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書籍・雑誌

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?』文春文庫

 イスラム教徒が崇拝するムハンマドを侮蔑する風刺画を掲載していた「シャルリ・エプド」という名の風刺新聞が、2015年1月7日テロに襲われ、警官、編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら、合わせて12人が殺害される事件が発生した。これに対して1月11日フランスのオランド大統領が主導して、国際的なレベルにまで拡大した「私はシャルリ」デモがフランス各地で発生した。これは「表現の自由」を掲げていたが、デモの実体は、参加者に明確な自覚がない面も含めて、人種差別・排外主義を主張するものであったという。このデモがもつイスラム恐怖症に対して、大きな危機感と憤りを感じたエマニュエル・トッドは、その真相、その背景たる現代フランスの政治的・社会的病巣を明らかにしようとこの本を出版した。
 この運動には二つのモードがあるという。ひとつは自由主義的・平等主義的・共和主義的で、積極的かつ肯定的な「意識」のモードである。もうひとつは、権威主義的・不平等主義的で消極的・否定的な「無意識」のモードであり、実はこの後者のモードが現在のフランスを支配する、という。このふたつの、もともとは反対方向を向き本来強調しあわないかに思える勢力どうしが、複雑に絡み合って助長しあってきわめて陰険な悪の方向に導くメカニズムがある、としてエマニュエル・トッドは家族人類学と歴史人口学をもちいて分析している。

地上のイデオロギーがその内容において多様なのはなぜかというと、どんな社会を選ぶかというその選択が厳密な意味での宗教の影響力から免れるときにもなお、心の深層に定着している家族的諸価値が、いいかえれば潜在的な人類学的システムが、人びとの選択を導き続けるからである。従来、パリ盆地の中心部では、自由主義的で平等主義的な家族構造が社会的行動を制御していた。一方、ドイツでは、権威主義的で不平等主義的な家族構造がパリ盆地とは逆の方向へ社会的行動を導いていた。(p51)

 「平等主義核家族」が主流であったパリを中心とするフランス中央部では、フランス革命の後すでに18世紀末からカトリックは衰退していたが、「直系家族」が主流であるフランス周縁部ではカトリックは1960年代まで根強く生き残った。そしてフランス周縁部では、カトリック的サブカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びている。これをエマニュエル・トッドは「ゾンビ・カトリシズム」と呼ぶ。

人口学者エルヴェ・ル・ブラーズとの共著『不均衡という病』の中で、彼と私は、カトリック教会がその伝統的拠点地域において最終的に崩壊した結果として生まれた人類学的・社会学的パワーをゾンビ・カトリシズムと名付けた。私は本書のもっと後のほうで、フランス周縁部でカトリック的サブカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びているということを示す教育上、経済上の他の諸現象を検討するつもりだ。(p75)

 フランス革命でできた共和国の確立に対して従来もっとも強硬に抵抗してきたカトリシズムが、カトリックの衰退に代わってその不平等・権威主義を残存させたゾンビ・カトリシズムとなって、ライシテ=世俗性に表面上執着しながら、新たな宗教的熱狂をもって反イスラムを主張している。これを「ネオ共和主義」という。

宗教の崩壊は、希望と不安を同時にもたらす。(p154)

 一方で早くからカトリシズムを喪失したフランス中央部の平等主義的伝統・文化にある人びとは、「意識的」には人種差別を否定するが、イスラム教徒たちの生活上のさまざまな習慣・態度が自分たちと大きく異なること、そしてそのフランスへの同化の遅さにいらだち、ついに「理解不能」と判断して、「不平等」以前に「無意識的」にその存在そのものに拒否反応を示し、不平等主義・権威主義とは異なるメカニズムで激しいイスラム排斥の意識あるいは無意識が発生している。こうしてもとは平等主義的であった中産階級、人口的に多数を占める中産階級がイスラム恐怖症となった。
 フランスは、自由・平等・博愛の革命精神を謳い、福祉国家を育成してきたが、ネオ共和主義のフランスでは、福祉は下層階級のためというより主たる対象は中産階級となっている。当然対立は起こるが、利害は上層と中産階層とが同じくして、下層・労働者階層と対立する。マーストリヒト条約に賛同しEUを肯定してきた人たちは上層・中産階層であった。彼らは表面上=意識では国家間の友好・連合・平等をとなえながら、実際=無意識では経済不振を座視し、単一通貨という新たな残酷な一神教を奉じその超越的権威に服し、不平等を容認し、ドイツへの経済的中央集権・服従を実行する。こうして上層と中産階級が一体化して、無意識に不平等・権威主義、そしてついにはニヒリズム的な状況がもたらされ、とうとう全フランスにわたって人種差別的、イスラム恐怖症となった。これからユダヤ排斥までは目と鼻の先である。
 このようにゾンビ カトリシズムとネオ共和主義を背景に、方向性の異なっていたふたつの勢力が、複雑な経過と相互関係をもって、結果としてともにイスラム恐怖症、さらに反ユダヤ主義に陥っているのが現代のフランスの病理である、とエマニュエル・トッドは指摘する。
 私はシャルリ・エブド事件を日本の報道からのみしか知らなかったので、エマニュエル・トッドが述べるような深刻かつ大規模な人種差別・イスラム恐怖症の問題の存在を知らなかった。今でも、言論の自由は重要であり、テロは犯罪として断じて許容できないと思っているが、エマニュエル・トッドがいうようにフランスを挙げて「イスラム教に対して冒涜する権利があり、さらにその義務さえもある」というような姿勢や運動であるならば、社会の安定と平和を脅かすものとして否定されるべきであろう。
 この本は、今からまる2年前の著作であるが、最近のブレグジットの予言とも受け取られているという。
 私はこの本を読みつつ、現在も日韓関係で問題となっている「従軍売春婦問題」をふと連想した。韓国が、些細なことまで勝手に捏造・拡大して延々と日本についての「問題」を追求し続ける状況も、韓国という社会・国家の政治・社会的病巣が背景として寄与しているのだろう。イスラム恐怖症も従軍売春婦問題も、わざわざ敢えて意図的に敵をつくるという行為は、エマニュエル・トッドがいうとおり、よい結果、よりマシな結果を導くことは決してないだろう。
 詳細な統計数値をもとにした緻密な議論であり、受け入れがたい面も多々あるが、無視しがたいところ、貴重な優れた指摘も多く、とても印象の深い本である。

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エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書、2016

 イギリスのEU離脱に関して、ユニークな研究者として知られるエマニュエル・トッドが本を出していることを知ったので、読んでみた。予想以上にとても刺激的な本であった。
  タイトルのブレグジットについては、EUがいまやドイツの絶対的・独断的な主導権にかき回されていて、フランスもイタリアもドイツの理不尽な言いなりに成り果てていること、ドイツがヨーロッパ大陸の経済的掌握を目指して、周辺の欧州各国のみならずアラブ・シリアにまで手を広げた乱暴な移民政策をとっていて、文化的・社会的・国家的破滅に向かっていることを指摘する。エマニュエル・トッドは移民そのものに対しては肯定的だが、移民を自分の国に同化させるにはかなりの時間を要するため、急激に大量の移民を受け入れることはきわめて危険だという。また、イギリスは英語圏の主要国として、世界最大・最強の国家たるアメリカをはじめ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、などの英語圏先進国の主要国であり、英語圏先進国の全体としての市場はEU よりはるかに大きい。フランスは、乱暴なドイツの覇権の下に服従するより、自由と繁栄の英語圏、つまりイギリスと交流を深めることこそが大切だと説く。一方でアメリカは、ブレグジットによってドイツをコントロールする回路を喪失したことをよく自覚しなければならない、という。そしてブレグジットの背景に、世界的な「グローバリゼーション・ファティーグ」、すなわちグローバリゼーションによる疲労・倦怠感があるとする。結局いまや世界は、グローバリゼーションに疲れて、ふたたび国民国家尊重に戻りつつあるとする。
  そしてこのちいさな本の60%以上は、エマニュエル・トッドの歴史学の方法の解説である。これがまた刺激的である。エマニュエル・トッドは、母方にイギリス人を含むユダヤ系の家族に生れたフランス人である。ただ両親の時代にカトリック教に改宗したので、もはや厳密な意味でのユダヤ人ではない。パリ大学を卒業後イギリスのケンブリッジ大学に学んで、家族制度の研究者であるピーター・ラスレットに師事し、家族制度、あるいは家族に関する文化人類学をテーマに25歳で学位を得た。エマニュエル・トッドは自身について、愛国心も大いにあり紛れもないフランス人だが、思考方法は大陸的観念論を拒否し、イギリス的経験主義に則るという。事実も真理も人間に内在することはなく、人間の外にある、とする。哲学的に「人間とはなにか」、「国民とはなにか」などという問いをたてて考えてみても有効なことは何も得られず、過ちさえ免れない。エマニュエル・トッドは、あくまで大量の客観的データを集積して分析しそこから真理を抽出する、いわば自然科学と同じような客観的なアプローチをとる。したがって、彼のさまざまな理論や提言は、彼の内面の思考から出たものではなく、客観的データ、統計数値が自ら語るものであり、それを真摯に見つめれば誰にでもわかるようなものであり、そのため成果を発表することを真剣に急いだ、ともいう。まるで科学技術の研究者が特許出願を急ぐような態度である。そして歴史学の研究にとって重要なことは、多くのデータを集めること、多くの資料を読むことである、という。
  エマニュエル・トッドの思考の基底には、歴史人口学・家族人類学がある。
 「外婚制共同体家族」、すなわち血縁結婚がなく家族共同体が存在して核家族でないような大家族制の家族は、ロシア、フィンランド、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ハンガリー、中国、モンゴル、ベトナム、キューバなどが該当する。この家族制をもつ地域は、共産主義に親和性があって、実際に共産主義化が達成されたのは、ソ連の軍事的強制によるもの以外はすべてこの地域である。
 結婚すると親元を離れて独立する「核家族型」は、兄弟の平等性に親が無関心で自由を最重要視する「絶対核家族型」と、兄弟を平等視することが特徴である「平等主義核家族型」がある。イングランド、アメリカのイングランド系、オランダ、ノルウェー南部、デンマーク、フランスの周縁部、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが「絶対核家族型」であり、フランス中央・北部、ギリシア、イタリア南部、ポーランド、ルーマニア、ラテンアメリカなどが「平等主義核家族型」に属する。
 子供のうち一人は親元に残るかあるいは相続し、兄弟の平等性は低く親の権威が重視されるのが「直系家族型」であり、ドイツ、スウェーデン、オーストリア、スイス、ベルギー、フランス南部、日本、朝鮮半島、台湾、ユダヤ人社会、などがこれに属する。
 そしてイスラム教との親和性が高い「内婚制共同体家族」がある。息子はすべて親元に残り大家族をつくり、兄弟は平等である。特徴的なことは血縁結婚、具体的にはいとこ婚が多いことである。トルコ、アラブなどの西アジア一帯、中央アジア、北アフリカなどがこれに属する。この型は、大家族を軸とする結束の強い軍隊を比較的容易に形成できるという特徴がある一方、家族の存在が大きく、国民国家を形成する力が弱い。
 エマニュエル・トッドによると、この家族類型は政治・経済の指向性にきわめて相関性があり大きな影響を与えるため、この基本的な形態と性格をよく理解することが社会・政治の成功に大きく関わっているという。しかも「家族類型」は、親から子へと伝達される以上に地域に固有のものとして地域に長く生き続けるものであり、どんな民族でも生活する地域を移動すると、時間をかけて「郷にしたがい」家族類型が変わり、それが移民の同化となるという。
 そして歴史人口学者としてエマニュエル・トッドは、人口の減少は国家や社会を不安定化する、とヨーロッパ、中国、日本に対して警告を発する。
 エマニュエル・トッドは、若いころフランス共産党員だったことがあり、いまでもマルクス主義の考え方がひとつの参考になっているという。マルクスは実践的変革主体がプロレタリアートだとしたが、それは間違いで中産階級こそが変革主体であるという。これも事実のデータにもとづくプラグマティックな結論としての主張である。
 このちいさな本は、7つの講演の記録をもとにしたもので、タイトルになったブレグジットに関するものだけが外国での講演だが、その他はすべて日本で行われた講演の記録である。そうした経緯もあって、とても読みやすいが、なかなか内容は濃い。
 たしかに少し前に大きな話題をよんだトマ・ピケティも、自ら社会主義者と言いつつも、マルクス主義そのものにはさほど興味がない、『資本論』もまともに読んだことがない、と言い、厖大なデータを解析して「格差発生のメカニズム」を説いた。そういう意味で、ピケティもエマニュエル・トッドに類似していると言える。
 かつて神が与えたと考えられた「人間の精神」で内発的に思考することをめざす哲学者に対比して、エマニュエル・トッドは実にプラグマティックであり、ある意味冷淡であり、しかし「内発的」指向の哲学者のような暗さがない。あまりに思いがけない多くの刺激的な示唆を受けたために、私の頭脳では直ちに消化しきれないが、非常に興味深い学者に出合ったという感覚だけは確かにある。

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池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書

  わが国ではイスラム教の宗教や文化について、なかなか良い情報が得られないが、そのなかで冷静かつ説得的な論評をメディアに発している池内恵氏の書を少し学んでみることにした。2001年末ころの脱稿で、9.11事件直後の情勢を背景に論じられたものである。
  イスラム教が主要な宗教となっているアラブ世界にとって、最大の画期となったのは1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)でアラブ側がイスラエルに完敗したことであった。これによりそれまでアラブ世界の統合を主張して期待の星であったナセルの威信がゆらぎ、1970年のナセルの死によって、アラブ世界の希望・アラブの夢が喪失した。
  このあと急速に勢力を伸ばしたのが急進的なマルクス主義であり、シリアのヤースィーン・ハーフィズとサーディク・ジャラールはシリアの民族主義政党バース党やエジプトのナセル政権がプチ・ブルジョアに染まった政権であったがためにイスラエルに敗戦したと主張した。マフムード・フサインは「絶えざる人民の蜂起」を唱え、もしエジプトに人民勢力の政権ありせば、決してイスラエルに負けることはなかったと主張してマルクス主義の普及を図った。マルクス主義革命の敵を、イスラエルとそれに染められたアメリカと設定し、中国の文化大革命、ベトナム戦争のベトナム共産党を賞賛した。彼は、急進的マルクス主義とアラブ民族主義とを革命の二本柱とした。1967年からしばらくの間は世界的にも学生運動が高揚し、1968年5月にはフランス・パリで五月革命事件も発生した。マルクス主義の伸長と普及には、当時の世界情勢も加勢した。
  しかし、五月革命を経て、ついに1990年代以降はマルクス主義への期待もできなくなり、イスラム主義は、絶望的な迷路に陥ってしまうことになる。
  イスラム教は、コーランの記述が基本であるが、そこには革命の具体的手続きは記されていない。このためアラブ世界では、「イスラーム的解決」論として、解決をもたらすための方策ではなく、「既に問題が解決した状態」を描写することが重視され、そこにみちびく道筋については、驚くべき水準の楽観論が支配するようになった。このことが現実問題へのイスラームの対応において、きわめて悲惨な結果をもたらすことになる。
  イスラム主義は、その理想の世界実現に向かって運動を力説するが、それは①現状にたいする強い不満と批判をもたらし、パレスチナ問題のイスラエルやアメリカとの和平に徹底して反対する、②スーダンでは軍事クーデターで政権掌握を達成して急進的なイスラム主義改革を断行するが、激しい内戦を引き起し、現在にいたるまで悲惨な殺戮が繰り返されている、など成功しない政権担当勢力としての活動、③外敵への抵抗勢力として、イスラム主義を唱えたジハード、自爆テロなどを実行する、などをもたらしている。
  後半では、イスラム主義が考える「終末論」について、ユダヤ教にはじまる詳細な展開が説明される。さらにイスラムの指導者や教徒たちが、コーラン、ダニエル書、ハディース集などの記述を、現在の政治・社会情勢に結びつけ、さまざまな陰謀論が喧伝されていることを解説している。
  私は、東南アジアで実際に仕事をし、イスラム教徒の人口としてはむしろアラブよりはるかに多いインドネシア、バングラディシュ、パキスタン、マレーシアなどのイスラム教徒の人たちと交わる機会があった。そして、何故中東でのみイスラム教徒がかくも過激になるのか理解しかねていたが、この書によりかなり理解できるようになった。
 イスラム教徒がなぜ無宗教を宣言するマルクス主義に親しく接近したのか、いささか疑問であった。しかしこの本によると、イスラム教とマルクス主義に少なからず類似点もあるように思った。「イスラーム的解決論としては、解決をもたらすための方策ではなく、既に問題が解決した状態を描写することが重視される」というイスラム教の実態は、マルクスもやはり具体的な共産主義社会への移行手続きについてほとんど述べていなかったという事実と似通っている。ただ、マルクス主義は一応「経済の段階的発展説」を提示して、実現性は反証されてしまったものの、ひとまず道筋らしきものを述べていた。イスラム教のように、ほとんど無いよりは相対的にはマシだったかも知れない。さらに敢えて言及するなら、マルクス主義もイスラム教も、いずれも「問題が解決した状態」であるべき「理想的な状態」ですら、さほど鮮明に説得的に提示できていなかったのではないか、とも思う。いずれにしても、具体性の乏しい夢想的な楽観にもとづく運動は、イスラム教もマルクス主義も、悲惨な結果を招くことを歴史的に実証している。
  まあともかく、新書として簡潔に明晰な解説がされていて、とても良い書であると思う。

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ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』書籍工房早山

   ナショナリズムについて考える場合やはりこの書物は欠かせないと、いくつかの本で述べられていたので、私も読んでみることにした。
  ベネディクト・アンダーソンは「言語と伝説(神話)を共有することから民族がはじまりナショナリズムがはじまる」という漠然とした、しかし多くの人々に広く受け入れられ普及しているナショナリズムのイメージを覆すことを目的に、ナショナリズムの生成要因を多面的かつ緻密に追求している。
  ナショナリズムの淵源には、言語や伝説には限らないものの、やはり「共有」「共感」が必要である。その態様を説明するため、著者は同じ宗教を共有するが言語も肌の色も文化も異なる人たちの出会いにおける共感を説く。その場合、聖典という共通言語と共通の教義、その教義にしたがう自分たちの行動の共通性が軸である。また神を権力の淵源と主張するかつての王国が、支配地域を束ねる力を説明する。普通の人間から隔絶された存在が神の摂理によって支配する、そのもとに人民たちが自然に組織される、という信仰が被支配者側にもある(あった)。
 そして、見知らぬ者同志を共感させる物語があり、印刷技術によってそれが多数の人々に共有されることが「想像の共同体」を形成し育成し維持する大きな力となる。物語の本や、たった一日で消費される文章としての新聞が、つまり印刷出版の普及が重要な役割を演ずる。物語を読んだり、新聞を読んだりするために、共通の言語が必要となるが、かつて王たちは行政の中央集権化のために必要な手段として、特定の俗語を普及させる努力をした。これが結果として想像の共同体を育成する要因となった。
 この著者は、ナショナリズム生成の重要な例として、アメリカ大陸のクレオール、つまりヨーロッパから移入して社会的に、ときには血縁的にも現地に溶け込んだ人々のナショナリズムをとりあげていることが大きな特徴である。クレオールたちは、文化的にも言語的にも、さらには教育水準においても植民地支配国たる本国と大きく変わることがない場合でも、本国から官僚としての任用範囲・昇進の上限などで決定的な差別を受ける。この差別がクレオールたちの中に差別された者同志としての意識を共有させ、共同体の想像がはじまる、というのである。これは言語では多様なインドシナやスイスでも発生して、言語だけで説明できないナショナリズムの重要な育成要因となる。
 かつて世界を広範囲に支配し分割した「帝国」は、支配のために特定の俗語を普及させ、支配の継続・安定化を目指して「国民」意識を上から与えた。著者はこれを「公定ナショナリズム」と定義し、「国民と王朝帝国の意図的合同=溶接」であるという。
 第一次世界大戦でそれまで世界を分割・支配していた4つの大帝国、ハプスブルク、ホーエン・ツォレルン、ロマノフ、オスマンの王家はすべて消滅した。そのあとには国民国家が正統的な国際規範となった。交通機関の発達により、人々はモビリティーが著しく向上した。国家の統治には統治機構・官僚機構が必要で、そのためにも言語の普及、教育の拡大が行われた。そうして育成されたインテリゲンチャたちは、先鋭なナショナリストとして成長していく。
 かつて帝国が、自らが支配する対象たる各地域に対して、人民を把握するための人口調査を行い、それぞれの人々を把握して政治的に分類したこと、統治する地域を明確に地図の上に「国境線」として排他的に定義したこと、そして統治する地域に対する知識を得るためにその地域の文化を調べ博物館に整理したこと、それらの活動がすべて結果としてナショナリズムの育成と普及に大きく貢献することとなった。人口調査によって帰属を定義された人々は、自分のアイデンティティーを与えられ、地図によって排他的領域としての自分の居場所を意識するようになり、博物館によって自分たちの歴史を含めた文化的・社会的特徴あるいは属性を確認し意識しなおすことになったのである。
 この本の議論は、ヨーロッパ中心主義に陥らず、アメリカ、アジア、アフリカなど多様な地域を対象とし、さらに大国だけでなく小さな国家をもきちんと考察するところに大きな特徴がある。
 かなり多様で複雑な議論であるが、著者の明晰な論理展開と叙述によって、わかりやすい書物となっていると評価できる。ナショナリズムの発生・成長の要因とメカニズムが詳細に示されていて、ナショナリズムを考える上でやはり欠かせない良書と言えるだろう。
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墓田桂『難民問題』中公新書、2016

  IS問題などをはじめとして、ここ数年なにかと話題になっている難民問題について、ネットの書籍紹介の記事を参考にこの本を選んで読んでみた。
  著者の墓田桂氏は、フランスの国立ナンシー第二大学で学位を取得した成蹊大学教授で、2013年から法務省の難民審査参与員を2年間勤め、また難民の現場をなんども実地検証した経験をもつ専門的な学者である。
  この本の特徴は著者が、難民問題をひとごととして考えてきた学者や評論家とは異なり、難民問題の実情を自分が直接かかわる問題として見つめ考えてきた立場であったこと、フランスに学んだことを含め国際的な視点で問題を捉えていること、その結果難民問題のとらえ方が非常に地に足がついた現実的なことである。著者は、難民保護の安易な理想論に対して、「難民保護の限界」をしっかり考え把握することの重要性をなんども説いている。
 ごく普通の人間の自然な感情として、「人権」・「人道」尊重の崇高で美しい思想からみても、困っている難民をなんとか救済すべきだという主張は、否定しがたい強い力がある。2015年9月トルコのギリシアに対面するフェネーの海岸にクルド系シリア人の3歳の少年の遺体が打ち寄せられ、その悲惨な写真が世界中に拡散され、ドイツのメルケル首相が制限を設けない難民の受け入れを表明し、「慈悲深い母」として世界中から賞賛された。日本でも、朝日・毎日新聞をはじめとする多くのメディアや人権派あるいはリベラルを自称する人たちが熱心に賞賛していたことは記憶に新しい。
 しかし著者は冷静に以後の経過を丁寧に追って、メルケル首相の対応は理想を追い夢を追い、結局行き詰まって破綻している厳しい現実を冷徹に指摘する。メルケル首相だけではなく、EUを推進した人たちは総じて、現在EUそのものの厳しい動揺を体験している。
 難民受け入れは、難民認定審査のための膨大な時間と人的負荷、難民支援の経済的負荷、受け入れた難民への職業の付与、受け入れた難民の受け入れ国への同化への支援、就職から洩れた人たちへの生活保護、などなど非常に大きな経済的・時間的・労力的負担が必要となる。生活文化が異なる人たちが入ってくることによる住民同志の軋轢や、周辺住民のストレスが発生するなど社会的負担がある。さらに、最近ヨーロッパで実際に発生しているように、テロや犯罪を引き起こす人たちを国内に引き入れる可能性がいなめない。まさに国家としての安全保障に直接関わる深刻な問題が発生するのである。沖縄米軍基地の米兵でさえ受け入れたくないような人たちには、到底受け入れることは不可能だろう。長期的には、政治の複雑化・不安定化、さらには人口構成・民族・文化構造の変容まで起こりうるのである。
 メルケル首相を賞賛した人たちは一方で、朝日新聞・毎日新聞などのメディアとともに、日本の安倍首相の難民問題に対する態度を強く批難した。元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏も「リスクなしに良いことなんてできない」「難民の受け入れこそが積極的平和主義だ」と朝日新聞記者のインタビューに発言した。しかし著者は、現在の日本の慎重な態度こそが、難民救済の限界を弁えた妥当な判断である、とする。
 私自身も、難民問題についてはわが国がいささか消極的すぎる、慎重すぎるのではないか、と思っていたが、この本が説く難民受け入れによるヨーロッパの深刻な実情をみると、考えがより慎重になった。無責任なメディアや人権論者たちだけでなく、一部の保守系の人たちのなかにもたとえば竹中平蔵氏のように、経済振興のために外国人労働者を導入すべきとする人たちがいる。しかし著者がいうように、人材不足のときに受け入れた人たちを、不況や経済構造転換がおこって不要だから送り返すというわけにはいかない。一度入ってきた人たちは、当然家族が増えるし、また家族・親戚を呼び入れるのは自然な成り行きである。安易な外国人労働者導入は、難民受け入れと同様に、きわめて慎重に考えるべき問題である。
 難民問題に対して、受け入れをより積極化すべきと主張したり、メルケル首相を賞賛したい人たちには、是非一読していただきたい本である。

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岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社、2016.9

  一月あまり前に購入したキンドルは、ちいさな体積かつ軽量で大量の本を携帯でき、バックライトもあって薄暗いところでも読書ができ、とても便利なことはわかったものの、私が読みたい本のkindle版の提供がきわめて少なく、新たに購入しようにも買うものがなかった。そんな中で偶然知った本がこれであった。さほど期待したわけではなかったが、ともかくキンドルで読むものが欲しいというのが優先したのが実情である。
  さて、読んでみると、いくつか良い点があった。まず、哲学にさほど予備知識がない我々に配慮されているらしく、用語も平易なものに限られ、文章も読みやすく書かれている。おかげでごく短時間に読み終えることができた。著者が対象について考える姿勢も、じゅんぶん真摯なことがわかる。第一印象としては、好感がもてる。
  その反面で気づいた問題点、欠点について書く。
第1章「世界の哲学者は今、何を考えているのか」は、哲学に予備知識がない読者のために、現代の哲学の状況を平易に概説しようとしたものである。たしかにごくごく限られた紙面としては、かなり健闘しているとは言える。しかしながら、やはり現代哲学のごく一部をごく端折って説明したにすぎない。たとえば、この本より半年ほど前に出た船木亨『現代思想史入門』ちくま新書 が、少し厚い550ページとはいえ目的にてらしたら不十分な紙面を用いながら丁寧に現代思想を説明しているのに比べると、その簡略さ、粗雑さが際立ってしまう。この章は、むしろ省いてもよかったのかもしれない。
  以後第2章から、いわば本題としての各論に入る。第2章「IT革命は人類に何をもたらすのか」は、技術者としてこの分野に相対的には詳しい私からみると、いささか表面的すぎ軽すぎる論述である。私としては、技術的効能・功罪でなく人間の意識・知性・感情など、技術者などこの分野に詳しい人たちが不得手とするような切り口から、もっと鋭く説いて欲しかった。
 第3章「バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか」についても、あまりに一般的あるいは表面的な論考に終始しており、われわれ市井の平凡な人間たちがほんとうに悩む問題についての論考がない。たとえば現在世界で、とくに日本で、DNA技術を導入した食品の採用あるいは規制について大きな議論がある。たとえ安全性がかなりの範囲で実証されても、人間の感情はなかなか受け入れがたいということがある。食品を工学的に創生することも、現時点ではほとんど不可能である。食品の安全性は、有史以前からの経験的な安全性確認の膨大な蓄積にうえに立っている。このような安易に論じにくい問題を含むのがバイオテクノロジーであって、そういう困難で深刻な側面から目をそらしている限り「ひとごと」の安穏で無責任な議論に終わってしまう。
 第4章「資本主義は21世紀でも通用するのか」については、著者は経済活動の目的を問い直すことで、ありがちな安易な資本主義批判に陥ることは免れているが、本人も触れているように、結局どうすべきなのかについての主張はない。そのため、毒にも薬にもならない「お話」に終わっている。
 第5章「人類が宗教を捨てることはありえないのか」についても、「ひとごと」的な文芸批評あるいは文化批評にとどまっている。この問題については、著者が自分自身の宗教的立場を明確に示したうえで論じない限り、読者は信用できないし意味がないのである。
 第6章「人類は地球を守らなくてはいけないのか」について、「有識者」にありがちな単純な環境保護の主張に陥らないのは評価できるが、その一方で「世界的権威の集合が言うことだから傾聽すべきである」などと言われると、興ざめしてしまう。私は、貴方の考えを聴きたいのである。
 著者は、ものを考えるとき対象から距離をおいて多面的に考えることが重要だという。それはそのとおりだと思う。しかし、この本でも明らかとなっているが、ああ言う意見もあるし、こう言う人もいる、と連ねるだけでは無責任な評論家と同じに見える。いろいろな主張をできるだけ紹介していただくことはとてもありがたいが、読者の見識をもっと信頼して、「自分はこういう立場で、こういう主張である」ということを明確に述べていただきたい。もちろん読む側としては、賛同できたり、同意しかねたりするだろうが、明確な主張をぶつけられてこそ、読み手側も思考が刺激されるのである。
 著者は、文学部廃止論などにも反応してこの本を書いたという。私は、文学部廃止などという粗雑な考えには反対する立場の理科系出身者であるが、学問的成果にもとづく主張を明確にできなくては、大学や学部の存続以前に学問自体の存在意義が説明できないだろう。哲学者ももっと自信をもって研究を進め、自信をもって堂々と主張していただきたい。私たち平凡な一般人も、哲学を必要としている。

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國重惇史『住友銀行秘史』講談社

 偶然この本が話題となっているのを知って購入した。
 読んでいるうちに、あのバブルのころをかなり鮮明に思い出した。私はちょうどこのころ、企業グループで新たに設立するシンクタンクへ出向した。その辞令をもらった副社長から「最近は経済が急変している。フローの意味が著しく減って、ストックが異常に重みを増している。その様子と原因・要因を調べて理解してこい」と言われた。
 異常な景気過熱とともに、インフレが進み、なかでも不動産価格・地価が急騰して、ささやかな土地、ちっぽけな一戸建て住宅が、軒並み1億円の大台を超えた。私たちのようにまっとうにサラリーマン生活をする者にとって、一生費やしてもそこそこの一戸建てマイホームはとても持てそうになかった。その一方で、少し目先の効く(そのように見えた)人たちは、いとも簡単に億円単位の収益を獲得した。目に見えて物価が上昇するので、たいていの人たちは日常的に高額の買い物や消費を平気でしていた。
 イトマン事件はそのような環境のなかで発生した。老舗の中堅繊維商社であったイトマンが、創業者一家の経営者が絶えたのをきっかけに、メインバンクから社長を迎え、その社長も無能ではなく、当初は順調に業績を拡大した。しかし、おりからのバブルで本業とは異なる不動産に参画するようになり、その推進のため伊藤寿永光という生まれついての詐欺師をイトマンの役員に迎えてしまった。伊藤寿永光は、許永中というこれまた反社会的勢力とも関わる詐欺の専門家とつながっていた。伊藤と許という詐欺の天才に見込まれ、つけ込まれ、さんざん金づるとして利用されたイトマンは、自らの巨大な損失補填を住友銀行に頼った。伊藤と許は、今度は住友銀行を金づるにした。
 伊藤と許を除いては、イトマン事件関係者にほんとうのワルと言うべき人物は存在しない。ただ、少し小賢しく、少しケチくさく、ささやかな欲望に逆らえなかったという人たちは、たしかに少なからず存在した。その弱みを伊藤と許は巧みにつけ込み、彼らを深みに陥れていった。結果として、戦後有数の大きな経済犯罪事件となった。
 私は偶然にも、この事件関係者の何人かを間近に見て生活していた。そういう意味では、まったくの他人事とも思えないし、懐かしさすら感じる。
 この本を読んで、私自身は到底このような仕事はできないと思った。私は、地味地な製造業で堅実な技術者として過ごせたことが幸いであったと思う。まあしかし、あのバブルという背景がなかったなら、やはりこのイトマン事件も発生しなかったと思う。
 著者は、四半世紀ぶりに当時の極秘メモをもとに、この事件の裏側を克明に開示してくれた。とても貴重な貢献であると思う。ただ、事件を外から見た概要についての説明は少ないので、この本を理解するためは、多少イトマン事件についての予備知識が必要だろう。さらに、やはりバブル時代の雰囲気をほんとうに理解できない限り、この事件に対するほんとうの理解はむずかしいと思う。

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坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』

  友人のコメントがきっかけで、坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』岩波書店、2008 を読んだ。解説によると、坂口安吾の全期間にわたる代表的エッセイが精撰収録されている、という。
  370ページ近くにわたる分厚い本だが、坂口安吾の言いたいことは一貫していて、人間には頭脳があり、知識があり思想があり倫理があるが、その一方で肉体があり苦悩があり悲哀がある。この頭脳と肉体の両面にわたっての思想であり感情であり情緒でなければ本物ではない、というものである。そしてそういう本来的に多面性をもった人間の「孤独」から「本質」や「生きる意味」を絞り出すことこそが小説あるいは文学である、とする。この視角から、小林秀雄、徳田秋声、志賀直哉、島崎藤村などを次々に批判する。その批判の舌鋒は宮本武蔵にまで及ぶ。
 表題作のうち「日本文化私観」については、私はさほど感銘を受けなかったが、「堕落論」はこれが書かれて発表された時代背景を考えるとき、大きな反響を獲得したことはよく理解できる。さきの大戦で、政治のため、また戦争を継続・維持しようとする社会のため、坂口安吾たち国民はさまざまな規範を外から強いられて、坂口安吾が「人間の本質」というところのものを抑制され踏みにじられた、という意識が強かったのだろう。そういうさまざまな外部からの柵を否定して、人間本来の姿・状態を取り戻すことこそが安吾の言う「堕落」であり、すなわち理不尽な外部からの規準の限りにおいての「堕落」であって、もちろん一般的意味での堕落ではない。
 坂口安吾という人は、小説家だけあって文章はしっかりしているし、用いる言葉・語彙も慎重かつ正確に選ばれているし、実に緻密で誠実な文学者であると思う。「無頼派」と呼ばれたらしいが、このエッセイ集だけでも、単なる「淪落者」あるいは「無頼者」にほど遠いことはわかる。頭脳も肉体も理性も感情もある人間の本質の立場で考え、捉えるべきだということを主張しているのであって、結果として坂口安吾の言っていることは実にわかり易いし、納得性も高い。読み手にとって、安吾の主張の多くは、受け入れることが容易だろう。
 その反面、人間の多面性に対して常に全面的に配慮し覆うような立場という視角は、読み手にとってわかり易いけれども、大部分の主張には既視感がある、誰にとっても陳腐である、という傾向が必然的にともなう。大変な熱弁で説いていて、ひとまずなるほどとは思う。誰でもがなんとなく感じたり、思ったりしていることを、文学者らしくわかりやすい文章にしてくれている、と感じることも多々ある。しかし優れたエッセイにある「はっ、とする」、「目から鱗」などという、感動する、感銘を受ける、というような、思いがけないことに出合うような、新鮮さを感じるような指摘が少ないのである。
 坂口安吾は人間の多面性を常にベースに置くべきだというが、人間の思考はときに意図的に偏った視角で人間の特定の部分的側面を掘り下げることで、はじめて新鮮な事実や真理が明らかになることもあるのではないだろうか。
 あと相対的には些細なことだが、坂口安吾は「文章が美しいなど意味がない」という。しかし、私は永井荷風や福永武彦の美しい文章が好きであり、そのような美文はこの後も作家に期待しており、安吾のこの意見には同意することができない。
 全編を読んで、それなりに充実した時間であったけれども、坂口安吾のエッセイは、後々まで印象に残り記憶に残りそうなところが意外に少ないのも事実である。

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福島章『ストーカーの心理学』

  ベテラン女優の息子がテレビドラマなどでようやく日の目を浴びるようになったと思ったら、ロケ先のホテルで従業員に性的暴行を働いて逮捕されたとか、東大の学生が卑猥な目的を秘めて学生サークルをつくり、他大学の女子学生に強制猥褻を働いたとか、最近性に関わる犯罪や事件が相次いだ。明治時代以来の刑法を変更して、強姦罪・強制猥褻罪の「申告制」を辞めるという話題もある。そんななかで、福島章『ストーカーの心理学』、PHP新書、1997 を偶然知り、読んでみた。
 「ストーカー」という言葉は、1995年から翻訳本によって取り入れられた比較的新しい言葉である。ストーカー問題がすべての性犯罪をカバーするわけではないが、その心理的・病理的な側面を把握することは、性犯罪や性にかかわる事件を理解するうえではおおいに参考になると思われる。著者である福島氏は、東大の精神科医で、性に関わらず多くの犯罪の精神鑑定にかかわってきたという。
  福島は、ストーカーの行動・アクションを5つのタイプに分類する。
①インノセント・タイプ: 被害者側にはストーカーの加害者にもともと何の関心も知識もない
②挫折愛タイプ: 被害者が一時的にでも加害者となんからのかかわりがあった
③破婚タイプ: 被害者が加害者と、一時期実質的な結婚生活を送った
④スター・ストーカー: 被害者がタレント・アイドル・政治家など有名人
⑤エグゼクティブ・ストーカー: 被害者が社会的地位が高い、あるいは他人の相談をする
さらに、ストーカーの精神医学的な病理をこれもまた5つに分類する。
①精神病系: 精神分裂病などの精神病がすでに発病したうえでの異常行動
②パラノイド系: 妄想をもつ以外はほとんど正常
③ボーダーライン系: 精神病と神経症の間、あるいは境界人格障害、きわめて不安定
④ナルシスト系: 自己愛性人格障害で、拒否されることが受け入れられず自己中心的
⑤サイコパス系: 反社会的人格障害、被害者を欲望の対象、単なるモノとみる、凶悪
福島は、このように、行動と精神病理の2つの軸から分析し、それぞれのケースに相当する実際に発生した具体例をひいて詳しく解説している。
私はこれまで精神医学や心理学的なアプローチについてまったく知らなかったので、性犯罪や性的異常行動について、まずはしつけの問題あるいは道徳の問題という理解が中心であったが、これを読んで、精神医学的な要因が重要であることを知らされた。性の欲求は生物の種の保存のための本能的欲求であるため、道徳的規範や自制心のみで制御しきれない範囲があり、ほんらいむずかしい問題であるとは思っていたが、さらにそのうえに精神病理の問題が絡んでくるので、非常に複雑なようである。性犯罪に潜む問題は、実は非常に複雑・多彩であることを前提に考えなければならない。メディアが興味本位で煽ったり囃したてるような単純な問題ではない、ということに十分注意する必要がある。
それにしても若い男女、とくに若い女性にとっては、日常生活の周辺にさまざまなリスク要因が潜んでいるということであり、この書に記されているような事実をよく知って、十分注意して行動しなければ、いつなんどき理不尽な不幸に見舞われないとも限らない、ということのようである。どうすれば性犯罪やストーカーの被害を遠ざけることができるか、というと、この書でも「ノー!とはっきり言えること」、「まず自分自身が自立できること」、「つきあう相手も自立できる人間を選ぶこと」など、かなり常識的な結論になっている。ただ、この書が強調することは、精神医学や精神病などの要因を忘れぬよう頭のどこかに置いておく必要がある、ということだろう。
若い女性たちには、この書の範囲程度のことは、ぜひ知っていただきたい、と思う。

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『天才』石原慎太郎、幻冬舎

  テレビでこの本の存在を知り、今年の4月初めに市立図書館で探したら、貸し出し中で予約は270人待ちだという。その時点では、市立図書館全体で7冊の所蔵があり、まあ急ぐものではないので、予約を入れて待つことにした。今では市立図書館全体で15冊の所蔵があるという。そしてようやく半年以上経過した10月も中旬になって、ようやく借り出すことができた。
  手慣れたベテラン小説家の文章であり、流れもよく読みやすく、半日も経たずに読み終えた。「田中角栄」という希有な政治家の人物像を描き出そうとした小説である。報道でもなく、実話だけでもない。当然、著者たる石原慎太郎の見方、考え方が描かれている。
  石原慎太郎は、現役の政治家のときは田中角栄に反発し、激しく攻撃もしていたことは、私でも知っていた。しかし、引退して当時を振り返って、当時の田中角栄と自分自身を客観的に見ると、日本の政治状況がおかれた国内・国際の環境にてらして、石原慎太郎は田中角栄と対立する面よりも、はるかに多くの「共に立つ」側面を見いだしたのであろう。
  小説ではあるが、当然著者たる石原慎太郎の田中角栄像であり、人物評論である。こういう作品に対して「客観性」や「事実か否か」を求めて、あやしげなジャーナリストたちが書いた本の方が「まとも」だとか「よりためになる」などと言っても、それは全く的外れな書評であろう。人物評は、評者の主観が入ってこそ説得力をもち魅力あるものとなる。
  団塊世代の私は、学校を出て社会人になって,まもなく田中内閣の時代を迎えた。中年のころに、彼の死を伝え聞いた。田中角栄は私たち団塊世代の親の世代に近く、政治家になって以降の田中角栄の活動の多くは、私の幼いころ、若いころの人生と重なっている。そういう意味で、登場人物の多くは多少とも聴き知っていて、なつかしさもある。
  私自身は田中角栄の現役時代、田中角栄に対してとてもエネルギッシュな人物だとは思ったが特段の好悪の印象はなく、石原慎太郎に対しては恵まれた環境に生れて好き勝手なことをやっている男だという印象以上のものはなかった。後にはそれぞれの印象が少しちがうものとなった。ともあれ石原慎太郎という作家・政治家が見た田中角栄像がわかりやすく鮮明に描かれた作品として、値打ちある本である。

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