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書籍・雑誌

北岡伸一『国連の政治力学』中公新書

 10年余り前でまだ企業で働いていたころ、興味をもつて新刊書として購入したものの、いろいろ取り紛れて放置してしまった。本棚を整理しているときに見つけて、遅ればせながら読んでみた次第であった。
 私たち日本の一般大衆にとって「国連」の印象はあまり芳しいものではない。常任理事国という特権的な5か国があって、大事な案件に限ってたいてい中国やロシアの拒否権で望ましい行動はできない。人権委員会というのがあって、韓国や中国の暗躍で、クマラスワミ報告などという理不尽な日本を貶める声明が出る。日本にとって害はあっても益がほとんどないように思えるのに、分担金は世界でもトップレベルに近い。
 最近は存在感が薄いけれども10年ほど前までは、小沢一郎氏が「国連中心主義」を提唱して、メディアでもてはやされたりしていた。ほとんどウンザリという印象が強かった。
 しかしこの本で、国連に自ら飛び込んで、前向きに国連のため、日本のために働いた第一級の政治学者の体験にもとづく国連論を読むと、私たちももっと国連に対してまじめに向き合わないといけない、という気持ちになった。
 世界に200ちかくに達しようとするほどの数の国家があり、巨大国も微小国も、豊かなくにも最貧国も、みな同じ発言力を担保されている組織であるがため、理念的には理想的、現実にはほとんで決定できないという深刻な事情を、冷静に受け止めて、それでも世界中のどの国ともコンタクトできる貴重なルートであることを、しっかり強かに活用することが大切であることを思った。
 机上で、あるいは頭の中だけでの議論ではなく、この本のような最前線の実務体験に基づいた論考を、今後もつぎつぎに出版していただきたい。

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加藤尚武『20世紀の思想』PHP新書

 生命倫理、環境問題を主な研究課題とする倫理学者による現代思想の解説書で、1997年、つまり20世紀末時点の発刊の書である。
 「哲学」とは、古今東西の思考、自然科学から人文科学までのあらゆる領域にわたって相互理解の可能性をもたらすような、地球規模で通用する理性のことである、との考え方に立って書かれている。その観点からすると、20世紀の哲学は、人間の知識を全体として見通しのきくものと成しえていないし、その活動があまりに欧米中心となっていて、相互無理解の状況である、と指摘する。
 18世紀はニュートンの「数学的理性」とカントの「人間の理性」とが、圧倒的な宗教的力の下に棲み分けていた時代であった。しかし19世紀になると、理性はもっと大胆に自己主張するようになり、宇宙の真理のすべてを抱え込もうとした。「理性化による進歩」という思想が生まれ、自由こそが人間の根源的な在り方だということになった。そんななかヘーゲルは「国家理性の思想」を提案し、国家主権こそがすべてに優先して存在して「国家固有の権利」を持ち、唯一歴史という法定でのみ審判を受けると考えた。
 20世紀は、前半が戦争の時代、後半が科学技術の時代であった。進歩史観が普及する一方で資源や環境の有限性に直面するようになり、「無限の進歩」の信仰にも疑義が生じた。そして世界規模の残酷な戦争を経て、近代の国民国家の自決主義はきわめて危険なものであることも経験した。未だにこの悪夢に対する解答は得られていない。
 19世紀末、J.S.ミルは「自由主義の原則」というべき重要な提唱をしていた。師であったベンサムの功利主義に基づきながら、多数決における少数者の利益の保護、他者に危害を与えない限りは刑罰などの個人への干渉を慎重にすべきであること、「愚行権」の尊重、など現代にもそれ以上の代案が見つかっていない基本的な基準を提示していたのである。
 カール・マルクスは、それまで多くの思想家が、人間と動物の違いを、理性があるか否か、宗教があるか否かで区別していたのに対して、生活手段を製造するのが人間の根本的特性であるとした。人間が生きる生産関係を包含する生活様式のなかに生まれることで、ヒトは自分の生を発現するので、その生活様式が世代を超えて伝えられていくのであり、そのシステムを「構造」と呼んだ。人間は初めから社会的存在であり、人間性は社会性と切り離すことができない。そして生産と経済(下部構造)の変化と政治文化(上部構造)の変化とを機械的に対応づけた。ダーウィンの進化論から強く影響を受け、社会も変化し進化するとし、資本主義社会の仕組みそのもののなかに、それを崩壊と破綻に導かざるを得ない内在的要因があり、革命を経て社会が進化していく、とした。
 フリードリヒ・ニーチェは、宗教も道徳も後にして、人生をあるがままに受けとめ、与えられたすべての運命を全面的に受け入れることこそが、生きることの根本だとした。この理性のしがらみを脱出した衝動的ともいえる生の肯定を、具体的に「性欲」に置いて、人間を理解するうえでその意味の重大さを探求したのがフロイトであった。
 フロイトとほとんど同じ時代を生きたのが、フッサールであった。フッサールは、我々が体験する現象を見つめる自分自身の「意識」を信頼して、この自己に内在する意識こそが人間のあらゆる思考・知識の源泉である、とした。このフッサールの方法を展開して独自の「存在への問い」の哲学を構築したのがハイデガーであった。彼は本当の意味での存在は「人間存在」のみである、とする。そのハイデガーの哲学を自己流に消化して、ハイデガーとは全く別方向の個人的内面性に向けて思索し、最後にはマルクス主義に接近して、ひととき世界的にスター的哲学者としてもてはやされたのがサルトルであった。あくまで自我の内発性を純化して、自我のなかに意識の志向性を見出しそうとした。
 これらの思想家の他にも、解釈学・構造主義、科学の哲学、社会性・正義、日本の西田幾多郎・丸山眞男にいたるまで、実に簡潔かつ的を射た解説がされている。
 古今東西の思想、自然科学から人文科学までのあらゆる領域に、相互理解の可能性を作り出し、人類共同の意志決定・合意形成が可能なようにしなければ、地球規模で通用する理性が機能せず、たとえば悲惨な戦争をその意図もないままに引き起こすかも知れない、との加藤の指摘は重い。ちいさな本だが良書である。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第3巻

 アメリカの1901年から1963年、アメリカ的な「進歩的革新主義」の時代、第一次世界大戦、大恐慌とニューディール、第二次世界大戦、そしてついに世界最大の経済・軍事国家となって、ソ連・中共の共産主義と冷戦で対立する著者の執筆時点まで、大統領でいうと、第26代セオドア・ローズベルトから第35代ジョン・F・ケネディまでの時代である。
 南北戦争の荒廃から復興する過程で、アメリカは科学技術の発展、工業化の進展を成し遂げ、経済的に大きく成長した。たとえば「鎖国」により外国とかなり途絶していた日本が、ほんとうに遅れをとったのは、さほど遠い昔ではなく、まさに19世紀前半ごろからのことである。明治初年に岩倉遣欧使節団に参加した日本人が、西欧には約30年で追いつくことができるだろう、と判断したのは実に正鵠を射ていた。
 そんななか、アメリカは、経済・社会・行政・財政において、さまざまな歪が顕在化するようになった。第26代大統領セオドア・ローズベルトは、それを社会主義のようにひっくり返してやり直すのではなく、「建設的に」政治の力で規制・是正することを目指した。このセオドア・ローズベルトと、それに続くウィリアム・タフト、ウッドロウ・ウィルソンの3人の大統領の時代は、進歩的保守によるアメリカ的革新主義の時代であった。この時点でも、ハミルトンの集権(=連邦主義)とジェファーソンの州権(=分権主義)とが主要な対立軸であった。
 セオドア・ローズベルトは、国内では大企業のトラストを規制し、国外に向けては世界の繁栄のために尽力した。その間、いずこも同様らしく、無責任なあるいは悪意のメディアの非難に晒されて苦労することが多々あった。
 1900年から、大恐慌がはじまる1927年の間は、政治はあまり変わらない一方で、社会的には大きな変化(=前進)があった。アメリカは、世界最高レベルの経済力を達成し、軍事的にも巨大パワーとなり、「世界を民主主義によって安全にする」十字軍となって、ヨーロッパを離れたのである。
 ウィルソンは、ハイチとメキシコに武力行使を行ったが、成果はなかった。第一次世界大戦に対しては、はじめは中立を目指したが、やがてドイツのUボートによる公海上の襲撃をうけて、議会に反対派が多い中、連合軍に大きく遅れて参戦した。結局、第一次世界大戦は連合軍が勝利したが、ウィルソンの理想論的な講和条約案は、なによりもアメリカ議会の賛同を得られず、案に含まれる国際連盟に、発案者のアメリカ合衆国が参加できない、という苦い結果となった。
 ウィルソンのあと、凡庸な共和党大統領3人の時代があり、1933年からフランクリン・D・ローズベルトが大統領に就任した。おりしも大恐慌のさなかで、経済復興のためにF.D.ローズベルトは、ニューディール政策を強力に推し進めた。しかし、ニューディール政策のいくつかは最高裁判所により憲法に違反するとして否認された。それでもこの思い切った革新的な政策は、第二次世界大戦後のF.D.ローズベルト亡き後になっても、アメリカ経済にかなり大きな貢献を提供し続けた。第二次世界大戦の勝利、そのあとの朝鮮戦争と、アメリカは膨大な戦費を費やしたが、すでにアメリカはそれに耐えうる経済力をつけていた。
 第二次世界大戦の後は、アメリカにとって最大の外交問題はソ連・中華人民共和国などの社会主義国との冷戦となる。
 また、植民地が独立する場合、1945年以前は植民地の宗主国側が派遣した植民地指導者が独立を主導して独立後統治したが、1945年以後は植民地の原住民側が反抗して独立し、原住民側が独立後統治するものが主流となった。そこでは民衆も指導者も「国民国家」の経験も知識も乏しかった場合が多く、当然独立後は難渋・混乱した。
 アメリカ史の、とくに19世紀半ば以降について、アイルランド系の移民の活動が注目される。彼らは、アメリカ創生者たるプロテスタントではなくカソリックであり、プロテスタントが主流のアメリカ政府に対して批判的になりがちで、もともとイギリスに反感が強く、結束も強かったようだ。現在、日本で無責任なメディアや「識者」たちのみならず、経済学者の一部までもが、労働力不足への対策として、移民の導入を訴えている。「多様性」を増してそれを尊重することが国力の増強につながるなどと、楽観的あるいは無責任な希望的観測もある。アメリカの黒人奴隷やアイルランド系移民などの歴史的経緯を考えても、移民の増強策は、私はリスクが大きすぎると思う。
 また、アメリカは建国以来、議会制民主主義で大統領制をとったが、議会との調整・妥協はつねに大統領を悩まし続けていた。日本では、たとえば橋下徹氏が「首相公選制」を提唱するように、選挙で大統領を選出する大統領制では大統領が圧倒的な権力を掌握しているかのように思いがちだが、実際は飯尾潤氏がいうとおり、むしろ議院内閣制の首相のほうが権力は大きいようだ。
 私は、アメリカの歴史については、これまで中尾健一『新大陸と太平洋 世界の歴史11』中公新書、1975、ポール・ジョンソン『アメリカ人の歴史』全3巻、共同通信社、2001、を読んだのみで、詳しい通史は未読であった。ポール・ジョンソンの書はモリソンの半分程度の大部だが、先史時代の記述が薄いこと、タイトルのとおり主に指導者の列伝のような記述なので、史実そのものの記述と解釈についてはこのモリソンの書に比べると少ないことなどから、今回の読書は非常に興味深く勉強になった。
 アメリカという、比較的他の国々から独立して独自に発展したように思える国においても、その歴史的経緯とそのなかの葛藤、その襞の深さには、十分に多彩なものがあり、すくなくとも私たちが高校などで学ぶ程度のごくごく単純な知識と理解では、現在のアメリカについて理解が到底おぼつかなく、安物のメディアやいいかげんな「識者」に騙されてしまう懼れがきわめて高いと思った。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第2巻

 アメリカの1815年から1900年、独立戦争後の対英関係修復、国内政治の整備、インディアン政策、ジャクソニアン・デモクラシー、南北戦争とその復興までの時代、大統領でいうと、少し重複して第2代ジョン・アダムズから第24代グロバー・クリーブランドまでの時代である。
 イギリスとインディアンに対する戦いのヒーローとして輝かしく登場した英雄、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、ジャクソニアン・デモクラシーをもたらした。ジャクソニアン・デモクラシーとは、エスタブリシュメント層や啓蒙的知識人層ではなくアメリカ人民の国民国家を基盤にして、かつ普遍的な価値のアピールではなく、アメリカ市民個々人の平等と尊厳への強いコミットメントに特徴づけられる。そして合衆国政府の役割は、国内のアメリカ人民の物理的な安全と経済的な安寧を保障することによって、国家の運命を成就させることにある、とする。アメリカでは、連邦─州─地方の結束が強まっていった。政治構造としては、急進vs保守、連邦主義vs州論、個人の忠誠vs地域社会の責任、の対抗関係が軸となった。
 モリソンは、アメリカのデモクラシーの預言者はトーマス・ジョンソンであり、英雄はアンドリュー・ジャクソンであり、大司祭はラルフ・ウォルドー・エマソンである、と述べている。エマソンは、たとえ自由な制度があったとしても、本人自身が物理的にも精神的にも自由でなければけっして解放されないとし、憎悪と偏見を捨てて、デモクラシーの帰結を考え抜くことが必須であると断言する。これは、現代にもそのまま通用する警告である。
 南北戦争は、奴隷制を否定して黒人奴隷の解放を目指したが、その実現は容易なことではなかった。人権や人道の見地から黒人奴隷の問題を指摘・糾弾することはたやすいが、解放された黒人たちが、生業にありつき、自立を実現することは容易ではなかった。一部の黒人奴隷を除いて奴隷解放を自覚的に望む黒人奴隷はごく少数で、多くの黒人奴隷が南軍に従軍した。1839年のアミスタッド号事件では、奴隷運搬船で暴動を指揮した黒人奴隷サンケは、逃亡に成功してアフリカに帰ると、今度は奴隷貿易商として身を立てた。アフリカのなかでは、部族同志が頻繁に戦い、勝者が敗者を奴隷にすることは、ヨーロッパ人の介入よりはるか以前から常態であった。事情を理解していたリンカーン大統領は、けっして最初から奴隷廃止を主張しなかった。結局、黒人問題は、緩和され改善されてはいるものの、現在にいたるまで解決はしていない。
 黒人奴隷の場合は、白人が形成した社会構造に順応する意志と指向性があった。しかし、インディアンは、白人の社会習慣、文化を全面否定して、けっして同化を望まなかった。その結果、インディアンの多くは白人と戦って殺され、生き残った人たちは手狭な居留地に収容されて生活することになった。人道的・人権的に問題を指摘するのはたやすいが、現実の解決は難しい。もとをたどれば、ほとんどの白人たちは、アジアの一部からヨーロッパに侵入・侵略した人種たちの子孫である。誰がどこに権利があるのか、議論は単純ではない。
 アメリカの西部開拓には、大陸横断鉄道の整備が甚大な貢献をした。しかし巨大な鉄道会社は、一方で賄賂・利益誘導をはじめ、さまざまな悪の張本人でもあった。アメリカの発展には、これら民間の活力と、それを支える膨大な移民、そして奴隷の、いずれも政府外の力の貢献が著しく大きい。
 ヨーロッパも同様なのだろうが、日本と著しくちがうのは、政治・社会・文化の全体にわたって、宗教、具体的にはキリスト教の影響がとても大きいことである。政治理念でも、初等から高等にいたる教育でも、アメリカでは宗教の存在がとても大きいことは、私たちもよく理解しておく必要がある。
 私がこれまで漠然とアメリカについて持っていたイメージが、実に貧しく表面的かつ断片的であったことを思い知った。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第1巻

 アメリカの先史時代から1815年、すなわち独立戦争に次ぐ2回目の対英戦争まで、大統領でいうと、初代ジョージ・ワシントンから第4代ジェームズ・マディソンの途中までの時代である。
 まずこの時代にかんしては、植民地という施策に対する評価について考えさせられる。新大陸たる北アメリカ大陸の現在のアメリカ合衆国の大部分は、イギリスの植民地であった。膨大な面積を持ち、さらに気候条件にも恵まれたため、開拓するべき余地が莫大にあった。
初期の植民地アメリカを経済的に支えたのは、タバコと砂糖であった。イギリスは、同時期のカナダに対するフランスなどよりは相対的に多数の植民者を派遣したが、それでも圧倒的に不足し、周辺ヨーロッパからの移民を歓迎した。それでもなおまったく不足したことが、アフリカから大量の黒人奴隷を導入した理由であった。その事情は、カリブ海や南アメリカでも同様であった。なお、カナダの開発・独立・発展がアメリカに比して遅れたのは、立地環境条件の他に、フランスでは入植に投入できた人口が圧倒的に少なかったのである。
 植民当事者たちの艱難辛苦は、凄まじいものであった。先住民たるインディアンから襲われて命を落としたり、気候異変や虫害による凶作などで餓死したりと、おびただしい屍を数えた。「植民地」と聞くと、植民地主義のこと、その政治倫理的なことしか、われわれ普通の日本人は想定しないが、実際に現地に入植した人々の苦労や業績にも正しい評価をする必要を考えさせられた。
 そしてアメリカが英国から独立するについては、30歳代後半にイギリスからアメリカに渡ったトマス・ペインという卓越した思想家が注目に値する。田舎の職人の子として生まれ、グラマー・スクールに学んだだけで高等教育は受けていないが、アメリカ独立革命と、さらにその後のフランス革命の理論的指導者として、現実の歴史の進展に多大な足跡を残した。もちろんマルクスなどは、その意味でこの人に匹敵するだろう。良し悪しはともかく、このようなレベルの政治思想家は、わが国には現れなかったのではないか。ただ、その「思想」あるいは「思想的プレゼンテーション」が、現実の歴史の進展に大きな影響をもたらす一方で、その思想の中身の独創性や新規性が、後世大きな議論を引き起こすことはなかった。その意味では、思想家というより、ある種のアジテーターだったのだろうか。そういう意味では、わが国明治維新期の吉田松陰などに似た位置づけなのだろうか。直接トマス・ペインの思想の中身に触れていないので、私にはなんとも言えない。
 アメリカ合衆国は、入植以来すでに育み保持していた「自由」を「維持・保持」するために、イギリスに対して独立戦争をしたのであって、新たに自由を求めて独立を望んだのではない、とモリソンは理解する。これは、私には新鮮な解釈であった。そういうアメリカ人からみると、フランス革命が、いかにも胡散臭い危険な暴動に見えたのも当然だったかも知れない。日本には、いまだにフランス革命を自由・平等をもたらした栄光の金科玉条のようにみる人たちが多いが、私はエドマンド・バークやアメリカの政治家たちに賛同する。
 独立したアメリカの議会が、有産者=見識の代表として上院を、無産者=大衆の代表として下院を設計した事実は、注目に値する。現在の日本について考えると、参議院はやはり不要だろう。
 アメリカ創世記のリーダーたちの奮闘を顧みても、政治において、理性的判断のみに傾注することの大いなる危険性(典型的にはマルクス主義)と、経験的判断に依存すること(通常の議会制民主主義)の限界を思う。所詮、現実の政治にすべての国民をいつも満足させることはできないのである。少しでもベターな、よりマシな政治を追求し続けることこそが必要であり、またそれしかないのだろう。
 そして、アメリカの歴史を貫く2つの政治思想の流れが紹介されている。ジェファーソン流民主主義とハミルトン流民主主義である。ジェファーソン流民主主義は、商業・金融およびその基盤たる都市を、腐敗しがちで信用できないものとし、ヨーマン(=自立農)が農村を基盤として主導する共和主義を目指すべきとする。総じて当時のイギリス的な議会制に反発し、初期のフランス革命を支持する。もっともナポレオン以降のフランス革命には断固反対する。州権を重視し、個人権を尊重し、連邦の権限は最小限を是としている。これに対して、ハミルトン流民主主義は、都市の商人・金融界を尊重して経済成長を重視する。州権を制限して連邦権の強化を図る。この2つの流れは、それぞれ変遷しつつも、現代にいたるまで綿々と続いているようである。
 私は、これまでアメリカが独立する以前の歴史について、詳しい叙述を読んだことが無かったので、非常に印象深い読書であった。

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崔 吉城『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』ハート出版

 韓国の文化人類学者が、日韓間で大きな問題として残る「従軍売春婦問題」、いわゆる「慰安婦問題」について、さきの大戦時にビルマ、シンガポールの戦地で、「慰安所」の「帳場人」として働いた朝鮮出身者が記した「日記」を、日韓いずれの立場にも立たずに、真実を探りたいとの意思で研究したものである。
 著者が本書のなかでいうおり、なんらかの主張をするものではなく、該「日記」から読み取れる範囲で、事実をさぐり、その結果をニュートラルに述べている。
 その内容は、慰安所は軍に附属せず、経営は民間、とくにこの日記の場合は朝鮮系の民間人の独立経営で、日本軍の兵隊だけを顧客とし、そのため戦時中でもあり行動や運営において日本軍に強く寄り添うものであったこと、経営者・顧客の日本兵・そして慰安婦の間にとくに隷従・虐待や強制などの緊張的関係はなく、「強制連行」のような事実はみられない、というものである。ただ、内容を売買春とするこのような事業に需要を提供した点において、日本軍の責任がないとは言えない、とする。そして、韓国が性や貞操への倫理で相手を非難することは、韓国自身のことを語ることに繋がり、いつか韓国に戻るブーメランのようなものであり、ただちに中止すべきである、と述べる。
 誠実な学者らしく、該「日記」を読み解く姿勢は真摯であり、内容の信頼性は高いと思われる。
 私は、戦争により不幸な事態が発生したこと、それに対して戦争当事者として当時の日本軍に反省・謝罪すべき点があったことは認めるし、その理解に基づいて日本政府がすでに表明した謝罪と行動は、私も理解できる。しかし朝日新聞が主張し、韓国政府と運動団体が主張する事実無根の内容、そして世界各国に日本非難のモニュメントと事実無根の中傷をまき散らす態度と行動は、普通の日本人に決して許容できる範囲のものではないことを、韓国側がただしく認識しないかぎり、この問題は解決しないであろう。
 私は、かつては子供時代・学生時代の経験で、また社会人になって以降も仕事やプライベートで、韓国人の知人や友人があり、韓国に好感と興味をもち、日韓友好をめざす活動にも積極的に参加した。しかし今では、韓国人の個々にたいして特段の感情をもつものではないが、韓国という国やマスに対しては、いまや嫌悪感以上に、自発的には決して関わりたくないと思っている。私の知る範囲の人々に、同じような人は多いようである。

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小川榮太郎『森友・加計事件』飛鳥新社

 この1年半にわたってわが国の国会運営を大きく占有・妨害した「森友・加計問題」について、何故こんな妙なことになったのか、その事情を知りたいと思っていた。たまたま、昨年末ころ朝日新聞が小川榮太郎氏を、この本をめぐって損害賠償で訴えていたことを知り、この本をぜひ読んでみたいと思ったのがきっかけである。
 内容は、森友・加計問題についての主に朝日新聞、それに追随した毎日新聞などの新聞各社、さらにテレビ局各社の、報道内容と、時間の経過にしたがって判明してきた事実との相応関係について、詳細にフォローして整理・評価したものである。とくに、事実の発生と報道のタイミング、つまり時間的関係について、これまで漫然と私たちが見て知ってきた内容と、かなり大きな矛盾や齟齬が指摘されていて、非常に説得性があり興味深い。
 大部分が「クオリティー・ペーパー」たる朝日新聞が、大量に印刷してばらまいた新聞紙上に掲載された明白な公開記事を逐次引用しての議論であるから、「朝日新聞による報道犯罪」と断言する小川榮太郎氏に朝日新聞が抗議するのであれば、反論はきわめて容易なはずである。ぜひ朝日新聞には、それをやって見せてほしい。
 少し前に、従軍売春婦問題で朝日新聞が、国内向けのみではあるが、一部誤りを自白・訂正・謝罪したことがあった。それを契機に、30年以上も朝日新聞のなかで仕事をしてきた元記者による告発的な批判として長谷川煕『崩壊-朝日新聞』のような本も発刊された。今回の小川榮太郎氏の著作を読んで、こんな報道がわが国で実在することに、率直に驚愕する。この本に書いてあることが事実であれば、小川榮太郎氏がいうとおり、この「事件」は単に安倍打倒・破壊を図ったにとどまらず、わが国民主主義の破壊であり、その基盤たるべき主力言論機関の信頼性の破壊である。朝日新聞はマスメディアである以上、裁判に訴える以上に大切なことは、小川榮太郎氏に堂々と反論して自らの正当性を主張することであり、ぜひ公開反論を実施いただきたい。

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加藤尚武『戦争倫理学』ちくま新書

 生命倫理学者で『20世紀の思想』などの啓蒙書を刊行している加藤尚武氏による2003年発刊の新書である。最近、憲法改正や自衛隊の活動について、国会・メディアなどで論争があり、その内容のあまりに稚拙で無責任なことに辟易していたこともあり、メディアに登場するいかにもヤスモノの「専門家」「知識人」ではなく、ホンモノの専門家の論考を読みたいと思ったのである。
 この本は、アルカーイダが2001年のアメリカWTCビルを民間飛行機で爆破したアメリカ同時多発テロ事件のあと、ブッシュ政権が国連安全保障理事会の制裁決議なしに報復戦争をしかけたことを契機としている。対して1991年の湾岸戦争では、国連安全保障理事会の審議を経て国連の多国籍軍としてイラクに対する戦争が行われていた。戦争肯定のムードが世界に拡大することを懸念した加藤が、何通かのメール・メッセージを世界に発し、それがきっかけとなって出版社から戦争倫理の本を書いてほしいとのオファーがあったという。それに応えて、すでに発表していた7本の論考に加筆してこの新書をまとめた。したがって、この書は複数の元ネタを集めた短い15章で構成されている。
 先ず冒頭で「戦争には正気などありえない、狂気だ」とする小林よしのりを批判して、戦争にも倫理があるとする。そして戦争に対する規制は①戦争目的規制と②戦闘経過規定の異なる2つの要素からなることを述べる。さらに戦争をめぐる3つの立場として①絶対平和主義、②「正義の戦争」などの戦争限定主義、③戦争する権利を国家固有の権利として肯定する無差別主義がある。
 現代の世界を構成する国民国家においては、中世の教皇を戴いていた世界と異なり、国家の上に超越する存在がないため、国家の正義の判断をすることができない、ということが戦争限定主義の限界となる。それを補うものとして、現実には国連憲章における国家間の合意があるが、これには元戦勝国からなる安全保障理事会常任理事国の拒否権が大きな障害となっている。
 カントは「民主主義国は戦争を起こさない」と主張し、カントのあとも思想家の多くがこの考えを支持したが、現実はそうならなかった、と加藤はいう。これは、加藤が現実的な見方をしている証左である。
 東京裁判の正否、日本の戦争責任の有無については、実体法的な根拠がなく、手続き上で証拠能力を欠く裁判であることで日本を有罪にはできないとする。しかし裁判で有罪にできないから日本になんの戦争責任がないということではない、とする。
憲法の戦争放棄条項の問題にかんして、パリ不戦条約の条文の矛盾を指摘し、類似の矛盾が日本国憲法9条と自衛権の間にあることを指摘して、矛盾・不分明を含む憲法条文は改正=是正・訂正する必要がある、とする。
 その他にも、アメリカのイラク攻撃は国連憲章違反であり、現時点での国際条約違反であること、正当防衛の詳しい考察、平和にはそれ自体に大きな意味があること、など論点は多い。
 全体として論旨は明晰で、首肯すべきものが多く、安全保障や防衛、そして憲法改正にかんする問題を考えるうえで基本としてわきまえるべきポイントがいくつも指摘されている。ただ現実の政治として、日本は現時点では安全保障をアメリカの軍事力に依存せざるを得ないこと、現実に北朝鮮や中国という軍事的脅威を抱えているなかで、対策に時間をかけられない場合を想定せざるを得ないこと、などから加藤の具体策にかんする意見に同意しかねる点も残る。とくに「どのような武器の製造も、現在の核兵器管理よりもきびしく監視されるという体制ができるなら、やがてはすべての対人兵器が製造禁止されるという世界になるだろう」という楽観的な考えには、私は現実性をもって首肯しがたい。
 しかしながら、本物の知識人の論考として得ることが多々あり、良書である。

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斎藤精一郎『現代デフレの経済学』PHP新書

 古書店で購入した1998年11月発刊、すなわち20年近く前の本である。30年近く前に斎藤さんの講演を聞く機会があり、明快なわかりやすい話ができる学者だと思っていた。20年以上にわたる長期のデフレからようやく脱出かな、という現状だが、20年前の段階で経済学者がどのように現状認識していたのか、興味があって読んでみることにした。
 1990年代初め、つまり昭和から平成に替わるころから、バブル崩壊後の不況がだんだん深刻化し、1997年度ついに23年ぶりにマイナス成長を記録したが、斎藤が言う通りメディアもエコノミストも経済学者も、「景気後退」「不況」「リセッション」とは言うものの、「デフレ」とは決して言わなかった。当時の橋本龍太郎首相は、97年度の消費税引き上げ断行を「失政」と世評から判断され、挽回のため大型の財政支出を断行したが、景気回復の勢いは失われたままであった。
 斎藤は、1997年のマイナス成長が、23年以前の1974年のオイルショックによるものと基本的に異なるものとして、むしろ70年前の1920年代後半のデフレに対比すべきだとする。それは、10年以上の長期的調整を要すること、ケインズ的需要促進策では効果なくミクロ面の構造調整を必要とすること、その達成のために金融超緩和政策・雇用維持・失業手当など大規模なマクロ政策が必要であることを説いている。デフレは、①実質金融資産を増価させ、②実質債務を増加させ、③物価下落による実質金利の上昇、④マネーサプライの実質的増加をもたらし、⑤消費を先送りさせ、⑥売上減少・収益減をもたらし、⑦コスト競争を激化する。
 ただし、1920年代後半と大きく違う環境要素も存在する。①物価下落が緩慢で相対的に小さく、②輸出価格・輸出額の低下が相対的に小さく、③実質GDP・鉱工業生産指数の落ち込みも小さい。その理由は、①政府の経済介入、②企業のコスト削減・経営合理化・収益力強化能力の増進、③消費者家計の金融資産が昭和初期に比べて大きく拡大して、「デフレのソフト化」が達成されたのである。それでもデフレを放置することは危険である。
 一方、現代は経済のグローバル化と、アメリカ金融界の構造転換による産軍複合体からウォール街=財務省複合体へのプレイヤー交代で、「証券化」により、日本など先進国に退蔵されていたマネーがアメリカ金融界を介して、急成長する振興アジア諸国に流れ込み、新興国の経済成長を促すとともに、世界の一部で発生した経済危機が高速で世界中に感染する状況となった。
 現代のグローバル経済は、1920年代にはなかった①国際協調体制があり、②市場フロンティアがあり、③技術革新が台頭し、④ケインズ理論と政府介入が一般化しており、③情報網による迅速な構造調整が可能となっている。
 デフレから脱却するためには、①実質金利をマイナスにし、かつかなりの長期間それを維持するだけのマネーサプライ増加策を実行して人々に物価上昇の期待を確信させ、②規制緩和など構造改革を断行し、③ケインズ型財政政策を実施し、さらに④当面の最大の癌たる不良債権問題を可及的速やかに解決する必要がある。
 経済の診断と対策に完全な正解はないだろうが、斎藤の経済分析と政策を読むと、民主党政権がまったく経済を理解できず政策を誤って墓穴を掘り続けたこと、現在の安倍政権でかなり取り戻して健闘していること、を10年以上も事前に未来として予言していたとも言える。
 斎藤の解説は、この本でも明確でわかりやすい。こうして整理した議論を知ると、わが国で現在行われている経済政策の意図もよくわかる。20年も前から、これだけの見通しがあったことにいささか感銘を受けた。

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五十嵐敬喜・小川明雄『公共事業をどうするか』岩波新書

 20年余り前の新書であり、近い過去を振り返る視点から読んでみた。
 多数の「無意味な」公共事業の例があげられ、それらを「強行」してきた「政・官・財」の癒着、公共事業と「票」と古い体質の社会構造について説く。
 この本にとりあげられている公共事業の例、「政・官・財」の密接な関係、わが国の社会構造の問題などの事実関係については、さまざまな実例として読むものに参考になることもあるだろう。しかし、この本はまず「公共事業=悪」の大前提で書かれていて、一方的に非難する。しかも評価が多分に感情的であることが大きな欠点である。アメリカの例を引いてわが国の現状を批判するなど、よくある方法で「改革」を説いたりもするが、この部分に限らず全般的に議論の幅がごく狭く、感覚的・感情的で、そのため説得力が弱い。この種の問題を考えるには、もっと多角的に深く考えないと妥当な結論は得られないと、素人の私でさえ思う。
 10年弱以前に、すなわちこの本が出てから10年ほど後に民主党政権が出現し「コンクリートから人へ」をうたい文句に政策をアピールしたが、そのときの軽薄さに通じる欠点がある。

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