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文化・芸術

第20回高槻ジャズストリート (3)

第3日
 3日目は、前日までの63会場から9会場に絞り込んで行われた。
 まず高槻現代劇場文化ホール3階レセプションルームの会場に入った。やはり3日目最終日とあってか、若干聴衆は少なく、1セッションを待たずに座席にありつくことができた。
 後半のみの鑑賞であったが、「zmg 宮川真由美トリオ×宮田明奈vo」の宮田のヴォーカルを少し聴くことができた。耳に心地よく入る魅力ある声で、抒情的な歌唱はとても良かった。
 「Comfort」は、サックス高木哲男を軸とするピアノ、ベース、ドラムをともなったクァルテットである。歯切れよく引き締まった、まさにジャズらしい良い演奏を楽しめた。とくにセロニアス・モンクが作曲したナンバーだという曲が素晴らしかった。高木は「難しい曲です。曲が難しいのか、作曲者が難しいのか」と話していたが、聴く側では「良い曲だ。曲が優れているのか、演奏者が優れているのか」というのが実感であった。
Comfort
 高木は、演奏の合間に興味深いエピソードを披露した。彼らが昨年秋にニューヨークで演奏したとき、折しも訪米中であった安倍首相夫妻が来場したという。20人近い大勢の護衛官が随行していて、開演前に高木がふとトイレに行こうとして、安倍首相夫妻のグループがいた後ろ側をすり抜けようとした途端、ボディーガードのひとりに脇から抱え上げられていた、という。その怪力に驚くと同時に、上腕のあたりに拳銃らしき固いものが衣服を通して感じられたのが、とても怖かったという。要人がいるときは、警備関係者はもちろん、その場に居合わせる人々も思わぬことがあり得て、大変であるとのことであった。ともかくこの4人の演奏は、とても素晴らしいものであった。
Ethnic_minority ホールを出て、高槻第一中学のグランドの会場に移動した。今日は昨日と打って変わって素晴らしい快晴で、気温も24度以上にあがり、湿度も低く風もなく、快適な野外会場である。少し聴いたが、音楽がいささか好みでないため、今度は生涯学習センターに行ってみた。ところがこの会場は入場規制が厳しくて、混んでいるため2時間あとまで場外で待機だという。しかたなく、桃園小学校グランドの会場に移った。
 ここでは「ケイコリー」のヴォーカルセッションの後半であった。
 そのセッションはなぜか早めに終わり、一部聴衆の入れ替わりがあって、幸い正面のよい座席にありついた。ただ、この会場では写真撮影が禁止だという。
 「NAOTO Special Guest: K」のセッションがあり、そのあと「大野綾子トリオ」の演奏があった。これがなかなか素晴らしかった。大野綾子のピアノは、やわらかいタッチながら音のきらめきも力強さもあって、心にしみいるような抒情的な演奏である。これはとても得をした気分になった。今後もぜひ聴きたいと思う。
 3日間の会期のすべての時間ではないが、毎日歩き回ってジャズ中心に生演奏の音楽をたくさん聴いた。63会場にのべ4,000人ほどのミュージシャンが登場して演奏したという。私が聴いたのは、そのうちのごく一部に過ぎないが、十分楽しめた。私の嗜好もあるし、明らかな演奏の巧拙もあり、すべてが大満足というわけではないが、私にとって日ごろ真剣に聴く機会がほとんどないジャズや軽音楽を、まとめてしっかり鑑賞できる貴重な機会である。これからも、年に一度の楽しみであり続けるだろう。

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第20回高槻ジャズストリート (2)

第2日
 昨日も夕方から急速に寒くなったが、今日は天気予報によると、最高気温が大幅に下がって20度を下回り、その上冷たい風が強く吹くという。そこで方針を変更して、今日は室内の会場だけをめぐることとした。
Photo
 10年ほど前に新設された関西大学高槻ミューズキャンパスに行く。ここの学生食堂を会場として、学生と一般のビッグバンドの演奏がプログラムされていた。
 最初は「甲南高校・中学校ブラスバンド部」である。よく練習している成果だろう、音はよくあっていた。
 2番目は「関西大学中高等部吹奏楽部」の演奏があった。女学生の比率が高いチームである。中学1年生は、みんなの前でダンスを披露したり、中学・高校のメンバーが順次ソロのために前に出てきて演奏したりする。注目すべきはファゴットの奏者もいて、ソロもあった。出演する学生の親御さんもかなりいて、写真やビデオの撮影に懸命である。アルトサックスのソロ演奏をしたクールビューティな感じの背の高い女学生は、自信満々の演奏で、たしかに上手であった。それを直近からビデオ撮影するお母さんがいた。容姿が似ているので、すぐにわかる。ずいぶん前に、私たちの子供たちも吹奏楽をやっていて、デューク・エリントンや、カウント・ベイシーの曲を演奏していたのを、懐かしく思い出していた。

Photo_2 3番目は「高槻ブルースリッパーズ」という市民バンドである。高槻市にある三島高校のOB・OGが中心となって、20名あまりのメンバーで、十数年以上活動している。高槻ジャズストリートにも10年間以上連続して出演しているという。中学生・高校生の演奏の後だったこともあってか、とくに金管楽器の演奏の迫力が違っていた。トランペットとトロンボーンがなかなか良かった。ヴォーカルの女性も、独特の力強い歌声であった。Photo_3
 少し移動して「1624 TENJIN」という、ビルの地下にある音楽レストランの会場に来た。ここでは最初に「すきゃおらっ」といういささか意味不明の名前の10人グルーブの演奏を聴いた。ジャズストリートのTシャツにジーパンというごくラフないで立ちで、気楽な雰囲気で始まったセッションであったが、トランペット・サックス・トロンボーンと、いずれの楽器奏者もなかなか達者で、会場はすっかり盛り上がっていた。地下の広くないスペースに小さめの舞台なので、10人もの奏者が登壇すると、重なって全員の姿は見えない。100人程度の座席のようだが、満員の会場は両脇の通路にたくさんの立ち見客がいて、盛んに手を振って声援を送る。バンドリーダーが聴衆に、立ち上がって一緒に踊ることを呼びかけると、呼応して座席から立ち上がって踊りだすひとたちもたくさんいて、座席にいる者はますます舞台が見えなくなる。ヴォーカルの女性も、関西弁で話す気さくそうな女の子だが、なかなかしっかり歌っていた。No_plan
 「樫村あやことNO PLAN」の演奏があった。ヴォーカルの樫村あやこが、今日はNO PLANというリードギター・ベースギター・キーボード・ドラムの器楽グループと共演するのである。ピアノ+キーボードもなかなか軽やかな楽しい演奏で、リードギターもベースギターも歯切れのよい巧みな演奏であった。最初の3曲は、NO PLANのインストラメンタルで、その後おもむろにヴォーカルの樫村あやこが登場する。ポピュラーなジャズとポップスを、軽やかに楽しく聴かせてくれたが、最後の「ララバイ」がいちばんよかった。
 今日もヴォーカルをいくつか聴いたが、歌というものは、旋律とリズムに正しくあわせて歌詞を発声するだけでは、聴衆に伝わる歌にはならない。ひとつの曲の短い時間のなかで、いかに短編の物語あるいはエッセイを演じ、訴えるか、広義の演技力あるいはコミュニケーション力が必須であり、それぞれの演奏に大きな差が現れるということを改めて認識した。

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第20回高槻ジャズストリート (1)

 今年の高槻ジャズストリートは第20回記念大会として、会期が1日延長され、5月3日から5日までの3日間の開催となった。開催前日の2日、かなりしっかり雨が降ったので、ジャズストリートもどうなることかと心配したが、幸いにして3日正午まえから日が差して、晴れてきたのでひと安心した。

第1日
 まず桃園小学校グランドの野外会場に行き「Hiromi Suda Quartet」を聴いた。迫力あるヴォーカルだったが、ボサノバとブラジリアン音楽とのことで、英語ではなくポルトガル語なのか、リリックがいささかなじみにくいという感じである。
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 つぎは、そこから直近の生涯学習センター多目的ホールへ移り「Trumpet Ohenro」という名前のトランペット・ピアノ・ヴォーカルの3人組の演奏を聴いた。東京・香川・愛媛から集まったトリオだという。リーダー中村のトランペットはささやくような、あたかもサキソフォンのような繊細な演奏である。ヴォーカルの溝田は、声質は魅力的だが、少し発音がわかりにくい。
 同じ会場で続けて「フィリップストレンジトリオ」を聴いた。フィリップストレンジのビアノは、これまでも何回か聴いているが、いつもながら繊細で美しい演奏であった。ひとつひとつの音がすっきり分離して清澄に響くのである。同じ楽器でも、こんなに美しい音が出せるのか、とまたまた感動した。ベースの萬の演奏もよかった。

Kyoto_composers_jazz_orchestra
 次は少し歩いて高槻第一中学校グランドの野外ステージに移動した。「牧山純子とKyoto Composers Jazz Orchestra」を聴いた。よく晴れていた空が曇りだし、風がかなり強く吹き始めていた。
 牧山純子はヴァイオリンでジャズを演奏し、なかなかエネルギッシュなヴィジュアル系のプレイを見せる。演奏途中に、友人だというヴォーカリストShihoがサプライズで合流し、華やかな舞台となった。風が強く、楽譜が吹き飛ばされたり、牧山の服が風で乱れて演奏が危うくなったり、と波乱万丈の演奏となった。牧山が2016年スロベニア共和国の独立記念コンサートに招かれたのを機会に作曲したという「スロベニア組曲」から「スロベニアの風」を演奏した。スロベニアは風が強く、特産物のワインの原料であるブドウ栽培では、害虫を除いてくれるのも強い風だという。この日は、まさに屋外で風に吹かれての演奏となり、牧山は貴重な経験になったと話していた。最後の曲は、牧山が10年前にメジャー・デビューしたときの曲「ミストラル」で、これまたフランス南東部に吹く冬季の季節風の名前であり、重ねて風に吹かれての風の曲となった。私にとっては、ヴァイオリンによるジャズの演奏を聴くのが初めて、また屋外でヴァイオリンの演奏を聴くことも初めてで、とても貴重な機会となった。牧山は、ルックスもよく魅力的なヴァイオリン奏者で、なかなか楽しめる演奏であった。
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 最後は、最初に訪れた桃園小学校グランドのステージで「宇崎竜童と御堂筋ブルースバンド」を聴いた。日が傾いて昼間の陽射しの暖かさ・暑さが影をひそめ、冷たい風で寒くなってきた。移動の途中、野見神社の会場で「大野綾子トリオとウィリアムス浩子」の舞台を少し覗き、ウィリアムス浩子の魅力的な歌声を少し楽しむことができた。桃園小学校グランドに着くと、さすがに宇崎竜童という有名人の人気のお陰か、広いグランドがぎっしり満員になっていて、さきほどまでの寒さが緩和されるばかりの人だかりと熱気がある。
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 宇崎竜童はすでに72歳だが、ステージではずいぶん若く見え、歌声も力強く若々しい。「まさに現役の大物」というオーラを強烈に発している。私たちの年代には懐かしい曲も多く、この域になると、演奏の技術の巧拙などを飛び越えた魅力と貫録があり、大勢の観衆を魅了していた。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (7)

源空寺の墓地・谷文晁の墓
 谷文晁は、御三卿田安家の家臣谷麓谷の子として江戸時代後期の宝暦13年(1763)、江戸に生まれた。

Photo 父の友人であった狩野派の加藤文麗から絵を学び、18歳の頃には中山高陽の弟子渡辺玄対に師事した。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めた。その後も狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画までも学んだ。26歳の時長崎旅行に出て大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉から南画の指南を受けた。長崎に着いてからは張秋谷に画法を習った。こうして広く学んだ諸派を折衷し、南北合体の画風を目指し、またその画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及んだ。画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に 関東南画壇の泰斗となった。
 また、父の谷麓谷も漢詩人として名を知られていて、文晁は文才をも持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。菊池五山の『五山堂詩話』巻3に、文晁の漢詩が掲載されている。
 門人には、渡辺崋山、立原杏所、高久靄厓(たかくあいがい)などがいる。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (6)

源空寺の墓地・幡随院長兵衛夫妻の墓
 幡随院長兵衛は、唐津藩の武士塚本伊織の子として、江戸時代前期の元和8年(1622)生まれたとされるが、渡辺党松浦氏の一統で滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職向導の実弟か、または幡随院の門守の子とする説もあるらしい。
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 幡随院の住職向導に私淑し、江戸に出て浅草花川戸に住み、武家に奉公人を斡旋する口入れ屋を営んだ。口入れ屋の娘きんを女房にした。
 当時の江戸は、町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となって旗本奴の頭領水野十郎左衛門(水野成之)と激しく張り合うようになった。そんななか、若い者の揉め事の手打ちを口実に水野十郎左衛門に呼び出されて謀殺されたと伝える。没年や日時は諸説あるが、30歳代で殺されたと推測されている。
 歌舞伎の登場人物として広く知られ、芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であると気づいていたが「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」と啖呵を切って、殺されるのを承知で単身水野の屋敷に乗り込んだとする。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で刀もなく裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (5)

源空寺の墓地・高橋至時の墓
 法要が行われた源空寺の墓地には、伊能忠敬のほかにも何人かの著名人が祀られている。
 伊能忠敬の師であった高橋至時の墓が、伊能忠敬の墓の近くにある。高橋至時は、明和元年(1764)大坂に大坂定番同心の子として生まれた。利発な子であった至時は、青年期から算術を松岡能一に、暦学を麻田剛立に師事した。至時は同門の間重富とともに天文学・暦学を研鑽して、寛政7年(1895)、江戸に召喚されて幕府天文方となり、当時採用されていた精度の悪い宝暦暦を改暦することを命ぜられた。至時は、間重富などの仲間とともに、輸入された当時最新の書物を通じて太陽系の惑星軌道がケプラーの説くように楕円軌道であることまで理解するなど、当時の最先端の天文学者であった。これらの勉学と研究は、のちに寛政暦として結実した。
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 その間、寛政7年(1795)ころ、19歳年長の伊能忠敬が彼の下に入門してきたのであった。
  伊能忠敬はまるい地球の寸法に関心をもち、そのために緯度1度に相当する子午線の弧長を求めたいと言った。それは至時の関心事でもあった。伊能忠敬は深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量し、その値をもとに大まかな値を求めてみたが、至時はそのような短い距離で求めても意味がないとし、正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと教えた。
 これがきっかけとなって伊能忠敬は蝦夷測量を実行し、さらに日本全国の測量へと発展していった。至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には忠敬に助言を与えたりするなど、さまざまな形で測量事業を支援した。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (4)

上野源空寺での伊能忠敬歿後200年法要
 バスは浅草寺近くを経て上野に至り、「伊能忠敬歿後200年法要」が執り行われる源空寺に着く。この日は4月下旬に入ったばかりというのに、最高気温が28度を超える夏日となった。それでも湿度が十分低かったのか、さほど汗をかかずに過ごすことができたのは幸いであった。
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 源空寺は、正式には五台山文殊院源空寺という浄土宗の寺院である。戦国末期の天正18年(1590)、佐竹氏の一族であった道阿霊門上人が湯島に草庵を結んだのを開祖とする。浄土宗を信仰した徳川家康が帰依し、慶長9年(1604) 寺領・堂宇・寺院名を与えたのが創建とされている。明暦3年(1657)の江戸大火で焼失し、現在の場所に再建された。その後も戦禍・震災・火災でなんども焼失し、再建されている。
 法要は屋外の伊能忠敬のお墓の前で執り行われ、伊能忠敬関係者一同が順番に参拝・焼香した。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (3)

浅草天文台跡
Photo バスが芝公園を出て富岡八幡宮に向かうその途中に、伊能忠敬終焉の地とされる「地図御用所」の跡(中央区日本橋茅場町2丁目)を通り、そのあと富岡八幡宮から法要の行われる源空寺に向かう途中に台東区浅草橋3丁目の「浅草天文台跡」(天文方御用屋敷)を通る。いずれも大勢の人がバスから出て見学できるような場所ではないので、バスの窓から史跡の説明板をみることになる。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などのための施設であった。天明2年(1782)、牛込の藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがた)」の施設であり、正確な暦を作るために天体観測を行ったのである。
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 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があったという。別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』のなかの「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 この浅草天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改暦に際して天体観測した場所であり、この至時の弟子のひとりに伊能忠敬がいた。伊能忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、地球の緯度1分の長さを求めようとした。そして師の高橋至時から、精度上この距離では短すぎることを指摘され、江戸から蝦夷まで旅に出ることになったのが伊能地図のはじまりであった。高橋至時の死後、父の跡を継いだ景保(かげやす)の進言により、文化8年(1811)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学にいたったのである。
 天文台は、天保13年(1842)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも明治2年(1869)に新政府によって廃止された。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (2)

富岡八幡宮の伊能忠敬銅像
 バスが深川の富岡八幡宮に着く。昨年12月、この神社の女性宮司が実弟に日本刀で切り殺されて、犯人の弟が内縁の妻とともに自殺するという、神社に相応しくない凄惨な事件があった現場でもある。今年の正月は、さすがに参拝客が激減したと報道があったが、私たちが訪れた日は骨董市が開催されていて、なかなか賑わっていた。
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 この神社の正面鳥居を入って間もなく、参道脇に伊能忠敬の銅像がある。平成13年(2001)除幕式を行った新しい銅像である。式典には映画「伊能忠敬-子午線の夢」で忠敬翁を演じた加藤剛、妻・お栄役の賀来千香子らが役柄の扮装のまま駆けつけ、地元の数矢小学校の児童たちとともに除幕を行なったという。
Photo_2 伊能忠敬研究会のメンバーでもある彫刻家酒井道久さんが私たち一行に参加しておられ、銅像建立のエピソードを聴くことができた。この銅像は、シチュエーションとしては、伊能忠敬が全国測量の最初の旅に出るとき、この富岡八幡宮に旅の安全と事業の成功を祈願して、さあ出かけるぞ、という場面である。それは伊能忠敬が55歳のときであったが、銅像としてはもう少し円熟・老成した60歳過ぎころの相貌としたという。伊能忠敬の肖像画として残っているものはもっと晩年のものであり、頬もこけていささか力強さに欠けるので、酒井さんは子孫の何人かに面談して、容貌のヒントを得ようとした。しかしさすがに6~7代も下ると、容貌もほとんどわからなかったそうである。それでも、頬の骨が高く、鼻筋がしっかりしているなど、一部のポイントを把握して制作したという。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (1)

 伊能測量協力者顕彰大会の行事としてバスで東京都心部の伊能忠敬ゆかりの地を訪れ、そのあと上野源空寺で伊能忠敬二百年法要に参列することになった。

芝公園の伊能忠敬測地遺功表
Photo_4 朝、東京駅で集合して出発した2台のバスは、港区芝公園に着いた。ここには「芝丸山古墳」の前方後円墳のうちの円状の山にあたり、少し坂道を登る。東京タワーのすぐ下付近にあたり、都心なのに緑ゆたかで静寂な山道風の小道である。数十人で見学するので、登り道はすぐいっぱいになる。Photo_2
 頂上に着くと、正面に伊能忠敬の業績を顕彰する「伊能忠敬測地遺功表」がある。
最初は明治22年(1889)東京地学協会が、高さ8.6メートルの青銅製の角柱として、伊能忠敬の功績を顕彰する遺功表を建てた。しかしさきの大戦中の昭和19年(1944)軍需物資として金属回収策がとられたときに撤去されてしまった。戦後もようやく落ち着いて東京オリンピックも終えた昭和40年(1965)、現在の形に再建された。
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 伊能忠敬がつくった地図の日本列島全体がレリーフ彫刻されているが、興味深いのは、間宮林蔵が測量し伊能忠敬が測量したわけでない北海道の北部については、海岸線が破線で描かれている。
 ここからは、東京タワーを見上げ、芝公園や増上寺境内を見下ろすことができる。私は首都圏に住んでいたころを含めて、何度も増上寺近辺には足を運んだが、こんな丘と記念碑があることはまったく知らなかった。

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