で伸びやかな筆致や作品全体に溢れるユーモアを好み、雪村を深く敬愛し私淑したという。光琳は雪村の模写を幾つも試みたらしい。
 ここでは「瀟湘八景図帖より山市晴嵐」が展示されている。
 「帖」に描かれた作品なので、ごく小さな絵だが、不自然なまでに捻じ曲げられた木を描く鋭く繊細な線が特徴的である。

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日本美術の鉱脈展 中之島美術館(2)

第1章 奇想の画家たち
 もうひとり注目するのが長沢芦雪(宝暦 4年1754~ 寛政 11年 6月8日1799)である。この画家も、6年前の展覧会で観た後、さらに2年前にここ中之島美術館で個展を観た。
 長沢芦雪は、幼少期から達者な描き手だったらしく、20歳近くになって円山応挙に師事したころは独自の絵の制作方針をすでに確立していたらしく、応挙に学びつつも独自の自由でおおらかな画風を展開したらしい。
 長沢芦雪が好んで描く対象としてイヌがある。「菊花子犬図」が展示されている。芦雪のイヌの絵は、2年前の芦雪の個展でも何点か観た。この絵でも、輪郭を描かない黒い犬に対して、薄めの適冝点線をもちいて軽快に輪郭のみの余白で描いた白い犬など、多様で巧妙な技法をさりげなく用いて、芦雪のイヌに対する慈しみが現れた、ほのぼのする作品である。
 「大黒天図」という作品が展示されている。Photo_20250827060901
 ここで描かれる大黒天は、おおらかで朗らかで親しみやすい風情である。画面のほとんど四隅いっぱいまで、大黒天の温かみで覆われているような、ほのぼのとした絵である。
 もうひとり、今回の展覧会で私が注目したのか岩佐又兵衛である。
 岩佐又兵衛は、織田信長家臣で摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市)有岡城主荒木村重の末子として天正6年(1578)に生まれた。数え年2歳にして父村重が信長に反乱を起こし(有岡城の戦い)、一族のほとんどが斬殺となるなか、乳母により救い出され本願寺に保護されて成長した。成長して母方の姓岩佐を名乗り、秀吉、織田信雄に仕え、文芸や画業を生業としたらしい。大坂の陣ころまで、京都で絵師として活動していたようである。
 元和2年(1616)京都を離れて越前国北の庄(福井県福井市)に移り、大名、僧、町人などをスポンサーとして絵を制作した。画業は成功したらしく、大量の注文をこなすために工房も持ったらしいという。晩年は江戸に移り、10年間ほど多忙な画業であったという。
 高名な画家となり、また工房をもったこともあり、戦前ころから岩佐又兵衛の作とされる多数の作品に真贋論争が起こった。また、彼こそが「浮世絵」の創始者だとする論争もあった。種々論争の多いなか、辻惟雄の長期にわたる研究でようやく決着がついたようである。

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 今回は「妖怪退治図屏風」(17世紀)が展示されている。これは最近新しく発見された作品だという。戦国・江戸時代初期の古い作品だが、保存状態が良いのか、鮮明な極彩色でなんとなくユーモラスな雰囲気で武士軍団が妖怪に立ち向かう姿が描かれている。この軍団の頭のモデルは、坂上田村麻呂だという。

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日本美術の鉱脈展 中之島美術館(1)

 盛夏の最中、大阪中之島美術館で「日本美術の鉱脈展」というタイトルの、少しユニークそうな展覧会があった。内容の概要は、NHK「日曜美術館」で紹介され、私も興味をもって鑑賞した。
 この展覧会は、これまで一般に注目されることが少なかった、隠れた日本の美術家を発掘しようと、山下裕二氏(明治学院大学教授)が監修したものである。
 同じような趣旨の企画で開催された展覧会として、私は6年前に東京都美術館で「奇想の系譜展」という展覧会を観た。このときも山下裕二氏が監修しており、山下裕二氏は、東京大学名誉教授辻惟雄氏の弟子である。
 6年前に見た展覧会でも、伊藤若冲、長沢芦雪、白隠慧鶴、曾我簫白などがすでに取り上げられていた。ともかく今回の展覧会を鑑賞することにした。

第1章 奇想の画家たち
 このセッションの冒頭近くに登場するのは、やはり伊藤若冲(正徳6年1716~寛政12年1800)である。伊藤若冲こそは、辻惟雄の1970年の著書『奇想の系譜』により美術界に知られるようになり、2000年以降はもっとも人気のある近世画家のひとりとなった。ただ若冲は、江戸時代が下るにつれて傍流扱いとなり世間から忘れられていたものの、その生前には高名な画家として人気ある大家のひとりであったらしい。その若冲が、後に「円山四条派」の始祖とされる江戸時代を代表する画家のひとり円山応挙(享保18年5月1733~ 寛政7年1795)と「共作」を残したらしい、ということがごく最近発見された。若冲「竹鶏図屏風」(寛政2年1790)と応挙「梅鯉図屏風」(天明7年1787)のそれぞれ二曲一隻の金屏風である。展示では、左手に若冲の鶏、右手に応挙の鯉がある。

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 この2作品は、制作年で約3年の時間差があり、二人の画家が互いに意識して制作したとの確証はない。しかし右手の応挙の鯉は、2匹とも左手に関心がありそうな気配であり、水面の上に覆いかかる木も、右手から左向きにほぼ真横に出てきた枝が、画面中ほどで切断され、真上に方向を変える。いかにも左手の存在に配慮があるとも見える。
 左側の若冲の鶏は、4羽とも身体は左を向きつつも、とくに左端のいちばん大きな鶏に顕著だが、明らかに右手に関心が向かっている。その頭の動きに対応して、尻尾のたおやかに伸びあがる羽根は、一様に右に向かって振られる。左端の大きな鶏の尻尾の黒い羽根の力強い筆致は目を引く。鋭くひと筆で描いたのだろう。見事である。その背景の竹は、若冲が好んで描く虫食いの葉が描かれ、右手の作品とのバランスを考えてなのか左側だけにある。
 若冲の竹と鶏、応挙の鯉と梅は、ともに金地に墨で軽快かつ精緻に描かれ、静的にも動的にもバランスも完璧に思える。
 とても裕福なスポンサーが、最高に豪華な屏風をもとめて、二人の最高水準の画家に、それぞれの画家のもっとも得意とする画題を指定して発注したものと推測されている。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(17)

第六章 近代にむかって 新たなポーランドの誕生
 ヤツェク・マルチェフスキ「ピューティアー」(1917)が展示されている。Photo_20250825054701
 ピューティアーというのは、デルフォイの神託所に仕えていたアポロンの女神官である。彼女は、岩の裂け目から噴出する蒸気の力を借りて、半狂乱で預言を届けたと言い伝えられている。この絵でも、足許から白い煙が立ち上がる様子が描かれている。ただ、ピューティアーの表情は半狂乱ではなく、落ち着いて決意に満ちたように遠方を見据えている。
 第一次世界大戦の最中、ポーランド独立前夜に描かれたこの絵は、神話のテーマを借用して、ポーランド復活の神託を告げているかのようだ。

 ポーランドは、他の多くの国々以上に切実な祖国存亡の危機を経験してきた。
 第二次世界大戦時、ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソビエト連邦によって侵略され(ポーランド侵攻)、再び国土が分割されてしまった。第二次世界大戦の終結後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させたが、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であり、ワルシャワ条約機構の加盟国でもあった。1989年のソ連崩壊により、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国となった。アメリカ合衆国主導の北大西洋条約機構にも加盟し、事実上の西側諸国の一員となっている。
 ポーランドの人びとは、これらの繰り返す祖国存亡の危機のなかで、ひとつの大事な記憶として「若きポーランド」の芸術を心のよりどころとしてきたであろう。
 今回の展覧会で観たポーランドの絵画は、私にとっては初めて観るものばかりであった。個別的な絵そのもの以上に、解説を読んでそれらの作品の創作や影響のストーリーを知ると、芸術が苦難の人びとにとっていかに重要なものであったか、私なりに理解できたように思った。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(16)

第六章 近代にむかって 新たなポーランドの誕生
Photo_20250824054301  1905年「血の日曜日事件」を発端としたロシア第一革命は、ポーランドの人びとに激しい衝撃とともに、彼らの眼を国際情勢の変動に向けさせ、ポーランドの独立回復への機運を高揚させた。そして1918年第一次世界大戦の終戦をもって、ポーランドは念願の独立を果たした。この昂揚した気分は、この章のヤツェク・マルチェフスキの作品にも顕れている。
 しかしそれは同時に、これまでマテイコや「若きポーランド」の芸術家たちに共有されていた「失われた祖国のアイデンティティの追及」という芸術の使命が終焉したことを意味した。これ以後は、ポーランドの芸術はまったく新しい段階に向かうこととなった。
 ヤツェク・マルチェフスキ「義勇軍のニケ」(1916)が展示されている。
 ニケとは、ギリシア神話の勝利の女神である。しかし彼女の足許に倒れる兵士は、近代的な軍服と近代的な武器たる小銃を持っているようだ。当時マルチェフスキは、ポーランドを支配していたオーストリア・ハンガリー帝国の側に立ってロシア帝国と戦っていた義勇軍たるポーランド軍団に捧げる作品を制作していた。この作品もそのひとつである。倒れた兵士はポーランド軍団の兵士なのだろう。女神ニケは、背中に担いだ棕櫚のひと房を斃れた兵士に手向けている。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(14)

第五章 フォークロア
 マリア・ワベンツカ「ザコパネ様式によるドレス」(1900ころ)が展示されている。Photo_20250823060401
 衣服も生活の変化、素材や製法の改良・開発にしたがい変化・進化してきたが、それでもかならず民族としての意識が反映する。優美な曲線や植物由来の意匠を多用したアール・ヌーヴォーは、20世紀の到来に応じてヨーロッパで大きなブームを巻き起こした。
 ハンドバッグやブーツだけでなく、ドレスにおいても、ユリの花やパジェニーツァと呼ばれるハート型の伝統文様が導入されている。
ゆったりしたシルエットのドレスは、コルセットから解放された近代的な女性服の一例として人気を博した。これらの服飾品は、ポーランド以外の地域でも高い評価を受けた。
 カジミェシュ・シフルスキ「三連画『春』」(1909)が展示されている。これはステンドグラスの下絵として制作されたものである。Photo_20250823060501
 カジミェシュ・シフルスキ(1879~1942)は、フツル地方の文化にインスピレーションを得て、風俗画や風景画をたくさん制作した。クラクフ美術アカデミー時代の恩師メホッフェルやヴィスピャンスキから学んだ形態を様式化する傾向、アール・ヌーヴォー的なしなやかな曲線、そして豊かな色彩が盛り込まれて、登場人物の特徴を活き活きと描写している。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(13)

第五章 フォークロア
Photo_20250822060301  ゾフィア&タデウシュ・ジェレンスキ夫妻邸の食堂のための家具セットのなかから、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ作「椅子」(1904ころ)が展示されている。
 19世紀終わりころ、ポーランドでも日用品の改善に対する意識が向上し、伝統・民俗文化の見直し、新しい家具の提案などが活発化した。ヴィスピャンスキが食堂用の家具のデザインにおいて参考にしたのは、フツル地方の伝統的な木彫りであった。その一方で、右手の肘掛椅子では、波打つような意匠は共通するものの、よりシンプルな形態としている。中央の肘掛椅子は、曲線の多用と植物の図案などにアール・ヌーヴォー様式との類似性がみられる。このようなデザインの刷新により、家具も次第に芸術品としての地位を獲得していったのである。Photo_20250822060302
 スタニスワフ・ヴィトキェーヴィチ「冬の巣」(1907)が展示されている。
 現在のポーランドとスロヴァキアの国境にあるタトリ山地やその山麓の町ザコパネは、19世紀後半に観光開発のブームが訪れ、ポーランドの原風景として観光客のみならず、多くの芸術家や著名人を集めた。
 スタニスワフ・ヴィトキェーヴィチ(1851~1915)もその一人で、その 風土に魅了され、やがてこの地に移り住んだ。彼は季節・天候・時間が移り変わるなかでこの山が見せるさまざまな様子を、多くの作品として描き残している。この展示作品は、それらの中でも最後期に近いころの作品である。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(12)

第五章 フォークロア
Photo_20250821060401  ヴウォジミェシュ・テトマイェル「芸術家の家族」(1905)が展示されている。
 貴族の家庭に生まれたヴウォジミェシュ・テトマイェル(1862~1923)は、ポーランドの民族的伝統を重視し、古き良きポーランドを残すクラクフ近郊の農村ブロノヴィツェに魅せられ、その風景や生活を鮮やかな色彩と明快なタッチで描いた作品を多く残した。
 彼は、農民の娘アンナ・ミコワイチクと結婚したが、貴族出自の青年と農民の娘の結婚は、当時のクラクフのブルジョワジーの間で騒ぎを引き起こした。
 この絵は、ブロノヴィツェの豊かな緑と木漏れ日のなかに佇む画家の妻子を描いたもので、敢えて理想化された素朴な農村像が表現されている。Photo_20250821060402
 1903年アルテンベルク書店から発行された戯曲、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ『婚礼』(三幕からなる戯曲)が展示されている。
 テトマイェル邸で行われたルツィアン・リデルとヤドヴィガ・ミコワイチクの結婚式にインスピレーションを得たスタニスワフ・ヴィスピャンスキが、その数か月後に書きあげた戯曲である。
 劇中には、テトマイェル夫妻やリデル等をモデルとした同時代の人物、伝説的宮廷道化芸人スタンチクなど歴史上の人物、さらに冬囲いのための「藁ぼっち」を擬人化した「ホホウ(Chochot)」などの多彩なキャラクターが登場し、キリスト降誕や1846年のガリツィアのユダヤ人虐殺などを組み入れた重層的な物語が紡がれている。この挑戦的な作品は、クラクフ市立劇場で初演の後センセーションを巻き起こし、ポーランド演劇史に残る記念碑的な作品となったのである。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(12)

第五章 フォークロア
 「若きポーランド」の芸術家たちがポーランド独自のものを創造しようとするとき、やはり自然に注目したのが、ポーランド郊外の農村、地方の素朴かつ荘厳な風景、色彩豊かな文化習俗などであった。
 クラクフ近郊のブロノヴィツェ村には、ヴウォジミェシュ・テトマイェル(1861~1923)が移り住み、外光派の画家たちも頻繁に訪れて、自然のリズムと共に生きる人びとその生活を描いている。「若きポーランド」の人びとは応用芸術の刷新にも熱意を傾け、地方の伝統的な様式や文様を取り入れた新たなデザインの家具やテキスタイルなどを制作した。
Photo_20250820053601  スロヴァキア側国境に位置する南方のタトリ山地麓のザコパネ地方に特徴的な木造建築様式や、現在はウクライナに属するはるか南東方に位置するフツル地方のエキゾチックな祭礼儀式やその衣裳も、大きなインスピレーション源となり、数多くの芸術作品が生まれた。
 レオン・ヴィチュウコフスキ「日没のギェヴォント山」(1898)が展示されている。
 レオン・ヤン・ヴィチュウコフスキ(1852~1936)は「若きポーランド」運動の代表的な画家の一人であり、またポーランド・リアリズムの主要な芸術家でもあった。1895年から1911年までクラクフのヤン・マテイコ美術アカデミーの教授を勤め、1934年からはワルシャワの美術アカデミーの教授を勤めた。ポーランド芸術家協会「シュトゥカ」の創立メンバーであった。
 タトリ山地に位置するギェヴォント山は、その姿から眠れる騎士と言われ、ポーランドの国難のときにはめを覚ますと伝承されていた。ヴィチュウコフスキの描くこの山の山頂部の鮮やかな赤色はなにを表わすのだろうか。ギェヴォント山は、斜陽のなか休眠しているようにも、まさに目覚めのときを待っているようにも見ることができると解説には記述されている。画面の左上には飛び去って行く黒い鷲が描かれる。黒い鷲は、当時ポーランドを支配下に置いたハプスブルク君主国とドイツ帝国のいずれの紋章にも用いられていたものであった。山頂部の異様な赤色は、私にはギェヴォント山の憤りを表現しているように見える。
 この絵のモティーフが、深刻な怨念を含意していることは明らかである。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(11)

第四章 インスピレーション源としての日本
Photo_20250819060301  オルガ・ボズナンスカ「フローリスト」(1889)が展示されている。
 ボズナンスカはあまり外出を好まなかったともいわれ、室内からみた景色をしばしば描いている。このような場合、窓から見える風景は、画面全体を決定づける重要な要素である。そのような絵を描くにおいて、ボズナンスカは日本の浮世絵を参考にしたと考えられる。
 この絵では、窓から見る外の風景、窓、机をはさんで相対して座る女性を中央の垂直線の上に連続させて配置し、独特の遠近感を編み出している。画面も、窓を主役とする上段の三分の一、対話がありそうでないような不思議な登場人物が主役の中段の三分の一、そしてあくまでこの絵の舞台が室内であることを確認するかのような部屋の床が主役の下段の三分の一、と意地悪く見ればバラバラ、好意的に理解すれば戦略的な画面構成となっている。ついでによく見ると、画面の右上には日本のものらしい団扇がある。Photo_20250819060302
 オルガ・ボズナンスカ「菊を抱く少女」(1894)が展示されている。これはこの展覧会のポスターになった作品である。
 これはボズナンスカがミュンヘンで活動していたころの作品で、彼女の代表作のひとつとされる。少女の衣服や壁に落ちる影の暗く沈んだ色調に対して、少女の顔、肌、眼差しが際立つような微妙な色彩と明るさで描写され、巧みな内省的表現を達成している。灰色の壁もブロンドの髪も、微妙に色彩が変遷する同系色の巧妙な使い分けで、光の反射の表情を繊細に表現している。そしてなにより、一見可憐な少女の表情は、肌は少し青ざめ、黒くて大きな瞳はそこはかとなく哀愁に満ちている。ショパンのピアノ演奏の修行のためにポーランドに滞在した演奏家反田恭平は、この絵が表現するものとして、ポーランド語"zal(ジヤル)"を紹介し、現地では哀愁・哀しみ・言葉にできない悼みの感情などを表現するという。
 なにげなく眺めても、誰もが自然にこの少女の眼差しにロックオンされるような絵である。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(10)

第四章 インスピレーション源としての日本
Photo_20250818074201  ユゼフ・メホッフェル「百日草」(1911)が展示されている。
 西欧絵画の伝統では、モデルの人物を部分的に切れてしまうほど脇に寄せるという構図はない。さらに画面の中心を占める百日草の描写も、西欧画のように遠近法をとらず、影と色彩の濃淡と配置で独自の奥行き感を実現している。これらはみんな日本の絵画の手法の影響がみられるのである。
 「若きポーランド」のグループで希少な先駆的女性画家であったオルガ・ボズナンスカの「散歩より『白いドレスを着た婦人』」(1889)が展示されている。
Photo_20250818074202  この婦人の肖像画は、1889年ワルシャワのアレクサンデル・クリヴルトのサロンで展示され、これこそがボズナンスカのはじめての一般公開作品とされるものである。
 当時としては背景色として用いられることのなかった灰色の背景に、鮮やかな白色の優雅なドレスを調和させ、唇の赤色、花の黄色、日傘と靴の黒色を対比させてアクセントとし、引き締まった活き活きとした画面を構成している。モデルの女性の目線や表情の表現も、従来の絵画表現とは異なるものであったろう。ホイッスラーを連想させる革新的な色遣いは、当時の人びとを感動させ「静寂の灰色の画家」と称されるようになったという。目覚ましい「若きポーランド」の女性画家の登場であった。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(9)

第四章 インスピレーション源としての日本
Photo_20250817060301  「若きポーランド」の芸術家たちは、フェリクス・ヤシェンスキと彼のコレクションを介して、日本美術に対する知識と理解を深めた。ただそれのみならず彼らは、西欧各国にひろがったジヤポニスムから、さらにウィーン、ミュンヘン、パリなどでの展覧会や画廊での作品を通じて、積極的に日本を探求したようだ。
 彼らにとって日本がインスピレーションの源となる経緯は、着物のような日本の文物を引用した作品、過大なまでのクローズアップや俯瞰など、浮世絵に特徴的な構図の導入、などさまざまだが、いずれにおいても日本という未知の文化と独自の芸術を探求する彼等との、真摯な対話が感じられるのである。とりわけ注目すべきは、ポーランドの先駆的女性画家であったオルガ・ボズナンスカの作品に、日本との直接的あるいは間接的対話の多様性が顕著に認められることである。
 ユゼフ・パンキェーヴィチ「日本女性」(1908)が展示されている。
ここに描かれた日本風に髪を結い、着物と帯を身につけて屏風の前に立つ女性は、実は画家パンキェーヴィチの妻ヴァンダなのである。芸術的才能に秀でていた彼女は、パンキェーヴィチにとってミューズであり、かけがえのない創造のパートナーであった。ここに描かれた日本の文物はすべてフェリクス・ヤシェンスキのコレクションにあったことがわかっている。
 パンキェーヴィチはピエール・ボナールと親しい友人であったが、ここで試みているのは、伝統的な西洋絵画的遠近法によらない空間的構成であり、日本の品々はその形と色彩と影によって空間にリズムと奥行きをもたらしている。Photo_20250817060401
 ヴワディスワフ・シレヴィンスキ「髪を梳く女」(1897)が展示されている。
 ヴワディスワフ・シレヴィンスキは、1888年にパリへ留学し、ポール・ゴーギャンと交友を結んで、総合主義を掲げるポン・タヴァン派に参加した。この作品では、妻のエヴゲーニャ・シェフツォフを描いているが、簡素化されたモティーフの形態から総合主義の影響が見て取れる。シレヴィンスキは、そこに大胆なトリミングやクローズアップを用いた構図を組み合わせて独自のスタイルを確立した。
 また、鏡を見ながら化粧する女性というテーマやポージングは、喜多川歌麿の影響があると推測されている。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(8)

第三章 日本との架け橋 フェリクス・ヤシェンスキ
Photo_20250816075401  フェリクス・ヤシェンスキ(1861~1929)は、作家・美術批評家であったが、東アジア美術とりわけ日本の美術工芸品のコレクターそしてプロモーターとして知られている。彼は「若きポーランド」の芸術家たちと親しく交流し、作品購入などを通じて常に彼らの活動を支援した。
ヤシェンスキは葛飾北斎に心酔し、自ら「マンガ」と名乗った。
 1901年に、自身のフランス語による随筆集をパリとワルシャワで出版した。その内容は、芸術、文学、音楽、同時代の出来事や当時普及していた思想について、しばしば批判的に自らの考えを綴った。タイトルにある「マンガ」は、ジャポニズムに大きなインパクトを与えた『北斎漫画』に由来する。
 ヤツェク・マルチェフスキ「フェリクス・ヤシェンスキの肖像」(1903)が展示されている。Photo_20250816075402
 紙挟みを両手でかかえるヤシェンスキが堂々と正面を見据えている。浮世絵などを挟んで持ち歩いているのだろうか。その背後にはサテュロス(ギリシア神話に登場する半人半獣の自然の精霊)が二人いる。それぞれ壮年と老年のサテュロスらしい。そのサテュロスの頭から生え出ているかに見える白い花をつけた枝は、日本美術からの影響を表している。不愛想で怪しげなヤシェンスキやサテュロスの表情は、変わり者として知られていた彼の人物像を想起させる。写実と象徴的表現に優れたマルチェフスキの才能が生きた作品と言える。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(7)

第二章 自然と芸術 魂の情景
Photo_20250815061001  エドヴァルト・オクン「紅葉」(1912)が展示されている。
 エドヴァルト・オクン(1872~1945)は、ポーランドのアール・ヌーヴォーの画家でフリーメイソンでもあった。ワルシャワ、クラクフ、ミュンヘン、パリ、ローマと各地に滞在して、装飾性の豊かな鮮やかな色彩の作品で高い評価を得た。
 風景画、肖像画を描き、表紙や挿絵をデザインした。年少の頃はポーランド王国でレーシングサイクリストとして出場したこともある。
豊かで多方面にわたる国際的活動を通じて、日本の芸術や美学にも精通していたとされている。
 この作品においても、僅かな空白を残して画面全体に細い枝や幹を張り巡らせ、そこに鮮やかな紅葉をちりばめている。まるで日本の画家が描いたかのような絵、あるいは日本人が撮影した写真のようである。彼と日本との関係がよくわかるような作品である。
 黄昏や終焉を象徴する秋景色は、「若きポーランド」の芸術家たちが好んだテーマであったが、ここでは希望をもたらすものと解釈されているという。Photo_20250815061101
フェルディナント・ルシュチツ「冬のお伽話」(1904)が展示されている。
 フェルディナント・ルシュチツ(1870~1936)は、ヴィルノ(現在のリトアニアのヴィリニュス)近郊のボフダヌフ(現在のベラルーシのバグダナヴァ)に生まれた画家で、ヴィルノにおける芸術家コミュニティの中心的人物であった。自然を象徴主義的に表現する風景画で知られている。
 この作品も、装飾的に描かれた凍てついたリズミカルな枝、銀世界と鋭い対比を示す黒い湖の色彩など、軽快だが力強く、かつ幻想的な雰囲気が演出されている。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(6)

第二章 自然と芸術 魂の情景
 ヤツェク・マルチェフスキ「春」(1898)が展示されている。Photo_20250814060901
 高さ2.4メートルの大作である。若々しく生命力に満ちた女性が、枝葉を身体に絡ませながら、羽根を拡げた鳥とともに大空へ向かって浮上して行く。足下の水面には、冬眠から目覚めたカエルなどの生き物も描かれ、大地が目覚める季節たる春を象徴している。画面の奥に見えるのは、豊穣なポーランドの春の平原のようだ。
 それでも女性の身体には、全体に枝葉が執拗にまとわりつき、なにか不穏な雰囲気もある。女性は、絡まる枝葉を振りほどこうと懸命になっているようにも思える。ただ平穏な長閑な春だけとは思えないのである。
 現実的な風景のなかになんらかの象徴的モティーフを描きこむ傾向は「若きポーランド」、とりわけマルチェフスキの絵画の特徴である。
ヴォイチェフ・ヴァイス「ケシの花」(1903が展示されている。
 ヴォイチェフ・ヴァイス(1875~1950)は、オーストリア・ハンガリー帝国に亡命したポーランド人夫妻の子として、ルーマニアとウクライナの国境に近いブコビナで生まれた。
 パリ、ローマ、フィレンツェで美術を学んだ後、クラクフ美術学校に学んだ。のちにはクラクフ美術学校の教授・学長となった。

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 「若きポーランド」の卓越した画家として活躍したが、後にはエデュアルト・ムンクなどの影響を受けて表現主義に移行し、ウィーン分離派に属したこともあり、写真作品でも活躍するなど、多彩な活動で知られる。
 この「ケシの花」では、咲き誇るケシの花や青空の色彩は、毒々しいまでに強烈な色彩で描かれ、その背景のなかに奇妙なポーズで佇む裸体の少年とあるいは少女がいる。叫んでいるのか、退屈であくびをしているのかもよくわからない。
 この少年や少女たちも、あるいは亡国の苦難のなかに修行中・成長中の「若きポーランド」の芸術家の象徴かも知れないという。
このような象徴主義的な表現は、ムンクやストリンドベリ等と交友をもった、「夜明けのプランティ公園」の作家スタニスワフ・ヴィスピャンスキの絵画理論によるものとされる。彼らの根底にある象徴主義的な姿勢の例である。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(5)

第二章 自然と芸術 魂の情景
 スタニスワフ・ヴィスピャンスキ「夜明けのプランティ公園(1894)が展示されている。

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 スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(1869~1907)は、外国政府に分割統治されていた国のない時代の代表的な総合芸術家で、画家、劇作家、詩人、デザイナーなど多方面で非凡な才能を発揮した。
 未明の薄暗がりのなか、人の気配のない荒涼とした公園は、葉のない裸の木々が枝を伸ばしている。その裸の木々の枝は、苦悶の表情のような、悶えるかのような形態で空間を占めている。Photo_20250813060401
 画面の奥に大きく、しかし儚げに描かれているのはクラクフの象徴であり、かつてのポーランド王国の宮城であったヴァヴェル城である。今では、占領国オーストリアの軍事部門が占拠している。画面真ん中の奥に、不思議な小さな黄色の灯りが見える。こんな街灯は現実に存在しそうにないが、失われた祖国の再生を目指す、ささやかな、しかし強かな意志の象徴のようである。
 画面の全面に多くの樹木を描いて、その間から遠景を見るという構図は、西洋絵画ではそれまでなかった。これは明らかに日本の浮世絵の影響によるものである、というのが後で登場するこの時代のポーランドの研究者フェリクス・ヤシェンスキの考察である。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(4)

第二章 自然と芸術 魂の情景
 自然を題材にするとき「若きポーランド」の場合は、その表現が象徴主義的傾向を帯びることが多い。自然が、人間の気分によって解釈され直し、精神状態と深く結びついた自然として表現され、描写された。一見写実的な風景描写のようであっても、よく見ると画家自身の気分が織り込まれ「魂の情景」を写すものとなった作品となる。自然そのものが主題となるべき水や空のような対象であっても、それに相応しい気分や象徴の連想と結びつけることによって、儚さ、永遠性、愛などの普遍的イメージを想起させるその表現は、あるいは音楽的ともいえる。自然の伝統的写実表現とは異なる、そのような表現を可能ならしめたひとつの要因として、日本の浮世絵の表現方法の影響があったと考えられている。
 ユゼフ・メホッフェル「自然と芸術のためのデザイン」(1901)が展示されている。

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 これはクラクフ美術友の会の新しい本部の建物のために、フリーズ装飾のデザイン画として制作された、高さ1.5m、幅3.5mもの大きな作品である。
画面のなかほどに描かれた裸体の少年は、若い芸術家の象徴である。この少年に寄り添うビザンティン風の荘厳な衣装を纏った女性は藝術の女神であり、その女神が右手の「自然の美」を象徴する少女を指さしている。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(3)

第一章 描かれたポーランド マテイコとマルチェフスキ
Photo_20250811061801 「若きポーランド」のもうひとりの重要人物、ヤツェク・マルチェフスキ(1854~1929)は、ポーランド分割時代のロシア帝国占領下に、ポーランド貴族の家庭に生まれた。愛国者であり社会活動家であった父は、文学を介してロマン主義を通じて彼にポーランド愛国を教え、高名な神秘哲学者であった叔母も影響を与えた。
 マテイコが校長に就任したころのクラクフ美術学校で学び、さらにパリのアカデミー・シュイスに学んだ後、クラクフに戻った。
 ヤツェク・マルチェフスキの自画像(1914)も展示されている。1_20250811061801
 マルチェフスキは、歴史的事象をむしろ自身や同時代の人びとの心情に結びつけることによって、過去の物語に現代の息吹を与え、「若きポーランド」を代表する画家となった。
 ヤツェク・マルチェフスキ「画家の霊感」(1897)が展示されている。
 画面の左側には、カンヴァスに向かいながら創作に苦悩するマルチェフスキ自身の姿が描かれている。対する右の女性像は、ポーランドの擬人像たる「ポロニア」であろう。足枷をつけられ、ボロ布を纏い、憂いを湛えた表情の彼女の姿は、独立を奪われたポーランドの象徴なのである。
 このようにマルチェフスキは、ギリシア神話やポーランドの歴史を題材としながら、象徴主義的で同時代的な表現で作品を制作し、ポーランドの人びとに訴えた。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(2)

第一章 描かれたポーランド マテイコとマルチェフスキ
Photo_20250810080501  19世紀末、ポーランド文化において芸術活動がきわめて活発になった。ロシア、ドイツ、オーストリアによる領土分割・統治によって、18世紀末に地図から消滅した後は、祖国ポーランドの自由や独立などについては、公に語ることができなかった。そのため暗喩的ないし象徴的にそれを代弁する芸術は、特別な役割を担うこととなった。
 この芸術活動の最も重要な牽引者がヤン・マテイコ(1838~1893)であった。彼の50歳代のころの自画像が展示されている。
 マテイコは、クラクフ美術学校(現在はヤン・マテイコ美術学校)で学び、このころから歴史上の事件を題材として絵を描き始めた。さらにミュンヘン美術アカデミー、ウィーン美術アカデミーで学び、クラクフへ帰郷した。以降彼は生涯をクラクフで過ごした。
 30歳になる前、第一次ポーランド分割に反対した愛国者タデウシュ・レイタン を題材とした作品「レイタン、ポーランドの没落」 がパリ万国博覧会で金賞を受賞し、国際的に認められる画家となった。フランス人は、彼をヨーロッパにおける歴史絵画の最も傑出した画家のひとりとして評価したのであった。
 マテイコは作品を通じて、ポーランド分割による消滅という政治的現実にあらがって、ポーランドはいまだに存在しているということを、ヨーロッパ諸国に気づかせることに成功した。
 1873年35歳にして、クラクフ美術学校と名を変えた母校の初代校長に任命された。以後、多くの若い画家を育成し「若きポーランド」の芸術潮流のリーダーとして活躍し、現在にいたるまでポーランド最大の巨匠とされている。
 42歳のときの作品「1683年ウィーンの対トルコ軍勝利伝達の教皇宛書簡を使者デンホフに渡すヤン3世ソビェスキ」(1880)が展示されている。ポーランドの歴史的事象を英雄的に記念碑的スケールで描きだし、人びとの祖国への想いを鼓舞したのであった。

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「若きポーランド」展 京都国立近代美術館(1)

 今年の早い時期から「若きポーランド」というタイトルの少し珍しい展覧会があることは何かの記事で記憶に上っていたが、あれこれまぎれているうちに6月も半ばが過ぎ、たまたまテレビのNHK日曜美術館という番組で紹介があり、もうすぐ会期が終了してしまうことを知り、いささか焦って京都に鑑賞に出かけた。
 EXPO2025大阪・関西万博ポーランドパビリオン関連イベントの一環として、「〈若きポーランド〉-色彩と魂の詩 1890-1918」が開催されたのだという。

失われた123年間
 ポーランドという国は、名前は知ってはいたがどんな国なのかはほとんど知らなかった。
 現在のポーランドがあるドイツとウクライナの間の平原に、古代ポラン族という人たちがいたらしく、ポーランドの名前はそれに由来するという。この地域の古言語ではそれは「野原」という意味もあるらしい。「平原の民」ともいうべき人びとなのだろう。
 他のスラヴ人やゲルマン人なども混じってきて、10世紀ころポーランド公国という存在が西欧キリスト教世界に認知された。キリスト教大司教座がポーランド東北部グニェズノに置かれるようになり、1025年にはローマ教皇に認知されてポーランド王国となり、やがて首都がポズナニからクラクフに移った。
 この後、周辺国の干渉や内乱がつづき、13世紀にはモンゴルの侵攻を受けた。Photo_20250809055201
 モンゴルが去った後はドイツの影響が強くなり、ユダヤ人も増加していった。14世紀には、クラクフ大学も創立された。16世紀には、クラクフ大学から地動説を提唱する天体物理学者ニコラウス・コペルニクスが出た。国王ジグムント2世は、リトアニアを併合してポーランド・リトアニア共和国となり、ヨーロッパの大国となった。
 18世紀に入ると王位継承などを巡って外国の干渉が深刻になり、戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。とくに1795年の第三次ポーランド分割で、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの広大な東部の領地はロシア帝国に、首都クラクフはオーストリアに組み込まれた。
 現代ではポーランドが生んだ高名な作曲家として知られるフレデリック・ショパンは、ワルシャワからほど近い街に生まれ、後は主にフランスで活躍して死んだ。彼の生涯の期間には、祖国ポーランドは無かったのである。
 1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。ここまでの123年間は、ポーランドの人びとは祖国を喪失するという苦難の時代を過ごしていたのであった。
 この時代に、国を失った人びとが自らのアイデンティティの寄りどころとしたのが、芸術と文化であった。その中心地が古都クラクフであった。

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生誕150年記念 上村松園展(10)

第4章 暮らしを描く
 そして「初夏の夕」(昭和24年1948)という絵が、上村松園の絶筆とされている作品である。
Photo_20250808054401  夏の夜の虚空をゆらゆら飛ぶ蛍の光を目に追って、じつと見つめている女性の視線に焦点が絞られているように感じられる、じつにすっきりした作品である。
 これを描いた時、松園は既に末期の肺がんに侵されており、絵の女性は、ゆらゆらと宙を舞う生命(いのち)の光の行く末を、じつと見つめている松園そのものの姿だったのかも知れない。
 しかしながらこの絵には、これが最期の作品になるかもしれないという気負いや、病による筆の乱れのようなものはいささかも見受けられない。凛とした端正な和風女性の表情に、すっきりした着物の着こなしなど、上村松園の細緻で品格ある筆致がいかんなく示されている。
 また、この作品を描いた時期は、いわゆる戦後の混乱期で、今までの価値観がひっくり返り、誰もが今までの自己の信念を疑い、これから進むべき道に迷い、心が揺れ動いていた時代であった。
 しかし松園は、この絵の女性のように、静かにひとつの対象をじつと見据え、目を反らすことなく、弛むことなく、乱れることなく、凛として、最後まで自己の信ずる絵を描き続け、生涯それを貫き通したのである。
 松園は、自分の画業について以下のような言葉を残している。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ、私が求めるものです。」
 「真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい。そのために、気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える。」
 今回、上村松園の画業をその生涯にわたって鑑賞して、この松園の言葉通りであることを私も納得できた。人気が高いのか、平日にもかかわらず会場はかなり混雑しており、3時間余りにおよぶ鑑賞で疲れ果てたが、充実した時間であった。

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生誕150年記念 上村松園展(9)

第4章 暮らしを描く
Photo_20250807054301 「鼓の音」(昭和15年1940)という作品がある。
 松園は、自ら鼓も打った。金剛巌(こんごう いわお、シテ方金剛流宗家)に師事して、能を楽しみながら鼓を稽古したという。この作品は、鼓を打つ自分自身をイメージしながら制作したもののようである。画面から、鼓の音が聞こえてきそうな感じさえする。

 この絵は、1940年のニューヨーク万国博覧会に出品され、日本的な美の典型として絶賛された。この絵を見た現地の人々は、遠近法の不在や色彩の抽象化など、西洋美術ではありえないものをこの絵に感じて、新鮮な驚きを味わったようだ。Photo_20250807054302
 着物の赤と帯の青、そして鼓や文様に施された黄色など、当時の日本画としては思い切った原色を組み合わせながらも、決してけばけばしさを感じさせることなく、かえって静謐さを感じさせる。松園の絵の品格と、日本的なものの雰囲気が、自然とそれをもたらすのであろう。
 「蛍」(大正2年1913)という作品がある。
 松園は蛍が好きと見えて、多くの作品に蛍を重要な小道具として登場させている。「蛍」と題したこの絵は、最晩年の「新蛍」や、すぐ後に述べる絶筆となった「初夏の夕」とともに、松園の代表作のひとつとされている。
 この絵について松園は次のように書いている。「この図は美人が蚊帳を吊りかけているところへ夕風に吹かれてフイと蛍が飛び込んだのを、ふと見つけたところです。蚊帳に美人と云ふと聞くからに艶やかしい感じを起させるものですが、それを高尚にすらりと描いてみたいと思ったのが此図を企てた主眼でした。良家の婦人を表わしたのです。」
 この絵には、ヒントがあると指摘されている。歌麿の「絵本四季花(上)雷雨と蚊帳の女」である。その絵は女が蚊帳を吊る周囲に、大勢の人達が猥雑な雰囲気を醸し出している。その絵の中から、女が蚊帳を吊るところだけ取り出して、しかも女の雰囲気を素直に上品なものに変えたということなのだろう。
 歌麿の絵では、蚊帳を吊る女の視線は、足元でじゃれついている幼い子どもに注がれているが、松園のこの絵の女の視線は、専ら絵の主役である蛍に注がれている。

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生誕150年記念 上村松園展(8)

第4章 暮らしを描く
Photo_20250806061001  松園は人々のごく普通の日常のひとこまも、数多く描いていた。明治期の作品は主に同時代の風俗に目を向けていたが、昭和期の作品では、近代化する世の中から失われゆく風俗を懐かしむ気持ちが強くなっていった。行事を楽しみ、化粧を施し、その一方でりっぱに家事に勤しむ女性たちの、生き生きとした日常の姿が、松園の絵筆によって凛として甦ることになった。
 明治期の女性の日常を描いたものとして「長夜」(明治40年1907)がある。
 秋の夜長を読書で過ごす、おそらく姉妹であろう二人の女性の日常の姿である。妹が一心に本を読んでいる傍らで、行燈に油を注いで灯火を絶やさぬように心配りする姉なのだろうか。品格ある知的な女性の日常を描いている。静かに暖かい空気がながれる、心地よい絵である。Photo_20250806061101
「舞支度」(大正13年1914)という作品がある。
 これから始まる仕舞に向けて緊張する娘と、囃子方を受け持つ内儀たちの寛いだ姿が対照的に描かれている。松園は生きたモデルを使うことはあまりなかったというが、この作品の制作にあたっては、わざわざ祇園に行ってスケッチをして準備したという。当然ながら、見たままの姿をそっくり描いたわけではなく、絵としてのモチーフに相応しくなるように描いているのだろう。

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生誕150年記念 上村松園展(7)

第3章 古典を描く
Photo_20250805054801  そして松園の古典を描いた代表作たる「序の舞」(昭和11年1936)がある。233cm×141.3cmの大作である。
 松園は「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです。」との言葉を残しており、その信念を実現したのであった。
 絵のモデルは息子上村松篁の妻(すなわち上村淳之の母)の、未婚時代の姿である。
Photo_20250805054802  松園の代表作ともされるこの作品のタイトルは、松園をモデルにした宮尾登美子の小説の題名にもなった。
 「草紙洗小町(そうしあらいこまち)」(昭和12年1937)という作品がある。
 能「草紙洗小町」は、宮中での歌合せをテーマにしたものである。歌合せの相手大伴黒主がしかけた罠を、小野小町が見事にあばく、という内容である。この絵は、その舞台から、イグセの部分を切り取ったものであろう。左手に草紙を持った小町が、右手で扇をかざしながら、黒主の仕掛けた罠をあばくところとされている。

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生誕150年記念 上村松園展(6)

第3章 古典を描く
Photo_20250804061101  松園は修業時代から、漢学や詩の勉強に加えて、古画の図案を研究して、伝統芸能、古典文学を画題に取り上げていた。大正期前半には人物の内面表現を追求し、叙情性を打ち出した。そして次第に内なる感情を凝縮し、気品高い古典の本質へ到達することを目指すようになった。このセッションでは、画題を伝統に求めた松園が画中の女性像を表現する手法に着目していく。
 「花がたみ」(大正4年1915)という作品がある。絵は208×127cmの大作である。
 Photo_20250804061201 この作品の題材たる謡曲『花筐(はながたみ』は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた照日の前が、形見の花筐を手に都に上り、ついに紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞う、という内容である。描かれる照日の前は、表情も風体も、継体天皇への重すぎる思慕に疲れ果て、絶望のため完全に狂気に満ちているようだ。松園は、能面「十寸髪(ますがみ)」を狂女の顔の描写の参考にしたという。松園の作品は、いずれも女性の気品を大切に表現するが、この絵は希少な例外的な作品なのだろう。
 「お萬之図」(大正4年1915)という作品がある。
 この作品は、恋した相手の男が実は同性愛者であったことがわかり、女の自分を愛してくれそうにないと考えて、敢えて男の装束を着て、刀を差し、そのうえ頭髪を中剃りして月代をつくってまで男を装う女性を描いている。この絵も、愛の狂気を描いたもので、松園としては珍しい作品と言える。

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生誕150年記念 上村松園展(5)

第2章 季節を描く
 「わか葉」(昭和15年1940)という作品がある。Photo_20250803060901
 春の若葉を窓越しに見つめる若い女性の姿である。タイトルは若葉であり、植物ではあるが、登場するいかにも初々して女性そのものが若葉のような存在である。それはこの女性が着る衣服の色が、眺める対象の若葉と同じであることからも示唆されている。明るいウキウキするような絵である。
 昭和16年(1941)7月、松園は帝国芸術院の会員となった。この年10月松園は、このころ若手の女流日本画家として頭角を現してきた三谷十糸子(みたに としこ)と共に、中華民国の風物と風俗描写、慰問を目的として、上海、杭州、南京、鎮江、蘇州を旅行し、11月に中華民国主席汪兆銘を訪問し、12月1日に帰国した。Photo_20250803061001
 「雪」(昭和14年1939)という作品がある。
 降りしきる雪の中、蛇の目傘で身を覆うように歩く女性は、江戸中期から後期に流行したという、大きく横に張り出した灯篭鬢(とうろうびん)を結って、揃いの簪(かんざし)と櫛を飾り、縹色(はなだいろ)の着物に、黒繻子と紅色に胡蝶模様が施された帯を締めている。その華やかな装いから、京都の豊かな町家の令嬢か身分の高い上臈(じょうろう、幕府や大名に仕える女官)だろうか。少女時代から古典的・伝統的な女性のファッションに通じていた、松園の洗練された感性と造詣の深さを感じさせる。

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生誕150年記念 上村松園展(4)

第2章 季節を描く
 Photo_20250802054401このセッションでは、巡りくる四季の風趣のなかに息づく女性たちを描いた作品を取り上げている。やはり柔らかな印象の、温かく懐古的な眼差しが感じられる。
 「待月(たいげつ)」(大正15年1926)が展示されている。
 夏の夕暮れときに縁側で、これから見えてくる月を待つ女性を描いている。
 縁側から薄暮の空を見やる女性のすらりとした後ろ姿が美しい。女性は黒い紗の着物に波に兎文様の帯、丸に虫喰銀杏の文様をあしらった団扇を持って、月の出を待っている。Photo_20250802054601

 この絵も、さきほどの「月影」と同様に、月そのものは描かれておらず、状況から推測させるのである。夕暮れの光のなか、全体に無彩色の景観となり、団扇と少し透けた衣服から夏の夕の暑さが感じられる。ゆったりした女性の姿勢から、時間の緩やかな流れが感じられる。また、敢えて画面のまんなか近くに画面を左右に分割する柱で縦長画面が強調され、画面に奥行きを与えている。画面の構成も、色彩の選択とその配置も、登場人物の姿も、すべて良く考え抜かれた絵だと思う。
 大正期から昭和にかけて、壮年期となった松園の画業は円熟と洗練を増し、明治40年(1907)開設された文展に毎年続けて秀作を発表して、画壇での地位を確立した。
 「春」(昭和13年1938)が展示されている。
 明るい背景が春の空気を反映し、そのなかに人生の春爛漫たる花嫁が日傘に護られて歩く。

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生誕150年記念 上村松園展(3)

第1章 人生を描く
Photo_20250801055201 たしかにここまで観てきただけでも、鏑木清方や北野恒富などの男性画家の美人画とはかなり雰囲気が違うことがわかる。顔の表情はあくまで真っすぐで余念なく、まさに澄み切った眼差しである。
 36歳のときの作品に「月影」(明治41年1908)がある。
 母親が柱の影から顔を出して月を眺めあげ、その背後には幼い妹娘が控える。姉娘のほうは廊下に映った松の木影を見つめている。柱を画面のほぼ中央に据えているが、これと似た構図は後年の「待月」にも採用されている。柱の垂直線と、斜め方向の線とを組み合わせることで、構図に変化を与えている。
 姉娘の振袖には、夕顔の模様が染め出されているが、夕顔は秋の気配を感じさせる。画面には一切月が登場しないが、この登場人物の風情から、自然に長閑な月見を連想させるのである。Photo_20250801055202
 少し年月が下るが、人生を描くという点において、松園59歳のときの重要な作品「母子」(昭和9年1934 重要文化財)がある。
 これは第15回帝国美術院展覧会出品作で、班竹の簾を背景に、眉を剃りお歯黒をした女性が幼児を抱き上げ慈しむような視線を向ける様子を、ほぼ等身大に描いている。明治期京都の町家の婦人の姿であり、幼児の無垢で純真な性質と、美しくも安心感のある母親をしっとり表現している。
 全体に明るくやわらかい賦彩を行い、髪や帯に黒色を配することで明暗の対照を作っている。着衣の縞模様などの堅実で無駄のない描線や、簾の描写に見る極細密な表現などには松園の卓越した技量がうかがえる。画面左側は余白だが、簾によって遮られた背景の奥行きを暗示させる知的な画面構成となっている。
 この作品の制作には、かけがえのない理解者であり支えであった母仲子がこの年2月に亡くなったことが大きく関わっている。松園は、母について下記のように語っている。
 「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。」
 松園が画家を本格的に目指したのち、経済的に支え続けてくれたのが母であった。母は、松園にあくまで画業に専念することを命じてくれたという。
 この絵の母が眉を剃った女性であることからも、母への追慕という私的な事情が造形化されているといえる。またこのころ松園は、当世風俗について、急激な西洋化により古き良きものが失われていくことに懸念を表明していた。本作品は、当世風俗に関する批評としても、松園なりの対応を提示したものと位置づけられている。

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