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2026年5月

東京都心歴史散策「幕臣コース」(8)

国産マッチ発祥の地
Photo_20260529055601  勝海舟居住の地から、そのまま道路を南に下ると、まもなく京葉道路の大きな通りに出る。この道路を200m余り東に行くと、道路の南側に都立両国高校がある。この学校敷地内の北側の鉄柵のすぐ裏に、道路に面して「国産マッチ発祥の地」の石碑が柵の間から見える。
 日本で初めてマッチを本格的に生産したのは、旧加賀藩士の清水誠(弘化2年1845~明治32年1899)であった。
 清水はフランス留学中にスウェーデン式安全マッチの製造法を学び、帰国後の明治8年(1875)三田四国町にあった、薩摩出身で大久保利通・西郷隆盛の親友で明治新政府官僚であった吉井友実の別邸でマッチ製造を開始した。
 その翌年明治9年(1876)この地で「新燧社(しんすいしゃ)」を設立し、日本初のマッチ工場を建設して本格的な生産を始めた。
 これは、国内各地にマッチ工場が広がるきっかけとなった。明治11年(1878)には上海への輸出も行われ、日本のマッチ産業は明治から昭和初期にかけて大きく発展し、わが国の重要な工業製品のひとつとして、日本の近代産業振興において重要な役割を果たした。
 昭和61年(1986)清水誠顕彰会の努力により正確な工場跡地が特定され、都立両国高校の校庭内に「国産マッチ発祥の地」と刻まれた黒御影石の記念碑が建立された。碑には当時の新燧社のマッチ箱ラベルの意匠が描かれている。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(7)

勝海舟居住の地
Photo_20260528054701  竪川中学校の東側の道から一筋東の南北に走る道路を南に下り、JR総武線の下をくぐり少し行くと、道の西側に鉄筋コンクリート造の江東橋保育園があり、その前の道に向かって「勝海舟居住の地」の説明板が立っている。
 勝海舟は、天保2年(1831)ころからこの場所にあった旗本岡野氏の屋敷に住み、青少年期の多感な時期を過ごしたらしい。
 その岡野氏は、後北条氏の旧臣 板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政9年(1826)ころから屋敷替えをしてこの場所に移住していた。旧居を担保に数百両の金を用立てて、代わりに旧居の半分ほどの狭い屋敷に移住したのであった。由緒ある岡野家も、家計は大変逼迫していたらしい。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(6)

山岡鉄舟生家があった公立本所小学校跡
 河竹黙阿弥終焉の地から東に200m余り行くと319号線三ツ目通りに至る。ここを右折して南に150m余り行くと竪川中学校(たてかわちゅうがっこう)がある。ここはかつて公立本所小学校があった場所である。Photo_20260527054401
 この付近には、御三卿 田安徳川家の旧臣であった久保尊保が明治4年(1871)に開いた私塾「松川堂(しょうせんどう)」があった。その松川堂は明治7年(1874)に公立本所小学校となって、明治8年(1875)校舎が新築された。 校舎はわが国で本格的な洋風建築が普及する前の擬洋風建築で、バルコニーに唐破風をつけた二階建ての洋風の建物を中央に配して、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の和風の建物が接続していた。
 本所小学校は開校当時、近くに屋敷を構えた旧御三家 尾張徳川家から多額の寄附を受けていた。このため、尾張学校とも呼ばれた。文明開化の息吹を伝える建物が、本所地域の子どもたちに新しい雰囲気の教育の場をあたえたことが推測できる。
 そしてこの場所は、幕末期には山岡鉄舟の旧宅があった場所でもあった。
 山岡鉄舟は、天保7年(1836)本所のこの場所で、武芸の家 小野朝右衛門を父として生まれた。幼いころから剣術、槍術を学び、安政2年(1855)幕府の武芸訓練機関たる講武所に入所した。この講武所で師範を勤めていた山岡静山の妹 英子(ふさこ)と結婚し、山岡家の婿養子となり、講武所の世話役となった。Photo_20260527054402
 文久2年(1862)将軍家茂の上洛に先駆けて幕府は浪士隊の結成を清河八郎に命じ、鉄舟にはその取締役を命じた。しかし清河八郎の翻意を知り、鉄舟はすぐに江戸にかえった。清河八郎は暗殺され、鉄舟は謹慎処分を受けた。
 慶応3年(1867)大政奉還、続いて王政復古の大号令があり、翌慶応4年(1868)には戊辰戦争がはじまった。徳川慶喜は江戸に敗走し、新政府軍の江戸城総攻撃が迫った。慶喜から密命を受け、「江戸無血開城」を新政府軍のトップ西郷隆盛と直談判するため、山岡鉄舟は官軍が占領する駿河へ乗り込んだ。
 西郷は、主君慶喜への忠義を貫き江戸市民の生命を守るために死を覚悟して敵陣に乗り込んできた鉄舟の行動に強い感銘を覚えた。鉄舟の主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保障して、奇跡的な「江戸無血開城」への道が開かれた。これは、有名となった西郷と勝海舟の折衝に先立つ重要なお膳だてであり、「江戸無血開城」の功労者は勝海舟のみでなく、山岡鉄舟も忘れてはならない。
 明治維新の後は、徳川家達(とくがわ いえさと)にしたがい駿府に下った。このとき、静岡にいた清水次郎長と出会って、そのときの鉄舟の人格のインパクトが、次郎長がやくざから足を洗う大きな契機となったらしい。明治4年(1871)廃藩置県にともない新政府に出仕し、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令などを歴任した。
 さらに西郷隆盛のたっての依頼により、明治5年(1872)宮中に出仕し、明治天皇に侍従として仕えた。天皇からの信任は厚く、子爵に叙された。明治21年(1888)胃がんにより死去した。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(5)

河竹黙阿弥終焉の地
 三遊亭圓朝住居跡の公園北側の道を1ブロック東に行くと四辻の交差点がある。その交差点の南西角の近くに「河竹黙阿弥終焉の地」の説明板が建っている。Photo_20260526071401
河竹黙阿弥は、幕末から明治期にかけて活動した歌舞伎狂言作者であった。
 文化13年(1816)日本橋の裕福な商家吉村家に生まれた。幼少期から読本・芝居の台本、川柳や狂歌の創作に熱中し、わずか14歳でその道楽が過ぎて親から勘当されたという。しかたなく貸本屋の手代をして生計を立てたが、朝から晩まで読書三昧の日々であった。それが後の彼の仕事の大きな糧となった。
 天保6年(1835)20歳のころ、仕事を辞めて踊りの師匠をしていた歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘の紹介により、五代目鶴屋南北の門下となって、勝諺蔵(かつ げんぞう)と改めた。役者の科白(せりふ)を暗記することに長けていたので、難役 弁慶をつとめていた七代目市川團十郎を後見して認められるようになった。
 やがて二代目河竹新七を襲名し、嘉永7年(1854)江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)」が四代目市川小団次との提携で大当たりをとって出世作となり、続いて「小袖蘇我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)」、「三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつかい)」などの、現在にまで上演される高名な作品を相次いで発表した。
 明治期に入っても活躍し、明治14年(1881)65歳のとき引退を表明し、黙阿弥と号したが、その後も劇作は続けた。
 明治20年(1887)黙阿弥はこの地に堀を巡らせた広い新宅を建てて移ってきた。庭には潮入の池や二階建ての土蔵、四畳半の離れの書斎などが造られていた。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれて、ここに晩年の6年間を過ごした。
 黙阿弥と圓朝は、三代噺の会などで知り合い、とても親しかったという。黙阿弥は圓朝の住んでいたこの地に移転し、6年後に死んだが、そのしばらく後には圓朝は転居してしまった。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(4)

三遊亭圓朝住居跡
Photo_20260525101601  北斎通りに戻って、次の信号まで東に行き、左折して1ブロック北上し、右折して1ブロック東に行くと、亀沢第一児童遊園というちいさな公園があって、その公園内の道路際に「三遊亭圓朝住居跡」の説明板がある。
 三遊亭圓朝(天保10年1839~明治33年1900)は、江戸時代末期から明治期にかけて活動した落語家であった。父は二代目三遊亭圓生の門人 橘屋圓太郎で、圓朝も父にならって圓生に弟子入りしたのであった。
 弘化2年(1845)7歳で小圓太の名で初舞台を踏んだ後、一時高座から離れて商家で奉公したり、寺に住んだりしたが、17歳のとき再び圓生門下に戻り、圓朝を名のるようになった。
 元治元年(1864)25歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となった。人情噺(はなし)、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とくに人情噺では落語の話芸をより高度な次元に推し上げるのに貢献したとされる。
 圓朝は、明治9年(1876)から明治28年(1895)までの19年間をこの場所に住んだ。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を発表し、明治22年(1889)には三遊派の隆盛を記念して近隣の木母寺(もくぼじ)に三遊塚を建立している。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(3)

江川太郎左衛門屋敷跡
 勝海舟生誕の地の石碑から東に歩き、清澄通りの広い道路を北に進み、京葉道路、さらにJR総武線をくぐって、江戸東京博物館交差点を東に折れると、北斎通りに入る。北斎通りを少し東に行くと、まもなく右手に北斎美術館がある緑町公園が見えてくる。この公園の西の道路の向かい側に、北斎美術館を背景にして「江川太郎左衛門屋敷跡」の説明板が建っている。
Photo_20260522053901  近世初頭から代官家である江川家は、清和源氏に祖をもつ大和源氏の系譜につながる名門家であった。源頼朝から江川荘を安堵されたことがその名の由来である。中世末期には後北条氏に仕えたが、秀吉の小田原征伐のとき寝返り、徳川家康から代官に任ぜられた。以後、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5.4万石(最大時には26万石)にわたる広範囲の代官となった。
 旗本ではあったが譜代ではなく、家禄としては150俵(約60石)にとどまっていた。
 江川英龍は、36代当主で、江川家当主は歴代「太郎左衛門」を名乗るが、もっとも高名で、太郎左衛門といえば英龍をさすことが多い。
 英龍は、享和元年(1801)伊豆国韮山に生まれた。
 幼少期より、剣術・学問に励み、剣は神道無心流皆伝、学問は佐藤一斎、書は市川米庵、詩は大窪詩仏、絵は谷文晁にと、当代一流の師に学んだ。
 英龍は、代官として擢んでた実績を誇り「世直し大明神」と領民からも尊敬され慕われた。
 民治では、商品作物の栽培・量産、二宮尊徳の報徳仕法の採用による農地の改良、役所経費の倹約と殖産貸付の増加、飢饉への施しなどを実現した。また、嘉永期に種痘が可能となると領民への接種を推進した。
 文化年間以後、外国船の出現などを受けて、天保8年(1837)幕府に海防にかんする建議を行った。長崎に高島秋帆門下となり近代砲術を学び、江戸に「江川塾」を開いてひろく藩士たちに教育した。多くの幕末維新の志士たちがそれを学んだ。
 品川に台場を建設し、湯島大小砲鋳立場を設立、武器の製造に必要な鉄鋼を造るための反射炉の建造にも取り組んだ。軍隊組織についても、出自の身分にとらわれない農兵軍の組織化に取り組んだが、これは彼の支配下の一部である武蔵多摩の土方歳三などによる新選組の創生にも影響を与えた。
 多方面に精力的に尽力するなか、過労もあって安政2年(1855)55歳にして病死した。後に、福沢諭吉や勝海舟などからも、高く評価される人物であった。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(2)

勝海舟生誕の地
 Photo_20260521054101 両国小学校のすぐ東に両国公園があり、この公園の南東隅に「勝海舟生誕の地」の石碑と、勝海舟にまつわる史実についてのかなり詳しい解説の看板がある。
 勝海舟は、文政6年(1823)父 勝小吉の実家があつたこの場所で生まれた。曽祖父は農民出身の盲人で、高利貸しで大きな富を得た検校で、祖父平蔵は御家人男谷(おだに)家の株を買い与えられて、男谷平蔵となった。平蔵の三男小吉(海舟の父)は、旗本小普請組の勝家に婿養子に出され、海舟が生まれたときは、実家たる男谷精一郎邸内に居たのであった。
 海舟は、この男谷家で7歳まで過ごし、本所の旗本家を両親とともに転々した後、天保2年(1831)本所入江町(現在の墨田区緑4丁目)の岡野氏の屋敷に移った。
 この家にいた6歳のころ、男谷の親戚であった阿茶の局の紹介で第11代将軍徳川家斉の孫 初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城に召されたこともあった。

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東京都心歴史散策「幕臣コース」(1)

Photo_20260520055801

①芥川龍之介文学碑 ②勝海舟生誕の地 ③江川太郎左衛門終焉の地
④三遊亭円朝住居跡 ⑤河竹黙阿弥終焉の地 ⑥山岡鉄舟生家
⑦勝海舟住地跡 ⑧マッチ製造発祥の地 ⑨伊藤佐千夫牧舎跡

芥川龍之介文学碑
 JR両国駅の東端から南に下り国道14号線京葉道路を渡って間もなく区立両国小学校に至る。この学校敷地の外側に「芥川龍之介文学碑」が建っている。石碑に嵌め込まれた大理石には、芥川龍之介の代表作のひとつとされる『杜子春』の一節が刻まれている。Photo_20260520055901
 芥川龍之介は、明治25年(1892)現在の中央区明石町に、乳牛牧場を経営する新原家の長男として生まれた。聖路加病院の近くにある生誕地の碑は、以前訪れたことがある。生後7か月で母の病気のため、母の実家芥川家のあったこの地に預けられ、13歳のとき芥川家の養子となった。この地に住んで、この両国小学校の前身たる江東小学校に通い、やがて現在の両国高校、当時の東京府立第三中学校を経て、第一高等学校に進学した。
 芥川家は、旧幕臣の名家で、養父道章は教養ある人物で文学・美術・歌舞伎など文化的な面で、幼少期から青年期迄の多感な時期の龍之介は大いに影響を受けたと思われる。

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千葉 御成街道と御茶屋御殿(3)

金光院の伝・御茶屋御殿裏門
 御茶屋御殿跡を出て、御成街道を少し引き返し、御成街道の北東方向にある金光院に行く。Photo_20260519054301
 金光院は、正応2年(1289)貞成上人が、少し離れた別の地に開基したと伝える真言宗豊山派のお寺である。天文20年(1551)火災に逢い焼失したが、現在の地に再建された。さきの大戦の前後に一時無人寺となり荒廃したが、戦後復興し、独特の大きな赤色に塗装された鉄板で覆われた茅葺屋根をもつ本堂、そして豪華な造りの鐘楼を誇る。
Photo_20260519054401  本尊の薬師如来は公募大師空海の作と伝える。
 今は焼失して跡形もない御茶屋御殿であるが、平成2年(1990)から7年間にわたる全面的な発掘調査によると、御茶屋御殿の裏門がこの金光院の山門としてうつされたようだとの見解がある。
 この寺院は御成街道沿いにあり、御茶屋御殿にも近かった。慶長19年(1614)正月筒、突貫工事の御成街道と御茶屋御殿が完成して、家康はこの地に来た。御茶屋御殿で休息・宿泊する予定であったが、家康を闇討ちするとの情報があり、家康はこの金光院で休息したという。一説では、この寺院に泊まったともいう。Photo_20260519054402
 このようなゆかりもあり、後に裏門がこの金光院の山門として移されたとの推測が成り立つ。
 徳川政権が確立し、安定期に入ると、鷹狩もかつてのように政治的・軍事的な探索などの緊張した目的が不要となり、鷹狩もさほど遠方まで行かずとも江戸近郊で、専ら保養や遊興としておこなわれるようになった。寛永7年(1630)の秀忠の鷹狩を最後として、将軍の東金御成はなくなった。
 これにより、かつては超一流の街道であった御成街道や、その休憩・宿泊のためにつくられた御茶屋などの施設も、用済みとなり、荒廃したらしい。
 おそらく用済みとなって日の浅いうちに表門や裏門が、なんらかの由来のある別の場所に移されたのではないかと推察されている。
 金光院に移された裏門は、荒廃を免れて現存しているのである。

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千葉 御成街道と御茶屋御殿(2)

御茶屋御殿跡
 御成街道をさらに南東に1kmほど行くと、御茶屋御殿跡の案内板が立っていて、ここから御成街道を離れて、車を止めてこんもりした森にむかって北東方向に歩くと、突然樹木がなくなり、優に100m以上の径と思われるかなり広い平地がある。
ここにはかつて御茶屋御殿が建っていた。Photo_20260518061101
 慶長18年(1613)徳川家康は、10月から北武蔵(現在の埼玉県)の各地で鷹狩をし、12月初めに住処たる駿府に戻ろうとした。そのとき、家臣の一人から、重臣のひとりが謀反を企てている、との訴えが届き、ただちに鷹狩りに同行していた本田正信に調査を命じ、また佐倉藩主土井利勝を呼びつけて、上総東金付近に来年初めころ鷹狩しつつ、関東の情勢を探ることを話し合ったという。
 家康が上総に鷹狩すると言い出したので、上総東金付近に所領を持つ土井利勝は、すぐに佐倉城に戻り、家康のお成りの道や休憩・宿泊地の選定、警護の方法、食事の賄(まかな)い、鷹狩りの場所や方法など、総合的に検討をはじめた。
 家康の移動の経路について、既存の街道を用いるとすれば、道幅が狭い、曲がりくねっていて行路が長く見通しも悪い、警備もしにくい、など問題が多いと判断した。
 そして結局、三間道(幅5.5m)で、船橋から東金までの8里余りを、できるだけ直線で結ぶ新しい御成街道を造成することと決断した。
 さらに家康に街道を旅させるには、道中の休憩・宿泊施設が必要である。
 このための施設として、船橋と東金の中間地点たる宇津志野(現在の千葉市若林区御殿町)と終点の東金に御殿を造成することとなった。
 宇津志野がここであり、ここに御茶屋御殿を建設したのであった。
 東西と南北それぞれ130mほどの約3600坪におよぶ広大なほぼ正方形の土地に、中世の城郭のような防備に配慮した御殿を建設した。
 このように、当初の御成街道御茶屋御殿は、単なる将軍の嗜みとしての鷹狩のみではなく、徳川政権の維持のために必要な情報収集・探索の手段でもあったようだ。

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千葉 御成街道と御茶屋御殿(1)

鼻付坂とちょうちん塚 

Photo_20260515054301

①鼻付坂  ②ちょうちん塚 ③御茶屋御殿跡 ④伝御茶屋御殿裏門

 千葉県の佐倉市を訪れた後、千葉県若葉区の御成街道と御茶屋御殿を訪れた。
Photo_20260515054901  この地元に住んでおられて地理に詳しい方の車に同乗させていただき、千葉都市モノレール千城台駅付近から出発した。
 まもなくこの近くを西北から南東に走る御成街道に入る。道路の道端には、ところどころに「御成街道」との標識が立っている。
 少し行くと「鼻付坂」と呼ばれる少し急なダウンとアップの坂道を通過する。御成街道は、江戸時代初期に造成された道路なので、道幅は四間幅といわれるとおり決して広くはなく、大きな自動車だと擦れ互いがいささか窮屈な感じの道である。
 そしてまもなく「ちょうちん塚」という道端の小さな盛り土の公園に行き当たる。
Photo_20260515054902  高さ3mほどの盛り土と10m四方ほどの空き地に樹木が茂っている。徳川家康の命令でこの地に御成街道を急いで造成することとなったので、道路造成工事が昼夜兼行で断行され、道沿いには道筋を決めて示すための灯りがある程度の距離ごとにともされたことが「ちょうちん塚」の名の由来であろうという。ここから4kmほど南東の東金の富田町にも「一里塚」と呼ばれる盛り土と椎木の古木があり、道のりの表示としても必要があったと推測される。

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映画「ブーニン」

 角川シネマ有楽町で、カドカワ映画「ブーニン」を観た。たまたまこの日は、東京在住の友人と二人で、正午ころまで東京都心の両国から錦糸町近辺を、レンタサイクルを利用しながら歴史散策をしていたが、正午ころから雨が降り出し、屋外の散策が困難となって、途中で散策のスケジュールをギブアップした。Photo_20260514054301
 その友人が、スケジュールの変更・代替案として、この映画の鑑賞を提案してくれたので、鑑賞の機会を得たのであった。
 ピアニスト スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニンは、1966年、共産主義国家ソビエト連邦のモスクワに、両親もピアニストという音楽家の一家に生まれた。4歳のときから、母からピアノを学んだ。
 1983年17歳で、国際コンクールに優勝した後、1985年19歳のとき、ショパン国際ピアノコンクールに優勝して世界的に有名となった。このコンクールについては、日本のNHKが詳細に取材していて、かなり詳しくそのときの様子が映画に示されている。
 その翌1986年には、日本で初公演を行ったが、日本のクラシック演奏会では珍しいほどの大ブームを引き起こした。
 しかし全体主義国家たるソ連は、彼の才能も国家管理して政治的に利用する立場であった。演奏活動は制限され、自由が不十分であった。その環境から逃れるため、ブーニンは1988年、当時の西ドイツに亡命した。ヨーロッパと、そして日本を中心に、演奏活動をした。レパートリーは、ショパン中心だが、バッハ、ベートーンなども演奏した。
 2013年ころから、演奏による酷使もあってか、左手の麻痺や事故による骨折、さらに左足の大手術による左脚の短縮など、身体的にピアニストとして致命的な事態が発生した。脚の異常は全身のバランスを損ねて、身体全体で演奏するブーニンにとっては深刻な障害となった。左手が思うように動かせないことももちろん大きな苦痛となった。そんな事情で、約9年間表舞台から離れていた。
 ブーニンの妻は日本人であり、ブーニン自身もある程度は日本語を理解し話すこともできる。ブーニンの危機からの脱出に、もっとも貢献して背中を押し続けたのは、妻であった。
 まだまだ回復は不十分と言いつつも、2022年復帰公演を実現して、日本ツアーやリサイタルも再開した。
 そんなブーニンの40年間の苦闘の半生を、実録のつなぎ合わせでドキュメンタリー的に制作された、NHKの協力を得た角川の制作による映画である。
 演奏のシーンは10曲ほどあったが、すべて演奏の中断はなく、ブーニンの楽曲演奏をしっかり伝えるものであった。
 私は、音楽とりわけクラシック音楽に特段の素養がなく、まったくの素人であるけれども、ブーニンの全知全霊全力をつぎ込む精緻でダイナミックな演奏には、とても感動した。楽曲は、作曲家の原作を基礎としつつも、音楽に組み上げるのは演奏家である、ということを具体的に理解できたと思った。
 こんなにすばらしい映画作品なのだが、上映の機会はきわめて少ないようだ。私は、なんの知識も情報もなかったので、この映画を観ることができたのは、ひとえに友人のおかげであった。

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2026年度高槻ジャズストリート

Kaho1_20260513053901 今年の高槻ジャズストリートは、初日の5月3日がかなり強い雨天だったので、参加を諦め、雨があがった4日のみ出かけたのであった。
 高槻城公園芸術文化劇場南館太陽ファルマテックホールで、まずはピアノのソロ演奏を聴いた。
 演奏者はKahoと言い、現在枚方在住の29歳だという。ちょうど1999年から始まった高槻ジャズストリートが、今年で29回を迎えたが、彼女は1999年生まれで、同い年だと言った。
 MCはまだ苦手だというが、それなりに初々しい好感の持てる話しぶりであった。
Kaho2  演奏した曲はすべて自ら作曲した作品ばかりで、軽音楽でもクラシックでもないような、それでも複雑で迫力ある演奏であった。丁寧でしっかりした演奏スタイルには、感動した。
 ふたつ目は、すぐ隣の会場の高槻城公園芸術文化劇場南館サンユレックホールで、白瀬晴花Quintetの演奏を聴いた。
 リーダーのテナーサックスを受け持つ白瀬晴花は、大学を卒業してまだ2年目だというが、落ち着いて堂々たる演奏であった。ピアノの山本懐輝、ベースの夏吉航大の演奏も良かった。
Quintet  三つ目は、やはり南館のトリシマホールを狙ったが、この会場は1,500人収容の大会場にもかかわらず、待ち行列がすでにオーバーフローして入場を拒否された。そのため、少し歩いて、高槻市立桃園小学校グランド会場に移動した。
 少し遠いためMiki Hirose Jazz Orchestraの演奏開始には5分余り遅刻したが、野外会場なので立見席に入場はできた。野外の広がりに負けない力強い演奏ではあったが、強いて言えばあと一歩演奏の魅力に欠けたように思う。Miki-hirose-jazz-orchestra
 最後は、帰り道でもある阪急高槻駅高架下広場でTONEBASS Talking to YUKIというトリオの演奏を聴いた。このトリオはかなりユニークで、リードギターはなく、センターのコントラバスとエレクトリック・ピアノとドラムで構成される。
Tonebass-talking-to-yuki  そんな変わった構成でもあり、音楽を聴くまではさほど期待していなかったけれど、片岡ゆきのエレクトリック・ピアノは自由奔放かつ安定した素晴らしい演奏だし、中央で演奏する刀祢直和のコントラバスがとても良かった。指で弾き、また弓で弾き、ダイナミックで力強い、さらに自由奔放な演奏であった。最初は目立たなかった水上ダンヒルのドラムだが、だんだんになかなかハイレベルな演奏を聴かせてくれた。演奏は、アドリブをたっぷりいれた長い2曲のみで、その2曲目の途中から、メンバーリストには記載されていない女性ヴォーカルが加わり、これもなかなか良かった。結局、ここで今日の最後を締めくくるにふさわしい素晴らしい演奏に出会えたのであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(23)

宮脇愛子 (1929~2014)
 宮脇愛子は、昭和4年(1929)静岡県熱海の資産家の一人娘、荒木愛子として生まれた。幼少期から病弱であったため、戦時中もほとんど自宅で療養していた。昭和20年(1945)小説家の広津和郎が近所に転居してから、家族ぐるみの交流がはじまった。
4_20260512053901  昭和21年(1956)県立小田原高等女学校(現在の神奈川県立小田原高校)を卒業し、日本女子大学文学部史学科に入学した。在学中に東京大学西洋史学科学生であった宮脇俊三と結婚した。愛子は広津を宮脇に紹介し、後に宮脇は中央公論社編集者として広津を担当するようになった。
 昭和27年(1952)大学を卒業して、その翌年から文化学院美術科に学んだ。夫の実姉で画家の神谷信子を介して画家の阿部展也や斎藤義重に師事した。以後。昭和41年(1966)まで欧米各地に滞在して、画材の質感を強調した平面と、金属やガラスを素材にした立体を制作した。昭和42年(1967)には真鍮パイプによる彫刻でグッゲンハイム国際彫刻展買上賞を受賞した。「作品」昭和42年(1967)として、今回展示されている。
 すでに昭和40年(1965)宮脇とは離婚していたが、昭和47年(1972)建築家の磯崎新と再婚し、引き続き宮脇愛子の名で活動を続けた。Photo_20260512053901
 宮脇愛子「作品4」昭和34年(1959)が展示されている。
 かなり初期の作品だが、油彩をベースにしながら大理石の粉末を加え材料の質感を強調した、特異な知的な作品である。
 金属の彫刻作品として宮脇愛子「作品」昭和43年(1968)が展示されている。
 真鍮の角パイプを重ねて自在に構成し、光の効果は照明光と見る角度で自在に変化する。金属という素材のみならず、光そのものを不可欠な素材として働かせている。

 私自身よりも四半世紀ほど年長の世代の女性芸術家が特集された展覧会であった。たしかに私などはこれらの芸術家たちが置かれた環境や空気感がわからないのだが、戦後復興と社会改革、男性と女性、男女平等、ジェンダーの壁、など私が知らないような、理解できないような雰囲気やプレッシャーのなかで、懸命かつ果敢に絵画に取り組んだ人たちの紹介であった。
 少し前に個展でみた木下佳通代は、私たちよりひとまわり近く年少であり、やはり世代と背景、そして作品の印象がかなり違うことを感じた。
 それらの当時の環境や空気感を知らずに虚心坦懐にながめると、やはり個性がはっきりして主張が明確な作品は、いまでもいつでもインパクトがあり、感動する人たちもあったろうと思う。
 当日美術館に入るまでは、なにも知らずなにもわからず、期待もしていなかった企画展であったけれど、展示作品の多数は、それぞれ興味深いものであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(22)

田中敦子(1932~2005)
Photo_20260511060901  田中敦子は、昭和7年(1932)大阪市に生まれ、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)に入学したが、まもなく退学し、大阪市立美術館研究所に通った。そこで金山明と出会い、金山を通じて研究グループ「0会」を知り、昭和30年(1955)0会とともに「具体美術協会」に参加した。
 電球と電気コードによる昭和31年(1956)の「電気服」から展開した絵画が、ミシェル・タピエの高い評価を得て、欧米の多数の展覧会に参加するようになった。
 昭和40年(1965)金山とともに具体を脱会し、金山と結婚した。
 昭和45年(1970)以降は、奈良の明日香村を拠点に制作活動を続けた。
 田中敦子「地獄門」昭和40-44年(1965-69)が展示されている。
 田中は、芸術作品がどのように現れるべきであるか、あるいは「為される」べきか、という従来の概念を拒否した。田中の作品は、抽象画、彫刻、パフォーマンスの他、織物やドアベル、電球などの日用品を特徴としたインスタレーションなどがある。そして中でも有名なのが「電気服」であり、電線と電球からなるムスリムのブルカのような衣装である。
 そしてその電気服から派生して、この作品のような電球の集合が描かれる。
 このひとの絵画は、これまでなんども見てきた。こんなに同じテーマと手法で、ほんとに長い間制作を続けられたものだと、素人は思ってしまう。それでも、社会的価値を広く認められて、国際的に重要とされているニューヨーク近代美術館のパブリックコレクションとされている。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(21)

榎本和子(1930~2019)
Meditation  榎本和子「Meditation」昭和35年(1960)が展示されている。
 ここでは「Meditation=瞑想」という精神の営為を表現しようと、これもシュルレアリスム的描写なのだろう。とりとめのない想念が浮かんでは消えてゆく。それは意図的なものも、無意識のものもあるだろうから、表現は偶発的な印象も多い。この場合には、明確なものがあまりなくても仕方がないのだろう。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(20)

榎本和子(1930~2019)
Photo_20260507060901  榎本和子は、昭和5年(1930)兵庫県に生まれ、名古屋で育った。旧制金城女子専門学校卒業間近の昭和24年(1949)3月、美術文化協会展に初入選した。それをきっかけに、同会の阿部展也、瀧口修造と出会った。
 昭和26年(1951)京都に移り、昭和28年(1953)瀧口の推薦を得てタケミヤ画廊にて初の個展を開催した。阿部を接点に福島秀子と知り合い、以後親密になった。「二人展」も開催した。福島が病魔に倒れると、「人間業の限界をすすんで選び取った」と言われるほどに献身的に看病した。
 昭和32年(1957)上京し、さまざまな画面での技法上の実験を深めるとともに、シュルレアリスム的なイメージの探求も進めた。
 昭和39年(1964)批評家の東野芳明と結婚して、一時制作から遠ざかった。しかし昭和45年(1970)離婚した後は、絵画の数理的研究に関心の軸を移して活動を再開した。
 榎本和子「記憶の時」昭和26年(1951)が展示されている。
 「記憶」という抽象的な概念の表現のために、すでにシュルレアリスム的な傾向が顕れているように思う。「記憶の構造」のようなものを、形と色彩で表現しようとしているようだ。「記憶」はおぼろげな背景のなかにあっても、それなりに明確でなければならない、という表現だと思う。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(19)

福島秀子(1927~1997)
Photo_20260506065401  福島秀子は、昭和2年(1927)東京市赤坂に生まれた。文化学院を卒業後、昭和23年(1948)北代省三、山口勝弘らとともに前衛美術グループ「七耀会」を結成し、昭和26年(1951)には瀧口修造が命名した「実験工房」に参加し、舞台芸術や映像、美術などジャンルを越えた表現に取り組んだ。福島秀子は、実験工房の舞台のために、華やかな衣装のデザインも行った。女性の美術家にとって、衣服が外見の社会的な役割を別の角度から考え直すきっかけともなった。見せ方を自分で組み立てることは、構成や彩色にともなう判断と同じく、創作に通じる営為である。
 草間彌生の場合と同様に、ファッションは女性美術家ならではの貢献でもあった。福島秀子は、多様なメディアを横断しながら、総合的な芸術実践に携わる一方で、独自の抽象絵画を追求した。
 昭和30年ころ(1950年代後半)には、 型押し(スタンピング)によって円や矩形、線を画面に浮かび上がらせる独自の技法を確立し、自らの表現を深化させていった。その制作は1950年代から1990年代にかけて国内外で継続的に発表され、フランスの批評家ミシェル・タピエの評価を得つつ、パリ青年ビエンナーレ(1961)への出品を契機に渡仏するなど、国際的にも活動の場を広げた。109
 モノクロームによる「弧」シリーズや、青を基調とした作品、パラフィン・ワックスを用いたコラージュなど、時代ごとに異なる手法を取り入れながら、一貫して静謐かつ探究的な姿勢を貫いた。
 福島秀子「ささげもの」昭和32年(1957)が展示されている。
 スタンピングなどの応用と、画面を引き締め骨組みとする黒色の活用が見られる。
 福島秀子「作品109」昭和34年(1959)が展示されている。ここでもスタンピングの応用が見られるが、画面の構成は、ずいぶん変化している。
 また、早くから榎本和子との信頼・協力関係もよく知られていた。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(18)

山崎つる子 (1925~2019)
32  山崎つる子は、大正14年(1925)兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)に生まれた。小林聖心女子学院英語専修科を卒業して昭和22年(1947)芦屋市主催の美術講習会で二科会の前衛画家 吉原治良に出会い、指導を受けるようになった。
 昭和29年(1954)吉原をリーダーに結成された「具体美術協会」の会員となり、光を反射する金属の板やブリキ缶、ビニールシートなどによる立体や、ストライプを基調とする色鮮やかな絵画などを制作した。ときには具象的なモチーフも取り入れつつ、鮮烈な色彩表現を追求し続けた。
 今回の展覧会の、代表的存在として昭和39年(1964)制作の「作品」がポスターに用いられている。36
山崎つる子「作品」昭和32年(1957)は、ブリキで緩やかな塊をつくり、表面を鮮やかな色彩で飾ったうえで、強い色彩の照明で輝かせるものである。
 山崎つる子「作品」昭和36年(1961)が展示されている。
これは幾何学的に形、フリーハンドの自由な線、自然物の立体的形態などを適冝取り入れて、感性にまかせて鮮明な色彩を施した装飾的な作品である。この展覧会のポスターに採用された作品にも類似してとりわけ色彩の鮮やかな作品である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(17)

田部光子(1933~2024)Photo_20260504060701
 田部光子「ああ!寺山修司」昭和41年(1966)は、ベトナム戦争最中の昭和41年(1966)に連載された寺山修司(1935~83)の時事的小説「街に戦場あり」のページをコラージュし、田部のトレードマークたるイヴの象徴であるリンゴの図を描いた作品である。
 令和6年(2024)91歳で亡くなるまで、福岡の美術界と女性作家の活動を牽引した芸術家であった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(16)

田部光子(1933~2024)
Photo_20260501055301  田部光子(たべ みつこ)は、昭和8年(1933)日本統治下の台湾に、石橋光子として生まれた。終戦後の昭和21年(1946)福岡に引き揚げ、浮羽高等女学校を卒業後、岩田屋百貨店に勤め、その絵画部でデッサンを研修した。
 やがて福岡県展などに出品するようになり、昭和32年(1957)前衛美術グループ「九州派」の結成に参加した。翌昭和33年(1958)新聞社員の田部健二と結婚し、自宅で絵画教室をはじめた。
 社会運動や妊娠の実体験にもとづく社会と性への問題意識から、生活者の視点を重視する九州派のなかでも特異な表現活動を展開した。
 田部光子「作品」昭和37年(1962)が展示されている。
 敷き詰められたピンポン玉を囲う花びらのような形は、下地の襖に焼き付けられたアイロンの焦げ跡であり、女性の家事労働の証である。焦げ跡のうえには、さらにキスマークを施して女性性を誇張している。社会における女性の労働者的立場からの視点を、当事者として作品に盛り込んでいる。田部光子は、自らは「社会主義的なメッセージを作品に表すのは好きではない」と語りながらも、地元福岡の炭鉱を訪れたり、大正炭鉱の炭鉱夫の写真を摂ったり、オブジェを発表したり、労働問題に強い関心を寄せていた。

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