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旅行・地域

中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(36)

ベネチアちょい散策
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  クルーズも終わり、ベネチアで解散となった。朝8時過ぎに下船して夕方4時にベネチア空港から帰途につく予定だったので、荷物をしばしベネチアの鉄道駅に預け、友人夫妻との4人で少しだけベネチアを歩いた。  最初の目的は、友人夫妻が家族へのお土産に購入したいと考えていたコーヒー粉の容器の購入である。コーヒー、とくにエスプレッソの粉を収納し、ハンドルをひねるとちょうど1回分の量が排出されるという容器で、これは日本には販売されていないらしい。Photo_3
  雑貨店のような店、日用品販売のような店など、いくつか心当たりを訪ねて聴いてみたが、そのような商品はない、わからない、と。いくつかまわって諦めかけていたとき、ある電気製品のお店で、偶然日本語を学んだという若い女店員さんに出会うことができた。そして上手な日本語で的確にめぼしい店を教えてくれた。
  メインストリートから外れるのは、私たち来訪者にとっては勇気がいる。教えてもらったおかげで、なんとか路地に入り込み、2度橋をわたり、目的地に到着できた。小さな店であったが、目的の品物が入手できたのであった。ベネチアにきて、偶然日本語を話すかわいい女性に会えたことが、とても幸運であった。これも旅の醍醐味であり、楽しみである。
Photo_4   ベネチアの中心街は、大勢の人びとで混雑している。われわれは運河の岸の小さなカフェでエスプレッソとワインをとってしばし休憩した。ベネチアともなると緯度も高いためか、4月下旬に入ろうとするのにかなり寒い。道行く人たちの服装もかなり寒さに対応したものとなっていて、これまでクルーズで慣れ親しんだ服装の印象とは異なる。
  家人とわたしの2人は、最後に鉄道のサンタ・ルチア駅の前に川を隔てて聳える緑色のドームが印象的なサン・シメオネ・ピッコロ寺院という寺院を訪れた。礼拝堂はきれいに内部装飾が施されていて、カトリック系の寺院らしい荘厳な雰囲気がある。撮影禁止である。懐中電灯を借りて地下を見学するコースが2ユーロで提供されている、というので2人で入ってみた。地下空間は意外に広い。おそらくお墓があったものと推測する。

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  こうして私たちの旅は終わり、ブリュセル経由で成田に向けて飛んだ。(完)

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (35)

アカデミー・アテネ大学・国立図書館 アテネ⑧
  モナスティラキ駅からパネピスティミウ駅まで地下鉄で行くこととした。モナスティラキ駅でトイレを借りようと、構内にいた掃除のおばさんに聴くが、英語がわからないらしい。英語が少しわかるらしい人を紹介してもらったが、やはり半分身振りによるものである。ようやく探り当てた駅のトイレは、通常は鍵が施錠されていて、使いたいときは駅の事務所に行き、職員に鍵を開けてもらうというものであった。駅の公衆トイレとはいえ、さまざまである。
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  パネピスティミウ駅に着いて地上に上ると、パネピスティミウ通りを隔てて眼前に東南側からアカデミー(ギリシア学術院)・アテネ大学・国立図書館の3つの建物が聳立していて、ネオ・クラシック三部作の建築といわれている。3つとも、デンマーク出身の建築家、テオフィル・ハンセンによる設計で、19世紀中頃に建造されたものである。
 アカデミーは、ギリシア政府の科学に関する最高行政機関である。古代、プラトンが主宰した「アカデメイア」にちなんで名付けられた。「アカデメイア」は紀元前 387 年ごろにプラトンが創設した哲学者のための排他的な学問の場であった。アカデミーの正面には、4本のイオニア式円柱がある。そして入り口には向かって右にプラトン、左にソクラテスを写した像が配置されている。
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  アカデミーの建物の北側にならんで建つのがアテネ大学である。ここは法学・経済学・芸術学の3分野のキャンパスだそうで、他の学部や分野については、他地域にキャンパスがあるという。しかし、休日・イースター祭日とはいえ、キャンパスに学生や教員の人影がまったく見えない、完全な無人というのも日本の大学との比較からいうと信じがたい光景である。また柵の外ではあるが、大学の敷地内にはポツポツとホームレスのような風体の人たちが毛布にくるまってうずくまっていて、私たちが近づくと、わけのわからないうめき声やわめき声を発したりしている。
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  大学の北側に隣接して、国立図書館がある。これも大理石をふんだんに用いた贅沢な建造物である。
  ふたたび地下鉄パネピスティミウ駅に戻り、オモニア駅で乗り換えてピレウスに戻った。ところが、オモニア駅で乗り換えた電車のなかで、家人が集団スリに襲われた。電車に乗り込んだ直後、家人が空いた座席に座ろうとするのをひとりの若い太った女が通路をふさいで妨げた。その一瞬、別の男が家人のショルダーバッグに黒い布をかけて、あっと言う間にチャックを開けたようだ。家人が気づいて小さく声を上げると、幸い近くの乗客がなにか声を発してくれて、犯人グループはすっと消えていった。幸運なことに結果的に被害はなかったが、怖いいやな思いをした。いやはや、いろんなことがあるものだ。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (34)

エムルー通り・ミトロポレオス大聖堂・アギオス・エレフテリオス教会  アテネ⑦
  国立公園から国会議事堂・無名戦士の墓を通ると、シンタクマ広場に出る。ここからこの日のスタート地点のモナスティラキ広場まで、エムルー通りをほぼ一直線である。Photo_3
  エムルー通りは、アテネの銀座通りのようなおしゃれで近代的な商店街で、ここはギリシアの歴史や伝統にはかかわらない近代的雰囲気の通りである。私は約30年前に、学会の帰途予定が変わって偶然アテネに半日ほど立ち寄り、大急ぎで街を瞥見したことがあったが、そのときの印象では、アテネは日本の数十年前のような貧しく汚い街という印象であった。それから月日が経過して、いまではアテネの街もすっかり垢抜けしてきれいになったという印象である。こうしてせっかくきれいになった街並みだが、近年のギリシアの経済破綻は残念であり、今後が心配である。本来は町並みがきれいになって、国民も自信をつけ、明るい気持で前進することは素晴らしいことである。ところが、ギリシアの経過と現状を見ると、バブルのような現象で一見豊かになったかのような景観を得て、国民はすっかり安心し、錯覚し、慢心し、努力を怠ったままで時間だけが過ぎたようである。
Photo_4   途中、少しだけエムルー通りから外れて、ミトロポレオス大聖堂を見る。1840年から15年間かけて建造された建物で、アテネで最大規模を誇る大きな聖堂である。大統領の宣誓式などの公的行事もここで執り行われるという。大理石をふんだんに用いた豪華な建築物である。
ミトロポレオス大聖堂のすぐ隣には、対照的にごく小さなかわいい印象のアギオス・エレフテリオス教会が建っている。これは12世紀に建造されており、ミトロポレオス大聖堂と対照的に古い建物である。教会の外壁には、古代アテネのレリーフが施されている。Photo_6
  ミトロポレオス大聖堂の前のちいさな広場から、パンドロスウ通りに入る。ここは少し古い伝統的な雰囲気の商店街である。ここを抜けると、この日の散策スタート地点であったモナスティラキ広場に出る。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (33)

ザッペイオン国際展示場と国立庭園 アテネ⑥
  国立庭園は、日本にもあるような広大な緑地である。ここはアテネ国立公園とゼウス神殿の間にあり、1869年ギリシア議会がこの地に近代オリンピックのため建物を建設することを決議したのであった。近代オリンピック復活の功労者であり、またこの建物の建設に出資したのがEvangelos Zappasでという人物であった。しかし彼は、1878年の建物完工を前にこの世を去った。

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  1896年の第1回近代オリンピックアテネ大会でフェンシングの会場として使われ、1906年のアテネオリンピックではオリンピック村の施設として使われた。また2004年のアテネオリンピックではプレスセンターの施設として使われた。その名にちなんで「ザッペイオン」と名付けられたこの建物は、改装されて現在は国際展示場および会議場として使用されている。1
  建物は、ギリシアの建築様式を用いた点でも、国際的に高名であるという。
  このザッペイオンの北側に、塀に囲まれた広大な国立の緑地公園がある。なかには鳥を放し飼いにするコーナーや藤棚などがあり、静かで自然豊かな市民の憩いの場所となっている。「亀と魚の池」は、いささか驚いた。さほど大きくない池だが、池の中島には、びっしりと全面に沢山の亀が貼りついていて、一見して亀の集合とは思えなかった。不気味でもあり、ユーモラスでもある奇景である。
  私たちは、藤棚の下のベンチにしばらく休息した。緑の多い公園は、日本の緑地とさほど雰囲気は変わらないくつろぎの空間であった。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (32)

キダシネオン通りから英国教会へ アテネ⑤
Photo   ハドリアヌス門から再びアマリアス大通りをわたって、古代トリポッド通りと呼ばれた聖地と市場を結ぶ道を北西方向に上り、小さな広場を右に折れると「キダシネオン通り」というアテネ旧市街でもっとも賑わう商店街に入る。ここは道幅も狭く、古き良き時代という雰囲気をもつ商店街で、「アテネが空になる」といわれたこの休日かつイースター祭日にさえ、大勢の人びとで溢れている。
  そんななかを歩いていると、ある野外レストランのウエイターに呼び止められた。日本人とわかるのだろう、「この店は日本の旅行ガイドブックに掲載されている」というようなことをカタコトの英語で熱心にアピールする。私たちが持参していた旅行ガイドブックを指して、ここを開いてみろ、そらそこだ、と言って「ヴィザンティーノ」という店の掲載ページを指した。実際、この店がグルメ・ガイドのページに掲載されているばかりか、よくみると観光マップ・ページのなかにさえ場所が記されている。Photo_2
  ガイドブックには「味に定評あり、値段も良心的」とある。この店はよほど熱心に出版社に働きかけ、また広告費も出したのかも知れない。まあこれも縁だし、昼食時でもあったので、ここで簡単な昼食をとることとした。ピザと地ビール「アルファ」をとった。これが意外においしい。ビールも、あっさりした味で、歩きまわってきた渇きを癒した。なかなか見つからず少し心配していたトイレの問題も片づいた。ひとまず満足できるランチであった。
Photo_3   ランチを終えて、私たちは再び歩き始め、キダシネオン通りの終わり付近にある英国教会にきた。「セント・ポール教会」とも「アングリカン教会」とも表記されている、19世紀に建てられたというひっそりしたたたずまいの教会である。ここからまたアマリアス大通りに出て、ふたたび通りをわたり、ザピオン公園に向かった。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (31)

ハドリアヌス門・教会・ゼウス神殿 アテネ④
  ギリシア観光局を過ぎて東に出て、バスが通行するアマリアス大通りに出ると、ハドリアヌス門が見える。Photo
  大通りをまたいでハドリアヌス門の真向かいに宗派は不明だがキリスト教会があり、門が開いていた。ここまですべて扉が閉まっている街を歩いてきたので、ついつい覗き込んでみると、なかにいた若い男性が手招きする。ふと中に入ってみると、無線イヤホンを私たちに貸してくれて、教会の礼拝堂に招かれた。ちょうど牧師さん(礼拝堂の装飾が簡素なので、おそらくプロテスタント系だと推測する)が講話(説教)をしておられた。英語の翻訳を無線イヤホンで聴くわけだが、無線の状態がわるいのか、頻繁に音声が割れてノイズも大きく、とても聞きづらい。どうやら「愛と死」についてのお話で、イスラム教や仏教にも触れたのちに、この愛と死についてもっとも真摯に教えを与えたのがイエス様だということらしい。イヤホンをつけている人たちも、集まっているなかの2割くらいいた。外国人の住人だろうか、それとも私たちのような観光客だろうか。15分ほど聴いていたが、やっとお話も終わったので教会を出た。
  教会を出て大通りをわたり、ハドリアヌス門の真下に出た。ローマ時代の2世紀に建てられた大門である。高さ18m、幅13.5mの堂々とした門である。門の東側から眺めると、背景にアクロポリス遺蹟を遠景として見ることになる。このように、ちょうど東京でいろいろな場所から富士山を見るように、ここではアテネ市内のさまざまな場所からアクロポリス遺蹟を眺望することができる。
Photo_3   ハドリアヌス門の南東側に少し行くと、ゼウス神殿の遺蹟公園がある。これも入場できないが、幸いにして外からでも十分眺めることができる。この場所はかつてゼウス神の聖域とされ、104本のコリント式の柱がならんでいたという。現在はそのうちの16本が残っている。この神殿は2世紀に、ハドリアヌス皇帝のときに完成した。最初は紀元前515年にアテネの僣主ペイシストラトスが建造を試みたが、失脚してしまって工事が中断した。ついで紀元前2世紀にも工事が再開されたが、やはり工事推進者の死によって中断し、結局紀元後の2世紀にやっと完成したと伝える。
  ハドリアヌス皇帝は、ローマの五賢帝にあげられる名君とされる。ローマの版図を広げたトラヤヌス帝につかえて、パルティア戦争などで多くの軍功を重ねたが、トラヤヌスのあとを継いで皇帝になると平和主義に転換し、帝国各地をあまねく訪問して帝国の安定化と繁栄に尽くした偉大な皇帝であるとされている。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (30)

アクロポリス山麓をめぐる アテネ③
  ローマン・アゴラから通行人に道を聞きつつ、アクロポリス遺蹟がある山の北側の山麓を歩く。ときどき古代アゴラ遺蹟を見上げることができ、ヘファイトス神殿跡が見えることもあった。西から東に向かう山麓のテオリアス通りを進む。Photo
 途中分岐があり、坂を降りてきた人に様子を聴くと、ここから2分ほど登ったところにとても眺望の良い場所があるとのこと。それにしたがい坂を登った。しばらくすると、たしかに北に向けてアテネ市街を見下ろす展望のよい場所があった。今日は、遺蹟の施設に入場できないので、すべてこうして外から眺めるだけしかできない。アクロポリスの丘は、さほど標高が高いとも思えないけれども、こうしてアテネ旧市街のほぼ全体を見下ろすことができる。遠くに山も見える。アテネ付近は、結構起伏の多い土地柄のようだ。

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 ギリシアの都市国家は、互いに山脈を自然の国境として棲み分けていたが、平野においては隣国からの侵入を防ぐことは容易ではなかった。そこで丘の上に城を築き、国の最後の防衛拠点とした。これがアクロポリスであった。アクロは「高い」、ポリスは「町」を意味する言葉である。
Photo_3  アクロポリスの丘を、歩き初めは西から東に進んだが、展望の場所付近からはゆっくりカーブをまがって南に進むタラッシロ通りに入る。多少の上下を経て進むうち、アクロポリス遺蹟公園の入口に着いた。今日は入場できないけれども、私たちと同じような立場の観光客が多数たむろしている。私たちのクルーズ船のオプショナル・ツアーの団体もそこに見つけた。入場料は30ユーロ(約3,800円)だそうだ。なかがどんなのか不明だが、パルテノン神殿、音楽堂、劇場、アゴラなどさまざまなものが広大な地域に散在しているのだから、さほど高額とも言えないのだろう。
 ギリシア観光局の建物があるが、今日は休日で閉鎖されている。ただ公衆トイレも閉鎖されているのは、観光客に対して、いささかホスピタリティーが欠けるのではないだろうか。
 こうして「ギリシアの休日」を眺めていると、やっぱりナアと思ってしまう。EUから11兆円にも上る巨額の支援=債務をチプラス首相の「努力」でとりつけ、首都の玄関たるピレウス港を中国に買収されるような悲惨な財政破綻をしながら、こうして休日となると、これだけ大勢の外国からの観光客がいるのに、それをほったらかして「先進国並に」しっかり休むというのである。そんなのんびりできる状況じゃなかろう、と。こんな怠け者の国民性では、どのみち未来はないように思えるのは、私が日本人だからだろうか?

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (29)

ローマン・アゴラ アテネ②
Photo_4   モナスティラキ駅で降りると、駅前には広場がある。多分モナスティラキ広場だと推測できるが、ローマン・アゴラに向かうアレオス通りに入る道がわからない。駅売店の青年に聞いてみたら、幸いこの青年は英語が少しわかり、教えてくれた。やがてローマン・アゴラの入り口らしい場所にきた。この日は日曜日でほんらい大部分が休日閉館のうえに、ギリシア正教会のイースター祭日に重なり、すべての催しや会場は停止していて入場できない。なんでまたそんな日に寄港するのか、と言いたいところだが、船の運行の都合らしい。Photo_5
  ローマン・アゴラ遺蹟公園を外から眺める。それでもこの遺蹟のポイントである石柱群と「風の神の塔」は見える。
  ローマン・アゴラはローマ時代初期、つまり紀元前1世紀からしばらくの間のアゴラ(市場)の跡である。そのころこの地は、市場兼集会場として賑わっていたのだろう。大理石でできた八角形の塔「風の神の塔」は、紀元後1世紀の天文学者アンドロニコスが建てたもので、日時計・水時計・風見の3つの機能をもっていた。八角形の塔の8面には、それぞれの方角の神がレリーフとして刻まれた装飾的な建造物でもある。いまでこそ風化しているが、かつては壮麗な建造物であったと推測できる。
  このあたりからもパルテノン神殿らしき遺蹟を遠望することができる。
  この近くのみやげ物店で、家人が小さな布袋をまとめて購入した。日本とちがって、ここも一物一価の世界ではないようで、購入のたびに交渉が必要である。このような折衝に不得手な私がそれなりの努力をしたのだが、後にもっと安い店を発見することになる。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (28)

アテネ地下鉄 アテネ①
  ハイファを出航して1日の海上生活ののち、最後の寄港地ギリシアのピレウス港に到着した。Photo
ピレウスは古代からアテナイの外港都市として繁栄した港町で、地中海とヨーロッパを結ぶ海上交通・海運の要衝であり、現在も地中海沿岸で最大規模の港湾都市である。コンテナ埠頭での取扱貨物量でも、また地中海クルーズの拠点としても地域での存在感は大きい。しかし経済が破綻してすっかり病んだギリシアは、2016年4月中国国営企業にこのピレウス港の管理・整備・開発の権利すべてを売り渡した。ここを10年ほど後に再訪したら、すっかり景観も変貌して、もしかしたら中国の軍事拠点に変貌しているのかも知れない。
 さて、この日はアテネの散策だが、このアテネ散策だけは、いつもの友人夫妻との4人での行動ではなく、私たち夫婦2人のみであった。いつもの頼りになる友人がいないので、その意味ではいささか緊張した。
Photo_2   家人も私も、街を散策するときはできるだけ公共交通機関を使って移動したいと思っている。地元の雰囲気がよくわかるからである。
 下船したターミナルから地下鉄ピレウス駅までは、徒歩20分程度と聞いていたので歩くことにした。しかし波止場というのは地理的になかなかわかりにくい場所である。居合わせた地元の人たちに聞いてみるが、あまりわかりやすい情報は得られない。少し歩いていくと、観光バスが止まっていて、呼び込みがあった。「今日アテネは全面的に休日で、地下鉄も止まっている。観光バスしか移動手段がないよ」と真顔でいう。これには不安を感じたが、家人がともかく駅まで行こう、と言ってくれたので、思い切って歩き続けた。
  教会のある場所近くで6人連れのアメリカ人グループに出合った。私たちと同様、地下鉄駅まで歩くのでついてこい、という。声をかけてくれた男性は、私より少し若い程度の中高年で、ケーブルテレビの仕事をしていたという、ユタ州出身のモルモン教徒だと、聞かれる前に言ってくれた。このグループは、いずれも私たちと同じクルーズに参加している人たちであるらしい。グループの一人は、スマホのナビゲーション地図を使っていて、ひとまず安心した。Photo_3
  30分余りも歩いて駅についたが、この駅は地下鉄ではなく通常の鉄道駅であった。駅で駅員に聴くと、少し戻った場所に地下鉄駅があるという。ちょうど地下鉄駅の近辺が工事中で、道路から入り口がみえにくくなっていたようだ。ようやく駅について、キップを購入し、あわせて100ユーロの札をくずすこともできた。ピレウスからアテネ市街の中心部にあるモナスティラキ駅まで1.4ユーロ(約180円)約20分の道のりである。
  この駅のプラットフォームで、ひとりの大柄な老人と出会った。ひとなつっこく英語で話しかけてきて、日本は美しい国だ、日本人に会えてうれしい、と言って座席にも隣り合って座ってくる。ポリ袋とカートのついた大きな荷物を引っ張って、なにかうさんくさい印象もあったが、モナスティラキ駅の手前まで隣り合わせの座席にいた。彼はアテネ市内の家賃月120ユーロの安い下宿に住んでいて、古本を扱う仕事をしているという。若いころスウェーデンのイエーテボリの学校で英語を学び、かつて日本のパナソニックにかかわる仕事をしたことがあり日本を少し知っている、ともいう。ギリシアで英語を話すひとはさほど多くないようだ。
 ともかく、しばらくしてやっと最初の目的地である地下鉄モナスティラキ駅に到着した。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (25)

ハイファのバハーイー庭園 イスラエル⑪
  少し時間が余ったこともあり、私たちは最後にハイファのバハーイー庭園を見学することにした。タクシー運転手にバハーイー庭園の最上部まで連れて言ってもらい、そこからは徒歩で庭園を降りて、ハイファ市街を歩いて船に戻る、ということになった。
  バハーイー教は、「バハイ」とも呼ばれる新しい世界宗教である。神学的にはアブラハムに遡る一神教であるが、モーセ、イエス、ムハンマドらに加えて、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター、釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者であるとして包含している。そして、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされている。Photo
  1844年イランの商人であったセイエド・アリ・モハメッド(1819-1850)は、「神が現したもう者」の先駆者・準備する者と自覚し、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」を名乗った。彼が開いたバーブ教は、実質的にはイスラム教から独立した宗教とみなされている。彼はイランのムスリムから激しい反発を受け、政府の弾圧を蒙り、1850年処刑された。しかし信徒たちは彼が予言した「神が現したもう者」を探し続けた。
  イランの高級官僚の家に生れたミルザ・ホセイン・アリ(1817-1892)は、バーブ教の当初よりの信者であったが、1852年に政府に拘束されテヘランで獄中生活を送った。この獄中生活のなかで、彼は自分こそがバープが言っていた「神が現したもう者」であると自覚するに至り、9年後イラクのバグダッドに追放されたときにそれを宣言し、「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の本格的な開始であった。
2   バハーウッラーの教えはほとんどのバハーイー教徒に受け入れられたが、バハーウッラー本人は政府によって最終的には当時の監獄の町であったアッコーの牢獄に移され、そこで絶命した。そのあとは彼の長男アブドル・バハーが継いで、指導者となった。
  アブドル・バハー以後、世界的な宣教が精力的に推進され、いまでは世界189ヶ国と46の属領にひろがり、信者の総数は500~600万人とされる。キリスト教についで、世界的にもっとも普及した宗教だそうである。
  この庭園は一般に無料公開されているが、教団指定のツアーに参加することが必要である。ツアーはヘブライ語、英語、イタリア語など説明する言語ごとに設定されていて、順番に実施される。私たちは時間的にタイトであったため、説明は理解できないが、こっそりヘブライ語のツアーに入り込ませていただいた。
  庭園から港を臨むと、われわれが乗るクルーズ船がみえた。
  エルサレムとハイファ・アッコーにきてみて、率直な感想は「イスラエルの人たちは意外に外国語、とくに英語がそんなに話せない」ということ。ヨーロッパの比較的小さな国、たとえばスカンジナビア諸国、スイス、ベルギーなどは、町で出合う人たちの大抵が英語を解する。イスラエルも大きな国ではないし、私が仕事で出合って人たちはトップクラスのインテリたちだったこともあって、とても英語に堪能な人たちだったこともあるのか、勝手にイスラエルの人たちはみんな英語がよくできるのだろう、と錯覚していた。
  最近の国際情勢の緊迫、テロの増加など、中東のとくにイスラエルは危険が多そうで、今回の旅程でもいちばん緊張する場所だったが、幸いにして無事に過ぎたことは幸いであった。ヨルダンのペトラ遺蹟もそうだが、イスラエルの歴史も、途方もなく古くからの長い歴史を背負っているので、よくわからないながらも圧倒された。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など一神教の、恐るべきとも言えるエネルギーの息吹にも触れることができたように思った。とても印象の強い観光であった。
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