「消えゆく“ニッポン”の記録 ─民俗学者・神崎宣武─」
テレビNHK教育チャネルで、民俗学者神崎宜武氏のドキュメンタリー番組を観た。
神崎宣武は、今こそが「日本の『村』を書き残せる最後の時期である」と言う。神崎は、故郷岡山県の山村の神社で現職の宮司を勤める一方、宮本常一と司馬遼太郎に師事し、全国をフィールドワークして、さまざまな民俗を見て、失われゆく人々の暮らしを記録してきた。
現代の日本では、過疎化と高齢化で各地の祭りや習わしが次々と消えてゆく。そう した消え去りつつある日本の記録を、なんとか後世に残したいと願っていると言う。
日本の多くのひとびとが、神崎が「にっぽん教」と名づける独特の信仰にもとづき、協力し合って、さまざまな儀式や祭りを行ってきた。それは、日本独自の、さらには地方独特の「クセ」すなわち特徴を形成しつつ発展し、継承され、それぞれの伝統と文化、すなわち「民俗」となってきた。
しかし、時代が変わるとともにそれらの民俗を継承して維持するひとびとが減少し、消滅の危機に瀕している。それらは、美しく、かけがえのないものであり、人々にとって大切であると思われるにもかかわらず、消滅しようとしているのである。
概ね以上のような内容である。
神崎が「にっぽん教」と名づけるのは、私にも理解しやすい。「宗教は、教義と信仰者の義務があって初めて成り立つ」として、たとえば日本の神道などはアミニズムに近く、宗教とまでは言えない、などという学者もいるが、私はなんらかの信仰があれば、それはすべて宗教だと思う。たとえば私自身は、ひとまずは先祖から相伝した顕本法華宗徒として仏壇を相続し、両親兄弟を含む祖先霊を祀っている。その一方で、外出して神社を訪れるときは、亡くなった両親、先祖一同、あるいはもっと漠然とした「神様」に手を合わせる。困ったときの神頼みの相手は、現実的な感覚として多様なのである。
私の場合、その信仰の内容といっても、ほとんど形而上学的な範囲には至らず、「悪いことをしたら罰(バチ)があたる。良いことをしたら幸運に巡り合うかも知れない。」という日常的感覚で、また「山川草木悉皆成仏」という本覚思想にまでも広がっていない。
私は、生まれて以来地方都市で成長し生活してきたが、その私たち自身の実体験でも、祭りや習わしが変化し、また消滅する場合を見てきた。
地方の過疎化という事象もあるだろうが、マクロに見れば、現代生活の生活様式が変わり、今では国内の範囲でもグローバル化が進み、多くの若い世代が生まれ育った地域を出て、他の地域で働き生活することがごく普通となって、自分の生まれた、成長した実家で生活する、ということが少なくなってきた。いたるところで「空き家」放置の社会問題も発生している。そのため、市町村の単位全体としては人口減少とはなっていない場合でも、それぞれの住宅地でみると、若年層の減少と高齢化が進んでいる。たとえば、私が現在住む衛星都市の地区自治会も、住民の高齢化がかなり進んで、70~80歳代の住人が過半数になって、ともなって子供が極端に減少している。数十年まえに賑わった地区運動会が、いまでは存続不可能となっている。このような状況を見ると、神崎が指摘する「祭りや習わしの消滅」という事象は、ごく普遍的だと思う。
「祭りや習わし」が「美しく、かけがえのないものであり、人々にとって大切であると思われる」のは、その行事や行動の中味そのものではなく、つまるところそれにかかわる人間同士の交わり・交流なのである。私自身が老人となり加齢が進むにつれて、ヒトは一人では生きられないとの感覚がますます強く自覚されて、家族親族・友人をはじめとするさまざまな人間同士のネットワークの大切さ・貴重さをあらためて認識するようになってきた。だからこそ、神崎がいうとおり「儀式や祭りや習わし」も、実はとても大切なことはよく理解できる。
その一方で、ひとびとの生活様式やそれにともなう価値観の変化というのも、時代の推移にともない、やむを得ない事象である。
社会経済様式が徐々に変化し進展して行くことは自然なことであり、 「祭りや習わし」が同じ様式や方法で続かなくなることもやむを得ないことだと思う。ただ、そのような「祭りや習わし」などの風俗が、なぜ人々を支え、また求められてきたのかということには、できる限りの洞察と配慮を絶やさず、それらの背景にある人間の本性や欲求というものに各自が真摯に向き合って、何らかの実現可能な代替様式や形態に関心を持ち続けることが、とりもなおさず各自の満足や幸福につながる大切なことなのだと思う。
我々がこれから具体的にやるべきことは、自分がどのような人間関係を求めているのか、率直に自省して、できるだけ素直に積極的に、自分が求めるような人的ネットワークを自分のまわりに構築し、維持する努力を継続していくことだと思う。
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