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文化・芸術

松竹新喜劇「流れ星ひとつ」京都南座

 京都南座の初笑い新春お年玉講演として、松竹新喜劇「流れ星ひとつ」を観た。
 松竹新喜劇の劇団メンバーに、客演の久本雅美が主演を務める「流れ星ひとつ」は、今から半世紀余り昔の昭和30年代の大阪を舞台にした、職人が住む下町の人びとが織りなす人情劇である。40歳ほどらしい刺繍職人の未婚の長女が、偶然の成り行きで容姿に劣るが人柄の良い袋物職人の男を見直して、ようやく結婚にこぎつけるという、ドタバタ喜劇である。Photo_20230113055501
 職人気質のがんこな親父、濃密な近所づきあい、おせっかいな隣人たち、貧しいが明るく朗らかに生きようとする人々、玄関に隣接した卓袱台のある畳敷きの座敷、二階の物干しの欄干とそこから眺める星空、などなど昭和の下町の雰囲気を濃厚に取り入れた芝居である。
 当時の庶民には、結婚適齢期というものがあり、とくに女性はある程度の年齢になれば結婚するのが普通として通っていた。現在の男性の未婚率30%、女性は20%弱という数値に対して、昭和35年時点では男女とも未婚は2%に満たなかったと言い、まさに隔世の感がある。
 この物語では、「行き遅れ」の長女が、紆余曲折の騒動の末にようやく幸せをつかむ、というお話しだが、現代の「多様性」「人権重視」の時代には、おそらく炎上もあり得るテーマではある。それでも、ひとつの時代劇として、他愛のない正月らしいハッピーエンドで、めでたしめでたしと、後味は悪くない。形はどうであれ、人間はひとりで生きて行くよりは、パートナーとともに生きるほうが幸せだろう。
 主人公の40歳ほどとの設定の長女を、60歳半ばになった久本雅美が演じるが、これもそれなりに好演である。
 芝居の後に渋谷天外、藤山扇治郎、久本雅美の3人による新春挨拶があったが、全体で1時間半余りのごく短い舞台であった。率直に言っていささかあっけなかったが、気の置けない娯楽のひとときとして、まあ良しとしたい。

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「大阪環状線 天満駅編」 松竹新喜劇

 大阪松竹座で喜劇「大阪環状線 天満駅編」を観た。Photo_20230101073701
 大阪松竹座は、大正12年(1923)江戸時代初期から芝居の街として栄えた道頓堀に誕生した。関西初の本格的洋式劇場であるとともに、日本初の鉄筋コンクリート造りの映画館として誕生した大阪松竹座は、映画上映と実演舞台を並演する当時最先端の興行スタイルで華々しく開場した。イタリア・ミラノのスカラ座をモデルにした石造りの玄関が、現在も100年前の面影を残している。この創設100周年を記念する行事としての今回の松竹新喜劇公演である、という。
 佐藤江梨子・月亭八光の主演である。喜劇ということだったが、内容はかなりシリアスで、最近社会的に大きな話題となっているLGBT問題に正面から取り組むストーリーであった。そんな経緯もあって、文化庁子供文化芸術活動支援事業として、18歳以下の観客は無料招待となっている。
 月亭八光の熱演、佐藤江梨子のすっきりした立姿も見ものだが、性同一性障害の若い女性を演じた元NMB48太田夢莉の好演、そして名前が不明だがストーリー・テラーを兼ねた歌唱をひとりで担った女性若手歌手が印象的であった。

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京都南座 吉例顔見世興行

 恒例の年中行事「南座 吉例顔見世興行」である。今年は3部構成で、私たちは第一部を観劇した。
 演目は2つで、最初の舞台は「義経千本桜 すし屋」一幕である。2022
 源平合戦が終わり、源氏が天下を取ったあと、平家の残党狩りが執拗に行われた。討ち死にした平重盛の子息維盛は、逃げ延びて大和国下市村のすし屋主人弥左衛門に、奉公人の弥助として匿われていた。弥左衛門は、かつての経緯から平重盛に厚く恩義を感じていたのであった。しかし弥左衛門には、すでに勘当していた「いがみの権太」という不肖の息子がいた。維盛が既婚者であることを知らない弥左衛門の娘お里は弥助を恋慕うが、弥助すなわち維盛は妻たる若葉の内侍への義理立てからお里の心に応えることはできなかった。そこへ家を出されたはずの権太が帰ってきて、お尋ね者の維盛の存在を知り、源氏に売りつけて金儲けすることを考える。おりから源頼朝の重臣梶原景時がすし屋を訪れて、維盛の生命に危機が迫る。権太の悪だくみから維盛とその妻子までもが景時に引き渡された、と思った父弥左衛門は、思わず息子権太に切りつける。しかし、実は権太の機転と権太の妻子の犠牲で、景時に引き渡された維盛の首と妻子たちは偽物であり、権太は改心していた、というストーリーである。
 主役のいがみの権太を中村獅童が演じ、維盛を若手として売り出し中の中村隼人が、お里を中村壱太郎が、梶原景時を中村鴈治郎が、それぞれ演じている。
 ふたつ目の演目は、十世坂東三津五郎の振付、竹本連中による囃子での舞踏「龍虎」である。険しい巌の山を背景として、天の王者たる龍と、地の覇者たる虎とが姿を現し、激しい戦いが繰り広げられる。力の伯仲した龍と虎の激しい戦いは、なかなか勝負がつかず、低く響く太棹三味線の竹本の演奏にのって、両者とも、毛を振り激しく力強く、戦い続ける。しかし勝敗は決まらず、最後は龍は雲の中へ、虎は洞窟へと去っていく。
 龍を中村扇雀が、虎を息子の中村虎之介がそれぞれ演じ、親子共演となっている。
 私は、会社勤務に現役のころは、ごくまれにしか歌舞伎を鑑賞する機会がなかった。ようやく引退後の十年あまり歌舞伎をほぼ定期的に鑑賞するようになったが、その短い間にも歌舞伎界の世代交代を見てきた。かつてとは、役者たちもずいぶん入れ替わり、若返っている。
 ここ3年ほどはコロナ騒動のために、上演が自粛されたり、入場者数を大幅縮少したりしていたが、そういう面はようやくかなり復旧が進んだ。ただコロナ騒動の影響の残滓か、上演時間というか、舞台構成というか、演目の数、場の数、全体の上演時間が、ずいぶん短くなっている。
 まあそれでも、こうして歌舞伎を鑑賞できて、今年も無事に過ごせたことを感謝する気持ちになれる。やはり、顔見世は欠かせない。

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歌舞伎特別公演 大阪松竹座

 今回は、三部入替構成の舞台で、家人と一緒に第一部の2つの演目、「傾城反魂香」と「男女道成寺」を観た。
 「傾城反魂香」は、近松門左衛門の作で、今回の舞台は一幕一場の「土佐将監閑居の場」である。
 場面は大和絵の一派、土佐派の総帥である土佐将監光信の閑居の邸である。ある日この近くで、虎が出没するという騒ぎが起きて、近隣の百姓たちが、藪の中に虎が逃げ込んだと訴えにきた。こんなところに虎などいるわけはないと将監はいうのだが百姓たちに命令して近くの藪を探すこととした。すると、虎が出てきた。Photo_20220913072501
 しかし将監はそれを、実物ではなく絵だと見破る。狩野元信が書いた虎の絵から抜け出した虎であろうというのだ。それに対して弟子の修理之介が、絵であれば消してみせる、と主張し、実際に見事に筆をとって虎の姿を消すことに成功する。それに感心した将監は、修理之介に土佐の名字を名乗ることを許すのであった。
 日暮れごろ、修理之介の兄弟子でもある腕利きの絵師浮世又平が、女房おとくとともに将監の邸を訪れて、自分にも土佐の名字をいただきたいと懇願した。生まれつき吃音のある又平は、思いをうまく伝えられないものの、愛妻おとくの助けを借りて、身振り手振りでその思いを伝えた。しかし、将監は又平の願いをはねつけたので、又平夫婦は悲嘆の涙に暮れた。
そこに、狩野元信の弟子である武士狩野雅楽之介が現われ、元信の姫の窮地を知らせ、助けを求めた。その助太刀に加わりたいと又平は懇願するが、その願いもはねつけられ、絶望した又平夫婦は自死を覚悟した。
 しかし、この世の名残に手水鉢に渾身の自画像を残してほしいと、おとくは又平に懇談する。納得した又平は、必死の筆を振るった。
 別れの水杯をすくおうとしたおとくは、石製の手水鉢の裏側に通り抜けた又平の自画像を発見して驚く。又平の執念と熱意が起こした奇跡であった。それを見た将監は感銘を受けて、ようやく又平に名字を名乗ることを許すのだった。
 そして、姫救出の助太刀にも加えられることとなり、新しい着物と大小の刀も譲り受ける。喜ぶ又平は、おとくが打つ鼓に合わせて出発の舞を舞う。すると吃音だった又平の口から、言葉もスルスルと出てきた。又平夫婦がともに喜ぶ中、又平は出発するのだった。
 狩野元信150回忌を当てこんで書かれた作品近松門左衛門の人形浄瑠璃で、宝永5年 (1708) 大坂竹本座での初演と伝える。土佐将監は狩野光信、浮世又平は岩佐又兵衛など、実在の絵師をモデルとするものの、物語は全くの創作である。ストーリーは専ら、有能な絵師だが吃音の障害を持つ夫とそれを支える妻の夫婦愛が主題となっている。
 中村鴈治郎が演ずる浮世又平の演技が光る。いささか規格外れなほどの大顔を積極的に活かした変幻自在の豊かな表情と、熟練の舞踊と身のこなしは、観る者を引き込み魅了している。ストーリーは、いささか地味で細かいので、このくらいの力のある役者が必要なのかもしれない。
 もうひとつの演目は「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」という長唄囃子道中の舞踏である。
 道成寺の鐘の供養に美しい二人の白拍子たる桜子と花子が現れる。清姫の事件から女人禁制となっていた道成寺は、本来は女性を境内に入れないが、寺の強力坊主たちが奉納の舞という条件で二人を寺内に通すと、厳かに舞いが始まる。ところが桜子の烏帽子が取れ、左近という男の狂言師であることがわかってしまう。それでも強力坊主たちは、美しい白拍子花子には舞を続けるよう所望する。華やかな踊りを披露するうちに形相がみるみる変わり、左近と花子は鐘の中に飛び込む。実は二人は清姫の亡霊なのであった。
 古くは道成寺伝説を題材にした「道成寺もの」と呼ばれる能の演目や踊りが複数あり、それぞれお家芸である独特の所作や振付けなどを盛り込んだものであった。時代が下るにつれてさまざまなバラエティーが派生し、二人の白拍子が踊りを競う『二人道成寺』(ににんどうじょうじ)や、立役が主役の『奴道成寺』(やっこどうじょうじ)、また男と女二人で踊る『男女道成寺』(めおとどうじょうじ)などができたが、いずれも曲や構成は『娘道成寺』を基本として使っている。今回は、このうちの『男女道成寺』である。華やかな衣装の早変わりを含む、艶やかでダイナミックな舞踊が見せ場である。
 私は、歌舞伎をみるようになってからも、舞踊の舞台はあまり馴染めなかったが、長らく見続けているうちに、徐々にその良さがわかってきたように思う。技能的にも、女形を踊る役者は、背が高くなり過ぎないようにずっと中腰で踊り続けていて、いわばスクワットを続けながらの演技は体力的にも大変だろうと思う。いまや看板役者の一角を担う片岡愛之助も達者になったし、なにより中村壱太郎がますます成長しているのが頼もしい。
 全体で3時間程度の短めの公演であったが、引き締まってメリハリのある舞台で、良い時間を過ごせた。

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坂東玉三郎特別公演 南座

 坂東玉三郎特別公演として「東海道四谷怪談」と「元禄花見踊」の舞台が開催された。
 坂東玉三郎を観るのは、久しぶりである。今回は、完全な歌舞伎というのではなく、新派から喜多村緑郎を招いている。
Photo_20220823060001  最初の演目は「東海道四谷怪談」である。仇討ちをすることを条件として四谷の田宮家に、田宮家の跡取り娘たるお岩さんの婿に入った田宮伊右衛門は、妻の岩を疎んじていた。岩は産後の肥立ちが悪く病がちとなったため、伊右衛門はますます岩を厭うようになった。近所に住む高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫であるお梅は伊右衛門を見初めて恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望んでいた。喜兵衛と梅から説得された伊右衛門は、高家への仕官を条件に、岩と婚姻関係があるにもかかわらず梅との結婚を承諾した。伊右衛門は田宮家の下働きをしていた按摩の宅悦を脅して岩と不義密通を働かせ、それを口実に離縁しようと画策した。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は、伊右衛門の計画を暴露してしまう。岩は、自分の容貌の激変とあまりの理不尽に悶え苦しんで死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだ咎で捕らえてあった部下の小仏小平を、不義密通で岩を殺害したとの罪を着せて切り殺す。伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害してしまう。
 このタイトルの「四谷」というのは、JR駅がある新宿区の四谷ではなく、雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)であることを、私はこの度はじめて知った。私の世代でさえ、鶴屋南北原作の「四谷怪談」は、時代劇の怪談の代表的な作品として、ごく大雑把なストーリーは知っていた。とくに、岩が豊かな長い髪の毛を櫛けずるとき、大量の脱毛が発生するという壮絶な場面は定番で、この度もあった。しかし岩を演ずる玉三郎は、やはりもっと凛とした陽性の美形の方が似合うためか、適役とは思えなかった。田宮伊右衛門を演ずる片岡愛之助は、いまや円熟した名演であったと思う。
 「元禄花見踊」は、玉三郎の美貌と円熟の舞踏が満喫できた。新派の喜多村緑郎も、舞踏に堂々と参加して、引け目なく熱演していたと思う。

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七月大歌舞伎 大阪松竹座

 大阪松竹座に「七月大歌舞伎」の夜の部を鑑賞した。
 3年近くにわたるコロナ騒動は、まさに今、かつてない規模のPCR検査陽性者数を発生中だが、ワクチンの普及と重症者数・死者数の減少があってか、街の感覚としてはよく言えば冷静、悪く言えばコロナ騒動疲れなのか、ひっ迫感・悲壮感は大きく緩和した。松竹座の座席も、これまでのように多くの空席を設定して入場者を抑制するようではなく、ほぼ全席が使用されているようである。そういう意味では、歌舞伎もかなり平常時に戻りつつあることが感じられる。Photo_20220722130301
 そんななかの最初の演目は「堀川波の鼓(ほりかわなみのつづみ)」という近松門左衛門の作品である。因幡藩の下級藩士小倉彦九郎の妻お種は、藩主に随行して江戸に長らく出張している夫を慕いながら、離れて国で寂しく過ごしていた。ただお種は酒乱癖があり、これが原因となってあるふとしたことから、息子の鼓の師宮地源右衛門と過ちを犯し、その子を身ごもってしまった。ようやく長年の忠勤が認められて昇進が叶い、喜々として久しぶりに国に帰ってきた彦九郎は、妻の不倫の悪い噂が広がっているのを知り愕然とする。お種の妹お藤も一計を案じて事を穏便に済まそうとするが、彦九郎の妹おゆらまでが不義者の身内として離縁されるに至り、ついにお種を詮議する。隠しきれなくなったお種は、夫への忠節を示すため陰腹を割り、非を詫びながら夫の手で絶命する。
 近松門左衛門の「近松三大姦通物」の一つとされ、昭和期後半からかなり上演が繰り返されてきたというが、現代人の私から見ると、この舞台の不義成立のプロセスにはなんとなく違和感を覚える。2幕6場の長い舞台であるが、ここでは、原作にある小倉彦九郎による鼓師宮地源右衛門への妻敵討ちは省かれている。
 小倉彦九郎を片岡仁左衛門が、お種を扇雀が、宮地源右衛門を勘九郎が、それぞれ演じている。初日を迎えて、仁左衛門が体調不良で欠場すると告げられ心配していたが、1週間ほど前から復帰して、美しい姿を見せてくれたのは良かったけれど、私には、ストーリー展開からか、いまひとつすっきりしない感じが残った。
 2つ目の演目は、「祇園恋づくし(ぎおんこいづくし)」である。京都三条で茶道具屋を営む大津屋に、江戸の指物師留五郎が滞在していた。留五郎は、主人次郎八が若い頃江戸で世話になった人の息子で、祇園祭が近いので京に滞在していたが、京の言葉や風土になじめず江戸へ帰ろうとしていた。ところがその留五郎は、次郎八の妻おつぎの妹おそのを偶然見初めて一目ぼれしてしまう。そのうえそのおそのから江戸へ連れて行ってほしいと言われた留五郎は有頂天になってしまう。実はおそのは、手代文吉と深い仲で、駆け落ちの手助けを頼まれたのであった。そんな中、おつぎからは次郎八が浮気をしているかもしれないので調べてほしいと頼まれ、結局留五郎は祇園祭が終わるまで京にとどまることにした。一方の次郎八は、ひいきの芸妓染香に熱を上げていたが、どうにもうまくいかない。山鉾巡行の当日、次郎八と留五郎は持丸屋太兵衛に鴨川の床へ招かれて、できごとの一部始終があかされる。
 京の京言葉のなかへ江戸言葉で切り込む指物師留五郎を幸四郎が、それを京に迎える大津屋次郎八を鴈治郎が演じる。さらにこの二人は、次郎八が入れあげる芸妓染香を幸四郎が、次郎八の女房おつぎを鴈治郎が、それぞれ早変わりの二役で忙しく勤めている。原作が江戸時代天保年間に出版された笑話本『如是我聞』のなかの「都人」をもとに、明治年間に八代目桂文治が「祇園会」という演目で落語としたものであった。桂文治の上方と江戸の言葉の使い分けが絶品で「祇園祭の文治」という通り名があったと伝える。そういう由来もあってか、全体として現代的な速いテンポの軽妙な会話が心地よく、観衆も笑いに包まれる楽しい舞台である。それにしても鴈治郎の芸達者ぶりには、毎度のことながら改めて感銘を受ける。幸四郎も美しいし、江戸言葉の端切れも良く、なかなか良いのだが、唯一女形のときの声と言葉は、率直に言って未熟である。
 夜の部は演目ふたつで合計3時間半となり、コロナ騒動の最中に最短で2時間半ほどに短縮されたころに比べると、かなり持ち直した。それでもかつては4時間半余りも珍しくなかったことを考えると、まだまだ回復途上と言える。
 まあしかし、全体として満足できる良い舞台で、ほっとする思いであった。

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三月花形歌舞伎 京都南座

 今年も南座の三月花形歌舞伎の若手の公演を鑑賞した。歌舞伎ファンでもベテランや目の肥えた人たちは、若手俳優主体の公演を好まないことも多いようだ。私は中年以後になって歌舞伎を観始めたためか、ベテラン俳優の円熟した演技も素晴らしいと思う一方、一所懸命の若手の初々しい舞台も悪くないと思っている。
 開演では、坂東巳之助と中村橋之助の二人が舞台に登場し、恒例の若手での公演であることの紹介と、演目構成と出演俳優の紹介をした。この日はたまたま坂東巳之助の誕生日でもあり、その紹介と祝辞もあった。私も橋之助、巳之助、隼人などの顔をようやく覚えつつある。Photo_20220309055501
 最初の演目は、岡本綺堂原作の「番町皿屋敷」である。江戸の番町に住む旗本青山播磨は、老中とも親しい間柄にある前途ある青年武士だが、腰元お菊と身分違いの恋をしていた。播磨の将来を危ぶむ伯母は、播磨に縁談を持ち込む。播磨は、お菊がいるので縁談に乗り気ではないが、縁談の噂にお菊は、自分が捨てられてしまうのでは、と疑念をもつ。そこへ青山家家宝の10枚の皿の取り扱いを命ぜられる。傷つければ打ち首とも言われる家宝の皿を、敢えて割ってみせて自分への愛を確かめようと、お菊は1枚の皿を叩き割ってしまう。これが発覚して、播磨に問われたお菊は、過失で割ってしまったと言うと、播磨は許すと答えた。ところがお菊が皿を意図して割っている現場を見た者がいて、それを聞いた播磨がお菊に問い詰めると、お菊は播磨の本心が知りたかったために意図して割ったと言ってしまう。播磨は、皿を惜しんでお菊を責める気はないが、自分の誠意ある愛を疑われたことは許せない、とついに御菊を手討ちに殺めてしまう。「番町皿屋敷」という題目でいろいろなストーリーがあるそうだが、岡本綺堂の脚本は、身分違いの悲恋として、武士の世界での純愛物語としている。しかし純愛とは言え、相手を殺すのが許されるのか、との自然な疑問もあろうかとは思うが、ひとまず感動的な純愛物語として演じられている。
 青山播磨を中村隼人が、お菊を中村壱太郎が演ずる。隼人もなかなかの熱演であった。
 二つ目の演目は、岡村柿紅作「芋掘長者(いもほりちょうじゃ)」の舞踊ものである。これは私も前に観たことがある演目で、歌舞伎役者の舞踏の競演が眼目である。名家たる松ヶ枝家の息女緑御前の婿を、踊りの名人とする、ということで、踊り自慢の若者のコンテストが行われた。魁兵馬と菟原左内という踊りの上手な武士が招待されていたが、そこへ芋栽培を生業とする藤五郎が踊り上手の親友治六郎を連れて参戦してきた。実は藤五郎は偶然の機会に緑御前を遠くから見て見初めてしまい、なんとしても近くで緑御前を拝見したいがため、自分はまともな舞踊はできないのに、治六郎が何とかしてやるというのをたよりに、コンテストに乗り込んだのだった。自分の代わりに面を被った治六郎が踊り、その上手な舞踊に皆が感動したが、緑御前から「面を外して顔を出して踊ってほしい」と言われ、偽装が露顕してしまう。やけっぱちになった藤五郎は、芋ほりをテーマとした野性的な我流の舞踊を披露すると、意外にこれが緑御前の気に入るところとなり、めでたしめでたしで終わる。踊り上手な役者の競演と、役者が無理に下手な踊りを披露する可笑しさがウリの舞台である。藤五郎を坂東巳之助が、治六郎を中村橋之助が、緑御前を中村米吉がそれぞれ演ずる。それぞれに若々しいキビキビした踊りを見せてくれた。
 舞台はこのふたつの演目だけで、25分間の休憩をはさんで全部で2時間半という、かつての半分の長さであった。コロナ騒動が終わっていない時期でもあり、やむを得ないのだろう。昨年白内障手術を受けた私としては、美しい舞台衣装が鮮明に見えるだけでも嬉しくて、個人的には充分満足した鑑賞であった。

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吉例顔見世興行南座

 今年も師走となり、恒例の南座顔見世がはじまった。コロナ騒動でむなしく明け暮れたこともあってか、今年の一年はとりわけ速く時間が経ったようにも思える。今回は、一日の舞台公演が三部構成となっていて、午後6時からの第三部を家人と観劇した。

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 ひとつ目の演目は、「雁のたより」である。
 新町から請け出した司(つかさ)と連れ立って摂津国有馬温泉へ湯治にきた若殿前野左司馬は、愛妾司の機嫌をとるために、温泉宿裏の髪結の三二五郎七を呼んで酒の相手をさせた。五郎七は、日ごろから女客から人気のある髪結であった。司は五郎七に興味を示したようにみえる一方で、自分には心までは売らぬ、とまで言われて、頭に血が上った左司馬は、髪結に一杯食わせようと家臣たちとはかり、司が書いたように見せかけた偽の恋文をつくって五郎七へ届ける手はずをした。一方、家に戻った五郎七は、中間が置き忘れたらしい司の女扇を手に取って、先ほどの司の美貌の様子を思い返し、自分に好意があるのでは、とニヤついているところへ、花車のお玉が偽の恋文を届けに来た。手紙には、殿が先に出発するので今宵会いたいとあり、五郎七は慌てて支度して駆けつけた。ところが、頬かむりで忍んできた五郎七を待ち構えていたのは左司馬とその取り巻きたちで、不義者、盗賊とののしられた上に、大勢でよってたかっての袋叩きに逢った。しかし前野家の家老高木蔵之進は、五郎七のこれまでの生い立ちを知っていて、五郎七の剣術の腕前を試そうと切りかかり、それを巧みに回避する五郎七をみて、五郎七が実は高木の甥浅香与一郎春義であり、司とは幼時からの許嫁であったと確認する。事情を高木から知らされた司と五郎七は、めでたく結ばれる、というお話しである。髪結五郎七を松本幸四郎が、司を片岡千壽が演じている。物語としては他愛がないが、司の美形に惹かれた五郎七が、浮かれたり驚いたりの上方特有の、誇張気味のユーモアと感情表現が持ち味の作品のようである。
 ふたつ目が「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」である。
 源光仲の子で摂津源氏の祖とされる源頼光は、物の怪に憑りつかれて摂津国多田の御所に伏せっていた。その傍には、家臣の碓井貞光、坂田金時が寝ずの番をしていた。この不寝番の二人が繰り返す睡魔に襲われて悩んでいたところへ、見かけぬ小姓寛丸が眠気を防ぐ濃茶を持って現れた。不審な動きに二人が斬り払おうとすると、その姿は忽然と失せた。その後、太鼓持の愛平、そして座頭松市が、つぎつぎと現れては、不審に思って捕らえようとすると消えてしまった。二人は、葛城山の土蜘蛛の仕業ではないかと訝しむ。頼光の寝所では、久しぶりに傾城薄雲太夫が訪ねてきた。ところが薄雲太夫は、突然蜘蛛の本性を現して頼光に襲いかかったのち逃走した。頼光は宝剣の蜘蛛切丸を携えて逃げた蜘蛛を追跡し、晩秋の美しい紅葉のなか、主従三人は葛城山の蜘蛛の精の棲家にたどり着き、日本を魔界に変えようと野望を抱く蜘蛛の精に刀を抜いて立ち向かい、壮絶な戦いの結果、最後は頼光が霊剣蜘蛛切丸で蜘蛛の精を退治する、というお話しである。
 一人五役の早変わりが見ものであり、その主役を愛之助が演じる。平成27年(2015)11月に出石町「永楽館歌舞伎」で初めて勤めて、今回が3度目だという。愛之助は、いまではすっかり人気者の看板役者となった。軽妙で俊敏な動きとユーモアが魅力だ。頼光は、幸四郎が演じる。舞台美術もとても美しく、その背景とよくマッチした蜘蛛の衣装も美しい。舞台美術としても優れた舞台であった。人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(7)

7.モダニズム建築の京都
 西欧では、20世紀前半にル・コルビュジェを代表とする「モダニズム」という建築様式が展開した。それまでの古代ギリシア・ローマ風の円柱をもった重々しい特徴的な装飾と色合いをまとった優美な様式から離れ、産業的な精神を軸に過去から自立し、科学の時代に適合した新しい様式を求めた。科学的裏付けをもった採光、照明、ガス、電気、水道、電話など機能的なインフラや装置をふんだんに取り入れ、そこで生活するひとびと、仕事するひとびとの安全と便利を最大化する合理性が特徴である。建物の形状としては、ごくシンプルな直方体であることも多い。
 このモダニズム建築と京都との関係を振り返ると、その導入の予兆を感じさせる戦前と、モダニズムを受容しつつもそれを進化させ日本の風土になじませようと努力を重ねた戦後とに大別できそうである。Photo_20211125062101
 西欧モダニズムの受容期の一例として、京都帝国大学花山(かさん)天文台があげられる。これは、京都大学の天文学研究設備として大学構内にあった天文台を、昭和4年(1929)東山の花山山頂に新設したもので、設計の主導者は京都帝国大学建築学科第一期生の大倉三郎と推察されている。半球、半円、円柱、直方体といった幾何学的形態の組み合わせによって全体が構成されている点にデザインの最大の特徴がある。その一方で、エントランスホールは、複雑で変化に富んだアール・デコ風の意匠を採用している。
1_20211125062101  モダニズムと日本あるいは京都との折衷と融和を模索した様式の典型と思われるのが、昭和41年(1966)竣工した国立京都国際会館である。設計は、丹下健三の片腕としても活躍した大谷幸夫で、公開設計コンペの195点の応募作に対して勝ち取った作品であった。この建築の最大の特徴は、断面図に現れる台形あるいは逆台形の、鉄筋コンクリート製の巨大な柱で、これらが空間を貫いていることである。このすべてが傾いた外壁面で、一見奇抜で荒々しい外観が、実は宝ヶ池や周囲の山並みなどの自然環境とみごとに調和するように考えられている。内部のメインホールやメインラウンジも、独創的なデザインで伝統とモダニズムの調和が実現されているそうだ。一見奇抜だが京都の風情に意外に融合する、ということでは原広司が設計したJR京都駅ビルを連想する。
 この展覧会は建築がテーマなので、絵画や彫刻のように作品の実物を鑑賞することはできず、写真や模型を眺めて説明文を読む、ということになり、極言すれば書籍を学ぶのと大差ないとも思われるが、こうして多数の大型写真、大型模型を並べた展示場のなかにいると、あらためて京都には近代以降のみでも多数の芸術的建造物がたくさん残っていることに感銘を受けた。安藤忠雄が言っていたが、建築は芸術だが、そこはヒトが住まったり活動したりする場所でもあり、その観点からの実用性は絶対的に要求されるので、本来的に自由度には限界がある。たとえば住宅であれば、立地環境に適合して、住まうヒトが満たされて、はじめて価値ある住宅建築となる。吉田山にある旧谷川住宅群のうちの一軒に現在住んでいる夫妻が、フィルム展示映像で話していたが「私たちは、ここに家を購入して住んでいるが、気持ちとしては京都のこの環境に住まわせてもらっているので、住まいをお借りしている意識だ。生活の快適のために安易に家屋に手を加えたりせず、そのままで居続けることがもっとも満足できる。」との言葉は印象に残る。
 私は、これから先何年生きるかわからない老人の身だが、幸い京都は近いので、今回知った京都の近代建築を、ひとつでも多く訪れたいと思った。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(6)

6.住まいとモダン・コミュニティ
 京都は、8世紀末の平安遷都の平安京の大都市計画から都市化が始まったが、長い年月を経て実際に開発・発展したのは、著しく東側に偏っていた。800年近く経って豊臣秀吉が京都の大改革を実施して、御土居という堀を都市京都の境界線とし、その内を洛中、外を洛外と呼ぶようになったが、この洛中は平安京の中央を貫いた朱雀大路の東側半分に北部の一部と鴨川縁の東部を加えた、平安京の当初のプランのほぼ半分の範囲のものとなった。明治維新以降、京都の市街地近代化は、洛内市街地の商業地・業務地の近代化と、それにともなう人口増加に対応して居住地が発達・拡大した。これは、洛外とくに東山地区からはじまった。明治維新で東山山麓の社寺の境内地や多数の塔頭が上地され、やがてその土地が民間に払い下げられることで別荘や住宅が増えて行った。明治20年ころから造営が始まった南禅寺界隈の別荘地は、その嚆矢となった。そのひとつ、山形有朋の別荘無鄰菴は、私も訪れたことがある。Photo_20211123062401
 郊外の住宅地化が本格的に進展するのは明治40年代で、そこにまず住み着いたのは、学者や芸術家、あるいは文筆家といった人たちであった。衣笠一帯には、木島櫻谷や土田麦僊など多くの日本画家が来住し、「絵描き村」とよばれようになった。志賀直哉も一時期衣笠に暮らした。同志社や第三高等学校、京都帝国大学に近い塔之段、下鴨、北白川などには、早い時期から大学教員や学者が住むようになった。
 京都学芸大学に近い北白川の住宅地に、駒井卓・静江記念館がある。駒井卓は、京都帝国大学理学部教授で遺伝学の研究者であった。妻・静江は、のちにヴォーリズの妻となった一柳満喜子と神戸女学院の同窓生であった。この縁だと推測されるが、駒井宅の設計はヴォーリズであった。赤色桟瓦葺の屋根、スタッコ仕上げの外壁、窓はアーチ型が多用され、壺飾りもあり、全体にスパニッシュ風のデザインだが、控えめな装飾性で、機能性と合理性を重視した、学者の暮らしぶりを顕すような仕上げとしている。内部の部屋の配置や内装も、工夫の行届いた設計となっているらしい。主屋のほかに別棟の温室や附属室も備え、当時の近代における郊外の暮らしを今に伝えている。
Photo_20211123062402  さきの大戦の前、御所の西側、堀川に沿って下長者町通りと下立売通りの間に、堀川京極商店街という繁華街があった。しかし戦争末期に延焼防止のため建物疎開となり、建物が撤去されてしまった。その疎開空地に昭和26年(1951)から昭和29年(1954)にかけて鉄筋コンクリート造の市街地型集合住宅が建設された。これが「堀川団地」である。椹木町団地、下立売団地、出水団地、上長者町団地で、建物は全部で6棟からなっている。戦後復興期の深刻な住宅不足の解消、都市防災のための防火建築帯の構築、商店街の再興が目的の事業であった。昭和25年(1950)に設立された京都府住宅協会が、最初に住宅金融公庫の融資を受けて建設した団地でもあった。
 いずれの建物も3階建で、1階を店舗兼住宅、2・3階を住居専用とし、堀川通側に住戸を並べる。各戸は、面積が異なるものの集合で、面積に応じて2K、3K、2DKの間取りが採用されている。2階壁面の後退を利用した2階共用テラス、各団地でことなる平面と立面の組み合わせの試み、通風や採光への配慮、店舗による賑わいの創出など、新しい住環境を指向する設計者の情熱が感じられる。

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