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書籍・雑誌

野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』PHP選書

 ドイツ近現代史の研究者による歴史哲学の入門書・啓蒙書である。
 19世紀からつい最近1989年のソ連崩壊・ベルリンの壁破壊までの長い間、世界中の歴史観は「近代進歩史観」、すなわちマルクス主義史観が最大勢力で、そうでなかったら自由主義的なやはり進歩史観が占めていた。その大きな要因のひとつは、科学技術の進歩に対する無邪気な信仰であった。日本では、明治維新以来1980年代の高度成長期にいたるまで、科学技術の進歩が絶大な信頼を担い、社会も歴史も科学技術の進歩と並行してより望ましい方向に理想に向かって「発展」してゆくことが期待され、信じられていた。
 しかし人間は、古代から一貫して「進歩史観」に従ってきたわけではない。古代ギリシアでは、人間の本性が変わらぬがために歴史は繰り返すものとして、循環史観のような思想が一般的であった。5世紀はじめの神学者アウグスティヌスは、ギリシア的循環史観に代えて、世界の創造にはじまり人間の堕罪で終わる、ひとつの宗教的な目標をもつ進行過程としての世界史を唱えた。中世キリスト教のもとで、神の摂理に則って「歴史はひとつの目標に向かっての進行過程である」である、とのキリスト教的進歩史観が打ち立てられた。
 17世紀末から18世紀初めにかけて、そうした進歩史観の「神の摂理」が「理性」に置き換わった「近代進歩史観」が啓蒙主義者ヴォルテールによって提唱されるようになった。人間の理性に絶大な信頼を寄せる啓蒙主義は、中世キリスト教の目的論的歴史観を世俗化したのであった。
 19世紀初頭のヘーゲルは、その近代進歩史観の上に立ち、「世界精神」が自らの目的、つまり「自由の完全な実現」に向かって世界史を着々と推し進めると説いた。これを受け継ぐ弟子のうち「ヘーゲル左派」から派生して、マルクスの唯物史観が発生した。すべての歴史は階級闘争の歴史であり、結局はプロレタリア革命でプロレタリア独裁の共産主義という最高の共同社会=自由の国が到来する、というのである。これは、マルクス自身が属すユダヤ人に根を下ろしているメシアニズムの一種であるともされる。
 野田宣雄は、こうして古代から近代にいたる歴史観・歴史哲学を概観したのちに、19世紀スイスの歴史学者ヤーコブ・ブルクハルトの歴史観について、藤田健治・訳『世界史的諸考察』二玄社1981を底本として詳しく説く。ブルクハルトは、自分が生きた19世紀のヨーロッパを、伝統と断絶して全般的に不安定な時代に入ったと診断していた。その大きな要因として、常に群れをなし、不安に襲われやすく、単調な生活に倦みやすく、騒擾を求める「大衆」の登場をあげる。大衆社会の到来で一般的な平準化が進みすぎて、個性が喪失して「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった」と慨嘆するにいたるのである。ブルクハルトは、民主主義が自分の運命を自力で切り開く人間を減らすとともに、社会が果たすべき課題を果しえなくなり、大衆がそれらをすべて国家に保護を求めるようになり、その結果「国家の肥大化」がますます進展する。それは、大きな国家権力を必要とする。
 国家権力の肥大は、物質的欲望のみの愚かな大衆が選挙して選ぶ限り、容易に「大衆専制主義」に反転する。人々は自分の気分に応じて国家の形態がつねに変化することをもとめているに過ぎない。典型的には、社会主義において国家は極大化して絶対的専制となった。
 こうしてブルクハルトは、社会主義の行き詰まりやナチズムの到来を19世紀にすでに予測していた。ブルクハルトは「未来は知りえないから未来である」として、決定論的な史観、すなわち進歩史観を厳しく批判した。
 人間の精神は、変わらざる人間性に根ざした恒常的側面をしめしながら、他方で時代とともに変化する歴史的側面ももっている。歴史的側面からみれば、精神はそれ自身移り変わっていくとともに、そのときどきの精神のあり方に見合った「生活形態」を樹立する。「生活形態」とは、国家制度、階級、宗教組織、慣習、法的概念など、物心両面を包含する広範なものを指す。これらは次第にその内部に巨大な力をはらむようになり、個人の上に重くのしかかるようになる。この「歴史的な力」から個人が逃れることはむずかしい。しかし人間の精神はとどまることはなく、動き続けてやまないものである。その結果、やがてかつての時代の精神に見合って形成された「生活形態」は、新たな精神との間に齟齬や矛盾を発生し、危機や破綻が訪れざるを得ない。こうして精神は動き続け、「生活形態」を構築しては崩壊させることを繰り返す。これをブルクハルトは歴史の「主要現象」と呼ぶ。
 このように歴史の過程は悲観的で懐疑的なものではあるが、その一方で人間の「精神の連続性」が確固として存在するのであり、歴史を正しく認識することが人間精神にとって最高の財産になる、という。
 ブルクハルトは、歴史のなかで働く大きな力として、国家、宗教、文化の3つをあげる。そして「一定の状態に執着することで幸福が成り立つという考えは、それ自体として偽りである。執着することは、硬直化と死に至る道である。ただ動くことのうちに、それがどんなに痛ましくとも、生命がある」と言って、極端には、変化をもたらし新しい「生活形態」を構築する「暴力」や「悪」さえも、一定度の重要性と価値を認めるのである。ブルクハルトは、政治の世界に個人の道徳の観点をそのまま持ち込むことを何よりも排斥した。近代の進歩史観が犯した最大の誤りは、歴史における勝ち負けと道徳的な善・悪(あるいは幸・不幸)とを直接結びつけ同一視してしまったことである、という。
 たしかに野田宣雄がいうとおり、ブルクハルトの説くところは、まさに現代の、とりわけ日本の現状をみるにつけ、鋭い説得性を禁じ得ない。新書のちいさな本だが、とても内容の濃い読書であった。

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松下圭一『日本の自治・分権』岩波新書

 1996年つまり22年前の新書である。著者は丸山眞男の門下生であり、また旧民主党代表として首相になった菅直人が所信表明演説でとりあげたことがある、「市民」第一主義ともいうべき「市民社会」を軸とした政治学を説く政治学者である。
 松下は、日本は1960年代ころから近代化が成熟して農村型社会を脱して都市型社会に入り、国家が政治課題を推進する近代化の時代を過ぎ、「市民」が主導して地域的個性を尊重した自治体行政を推進する時代になった、あるいはなるべきだとする。これまでのように、国が法律を作って自治体に執行を委任・委託するような仕組みでは、多様な地域の条件・要望に対応できず、国の省庁の縦割り所管によりバラバラに行政が押し付けられ、全国の低位平均化が生じ、国の立法遅滞に拘束されて時代遅れ・時代錯誤の行政となる、という。これを改めるためには、「市民」が前面にたって自治体の位置づけ、仕組みを全面的に作り替え、国の政府と対等に立つ自治体政府をつくり、外交・国際政策までも自治体でおこなうべきだとする。
 私も、地域の状況はそれぞれに相違があり、地方自治の内容について自治体の独立的な行政がもっと拡大するべきだとは思うし、松下がいうように条例をきちんとつくり実施するために、政策法務部門を確立したほうがよいとも思う。しかし、私にとってもっとも理解しにくいのが「市民」という存在でありその定義である。松下は「国民国家」を否定しているので、「国民」を否定し「市民」に置き換えるべきだと主張しているように思える。さらに「外交」「国際政治」をも自治体が担うべきと主張するにおよんでは、私には受け入れがたい。「国民」を護る「国民国家」という枠組みが不要であるとは思えない。
 ちいさな本なのに議論に重複が多く、肝心なところの論及が薄いようにも感じた。基本的なところで納得できない論考であるが、地方自治の目的・方法・改善の方向性などについて参考にできる言及は諸所にあるので、一読の価値はあるといえる。

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進藤榮一『東アジア共同体をどうつくるか』

 2007年1月発刊というから、11年前の著作である。数年前の民主党政権の終わりころ、鳩山由紀夫氏の民主党が「東アジア共同体」をさかんに唱え、無責任な「進歩派・リベラルメディア」が声高に後押ししていたので、少しその内容を知っておこうと思って買った本であった。ところが幸いにして民主党政権は退き、「東アジア共同体」の話題も消え去ってしまった。その間私もいろいろ取り紛れてしまい、この本も「積んドク」になっていたのを、偶然「発見」して読んでみたのであった。
 著者は、開発途上国への支援として、ODAを軸とする政府開発援助を中心に据える一方で、開発途上国に経済活動で介入する民間企業の利益追求を強く警戒する。たしかに我々一般人も長らくそう理解していた。しかし
平野克己が『経済大陸アフリカ』中公新書で説くのは、利益をもとめる民間企業が開発途上国に参加して、民間企業側の利便性・利益のためにCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)を重視しながら、開発途上国とウイン・ウインの関係を構築することこそが、永続性を維持し長期的に開発側にも歓迎される、という。これは開発途上国の状況を長い時間スパンにわたって観察し熟知した現場主義的研究者の鋭い指摘で、目からうろこが落ちるようなインパクトがあった。進藤榮一の開発途上国に対する眼は、「上から目線」ともいうべきすでに古い思考のようである。
 著者は、「市民社会の進展・普及」が開発途上国を政治的に民主化し「改善」して、経済的に豊かさをもたらし格差を是正していく、というがこれまでの歴史的事実はいくつもの反証を示している。この書の刊行から11年経過し、中国は経済大国となったが、政治的民主化からほど遠く、国内の経済格差は甚大で、中国政府が自ら認めた国内暴動発生件数は2012年時点で年間18万件という恐るべき状態である。チベット、新疆ウィグルのみならず日本の尖閣諸島への侵略行動もますます拡大する一方である。
 著者は、アジア共同体はアジアのめざましい経済発展を契機としてはじまり、共同体実現がさらなる経済成長をもたらす、と経済成長に結びつけて主張する。しかし経済はいかなる体制においても成長が連続するものではない。成長が鈍るあるいは停止したとき、共同体参加国同士で責任の押し付け合いが発生しないとは言えない。EUも、近年のゴタゴタの重要な一因は不況である。
 著者が説く「市民」や「市民社会」という概念がきわめて曖昧でうさんくさい。「市民」が主導する「ろうそくデモ」が韓国に発生し現在の文在寅政権を誕生させたと報道されている。私はそのような「市民社会」は断じて望まない。わが国で前の政権を担当した菅直人も「市民社会」の主唱者であった。「市民社会」が優れているというなら、実例で示してほしい。
 前掲の平野克己が指摘したことだが、アフリカに「資源の呪い」という事象がある。資源のような雇用を生まない産業で経済成長が実現すると、むしろ所得格差が著しく拡大するのである。また平野克己は、経済成長が立ち上がり人口が増加するとき、その経済成長が持続して国民全体に富が均霑するためには、前提条件として食糧の自足が必須であり、そのために農業の生産性改革が重要だとする。重要なのは貧困や経済成長の経済的・社会的諸問題を正しく把握して、適切な対処法を見つけ出して実行することであり、観念的に「市民社会」「共同体」などと唱えてもなんの意味もないのである。
 著者は、ミャンマーを「軍事独裁」というだけで非難し、韓国は選挙が実施されたことで「民主主義国家」として賞揚する。これもあまりに観念的・形式的と言わざるを得ない。政治は理念や形式ではなく、結果がよくなければ国民は不幸となる。私自身2000年前後ころに、フィリピンで、インドネシアで、マルコスやスハルトを懐かしがる何人もの人々に逢った。進藤が述べることは、善意にとらえれば理想主義的、率直に言えば机上の観念論・愚論に過ぎない論点が多々ある。
 そして政治的な面では、なぜそうなるのか理解できないほどに、中国に対して好意的であり、アメリカに対して否定的である。11年前でさえ中国の軍事費や二酸化炭素排出量は、進藤の言うような生易しいレベルではなかったし、現在はずっと増大している。11年前は直接的な尖閣諸島問題はまだ発生していなかったかも知れないが、すでに南シナ海のEEZ問題はあった。それに対するとらえ方も、私は進藤にまったく首肯しがたい。
 11年経過した現在では、EUはイギリスの離脱が決まり、ギリシア問題などが残り、EU参加国に深く影を落とし、ギリシア首都の港湾運営権が中国に買収される事態になっている。アジアでは、北朝鮮が「日本列島を原爆で海に沈める」とその政府トップが公言する異常な事態になっている。
 私は、日本であれ他の国であれ、国益にかなう範囲で、ミクロにはそれぞれの民間企業が利益を見込める範囲で、いずれの国へも積極的に入って行って活動することは望ましいと思う。進藤も言うとおり、物質的にも情報的にもグローバル化は不可逆的に進展しているので、国家の枠に止まらない活動はより重要であり必須である。国境をまたぐことができない国家の政府に代わって、活動範囲に拘束を受けない民間企業がこれまで以上に多くの役割を期待される、と平野克己が指摘する通りである。
 その一方で、それぞれ国民を擁する国家という存在は、人間の個人間のような「友情」や「信頼関係」というものを、本来的に期待できないのである。したがって、グローバルな活動は常に一定の距離感をもって「撤退の可能性」を前提に行う必要がある。国家の安全保障の自律性を損なうような「共同体」なら、参加にきわめて慎重でなければならないのは当然である。
 著者の進藤榮一の主張に対して、私はほとんど賛同できない。主張には賛同できなくても、感銘をうける、あるいは啓発を感じる本は多々あるが、この本には得るものがほとんどなにもなかった。
 進藤榮一は、旧民主党の鳩山由紀夫とも近かったらしい。民主党が政権から早々に去ってくれて、ほんとうに幸いであった。

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小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』中公新書

 企画院・通商産業省などの官僚を勤め、企業経営、日本新党の衆議院議員などを歴任した実務・実績の豊富な著者による「歴史エッセイ」である。
 著者は、世界の文明が滅びる3つの要因として、社会システムの機能不全、環境生態系の崩壊、モラルの頽廃をあげて、現代に危機感をもち、その現代を考え直すいとぐちのひとつとして、明治維新をとらえなおすべきである、とする。
 明治維新を慶応3年の王政復古から明治10年の西南戦争までとして、その間の政治・経済・社会の変動をできるだけ総合的に解き明かそうと試みている。
 著者は、この期間におこなわれた重要な改革を徴兵制・地租改正・学制改革の3つとする。鳥羽伏見戦に始まる戊辰戦争から明治新政府の諸改革とそれが生み出すさまざまな軋轢、明治政権内部の権力構造とその問題、朝鮮・台湾・琉球など外国との接触、国内のさまざまな不満や反政府勢力とその行動、などの諸事象の歴史的位置付けや意味を、総合的に解説する。
 著者は歴史家ではないので、史料やさまざまな歴史研究の成果を駆使してはいるが、学者間の議論・吟味を経た論考ではなく、あくまで著者個人の考えである。その点で、たとえば司馬遼太郎の歴史小説と類似の論考であるといえる。ただ歴史専門家の研究論文はテーマごと、事象ごとの、いわば細切れの議論になりやすく、本書のように時間的・空間的に総合化したものがすくないので、マクロな概略の知識を得るうえで一定度の価値がある。また専業の学者ではなく、実務経験の深い知識人としての、学問的考察とは別の見識もあると思う。この本がひとつの「歴史エッセイ」であり、歴史学の結論であると決めつけない限りはじゅうぶん意味ある著作であると思う。

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武田龍夫『福祉国家の闘い』中公新書

 外交官として長年スウェーデンに住み、スウェーデン語に堪能な著者による本である。
 スウェーデン社民党は、社会主義の決定論を拒否し、資本主義の競争原理と社会主義の分配原理をミックスして第三の道を作り出し、きわめてプラグマティズムに徹した政権政党となった。「すべての人は満足すべき生活への権利をもつ」という平等原理を採用し、「胎児より墓場まで」のスローガンを謳う福祉国家を目指した。これは1960年代にはかなりの成功をもたらした。しかし1970年代から経済成長の低迷に遭遇し、いやおうなく「経済成長なくして福祉なし」の現実を体験・痛感することになった。ところが日本の福祉関係者はスウェーデンを、現実をまったく無視するほどに美化し理想化した。著者は、そのような思い入れはすでに反知性的である、とする。ヘーゲルが言う「知性とは客観的態度のこと」であるべきだからである。スウェーデンには学ぶべきところも多いけれども、学ぶべきでないところもある。そして最大の問題は、風土と精神文化の違いであり、さらに日本とスウェーデンとは、基礎的条件がまったく違うとする。
 スウェーデンの中立主義はプラグマティズムから、内実は実にエゴイズムに満ちたものとならざるを得ず、それは必ずしも批難されるべきものではないが、決してきれいごとではない、という事実を歴史的事実から説く。スウェーデンの国防政策は、侵略者に対して攻撃による犠牲を極大化させる警告に基づくもので、言わば小国の抑止理論である。スウェーデンの外交と国防は、過去の「屈辱の中立」によって贖いえた平和のための行動の哲学として、現実的理想主義の立場である。スウェーデンの「武装中立政策」は、事実としては中立でもなんでもなく、西側NATOとの緊密な協力関係を裏で維持してきたことが、議会関係委員会の討議記録と証言などですでに明らかになっている。国際政治の情勢を注意深く観察し、交戦国からのある要請は拒否し、ある要請は受諾しあるいは条件付で受け入れ、または他の要求と相殺しあるいは部分的に同意を示し、その他驚くべき柔軟な現実適応の能力を発揮して、国際法には実際はあきらかに違反しつつも、事実において中立を維持したのが実態である、という。もちろん重要な収入源として兵器輸出活動は古くから堅持し続けて全世界におよぶ。
 スウェーデンも、犯罪の増加に悩んでおり、男女関係や夫婦関係の悩みは尽きない。社会福祉の反面としての政府の国民管理の強さに対する国民側の不安や不満も決して小さくないという。
 それらのことが、さまざまな事実を例にあげて実証的に述べられている。
 著者は、ひとつの側面としてはスウェーデンでは成熟した民主主義が実現され、かなりの範囲で国民の要請に誠実に応えており、かなり良質の政治・社会を実現しているという。それでも理想の社会も政治も、現実の世界には存在しないのであり、日本と類似のあるいは異質の多くの問題を内包しているのであり、一部「識者」が唱えるようなスウェーデンへの妄想にもとづくかのような全面的礼賛・賛美に対して強い警告をならしている。
 岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書や、山井和則『世界の高齢者福祉』岩波新書などを読んだ人には、ぜひこの本も読み合わせて、軽薄な「(〇〇国)では-のかみ」的論調を客観化していただきたいと思った。

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岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書

 ずいぶん前に購入しながら「積んドク」状態であった1991年発刊の本である。
 著者は日本を「経済の論理・効率の論理だけで他の国を評価し、競争・成長至上主義で国民を集団ヒステリーに追い立てている企業社会の戦士」の国とし、対してスウェーデンを「女性・高齢者・障碍者・在住外国人・・・すべてにやさしい」国と評価する政治学者であるから、当然ながらそのようなヒトの意見・主張であるとして、一定のバイアスを前提に読むことになる。ただ、日本が少子化時代に突入し、人口ボーナス時代から人口オーナス時代に入っていることから、人口が少ない国でそこそこうまくやっているらしいスウェーデンの国家運営から、なにか参考にできることがあるかも知れないとの期待もあった。
 スウェーデンをさきの大戦前から主導してきたスウェーデンの「社民党」の政治運営について詳述している。社民党が戦後まもなく、マルクス主義的綱領から脱皮して「社会民主主義」の実現を目指し、プラグマティズムに徹して少数与党の微妙で難しい政治運営を巧みに進めてきたことを具体的に叙述する。国民の要望を見据えて、議会運営では「妥協」をモットーとしてやりくりする。高度の福祉を重視するが、その実現のためには経済成長が必要であり、労使関係に配慮しながら軍事産業をも重要視して市場経済の推進を図る。
 このような論考を読むと、1990年東京NHKホールで「ベルリンの壁崩壊とソ連の行方」をテーマとして開催された国際シンポジウムの場面を思い出す。とつぜんソ連代表の改革派でゴルバチョフ側近のひとりであったアファナーショフが「我々がほんとうにやりたかったことは、実は日本で実現されてしまった。」と発言すると、アメリカ代表の官僚のひとりが「そのとおりだ。日本こそ経済活動に対して政府・通商産業省の指導・介入が大きくて、まったく社会主義経済ではないか。」と返した。司会・進行のNHK高島肇久が「いや、今日はソ連の話をしていただきたいので・・・」と、慌てて話題を変えたことを、印象深く記憶している。後日のNHKテレビの録画放送では、その興味深い場面はカットされていたが。
 現在のわが国の社会保障予算は、一般会計のなかで費目別最大の33.6%(33兆円)を占め、民間負担分を合わせると全体で120兆円以上、GDPの4分の1までになっており、著者がいう「福祉か成長か」などという呑気な段階ではない。また、私は著者が口をきわめて礼賛するスウェーデンの社会民主主義的方針にとても賛同できない。
 私には、政治運営についてはわが国戦後政治の、吉田茂の少数与党政権以来の自民党政権の歩みが、この本で述べられているスウェーデン社民党のものと、かなり重なって見える。もちろんわが国の与党は、スウェーデンのように「社会民主主義」を標榜するものではなかったが、アファナーショフやアメリカ高官が指摘したように戦後復興のため政府がかなり多面的・重層的に民間経済活動に介入していたし、プラグマティズム、妥協、持続性、などの側面はかなり共通している。政治の実践は、理念や構想だけてなく権謀術数とも表現される多面性や妥協など、一筋縄で行かないマネジメントが必要である。
この本で紹介されている政党政治の運営にかんしては、わが国の場合はむしろ野党が参考にして見習うべきことが多いように思う。著者があげる「自己省察・自己批判」などが、ほんとうにスウェーデン社民党で実行されているとするならば、これこそわが国の民進党・立憲民主党・希望の党・日本維新の会などは取り入れていただきたい。私も、現在のところわが国に政権を預けうる第二の政党が未だ存在しないのは、自民党が弛緩・堕落する惧れから不安であり不満である。この問題もつまるところは、著者がしきりに述べているとおり、指導者に有能な人材を得なくては達成できない、ということだろう。実際つい最近、民主党政権は人材の枯渇・能力の不足をいかんなく露呈していた。
 人口が減少したときの国家運営の参考になるような側面は、残念ながら無かった。この本が書かれてから、平成期の30年間がほぼまるまる経過しているが、本質的な部分についてはまだ有効だと思う。著者の主張には首肯しがたいところが多々あるものの、スウェーデンの貴重なケース・スタディーの紹介としては、十分意味のある本である。

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平野克己『経済大陸アフリカ』中公新書

 さきの大戦の後、雨後の筍のように独立国家が叢生して、いまや人口10億人、うち都市部だけでも4.7億人、55か国の規模になったアフリカは、1970年代末ころから20年以上の長期不況に陥り、「貧困大陸」のイメージが定着していた。それが2000年ころから急速に経済成長が進展した。それは石油・天然ガス・レアメタルなどの資源価格の高騰によるものであった。
 アフリカのその高度成長には、中国の大きな関与があった。中国は目覚ましい経済成長を継続しているが、その成長は典型的には鉄鋼の大量生産など、きわめて大量の資源を必要とするものであり、それ自体が世界的な資源価格暴騰を発生したとともに、その資源調達先としてアフリカを求めた。中国は植民地開発的でも、開発援助でもなく、自国に必要な資源の安定的確保のために、「協力」「共生」「ウイン・ウイン」の姿勢でアフリカに深く関与した。
 一方西欧先進国は、これまで開発途上国に対する「援助」、典型的にはODAなどを通じて、経済的見返りを求めない協力・支援をあるべき理念としてアフリカ・アジアに対してきた。そんななか1980年代からNIES(Newly Industrializing Economies)と呼ばれる東アジア・東南アジア諸国が、低廉で豊富な労働力を利用して製造業を軸に、輸出主導型の経済成長段階に入り、以後開発途上国とはアフリカに限られるようになった。
 ところがアフリカでは、経済成長と貧困解消とが連動しない、という大きな問題が判明した。第一は資源産業がほとんど雇用を生まないために、賃金などで資源販売の収入を大衆に均霑させる産業上の仕組みが存在しない。第二は農業が低生産性のまま取り残され、急激に増大した都市人口を食わせるために多くの食料輸入が必要となり、さらに食料価格が暴騰しせっかくの資源収入を新たな生産構造構築にまわせないのである。食料価格が高いために、非熟練労働者を含めて労働賃金を低くできないという深刻な問題もある。「資源の罠」と呼ばれる現象である。これは資本による「搾取」あるいは「収奪」ではなく、社会・産業構造の問題である。対策としては、まず農業の生産性向上が必須である。
 さらにBOP(Base of the Economic Pyramid)ビジネスやCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)などが、崇高な理念に頼るのではなく、参入企業の応分の利益を確保しつつウイン・ウインの民間的展開を維持できることが、先進国側からの持続的介入にとって重要であることが説かれている。
 アフリカは大陸だがあまりに多数の国家に分割され、ひとつの国の経済規模が日本のひとつの県に満たないような状況が多くある。このような状況のなか、本質的に国境を超えうる民間企業の参加は、国別に分断を強いられるODAなど政府系・公的支援よりはるかに有益に貢献し得る点も重要なポイントである。
 以上のほか、南アフリカ共和国などの「アフリカ人による産業創生・経済成長」の例など、一部に過ぎないものの成功例も紹介され、今後アフリカ自身が、また日本が目指すべき方向について論じられている。
 ちいさな本であるが、内容はとても密度が高く、非常に感銘を受けた。

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高崎通浩『民族対立の世界地図―アジア/中東篇』中公新書ラクレ

 2002年3月発行の本である。10年以上前にテロ事件が頻発していたころ、少し興味をもって買ったものだと思う。しかしいろいろ取り紛れたのだろう、購入したことも忘れてしまって、こうして歳末の整理の最中に「発見」したのであった。
 中央ユーラシア、インド亜大陸、東南アジア、中国、クルド民族、パレスチナ、などの「民族問題」について概説的に述べている。ここで「民族」をグループ分けするとき、その根拠は従来から一般的にある言語・文化だけでなく、宗教、重要視する習慣・習俗、社会的階層なども含まれる。
とくに、アフガンのパシュトゥーン人の歴史と動き、中国のあまり報道されない少数民族の深刻な問題、いまや世界最大の国を持たない浮遊民族集団となってしまったクルド人問題、そして最近も新たな騒動が生じたイスラエル・パレスチナ問題、など簡潔ではあるが要領よく解説されている。
 国家間の「戦争」が甚大な災禍をもたらすことは誰でもわかっているが、実は「内戦」、「小規模紛争」、さらに「テロリズム」など、すなわちLow intensity warと呼ばれる戦いのほうが実は被害は大きい。戦争あるいは紛争の「責任者」がよくわからない場合が多く、容易に停止できなくなるのである。その原因の多くを占めるのが、この本であつかう民族問題である。
 民族問題の本質や真因は、簡単にわかるものではないが、必ず歴史的背景が深く関与している。そして、当事者にとっては限られた時間、限られた資源、さらに限られた能力で判断を迫られ、行動せざるを得ない。そのうえ関与してくる第三者が、常に善良で無私で妥当な振る舞いをしてくれるわけではない。典型的には、国連という存在がいかに現実に役に立たないものであるか、あてにできないものであるか、この本が述べる事例でもよくわかる。もちろん、だからと言って国連をなくす方がよいとまでは言えないが。
 個々の民族問題に対する評価としては、私はこの著者にすべて首肯するものではなく、賛同できない論点も少なからずある。しかし、傾聴に値することは多い。
 民族問題のような複雑な問題は、メディアに登場する「識者」が弁舌さわやかに話すほどには簡単ではない。そういうことが、この本からも伝わってくる。この本が書かれてから15年以上が経過して、この後ISなどの新しい問題も発生したけれど、述べられていることは現在も生きている。
 私たち自身も、こういった思わず目をそむけたくなる、逃げたり避けたくなるような事態に遭遇する可能性はある。呑気で無責任で浅薄なメディアの報道から、少しでも実のある情報を引きだすための基礎的な知識、すくなくともその素材を与えてくれることで、このような本は意味があるだろう。

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宮本正興・松田素二 編『新書アフリカ史』 講談社新書

 かなり以前に東京水道橋の書店街を散策したとき、なにげなく買っておいた本であったが、ふと細切れ空き時間の退屈凌ぎを兼ねて読み始めた。しかし、読み始めるとなかなか興味深い書であった。
 15世紀にはじまり18世紀から本格化した植民地時代より以前のアフリカについては、アフリカ大陸内に自らの書き言葉を持つ原住民が存在しなかつたために、残されたモノに頼って歴史をたどる考古学的方法と、アフリカ以外の史料に頼る方法の2つしか歴史をたどる手段がない。独自文化・独自文明の存在を引き続き解明していくことは、アフリカにとって重要である。かなり古くからアフリカ大陸内に、独自のそれなりに高度な文化・文明が存在したことはたしかなようである。また、はやくからアフリカの人々が、中東・南アジアの人々と独自の外交・通商を営んでいたことも、さらに解明が進められるであろう。ただ、これまでの研究の範囲からも、アフリカ大陸がその地理的条件のために、地域的に細かく分断され、言語も細分化されてその数が非常に多く、ユーラシア大陸よりはるかに多様性が存在した、むしろ多様性に富みすぎてまとまりを欠いたことが、現在に続くマイナスの所与条件となったようである。
 文字による記録、すなわち史料が少ないという意味では、南アジアのインドが似ているのかも知れない。インドも、言語の数が数百にのぼるほどに多すぎることが文字の記録の困難さにつながっているのではないだろうか。インドのように高度の文化・文明を古くより広く認知され、人口も経済力も大きく、他国への影響も大きかった国でさえ、文字に残る古い史料がほとんどないため、歴史的研究がきわめて困難であるようだ。
 アフリカの植民地時代以降はすでにわれわれもある程度情報を取り入れることができたが、この書が主張するように、これまでの情報は西欧先進国的価値観にきわめて偏った情報であったろう。読んでいると、とくにイギリスの巧みで狡猾な効率の良い統治方法に驚く。現地の伝統的統治システムをイギリスの植民地支配に支障のない範囲のみ切り出して、その頭領のみを確実・徹底的に掌握・制御するという方法は、かつての日本が台湾・朝鮮に対して試みた国民的同化政策と比較すると、抜きんでて冷徹・冷酷・過酷でありながら、被統治者から日本ほどには憎まれることもなかったようである。アフリカ大陸は大部分が植民地化されてしまい大変な被害を被ったが、そのこと自体がよくも悪しくも歴史的事実である。
 さきの大戦後を主とするアフリカ諸国の独立後の歴史は、きわめて厳しいものであった。しかしこの書にも述べられているように、植民地化した西欧諸国のみに原因と責任を押し付けても未来が開けるわけではない。「自己責任」を外部から主張することはいささか慎重を要するが、アフリカ諸国内部の当事者自身の認識としては、「自己責任」をしっかり自覚・意識して、自律的な意志・思考・計画・評価を貫徹して、他国からの支援を得るにしても自らの選択と決断で前進する以外に状況を改善する道はないだろう。
 また、ここでも「民主主義」の実現の難しさがよくわかる。議会をつくり、議員を選挙して、王権や首長権のような独裁的権力を廃止したとしても、それだけではまともな「民主主義」とはならない。選挙に立候補する側も、選挙を通じて為政者を選出する側も、真摯に学んで身につけなければならないことがあり、そこまで達するのは容易ではない。
 私にとっては、この書はこれまでほとんど知らなかった事実・史実を教える貴重なものであった。ただ読者の希望としては、日ごろなじみのない用語・人名・地名が多出することもあり、もっと多くのわかりやすい地図と、詳細な索引を添えて欲しかった。

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箭内昇『メガバンクの誤算』中公新書

 長期信用銀行に長年勤め、役員にまで登りつめたのち経営陣を批判して飛び出した著者が、内部を知り尽くした銀行業界の内幕・問題・課題を暴き出した書である。
 アメリカではいち早く1971年のニクソンショックを契機として、銀行界は「変動の時代」に突入して危機を迎え、ビジネスの形態が変わり、業態が変わり、そのなかで多くの銀行が破綻した。日本でも危機は静かに訪れてはいたが、大蔵省の護送船団方式に守られて変革を怠り、旧態依然のまま表立った破綻もなくバブルに突入した。かたやアメリカでは、かつてのようにすべての銀行を破綻から救うことはせず、延焼を防ぐという政策がとられ、それぞれの銀行が競争環境の中で生き残りのために積極的に新しいチャレンジを繰り返し、変革を推し進めた。しかし日本では、相変わらず預金と貸付のみの旧態依然としたビジネスで、ただバブルの景気高揚だけに乗っかって華々しく成長したかに見えていた。ところがバブル崩壊で一気に弱みが現れ、日本の銀行界は深刻な危機に陥った。1990年代の10年間だけで、アメリカと日本の銀行の企業競争力の格差は、数十年でも追いつけそうにないと思えるほどに拡大してしまったという。
 以上のような内容は、製造業に従事してきた私にとってほとんど知らなかったことであり、金融業界の特殊性を知らされてその実情に驚く。しかし、銀行ならでは、あるいは銀行だけの問題や危機とは考えられない深刻な事実も指摘されている。典型的には、経営に不正が絡む企業業績の悪化である。これこそ企業に致命的なダメージを与える。最近わが国の大手製造業に、このような大問題が多発してしまっている。著者が指摘する経営者のモラルこそは深刻で重大な問題であるが、決して銀行だけの問題ではない。
 15年も前の本だが、非常に刺激的で興味深く一気に読んだ。

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