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映画・テレビ

映画『ドライビング Miss デイジー』 

  エティハド航空国際便の機内エンターテイメントで、映画『ドライビング Miss デイジー』を観た。1989年のハリウッド映画で、アカデミー賞作品賞他4部門で受賞した名作だという。
  さきの大戦直後のアメリカ南部アトランタを舞台に、モーガン・フリーマン演じる黒人運転手ホークと、富裕なユダヤ系老婦人デイジーとの心の交流を描くドラマである。
 貧しい境遇のなかまじめで熱心な教師として働いてきたデイジーは、息子の事業の成功でいまは富裕になったものの、決して成り金的なふるまいをしたくない。老いても自分でキャデラックを運転しようとするが、運転をあやまって隣家の垣根に突っ込んでしまう。見かねた息子は、母の反対を押し切って黒人運転手ホークを雇った。最初はホークを受け入れなかったデイジーだが、ホークの正直でまじめな人柄を徐々に認めるようになる。
 やがてデイジーのもうひとりの従僕であった家政婦のアイデラが急死して、デイジーはますますホークに頼るようになる。ホークは、デイジーにとって、信頼のおける面倒みのよい従者であった。
 あるときKKKによってユダヤ教徒が集まるシナゴーグが爆破されるという事件がおこり、黒人とともに迫害を受けるユダヤ人として、デイジーはマーチン・ルーサー・キング牧師の講演を聞きに行こうと息子を誘うが、息子は事業上の付き合いを考えて講演会同行を断った。デイジーにとって、ホークは息子以上に信頼する親しい友人となっていった。
 ある日、デイジーは認知症の症状を現す。やがて老人ホームに介護つきで入所したデイジーを、すでに引退した老いたホークが訪ねる。息子を追いやり、ホークとふたりだけで談笑するデイジー、この場面で映画は終わる。
 なによりホークを演じたモーガン・フリーマンの控えめでいぶし銀の演技が光る。デイジーを演ずるジェシカ・タンディも素晴らしい。彼女はこのとき80歳で、史上最高年齢でアカデミー主演女優賞を獲得したそうだが、老人のひとりとして私は、セリフを記憶し、身体を動かして素晴らしい演技ができる、ということに敬意を感じる。
 心がやすまり温まるヒューマン・ドラマは、いつの時代も良い。
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映画『博士と彼女のセオリー』

  2014年制作のイギリス映画『博士と彼女のセオリー』を観た。宇宙物理学者で「ビッグ・バン」で世界的に高名なスティーヴン・ホーキングの半世記を映画化した作品である。
  ケンブリッジ大学で物理学を学ぶ大学院生であったスティーヴンは、同じ大学の文学部大学院に学ぶジェーンと出会い恋におちる。しかしまもなくスティーヴンは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、余命2年を宣告される。周囲が反対するなか、ジェーンはスティーヴンとともに生きることを決意し、二人は結婚する。身体の運動機能や発話機能がどんどん失われていくなか、スティーヴンはブラック・ホールやビッグ・バンに関する新しい理論や仮説を提案し、世界的に注目されるようになる。やがて二人の子供にも恵まれ、大変な苦労ながらも順調に見えた二人の生活であったが、過大な負荷に加えて子供をきちんとした環境で育てることがむずかしいなど、ジェーンのストレスは限界となる。そんななか、ジェーンの母の提案がきっかけで知り合った教会聖歌隊リーダーであるジョナサン・ジョーンズがホーキング家に出入りするようになる。そして、いろいろ想定外のできごとが発生して、ついに二人は離婚し、ジェーンはジョナサンと、そしてスティーヴンは看護士の女性と再婚する。
 ストーリーの主役は、やはりホーキング博士の妻ジェーンである。将来が見通せない絶望のなかでスティーヴンとともに生きることを選択し、命懸けで懸命にスティーヴンに尽くすが、生身の人間として主張すべきは主張し、自分の意志で行動し、徹底して自分の生き方を貫く強靱な人物である。結婚も、スティーヴンの命と引き換えに声を失う咽頭切開手術も、離婚も、いずれも常に決断はゆるぎない。彼女の決断力・行動力・忍耐力・実行力は、なみたいていのものではない。
  スティーヴンも、厳しい病気に見舞われ過酷な生活を強いられるが、ジェーンという優れた伴侶と多くの良い友人に恵まれ、ある意味とても幸運な人生である。ジェーンと出合えなかったとしたら、現在に至る70歳を超える寿命も、学問上の業績も、子供のいる家庭も、いずれも到底達成できなかっただろう。
  スティーヴンは学者として並外れた活躍をしたし、ジェーンも並外れた努力をして、ふたりで協力して大きな実績を残した。それでも現実の人生はきれいごとだけでは済まない、もっとドロドロした、生身の人間らしい部分が必ずある。この映画はそういう側面も真摯に描くことで、観るものにとってはむしろ清々しいリアリティを与えている。
  私はこの映画に垣間見える、科学や学問の長い伝統を誇るイギリスの大学や学会とそれを支える文化にも興味を惹かれた。
  映画として、なによりもスティーヴンを演じるエディ・レッドメインと、ジェーンを演じるフェリシティ・ジョーンズのすばらしい演技に魅了される。ひとつには、エディ・レッドメインはケンブリッジ大学美術史専攻の卒業生、フェリシティ・ジョーンズはオックスフォード大学卒業生であり、この映画の舞台であるケンブリッジ大学のような独特なアカデミックな舞台背景に自然にとけ込めるということもあるだろう。
 鑑賞のひとときは、実に密度の濃い2時間であって、想い出に残る良い映画であった。

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米映画「セッション」

  レンタルDVDで米映画「セッション」を鑑賞した。2014年度のアカデミー賞において、助演男優賞・作品賞・録音賞の3部門を獲得した評価の高い作品である。
  アメリカの音楽部門でトップクラスのシェイファー音楽学校に通う19歳の少年アンドリューが主人公である。彼は大学でフレッチャー教授に見いだされて、フレッチャーのスタジオ・バンドに特別に招かれる。ここからフレッチャーの常軌を逸するまでの過酷なスパルタ教育に放り込まれる。フレッチャーを見返そうとドラムの練習に命懸けで取り組み、恋人とも別れて専念して必至に練習するが、フレッチャーの理不尽な仕打ちについにフレッチャーに掴みかかり、退学処分を受ける。このとき、父の計らいでフレッチャーに対する法的対抗措置をしたことで、フレッチャーも音楽学校教授を退職させられる。そうした後に、偶然の再会があって、結局フレッチャーのバンドで演奏する機会を得るが、ここでフレッチャーの復讐から不当な屈辱を受ける。しかしアンドリューは一方的に自分の演奏にバンドを引き込み、神がかりの演奏をやってのける。
  芸術家の普通の成功物語ではなく、登場人物の欲望・感情・対立・愛憎などが濃厚に織込まれ、とても密度の濃い画面を構成している。私は芸術方面の教育や師弟関係についてはまったく知るところがないが、どんな分野にしても一流になる過程では、ときに常軌を逸するまでの過酷な教育や訓練などがあっても不思議はない、という程度の理解しかできない。そういう常識的な知識や倫理の範囲を超えるなかに、この映画の緊張感と魅力がある。とくに助演男優賞を獲得したJ・K・シモンズは、ブロードウエイのベテラン・ミュージカル俳優というだけあって、音楽の素養も十分で、なにより驚くべき迫力の演技である。主役アンドリューを演ずるマイルズ・テラーも、役作りのためにドラムを懸命に練習し、手のまめが潰れて出血する映画のシーンは、ほんとうの傷口であるという。
  きれいごとではない、現実にありそうな、しかし想像をはるかに超える壮絶な迫力あるシーンが続く、1時間46分がごく短く感じられる、緊張したひとときであった。
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映画『マネー・ショート』

  経済評論家がおもしろい映画だと推奨するので、久しぶりに映画『マネー・ショート』を鑑賞した。自宅にちかい近郊都市のシネマ・コンプレックスだったが、1日に夕方から2回のみのマイナーな上映スケジュールで、それでも広い観客席にほんの10人弱のごく寂しい客入りである。
  これは2008年9月に実際に発生した金融危機、いわゆるリーマン・ショックを描いた作品である。この淵源は1970年代の住宅ローンの証券化にはじまる。住宅価格が安定している限り、住宅ローン返済が滞ると担保の住宅を貸し手が取り上げ売却して回収できるので、住宅ローンは投資対象として信用性が高く、それを証券化した金融商品は格付けがきわめて高い安心できるものであった。折からの好景気もあって、こうした一見うまみがあるかに見える金融商品は爆発的に売れて普及し、社会の上層から下層まで、多様で多数の人々がこれを購入した。人気商品であったがために、この証券はどんどん売り払われ、やがて対象となる優良な住宅ローンは払底し、徐々に信用性が実は低い「サブプライムローン」と呼ばれる住宅ローンを織りまぜて商品化した証券が多数派を占めるようになった。それらは住宅価格が低落すると、貸し手は抵当の住宅を取り上げてもローン債権が回収できなくなった。住宅ローン証券の利益の源泉は住宅ローンの貸し手が稼げることであって、それが実現されるためには住宅の価格が上昇し続けることが必要である。その必要条件が失われてきたのである。その一方で、内容がどうであれこうして証券化によってカネがまわると景気が一層よくなる、いや加熱する。月日がたち、この証券を担保するはずの根本の住宅ローンが、じつはまったく信用のない、実質のないもので占められるようになった。
  しかし多くの人々は、金融関係従事者も含めて、その事実を知らない、いや無関心、いやいや関心をもちたくなかった。そしてついに化けの皮がはがれる日が到来して信用が一気に下落し、金融危機に陥った。これがサププライムローン危機、あるいはリーマン・ショックと呼ばれたものであった。
  このあやしい仕組みの証券の信用不安に、いち早く気づいた3組のひとたちがこの映画の主人公である。いまは小さな投資会社を経営する元精神科医、ドイツ銀行の銀行員と彼と組んだ大手投資銀行子会社の小グループ、個人投資家として零細に稼いできた2人の若者と大手銀行の元辣腕銀行員で今は有機農業経営者、と3つのグループの人たちは、データを詳細に分析し、住宅ローン市場の現場を地道に歩いて取材し、また投資銀行関係者や信用格付け会社に執拗に取材したりして、住宅ローン証券の危うさを知り、その暴落を確信するにいたる。そして近日中に価値が下落することを見込んで、大規模な空売りを仕掛ける。こうして3つのグループの人たちは、まったく相互に無関係・独立に、住宅ローン証券の「空売り」という一世一代の賭けに投じた。
  彼らの見込みとおり、住宅ローン証券の価値は下落をはじめるが、信用格付けはなかなか下落せず、大量の住宅ローン証券を抱え込んだ大手投資銀行も危機を隠ぺいして表に出さない。そうして時間が経過すると、空売りをしかけた3つのグループには、それぞれ「保険金」負担が嵩んでいく。こうして3つのグループがそれぞれ破産の危機に瀕する。しかしついに金融危機は到来し、3つのグループは大きな利益をせしめた。しかしそれは、多数の一般市民の甚大な被害をともなうもので、その成功は達成感をともなう歓喜の勝利ではあり得なかった。
  3つのチャレンジ・グループそれぞれに個性ある人物・性格を設定し、ユーモアと風刺を取り混ぜ、なかなかおもしろい作品となっている。なにより、金融のデリヴァティヴ商品がいかに形成され、普及し、蔓延するか、そのメカニズムが明快に説明される。経済評論家が推奨するのもうなずける。
 いま現在、中国でこれと同じような事象が発生しているのである。中国経済から影響を受けるわが国や諸外国にとって、事態は決してひとごとではない。
  これを鑑賞して、金融はなかなかむずかしいものだと改めて思った。金融デリヴァティヴ商品は、たしかにカネのめぐりを促進して景気を改善する大きなメリットをもつ。それぞれ個人が利益を追求する、追求したいのも、当然のことであり、簡単に否定できない。経済に有益な側面もたしかにあるが、その反面でネズミ講のように膨張するとかならず破綻する、という不安定性、賭博性をともなう。映画では、これを政府が法的に取り締まるべきだと主張しているようだが、現実にはどこで線引きしてどのように取り締まることが妥当か、判断はむずかしいだろう。
  2時間余りのなかに、簡潔にリーマン・ショックの本質を説明する、という一点だけでも、非常におもしろく、勉強になる映画ではあった。
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映画「パンドラの約束」-原発の是非-

  ある知人からこの映画を紹介してもらい、一緒に鑑賞する機会があった。マイナーな映画であるために、どこででも鑑賞できるわけではない。私たちは、大阪心斎橋の「シネマート心斎橋」という映画館で観たのであった。
  この映画は非常に風変わりな作品である。監督のロバート・ストーン氏は、ながらく環境保護の立場から原発反対の立場で旺盛な活動をしていた。しかしあるとき考えが反転し、積極的な原子力発電推進派になった。そして、同じように原発反対派から原子力推進派に180度転向した5人の主立った活動家・知識人を登場させて、チェルノブイリ・スリーマイル島・福島を取材し、撮影し、この映画を3年がかりで完成させた。
  あらゆる技術に共通して、原子力発電の事故は、完璧に防止できるわけではない。どうしても事故は発生する可能性があり、それはまちがいなく悲劇である。しかし、冷静に事故の経過を観察すると、原子力発電のみが理由なく、あるいは理由不明なままに「絶対的に」否定されている、という事実がある。何十年間にわたって反原発を叫ぶ活動家も登場するが、彼らの「原発事故では、直ちに数十人から数百人、長期的には百万人以上が死に至るか致命的なダメージを受ける」という主張は、丹念に調べた結果、信頼できる根拠が皆無である。それに反する実例としては、チェルノブイリに住むロシア正教会の神父の話がある。その教会がある地区の人々の話だが、チェルノブイリでは事故のあと、原子力発電所近隣地域は立ち入り禁止となったが、多数の住民が事故のあとまもなく帰宅した。立入が厳しく禁止され管理されたので、ほとんどの人々は林や森のなかを歩いて苦労して故郷の我が家に帰ったという。そして今に至るまでチェルノブイリに住み着いている。彼らにとって、生命や健康の危険も深刻であったが、それ以上に故郷を失うことはもっと辛かったという。そして、その神父の話では、以後誰一人として原発事故の影響、つまり放射能などによる死傷、健康障害などはなかった、という。
  映画では、福島をはじめ、世界各地の放射能レベルを実測している。たしかに福島の原発付近の放射能レベルは高いが、実測してみると世界各地に、原発に無縁の土地でそれ以上の放射能を計測する場所が多数存在している。放射能は目に見えない不気味な脅威であり、それを恐れることは当然ではあるが、メディアなどに喧伝されて真実を見失うことも大きな問題である、とする。
  原子力発電設備は、事故を皆無にはできないが、事故が発生しても大問題を発生しないように、危険を封じ込める技術が1980年代にアメリカで研究開発されていた。そして、世界の報道機関を招待して公開実験が行われた。福島で発生したとほとんど同じ事象が、つまり炉心の冷却不能という状況が意図的に設定され、数分後に無事冷却再現、鎮静化という実験結果も収録された。ところがその実用化のための追加開発を進めようとしたそのときに、アメリカ議会で原子力推進を唱える共和党に反対する民主党の今の国務長官たるケリー議員の主張などによって、この開発計画は中断されてしまったという。開発に従事していた原子力技術者チャールズ・ティル氏は、政治的な事情で重要で必要な技術開発が中断されてしまうことは、国家にとって、さらに世界にとって深刻な問題であり、損失であり、過失である、と述べている。
  実際、この方法のみならず、原子力技術は着実に進歩していて、もっと本質的に安全性が高い反応炉も実用化に近付いているという。
  事実が歪曲されているもうひとつの典型例として、原発の放射性廃棄物がある。1980年代の原子炉でさえ、ほんとうの廃棄物の量は、メディアで喧伝されているような大量なものではなく、はるかに少量である。しかも、その廃棄物を原発の燃料として再利用する技術も、今の先端技術ではなく、1980年代の技術として存在していた、という。こういう重要な事実は、私も国内の専門家からは聴いたことがあるが、メディアでは決して報道されることがない。
  さらに、原子力発電が、実績として大きな貢献があるのが、核兵器の処理である。実は、アメリカはロシアから、旧ソ連時代の核弾頭を1,500発以上購入して、それを原発用燃料として組み換え、実際に原子力発電に使用している、という。原発が核兵器を発電という有用な用途に転換してくれる、実際にしてくれている、というのである。
  これら以外にも、かつて激しく原発に反対し活動していた5人の活動家たち、すなわち、アメリカの高名な環境保護運動活動家スチュアート・ブランド、イギリスの環境活動家・作家マーク・ライナース、1990年代にアジア地区で森林保護運動を指導し、さらにブレイクスルー研究所を設立して、エネルギー・気候・安全保障などに関する研究を進めているマイケル・シェレンバーガー、雑誌「New Yorker」所属の時代から気候変動に興味を持ち、当初は筋金入りともいえる反原発派だったジャーナリスト グイネス・クレイヴンズ、ピューリッツァー賞ノンフィクション部門受賞作の『原子力爆弾の製造』(1986)の著者で、長らく原発反対の立場から著作活動を続けていた作家 リチャード・ローズ、がそれぞれ自分の考えの経緯を述べている。労力を厭わず自分自身の脚と目で事実を追い求め、いかにして無責任なメディアや流言の類から自由になり、原発に対する偏見を乗り越えて、現在原子力発電を必要なものとして認識するに至ったのかを説くのは、それぞれに元は強固な反対派であっただけに、実に説得力がある。
  全体にきわめて冷静で淡々とした映画であるが、原発反対・賛成の両方のひとびとを登場させて主張を述べさせ、丹念に事実を求めて取材して紹介している。このような映画を創るアメリカの映画界の底力を改めて感じた。
  私は、この映画が主張する内容だけが真実だとも、安易には思わない。しかし、いまメディアに溢れている一方的・感情的・独断的な「原発反対」の立場の情報だけでは、あまりにリスクが大きく、大きな過ちを起こしかねない。このような立場の主張にも真摯に耳を傾けることが必要である、と思う。そして、技術者の一人としては、危険をともなうような技術であれば、一層のこと技術の研究開発は停止してはならない、そのためには人材の確保が必要であり、その当事者たる学生や技術者・研究者が不当な偏見や差別を受けるような無責任な風潮は、厳に矯正すべきである、と考えるのである。
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バーブラ・ストライザンド 「スター誕生」

 1976年の映画「スター誕生」(1976)をビデオで観た。
 場末の飲食店で歌う女性歌手レスターは、ちょっとした偶然からロックの人気歌手ジョンに見いだされ、一躍スターダムにのし上がってゆく。二人は愛し合い結婚するが、レスターは人気歌手として多忙な巡業に追われ、一方ジョンは人気絶頂時代の投げやりな生活の反動で健康と借金の問題を抱えたまま落ち目となってゆく。周囲はレスターにジョンから離れて行動することを求めるが、ジョンを愛するレスターは聴かない。しかし、ジョンはレスターのために別れる決心をし、しかもその実行が難しいことを知った彼は自殺する。
 凄絶な米国芸能界の裏話の要素もあるテンポの良い映画である。バーブラ・ストライザンドが企画し、音楽監督をし、しかも主役を演じるという彼女の思い入れ豊かな作品である。ストーリーは月並みであるが、この映画のポイントはなんといっても、バーブラの歌である。彼女の並外れた豊かな声量と表現力は、言葉の障壁を突き破って、日本人で歌詞がそんなに明確には理解できない私にも、強烈に迫ってくる。この映画はまさにバーブラの個人的能力と熱意をもって名作になった典型的な例である。(1999.4.4)

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ロシア映画「娘はアメリカ人」

 テレビの深夜放送で、ソ連崩壊以後に制作されたロシア映画を放送していた。
 ロシアから米国に来ているアレクセイは、かつて米国人と結婚し、7歳になる娘があるが、4年前に離婚している。娘アニーは、米国人と再婚した母親と裕福な家に米国で暮らしている。米国に住み着いてタクシー運転手をしている友人を頼って、アレクセイはなんとか娘を取り戻そうと近づく。やがて娘も実の父に気づき、娘の方から家出してロシアのおばあちゃんのところに行こうと提案する。飛行機で出国するのはむずかしいので、まずメキシコに出て、そこからロシアに行くという計画である。こうして父と娘の逃避行が始まる。まもなく米国全土に、精神障害をもったロシア人の父親が、娘を誘拐して逃げているという報道が始まる。アニーは髪を短髪に切り込んで、古着屋から少年の服を買って変装する。アレクセイの服と帽子もアニーが買いそろえる。ヒッチハイクで乗せてもらった運転手は、途中で逃避中の父娘と知るが、娘の意思で逃避しているらしいこと、父と娘の愛情が真剣なこと、などを感じて匿ってくれる。アリゾナのフェニックスに行くつもりが、まちがってオレゴン州のフェニックスに行ってしまう。アメリカの知らない土地でさまよう二人。父はロシア語しか話さず、娘は英語しか分からない。しかし身振りを交えて父と娘はコミュニケーションを続ける。海岸で互いに言葉を教えあい、通じ合って至福の時間を過ごす二人。途中警察に捕まるが、娘の父への愛情に打たれた保安官は、二人を逃がしてくれる。しかしついにアニーは病気となり、娘を救うためにアレックスは自首する。アニーの母は、懲役4年の刑期と引換えに、アレックスにロシアに帰ることを要求するが、アレックスは断る。刑期中に作業場で働くアレックスのところに、空から正体不明のヘリコプターが降りてきて、アレックスを乗せて飛び立つ。ヘリコプターを運転していたのは、アニーだった。
 ソ連崩壊にともなうロシア人の精神的混迷、米国人のロシア人への好意と軽蔑、国の違いにかかわらない人情、アメリカ人の暖かさ、など、米国を舞台にしたロシア人監督の作品ではあるが、感情的な解釈としてはかなり公平に描いていると思われる。アレクセイを演じる俳優も、ロシア人の朴訥さ、気真面目さ、頑固さを良く演技している。それにしてもアニーを演じる子役の可愛らしさが目立つ。7歳という設定にしては、あまりに美しく、ませていて、賢すぎるという気もするが、ともかく妖精のように美しい。ラストシーンは7歳の娘がヘリコプターを操縦して父を収容所から連れだすという、多少荒唐無稽なものだが、それなりにメルヘンぽくて好感が持てる。
 舞台が米国であり、ロシア人の暮らし振り、町のようすがわかるわけではないが、ロシア人がアメリカ人をどう見ているか、ロシア人の人情のようすなどは、よく表れていておもしろい。ほのぼのとした気持ちになれる良い映画である。(1999.4.18)

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「刑事コロンボ」

  最近BSテレビ放送で、30年以上前のテレビドラマ「刑事コロンボ」を放送している。ほんとうに久しぶりに見るのだが、少し見始めるとついつい引きこまれてしまう。
  イタリア系のパッとしない風貌の殺人課辣腕刑事が、知的レベルの高い、主に著名人の真犯人を巧みな会話で追い詰めていくという設定のドラマである。刑事もの、推理ものの類ではあるが、ほんとうの推理ものとも違う。少し考えれば、到底現実的とはいえない設定である。いくら刑事が巧みな話術を駆使するとはいえ、疑いをもたれた相手が、こんなにいろいろ自らしゃべるはずがない。その他にも細かく詮索すると、話の進展には細かい無理があることも多い。しかしそんな細かいことは、どうでもよいのである。コロンボ刑事を演ずるピーター・フォークと、犯人役で毎回ちがう役者が登場するその一流役者との、緊迫感あふれる、しかもユーモアがありウイットに富んだ会話のやりとりこそが見物である。高いレベルの漫才を楽しむようなものである。
  わが国でもこの「刑事コロンボ」の好評にならって、「古畑任三郎」や「相棒」などの刑事ドラマが制作され、キャスティングの良さもあってそれぞれに高い視聴率を獲得した。
  それでも、こうして本家本元の「刑事コロンボ」をみると、その会話の密度の高さ、間合いの良さ、会話の迫力など、どこをとっても、やはり本家には到底かなわないようだ。
  この主演俳優ピーター・フォークが、今年6月に83歳で亡くなった。あんなに若くてエネルギッシュな雰囲気だったのに、われわれも歳をとったということなのだろう。

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インドネシア映画「タクシー」


 テレビでインドネシアの1990年の映画「タクシー」を見た。このような映画は日本であまり興行されないので、テレビ番組は貴重である。
 主人公の青年は比較的裕福な知識階級の出身で、大学で哲学を修めたが、普通のエスタブリッシュメントになるのを拒否して、社会の底辺に近いタクシー運転手の道を選ぶ。彼はこの仕事を通じて、社会の裏側を見聞することになり、それなりに興味をもって仕事に励む。ある日ふとしたきっかけで、若い赤ん坊連れの女を乗せる。降りるとき女はその子供を彼に預けて、行方不明となる。子供を心配する彼は、その子を連れ帰り、長屋のような賑やかな庶民の住居で一緒に暮らしはじめる。しばらくして、その子の母である例の女が子供を探して表れる。彼は子供を棄てようとしたことに対して怒るが、その女が恋人に棄てられて、子供を連れてゆくところがなく困っているのに同情する。その女は歌手になるため、テストを受けているという。やがて彼女は歌手として売れだし、一躍スターになる。けれどもそれは自分の子供の存在を否定し、独身と偽ってのものであった。事情は理解しながらも、運転手は彼女の態度を怒り、人間らしく自分の子供を認めることを忠告する。紆余曲折ののち、彼女もその考えに同意し、マスコミに自分が子持ちであったことを発表しようとする。しかしそのとき、以前自分を棄てた子供の父親が突然帰ってきて、自分の態度を詫び、復縁をせまる。彼女は二人の男に愛されながらも、とるべき道に困って、子供を連れて出ていってしまう。
 ストーリーとしては、よくあるような話であり、とくに言うべきこともないが、登場人物のストレートな人格表現は、皮肉や冷笑みがなく、清々しい。経済が上向き、生活レベルが上がりつつあり、近代的な都市生活者が増えてきたインドネシアの風俗が随所に表れ、映画表現もこうして清新なものが出現しつつあるということがわかった点で、非常に興味深い鑑賞であった。(1994.11.6)

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