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2026年1月

東京都心歴史散策 偉人コース(10)

一橋徳川家屋敷跡
 一ツ橋を渡ると丸紅本社ビルの前に「一橋徳川家屋敷跡」の碑と説明板が立っている。Photo_20260131054401
 日本橋川を渡る一ツ橋は、徳川家康が江戸城にはじめて入ったときには、すでに一本の丸太が橋として架けられていた。それがもとで「ひとつばし」と名づけられたという。その一ツ橋を渡って江戸城の内堀内に入るってすぐに「一橋門」があった。
 その一橋門のすぐ下の地所を第8第将軍徳川吉宗から与えられて屋敷を構えたのが、一ツ橋宗尹(むねただ)であった。
 将軍吉宗は、将軍家に世継ぎとなるべき子がないとき、将軍となるべき該当者を送りこめる家柄として、御三卿、すなわち田安家、一橋家、清水家を創設した。10万石の格式を持ち、直属の家臣団は持たず、将軍家の身内として待遇された。
 元来同じ目的で特別な身内の大名として御三家があったが、御三卿ができてからは実質的に御三卿からのみ将軍が出ることとなり、幕末期には御三家水戸藩徳川斉昭は、息子慶喜を将軍にするために苦心して一橋家に養子に出したのであった。
 一橋家の屋敷は広大で、この一角に加えて、気象庁・大手町合同庁舎などにまで及んでいた。

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東京都心歴史散策 偉人コース(9)

東京外国語学校発祥の地
 そのまま東方向に行くと専大通りに行き会うので右折して南下する。学士会館が老朽化・取り壊しの最中であった。さらに一ツ橋方向に行くと、一橋講堂の前に「東京外国語学校発祥の地」の碑がある。Photo_20260130054101
 わが国の外国語教育機関は、安政4年(1857)に創設された蕃書調所にはじまるが、現在の東京外国語大学の直接の前身となるのは、明治6年(1873)この地に建てられた官立東京外国語学校であった。当初は、英・仏・清(中国)・魯(ロシア)の5語科が設置された。高等教育の基礎としての外国語教育と、通訳養成のための教育との二重の役割を担っていた。
 明治20年(1887)東京商業学校ができるとき、東京外国語学校に併合されるという話があり、学生は激しく反発して中退者が出るという事件もあった。しかし明治18年(1885)までに英・仏・独の3語科は東京大学予備門(第一高等学校─東京大学の前身)、その他の語科は東京商業学校(東京商科大学─東京高商─一橋大学の前身)に吸収され、わずか12年で旧外語は廃止された。
 その後、明治32年(1899)東京商業学校そして東京高商となった学校から分離独立して東京外国語学校となった(新外語と呼ばれた)。これが現在にいたる新制東京外国語大学になっていった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(8)

大隈重信侯雉子橋邸跡
 内堀通りをそのまま進むと左手に千代田区役所が見える。私が東京に勤務していたころはレトロな雰囲気を残す庁舎だったが、真新しい先進的なデザインの九段合同庁舎ビルとなっている。東京はどんどん変化し進化する大都市であることをあらためて感じる。Photo_20260129061001
 道路を千代田区役所の側に渡ると、エントランス前に大隈講堂時計台を模した「大隈重信侯雉子橋邸跡」の未だ新しい石碑が立っている。大隈重信は、明治9年(1876)から明治17年(1884)の間、この地に屋敷を構えていた。
 併せて建てられている説明板によると、
江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城附属の施設が置かれました。平成16年(2004)の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。
とある。
 この地は、明治維新前までは、幕府の蔵屋敷や直臣たちの居住地であった。江戸城内堀と日本橋川にはさまれて、権力中枢の側近の場としてふさわしいところであった。
 明治になってもこの土地の性格は受け継がれ、参議・大蔵卿を勤め明治新政府の枢要にあった大隈にとっても、相応しい立地であった。
 明治11年(1878)西南戦争の後、明治政府は財政に苦しみ、財政圧縮を余儀なくされた。それは西南戦争での帝国陸軍兵士の戦後恩賞・補償にも影響したとされた。その財政削減を行った元凶が大蔵卿であった大隈重信にあるとされて、明治11年(1878)8月帝国陸軍近衛兵が竹橋で暴動を起こして、この大隈邸に銃弾が撃ち込まれたのであった。「竹橋事件」と呼ばれる軍人の暴動事件であった。これは、後の軍人勅諭の発令や軍人を取り締まる憲兵制度のきっかけとなった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(7)

弥助砲
Photo_20260128061101  靖国通りをもう少し東に進んで内堀通りにさしかかるところに昭和館がある。さきの大戦の悲惨を中心に展示する博物館である。この建物のそばに蕃書調所跡の説明板が建っている。九段交差点を右折して少し行くと、赤茶色に鉄の錆をまとった棒状の鉄柱のようなものが立っている。これがさきほど述べた「弥助砲」の砲身である。
 オランダの、砲身が短く太く肉厚で形が臼に似ていて、大きな弾丸を城郭や要塞など大きな対象に向けて撃ちだす(命中精度は低いが、目標が大型なら問題はない)「12ドイム臼砲」や、フランスで開発された前装ライフル式の4kgの大型砲弾を打ち出す「四斤山砲(よんきんさんぽう)」などを改良して、大山巌は工夫を凝らした大砲を独自開発した。これら「弥助砲」と呼ばれた国産の大砲は、戊辰戦争、日清戦争、そして日露戦争にまで、長らく使用された。

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東京都心歴史散策 偉人コース(6)

大山巌像
 靖国神社から靖国通りに出て、東方向に行く。内堀通りを渡り坂を下り千鳥ヶ淵べりに出る。右手の九段坂公園のなかに、馬に乗った大山巌の銅像がある。Photo_20260127054401
 大山巌(天保13年1842~大正5年1916)は、伊藤博文の1年年少で薩摩に下士の子として生まれ、若いころは攘夷過激派に属したため文久2年(1862)寺田屋事件では島津久光に殺されかかったが、なんとか命は助かり帰国謹慎処分を受けた。薩英戦争で西欧軍事力から衝撃を受け、理知的な大山巌は攘夷から現実路線に改め、先進国の砲術を学んだ。大山巌は幼名から通称を弥助と呼ばれ、彼が設計した大砲は弥助砲と呼ばれた。これはすぐ後に見る。
 会津戦争にも参加したが、敵の弾丸を右股に受けて負傷した。このとき会津若松城内には、後に妻となる日本最初の女子留学生、最初の女子学士となる、まだ8歳の山川捨松が籠城していた。捨松の兄は、後に物理学者、東大総長となる山川健次郎であった。
 明治維新がなり、明治2年(1869)渡欧してフランスとスイスに留学、普仏戦争も視察する機会を得た。西郷隆盛とは親戚筋であったが、明治10年(1877)の西南戦争では政府軍砲隊指揮官として西郷軍の鎮圧に参加した。
 大山巌は、同郷の吉井友実の子と結婚して3女を得ていたが、産褥で亡くしていた。吉井友実は、大山巌の後妻としてアメリカ留学から帰国した山川捨松を紹介した。山川捨松は、そのころ日本語を忘れていたが、フランス・ドイツで軍事学を学んだ大山巌はフランス語・ドイツ語に長けていたので、二人はフランス語で会話を重ね、恋に落ちたという。日本語を取り戻しつつあった山川捨松には、薩摩弁の大山の日本語がほとんどわからなかったともいわれている。明治16年(1883)大山は捨松と結婚した。夫婦仲はいたって良好であったが、薩摩の縁者、会津の縁者ともにこの結婚を受け入れられず、それらの縁籍とは絶交状態となったという。
 大山巌は、日清戦争では陸軍大将、参謀長官、日露戦争では元帥陸軍大将、満州総司令官として、「陸の大山、海の東郷」と並び称される日本軍のトップとして参戦した。ドイツの新聞は、ロシア皇帝ニコライ2世が「猿のような日本人」が大国ロシアに勝てるわけはない、大山はロシアに苦しめられてきたフィンランド人なのだろう、と言ったと報道していたという。
 この大山巌像は、没後3年の大正8年(1919)現在の国会前庭に設置されたが、昭和23年(1948)GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和44年(1969)この地に移されたのであった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(5)

神道無念流練兵館跡
 靖国神社の南門近くの芝の上に「神道無念流練兵館跡」の石碑と説明板が建っている。Photo_20260126060401
 斎藤弥九郎(さいとう やくろう)は、寛政9年(1797)越中国射水郡(現在の富山県氷見市)に農民の子として生まれた。商家の丁稚奉公もしたが満足できず、文化9年(1812)金がなく野宿を重ねながら江戸へ出た。旗本能勢祐之丞の小物となって住み込みで働き、夜は書物を読んだ。主人に勤勉を認められ、剣術、儒学、兵学、文学、砲術、馬術のそれぞれに師をあてがわれ、学問と武芸に励んだ。江戸時代の後期には、とくに関東で、百姓の若者が剣術を修行することが流行し、たとえば新選組の多くの隊員の供給源になるなどがあったが、斎藤弥九郎は良い主人に仕えた点で、とりわけ恵まれていたと言えよう。
 20代で神道無念流岡田道場撃剣館の師範代に昇進し、岡田の死後は後継者岡田利貞を後見した。29歳のとき、独立して江戸九段下俎橋(まないたばし)近くに練兵館を創立した。千葉周作の玄武館、桃井春蔵の志学館とともに、江戸三大道場と呼ばれた。
 その練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したので、この地に移転してきたのであった。
 息子の斎藤と慎太郎は諸国をまわって各地の剣豪を破り、注目されるようになった。長州藩は神道無念流を高く評価して、桂小五郎、財満新三郎らの俊秀を練兵館に送って学ばせた。なかでも桂小五郎は剣の腕にも優れ、師範代を勤めた。伊藤俊輔も出入りしていた。

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東京都心歴史散策 偉人コース(4)

広沢真臣邸宅跡
 変則十字路まで戻り、右に向かって南下するとき、十字路に隣接して白百合学園がある。この場所に、維新の直後ころ維新政府の参議 広沢真臣(ひろさわ さねおみ)の邸宅があった。Photo_20260124054001
 広沢真臣(天保4年1835~明治4年1871)は、長州藩士の子として生まれ、藩校 明倫館ょ学び、嘉永6年(1853)の黒船来航時には大森台場警護に参加し、藩の安政の軍政改革に参画し、藩の尊王攘夷派として活動した。藩内の政権闘争では苦労したが、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣狂介ら正義派が実験を掌握したとき、中間派として藩政に残った。
 薩長同盟では、おもに広島藩との交渉に尽力して貢献した。慶応2年(1866)の第二次長州戦争の講和交渉では、幕府側の勝海舟と交渉して長州の立場を説明し、また坂本龍馬や五代才助と「商社示談箇条書」を作成して薩長国産貿易商社の設立に尽力した。
 王政復古の大号令の後、戊辰戦争がはじまると、広沢は新政府軍の幹部に任命された。
 明治新政府発足後は、陸軍の幹部を歴任し、戊辰戦争では会津藩「帰政」の斡旋を建白させるなど、敵対より融和を求める立場で活動した。
 明治4年(1871)この地の私邸で、刺客により襲撃され死亡した。享年37であった。
 『広沢真臣日記』は、木戸や大久保の日記とならんで、幕末維新期の資料として評価が高い。

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東京都心歴史散策 偉人コース(3)

アーネスト・サトウ旧宅跡
 与謝野鉄幹・晶子住居跡の前をそのまま進むと、少し道に食い違いのある変則十字路に行き当たるので、そこを西に進むと右側に「法政大学80年館」の門がある。その門の隣の植込みに「アーネスト・サトウ旧戸住居地跡」の銅板碑がある。
 この場所は、アーネスト・サトウが夫人武田兼(たけだ かね)のために購入した旗本屋敷跡であった。英国公使館に近く、子息である武田久吉(植物学者)が引き続いて居住したところである。Photo_20260123074701
 サー・アーネスト・メイソン・サトウは、ラトヴィアのリガ出身のスラブ系ドイツ人を父としてイギリスのロンドンで1843年に生まれた。父はルーテル派キリスト教徒で、アーネストも45歳になってイギリス国教会に入信するまではルーテル派であった。サトウという名は、スラブ系の希少姓で、日本の佐藤とはまったく無関係だか、人生をかけて親しんだ日本に因んで、日本語表記を「佐藤」あるいは「薩道」として、いずれもサトウと読ませた。
 彼は、幼少期から飛びぬけて秀才であったが、階級差別が残る当時のイギリスで、宗教や出自を問わず自由なロンドン大学に進学し、そこで日本の存在を知り、漢字の勉強をするようになった
 日本に行くことを望んで、19歳のとき文久2年(1862)イギリスの駐日公使館の通訳生として、横浜に着任した。当時、日米和親条約などで外国人が多数出入りし、日本語を学ぶこともできた横浜の成仏寺で日本語を学んだ。
 ただ、このころ発生した東禅寺事件や生麦事件の賠償問題の日本側との折衝などでは、日本語能力が未熟なことを自覚した。
 生麦事件と東禅寺事件の始末のための幕府との折衝を妥結したものの、薩摩藩との折衝が決裂して薩英戦争が勃発し、それを機会にサトウは薩摩の人脈ができた。
 またこのときヨーロッパ秘密留学から急遽帰ってきた長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)・志道聞多(井上薫)とも知り合った。
22歳になった1865年(慶応元年)から通訳官に昇進し、日本の権力構造の詳細など、伊藤・井上、さらに西郷隆盛などと情報交換した。
 やがてそれらの知識をもとに『英国策論』をまとめた。そこには、
・日本の政治権力は、将軍は諸侯連合の主席に過ぎず、主権者ではない。将軍とだけ結ばれた条約は、実は実行できない。
・現行条約を廃止して、新たに天皇および諸国諸大名と条約を結び直し、日本の政権は将軍から諸国連合に移行しなければならない。
などが指摘されていた。
 さらに雄藩大名たち、諸藩のリーダーたちとも交流する機会を得た。将軍慶喜、天皇にも謁見する機会を得た。大政奉還、戊辰戦争にかんしても、かなり正確な客観的情報を収集していた。
明治維新以後も、日本とイギリスの間を結ぶ中核的な仕事をした。
 1895年(明治28年)には、イギリスで日本駐箚(ちゅうさつ=駐在)特命全権公使に任命され、また駐日特命全権公使に着任した。日清戦争の経緯、三国干渉の行方、その後の帝国陸軍・海軍の成長を目の当りにした。
通訳の見習いのような立場からはじめて、日本の幕末維新を外から詳細に観察し、ときに日本に助言する偉大な存在に成長したのであった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(2)

与謝野鉄幹 晶子 住居跡
 東京逓信病院の手前の路地を東に少し入ると道の左手の小さな空き地に「与謝野鉄幹 晶子 住居跡」の石碑と説明板が建っている。Photo_20260122060201
 与謝野鉄幹は、明治6年(1873)京都の寺院に僧侶の子として生まれ、大阪市の寺の養子となり、山口県徳山町(現在の周南市)の寺に移り、徳山女学校で教師をした。この人は女性にもてる人だったようで、女子生徒と問題を起こし、また別の女子生徒との間に子を設けたりして居づらくなったのか、明治25年(1892)東京に出て、教師・文士・歌人として生計を立てた。明治33年(1900)『明星』を創刊して、ロマン主義運動の中心的な存在となった。
 明治33年(1900)大阪に出かけたとき無名の若手歌人鳳晶子(後の与謝野晶子)と知り合い、不倫関係となった。大阪から家出して上京してきた晶子と翌年結婚して、この地の少し南西の四番町に住んだ。そして渡仏の期間を経て、大正4年(1915)から関東大震災(大正12年1923)まで、この地に住んだ。
 この間の大正10年(1921)二人は神田駿河台に「文化学院」の創立に貢献し、教壇にものぼった。震災で文化学院は全焼し、その後与謝野夫妻は南荻久保に転居して行った。

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東京都心歴史散策 偉人コース(1)

 黒田涼『江戸東京の幕末・維新・開化を歩く』光文社 を参考に、その「偉人コース」という散策プランを、東京在住の友人と二人で実行した。
 地下鉄飯田橋駅のB3出口を出て、ドコモ・バイクシェアのレンタサイクル・ステーションで自転車を借りだし、外堀の南側の道を東京逓信病院に向かう。

Photo_20260121054801

①日本赤十字社発祥の地
②与謝野鉄幹 晶子 住居跡
③アーネスト・サトウ旧宅跡
④広沢真臣邸宅跡
⑤神道無念流練兵館跡
⑥大山巌像
⑦弥助砲
⑧大隈重信侯雉子橋邸跡
⑨東京外国語学校発祥の地
⑩一橋徳川家屋敷跡
⑪将門塚
⑫最初の街路樹碑
⑬日本歯科大学発祥の地
⑭庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡
⑮常盤橋公園
⑯富士銀行発祥の地
⑰西郷隆盛屋敷跡
⑱日本銀行創業の地
⑲船員教育発祥の地
⑳電燈供給発祥の地

日本赤十字社発祥の地
 東京逓信病院の敷地内に、「日本赤十字社発祥の地」の説明板が建てられている。
 明治10年(1877)佐賀藩から出て元老院議官となっていた佐野常民(つねたみ)が、大給恒(おぎゅうゆずる)、桜井忠興(ただおき)らとともに設立した博愛社が、日本赤十字社の前身である。佐野は、西南戦争で死傷者が出るなか、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に「博愛社設立請願書」を政府に提出して不許可となったが諦めず、熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得ることができた。
 明治19年(1886)この場所にあった陸軍省用地を借り受けて事務所と病院の建設を行った。翌年には、日本政府がジュネーブ条約に加入したことにともない、博愛社は日本赤十字社と改称した。総裁には小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)、社長には佐野常民が就任した。
 明治21年(1888)福島県での磐梯山噴火、明治23年(1890)和歌山県でのトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件、明治24年(1891)愛知県・岐阜県での濃尾地震などの災害や事件をはじめとして、日本赤十字社は創立直後から広範な救護活動を行ってきた。
 明治24年(1891)日本赤十字社病院はこの場所から南豊島御料地(現在の渋谷区広尾)へ移転した。

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杉山大志『データが語る気候変動問題のホントとウソ』電気書院、2025

【メディアや運動家の意見のみでなく多面的に情報を入れて自分で考えることが肝要】
 著者のキャノングローバル戦略研究所主幹の杉山大志は、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)評価報告書統括執筆者でもある。杉山大志は、具体的な科学的データを逐次引用して、現在世界に広がっている「気候変動問題」の問題を冷徹に指弾する。Photo_20260120060901
 この本では先ず、気候変動問題運動家たちやメディアの主張の根拠を、具体的なデータを丁寧に引用して反駁している。
(1)温暖化は、日本の気象庁公式発表のデータによると、平均気温が30年間で0.3℃上昇しているが、その一方で±2℃は年平均気温がいつも変動している。短期間の変動は大きくかつ常に存在し、長期的な気温の変化はごくゆっくりでごくわずかなのである。
(2)ただ大都市では温度上昇は大きい。100年間に東京では3.2℃、大阪では2.8℃上昇している。これは都市化によるヒートアイランド現象で説明・理解できる。
(3)世界平均で海面上昇は100年間で20cmだが、毎日の潮汐で平均2m、場所によっては毎日10m以上変化している。つまり長期的変化はあるとしても問題になる程度とは到底言えない。サンゴ礁の島は、ゆっくりした海面上昇に対してはサンゴの成長が寄与して陸地面積はむしろ増加している。砂浜の減少は砂の供給不足によるものであり、河川で運び込まれる土砂の減少が原因である。この対策が必要なら、養岸活動、すなわち護岸工事や植林などが対策となり、現実にも適冝実施されていて、問題にはなっていない。台風によって砂が削られることもある。それが問題なら土木工事で対処すべきであり、CO2濃度で対処すべきではない。1985~2015年の間に、世界の海面は6㎝上昇したが、沿岸陸地面積は3.4万㎢(日本の総面積の1割)増加した。これは主に森林伐採にともなう河川による土砂堆積の増加が要因と考えられる。
(4)山火事は1930年代が過去最大で、近年では2017年のみ少し増加したがピーク時の1/5程度。山火事は森林の燃料過多(燃える樹木の過多)が問題で、伐採や住宅地規制が必要であり、気候変動との関連は説明できない。
(5)世界の食糧生産は、順調に増加傾向が続いていて、それは農業の生産技術向上と需要増加に対する対応としての生産増強努力による。気候変動あるいはCO2増加が、食糧生産にマイナス効果を与えた科学的データは検出されてはいない。
(6)日本の台風は、戦前の室戸台風、枕崎台風、1961年第二室戸台風、1959年伊勢湾台風などが強力であったが、以後は強い台風は減少している。台風の激甚化などはない。
(7)自然災害が発生した時の経済損失は、着実に増加している。これは物理的災害レベルそのものの激甚化ではなく、人間行動の経済成長が要因であり、当然のことである。経済成長によって防災・救済能力が改善されるので、GDPで規格化すると経済損失は減少している。
(8)大気のCO2濃度は、1850年ころは280ppmに対して2020年は420ppmと1.5倍に増加した。しかし不都合は発生していない。かつて恐竜時代には1000ppmを超えていたことが、過去の遺物の分析からわかっている。ホッキョクグマの数は増加傾向(1960年の2倍)であり、これは狩猟禁止の効果と考えられる。
(9)高温・干ばつ・洪水・地滑り・山火事・強風・霧など、異常気象による死亡者は1920年代と比較すると死亡率が99%、死亡数が96%も減少している。台風・洪水など気象災害による死亡も減り続けている。それは堤防・ダムなど防災技術の向上によると考えられる。
 事実を冷徹に取り上げて分析すれば、上記のように
・ゆるやかな平均気温の上昇があるが、それが具体的な問題とはなっていない。農業増産などが典型であるが、人間は容易に適応している。
・環境省もIPCCも、不都合なデータを隠していることが問題である。さらに、「気候危機説」に合わないデータをメディアや「気候変動問題」主張派は意図的に無視してきた。有名な世界全体平均気温の「ホッケースティック曲線」は捏造が確認されている。
・気候の変動は、非常に多面的で多数の要因が関与するので、変動があったとしても因果関係を明確にするのは容易ではない(まだできていない)。CO2濃度が気候変動にほんとうに関与することは科学的に証明されないままなのである。
・シミュレーションは、正しいモデルにもとづき、妥当なデータを用いた範囲でのみ現象の因果関係を説明できる。気候の変化には、現代科学で未解決のきわめて多様で複雑な要因が関わっているため、シミュレーションの前提となるモデルの設定も、データの選別も正しいと確信できる水準に至らないのである。。すなわちシミュレーションも含めて「科学的にはまったく決着していない」のが現実である。
 気候変動問題にかんしては、これまで運動家たちもメディアも、公正さ、謙虚さを失い、強引に不安を煽ってきた。ほとんど捏造とも、ヒステリーとも言える煽動であった。
 人類がこれから世界的によりよい生活を獲得するためには、合理的な努力が必要であり、そのためには妥当に正常な経済成長を実現できる行動をとっていく必要がある。ほとんど根拠がない「問題」に、根拠のない「解決法」をとなえて、たとえば日本政府が2023年5月に成立させたGX推進法(グリーントランスフォーメーション推進法、脱炭素成長型経済成長への円滑な移行の推進に関する法律)のように「2050年にCO2排出ゼロ」を目指して「官民合わせて10年間で150兆円の投資を行う」というような、巨大で無意味なアクションは、断じてすべきではない。東京都が実施しようとしている「新規住宅建設に対して、全面的に太陽光パネルの設置を義務化する」なども停止すべきである。
 このような「根拠のない煽動」を続けているから、メディアが信用を失うのである。私たちは、丹精こめて積み上げた富を、丁寧に有効に使うべきであり、気候変動問題のような怪しくむなしいことに費消してはならない。
 そうした私たちの行動を見直して改める必要があるが、なによりまず科学的真実、すくなくとも科学的な納得性を冷静に見つめ直すことが先ず必須である。
 アメリカ民主党政権時のブレーンを努めた科学者スティーブ・クーニンの本を読んだことがあるが、クーニンや杉山大志のような、冷徹に観測データや事実を丹念に積み上げ
て、冷静に思考する人たちの意見を、まず理解して、私たちは自分の頭で考えて判断しなければならない。メディアも、これらを真剣かつ誠実に取り扱うべきである。
スティーブン E. クーニン『気候変動の真実』
異論があれば反論すればよい。「西欧では、気候変動問題の危機に真剣に取り組んでいるが、日本は後れを取っている。」「いまのまま放置すれば、大変なことになる。」などと、根拠を具体的に示すことなく、問題の中味を真剣に考えることなく、感覚的・感情的・ドグマ的に不安感を煽る報道が多すぎる。全面的に反省すべきである。

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千葉松戸 戸定邸(9)

湯殿
 奥座敷から北東の方向に、離れとして湯殿があり、細い渡り廊下でつながっている。
 これは家族と来客だけが使った湯殿だそうである。
 入口左手に脱衣場があり、一段低くなった浴室に浴槽がある。もっとも昭武が存命のころは、水戸城でさえ湯殿に浴槽はなく、手桶に湯を汲んで体にかける掛け湯によって入浴していたので、おそらく昭武の時代にはこのような浴槽はなかったと思われる。
 この部屋で注目すべきは、天井である。幅83cmの杉板が4枚、回し張りという技法で貼られている。簡潔さを旨とする戸定邸にあって、この豪華な天井は目を惹くのである。

 この戸定邸の敷地には、一角に「松戸市戸定邸歴史館」が設置され、徳川昭武のパリ万博視察旅行を中心に、昭武の若いころの活動の様子や、その生涯について展示している。

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千葉松戸 戸定邸(8)

離座敷
 奥座敷から細長い渡り廊下を北方向に行くと、離座敷(はなれざしき)に至る。Photo_20260117060401
 この部屋は、昭武が生母 秋庭(しゅうてい)のために、戸定邸落成の約2年後、明治19年(1886)増築したものであった。
 生母は水戸斉昭の側室 万里小路建房の六女 睦子(ちかこ)で、斉昭の子として5男6女を生んだ斉昭の没後、秋庭と改めていた。書に秀で万年青(おもと、すなわち観葉植物)を愛で、書斎北側に万年青小屋を建てるほどであった。
 表座敷と同様に、床が南面し、南と西から光が差し込む明るい部屋としている。西側の崖地は、現在は樹林となっているが、建設当初は樹木が伐採され江戸川や富士山を望むことができた。
 部屋は3間あり、床の東は日の出窓のある地袋棚(じぶくろたな)とし、欄間には蝶や雀、竹があしらわれ、軽やかな雰囲気を醸している。いちばん北側の4畳半が彼女の書斎で、北西端の物入れの場所には水戸藩9代藩主斉昭の御霊が祀られていた。

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千葉松戸 戸定邸(7)

奥座敷棟
Photo_20260116060301  中座敷の北側に隣接して奥座敷棟がある。戸定邸が落成した当初は、ここはいちばん北にあった建物であった。南面に開口があるが、半分は中座敷棟にふさがれ、日当たりはさほど良好とは言えない。床の向きは表座敷棟と異なり東向きとなっている。
 ここは昭武の妻 八重(やえ)が使用していた部屋である。昭武は、22歳のとき公家中院通富の娘 盛子と結婚していたが30歳のとき盛子に死なれた。八重は、御家人斎藤貫之の三女で、当初は側女中として昭武に仕えていたが、後に入籍して共に生活するようになった。武昭との間に三男三女をもうけた。
 床の間の隣に丸窓があるのが目につくが、やはり表座敷に比べれば全体に質素な造作である。
 昭武も、夜眠るときはこの部屋を使っていたらしい。

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千葉松戸 戸定邸(6)

中座敷
 表座敷を出て、廊下を北方向に向かうと中座敷がある。Photo_20260115055301
 ここには3つの連続する部屋があり、昭武の6人の子どもたちの部屋として増設され、その後は衣装部屋や化粧部屋などとして使用された。6人の子供たちが常にこの戸定邸に住んでいたわけではないが、子供ができ家族が増えると部屋が必要になり、空いているスペースに増築したのであろう。
 この部屋には、表座敷棟にあった欄間、長押や釘隠しはなく、建材も表座敷棟ほど高級なものではない。屋敷は、部屋によってランク分けされていたことがわかる。

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千葉松戸 戸定邸(5)

庭園
 屋敷の南と西にひろがる庭園と、玄関・表座敷・中座敷などに周囲を囲まれた中庭がある。Photo_20260115055501
 主の徳川昭武は、フランスのパリをはじめとして海外を歴訪したので、美しい庭園にはこだわりがあったらしい。
 明治17年(1884)から明治20年(1887)までに最初の整備を終え、さらに明治23年(1990)までの間に2度の拡張が行われた。
表座敷の床間の前から庭を眺めると、左手にはなだらかな丘に芝生がひろがり、コウヤマキ、アオギリなどの木立が囲んでいる。洋風技法による芝生面はわが国現存では最古のものであり、樹木の木立を主要景観に取り入れる手法は類例がないという。
 ここは標高が25mほどあって、晴天であれば、西側を南北に流れる江戸川や富士山の眺めも楽しむことができた。
 こうした景観を含め、建物、庭園などの日本庭園史における学術的価値が認められて「国指定名勝」となっている。

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千葉松戸 戸定邸(4)

表座敷棟(御座所)
Photo_20260113054101  玄関から真っすぐ西方向に走る廊下を行くと大広間がある。この戸定邸の中心となる表座敷棟である。64枚の畳が敷き詰められ、襖で5つの部屋に区切ることができる。床の間のある「御本間(ごほんま)」という区画では、身分のいちばん高い人が床柱を背にして座り、屋敷の西と南にひろがる広い庭園を眺めることができる。
 四面が柾目(まさめ)の柱や75cm幅の一枚板を用いた杉戸など最上級の杉材と、それを活かす高い大工技術が気品ある雰囲気を醸し出し、華美な装飾はないが、落ち着いた庭園との一体感をもたらして、上品な美を構成している。
 主の昭武の部屋たる「御居間」が杉戸で区切られているが、来客をもてなす部屋に密接している。普通は大名屋敷では来訪者と家族の部屋は別の建物にあるが、ここではひとつの建物に同居している。その意味では、質素とも言える。
 部屋を区切る柱の上には、空気や光を通しながら個性あるデザインで空間を飾る欄間(らんま)が設えられている。徳川家の家紋「三つ葉葵」では、3枚の葵の葉が分離した大きな紋となっている。
 柱の間の壁面にある長押(なげし)には、最上級の木材が使用され、長押の上に貼り付けられた装飾金具には葵の葉を組み合わせた凝ったデザインの釘隠しが導入されている。

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千葉松戸 戸定邸(3)

使者の間Photo_20260112060401
 「使者の間」には、徳川家へのお使いの人、あるいは身分の高い来客のお供を勤める人たちを通す部屋であった。使者たちは、この部屋で用件を伝えたり、主人の用が終わるのを待機していた。
 柱や内装など、材料も飾りつけも表座敷のように豪華で上等なものは使用されていない。それでも庭園の一部を眺めることができる配置とし、欄間には幸福を招くとされる蝙蝠(こうもり)の模様をあしらうなどの配慮が導入されている。

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千葉松戸 戸定邸(2)

玄関Photo_20260110054601
 戸定邸に入るためには20段ほどの石段を登る。そこの門を入ると、前庭を迂回して玄関に至る。
玄関は2つあり、見学者が入る「表玄関」の向かって左手に、もうひとつちいさな「内玄関」がある。表玄関は、徳川家の家族、あるいは皇族など身分の高いお客様が使い、表座敷に行く廊下に直結している。内玄関は「使者の間」に直結している。

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千葉松戸 戸定邸(1)

 ようやく涼しくなった秋の日、松戸市の戸定邸(とじょうてい)を訪れた。JR松戸駅から南方向に歩いて10分あまりのところにある。この屋敷は、徳川昭武(あきたけ)が明治17年(1884)この地 松戸に建てた住居である。

戸定邸を造った徳川昭武
 徳川昭武は、37人の子をなした幕末の水戸藩主徳川斉昭の18男として嘉永6年(1853)10月に生まれた。それは折しも黒船でペリーが来航したすぐ後であり、すでに波乱の運命の兆しがあったと、あとからは思える。
 16歳年長の異母兄に最後の将軍徳川慶喜がいて、幼少期より可愛がられた。
 徳川昭武は、13歳にして御三卿の清水徳川家を相続し、翻って16歳にして御三家水戸藩の最後の藩主となり、徳川幕府の政権が終わって明治時代となって版籍奉還により水戸藩知事となった。なお、後に昭武の次男 武定が松戸徳川家を創設し、今に続いている。
 慶喜は将軍のとき子がなかったので、弟の昭武を後継者と考えていたと推測される。パリ万博へ派遣したのも、その前提であったのかも知れない。しかしパリに出かけている間に徳川幕府は無くなってしまった。幻の将軍とも言える昭武は、数奇な運命に翻弄されたのであった。
 昭武が30歳を過ぎて、徳川家の家督を退いて隠居になってから、この地に建設した住居がこの戸定邸である。戸定邸の「戸定(とじょう)」とは「外城」に由来し、戸定邸のある高台 戸定台は、かつてこの地に築かれた松戸城(松浪城)の外郭に位置していた。
 この松戸という地は、江戸時代に江戸と水戸とを結ぶ水戸街道の宿場町であり、この近くにある松戸神社には水戸藩第2代藩主であった徳川光圀ゆかりの銀杏の樹があり、古くから水戸藩との縁のあるところであった。
 この邸宅は、徳川昭武が建ててから140年ほど経つが、明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残り、さらに全面的に一般公開されている希少な歴史遺跡である。

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千葉流山散策(10)

光明院
 一茶双樹記念館からさらに南に行くと、道の東側に光明院の境内がひろがっている。Photo_20260108060201
 光明院は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の寺院で山号は赤城山である。本尊は不動明王である。創建時期は不明だが、江戸時代初期ではないかと推測されている。
 かなり広い境内で墓地も広い。小林一茶の流山滞在時のパトロンであった、俳人の秋元双樹の墓がある。彼らふたりの親交に因んだ句碑もある。
 長月朔日(ながつきついたち)
 豆引きや 跡は月夜に任す也 双樹
 烟らぬ家も うそ寒くして 一茶
 これは文化元年(1804)にふたりが双樹邸で詠んだものである。「豆引き」というのは、大豆などを畑から引き抜く農作業で、往時の流山での秋夕の景色が詠み描かれている。

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千葉流山散策(9)

一茶双樹記念館
 天晴通りをさらに南に200mほど行くと、道の東側に一茶双樹記念館がある。私がこの前を通ったとき、高校生の団体なのかたくさんの若い人たちが集まり、列をつくって順番に入場していた。Photo_20260107055301
 この古民家風の建物は、白みりん醸造家の秋元家の住居であった。
 江戸時代の三代俳人とされる小林一茶(宝暦13年1763~文政10年1828)は、人生の多くを旅に過ごした。とりわけ流山を含む下総地方にはもっともよく訪れていた。旅先では、その地の俳友たちに俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活と旅の糧を得ていた。
 流山で一茶と親交が厚かったひとりが、醸造業を営み味醂の開発者のひとりとされる五代目秋元三左衛門(宝暦7年1757~文化9年1812)であった。秋元三左衛門は「双樹」と号し、家業の傍ら俳句を嗜んでいた。経済的にも、一茶を支援していた。
 一茶は、享和3年(1803)から文化14年(1817)の15年間に、50回以上も流山に来たことが、句帖や日記の記録からわかっている。一茶と双樹とは、親しい真の友人であったようだ。
 流山教育委員会は、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山にとって由緒ある土地として、平成2年(1990)12月流山市指定記念物(史跡)第一号に指定した。安政期の建物を解体修理して双樹邸を再現し、枯山水の庭園を含め、流山で味醂の生産が最盛であった時代を再現した。
 残念ながら私はこのたび、時間の都合で館内の見学はできなかった。

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千葉流山散策(8)

板状駒型庚申塔・青面金剛立像
Photo_20260106055201  さらに天晴通りを南に向かうと、流山本町まちなかミュージアム、白みりんミュージアムの前を過ぎて道の東側に板状駒型庚申塔・青面金剛立像がある(マップの⑦)。
 ここの庚申塔は、塔上部が前傾した「板状駒型(いたじょうこまがた)」といわれるもので、18世紀前半の様式といわれている。この庚申塔の場合は記録により元文5年(1740)造立と判明している。板碑に、仏教での庚申(かのえさる)の本尊である青面金剛立像が浮き彫りにされている。
 庚申信仰は「庚申(かのえさる)日の夜、三尸(さんし)の虫が睡眠中に体内から出て、天帝に罪過を告げるので寿命が縮まる」という中国の道教の教えに基づく。人びとはこれを防ぐため「庚申構」を結び、庚申日(庚申待ち)の夜は青面金剛像や猿田彦神(さるたひこのかみ)に長寿を祈り、朝まで眠らずに過ごす、というものであった。

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千葉流山散策(7)

兜巾型庚申塔
 Photo_20260105080001 万上通りを進むと本町通りの一本西を並行してはしる天晴通りという少し細い道に出会う。天晴通りを南に行くと、まもなく道の西側に、ちいさな祠に並ぶように庚申塔が建っているのが見える(マップの⑥)。その脇に「流山三丁目庚申講関係資料」というタイトルの、この地の庚申塔についての解説板がある。
 それによると、ここの庚申塔は祠の外に庚申塔を置く「兜巾型庚申塔」であり、天晴通りをもう少し南にいったところにあるもうひとつの庚申塔が(マップの⑦)「板状駒型庚申塔」である、と説明がある。ここの兜巾型庚申塔は、文化15年(1818)造立されたものである。
 旧根郷六の組を中心とした庚申構によって祭祀(さいし)が執り行われていた。祭祀のための緒道具や祭祀参加者の芳名帳、そして無尽に用いられた籤やその記録などが保存されている。
 無尽は、昭和30年代後半(1960年ころ)まで行われていた。現在は、市内に唯一残る庚申信仰の祭祀行事として、毎年初庚申(はつかのえさる)の日に幟や幕を飾りつけ、お供えをして祭祀を行っている。

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千葉流山散策(6)

江戸時代の商家と万上通り
 浅間神社を出て、本町通りを北にのぼると、道沿いには何軒もの茅葺の古い商家が立ち並ぶ。Photo_20260103054801
 浅間神社の道路の向かいには「癒淹(ゆえん)」という日本茶のお店がある。これは昔もお茶の商家だったらしい。さらに少し北に行ったところの道路西側には「新川屋」という土蔵店舗がある。この建物は明治23年(1890)の建造とわかっている。ここは昔から呉服店だったそうで、今は呉服の他に素材生地や一点ものの洋服、和洋モダン雑貨などを売っている。
 さらに本町通りを北に進んで信号を越えたところに「あかり館」という雑貨屋さんがある。現在ここでは和紙照明器具、小物雑貨、国産小麦の自家製酵母パン、お菓子を販売し、イートインもある。
Photo_20260103054901  本町通りを少し手前の信号までもどり、流山駅に向かって少し歩き、再び流山街道にはいって南に進む。流山駅からすぐ南に走る道がカーブして流山街道に交わるところで右折すると「万上通り」という道になる。
 このカーブする道路は、かつて流山鉄道流山駅から野田醤油株式会社流山工場(現在の流山キッコーマン株式会社)を繋ぐ引込線の跡である。この引込線は、昭和4年(1929)に敷設され、アルコールの原料に用いるサツマイモや燃料の石炭の移入、酒・醤油の出荷に用いられていた。やがてトラック輸送の増加で利用は漸減していき、昭和44年(1969)廃線となった。その軌道跡は道路となって、現在もそのまま残っているのである。

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千葉流山散策(5)

浅間神社と富士塚
 道路をはさんで紙平醤油醸造所跡碑にほぼ向かい合って浅間神社がある。Photo_20260102060601
 紙平醤油醸造所跡碑でみたように、製紙業で知られた浅見家の初代当主によって浅見家の鬼門に、初代逝去の1年前 正保元年(1644)に創建された。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。
 享保元年(1716)庚申塚が築かれ、このころから町内の社となっていった。
 当初、浅間神社は小規模の祠だったと考えられ、安政3年8月25日(1856)の「安政江戸台風」によって全く倒壊し、その後5代目当主 浅見平兵衛萬蔵が現在の形に再建したと、本殿左側の石碑に刻まれている。Photo_20260102060602
 さらに萬蔵は、明治19年(1886)から明治22年(1889)この神社の後方に、富士塚を構築した。本物の富士山から切り出された溶岩を岡庭船運業に依頼して運び込み、高さ6mと国内でも最大級の富士塚を造成した。頂上には明治19年の「富士浅間大神」の碑を置き、中腹には多くの石造物が建てられて、一合目、二合目、三合目・・・と頂上に至るちいさな「登山道」がつくられている。
 実際に富士登山ができない人も「六根清浄お山は晴天」と唱えながらこの富士塚の頂上まで登ると、富士山に登ったと同じ気持ち・効果・御利益が得られるとされる。安産・子育て・縁結び・夫婦円満・火伏せのご利益があるとされ、今でも多くの人びとから崇敬を集めるという。
 私も登ってみた。岩が見た目よりゴツゴツしていて、ちいさな登りだが、思った以上にハードであった。

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千葉流山散策(4)

紙平醤油醸造所跡碑
 常与寺を出て、寺の前の道を少し北に行くと、こんどは道の西側に、未だ新しい「紙平醤油醸造所跡碑」の石碑が建っている。Photo_20260101063801
 ここにはかつて浅見平兵衛醤油醸造所があった。
 浅見の初代は江戸初期に、利根川東遷工事が完成した寛永年間(1630年代)に秩父からこの地に移住し、5代にわたって製紙業を営み「紙平」と呼ばれていた。以後、現在に至るまで「紙平」の屋号が使われている。
 初代は、鬼門に浅間神社、裏鬼門に出身地秩父東松山の箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)を建立した。当初は敷地内北側にあった紙平山という屋鋪墓地を流山寺に移して菩提寺とし、流山寺の天台宗から曹洞宗への改宗にも関わった。
 銚子からの縁で宝暦年間(1750年代)製紙業から醤油醸造業に転じた。
 すぐ傍にある江戸川の優れた水質の水資源を活用し、あわせて江戸への製品搬送、また原材料の移入にも好適な立地条件を積極的に利用したものであった。
6代目は、醬油醸造業の初代として浅見平兵衛の名を継承し、商標は亀甲益と亀甲鶴を使用した。天保年間には、当家に奉公に入った野田の茂木家に、亀甲標を暖簾分けしたのであった。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、この地には東西100m、南北100mの広大な醤油工場があり、江戸川の水運を使って江戸に醤油を出荷し、白みりんが開発される50年以前から麹菌による醸造の技術と文化が存在していた。
 全盛期には、浅間神社に富士塚を寄付し、成田不動尊の建立、流山郵便局・流山小学校の建設にも寄与した。
大正期を過ぎると、戦禍で醤油醸造も困難となり、さきの大戦後の農地解放・財閥解体で廃業となった。

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