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2026年3月

小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(8)

5.挿絵の真骨頂─粋と艶の美学
Photo_20260331055401  昭和に入り大震災の余波も落ち着くと、小説に加えて講談などが繁盛する時代となった。このころから雪岱は、新しい親密な仕事のパートナーとして邦枝完二(くにえだ かんじ)と出会い、新聞連載小説で多数の挿絵を発表するようになった。
 すでに挿絵の勘どころを十分習熟した雪岱は、新聞の印刷の特性を最大限生かした、黒べた塗りと余白としての白色のコントラストを活用した迫力ある挿絵を完成させていた。
Photo_20260331055402  邦枝完二『繪入草子おせん』挿絵原画 昭和9年(1934)、邦枝完二『お傳地獄(お傳と浪之助)』昭和10年(1935)などが展示されている。
 いずれも、雪岱の粋と艶の美学が見事で、円熟が感じられる。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(7)

4.「九九九会」の集いから
Photo_20260330055001  「九九九会」というのは、関東大震災後の復興を祝い、会員一同で集まる会であった。泉鏡花を慕うメンバーが中心となって、毎月1回、会食したり一緒になにかを鑑賞したりするサロンであった。会費は、十円を出すと一銭おつりを出すというところから、九円九十九銭というユニークな設定で、その由来には幹事の巧みな策略が隠されていた。会費の支払いは、一銭銅貨を一人ずつ用意するというルールがあり、その光景は、まるで戦国時代の軍師の計略を思わせたという。
 会員たちは、持ち寄りの料理や酒を楽しみながら、個性的な楽しい会話に花を咲かせた。ときには想定外のトラブルに見舞われることもあったようだが、その度に創意工夫を凝らして乗り切り、会を盛り上げていった。これはようやく震災復興の気配が出てきた昭和3年(1928)からはじまり、この会の最重要メンバーたる泉鏡花が亡くなる昭和14年(1939)まで、のべ136回の会合が毎月欠かさず催された。このすべてに、雪岱は参加していたのであった。
 泉鏡花の書き下ろし新刊『斧琴』に対して、雪岱は相変わらず装幀を担当していた(昭和9年1934)。
 端麗な色紙を4重に重ねたデザインとし、アクセントに金をちりばめた豪華絢爛な装幀である。
 九九九会の会員たちの著書の装幀も、雪岱は一手に引き受けており、鏡花人脈を通してもひろがっていた雪岱の装幀世界は、隆盛を迎えていた。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(6)

3.挑戦と摸索の時代─1926~1931
Photo_20260327060701  装幀、挿絵、そして意匠(デザイン)と、抽象的な文章から形ある絵を考えるという雪岱の優れた能力は、それらのいずれの活動においても高い評価を得て、拡大していった。
 昭和期に入ってからの新聞連載小説の挿絵として里見弴『闇に開く窓』昭和4年(1929)が展示されている。このころには、新聞印刷の特性を巧みに活用した描画に習熟して、ますます脂ののった活動が見られた。
 J-pg そして雪岱の場面(シーン)の構想力に着目した舞台芸術から、舞台装置の設計の発注までが来るようになった。昭和3年(1928)ころから継続的に多くの舞台設計を行い、舞台装置の原図を描く仕事が増えていった。
 中里介山『大菩薩峠』舞台装置原画 四幕の一 嶋原口 昭和5年(1930)が展示されている。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(5)

2.意匠家としての雪岱
Photo_20260326054001  雪岱が本格的に挿絵を描くようになったのは、やはり泉鏡花を慕う里見弴から新聞連載小説の挿絵を委託されたのがはじまりであった。里見弴は、雪岱に日本的な洋風画ともいうべき難しい注文をつけた。
 雪岱は、新聞印刷の特性を考えて、洋風の絵をざらついたタッチの平面で表現しようとした。ただこれは当時読者から良い評価は得られなかった。
 それでも装幀も挿絵も、文章からヒントを得てイメージを発想するという営為であり、これは意匠、すなわちデザインに関わる能力であった。周囲も雪岱の意匠家としての高い能力に気づき、期待するようになった。
 江戸時代の読み本の流れを汲みつつも、新しいイメージでかつ日本風の挿絵を求めていた久保田万太郎から受けた久保田万太郎『下町情話』の挿絵(大正4年1915)が展示されている。
 雪岱は、これらの小説本にかかわらず、たとえば子供向けの雑誌『オヒサマ』(大正11年1922発刊)の装幀、さらには資生堂の海外輸出用香水「オードバルファム」の瓶のデザインなども手掛けた。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(5)

1.装幀のはじまりと開花
 泉鏡花『愛染集』、大正5年(1916)が展示されている。Photo_20260325054701
 明暗の諧調を活かしたモノクロームの美しさとわずか1色の紺を、平面で巧みに構成して、当時の未熟な印刷技術にも巧妙に適合する挿絵となっている。
 雪岱より14歳年長の泉鏡花は、まさに雪岱の画業の指導者であり、恩師であった。泉鏡花と小村雪岱とのコンビは、泉鏡花が亡くなるまで続いた。泉鏡花は、雪岱に依頼するときは敢えて注文を付けずに、「雪岱の自由な発想に委ねるほうが良い絵を書いてくれる、自分もその優れた雪岱の絵に刺激を受けて、より良い文章を発想できる」と雪岱の文章からの絵の発想力を高く評価した。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(4)

1.装幀のはじまりと開花
Photo_20260324055001  東京美術学校を卒業した雪岱は、日本・東洋の古美術研究雑誌の会社「國華社」に勤めて、古書の模写も行い、たとえば江戸中期の高名な浮世絵師北尾重政の「隅田川渡舟図」の模写(明治44年1911)などが今回展示されている。
 明治時代末に知り合って懇意になっていた泉鏡花は大正3年(1914)、まだ実績のなかった小村雪岱に自分の書きおろし作品『日本橋』の装幀を指名してくれた。雪岱は、思ってもいなかったことで大いに喜んだが、絵に対してほとんど要望事項をあたえてもらえず、ずいぶん困惑し苦心したらしい。それでも日本橋は自分が育った東京の下町であり、親しみは十分あった。
 画面を上・中・下の上下三段構成とし、中段に小舟の行き交う川を、上下に白壁の蔵の並びを大胆に、いずれも平面的にデザインして配置した。さいわい雪岱デビュー作のこの表紙デザインは大好評を得て、雪岱は継続的に仕事を得られるようになった。
 これ以後、ベストセラー作家泉鏡花は、自分の発刊する本の装幀に加えて、やがて挿絵も雪岱に委託するようになった。雪岱は、思いがけず華々しい装幀家のデビューを果たしたのであった。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(3)

プロローグ
 「雪の朝」大正13年(1924)が展示されている。Photo_20260323061001
 雪岱が過ごした埼玉県や東京都は、雪の多い土地ではないので、彼にとって積雪の景観は感動をともなうものだったのだろう。日ごろの見慣れた風景が、積雪で白一色の静寂な別世界になったのだろう。この世界には踏み込んで汚したくない、足跡をもつけたくない、という心境が窺える。
 グラフィックデザイナー山口信博は「『雪の朝』は、雪の日の風景で、室内に光が灯もり家全体が行燈のようである。描かれてはいないが分厚くたれこめた雲も想像される。建具も含め日本家屋の持つ直線的な特徴が簡素に描かれ、それとは対称的な雪のやわらかな有機的な曲線が美しい。」と書いている。そんな感動と緊張がそこはかとなく感じられる気品ある作品である。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(3)

プロローグ
Photo_20260320060901  この展覧会では、冒頭にこの画家には数少ない肉筆画が数点並べられている。
 「青柳」大正13年(1924)は、一見なんでもないような、でもとても繊細な印象が残る絵である。題名は青柳で、たしかに描かれた対象の家の前面に、びっしり柳が描かれているが、とても控えめな存在である。すこしじっくり見ていくと、この建物の座敷には、誰も人物がいないところに1本の三味線と2つの鼓が真ん中に置いてあり、いったいどんな状況なのだろうとつい思いが走る。
 三味線と鼓の演奏のお稽古がこれから始まる前なのか、それとも終わって人々が立ち去った後なのか、いずれにしてもこの場は、不思議な緊張と静寂が漂う。絵の描写はしなやかで細かいが、強い線が際立ち、背景の描写もとても丁寧なことがすぐわかる。見れば見るほどピリピリしてくるほどに繊細な絵である。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(2)

プロローグ
Photo_20260319111101  泰助は、この美術学校の学生時代から泉鏡花の幻想と耽美の作品を愛し、卒業制作「春昼」明治41年(1908)も泉鏡花『春昼』と同じタイトルとして、鏡花の作品から独自にイメージを構築して絵を描いている。この絵に登場する草花や蝶などの題材と表現は、後の彼の作品にも重要なモチーフとして引き続き現れることとなる。
 そして美術学校を卒業してから偶然の機会で泰助は泉鏡花に遭遇する。「かねてその作品から想像していた作家の風貌をいっそう繊細で優しくしたような、ちょっと勝気な美女が男装したような感じのする風貌」と小村雪岱は書き残している。
 泉鏡花は、気さくに泰助に話しかけてくれ、二人はすっかり意気投合するようになる。鏡花は泰助に「雪岱」という画号を与えてくれた。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(1)

 昨年末から天王寺のあべのハルカス美術館で、「小村雪岱のすべて」と題された美術展覧会が開催された。なにかと日常にまぎれて、気が付いたらすでに2月が終わろうとしていたので、何気に美術館のスケジュールを検索したら、この小村雪岱展が終わろうとしていた。とるものも取り敢えずともかく見ておきたいと、会期最終日にかろうじて鑑賞した次第であった。Photo_20260318082701


プロローグ
 小村雪岱は、明治20年(1887)川越町郭町(現在の埼玉県川越市)に、幕末まで川越藩士であった小村家に生まれた。本名は泰助であった。たまたま私の祖母がおなじ明治20年の生まれであり、個人的に勝手に親しみを覚える。
 3歳のとき、日本鉄道株式会社に勤めていた父の転勤にともない、東京に移転したが父が病気そして死去したため、川越に戻り養父となった叔父が勤める川越小学校に通った。
 14歳のとき、父の実姉の住む東京神田神保町に移転し、日本橋に住む書家安並賢輔の書生として過ごしたが、泰助は絵を描くことに興味を持ち、画家を目指して荒木寛畝の塾で絵を学んだ。明治37年(1904)17歳のとき、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学、日本画選科で下村観山教室で学んだ。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(15)

エピローグ
 率直に言っPhoto_20260317114801 て私にとって、今回の展覧会はとても難解であった。ただ、1924年のブルトンの『シュルレアリスム宣言』で触れられているように、シュルレアリスムの運動は、19世紀にはじまったマルクス主義と、それを心理学から受け入れたフロイトの精神分析学での「無意識」の発見、そしてそれらを発展させたヨーロッパ現代思想に深く関係していることが理解できた。
 人間が意識を頼りに取り込む具象的芸術では扱うことのできない、人間の「無意識」に訴える芸術においては、可視的でない言語が必要であり、視角に訴える芸術としては抽象表現やシュルレアリスムが必須となったのである。
 今回の展覧会では、シュルレアリスムをオブジェ=客体、絵画表現法、写真、広告、ファッション、インテリアというジャンル別に視角を変えて眺めてみるという方法で、シュルレアリスムの性格や本質に迫っている。プレゼンテーションの基軸は明確でしっかりしているので、簡明とはいえないけれども確実に伝わる、理解できる範囲があった。
 少なくとも、私個人としては、有意義な鑑賞であった。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(14)

第6章 インテリア─室内空間の変容
Photo_20260316091501  ハンス・アルプ「灰色の上の黒い形態の星座」(1937)が展示されている。
 ハンス・アルプは、1886年ドイツが領有していた時期のアルザスで生まれた。アルザス地方の地域性から、ドイツとフランスの両方の文化・教育を受けて成長した。シュトラスブルクの美術工芸学校に入学したが、伝統的・保守的な美術教育に拒否反応して、専ら自分の新しい藝術表現を模索してパリの美術館を巡り、その一方で詩作に励んだ。
 そしてドイツのヴァイマル美術学校に学び、さらにパリのアカデミー・ジュリアンで学んで、マティスやシニャック等と展覧会を開催した。それでも納得のいく活動はできず、スイスのルツェルンにそのころ移住していた実家に戻った。
 その後数年間にわたってパリ、ケルン、ミュンヘンをまわり、同時代の芸術家たちと交流を深めた。カンディンスキー、クレー、ピカソ、エルンスト、モディリアニなどがいた。
 1915年29歳のとき、スイス人の芸術家ゾフィー・トイバーと出会い、木や紙を使ったコラージュ作品などを共同制作した。これはアルプ自身の以後の活動に大きな転換点となった。第一次世界大戦を避けてチューリヒに居を据えたアルプは、ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラとともに、ダダイスム運動をはじめた。ダダイスムとは、第一次世界大戦に対する抵抗やそれにともなうニヒリズムを根底に持ち、既成の秩序や常識を否定・攻撃・破壊を目指すものである。美術については、既存の美的規範に反抗し、伝統的な表現・手法を窮屈として衝撃を与えた。
 彼のダダ・シュルレアリスム的活動は、ドイツ政府から問題視されゾフィー・トイバーとの結婚が拒否された。そこで彼はフランスへ戻って国籍を取得した。
 パリのシュルレアリストの画廊で1927年に、はじめての個展を開催した。このころから、アルプの特徴たる有機的な不定形をテーマとする「具象彫刻」がはじまった。
このころの作品のひとつが、展示されている「灰色の上の黒い形態の星座」(1937)である。流木・石・根・枝などをモチーフとして、描く対象を簡略化して、有機的な形態のレリーフや彫刻を制作するのである。彼は、自然の模倣や再現をするのではなく、人為性を極力排除して、植物が果実を生み出すように作品を作りたい、と考えた。
 この絵では、星座を描くのだから複数の点のような星の集合から、なんらかの意味をくみ取って星座として捉えたうえで、その意味を簡素な形に置き換えて表現しているのだろう。たしかに過剰なまでに簡素なのだが、そこはかとなく生命に通じるかのような有機的なテイストが感じられるとは言える。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(13)

第6章 インテリア─室内空間の変容
Photo_20260314054701  日常生活での室内空間は、くつろぎや安らぎが大切だが、それでもなにか刺激や変化が求められるのも自然である。室内空間に揺さぶりを与え、安定した秩序に刺激を加えたいとき、ファッションであったようにシュルレアリスムが意味をもつことは容易に想像できる。
 マックス・エルンスト「偉大なる無知の人」(1974)が展示されている。
 ミクストメディアのレリーフのような作品で、絵を真ん中にして、両脇に鉄製の格子が貼り付けられている。全体の構成としては、屏風のように自立する室内の衝立のような構造である。中央のベッドには、輪郭と赤い色彩だけで象徴的に描かれた陽気そうな人物がいる。その両脇には、鉄製の格子がある。エルンストの作品にはしばしば登場する鳥かごのイメージだという。人物の頭上には、青白の円盤に黄色の丸が描かれ、おそらく夜空の月なのだろう。ただ、その青色の円盤には鎖のような紐がつけられ、その紐がなにやら訳ありそうな形で壁にはりつけられている。空と月だったと思っていたものが、突然爆弾として降ってくるのだろうか。簡略化された人物の表情が無知で無垢なだけに、不安が募るような気配となっている。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(12)

第5章 ファッション─欲望の喚起
Photo_20260313054301  サルバトール・ダリ「ダリの太陽」(1965)が展示されている。大きな紙の上に描かれた油彩である。
 太陽がとても大きなものとして表現されていることが、前景の人物像のサイズからわかる。その巨大な太陽は、見るものに対して暖かくウインクしているようだ。前景に描かれた二人の女性も、それに応えて敬礼のようなポーズに見える。フロッタージュで描かれたような右頬から目の周りにかけての青い影は、仏像の顔のようにも見える。鼻の少し上にかけては、立ってこちらを見つめる牧師のようなイメージも浮き上がる。そのように、ゆっくり眺めていくと、不可解な要素が相次いで発見できる。単純そうに見えて、実は複雑な意味深長な絵なのかも知れない。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(11)

第5章 ファッション─欲望の喚起
Photo_20260312054801  モードやファッションという領域は、もともと既存の形象を乗り越えて新しい表現を追及する営為なのだから、シュルレアリスムとは相性が良さそうだと、素人の私でさえ思える。人間の身体あるいは衣装を纏うマネキンを、オブジェと捉えるのも自然だろう。果たしてシュルレアリスムも、この分野と思われる作品は、豊富のようである。
 典型的なのは、冒頭にあったエルザ・スキャパレッリの「イヴニング・ドレス サーカス・コレクション」(1938)だろう。
マン・レイ「アンドレ・ブルトン」(1923)が展示されている。
 マン・レイ、本名エマニュエル・ラドニツキーは、1890年アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィアにユダヤ系ウクライナ人の父とユダヤ系ベラルーシ人の母との子として生まれた。7歳のときニューヨークに移り、高校で製図を学んだ後、図案デザイナー、画家として活動をはじめた。22歳のとき家族全員でラドツキーからレイに姓を改名した。
1913年23歳のとき、ニューヨーク近郊のリッジフィールドの芸術村に移住した。やがて写真作品をはじめ、また生涯の友となったマルセル・デュシャンと出会った。
 1921年エコール・ド・パリの時代であったパリに移り、デュシャンの紹介によってパリのダダイスト、シュルレアリストたちと交友をはじめた。
 このころの作品のひとつが、この展示作品である。切り抜いた紙に顔だけを出す孔をあけ、ブルトンの顔には潜水用のような非日常的なメガネをつけさせている。一瞬で、少し変わったことをやらかす人物を表現している。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(10)

第4章 広告─「機能」する構成
Photo_20260311054001  ヘルベルト・ロイピンは、スイスに1916年に生まれた。バーゼルの美術工芸学校学び、卒業後はグラフィックデザイナーおよびイラストレーターとして活動した。1930年代から活動を開始し、シンプルでユーモアのある表現で人気を得た。
 とくにポスター・アートの分野で世界的に評価された。
 この作品は、パンテーン社が発売したヘアトニックの広告のために制作された。画面の大部分が渦巻く金色の髪で占められている。画面左上から射す非羽扇を受けて、髪は艶やかに輝いているが、誰しも「パンテーン」の文字無くしてモチーフかが髪だと認識することは難しいだろうと思う。広告の意味するところとイメージが予感的に重なり合い、見るものの潜在的意識に働きかける効果が生まれている。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(9)

第4章 広告─「機能」する構成
Photo_20260310060001  広告という営為は、なにより広告を観ている相手の関心を惹かなければ役割が果たせない。そのために意表を突くような表現を導入することは、容易に理解できる範囲である。その手段がシュルレアリスであったとしても、なんら不思議はないだろう。果たして、デペイズマンやコラージュ、フォトモンタージュなどシュルレアリスムにおいて多用されたテクニックを発揮した、訴求力に富んだ広告が登場した。
 ヘルベルト・バイヤー「原画: 生の驚異 耳」(1932)が展示されている。
 この作品は、1935にベルリンで開催された博覧会「生の驚異」のリーフレットのために制作された原画である。この博覧会はナチスの宣伝統制のもとに開催され、バイヤーはリーフレットのほかポスターもデザインしている。リーフレットでは、この原画の上に「健康ですか? 長生きしたいですか? きちんとした生活をおくっていますか? 自分のことがわかっていますか? では、この展覧会においでください」というテキストが放射状に配置された。
 巨大な耳とその内部構造とともに、それをじつと見つめる男性が、切り貼りした写真を組み合わせるフォトモンタージュの技法で、シュルレアリスに近接した表現で描かれている。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(8)

第3章 写真─変容するイメージ
 ヴォルス「美しい肉片」(1939)が展示されている。
 ヴォルスは、1913年ベルリンで裕福なプロテスタントの家庭に生まれた。幼時からヴァイオリンを習い、絵画・写真・音楽などに多彩な才能を示した。Photo_20260309191601
 ドレスデンに移転の後、1930年高校でユダヤ系の旧友をかばい過ぎたことが原因で、退学処分を受けた。このころ父も亡くなり、裕福な家庭に育った少年は、ここから帰るべき故郷を失ったボヘミアンとしての人生がはじまった。
 高校退学後は、工場で働いたり、写真家のスタジオで助手をしたりしながら、アフリカ研究所で民俗学や人類学を学んだり、バウハウスでパウル・クレーの指導を受けてみたりした。
 ナチスの支配が確立してきて、嫌気のさしたヴォルスはドイツを去る決心をして、1932年パリに移った。そこでルーマニア系フランス人のグレティという女性と出会い、後に結婚することになるが、1933年一緒にスペインに移った。政治亡命者として、バルセロナで投獄されたこともあった。
 その後、フランスに戻ったヴォルスは、写真家として生計を立てようとした。1937年パリ万国博覧会では、公式フォトグラファーとして任命された。このころから、本名のWolfgang Shulzeを略してWolsヴォルスの名前で活動をはじめた。展示されている作品は、このころのものである。
 ヴォルスは人物や風景、オブジェなどを被写体としたが、構成やモチーフへの迫り方において独自の視点から、意外性に満ちた独特な魅力を実現した。この展示作品では、生肉の脂や筋の細部までを露わにして、強い光を受けた表面の複雑な造形と質感が強調され、生々しい触感や臭いまでも伝わるような表現としている。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(7)

第3章 写真─変容するイメージ
Photo_20260307055701  写真術は、19世紀前半に誕生したが、やがて芸術家によって、被写体をそのまま写すという本来の役割を超えて、20世紀美術を彩る主要な表現のひとつになった。シュルレアリストは多様な技法を駆使して、写真で日常的なモチーフを斬新で謎めいたイメージへと変えた。マン・レイを筆頭に、各国の芸術家が多彩な写真表現に取り組んできた。
 ヘルベルト・バイヤー「セルフ・ポートレイト」(1932)が展示されている。
 ヘルベルト・バイヤーは、1900年にオートリアで生まれた。建築を学んだ後に1921年にバウハウスに入り、タイポグラフィ(文字の形をデザインして配置を選び、印刷物の文字の体裁を整えること)や壁画制作を学んだ。1925年に抜擢されてバウハウスの教師となった。
 1928年退職して、ベルリンを拠点にデザイナーとして活動し、また並行して多彩な表現者として自由な創作活動を展開した。バイヤーの写真制作は、1928年から1938年アメリカに亡命するまでに集中している。
 この作品では、フォトモンタージュを駆使して、鏡に映った自身の腕から一部がスライスのように外れてしまった様子を表現し、その驚きの設定をユーモラスに描写している。

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『真人の世界─日本文化のカミ』

 京都アップリンクで、須田眞司さん監督・脚本による映画『真人の世界─日本文化のカミ』を鑑賞した。
 同じタイトルの須田さんの作品を、4年前に奈良県吉野の大淀町文化会館で観た。今回は同じ趣旨の第2作である。
 日本の宗教観は、西欧の一神教的なものとは大きく異なり、日本の自然・風土・歴史に根付いた「カミ」ともいうべき概念に基づく、というのが主題である。247
 映画の構成は、自然信仰の記憶、縄文の記憶、古代の記憶、祭りの記憶となっていて、いずれも「遠く深い記憶」すなわち経験に基づくヒトの心のなかの歴史事実の痕跡が要である、とする。
 そして取り上げられる事例として、三重県熊野の自然信仰・祭り・修験道、出雲の伝承、沖縄の伝統的信仰などが示され、関連する学者・思想家として本居宣長・南方熊楠・折口信夫が取り上げられる。
 私自身を顧みると、先祖からお墓と仏壇を受け継いだ顕本法華宗の仏教徒ではあるが、その教義に没頭するわけでもなく、仏壇を守り、冠婚葬祭に関わり、家族の墓参をして檀那寺に挨拶する程度で、仏教徒と改めて表明するほどの自覚もない。それでも、自分自身が宗教的心理を持たない、あるいは無宗教だとはまったく思わない。
 私自身のぼんやりした宗教的感情と言えば、因果応報、悪いことをすれば天罰を受けるのではないか、良心にしたがって生きることが精神的にも安心である、などという至って平凡・曖昧で漠然としたものである。お寺では合掌し、神社では二礼二拍一礼する。
 もっと言えば、自分自身の勝手な想像で、先祖神が一神教的に常に存在し、たとえば神社に行っても、そこの「神様」としてご先祖さまがおられるような気がしている。
 このような私の、非論理的な、実に語りにくい、説明しにくい宗教感情は、私の勝手な推測から、日本ではとくに変わったもの、偏ったものではないと思う。
 こうした実にぼんやりした非論理的な信仰心であるから、これを正面から表現したり、議論することは、少なくとも私自身はできない。
 そんな私から見れば、この映画は表現することが難しい私たち日本人の宗教観、信仰心を、論理的・具体的でなく、抽象的・象徴的にみごとに表現していると思う。前作に比べても、映画としてのまとまりと分かり易さが各段に向上している。
 私は、現役を引退後、大学院文学部日本史学専攻修士課程を学び、20年弱ほど歴史散策をしばしば行ってきた。改めて思ったのは、日本には神社や寺院が夥しく存在することである。無宗教・無信仰なはずがない。この一見ぼんやりした捉えにくい日本の信仰、宗教について、敢えてその本質に迫ろうとするこの映画に、深く敬意を表したい。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(6)

第2章 絵画─視覚芸術の新たな扉
 ルネ・マグリット「王様の美術館」(1966)が展示されている。Photo_20260305053701
 山高帽の男というモチーフは、マグリットにおいて1920年代から彼の絵に登場するおなじみのもので、1950年代以降になると主要なモチーフとして画面中央に大きく描かれるようになった。山高帽をかぶり黒い上着を着た男は、ただ佇むだけで個性を持たない、孤独で匿名的な存在である。
 この作品ではその男の姿は消えてしまって、画面には身体の連郭と眼、花、唇という顔のパーツのみが残される。シルエットとして切り抜かれた姿の向こう側には、丘に連なる森に一軒の館が建つ静かな光景が広がる。それに対して男の輪郭の周囲はただ色濃く塗られ、下方には無機質な石塀と銀色の球体(馬の首につけられる鈴)が描かれ、空間の前後関係や現実性が反転している。「王様の美術館」というタイトルさえ、絵の内容・実質となんの関係もないようだ。タイトルは友人に決めさせたとも伝えられ、謎の多いマグリットに相応しいことなのかも知れない。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(5)

第2章 絵画─視覚芸術の新たな扉
Photo_20260304060401  アンドレ・ブルトン、イヴ・タンギー、ヴァランティーヌ・ユゴー、ジャネット・タンギーの4人共同制作による「甘美な死骸」(1933ころ)が展示されている。
 詩人ブルトン、画家タンギーとその妻ジャネット、画家ヴァランティーヌ・ユゴーが共同制作した。4人の参加者がそれぞれ担当する部分を割り当てて決め、一枚の紙の上に他からは見えないようにしたうえで順番に絵を描いていく。建物、鳥、人体、植物などを思わせるイメージが縦方向に脈絡なく連なり、不可思議な造形が出来上がる。言語を用いたシュルレアリストたちの集団実験であり、「甘美な/死骸は/新しい/酒を/飲むだろう」という一節が偶然得られた。以後は、絵によるこのような共作を「甘美な死骸」と呼ぶようになった。参加メンバーやその時々の状況により、生み出される絵は毎回大きく異なる。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(4)

第2章 絵画─視覚芸術の新たな扉
 1924年バリでブルトンが中心となって「シュルレアリスム研究所」が設立され、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が刊行された。これはシュルレアリスムが、その思想的基盤をフロイトとマルクスに置き、フロイトの「夢判断」や「無意識」の探求から人間の全体性の回復、人間解放の可能性を見出す、というものであった。
 このころから絵画や視覚芸術を、人の深層心理や夢想を反映した光景や人物像を描くことがはじまった。
 マックス・エルンスト「偶像」(1926)が展示されている。Photo_20260303060001
 マックス・エルンストは、1891年ドイツにアマチュア画家で教師だった父の子として生まれ、ボン大学で哲学・心理学・美術史を学んだ。そしてゴッホの絵画に感動して画家を志すようになった。ギョーム・アポリネール、ロベルト・ドローネーと交流を持ち、さらにジャン・アルプと知り合った。第一次世界大戦では砲兵隊員として軍務についた。
 30歳を過ぎてからパリに移り、キュビストとして評価を得たが、作品をナチスに持ち去られ「退廃芸術展」に晒されるという経験をした。
 1925年ころからフロッタージュの手法(凹凸のあるものの上に紙を置き、鉛筆などの描画材でこするように描くことで、対象の凹凸や形状を写し取る技法。フランス語の「frotter(こする)」に由来する)に目覚めた。このころの作品のひとつが、この「偶像」である。
 この作品では、後ろ向きの裸女の頭部は壊れた木片と化して宙に浮き、腕の先は廃材に溶け込んでしまっている。「偶像」として男性に崇められる女性というものは、実は実体を欠く幻影に過ぎないという示唆だろうか。男性の方は、ただ小さな山高帽のシルエットと杖だけで暗示的に描かれている。画面全体を覆う規則的な幾何学的模様は、金網を用いたフロッタージュ(こすりだし)によって表現されている。風化した地母神のような女性の偶像と、近代産業や機械化に携わる男性を対比させ、文明批判の意図があるかのようだ。

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「拡大するシュルレアリスム展」中之島美術館(3)

第1章 オブジェ ─「客観」と「超現実」の関係
 人間にとって、主観と主体にこだわっている限り「現実」の軛から逃れることはできない。主観・主体を脱して「客観」「客体」に入り込むことが「超現実」へと扉を開くことになる。それは「客体=オブジェ」の世界である。そのような理論から、オブジェ=客体が求められた。
 マルセル・デュシャン「瓶乾燥機」(1914)は、日常生活にもちいる道具たる瓶乾燥機、つまりビンを複数うつ伏せにかけて乾燥させるなんでもない道具だが、それを投影した光線で影絵を造ると、その影はまったく独自のモノクロの平面画像となる。そのように新たな角度からモノを観察することで、新しい価値が生まれるというのである。Photo_20260302060201
 フランシス・ピカビアのボックス・コンストラクション作品「黄あげは」(1926)が展示されている。
 フランシス・ピカビアは、1879年パリで、キューバ公使館に勤務する父とフランス人の母との子として生まれた。青年期から画家として活動し、その作品スタイルが印象派の時代(1902~1909)、フォーヴ・キュビスム・オルフィスムの時代(1909~1914)、ダダの時代(1915~1924)、怪物の時代(1924~1927)、透明の時代(1927~1932)、摸索の時代(1932~1939)、具象の時代(1940~1944)、抽象の時代(1940~1951)とめまぐるしく変遷した。ニューヨーク・ダダの中心的人物たるマルセル・デュシャンからは「芸術体験の万華鏡的連続」と評された。
 この作品は、彼の「怪物の時代」のものとなるのだろうが、クローズアップした人物の顔、仮面や手袋をまとったヌードの男女像、建物と幼児たち、そしてアゲハチョウが水彩で描かれる。ボックス内には本物のアゲハチョウの標本も配置され、トロンプ・ルイユ(だまし絵)のような効果もうかがわれる。さらに予期される蝶の軌跡が、描かれた断片的イメージを繋いでいるかのようでもある。ごく狭いボックスのなかに、ピカピアのミクロコスモスが形成されている。

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