2018年12月
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文化・芸術

吉例顔見世12月興行 南座

 南座での顔見世の12月興行を鑑賞した。夜の部はいつもより遅い午後4時50分の開演であった。

12 最初の演目は「義経千本桜 木の実・小金吾討死・すし屋」である。これは『平家物語』を底本としながら、平治の乱で源氏に敗れた平氏一族の残党に対する源氏の追討の一環のエピソードの物語である。平清盛の子で武勇・人格に際立って優れ人望を集めていた平重盛には維盛(これもり)という嫡子がいたが、源平合戦で敗れて自死したと伝えられている。しかし、この舞台では、実は生きて高野山に逃れた、ということになっている。
 維盛の妻若葉の内侍と、その子六代の君が、重盛にかつて仕えていた主馬小金五という若侍に連れられて、高野山の維盛をたずねる旅の途中、大和国吉野の街道筋の茶店に立ち寄っているところから「木の実」の舞台が始まる。幼い六代の君が、木から落ちた木の実を拾って遊んでいると、遊び人風の男が通りかかって、礫で木の枝を打ち、たくさんの木の実を落として六代の君を喜ばせる。ここまでは、ごく平穏な風景である。しかし実はこの男「いがみの権太」とあだ名の名うてのワルで、謀って小金吾から金を巻き上げる。この茶屋は実は、権太の女房である小せんが営む茶店で、六代の君と同じくらいの年頃の男の子が遊んでいて、後の展開の伏線となっている。
 「小金吾討死」の場では、若葉の内侍の一行が旅を行く途中で、大勢の源氏の追手に襲われ、大立ち回りの末、小金吾はついに切り殺されてしまう。舞台はさまざまな派手な振り付けが見もので、とくにたくさんの縄をつかった殺陣の振り付けがおもしろい。そこへ近くの村のすし屋の親父弥左衛門が通りかかり、死んだ小金吾を発見して、なにやら不審なふるまいを始めるところでこの場は終わる。
 最後の「すし屋」の場では、この店の主人弥左衛門が権太の父であり、ここに維盛が店の見習いの使用人に身を窶して滞在している。ここへ偶然若葉の内侍と六代の君が迷い込み、維盛と喜びの再会を果たす。その事情を、たまたま金の無心に来ていた放蕩息子の権太が立ち聞きして、悪知恵を働かそうと動き出す。親父の弥左衛門は、かつて重盛に命を救われたことがあり、命がけで重盛の子の維盛を救おうとしていた。この店の鮨は、桶に米を入れて発酵させる押し鮨で、そのため多数の空桶が置いてあるが、この取り違えがストーリー展開の鍵となり、悪だくみを図っていた権太は、弥左衛門にその罪を咎められて刺殺される。しかし、死に臨んだ権太は、実は父の意志を理解しており、弥左衛門が切り取って桶に隠していた小金吾の首を、維盛の首と偽って、さらに自分の女房と息子を、若葉の内侍と六代の君に取り換えて源氏の追手に差出して、自分と家族を犠牲にしてまで維盛とその妻子を救おうとしていたのであった。
 ワルの権太が肉親への愛情から、自己と妻子を犠牲にしてまで改心を示し、さらには褒美として与えたられ頼朝の陣羽織のなかに、維盛に対する「出家すれば放免する」とのメッセージがあって、頼朝の度量の大きさが表現されたり、とストーリーはかなり複雑である。
 さらに、父親に刺されて出血しつつも、その瀕死の苦しみの中で事情と心情を説明する権太の長い長い往生際は、百川敬仁『日本のエロティシズム』ちくま新書、2000によれば、日本特有の「もののあわれ」に関連して、観衆の情動を喚起する演出として古くからよく用いられた演出であるという。断末魔の苦しみにあえぎながら告白することが、権太の真心の真実を証明するのであり、劇中の権太という配役は、死を目前にしたこの短い時間のためにこそ生きている。歌舞伎舞台としては、やはり仁左衛門の年齢を感じさせない溌溂として機敏な美しさが際立つ。
 2番目の演目は、「面かぶり」という長唄囃子による舞踏である。13人の囃子をバックに、ただ一人鴈治郎が踊る。観衆全員の視線を、まさに一身に集めてのかなり長時間の演技は、さすがにプレッシャーがあると思うが、鴈治郎はさすがに安定感と安心感のある舞台であった。
 3番目は「弁天娘女男白浪(べんてんむすめ めおのしらなみ)」で、「浜松屋見世先より」と「稲瀬川勢揃い」の2場である。女に化けて商店を荒らす弁天小僧菊之助が、店に寓居していた日本駄右衛門に正体を見破られ、それでも意地を張って金を奪おうとするお話しで、弁天小僧演じる愛之助のコミカルで軽妙な演技と、最近はテレビでもすっかりお馴染みとなった南郷力丸演ずる右團次との掛け合いが見せ場である。日本駄右衛門演ずる芝翫は、いまではすっかり貫録がついて、老練で重厚な演技といえる。勢揃いでの、それぞれゆかりの地名を随所に取り入れた口上は、やはり山場として聴きごたえがある。
 最後は「三社祭」で、清元による悪玉・善玉2人の掛け合い舞踊である。善玉の片岡千之助は孝太郎の子だが、祖父仁左衛門に似て美貌で、期待の18歳である。悪玉を演じた中村鷹之資は、五代目中村富十郎の古希のときの子で、少しぽっちゃりしているが、この人もまだ19歳の新鋭である。鷹之資の舞踏はとてもキレがあって、なかなか良かった。
 夜の部が終わったのは、午後10時少し前であった。さすがに顔見世だけあって、とても充実した、延べ5時間にわたる中身の濃い舞台であった。

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映画「今夜、ロマンス劇場で」

 綾瀬はるかと坂口健太郎が主演する、ファンタジーである。映画助監督が映画を愛するあまり、なつかしのモノクローム映画のシーンからヒロインの御姫様を引き出してしまい、ファンタジーの世界で淡くはかない恋物語を展開する、というお話しである。ストーリーは、主人公の助監督の最晩年の回顧談となっていて、どこまでが彼の実体験で、どこからが彼の夢想なのかさえ明確ではない。しかし映画の世界とは、またその魅力とは、本来そういうものなのだろう。
 綾瀬はるかは、この浮世離れした幻の御姫様を演ずる女優として、まさにぴったりである。相手役の坂口健太郎は、最初は役柄にふさわしいのか心配したが、見ていくにつれて優れた俳優だと再認識した。その老後の最晩年を演じた加藤剛も、すっかり弱弱しい老人になって、あまりにぴったりで感動した。加藤剛は、この7月に亡くなったが、最後の演技だったのかも知れない。
 現実にはありえない、まさに荒唐無稽なお話しではあるが、映画としては決して軽んじることができないひとつの真理を表わしているのだろう。

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吉例顔見世11月興行 南座 (下)

11月興行夜の部
 夜の部は午後4時半から9時前までに、4つの演目があった。
 最初の演目は「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」である。源頼朝の寵臣となって富士山麓の巻狩りの総奉行を仰せつかった工藤祐経は、富士山を間近に見上げる屋敷で祝宴を催していた。その宴には大勢の源氏家臣たちの縁者や遊女たちが来ていたが、そのひとりに舞鶴がいた。舞鶴は源氏の勇将朝比奈義秀の妹であった。舞鶴は、祐経に二人の若者を連れてきて紹介する。それはかつて所領争いから祐経が殺害した河津三郎の子の曽我十郎・五郎の兄弟であった。二人は祐経を父の仇として仇討を実行しようとするが、頼朝の主宰する重要行事の寸前であり、今すぐ騒ぎは起こすべきでないと窘められる。時は正月でめでたい時でもあり、巻狩りの身分証明書である狩場の切手をもらった兄弟は、憤懣やるかたないものの諦めて立ち去る。このあと仇討実行の日を迎えるのだが、この舞台では新年の祝賀宴での敵同士の対面だけである。工藤祐経を片岡仁左衛門、和事の十郎をいつもは女形を演ずることが多い孝太郎が、荒事の五郎を愛之助がそれぞれ演じている。仁左衛門の工藤祐経は悪役だが、上座におさまって穏やかに話すだけで、さほど悪辣さを強調するでもなく、顔を真っ赤にして全身を震わせて怒り狂う愛之助の演技が見ものということだろう。河竹黙阿弥により台本が整理され、明治36年(1903)3月から演じられている現行の舞台では、正月などめでたい時に演じられることも多いという。Photo
 次は、二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎の親子三代が同時に襲名を披露する口上である。藤十郎が司会を勤め、仁左衛門がエピソードを紹介し、三人が順次口上を述べた。私たちが子供時代にテレビで見ていたころ青年期であった染五郎がこうして白鸚になり、6年前に舞台セリから奈落への転落事故に遭難して瀕死の重傷を負って回復した染五郎が幸四郎となり、その子でまだ13歳の中学生が背も高くなりすっかり歌舞伎役者らしくなってきて染五郎を襲名した。昼の部の父幸四郎との連獅子の競演も実に見事であった。とてもめでたいことである。
 三番目の演目は、幸四郎の弁慶と染五郎の義経による勧進帳である。無断で上皇から官位を得たことなどで兄頼朝の怒りを買い、奥羽の藤原氏のもとへ逃避行中の義経一行が、山伏装束で加賀国安宅の関に来る。すでに義経一行が山伏姿で奥州に向かっているとの情報が関守の富樫左衛門には届いていて、山伏はすべて捕らえて関を通過させないことになっていた。弁慶を先頭に関に来た義経一行は、俊乗房重源の東大寺再建の勧進をしていると富樫に説明する。富樫は、それなら勧進帳を読んで聞かせろ、と。弁慶は機転と知恵で偶然持っていたまったく無関係の巻物を勧進帳に見立てて、空で見事に朗読して富樫に感銘を与える、という有名な物語である。勧進帳読み上げの場面に続いて、剛力に扮した義経の嫌疑を晴らすため、主である義経を弁慶が金剛杖で打擲する場面、無事関の通過を認められて富樫たちが退いたあと、義経に弁慶が無礼を詫びる場面、そして再び登場した富樫から酒を振舞われた弁慶が、壇之浦の合戦に因んだ延年の舞を披露する場面、最後に先に関を去った義経を追って、飛び六方で見得を切りながら花道を去っていく場面まで、いつもながら見どころの多い舞台で、すっかり楽しめた。なにより襲名したばかりの幸四郎が、体の動きといい声の通りといい、まさに油の乗り切った素晴らしい熱演であった。
Photo_2 最後は「鴈のたより」という上方狂言の演目である。愛妾司を連れて若殿前野左司馬が有馬に湯治に来ていた。司はたまたま宿の裏手に髪結いを営業する五郎七が気になっていた。その様子に嫉妬した左司馬は、偽の恋文を使って五郎七をおびき寄せ辱めようとした。そこへ左司馬の家老高木治郎太夫が来て、偽恋文の企みを暴露して五郎七の窮地を救う。実は五郎七こそが元は武士であり、今は遊女に身を落としていた武士の娘司の許嫁であったことが判明する。五郎七を演じる鴈治郎は、いつもながら安心して見ていられる芸達者である。いささかファンタジー的でコミカルな面もあるこのような舞台には、最適の役者だろう。司を演じる壱太郎も落ち着いた美しさで絵になる。
 今回は、久しぶりの南座を満喫した。南座が戻ってきてくれて嬉しい、というのが率直な感想である。

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吉例顔見世11月興行 南座 (上)

11月興行昼の部
 京都南座は、2016年1月から耐震補強工事を含む全面的な改修工事が行われ、ほぼ3年ぶりにこの11月新開場となり、待望の顔見世興行が開催された。通常は、年末の12月のみの興行だが、今年は新装開場と南座創設400周年記念ということで、11月と12月の2か月にわたって顔見世興行が執り行われることとなった。Photo
 慶長8年(1603)京の市中で出雲阿国がかぶき踊りをしたことが歌舞伎のはじまりとされ、芝居町として発展してきた京四条河原にこの南座が設置され、以後400年にわたり歌舞伎エンターテインメントの中心であり続けたことによる、とされる。
 この度は私も待望の新開場であり、待ちかねた顔見世でもあったので、11月興行を昼の部と夜の部の両方を、さらに12月興行の夜の部と、合計3度にわたって、家人とともに鑑賞することとした。
 昼の部は、午前11時30分から午後3時30分まで、休憩をはさみつつも5時間という長時間の鑑賞である。
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 最初の演目は「毛抜(けぬき)」である。公家の娘がべつの公家の家に輿入れする予定であったのが、その娘「錦の前」に奇病が発生したとして婚約解消の危機となる。その娘の髪が激しく逆立つという奇病だという。その詳しい様子を探ろうと、嫁ぎ先となっていた公家の家臣粂寺弾正が「錦の前」を訪ね、その奇病の様子を実見する。そのとき、偶然ふと取り出した自分の毛抜きが、突然ひとりでに踊りだすこと、鉄製の小柄も同様に踊りだすことを発見して、実は屋敷の天井裏に巨大な磁石が隠しおかれ、「錦の前」の鉄製の櫛を引き上げて人工的に髪を激しく逆立てていたことを解明する。さらにその裏に、「錦の前」の実家を乗っ取ろうとする家臣八剣玄番の陰謀があることを摘発して、御家騒動を解決する、という物語である。巨大な磁石のからくりという、歌舞伎にしてはいささか奇抜な設定が特徴のユニークな演目である。初演は寛保2年(1742)で、天保3年(1832)からは歌舞伎十八番の中に入れられた。しかし嘉永3年(1850)を最後に上演されることがなくなり、演目としての伝承は途絶えていたらしい。ようやく近代になって古劇の復活を志していた二代目市川左團次が、この「毛抜」の復活に取り組み、明治42年(1909)9月明治座で復活上演した。今回は、四代目市川左團次が主役の粂寺弾正を、敵役八剣玄番を亀鶴が演じている。
 2番目の演目は「連獅子」である。今回御披露目口上を行った十代目松本幸四郎と八代目市川染五郎との親子共演が見ものである。これまでに私は、別の俳優たちによる連獅子を何度か観たが、今回は幸四郎・染五郎親子の「狂言師右近・左近の舞踏」、愛之助・雁治郎の「僧蓮年・僧遍念の舞踏」、そして再び幸四郎・染五郎親子の「親子の連獅子」、と豪華で充実した内容であった。愛之助・雁治郎もいつもながら達者で楽しい演技だが、今回は13歳の新染五郎の初々しいシャープな舞踏がなかなか魅力的であった。父の新幸四郎も、いよいよ歌舞伎役者として円熟期に入りつつあることをアピールするような見事な演技であった。
 3つ目の「恋飛脚大和往来 封印切 新町井筒屋の場」は、容貌に優れ気立てもよいが、飛脚屋を率いる商人としてはいささか頼りない忠次郎と傾城梅川の恋の逃避行の端緒となる事件を描いたもので、これに続く大和新口村の場とともに、歌舞伎では馴染みのある演目である。今回の仁左衛門・孝太郎の親子共演は、私も以前に観たことがあるが、少しずつ演技内容を変えて、毎回新鮮なものとして鑑賞できるように工夫しているようだ。こうした色好みで少しだらしのない男を演ずる仁左衛門も、まさに一流である。
 最後の演目は「鈴ヶ森」で、鶴屋南北作「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」という物語の一部である。稀代の侠客幡随院長兵衛と白井権八の出会いとなった鈴ヶ森での雲助一味(実は夜盗)との戦闘の場である。さまざまな趣向を凝らした切りあいシーンが続くが、ここでの主役は20歳前の前髪姿の牢人白井権八で、愛之助が演じている。最後の方で時間的には少しだけ、それでも存在感十分に登場するのが幡随院長兵衛で、新白鸚が演じている。愛之助は、たいていの場合登場すると、少しなりともユーモアのある軽妙な演技を交えて、それがまたこの役者の魅力でもあるのだが、今回はずっと一貫して生真面目で礼儀正しい青年武士を演じていて、新鮮といえば新鮮である。白鸚も、さすがの貫録ある上品な演技をしている。

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「十月歌舞伎」松竹座

 市川齊入と市川右團次の襲名披露を兼ねた十月歌舞伎公演が大阪松竹座で開催された。京都南座が改修工事でながらく休館していることもあって、久しぶりの歌舞伎鑑賞である。Photo
 最初の演目は、華果西遊記(かかさいゆうき)である。三蔵法師・孫悟空・猪八戒・沙悟浄の天竺をめざす一行が、西梁国という女人だけの国をおとずれたときに、蜘蛛の魔物に襲われるが、機知と武勇と忍術に秀でた孫悟空の活躍で三蔵法師をみごと救済する、という冒険物語である。孫悟空はこの日お披露目の市川右團次が、孫悟空の分身の子役をやはりこの右團次の実子右近が演じる。
 市川右團次つまりもと右近は、私はこれまであまり知らなかったが、最近テレビの人気ドラマ「陸王」に出演して、すっかりなじみになったベテラン俳優である。手品のような細かい芸、きびきびしたアクション、そして子役の右近とともに天井からのロープに吊られての空中浮遊と、なかなかもりだくさんの演出が取り入れられている。軽妙でコミカルな味もあって、楽しい雰囲気の舞台となっている。全体として、美しい舞台となっている。
 つぎは二代目市川齊入と三代目市川右團次の襲名披露の口上である。実はこの二つの名跡は、幕末から大正時代にわたって上方歌舞伎を牽引した名優初代市川右團次が淵源だそうだ。天保末期に生まれ、嘉永期に初代右團次として早替わりや宙乗りなどのケレンを得意とし、立役、女形、老役、敵役など幅広い役をこなす一方、舞踊も得意とした、とても芸達者な役者であったらしい。彼は明治42年、60歳代半ばになって長男に二代目右團次の名跡を譲り、自らは初代市川齊入を名乗るようになった。
 右之助改め二代目市川齊入は、初代市川齊入の曽孫にあたる。右近改め三代目右團次は、日本舞踊飛鳥流家元の飛鳥峯王の子として大阪に生まれ、少年時代から上京して三代目市川猿之助の部屋子となって修行しつつ慶応義塾大学法学部を卒業、昭和の終わりころから活躍している。そして今回、右近を実子に継がせて、その御披露目もこの日同時にした。まだ幼いが声が大きく、仕草が可愛くて役者としての華が期待できそうである。
 次の演目は「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」という世話物である。江戸の火消し組「め組」の鳶仲間と、相撲取のあいだに起こった文化2年(1805)の実話にもとづき、明治時代に竹柴基水の作で上演されたものである。力士と鳶の意地の張り合いから大勢を巻き込む大喧嘩となるが、最後は火消し組を管轄する町奉行と相撲を監督する寺社奉行の仲介によって収まったという話である。め組の頭辰五郎を市川海老蔵が、力士のリーダー四ツ車を市川右團次が、それぞれ演じている。右團次のここでは重厚な演技が、そして海老蔵の美貌とよく通る声が印象的である。
 最後は、海老蔵が主演する新作歌舞伎舞踊「玉屋清七」である。スクリーンいっぱいに花火を映し出し、ラストシーンでは実物の花火を舞台上で披露し、さらに観客席にまできらびやかな紙吹雪をまき散らす斬新な演出である。観衆の多くが、すっかり堪能した様子であった。
 いよいよ今年の歳末から京都南座が再開する。今後の歌舞伎に、一層期待したい。

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第20回高槻ジャズストリート (3)

第3日
 3日目は、前日までの63会場から9会場に絞り込んで行われた。
 まず高槻現代劇場文化ホール3階レセプションルームの会場に入った。やはり3日目最終日とあってか、若干聴衆は少なく、1セッションを待たずに座席にありつくことができた。
 後半のみの鑑賞であったが、「zmg 宮川真由美トリオ×宮田明奈vo」の宮田のヴォーカルを少し聴くことができた。耳に心地よく入る魅力ある声で、抒情的な歌唱はとても良かった。
 「Comfort」は、サックス高木哲男を軸とするピアノ、ベース、ドラムをともなったクァルテットである。歯切れよく引き締まった、まさにジャズらしい良い演奏を楽しめた。とくにセロニアス・モンクが作曲したナンバーだという曲が素晴らしかった。高木は「難しい曲です。曲が難しいのか、作曲者が難しいのか」と話していたが、聴く側では「良い曲だ。曲が優れているのか、演奏者が優れているのか」というのが実感であった。
Comfort
 高木は、演奏の合間に興味深いエピソードを披露した。彼らが昨年秋にニューヨークで演奏したとき、折しも訪米中であった安倍首相夫妻が来場したという。20人近い大勢の護衛官が随行していて、開演前に高木がふとトイレに行こうとして、安倍首相夫妻のグループがいた後ろ側をすり抜けようとした途端、ボディーガードのひとりに脇から抱え上げられていた、という。その怪力に驚くと同時に、上腕のあたりに拳銃らしき固いものが衣服を通して感じられたのが、とても怖かったという。要人がいるときは、警備関係者はもちろん、その場に居合わせる人々も思わぬことがあり得て、大変であるとのことであった。ともかくこの4人の演奏は、とても素晴らしいものであった。
Ethnic_minority ホールを出て、高槻第一中学のグランドの会場に移動した。今日は昨日と打って変わって素晴らしい快晴で、気温も24度以上にあがり、湿度も低く風もなく、快適な野外会場である。少し聴いたが、音楽がいささか好みでないため、今度は生涯学習センターに行ってみた。ところがこの会場は入場規制が厳しくて、混んでいるため2時間あとまで場外で待機だという。しかたなく、桃園小学校グランドの会場に移った。
 ここでは「ケイコリー」のヴォーカルセッションの後半であった。
 そのセッションはなぜか早めに終わり、一部聴衆の入れ替わりがあって、幸い正面のよい座席にありついた。ただ、この会場では写真撮影が禁止だという。
 「NAOTO Special Guest: K」のセッションがあり、そのあと「大野綾子トリオ」の演奏があった。これがなかなか素晴らしかった。大野綾子のピアノは、やわらかいタッチながら音のきらめきも力強さもあって、心にしみいるような抒情的な演奏である。これはとても得をした気分になった。今後もぜひ聴きたいと思う。
 3日間の会期のすべての時間ではないが、毎日歩き回ってジャズ中心に生演奏の音楽をたくさん聴いた。63会場にのべ4,000人ほどのミュージシャンが登場して演奏したという。私が聴いたのは、そのうちのごく一部に過ぎないが、十分楽しめた。私の嗜好もあるし、明らかな演奏の巧拙もあり、すべてが大満足というわけではないが、私にとって日ごろ真剣に聴く機会がほとんどないジャズや軽音楽を、まとめてしっかり鑑賞できる貴重な機会である。これからも、年に一度の楽しみであり続けるだろう。

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第20回高槻ジャズストリート (2)

第2日
 昨日も夕方から急速に寒くなったが、今日は天気予報によると、最高気温が大幅に下がって20度を下回り、その上冷たい風が強く吹くという。そこで方針を変更して、今日は室内の会場だけをめぐることとした。
Photo
 10年ほど前に新設された関西大学高槻ミューズキャンパスに行く。ここの学生食堂を会場として、学生と一般のビッグバンドの演奏がプログラムされていた。
 最初は「甲南高校・中学校ブラスバンド部」である。よく練習している成果だろう、音はよくあっていた。
 2番目は「関西大学中高等部吹奏楽部」の演奏があった。女学生の比率が高いチームである。中学1年生は、みんなの前でダンスを披露したり、中学・高校のメンバーが順次ソロのために前に出てきて演奏したりする。注目すべきはファゴットの奏者もいて、ソロもあった。出演する学生の親御さんもかなりいて、写真やビデオの撮影に懸命である。アルトサックスのソロ演奏をしたクールビューティな感じの背の高い女学生は、自信満々の演奏で、たしかに上手であった。それを直近からビデオ撮影するお母さんがいた。容姿が似ているので、すぐにわかる。ずいぶん前に、私たちの子供たちも吹奏楽をやっていて、デューク・エリントンや、カウント・ベイシーの曲を演奏していたのを、懐かしく思い出していた。

Photo_2 3番目は「高槻ブルースリッパーズ」という市民バンドである。高槻市にある三島高校のOB・OGが中心となって、20名あまりのメンバーで、十数年以上活動している。高槻ジャズストリートにも10年間以上連続して出演しているという。中学生・高校生の演奏の後だったこともあってか、とくに金管楽器の演奏の迫力が違っていた。トランペットとトロンボーンがなかなか良かった。ヴォーカルの女性も、独特の力強い歌声であった。Photo_3
 少し移動して「1624 TENJIN」という、ビルの地下にある音楽レストランの会場に来た。ここでは最初に「すきゃおらっ」といういささか意味不明の名前の10人グルーブの演奏を聴いた。ジャズストリートのTシャツにジーパンというごくラフないで立ちで、気楽な雰囲気で始まったセッションであったが、トランペット・サックス・トロンボーンと、いずれの楽器奏者もなかなか達者で、会場はすっかり盛り上がっていた。地下の広くないスペースに小さめの舞台なので、10人もの奏者が登壇すると、重なって全員の姿は見えない。100人程度の座席のようだが、満員の会場は両脇の通路にたくさんの立ち見客がいて、盛んに手を振って声援を送る。バンドリーダーが聴衆に、立ち上がって一緒に踊ることを呼びかけると、呼応して座席から立ち上がって踊りだすひとたちもたくさんいて、座席にいる者はますます舞台が見えなくなる。ヴォーカルの女性も、関西弁で話す気さくそうな女の子だが、なかなかしっかり歌っていた。No_plan
 「樫村あやことNO PLAN」の演奏があった。ヴォーカルの樫村あやこが、今日はNO PLANというリードギター・ベースギター・キーボード・ドラムの器楽グループと共演するのである。ピアノ+キーボードもなかなか軽やかな楽しい演奏で、リードギターもベースギターも歯切れのよい巧みな演奏であった。最初の3曲は、NO PLANのインストラメンタルで、その後おもむろにヴォーカルの樫村あやこが登場する。ポピュラーなジャズとポップスを、軽やかに楽しく聴かせてくれたが、最後の「ララバイ」がいちばんよかった。
 今日もヴォーカルをいくつか聴いたが、歌というものは、旋律とリズムに正しくあわせて歌詞を発声するだけでは、聴衆に伝わる歌にはならない。ひとつの曲の短い時間のなかで、いかに短編の物語あるいはエッセイを演じ、訴えるか、広義の演技力あるいはコミュニケーション力が必須であり、それぞれの演奏に大きな差が現れるということを改めて認識した。

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第20回高槻ジャズストリート (1)

 今年の高槻ジャズストリートは第20回記念大会として、会期が1日延長され、5月3日から5日までの3日間の開催となった。開催前日の2日、かなりしっかり雨が降ったので、ジャズストリートもどうなることかと心配したが、幸いにして3日正午まえから日が差して、晴れてきたのでひと安心した。

第1日
 まず桃園小学校グランドの野外会場に行き「Hiromi Suda Quartet」を聴いた。迫力あるヴォーカルだったが、ボサノバとブラジリアン音楽とのことで、英語ではなくポルトガル語なのか、リリックがいささかなじみにくいという感じである。
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 つぎは、そこから直近の生涯学習センター多目的ホールへ移り「Trumpet Ohenro」という名前のトランペット・ピアノ・ヴォーカルの3人組の演奏を聴いた。東京・香川・愛媛から集まったトリオだという。リーダー中村のトランペットはささやくような、あたかもサキソフォンのような繊細な演奏である。ヴォーカルの溝田は、声質は魅力的だが、少し発音がわかりにくい。
 同じ会場で続けて「フィリップストレンジトリオ」を聴いた。フィリップストレンジのビアノは、これまでも何回か聴いているが、いつもながら繊細で美しい演奏であった。ひとつひとつの音がすっきり分離して清澄に響くのである。同じ楽器でも、こんなに美しい音が出せるのか、とまたまた感動した。ベースの萬の演奏もよかった。

Kyoto_composers_jazz_orchestra
 次は少し歩いて高槻第一中学校グランドの野外ステージに移動した。「牧山純子とKyoto Composers Jazz Orchestra」を聴いた。よく晴れていた空が曇りだし、風がかなり強く吹き始めていた。
 牧山純子はヴァイオリンでジャズを演奏し、なかなかエネルギッシュなヴィジュアル系のプレイを見せる。演奏途中に、友人だというヴォーカリストShihoがサプライズで合流し、華やかな舞台となった。風が強く、楽譜が吹き飛ばされたり、牧山の服が風で乱れて演奏が危うくなったり、と波乱万丈の演奏となった。牧山が2016年スロベニア共和国の独立記念コンサートに招かれたのを機会に作曲したという「スロベニア組曲」から「スロベニアの風」を演奏した。スロベニアは風が強く、特産物のワインの原料であるブドウ栽培では、害虫を除いてくれるのも強い風だという。この日は、まさに屋外で風に吹かれての演奏となり、牧山は貴重な経験になったと話していた。最後の曲は、牧山が10年前にメジャー・デビューしたときの曲「ミストラル」で、これまたフランス南東部に吹く冬季の季節風の名前であり、重ねて風に吹かれての風の曲となった。私にとっては、ヴァイオリンによるジャズの演奏を聴くのが初めて、また屋外でヴァイオリンの演奏を聴くことも初めてで、とても貴重な機会となった。牧山は、ルックスもよく魅力的なヴァイオリン奏者で、なかなか楽しめる演奏であった。
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 最後は、最初に訪れた桃園小学校グランドのステージで「宇崎竜童と御堂筋ブルースバンド」を聴いた。日が傾いて昼間の陽射しの暖かさ・暑さが影をひそめ、冷たい風で寒くなってきた。移動の途中、野見神社の会場で「大野綾子トリオとウィリアムス浩子」の舞台を少し覗き、ウィリアムス浩子の魅力的な歌声を少し楽しむことができた。桃園小学校グランドに着くと、さすがに宇崎竜童という有名人の人気のお陰か、広いグランドがぎっしり満員になっていて、さきほどまでの寒さが緩和されるばかりの人だかりと熱気がある。
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 宇崎竜童はすでに72歳だが、ステージではずいぶん若く見え、歌声も力強く若々しい。「まさに現役の大物」というオーラを強烈に発している。私たちの年代には懐かしい曲も多く、この域になると、演奏の技術の巧拙などを飛び越えた魅力と貫録があり、大勢の観衆を魅了していた。

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伊能忠敬史跡探訪と200年法要 (7)

源空寺の墓地・谷文晁の墓
 谷文晁は、御三卿田安家の家臣谷麓谷の子として江戸時代後期の宝暦13年(1763)、江戸に生まれた。

Photo 父の友人であった狩野派の加藤文麗から絵を学び、18歳の頃には中山高陽の弟子渡辺玄対に師事した。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めた。その後も狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画までも学んだ。26歳の時長崎旅行に出て大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉から南画の指南を受けた。長崎に着いてからは張秋谷に画法を習った。こうして広く学んだ諸派を折衷し、南北合体の画風を目指し、またその画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及んだ。画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に 関東南画壇の泰斗となった。
 また、父の谷麓谷も漢詩人として名を知られていて、文晁は文才をも持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。菊池五山の『五山堂詩話』巻3に、文晁の漢詩が掲載されている。
 門人には、渡辺崋山、立原杏所、高久靄厓(たかくあいがい)などがいる。

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源空寺の墓地・幡随院長兵衛夫妻の墓
 幡随院長兵衛は、唐津藩の武士塚本伊織の子として、江戸時代前期の元和8年(1622)生まれたとされるが、渡辺党松浦氏の一統で滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職向導の実弟か、または幡随院の門守の子とする説もあるらしい。
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 幡随院の住職向導に私淑し、江戸に出て浅草花川戸に住み、武家に奉公人を斡旋する口入れ屋を営んだ。口入れ屋の娘きんを女房にした。
 当時の江戸は、町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となって旗本奴の頭領水野十郎左衛門(水野成之)と激しく張り合うようになった。そんななか、若い者の揉め事の手打ちを口実に水野十郎左衛門に呼び出されて謀殺されたと伝える。没年や日時は諸説あるが、30歳代で殺されたと推測されている。
 歌舞伎の登場人物として広く知られ、芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であると気づいていたが「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」と啖呵を切って、殺されるのを承知で単身水野の屋敷に乗り込んだとする。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で刀もなく裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている。

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