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書籍・雑誌

Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (21)

21.瞑想 Meditation
 人間はすでに述べたように宗教・イデオロギー・文化などから創生された物語を受け入れていて、しかもそれらはすべて事実ではない。そのため人間は、自分自身の心を実はよく知らない、知ることができない。この自分の心を知る方法こそが瞑想であり、瞑想によって人間ははじめて自分の心の事実を知ることができるのである。
 人間を団結させ、強くし、生き延びさせるため、歴史を通じてますます複雑な物語を自身に対してつくってきたので、「私自身とはなにか」を知ることはますますむずかしくなっている。技術の進歩は、武器を発展させ、社会秩序を不安定にした。壁の絵からテレビにまで伝達手段を発展させ、物語を伝える力を増強した。将来は、アルゴリズムが「私はなにもの」を決めてしまうかも知れない。
 「頭脳」と「心」はまったくちがうものである。頭脳は器官として客観的に科学的にさまざまに調査・分析・観察ができる。しかし「心」は主観的な経験の流れ(痛い、楽しい、怒り、など)であり、これを観察できる可能性があるのは自分自身の心のみである。しかし自分自身の心に対しても、それを客観的に観察するのは至難である。唯一の方法として、瞑想がある。[完]

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (20)

20.意味 Meaning
 人間が「意味」を問うことについて考察する。
 往古より、人は「私は何者」「人生でなにをやるべき」「人生の意味はなに」との問いをしてきた。つまり①自分がやるべきことの明示と、②個人の領域を超えたより広い範囲での自分の位置づけ、すなわち自分自身のアイデンティティの確認、を求めているのである。
 そもそも人間にとって世の中のすべての概念は、長い歴史を通じて蓄積されたフィクションでできている。そのフィクションを誰もが幼いころ、未熟なころから自然に教え込まれ、知性がそれを疑うよりも合理化しようとする。さらにわれわれ個々のアイデンティティが、そのフィクションの上に形成されてゆく。そして私たちが生活する社会そのものもそれらのフィクションを集めて組み立てられているのである。こうして形成された社会という構造物は、その基礎はフィクションだから本来きわめて脆弱なのだが、その上に載っているものが国の法律、社会規範、経済機構などなどきわめて重いがために、基礎の脆弱さにかかわらず屋根の重みで維持されているような事情になっている。
 このような社会を形成している物語(フィクション)を疑うには、とてつもなく強靭な神経が必要である。もしその物語が誤りだとすると、我々が知る世界は直ちに崩壊してしまうからである。
 こうして我々はすべてフィクション(物語)に囲まれ守られて生きているので、我々が「意味」を問うと、答えも当然フィクション(物語)でできている。しかし我々はそれを信じるのである。
 フィクションを人間に信じ込ませるのに大きく貢献しているものに儀式・儀礼がある。儀式や儀礼は、抽象を具象に、フィクションをリアルに変換する役割を果たしている。
 人々は、物語を信じているが、その物語は多くの場合唯一とは限らない。自分の嗜好でいくつかの物語をリザーブして、適宜信ずるものを切り替えて問題に対処する、という柔軟さをもっている。いわばアイデンティティのポートフォリオを組んでいるのだ。この反例としてたとえばファシズムは、複数でなく唯一の、国家の利益になるという価値基準で唯一の物語を選択し、真実か否かは全く問わないのである。このような極端な単純化は、ひとびとにとって大きな魅力となり得て、ある種の条件下で猛烈な人気となり、夥しいひとびとから支持されたりする。ファシズムは醜い、間違っていると非難するだけではファシズムの再発を防止できない所以である。
 ファシズムでない普通の人々は、複数のフィクションを必要に応じて信じてきたが、心底ではどのフィクションも真実とは確信していなかった。その不確実さは、宗教をゆるがした。それでもかつては、証拠なしに信じることが良いこと、疑うことは罪で忠誠こそが大切と考えようとした。それをひっくり返したのが、近代の科学と文化であった。忠誠は心理的奴隷に過ぎず、疑うことこそが自由への糸口と思えてきた。17世紀のシェークスピアによる「ハムレット」のto be or not to beが近代へのパラダイムシフトのヒーローであった。
 しかし近代は過去から引き継いだ数多の物語(フィクション)を拒否はしなかった。その結果、スーパーマーケットの棚に載せられたさまざまな商品のように、さまざまな物語が、ひとびとの求める物語の選択肢として提供されることになった。
 ファシストは、その選択肢の自由度の大きさに耐えられず、唯一の物語を絶対的なものとして取ったのであった。多くの人は、自分の嗜好によって物語を吟味し受け入れた。こうした事情から、我々が意味を問うたときに得た解答は、すべてフィクションであった。
 聖書、コーラン、ヴェーダ、などすべては人間が書いたものだ。フィクションと人間とは互いに依存しているので、人間の心がフィクションに力を与えている。
 人間には、欲求することを自分の意志で実行する自由がある。しかし自分の心は受け入れた物語で構成されているので、なにを欲求するかの自由は人間にはない。欲求は物語によっていて、したがって文化や宗教、さらには生物学的個性によって決められる。すなわち「自我」とはつまるところフィクションであり、こみ入ったわれわれの心の機能が、常に更新したり書き直したりしている結果である。
 人間は、フィクションをつくり、伝え、共有し、信じることで地球を制覇するほどに成功し発展した。それがために人間は、フィクションと真実とを判別することを苦手とする。この人間にとって難しい判断を、できるだけ正しく行うためのキーポイントは、つまり対象とする物語が真実か否かを判定するキーポイントは、その物語の主人公が苦しむか、苦しむことができるか、という問いかけである。1831年のロシア侵攻において、ミツキェヴィッチは「ポーランドは死なず」と鼓舞した。しかし「ポーランド」とは人の心に抽象概念として存在する国家であり、したがってそれが苦しむことはない。一方でロシア兵に蹂躙されるポーランド女性は生身で苦しまねばならない。ポーランド女性の苦痛はリアルであり、真実である。一般に政治家が「犠牲、永遠、純粋、救済」などの言葉を発するときは、その対象がリアルな実態のことなのか否か、じゅうぶん注意すべきである。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (19)

19.教育 Education
 21世紀には、①情報の意味を知る、②その情報が重要か重要でないかの区別をつける、③個々の情報からより広いピクチャーを構築する、ことが重要となる。この基礎を教育で養成しなければならないのだが、これも容易ではない。
 重要なポイントは、以下の3点である。
⑴変化への対応力: 21世紀は変化のスピードがますます速くなるから、経済や政治だけでなく、まさに「人間であること」の意味が変わってくる。
⑵新しいことを学ぶこと: これまでは15歳ころまでは教えられることに順応して多くのことを蓄えて、それ以後は変化に順応するよりも蓄えた知識に経験を加えて生きるというパターンであった。しかし21世紀は世界・社会の根本的な変化がより速くより大きくなるので、16歳以降、いな中年以降でさえ、つねに新しいことを学び続けることになるだろう。そのため、
⑶新しい状況に耐えて順応できるだけの心の強さ(mental flexibility)が必要となる。
 この弾力性・復元性(resilience)は、講義や本からは学ぶことができない。古い教育方法では無理である。ひとつのアドバイスは「大人に頼りすぎるな」。なぜなら大人たちは時代遅れの教育の産物だから。「汝自身を知れ」が古くて新しい重要ポイントである。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (18)

18.サイエンス・フィクション Science Fiction
 学術活動としての科学が重要であることは当然だが、その成果を適宜一般向けに広報することも、科学の使命のひとつである。21世紀も、先端的科学技術をひろく一般に知らしめる手段として、サイエンス・フィクションは重要であろう。しかし、誤解を与えたり、誤った事実を伝えたりすることがないよう、発信側も受信側もじゅうぶんに注意することが必要である。
 ひとつの興味深い例として、ディズニーの2015年のアニメ作品「インサイド・アウト」(日本版のアニメでは「インサイド・ヘッド」と改名された)がある。主人公の少女は、自分の心の声を聴いて、それに従って感じ取り、考え、行動する。ストーリーはハッピーエンドとなっていて、興行も大盛況であったというが、この物語は、実はさりげなく「人間の心は、実は外部の他者がコントロールできる」というAIと生物工学の時代の重大で深刻な問題を訴えていたのである。どれだけの人たちが、この深刻なメッセージを理解したのだろうか。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (17)

17.ポスト真実 Post Truth
 現代も、世界中で虚偽(フェイク)が蔓延っている。ロシアは、ロシア軍機ではないと主張する空軍を派遣してウクライナを侵略した。日本は1931年、中国北東部に満洲国というフェイク国家をつくって支配を正当化した。中国は、チベットが長らく独立国であったことを勝手に否定して支配している。イギリスは、5万年におよぶアボリジニの歴史を全面否定して「無人島のオーストラリア」を併合したと宣言した。シオニストは20世紀初めに、「ヒトのいない土地パレスチナ」に「土地のないヒト=ユダヤ人」が帰ると主張して入植した。
 このようにホモサピエンスは、まさに「Post-truthの種」とも言うべく虚偽に満ちた行動を世界中で展開している。これは、生き残るため、強くなるためにフィクション(物語)に依存して成長してきた、という歴史的事実に深くかかわっている。1か月だけ信用させる物語はフェイクニュースだが、それが何千年なら宗教であり、真実なのだ。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (16)

16.正義 Justice
 われわれが持つ他の観念と同様、「正義」も実は狩猟時代のままなのである。狭い領域をごく少人数で活動していたころの観念を、AIと生物工学が活躍する21世紀に通用させることはできない。まず「正義」は、抽象的価値だけでなく具体的な因果関係を理解することが必要である。しかし、社会構造が複雑化し、莫大な数の人とモノに関わりつつ生きる現代において、因果関係はほとんど個人には理解不可能となっている。たとえば、日常の食事と、食糧になっている動物の生命、投資と公害の関係など。したがって、正義の判断は不可能になっているとの自覚が必要である。
 現代は、憎悪と貪欲だけが罪をつくるのではなく、無知と無頓着が大きな罪をつくるのである。現代の非正義は、個人の偏見によるというより、大規模な構造的偏りに起因している。
 この複雑化した状況を理解しようとして、①事態に関わっていることがわかる範囲内で善玉と悪玉を作って判断する、②涙腺に訴える物語に託す、③陰謀説をつくって訴える、などの問題矮小化の方法がとられるが、もちろんいずれも正しくない。
 正義の議論には、じゅうぶん謙虚であらねばならない所以である。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (15)

15.無知 Ignorance
 人間は自分が思うほどには理性的・合理的な判断はできていない。実際には直観的あるいは情動的に、つまり「反射的に」判断することも多いが、それは石器時代の狩猟生活に適合したもので、われわれに歴史的に染みついた属性となっている。現代のAIと生物工学の時代には実は適合しない判断方法をとっていることがあることを、我々はもっと自覚する必要がある。
 自分が独立した個人として判断していると思っていることも、実は個としてよりも集団としての判断(=groupthink)に依存していることが多い。サピエンスは、集団としての協調行動を通じて強くなったことと深く関係している。古代に比べると人間ははるかに多くのことを知るようになったけれども、それは個々人のことではなくて、集団としてのことである。自分が孤立した個人としては実は無知であること(=Knowledge Illusion)を自覚することが必要である。
 正しい判断をするためには、むしろ無駄にも見えるほど「時間を浪費して」じっくり多面的に思考することが必要となる。
 また、人間は権力を持つようになると、権力を遂行するために、個人としての知識の限界を補うために周囲からのアドバイスを必要とするのだが、権力者へのおもねりから周囲の者は正しいアドバイスをしないことが多い、というジレンマ(権力のブラックホール)があることも自覚したほうがよい。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (14)

14.世俗主義 Secularism
 「世俗主義」を、宗教・信仰・宗教儀式のすべてを否定するものとする考えがある。しかしこれは虚無的で非道徳的に思える。そうではなく「世俗主義」を、もっと前向きで行動的な世界観として、宗教に反対するのでなく宗教の伝統を尊重しつつ、排外的な教義でなく道徳や知恵の財産として、宗教の派閥にとらわれないものとして理解する考え方を取りたい。その尊重すべき道徳と知恵とは、普遍的にすべての宗教に受け入れられる範囲のもの、たとえば正直・思いやり・平等・自由・勇気・責任などである。これらは、現実的な近代的社会組織の、また民主主義や科学の基礎となる。
 ここで「世俗主義の理想」の要件を考える。①まず正直であること。信仰にたいする忠誠以上に、観察の結果、証拠を尊重する。信じるよりも真実のほうが大切とする。②相手・他人へのじゅうぶんな思いやり。とくに他人や相手の「苦しみに対する思いやり」が大切。したがって神が命じるから殺さないのでなく、相手が苦しむから殺さない、という論理が正しい。③科学的真実の尊重。④自分自身がなにものにもとらわれずに正しく判断できるための、自由の尊重。⑤自分が知らないことを率直に認めて、疑って確かめる、それができる勇気。「あなたが答えられない問は、あなたが問えない答よりはるかに良い」。⑥自分の判断と行動は、神まかせや神のせいにせず、自分が責任を負うこと。
 そして世俗主義が各宗教と対立する局面では、各宗教側が譲歩する。また世俗主義側は、各宗教の信者が神を否定しなければならない、あるいは宗教儀礼を停止しなければならない、などを要求してはならない。
 世俗主義の問題は、道徳や責任の欠如ではなく、むしろ道徳や責任への要求水準が無制限になりかねないことである。典型的には、マルクス主義、スターリニズム、戦争中の兵士の倫理などの圧政に見られる。資本主義でさえも宗教のようにドグマを語るときがあり、民主主義も選挙による多数派の権威主義的圧政を生むことさえありうる。20世紀にはファシズムや宗教圧迫に対する手段として「人権」というドグマは有効であったが、これも今後は要注意の面もある。21世紀の生物工学では、「選択の自由」も倫理的に再検討が必要となる局面がある。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (13)

12.謙虚 Humility
 「君は世界の中心ではない」との戒めは、21世紀においても大切である。著者はユダヤ人であり、ここでは例としてユダヤ人の場合を挙げている。
 ユダヤ教徒は、「世界三大宗教」としてキリスト教(23億人)、イスラム教(18億人)、ユダヤ教(1,500万人)を挙げ、ユダヤ教こそがすべての宗教の祖であると誇る。しかしこれは、ヒンドゥー教(10億人)、仏教(5億人)、日本神道(5,000万人)などを勝手に無視した一方的な考え方である。18世紀にはオーストラリア大陸にはじめて入ったヨーロッパ人が、現地でアボリジニが高度な道徳則を持っていたことを発見した。科学的な研究から、社会的動物social mammals(オオカミ、イルカなど)は、すべて倫理則を持っていることがわかっている。たとえばボスザル(アルファ・メイル)は孤児のサルが飢え死しないよう助け育てる。ユダヤ教よりずっと以前から、儒教や仏教は詳細な道徳律を唱えている。また一方では、一神教は多神教に比べて、信徒をより非寛容に駆り立てた。十字軍・ジハード・宗教審問・宗教的差別などには恥ずべきものがある。
 産業革命に関わるような発明は、すべてユダヤ教からみた異教徒(=Gentile)によるものであった。しかし19~20世紀には、ユダヤ人は科学に偉大な貢献をした。ユダヤ人は世界の人口比では0.2%に過ぎないのに、ノーベル賞受賞者の20%を占めたのであった。この背景には、ユダヤ人が19~20世紀にユダヤ教の世界観から距離を置いてGentileの世界観に目覚めたこと、またディアスポラで入った先の国々で軍や役所で厳しい差別を受けたことへの反発などもあったであろう。

13.神 God
 神は、人間の苦悩を癒し幸福にするために存在する。神のために非寛容になったり、対立を煽ったり、戦ったりするのであれば、むしろ神を信仰しない方がよいということになるはずだ。
 神に導かれて人間が道徳的になったとするのは正しくない。道徳やモラルは、神が存在しなくとも、社会的動物ならすべて弁えているのである。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (12)

11.戦争 War
 人類史を振り返ると、12,000年前の農業革命のあと15%、20世紀に5%、そして現代では1%の人口が戦争を含む暴力的事件で殺されている。こうしてマクロには着実に戦争を含む暴力による死亡者は減少してきたのだが、2008年のサブプライム・ローン問題による大不況のあと世界情勢は急激に悪化し、またも戦争を叫ぶひとたちが現れ、国家の軍度支出も増加している。そして2014年2月、21世紀に入って唯一の軍事力による侵略が、ロシアによるクリミア占領として発生した。
 こうして今でも戦争はなくならないが、戦争の価値は大きく変わった。経済の本質が大きく変わり、価値の位置づけがモノから情報に移ったのである。中東が世界の主要な割合で石油を寡占しても500~1,000Mドルに過ぎないのに比べ、アメリカ・中国は20,000Mドルの経済力なのである。核戦争は、そもそも全部を失わせるので、勝者はない。クリミアを侵略したロシアは、アメリカ・EUの1/10の経済力であり、相対的には弱小国であり、クリミア侵略で経済的に得たものは些少であった。
 人間は、したがってその国家も、合理的に計算して行動しようとするが、現実世界は人間の能力を超えるほど複雑であるため、人間は結果として愚かな過ちをしでかすのである。その事実は歴史的にも存在する。したがって戦争はほとんど得るものがないにかかわらず、避けがたいとも考えられる。それだからと言って、新しい戦争が必ず起こると措定することは、軍拡・疑惑を招き、その結果開戦を引き起こす可能性があり、危険である。しかし人間の愚かさを考えるとき、今後は戦争が絶対ないと考えることもまた危険である。

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