『安倍晋三回顧録』中央公論新社(上)
2年前の春、ふとこの本の発刊を新聞記事で知り、検索すると市立図書館に蔵書があったので、さっそく借り出そうとしたが、予約で60人ほどの待ち行列があった。ようやく借り出すことができたのは、2年後の今月初めとなったのであった。
これは読売新聞の橋本五郎・尾山宏が、退任した直後の安倍晋三氏に1年間・18回にわたるロングインタビューを行い、それを橋本五郎と尾山宏が記述したものである。
まず内容の梗概を書く。470ページほどの本なのですべては書けず、ごくかいつまんでまとめる。
1.第一次安倍内閣(2006年9月~2007年9月)
このときの主要成果は3つ挙げられる。
・教育基本法改正
・防衛庁の省昇格
・憲法改正への国民投票法の制定
それまで政府として必ずしも明確でなかった国家観と時代認識を明らかに示したという点では成果があった。
しかし、自分でやりたいようにやると決心して肩に力が入って人事もした結果、党内への目配りや配慮に欠け、安定な政権ではなかった。
ただ、著者の橋本五郎や、当時の兵庫県選出の議員から私自身が直接聞いた話によれば、この時の政府の法案提出と成立は、それまでの政府に比べてきわめて積極的でかつ驚異的な迅速さであったという。
2.第二次から第四次の安倍内閣 平成24年(2012)12月26日~令和2年(2020)9月16日
第二次安倍内閣ではその経験を生かすべく、第一次で一緒に失敗・苦労した仲間に協力を仰ぐとともに、できるだけ広く党内の結束を図った。第一次安倍内閣で、政権が揺らぐのは自民党内の信頼を失うときであることを痛感した。第二次安倍内閣以降では、世論の反対が多いときは、党大会の演説で、わが党の使命だ、やるべきことを成して行こう、と明確に訴えるようにした。
官邸スタッフも積極的に同じ目標に向かって協力してくれる人を選んだ。幸運にも恵まれて、出身官庁のみにこだわらず、日本の針路に携わるやりがいを感じるヒトに恵まれた。たとえば今井政務秘書官のような、発言がいささか耳障りであっても、率直に意見を言ってくれるスタッフは大切であった。
(1)2012年12月~2014年 民主党政権の負の遺産解消の初期2年間
民主党政権下で悪化した経済の回復、同じく悪化した日米関係の修復、その間進行した中国・北朝鮮の脅威への対策としての防衛力補強、が主な課題となった。
・アベノミクスの開始と実行
民主党政権の後、デフレが続き、起業倒産が増加し、雇用情勢がとても悪くなっていたので、デフレ脱却が喫緊の課題との認識から、濱田宏一エール大学教授・岩田規久男学習院大学教授から金融政策の提言を得て、またアメリカのバーナンキFRB議長の金融緩和をみて、金融政策から対策に着手した。キーポイントは「三本の矢」すなわち①金融政策、②機動的財政出動、③民間投資喚起(成長戦略)であった。
この結果、失業率の改善を達成し、若年層の支持が拡大し、コロナ禍までは景気拡大が続いたのが成果である。しかし生産性向上・賃金引き上げは道半ばで、景気拡大の実感が少なかったことは認める。
・防衛力補強のための集団的自衛権の憲法解釈変更
選挙公約実行のため、憲法解釈変更を認めない内閣法制局山本庸幸長官を更迭し、駐仏大使小松一郎を充てた。小松氏は小泉政権時に、岡崎久彦氏とともに集団的自衛権勉強会をしていた仲間であった。法制局は、憲法解釈と机上理論の府にとどまり国を守る意志がなかったので、首相としての決意を明示するための人事であった。
・特定秘密保護法の制定
「特定秘密」の明確化と法的定義が必要、さらに外国からの情報入手のために必要と考えて制定した。特定秘密保護法が無ければ、アメリカは安心して機密情報を日本側に出せない。官僚による恣意的な運用を防ぐためにも法制が必要である。核兵器の(再)持込みの密約は、第一次安倍内閣のときまでは外務省が首相に伝えなかった。こんなことは決して許されてはならない。2010年尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件では、当時の首相菅直人は事件のビデオを非公開とした。そんな法的根拠はなく、まったく恣意的な判断であった。
・国家安全保障会議(NSC)設立
それまで外務省/防衛省/警察でばらばらに扱っていた安全保障問題は、ほんらい一体化して検討すべきであり、その協議の一体化のために必須と考えて設立した。
(2)2015年~2016年 戦後外交の総決算の2年間
・北方四島問題の整理と再出発
それまでの膠着から脱するため、ソ連と国際法上合意した1956年日ソ共同宣言に立ち戻り、戦後の冷戦による日ソ間の関係隔離を経て、今こそわが国の安全保障(とくに対中国)からロシアとの関係を良くして、あわせて2島の取り戻しを目指した。
日ソ共同宣言は、敗戦国日本としては歯舞・色丹の2島だけても取り戻せたら良いとの認識であったのが「日本はソ連と関係回復してはならない、島の返還は当分止めよ」とのアメリカの「ダレスの恫喝」の後、日本は日ソ共同宣言を離れて、観念的・理念的に目いっぱい4島返還を求めるようになっていたのであった。
・憲法改正の実現について
公明党が憲法改正に消極的で、現実には困難だった。憲法改正に必要な3分の2の議席を維持・継続するためには、選挙で公明党の協力が必須なのが現実である。
野党の改憲議員にアプローチを試みたが、選挙のことがあり難しいと判断した。
さらに森友学園問題・加計学園問題が発生し、憲法改正に反対するマスメディアの猛烈な煽りもあって、支持率が下がり、憲法改正の実現には見通しが立たなかった。
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