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経済・政治・国際

老人支配からの脱却について

 経済学者の成田悠輔が、4年ほど前に発言した「老人の集団自決」という言葉が、さまざまなメディアや言論で大きな話題となり、いまでもいわゆる炎上騒ぎが続いているようだ。その言葉は刺激的で物騒ではあるが、成田の発言の趣旨は、高齢化が進んだ日本で依然として高齢者が社会で指導的立場にとどまるのは大きな問題だ、ということのようである。
 日本では、すでに65歳以上の高齢者の人口比率は3割にもなっていて、その大多数は生産に寄与していないにかかわらず、さまざまな権利を行使し、権益を享受している。年金などで生活費を受け取り、選挙権を所有して多数派として政権を選択する。選挙で選出される議員にもこれらの年代は多い、などが事実としてある。その結果、マクロに見ると若年勤労者の生産の成果を高齢者が不労所得として収奪している。それが若年層の不満を醸成し、夢を削ぎ、国の活力を減ずる、という指摘である。
 現実に、年金制度は富の世代間移転であり、若い世代の生産果実を高齢者たちに移転している。その一方で、多数派の高齢者の票が現状維持指向の政権を支配する、という構図の理解は、間違っているとまでは言えないだろう。
 私もすでに74歳で、これまでを振り返ると、企業で勤務して勤労所得を得ていた期間は37年間であり、現時点ですでに人生の半分しか生産に寄与しなかったことになる。これからまだなにがしかの時間を生き延びるとすると、人生の過半は生産に寄与しないで過ごすことになる。自分なりに懸命に働いたと思っているが、人生の平均の2倍を生産したのか、というと心許ない気もする。高齢者も、働く場があり、働く意欲があれば、少しでも働くことが望ましいのは当然である。
 企業や官庁の「定年制」というのは、老人から職を奪い収入を奪うということが主目的ではなく、後進に道を譲り活躍の範囲を拡大する、ということこそが目的であろう。それは、企業や官庁の勤務に限らず、政治機構についてもあるべきだという見方には、たしかに理がある。会社などのリタイヤと同様に、政治においてもリタイヤはあってよいと思う。
 わが国でも古くから「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては(老いては)子に従う」という仏教・儒教の「三従(さんじゅう)」から来たことわざもある。潔く後進に主導権を任せる、という決断も大切なのではないだろうか。
 具体的には、まずは選挙権、その次は非選挙権にリタイヤの期限を設けることは妥当ではないか。もちろんこれはとてもインパクトのある改革・変更であり、まずはその考え方の妥当性についてよく議論し吟味したうえで、具体化の方法と手順は充分に考え抜かないといけないだろうし、簡単には実現できないだろう。私の今の意見を、押し付ける気もない。ただ、すくなくともまずはメディアで、続いて国会などで、真剣に議論は始めた方がよいのではないだろうか。

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青木周蔵展─プロイセン気質の日本人(3)

3.日独文化の懸け橋としての活動
 留学生として、さらに外交官として、青木のドイツ滞在は25年におよび、ドイツ語とドイツ文化に対する理解において、余人の及ぶところではなかった。彼が記したドイツ語による自伝の草稿の一部が展示されている。Photo_20220528055401
 明治天皇夫妻の服装についても、外交の経験からアドバイスをしたようである。明治天皇は明治5年(1872)から洋服を着すようになられ、翌6年から断髪された。しかし、皇后は引き続き和服と日本髪を続けられていた。明治19年(1886)からは全面的に洋服に切り替えられたが、この契機は青木の助言によるという。その洋装初期の写真が展示されている。
 明治37年(1904)一人娘ハナHannaは、ドイツ外交官アレクサンダー・フォン・ハッツフェルト=トラッヘンベルク伯爵と結婚した。このハナにも、一人娘ヒッサが誕生し、以後青木の子孫は、ドイツ、オーストリア、イギリスに健在することとなり、日本国内にはなくなった。
 青木は、国内に東京の本宅の他に、那須と中禅寺湖に別邸を持ち、とくに那須には青木農場という農場を経営した。ここの従業員の子弟たちの教育のために、彼は私立青木小学校をつくっている。その写真が展示されている。

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青木周蔵展─プロイセン気質の日本人(2)

2.外交官時代
 青木の外交官および外務大臣としての活動において、主要なテーマは条約改正と憲法制定であった。また、私生活では、エリザベートとの国際結婚であった。
 明治6年(1873)青木は外務省に入省した。早くも翌明治7年(1874)には駐独公使としてドイツに赴任した。ここで青木は、プロイセン貴族の伯爵令嬢エリザベート・フォン・ラーデと知り合った。明治9年(1876)青木は、エリザベートとの結婚を決意し、翌10年外務卿寺島宗則に宛てて結婚許可の申請の書状を出している。政府からは許可を得られたが、日本での妻テルとの離婚には、当然ながら養家の強い反対で難航したようであるが、この展示会では触れられていない。結局結婚を強行し、明治12年(1879)妊娠中のエリザベートを連れて帰国した。この間、当時珍しかった日本人とのドイツ貴族の国際結婚は、ドイツ内でも話題となったらしく、これを取りあげたドイツの新聞記事が展示されている。29
 明治12年(1879)日本で若くから外務省の通訳として勤務していたアレクサンダー・シーボルトとのやり取りの手紙が展示されている。彼の父は、かつてシーボルト事件で日本から追い出されたフィリップ・シーボルトであり、彼が事件で糾弾された原因のひとつが日本地図の入手であったが、その地図こそが伊能忠敬による地図、いわゆる「伊能地図」であった。
 明治13年(1880)には、井上馨外務卿のもと、はやくもベルリンに再勤務となり、条約改正取調御用係とともに、伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をすることとなった。
明治19年(1886)には外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長に就任した。さらに続けて第1次伊藤博文内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席した。明治21年(1888)黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務め、翌年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍し、テロ事件で大隈が遭難したあと、第一次山形有朋内閣で外務大臣に就任した。
 またこのころ、日本の領事館がまだなかったセイロンのドイツ領事館に宛てて、イギリスで需要が大きく拡大しつつある紅茶を、日本で栽培・商品化する方法がないか、問い合わせをしている。

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青木周蔵展─プロイセン気質の日本人(1)

 東京目黒に久米美術館を訪ねた。この度上京した動機のひとつが、伊能忠敬のゆかりの千葉県山武市近辺の散策であり、そのとき案内いただく伊能忠敬の子孫の方が、伊能忠敬の地図を持ち帰ったシーボルトの子孫との縁から、青木周蔵展に関わりがある、との由であった。私はまた、この目黒の久米美術館は初めての訪問であり、この機会に久米美術館を訪れてみたいと思ったのであった。
 JRや地下鉄の目黒駅のすぐ近くに久米美術館はあった。久米ビルの8階のごく小規模の展示室である。それでも展示品は100点程度あって、観てまわるのにかなり時間を要した。

1.ドイツ留学時代
 青木周蔵は、天保15年(1844)長門国(山口県)に長州藩の村医師三浦玄仲の長男として生まれた。20歳のとき、藩主毛利家の典医青木研藏の養子となり、士族になった。まもなく養父の娘テルと結婚したが、そのことについてはこの展覧会では触れていない。
 長州藩の藩校明倫館で学んだ後、22歳で長崎に留学、明治元年(1868)藩の留学生として医学の勉学のためにドイツに留学が認められた。このとき木戸孝允に依頼して、木戸から藩政を指導していた山田宇右衛門に宛てて、長州藩からの留学の斡旋を依頼してもらった。その書状が展示されている。明治2年(1869)ベルリン大学医学部に入学した。明治3年(1870)明治新政府からのプロシア官費留学の辞令書も展示されている。375pxaoki_shuzo
 しかしドイツで留学生として学び始めると、当時の時勢の大きな変動を背景に、日本国家の確立を考えて、間もなく医学より経済学・軍事学・政治学に興味が移った。
明治5年(1872)には、ドイツ現地において留学生代表として日本から来訪した岩倉使節団を迎えている。このころには、彼はすでに留学生のリーダー的存在であったらしい。
 同じ明治5年(1872)ころ、イギリスを経由してドイツに来た越後商人の倅中川清兵衛に会い、ビールの醸造に取り組むことを励ました。ビールの製造には大量の氷が必要と理解した青木は、北海道でビールを製造することを中川に推奨している。中川清兵衛はドイツでビール製造技術を実践で苦労して学んだ後、明治8年(1875)帰国して札幌に移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として貢献した。これは、後のサッポロビールとして発展した。青木は、後に娘のハナとともに、サッポロビール株式会社の株を購入している。また、ビールを入れる陶器製の瓶も展示してある。事業が拡大する過渡期において、この瓶の供給不足が大きな問題となったこともあったらしい。

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ルチル・シャルマ『ブレイクアウト・ネーションズ』

  双日総研エコノミスト吉崎達彦氏のブログ記事で、ルチル・シャルマ『ブレイクアウト・ネーションズ』ハヤカワ文庫、2015.4.20 を知り、早速購入、通読した。吉崎氏のおっしゃる通り、これはとても興味深い書であった。

 著者は新興国を対象とする投資ファンドの専門家で、15年以上も年間の半分以上を新興国に過ごして、徹底して現地の様子を直接見分して考え抜くという方針を貫いてきた人物である。机上の議論ではなく、徹底した現地主義・現場主義の臨場感から、ビジネスの複雑さ、ビジネスに関わる要因の多様さ、などを肌身で感じ、ビジネスが単純な解答のない世界であることを骨身に滲みて熟知していることがわかる。

  この著者のような地に這いつくばったような実践的で泥臭い議論からみると、先頃一躍話題となった「ピケティの格差の議論」などは、それなりに傾聽する価値はあるとは思うものの、人間の経済活動のごく一部のみに限定した小さな議論であることをひしひしと感じる。つまりピケティの議論は、やはり「分配のみの議論」に過ぎないことを改めて思うのである。もちろん分配という問題もとても大切ではあるが、それだけの議論では、そもそも分配の対象となる富の獲得・蓄積ができないのである。

  この書を読みながらふと思い出したのが、四半世紀以前に読んだJ.K.ガルブレイス、スタニスラフ・メンシコフ『資本主義、共産主義、そして共存』ダイヤモンド社、1989 であった。社会主義を至高と信じつつも資本主義の動向に真摯に関心をもち続けたソ連のリベラル派経済学者と、自由主義・資本主義アメリカの代表的なリベラル派経済学者との紳士的で融和的な対談だが、静かで穏やかな対話からは、不思議に社会主義と資本主義の超えがたい溝が感じられた。東欧経済、社会主義経済の陥落からすでに四半世紀以上が経過し、今では社会主義・資本主義などという枠組みで議論することもほとんどなくなってしまった。一方で、それぞれの新興国で主流となっているそれぞれの経済も、そのころの資本主義と社会主義との溝以上に、大きく異なる性質と傾向をもっているようだ。

  ルチル・シャルマは、とくに新興国において、経済に対する政治のあり方、経済政策、政治状況の寄与がきわめて大きいとする。そして、グローバル化した現代の経済状況は、最近の10年間で大きく変わったともいう。現場経験にもとづく彼の議論には、とても説得性がある。

  もうひとつ、15年ほど以前に読んだ デビッド.S.ランデス『強国論』三笠書房、1999 を思い出す。ランデスは、経済のパフォーマンスを決める決定的要因は、人種、民族などの生物的あるいは言語的属性にはなく、その国家がもつ「文化」、すなわち経済的行動を規定する文化傾向である、とする。つまり文化として経済活動に向いている国家と、そうでない国家がある、とする。たとえば、キリスト教とくにプロテスタントをベースに勤勉を文化とする西欧国家は経済活動に成功しやすいが、イスラム教の文化を尊重しすぎる国家郡はほとんど経済成長できない、などというものである。この議論は、ある意味あまりに単純に思えるが、その反面現実の世界を見ると、意外に鋭い説得性もある。たとえば、中国についで人口が多くさまざまなポテンシャルに恵まれていると思われるインドが、中国についで今後急速に台頭し経済大国になる、と10年以上以前から言われ続けてきた。しかしランデスの分析では、インドの宗教・カースト制度にもとづく経済文化が、もの作りを軽蔑するなど強い偏りがあることから、経済成長が容易でない、としている。これは私のわずかな国際ビジネス・貿易関連でのインドとのつきあいからも、首肯できる事実である。また、大部分のイスラム教徒の生産現場での勤務態度をみても、経済活動への適性の問題は、誰の眼にも明らかに思える。

  ルチル・シャルマに言わせれば、経済はそんなに単純ではなく、経済のパフォーマンスは、政治情勢や国際情勢によって大きく変化するものであり、ランデスのいう「経済に関わる文化」はその情勢の一部をなすに過ぎない、ということかも知れない。たしかに、教育熱心でモラールが高いなど、ランデスや私自身の自らの経験から高いポテンシャルを認めるベトナムは、ルチル・シャルマが指摘する経済政策上の失敗によって、最近は苦境に陥っているようだ。

  私が今回ルチル・シャルマの書を読んだあと、漠然と想定し納得しうるイメージは、国家の根深い背景としては、やはりランデスのいうような経済文化があって、国家レベルでの経済活動の可能性はかなり規定されていると思う。しかしルチル・シャルマがいうように、政治情勢によっては経済活動が大きく影響を受けるし、それによって成功・失敗がもたらされることも事実である。ただ、ルチル・シャルマが重視する政治情勢という要因は、彼もいうとおり10年間も安定することは稀であるため、結果としてマクロ経済は予測が非常に困難であり、また結果として変動が大きい。このルチル・シャルマの書でさえ、3年前の2012年の刊行物であり、それから現在までの間に、すでにかなりの範囲で様子が変わってしまっていることを改めて思う。

  国家的なレベルの経済パフォーマンスを考えるときは、ランデスのいう「国民的な経済文化」を通奏低音のような規定要因として考慮しつつ、最近・現在のその国の政治状況をできるだけ詳しく見つめた上で考える、ということが正攻法なのだろう。

  現場主義の生々しい事実にもとづいた迫力ある叙述であり、その内容はかなり重いのだが、そのわりに読み進めやすいのは、著者のプレゼンテーション能力だけでなく、「変化が大きい政治状況」という本質的・本源的な「軽さ」がひとつの原因だろう。ランデスの主張からは、かなり宿命論的になってしまって希望がないが、シャルマの主張からは、いつでもだれでも未来が期待できるように感じられる。ともかく、印象の深い書であった。

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リヒテンシュタイン展 京都市立美術館 (3)

 「バロック・サロン」という一室は、リヒテンシュタイン家のウィーンでの宮殿「夏の離宮」を飾ったバロック様式の絵画や工芸品を集めて展示するコーナーである。宮殿内でのリヒテンシュタイン家のバロック宮殿での暮らしぶりの一端を垣間見ることができる。Photo_3
  16世紀以来、中央ヨーロッパの貴族たちがあつめた「クンストカンマー」と呼ばれるコレクションには、ヨーロッパのみならず、中国や日本から収集してきた華麗で技巧を凝らしたさまざまな工芸品がある。美的な嗜好だけでなく、当時の工芸技術の最先端を知ることができる。リヒテンシュタイン家ではじめて本格的に美術工芸品の蒐集をはじめたと伝えられるカール1世(在位1608~1627) のとき、主君であったハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世が注文して造らせた品として「貴石象嵌のチェスト」(1620頃) がある。さまざまな種類の色彩豊富な貴石を組み合わせて、景観や草花などを描出する象嵌という手法で装飾した貴重品を収納する箱である。贅沢の極みともいうべき豪華絢爛さである。

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