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書籍・雑誌

呉座勇一『応仁の乱』中公新書

 歴史学者が著した専門的知識に基づく概説書であり、決して平易ではないはずだが書店で人気が極めて高く、数少ない「専門書」系のベストセラーとして評判の高い本である。「応仁の乱」は高校の教科書にも現れるが、名前だけ憶えていても、その内容となると私もほとんど知らなかったので、この機会に読んでみることにした。
 応仁の乱は応仁元年(1467)にはじまり10年以上にわたって、京と畿内近国、さらには越前・備前など周辺諸国にまで広がった、長期間かつ大規模な戦乱であった。
 応仁の乱の始まりは、守護でありさらに管領家でもある畠山家の内紛に、大守護大名ではあるが管領家よりは家格の劣る山名宗全が、畠山家内紛の一方の当事者畠山義就(よしひろ)を抱え込んで足利幕府政権を実質的に乗っ取ろうとしたことであった。山名は、将軍義政の親政打破を目論んだが、そこに至るまでには、さらに20年ほど遡る将軍義教の個性の強い政治があった。乱が始まると、山名は細川勝元と対抗するが、山名と細川の対立は、終始決定的に強いものではなかった。乱で細川方についた将軍義政だが、彼の優柔不断と大局観の欠如、さらに大名たちへの統率力の限界もあり、はじまった当初は京のなかのみの短期間かつ小規模で終息すると思われた戦争が、だらだらとなかなか終息せずに延々と続いた。山名も細川も自分の周囲に多くの大名・土豪を引き連れ、それら取巻きたちがそれぞれ勝手に動いたという側面もあった。終盤では山名宗全も細川勝元もともに病死したが、戦いはそれぞれの一族や追随者たちに引き継がれて継続した。しかし、双方ともに総じて戦意は低く消極的なのに、終わることのできない戦乱となった。当事者たちが当初想定していたのに反して延々と長引いたのは、近代の第一次世界大戦に似ている。
 なにより。戦争の当事者たちが何のために莫大な金・時間・人的資源のコストを払って意味の判然としない戦争を続けるのか、マクロにはわからなくなっている。
 この大きな戦乱の前後で、当然ながら権力構造も社会も大きく変わった。応仁の乱の前は、複数の国を統べるような大名たちがほとんど在京して、将軍の周辺にいて大名同士の交流もあり、多数の家臣たちや従者たちを引き連れて在京することで、京も繁栄した。しかし応仁の乱の後は、ほとんどの大名たちが国に帰り、在京するのは家臣のみとなっていく。大名たちは領国とより深く向き合うようになり、反面で将軍権力は地方にはおよばず、幕府は畿内政権の性格を強めていく。足利将軍権力は、権力を伸長はできないまでもそれなりに努力を重ねて強かに存続したようだ。私たちはなんとなく、応仁の乱で足利将軍権力がほとんど崩壊してそれが戦国時代を導いたと思っていたが、諸大名が国に帰ってそれぞれの領域支配を確立するようになったことが、戦国時代を導いた要因としてもっと意味がありそうだ。
 いつの時代でも、またどの戦争でもそうだろうが、戦争そのものが大きなインパクトをもたらすこともあって戦争そのものに注目しがちだが、戦争の前も後もしっかり見通さないと戦争そのものの歴史的位置付けができない、といういわば当たり前のことを改めて考えた次第であった。

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渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書(2)

日本全国地図創成の大事業
 事業を離れた忠敬は、上方から幕府に招聘されて天文方として江戸に勤務していた高橋至時(よしとき)に出会い、やがて上総から江戸に移り住んで天文学。暦学を師事した。
 忠敬は、天文学への興味から地球の寸法を計測することを考え始めた。そのためには十分な距離を隔てた地点で緯度を正確に測定することが必要である。このために江戸から蝦夷地まで距離を実測して緯度の差を計測することを考えつき、考えただけでなく驚異的な実行力で成し遂げた。この時点では目的は地図の制作ではなかった。

Photo しかしこの最初の計測事業で、江戸から蝦夷東海岸にわたる、かつて存在しなかった高い精度の沿海地域の地図ができた。これが幕府の関心を惹き、以後地方ごとの測量事業が成功例の積み重ねとして継続・拡大された。最初の測量の旅は全く自費であり、100両(約1,200~1,500万円)を費やしたという。事業に成功して金に困らなかった忠敬ならではの事業の始まりであった。
 伊能忠敬による日本地図測量事業は、21年間にわたり計10回実施された。回を重ねるごとに幕府からの支援も拡大し、測量部隊も大きくなっていった。とくに第4回のあと将軍家斉が直覧におよび、以後は天下の事業となった。事業が大きくなり幕府が肩入れするようになると、さまざまなところから賂や誘惑がしのびよる。忠敬がそれらに陥らず、着実に事業だけに専念できたのは、単に彼が清廉だからのみでなく、金に頓着せずに済ませたことが大きいと思う。
 伊能忠敬が残した地図は、江戸時代が終わるまでは幕府の専有物として原則秘伝の扱いであった。明治に入ると、帝国陸軍が制作する地図の元図として使用され、やがて出版されたが、忠敬の制作からすでに50年以上が経過していた。日本地図として伊能図が全面的に改訂されたのは、伊能忠敬がつくってから100年以上経った昭和4年(1929)であった。
 長期にわたり体力的にも精神的にも激務であったはずの測量事業を、第二の人生として成し遂げた伊能忠敬は、まさに偉人であるが、人並み優れた行動力と実行力を支えた大きな要素のひとつは、隠居までに事業で蓄えた財力であったと思う。100年先をみとおした卓越した洞察力とともに、この基盤としての金の要因にも注目すべきだろう。

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渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書1999

伊能忠敬の前半生―成功した事業家
 わが国で最初に本格的な地図を、日本全国にわたって測量し作成した先駆者として、私も伊能忠敬の名前は知っていた。しかしその人物や仕事の詳細については、ほとんど知るところがなかった。このたび偶然この書を知り、読んでみたのであった。
 この本のお陰で、伊能忠敬という人物がどういう存在であったのか、その仕事・業績がどういうものであったのか、わたしにとっては、はじめてはっきりしたイメージを得ることができた。
Photo
 まず伊能忠敬というひとが偉大であったその基盤は、49歳まで営々と誠実かつ懸命に働いて、十分な財力を蓄えたことであった。伊能忠敬は、延享2年(1745)上総国、現在千葉県の外房九十九里浜の小関村に名主小関家の三男として生まれた。いくつかの偶然ともいうべきめぐり合わせで、17歳のとき、生家からは少し離れた佐原の酒造家伊能三郎右衛門家に婿入りすることになった。伊能三郎右衛門家では、たまたま当主か亡くなって、21歳で子持ちの未亡人の年下の婿となったのであった。婿入りしたときの伊能三郎右衛門家は、赤字に転落していたわけではなかったものの、当主をなくして苦境にあった。有能な実業家として忠敬は事業に邁進。拡大し、酒造のみならず運送業、薪問屋、貸家、農業、米商、金融業と現代の総合商社のように多角的に事業を展開して、一大豪農商となった。32年間働き、49歳で隠居するまでに3万両以上の財座を積み上げたという。現在の貨幣価値に換算すれば30~40億円くらいに相当する。

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木村尚三郎『歴史の発見』中公新書

 ちょうど半世紀前1968年発刊のフランス中世史家による新書である。材料としては西欧史をもちいるが、論ずることは歴史学の基本的な考え方、つまり歴史哲学というべき内容である。
 「歴史的思考」とは何かについて、まず「現代社会とはなにか」を過去の社会を考察することで析出させるのが歴史であり、その過去の社会すなわち現代とは異なる異質な社会への思考実験としての問いかけこそが歴史学であるとする。史料に基づいて過去を再構成するのだが、当然その営為はそれを行う歴史家が抱く問題意識に規定される。
 現代につながる「近代」をまず定義する。近代とは個の論理、すなわち私の論理が確立する時代である。そこでは法律体系として、国家と個人の間の権利義務関係を規定する「公法」と、国民相互間の横の権利義務関係を規定する「私法」とが明確に分離される。そこでは「私的所有権」が確立している。
 時代区分の基軸は「地縁的組織集団」である。統一的権力を内在する地縁的組織集団ができて、それが領域的強制力を確立したのがヨーロッパでは11世紀ころであり、それ以前を「先史時代」とする。
 農村共同体ができ、地縁的農業組織集団が確立し、それを封建領主が率いるのが11~13世紀である。地縁的農業組織集団が地縁的工業組織集団にとって代わられ、それをベースに近代市民社会が構成されるようになるのがヨーロッパでは20世紀ころである。この間の過渡期たる14~19世紀は、封建社会が崩壊してゆき絶対主義が現れ、市民革命が続き、マルクス主義も出てくる。このような歴史の流れをマクロなウィジョンとして提示する。
 興味深いエピソードとしては、イギリスは歴史的にみると、未成熟な農業経済社会から一挙に地縁的工業組織集団へ脱皮したという特異性をもち、そのため社会の特徴として、私的所有権を含む「個の論理」や市民社会の理念が希薄で、公法と私法も未分離な部分を残し、たとえば成文法としての憲法を未だに持たないこと、などを指摘している。
 以上の諸点は、わたしにとっても理解しやすいものであるが、さすがに半世紀前の論考だけに、現在ではあてはまらないところもある。たとえば、この本が著された当時は資本主義陣営と社会主義陣営とが対立して冷戦構造をなしていた。さらに冷戦構造は安定期に入り、資本主義下でも経済活動に広範囲に国家の行政指導が入り込み、私的所有権ですら一定程度国家権力に組み込まれ、資本主義と社会主義とが接近する傾向があった。たとえば西側ではフランスでは広範囲に国家行政が経済活動に介入し、そのことが時代の趨勢をリードしているような印象すら存在した。わが国の1950年代の戦後復興なども、典型的な国家主導であった。しかし1989年を画期としてマルクス主義陣営が崩壊し、現在は新自由主義という言葉さえ出るほど経済は政治・行政から距離を置くようになっている。そのような時代遅れの点もあげられるが、不易の真理を多々学べる良書である。
 私は最近になってささやかながら日本史に取り組んでいる者だが、広く歴史的についての基礎的な論考として、非常に啓発的で興味深い読書であった。

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呉善花『韓国併合への道』文春文庫

他人事でない自立できない国家の悲劇
 このたび、「韓国併合」について、ふたつの新書を読んだ。ひとつは海野福寿『韓国兵併合』岩波新書、1995であり、もうひとつがこの呉善花『韓国併合への道』文春文庫、2000である。
 この本の最大の特徴は、著者が韓国人であり、朝鮮の長い歴史の積み重ねに基づく朝鮮半島の人々の政治感覚と政治風土について解説があることである。私の場合は、この種の記述に触れるのが初めてであり、もちろんこの本だけですべてを理解したように思ってはいけないのだろう。それでも、とりあえずはひとりの韓国知識人の歴史の見かたとして貴重である。
 呉善花氏は、韓国併合の結果を導いた最大の要因は、日本の問題以前に、当時の朝鮮側の政府や人々の側に問題があったとする。有史以来中国を宗主とする華夷秩序体制の下で真の独立した国家運営を求めもせず、したがって経験せず、19世紀末の西欧列強の進出に対して中国・ロシア・日本などの近隣の強国に強く依存する他に生き残る術を見いだせない国であったことが、結果として日本の韓国併合を結果した。
 この書を読むと、翻ってわが国の今後が深く憂慮される。憲法9条さえ堅持すれば平和独立が維持できるなどという空論は論外としても、いつまでもアメリカの傘の下でいいのかという素朴な憂いが擡げてくる。日本単独で平和を維持するのも現実味がないが、一定度の自立を実力として保持しない限り、わが国の自立・独立はありえないだろう。
 歴史に関する著作は、たとえ同じ史料に基づいていても、その解釈やそれによる歴史像が大きく隔たることがある。著者の思考のバックグラウンドがそれぞれ違うのだから当然である。多様な人々の著作を読んでみないといけないと思うととともに、深刻な問題がけっして他人事ではない、と思い至ったのであった。

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海野福寿『韓国併合』岩波新書

 著者の海野氏は自ら外交史の専門家ではない、という。なのになぜ外交史を軸とするこのような書を記すに到ったのかについて、1993年平壌で開催された「日本の戦後処理に関するピョンヤン国際討論会」に参加し、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」を議論したところ、北朝鮮側の主張は「従軍慰安婦問題」「強制連行問題」などの個々の問題以前に「日本の朝鮮支配全体の責任」を問うものであった、という。日本の植民地支配そのものが正当性・道義性を欠いていたから、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」をひきおこしたというのである。
 海野氏は、これを問題提起として「にわか勉強」で研究の末「韓国併合は形式的適法性を有していたが、正当でもなく道義性もない」という結論に達したとする。
 この書は、明治5年(1872)のわが国明治新政府使節の朝鮮派遣、続いて発生した江華島事件からはじまる。それに続く日本と朝鮮の間のやり取りについて、不平等条約、壬午軍乱、甲申政変、日清戦争、大韓帝国成立、日露戦争、大韓帝国の保護国化、朝鮮内の義兵闘争、そして韓国併合にいたる国際政治過程について、主に外交を軸に説いている。
 海野氏は、明治初期の江華島事件から韓国併合まで、40年間一貫して日本は朝鮮の植民地化を目指し、朝鮮を見下しながら、常に侵略の推進に邁進してきたとする。清国に対しては前近代の「華夷秩序」を背景に朝鮮の宗主国を主張はしても、朝鮮を服属させてはいなかったし、朝鮮の内政。外交に介入してはいなかった、と一定度擁護するが、日本の政治家については、たとえば韓国の併合に反対して保護国化を主張し朝鮮の教育普及・殖産興業をはかった伊藤博文でさえ「思いあがった、独立冨強の名分をふりかざす侵略主義者」とする。海野氏からみると、明治時代から日本人は朝鮮に対して終始一貫して稚拙で卑怯で卑屈で悪意に満ちた存在であったかのようである。人数がかなり多かったわりにたいした成果もなかった義兵蜂起など朝鮮側の民衆運動に対して、過大とも思える評価をしているのも特徴である。
 史実に対する評価の面では、以上のように首肯しかねるところが多々あるが、史料に基づく事実関係の部分については、得るところもある。
 いわゆる「自虐史観」とは、こういう考えなのだろうと理解した。

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山内昌之『中東複合危機から第三次世界大戦へ』PHP新書

 2016年4月発刊の新書だが、このような分野の状況は変化がきわめて早いため、すでにこの書に登場する何名かのプレイヤーは交代していたり、新たな大事件が発生していたりする。それでもこの書に述べられていることはきわめて啓発的である。
 中東の当事者としてのキープレイヤーは、イラン、サウジアラビア、トルコである。その間に新たな問題児としてIS(ISIS、イスラム国)とクルド族が入り込んだ。シリアとイラクには、自ら事態に対処する能力を、さらにはその意欲さえも喪失しつつある。そこへ外部から深く介入するプレイヤーが、ロシアであり中国である。アメリカは、オバマ政権時代を経てよくも悪しくも影響力が大きく減退した。エジプト、ヨルダンなどは、ドイツ、フランスなど西欧諸国なみの影響力もないようだ。
 中東の大きな要因は、イスラム教である。私は遠い日本にいてリベラルを自称する呑気なひとたちの発言なども聞き、スンニ派とシーア派の対立なんて大きな問題ではないのでは、などと思っていたときもあったが、実はこの宗派間の対立も深刻な問題でありつづけている。スンニ派のサウジアラビア、トルコ、そしてISがあり、対してシーア派のイラン、シリアがあり、かつてスンニ派が多数派で今ではシーア派国家となったイラクがあり、イラン周辺のバハレーン、UAEなどの沿海地域にも多数のシーア派が隠然と入り込んでいるという。
 大国で力はあるが王室の腐敗から国内的にも国際的にも信頼を獲得しがたいサウジアラビア、政教分離にいち早く取り組んでムスリム近代化の優等生国家となり権謀術数も駆使して周辺諸国との問題を抑え込むことに成功してきたかにみえていたが、大トルコ主義への郷愁とポピュリズムから最近綻びが目立ってきたエルドアンのトルコ、核兵器開発をめぐってなんども国際的経済制裁に逢いながらも強かにかいくぐって着実に目標に漸近し、かつ巧妙にシーア派勢力を通じて中東全域に影響力拡大を図るシーア派のリーダーたるイラン、自国領内チェチェンから大量のIS戦闘員を出しつつもシリア実質支配を通じて中東での利権確保、さらにはクリミア領有を通じてヨーロッパ介入に余念のないプーチンのロシア、新疆ウィグルに自らの火種を抱えつつギリシアなどをいとぐちに中東さらにはヨーロッパへの触手を虎視眈々と探る共産党独裁の中国など、まるで映画の「仁義なき戦い」が遠くおよばないような凄まじい様相である。
 私たち日本人は、すぐ近くの尖閣諸島問題でさえ関心が高くない呑気な雰囲気で、中東の問題がメディアに上ることも少なく、あまりに無知なことに改めて驚く。小さな本だが、わが国を代表する中東問題専門家が解説する内容は広く重く深い。

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飯沼二郎『風土と歴史』岩波新書

  半世紀前の新書であり、日本史の文献のなかに引用文献のひとつとして記されていたのを、古書として購入した。
  食用可能な一部の植物が、本来はその植物が拡散・増殖することを求めて、人間を種子を運ぶ媒体として利用したことから、人間の居住空間に近いところに自生するようになったことが食用植物の起源であり、そこから人間がわずかずつ栽培に向かっていったことが農業のはじまりである、という非常に単純ながらも興味深い説明がある。その農業活動が、雨量と気温を主要な指標とする風土の多様性によって、いかにヴァラエティを蓄積してきたか、人間の営みがそれを発展させてきたかの解説がある。私のような農業にまったくの門外漢であっても、とてもよくわかる優れた解説書である。
  著者は農業経済学者であり、活動した時代背景もあって、マルクス主義や社会主義に大きな期待を持つ一方で、資本主義を強く否定している。独立後のインドがいまだに農業の改革を行い得ない原因を、資本主義とイギリスの植民地政策に帰しているが、これは宗教・伝統・文化の問題と政治の問題との誤解にもとづく混交であり、いまでは説得性がない。まあ、著者の生きた時代を考えれば、いたしかたなかったのだろう。
  私は日本史を研究する立場から、農業にかかわる記述につねに接する機会がある。そのための基礎教材としては、農業技術とその歴史的経緯に関するかぎり、とても優れた書である。

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エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?』文春文庫

 イスラム教徒が崇拝するムハンマドを侮蔑する風刺画を掲載していた「シャルリ・エプド」という名の風刺新聞が、2015年1月7日テロに襲われ、警官、編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら、合わせて12人が殺害される事件が発生した。これに対して1月11日フランスのオランド大統領が主導して、国際的なレベルにまで拡大した「私はシャルリ」デモがフランス各地で発生した。これは「表現の自由」を掲げていたが、デモの実体は、参加者に明確な自覚がない面も含めて、人種差別・排外主義を主張するものであったという。このデモがもつイスラム恐怖症に対して、大きな危機感と憤りを感じたエマニュエル・トッドは、その真相、その背景たる現代フランスの政治的・社会的病巣を明らかにしようとこの本を出版した。
 この運動には二つのモードがあるという。ひとつは自由主義的・平等主義的・共和主義的で、積極的かつ肯定的な「意識」のモードである。もうひとつは、権威主義的・不平等主義的で消極的・否定的な「無意識」のモードであり、実はこの後者のモードが現在のフランスを支配する、という。このふたつの、もともとは反対方向を向き本来強調しあわないかに思える勢力どうしが、複雑に絡み合って助長しあってきわめて陰険な悪の方向に導くメカニズムがある、としてエマニュエル・トッドは家族人類学と歴史人口学をもちいて分析している。

地上のイデオロギーがその内容において多様なのはなぜかというと、どんな社会を選ぶかというその選択が厳密な意味での宗教の影響力から免れるときにもなお、心の深層に定着している家族的諸価値が、いいかえれば潜在的な人類学的システムが、人びとの選択を導き続けるからである。従来、パリ盆地の中心部では、自由主義的で平等主義的な家族構造が社会的行動を制御していた。一方、ドイツでは、権威主義的で不平等主義的な家族構造がパリ盆地とは逆の方向へ社会的行動を導いていた。(p51)

 「平等主義核家族」が主流であったパリを中心とするフランス中央部では、フランス革命の後すでに18世紀末からカトリックは衰退していたが、「直系家族」が主流であるフランス周縁部ではカトリックは1960年代まで根強く生き残った。そしてフランス周縁部では、カトリック的サブカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びている。これをエマニュエル・トッドは「ゾンビ・カトリシズム」と呼ぶ。

人口学者エルヴェ・ル・ブラーズとの共著『不均衡という病』の中で、彼と私は、カトリック教会がその伝統的拠点地域において最終的に崩壊した結果として生まれた人類学的・社会学的パワーをゾンビ・カトリシズムと名付けた。私は本書のもっと後のほうで、フランス周縁部でカトリック的サブカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びているということを示す教育上、経済上の他の諸現象を検討するつもりだ。(p75)

 フランス革命でできた共和国の確立に対して従来もっとも強硬に抵抗してきたカトリシズムが、カトリックの衰退に代わってその不平等・権威主義を残存させたゾンビ・カトリシズムとなって、ライシテ=世俗性に表面上執着しながら、新たな宗教的熱狂をもって反イスラムを主張している。これを「ネオ共和主義」という。

宗教の崩壊は、希望と不安を同時にもたらす。(p154)

 一方で早くからカトリシズムを喪失したフランス中央部の平等主義的伝統・文化にある人びとは、「意識的」には人種差別を否定するが、イスラム教徒たちの生活上のさまざまな習慣・態度が自分たちと大きく異なること、そしてそのフランスへの同化の遅さにいらだち、ついに「理解不能」と判断して、「不平等」以前に「無意識的」にその存在そのものに拒否反応を示し、不平等主義・権威主義とは異なるメカニズムで激しいイスラム排斥の意識あるいは無意識が発生している。こうしてもとは平等主義的であった中産階級、人口的に多数を占める中産階級がイスラム恐怖症となった。
 フランスは、自由・平等・博愛の革命精神を謳い、福祉国家を育成してきたが、ネオ共和主義のフランスでは、福祉は下層階級のためというより主たる対象は中産階級となっている。当然対立は起こるが、利害は上層と中産階層とが同じくして、下層・労働者階層と対立する。マーストリヒト条約に賛同しEUを肯定してきた人たちは上層・中産階層であった。彼らは表面上=意識では国家間の友好・連合・平等をとなえながら、実際=無意識では経済不振を座視し、単一通貨という新たな残酷な一神教を奉じその超越的権威に服し、不平等を容認し、ドイツへの経済的中央集権・服従を実行する。こうして上層と中産階級が一体化して、無意識に不平等・権威主義、そしてついにはニヒリズム的な状況がもたらされ、とうとう全フランスにわたって人種差別的、イスラム恐怖症となった。これからユダヤ排斥までは目と鼻の先である。
 このようにゾンビ カトリシズムとネオ共和主義を背景に、方向性の異なっていたふたつの勢力が、複雑な経過と相互関係をもって、結果としてともにイスラム恐怖症、さらに反ユダヤ主義に陥っているのが現代のフランスの病理である、とエマニュエル・トッドは指摘する。
 私はシャルリ・エブド事件を日本の報道からのみしか知らなかったので、エマニュエル・トッドが述べるような深刻かつ大規模な人種差別・イスラム恐怖症の問題の存在を知らなかった。今でも、言論の自由は重要であり、テロは犯罪として断じて許容できないと思っているが、エマニュエル・トッドがいうようにフランスを挙げて「イスラム教に対して冒涜する権利があり、さらにその義務さえもある」というような姿勢や運動であるならば、社会の安定と平和を脅かすものとして否定されるべきであろう。
 この本は、今からまる2年前の著作であるが、最近のブレグジットの予言とも受け取られているという。
 私はこの本を読みつつ、現在も日韓関係で問題となっている「従軍売春婦問題」をふと連想した。韓国が、些細なことまで勝手に捏造・拡大して延々と日本についての「問題」を追求し続ける状況も、韓国という社会・国家の政治・社会的病巣が背景として寄与しているのだろう。イスラム恐怖症も従軍売春婦問題も、わざわざ敢えて意図的に敵をつくるという行為は、エマニュエル・トッドがいうとおり、よい結果、よりマシな結果を導くことは決してないだろう。
 詳細な統計数値をもとにした緻密な議論であり、受け入れがたい面も多々あるが、無視しがたいところ、貴重な優れた指摘も多く、とても印象の深い本である。

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エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書、2016

 イギリスのEU離脱に関して、ユニークな研究者として知られるエマニュエル・トッドが本を出していることを知ったので、読んでみた。予想以上にとても刺激的な本であった。
  タイトルのブレグジットについては、EUがいまやドイツの絶対的・独断的な主導権にかき回されていて、フランスもイタリアもドイツの理不尽な言いなりに成り果てていること、ドイツがヨーロッパ大陸の経済的掌握を目指して、周辺の欧州各国のみならずアラブ・シリアにまで手を広げた乱暴な移民政策をとっていて、文化的・社会的・国家的破滅に向かっていることを指摘する。エマニュエル・トッドは移民そのものに対しては肯定的だが、移民を自分の国に同化させるにはかなりの時間を要するため、急激に大量の移民を受け入れることはきわめて危険だという。また、イギリスは英語圏の主要国として、世界最大・最強の国家たるアメリカをはじめ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、などの英語圏先進国の主要国であり、英語圏先進国の全体としての市場はEU よりはるかに大きい。フランスは、乱暴なドイツの覇権の下に服従するより、自由と繁栄の英語圏、つまりイギリスと交流を深めることこそが大切だと説く。一方でアメリカは、ブレグジットによってドイツをコントロールする回路を喪失したことをよく自覚しなければならない、という。そしてブレグジットの背景に、世界的な「グローバリゼーション・ファティーグ」、すなわちグローバリゼーションによる疲労・倦怠感があるとする。結局いまや世界は、グローバリゼーションに疲れて、ふたたび国民国家尊重に戻りつつあるとする。
  そしてこのちいさな本の60%以上は、エマニュエル・トッドの歴史学の方法の解説である。これがまた刺激的である。エマニュエル・トッドは、母方にイギリス人を含むユダヤ系の家族に生れたフランス人である。ただ両親の時代にカトリック教に改宗したので、もはや厳密な意味でのユダヤ人ではない。パリ大学を卒業後イギリスのケンブリッジ大学に学んで、家族制度の研究者であるピーター・ラスレットに師事し、家族制度、あるいは家族に関する文化人類学をテーマに25歳で学位を得た。エマニュエル・トッドは自身について、愛国心も大いにあり紛れもないフランス人だが、思考方法は大陸的観念論を拒否し、イギリス的経験主義に則るという。事実も真理も人間に内在することはなく、人間の外にある、とする。哲学的に「人間とはなにか」、「国民とはなにか」などという問いをたてて考えてみても有効なことは何も得られず、過ちさえ免れない。エマニュエル・トッドは、あくまで大量の客観的データを集積して分析しそこから真理を抽出する、いわば自然科学と同じような客観的なアプローチをとる。したがって、彼のさまざまな理論や提言は、彼の内面の思考から出たものではなく、客観的データ、統計数値が自ら語るものであり、それを真摯に見つめれば誰にでもわかるようなものであり、そのため成果を発表することを真剣に急いだ、ともいう。まるで科学技術の研究者が特許出願を急ぐような態度である。そして歴史学の研究にとって重要なことは、多くのデータを集めること、多くの資料を読むことである、という。
  エマニュエル・トッドの思考の基底には、歴史人口学・家族人類学がある。
 「外婚制共同体家族」、すなわち血縁結婚がなく家族共同体が存在して核家族でないような大家族制の家族は、ロシア、フィンランド、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ハンガリー、中国、モンゴル、ベトナム、キューバなどが該当する。この家族制をもつ地域は、共産主義に親和性があって、実際に共産主義化が達成されたのは、ソ連の軍事的強制によるもの以外はすべてこの地域である。
 結婚すると親元を離れて独立する「核家族型」は、兄弟の平等性に親が無関心で自由を最重要視する「絶対核家族型」と、兄弟を平等視することが特徴である「平等主義核家族型」がある。イングランド、アメリカのイングランド系、オランダ、ノルウェー南部、デンマーク、フランスの周縁部、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが「絶対核家族型」であり、フランス中央・北部、ギリシア、イタリア南部、ポーランド、ルーマニア、ラテンアメリカなどが「平等主義核家族型」に属する。
 子供のうち一人は親元に残るかあるいは相続し、兄弟の平等性は低く親の権威が重視されるのが「直系家族型」であり、ドイツ、スウェーデン、オーストリア、スイス、ベルギー、フランス南部、日本、朝鮮半島、台湾、ユダヤ人社会、などがこれに属する。
 そしてイスラム教との親和性が高い「内婚制共同体家族」がある。息子はすべて親元に残り大家族をつくり、兄弟は平等である。特徴的なことは血縁結婚、具体的にはいとこ婚が多いことである。トルコ、アラブなどの西アジア一帯、中央アジア、北アフリカなどがこれに属する。この型は、大家族を軸とする結束の強い軍隊を比較的容易に形成できるという特徴がある一方、家族の存在が大きく、国民国家を形成する力が弱い。
 エマニュエル・トッドによると、この家族類型は政治・経済の指向性にきわめて相関性があり大きな影響を与えるため、この基本的な形態と性格をよく理解することが社会・政治の成功に大きく関わっているという。しかも「家族類型」は、親から子へと伝達される以上に地域に固有のものとして地域に長く生き続けるものであり、どんな民族でも生活する地域を移動すると、時間をかけて「郷にしたがい」家族類型が変わり、それが移民の同化となるという。
 そして歴史人口学者としてエマニュエル・トッドは、人口の減少は国家や社会を不安定化する、とヨーロッパ、中国、日本に対して警告を発する。
 エマニュエル・トッドは、若いころフランス共産党員だったことがあり、いまでもマルクス主義の考え方がひとつの参考になっているという。マルクスは実践的変革主体がプロレタリアートだとしたが、それは間違いで中産階級こそが変革主体であるという。これも事実のデータにもとづくプラグマティックな結論としての主張である。
 このちいさな本は、7つの講演の記録をもとにしたもので、タイトルになったブレグジットに関するものだけが外国での講演だが、その他はすべて日本で行われた講演の記録である。そうした経緯もあって、とても読みやすいが、なかなか内容は濃い。
 たしかに少し前に大きな話題をよんだトマ・ピケティも、自ら社会主義者と言いつつも、マルクス主義そのものにはさほど興味がない、『資本論』もまともに読んだことがない、と言い、厖大なデータを解析して「格差発生のメカニズム」を説いた。そういう意味で、ピケティもエマニュエル・トッドに類似していると言える。
 かつて神が与えたと考えられた「人間の精神」で内発的に思考することをめざす哲学者に対比して、エマニュエル・トッドは実にプラグマティックであり、ある意味冷淡であり、しかし「内発的」指向の哲学者のような暗さがない。あまりに思いがけない多くの刺激的な示唆を受けたために、私の頭脳では直ちに消化しきれないが、非常に興味深い学者に出合ったという感覚だけは確かにある。

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