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文化・芸術

吉例顔見世興行南座

 今年も師走となり、恒例の南座顔見世がはじまった。コロナ騒動でむなしく明け暮れたこともあってか、今年の一年はとりわけ速く時間が経ったようにも思える。今回は、一日の舞台公演が三部構成となっていて、午後6時からの第三部を家人と観劇した。

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 ひとつ目の演目は、「雁のたより」である。
 新町から請け出した司(つかさ)と連れ立って摂津国有馬温泉へ湯治にきた若殿前野左司馬は、愛妾司の機嫌をとるために、温泉宿裏の髪結の三二五郎七を呼んで酒の相手をさせた。五郎七は、日ごろから女客から人気のある髪結であった。司は五郎七に興味を示したようにみえる一方で、自分には心までは売らぬ、とまで言われて、頭に血が上った左司馬は、髪結に一杯食わせようと家臣たちとはかり、司が書いたように見せかけた偽の恋文をつくって五郎七へ届ける手はずをした。一方、家に戻った五郎七は、中間が置き忘れたらしい司の女扇を手に取って、先ほどの司の美貌の様子を思い返し、自分に好意があるのでは、とニヤついているところへ、花車のお玉が偽の恋文を届けに来た。手紙には、殿が先に出発するので今宵会いたいとあり、五郎七は慌てて支度して駆けつけた。ところが、頬かむりで忍んできた五郎七を待ち構えていたのは左司馬とその取り巻きたちで、不義者、盗賊とののしられた上に、大勢でよってたかっての袋叩きに逢った。しかし前野家の家老高木蔵之進は、五郎七のこれまでの生い立ちを知っていて、五郎七の剣術の腕前を試そうと切りかかり、それを巧みに回避する五郎七をみて、五郎七が実は高木の甥浅香与一郎春義であり、司とは幼時からの許嫁であったと確認する。事情を高木から知らされた司と五郎七は、めでたく結ばれる、というお話しである。髪結五郎七を松本幸四郎が、司を片岡千壽が演じている。物語としては他愛がないが、司の美形に惹かれた五郎七が、浮かれたり驚いたりの上方特有の、誇張気味のユーモアと感情表現が持ち味の作品のようである。
 ふたつ目が「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」である。
 源光仲の子で摂津源氏の祖とされる源頼光は、物の怪に憑りつかれて摂津国多田の御所に伏せっていた。その傍には、家臣の碓井貞光、坂田金時が寝ずの番をしていた。この不寝番の二人が繰り返す睡魔に襲われて悩んでいたところへ、見かけぬ小姓寛丸が眠気を防ぐ濃茶を持って現れた。不審な動きに二人が斬り払おうとすると、その姿は忽然と失せた。その後、太鼓持の愛平、そして座頭松市が、つぎつぎと現れては、不審に思って捕らえようとすると消えてしまった。二人は、葛城山の土蜘蛛の仕業ではないかと訝しむ。頼光の寝所では、久しぶりに傾城薄雲太夫が訪ねてきた。ところが薄雲太夫は、突然蜘蛛の本性を現して頼光に襲いかかったのち逃走した。頼光は宝剣の蜘蛛切丸を携えて逃げた蜘蛛を追跡し、晩秋の美しい紅葉のなか、主従三人は葛城山の蜘蛛の精の棲家にたどり着き、日本を魔界に変えようと野望を抱く蜘蛛の精に刀を抜いて立ち向かい、壮絶な戦いの結果、最後は頼光が霊剣蜘蛛切丸で蜘蛛の精を退治する、というお話しである。
 一人五役の早変わりが見ものであり、その主役を愛之助が演じる。平成27年(2015)11月に出石町「永楽館歌舞伎」で初めて勤めて、今回が3度目だという。愛之助は、いまではすっかり人気者の看板役者となった。軽妙で俊敏な動きとユーモアが魅力だ。頼光は、幸四郎が演じる。舞台美術もとても美しく、その背景とよくマッチした蜘蛛の衣装も美しい。舞台美術としても優れた舞台であった。人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(7)

7.モダニズム建築の京都
 西欧では、20世紀前半にル・コルビュジェを代表とする「モダニズム」という建築様式が展開した。それまでの古代ギリシア・ローマ風の円柱をもった重々しい特徴的な装飾と色合いをまとった優美な様式から離れ、産業的な精神を軸に過去から自立し、科学の時代に適合した新しい様式を求めた。科学的裏付けをもった採光、照明、ガス、電気、水道、電話など機能的なインフラや装置をふんだんに取り入れ、そこで生活するひとびと、仕事するひとびとの安全と便利を最大化する合理性が特徴である。建物の形状としては、ごくシンプルな直方体であることも多い。
 このモダニズム建築と京都との関係を振り返ると、その導入の予兆を感じさせる戦前と、モダニズムを受容しつつもそれを進化させ日本の風土になじませようと努力を重ねた戦後とに大別できそうである。Photo_20211125062101
 西欧モダニズムの受容期の一例として、京都帝国大学花山(かさん)天文台があげられる。これは、京都大学の天文学研究設備として大学構内にあった天文台を、昭和4年(1929)東山の花山山頂に新設したもので、設計の主導者は京都帝国大学建築学科第一期生の大倉三郎と推察されている。半球、半円、円柱、直方体といった幾何学的形態の組み合わせによって全体が構成されている点にデザインの最大の特徴がある。その一方で、エントランスホールは、複雑で変化に富んだアール・デコ風の意匠を採用している。
1_20211125062101  モダニズムと日本あるいは京都との折衷と融和を模索した様式の典型と思われるのが、昭和41年(1966)竣工した国立京都国際会館である。設計は、丹下健三の片腕としても活躍した大谷幸夫で、公開設計コンペの195点の応募作に対して勝ち取った作品であった。この建築の最大の特徴は、断面図に現れる台形あるいは逆台形の、鉄筋コンクリート製の巨大な柱で、これらが空間を貫いていることである。このすべてが傾いた外壁面で、一見奇抜で荒々しい外観が、実は宝ヶ池や周囲の山並みなどの自然環境とみごとに調和するように考えられている。内部のメインホールやメインラウンジも、独創的なデザインで伝統とモダニズムの調和が実現されているそうだ。一見奇抜だが京都の風情に意外に融合する、ということでは原広司が設計したJR京都駅ビルを連想する。
 この展覧会は建築がテーマなので、絵画や彫刻のように作品の実物を鑑賞することはできず、写真や模型を眺めて説明文を読む、ということになり、極言すれば書籍を学ぶのと大差ないとも思われるが、こうして多数の大型写真、大型模型を並べた展示場のなかにいると、あらためて京都には近代以降のみでも多数の芸術的建造物がたくさん残っていることに感銘を受けた。安藤忠雄が言っていたが、建築は芸術だが、そこはヒトが住まったり活動したりする場所でもあり、その観点からの実用性は絶対的に要求されるので、本来的に自由度には限界がある。たとえば住宅であれば、立地環境に適合して、住まうヒトが満たされて、はじめて価値ある住宅建築となる。吉田山にある旧谷川住宅群のうちの一軒に現在住んでいる夫妻が、フィルム展示映像で話していたが「私たちは、ここに家を購入して住んでいるが、気持ちとしては京都のこの環境に住まわせてもらっているので、住まいをお借りしている意識だ。生活の快適のために安易に家屋に手を加えたりせず、そのままで居続けることがもっとも満足できる。」との言葉は印象に残る。
 私は、これから先何年生きるかわからない老人の身だが、幸い京都は近いので、今回知った京都の近代建築を、ひとつでも多く訪れたいと思った。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(6)

6.住まいとモダン・コミュニティ
 京都は、8世紀末の平安遷都の平安京の大都市計画から都市化が始まったが、長い年月を経て実際に開発・発展したのは、著しく東側に偏っていた。800年近く経って豊臣秀吉が京都の大改革を実施して、御土居という堀を都市京都の境界線とし、その内を洛中、外を洛外と呼ぶようになったが、この洛中は平安京の中央を貫いた朱雀大路の東側半分に北部の一部と鴨川縁の東部を加えた、平安京の当初のプランのほぼ半分の範囲のものとなった。明治維新以降、京都の市街地近代化は、洛内市街地の商業地・業務地の近代化と、それにともなう人口増加に対応して居住地が発達・拡大した。これは、洛外とくに東山地区からはじまった。明治維新で東山山麓の社寺の境内地や多数の塔頭が上地され、やがてその土地が民間に払い下げられることで別荘や住宅が増えて行った。明治20年ころから造営が始まった南禅寺界隈の別荘地は、その嚆矢となった。そのひとつ、山形有朋の別荘無鄰菴は、私も訪れたことがある。Photo_20211123062401
 郊外の住宅地化が本格的に進展するのは明治40年代で、そこにまず住み着いたのは、学者や芸術家、あるいは文筆家といった人たちであった。衣笠一帯には、木島櫻谷や土田麦僊など多くの日本画家が来住し、「絵描き村」とよばれようになった。志賀直哉も一時期衣笠に暮らした。同志社や第三高等学校、京都帝国大学に近い塔之段、下鴨、北白川などには、早い時期から大学教員や学者が住むようになった。
 京都学芸大学に近い北白川の住宅地に、駒井卓・静江記念館がある。駒井卓は、京都帝国大学理学部教授で遺伝学の研究者であった。妻・静江は、のちにヴォーリズの妻となった一柳満喜子と神戸女学院の同窓生であった。この縁だと推測されるが、駒井宅の設計はヴォーリズであった。赤色桟瓦葺の屋根、スタッコ仕上げの外壁、窓はアーチ型が多用され、壺飾りもあり、全体にスパニッシュ風のデザインだが、控えめな装飾性で、機能性と合理性を重視した、学者の暮らしぶりを顕すような仕上げとしている。内部の部屋の配置や内装も、工夫の行届いた設計となっているらしい。主屋のほかに別棟の温室や附属室も備え、当時の近代における郊外の暮らしを今に伝えている。
Photo_20211123062402  さきの大戦の前、御所の西側、堀川に沿って下長者町通りと下立売通りの間に、堀川京極商店街という繁華街があった。しかし戦争末期に延焼防止のため建物疎開となり、建物が撤去されてしまった。その疎開空地に昭和26年(1951)から昭和29年(1954)にかけて鉄筋コンクリート造の市街地型集合住宅が建設された。これが「堀川団地」である。椹木町団地、下立売団地、出水団地、上長者町団地で、建物は全部で6棟からなっている。戦後復興期の深刻な住宅不足の解消、都市防災のための防火建築帯の構築、商店街の再興が目的の事業であった。昭和25年(1950)に設立された京都府住宅協会が、最初に住宅金融公庫の融資を受けて建設した団地でもあった。
 いずれの建物も3階建で、1階を店舗兼住宅、2・3階を住居専用とし、堀川通側に住戸を並べる。各戸は、面積が異なるものの集合で、面積に応じて2K、3K、2DKの間取りが採用されている。2階壁面の後退を利用した2階共用テラス、各団地でことなる平面と立面の組み合わせの試み、通風や採光への配慮、店舗による賑わいの創出など、新しい住環境を指向する設計者の情熱が感じられる。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(5)

5.都市文化とモダン
 1920年代以降になるとヨーロッパやアメリカでは、ル・コルビュジェなどを典型とする機能性や合理性を重視して装飾を極端に省き、鉄筋コンクリート造や鉄骨造によるモダニズムと呼ばれる簡素な形態で抽象性の高いデザインの建築が流行しだした。しかしわが国の場合、これらのモダニズム的な建物は結果として普及せず、かなり保守的な伝統的美意識を必須要素として導入する、様式性を尊重した建物が依然として主流であった。とくに京都においては、そこはかとない京都らしさが隠し味のように強く求められていたように思える。必ずしも大きな建物に限らず、地元の工務店が設計したものが、洋風や抽象化されたモダンさのなかに、手作りの和風タイル、花鳥風月をテーマとしたステンドグラス、細かいところは象嵌細工などなど、和風の要素が取り入れられている建築物が多数ある。京都のひとびとが求めた近代建築は、「古くて新しいもの」であったようだ。Photo_20211119061501
 三条通りに面した京都文化博物館の建物は、もとは日本銀行京都支店として明治39年(1906)に竣工したもので、辰野金吾とその弟子の長野宇平治の設計による。イギリス風の煉瓦の表し仕上げ(あらわししあげ)で外観を統一し、壁面を白いストライプで飾る、いわゆる「辰野式」である。ルネサンス様式から、建物頂部や上部に、円柱やアーチ、ペディメントの要素を取り入れ、壁面にはゴシック風のバットレス(控え壁)を配置している。全体としては辰野式の様式にまとめつつ、巧みにさまざまな様式を部分的に折衷しているのである。
 日本銀行京都支店が河原町二条に移転した後、昭和43年(1968)から平安記念館として使用され、昭和44年(1969)から現在の京都文化博物館として使用されている。
Photo_20211119061601  四条大橋の西詰南側に、東華菜館という中華料理店のビルがある。これはかつて四条大橋の近くで八百屋を営んでいた「矢尾政(やおまさ)」のビアレストランの新店舗として、大正15年(1926)竣工した建物である。2代目店主であった浅井安次郎がウイリアムス・メレル・ヴォーリズに設計を依頼した。鉄筋コンクリート造の5階建てで、塔のように垂直に聳えていて、四条大橋付近のランドマークとして市民に親しまれている。外壁はテラコッタで装飾が施されたスペイン風で、とくに玄関付近には、魚、イルカ、タコ、ホタテ貝、巻貝などの魚介類をモチーフとしたレリーフが並ぶ。
 店主の浅井は、中国山東省出身の友人于永善にこのビルを譲り渡し、戦後に中華料理店「東華採館」となって現在に至っている。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(4)

4.ミッショナリー・アーキテクトの夢
 明治維新の後、わが国は西欧の先進文化・先進科学技術を学ぶことに懸命であったが、その活動の一部として、純粋な宗教的情熱を越えてキリスト教の精神や文物に憧れ、それらを媒介として西欧の先進文化・先進科学技術を取り入れようとした。それに応えて西欧からは、宗教的使命感をもった多くの宣教師や知識人が来日した。宗教的使命感のもとでキリスト教にかかわる教会堂、ミッション系の学校、病院、YMCA、宣教師館などの設計や建築にかかわった建築家たちを「ミッショナリー・アーキテクト」と呼ぶ。彼らの作品も、京都には多く残っている。Photo_20211117061701
 新島襄は、若き日々をアメリカに学び、明治8年(1875)帰国して京都に同志社英学校を開校した。やがて会津藩に生まれ戊辰戦争を闘った山本八重と知り合い結婚した新島襄は、明治11年(1878)京都御所近くの土地を購入して私邸を建てた。新島旧邸は同志社の教員で宣教師でもあったW.テイラーのアドバイスを得て、特徴あるベランダをもつコロニアル様式に、鎧戸(ガラリ戸)付のガラス窓が並ぶ木造二階建ての洋式住宅である。施工は、京都の大工であったという。セントラル暖房や洋式トイレなどがある一方で、日本瓦の寄棟屋根、角柱で真壁式の漆喰壁、障子風の欄間窓、2階の和室など、和洋混淆となっている。宣教師としての新島襄の生活信条から、全体としてはごく質素な佇まいである。昭和60年(1985)京都私邸有形文化財となって、保存されている。
Photo_20211117061702  新島襄が創設した同志社のキャンパスには、明治20年代から規模の大きな立派なレンガ造り建築が増えて行った。「同志社クラーク記念館」は、B.W.クラーク夫妻の寄付によって建てられた神学館である。神学部のための建物であり、キャンパスでもっとも目を引く建物である。北側に切妻屋根、中央部に大きな寄棟屋根、南西部角に小ドーム屋根をもつ八角塔が置かれる、きわめて個性的なデザインである。外壁にはさまざまな円形アーチ窓があり、棟飾りをもつ華やかな屋根、館内の重厚な玄関ホール、豪華なアーチ型船底天井のある2階講堂など、ドイツのネオ・ゴシック様式のきわだった建物である。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(3)

3.和と洋を紡ぐ
 わが国で、本格的な西洋建築が始まった当初から、和=日本と洋=西洋とをいかにつなぐかが、建築関係者の関心のひとつの核であった。御用技術者として日本政府が招いたイギリス人ジョサイア・コンドルは、明治10年(1877)来日すると、辰野金吾や片岡東熊など教え子たちに西洋建築を教えはじめた当初から、日本やアジアの要素を建築設計に取り入れることを指導していた。東京帝国博物館(明治14年竣工)のレンガ造りの外観には、インドやイスラムを想起させるドームやアーチが取り入れられている。この日本の地に建つべき建築として、コンドルは、最初から日本やアジアの要素の紡ぎ込みを問いかけていたようだ。Photo_20211115061201
 円山公園から「ねねの道」に下る途中にある大雲院は、実業家大倉喜八郎が京都別邸として建てた「京都大倉別邸」であった。この敷地にある「祇園閣」は、祇園祭の山鉾を模したユニークな塔である。昭和2年(1927)の竣工であるが、設計は伊東忠太である。日本建築の全体から細部まで、すべてを熟知した伊東忠太ならではの、京の遊びの系譜に近代的な贅沢を加えた傑作と評されている。
 昭和3年(1928)昭和天皇即位の大礼が京都御所で挙行されたが、これを記念する事業として、当時の京都に未だなかった公立美術館を建設しようと、当時の京都市長が提案し、市議会の賛同と多数の市民からの寄付を得て昭和8年(1933)開館したのが、「大礼記念京都美術館」(現在の京セラ美術館)であった。
Photo_20211115061301   設計は「四囲の環境に応じた日本趣味を基調とした様式とすること」との規定がつけられたコンペとなり、前田健二郎が当選した。前田健二郎(1892-1975)は、東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科を卒業して逓信省、第一銀行技師を経て、大正末に自身の設計事務所を設立していた。多数の設計コンペに入選したが、結果として実現したのはこの大礼記念京都美術館のみとなった。コンペ以外では、共立女子大学共立講堂や鎌倉妙本寺釈迦堂などが作品として残っている。和洋の保守的な様式も、流行のデザインもうまく駆使できる建築家であったと評されている。
 今では京都市京セラ美術館となったこの建物は、建物全体のマクロな様式は西洋風とし、小さくともアクセントの大きい正面の千鳥破風をはじめ、飾金具、蟇股(かえるまた)などの局所的な要素に和風を巧みに導入している。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(2)

2.様式の精華
 近代都市京都は、新規発展のみでなく歴史都市としてのアイデンティティをも追及した。古都のイメージと西洋近代建築様式との折衷・調和は、早くから意識されていた。1000年の都として京都に蓄積されてきた美術工芸品を収集・保存するため、明治21年(1888)の東京上野の帝国博物館に続いて、京都と奈良にも博物館が求められた。明治維新政府の最初期の政策には、激しい廃仏毀釈などもあり、多くの貴重な仏像が安易に廃棄されたり、仏師として懸命に修行を重ね高い技能を認められていた若き日の高村光雲が、絶望して西洋彫刻に倣った彫刻を制作しはじめて、結果として世界から賞賛される彫刻芸術家になったという逸話も誕生した。1_20211111062001
 ともかく、こうして明治28年(1895)「帝国京都博物館」(現・京都国立博物館)が竣工した。設計は、宮内省内匠寮の技師であった片山東熊が担当した。片山東熊(1854-1917)は、長州藩士の子として嘉永6年に生まれ、少年ながら戊辰戦争に従軍した後、明治12年(1879)工部大学校造家学科を第1期生として卒業、欧米各国をめぐって西洋の建築を視察し、西洋様式と日本の歴史的様式の統合に努め、帝国京都博物館をはじめ、東京御所(現・迎賓館赤坂離宮)など皇族邸宅・離宮なども設計した。
Photo_20211111062101  円山公園の南端に「長楽館」と呼ばれるレンガ造り3階建ての洋館がある。これは「サンライズ」という紙巻煙草で実業家として成功した村井吉兵衛の別邸として明治42年(1909)建てられた。アメリカから来て立教学校校長を勤めた伝道師・教育家であり、かつ建築家であったジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが設計し、清水組(現・清水建設)の清水満之助が施行を担当した。
 岩石を原料とする天然スレート葺の屋根を持つルネサンス風の建物で、イオニア式の玄関ポーチを導入し、外壁は1階部分を花崗岩貼り、2・3階は黄褐色のタイル貼りにコーナーストーンを施している。迎賓施設として用いるために、1階には客間、ビリヤード室、食堂、2階には客間、貴婦人室、喫煙室、美術室などの接客空間が配置されている。内装も、1階はルネサンス風、2階喫煙室はイスラム風、3階は桃山風の書院など和風を凝らして、西洋・東洋・和の意匠を網羅しようとする意図が感じられる。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(1)

 「モダン建築の京都展」は、1か月以上前から始まっていたが、コロナ騒動の緊急事態宣言や例年にない10月に入ってまでの残暑などで、ついつい出かけるのが遅れてしまい、やっと10月末になって鑑賞することができた。Photo_20211109062401
 私にとっては、京都市美術館が改装され「京都市京セラ美術館」と改められてからは、初めての来館である。建物の外観は、構造や装飾ももちろん変わらないが、丁寧に清掃したのか全体に綺麗になっている。そして一番変わったのが出入口で、地下一階からとなった。そして館内の内側の壁が大きなガラス貼りに替わり、美しい庭園を広範囲から眺めることができるようになった。

1.古都の再生と近代
 京都は、明治維新で天皇が東京に移ってしまい、あわせて公家たちも東京に出て、かつての都としては文化的に大きなダメージを被った。また天皇以下の朝廷を軸とする都を支えていた商工業も衰退した。しかし京都は、官民を挙げて教育と勧業を軸にして繁栄の再建と近代化に取り組んだ。
  明治2年(1969)には、全国に先駆けて小学校が建設され、殖産興業のために京都府に置かれた勧業方は、勧業場、女紅場(じょこうば: 女性の授産のための育成機関)、養蚕所、製糸場、牧畜場などを次々に開設した。明治28年(1890)には、第4回内国勧業博覧会が岡崎で開催され、同時に博覧会場に接してその会場の北側に平安神宮を創建した。
 平安神宮の設計を担当したのは、伊東忠太(1867-1954)であった。伊東忠太は、出羽国米沢に生まれ、軍医を目指した父にともない上京し、父の転勤で千葉に移転したり、ドイツ語を学ぶために東京外国語学校に学んだりした後、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、大学院に進んだ。大学院のとき「法隆寺建築論」を記し、わが国の日本建築史研究の先駆けとなった。ちなみに、「造家学」では建物建造においての芸術性を表せないとして、「建築学」の呼称を提唱したのが伊東忠太であったという。Photo_20211109062501
 明治政府が「学制」を発令したのは明治5年(1872)であったが、それに先駆けて明治2年(1869)に、京都の町組はのちに「学区」となる「番組」という住民共同体単位で64校もの小学校を創生していた。これらの施設は、行政の出張所や町組の集会所としても機能させた。小学校の建設や運営は、町組が主導することになったので、それぞれが独自性を発揮して、個性豊かな校舎を誕生させる結果となった。
 古くからの京都市街の中心に、下京三番組小学校として開校したのが明倫尋常小学校である。アーチ型や丸型など、美的意識の高い意匠の窓が取り入れられていた。建設は清水組(現在の清水建設)であった。現存の校舎は、昭和天皇御大典記念事業として昭和6年(1931)改築されたものである。鉄筋コンクリート造の躯体に、外壁は人造石洗い出し仕上げとなっている。小学校の統廃合のため、平成5年(1993)廃校となったが、建物は改修されて、現在は京都芸術センターの建物として使用されている。Photo_20211109062601
 琵琶湖疎水は、京都復興を目指して第3代京都府知事北垣国道が始めた、灌漑、上水道、水運、水車の動力など多方面へのテコ入れを目的とした、当時史上最大規模の土木事業であった。滋賀県大津の取水口から京都蹴上の船溜までの約8キロメートルを、3つのトンネル(隧道)を経由して高低差3.4メートルの緩勾配で接続する壮大かつ緻密を要する工事であった。工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎が、主任技術者として設計監督を担った。
 京都御所の防火用水を実現するため、紫宸殿の棟まで放水することが求められ、十分な水圧を得るために九条山頂上に貯水場を設け、蹴上側トンネル出口から水を九条山貯水池にくみ上げるために九条山麓にポンプ室が設置された。明治45年(1912)完成した建物にはポンプが収納されるのみだが、その外観は英仏の新古典主義を取り入れたレンガ造りで、皇室建築の風格を漂わせている。
Photo_20211109075701  勧業政策に注力する京都府は、勧業場や舎密局(せいみきょく)を木屋町近くにつくった。仏具職人から出て鋳物業を木屋町で営んでいた島津源蔵は、明治8年(1875)勧業場や舎密局で必要となる理化学機器の製造を始めた。これが島津製作所のはじまりであった。
 昭和2年(1927)、島津製作所は、京都帝国大学建築学科創設メンバーたる武田吾一を設計顧問に迎え、武田吾一のもとにいた荒川義夫の設計により、河原町二条下ルの高瀬川沿いに本社営業所ビルを建築した。平滑でグラフィカルな斬新なデザインのファサードが特徴で、これは後に島津製作所河原町別館となり、平成24年(2012)からはレストラン・結婚式場「フォーチュンガーデン京都」として使用されている。

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十月花形歌舞伎 GOEMON 大阪松竹座

 コロナ騒動が下火となったお陰もあってか、先月に続いて今月も歌舞伎を観ることができた。
Goemon  今回の演目は、9月につづいて伝統歌舞伎とは異なり、2011年徳島県大塚国際美術館で「システィーナ歌舞伎」として初演されたもので、歌舞伎とフラメンコのコラボレーションが目玉である。「システィーナ歌舞伎」とは、徳島県の大塚国際美術館システィーナホールで行われる歌舞伎公演のことで、「和と洋のコラボレーション」をテーマにした新作歌舞伎シリーズなのである。江戸時代初期の伝説の大盗賊石川五右衛門が、実はスペインから来日した伴天連と日本女性との混血児であった、という奇抜な想定による作品である。初演が好評を得たので、その後大阪松竹座、新橋演舞場で再演されたという。今回は、5回目の公演で、前回の松竹座からは7年目の再演となった。
 この度登場する今井翼は、かつてスペインでフラメンコに魅せられて、本格的にフラメンコのレッスンをしてきたという。そして2014年の前回の大阪松竹座での公演を観に行ったとき、奇想天外な物語と歌舞伎の魅力にとても感動して、すっかり愛之助の大ファンになって、終演後の楽屋に押しかけ、熱い思いを伝えた。愛之助は、それに応えて「ぜひ一緒にやりませんか」と提案し、二人の共演が実現したのであった。
 石川五右衛門を片岡愛之助が、スペイン人伴天連カルデロンと石川五右衛門の逃亡を助ける霧隠才蔵の二役を今井翼が演じる。他には、悪役としての豊臣秀吉を中村鴈治郎、出雲阿国を中村壱太郎などが、それぞれ演じる。
 秀吉が天下を掌握したころ、イエズス会から多数の伴天連が来日して布教活動に励んでいた。そのなかで、カルデロン神父は明智光秀の家臣の娘石田局と出会い、愛し合い、ひとりの男子友市を設ける。しかし秀吉はキリスト教の宣教を禁止して伴天連たちを祖国へ強制送還すると発令した。石田局は聚楽第に召出され、友市は天涯孤独となってしまった。
月日が流れ、友市は忍者修行などをも重ねて成長し、親の仇として秀吉に反抗・対決する。しかし厳しい秀吉の攻撃を逃れ、父に再会するために、はるかスペインを目指すことになる。
日本国内の情景では、伝統歌舞伎に準じた演出をする一方、スペインの情景では、ギター演奏によるフラメンコが出てきて、和洋折衷のユニークな舞台としている。
 今井翼のフラメンコも、発声も、そして俳優としての演技も熟練に達していて、見事であった。愛之助は、替わらず愛嬌いっぱいのほほえましい、しかししっかりした演技で、観衆を魅了した。フィナーレに近いところで、中村壱太郎、今井翼とともに、フラメンコを踊るシーンがある。さすがに一流の歌舞伎役者は、専門外の舞踏でもそれなりに見事だと思った。
 私は、やはり依然として古典的・伝統的な歌舞伎を好む者であるが、今回はそれなりに大いに楽しめた。

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九月南座超歌舞伎

 七月に久方ぶりで平常時に近い歌舞伎を鑑賞できたが、コロナ騒動が非常事態宣言として続く中、今回は「超歌舞伎」という新しい趣向の舞台を鑑賞することができた。これはコンピューターによる音声合成あるいは歌唱合成技術(ヴォーカロイド)と、アニメーションと、伝統芸能である歌舞伎とを融合したチャレンジングな表現芸術である。
 私も「初音ミク」というヴォーカロイドのアイドルの名は聞いたことがあり、また年末のテレビの紅白歌合戦で見たこともあった。Photo_20210921062001
 今回はたまたま主演かつ座長の中村獅童が発熱で休演となり、その代役を澤村國矢と中村獅一で分担する、という非常事態であった。コロナ騒動の最中であり、獅童本人はほとんど回復し、PCR検査も陰性であったというが、コロナ騒動下の厳しいガイドラインのために、発熱者は一定期間上演が禁止となっている、との事前説明があった。舞台で演ずるには、それ相応の練習と準備が必要だろうから、代役もなかなか大変だったと思う。
 最初の演目は「都染戯場彩 みやこぞめかぶきのいろどり」という舞踊で、一部に初音ミクが大型スクリーンに登場して挨拶の口上があり、続いて歌舞伎役者と舞踊で競演する。
 ふたつめが、この日のメインステージで「御伽草子戀姿絵 おとぎぞうしこいのすがたえ」という演目である。冒頭に物語の背景説明として、平安中期の平将門の乱の戦場の様子が、アニメーションでスクリーンに映写される。平将門は追手の矢に貫かれ戦死するが、このとき娘である七綾姫を従軍させていた。父の戦死を目のあたりにした姫は、蜘蛛の精に化身する。そして父の恨みを晴らそうと、いくつかの経緯を経て、美貌の傾城七綾太夫に乗り移る。この七綾太夫が伝説的な武勇の将たる源頼光の愛人となる。頼光は七綾太夫との激しい恋に墜ちるが、七綾太夫は殺害されて妖怪となり、頼光を苦しめる。頼光の家臣平井保昌は、妖怪退治の秘伝を得た弟の助けを借りてついに七綾姫の怨霊である妖怪を退治する、という物語である。この七綾姫をヴォーカロイドの初音ミクが演じている。
 たまたま読んでいた西洋思想史(船木亨・著)の本に、日本では物質や動植物を含む自然と人間とが分離せず連続的な存在として受け入れられてきたのに対して、西欧のユダヤ・キリスト一神教では、人間のみが神の導きに従うという思想から、自然と人間は隔絶されている、という話を思い出した。たしかにこの歌舞伎の物語は、人間の霊魂が蜘蛛に憑依して、それがまた簡単に人間に憑依し返すというストーリーであり、多分ヨーロッパにはこのような設定は無いのだろうと、ふと思った。
 この演題は、妖怪の出現、狂暴な動き、そして断末魔の大音声の爆発など、ヴォーカロイドの映像表現と相性がよい物語だと思う。歌舞伎役者たちも、この舞台に限っては小型マイクを装着して、スピーカーから音声を聞かせている。したがって普通の歌舞伎ではありえない呟きのような小声も、よく聞こえている。ヴォーカロイドはアニメーションだから、舞踏の動きも正確無比で、いわゆるキレも優れている。それでも、やがてアニメーションでは表現できない生身の人間ならではの独特のキレや間などが、生身の役者に改めて認められるのかも知れない。たとえば将棋では、さまざまなタイトル戦をAIが同時解析し、棋士が打った手を直ちにずっと先までコンピューターで読んで、優性・劣勢を数値で瞬時に表示する。このAI判定は、たいていの場合正しいが、たまにたとえば藤井三冠などは、一手か二手で突然AI判定を急反転させたりする。優れた人間のヒューリスティックな着想と、AIのロジックとの競争を見ることもできるのである。舞踏や殺陣なども、AIでアニメーション表現するよりも、もっと魅力的でキレのある人間の表現が見られるのかも知れない。
 歌舞伎も、故・勘三郎などが積極的に海外に進出したり、今回のようなヴォーカロイドとの共演を試みたり、伝統を大切にしつつも時代の変化への順応と進化を目指していることが理解できる。私は、今のところやはり従来とおりの歌舞伎の舞台を好むけれども、長い目で見れば、このような試行錯誤の活動も必要なことなのだろうと理解する。
 歌舞伎の古くからの特徴のひとつとして、有名なあるいは人気者の俳優を看板にして興行する、という点がある。今回の舞台は、歌舞伎の新しい試みなのであるが、一方で古くからの伝統に準じて人気役者の中村獅童が大きなウリなのであった。代役の澤村國矢と中村獅一は、責任感を伝えたいかのような情熱を感じる熱演で、観客も満足できたと思う。そんな面でも、なかなか興味深い舞台鑑賞であった。

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