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書籍・雑誌

藤井泰則『杉本伝』デザインエッグ(株)

自前プール造成・クロール改良そして「水泳日本」の先駆者
 杉本伝(すぎもとつたえ)は、明治23年(1890)大阪市北区に生まれた。
 明治36年(1903)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高校)に入学、第9回生として卒業すると日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進み、明治44年(1911)卒業とともに母校の茨木中学校に体育教員として就職した。昭和14年(1939)茨木中学校を退任するまで、28年間の教諭生活を茨木中学校で全うした。
 茨木中学校着任の2年後に、大阪府知事から中学校で夏季水泳の訓練を必修にせよ、との訓令を受けたことが契機となり、生徒を動員して水泳訓練のための人工池を造成することを発案し、46日間の生徒の労力により、茨木川の河水を引き込んで、川の近くに長さ30メートル、幅18メートルの砂利敷の人口池を実現した。しかし、濁りが激しく不潔でもあり、そのままでは無理と判断した。Photo_20250625060001
 2年後の大正4年(1915)大正天皇即位の御大典記念事業として、校長は水泳池を造り直して本格的な水泳場とすることを同意・決断し、杉本の指導の下、校庭内に半年にわたるまたも生徒の労働奉仕によって、水泳場の造成が行われた。長さ42メートル、幅27メートル、深さ1.2~1.8メートルの、ひとまず立派な教育用の水泳場が完成した。
 この間、杉本は他府県の中学、高校、大学などの水泳教育についても研究を進め、全校皆泳を実現し、さらにスポーツとして他校との競技会に勝つために、水泳の教育法と泳法の改良の研究を蓄積していった。
 他校さらに世界と共通の基準で競技するために、水泳場を規格に準拠したプールへと改造することが必要であった。大正8年(1819)には、ついに規格に準拠した50メートルのプールを実現し、計測した記録を国際基準記録として認められるようになった。
 杉本はこのころに、泳法の改良を進め、日本の伝統的泳法ではなく、より合理的なクロールの導入と改良を進め、生徒とともに泳法に磨きをかけ、当時の中学生の水準をはるかに凌駕し高等学校生にも勝るレベルを実現した。大正9年(1920)東京帝国大学主催の全国競泳大会に参加した茨木中学校の競泳選手は、驚くべきことに多くの競技種目で高校生、大学生をはるかに凌駕して、総合優勝を獲得した。こうして大阪府立茨木中学校は、全国的にもトップクラスの水泳強豪校となった。
 杉本は、水泳の教育と訓練に必要かつ有効なプールの整備と、合理的な先進的泳法を研究し、大きな成果を達成したのであった。なにごとにも合理的かつ着実に取り組み、確実な成果を達成した。同様なアプローチで、水泳の飛び込み競技にも水球にも取り組んで、大きな成果を獲得していった。
 杉本は、こうして茨木中学校を水泳王国にするのみでなく、この後日本全国の学校でのプールの普及、泳法の改良に尽力し、わが国水泳のレベルアップに大いに貢献していった。
 典型的な成果が、昭和7年(1932)ロサンゼルス・オリンピックであった。日本は競泳男子22名、女子6名、水球9名の選手が参加し、5個の金メダル、5個の銀メダル、2個の銅メダルを獲得した。一躍「水泳日本」の名を、世界に轟かせたのであった。
 さきの大戦の最中、昭和14年(1939)杉本は51歳にして茨木中学校を退任した。戦後は、天理短期大学教授として、やはり水泳の指導をした。
 茨木高校同窓会の事務に携わった藤井泰則氏が、日本の水泳教育・水泳競技に多面的に大きな貢献をした杉本伝についての伝記がこれまで全くなくて、ほとんどその名も知られることがなかったことを知った。それが、この本を書く動機となったという。
 私自身、この茨木高校の出身者ではあるが、杉本伝については、これまでほとんど知らなかった。同窓生の大先輩だから、というわけでなく、ひろく尊敬すべきひとりのパイオニアとして、その人となりや経歴をより深く知るに値すると、興味深く読むことができた。

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河村小百合・藤井亮二『持続不可能な財政』講談社現代新書

借りたカネは返すのが当たり前との経済理論
 日本総合研究所のベテランエコノミストによる日本の財政政策、とくに国債の問題についての論考を読んだ。Photo_20250608060001
 欧米では政府から独立した「独立財政機関」たとえばアメリカではCBO: Congressional Budget Office(議会予算局)が国家のネット債務残高の見込みを提出するが、日本は内閣府がやるので甘々の見通しが発表される。このため、国民に危機意識が高まらない、というのがこの著者の警告ポイントである。
 以下、先ずこの本が述べる内容を要約する。

第1部は、このままではどうなってしまうのかを解説している。
 日銀の金融政策が国民の危機意識の不足を誘発した。極端な低金利を継続したために、国債の利払い費が増えなかったことが大きな誘因であった。そして国内の取引の金利は、国債の金利が基準となるのである。
 日本は国債の5割を日銀が引き受け、市場にでないため、市場メカニズムが機能しない。このため国債の金利は低いまま維持された。しかしこれはインフレが無い場合のみ持続可能なのである。インフレを抑制するためには政策金利を上げる必要があるからである。
 長らく続く低金利は、激しい円安を発生してきた。これは、国内で評価する企業業績を押し上げた。しかしいまのままでは、インフレが続くとともに外国に対して為替の円安が激しくなってしまう。日銀が金利を引き上げないから、インフレを抑制できない。このため、原状はさらにインフレ要因による円安も進んでいる。
 この対策としては、財政赤字と債務超過を免れるため、国債の売却と金利を上げることが必要となる。しかし日銀が政策金利を上げれば、日銀=中央銀行が債務超過に転落してしまうため、つまるところ大増税と歳出カットが必要である。
 2025年度時点の国債発行額は172兆円で、一般会計税収の2.2年分に相当している。

第2部では、行き詰まりを回避するためにどの程度の改善策が必要かについて述べられている。
 基礎的財政収支(プライマリーバランス)と政府債務残高の今後の推移見込みが、内閣府財政試算の見込みではとても楽観的だが、同じ対象のOECD経済サーベイの試算でははるかに悲観的である。
 OECD経済サーベイでは、消費税20%までの引き上げ、年金受給年齢先送りなど厳しい条件を追加したうえでも、見通しははるかに悲観的である。この大きな乖離の要因は3つ、
①内閣府の名目経済成長率の見込みが甘すぎる。特段の対策なしに自然に高成長するとの見込みである。
②その根拠のない名目経済成長率が、金利を上回ることを希望的に見込んでいる。
③金利とインフレの関係の矛盾。金利は常に物価上昇率より高いのが当たり前のはずで、内閣府の見込みたる低い金利は非現実的である。利払い費はもっと大きくて、基礎的財政収支をもっと厳しく悪化させるはず。
 中長期経済成長率は、ヒト(労働量)+カネ(資本投資量)+技術革新力(全要素生産性=TEP: Total Factor Productive)で決まる。人口減少が進み、財政が悪化し、技術開発の国際競争力が低迷傾向にある日本は、いずれの要因も非常に厳しいのが実情である。
 内閣府と財務省とで、今後の利払い費の見込みが、不思議にも毎年5~8兆円もの乖離がある。このような不自然な利払い費の過小評価が日本の財政健全度への疑惑となり、自由経済の国際市場において円が異常に低下する危険性すらあることを指摘したい。
 異常なまでに巨大な日本の債務残高だが、日本の場合は国内で貸し付けられていることがギリシアとは違う。それでも最近のコロナ対策の国債は、引き受け手がいないために長期国債とできず短期国債であったのが現実であることを忘れてはならない。高度成長時は、物価、給与、生産コストのすべてが上昇していた。それは歳出の増加を必然とするが、税収増で賄われていた。現状においては、国民生活を護るためにはインフレにあわせた歳出増は必須だが税収は低成長のため追いつかず、高度成長時と同じような財政再建は不可能である。同様に、インフレ時の財政増加を無視した「インフレで財政破綻が回避できる」も同様に不可能である。
 財政再建のためには、利払い費と債務償還費(定期的に毎年1/60ずつ返済分)が必須で、プライマリーバランスのみではまったく足りないことを強調したい。
 以上の結論として、国債の増加を止めるのみでなく少しずつでも確実に減らし、これまで積みあがった利払いも必要なので、プライマリーバランス達成などという甘いことでなく、具体的には最低限でも毎年30兆円規模の財政改善(一般会計115兆円の三分の一)が必要である。

第3部では、必要な財政改善実現のためには聖域なき歳出削減が必須であり、そのなかからとくに社会保障と地方財政の問題を論じている。
 社会保障費は年金62兆円、医療43兆円、介護14兆円、その他19兆円の138兆円になる。そのうち保険料(53%が個人、47%が事業主負担)が80兆円、国庫負担(税と国債)が38兆円、地方税が17兆円である。
 医療費は、1978年に8兆円であったのが40年余り経過した2021年には42兆円にまで増加している。その背景は、長寿高齢化、医療高度化などで不可避の要因によると思われる。
 医療費の負担状況は、当事者の自己負担分6.1兆円、公的医療給付費13.7兆円、保険料22兆円、公費14兆円である。医療費の半分は医師・看護師の人件費が占めている。
 2025年、815万人の要介護者がいるが2040年には1000万人へ増加が見込まれている。
 年金受給者へは、国民年金6.8万円/月、厚生年金11.5万円/月が平均で支給されるが、これのみでは生活困難だろう。
 昭和時代の夫=サラリーマン、妻=主婦を前提として成立していた第3号被保険者制度が、共働きの増加、結婚への柔軟対応化(非婚パートナーなど)など、もはや実態から乖離してきて、新たな不公平感が増加しつつある。
 地方財政は、その地方自治体内で自足するのではなく、地方交付税制度で、一般会計115兆円のうち19兆円(総額の1/6)が国から支給されている。税収では国税:地方税=63:37なのに対して、歳出では国:地方=44:56となっている。地方交付税、国庫支出金、地方贈与税で国から地方へ供与しているのである。
 国庫支出金は、受取側自治体の財政力に関係なく医療・介護、健保、義務教育などに目的別に支給される。
 地方交付税は、財政力の弱い自治体へ使途指定なしに(実態はブラックボックス)支給される。ただ東京都のみ圧倒的地方税収をもつため国からの支給は無い。地方交付税制度は、国の税収が足りず国債に依存(数十兆円)せざるを得ず、事実上破綻状態というのが実情である。

第4部では、日本の税制は平等・公正なのか否かが論じられる。
 2024年度一般会計予算の歳入は112.6兆円。うち税収が70兆円(60%)、公債金が35兆円(30%)である。税は、所得税、法人税、消費税の基幹三税が8割をしめている。
 しかし税には抜け道がある。租税特別措置(特別に免税する、2兆円以上)が環境問題対策費用(二酸化炭素削減など)、研究開発費、中小企業活性化、賃上げ促進、などに適用されているが、既得権益化している。
 金融所得への税率が一律20.315%と庶民の給与所得税率より低いことから、実態として金融所得比率の高い1億円以上の高所得者への税率が低くなる、いわゆる「1億円の壁」が発生している。
 その他、宗教法人無課税の妥当性の検証、開業医は税制が優遇されている、高齢者は金融資産で優位でかつ収入比率で増加傾向にある、などの問題点がある。

第5部では、改革の具体的な選択肢について問題提起がある。
 金利を上げれば日銀は赤字となり債務超過に転落するので、日銀は金利を上げられない。しかし低金利が続くと日本国の経済的信用が大幅に低下する。すべては日銀が国債を過大に買い入れたためである。
 欧米の中央銀行は、利上げして赤字・債務超過になったが、利上げと並行して国債を手放して中央銀行の資産規模を縮小し、赤字・債務超過克服の目処を立てている。こうして苦労しながらも信用を回復している。
 わが国では、国債の利払い費が今後の最大の鍵となっている。
つまるところ、国民(個人、企業)、政府の日本の構成員すべてが痛みを分け合って、真剣に財政再建を開始し、かつその努力を継続しなければ、日本が国家として破綻することになる、と警鐘を鳴らしている。

 以上のように、現在の日本の財政運営について、財源と歳出と負債の実情、そしてその中身の問題について、具体的なデータを詳細に提示したうえでの議論が、民間の経済専門家の意見として展開されている。
 国債の利払いの財源確保と債務縮小の必要性にかんしては、この本の著者のように、本来の貸借関係と同様に返済すべきとの正論としての議論がある一方で、古くは亀井静香元議員など、外国ではなく国内から借用する限りでは本質的に問題はない、とする議論が根強く存在して、経済学の門外漢たる私には正しく判断する自信がいまのところないのが実情である。
 日本の歴史においても、徳政令や大名貸しの一方的清算など、品が良いとは言えない道徳的でない強引な対処法も多々存在していた。アメリカでも、MMT: Modern Monetary Theory(現代貨幣理論)が提唱され、民主党リベラル派A.O.コルテス下院議員は、世界中から米ドルが欲しがられている以上、財政はドル紙幣を刷れば解決する、とトランプ大統領も驚くような大胆な発言をしている。
 それにしても、国債、すなわち政府の債務が無制限に拡大してもなにも問題が無い、というのも極端な議論だと思う。どこまでが許容範囲かの判断基準が、私にはわからない。
 さらに、低い金利がより激しい円安を招来する危険性もあり、そうなるとすでに懸念がある外国人による日本の不動産、とくに土地の買い上げの拡大を深刻に心配しなければならない。
 折しも現在、日本でも野党中心に「減税」が盛んに叫ばれている。この本の著者が言うとおり、最近の政治家は国債の問題をはじめからスルーしたまま、あまりにも安易に減税を主張しているのは事実だろう。私は市井の一老人に過ぎないが、少なくとも政治家はこの財政・税収の問題に対して、自分なりのきちんとした見解を表明して欲しい。
 ともかく、日本の財政の実情とその問題点についての詳細で丁寧な論述であり、この分野に疎い私には、大いに勉強になった。

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木村健『アメリカで医者をやるにはわけがある』

多元性のなか自由を重視するアメリカと均質な世間で協調を重視する日本
 約30年前に出版された本である。著者は、アメリカの現場の第一線で活躍しながらアメリカに永住するつもりで、実体験に基づいてアメリカと日本の違いについて考察し、文化エッセイを記しているので、とても具体的で迫力があり、説得力がある。
 極端に単純化してまとめるならば、世間のなかの個人を大事にする日本人と、個人の自由を生活の本質とするアメリカ人との相違と葛藤ということになろう。当然両者の間には、かなりの相違があるが、その要因には、歴史的に同胞で社会を形成してきた日本と、多様な地域から来た民族が混じり合って社会を形成してきたアメリカとの違い、という枠組みがある。
 著者の専門領域である医療については、アメリカの自由優先の医療システムに優れた側面はあるが、日本の医療皆保険にもとづく患者負担を抑えた医療システムにも優れた側面がある。それでも著者が指摘するように、たしかに日本の現状はあまりに窮屈すぎるという欠点はあるのだろう。人口減少による生産年齢人口の減少、高齢化による医療総需要の増加、医療科学や医療機器の高度化にともなう医療コストの増加があり、原状のままでは医療サービス側でも、それを支える経済側でも医療システムの存続は困難になる。日本の厚生労働省の役人が悪いというだけでも埒が明かないものの、冷静な世論形成と政治の対応は必須である。Photo_20250508060901
 ひとつだけ、私の個人的感想と距離があるのは、日本人のアメリカ駐在者およびその家族の状況は、1980-90年代には、著者が具体的に指摘するような日本流にへばりついたものよりは、すでにもっと柔軟になっていたと理解している。ただ一部の、専ら在米の日本人を相手に仕事する業種などでは、言葉のみにとどまらず日本の社会習慣や文化をそのままアメリカに持ち込んで暮らす人たちがいたことは事実である。ただ、著者の立場も同様だと思うが、日本人駐在者が少数派として圧倒的多数のアメリカ人のなかで研究なり製造なり、緊密に協力して仕事せざるを得ない場合には、当時でさえ日本人はもっとアメリカをそれなりに理解し、親和的であったと思うのである。
 この本が出版されてから、すでに四半世紀以上が経過している。アメリカと日本の、為替水準も経済的立場も大きく変わった。それでも、相互にかけがえのない重要な位置を占める関係であることに変わりはない。
 均質な文化にもとづく日本にとって、元来から多元的な文化で発展・蓄積してきたアメリカには、いろいろな問題に対処するにおいて学ぶべきことも多い。さらに日本・アメリカという問題にかかわらず、この著者が自ら実践しているように、仕事は頑張るものではなく、たのしむものだということなども大事なことである。私たち市井の日本人が、この本から学ぶべきことは多い。

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『安倍晋三回顧録』中央公論新社(下)

3.読後の感想について
 安倍晋三氏は、通算3,188日、8年8か月の長きにわたって首相を勤め、令和2年(2020)9月退任し、それから2年弱経った令和4年(2022)7月突然凶弾に倒れた。この間の事績を本人に語ってもらった本を読んでみると、知らなかったこと、キーワードのみ聞きかじってはいたが内容はほとんど知らなかったことが沢山あった。もっとも私自身がさほど政治に詳しくないことが大きな要因だろうが、新聞やテレビなどマスコミが政権の瑕疵や疑惑問題はなんども執拗に報道するのに、政治の本筋のところ、ほんとうは大事なところは事実の一部しか報道していない、ということもある。とくに外交や軍事にかかわること、外国の政治状況にかんすることついては、とりわけ情報が少ないうえに、精粗や偏りが大きいと思う。
 そして史上最長の政権を担ったのだから関わった案件が当然多いということもあるだろうが、安倍氏が関わってきた政治案件、成し遂げたことが、思っていたよりずっと広範囲で大きいことに改めて感銘を受けた。さらにそのかなりの課題が、国論を二分するような、すなわち反対勢力も多いようなものであったことは注目に値する。したがって、政権運営はいつも困難を極めたし、いつも反発も強かった。それにも関連するのだろうが、本来の政治案件ではない、さまざまな不要なトラブルに揺さぶられ妨げられ続けた政権でもあった。
 そのような厳しい状況下で8年8か月にわたって、ともかく奮闘を続けてきた安倍氏の特徴として、いくつかを取り上げることができる。
 まず、安倍氏の政治の基本的な方向性、思考軸の安定性である。安倍氏は、広く知られまた自らも自覚する政治的保守派であった。それゆえに、朝日新聞をはじめとする進歩的勢力、ひらたく言えば左翼的勢力からは目の敵にされた。
 しかしこの本を読んでよくわかったが、安倍氏は冷徹なリアリストであった。判断と行動において柔軟性に富んでいた。それは多くのいわゆる右翼とは明らかに違う面である。
 外交における中国、ロシア、イランなどとの関わり方、習近平、プーチン、ハメネイなどの権威主義国家の指導者たちとの関係構築は、まさに戦略的であり、政治的であった。憲法改正や靖国参拝などについても、いわゆる右翼たちの期待からみると、距離があるのもその故である。
 民主主義国家の政治家である以上、選挙は大切である。姑息な行動で選挙に勝ち続けることはできない。有権者に伝えるべきことは徹底して発信し、信念あるリアリストとして行動した。
一流の政治家として、自分の政治に対する姿勢・方向性にブレがないのは当然であろう。とくに野党のリーダーたちには、ブレの有無以前に、そもそもいったいなにを目指しているのかが具体的にわからない人物が多いのとは、まさに対象的である。
 そうした戦略面に加えて、戦術面でも多くの工夫と努力があった。
 国会がない日には、できるだけ秘書官や官邸詰めの参事官らと昼食をともにし、政治にかかわらずさまざまな雑談をして、みんなで一体となってがんばろうという雰囲気ができていったという。
外国のリーダーたちに対する見方や理解と、それにもとづく人間関係の構築についてもこの本で縷々触れられているが、おそらく的確なのだろうと思われる。
 それにしても改めて考えてみると、日本憲政史上最長の政権と言っても、下野の期間をはさんで通算で8年8か月、連続した政権としては第二次から第四次までの7年9か月である。アメリカ大統領は任期4年で2期勤める大統領が多いが、すでに8年である。途中の選挙も、アメリカは中間選挙が4年の任期中に1回あるのに対して、日本では最長でも4年毎の衆議院選挙に加えて、3年毎に参議院選挙があって、全体として選挙の頻度、すなわち政権の主導権が脅かされるチャンスがやはり多くなる。安倍首相の第二次から第四次までの連続政権の7年9か月に、衆議院選挙3回、参議院選挙4回の計7回の選挙に勝ち続けることが必要であった。
 そして他の制度的要因もあろうが、日本の首相に比べてアメリカの大統領は、ごく最近のトランプ大統領の自由奔放で強引なふるまいにもみられるように、実質的な自由度と権限が大きいという差異があるように思われる。日本のように、行政官僚が政府に有形無形に隠然たる介入をするということも、アメリカでは多くなさそうである。
 そのような要因から、わが国の首相は常に選挙対策を前提に政治を進めることが求められている。念願の憲法改正がなかなか実現できない理由に、議員の3分の2以上の合意と国民投票が改正に必要という「硬性憲法」の規定の他に、これらの要因がある。
 欧米の政治指導者たち、さらには政権中枢に関わった官僚たちまでもが、大統領や首相を辞めるあるいは官僚の職務を辞すと、時を経ずに回顧録を発刊するのが通例である。市井の国民のひとりに過ぎない私にとっても、それらの政権の当事者、あるいは側近やブレーンとして政権に直接・主体的に責任ある当事者として関わった人たちによる著作は、学者や評論家あるいはジャーナリストたちの無責任な論評とはまったく異なる重みや学びがあって興味深く読んでいる。しかしわが国の場合は、そのような著作が極端に少ない。したがって、本書のようにインタビューを記録したものであっても、貴重な書物として大きな関心をもって読んだのであった。
 まして政治家であれば、そのような書物は徹底して批判的に読むとしても、学ぶべき貴重なケーススタディの教科書となるはずである。そんな書物が少ないのが、わが国の政治家のハンディキャップのひとつなのかも知れない。
 巻末の謝辞で、著者の橋本五郎と尾山宏は、「1年間18回、のべ36時間にわたる長いインタビューで、御用聞き質問は極力避けて、多くの国民が疑問に思うこと、批判することなどをできるだけ率直・直截に聴いた。当然安倍首相としてはムッとするような質問も多かったが、結果として安倍氏は誠実に対応してくれた。北村滋国家安全保障局長は内閣の膨大な資料の提供、事前の安倍氏との打ち合わせ、インタビューのすべてで支援してくれた。事後の原稿チェック、掲載写真の選定もしてくれた。」と補記している。
 それでも自伝的な書であるかぎり、程度の差異はあっても、どうしても我田引水の要素、自己正当化の側面はあるのだろう。そうであっても、本人が当事者として語る内容は、詳細であり正味であり、事後となった今ではかなりの範囲がなんらかの記録を通じて検証可能である。
 とくに政治家・学者・ジャーナリストで安倍政権に批判的、あるいは批判的でありたい立場の人たちは、ぜひまじめにこの書物の内容を検証して、瑕疵、間違いを指摘し、具体的な反論を実行して公表して欲しい。それは、私たち門外漢の市井の民にも、とても勉強になるので大いに歓迎したい。

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J.D. Vance ”Hillbilly Elegy”

貧困を救い得るのは身近な人間たる家族・コミュニティとアイデンティティーである
 今年は年初から、アメリカでトランプ氏が大統領に復帰して大きな話題となっているが、トランプ政権の副大統領に就任したJ.D. Vanceが、10年ほど前、まだ政治にまったく従事していなかったころに自伝を出版していて、アメリカでベストセラーとなっていることを知り、読んでみることにした。

1.J.D. Vanceの生い立ちと親族
 J.D. Vance(ジェームズ・デイヴィッド・ヴァンス)は、1984年アメリカ合衆国オハイオ州の、シンシナティとデイトンの間にある小さな町Middletownに誕生した。母は十代に妊娠して姉を生み、ジェームズの幼少期に離婚し、その後次々に何人もの男と一緒に暮らしては別れる不安定な生活であった。母は彼女なりに息子を愛したが、重度の薬物中毒に蝕まれて感情が不安定で、昼夜構わず大声で喚くことはしばしばであった。母との生活は安定せず、落ち着いた日常生活ができなかった。それでも幼いながらもジェームズは、次々に入れ替わる母の男たちと、できるだけ良い関係をつくろうと試みた。まだ少年のころ、憤って興奮した母に、突然無理やり車に乗せられ無理心中させられそうになった事件は、ジェームズの心に苦い思い出としてずっと残り、母との関係に暗い影を落とした。Hillbilly-elegy
 ジェームズにとって、真に親らしい存在は、母の両親つまり母方の祖父母であった。
 祖母は、12歳のとき侮辱しようとした男に対して銃殺を試み、すんでのところを止められた。信仰が深く思慮もあり、ジェームズに慈愛を惜しまなかったが、激しい性格の人であった。
 祖父は、十代で妊娠した祖母をともなってケンタッキー州の小さな町Jacksonから、当時重工業地帯として繁栄していたオハイオ州Middletownに出てきたのであった。大企業たる製鉄会社アームコArmcoに勤務して、堅実な生活を獲得した。しかしやがてMiddletownは、大企業が相次いで撤退して「ラストベルト」と呼ばれる寂れた町に変貌していった。
 祖父母が生まれたケンタッキー州Jacksonは、アパラチア山脈南西部のちいさな町で、Hillbilly(山の田舎者)と呼ばれるScots-Irishの移民の子孫が多数集まっている地域である。全般に教育水準は低く、頑固で荒々しい白人貧民層とみなされている。祖父も、実直でよく働いたが、アルコール中毒で祖母との喧嘩が絶えず、その荒れた生活が娘たるジェームズの母にも影響したと祖父母は考え、責任を感じていた。
 祖父母は、孫のジェームズに惜しみなく深い愛情を注ぎ、さまざまな面から彼を助けたり導いたりしたことが、いくつも具体的に記述されている。ジェームズは、祖父母のいたケンタッキー州Jacksonこそが、自分の心の故郷だと言う。
 喧騒と不安の絶えない少年期を経て、ジェームズは地元のMiddletown Highschoolに進んだ。落ち着いて勉学に励む環境にはなく、遅刻や欠席も多く、落第に近い成績となるなど、なんども学生生活中断の危機があったが、なんとか乗り越えた。このころ、祖父母のアドバイスにより地元のスーパーマーケットでレジのアルバイトをした。そこで、貧しい人たちは生鮮食料品より加工済みの惣菜を買い、また赤ん坊には粉ミルクを買うが、それに対して金銭的に余裕のある人たちは自炊するので生鮮食料品を買い、また母乳で育てるらしく粉ミルクを買わない、という著しい違いがあることを観察した。貧しい人たちは、たいていフードスタンプ(貧困層のための政府の食糧支援制度)で商品を買うが、ジャンクフードの消費が目立って多いことも知った。これら白人貧困層の人たちと貧困層でない人たちとの間に、生活、習慣、感覚の大きな違いをはっきり知り、考え込むようになった。
 高校を卒業して大学に進学したいと思ったが、学費も生活費も生活環境も到底それが許されるような状況にはなかった。祖父も従軍経験があり、自分も愛国心があったので、とくに希望が強かったわけではなかったが海兵隊に入隊することにした。
 ジェームズは、海兵隊での4年間に、厳しい訓練とイラクへの戦場派遣を経験した。
 イラク従軍中に戦場で、引っ込み思案のイラク人の男の子にふと遭遇した。2セントの消しゴムをわたしてやると、男の子はそれを「意気揚々と掲げながら、家族のもとへ走っていった」。ジェームズは「私はそれまでずっと、世の中に対して恨みを抱いていた。しかしその男の子と遭遇して、自分がどれだけ幸運なのかを実感した。誰かが消しゴムをくれたら、にっこり笑う、そんな人間になろうとこの瞬間に誓った」と述懐している。
彼は4年間の海兵隊での経験で、体力の向上と健康維持に必要なことをしっかり学ぶとともに、みずから努力して目標を達成したことで自信を獲得した。かろうじて金銭的目処も得て、オハイオ州立大学に進学することができた。彼の親族の中では、はじめての大学進学者となった。
 また、在学中にアルバイトとして共和党上院議員Bob Schulerのもとで働く機会があった。ジェームズは政治家としてのBob Schulerを信頼・尊敬し、それまでの政治家と政治に対する見方が、がらりと変わったと述懐している。この本を書いた時点では、ジェームズはまだ政治に直接関係する仕事には就いていなかったようなので、この経験が後の上院議員、副大統領というキャリアに直接つながったのではないようだが、結果的には遠因だったのかも知れない。
 海兵隊の経験を経てかなりの自信を持つようになったジェームズは、優等生の評価を得て飛び級でオハイオ州立大学を卒業した。
 そして全米で最高峰のイエール大学ロースクールに入学を認められた。学費はとても高額であったが、ここにはきわめて行き届いた奨学金制度があって、その点では問題なく学ぶチャンスを得た。しかしジェームズは、イエールではこれまで経験しなかった大きなストレスを経験した。イエールで学ぶ学生は、学力が最高レベルであるのみならず、出自の環境がジェームズとはまったく違うのである。ジェームズは、おそらく経済的最下層からのほとんど唯一の学生であった。学問を学ぶという面ではついて行けても、生活習慣、価値観などで大きな違和感を持ちながらの学生生活であつた。
 しかし、良い先生たちとのめぐり逢いがあった。彼にこの自伝を書くことを推奨してくれた指導教官エイミー・チュア教授がそのひとりである。また、後に妻となる素晴らしい恋人、同級生だったウシャ・チルクリUsha Bala Chilukuriとの運命的な出会いがあった。こうして結果的には大成功の学生生活を送ることができた。
 かなり壮絶な半生であったが、ともかく成功といえる結果を得たのだ。この本を書いた時点は、まだ上院議員になる以前であったので、主要なことは以上である。

2.Hillbillyと白人貧困層
 J.D. Vanceの出自はHillbillyである。Hillbillyは、17世紀以降19世紀までにわたって、アイルランド北東部のUlster地方からアメリカに移民してきたScots-Irish(スコッチ・アイリッシュ)と呼ばれる人たちである。そのうち、アパラチア山脈南西部のケンタッキー州近辺にかなりの人たちが集住して、それがHillbillyと呼ばれるようになったのである。
 Hillbillyは、彼らの伝統的特徴を自覚し、誇りをもってそれを維持している。キリスト教の敬虔な信者であり、政治的には保守的で、家族を愛し、コミュニティを尊重し、世界でもっとも強力なアメリカの国民であることに誇りを持ち、愛国心が強い。ハードワークに耐え、頑固に努力する。
 しかしその反面で、大部分の人たちが高度な教育を受けておらず、貧困であり、離婚が異常なまでに多い。
 ハードワークの尊重をエトスとすると唱えつつ、現実には実行できないこともあり、アルコール依存あるいは薬物依存が蔓延しているという現実がある。J.D. Vanceの認識としては、アメリカに住んでいる黒人、ヒスパニックなどのいわゆる被差別層を上回るほどに、貧困層の比率が高い。それにもかかわらず、自分がHillbillyであるとのアイデンティティーの意識は強く、そのプライドはとても高い。
 アメリカには黒人などの非差別階層などに限らず、根強くこのような貧困層が存在する。それに対して、広範囲にわたるフードスタンプなどの政府による大規模の支援制度が存在しているが、そのような経済的措置は、大きな恩恵を与える半面で、Welfare Queenウエルフェア・クイーンなどとも呼ばれる「福祉依存」に陥って自立への意欲を喪失してしまう慢性的貧困層も現実に多数存在している。救済のための制度が、実は貧困層を定着させてしまう現実があるのだ。
 J.D. Vanceは、結局ヒトを救うことはヒトにしかできない、と断言する。彼自身の場合は、祖父母こそがかけがえのない救済者であった。彼が経済的なことも含めあらゆる困難に遭遇したとき、祖父母がさまざまな形で彼を救済してくれた、とジェームズはなんども述べている。
 救済する主体が存在できるのは、家族(ここでは血縁者・親族・同居者などを含む広義の家族をいう)、共同体などの濃密な人間関係の存在と機能の結果である。それを支えるものとして、宗教も慣習も重要な貢献をする。これらはアイデンティティーに支えられているので、けっしてアメリカ人一般に及ぶようなものではない。J.D. Vanceの場合は、Hillbillyであり、それはHillbillyの外の人びとには無縁である。それでもHillbillyの人びとにとっては、Hillbillyのアイデンティティーこそが、なにものにも代えがたく重要だとするのである。

3.私の感想とコメント
 この本はJ.D. Vanceの自伝なので、当然さまざまな事象が綿々と綴られていて、その内容は多岐にわたる。そのなかで私が注目したのは、J.D. Vanceが貧困で崩壊した家庭環境の当事者として成長したこと、そこから彼がいかにして脱し得たのか、そしてその彼が社会や政治をどのようにとらえているのか、である。
 アメリカの貧困層の存在については、ルポルタージュでは堤美果『貧困大国アメリカ』のシリーズがあり、堤は権力を掌握する少数の政府・大企業・マスコミが結託して多数の民衆から収奪し、多数の貧困を発生していると糾弾している。この堤の論考に対しては、アメリカ国内でも日本でも、取材と考察に偏向があるとの指摘もあるが、アメリカ国内にかなりの数の貧困層が存在することは事実らしい。そういえば、貧困層の実像の一端を表わすものとして、クリントイーストウッドの映画『ミリオンダラー・ベイビー』があった。政府のフードスタンプに依存して自立する意欲を失い貧困から抜け出せない人たちが、主人公の家族として描かれていた。
 経済学者の視点からは、半世紀前にJohn Kenneth Galbraith, ”The Nature of Mass Poverty”が、ガルブレイス自身のインド・アフリカ諸国での勤務経験から、貧困脱却の困難さの要因として、貧困者が生き延びるために貧困に順応してしまうことを指摘していた。ノーベル賞を受賞したAmartya Sen(アマルティア・セン)は、『貧困の克服 ―アジア発展の鍵は何か』で、貧困問題の解決のために、教育、医療、民主主義と人間の安全保障(Human Security)、弱者の救済、潜在能力(capability)の尊重と育成、市民的自由(権力からの自由)、寛容、などの要因が重要であると述べる。
 これらはそれぞれ視点と考察が異なるものの、いずれも外部からの観察にもとづくものであり、客観的・普遍的真理を求めようとするものであり、結果として抽象的で、解決への有効な具体的アクションに乏しい。ただ、貧困はカネの不足が露呈しているものの、貧困問題はカネだけで解決できないことは縷々議論されている。
対してこのJ.D. Vanceの著作は、貧困の当事者による論考である点で、希少かつ貴重なものであり、非常に具体的な内容を持つ指摘および提案となっている。
 J.D. Vanceは、政府や諸団体など外部からの貧困者への支援は、もちろん重要ではあるものの、決定的なものとは決してならない、と断言する。貧困な人間を救済できるのは結局人間しかなく、そのためには家族・コミュニティ(共同体)の人間関係に基づく愛情を基礎とする対応が必須で、それを支えるものが宗教であり、郷土愛であり、愛国心であり、その自覚がアイデンティティーとなる。それは、普遍的に誰でもが共有できる価値観に一致するとは限らない。
 J.D. Vanceが言う通り、これらは当事者の属する生活の「文化」と言える。それはデイヴィッド・ランデス『強国論』(David.S.Landes, "The Wealth and Poverty of Nations")に述べられていた「経済的成功のための文化の重要性」に通ずるものである。
 こうした「文化」を育成し維持するために、J.D. Vanceはいわゆる「保守」主義者となった。そういう観点からは、現在のとくにわが国の「そんなのは古い」「今はそんな時代ではない」「多様性がなにより大事だ」「西欧に比べてあまりに遅れている」「国連から改革を求められている」などの安易で軽薄な進歩派的なあるいはアンチ保守的な言葉の蔓延や風潮は、要注意である。一部のマスコミが煽る「保守=守旧的・頑迷」「保守=右翼」「保守=好戦的」などという馬鹿げた風潮に惑わされることなく、私たちの生活文化を冷静にみつめて、そのよりよい維持と育成に努め続けなければならない、と私は思う。

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櫻井武『SF脳とリアル脳』講談社ブルーバックス

脳生理学とAIの現状と展望の分かりやすい解説
 この本により、人間の脳の生理学も、近年ずいぶん進歩していることがわかった。主な内容は以下である。
 ヒトの脳は、実はかなり小さな容量の作業記憶機能(ワーキングメモリー)を駆使しつつ、海馬体と広範囲の大脳皮質におよぶ複雑な分散型の記憶機能を実現している。記憶は単なるデータではなく、それにまつわる感性・情動で重みがつけられて記録される。記憶は曖昧性も忘却もともない、それが脳の機能を効率化するとともに、ヒトの意識や自我に関与している。
 動物には睡眠を必要としないものは存在せず、睡眠こそが有限資源たる脳のメンテナンスを行い、恒常性を維持するための必須の機能である。
 「意識」とは、自己と外界との関係性を理解し、感じ、反応する能力であり、そのためには脳だけでなく、自己の領域の境界としての「身体」の存在が必須である。
 周囲のなかでの自分のおかれた立場を理解し役割を演じるのが「自我」であり「自意識」であって、それが社会性の基本となっている。自我や自意識は、ヒトが進化の歴史のなかで生存のために獲得してきた形質であり、それこそが「心」の核をなす重要な部分のひとつである。
 「心」は、自我をもった自意識(自己認識)が「認知」することが不可欠である。自分の内的状態とその変化を認知することによって「心」が生まれるのである。これに携わるのは、大脳皮質の前頭前野であり、前頭前野は、意識・認知・論理的思考・内省・倫理的判断・未来の予測などに深く関わっている。思考にもちいる作業記憶も、この部分に存在する機能であり、自我や自意識は、この部分に存在するといってよい。
 また「意識」のみでなく「無意識」も人間にとってはとても重要であり、運動機能の多くは無意識の働きによる。
 ディープラーニング(深層学習)とニューラルネットワーク(階層構造ネットワークによるアルゴリズム)からなるAIは、構造も機能も、人間の脳とは大きく異なるところから出てきたものでありながらも、大きな可能性がある。ただ、AIが「心」を持つと、欲望が発生して良からぬことすらやりかねないので、「心」をAIに実装しない方がよいのかも知れない。
敢えて梗概とすれば、以上のようなことである。
 SF小説やSF映画を緒として、その実現に向かう途中に位置付けられるAIとヒトの脳とを比較しながら、最新の大脳生理学が分かりやすく詳細に解説されている。「第6章 脳にとって時間とはなにか」の、量子力学的考察のなかの「観測」について、「観測とはつまり、脳が認知すること」との理解はちがうと思うが、まあ全体からみれば大した問題ではない。全体としては、わかりやすい良書であると思う。

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佐藤典司『資本主義から価値主義へ』新曜社

価値主義のコンセプトは尊重したいが資本主義の終焉は飛躍である
 経済学者濱田康行氏の書評をみてこの本を知り、私も読んでみた。著者佐藤典司は、情報知識価値マネジメントの研究者だという。まず、この書の梗概を記す。
資本主義の現状: モノをベースとする経済
・供給側(生産者)は、需要側(消費者)の二―ズを客観的に定義し、それに相応する製品を企画し、モノとしての原料を、エネルギーを使用して加工(製造工程)し、できあがった製品を市場に出して需要と供給のバランスから価格を決めて代金と価値交換し、需要側(消費者)に運送して届ける。
・原料は有限資源であり、製造工程では不要なモノ、典型的には環境問題の原因たる二酸化炭素など廃棄物を発生し廃却する。
・製品の企画、原料の調達、製造、市場を介しての販売(そのための営業活動、広告宣伝なども)のそれぞれの段階でそれぞれの労働者を必要とする。
・GDPで経済活動の評価ができる。

価値主義の登場: 経済の構成要件と環境が変化しつつある。
・ディジタル技術とディジタルネットワークの進展・普及が、価値の中心をモノから情報へシフトさせた。
これにより資本主義は、モノの価値をベースに構築され発展してきたため、価値主義では枠組みやシステムが機能不全に陥った。
・モノの価値は普遍的な有用性による絶対的価値なのに対して、情報の価値は消費者がそれぞれ独自に決める個別的な相対価値であり(ファッション、音楽、ゲームなどが分かり易い)、普遍的評価ができず、評価を共有して複数人が共有できる計画を立てることができない。
・製品はコストゼロでコピーできて、生産と消費にコストを要さない。このため開発を除き、製造ラインもコストも不要なので、価格が実質的に破壊されることもある。
・ディジタル化された製品は、情報ネットワークの普及により、コストと時間を要さずに遠距離を伝搬する。したがって営業コスト・運搬コスト・配達時間がゼロであり得る。
・製造・運輸・マーケッティングが省略できるので、大幅な人員削減が発生し、失業者が激増する。
・限界費用ゼロとなり、増産はコストなしに無限に可能となり、少数の独占的企業に生産(供給)が集中することが可能となり、多くの労働者の雇用機会が失われ、価格ゼロのため経済は数値上で大幅に縮小することが見込まれる(GDPの数値は縮小する)。
・プラットフォームを提供すれば、実質的にユーザーすなわち消費者が開発・製造を実行するようなビジネスができつつあり、しかもそのような形態の経済活動がすでに巨大化している(ディジタル巨大企業、アメリカのGAFAなど)。
・生産資源への要求は、情報・知識・アイデアこそが決定的となり、量から質へとシフトし、生産のための投下資本量は大幅に縮小する。
・情報の価値は消費者が決めるので、価値を生産するのは消費者となって、生産者と消費者が分離できなくなる。こうして「生産消費者」が出現し、市場を通さない生産・流通が増加していく。

従来の資本主義が危機に瀕している
・すでに先進諸国において、成長至上主義の行き詰まり、ディジタル巨大企業の成長とその寡占による自由競争の阻害、金融資本主義の弊害化、政府の経済政策の無力化が発生している。
・相対価値をもつ製品は、価値決定・評価を客観的かつ絶対的に決定できないから、市場に乗せることができない
このような経緯から、GDPを目標指標とする経済活動は破綻へ向かっている。

どうすべきか
 資本主義から価値主義に転換する必要がある。そのために
・国の経済目標から、経済成長を外し、GDPを用いることをやめ、経済の数値指標の低成長・シュリンクを受け入れる。すなわち、モノにもとづく資本主義を直ちに改めよ。
・経済の成長から分配へと目標をシフトする。所得再分配を国家的施策とすべきである。
・教育をはじめとして、社会全体に多様な価値観、生き方をすすめる。そのような人々の生き方を積極的に支援する。
などが挙げけられている。

 以下、私の感想・コメントを記す。
学ぶべき点
・経済活動の目標に、モノを軸とする絶対的効用に基づく数量的指標(GDP)だけでなく、需要者の価値観によって評価される「価値」の増大化を取り入れることの重要性が説明されている。
・そのひとつとして、いわゆる「ソフト的価値」がすでに経済活動に組み込まれていること。現在の日本のGDPの長期低迷のひとつの要因として、GDPに入ってこない要素(ネットインフラによる著しい利便性の向上などの価値)がカウントされていないことが理解できる

この著書の難点
 ひとことでまとめると、これからなにをすべきか、が抽象的で漠然とし過ぎて、具体的アクションとしての説得性がない。
・人間はモノを食べ、モノを使用して生活しており、またモノの財を後世に相続しないと社会保障も国民の生活も維持できない。価値主義的な要素がすでになにがしか入り込んでおり、さらにその比率が増加するだろうとまでは理解できるが、モノの経済は引き続き必須であるため、「モノにもとづく資本主義を直ちに改めよ」という主張は現実的でない。
・著者も資本主義の有用性を認めているが、そもそも資本主義は、本来は国家権力から独立して発生・実施・発展しているものである。その変遷・変革に、どこまで国家権力が関わるべきかについては、別途くわしい議論が必要だろう。
・著者が提唱する「価値主義」の根幹たる「需要者が決める相対価値」の重要性は理解できるものの、経済活動に取り入れるときの具体的方法が不明である。言語的に矛盾するようだが、なんらかの客観的・価値中立的根拠に基づく指標数値が定義できないと、複数の人びとが納得・合意して実現に向けて協力しあえる計画、政策が構築できない
・同様に、これから成すべきこととして「多面的な価値の重視」「総合的な教養の育成」「それにもとづく教育の改革」などと列挙しても、具体的になにをどうすべきかが皆目不明なままである。
・途中で、脈絡が不分明なまま「日本では、欧米に比べて大きく(あるいは取り返しがつかないほどに)後れをとっている」という文章が現れるが、理解できないものもある。もし他国で実現できているのであれば、調査・分析することに意味があろう。
 具体的には、アメリカで成功しているGAFAなどの成功要因の具体的かつ精緻な分析を実行することで、われわれの具体的な行動のヒントが得られる可能性があるかも知れない。

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渡辺哲弘『認知症の人は何を考えているのか』講談社

 著者は長年にわたり介護の現場で介護士、介護管理、そして介護の啓蒙に携わってきたベテランの実務経験者である。介護にかかわる周囲の人々の誤解を解き、認知症の本人とその周囲の人びとの状況の合理的で具体的な改善について解説している。
 認知症でヒトはどのような症状となるか、まずはそれをよく理解する必要がある、と著者は述べる。
 認知症の基本的な症状は、記憶の喪失である。Photo_20250105061001
 ヒトの判断・行動はそれぞれが単独・独立ではなく、複数要素の連鎖から成るプロセスで成立している。その連鎖・プロセスの重要な一部を占めるのが記憶である。
 なんらかの欲求が起こり、状況を観察して、あるいは相手からの発言を聴取して状況を受容し、理解する。しかしもしここでそこまでの理解の結果を忘れてしまうと、そのヒトは突然どうしていいかわからなくなって混乱し、強いストレスと不安に襲われて、正しく行動できなくなる。たとえば、生理的欲求からトイレに行こうとしてトイレを探すが、その場所や外観を忘れてしまうと、どこで用を足すべきかわからなくなって混乱し、ストレスと不安から暴れたりすることさえある。
 ヒトは記憶を失ったとき、必要な連鎖・プロセスの一部が壊れ欠損しただけで「段取りを組めなくなる」「手順が混乱する」など判断や行動ができなくなる。
 ヒトは、状況が理解できないとき、やりたいことができないとき、自分の気持ちが相手に伝わらないとき、焦り・不安を感じて、激しいストレスに襲われる、ということそのものは、認知症患者に限らず健常者も同じである。認知症についてよく知らない人たちは、認知症になってしまった人はなにもわからないから幸せだ、周囲のひとたちこそ迷惑で被害者だ、と勝手に推測することが多いが、現実は認知症の本人こそが大きなストレスと不安に激しく苦しんでいるのである。
 認知症は、頭脳のすべての機能が不全になっているわけではない。ごく一部の記憶機能が不完全になるだけで、突然正しく動けなくなり、困り果てる結果となるのである。そして「こころのなか」は焦りと不運に満たされ、ますます混乱する。認知症は、ヒトの認知機能、行動機能の全面的あるいは広範囲の機能停止なのではなく、認識・行動連鎖のごく一部の欠損から大きな症状を引き起こしている、ということを理解することが先ず重要である。
 ここで周囲のヒトは、認知症という病気に目を向けるのではなく、まず根本にある「人としての気持ち」に目を向けることが事態改善のポイントとなる。
 この認知症のヒトのこころの動きのメカニズムをよく理解・把握して、多くの要素の連鎖・プロセスのなかの障害ポイントを見つけ出して的確にサポートすると、行動が驚くほど正常に近づくことが多い。認知症のヒトの「こころのなか、こころのうごき」を察知して対応することで、認知症の当事者と周囲の健常者の両方を大きく救うことができる。
 この書の要点は、上記のようなことである。
 これを読んで、改めて私自身が晩年の母や義母の認知症と向き合っときの経験を思い出すと、たしかに十分彼女たちの「こころのなか」に向き合えていなかったことを想う。ここで述べられていることは、振り返って考えてみればそういうことだったのかも知れないとも思えることで、私たちにとってまったく意外なこと、まったく想定不能だったことでもないものの、現実を前にするとふと遠ざけてしまいがちなことばかりである。
 こういう気が付きさえすればあたりまえのことと思えそうなことこそが、説明して相手に理解させること、自分自身がほんとうに理解することが難しいのかもしれない。
 私自身も後期高齢者となり、何時みずからが認知症の当事者になるやもしれない境遇である。もっと言えば、急速に高齢化が進み高齢者人口が多数派を占めつつあるわが国においては、いまや認知症は大きな現実課題、社会的問題として、国民全体に関わる問題であるともいえる。
 そういう意味でも、ある意味当たり前のようで実はむずかしいことを、具体的に丁寧に説き聞かせてくれる本であった。

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J.カリーリ、J.マクファデン『量子力学で生命の謎を解く』2015

生命を担うミクロで繊細な構造の機能は本来的に量子力学がふさわしい
「量子力学」と「生命」とをいきなり並べると、直観的にはそんなの関係あるのか?とふと思うのも自然だが、少し落ち着いて冷静に考えると、密接な関係があるのはごく当然だと思える。Jj
 量子力学は物理学のひとつの分野で、20世紀も4分の1を過ぎてから確立してきた比較的新しい科学である。量子力学は、私たち人間の生活感覚ではとうてい想像しがたいミクロな世界を支配する物理であり、日常生活では縁が薄いようにも感じる。しかし、あらゆるモノの「ファイン」なところ、ミクロなところでは中心的な科学であり、その意味では生命や生物という分野は、とても微細なミクロな領域を扱うので、量子力学が大きく関与してくるのは何の不思議もない。
 そもそも化学のかなりの領域に、量子力学が深く関与する。化学結合、化学的励起、化学変化など化学の基本的な振る舞いに量子力学的考察・分析が広く深く関わる。
生命現象、生物化学、生物生理学では、とても小さな領域での物質の振る舞いが主役となるので、量子力学的アプローチが必須になるのは当然と言える。
 コマドリが、数千キロを超える長距離の旅を、その体内に有する微弱な地磁気の検出能力で達成している。イソギンチャクの脚の間に生息するごく小さな魚たるクマノミ、また大海を回遊するサケが、海洋中のかすかな臭いを敏感にかぎ分けて、とてつもない遠方を間違えずに旅する。蝶のオオカバマダラは、敏感な視覚・嗅覚に加えて体内時計を持っている。植物の葉緑素が驚くべきエネルギー効率で光合成を実現している。などなどの驚くべき実例が列挙される。
 これらの生物の驚くべき能力を実現しているのが、生物組織の微小領域で働く量子現象、すなわち量子トンネル効果、量子コヒーレンスのなかの量子もつれ、量子効果が主たる貢献をしている酵素などの働きによるのである。
 この本に紹介されているめざましい成果は、30~40年以内の新しいものが多い。しかし、この書でも登場するリチャード・ファインマンは、半世紀以上前に記した高名な『ファインマン物理学』で、すでにそのような事態を見通していた。ファインマンは、シュレーディンガー方程式など物理の基本方程式を実際に計算して解くのは、物理屋だけではない、むしろ物理の専門家は数学的に説きやすい計算を優先するのに対して、化学者(物理化学者)は、化学的見通しのもとに大胆な(冒険的な)近似をものともせず難解な方程式に挑戦し、とても有用な計算を成し遂げる、と言明していて、量子力学の化学分野、生物化学分野への大きな波及・発展を予測していた。
 この書で唯一、「ヒトのこころと量子力学」に関する論考のみは、議論の前提となるべき「こころ」の定義があいまい過ぎて、意味のある議論になっていない。「結びつけ問題=脳が得たさまざまな領域に情報が、意識のなかでどのように一つに結びつけられるのか」という程度の定義では、論理的に不安定過ぎてよくわからない。
できるだけ門外漢の人たちにもわからせようとの努力は感じられるし、それをかなり達成していると思うので、まずまず良書だと思う。

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古澤明『量子もつれとは何か』講談社ブルーバックス

わかりやすく図解説明も多い優れた入門書
 前に藤井啓祐『驚異の量子コンピュータ』岩波科学ライブラリーを読んで、量子コンピュータ実現のうえで、量子もつれが重要であるとの記載があった。しかし私はこの「量子もつれ」なるものの内容にまったく不案内であった。それがこの本を選んだ理由であった。
 この書は、光の量子化、レーザー光と量子揺らぎ、そして量子エンタングルメント(=量子もつれ)とはなにか、量子もつれを形成する方法、それができたか否かの検証法、量子もつれの具体的応用の例、という順序で、とてもわかりやすく論じている。Photo_20241122055101
 量子力学の原点である不確定性原理からはじまる。すなわちある特定の関係にある(古典力学的には)独立した2つの物理量(位置と運動量、あるいはエネルギーと時間など)は同じひとつの量子のなかでは同時に(正しくは「一緒に」)決められない。この物理量の関係を共役関係という。しかし2つの量子のそれぞれ共役関係にある2組4つの物理量を取り出し、2組の物理量のある種の組み合わせとしての相対関係(たとえば位置の差と運動量の和)は、同時に決めることができる。これが量子エンタングルメント(=量子もつれ)である。これらの現象を解析するとき、量子力学に基づく量子の波動現象としての性質が基礎になっている。
 そして、この書では量子もつれの当事者たる量子の具体例として、光(=光子)をもちいて解説している。光は電磁波たる波動であるため、4分の1波長ずらした2つの独立な波、すなわち正弦波と余弦波があり、それらが相互に独立でありかつ共役関係にあること、が説明される。
 光は量子の1種たる光子であり、振動数(=周波数)が高いために1個の量子のエネルギーが熱エネルギーより格段に大きいので、熱によるノイズの影響を相対的に受けにくい。その半面では、量子を加工するのに大きなエネルギーを要するので、実験においては、非線形光学素子とレーザーを用いた光パラメトリック過程などが必要となる。
 光は電磁波であり、電磁波で操作する手法が活用できて、極端に周波数が高いラジオのような考え方と手段で推論と実験検証ができることが示される。
 説明の順序も的確で飛躍が無く、簡明な図解が多く、わかりやすい入門書である。

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