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書籍・雑誌

海堂尊『蘭医繚乱』PHP、2024

 現役医師で作家の海堂尊による長編伝記小説である。
 私は、この本の主人公のひとりたる佐藤泰然ゆかりの千葉県佐倉市の佐倉順天堂記念館を近く訪れる予定があり、その準備のために読んでみることとしたのがきっかけであった。Photo_20260403054801
 果たして読んでみると、実在した人物の生きざまが、とても生々しく詳細に語られていて、没頭して一気に読み切ってしまった。実在の人物を、目の前に居るかのように心理描写も含めて描くというのは、その詳細な部分の内容が到底信じがたいと思いながらも、強く引き込まれるのである。
 性格も人生観もまったく違う緒方洪庵と佐藤泰然が、互いに反発を感じつつも、ともに類まれな能力とエネルギーを最大限生かしつつ強い意思で生き抜き、互いに影響を与え、また受けて違う道を歩む。
幕末の日本の大転換期に生きたがために、ともに医学と医療に没頭することを目指しながらも、当時の最先端の学問たる蘭学に関わったために、医学・医療からはみ出る活動にいやおうなく巻き込まれる。洪庵も泰然も、自身が傑出した人物であったにとどまらず、類は類を呼ぶ必然から、相次いで傑出した弟子たちに囲まれて自分の意思や意図を超えた人生を歩むことになる。
 稀有な能力をもった二人だが、もしこの時代に生きていなければまったく違う人生だったろうと思う。時代を推進した二人だが、時代が生み出した二人でもあった。
 私は、たまたまこの本に出てくる一冊の書物『袖珍内外方箋(しゅうちんないげほうせん)』の全文を翻刻したことがある。それは、「謨烏普刺歇」すなわちオランダ人医師Martin Wilhelm Plagge(プラッヘ)が著した西洋薬学書を、緒方洪庵が長崎に留学していたとき、そこで出会った青木周弼(あおきしゅうすけ)、伊東南洋、岡海蔵とともに翻訳した書籍である。洪庵が長崎に滞在したのは天保7年(1836)2月から天保9年(1838)1月であり、洪庵が20歳代後半の若き修業時代の仕事であった。この翻訳書は、板行されないまま稿本の写本として、天保年間にもかなり広く流布していたらしい。偶然とはいえ、緒方洪庵が若き日に格闘した翻訳書の原文に出会ったことは、私にとっては貴重な経験であり、この伝記に没頭するひとつの要因ともなった。
 洪庵も泰然も、私たち凡人の境地をはるかに超えたところで生きたが、それでもその思考や行動に、さもありなんと思わせる部分も多々ある。
 読書感想をとても簡潔にはまとめきれない、強烈な印象の本であった。

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東京大学「気候と社会連携研究機構」編『気候変動と社会』東京大学出版会

IPCCの科学的予測には不確実性が残り、かつ彼らの事実認識には疑義がぬぐえない
 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告は「科学的で疑う余地がない」というヒトがいる。その一方で、そのIPCCのメンバーでもある杉山大志は著書『データが語る気候変動問題のホントとウソ』においてIPCCの主張に多くの間違いがある、という。アメリカ民主党オバマ政権の科学分野のブレーンであった科学者スティーブン E. クーニンも著書『気候変動の真実』において、IPCCの主張は科学的というより多分に政治的で公平でない、と懐疑的である。この方面に特段の専門的知識がない私としては、それぞれの主張を虚心坦懐に読んでみて、できるだけ納得のいく理解を得たいと思い、このたびは、IPCCの立場を代弁すると思われる東京大学「気候と社会連携研究機構」の著書を読んだのであった。Photo_20260226055601
①IPCCの論拠は科学的に正しいか
②IPCCが把握しているファクトは正しいか
③IPCCが主張する気候変動の事実と将来予測は正しいか
が主要なポイントである。
(1)IPCCの論拠は科学的に正しいか
 これについては、主に第3章で述べられている。
 温室効果ガス、そのなかでももっとも主要な二酸化炭素による気候温暖化は、多数の研究者の成果に基づくシミュレーションによって予測されている。気候温暖化のような「気候変化」は長期的な気候の変化、とくに重要とされる地球全体の表面の気温(全球平均気温)の変化を対象とするものであり、日々の短期的天気予報とは、考え方も基本的なアプローチも大きく異なる。二酸化炭素を放出して自然のバランスを崩すのは人間の生産活動であるから、人間がどの程度二酸化炭素を排出すれば、それがどの程度の全球平均気温の上昇をもたらすかを、科学的に精緻なシミュレーションで求めよう、というものである。
 このシミュレーションは、環境の変化とそれに対する人間のアクションとでもたらされる結果を求めようとする。環境に対しては物理科学的なモデルを設定して「環境システム」を客観的に設定できるが、人間のアクション、すなわち社会経済的な変化、環境関連技術の進歩などは客観的に定義できないので、いくつかのシナリオを設定してそれらのシナリオごとに試算することになる。
 さらに、「環境システム」たる自然はとても多様で複雑で、気候に関わっている自然現象がすべて把握できているわけではないので、我々の知り得ない自然の「内在的」な変動要因があり、これも当然シミュレーションの結果に不確定要素として入ってくる。
 シミュレーションの有効性の評価のために、過去の事実をシミュレーションで再現することを行うが、上記の不確実性が免れないため、シミュレーションは直接ひとつの確定した結果をもたらすことはできなくて、直ちに過去の結果とは一致しない。しかし、あり得る範囲のできるだけ多くのケースを想定して複数のシミュレーションを行い、それらのなかから過去の事実に合う結果が得られれば、そのシミュレーションがある程度事実を把握したと考えることができる。
 すなわち、確定的な結果を直接導くようなシミュレーションは存在せず、確率的・統計的に妥当な解を求めることができる、というのが現在の「科学的シミュレーション」なのである。
 シミュレーションそのものは科学的に行われるが、シミュレーションによる結果が、決定論的でなく確率的な蓋然性である、という点は重要である。気候変動が起こらない、と断定することが間違いである一方、スウェーデンの元少女、あるいは多くのメデイアが叫ぶように、断定的・確信的に気候変動を理解するのもまた間違いなのである。
 2021年ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏の気候変化のシミュレーションは、1967年1次元モデルで、さらに1975年3次元大気海洋結合モデルで、二酸化炭素濃度を2倍に増すと、地表で2.3~3℃の温度上昇が発生するとの結果を得た。1967年1次元モデルで、地球大気の気温の鉛直分布が、二酸化炭素濃度の違いでどう変わるかを、大気放射の物理に即して計算した。計算のモデルには、プランク応答と水蒸気のフィードバックのみしか含まれず、あくまで限られた条件下の計算ではあるが、IPCCの最近の計算結果3℃、また産業革命から現在までの温度上昇実測値1.2℃に近い2.36℃の地表での気温上昇を算出した。この結果を今から半世紀も前に得ていたのは凄いことである。とりわけ二酸化炭素濃度が2倍になったとき、高度15キロの対流圏界面では気温が上にずれ=温暖化、より高い成層圏では下にずれる=寒冷化という応答を示した。この変化は、ずっと後になって観測データで確かめられた。複雑な気象問題を、鋭い洞察で思い切った簡略化により、未だ知られていなかった大気圏の気温の垂直分布をあきらかにしたのは画期的であった。真鍋淑郎氏は、現在のIPCCのシミュレーション、とくに気候変化の物理的モデルの原型を提示したので、その貢献は大きい。それでも、シミュレーションの全体には既述のような不確実性、結果の確率統計的性格は残っている。
(2)IPCCが把握しているファクト=気象観測事実は正しいか
 これについては主に第4章で述べられている。
 この本では、気候変化による多くの懸念事項・問題予測が示され、その一部、むしろ多くは「すでに明らかになった」として書かれている。
 このファクトにかんする記述では、引用文献を見よ、ということらしいが、紙面のなかで具体的なデータの提示はほとんどない。この部分こそ杉山大志やクーニンが疑問視する、あるいは批判するところである。
 唯一、当たり前ながら産業革命から現在までの全球平均気温上昇が1.2℃であることはこの本も杉山大志もクーニンも同じである。気温上昇が皆無とする論者はいない。問題は将来的にどの程度の温度上昇と考えるのか、そして気温上昇に伴うさまざまな弊害をどう考えるか、である。
 平均気温の大きな上昇は、すでに世界的に認められているとこの本では言うが、杉山大志は都市部での気温上昇は二酸化炭素よりもヒートアイランド効果が2.8~3.2℃あることが主要因だという。
 気温上昇による災害の激甚化もすでに世界的に認められている、とこの本では文章で述べられるが、杉山大志は公表データを数値で引用しながらその事実はない、とする。クーニンも同様である。
 自然災害による損害についても、この本では経済被害も増加しているとデータなく文章で言うが、杉山大志は実績データを引用して、経済的被害の増加は物理的災害レベルそのものの激甚化ではなく、人間行動の経済成長が要因であり、当然のことである。一方で経済成長によって防災・救済能力が改善されるので、GDPで規格化するならば経済損失は減少しているという。
 この本でも、大雨の増加や旱魃の増加などに定性的に言及しながら、一部にはその確信度を「可能性が高い」「確信度が低い」などと併記しているのは、シミュレーションによる予測が本質的に不確定要素を免れず、確率統計的なものとならざるを得ないことから、断定的ではなく蓋然性として示そうとする意思が顕れている。それは、部分的ながらこの本の善意の表明なのかも知れない。
 いずれにしても、この本の最大の弱点は、このファクトの説明であり、主張をもっと説得性のあるものとするためには、少なくともここを数値データの引用を含む具体的なものとして欲しい。
 また、この本では太陽光発電に対して、すでに十分コスト低減が達成され、普及も進んでいると数値データなく述べているが、これについても杉山大志の指摘のように現実から乖離している。現在発電コストが低いように見えるのは、発電能力が時間的に大きく変動して実用のためには他の発電と丁寧に組み合わせて平準化する必要があるが、不当なまでに高い価格で買い取らされ、発電の時間的平準化を他の発電機(多くは火力発電)と組み合わせて送電する既存の電力会社のお陰なのである。結局その追加コストは、電力の使用者たる我々国民が電力料金の値上げとして支払っているのだ。また、二酸化炭素削減効果も、発電電力平準化のための火力発電の二酸化炭素増加分をきちんと相殺すべきである。
 さらに、太陽光発電パネルの老朽化時の廃棄も大問題である。体積・重量が大きくガラス、半導体、レアアースなど多様な材料が複合された太陽光パネルは、廃棄技術もその過程の費用も馬鹿にならない水準となるであろう。そういう範囲まで含めると、太陽光発電は実はとてもコストが高く、それは杉山大志の指摘の通りである。災害時にも光さえあれば発電が止まらないので、新たな感電被害の危険もある。製造はコストの事情から大部分が中国製であるが、杉山大志の指摘のように、人権問題を含むチベット地方の被抑圧貧民の安価な労働力を用い、かつ製造プラントごとに新設される石炭火力発電所による製造用エネルギーを必要とする、それだけでも問題の多い代物なのだ。そのうえ、太陽光発電のためにギガソーラーなど大規模太陽光パネルを設置するとき、たいてい広い面積の伐採・森林破壊が伴っている。これは二酸化炭素濃度増加に寄与するはずである。
 環境保全のために二酸化炭素削減を目指すとするIPCCの、甚大な片手落ちの一部だと、杉山大志は指摘する。
 私はほとんど情報を持たないが、時間的に変動する発電、大型の廃棄物の増加、広い面積にわたる二次弊害の増加などの問題は、この本(すなわちIPCC)が今後もっとも期待を寄せるもうひとつの再生可能エネルギーたる風力発電も、おそらく同様だろう。
 気候変動の表現も、たとえば二酸化炭素の海水吸収による「海水の酸性化」という表現は、「科学的」というには誇張が過ぎると思う。産業革命時代から現在までにPHが8.2から8.1に変化したというが、それはアルカリ性の範囲であり「酸性化」は誇張表現のように思えるのは私だけだろうか。
 これらの傾向をみると、クーニンが言うように、IPCCも科学者集団との触れ込みながら本性は政治的集団だから、そういう目でみないといけないのかも知れないとも思う。
(3)IPCCが主張する気候変動の事実と将来予測は正しいか
 クーニンも杉山大志も、温暖化が一切ないとはしていない。ただ、クーニンも杉山大志も、せいぜい3℃程度のゆっくりした気候変化なら、人類もその他生物もほとんど問題なく順応するであろう、と言う。それは私もそのように推測する。
 この本でも、将来の「激甚な気候変動」は世界の静穏な生活を破壊するかのごとく説いていて、しかもその責任を負わない先進国は倫理的に不正義だとするが、そこまで問題を展開するなら、その根拠たる「気候温暖化の根拠と予測」が、現状のようなせいぜい確率統計的な蓋然性だけでは、あまりに頼りない。二酸化炭素放出量をわずかに削減するためだけで、たとえば日本は今後10年間に150兆円を投入するという。私はそれだけの巨額投資に見合う意義のあるものだと確信できないのである。
 私は、気候変化の問題に取り組んでいる研究者の真摯な努力と学問的な進展には敬意を惜しまないが、不確実性が本来的に在り、その決定論的ではない蓋然性の結果から「もしかしたらこうなるかも知れない」という問題に、理不尽なまでの巨額の費消を我々が負わされることには到底納得しかねる、というのが結論である。

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プレディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は経済を語ろう』亜紀書房

国民に飯を食わせることに注力しないで何が民に寄り添うサヨクか、とは言うものの
 ちょっと奇異な長い題名の本だが、サヨクにかんする論考として参考までに読んでみることとした。
 まずこの本の内容についてかいつまんでまとめ、その後コメントを記す。

ヨーロッパ・アメリカ・日本の左派の状況についての認識
 現状の世界の左派の問題の本質は、下部構造(経世済民たる経済)を忘れたこと、つまり経済の問題、すなわち「すべての民衆が飯を食えることを保障する」という根本課題を等閑視していることにある。
 永らく日本が陥って多くの民衆が苦しんでいる不景気・デフレに対しては、反緊縮、財政出動による経済再生こそが必須なはずである。それは本来左派こそがやるべきだったのに、日本では安倍政権がやって、かなり成功してしまった。翻ってその前の民主党政権の場合、本来右派がやりがちなものであった緊縮財政政策を、左派(民主党)がやってしまうから国民の指示を得られなくなった。
 財政出動に対しては、すぐ財源とプライマリーバランスが問題視されるが、財源はお金を刷って出せば済むのである。国は政府とは違いお金を発行する権限があり(緩和マネー)、返済する必要はない。財政均衡のための緊縮は、弊害のみなのである。
 安倍政権が選挙に勝ち続けたのは、右派の思想が支持されたのではなく、本来左派がやるべきであった経済政策を実行したことを支持されただけである。安倍政権は、国民を救うことが目的でなく、安保法制・憲法改正のために経済政策をやったのであり、そのため途中から緊縮的な方向転換(消費増税)もあった。

著者たちが目指すこと
 著者たち全員がマルキストあるいは社会主義者を宣言していて、「ヴァージョンアップしたレフト3.0」を目標としている。
 「レフト1.0」はソ連・中国の中央集権的共産主義、「レフト1.5」は「レフト1.0」に対する反省から出た60~70年代の新左翼のことである。この間民衆側には活動主体の「労働者階級」→「学生」のシフトがあり、「レフト1.0」の上位下達への強い反感が顕れた。Photo_20251122094501
 「レフト2.0」では課題対象が、終わらない資本主義の豊かさの中での、消費社会論の枠組み(=下部構造軽視)とアイデンティティの問題にシフトし、貧困者の問題よりそれぞれ個人の在り方の問題へのシフトが起こり、脱階級的な「市民運動」が「新しい社会運動」として展開した。「もはや成長はいらない」というメンタルがひろがり、それはソ連崩壊後の90年代にピークを迎えた。
 「レフト2.0急進派」はイスラムゲリラに連帯したり、武装蜂起したりした。「レフト2.0穏健派」は、レフトとも呼べない「第三の道」(ブレアなど)や日本の民主党政権などになった。政府官僚依存への忌避感から「大きな政府」には批判的となり、アナキズムに向かう者と、市場原理補完を目指す者とが出現したのである。
 しかし、中間層の没落、不況の長期化が起こって、ほんとうに貧困な人々が出てきて豊かな社会とは言い難くなり、反成長主義、緊縮政策の問題が露呈した。マクロには、「下部構造=経済の軽視」が大きな問題であった。「働いて飯がちゃんと食える」ことこそが、なにより民衆にとって大事なのだ。「レフト2.0」は「豊かさの上に立った豊かさ批判」だった。
 これから進むべき「レフト3.0」は、「大きな政府の復権」「労働者の階級的視点の復権」そしてなにより「経済の重視=脱緊縮主義」が基本となるべきである。

感想とコメント
 社会主義者を自認する著者たちは、左派らしく懸命に自民党を批判する(したい)が、対案としての「レフト3.0」における具体的な政権運営のプランが、ほとんど不分明なままである。マルクスが晩年言ったと斎藤幸平氏もいう「市民参加の柔軟なアソシエーションによる政府」などの文言が出てくる。しかし政府は強力な権限を持って政策を推進するかわりに、政策実施の結果に対しては責任を問われるし、当然責任を負うべき存在である。著者たちは「アソシエーション」のみならず「自由なアナキスト」たちにまで期待するなどとするが、極端なアナキストでなくても、明確な組織を持たない市民(私はこの言葉のきちんとした定義を知らないが)のアソシエーションが政治を行うとき、どのようにして政治責任を担保するのだろう、と率直な疑問がぬぐえない。
 また、経済学者松尾匡氏がいう「お金は国が刷れば済む」というのも、無責任かつ現実性がないと思う。少し前にアメリカ民主党のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス議員が、「財政出動に必要な金の問題は、政府が札を刷れば済むこと」と発言していた。これももちろん大胆な発言だが、アメリカは日本と違って米ドルが世界貿易の基軸通貨であり、アメリカが発行する米ドルは世界中のだれもが欲しがるので、すべてがアメリカ内に滞留するわけでなく、貨幣増加の弊害がかなり抑制・遅延されるという特殊事情がある。
 著者たちが指摘する、現状の左派が「経済を重視せず、緊縮財政に同調的」という点と、なにより「働いて飯が食えること」が民衆にとってなにより大切という点は、とても説得力のある主張であると思うが、その望ましいあるべき政治の実施方法については、説明が非常に脆弱であり、到底実現できそうにない。いかにも机上で考える学者、あるいは無責任な評論家の議論のように思えた。

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スティグリッツ『資本主義と自由』

アメリカの資本主義の状況とその対策についての詳しい論考
 まず著者ジョセフ・スティグリッツの論点を要約する。
 1960年代からハイエクとフリードマンが「新自由主義」を唱え、現在に至るまでアメリカの経済システムの考え方の主流となっている。Photo_20250911061801
 それは経済活動は自由で効率的な競争的市場に任せさえすれば、市場が持つ合理的な競争原理によって自ずからあらゆることが最適化され、最大利益が達成される。政府は財産権の保証と契約の実施の担保のみに専念すれば、すべての経済活動はイノベーティヴにうまく機能して社会全体も潤う、というものであった。
 しかしとくに2008年のリーマンショック以来の経済的混乱を経て、自由市場を過信する新自由主義にもとづく経済システムが、多くの欠陥を露呈した。
 誰のものでもない自由でオープンな競争的市場というものは現実には存在せず、実際には富裕者が市場を支配し、不公正な取引が横行していた。新自由主義は「自由」を最重要視するが、市場に関わっている一部の企業や人びとが自由を確保すると、必ず自由を制限される人びとが発生した。利益は少数の人びとに独占され、損失は社会に共有される事態となっていった。その結果、ごく一部の企業やヒトが潤うことはあっても、社会全体が潤うことはなく、国民の経済格差が拡大した。
 このように市場機能が失敗したのは、規制なく放置された市場は、公平で有効な競争的状況にはなく、さまざまな外部性が関わって不公正で搾取的になっていたからである。外部性とは、個人や企業の行動が市場を経ずにほかの経済主体の行動に影響を与えることである。
 競争力の源泉たる研究開発には、市場に関係ない国家あるいはなんらかの公的な支援があるのが普通であり、その有無の間には不公平があった。参加する人びとの価値観、道徳観は多様で、独占や搾取が横行しても阻止できなかった。取引の前提となる契約は、公正・公平なもののみでなく、片務的・搾取的なものも多々存在した。市場に参加する企業や人びとも、新自由主義が謳う均一の道徳をわきまえたおなじような性向の持ち主ではなく、独りよがりの不道徳な者がいた。
 これらの道徳的でない不公正な企業や人々の行動に対しては、市場機能の維持のために、それを阻止・管理できる政府の介入が必須であった。
 経済は政治と切り離せないため、アメリカの政治まで新自由主義経済の影響を受けた。不公正な市場経済から生まれた富裕者と貧困者の格差の拡大は、社会の分断を引き起こして、アメリカ社会全体の不安定性をもたらしている。
 スティグリッツは、そのような事態を改めて、自由で公正な社会をつくるために、今後は「進歩的資本主義」として、特定の企業や個人でなく社会全体の繁栄を目指すルールや規制を取り入れた、新自由主義を脱した新しい政治経済システムが必要だとする。それは、個人の自由が他者の自由に関与することを自覚し、道徳的立場を尊重して共有し、富の極端な偏在を認めず、経済に妥当な政府の介入を含む、「新しい社会民主主義的な社会」だとする。
 以下、この本を読んでみて考えたことを記す。
 これまでアメリカの経済活動のベースとなっていた新自由主義の実情についての詳しい分析があり、その問題点も分かり易く丁寧に解説されている。
 2016年3月、時の首相安倍晋三は、数年前に民主党政権の末期2012年に国会を通過した「社会保障と税の一体改革」による消費税増税が、アベノミクスで改善中の景気に水を差すのを懸念して増税の継続的先送りのために、官邸大会議室にスティグリッツとポール・クルーグマンを招いて国際金融経済分析会合を実施した。
 この論考のなかで述べられている「政治とはなにか」の文章は、適格で妥当だと思う。
 政治の目的は、集団でなすべきことにかんする考え方に大きな違いがある世界を渡り歩いて行くことにある。そのためには、巧みな駆け引きが必要になる場合もあろう。ある領域では一方がおかしいと思われる判断、すくなくとも理想的でないと思われる判断を受け入れ、その見返りに別の領域では他方が、納得のいかない判断を受け入れ、全体として合意に至る。細部には不満が残ることもあろうが、全体的な結果には調和がある。その結果、最終的にはほぼ全員の合意さえ得られるかも知れない。こうした幅広い合意から生まれる社会的結束が利益をもたらすのだと、市民も理解する。
 ただ、新自由主義がヒトラーやプーチンなどの権威主義的独裁を招来したとの説、また第二次世界大戦前後のフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策を賞賛する、などについては、他の研究者の論考との相違もあり、私は賛同できない。
 新自由主義者は共和党支持で、富裕になった企業や人が、政治まで牛耳って民主主義を踏みにじるとするが、ディジタル先端技術・産業などを発展させ代表的な富裕者も多いシリコンバレーは、ずっと民主党支持が多数派であり、大統領候補に対する金銭的支援でも目立っていた。直近大統領選挙時の民主党ハリス候補も、選挙運動費の獲得ではトランプ候補より優勢であったと朝日新聞は報じていた。富裕者が経済のみでなく政治までをも支配しているという仮説がどこまで正しいかは、私にはよくわからない。
 また、スティグリッツが唱える「新しい社会民主主義」について、少なくとも相対的には、日本はアメリカよりもその傾向があると思う。日本は、さきの大戦の後、国家と経済の復興のために、政府、たとえば通商産業省などの政府機関が関与・指導しながら経済が発展してきた、という事実がある。現在に至っても、政府の経済政策への国民の期待は大きいし、中央銀行の金融政策も重視されている。現在の時点では、その限界も露呈しているのだが。
 「新しい社会民主主義」という制度は、比較的小規模で、国民の均一性が高い、たとえばスウェーデンのような国では、ある程度実現性が見込めるかも知れない。少なくとも、日本でそれにいささかでも近い体制がかつてうまく機能した背景には、日本社会の同一性・均一性が貢献したと思う。その一方、とくにアメリカのように、人種問題を抱えた上に開放性が高く「不法移民」問題までかかえ、多様性・不均一性が大きく、良い意味でも悪い意味でも流動性の大きな国では、「新しい社会民主主義」を実現するのはかなり困難が想定されると思う。

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藤井泰則『杉本伝』デザインエッグ(株)

自前プール造成・クロール改良そして「水泳日本」の先駆者
 杉本伝(すぎもとつたえ)は、明治23年(1890)大阪市北区に生まれた。
 明治36年(1903)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高校)に入学、第9回生として卒業すると日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進み、明治44年(1911)卒業とともに母校の茨木中学校に体育教員として就職した。昭和14年(1939)茨木中学校を退任するまで、28年間の教諭生活を茨木中学校で全うした。
 茨木中学校着任の2年後に、大阪府知事から中学校で夏季水泳の訓練を必修にせよ、との訓令を受けたことが契機となり、生徒を動員して水泳訓練のための人工池を造成することを発案し、46日間の生徒の労力により、茨木川の河水を引き込んで、川の近くに長さ30メートル、幅18メートルの砂利敷の人口池を実現した。しかし、濁りが激しく不潔でもあり、そのままでは無理と判断した。Photo_20250625060001
 2年後の大正4年(1915)大正天皇即位の御大典記念事業として、校長は水泳池を造り直して本格的な水泳場とすることを同意・決断し、杉本の指導の下、校庭内に半年にわたるまたも生徒の労働奉仕によって、水泳場の造成が行われた。長さ42メートル、幅27メートル、深さ1.2~1.8メートルの、ひとまず立派な教育用の水泳場が完成した。
 この間、杉本は他府県の中学、高校、大学などの水泳教育についても研究を進め、全校皆泳を実現し、さらにスポーツとして他校との競技会に勝つために、水泳の教育法と泳法の改良の研究を蓄積していった。
 他校さらに世界と共通の基準で競技するために、水泳場を規格に準拠したプールへと改造することが必要であった。大正8年(1819)には、ついに規格に準拠した50メートルのプールを実現し、計測した記録を国際基準記録として認められるようになった。
 杉本はこのころに、泳法の改良を進め、日本の伝統的泳法ではなく、より合理的なクロールの導入と改良を進め、生徒とともに泳法に磨きをかけ、当時の中学生の水準をはるかに凌駕し高等学校生にも勝るレベルを実現した。大正9年(1920)東京帝国大学主催の全国競泳大会に参加した茨木中学校の競泳選手は、驚くべきことに多くの競技種目で高校生、大学生をはるかに凌駕して、総合優勝を獲得した。こうして大阪府立茨木中学校は、全国的にもトップクラスの水泳強豪校となった。
 杉本は、水泳の教育と訓練に必要かつ有効なプールの整備と、合理的な先進的泳法を研究し、大きな成果を達成したのであった。なにごとにも合理的かつ着実に取り組み、確実な成果を達成した。同様なアプローチで、水泳の飛び込み競技にも水球にも取り組んで、大きな成果を獲得していった。
 杉本は、こうして茨木中学校を水泳王国にするのみでなく、この後日本全国の学校でのプールの普及、泳法の改良に尽力し、わが国水泳のレベルアップに大いに貢献していった。
 典型的な成果が、昭和7年(1932)ロサンゼルス・オリンピックであった。日本は競泳男子22名、女子6名、水球9名の選手が参加し、5個の金メダル、5個の銀メダル、2個の銅メダルを獲得した。一躍「水泳日本」の名を、世界に轟かせたのであった。
 さきの大戦の最中、昭和14年(1939)杉本は51歳にして茨木中学校を退任した。戦後は、天理短期大学教授として、やはり水泳の指導をした。
 茨木高校同窓会の事務に携わった藤井泰則氏が、日本の水泳教育・水泳競技に多面的に大きな貢献をした杉本伝についての伝記がこれまで全くなくて、ほとんどその名も知られることがなかったことを知った。それが、この本を書く動機となったという。
 私自身、この茨木高校の出身者ではあるが、杉本伝については、これまでほとんど知らなかった。同窓生の大先輩だから、というわけでなく、ひろく尊敬すべきひとりのパイオニアとして、その人となりや経歴をより深く知るに値すると、興味深く読むことができた。

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河村小百合・藤井亮二『持続不可能な財政』講談社現代新書

借りたカネは返すのが当たり前との経済理論
 日本総合研究所のベテランエコノミストによる日本の財政政策、とくに国債の問題についての論考を読んだ。Photo_20250608060001
 欧米では政府から独立した「独立財政機関」たとえばアメリカではCBO: Congressional Budget Office(議会予算局)が国家のネット債務残高の見込みを提出するが、日本は内閣府がやるので甘々の見通しが発表される。このため、国民に危機意識が高まらない、というのがこの著者の警告ポイントである。
 以下、先ずこの本が述べる内容を要約する。

第1部は、このままではどうなってしまうのかを解説している。
 日銀の金融政策が国民の危機意識の不足を誘発した。極端な低金利を継続したために、国債の利払い費が増えなかったことが大きな誘因であった。そして国内の取引の金利は、国債の金利が基準となるのである。
 日本は国債の5割を日銀が引き受け、市場にでないため、市場メカニズムが機能しない。このため国債の金利は低いまま維持された。しかしこれはインフレが無い場合のみ持続可能なのである。インフレを抑制するためには政策金利を上げる必要があるからである。
 長らく続く低金利は、激しい円安を発生してきた。これは、国内で評価する企業業績を押し上げた。しかしいまのままでは、インフレが続くとともに外国に対して為替の円安が激しくなってしまう。日銀が金利を引き上げないから、インフレを抑制できない。このため、原状はさらにインフレ要因による円安も進んでいる。
 この対策としては、財政赤字と債務超過を免れるため、国債の売却と金利を上げることが必要となる。しかし日銀が政策金利を上げれば、日銀=中央銀行が債務超過に転落してしまうため、つまるところ大増税と歳出カットが必要である。
 2025年度時点の国債発行額は172兆円で、一般会計税収の2.2年分に相当している。

第2部では、行き詰まりを回避するためにどの程度の改善策が必要かについて述べられている。
 基礎的財政収支(プライマリーバランス)と政府債務残高の今後の推移見込みが、内閣府財政試算の見込みではとても楽観的だが、同じ対象のOECD経済サーベイの試算でははるかに悲観的である。
 OECD経済サーベイでは、消費税20%までの引き上げ、年金受給年齢先送りなど厳しい条件を追加したうえでも、見通しははるかに悲観的である。この大きな乖離の要因は3つ、
①内閣府の名目経済成長率の見込みが甘すぎる。特段の対策なしに自然に高成長するとの見込みである。
②その根拠のない名目経済成長率が、金利を上回ることを希望的に見込んでいる。
③金利とインフレの関係の矛盾。金利は常に物価上昇率より高いのが当たり前のはずで、内閣府の見込みたる低い金利は非現実的である。利払い費はもっと大きくて、基礎的財政収支をもっと厳しく悪化させるはず。
 中長期経済成長率は、ヒト(労働量)+カネ(資本投資量)+技術革新力(全要素生産性=TEP: Total Factor Productive)で決まる。人口減少が進み、財政が悪化し、技術開発の国際競争力が低迷傾向にある日本は、いずれの要因も非常に厳しいのが実情である。
 内閣府と財務省とで、今後の利払い費の見込みが、不思議にも毎年5~8兆円もの乖離がある。このような不自然な利払い費の過小評価が日本の財政健全度への疑惑となり、自由経済の国際市場において円が異常に低下する危険性すらあることを指摘したい。
 異常なまでに巨大な日本の債務残高だが、日本の場合は国内で貸し付けられていることがギリシアとは違う。それでも最近のコロナ対策の国債は、引き受け手がいないために長期国債とできず短期国債であったのが現実であることを忘れてはならない。高度成長時は、物価、給与、生産コストのすべてが上昇していた。それは歳出の増加を必然とするが、税収増で賄われていた。現状においては、国民生活を護るためにはインフレにあわせた歳出増は必須だが税収は低成長のため追いつかず、高度成長時と同じような財政再建は不可能である。同様に、インフレ時の財政増加を無視した「インフレで財政破綻が回避できる」も同様に不可能である。
 財政再建のためには、利払い費と債務償還費(定期的に毎年1/60ずつ返済分)が必須で、プライマリーバランスのみではまったく足りないことを強調したい。
 以上の結論として、国債の増加を止めるのみでなく少しずつでも確実に減らし、これまで積みあがった利払いも必要なので、プライマリーバランス達成などという甘いことでなく、具体的には最低限でも毎年30兆円規模の財政改善(一般会計115兆円の三分の一)が必要である。

第3部では、必要な財政改善実現のためには聖域なき歳出削減が必須であり、そのなかからとくに社会保障と地方財政の問題を論じている。
 社会保障費は年金62兆円、医療43兆円、介護14兆円、その他19兆円の138兆円になる。そのうち保険料(53%が個人、47%が事業主負担)が80兆円、国庫負担(税と国債)が38兆円、地方税が17兆円である。
 医療費は、1978年に8兆円であったのが40年余り経過した2021年には42兆円にまで増加している。その背景は、長寿高齢化、医療高度化などで不可避の要因によると思われる。
 医療費の負担状況は、当事者の自己負担分6.1兆円、公的医療給付費13.7兆円、保険料22兆円、公費14兆円である。医療費の半分は医師・看護師の人件費が占めている。
 2025年、815万人の要介護者がいるが2040年には1000万人へ増加が見込まれている。
 年金受給者へは、国民年金6.8万円/月、厚生年金11.5万円/月が平均で支給されるが、これのみでは生活困難だろう。
 昭和時代の夫=サラリーマン、妻=主婦を前提として成立していた第3号被保険者制度が、共働きの増加、結婚への柔軟対応化(非婚パートナーなど)など、もはや実態から乖離してきて、新たな不公平感が増加しつつある。
 地方財政は、その地方自治体内で自足するのではなく、地方交付税制度で、一般会計115兆円のうち19兆円(総額の1/6)が国から支給されている。税収では国税:地方税=63:37なのに対して、歳出では国:地方=44:56となっている。地方交付税、国庫支出金、地方贈与税で国から地方へ供与しているのである。
 国庫支出金は、受取側自治体の財政力に関係なく医療・介護、健保、義務教育などに目的別に支給される。
 地方交付税は、財政力の弱い自治体へ使途指定なしに(実態はブラックボックス)支給される。ただ東京都のみ圧倒的地方税収をもつため国からの支給は無い。地方交付税制度は、国の税収が足りず国債に依存(数十兆円)せざるを得ず、事実上破綻状態というのが実情である。

第4部では、日本の税制は平等・公正なのか否かが論じられる。
 2024年度一般会計予算の歳入は112.6兆円。うち税収が70兆円(60%)、公債金が35兆円(30%)である。税は、所得税、法人税、消費税の基幹三税が8割をしめている。
 しかし税には抜け道がある。租税特別措置(特別に免税する、2兆円以上)が環境問題対策費用(二酸化炭素削減など)、研究開発費、中小企業活性化、賃上げ促進、などに適用されているが、既得権益化している。
 金融所得への税率が一律20.315%と庶民の給与所得税率より低いことから、実態として金融所得比率の高い1億円以上の高所得者への税率が低くなる、いわゆる「1億円の壁」が発生している。
 その他、宗教法人無課税の妥当性の検証、開業医は税制が優遇されている、高齢者は金融資産で優位でかつ収入比率で増加傾向にある、などの問題点がある。

第5部では、改革の具体的な選択肢について問題提起がある。
 金利を上げれば日銀は赤字となり債務超過に転落するので、日銀は金利を上げられない。しかし低金利が続くと日本国の経済的信用が大幅に低下する。すべては日銀が国債を過大に買い入れたためである。
 欧米の中央銀行は、利上げして赤字・債務超過になったが、利上げと並行して国債を手放して中央銀行の資産規模を縮小し、赤字・債務超過克服の目処を立てている。こうして苦労しながらも信用を回復している。
 わが国では、国債の利払い費が今後の最大の鍵となっている。
つまるところ、国民(個人、企業)、政府の日本の構成員すべてが痛みを分け合って、真剣に財政再建を開始し、かつその努力を継続しなければ、日本が国家として破綻することになる、と警鐘を鳴らしている。

 以上のように、現在の日本の財政運営について、財源と歳出と負債の実情、そしてその中身の問題について、具体的なデータを詳細に提示したうえでの議論が、民間の経済専門家の意見として展開されている。
 国債の利払いの財源確保と債務縮小の必要性にかんしては、この本の著者のように、本来の貸借関係と同様に返済すべきとの正論としての議論がある一方で、古くは亀井静香元議員など、外国ではなく国内から借用する限りでは本質的に問題はない、とする議論が根強く存在して、経済学の門外漢たる私には正しく判断する自信がいまのところないのが実情である。
 日本の歴史においても、徳政令や大名貸しの一方的清算など、品が良いとは言えない道徳的でない強引な対処法も多々存在していた。アメリカでも、MMT: Modern Monetary Theory(現代貨幣理論)が提唱され、民主党リベラル派A.O.コルテス下院議員は、世界中から米ドルが欲しがられている以上、財政はドル紙幣を刷れば解決する、とトランプ大統領も驚くような大胆な発言をしている。
 それにしても、国債、すなわち政府の債務が無制限に拡大してもなにも問題が無い、というのも極端な議論だと思う。どこまでが許容範囲かの判断基準が、私にはわからない。
 さらに、低い金利がより激しい円安を招来する危険性もあり、そうなるとすでに懸念がある外国人による日本の不動産、とくに土地の買い上げの拡大を深刻に心配しなければならない。
 折しも現在、日本でも野党中心に「減税」が盛んに叫ばれている。この本の著者が言うとおり、最近の政治家は国債の問題をはじめからスルーしたまま、あまりにも安易に減税を主張しているのは事実だろう。私は市井の一老人に過ぎないが、少なくとも政治家はこの財政・税収の問題に対して、自分なりのきちんとした見解を表明して欲しい。
 ともかく、日本の財政の実情とその問題点についての詳細で丁寧な論述であり、この分野に疎い私には、大いに勉強になった。

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木村健『アメリカで医者をやるにはわけがある』

多元性のなか自由を重視するアメリカと均質な世間で協調を重視する日本
 約30年前に出版された本である。著者は、アメリカの現場の第一線で活躍しながらアメリカに永住するつもりで、実体験に基づいてアメリカと日本の違いについて考察し、文化エッセイを記しているので、とても具体的で迫力があり、説得力がある。
 極端に単純化してまとめるならば、世間のなかの個人を大事にする日本人と、個人の自由を生活の本質とするアメリカ人との相違と葛藤ということになろう。当然両者の間には、かなりの相違があるが、その要因には、歴史的に同胞で社会を形成してきた日本と、多様な地域から来た民族が混じり合って社会を形成してきたアメリカとの違い、という枠組みがある。
 著者の専門領域である医療については、アメリカの自由優先の医療システムに優れた側面はあるが、日本の医療皆保険にもとづく患者負担を抑えた医療システムにも優れた側面がある。それでも著者が指摘するように、たしかに日本の現状はあまりに窮屈すぎるという欠点はあるのだろう。人口減少による生産年齢人口の減少、高齢化による医療総需要の増加、医療科学や医療機器の高度化にともなう医療コストの増加があり、原状のままでは医療サービス側でも、それを支える経済側でも医療システムの存続は困難になる。日本の厚生労働省の役人が悪いというだけでも埒が明かないものの、冷静な世論形成と政治の対応は必須である。Photo_20250508060901
 ひとつだけ、私の個人的感想と距離があるのは、日本人のアメリカ駐在者およびその家族の状況は、1980-90年代には、著者が具体的に指摘するような日本流にへばりついたものよりは、すでにもっと柔軟になっていたと理解している。ただ一部の、専ら在米の日本人を相手に仕事する業種などでは、言葉のみにとどまらず日本の社会習慣や文化をそのままアメリカに持ち込んで暮らす人たちがいたことは事実である。ただ、著者の立場も同様だと思うが、日本人駐在者が少数派として圧倒的多数のアメリカ人のなかで研究なり製造なり、緊密に協力して仕事せざるを得ない場合には、当時でさえ日本人はもっとアメリカをそれなりに理解し、親和的であったと思うのである。
 この本が出版されてから、すでに四半世紀以上が経過している。アメリカと日本の、為替水準も経済的立場も大きく変わった。それでも、相互にかけがえのない重要な位置を占める関係であることに変わりはない。
 均質な文化にもとづく日本にとって、元来から多元的な文化で発展・蓄積してきたアメリカには、いろいろな問題に対処するにおいて学ぶべきことも多い。さらに日本・アメリカという問題にかかわらず、この著者が自ら実践しているように、仕事は頑張るものではなく、たのしむものだということなども大事なことである。私たち市井の日本人が、この本から学ぶべきことは多い。

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『安倍晋三回顧録』中央公論新社(下)

3.読後の感想について
 安倍晋三氏は、通算3,188日、8年8か月の長きにわたって首相を勤め、令和2年(2020)9月退任し、それから2年弱経った令和4年(2022)7月突然凶弾に倒れた。この間の事績を本人に語ってもらった本を読んでみると、知らなかったこと、キーワードのみ聞きかじってはいたが内容はほとんど知らなかったことが沢山あった。もっとも私自身がさほど政治に詳しくないことが大きな要因だろうが、新聞やテレビなどマスコミが政権の瑕疵や疑惑問題はなんども執拗に報道するのに、政治の本筋のところ、ほんとうは大事なところは事実の一部しか報道していない、ということもある。とくに外交や軍事にかかわること、外国の政治状況にかんすることついては、とりわけ情報が少ないうえに、精粗や偏りが大きいと思う。
 そして史上最長の政権を担ったのだから関わった案件が当然多いということもあるだろうが、安倍氏が関わってきた政治案件、成し遂げたことが、思っていたよりずっと広範囲で大きいことに改めて感銘を受けた。さらにそのかなりの課題が、国論を二分するような、すなわち反対勢力も多いようなものであったことは注目に値する。したがって、政権運営はいつも困難を極めたし、いつも反発も強かった。それにも関連するのだろうが、本来の政治案件ではない、さまざまな不要なトラブルに揺さぶられ妨げられ続けた政権でもあった。
 そのような厳しい状況下で8年8か月にわたって、ともかく奮闘を続けてきた安倍氏の特徴として、いくつかを取り上げることができる。
 まず、安倍氏の政治の基本的な方向性、思考軸の安定性である。安倍氏は、広く知られまた自らも自覚する政治的保守派であった。それゆえに、朝日新聞をはじめとする進歩的勢力、ひらたく言えば左翼的勢力からは目の敵にされた。
 しかしこの本を読んでよくわかったが、安倍氏は冷徹なリアリストであった。判断と行動において柔軟性に富んでいた。それは多くのいわゆる右翼とは明らかに違う面である。
 外交における中国、ロシア、イランなどとの関わり方、習近平、プーチン、ハメネイなどの権威主義国家の指導者たちとの関係構築は、まさに戦略的であり、政治的であった。憲法改正や靖国参拝などについても、いわゆる右翼たちの期待からみると、距離があるのもその故である。
 民主主義国家の政治家である以上、選挙は大切である。姑息な行動で選挙に勝ち続けることはできない。有権者に伝えるべきことは徹底して発信し、信念あるリアリストとして行動した。
一流の政治家として、自分の政治に対する姿勢・方向性にブレがないのは当然であろう。とくに野党のリーダーたちには、ブレの有無以前に、そもそもいったいなにを目指しているのかが具体的にわからない人物が多いのとは、まさに対象的である。
 そうした戦略面に加えて、戦術面でも多くの工夫と努力があった。
 国会がない日には、できるだけ秘書官や官邸詰めの参事官らと昼食をともにし、政治にかかわらずさまざまな雑談をして、みんなで一体となってがんばろうという雰囲気ができていったという。
外国のリーダーたちに対する見方や理解と、それにもとづく人間関係の構築についてもこの本で縷々触れられているが、おそらく的確なのだろうと思われる。
 それにしても改めて考えてみると、日本憲政史上最長の政権と言っても、下野の期間をはさんで通算で8年8か月、連続した政権としては第二次から第四次までの7年9か月である。アメリカ大統領は任期4年で2期勤める大統領が多いが、すでに8年である。途中の選挙も、アメリカは中間選挙が4年の任期中に1回あるのに対して、日本では最長でも4年毎の衆議院選挙に加えて、3年毎に参議院選挙があって、全体として選挙の頻度、すなわち政権の主導権が脅かされるチャンスがやはり多くなる。安倍首相の第二次から第四次までの連続政権の7年9か月に、衆議院選挙3回、参議院選挙4回の計7回の選挙に勝ち続けることが必要であった。
 そして他の制度的要因もあろうが、日本の首相に比べてアメリカの大統領は、ごく最近のトランプ大統領の自由奔放で強引なふるまいにもみられるように、実質的な自由度と権限が大きいという差異があるように思われる。日本のように、行政官僚が政府に有形無形に隠然たる介入をするということも、アメリカでは多くなさそうである。
 そのような要因から、わが国の首相は常に選挙対策を前提に政治を進めることが求められている。念願の憲法改正がなかなか実現できない理由に、議員の3分の2以上の合意と国民投票が改正に必要という「硬性憲法」の規定の他に、これらの要因がある。
 欧米の政治指導者たち、さらには政権中枢に関わった官僚たちまでもが、大統領や首相を辞めるあるいは官僚の職務を辞すと、時を経ずに回顧録を発刊するのが通例である。市井の国民のひとりに過ぎない私にとっても、それらの政権の当事者、あるいは側近やブレーンとして政権に直接・主体的に責任ある当事者として関わった人たちによる著作は、学者や評論家あるいはジャーナリストたちの無責任な論評とはまったく異なる重みや学びがあって興味深く読んでいる。しかしわが国の場合は、そのような著作が極端に少ない。したがって、本書のようにインタビューを記録したものであっても、貴重な書物として大きな関心をもって読んだのであった。
 まして政治家であれば、そのような書物は徹底して批判的に読むとしても、学ぶべき貴重なケーススタディの教科書となるはずである。そんな書物が少ないのが、わが国の政治家のハンディキャップのひとつなのかも知れない。
 巻末の謝辞で、著者の橋本五郎と尾山宏は、「1年間18回、のべ36時間にわたる長いインタビューで、御用聞き質問は極力避けて、多くの国民が疑問に思うこと、批判することなどをできるだけ率直・直截に聴いた。当然安倍首相としてはムッとするような質問も多かったが、結果として安倍氏は誠実に対応してくれた。北村滋国家安全保障局長は内閣の膨大な資料の提供、事前の安倍氏との打ち合わせ、インタビューのすべてで支援してくれた。事後の原稿チェック、掲載写真の選定もしてくれた。」と補記している。
 それでも自伝的な書であるかぎり、程度の差異はあっても、どうしても我田引水の要素、自己正当化の側面はあるのだろう。そうであっても、本人が当事者として語る内容は、詳細であり正味であり、事後となった今ではかなりの範囲がなんらかの記録を通じて検証可能である。
 とくに政治家・学者・ジャーナリストで安倍政権に批判的、あるいは批判的でありたい立場の人たちは、ぜひまじめにこの書物の内容を検証して、瑕疵、間違いを指摘し、具体的な反論を実行して公表して欲しい。それは、私たち門外漢の市井の民にも、とても勉強になるので大いに歓迎したい。

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J.D. Vance ”Hillbilly Elegy”

貧困を救い得るのは身近な人間たる家族・コミュニティとアイデンティティーである
 今年は年初から、アメリカでトランプ氏が大統領に復帰して大きな話題となっているが、トランプ政権の副大統領に就任したJ.D. Vanceが、10年ほど前、まだ政治にまったく従事していなかったころに自伝を出版していて、アメリカでベストセラーとなっていることを知り、読んでみることにした。

1.J.D. Vanceの生い立ちと親族
 J.D. Vance(ジェームズ・デイヴィッド・ヴァンス)は、1984年アメリカ合衆国オハイオ州の、シンシナティとデイトンの間にある小さな町Middletownに誕生した。母は十代に妊娠して姉を生み、ジェームズの幼少期に離婚し、その後次々に何人もの男と一緒に暮らしては別れる不安定な生活であった。母は彼女なりに息子を愛したが、重度の薬物中毒に蝕まれて感情が不安定で、昼夜構わず大声で喚くことはしばしばであった。母との生活は安定せず、落ち着いた日常生活ができなかった。それでも幼いながらもジェームズは、次々に入れ替わる母の男たちと、できるだけ良い関係をつくろうと試みた。まだ少年のころ、憤って興奮した母に、突然無理やり車に乗せられ無理心中させられそうになった事件は、ジェームズの心に苦い思い出としてずっと残り、母との関係に暗い影を落とした。Hillbilly-elegy
 ジェームズにとって、真に親らしい存在は、母の両親つまり母方の祖父母であった。
 祖母は、12歳のとき侮辱しようとした男に対して銃殺を試み、すんでのところを止められた。信仰が深く思慮もあり、ジェームズに慈愛を惜しまなかったが、激しい性格の人であった。
 祖父は、十代で妊娠した祖母をともなってケンタッキー州の小さな町Jacksonから、当時重工業地帯として繁栄していたオハイオ州Middletownに出てきたのであった。大企業たる製鉄会社アームコArmcoに勤務して、堅実な生活を獲得した。しかしやがてMiddletownは、大企業が相次いで撤退して「ラストベルト」と呼ばれる寂れた町に変貌していった。
 祖父母が生まれたケンタッキー州Jacksonは、アパラチア山脈南西部のちいさな町で、Hillbilly(山の田舎者)と呼ばれるScots-Irishの移民の子孫が多数集まっている地域である。全般に教育水準は低く、頑固で荒々しい白人貧民層とみなされている。祖父も、実直でよく働いたが、アルコール中毒で祖母との喧嘩が絶えず、その荒れた生活が娘たるジェームズの母にも影響したと祖父母は考え、責任を感じていた。
 祖父母は、孫のジェームズに惜しみなく深い愛情を注ぎ、さまざまな面から彼を助けたり導いたりしたことが、いくつも具体的に記述されている。ジェームズは、祖父母のいたケンタッキー州Jacksonこそが、自分の心の故郷だと言う。
 喧騒と不安の絶えない少年期を経て、ジェームズは地元のMiddletown Highschoolに進んだ。落ち着いて勉学に励む環境にはなく、遅刻や欠席も多く、落第に近い成績となるなど、なんども学生生活中断の危機があったが、なんとか乗り越えた。このころ、祖父母のアドバイスにより地元のスーパーマーケットでレジのアルバイトをした。そこで、貧しい人たちは生鮮食料品より加工済みの惣菜を買い、また赤ん坊には粉ミルクを買うが、それに対して金銭的に余裕のある人たちは自炊するので生鮮食料品を買い、また母乳で育てるらしく粉ミルクを買わない、という著しい違いがあることを観察した。貧しい人たちは、たいていフードスタンプ(貧困層のための政府の食糧支援制度)で商品を買うが、ジャンクフードの消費が目立って多いことも知った。これら白人貧困層の人たちと貧困層でない人たちとの間に、生活、習慣、感覚の大きな違いをはっきり知り、考え込むようになった。
 高校を卒業して大学に進学したいと思ったが、学費も生活費も生活環境も到底それが許されるような状況にはなかった。祖父も従軍経験があり、自分も愛国心があったので、とくに希望が強かったわけではなかったが海兵隊に入隊することにした。
 ジェームズは、海兵隊での4年間に、厳しい訓練とイラクへの戦場派遣を経験した。
 イラク従軍中に戦場で、引っ込み思案のイラク人の男の子にふと遭遇した。2セントの消しゴムをわたしてやると、男の子はそれを「意気揚々と掲げながら、家族のもとへ走っていった」。ジェームズは「私はそれまでずっと、世の中に対して恨みを抱いていた。しかしその男の子と遭遇して、自分がどれだけ幸運なのかを実感した。誰かが消しゴムをくれたら、にっこり笑う、そんな人間になろうとこの瞬間に誓った」と述懐している。
彼は4年間の海兵隊での経験で、体力の向上と健康維持に必要なことをしっかり学ぶとともに、みずから努力して目標を達成したことで自信を獲得した。かろうじて金銭的目処も得て、オハイオ州立大学に進学することができた。彼の親族の中では、はじめての大学進学者となった。
 また、在学中にアルバイトとして共和党上院議員Bob Schulerのもとで働く機会があった。ジェームズは政治家としてのBob Schulerを信頼・尊敬し、それまでの政治家と政治に対する見方が、がらりと変わったと述懐している。この本を書いた時点では、ジェームズはまだ政治に直接関係する仕事には就いていなかったようなので、この経験が後の上院議員、副大統領というキャリアに直接つながったのではないようだが、結果的には遠因だったのかも知れない。
 海兵隊の経験を経てかなりの自信を持つようになったジェームズは、優等生の評価を得て飛び級でオハイオ州立大学を卒業した。
 そして全米で最高峰のイエール大学ロースクールに入学を認められた。学費はとても高額であったが、ここにはきわめて行き届いた奨学金制度があって、その点では問題なく学ぶチャンスを得た。しかしジェームズは、イエールではこれまで経験しなかった大きなストレスを経験した。イエールで学ぶ学生は、学力が最高レベルであるのみならず、出自の環境がジェームズとはまったく違うのである。ジェームズは、おそらく経済的最下層からのほとんど唯一の学生であった。学問を学ぶという面ではついて行けても、生活習慣、価値観などで大きな違和感を持ちながらの学生生活であつた。
 しかし、良い先生たちとのめぐり逢いがあった。彼にこの自伝を書くことを推奨してくれた指導教官エイミー・チュア教授がそのひとりである。また、後に妻となる素晴らしい恋人、同級生だったウシャ・チルクリUsha Bala Chilukuriとの運命的な出会いがあった。こうして結果的には大成功の学生生活を送ることができた。
 かなり壮絶な半生であったが、ともかく成功といえる結果を得たのだ。この本を書いた時点は、まだ上院議員になる以前であったので、主要なことは以上である。

2.Hillbillyと白人貧困層
 J.D. Vanceの出自はHillbillyである。Hillbillyは、17世紀以降19世紀までにわたって、アイルランド北東部のUlster地方からアメリカに移民してきたScots-Irish(スコッチ・アイリッシュ)と呼ばれる人たちである。そのうち、アパラチア山脈南西部のケンタッキー州近辺にかなりの人たちが集住して、それがHillbillyと呼ばれるようになったのである。
 Hillbillyは、彼らの伝統的特徴を自覚し、誇りをもってそれを維持している。キリスト教の敬虔な信者であり、政治的には保守的で、家族を愛し、コミュニティを尊重し、世界でもっとも強力なアメリカの国民であることに誇りを持ち、愛国心が強い。ハードワークに耐え、頑固に努力する。
 しかしその反面で、大部分の人たちが高度な教育を受けておらず、貧困であり、離婚が異常なまでに多い。
 ハードワークの尊重をエトスとすると唱えつつ、現実には実行できないこともあり、アルコール依存あるいは薬物依存が蔓延しているという現実がある。J.D. Vanceの認識としては、アメリカに住んでいる黒人、ヒスパニックなどのいわゆる被差別層を上回るほどに、貧困層の比率が高い。それにもかかわらず、自分がHillbillyであるとのアイデンティティーの意識は強く、そのプライドはとても高い。
 アメリカには黒人などの非差別階層などに限らず、根強くこのような貧困層が存在する。それに対して、広範囲にわたるフードスタンプなどの政府による大規模の支援制度が存在しているが、そのような経済的措置は、大きな恩恵を与える半面で、Welfare Queenウエルフェア・クイーンなどとも呼ばれる「福祉依存」に陥って自立への意欲を喪失してしまう慢性的貧困層も現実に多数存在している。救済のための制度が、実は貧困層を定着させてしまう現実があるのだ。
 J.D. Vanceは、結局ヒトを救うことはヒトにしかできない、と断言する。彼自身の場合は、祖父母こそがかけがえのない救済者であった。彼が経済的なことも含めあらゆる困難に遭遇したとき、祖父母がさまざまな形で彼を救済してくれた、とジェームズはなんども述べている。
 救済する主体が存在できるのは、家族(ここでは血縁者・親族・同居者などを含む広義の家族をいう)、共同体などの濃密な人間関係の存在と機能の結果である。それを支えるものとして、宗教も慣習も重要な貢献をする。これらはアイデンティティーに支えられているので、けっしてアメリカ人一般に及ぶようなものではない。J.D. Vanceの場合は、Hillbillyであり、それはHillbillyの外の人びとには無縁である。それでもHillbillyの人びとにとっては、Hillbillyのアイデンティティーこそが、なにものにも代えがたく重要だとするのである。

3.私の感想とコメント
 この本はJ.D. Vanceの自伝なので、当然さまざまな事象が綿々と綴られていて、その内容は多岐にわたる。そのなかで私が注目したのは、J.D. Vanceが貧困で崩壊した家庭環境の当事者として成長したこと、そこから彼がいかにして脱し得たのか、そしてその彼が社会や政治をどのようにとらえているのか、である。
 アメリカの貧困層の存在については、ルポルタージュでは堤美果『貧困大国アメリカ』のシリーズがあり、堤は権力を掌握する少数の政府・大企業・マスコミが結託して多数の民衆から収奪し、多数の貧困を発生していると糾弾している。この堤の論考に対しては、アメリカ国内でも日本でも、取材と考察に偏向があるとの指摘もあるが、アメリカ国内にかなりの数の貧困層が存在することは事実らしい。そういえば、貧困層の実像の一端を表わすものとして、クリントイーストウッドの映画『ミリオンダラー・ベイビー』があった。政府のフードスタンプに依存して自立する意欲を失い貧困から抜け出せない人たちが、主人公の家族として描かれていた。
 経済学者の視点からは、半世紀前にJohn Kenneth Galbraith, ”The Nature of Mass Poverty”が、ガルブレイス自身のインド・アフリカ諸国での勤務経験から、貧困脱却の困難さの要因として、貧困者が生き延びるために貧困に順応してしまうことを指摘していた。ノーベル賞を受賞したAmartya Sen(アマルティア・セン)は、『貧困の克服 ―アジア発展の鍵は何か』で、貧困問題の解決のために、教育、医療、民主主義と人間の安全保障(Human Security)、弱者の救済、潜在能力(capability)の尊重と育成、市民的自由(権力からの自由)、寛容、などの要因が重要であると述べる。
 これらはそれぞれ視点と考察が異なるものの、いずれも外部からの観察にもとづくものであり、客観的・普遍的真理を求めようとするものであり、結果として抽象的で、解決への有効な具体的アクションに乏しい。ただ、貧困はカネの不足が露呈しているものの、貧困問題はカネだけで解決できないことは縷々議論されている。
対してこのJ.D. Vanceの著作は、貧困の当事者による論考である点で、希少かつ貴重なものであり、非常に具体的な内容を持つ指摘および提案となっている。
 J.D. Vanceは、政府や諸団体など外部からの貧困者への支援は、もちろん重要ではあるものの、決定的なものとは決してならない、と断言する。貧困な人間を救済できるのは結局人間しかなく、そのためには家族・コミュニティ(共同体)の人間関係に基づく愛情を基礎とする対応が必須で、それを支えるものが宗教であり、郷土愛であり、愛国心であり、その自覚がアイデンティティーとなる。それは、普遍的に誰でもが共有できる価値観に一致するとは限らない。
 J.D. Vanceが言う通り、これらは当事者の属する生活の「文化」と言える。それはデイヴィッド・ランデス『強国論』(David.S.Landes, "The Wealth and Poverty of Nations")に述べられていた「経済的成功のための文化の重要性」に通ずるものである。
 こうした「文化」を育成し維持するために、J.D. Vanceはいわゆる「保守」主義者となった。そういう観点からは、現在のとくにわが国の「そんなのは古い」「今はそんな時代ではない」「多様性がなにより大事だ」「西欧に比べてあまりに遅れている」「国連から改革を求められている」などの安易で軽薄な進歩派的なあるいはアンチ保守的な言葉の蔓延や風潮は、要注意である。一部のマスコミが煽る「保守=守旧的・頑迷」「保守=右翼」「保守=好戦的」などという馬鹿げた風潮に惑わされることなく、私たちの生活文化を冷静にみつめて、そのよりよい維持と育成に努め続けなければならない、と私は思う。

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櫻井武『SF脳とリアル脳』講談社ブルーバックス

脳生理学とAIの現状と展望の分かりやすい解説
 この本により、人間の脳の生理学も、近年ずいぶん進歩していることがわかった。主な内容は以下である。
 ヒトの脳は、実はかなり小さな容量の作業記憶機能(ワーキングメモリー)を駆使しつつ、海馬体と広範囲の大脳皮質におよぶ複雑な分散型の記憶機能を実現している。記憶は単なるデータではなく、それにまつわる感性・情動で重みがつけられて記録される。記憶は曖昧性も忘却もともない、それが脳の機能を効率化するとともに、ヒトの意識や自我に関与している。
 動物には睡眠を必要としないものは存在せず、睡眠こそが有限資源たる脳のメンテナンスを行い、恒常性を維持するための必須の機能である。
 「意識」とは、自己と外界との関係性を理解し、感じ、反応する能力であり、そのためには脳だけでなく、自己の領域の境界としての「身体」の存在が必須である。
 周囲のなかでの自分のおかれた立場を理解し役割を演じるのが「自我」であり「自意識」であって、それが社会性の基本となっている。自我や自意識は、ヒトが進化の歴史のなかで生存のために獲得してきた形質であり、それこそが「心」の核をなす重要な部分のひとつである。
 「心」は、自我をもった自意識(自己認識)が「認知」することが不可欠である。自分の内的状態とその変化を認知することによって「心」が生まれるのである。これに携わるのは、大脳皮質の前頭前野であり、前頭前野は、意識・認知・論理的思考・内省・倫理的判断・未来の予測などに深く関わっている。思考にもちいる作業記憶も、この部分に存在する機能であり、自我や自意識は、この部分に存在するといってよい。
 また「意識」のみでなく「無意識」も人間にとってはとても重要であり、運動機能の多くは無意識の働きによる。
 ディープラーニング(深層学習)とニューラルネットワーク(階層構造ネットワークによるアルゴリズム)からなるAIは、構造も機能も、人間の脳とは大きく異なるところから出てきたものでありながらも、大きな可能性がある。ただ、AIが「心」を持つと、欲望が発生して良からぬことすらやりかねないので、「心」をAIに実装しない方がよいのかも知れない。
敢えて梗概とすれば、以上のようなことである。
 SF小説やSF映画を緒として、その実現に向かう途中に位置付けられるAIとヒトの脳とを比較しながら、最新の大脳生理学が分かりやすく詳細に解説されている。「第6章 脳にとって時間とはなにか」の、量子力学的考察のなかの「観測」について、「観測とはつまり、脳が認知すること」との理解はちがうと思うが、まあ全体からみれば大した問題ではない。全体としては、わかりやすい良書であると思う。

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