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文化・芸術

2024年度高槻こいのぼりフェスタ

 今年は「高槻こいのぼりフェスタ1000」というタイトルで1000匹の鯉のぼりを翻すとのアピールらしい。
 4月29日例年通り、河川敷広場で午前10時から昼休みをはさんで、午後3時半までステージイベントが行われた。家人とふたりで、芥川高校の和太鼓を中心に観に行った。1000_20240516060501
 キッズ・ダンスという子供から青年までのそれぞれの演技があった。幼稚園児や小学生も、楽しそうに踊るのは可愛い。
 芥川高校の和太鼓部は、創部30周年、部員60名を誇り、全国高校総合文化祭に19回出場し、優秀賞・文化庁長官賞(2回)、優良賞(4回)を受賞、国立劇場公演(2回)にも参加という輝かしい実績をもつ。海外活動でも、2001年からイギリス、トルコ、韓国、スペイン、オーストリア、インドネシア、ベルギー、アメリカ、中国(日中高校生友好交流事業)、シンガポール(文化庁派遣)で公演を行い、11回目の海外公演となったポーランドの世界民俗芸能フェスティバルで「特別賞」を受賞している。リズムだけでこれだけの表現力を実現するのには、感動する。また、笛を2人加えた演奏もあるが、この笛のボリウムにも驚いた。
 高槻こいのぼりフェスタの恒例のイベントとして、すっかりこの地に定着している。

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2023年七月大歌舞伎 松竹座

 3月からほぼ4カ月ぶりに、大阪松竹座で「七月大歌舞伎」を観た。
 今回は、夜の部に片岡仁左衛門が演じるのは最後となるだろうといわれている「俊寛」が予定されていたが、さすがに人気が高すぎて、私たちには昼の部しか切符が取れなかった。それでも内容はなかなか充実していた。
 最初の演目は「吉例寿曽我 鶴ヶ岡石段・大磯曲輪外」である。Photo_20230712054301
 これは私には初見の演目である。鎌倉幕府の草創期、平重盛の家人から源頼朝の寵臣となった工藤祐経(くどうすけつね)がこの舞台の主役である。工藤祐経の家臣近江小藤太と八幡三郎が、主君たる工藤祐経の武運長久を祈るために夜中に鶴ヶ岡八幡宮に参詣にきていた。そのとき八幡三郎は近江小藤太に「見てもらいたい書がある」と持ち掛けた。それは謀反の密書であり、それを感づいた近江小藤太は「中身を見ないでとりあえず私に譲ってほしい」と返事した。八幡三郎は「ほしいなら譲らぬでもないが、まず私が中身を読んでからだ」と返す。これで二人は激しく刀を交わすことになった。大きな八幡宮の石段を舞台に、華やかな立ち回りが演じられる。近江小藤太を中村隼人が、八幡三郎を中村虎之介が演じる。若い伸び盛りの二人の機敏な立ち回りはなかなか美しい。舞台の石段も、ゆっくりせりあがって場面が交代するようなカラクリとなっていて、なかなか興味深い。
 そのカラクリが幕間なくただちに舞台を大磯の曲輪へと変える。源頼朝の寵臣に成りあがっていた工藤祐経は、富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられ、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎などの取り巻きが祝いに駆け付けていた。そこへ朝比奈三郎が二人の若者を連れてくる。それはかつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父を殺した相手に面会できたことを知った兄弟は、とくに血気盛んな曽我五郎が仇討ちを意識してはやるが、朝比奈がなだめ、工藤は巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与えて、双方再会を期して別れる。工藤祐経をはじめ、登場人物一同が、疑心暗鬼の探り合いとなり、「だんまり」と呼ばれる舞台となっている。工藤祐経を坂東弥十郎が、曽我十郎を片岡千之助、曽我五郎を市川染五郎が演じている。「だんまり」の舞台様式については、私にはよくわからなかった。
 二番目の演目は、京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)で、竹本連中と長唄囃子連中の伴奏による舞踊の舞台である。私は、この演目を観るのはたしか2度目だと思う。
 鐘供養のために所化(しょけ:修行僧)が集まる紀州の道成寺が舞台である。そこへ美しい地元の白拍子花子がやってくる。所化たちが訝しんで所用を訪ねると、なんとしても鐘を拝みたい、と。舞を奉納することを条件に白拍子に入場を許すと、白拍子は熱い恋心を込めて艶やかな踊りを披露するうちに、形相も衣装も変化し、最後には鐘に登って取りついてしまう。1時間近くにおよぶ壮麗でエネルギッシュな舞踊が、尾上菊之助によって披露された。ときには動きの速い踊りに加えて、伴奏にきっちり合わせながら自ら鼓や小太鼓を演奏する。まことに見事としか言いようがない素晴らしい舞踊であった。
 最後の演目は「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)沼津」である。
 裕福な江戸の呉服商十兵衛は、縁あってある武士が敵討ちから逃れるために九州相良に落ち延びる手助けのために沼津まで来ていた。そこでひょんなことから貧しいが人柄の良い老人雲助平作から、駄賃仕事がないので荷物運びをさせて欲しいとせがまれ、荷物を運ばせる。ところが平作は老いぼれていて荷物運びの役に立たないばかりか、足を怪我してしまう。可哀そうに思った十兵衛は、偶然持ち合わせた評判の妙薬を印籠から出して施薬してやると、薬効てきめんに傷は癒えた。そのあと偶然平作の娘お米と行き合わせ、お米の美貌に惹かれた十兵衛は、平作・お米のあばら家に立ち寄り、一宿することになる。お米は、実は元吉原の「瀬川」と名乗った高名な花魁であったが、ある武士と結婚していて、その夫は鎌倉円覚寺で果し合いに敗れて負傷し療養していた。夫の回復のために「妙薬」を手に入れようとして十兵衛の印籠を盗もうとしたお米は、十兵衛に取り押さえられてしまうが、平助とともに平謝りして十兵衛から許しを得た。そんなこともあり、十兵衛は夜明け前であったが、すぐに平助の家を出て、千本松原に向かって旅立った。残された印籠に付随していた書付から、平助とお米は、実は十兵衛が平助の実子でありお米の兄であることを確信する。さらに、その印籠が、お米の夫に傷を負わせた武士のものらしいことをも発見した。十兵衛がその仇の消息を知っているかも知れないと感づいたお米は、平助とともに十兵衛を追った。
 なんとか十兵衛に追いついて、仇の武士について聞き出そうとした平助は、律儀な十兵衛から断られ、とっさに十兵衛の脇差を引き抜いて自刃する。驚いた十兵衛は、近くにお米が潜んで聴き耳を立てていることを知りながら、死にゆく平助への言葉として仇の武士の消息を教えたのだった。
 人情劇とはいえなんとも複雑なストーリーで、私には全容がすぐには把握できなかった。その複雑さの遠因として、この物語は、沼津に実際にあった仇討ち事件、しかも高名な荒木又右衛門にも関わる有名な事件を下敷きにしたものであるという。
呉服商十兵衛を中村扇雀、平作を中村鴈治郎、お米を片岡孝太郎がそれぞれ演じる。
 回り舞台だけでなく、背景が目の前でするりと入れ替わる新しい舞台装置を導入し、場面の展開が迅速なことに驚いた。そのため、一幕の舞台ながら1時間半余りの、内容の濃い長丁場である。先述の石段のカラクリもそうだが、私が歌舞伎を観るようになったこの20年ほどの間にも、舞台装置も少しずつ変化・進化しているのだろう。
 舞台に登場する役者も、確実に世代交代が進む。高名なベテランの役者を見慣れたひとには、若手役者に物足りなさを感じてしまうのかも知れないが、若手も確実に育っている。
 今回は、休憩を2回含むが、全体で4時間以上にわたる長い公演で、ここ3年間余りのコロナ騒動で、開催されても全体で2時間から3時間弱と短かったのが、ようやくかつての公演なみに復活していて、その意味でも嬉しかった。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(7)

東洋文庫の歩み
 東洋文庫の基礎は、大正6年(1917)年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンが所蔵していた中国に関するヨーロッパ文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。岩崎久弥はモリソン文庫に加えて和書・漢籍をはじめとする東洋諸言語文献を収集し、日本を含めた東洋全域を網羅するコレクションを構築したうえで、大正13年(1924)東京本駒込の地に民間の図書館兼研究所である財団法人東洋文庫を設立したのであった。
 初代理事長には、同年まで大蔵大臣だった井上準之助が就任している。設立後、久弥自身は文庫の運営に一切関わろうとはしなかったが、必要な図書費や研究費の支援は惜しみなく実施した。三菱の海外支店を介して代金の支払いが確実になされたため、世界中の書店が先を争って文庫に購入を持ちかけたという。Photo_20230711054201
 東洋文庫はこうして東洋学関係図書の収集、研究書の出版、国際交流などを行ってきたが、第二次世界大戦後の混乱期には支援者である三菱財閥の解体により経営が困難となり、蔵書は散逸の危機に瀕した。この窮地の昭和22年(1947)理事長に就任した幣原喜重郎元首相の尽力により、国会が支援に乗り出し、東洋文庫は昭和23年(1948)やはり三菱財閥の支援下にあった静嘉堂文庫とともに、発足したばかりの国立国会図書館の支部となった。これにより国会図書館は東洋文庫内に支部東洋文庫を設置し、文庫の図書館部門の閲覧業務を請け負うことになった。
2009年3月支部契約は終了し、特殊公益増進法人に認定された財団となり、その必要資金は自己資産や三菱グループからの寄付金及び国等の補助金でまかなわれている。
 戦争に対する所蔵文書の仙台疎開や、地震・台風などの災害への対処などの苦労も一部展示されていた。このような膨大かつ貴重な資料がこうして大切に保管・維持されてきたことに深く敬意を感じる。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(6)

日本とヨーロッパ
 最後のセクションは、日本とヨーロッパとの関りである。
 江戸時代中期の天明5年(1785)には、林子平が『蝦夷国全図』というかなり大型の地図を幕府に献上している。展示品をみると、横長の楕円形で、北海道の地図としてはずいぶん違和感があるけれども、ロシア東部がしっかり描きこまれ、彼が対ロシアの国防意識からこれを作成して訴えたものであることはとてもよくわかる。幕末には、伊能忠敬の事業を継承した高橋景保などが完成して将軍に献上した『大日本沿海実録図』(文政4年1821)が展示されている。この地図の精確さは、これまでみてきたヨーロッパ諸国の地図とくらべても際立っている。Photo_20230710054601
 その高橋景保も連座したシーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、長らく日本に滞在して日本の自然を科学者として観察し、やはり今回展示されている『日本植物誌』『日本動物誌』などを残し、さらに日本の風土・文化を記録した『日本』(1832ころライデン刊)などを制作した。
 これらの他にも、日本の物語『竹取物語』(明治13年1880)、『日本昔噺ドイツ語版』(明治18年1885)、『源氏物語』(昭和3年1928)、『枕草子』(昭和42年1967)などが展示されている。とくに明治13年の『竹取物語』、明治18年の『日本昔噺ドイツ語版』など、日本が維新を経て開国したのちのわずかな後に、このような日本の「古典」を探し出して自国語に翻訳する外国人がいたことに、私は感銘を受けた。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(5)

西洋と東洋の交わり
Photo_20230709060101  大航海時代以降は、ヨーロッパもアジアへの関心が高揚し、さまざまなアジア関係の書物や情報が普及したが、そのひとつの代表的なものとして13世紀末のヴェネツィア商人マルコ・ポーロによる『東方見聞録』の普及がある。この東洋文庫所蔵のみでも、80種以上の『東方見聞録』が所蔵されているそうだ。
 この他、17世紀イギリスの外交官ポール・リコーによる『トルコ史』、18世紀のダニエル・デフォーの名作『ロビンソン・クルーソー漂流記』の刊本、18世紀フランス人天文学者が天体観測のためにシベリアに滞在したときの記録『シベリア旅行記』などがある。
 一方、中国の側でも16世紀明代の経世済民の儒学者羅洪先(らこうせん)による『広輿図』が展示されている。これは「方格図法」という、地図を正方形の区画ごとに区切って構成する図法で、のちにメルカトール図法などが普及してくる以前には、広く採用されていた図法であったという。
Photo_20230709060201  オランダと中国との交流の記録としては17世紀のアムステルダム刊『マテオ・リッチと徐光啓』が展示されている。徐光啓が翻訳して発刊した『幾何原本』の表紙絵である。
 徐光啓(じょ こうけい、嘉靖41年~崇禎6年1562~1633)は、明代末期の中国の暦数学者で、有名なキリスト教徒であった。上海に生まれ博学多才のひとで学問に専心し、郷試に首席で合格した後、1599年にマテオ・リッチ(利瑪竇)の名を聞いて南京に行って教えを受け、1603年にジョアン・ダ・ロシャ(ポルトガル語版)(羅如望)の手で洗礼を受け、キリスト教徒となった。進士にも及第し、翰林院庶吉士となり、リッチとの交際が深まるとともに、洋学の知識もより深めた。天文学・地理・物理・水理・暦数などについてのリッチの口授を翻訳・筆記・公刊した。とくに『ユークリッド原論』を訳した『幾何原本』6巻(『四庫全書』に収める)が、有名である。
 日本に大きな影響を与えた『農政全書』など、著書や翻訳書は多数あり、中でも有名なものとしてイエズス会士アダム・シャール(湯若望)の協力によって刊行した暦法書『崇禎暦書』、『測量全義』などがある。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(4)

東南アジア
Photo_20230708055701  東南アジアは、ヨーロッパからみるとインド・中国を中心とするアジア市場への進出のための結節点として、大航海時代から関心をおおいに高めていた。
 16世紀初頭期のイギリス人トメ・ピレスによる『東方諸国記』、17世紀初期のオランダ人ネックによる『東インド航海記』、同じくオランダの『東インド諸島図』、シンガポール建設の立役者であった英国人トーマス・ラッフルズによる『ジャワ誌』(1817)、などが展示されている。
 ベトナムの婚礼と葬送の風俗を描いた『越南婚葬行列図』(部分)(19世紀末ころ)がある。当然ながら、婚礼にかかわるひとびとの衣装は明るい色彩の晴れやかなものが多く、対照的に葬儀の衣装は無彩色主体のしめやかなものとなっている。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(3)

朝鮮と日本との交流
Photo_20230707053901  朝鮮半島では、中国にならってかそれぞれの王朝で、代が変わると新しい王はそのすぐ前の代の王の事績を正史としてまとめて残した。鄭麟趾(ていりんし)編纂による『高麗史』が展示されている。この展示品は15世紀の李氏朝鮮時代の刊本を幕末に勝海舟が所有していた木箱入りセットのもので、後に東洋文庫が入手したものだという。
 江戸時代後期の絵『朝鮮風俗図』が展示されている。
 この他、江戸時代に12回にわたって行われた朝鮮通信使(朝鮮聘礼使)の日本への来航時の行列の様子を描いた『朝鮮聘事』(正徳元年1711)という絵図も展示されている。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(2)

中国の書体と王羲之
Photo_20230706060101  紀元前91年ころの司馬遷『史記』、18世紀のイギリス人ジョン・ヘンリー・ミラーによる写生図『万里の長城』、11世紀の司馬光の『資治通鑑』の明治10年(1885)の刊本などがある。気になったのは王羲之による『蘭亭序』である。魏晋南北朝時代(184年-589年)の353年(永和9年)王羲之が名士や一族を会稽山の麓の名勝蘭亭(現在の浙江省紹興市)に招いて、総勢42名で曲水の宴を開いたときに作られた詩27編(蘭亭集)の序文として王羲之自身が書いた草稿が「蘭亭序」であった。これを王羲之は、当時としては非公式な行書体で記した。そのころ中国では、正式文書はすべて隷書体で書かれていたが、これ以後楷書・行書・草書の三体がひろく普及したと伝えられている。今見ても、素晴らしい書である。
 書が美しいといえば、今回展示されている「殿試録」(清代、1772)の科挙の答案も実に美しい文字である。これが科挙の答案の一部だというが、模範解答なのか、実際の受験生の答案なのか、よくわからないが、答案にこんなに丁寧にきれいに書くということなどは、私には想像がつかない。日本では、とても成績の良い学生にも、悪筆の者は多々いる。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(1)

 2月から始まっていた少し異色の展覧会で、気になっていたもののこれまで行けずにいた。いよいよ会期が終わってしまうというので、ともかく観ておきたいと、春の快晴の日京都に出かけた。
 京都の河原町、新京極通り、三条通りと、最近までコロナ騒動でひっそりしていた街の賑わいがすっかり戻っていて、少し嬉しい往路であった。
 東洋文庫(東京都文京区駒込2丁目)は、大正13年(1924)三菱財閥の第三代総帥岩崎久彌によって創設された、東洋学分野のアジア最大級の研究図書館であり、世界五大東洋学研究図書館の一つとなっている。昭和36年(1961)からはユネスコの要請によってユネスコ東アジア文化研究センターが付置され、平成15年(2003)にセンターが終結するまでアジア文化やアジア研究の動向を世界に紹介する業務をも行ってきた。
2011年10月20日、東洋文庫ミュージアムを併設した新本館がオープンした。
 今回は、いつもの美術館での絵画の鑑賞とはいささか異なり、東洋文庫が有する約100万冊の蔵書の中から、国宝、重要文化財をはじめとする所蔵品から、書籍あるいは文書を中心として、さらに一部は美術品を含めた約120件を展示している。

プロローグ
Photo_20230705072901  冒頭にあるのは、古代の「文字の発祥」について、エジプトのヒエログリフの辞典、バビロニアのハンムラビ法典の近代イギリスの復刻版である。
 『中央アジア・東アジアにおける文字のはじまり』いうタイトルの1894年イギリス版の書では、中央アジアや東アジアの古代文字が、象形文字からどのように形成されてきたかを解説している。
 1595年に書写されたという「クルアーン」すなわちコーランの古書もある。Photo_20230705072902
 そしてヨーロッパの大航海時代を経た後の、アジアの地理の知識を獲得したオランダの地図「ウィレム・ブラウ、ヨアン・ブラウ『大地図帳』」(1648-65、アムステルダム市蔵)がある。Asiaというタイトルが付けられ、彼らが知るかぎりのユーラシア大陸に加えて、日本、カリマンタン、スマトラ、東アフリカの一部が描かれている。もちろん形は現代から見ればぎこちないが、航空写真もしっかりした測量機器もない時代に、よくもここまで地理のマクロな概要を把握したものだと、私は驚嘆する。すくなくともトポロジカルには、かなり正しい認識が認められるのである。

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高槻ジャズストリート2023(5)

【2日目】再び高槻城公園の芸術文化劇場南館へ
 山中千尋のセッションが終わると、ただちに桃園小学校グランド会場を出て、再び高槻城公園にとって返し、家人と合流するため芸術文化劇場南館大スタジオに向かった。Photo_20230516054001
 幸い順調に移動できて、目的の「SOA New Quintet with friends」のセッションに間に合わせることができた。
SOA New Quintet with friendsは、リーダーのヴォーカルSOA、サックス武藤浩司、ギター伊藤シュンペイ、ベース澤田浩輔、ドラム鈴木大瑛のSOA New Quintetに加えて、ピアノ/キーボード杉山悟史、トランペット横尾昌二郎、ヴァイオリン高橋真央、チェロ竹中裕深の4人を加えた9人編成の大ユニットとなっている。
 前日の別のタイトルのセッションでたまたまヴーカルのSOAが共演していて、一部ではあったが歌声を披露したのを聴いて、このヒトの歌をもっと聴きたい、と思ったのである。
 歌手・ソングライターのSOAは、音楽に関心の深い両親の影響で幼少期よりピアノを、15歳より本格的なヴォイストレーニング・作詞作曲を始めた。大阪芸術大学音楽学科に入学し、在学中に二度NYへ単身留学し、NY・Blue Noteでのジャズ歌手Dianne Reevesのステージに感銘を受け、JAZZへの関心が深まったという。
 2016年よりSOAとして本格的にJAZZ LIVEを始めた。現在は、国内外に幅広くライブ活動をするとともに、ヴォイストレーナーとして、幅広い年代の人たちに歌を教えている。
Soa_20230516054001  たしかに彼女のヴォーカルは、女性としては低めのキーの発声だが、音域は十分で発声そのものがごく軽く、なんら力みがなく豊かな声が出る。ヴォーカルとしてのコントロールが自在で、伸びやかで心地よいヴォーカルを聴かせてくれた。
 楽曲としては、オリジナルのアルバム「讃」からの「風光る」、「To Love」、「Terradante」などが演奏された。エレキベースの澤田浩輔が、まったくピックを使わず、指で繊細な演奏をしているのにも感銘を受けた。

 第25回目の高槻ジャズストリートは、今年春ようやく落成なった新しい芸術文化劇場の施設を、一部なりとも入場して体験できたこともあり、一層感慨あるひとときを過ごすことができた。このような美しく快適で優良な文化施設が高槻に追加されたことは、市民として誇らしく嬉しい。

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