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四半世紀ぶりのシンガポール(20)

四半世紀ぶりにみたシンガポールへの感想
 私は2002年夏2年間のシンガポール滞在を終えて帰国してから、シンガポールを四半世紀ぶりに訪れた。当然ながら、私が知っていたシンガポールとは大きく変わっていた。
 先ず外観や見かけから述べると、とくに都心部では高層ビルが著しく増加していること、観光地などの施設は、2000年ころに比べて大きく変化したことが挙げられる。一部は改修だが、巨大施設の新設もおどろくほど多い。こんな小さな島国なのに、これでもかというほど稠密に、大きくて豪華な施設が多数新設されている。限られた人口なのに、これだけの巨大で多数の投資が回収されるとしたら、このシンガポールの勢いはすごいものがある。街を歩く人々の平均年齢が、日本と比較して圧倒的に若い。街のあらゆるエスカレーターのスピードも驚くほど速いのである。要するに活気に満ちている。
 四半世紀昔のシンガポールの印象は、Well-organizedというべきもので、ちいさな国でまだじゅうぶん豊かとは言えないものの、勤勉でよく頑張っている、というものであった。それが今では、Wealty and Energishへと変わっているのだ。
 外観を離れて、日常生活の様子をみると、ともかく日本に比べて物価が高い。
 私がこのシンガポールに滞在していた四半世紀前の2000年ころ、シンガポールの物価水準は日本の65~70%ほどであった。それが今では150~180%になっている。つまり2倍以上に立場がひっくり返ったのである。たとえば日本で200円程度で買える缶ビールが、ここでは800円余りになるといういささか極端な例もある。
 一人当たりのGDPがシンガポール9万ドル、日本3.2万ドルと、すでに3倍近い格差がある。
 シンガポールの若い人たちは、日本が好きで訪れたがっている。ただその主な理由は、日本はなんでも安価で、治安が良くて、きれいで、整然としている、というのだ。要するに、物価が安いのが最大の要因なのだ。厳然たる事実として、日本が相対的に貧困になっているのである。
 わが国では、とくにコロナ騒動以後、インバウンドの急速な拡大が経済復興を支え、年間3300万人以上の外国人が訪れたと浮かれているが、それは要するに日本が物価の安い、貧しい国であることが魅力なのだ。
 私たちから見たら、おそるべき高物価のなかで、それでもシンガポールの人たちは楽しそうに生活しているのである。わが国の問題の中心は、高物価なのではなく、物価がある程度高くても、それなりに生活していける経済構造をいかにして実現するかなのである。
 日本は実はこんなに相対的貧困に陥っているのだが、日本内部にいるかぎり、平和で、安全で、きれいで、心地よい国柄である。それでも「物価高」が問題となって、生活に困ると訴える人も増えているのは、実情なのだろう。
 こんな状態に直面すると、さきの参議院選挙で惨敗した自民党が唱えていた「国民一人当たり2万円の一時給付」などという政策は、ほとんど意味がないことが理解できる。短期的にはそういった対策も必要かも知れないが、それはあくまで臨時的な対症療法に過ぎない。簡単ではなく時間もかかるが、日本の経済を全体的に押しあげて、景気後退を招くことなく金利を上げて、円安を脱皮しなければならない。それが実現しない限り、日本の地盤沈下に歯止めがかからないのである。
 相も変わらず日本のメディアは、物価高対策こそ最大の政治課題だと囃し立てている。超短期的には、その対策もある程度は必要だろうが、本質的な対策は、少子化で生産労働人口が減少するうえに、過去最大の人口ピークをもたらした我々「団塊世代」が巨大な団塊として後期高齢者になり、大部分はもはや生産しない。しかも、壮年期までほとんど医療の必要がなかった大部分の高齢者たちが、加齢でなんらかの軽重さまざまな疾病をかかえるようになり、医療保険財源を大量に費やす。それを支え、わが国の生産を支え、健康で医療保険を費消しない若い世代は、人数が少なくて負担のみ増加して行く。誰が意図したわけではないが、大変困難な難しい情勢が続くのである。
 現場をみたら一目瞭然のこの現実を、日本の政治家も知らないわけではないとは思う。それでもメディアのみならず今の多くの、とくに野党の政治家たちの経済政策における危機感の過少と的外れに、あらためて率直に心配を覚えた。現実は本当に厳しいのだ。

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四半世紀ぶりのシンガポール(18)

アジア文明博物館(上)
Photo_20251110055801  ラッフルズ上陸記念の地に隣接して、アジア文明博物館 Asian civilizations Museumがある。1993年に設立されたが、2003年にこの地に新しく移転してきたらしい。私が四半世紀以前にアジア関係の博物館を訪れたような気がしていたが、この場所そのものではないということである。アジアの芸術的遺産、世代を超えて伝わるシンガポールの文化を専門に展示している東南アジア唯一の博物館である。
 この博物館のひとつのトピックとして、「Tang Shipwreck(唐の沈没船)」コレクションが展示されている。1998年に発見されるまで海底で眠っていた9世紀の中国の財宝が並ぶ、まさに歴史のタイムカプセルと呼ぶにふさわしいコレクションだという。今回私が訪れた時に、ちょうど1時間の英語のプレゼンテーション・ツアーがあったので、それに参加した。
 9世紀唐の海外渡航Ewer 船がジャワ島のジャカルタ近くの港からインド、中東、アフリカ東海岸に向けて出港したが、まもなくシンガポール沖で沈没してしまった。1000年以上が経過して、その船が1998年に引き揚げられ、詳細な調査をおこなったところ、多くの財宝が発見されたのであった。量的に多いのは、当時はかなり高額商品だったと思われる手書きの絵が描かれた皿などの陶器、そして船底の一部に深く隠し込まれた部屋があり、純金ものを含む金と銀の器や皿が発見されたのであった。もちろん沈没前には、陶磁器と貴金属以外のさまざまな物資が搭載されていたと考えられるが、長い年月海底に放置されて、陶磁器と貴金属以外の品々は腐食・散逸してしまったと推定されている。その渡航船の模型が大量の皿とともに展示されている。船は、実際の寸法はツアーのコンダクターも知らないとのことだが、決して大きな船ではないらしい。それでも高額の品々を大量に搭載できた。
Photo_20251110055802  大量の皿は、当然ながらすべて手書きの絵付けがされている。
大型の陶器として「唐の水差し ewer」がある。蛇をかたどった把手が付けられ、全体に丁寧な彩色模様がある。彩色模様の下地には、微細模様の陶の凹凸が形成されていて、とても手の込んだ装飾である。
 少し珍しい形の陶器として「台付き杯」がある。これには器の底の孔からつながる細いパイプが脇についていて、この端を鼻につけて、鼻から飲み物を吸い込むのだそうだ。唐の時代に上層階級で流行した飲み物の摂り方なのだという。

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四半世紀ぶりのシンガポール(17)

ラッフルズ上陸記念の地
Photo_20251108230601  マーライオン・パークからアンダーソン橋を渡り、シティホールのある側に移動して、シンガポール川に面する岸を探すと、ラッフルズ上陸記念の地の表示板とトーマス・スタンフォード・ラッフルズの大きな像が見つかる。
 この像は、この近くにあるビクトリア・シアターの前にある黒いブロンズ像から鋳型を造り、ラッフルズ上陸150周年を記念して建造された。
 Sir Thomas Stamford Bingley Raffles (1781~1826)は、イギリスに船乗りの子として生まれ、14歳からロンドンの東インド会社の職員として働き始めた。1805年からマレー半島のペナン島に赴任し、1811年ジャワ島に移り、東インド会社の遠征軍に参加してジャワ副総督に任命された。
 1818年スマトラにあった東インド会社の植民地ベンクーレンの副総督となり、1819年マレー半島のジョホール王国の内紛に乗じて、シンガポールのこの地に上陸してシンガポールを獲得した。
この像の台のプレートには「この歴史的な場所こそは、トーマス・ラッフルズ卿が1819年1月28日、はじめてシンガポールに上陸した地点である。彼の天才と卓越した感性がシンガポールの運命を変えて、辺鄙な漁村から偉大な港と近代都市をもたらした」と記されている。

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四半世紀ぶりのシンガポール(16)

マーライオン・パーク
Photo_20251104053601  MRTラッフルズプレイス駅から東に向かって歩き、1928年から元は役所、郵便局、そして建物を保存して内装を変えてホテルとなったフラトン・ホテル・シンガポールを経て、マーライオン・パークへ向かう。左手にはシンガポール川、右手にはフラトン・ホテルの重厚な建物が聳える。Photo_20251104053701
 マリーナベイに少し突き出した小さな岬の端がマーライオン・パークである。ここはごく狭くて、マーライオンが据えられているほかにはなんといってないのだけれども、やはりマーライオンはシンガポールのシンボルなのか、おもったより大勢の観光客で賑わっている。マーライオンが対峙するマリーナベイの向こうには、マリーナベイ・サンズの目立って高いビルが聳えているのが眺められる。

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四半世紀ぶりのシンガポール(15)

大観覧車 Singapore FlyerSingapore-flyer
 MRTシティホール駅まで戻って、MRTサークル線のプロムナード駅で降り、南東方向に大観覧車を目指す。途中の道路脇には、もうすぐ開幕するシンガポールF1ラリーの自動車車庫がずらりと並んで、それぞれのブースにはドライバーの写真が掲げられて、お祭り気分を盛り上げていた。
 目的地の大観覧車はともかく大きいので、行先の目標を見失うことはないのだが、どの道がいちばん好適か否かは、にわかに判じがたい。そんなに遠いわけではないが、暑いなか結構苦労して大観覧車 Singapore Flyerにたどり着いた。
 そこに到達する直前ころから、にわかに雨が降り出した。チケットをマシンで買おうとしたころには、雨脚が急激に激しくなり、これではせっかく観覧車に乗っても何も見えないのかも知れない、と途方に暮れた。1時間近く、観覧車の近くでベンチに座り込んで、休憩をかねて天候の様子見となった。
 Marina-bay-sands 果たして徐々に雨が弱くなり、やがて止んだ。とはいえ、いつまた激しく降りだすかわからない。思案に暮れたが、結局ここまで来たことだし、陽も沈んで夜の景観を見ることができるかも知れないし、ということでチケットを買って搭乗することに決心した。
 この大観覧車は、日本の黒川紀章建築設計事務所も開発に参加したという、高さ165mまで上がるアジア最大の観覧車である。28個のカプセルがあり、30分あまりで1周する。カプセルは揺れがまったくなく、とても安定していて、全面ガラス張り、エアコン装備の快適なものである。2008年から開業した。搭乗券は、ひとり40ドルであった。

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四半世紀ぶりのシンガポール(14)

セントアンドリュース大聖堂 St. Andrew's Cathedral
 ナショナル・ギャラリー・シンガポールからMRTシティホール駅に向かう途中に、セントアンドリュース大聖堂がある。日曜日なので教会では日曜ミサがあるのか、わずかながら協会に向かう人たちがいたので、ひとまず立ち寄ることとした。Standrews-cathedral
 この教会は、キリスト教聖公会のシンガポール教区の主教座堂で、最初は1834年ころに創建され、1856~1863年に現在の姿に再建され、イギリス国教会に属するようになった。
 トーマス・ラッフルズの都市計画により、1822年ノースブリッジ通りの西側に、教会建設のための土地が割り当てられたが、コミュニティの資金調達ができず建設が始まらなかった。ようやく1834年新古典主義建築で設計された教会の建設がはじまった。 1836年竣工し、最初の牧師であったエドマント・ホワイト牧師によりはじめての礼拝が行われた。しかしその教会の外観が、教会らしくなくて市庁舎か集会所のようだと不評であった。そして1845年と1849年の2回にわたって落雷に見舞われ、1855年に取り壊されてしまった。
 1856年から、ゴシック・リヴァイヴァル様式の新しい建築がはじまり、1861年に建物が竣工した。1861年初の礼拝が行われた。
 1942年日本軍がシンガポールに侵攻して、制圧されるまでの間は、大聖堂は救急病院として使用された。戦後1952年、第二次世界大戦の死者を追悼するためのメモリアルホールが建設された。
 大聖堂の室内からは美しいステンドグラスを見ることもできた。

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四半世紀ぶりのシンガポール(13)

ナショナル・ギャラリー・シンガポール
1980年代の芸術の成熟
 1980年代から1990年代にかけて、東南アジアの芸術は成熟期に入った。それ以前の概念主義のみでなく抽象的様式の導入も普及した。ベトナムでは、戦後社会主義経済が始まったが、社会主義から離れた表現や抽象表現も許されて復活した。Drawn-my-soul-at-chico-river-also-known-
 また西欧的芸術を問い直すために、それぞれの国の美学を顧みる試みもはじまった。伝統的なモティーフやシンボルにこだわるだけでなく、芸術の精神性に対して、彼らの伝統的・文化的蓄積をいかにして生かせていくべきかが課題となった。
 フィリピンの画家Santiago Bose(1949~2002)の「Drawn My Soul at Chico River also known as Bury My Soul at Chico River」(1981)が展示されている。
 タイトルは「魂の墓場で知られたチコ川に溺れた私の魂」とでも訳すべきなのだろうか。Santiago Boseは、フィリピンの民族芸術に深く影響を受けていて、民族芸術こそが人々のコミュニティに結束に力を与え、また社会的不平等をももたらすものだと信じていた。
 この絵は、フィリピンのイゴロト族の人びとが、マルコス政権によって進められた1973年のチコ川のダム建設プロジェクトに反対して、プロジェクトの阻止に成功したことを記念している。
 Santiago Boseは、イゴロトの兵士が彼ら民衆の生活を破壊する洪水を押し返しているという、目の前の現代的な素材の組み合わせで、伝統的価値や民族芸術を暗示するシンボルを表現している。このダム・プロジェクトは、彼らが先祖から受け継いできた土地と生活を失わせるものであった。彩度の低い色彩で、彼らのストレスと痛みの深さを表している。5人の男たちは、海からの大きな波浪に危うく直面しながらも、彼らの地面に足をつけて持ちこたえている。この絵のコンセプトは、彼らが大切にする彼ら自身の文化の維持を強く訴えている。5人の地元の兵士たちは、一致協力してひとつの目的に結束して頑張って、彼らの土地と家と文化を護ろうとしていることが表現されている。
Buddhist  ベトナムの画家Truong Tan(1963~)の「Buddhist」(1993)が展示されている。
 この絵は、近代ベトナムの美術で長らく用いられてきたラッカー・ペインティングで描かれている。この作品は、仏教に対する彼の尊敬・畏敬とともに、ベトナムの生活における禁欲主義と物質主義のより良き両立を求めている。
 画面の左手には、一切の怠惰を許さない苦行が描かれ、右手には物質的豊かさが描かれている。現実社会には、両方の側面が存在するのであり、どちらも大事なのである。
 東南アジアの絵画は、この展示によれば以後ますます政治や社会への批判とアイロニーを強めていく傾向にあったようである。
 私が四半世紀前に鑑賞したシンガポールあるいは東南アジアの絵画の多くは、もっと伝統的あるいはいかにも東南アジア的なスタイルのものが多かったように思ったが、今回の展示ではより社会批判、政治批判の傾向が強く、かつ様式としては西欧的なスタイルに近づいた作品が多かった。

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四半世紀ぶりのシンガポール(10)

ナショナル・ギャラリー・シンガポール
さきの大戦での反日本軍の絵画Give-us-this-day
 フィリピンの画家Ricarte Purugananが描いた「Give US This Day」という油彩画が展示されている。これは1974年に描かれたものだが、元の同じ絵は1943年に描かれていた。
 さきの大戦で日本軍がフィリピンを軍事的に占拠したとき、日本軍に忠誠であったフィリピン兵を批判する絵である。もとの作品は1945年のマニラ爆撃で焼失してしまったのを、30年後に自ら再現したものらしい。もとの絵よりサイズが大きくなっているという。

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四半世紀ぶりのシンガポール(9)

ナショナル・ギャラリー・シンガポール
Lee Wen 李文の高名な「黄色いヒト」
 李文 Lee Wen(1957~2019)は、シンガポールに生まれ、ラッフルズ・インスティテュートで学んだ後、兵站担当者、コンピューターオペレーター、銀行員として働いた。1988年、彼は銀行業のキャリアを辞め、30歳でラサールSIA芸術大学に入学した。彼は、パフォーマンス・アーティストのタン・ダ・ウーや、アーティスト・ビレッジの実験的なアーティスト、アマンダ・ヘンやヴィンセント・レオの影響を受け、絵画とさまざまな非伝統的なメディアの両方で自分自身を表The-journey-of-a-yellow-man 現しはじめた。
 1990年、彼はシティ・オブ・ロンドン工科大学に進学し、そのときにパフォーマンス・アーティストとしての真の天職を見つけたという。
李文は、シンガポールを拠点として、多彩なパフォーマンス・アートを制作してきた。
 彼は、アイデンティティ、民族性、自由、コミュニティ、環境に深くこだわってきた。1992年から、人種的・民俗的アイデンティティの批判から、10年以上にわたって自由・謙虚さ・宗教的実践についての瞑想へと発展したパフォーマンスシリーズ The Journey of a Yellow Manを発表してきた。鮮やかな黄色のポスターペイントで自分の身体を描き、シンガポール市民としての民族的アイデンティティを主張している。
 1997年の作品のひとつが、展示されている。

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四半世紀ぶりのシンガポール(8)

ナショナル・ギャラリー・シンガポール
 たっぷり食事を摂ったあと、最寄りのMRTニュートン駅からシティホール駅まで移動し、南へ徒歩でナショナル・ギャラリー・シンガポールに向かった。
 1939年建造の旧最高裁判所と1929年建造の旧市庁舎(植民地政府の行政機関)を渡り廊下で繋いで、大きなギャラリーに改装したもので、総面積が64,000㎡の巨大な美術館である。Photo_20251025055801

シンガポールの近代絵画芸術のリーダーTchang Ju Chi 張汝器
2階の最初の部屋で冒頭に登場するのが張汝器 Tchang Ju Chiの自画像である。
 張汝器(1904~1942)は、中国広東省潮安に生まれた。上海大学美術学院で学び、さらにフランスに留学しマルセイユ美術学院に学んだ。
1930  彼はシンガポールを訪れたとき、シンガポールへの移住を強く薦められ、1929年からシンガポールで活動をはじめた。
 1936年、彼はシンガポールの中国芸術家協会の設立メンバーかつ初代会長となった。
 3階建ての家を建て、1階は画家協会The United Paintersの本部、2階は食事ができる会合の部屋、3階はアトリエを兼ねた制作場であった。
 当時シンガポールでは、近代絵画にむしろ先がけて、漫画cartoonが普及した。庶民にも親しみやすく、雑誌として印刷・出版するのに適していたのだろう。Old-woman-of-batak
 張汝器は、漫画でも有名であったが、もちろん油彩などの絵画も多く制作した。
 1942年、日本がシンガポールを軍事占拠すると、反日本軍活動のリーダーとしても活発に活動して、政治的な漫画や絵画をたくさん制作した。日本軍に逮捕され1942年処刑された。
 この美術館には、これらのような政治的メッセージの強い作品も多く展示されている。
 近隣の庶民の生活や生態についての作品も多い。
 Old Woman of Batak (スマトラの老女)などの作品が展示されている。

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