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2026年4月

「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(15)

多田美波(1924~2014)
Photo_20260430072801  多田美波「変電所」昭和33年(1958)が展示されている。
多田美波は、集中して複数のスタイルでこのような変電所を描いていた。
 昭和35年(1960)ころから金属による彫刻作品を手掛け、昭和37年(1962)多田美波研究所を設立して代表となり、プロダクトデザインにも活動を拡大した。
 アルミニウムを用いて光の効果を強調する彫刻を発表し、さらに並行して照明デザインやレリーフによる大規模な空間造形を発表した。電力や電磁波・光は、多田において抽象的・美的なモチーフであったにとどまらず、戦後日本の工業や産業の発展への関心と結びついていた。銀行・ホテル・公邸などの公共的なデザインの仕事も数多い。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(14)

多田美波(1924~2014)
Photo_20260429112001  多田美波(ただ みなみ)は、大正13年(1924)父の赴任先であった台湾高雄に生まれた。幼少期を韓国ソウルで過ごした後、昭和19年(1944)女子美術専門学校(現在の女子美術大学)を卒業した。昭和31年(1956)二科展に入選した。
 多田美波「炭鉱」昭和32年(1957)が展示されている。
 当時、日本は高度成長にともなって労働運動が活発化した時期であった。日本の労働運動を牽引した日本炭鉱労働組合本部があった炭労会館を飾るレリーフの下絵として描かれたものである。
 炭鉱技師であった父の縁で実際に炭鉱を取材した経験に基づく力作で、コンペを勝ち取り、幅5mの巨大なレリーフがつくられた。歯車と組み合わせられた逞しい労働者の腕、その左側には深く奥へと続く坑道がみえる。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(13)

白髪富士子(1928~2015)
 No1_20260428061701 白髪富士子「作品No.1」昭和36年(1961)が展示されている。
 色彩の組み合わせになんらかの意図が感じられるが、描写においては敢えて技巧を示さない、夫一雄がやったオートマティズムに通じるような荒々しさを示した作品である。
 夫とともに制作していた富士子であったが、やがて夫一雄の活動が多忙となり、自らの制作の中止を決意し、昭和36年(1961)「具体」を退会し、以後は夫の制作を二人三脚で支えた。途中で夫を支えようと筆を折ったところは、毛利眞美と共通している。平成27年(2015)87歳で死去した。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(12)

白髪富士子(1928~2015)Photo_20260427055901
 白髪富士子(しらが ふじこ)は、大阪市で時計店を営む植木家に昭和3年(1928)生まれた。府立大手前高等女学校で絵画部に所属し、卒業して、昭和23年(1948)20歳で京都絵画専門学校の学生であった白髪一雄と結婚した。
 富士子は、夫の絵画制作を間近に見るうち、自身も創作意欲に目覚め、絵画の制作を始めるようになった。昭和30年(1955)夫一雄と同じ「具体美術協会」に参加し、6年余りにわたって活発に制作に励み、具体美術展や芦屋市展に作品を発表した。
 白髪富士子「白い板」昭和30年(1955)原作(昭和60年(1985)再製) が展示されている。これは昭和30年に制作され、屋外に設置されてすでに現品がなくなっていた彫刻作品であったが、30年後に再現されたものである。一枚の細長い白色の板に、波打つ溝を切り込んだ作品で、素材の素朴さと、激しく切り込む暴力的な力を表現している。吉原治良が「人のまねをするな」と指導した「具体美術協会」において、色彩や形の新奇さを追求するのではなく、手を加えることで無限に変化する、ありふれた身近な素材の可能性に着目したことが特徴である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(11)

毛利眞美(1926~2022)
B  昭和31年(1956)再びフランスに渡り、画家の堂本尚郎(どうもと ひさお、1928~2013)と結婚した。夫とアトリエをともにしながら女性像をもとにした独自の抽象的な絵画を制作していたが、昭和35年(1960)妊娠を契機に筆を折った。
 永らく絵画制作から離れた後、平成6年(1994)脳内出血の発症をきっかけに、毛利眞美は再び画家として筆を握った。令和4年(2022)95歳で死去した。
 毛利眞美「裸婦(B)」昭和27年(1952)が展示されている。
 女性の人体をミチーフとしながら、絵具の痕跡と絵筆の躍動を見せる作品としている。
 今回登場した14人の女性芸術家たちのなかでも、毛利眞美は海外に渡った先駆けであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(10)

毛利眞美(1926~2022)
Photo_20260417060401  毛利眞美(もうり まみ)は、広島県呉市に昭和元年(1926)毛利元就の子孫の名家に生まれた。高校を卒業して上京し、昭和18年(1943)女子美術専門学校に入学したが、翌年病気のため中退した。
 昭和25年(1950)フランスのマルセイユに渡り、フランス語を学ぶ一方、画塾に通った。ベルギー滞在を経て、パリのモンパルナスにあるアンドレ・ロートの画塾に入学し、9か月間学んだ。
 昭和27年(1952)帰国し、翌年資生堂ギャラリーで初の個展を開催した。
 毛利眞美「無題」昭和25-30年(1950-55)が展示されている。
 椅子に座り、背筋を伸ばして脚を組む、毅然とした女性像であるが、写実ではなくキュビスムのような立体の再構成がある。色彩も自由な選択である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(9)

草間彌生(1929~)
Photo_20260416054501  草間彌生(くさま やよい)は、今回登場の14名の女性芸術家のなかで、唯一の存命者である。昭和4年(1929)長野県松本市の旧家に生まれた。子供時代から水玉や網模様を描くことが好きだったという。昭和23年(1948)京都市立工芸高校に編入し卒業した。昭和27年(1952)には松本市で初個展を開催している。
 昭和32年(1957)渡米し、網目で覆われた絵画や布に綿を詰めた立体を発表、さらに1960年代にはアメリカのヒッピー文化にも関心を持ち、ハプニングにも参加した。次いでヨーロッパにも渡り、映画も手掛けるなど、活動範囲を広げた。昭和48年(1973)帰国して、その後も美術作品、小説などを展開し、現在では国際的に最も知られる日本人女性美術家となった。
 この人の作品は、これまでいろいろな場面で観てきたので、敢えて記すほどのことはないが、はじめて観たものとして「マカロニ・コート」昭和38年(1963)が展示されていた。
 通常のコートの上から、マカロニをふんだんに張り付け、ゴールドで彩色したマカロニの特異な立体の反復とリズムで表面を増殖させ、大量生産・大量消費の渦中に存在する身体を表現するものである。衣服は単なる装飾ではなく、身体を捉え直す表現手段となっている。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(8)

江見絹子(1923~2015)
 江見絹子「空間の祝祭」昭和38年(1963)が展示されている。Photo_20260415060301
 アメリカの美術批評家ハロルド・ローゼンバーグ(1906~78)は、1952年(昭和27年)のエッセイ「アメリカのアクション・ペインターたち」で、カンヴァスを「絵を描く下地」を超えて「出来事の舞台」として捉え、絵画は完成されたイメージではなく、身振りの決断、速度、反復が残す「行為の痕跡」だとの視点を提案した。絵画の価値基準を「構図」「主題」から「プロセス」「痕跡」に移行させようという思考であった。
 昭和30年代までは日本ではアメリカ美術への関心が薄く、昭和26年(1951)第3回読売アンデパンダン展で、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングが紹介されたときも、あまり関心を集めなかった。しかし昭和30年(1955)ころからアンフォルメル風絵画の流行が行き詰まり、在来の批評家や美術家からアメリカの現地情報が届きはじめると、日本でもポロックなどのアクション・ペインティングへの関心が急激に高まった。
 このアクション・ペインティングのイメージとして、どうしてもエネルギッシュでマッチョな男性の行動という先入観があり、アクション・ペインティングの「アクション」が批評言語の中心となることの反作用として、女性美術家が見落とされる傾向が出てきた。これが今回の「アンチ・アクション」をタイトルとする展覧会の根幹をなす問題提起である。
 わが国の女流画家として、早くからアメリカに渡った江見絹子は、アメリカの現地でアクション・ペインティングを見てきたはずである。この「空間の祝祭」という作品は、アクション・ペインティングの影響が明らかに見て取れる。
 アクション・ペインティングの余波から、関心を失われつつあった女流画家に対して、アンフォルメルの積極的評価からいちはやく批判へと転じた美術評論家 瀬木慎一(1931~2011)は、作品本意の立場から江見絹子の「内的ヴィジョンと映像的世界の出現」を認めていた。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(7)

江見絹子(1923~2015)
 江見絹子(えみ きぬこ)は、大正12年(1923)兵庫県明石市に、荻野絹子として生まれた。加古川高等女学校を昭和15年(1940)卒業すると、洋画家 伊川寛に師事して個人教授を受けた。R
 戦後は神戸市立洋画研究所に学び、昭和24年(1949)第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に、神戸市から横浜市に転居した。行動展などでさらに受賞を重ね、昭和28年(1953)アメリカに渡った。翌昭和29年(1954)にはパリに移り、ラスコーなどの洞窟壁画に触れてインスピレーションを得、絵画の根源を求めて抽象表現に向かうようになった。
 昭和30年(1955)帰国し、引き続き内外の展覧会に参加し、昭和37年(1962)のヴェネチア・ビエンナーレで女性美術家として初めて日本代表となった。
 江見絹子「作品R」昭和35年(1960)が展示されている。
 この作品は、自作の油絵を水中に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸して絵具をつくって用いる、という独自の方法で制作された。抑えた色調と重厚なマチエールを実現するものであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(6)

田中田鶴子(1913~2015)
361961  田中田鶴子(たなか たづこ)は大正2年(1913)日本統治下の朝鮮に生まれた。
 中国青島で16歳まで育ち、17歳で女子美術専門学校(現在の女子美術大学)に入学したが、1学期で退学し、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)女子部第一期生として昭和15年(1940)卒業した。在学中の昭和13年(1938)には、すでに二科展で入選していた。
 今回登場する女性画家の中では年長であり、戦争中にはすでに画家として、国家総動員体制のもと、女流美術家奉公隊に参加していた。空襲で自宅を焼失するという経験を経て、そのときの「炎の円の中心に、何の音もしない、しんとした無の世界」が後の制作に影響を与えた。
 No28-festival2  戦後は、赤穴桂子・芥川沙織の先輩として「田園調布純粋美術研究室」に学び、さらに昭和30年(1955)の国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)での「日本抽象美術展」など、数々の国際的な大規模展覧会に出品した。このころは、内にある心象風景を外部に存在する具象的な形を借りるなどして表現していたといい、方形や線、円による構成的な画面の作品が多かった。
 田中田鶴子「無」昭和36年(1961)が展示されている。
 このころから、従来の構成的な画面から、マチエールで語ろうとする方向への変化を示した。以後画面は茶褐色を基調とした暗い色彩のなかに、漠とした奥深い空間を見せるようになった。赤穴桂子・芥川沙織が「戦後の新人女性」であったのに対して、戦前から女流画家として、国家総動員体制にまでも関与した経験からか、絵画表現としては赤穴桂子・芥川沙織よりも抽象表現へのより強い意思が感じられるような作品である。
 田中田鶴子「No.28 Festival2」昭和36年(1961)が展示されている。
 これも画面の質感を重視した繊細な描写が際立ち、抽象的表現に真っ向から挑戦していることがわかる。
 田中田鶴子は、以後もエネルギッシュに制作活動を展開し、102歳まで天寿を全うした。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(5)

芥川(間所)沙織(1924~1966)
Photo_20260410060401  沙織は昭和32年(1957)芥川也寸志と離婚し、昭和34年(1959)渡米して、ロサンゼルス・アートセンタースクールでグラフィックデザインを学んだ。翌昭和35年(1960)ニューヨークに移り、桂ユキ、村尾隆栄、草間彌生とともに、第14回女流画家協会日米交歓展に、在米出品者として参加した。
 芥川(間所)沙織「裸婦」昭和36年(1961-62)が展示されている。
 これは油彩の作品だが、裸婦をとらえる視点と表現に、彼女の個性が鮮明に顕れている。
 帰国の後、昭和38年(1963)建築家 間所幸雄と結婚した。以後、芥川(間所)沙織と表記して活発に制作活動をした。
Photo_20260410060501  芥川(間所)沙織「スフィンクス」昭和39年(1964)が展示されている。
 ここでは、それまでの作品とはすっかり異なる新境地が窺える。色彩と明暗を強調して、敢えて平面に単純化したインパクトの強い、力強い作品だと思う。
このように積極的な活動意欲を見せていた矢先に、昭和41年(1966)妊娠中毒症のため42歳で急逝した。今回登場するなかでは、もっとも短命の画家である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(4)

芥川(間所)沙織 (1924~1966)
Pxl_20260326_044522220  芥川(間所)沙織(あくたがわ さおり、まどころ さおり)は、大正13年(1924)愛知県豊橋市に松本沙織として生まれ、昭和22年(1947)東京音楽学校本科声楽科を卒業して、ほどなく新進気鋭の作曲家芥川也寸志と結婚した。夫の也寸志は、妻が自分と同じ分野で活動することを好まず、沙織が声楽を続けることに反対したので、沙織はやむを得ず女学校時代から別途興味があった絵画に転向した。
 「田園調布純粋美術研究室」でともに学んだ同年齢の赤穴桂子から薦められて新制作協会展に出品したが連続して落選となり、油彩への関心を失った。昭和30年(1955)から、岡本太郎の勧めにより二科展に移り、油彩でなくろうけつ染めの「女」シリーズの作品を出品して特待賞を受賞した。同じ年に開催されたメキシコ美術展でメキシコの画家ルフィーノ・タマヨの作品に感動し、その色彩と光の感覚に強い印象を得た。
 芥川沙織「女(Ⅰ)」昭和30年(1955)が展示されている。
 怨念と怒りに震えるような表情の女が、ろうけつ染めの鮮明な色彩で描かれている。芥川沙織の心理的状況としても、憤懣が渦巻いていたのかも知れない。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(3)

赤穴桂子(1924~1998)
 「スペースに於ける物体」昭和33年(1958)が展示されている。Photo_20260408054601
 ここで「スペース」とは、単なる余地ではなく「宇宙」のようで、描かれた「物体」は無彩色の空間に、宙ぶらりんに浮き上がっている。宇宙のなかの物体という、なにか哲学的な問いと表現のように思える。
 いずれも、素材や手法の多様性を活かして、視覚的に強いインパクトを与えている。
 赤穴桂子は、終戦直後の昭和20年(1945)9月「田園調布純粋美術研究室」を開設した猪熊源一郎(1902~93)と阿部展也(1913~71)に師事した。そこには、田中田鶴子や芥川(間所)沙織がいた。猪熊源一郎や阿部展也など、戦前から活躍していた画家や批評家たちは、戦後積極的に若い女性美術家たちを支援し、その活動の場を広げる後ろ盾となった。この関係を、今回の展覧会を企画した中嶋泉は「戦前の父と戦後の娘」と呼ぶ。
 「父」は描くための場所、モデル、画集や文献などの資料、海外の美術界の動向や技法などの知識を与え、規範に縛られず多様な文化人たちが交流するサロンのような雰囲気を「娘」たちに提供した。終戦当時、専門の道を志す若い女性たちの存在そのものが新時代の象徴でもあり、そのような支援は、「父」たちにとっても前衛活動の一環であった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(2)

赤穴桂子(1924~1998)
 冒頭に登場する画家は赤穴桂子(あかな けいこ)である。Photo_20260407054201
 塩谷桂子は、大正13年(1924)東京に生まれた。当初は服飾デザインを学んだが、「田園調布純粋美術研究室」に通い、画家を志すようになった。昭和25年(1950)その研究室で出会った画家 赤穴宏と結婚した。昭和28年(1953)女流画家協会アンデパンダン展と新制作展で受賞して注目を浴びた。昭和30年代から宇宙を思わせる空間を描く抽象絵画を制作した。しかし昭和36年(1961)から絵画の発表を停止した。その後、彫金を始め、昭和50年(1975)の個展で活動を再開して以来、銅版画を中心に発表を続けた。画家の夫 宏との美術での密接な協力関係もよく知られている。
 「埋もれた貝と骨」昭和29年(1954)が展示されている。
 暗い地面から何かを探りだすようなイメージの作品で、伝統的絵画では題材になりにくかったであろう貝や動物の骨が、立体的というよりも敢えて平面展開のようにリアルに描かれている。色調も死の世界に相応しいような暗い茶褐色である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(1)

Photo_20260406060201  兵庫県立美術館で「アンチ・アクション─彼女たち、それぞれの反応と挑戦」というタイトルで、日本の現代女性芸術家に絞り込んだ珍しい展覧会が開催された。私は、そんなタイトからは内容を予想・想像できず、関心が持てそうか否かも、なにもわからないまま鑑賞に臨んだのであった。
 この展覧会で取り上げられた14名の女性芸術家たちは、ほぼ昭和初期に生まれ、さきの大戦中を多くは学生として成長し、戦後すぐころからわが国の勢いある若手として現代美術の開発に参加し、ほとんどが21世紀まで長寿を全うしたエネルギッシュなアーティストたちである。

アンフォルメルのインパクト
 ここでは「アンフォルメル」と呼ばれた美術運動がきっかけとなって、活動を始めたアーティストが主になっている。アンフォルメルは、フランスの美術評論家ミシェル・タピエ(1909~1987)が提唱したコンセプトで、伝統的な様式によらない「未定形」を目指す芸術運動で、偶然性、素材の抵抗、自由な発想を重視するものである。戦後の新しい息吹として欧米美術界に発生し、戦後復興期のわが国に岡本太郎が率いる国際アート倶楽部が開催した昭和31年(1956)「世界・今日の美術展」で伝えられた。
 絵具を単なる画材ととらえるのでなく、その物質性を重視し、それを操る画家の動きの速さ、身体性を積極的に捉え、絵画を「激しい行為の痕跡」として受け入れるものである。この傾向はやがて「アクション・ペインティング」の流行へとつながった。
 アンフォルメルは、日本に入ると、旧画壇やアカデミズムへの抵抗、第二次世界大戦後の男女平等・民主主義など戦後日本の課題にも共鳴して肯定的に受け止められた。伝統的な様式にこだわらず、「未定形」を尊重し、偶然性・素材の抵抗を重視することを提唱した。
 タピエは、来日すると戦後から活動を始めていた福島秀子や田中敦子などほとんど国内で無名であった女性アーティストを取りあげ、新潮流の担い手として高く評価した。それは日本の批評家にとっても意外性が大きく、男性中心であった前衛芸術の世界に女性を押し上げる効果をもたらした。女性画家への「国際的評価」の権威付けは、女性画家の存在の可視化や自己肯定に大きなチャンスを与えた。
 しかし意外で急激すぎたタピエの活動は、やがて独善的とみなされ、アンフォルメルの熱も冷めていった。

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海堂尊『蘭医繚乱』PHP、2024

 現役医師で作家の海堂尊による長編伝記小説である。
 私は、この本の主人公のひとりたる佐藤泰然ゆかりの千葉県佐倉市の佐倉順天堂記念館を近く訪れる予定があり、その準備のために読んでみることとしたのがきっかけであった。Photo_20260403054801
 果たして読んでみると、実在した人物の生きざまが、とても生々しく詳細に語られていて、没頭して一気に読み切ってしまった。実在の人物を、目の前に居るかのように心理描写も含めて描くというのは、その詳細な部分の内容が到底信じがたいと思いながらも、強く引き込まれるのである。
 性格も人生観もまったく違う緒方洪庵と佐藤泰然が、互いに反発を感じつつも、ともに類まれな能力とエネルギーを最大限生かしつつ強い意思で生き抜き、互いに影響を与え、また受けて違う道を歩む。
幕末の日本の大転換期に生きたがために、ともに医学と医療に没頭することを目指しながらも、当時の最先端の学問たる蘭学に関わったために、医学・医療からはみ出る活動にいやおうなく巻き込まれる。洪庵も泰然も、自身が傑出した人物であったにとどまらず、類は類を呼ぶ必然から、相次いで傑出した弟子たちに囲まれて自分の意思や意図を超えた人生を歩むことになる。
 稀有な能力をもった二人だが、もしこの時代に生きていなければまったく違う人生だったろうと思う。時代を推進した二人だが、時代が生み出した二人でもあった。
 私は、たまたまこの本に出てくる一冊の書物『袖珍内外方箋(しゅうちんないげほうせん)』の全文を翻刻したことがある。それは、「謨烏普刺歇」すなわちオランダ人医師Martin Wilhelm Plagge(プラッヘ)が著した西洋薬学書を、緒方洪庵が長崎に留学していたとき、そこで出会った青木周弼(あおきしゅうすけ)、伊東南洋、岡海蔵とともに翻訳した書籍である。洪庵が長崎に滞在したのは天保7年(1836)2月から天保9年(1838)1月であり、洪庵が20歳代後半の若き修業時代の仕事であった。この翻訳書は、板行されないまま稿本の写本として、天保年間にもかなり広く流布していたらしい。偶然とはいえ、緒方洪庵が若き日に格闘した翻訳書の原文に出会ったことは、私にとっては貴重な経験であり、この伝記に没頭するひとつの要因ともなった。
 洪庵も泰然も、私たち凡人の境地をはるかに超えたところで生きたが、それでもその思考や行動に、さもありなんと思わせる部分も多々ある。
 読書感想をとても簡潔にはまとめきれない、強烈な印象の本であった。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(10)

7.エピローグ
Photo_20260402053701  雪岱は、昭和14年(1929)9月、恩人であり心のよりどころでもあった泉鏡花が亡くなると、心を込めて泉鏡花の墓を設計した。しかしその1年後、雪岱自身も突然の脳溢血で、53歳の若さで亡くなってしまった。
 雪岱の活躍を高く評価していて「素材を前にして何を描かうかと考へるより、どんな意匠でこの素材の面白味を表はして見ようかと、その工夫に一ばん頭脳を使つたらうと想像される」と述懐していた鏑木清方などが主導して、数少ない雪岱の肉筆画を版画にして残そうと、当時の一流の彫師と刷り師の協力を得て、何点かの雪岱の作品が版画として再生された。
 そのひとつが「見立寒山拾得」昭和16年(1941)である。
 これも、雪岱の美人画として貴重な作品である。

 今回の鑑賞は、私には特異なものであった。画家は通常は芸術家・アーティストとして、自分のオリジナリティを求め、自分の描きたいものを制作する。しかし小村雪岱は、人並み優れた絵画の技術、力量を持ちながら、自分が描きたいテーマというより、依頼者の「文章」を読み込んで、自分の理解と発想から画面を構築して絵を描く、という少し特異な芸術家であった。考えてみれば、江戸時代の浮世絵師などもそんなものだったのかも知れない。そういう画業の人生で、人生の師と仰ぐ泉鏡花に出会い、多くの作家に高く評価され、舞台芸術にも参加し、充実した芸術家としての生涯であった。
 いつもの画家の個展とはまた異なる感慨があった。

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小村雪岱のすべて あべのハルカス美術館(9)

6.世の需めに応えて─円熟期の装幀・舞台装置・肉筆
Photo_20260401060101  昭和も10年代に入ると、後から振り返れば雪岱の円熟期であり、かつ晩年となっていた。
 木村哲二『江戸の青空』装幀表紙原画 昭和11年(1936)が展示されている。
 これは雪岱の美人画と見ることができる。雪岱は、自分は頭の中に浮かぶ女性の容貌の理想像というのが、ひとつはごく幼いころの母のある瞬間の表情であり、もうひとつはやはり子供のころ見た御所人形のお顔であり、いずれも静止したシーンである。そのため私の描く女は、色気や情感がないのは自覚している。ただ、そういう静的で無表情に近い、堅い表情のなかに、ごくわずか感情につながる気配を入れて、見るヒトにそれぞれの思う女性像を加えることができる余白を与えているつもりだ、という。こうして、表情に潤いというほどのもの、媚もなく、一見そっけないけれども、じっと見つめているとなにかを感じさせる雪岱風の独自の美人画があるように思える。
 ますます雪岱が力を傾注するようになった舞台装置も、円熟期を迎えていた。
 「鞍馬獅子」舞台装置原画 昭和9年(1934)が展示されている。
 雪岱は「舞台装置はあくまで演劇の背景であって、演じる役者の後ろに隠れていなければならない。しかし舞台の情景は伝えられるものでなければならない。」と言っていた。舞台の現場でなにか不都合があると、雪岱は直ちに動いて修正を加えた。あくまで縁の下の力持ちとして、労力も努力も惜しまなかった。

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