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2026年2月

「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(2)

プロローグ(続)
 サルバドール・ダリのポスター作品「オーヴェルニュ、フランス国有鉄道」が展示されている。
Photo_20260228060101  サルバドール・ダリは、スペインのカタルーニアに1904年生まれ、マドリードの王立美術アカデミーに学んだ後、1927年バリに移った。シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンと出会い、パリの芸術界にシュルレアリスムの新進気鋭、代表的画家と注目を浴びるようになったが、1934年にブルトンと決裂した後はシュルレアリスムと距離を置くようになった。
 展示されているのはフランス国有鉄道の観光宣伝ポスターである。観光地オーヴェルニュがターゲットなので、この地の名物として火山がテーマとして描かれている。こうして観光地の目玉を確実に取り入れて宣伝の基本を守りつつも、一見関係が不明な蝶のイメージを組み込んでいる。蝶の大きさはさまざまに調整されて、デペイズマンの効果がいかんなく発揮されている。デペイズマンとは、「異なった環境に置くこと」を意味するフランス語で、日常から切り離した意外な組み合わせを行うことによって、受け手に強い衝撃を与えるシュルレアリスムの手法のひとつである。こうして観光ポスターにシュルレアリスムの手法を適用することで、見る人に強烈な違和感と注目をもたらすことにより、広告としての高い視覚効果を実現したのである。
 エルザ・スキャパレッリの服飾デザイン作品「イヴニング・ドレス サーカス・コレクション」(1938)が展示されている。Photo_20260228060102
 エルザ・スキャパレッリは、1890年イタリアに東洋語の学者の子として生まれた。裕福な家であったが、両親とはいささか心理的な距離をもったまま成長し、24歳のときイギリス・ロンドンに遊学したとき神学者と出会い、突然結婚した。夫についてニューヨークに出て一女をもうけたが、アメリカの自由な雰囲気になじんだエルザは、まもなく離婚した。
 育児のためにも稼ぐ必要があり、ファッション関係のバイヤーの仕事ををはじめ、パリに移った。そこで友人のためにつくった洋服が、有名デザイナーであったポール・ポワレの目にとまり、彼の支援を得てファッション・デザイナーとして活動をはじめた。
 エルザは、デザインに独創性を求めて、当時芸術界で注目を浴びるようになったシュルレアリスムに興味を持ち、独自に取り入れると、サルバドール・ダリやジャン・コクトーなどにも受け入れられ、コラボ作品も手掛けるようになった。
 そのころファッション界ではココ・シャネルなどの男性風・モノトーンの風潮があったが、エルザは敢えてウエストを強調してショッキング・ピンクを使うなど、フェミニンなデザインで対抗した。
 前例がないほどの華やかな形態と色彩のデザインは、第一次世界大戦後のアメリカ富裕層に受け入れられ、スター・デザイナーであったココ・シャネルを凌ぐほどになった。しかし、そんななか、ドイツでヒトラーがドイツ国防軍を掌握し、戦争へと向かう不安が蔓延するようになったころ、このイヴニング・ドレスを発表した。
 エルザのシンボルカラーであるショッキング・ピンクの生地に、サーカスから着想を得たモチーフが大胆に全面に配され、実に華やかなものとなっている。「サーカス・コレクション」はシリーズで発表され、ダリとのコラボレーションである「テア(裂く)ドレス」や「スケルトンドレス」も含まれていた。平和な現在に観ると、華やかではあっても敢えて取り上げるほどでないような気がするが、第二次世界大戦前の緊迫した時代のなかでは、注目を浴びたのかも知れない、と思う。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(1)

 特別展として興味があったシュルレアリスムにかんする展覧会を鑑賞した。
プロローグ
 この展覧会では、第1章のまえにプロローグというセッションがあり、ある意味代表的な「シュルレアリスム作品」10点が展示されている。
 冒頭にあるのがジョルジオ・デ・キリコ「福音書的な静物」(1916)である。この作品は、私もこれまでになんどか観たことかある。Photo_20260227060301
 1888年ギリシアにギリシア系イタリア人の両親のもとに生まれたジョルジオ・デ・キリコは、アテネの理工科学校に学んだ後、父の死によって18歳のとき家族とともにギリシアを離れイタリア フィレンツェに移住した。ミュンヘン美術アカデミーで絵画を学ぶとともに、ニーチェやショーペンハウエルの思想に触れた。
 24歳のころ「形而上絵画」を描き始め、パリに移住した。それから4年ほど後に描いたのが、この作品である。
 日常のなかでごくありふれた物でも、意外な場所あるいは意外な組み合わせで描くと、新しい意味を生ずることができる。あえて遠近法を無視して、二つの画中画と、積み上げられた木片や定規、そして緑色の窓のようなもの、などが平面的な描写で描かれている。画面全体が、なんとなく落ち着かない空間となっている。じっと見つめれば見つめるほど、観る側は疑問や混乱が増していく。そんな効果こそが、画家の狙いなのだろう。
 説明しがたい空間を描くキリコの芸術は、ダダやシュルレアリスムに大きな影響を与えたらしいが、キリコ自身は、結局シュルレアリスム運動に参加しなかったという。

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東京大学「気候と社会連携研究機構」編『気候変動と社会』東京大学出版会

IPCCの科学的予測には不確実性が残り、かつ彼らの事実認識には疑義がぬぐえない
 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告は「科学的で疑う余地がない」というヒトがいる。その一方で、そのIPCCのメンバーでもある杉山大志は著書『データが語る気候変動問題のホントとウソ』においてIPCCの主張に多くの間違いがある、という。アメリカ民主党オバマ政権の科学分野のブレーンであった科学者スティーブン E. クーニンも著書『気候変動の真実』において、IPCCの主張は科学的というより多分に政治的で公平でない、と懐疑的である。この方面に特段の専門的知識がない私としては、それぞれの主張を虚心坦懐に読んでみて、できるだけ納得のいく理解を得たいと思い、このたびは、IPCCの立場を代弁すると思われる東京大学「気候と社会連携研究機構」の著書を読んだのであった。Photo_20260226055601
①IPCCの論拠は科学的に正しいか
②IPCCが把握しているファクトは正しいか
③IPCCが主張する気候変動の事実と将来予測は正しいか
が主要なポイントである。
(1)IPCCの論拠は科学的に正しいか
 これについては、主に第3章で述べられている。
 温室効果ガス、そのなかでももっとも主要な二酸化炭素による気候温暖化は、多数の研究者の成果に基づくシミュレーションによって予測されている。気候温暖化のような「気候変化」は長期的な気候の変化、とくに重要とされる地球全体の表面の気温(全球平均気温)の変化を対象とするものであり、日々の短期的天気予報とは、考え方も基本的なアプローチも大きく異なる。二酸化炭素を放出して自然のバランスを崩すのは人間の生産活動であるから、人間がどの程度二酸化炭素を排出すれば、それがどの程度の全球平均気温の上昇をもたらすかを、科学的に精緻なシミュレーションで求めよう、というものである。
 このシミュレーションは、環境の変化とそれに対する人間のアクションとでもたらされる結果を求めようとする。環境に対しては物理科学的なモデルを設定して「環境システム」を客観的に設定できるが、人間のアクション、すなわち社会経済的な変化、環境関連技術の進歩などは客観的に定義できないので、いくつかのシナリオを設定してそれらのシナリオごとに試算することになる。
 さらに、「環境システム」たる自然はとても多様で複雑で、気候に関わっている自然現象がすべて把握できているわけではないので、我々の知り得ない自然の「内在的」な変動要因があり、これも当然シミュレーションの結果に不確定要素として入ってくる。
 シミュレーションの有効性の評価のために、過去の事実をシミュレーションで再現することを行うが、上記の不確実性が免れないため、シミュレーションは直接ひとつの確定した結果をもたらすことはできなくて、直ちに過去の結果とは一致しない。しかし、あり得る範囲のできるだけ多くのケースを想定して複数のシミュレーションを行い、それらのなかから過去の事実に合う結果が得られれば、そのシミュレーションがある程度事実を把握したと考えることができる。
 すなわち、確定的な結果を直接導くようなシミュレーションは存在せず、確率的・統計的に妥当な解を求めることができる、というのが現在の「科学的シミュレーション」なのである。
 シミュレーションそのものは科学的に行われるが、シミュレーションによる結果が、決定論的でなく確率的な蓋然性である、という点は重要である。気候変動が起こらない、と断定することが間違いである一方、スウェーデンの元少女、あるいは多くのメデイアが叫ぶように、断定的・確信的に気候変動を理解するのもまた間違いなのである。
 2021年ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏の気候変化のシミュレーションは、1967年1次元モデルで、さらに1975年3次元大気海洋結合モデルで、二酸化炭素濃度を2倍に増すと、地表で2.3~3℃の温度上昇が発生するとの結果を得た。1967年1次元モデルで、地球大気の気温の鉛直分布が、二酸化炭素濃度の違いでどう変わるかを、大気放射の物理に即して計算した。計算のモデルには、プランク応答と水蒸気のフィードバックのみしか含まれず、あくまで限られた条件下の計算ではあるが、IPCCの最近の計算結果3℃、また産業革命から現在までの温度上昇実測値1.2℃に近い2.36℃の地表での気温上昇を算出した。この結果を今から半世紀も前に得ていたのは凄いことである。とりわけ二酸化炭素濃度が2倍になったとき、高度15キロの対流圏界面では気温が上にずれ=温暖化、より高い成層圏では下にずれる=寒冷化という応答を示した。この変化は、ずっと後になって観測データで確かめられた。複雑な気象問題を、鋭い洞察で思い切った簡略化により、未だ知られていなかった大気圏の気温の垂直分布をあきらかにしたのは画期的であった。真鍋淑郎氏は、現在のIPCCのシミュレーション、とくに気候変化の物理的モデルの原型を提示したので、その貢献は大きい。それでも、シミュレーションの全体には既述のような不確実性、結果の確率統計的性格は残っている。
(2)IPCCが把握しているファクト=気象観測事実は正しいか
 これについては主に第4章で述べられている。
 この本では、気候変化による多くの懸念事項・問題予測が示され、その一部、むしろ多くは「すでに明らかになった」として書かれている。
 このファクトにかんする記述では、引用文献を見よ、ということらしいが、紙面のなかで具体的なデータの提示はほとんどない。この部分こそ杉山大志やクーニンが疑問視する、あるいは批判するところである。
 唯一、当たり前ながら産業革命から現在までの全球平均気温上昇が1.2℃であることはこの本も杉山大志もクーニンも同じである。気温上昇が皆無とする論者はいない。問題は将来的にどの程度の温度上昇と考えるのか、そして気温上昇に伴うさまざまな弊害をどう考えるか、である。
 平均気温の大きな上昇は、すでに世界的に認められているとこの本では言うが、杉山大志は都市部での気温上昇は二酸化炭素よりもヒートアイランド効果が2.8~3.2℃あることが主要因だという。
 気温上昇による災害の激甚化もすでに世界的に認められている、とこの本では文章で述べられるが、杉山大志は公表データを数値で引用しながらその事実はない、とする。クーニンも同様である。
 自然災害による損害についても、この本では経済被害も増加しているとデータなく文章で言うが、杉山大志は実績データを引用して、経済的被害の増加は物理的災害レベルそのものの激甚化ではなく、人間行動の経済成長が要因であり、当然のことである。一方で経済成長によって防災・救済能力が改善されるので、GDPで規格化するならば経済損失は減少しているという。
 この本でも、大雨の増加や旱魃の増加などに定性的に言及しながら、一部にはその確信度を「可能性が高い」「確信度が低い」などと併記しているのは、シミュレーションによる予測が本質的に不確定要素を免れず、確率統計的なものとならざるを得ないことから、断定的ではなく蓋然性として示そうとする意思が顕れている。それは、部分的ながらこの本の善意の表明なのかも知れない。
 いずれにしても、この本の最大の弱点は、このファクトの説明であり、主張をもっと説得性のあるものとするためには、少なくともここを数値データの引用を含む具体的なものとして欲しい。
 また、この本では太陽光発電に対して、すでに十分コスト低減が達成され、普及も進んでいると数値データなく述べているが、これについても杉山大志の指摘のように現実から乖離している。現在発電コストが低いように見えるのは、発電能力が時間的に大きく変動して実用のためには他の発電と丁寧に組み合わせて平準化する必要があるが、不当なまでに高い価格で買い取らされ、発電の時間的平準化を他の発電機(多くは火力発電)と組み合わせて送電する既存の電力会社のお陰なのである。結局その追加コストは、電力の使用者たる我々国民が電力料金の値上げとして支払っているのだ。また、二酸化炭素削減効果も、発電電力平準化のための火力発電の二酸化炭素増加分をきちんと相殺すべきである。
 さらに、太陽光発電パネルの老朽化時の廃棄も大問題である。体積・重量が大きくガラス、半導体、レアアースなど多様な材料が複合された太陽光パネルは、廃棄技術もその過程の費用も馬鹿にならない水準となるであろう。そういう範囲まで含めると、太陽光発電は実はとてもコストが高く、それは杉山大志の指摘の通りである。災害時にも光さえあれば発電が止まらないので、新たな感電被害の危険もある。製造はコストの事情から大部分が中国製であるが、杉山大志の指摘のように、人権問題を含むチベット地方の被抑圧貧民の安価な労働力を用い、かつ製造プラントごとに新設される石炭火力発電所による製造用エネルギーを必要とする、それだけでも問題の多い代物なのだ。そのうえ、太陽光発電のためにギガソーラーなど大規模太陽光パネルを設置するとき、たいてい広い面積の伐採・森林破壊が伴っている。これは二酸化炭素濃度増加に寄与するはずである。
 環境保全のために二酸化炭素削減を目指すとするIPCCの、甚大な片手落ちの一部だと、杉山大志は指摘する。
 私はほとんど情報を持たないが、時間的に変動する発電、大型の廃棄物の増加、広い面積にわたる二次弊害の増加などの問題は、この本(すなわちIPCC)が今後もっとも期待を寄せるもうひとつの再生可能エネルギーたる風力発電も、おそらく同様だろう。
 気候変動の表現も、たとえば二酸化炭素の海水吸収による「海水の酸性化」という表現は、「科学的」というには誇張が過ぎると思う。産業革命時代から現在までにPHが8.2から8.1に変化したというが、それはアルカリ性の範囲であり「酸性化」は誇張表現のように思えるのは私だけだろうか。
 これらの傾向をみると、クーニンが言うように、IPCCも科学者集団との触れ込みながら本性は政治的集団だから、そういう目でみないといけないのかも知れないとも思う。
(3)IPCCが主張する気候変動の事実と将来予測は正しいか
 クーニンも杉山大志も、温暖化が一切ないとはしていない。ただ、クーニンも杉山大志も、せいぜい3℃程度のゆっくりした気候変化なら、人類もその他生物もほとんど問題なく順応するであろう、と言う。それは私もそのように推測する。
 この本でも、将来の「激甚な気候変動」は世界の静穏な生活を破壊するかのごとく説いていて、しかもその責任を負わない先進国は倫理的に不正義だとするが、そこまで問題を展開するなら、その根拠たる「気候温暖化の根拠と予測」が、現状のようなせいぜい確率統計的な蓋然性だけでは、あまりに頼りない。二酸化炭素放出量をわずかに削減するためだけで、たとえば日本は今後10年間に150兆円を投入するという。私はそれだけの巨額投資に見合う意義のあるものだと確信できないのである。
 私は、気候変化の問題に取り組んでいる研究者の真摯な努力と学問的な進展には敬意を惜しまないが、不確実性が本来的に在り、その決定論的ではない蓋然性の結果から「もしかしたらこうなるかも知れない」という問題に、理不尽なまでの巨額の費消を我々が負わされることには到底納得しかねる、というのが結論である。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(6)

3.アルル時代 (1888年)
Photo_20260225060001  1888年2月、ゴッホはパリのテオのもとを離れて、南仏プロヴァンス地方のアルルに移った。都会での生活に疲弊を感じ、心機一転をはかる意図もあったようだ。
 やがて春の訪れとともに、彼はこの地の澄み切った大気と鮮やかな色彩に魅了される。その美しさを、浮世絵版画を通じて理想郷として憧れる「日本」そのものだと感じると、ゴッホはアルルの自然を鮮烈な色彩対比で表現することに夢中で取り組みはじめた。その中で、アルル時代の代表作のひとつである「夜のカフェテラス」(1888年9月)を描きあげることになった。
 ゴッホは、この作品の制作のとき、はじめて夜の光の魅力、そして夜空の星の輝きに感動したという。
 この絵は、ゴッホの作品の中でも少し趣が違っていて、そこはかとなく暖かく、優しく、親しみやすい印象がある。そのように感じるのは私だけではないらしく、展覧会の美術館の売店でも、カレンダー絵葉書がとりわけ売れ行きが良いという。

 私はゴッホの作品は好きで、これまでに何回も個展を鑑賞したと思う。それでも今回は、ゴッホの最初期のころの作品も観ることができたことで、新たな発見や感動があった。私にとって、とても良い展覧会であった。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(5)

18874 2.パリ時代のゴッホ (1886年~1887年)
 そして、私もこれまでなんども見てきた作品たる「自画像」(1887年前半)が登場した。
 それまでの、とくにデッサンにおいて、あれほど繊細に駆使されていた細い線が消え去り、代わって多様で微妙な色彩の比較的太い線が、細やかな筆致で、精密に畳みかけるように描きこまれている。私たちがこれまでに自分のなかで形成していた「ゴッホらしい」絵となってきた。
 この画期的な変化を示した作品の制作の後に描いたとされる「石膏像のある静物」(1887年後半)が展示されている。
Photo_20260224060701  この絵を観て、最初の印象は、普通の静物画とすこし違って「なぜ彫刻、布、本、花と、一見なんの関係もないようなものがならべられているのだろう」という素朴な疑問である。同じような疑問をもった人は私のみではないらしく、以下のような理解があった。画面左下の花はバラであり、愛の象徴である。これは右上の愛の女神ヴィーナスのトルソにつながる。画面中央にある二冊の本は、ゴンクール兄弟『ジェルミニー・ラセルトゥウ』とモーパッサン『ベラミ』であり、複雑で屈折しつつも純真な愛の小説である。すなわち、画面に登場するそれぞれのモノは、愛のテーマに対する自然と人間の芸術の対比ととれる。ゴッホは、妹ヴィレミーナにこの2冊の本についてのコメントを手紙にして送っていたという。描画技術としては、ヴィーナスの丸みを緑と黄の湾曲線の繰り返しで表現し、本や下に敷かれた布の影は濃い緑と薄い茶色の直線の繰り返しで光を意識した表現としている。右上の濃い青は、画面に奥行きを与え、丁寧な影の描写とともに、画面の立体的表現に寄与している。
 たしかに、そのように考えると、この絵もとても考え抜かれ、緻密に設計された作品だと納得した。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(4)

2.パリ時代のゴッホ (1886年~1887年)
Photo_20260223060301  父が1885年に亡くなると、ゴッホはベルギーのアントウェルペンを経て、1886年2月パリに住む弟テオをたずねてパリに移った。
 ゴッホは、パリでも当初は風景画や、静物画、そして自画像で配色や筆致の試行を続けた。やがて、印象派や新印象派など、パリの前衛的な表現から触発されて、明るい色彩と闊達な筆致を駆使するようになっていった。
 「モンマルトルの丘」(1886年)が展示されている。
Photo_20260223060401  これまでゴッホは、風景画というべきものは描いていなかった。宗教的概念や労働者の背景としては描くこともあったが、風景そのものをテーマとすることはなかった。それが、この作品を制作したころから風景そのものが主人公となった。これは印象派などの影響があったのだろう。
 静物画においても、新しい動きがあった。「青い花瓶の花」(1887年)では、これまでの静物画においては、形状の描写が主体であったのが、色彩と光主体に変わっていった。むしろ細かな形態よりも、描写の軸を色彩に委ねる方向になってきた。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(3)

 こうして、当初は直接的な写実描写に専念していたかに見えたゴッホの絵が、まずは形の描写に変化が見られるようになった。Photo_20260221060301
 そしてこの時期の彼のテーマ作ともいうべき「ジャガイモを食べるひとびと」(1885年)のリトグラフ版の習作が展示されている。
 ゴッホは、とくに登場人物の手に注目する。「彼らは、この手で食べ物を栽培して造り、それをこの手で食べるのだ。」と書き残している。たしかに、描かれた労働者たちの手は、普通のバランスからみていささか大き過ぎ、また逞しい。節くれだってゴツゴツしている。顔の描写も、繊細さを敢えて抑えて、眼も鼻も口も大きく描かれ、貧しいけれども生活を戦っているのだ、という表情である。
 この作品は、当時のゴッホがみずから集大成として制作したもので、かなりの自信と手ごたえを感じていた。ところが、弟テオも含めて、周辺の人たちからの評価は得られなかった。ゴッホ自身も、かなり消沈したそうである。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(2)

 1_20260220060501 「森のはずれ」(1883年)、「ハーグの景観(パッデムース地区)」(1822年)などでは、とくに繊細な線描が目立っている。
父のかつての滞在地でもあったニューネンでの「ニューネンの古い塔」(1884年)は、時間の経過と地域の景観の変化、あわせてそれでも不変の風土と人情を考えながら描いたとのゴッホの言葉が残っている。1_20260220060502
 ゴッホは、労働者こそが人間の典型であり模範であるとリスペクトし、ものづくりに励む人びとの姿を真剣かつ丹念に描写した。あわせて、労働者が操る機械をも、労働者と同じレベルの存在として丁寧に取りあげた。動力による機械でなく、手で操って動かす木製の道具の延長のような器械だから、親近感をもてたのかも知れない。
 「機械と職工」(1884年)は、同じタイトルでシリーズ作品がある。
1_20260220060601  ゴッホは、農民たち労働者が、どのように作業を実行しているのか、その姿勢や動きについて真剣に細かく観察し、描写している。作物を植えたり、土を耕したり、掘ったりする労働者たちを観て、ほんとうに植える、耕す、掘るなどの作業を描写することの難しさを文章に残している。一見した姿勢をそのまま描いただけではその作業を活き活きと描写することはできない。そのためゴッホは、不自然にも見えるほどのデフォルメを試みはじめた。Photo_20260220060601
「じゃがいもを植える農民」(1884年)がある。
 労働者たち庶民の顔の表情の表現でも、いかにしたら真実を表現できるか、苦悩の末に、やはり変形や誇張を取り入れた。「白い帽子をかぶった女の頭部」(1884年)がある。皮膚の表現も、敢えて暗い色彩と陰影とデフォルメが見られる。

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「大ゴッホ展」神戸市立博物館(1)

 神戸市立博物館は、「大ゴッホ展」というタイトルで、クレラー=ミュラー美術館が所蔵するコレクションから2回に分けて特集展をする。この2025年12月の第1期では、オランダ時代からアルルに至る画業前半を紹介し、ゴッホの初期の活動から前半の誰もが知るファン・ゴッホになるまでを辿り、そして2027年に開催する第2期では、アルルから晩年までの画業後半に迫る、という。
 したがつて初期今回は、オランダ時代からフランス・パリで色彩に目覚め、さらなる光を求めてアルルに向かい、「夜のカフェテラス」を描くに至るまでを、彼が影響を受けたと思われる他の画家の作品を含めて紹介している。

1.オランダ時代のゴッホ (1881~1885年)
1_20260219054401  フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(1853~1890)は、1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の長男として生まれた。幼少期からさまざまな文学や芸術に触れて成長したが、牧師の父の影響のもと信仰は深かった。
 16歳のころから伯父のつてで、画商グーピル商会に勤務し、オランダのハーグのみならずロンドン、パリでも働いた。4年ほど後には、弟のテオも同じ会社に入り画商として働き始めた。
 23歳のころ、ゴッホは画商としての成績不振で解雇され、イギリスで教員をしたり、オランダ・ドルトレヒトで書店に勤務したりした後、父を継いで聖職者になることを考えるようになった。短期で癇癪持ちの性格が影響したとも言われている。神学の勉強も見習い伝道師もうまくゆかず、1880年27歳のとき、弟テオの勧めもあって、画家を志すようになった。Photo_20260219054501
 それ以後、テオの経済的支援を受けながら、オランダ内のエッテン、ハーグ、ニューネンを移り住み、さらにベルギーのアントウェルペンに移ることになる。
 1881年以降に本格的に画家を目指すようになると、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスなど当時ハーグで活躍していた画家たちから刺激を受ける一方で、農村生活を主題としたバルビゾン派の巨匠ジャン=フランソワ・ミレーの作品に強い憧れを抱くようになった。
 当時の社会問題に深く関心を寄せたファン・ゴッホは、街の景観や労働に勤しむ人々などを主題に素描を繰り返すことで、画家としての技量を自ら培っていった。
Photo_20260219054502  このころの作品として「庭の片隅」(1881年6月)、「大工の仕事場と洗濯場」(1882年5月)、「麦わら帽子のある静物」(1881年11-12月)などがある。
 このころのゴッホの絵は、丁寧な写実を目指していること、さらに色彩よりも線の繊細な描写に注力していること、細かい線描に注力していることがわかる。

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岩倉具視幽棲旧宅 京都洛北歴史散策(2)

 安政7年(1860)和宮降嫁については、幕府の権威と権力が低下してきたため、幕府が天皇の威光によって権威回復を狙うものであることを見透かし、公武一和を実現し、決定は朝廷・実施は幕府の 両立体制を主張した。岩倉は、朝廷のために将軍家茂に「廃帝を望まない」との誓紙まで出させた。将軍が誓紙を出すということ自体が、前代未聞であった。
 しかし和宮降嫁は、結果として朝廷も尊王攘夷をいっそう高まらせ、薩摩に近い、よって幕府に近いと見られた岩倉は、公家の実力者たちから排斥されてしまった。三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通等を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾した。岩倉は蟄居・辞官を余儀なくされ朝廷を去った。
 こうして岩倉は短期間を寺などで過ごした後、5年間近くをこの岩倉村の居宅で過ごした。Photo_20260218060601
 やがて慶応3年(1867)10月将軍 慶喜から「大政奉還」がなされ、このままでは幼少の天皇に対して狡猾な慶喜が実権を維持してしまう可能性を考え、とうとう岩倉は表舞台に復帰して慶応3年末(新暦では慶応4年初)の「小御所会議」を主導して「王政復古」の大号令を発し、明治維新の中心人物のひとりとして政権中央に躍り出ることとなった。
 蟄居のはじめころは、この住処も半分程度の広さであったのを、薩摩を中心に多くの武士たちと直に会って接待するために増築を繰り返して現在に残る広さになった。
 蟄居中にも、元治元年(1864)の禁門の変、慶応元年(1865)から2年間にわたる長州戦争などの大事件が起こり、いつも岩倉はこの住処で薩摩をはじめとする多くの要人と情報交換を続け、熟考を重ねていた。この5年間は、岩倉具視の以後の飛躍のための、大切な充電期間であった。
 この家の片隅に、岩倉具視の遺髪を埋葬した遺髪碑がある。

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岩倉具視幽棲旧宅 京都洛北歴史散策(1)

Photo_20260217060701 叡山電鉄岩倉駅から北へ、実相院の南東近くに岩倉具視幽棲旧宅はある。
 ここは、明治維新の重要人物たる岩倉具視が、文久2年(1862)の10月から慶応2年(1867)11月まで5年間を過ごした場所であった。
 岩倉具視は天保8年(1825)権中納言堀河康親(ほりかわ やすちか)の次男として京都で生まれた。西郷隆盛より3年、伊藤博文より16年ほど年長である。次男なので家督は継げず、父より少し下位の羽林家の公家 岩倉家の養子に入った。分家で官位は高くならず、家に伝わる家職もなく、岩倉家は裕福ではなかった。幼少期から風貌も態度も公家らしさがなく、しかし鋭敏であった。関白 鷹司政通へ歌道入門したことで公家へ建言する機会を得たことが、彼の才能を発揮することにつながった。Photo_20260217060601
 安政の大獄の前から、岩倉は天皇家のためにも公武合体が望ましいと考え、また薩摩との人脈が強く、公家たちから幕府贔屓とみられていた。しかし安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許をもとめて老中 堀田正睦(ほったまさよし)が上京してきたときには、岩倉は勅許反対の立場で発言し、そのとおりとなった。
 その後大老井伊直弼は条約締結を強行し、条約に反対する攘夷派や一橋派を弾圧し、安政大獄を招いた。岩倉は、朝廷と幕府の対立が強まることが国家の危機であると考え、孝明天皇にもその旨上申し、ある程度幕府寄りの態度も示した。

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青龍殿と将軍塚 京都洛北歴史散策(2)

青龍殿大舞台
Photo_20260216060101  青龍殿には、華頂山(かちょうざん)の山頂から市内を一望できる「大舞台」が新設された。延べ面積1046㎡と、清水寺の舞台の4.6倍の広さを誇る。この広い舞台が、全面的に木造の床である。
眼下には、京都市内と周囲の山々が一望できる。

将軍塚
 青龍殿のすぐ近くに、将軍塚がある。
Photo_20260216060201  桓武天皇が794年平安京を造営されたとき、王城鎮護のために、高さ八尺(2.5m)の像に甲冑を着せて弓矢と太刀を持たせ、京都御所の方を向けて埋めた塚を造ることを命じた。平安末期以後、天下に異変が起こるときは必ずこの塚が鳴動して前兆を伝えるという伝説が生まれ、『源平盛衰記』よれば、源頼朝挙兵の前年、治承3年(1179)7月には、三度にわたってこの塚が鳴動し、ついでまもなく大地震が起こったと伝える。
 『鳥獣戯画』で高名な鳥羽僧正が描いた『将軍塚縁起絵巻』に、この像を埋める様子が描かれている。

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青龍殿と将軍塚 京都洛北歴史散策(1)

 京都在住の友人と一緒に、京都東山に新しく建立された大護摩堂たる青龍殿を訪れた。東山の名跡青蓮院の別院で、青蓮院の南東、華頂山(かちょうざん)の山頂にあるため、蹴上を迂回して南にいったん下って山道を登ることが必要であり、アクセスは簡単ではない。

青龍殿
Photo_20260214060401  青龍殿は、大正2年(1913)大正天皇の即位を記念して「大日本武徳会京都支部武徳殿」として、京都北野天満宮前に建立された柔道・剣道の道場であった。和風の大型木造建築でありながら、基礎を欧米の建築技法で組み込んだ大正期の貴重な建物であった。戦後昭和22年(1947)京都府に移管され、「平安道場」として警察の柔道・剣道の道場となり、一般にも開放され、多くの青少年たちも修行に励んでいた。
 しかし平成10年(1998)老朽化が進み、修理・維持費が嵩むようになったため、解体処分の決断を迫られた。それに対し青蓮院が歴史的文化遺産として継承することを決意し、平成26年(2014)東山山頂に「青龍殿」として移築再建されたのがこの建物である。
 なかに入ると、大きな道場となっている。
本尊として、付近の山中から発見された花頂院の遺物とされる大日如来像が安置されている。そしてこの奥殿には国宝「青不動明王二童子像」が安置されている。期間限定で一般公開もされるそうである。

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2026年度衆議院選挙への雑感

 1月下旬、高市早苗首相は衆議院解散を宣言した。急遽真冬の2週間で衆議院議員が選挙戦で改選された。果たして結果は、戦後選挙史上初めての自民党単独絶対多数となった。
 私は、来年度予算も決まっていない、まだ成果と主張できるような政策もほとんど達成していない時期での衆議院解散は、望ましくないと思っている。解散の「大義」も、高市首相の信任、与党連立組み直しの信任ということだが、十分な納得性はないと思う。
 ただ、高市首相にしてみれば、石破前首相がわずか1年間で徹底的に破壊した自民党の議員勢力を、たとえわずかでも少しでも早く改善したいと考えたのは理解できる。
 野党のみならずメディアの多くも、突然の早期解散に大義がない、不当な解散だと主張していた。それは一理あるとしても、その同じ人々が、1年前の当時首相の石破が、高市氏よりもっと早急に、首相就任わずか8日後に、国会論議を一切待たずに解散したことを同様には非難しなかったことを指摘したい。石破は大敗したお陰で「自民党を毀してくれるヒト」として、アンチ自民党の野党とメディアから非難されずに重宝され厚く愛され擁護された。
 それに対して高市首相の衆議院解散戦術は、政治を外野から観ている我々一般人からみると歓迎しがたい面があるものの、政治を担うリーダーとしては、結果を出すという観点からは、優れた資質を示したのかも知れない。
 今回の自民党圧勝は、誰がみても自民党の勝利というより、野党の主力たる旧立憲民主党の惨憺たる自滅であった。与党側の具体的な政策の主張が少ないと批判するメデイアは、野党側の政策提言の過少も指摘すべきであった。高市首相の、積極財政による経済強靭化ほどにも、野党側の政策提言は無かった。野党側は、メディアがつくった安易・便利なレッテル貼り「ウラガネ議員」「ウラガネ問題」を好んで使用し、懸命に与党を攻撃したが、自らの前向きな政策、優れた政策を披露することはなかった。それのみならず旧立憲民主党は公明党との合併のために、国民にとって大切な国家安全保障、生活インフラなどに深くかかわる防衛問題、憲法問題、エネルギー問題について、あわてて「補正」「曖昧化」した。それは旧立憲民主党支持者たち、あるいは無党派であっても多少とも旧立憲民主党にシンパシーを持つ多くの人びとを深く惑わせてしまっただろう。
 高市首相は、想定以上の成果を手に入れたが、本人も言う通り、ただ選挙に勝っただけである。石破がこれまで懸命に毀損してきたもののうち、2つの議院の1つ衆議院の議員数という一部のみ修復しただけである。まだまだ問題は山積して残っている。
 正常で安定し、国民が安心できる民主主義社会のためには「健全な対抗勢力=まともな野党」も必要である。石破が言う「連立していた公明党は、自民党の行きすぎを是正してくれた」などという甘えた仕組みを排して、国民が受け入れられない失政をすると、大きな問題なくとってかわられる健全な野党がある、という正常な緊張状態になることこそが望ましい。2009年秋から3年余り続いた民主党政権のとき、すでに党内の政策立案能力の不足・不安定性・無責任性を露呈していたが、今に至るまで立憲民主党に改革・改善の兆しは無かった。今回の選挙で、多数の旧立憲民主党(強いて言えば旧民主党)のベテラン議員たちが退いた。これを絶好のチャンスととらえて、若手の有力議員たちが新しいリーダーになって健全に成長して欲しい。
 私は、憲法改正、とくに自衛隊の存在と行動が違憲となるような現在の条文は大問題であり、早急に改正すべきだと思う。「憲法を変えないことが平和主義」とする公明党が、自ら去ってくれたのは幸運であったとさえ思っている。
 高市内閣には、問題山積でいばらの道であることを前提として、少しずつでも着実に前進してくれることを祈る。

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東京都心歴史散策 偉人コース(20)

電燈供給発祥の地
Photo_20260212060301  船員教育発祥の地から南に永代通りを渡り、南西に向かう道に入って進むと、明生通りに至るので右折して明生通りに入り、西北西に進むと、まもなく右手に「越前堀児童公園」がある。このあたり一帯は、江戸時代には福井藩下屋敷があり、橋本佐内がここでさまざまな活動をする拠点となっていた。公園内には、かつての広大な福井藩下屋敷の地図が描かれていて、屋敷跡の石垣なども残っている。
 「越前堀児童公園」を過ぎて、少し行くと新大橋通りと交わるので、新大橋通りに入り、茅場町交差点まで行く。ここで永代通りから斜めに北西に行く道を入ると、東京証券会館の裏手にフレサ・インという名のビジネスホテルがあり、その入口横の植込みに「電燈供給発祥の地」と記した銅板が嵌め込まれた石碑がある。
 東京電燈会社、すなわち日本で最初の電気事業者は、明治20年(1887) 茅場町のこの地にはじめて「電燈局」すなわち発電所を置き, エジソン式直流発電機で直流発電を行い、近隣の街灯など公共施設や企業などの電燈の利用者に電気を供給した。
東京電燈会社は、東京市内5ヵ所に火力発電所を設け 電灯線を引いて, 一般への白熱電灯の供給を行ったのであった。
なお, 横浜市での電力供給は, 東京に3年遅れて明治23年(1890) から始まった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(19)

船員教育発祥の地
Photo_20260211060601  豊川橋に向かって公園を南下すると、海に面する端あたりに江戸時代に木製の永代橋が架かっていた場所に至る。説明板もある。
 その右手の豊川橋を渡って、現在の鉄橋の永代橋のたもとに行くと、永代通りの南側、マンション前の歩道の植込みに、「船員教育発祥の地」の黒い大きな石碑がある。
 黒船の来航によって開国を余儀なくされた江戸幕府は、海軍講習所・軍艦操練所などを設置して日本人による軍艦の運航ができる体制を整えることが必要となった。さらに明治時代に入ると、国際的にみてわが国の商業海運も立ち後れが目立ち、経済振興のためにも船員教育の制度が必要となった。
 明治8年(1875)岩崎弥太郎は大久保利通内務卿の命により「三菱商船学校」をこの地に設立した。ここは当時隅田川の河口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、練習船成妙丸を係留して校舎とし、全員を船内に起居させて訓練が行われた。これがわが国近代的船員教育の嚆矢となった。
 これがのちの東京商船大学となり、平成15年(2003) に東京水産大学と合併して東京海洋大学となった。
 この碑は、商船大100周年を記念して、昭和50年(1975)建てられた。

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東京都心歴史散策 偉人コース(18)

日本銀行創業の地
 南下してきた道をそのまま真っすぐ進んでいくと、首都高速都心環状線に突き当たる。その手前で右折し首都高速都心環状線に沿って西に向かい、日本橋川の手前で左折して日本橋川に沿って南東に下る。日本橋川河口に架る豊海橋の北詰、IBM箱崎ビル横の園地に「日本銀行創業の地」と記された銅板が嵌め込まれた石碑がある。Photo_20260210061201
 石碑には、明治15年(1882)10月10日、日本銀行がこの地で創業したことを記している。
明治初年の永代橋(えいたいばし)は、文化5年(1808)に架橋された2代目の木橋で、現在の鉄橋より100mほど上流に架橋されていた。その永代橋の西詰にあった北海道開拓使物産売捌所を日本銀行として使っていたのである。
 建物は、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したレンガ造り・2階建ての洋館で、明治13年(1880)完成した。その北海道開拓使物産売捌所は、北海道産の物産の販売促進を目的に明治13年6月に設置された施設で、現在のIBM箱崎ビルの場所に建っていた。しかし翌明治14年6月には北海道開拓使東京出張所が閉鎖され、物産売捌所も機能を停止した。明治15年(1882)2月には北海道開拓使も廃使となり、まさに短命の施設であった。明治初期には、このような短期間で政府の方針が目まぐるしく変わることが諸方面であった。現在では考えられないようなことだが、維新の変革を手探りで急いでいた新政府にとって、懸命の行政だったのだろう。
 明治15年8月には日本銀行への貸渡しを決定し、10月10日、ここで業務を開始したのであった。
 旧北海道開拓使物産売捌所の建物は、明治29年(1896)4月本店を現在の日本橋本石町に移転の後も、引き続き日本銀行が使用していたが、大正12年(1923)9月の関東大震災で全焼し、現存していない。

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東京都心歴史散策 偉人コース(17)

西郷隆盛屋敷跡
 日本橋川沿い北側の道をそのまま進み、人形町通りの1本西に並行する道を南に入ると、日本橋小学校がある。さすがに都心の小学校らしく、立派なビルのファサードをもつ美しい学校である。この学校の入り口前に「西郷隆盛屋敷跡」の説明板がある。Photo_20260209060401
 西郷隆盛は、明治維新の後、郷里鹿児島にいたが、明治4年(1871)新政府の要請を受けて東京に来て参議に就任した。同年10月、不平等条約の改正を目的として、岩倉具視を特命全権大使とする遣欧使節団が派遣されることとなり、政府枢要の大久保利通、木戸孝允もが副使としてともに渡欧してしまった。西郷は残された新政府の筆頭参議として、大隈重信とともに留守政府首班 三条実美の補佐となり、学制、徴兵制度、地租改正など重要政策を実行した。
 明治元年(1868)李氏朝鮮が維新政府の国書ふけ取りを拒否したことにはじまる朝鮮問題が、明治6年(1873)朝鮮との国交問題として緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まった。西郷は派兵には反対し、命をかけて自ら朝鮮に渡って交渉すると主張した。このころいくつかの執拗な病弊に苦しんでいた西郷は、自分に相応しい死に場所をもとめていたとの観測もある。
 閣議でいったんは西郷の使節派遣が決まったが、海外視察から急遽帰国した大久保たちの猛烈な反対に逢い西郷の使節派遣は中止となった。
 この決定を受けて、西郷をはじめ板垣退助、後藤象二郎たちなどが参議を辞して下野するという事件が発生した。これを明治六年の変という。
 下野した西郷はこの地にあった屋敷を引き払い、鹿児島に帰郷した。鹿児島では士族子弟の教育のための私学校を創設し、自らは農耕と狩猟に生活を送っていたが、明治10年(1877)西南戦争を起こし、結果として自害にいたったのであった。
 西郷は、上京してきた明治4年から、鹿児島に引き揚げる明治6年までの2年間ほどをこの地に住んでいたと思われる。

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東京都心歴史散策 偉人コース(16)

富士銀行発祥の地
Photo_20260207055801  常盤橋を渡って首都高速都心環状線の下をくぐると、左手に日本銀行本店、向かいに貨幣博物館がみえる。この間の道を東にすすむと、右手が日本橋三越本館、左手が三井本館となり、日本橋の中央通りに出る。日本橋中央通りを南下して日本橋川手前で左折し、江戸橋も過ぎ、小舟町のみずほ銀行小船支店に着くと、その建物の前に「富士銀行発祥の地
」のプレートが嵌め込まれた石碑がある。
 安田財閥の創始者 安田善次郎は、元治元年(1864)江戸日本橋乗物町(現在の日本橋堀留町)に露天の乾物屋兼両替商として安田屋を開業した。その2年後の慶応2年(1866)日本橋小舟町のこの地に移り、安田商店と改称した。
 明治新政府ができると、まだ信用力がない新政府の不換紙幣や公債をいち早く引き受け、その流通に積極的に協力した。明治3年(1870)正金金札等価通用布告が出ると、これらを額面引き換えして巨万の利益を得た。
 そして明治13年(1880)本体の安田商店を安田銀行に改組した。資本金20万円、従業員31人、店舗数3(本店、栃木支店、宇都宮支店)で銀行としての歴史を開始したのであった。
 安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を蓄積した。当時の東京府東京市や大阪府大阪市もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位と「公金の安田」の名声を築いていった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(15)

常盤橋公園
Photo_20260206061801  大手町川端緑道を突っ切って東に進む。やがてJRの高架線に至るのでその下をくぐり、さらに東に行くと常盤橋がある。その手前左手の狭い緑地に「常盤橋公園」と刻まれた石の標識が置かれている。
 千代田区立常盤橋公園は、石造りアーチ橋の常磐橋、わずかに残る石垣、渋沢栄一の石像など、国指定史跡を含む公園である。都心部に位置する江戸の歴史的風致を残す近代公園として、ごく狭い公園ではあるが区民や周辺の企業で働く人々に親しまれてきた。

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東京都心歴史散策 偉人コース(14)

庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡Photo_20260205060701
 本郷通りを北にのぼり、神田橋で首都高速都心環状線の下を右に行き、大手町川端緑道に至る。その先の大手町ファイナンシャルシティ・ノースタワーのたもとに、ちいさな木柱に墨書きで書いた「庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡」の標柱がある。
 正徳5年(1715)庄内藩は幕府より江戸城大手門の近く神田橋一帯を賜り、ここに上屋敷を置いた。平成元年(1989)12月、致道博物館東京友の会によって、この「庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡」を記した標柱が建てられた。
 かつての藩邸は、このファイナンシャルシティのほぼ全域に及んでいた。

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東京都心歴史散策 偉人コース(13)

日本歯科大学発祥の地Photo_20260204054801
 内堀通りを南に行き、大手門交差点で左折しその次の交差点でまた左折して本郷通りを北に向かうと、その交差点角に「日本歯科大学発祥の地」の碑がある。
 明治40年(1907)中原市五郎はこの地に、わが国最初の「公立市立歯科医学校指定規則」に基づく歯科医学校として、私立共立歯科学校を創立した。そのころ日本の歯科医療は黎明期にあり「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。
 明治42年(1909)現在の千代田区富士見1丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て、昭和22年(1947)日本歯科大学に昇格した。
 さきの大戦の終戦時に存在していた旧制歯科医学専門学校のうち、終戦直後に廃校にならず大学に昇格した6つの歯科大学、いわゆる旧六のひとつである。東京歯科大学、日本大学歯学部と並んで歯学部御三家といわれる。

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東京都心歴史散策 偉人コース(12)

最初の街路樹碑
 内堀通りに戻り南に下る。まもなく大手門タワー・エネオスビルの前の道路の脇に「最初の街路樹碑」の石碑と説明板が立っている。Photo_20260203061401
 奈良時代の天平宝字3年(759)太政官符が発せられ、畿道七道に果樹並木が植栽されたという記録がある。日本の街路樹の歴史は遠く奈良時代まで遡るのである。
 東京で最初の並木は、明治7年(1874)銀座通りに、近代的街路樹としてクロマツ、桜が、そして内堀通りにニセアカシアが植栽された。とくに外来種が植えられた内堀通りは「市内最初の並木」として石碑が残されている。
 内堀通りの現在の街路樹は槐(えんじゅ)だが、最初に植えられたのはニセアカシアであった。
 明治6年(1873)佐倉藩出身の蘭学者 津田仙(つだせん、津田塾女子大学創設者 津田梅子の父)がウィーンで開かれた万国博覧会の際に、オランダ人農学者のダニエル・ホイブレイクの指導を受け、当時ヨーロッパで最新の並木用樹種とされていたシンジュ(にわうるし)とニセアカシアの種子を持ち帰り育成したものであった。これを八重洲河岸の濠端(現在の内堀通り)と小石川の江戸川端に植えた。
 このことで、現在の大手町1丁目を通る内堀通りが「東京で最初の街路樹」となったのであった。

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東京都心歴史散策 偉人コース(11)

将門塚
 内堀通りを南に少し行くとホテル・フォーシーズンズや読売新聞ビルに向かう道に至るので、そこを左折してすぐに「将門塚」がある。Photo_20260202054401
 私が興味を持って訪ねる史跡の大部分は、ささやかな石碑か墓が立ってるだけ、またはささやかなお社、場合によっては教育委員会などが建てた看板・説明板のみ、などが多いのだが、この「将門塚」は、都心の、それもど真ん中の超一等地に、広い面積を確保して堂々たる石碑が鎮座しているのだ。
 私は主に近世以降に興味があり、平将門のような古い時代には疎いし興味もさほどないのだが、この立派過ぎる史跡は、さすがに見落とせない。
 承平5年(935)常陸国で勃発した平将門の乱、史学では承平天慶の乱と呼ばれる事件で、平将門は自らを新しい天皇を意味する「新皇」と称し始めたという。そのため、朝廷に反逆したとみなされた将門は平貞盛の軍と交戦し、下総の地で討死した。そしてその首は藤原秀郷により平安京の七条河原で晒された。
 その平将門の晒し首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやった。さらにその後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説がある。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのだという。
 その後13世紀にもなると首塚は荒廃してしまったので、平将門の亡霊は怒り、江戸の民を祟ったと言い伝えられてきた。祟りを恐れた江戸の民は、また改めて手厚く平将門を供養することにしたという。なお、塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されている。
 ちなみに「将門塚」があるこの地は、江戸時代の大名酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であった。その中庭は、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」の、原田甲斐の刃傷事件の舞台となっている。

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