『真人の世界─日本文化のカミ』
京都アップリンクで、須田眞司さん監督・脚本による映画『真人の世界─日本文化のカミ』を鑑賞した。
同じタイトルの須田さんの作品を、4年前に奈良県吉野の大淀町文化会館で観た。今回は同じ趣旨の第2作である。
日本の宗教観は、西欧の一神教的なものとは大きく異なり、日本の自然・風土・歴史に根付いた「カミ」ともいうべき概念に基づく、というのが主題である。
映画の構成は、自然信仰の記憶、縄文の記憶、古代の記憶、祭りの記憶となっていて、いずれも「遠く深い記憶」すなわち経験に基づくヒトの心のなかの歴史事実の痕跡が要である、とする。
そして取り上げられる事例として、三重県熊野の自然信仰・祭り・修験道、出雲の伝承、沖縄の伝統的信仰などが示され、関連する学者・思想家として本居宣長・南方熊楠・折口信夫が取り上げられる。
私自身を顧みると、先祖からお墓と仏壇を受け継いだ顕本法華宗の仏教徒ではあるが、その教義に没頭するわけでもなく、仏壇を守り、冠婚葬祭に関わり、家族の墓参をして檀那寺に挨拶する程度で、仏教徒と改めて表明するほどの自覚もない。それでも、自分自身が宗教的心理を持たない、あるいは無宗教だとはまったく思わない。
私自身のぼんやりした宗教的感情と言えば、因果応報、悪いことをすれば天罰を受けるのではないか、良心にしたがって生きることが精神的にも安心である、などという至って平凡・曖昧で漠然としたものである。お寺では合掌し、神社では二礼二拍一礼する。
もっと言えば、自分自身の勝手な想像で、先祖神が一神教的に常に存在し、たとえば神社に行っても、そこの「神様」としてご先祖さまがおられるような気がしている。
このような私の、非論理的な、実に語りにくい、説明しにくい宗教感情は、私の勝手な推測から、日本ではとくに変わったもの、偏ったものではないと思う。
こうした実にぼんやりした非論理的な信仰心であるから、これを正面から表現したり、議論することは、少なくとも私自身はできない。
そんな私から見れば、この映画は表現することが難しい私たち日本人の宗教観、信仰心を、論理的・具体的でなく、抽象的・象徴的にみごとに表現していると思う。前作に比べても、映画としてのまとまりと分かり易さが各段に向上している。
私は、現役を引退後、大学院文学部日本史学専攻修士課程を学び、20年弱ほど歴史散策をしばしば行ってきた。改めて思ったのは、日本には神社や寺院が夥しく存在することである。無宗教・無信仰なはずがない。この一見ぼんやりした捉えにくい日本の信仰、宗教について、敢えてその本質に迫ろうとするこの映画に、深く敬意を表したい。

























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