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時事

フーバーの著作からウクライナ戦争と日本を考える

 ハーバート・フーバー『裏切られた自由』を読んで、私は大きな衝撃を受けた。私たちが教えられてきた近現代史に間違いがあることも大きな問題だが、現在の世界情勢を考えると、目の前にもっと切実な懸念がある。いちばん具体的なのは2年以上続くウクライナ戦争である。そしてそれは日本にとって、決して他人ごとではない。

フーバーの考え方
 著書でフーバーが主張していることを簡単にまとめる。
(1)もっとも重要なのは国民の自由であり、その前提のもとに民主主義の政治を行うことである。共産主義・社会主義は、必然的に独裁体制をともなうので、間違っている。
(2)自国に直接関係しない戦争・紛争には関わってはならない、という原則、は自国にとっても相手国にとっても重要である。
(3)相手国が戦争に直面しているなら、その国の行動はその国の判断・行動に任せ、戦争が終わってから、その国が望む支援に努めるべきである。
(4)それぞれの国がどのような方針でどのような政治体制を選ぶかは、その国の意志によるべきであり、相手の国に自国の政治信条(自由、民主主義など)を押し付けてはならない。
 フーバーは、第二次世界大戦直前にヨーロッパ諸国を歴訪して、ヒトラーのドイツの猛威に脅かされるベルギーなどヨーロッパのいくつかの国々の首脳に面談した。そこでアメリカから軍事支援が欲しいわけではない、自分たちの国にも独自の考えがあり、アメリカの政治方法・政治文化をそのまま取り入れることも望まない、しかしもし戦争になったら終戦後に復興支援をして欲しい、アメリカは自由で開かれた大国として悠然と構えていて欲しい、と要望された。
 しかしドイツの脅威に怯えたチャーチルは、アメリカの参戦を熱望するとともに、ヒトラーに対抗するためにソビエトのスターリンに接近した。なぜか容共的で共産主義シンパともとれるルーズベルトは、ヨーロッパに積極的に介入し、チャーチルとともにスターリンに接近し、日本に真珠湾攻撃を起こさせてアメリカを参戦させ、大戦末期になってソ連に対日参戦を働きかけた。
 このようなチャーチルとルーズベルトの行動、とくにルーズベルトのヨーロッパ介入とスターリンへの接近に対して、フーバーは厳しく非難している。
 第二次世界大戦とその後の冷戦において、フーバーの考えは、戦争の拡大と戦後の共産主義国の拡大を回避するうえで、きわめて妥当で合理的なものであったと思われる。

第二次世界大戦におけるルーズベルト大統領について
 ルーズベルトは意外にも、ソビエトのスターリンに対して異常なほど好意的で依存してさえいた。その要因を考える。
(1)ニューディールをはじめ、経済に政府が介入する計画経済を重視する考えを持ち、アメリカでも保守派から「共産主義的」と非難されることさえあったように、反社会主義、反共産主義の意思はなく、ある程度共産主義を許容する傾向があったようだ。
(2)その傾向とも関連して、身近にアルジャー・ヒス、ディーン・アチソンなど多くの共産主義者を抱えていた。
(3)当時は、ソ連が建国してまだ10年余り(東日本大震災から現在まで程度)だったので、共産主義の深刻な問題、数々の裏切り、その悪辣さをまだよく理解していなかったのではないだろうか。
(4)戦争が始まってしまうと、勝つことこそが最大の目標と義務になって、利用できるものは最大限利用することが当たり前になってしまった。対日戦争の勝利のために、建国後まだ日の浅いソ連の指導者スターリンを、都合よく利用できると楽観したと推測する。
(5)もとから積極的であったかどうかはともかく、イギリス・フランスなどヨーロッパの国々の首脳から頼まれると、なんらかの支援をせざるを得ないと考えたようだ。

自由・民主主義の他国への要請
 第二次世界大戦終戦後、アメリカがまもなく始めたVoice of Americaなどの情報戦のアプローチは、冷戦の始まりが明確になると強化され、1989年の冷戦の終焉(ソビエトの崩壊)まで、軍事力を行使しないで共産主義国家を攻撃する有力な手段であった。アメリカは、このアプローチの成功を受けて、相手国に、アメリカの自由の重視、民主主義の政治体制を宣伝し教え込み、その実現を求める傾向があった。この傾向は、1989年のソビエト崩壊のあと、ますます強くなり、アフリカなどの新興国をはじめ、ソビエト体制が崩壊した後のロシアや、アフガニスタンに適用しようとしたが、いずれも失敗している。

ウクライナ戦争にどう対処すべきか
 現在、私たちの目の前に大きな脅威が立ちはだかっている。これまでの経緯としては
・バイデン政権は、ウクライナ戦争に対して、武器供与という手段でウクライナを支援している。理不尽なロシアの侵略行為という国家の悪にたいする正義の行動と考えられる。そしてヨーロッパ諸国も日本も、このバイデンの考えに同意している。
・しかしこれは、フーバーの考える方針とは食い違っている。ウクライナはヨーロッパではあるが、アメリカからは遠く、アメリカが直接侵略されたわけではない。
・バイデンは、これまではロシアとの直接戦争に突入することを慎重に回避しようと、ウクライナに提供した武器の使用に対して、大きな制限を加えてきたが、戦争の当事者たるウクライナにすれば、このままでは戦争に勝利できる見込みが立たず、バイデンの要請を遵守するにも限度があるだろう。
・しかし最近になって、北朝鮮の参戦などウクライナ戦争がより激化し、複雑化し、さらにバイデンの政権も終わりに近づいて、ウクライナに対する武器使用範囲の制限も緩和の傾向にある。
 さて、これらがルーズベルトの時代と大きく異なるのは、現在では共産主義国家を母体とする現在のロシアの非正義・悪辣さがよくわかっている。また、バイデンは、ルーズベルトよりはるかに反共産主義、反社会主義の意志が明確である。しかしロシアが核の脅しなどを持ち出してきて、この局地的戦争がロシアとアメリカの全面戦争になる可能性も否定できなくなっている。
 これからどうなりそうかを考えると
・アメリカの大統領がバイデンからトランプに代わることとなった。トランプは、ウクライナへの武器供与に否定的で、ウクライナとロシアに対して停戦を呼びかけると言っている。その表明には、ウクライナのみならず、多くの西側諸国が違和感と反感で困惑している。しかしこのトランプの方針は基本的にはフーバーの意見により近いと言える。
・しかし、その場合大きな確率で、不当に侵略されたウクライナが、ロシアに大きな譲歩(領土割譲)を強いられる見込みである。プーチンの残虐な暴力が、結局は成果を獲得するという結果を導くのだ。

日本の立場から考えた場合
・日本は、法文的には憲法九条で軍事力保持まで否定し、防衛のための交戦さえ明確には保証されていない。防衛の軍事力は大きくアメリカに依存している(つもりである)。
・日本がもしウクライナのように、他国から侵略を受けたとき、どのようにして国土を防衛するのかは、われわれ国民にとって深刻で重大な問題である。
・フーバーの考えによれば、地理的に日本はアメリカから遠く離れていて、アメリカが介入すべきでない、すなわち日本を軍事的に支援すべきでない、ということになる。日本は、まずは自分で(自国の力で)防衛を実行すべきである、ということになる。
・十分な防衛力を保持しない日本は、軍事的に強大な国から蹂躙されたら、ほぼ無抵抗に降伏して、ひれ伏さざるを得ないことになる可能性が高いが、独立主権国家としてそれがほんとうに正しいのか。
・日米安全保障条約はあるものの、当然ながら直接的な世界大戦への拡大を回避したいアメリカが、日本が自力で十分に戦えないとき、どこまで日本の防衛に関与してくれるのか。
・そもそも現時点では、他国から侵略を受けたとき、自国の防衛のために(自衛隊はともかく)日本人が自ら戦う意志と覚悟があるのか。
 このような深刻な問題が迫ってきている状況下で、私たちは憲法改正ができないのを傍観し、被団協のノーベル平和賞を喜んでいて良いのだろうか。マスコミも野党も学者先生も評論家も芸人も、毎日朝から晩までさまざまな「疑惑問題」や「政治とカネ」ばかりを、ほとんど同じことを繰り返し報道している。それで視聴率や支持率を支えるわれわれ視聴者や国民にも大いに問題があろう。
 フーバーの時代と現在とでは、状況や条件が異なる、という指摘も可能性もあるかも知れない。それならそれで政府も国民も、そういうことも併せて真剣に考えて、対処方法と手段を具体化しなければならないであろう。

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第50回衆議院選挙を考える

 昨日10月27日、第50回衆議院選挙の投票・即日開票が行われ、15年ぶりに与党が過半数割れの大敗という結果となった。この結果に関して思うところを書きとめておく。
 今回の選挙だけでなく、私が最近思うのは、日本の国民に政治と政治家への冷静な評価とリスペクトが欠けているということである。
 政治という営為は、政治の執行者にとってもなかなか思ったようにはいかない、という本質がある。平たく言えば「あっちをたてれば、こっちがたたず」というもので、到底アタマで考えたようには実現できない。そういう意味ではとても難しい仕事・生業である。
 したがって具体的には、妥当に妥協を重ねて、弱いところ・良くないところをできるだけ抑制して、良いところ・見込みのあるところを正しく認識して伸ばしていく努力を積み重ねる、その努力を繰り返す、ということしかない。それは、日本の政治にかぎらない、世界共通の問題、課題、現実である。
 政治がけしからん、というが、政治が実質的に存在しない国も実在していて、その現実は悲惨である。たとえばソマリアやニジェールなどは、国民の大部分が貧困と飢餓に苦しみ、そのうえロシアや中国など世界の独裁者の餌食となってしまっている。ロシアや北朝鮮などの冷酷な独裁国家でさえ、政治リーダーは、ないよりはある方がはるかにマシなのだ。
 政治という「難しい仕事・生業」は、評論家にはできない。まして作家やアイドルが副業として思い付きを放言するのを「論客」扱いで登場させるテレビなどの情報だけで、政治を考え判断して「世論」ができるのは危ういかぎりである。
 今回の選挙の争点は「政治とカネ」であったという。しかし政治にはカネが必要である。わかりやすいのはアメリカ大統領選挙で、カマラ・ハリス候補が選挙資金集めのためのパーティーを開催し、24時間に17億円余りの資金集めを達成した、という記事を朝日新聞がさも嬉しそうに頼もしそうに書いていた。それは彼らが国内向けに懸命に喚いている「裏金」と関係がないのか。
 政治資金においても、もちろん脱税は不正であり、きちんと法律に基づいて取締り、問題あれば懲罰されるべきである。しかし政治資金パーティー収入の政治資金収支報告書への一部記載漏れだけで、政治資金全般を「裏金」と決めつけて、いかにも悪辣なもののように扱うのは間違いである。
 そんなウラガネモンダイで政権与党が脱落するというのは、情けないことである。最近デフレ脱却への過渡期もあって、インフレで多くの人々が物価高騰に悩んでいるなか、いかにも怪しげで悪辣に聞こえる「裏金」というコトバを聞いて、ふと憤るのも感情的には理解できる面がある。そういう気配を把握できず、配慮できなかったことは、与党の問題だったろう。これまでの「与党一強」のたるみと指摘されても仕方ないであろう。
 しかしメディアが叫ぶような安直な「政治改革、政治の刷新」は、悲惨な結果をもたらしかねない。外国から見て、政治の弱い国は軽視され、信用を失い、福祉を支えるためにも必要な経済を低迷させ、さらには独裁国家の餌食にもなりかねないのである。
 ただ、現政権に期待する私でさえ、石破氏にはいささか懸念がある。発言がまだ評論家的で、語尾が「重要事項として議論してゆく」というような、他人事なのかアイマイなのか不安な傾向がある。さらに彼の「アジア版NATO」である。ヨーロッパのNATOに類似の国際軍事協力の枠組みを新たに提案したいとするものだが、具体的にどの国と協力関係を造りたいのか、日本として他国に供与できることが、憲法9条の日本に何があるのか。血を流すことを拒むなら、血を吐くくらいの資金供与をせよ、などと多額の金銭供与を請求されかねない。さらにQUADやAUKUSなどの(安倍前首相などの努力による)既存の枠組みとの関係をどうするのか、肝心なことがまったく脱落しているのである。自他ともに認める「軍事オタク」に到底ふさわしくない、まさに評論家的なお粗末なアイデアのように、私には思えるのである。

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ジャニーズ性被害問題にかんして

 ジャニーズ事務所の元所属タレントなどから前社長たるジャニー喜多川氏による性被害の訴えが、ジャニー喜多川氏の死後、それも最近になって相次いでいる。これについて外部の専門家による再発防止のための特別チームが会見を開き、今後の調査の方針や活動内容について説明した。元所属タレント2人は自民党の会合に出席して、子どもの性被害を防ぐため、児童虐待防止法を改正するよう求めた。ジャニーズ事務所では、再発防止策の策定などのため法律や性被害などの外部の専門家による特別チームを設置した。
 この問題も、かなり複雑な要因が絡んでいるようだ。
 まず性被害の事実があれば、ジャニー喜多川氏の犯罪は明らかなのだろう。
 しかしこの問題が、ジャニー喜多川氏の死後、しかもかなり時間が経過して表面化してきたこと、すくなくとも広く知られるようになったことの事情が分かりにくい。マスコミの忖度、音楽業界の忖度、なども考えられるが、なにより被害者だと訴え出る若者たちの行動にも、なにがしかの疑問がぬぐえない。
 デビ夫人の「ジャニー氏は半世紀に渡って日本の芸能界を牽引し、スターを育ててきた。昨今の流れは偉大なジャニー氏の慰霊に対する冒涜、日本の恥である」などとジャニー氏を擁護し「ジャニー氏が亡くなってから、我も我もと被害を訴える人が出てきた。死人に鞭打ちではないか。本当に嫌な思いをしたのなら、その時なぜすぐに訴えない。代わって(現在のジャニーズ事務所代表たる)ジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか」というコメントも、全面的に否定されるものではなく、一分の理がある。
 ジャニーズ事務所からの正式な謝罪が足りない、という非難もあるが、組織の犯罪とできるか否かも不分明である。ジャニー喜多川氏自身が組織のトップであり、犯罪の当事者なのだから、組織として、上司の犯罪に組織の部下が責任をどこまで引き受けるべきかについては、議論の余地がある。株式会社なのだから最高決定機関の取締役会に全責任がある、という論理もあろうが、問題が経営そのものではなく、トップの個人的・道徳的問題であり犯罪なのだから、簡単には断定できない。
 このような性的犯罪は、これほど大規模でなければ、さまざまなところで発生している可能性があると推測する。「立場上、拒否することは不可能だった」というが、すべてがそうであったとは想定しがたい。今回訴え出ている「被害者」たちの全部とは言わないまでも、そのうちの幾ばくかは、自分の目的達成のための手段として覚悟して被害者になった者もいると推測する。「被害者」側も、自分の身を護るためにとるべき方法・手段があった可能性はある。
 明確だと推定できる範囲では、加害者たるジャニー喜多川氏が死んでしまっているので、いまから犯罪を訴求することは難しいと思う。LGBTQを尊重すべき、という風潮になりつつある以上、男性の男性に対する性的欲望も正当として肯定されるべきだから、その性的暴力を性犯罪の一部としてまともに取り組むことが必要である。性的犯罪は、とりわけ個人的でプライバシーに深くかかわる側面がある。これから免れるためには、外部の法律に依存するだけでなく、自分自身を護る努力と覚悟と「自己責任」が重要かつ必要である。

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日本大学アメリカンフットボール部の不祥事にかんして

 日大アメリカンフットボール部といえば、2018年5月に他大学との試合において、危険なタックルで相手側チーム部員に負傷させた事件が大問題になった。それからわずか5年で、今度は違法薬物騒動を起こしたことで「反省のなさ」にマスコミやネットでは批判が続出している。「また日大アメフト部か」「廃部にするしかない」「大麻を使っているなら、今度こそ日大アメフト部は廃部だろ」などと厳しい声が相次いでいるようだ。
 たしかに同じ組織が相次いで問題を引き起こしていることは目立ってしまうので、感情的な非難が過激化することは理解できないでもない。
 しかし、問題の性格と位置づけはやはり曖昧にすべきではない。
 今回の問題は、クラブのメンバーの違法薬物にかんする法律違反であり、基本はあくまでも個人的な犯罪である。危険タックル事件は、クラブのコーチや監督の暴力行為の教唆・指示であり、明確に組織的問題であった。それに対して、今回の事件は組織としての犯罪と確認されたわけではない。犯罪の発覚を知ってから警察への報告が遅れたことが問題とされるが、それが「犯罪的」とまで認定できない限り、犯罪者個人の問題という原則が尊重されるべきである。副学長の弁明に「教育的配慮としての時間的猶予」との説明があったが、これを単純に「隠ぺい」と決めつけるのも一方的である。
 構成員から犯罪者が出たことで「廃部にすべき」という「連帯責任論」は、あきらかに過剰攻撃である。「犯罪者の学生よりも、周囲のまともな学生を護るためにすぐ警察に届けるべき」という大学ジャーナリストという人物のコメントもあるが、犯罪者の存在が直ちにまわりの正常な学生に伝染するわけでもない。
 今回は、クラブ活動の停止も早々に回避され、「連帯責任」がひろがらなかったのは幸いであった。犯罪として確認できることには厳正に徹底的に対処すべきだが、感情的に問題を押し広げるようなことは、外部の人間としては努めて慎重であるべきだと思う。

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安倍元首相銃撃事件とマスコミ

 2022年7月8日午前11時半、奈良市近鉄大和西大寺駅前で参議院議員選挙の応援に来ていた安倍晋三元首相が、41歳の男に手製銃で暗殺された。この事件をめぐって、政治家や選挙候補者たちの多くは、テロ行為を非難して安倍氏に哀悼の辞を表明した。
 しかしこの事件そのものに対しては、いろいろなコメントが出た。
 立憲民主党の小沢一郎は、参院選候補者の応援演説で「自民党の長期政権が招いた事件と言わざるを得ない」と語った。TBSの金平茂紀は、昨今安倍元首相の指導のもと、戦前と同じような状況ができてしまった、社会の状況が悪い方向に変わってしまった、と発言している。やはりテレビ番組でコメンテーターとして登場する青木理は、日本はこの数十年、格差や貧困が広がり、将来への展望を描けない焦燥感がひろがったのに、政治がこれに十分対処しなかった。こうした閉塞感や不安感・不満が治安を悪化させ、政治に対するテロが起きてしまうのは必然なのだ、と発言している。いずれも、このような事件は悪い政治によって引き起こされた、という論旨である。
 これらに対して、大学教授・評論家の八幡和郎は、安倍元首相に対して、特定のマスコミや「有識者」といわれる人たちが、テロ教唆と言われても仕方ないような言動・報道を繰り返し、暗殺されても仕方ないという空気をつくりだしたことが事件を引き起こしたのであって、犯人が左派でも右派でも個人的な恨みをもった人であろうが、精神に障害を抱えた人であろうが、それが許されると思わせた人たちこそが責められるべきである、と述べている。アゴラ言論プラットフォームを主宰する池田信夫は、いわゆるサヨクの人びと、たとえば大学教授・山口二郎がYouTubeで堂々と「叩ききってやる」と罵って恥じないとか、朝日新聞がモリカケ問題、花見問題、などをはじめとする結局なんの決めてもない長ったらしい無意味な罵詈雑言を続けるなど、根拠のない悪意ある誹謗中傷を重ねて、安倍元首相に対する憎しみを懸命に煽ってきたことがこのような風潮をつくった。それでも現実として安倍氏は、選挙には勝って長期政権を達成してきたのであって、それをも否定するのは民主主義の否定に通じる、と述べている。
 まあ、政治と政治家と、それに対する批判は、どこまでが妥当かという判断は、結局それを見て聞いて、国民それぞれが自分で考えるべき問題であり、ロシア、中国、北朝鮮などの共産主義の国々、あるいは韓国などのように、政治に対する批判を国が制限・抑圧するようなことでは、つまるところ今のロシアを典型とする大きな危険性を孕む、と私は思う。くだらない言論、程度の低い政治批判、馬鹿馬鹿しい発言であっても、その生息を許容することに意味があり、大切なことはそれをどう受け取るか国民の側の判断力が問われているのである。これまでの選挙結果などを見るかぎり、もちろんすべてがうまくいっているとは言えないが、わが日本国民は大きな失敗や、失敗の繰り返しはあまりしていないと思っている。
 ただ、こうしたテロ事件が発生している一方で、テロを支援する、テロにシンパシィを表明する言論人の態度は、やはり許しがたい。上記に例示したなかでは、金平茂紀と青木理は、今年5月の重信房子の出所歓迎会に参加しているのである。重信房子は、直接日本人を殺傷してはいないかも知れないが、中東で多くのテロ事件とそれに伴う多くの殺傷に深く関与した人物であり、まぎれもなくテロリストである。言論人として、その出所を花束で迎えるような会合に自発的に参加するという行為が、なにを発信するのか、どのように理解されるのか、当人たちはわかっているのだろうか。私は、このような態度や行動は決して許容できない。

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コロナ騒動への追加的感想

 2年前から始まったコロナ騒動について、すでに10回も雑文を記してきた。読み返してみて、幸いにして大きな間違いはなかったと安堵する。もはやまったく新しい意見もないが、いささか様相が変わりつつあることもあり、蛇足かも知れぬが追記しておく。
 今年の年明け早々から、オミクロン株(尾身苦労株?)なるコロナウイルスの変種がわが国にも流行して、これまでなかったほどのPCR検査陽性者数を記録更新中である。一方では、政府、都道府県行政府、そして「専門家」たちも、少しは気づいた部分もあるのか、蔓延防止措置や緊急事態宣言に対する認識がようやく少し変わってきたようで、それは望ましいことである。もちろん相変わらず間違ったことをなんどもなんども繰り返して発信しているメディアも残っている。
 2年前の6月に最初の緊急事態宣言のあと、私は緊急事態宣言の効果に疑問を感じて、昨年の3月にはそれまでの国内・海外のロックダウンや緊急事態宣言などの行動規制政策とPCR陽性者数の推移のデータを見てそれが確信に変わり、昨年7月には明確に緊急事態宣言開始に明確に反対を論じた。このような行政措置は、実施すると零細サービス業界などを中心に甚大な被害を発出するので、政府がもし発令するならば最低限事前に、その効果を過去の経過を真摯に分析したうえで丁寧な説明をすべきである。「他にやりようがない」から実施する、というアリバイ造りのような行政は絶対にすべきでない。
 オミクロン株による大量の陽性者の発生と、重症比率の低下から、「普通のインフルエンザ」になった、という説についても、いい加減な議論や解釈が蔓延している。冷静に論理的に考えれば、オミクロン株のコロナは、死亡率から「普通のインフルエンザ」とするのは妥当であり、ただ陽性者の数が非常に多いのが大問題といえる。さらにPCR検査数が少ないので実際の陽性者数は、現在把握されている陽性者数よりはるかに多いことが容易に想定される。
 ここで最大のポイントは、普通のインフルエンザなら安心・安全だという認識である。厳然たる実績として、わが国でもこれまで「普通のインフルエンザ」での死亡数は、コロナでの死亡数をはるかに上回っている。コロナは治療法がないから心配、とは言っても、治療法があるともされる「普通のインフルエンザ」の死亡数・死亡率が相対的に大きいことを見れば、理由にならない。「普通のインフルエンザ」という括りも危うく、この実態も多様で、今話題の新型コロナウイルスもインフルエンザウイルスの変異のひとつにすぎないことを忘れてはならない。
 我々の認識のもう一つの大きな問題は、PCR検査である。PCR検査は手間ヒマを費やしコストも大きいにかかわらず、30%(最近20~30%と言い換える医師もいるが)は見逃すのである。常識的に考えて、30%も間違う検査で「陰性証明」などできるわけがない。未だに「PCR検査の不備が大問題」というメディアの発言が蔓延しているが、すでに医療対応ができないほどに陽性者数が増えてきた現在、どんな意味があるというのか。
 もうひとつの大きな問題は、検査の陽性者を「コロナ発症者」とほぼ同等に扱う間違いである。ウイルスが体内に入っても発症しない場合も多々ある。コロナは発症していなくても他人にうつす可能性がある、というのは他のウイルスと同様に正しいのだろう。しかしウイルスが増殖して発症している人と、未発症でウイルス総数が相対的にはるかに少ない人とで、周囲にウイルスを拡散する能力がおなじであるはずがない。その「程度の格差」は当然考慮されるべきである。
 私は、発症してはじめて「感染者」として扱うことが本来あるべきものだと思う。ちなみに私自身は小学校に入学して最初のツベルクリン反応から「陽性」となり、お陰で人生を通じて一度もBCG接種を経験しなかったけれど、これまで一度も「君は結核感染者だ」と言われたことはない。
 全体を通じて、コロナ騒動という集団ヒステリーともいうべき「精神的疾患」症候群が蔓延しているようだ。その最大の要因は、望ましくない心理的DX: Digital Transformationともいえる。要するに「ゼロかイチか」のデジタル思考である。「コロナは恐ろしいが、普通のインフルエンザなら怖くない」、PCR検査の検出確率を無視してPCR検査万能かのように思い込む、コロナ陽性とコロナ発症をほとんど同じであるかのように思い込む、世界中でコロナが流行していて日本が世界から孤立・隔絶してはいないのに「安心・安全」などと発言したり求めたりする、など。
 さしあたっては、以下のようなことは最低限必要だろう。陽性判定にもとづく「コロナ感染者数」などという意味のない(意味の少ない)数値をやめて、「コロナ発症者数」に切り替える。「コロナ発症者」の判定は、すでに着手されだしたが、時間とコストがほとんど無意味にかかるPCR検査ではなく普通のインフルエンザと同様に普通の臨床医が行い、入院の要否を妥当に臨床医学的に判定する。そのために感染症分類を2類から5類に早急に変更する、などである。「濃厚接触者」などの定義も、当然「コロナ陽性者」ではなく「コロナ発症者」を基準にして定義する。
 地政学リスク分析の国際的シンクタンクであるユーラシアグループEurasia Groupが、世界の10大リスクのトップで”Covid19”を取りあげ、「政治・行政的にコロナを抑え込む」努力は不可能で無意味であることが判明した、としている。その真偽はさておき、すくなくとも政府を叩けばコロナがなくなる、というような幼稚な意識からはできるだけ早く脱出したい。ともかくこれだけ世界中に流行しているパンデミックであり、いくら致死率が小さくても母数が大きければ死者数が多くなるのは当たり前であり、「普通のインフルエンザ」であっても決して油断せず、意味のないことには反対しながらも、各個人ができる対抗措置・予防努力を地道に継続・励行する、と言うことが大切だろうと思う。
[参考]これまでにコロナについて記した雑文

新型コロナウイルス肺炎騒動について私信: 琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動と対応政策: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動にかんするメディアの問題: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

新型コロナウイルス対策での休業自粛要請と休業補償について: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と「不要不急」: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動とワクチン: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動にみるわが国のパンデミック対応の反省点: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

無意味な緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

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2021年衆議院選挙への雑感

 自民党総裁選が9月末に行われ、新総裁に就任した岸田文雄首相は、衆議院議員任期満了寸前に、10月末の衆議院議員選挙を宣言して国会を解散した。まあごく普通の常識的な政権運営なのだろう。
 ただ今度の選挙に際して、表現のニュアンスの相違はあれども与党と野党を問わず、いずれも「富の再分配」を主張し、それが変革だと唱えている。このような政策構想が並ぶのは、まじめに考えるなら、あまり感心できるものではない。
 文科系の学会をはじめ世間一般では、「新自由主義」に対する反発が強いようで、それでは現在の「新自由主義」のなにが問題か、と尋ねると、たいてい「格差の拡大」という説明が一般的である。それではどう対処すべきかとなると、強大な資本主義資本と富裕者からカネを絞り上げ、持たざる者に富の再分配をせよ、ということになる。
 しかし私の観測では、これらは全般にフワッとした印象論で、具体的な説得性に欠ける。アメリカや日本をおもな対象として、ともかく「新自由主義」をなんとかしなければならない、というが、個別に「新自由主義」と「従来の自由主義」の違いを尋ねてもあまりわかり易い説明は返ってこない。「新自由主義」は、「新保守主義」と結託しているともいわれるが、「新保守主義」というコトバもいささか不分明である。1930年代のアメリカのニューディール政策では、それまでの自由放任主義に対して平等主義的傾向が強められ、その時代にはこの平等主義的政策こそが「新自由主義」と呼ばれた。それに対して自由放任主義への復帰を求める立場が「保守主義」とよばれることになり、その延長・発展としての1980年代のイギリスでのサッチャー主義(サッチャリズム)は、経済政策においては「新保守主義」的とされた。要するに、コトバに「新」を冠して運動や傾向を支持したり批難したりする表現法は、常にわかりにくさや曖昧さを導きやすく、政治においても十分注意が払われるべきだと思う。
 その観点から、このたびの岸田首相の「新しい資本主義」などというスローガンは、まずネーミングで落第である。さらにその内容が、所得の再分配と言うことであれば、ますます心配である。
 日本の戦後復興は、戦後期の日本政府の強力なリーダーシップにもとづく所得の再分配によって短期間に効率よく達成され、一億総中流社会も実現した。ただし、そのときは敗戦の焼け跡のゼロに近い貧困からの復旧であり、その意味で問題は単純であり、目標も全国民に共有されやすく、すべての国民が求める方向性が一致していた。再分配の問題よりも、その効用の方がはるかに大きいことが誰にも皮膚感覚で理解できた。しかし現在のわが国の状況は、問題ははるかに複雑化・多様化しており、全国民に共有されにくい。簡単な例でいえば、国民人口の最大比率を占めるに至った高齢者の利害と、なんらかの形でそれを支えざるを得ない相対的少数派の若年者層の利害の調整は簡単ではない。戦後の復興期と異なり、産業構造が製造からサービスに大きくシフトしたという側面もある。
 「富の再分配」というのは、要するに「持てる者」から「持たない者」へ、富(=カネ)を行政によって移動させる、ということだろう。これは、社会福祉の実現のために必要な要素である。しかし、国民の誰もが納得するような「再分配」の実現は、実は簡単ではない。「持たない人」をどうやって選別するのか、という点だけでもマイナンバーさえ徹底していないわが国では、大変な事務的負担=コストが発生する。マイナンバーが徹底して、前年度の所得を直ちに把握できるようにしたとしても、前年度に脱税したような人たちは、工夫を凝らしてさらに困窮を装うこともあるだろう。どうみても悠々自適としか見えない生活保護受給者も、現実に常に実在する。もっとも、これらさまざまな問題があるとしても、生活困窮者への経済的支援は、国の任務として必要ではある。ただ、安易に「国が支援したら解決する」という人たちが、どの程度まで現実の不正・不合理・事務コスト・技術的困難の程度を理解しているのか、私は不安である。
 「再分配こそが、国民の需要を喚起して、経済成長をもたらす」などと言うひともいる。所得不十分ゆえの不安から、国民が安心できず、消費を控えるのだ、という論理である。しかし多くの国民は、現状の野党を支持しないように、そんな簡単なことでないことがわかっている。十分な財源もなく再分配を優先して行うと、やがて国家財政が逼迫して分配もできなくなり、今より以上に困窮するとの不安がある。現在でも、コロナ騒動から緊急事態宣言などで事業停止に追い込まれた小事業者が補償金を支給されているが、実際に私が知る範囲で直接聞いた何件かの例でも、こんな状況がいつまでも続けられると信じている受給者は多くない。彼らは、ますます不安を募らせて、消費も一層切り詰める傾向にある。
 結局、経済成長を実現するためには、より効率の良い経済構造に進化していくことが必須であり、そのためには平常時にすら行き詰りつつある事業者は、現業から撤退して新しい事業に転換していくことを促すことが重要である。その方向での支援こそが政府に求められる。「新自由主義」であれ、「新しい資本主義」であれ、名前はどうでも良いが、正しい状況判断のもとに正しい方向に進まなければ、明日への改善は期待できないのである。

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菅首相の退任予告宣言

 菅首相が、今月末で自民党総裁任期満了の後、次の総裁選に出ないと発表した。わずか1年間の総理大臣であった。
 私は、菅首相がその理由に関わらずわずか1年間の任期であったことで、傑出した総理大臣ではなかったとは思う。外交と国家安全保障にかんしては、外国の首脳から見て、たった1年の期間では信頼を得ることはできない。しかしマスコミが喧しく喚きたてるような出来の悪い総理大臣であったとは決して思わない。前任者たる安倍首相の突然の辞任を受けて、当然ながら準備は充分にできなかったなかで、コロナ騒動というわけがわかりにくい難問を抱え、それなりに真摯に仕事をしたと思う。私の意見としては、効果がほとんどないとわかった後も、緊急事態宣言や蔓延防止措置をなんども繰り返して、巨額の国家予算を無駄に費やしながら多数の弱小サービス業とくに飲食業を破綻させ、孤独なひとびとを増加させたこと、医療業界の圧力にあらがえず、世界有数のベッド数を誇りながらほんのわずかな入院患者ですぐに医療崩壊を招く、医療業界の異常なコロナ対応の不公正・怠慢・恣意を1年間もの間放置したこと、は率直に失政であると思う。
 しかし今回の事態に陥ったのは、なんとかして現政権を貶めようとする一部マスコミの「努力」の成果と言えるであろう。彼らが言いつのる「菅首相は、コロナ対策が後手後手」、「外国に比べて、対策がまったくできていない」などの批判は、ほとんど根拠がない。「アメリカ大リーグのオールスターゲームは、大観衆がマスクなしで楽しんでいる。アメリカは、日本と違いワクチンが迅速に普及したからだ。すばらしい。」、「東京オリンピックを強行したために、感染爆発が起こった。」などなど、事実に反する主張ばかりである。アメリカは、平常の体制にいち早く切り替えて経済復興を急いでいる。それはそれで意味があると思うが、感染者数は1日30万人を超えることさえある。オリンピック・パラリンピックにかんしては、開幕以前から感染者数は増加傾向にあり、閉会後は比較的に小康に向かう傾向となっている。いかに喚こうがわが国に限っては、コロナの死者数は交通事故の死者数と大差がないレベルで推移している。
 首相のコロナ対策を、緊急事態宣言や蔓延防止措置、あるいは医療体制の整備不足について批判するなら私も賛同できる部分があるが、マスコミは逆に緊急事態宣言を促していて、その開始が遅いことを「後手後手」と叫ぶ。まったく見当違いの批判である。
 そんな無意味で理不尽な批判であっても、毎日毎日、朝から晩まで何度も何度も繰り返し繰り返し喚いているのを聴いていると、なんとなくそれに引きずられる人たちが出てくるのだろう。世論調査では、菅首相のコロナ対策を評価しないとする人が、評価するとする人よりずっと多いらしい。このような事態は、古来から言われているデマゴギーにきわめて近い。アフガニスタンのタリバーンや、ロシアのプーチン大統領、さらには中国共産党の習近平が嘲笑する「民主主義の弱み」を露呈しているかのようだ。そういう意味で、私は現在進行形のわが国の政治の事態を、憂える者である。
 いかに愚かで嘘を含むようなメディアであっても、それを国家権力で抑制することがあってはならない。民主主義の下にあっては、われわれ国民がマスコミの言うことを決して鵜呑みにせず、自分の頭でよく考えて、納得してから行動することが大事である。ウィンストン・チャーチルの名言「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」の意味・内容を、改めて各自が確認しなければならない。
 菅首相の発表を受けて、さっそく次期自民党総裁選の前哨戦が始まっている。この候補者たち、あるいは立候補志願者たちの主張をかいま見ても、私が期待するような意見がほとんど出てきていない。その意味でも、私は不満であり、憂えている。

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コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言

 驚くような報道記事が出た。

“ロックダウン”のような抑制策求める緊急提言 全国知事会
NHKニュース 2021年8月20日 19時40分
 緊急事態宣言などの対象地域が、20日から拡大されたことを受け、全国知事会が会合を開き、現在の宣言発令で効果を見いだせないことは明白だとして国に対し、「ロックダウン」=都市封鎖のような徹底した人流抑制策の検討などを求める緊急提言をまとめました。(以下略)

 素朴な質問として、①ロックダウンが有効な対策なのですか、②もしロックダウンを実施するなら、出口はどういう考えで設定しますか、③もっと優先的にやるべきことはないのですか、の3つを最低限お聴きしたい。
 フランスなど、すでにロックダウンを実施した国は、いくつもあった。しかしそれが大した効果もなかったことも、いまではすでに分かっている。国会で尾身会長もそのように答弁している。
 仮になんらかの効果が期待できると仮定して、もしロックダウンを開始するとしたならば、その解除の基準を設定する必要がある。現実問題として、これを責任もって提案できますか。すでに経験として、ロックダウンも中途半端にやれば、ヨーロッパですでに経験したように、またそのうち感染の波がぶり返し、マイナスばかりが残るのは見えている。感染者がゼロになれば、などと立憲民主党みたいなことを言えば、何年間もロックダウンのままかも知れない。もっとも、もしほんとうにどこかの時点で新規感染者がゼロになったとしても、世界中から感染が絶滅できない限り、グローバルな現代ではいずれまた蔓延するだろう。その間、実害は甚大である。経済は大きく活動が制限され国富は大幅に縮減し、多くの人たちが職業を失い、さまざまな形で後世に莫大な負債を残すだろう。大学の新入生をはじめとする、多くの若者たちの貴重な二度と戻らぬ青春を奪うだろう。自殺者がますます増加するだろう。ケア・ホームなどに収容されている老人たち、認知症が始まっている人たちは、家族や知人と会うことができず、心身の機能劣化や病状がますます進行するだろう。日本中が死屍累々の地獄になってしまうかも知れない。
 そんなリスクの大きすぎることを考える前に、「医療崩壊」と叫ばれている状況を冷静に考える必要がある。わが国は、病院のベッド総数が160万とも、90万弱ともいわれている。それに対して、コロナ肺炎の重症者数は、2000人にも満たない。すでにコロナ騒動が始まってから、1年半をとうに過ぎている。これは、いかにも不自然である。中小のサービス産業を見放し続ける一方で、医療関係業者のみは現状維持のままで護るというのは、政治としては不公平・不公正である。行政指導、法的措置でもなんでもいいから、政治的解決が図られるべきだと、私は思う。
 相手は、人間ではなくウイルスなのだ。人間がどのように行動しようが、変異などを含めて、感染が増えるときは増えるだろう。増えたときの対策をしなければ、対策にはならない。

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東京オリンピックでの二つの感動

 東京オリンピックが閉幕した。オリンピックに特段の関心があったわけではないが、アスリートたちの全身全霊を尽くしたパフォーマンスは、当然ながら今回も多くの感動を与えてくれた。そんななかにも、私がとくに印象深く感動した二人のアスリートについて記しておく。Photo_20210820060201
 まず日本で初の女子1500メートル競走に出場した田中希実選手である。オリンピックは、発祥のときからやはり陸上競技こそが中心であり花形である。このオリンピック陸上競技は、日本人にとってはなかなか閾値が高く、メダルどころか参加標準記録の達成すら容易ではない。かつて日本人の誰もが参加できず、陸上競技先進国から大きく後れをとっていたこの種目において、田中希実は標準記録をクリアし、予選、準決勝を勝ち抜き、決勝では世界のトップランナーたちと互角に近い走りを見せて、8位入賞を果たした。この間、予選、準決勝ともに自己最高記録を毎回更新し、日本人ではじめて4分の壁を突破し、決勝でも4分を再び切る走りを示した。オリンピックは、どうしても金・銀・銅のメダル獲得が注目されがちで、彼女のとてつもない偉大な快挙も、さほど大きな報道がされなかったが、私はとりわけ強く感動した。
Photo_20210820060202  もう一人は、アメリカ陸上競技界のレジェンド的な存在であるアリソン・フェリックスである。2004年アテネ・オリンピックに18歳の高校生ランナーとして初めて出場してから、実に5回目のオリンピック出場であった。東京オリンピックまでに、金6個、銀3個の9個のメダルをすでに獲得していたアメリカ陸上界短距離・中距離のスーパースターである。8年前には太腿の筋断裂という重篤な負傷を経験して一時引退し、復帰してリオ・オリンピックに出場し、結婚して2歳余りに成長した女児のママでもある。
 そのアリソンも、オリンピック初出場から17年あまり、35歳になり、当然全盛期の勢いはない。しかしそれでも競争が著しく激しい全米の陸上競技界で勝ち抜き、オリンピック400メートルの出場権を獲得し、さらにどんどん若手の強豪が世界中から出現し登場するオリンピックで堂々3位を勝ち取るというその強さには、心底感動した。とくに若いころは小顔で笑顔がチャーミングで、アイドル的な美貌も魅力であったが、なによりも上体がまったくぶれず、しなやかで力強い大きなストライドで美しく走り抜けるそのランニングフォームが、今にかわらぬかけがえのない大きな魅力である。35歳の人生の半分を、全米陸上競技界のトップレベル、すなわち世界陸上競技界のトップレベルを維持して過ごした、というのは実に壮挙である。このあと、1600メートルリレーでも金メダルを取ったというが、それは私は見ていなかった。

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