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時事

安倍元首相銃撃事件とマスコミ

 2022年7月8日午前11時半、奈良市近鉄大和西大寺駅前で参議院議員選挙の応援に来ていた安倍晋三元首相が、41歳の男に手製銃で暗殺された。この事件をめぐって、政治家や選挙候補者たちの多くは、テロ行為を非難して安倍氏に哀悼の辞を表明した。
 しかしこの事件そのものに対しては、いろいろなコメントが出た。
 立憲民主党の小沢一郎は、参院選候補者の応援演説で「自民党の長期政権が招いた事件と言わざるを得ない」と語った。TBSの金平茂紀は、昨今安倍元首相の指導のもと、戦前と同じような状況ができてしまった、社会の状況が悪い方向に変わってしまった、と発言している。やはりテレビ番組でコメンテーターとして登場する青木理は、日本はこの数十年、格差や貧困が広がり、将来への展望を描けない焦燥感がひろがったのに、政治がこれに十分対処しなかった。こうした閉塞感や不安感・不満が治安を悪化させ、政治に対するテロが起きてしまうのは必然なのだ、と発言している。いずれも、このような事件は悪い政治によって引き起こされた、という論旨である。
 これらに対して、大学教授・評論家の八幡和郎は、安倍元首相に対して、特定のマスコミや「有識者」といわれる人たちが、テロ教唆と言われても仕方ないような言動・報道を繰り返し、暗殺されても仕方ないという空気をつくりだしたことが事件を引き起こしたのであって、犯人が左派でも右派でも個人的な恨みをもった人であろうが、精神に障害を抱えた人であろうが、それが許されると思わせた人たちこそが責められるべきである、と述べている。アゴラ言論プラットフォームを主宰する池田信夫は、いわゆるサヨクの人びと、たとえば大学教授・山口二郎がYouTubeで堂々と「叩ききってやる」と罵って恥じないとか、朝日新聞がモリカケ問題、花見問題、などをはじめとする結局なんの決めてもない長ったらしい無意味な罵詈雑言を続けるなど、根拠のない悪意ある誹謗中傷を重ねて、安倍元首相に対する憎しみを懸命に煽ってきたことがこのような風潮をつくった。それでも現実として安倍氏は、選挙には勝って長期政権を達成してきたのであって、それをも否定するのは民主主義の否定に通じる、と述べている。
 まあ、政治と政治家と、それに対する批判は、どこまでが妥当かという判断は、結局それを見て聞いて、国民それぞれが自分で考えるべき問題であり、ロシア、中国、北朝鮮などの共産主義の国々、あるいは韓国などのように、政治に対する批判を国が制限・抑圧するようなことでは、つまるところ今のロシアを典型とする大きな危険性を孕む、と私は思う。くだらない言論、程度の低い政治批判、馬鹿馬鹿しい発言であっても、その生息を許容することに意味があり、大切なことはそれをどう受け取るか国民の側の判断力が問われているのである。これまでの選挙結果などを見るかぎり、もちろんすべてがうまくいっているとは言えないが、わが日本国民は大きな失敗や、失敗の繰り返しはあまりしていないと思っている。
 ただ、こうしたテロ事件が発生している一方で、テロを支援する、テロにシンパシィを表明する言論人の態度は、やはり許しがたい。上記に例示したなかでは、金平茂紀と青木理は、今年5月の重信房子の出所歓迎会に参加しているのである。重信房子は、直接日本人を殺傷してはいないかも知れないが、中東で多くのテロ事件とそれに伴う多くの殺傷に深く関与した人物であり、まぎれもなくテロリストである。言論人として、その出所を花束で迎えるような会合に自発的に参加するという行為が、なにを発信するのか、どのように理解されるのか、当人たちはわかっているのだろうか。私は、このような態度や行動は決して許容できない。

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コロナ騒動への追加的感想

 2年前から始まったコロナ騒動について、すでに10回も雑文を記してきた。読み返してみて、幸いにして大きな間違いはなかったと安堵する。もはやまったく新しい意見もないが、いささか様相が変わりつつあることもあり、蛇足かも知れぬが追記しておく。
 今年の年明け早々から、オミクロン株(尾身苦労株?)なるコロナウイルスの変種がわが国にも流行して、これまでなかったほどのPCR検査陽性者数を記録更新中である。一方では、政府、都道府県行政府、そして「専門家」たちも、少しは気づいた部分もあるのか、蔓延防止措置や緊急事態宣言に対する認識がようやく少し変わってきたようで、それは望ましいことである。もちろん相変わらず間違ったことをなんどもなんども繰り返して発信しているメディアも残っている。
 2年前の6月に最初の緊急事態宣言のあと、私は緊急事態宣言の効果に疑問を感じて、昨年の3月にはそれまでの国内・海外のロックダウンや緊急事態宣言などの行動規制政策とPCR陽性者数の推移のデータを見てそれが確信に変わり、昨年7月には明確に緊急事態宣言開始に明確に反対を論じた。このような行政措置は、実施すると零細サービス業界などを中心に甚大な被害を発出するので、政府がもし発令するならば最低限事前に、その効果を過去の経過を真摯に分析したうえで丁寧な説明をすべきである。「他にやりようがない」から実施する、というアリバイ造りのような行政は絶対にすべきでない。
 オミクロン株による大量の陽性者の発生と、重症比率の低下から、「普通のインフルエンザ」になった、という説についても、いい加減な議論や解釈が蔓延している。冷静に論理的に考えれば、オミクロン株のコロナは、死亡率から「普通のインフルエンザ」とするのは妥当であり、ただ陽性者の数が非常に多いのが大問題といえる。さらにPCR検査数が少ないので実際の陽性者数は、現在把握されている陽性者数よりはるかに多いことが容易に想定される。
 ここで最大のポイントは、普通のインフルエンザなら安心・安全だという認識である。厳然たる実績として、わが国でもこれまで「普通のインフルエンザ」での死亡数は、コロナでの死亡数をはるかに上回っている。コロナは治療法がないから心配、とは言っても、治療法があるともされる「普通のインフルエンザ」の死亡数・死亡率が相対的に大きいことを見れば、理由にならない。「普通のインフルエンザ」という括りも危うく、この実態も多様で、今話題の新型コロナウイルスもインフルエンザウイルスの変異のひとつにすぎないことを忘れてはならない。
 我々の認識のもう一つの大きな問題は、PCR検査である。PCR検査は手間ヒマを費やしコストも大きいにかかわらず、30%(最近20~30%と言い換える医師もいるが)は見逃すのである。常識的に考えて、30%も間違う検査で「陰性証明」などできるわけがない。未だに「PCR検査の不備が大問題」というメディアの発言が蔓延しているが、すでに医療対応ができないほどに陽性者数が増えてきた現在、どんな意味があるというのか。
 もうひとつの大きな問題は、検査の陽性者を「コロナ発症者」とほぼ同等に扱う間違いである。ウイルスが体内に入っても発症しない場合も多々ある。コロナは発症していなくても他人にうつす可能性がある、というのは他のウイルスと同様に正しいのだろう。しかしウイルスが増殖して発症している人と、未発症でウイルス総数が相対的にはるかに少ない人とで、周囲にウイルスを拡散する能力がおなじであるはずがない。その「程度の格差」は当然考慮されるべきである。
 私は、発症してはじめて「感染者」として扱うことが本来あるべきものだと思う。ちなみに私自身は小学校に入学して最初のツベルクリン反応から「陽性」となり、お陰で人生を通じて一度もBCG接種を経験しなかったけれど、これまで一度も「君は結核感染者だ」と言われたことはない。
 全体を通じて、コロナ騒動という集団ヒステリーともいうべき「精神的疾患」症候群が蔓延しているようだ。その最大の要因は、望ましくない心理的DX: Digital Transformationともいえる。要するに「ゼロかイチか」のデジタル思考である。「コロナは恐ろしいが、普通のインフルエンザなら怖くない」、PCR検査の検出確率を無視してPCR検査万能かのように思い込む、コロナ陽性とコロナ発症をほとんど同じであるかのように思い込む、世界中でコロナが流行していて日本が世界から孤立・隔絶してはいないのに「安心・安全」などと発言したり求めたりする、など。
 さしあたっては、以下のようなことは最低限必要だろう。陽性判定にもとづく「コロナ感染者数」などという意味のない(意味の少ない)数値をやめて、「コロナ発症者数」に切り替える。「コロナ発症者」の判定は、すでに着手されだしたが、時間とコストがほとんど無意味にかかるPCR検査ではなく普通のインフルエンザと同様に普通の臨床医が行い、入院の要否を妥当に臨床医学的に判定する。そのために感染症分類を2類から5類に早急に変更する、などである。「濃厚接触者」などの定義も、当然「コロナ陽性者」ではなく「コロナ発症者」を基準にして定義する。
 地政学リスク分析の国際的シンクタンクであるユーラシアグループEurasia Groupが、世界の10大リスクのトップで”Covid19”を取りあげ、「政治・行政的にコロナを抑え込む」努力は不可能で無意味であることが判明した、としている。その真偽はさておき、すくなくとも政府を叩けばコロナがなくなる、というような幼稚な意識からはできるだけ早く脱出したい。ともかくこれだけ世界中に流行しているパンデミックであり、いくら致死率が小さくても母数が大きければ死者数が多くなるのは当たり前であり、「普通のインフルエンザ」であっても決して油断せず、意味のないことには反対しながらも、各個人ができる対抗措置・予防努力を地道に継続・励行する、と言うことが大切だろうと思う。
[参考]これまでにコロナについて記した雑文

新型コロナウイルス肺炎騒動について私信: 琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動と対応政策: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動にかんするメディアの問題: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

新型コロナウイルス対策での休業自粛要請と休業補償について: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と「不要不急」: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動とワクチン: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動にみるわが国のパンデミック対応の反省点: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

無意味な緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

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2021年衆議院選挙への雑感

 自民党総裁選が9月末に行われ、新総裁に就任した岸田文雄首相は、衆議院議員任期満了寸前に、10月末の衆議院議員選挙を宣言して国会を解散した。まあごく普通の常識的な政権運営なのだろう。
 ただ今度の選挙に際して、表現のニュアンスの相違はあれども与党と野党を問わず、いずれも「富の再分配」を主張し、それが変革だと唱えている。このような政策構想が並ぶのは、まじめに考えるなら、あまり感心できるものではない。
 文科系の学会をはじめ世間一般では、「新自由主義」に対する反発が強いようで、それでは現在の「新自由主義」のなにが問題か、と尋ねると、たいてい「格差の拡大」という説明が一般的である。それではどう対処すべきかとなると、強大な資本主義資本と富裕者からカネを絞り上げ、持たざる者に富の再分配をせよ、ということになる。
 しかし私の観測では、これらは全般にフワッとした印象論で、具体的な説得性に欠ける。アメリカや日本をおもな対象として、ともかく「新自由主義」をなんとかしなければならない、というが、個別に「新自由主義」と「従来の自由主義」の違いを尋ねてもあまりわかり易い説明は返ってこない。「新自由主義」は、「新保守主義」と結託しているともいわれるが、「新保守主義」というコトバもいささか不分明である。1930年代のアメリカのニューディール政策では、それまでの自由放任主義に対して平等主義的傾向が強められ、その時代にはこの平等主義的政策こそが「新自由主義」と呼ばれた。それに対して自由放任主義への復帰を求める立場が「保守主義」とよばれることになり、その延長・発展としての1980年代のイギリスでのサッチャー主義(サッチャリズム)は、経済政策においては「新保守主義」的とされた。要するに、コトバに「新」を冠して運動や傾向を支持したり批難したりする表現法は、常にわかりにくさや曖昧さを導きやすく、政治においても十分注意が払われるべきだと思う。
 その観点から、このたびの岸田首相の「新しい資本主義」などというスローガンは、まずネーミングで落第である。さらにその内容が、所得の再分配と言うことであれば、ますます心配である。
 日本の戦後復興は、戦後期の日本政府の強力なリーダーシップにもとづく所得の再分配によって短期間に効率よく達成され、一億総中流社会も実現した。ただし、そのときは敗戦の焼け跡のゼロに近い貧困からの復旧であり、その意味で問題は単純であり、目標も全国民に共有されやすく、すべての国民が求める方向性が一致していた。再分配の問題よりも、その効用の方がはるかに大きいことが誰にも皮膚感覚で理解できた。しかし現在のわが国の状況は、問題ははるかに複雑化・多様化しており、全国民に共有されにくい。簡単な例でいえば、国民人口の最大比率を占めるに至った高齢者の利害と、なんらかの形でそれを支えざるを得ない相対的少数派の若年者層の利害の調整は簡単ではない。戦後の復興期と異なり、産業構造が製造からサービスに大きくシフトしたという側面もある。
 「富の再分配」というのは、要するに「持てる者」から「持たない者」へ、富(=カネ)を行政によって移動させる、ということだろう。これは、社会福祉の実現のために必要な要素である。しかし、国民の誰もが納得するような「再分配」の実現は、実は簡単ではない。「持たない人」をどうやって選別するのか、という点だけでもマイナンバーさえ徹底していないわが国では、大変な事務的負担=コストが発生する。マイナンバーが徹底して、前年度の所得を直ちに把握できるようにしたとしても、前年度に脱税したような人たちは、工夫を凝らしてさらに困窮を装うこともあるだろう。どうみても悠々自適としか見えない生活保護受給者も、現実に常に実在する。もっとも、これらさまざまな問題があるとしても、生活困窮者への経済的支援は、国の任務として必要ではある。ただ、安易に「国が支援したら解決する」という人たちが、どの程度まで現実の不正・不合理・事務コスト・技術的困難の程度を理解しているのか、私は不安である。
 「再分配こそが、国民の需要を喚起して、経済成長をもたらす」などと言うひともいる。所得不十分ゆえの不安から、国民が安心できず、消費を控えるのだ、という論理である。しかし多くの国民は、現状の野党を支持しないように、そんな簡単なことでないことがわかっている。十分な財源もなく再分配を優先して行うと、やがて国家財政が逼迫して分配もできなくなり、今より以上に困窮するとの不安がある。現在でも、コロナ騒動から緊急事態宣言などで事業停止に追い込まれた小事業者が補償金を支給されているが、実際に私が知る範囲で直接聞いた何件かの例でも、こんな状況がいつまでも続けられると信じている受給者は多くない。彼らは、ますます不安を募らせて、消費も一層切り詰める傾向にある。
 結局、経済成長を実現するためには、より効率の良い経済構造に進化していくことが必須であり、そのためには平常時にすら行き詰りつつある事業者は、現業から撤退して新しい事業に転換していくことを促すことが重要である。その方向での支援こそが政府に求められる。「新自由主義」であれ、「新しい資本主義」であれ、名前はどうでも良いが、正しい状況判断のもとに正しい方向に進まなければ、明日への改善は期待できないのである。

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菅首相の退任予告宣言

 菅首相が、今月末で自民党総裁任期満了の後、次の総裁選に出ないと発表した。わずか1年間の総理大臣であった。
 私は、菅首相がその理由に関わらずわずか1年間の任期であったことで、傑出した総理大臣ではなかったとは思う。外交と国家安全保障にかんしては、外国の首脳から見て、たった1年の期間では信頼を得ることはできない。しかしマスコミが喧しく喚きたてるような出来の悪い総理大臣であったとは決して思わない。前任者たる安倍首相の突然の辞任を受けて、当然ながら準備は充分にできなかったなかで、コロナ騒動というわけがわかりにくい難問を抱え、それなりに真摯に仕事をしたと思う。私の意見としては、効果がほとんどないとわかった後も、緊急事態宣言や蔓延防止措置をなんども繰り返して、巨額の国家予算を無駄に費やしながら多数の弱小サービス業とくに飲食業を破綻させ、孤独なひとびとを増加させたこと、医療業界の圧力にあらがえず、世界有数のベッド数を誇りながらほんのわずかな入院患者ですぐに医療崩壊を招く、医療業界の異常なコロナ対応の不公正・怠慢・恣意を1年間もの間放置したこと、は率直に失政であると思う。
 しかし今回の事態に陥ったのは、なんとかして現政権を貶めようとする一部マスコミの「努力」の成果と言えるであろう。彼らが言いつのる「菅首相は、コロナ対策が後手後手」、「外国に比べて、対策がまったくできていない」などの批判は、ほとんど根拠がない。「アメリカ大リーグのオールスターゲームは、大観衆がマスクなしで楽しんでいる。アメリカは、日本と違いワクチンが迅速に普及したからだ。すばらしい。」、「東京オリンピックを強行したために、感染爆発が起こった。」などなど、事実に反する主張ばかりである。アメリカは、平常の体制にいち早く切り替えて経済復興を急いでいる。それはそれで意味があると思うが、感染者数は1日30万人を超えることさえある。オリンピック・パラリンピックにかんしては、開幕以前から感染者数は増加傾向にあり、閉会後は比較的に小康に向かう傾向となっている。いかに喚こうがわが国に限っては、コロナの死者数は交通事故の死者数と大差がないレベルで推移している。
 首相のコロナ対策を、緊急事態宣言や蔓延防止措置、あるいは医療体制の整備不足について批判するなら私も賛同できる部分があるが、マスコミは逆に緊急事態宣言を促していて、その開始が遅いことを「後手後手」と叫ぶ。まったく見当違いの批判である。
 そんな無意味で理不尽な批判であっても、毎日毎日、朝から晩まで何度も何度も繰り返し繰り返し喚いているのを聴いていると、なんとなくそれに引きずられる人たちが出てくるのだろう。世論調査では、菅首相のコロナ対策を評価しないとする人が、評価するとする人よりずっと多いらしい。このような事態は、古来から言われているデマゴギーにきわめて近い。アフガニスタンのタリバーンや、ロシアのプーチン大統領、さらには中国共産党の習近平が嘲笑する「民主主義の弱み」を露呈しているかのようだ。そういう意味で、私は現在進行形のわが国の政治の事態を、憂える者である。
 いかに愚かで嘘を含むようなメディアであっても、それを国家権力で抑制することがあってはならない。民主主義の下にあっては、われわれ国民がマスコミの言うことを決して鵜呑みにせず、自分の頭でよく考えて、納得してから行動することが大事である。ウィンストン・チャーチルの名言「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」の意味・内容を、改めて各自が確認しなければならない。
 菅首相の発表を受けて、さっそく次期自民党総裁選の前哨戦が始まっている。この候補者たち、あるいは立候補志願者たちの主張をかいま見ても、私が期待するような意見がほとんど出てきていない。その意味でも、私は不満であり、憂えている。

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コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言

 驚くような報道記事が出た。

“ロックダウン”のような抑制策求める緊急提言 全国知事会
NHKニュース 2021年8月20日 19時40分
 緊急事態宣言などの対象地域が、20日から拡大されたことを受け、全国知事会が会合を開き、現在の宣言発令で効果を見いだせないことは明白だとして国に対し、「ロックダウン」=都市封鎖のような徹底した人流抑制策の検討などを求める緊急提言をまとめました。(以下略)

 素朴な質問として、①ロックダウンが有効な対策なのですか、②もしロックダウンを実施するなら、出口はどういう考えで設定しますか、③もっと優先的にやるべきことはないのですか、の3つを最低限お聴きしたい。
 フランスなど、すでにロックダウンを実施した国は、いくつもあった。しかしそれが大した効果もなかったことも、いまではすでに分かっている。国会で尾身会長もそのように答弁している。
 仮になんらかの効果が期待できると仮定して、もしロックダウンを開始するとしたならば、その解除の基準を設定する必要がある。現実問題として、これを責任もって提案できますか。すでに経験として、ロックダウンも中途半端にやれば、ヨーロッパですでに経験したように、またそのうち感染の波がぶり返し、マイナスばかりが残るのは見えている。感染者がゼロになれば、などと立憲民主党みたいなことを言えば、何年間もロックダウンのままかも知れない。もっとも、もしほんとうにどこかの時点で新規感染者がゼロになったとしても、世界中から感染が絶滅できない限り、グローバルな現代ではいずれまた蔓延するだろう。その間、実害は甚大である。経済は大きく活動が制限され国富は大幅に縮減し、多くの人たちが職業を失い、さまざまな形で後世に莫大な負債を残すだろう。大学の新入生をはじめとする、多くの若者たちの貴重な二度と戻らぬ青春を奪うだろう。自殺者がますます増加するだろう。ケア・ホームなどに収容されている老人たち、認知症が始まっている人たちは、家族や知人と会うことができず、心身の機能劣化や病状がますます進行するだろう。日本中が死屍累々の地獄になってしまうかも知れない。
 そんなリスクの大きすぎることを考える前に、「医療崩壊」と叫ばれている状況を冷静に考える必要がある。わが国は、病院のベッド総数が160万とも、90万弱ともいわれている。それに対して、コロナ肺炎の重症者数は、2000人にも満たない。すでにコロナ騒動が始まってから、1年半をとうに過ぎている。これは、いかにも不自然である。中小のサービス産業を見放し続ける一方で、医療関係業者のみは現状維持のままで護るというのは、政治としては不公平・不公正である。行政指導、法的措置でもなんでもいいから、政治的解決が図られるべきだと、私は思う。
 相手は、人間ではなくウイルスなのだ。人間がどのように行動しようが、変異などを含めて、感染が増えるときは増えるだろう。増えたときの対策をしなければ、対策にはならない。

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東京オリンピックでの二つの感動

 東京オリンピックが閉幕した。オリンピックに特段の関心があったわけではないが、アスリートたちの全身全霊を尽くしたパフォーマンスは、当然ながら今回も多くの感動を与えてくれた。そんななかにも、私がとくに印象深く感動した二人のアスリートについて記しておく。Photo_20210820060201
 まず日本で初の女子1500メートル競走に出場した田中希実選手である。オリンピックは、発祥のときからやはり陸上競技こそが中心であり花形である。このオリンピック陸上競技は、日本人にとってはなかなか閾値が高く、メダルどころか参加標準記録の達成すら容易ではない。かつて日本人の誰もが参加できず、陸上競技先進国から大きく後れをとっていたこの種目において、田中希実は標準記録をクリアし、予選、準決勝を勝ち抜き、決勝では世界のトップランナーたちと互角に近い走りを見せて、8位入賞を果たした。この間、予選、準決勝ともに自己最高記録を毎回更新し、日本人ではじめて4分の壁を突破し、決勝でも4分を再び切る走りを示した。オリンピックは、どうしても金・銀・銅のメダル獲得が注目されがちで、彼女のとてつもない偉大な快挙も、さほど大きな報道がされなかったが、私はとりわけ強く感動した。
Photo_20210820060202  もう一人は、アメリカ陸上競技界のレジェンド的な存在であるアリソン・フェリックスである。2004年アテネ・オリンピックに18歳の高校生ランナーとして初めて出場してから、実に5回目のオリンピック出場であった。東京オリンピックまでに、金6個、銀3個の9個のメダルをすでに獲得していたアメリカ陸上界短距離・中距離のスーパースターである。8年前には太腿の筋断裂という重篤な負傷を経験して一時引退し、復帰してリオ・オリンピックに出場し、結婚して2歳余りに成長した女児のママでもある。
 そのアリソンも、オリンピック初出場から17年あまり、35歳になり、当然全盛期の勢いはない。しかしそれでも競争が著しく激しい全米の陸上競技界で勝ち抜き、オリンピック400メートルの出場権を獲得し、さらにどんどん若手の強豪が世界中から出現し登場するオリンピックで堂々3位を勝ち取るというその強さには、心底感動した。とくに若いころは小顔で笑顔がチャーミングで、アイドル的な美貌も魅力であったが、なによりも上体がまったくぶれず、しなやかで力強い大きなストライドで美しく走り抜けるそのランニングフォームが、今にかわらぬかけがえのない大きな魅力である。35歳の人生の半分を、全米陸上競技界のトップレベル、すなわち世界陸上競技界のトップレベルを維持して過ごした、というのは実に壮挙である。このあと、1600メートルリレーでも金メダルを取ったというが、それは私は見ていなかった。

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無意味な緊急事態宣言

 参院内閣委員会の閉会中審査が7月15日開かれ、立憲民主党木戸口英司参院議員の質問に答えて、政府の新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長が東京都に4度目の緊急事態宣言が出ていることを踏まえ、「人々が緊急事態(宣言)に慣れ、飲食店も『もう限界だ』との声も聞こえる中で、人々の行動制限だけに頼るという時代はもう終わりつつある」との認識を表明した。
 これをうけて、テレビなどのマスコミは、いまごろになって唐突に驚いたと騒いでいるが、実際は少なくとも1か月以上前に、以下のように尾身会長は同じ内容のことを国会で正式に表明していた。マスコミが取り上げなかっただけである。
 2021年6月3日、衆議院厚生労働委員会の質疑で、日本維新の会青山雅幸議員から、アメリカのノースダコタ/サウスダコタ、そしてカリフォルニア/フロリダの対比データから、ロックダウン的なアプローチ、すなわち人流制限、外出制限、ヒトの隔離などの方法は、ほとんど効果が無いという観測事実を指摘され、尾身会長は「重要な問題提起。人の隔離が必要なのか、という話。公衆衛生の歴史上は人の接触を断つというのが19世紀以来。アメリカの例はまた勉強してみるが、スペイン風邪についてのセントルイスとフィラデルフィアの例、それが公衆衛生のバイブル。自然減もあるが。将来は、ワクチンまではソーシャルディスタンスに頼らなければならないが21世紀なのに19世紀的手法。これからは検査やITコードを使った手法、下水でのサンプル採取で感染流行の兆しを把握、飲食店でCO2モニターなど。そういう方向に変わるべき。」と答弁している。つまり、コロナ対策として、緊急事態宣言などのロックダウン的手法は、19世紀的手法だと明言しているのである。
 莫大な臨時予算を投入しながら自殺者を増加させ、零細飲食業者などに甚大な被害を与える、こんなに理不尽で有害な政策が、なぜいままで継続されてきたのか
 現状を、少し距離をおいてみつめると、40年以上前にミッシェル・フーコーが指摘した、かつての暴力と自由との対立ではない、権力と知の結合による有無を言わさぬ強制力をもつ新しい権力としての「厚生権力」による「生命政治の支配」が現実化してしまっているのである。体が病気になると困ったことになるという事実をちらつかせながら、医師が臨床医学的知識を押しつけてくるならば、ヒトの意識は自由と隷属の選択には関われず、どんなに理性的であったとしても、この新しい権力に対して対決する必要を感じず、いつのまにかみずから支配されることを望むようになってしまうのである。
 生命政治の思想(船木亨『現代思想史入門』ちくま新書、119ページ)を引用する。
 たとえばたばこの煙や匂いが嫌いだったひとの場合、ひとを道徳的に間違っているといって批難するより、それをすると病気になる、周囲のひとを病気にするという事情を説明することで、それをやめさせることができるような状況になっている。
しかし、そのうらはらな結果として、健康に害があるとはいえないものについては、一切が許されることになる。ある少女が、援助交際を咎められたとき、「だれにも迷惑をかけているわけではない」といったという。つまり、近代的価値としての自由が、「勝手気まま」や「自己毀損」をしか、意味しなくなっているということである。ジョン・S・ミルが『自由論』で書いているように、実質的な苦痛が生じない、迷惑がかからない感性的なことがらについては、ひとびとはみな我慢すべきだということになる。
 ミルの時代と異なって、いまはいわば自由の飽和、他人たちの自由を放任するために一人ひとりの自由が損なわれるといった状況にいたっているといえるかもしれない。他人の自由に対しては、すぐにハラスメントが問題にされるように、もはやだれも口出しすることはできない。だから今日では、何が善で何が悪かは、各人の理性ではなく、医師が判断する。医師が病気(異常)であるとするものが悪であり、そうでないもの(正常)が善である。各人の理性的判断とは、いまでは医師の指示に従って、各自の身体と精神の健康に配慮することでしかない。
こうした正義の基準の変化は、問題行動に対する物語り方の変化であるともいえる。近代では、互いに迷惑がかかるような行為を、どこまで個人の自由が優先されるべきか、何が法律や道徳によって規制されていいかという物語り方で、各人の理性によって議論され、判断されてきた。それがいまは、健康に害があるかどうかの議論となり、医師のみが裁定できるような物語り方がされるようになっているということなのである。
 現実の医師は、相対的には普通の人たち以上に自由で、10人いれば10種の意見がある。しかしテレビに出てくるコメンテーターの医師は、メディアが都合の良い者に限るのか、たいていいつも同じ顔であり、同じ発言を繰り返している。政府としては、病気に関わる問題なので医師の意見を聞こうとするが、政府が意見を聞く相手も、現実には医師会会長や尾身会長などのごく一部の医師の意見のみとなる。ほんとうは政治的判断で政府が最終的には独自に決めるべきなのに、ごく一部の医師の意見と、マスコミに操られた「世論」なるものに引きずられる。医師会会長が、自ら主張する緊急事態宣言を破るような行動をするのは、倫理的に問題化される以前に、彼らは本心ではこのような対策が無意味だと考えているからである。
 コロナ騒動は、すでに1年半も続いている。その間の死亡者数は15,000人程度であり、しかもその75%が80歳以上の高齢者である。年間の死亡者数だけでみると、交通事故の8,000人/年と大差がない。交通事故が怖いから外出や旅行を自粛しようというヒトが、どれだけいるだろうか。それにも関わらず、毎日毎日朝から晩まで、コロナ騒動の話題ばかり、それこそ同じことを繰り返し繰り返し報道して、視聴者を必要以上に震え上がらせてきたメディア・マスコミの弊害に、間違いに、われわれ一般庶民が気づかなければならない。共産主義などの独裁国家とは異なり、わが国は一般国民が政権を決めるため、政権は国民の意見、世論に敏感にならざるを得ない。われわれ一般国民がマスコミの誤った報道に泥み、集団ヒステリーのごとく緊急事態宣言の発令を望むなら、政府は発令してしまうだろう。
 もちろん世界的に新型コロナ肺炎が大流行して、パンデミックになっているのであり、けっして安心・安全なわけではない。「ウイルスに打ち勝つ」「ノー・コロナ」ななどと叫ぶことを嘲笑する程度には、ウイルスはじゅうぶんに強かなのである。ワクチンをしたくらいで、ウイルスを侮ってはならない。引き続き行動にはできるだけ慎重を期して、自分の罹患を防ぐための丁寧な手洗いと、知らないうちに感染して他人にうつさないためのマスクの着用は、引き続き励行すべきである。しかし効果が無くて被害者を出すような、非常事態宣言のような愚行は即刻やめるべきだ。
 私達一般庶民は、マスコミを鵜呑みにするのでなく、自分の頭で考えて、自分のために正しいと思う方向を判断しなければならない。民主主義の国では、国民のレベルが政府のレベルを規定するのである。

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コロナ騒動にみるわが国のパンデミック対応の反省点

 朝から晩までコロナ一色のテレビ報道が、もう一年半も続いている。ごく最近は1年延期した東京オリンピックの開催に反対との報道が喧しいことである。
 世界的にみると、ロックダウンを敢行したところもそうでないところも、コロナの感染の波動(サージ)は繰り返して発生している。わが国の場合も、オリンピックの有無に関わらず、きっと流行の波がまた発生するであろう。
 前回の1月から3月までの2回目の緊急事態宣言の経過をみても、すでに緊急事態宣言なるものの効果は疑わしいものであった。そして4月からの3回目の緊急事態宣言前になると、おそらく感染力の強いコロナウイルス変異株の効果が主要因となって、2回目をうわまわる規模の感染サージが発生した。そして感染者数のマクロな推移動向は、世界的に同じようなことが発生している。もっとも感染者や死亡者の絶対数においては、わが国は非常に少数ではある。
 緊急事態宣言などのロックダウン指向の対策の無意味さについては、最近データが追加されて、衆議院本会議でも話題に上っている(予想されたとおりマスコミは取り上げない)。わが国の50倍弱もの多くの感染者を出しているアメリカのデータだが、ノースダコタ州とサウスダコタ州、カリフォルニア州とフロリダ州の対比データがある。ノースダコタ州とカリフォルニア州は、ロックダウンを指向するような厳しい行動規制を実施した州であり、サウスダコタ州とフロリダ州は特段の厳しい規制をとらなかった州である。結果は、規制の有無に関わらず、ほぼおなじような感染状況の経過を記録している。すでに1月から3月までのわが国について、私自身が日本のデータを見て、同じようなことを考えていたが、さらに国を越えて状況証拠が積み重ねられたということである。導入すれば甚大な犠牲と被害をともなう緊急事態宣言のような措置を、わが国政府が悩みもせずに気軽に発令しているとは思わないものの、少なくともこのような措置の効果・有効性について、もっと真剣に精緻に評価して、その評価結果をしっかり国民に説明して、効果に自信を持ったうえで発令していただきたい。
 感染の基本的なメカニズムが、空気感染ではなく飛沫感染であるなら、マスク、手洗いなどの励行は効果が期待できるが、ソーシャル・ディスタンスや「三密」などは優先順位が低いはずである。人流制限なども同じである。さらに、最近感じるのは、緊急事態宣言のような「厳しい」対処については、いわゆる「コロナ疲れ」からか、解除したときに反動が生じて「安心」「弛緩」してしまい、むしろ感染を助長するような行動をする人が多発するという傾向がある。緊急事態宣言は、その措置そのものの問題だけにとどまらず、バックラッシュ効果まで発生してしまうようだ。
 緊急事態宣言で活動制限や営業制限を受ける業種に対しては、政府からの適切な補償が必要とされるが、これこそ言うは易く実現は容易ではない。事業規模に応じて、さらに経営実績に応じて補償すべきなのは正論だが、それを逐一評価・査定して補償を実行していくなどという事業は、とても複雑で準備調査と時間を大量に費やす。さらに事業会社に補償したとしても、従業員のひとりひとりまで行き渡らせることは、実際上不可能に近い。そのうえ人間は機械ではないので、普通に働いて稼ぎそれで生活するときには不安がなくとも、補償金で生活するときは、いったいいつまでこの非正常な生活が続くのか、補償がいつまで継続可能なのか、いろいろ考えこんで深刻な不安を感じてきわめて不快なのはごく正常な心理である。コロナ騒動が始まってから、自殺者数も大幅に増加している。
 これまでのコロナ騒動の経過を振り返って、パンデミック対策にいくつかの反省事項があげられる。
(1)パンデミック対策は、やはり国家安全保障政策の一環であるべきだ。軍事動員と同じように特殊事態として特別の国家的動員体制を組み立てる必要がある。そのためには、一定度の人権制限も必要である。対策措置強制の結果発生する当事者の損害に対する国家からの補助、補償も必要であるが、それが迅速に遂行できるためには、いまだ徹底していないマイナンバーの全面的導入や、広範囲の国民経済データの集中管理体制が必要となる。
(2)パンデミックに対する医療体制も大きく組み直す必要がある。わが国は世界的に多数のベッド数を確保しているにかかわらず、少数の感染者で医療崩壊が発生する、というのは異常である。公立病院の比率が低いために国や自治体が病院に命令が出せない、という意見があるが、すべての病院の経営を支えているのはわが国の充実した健康保険制度である。私立病院だから国の言うことは聞かない、というのは不当である。病院の多くを公立化すると、平時での非効率経営が蔓延して、別の深刻な不健全性が増加する懸念が大いにある。この問題こそ国会でよく議論して、よい方向への法的整備を着実に進めていただきたい。
(3)ワクチンの国産化を、将来のためにも積極的に進めることが重要である。古くは日本脳炎から、小児マヒ、インフルエンザ、子宮頸がんなど、多くのワクチンの国産メーカーが悪意とも思える心無いマスコミの報道で罪人扱いされ、裁判で敗訴を続け、ワクチン開発・製造側では、もう日本でワクチンなどコリゴリという風潮が形成された。やはりパンデミック対策の一つのキー・ツールたるワクチンを、自国で供給できないのは厳しい。幸いわが国は技術レベルとしては十分対応できるのに、有害なマスコミがそれを潰してきたのである。さらに今回のように急いでワクチンを開発する事態には、トランプ前大統領が発動した「オペレーション・ワープ・スピード」のような、軍事的アプローチで短時間にワクチンを開発達成するシステムをくみ上げることも重要となるだろうが、ここまで一気には手が付けられないだろう。我々が獲得すべきは、まずワクチンという本当は有効で必要な手段のメリットとリスクを正しく理解し納得して、冷静に対応することである。副反応を喧伝し過ぎてワクチンとそのメーカーの開発部隊を破壊したり、また正反対にワクチンさえあればすべてが一気に解決すると喧伝したりする憎むべき愚を、二度と繰り返してはいけないのである。

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コロナ騒動と「不要不急」

 ゴールデンウイークの直前に第3回目の緊急事態宣言が出て、「不要不急の外出は、控えるようにしてください」との由である。指示あるいは要請の内容が曖昧だとの批判もあるようだが、それはさておき、この「不要不急」というコトバが多少気になって、少し書き降ろしてみる。
 「不要不急」とは、普通に考えて、無くてもすぐに困らないこと、とくに急いで行う必要が無いこと、というくらいの意味だと思える。私自身は70歳を過ぎた隠居老人であり、生活のための生業は引退しており、子育ての時期をも過ぎているので、ごく一部のパートタイム的な仕事を除いては、社会や身の回りの人びとに対して深刻な責任がない。したがって私の存在そのものが「不要不急」と言えそうである。平凡な老人にもそれぞれ個人的にはしたいこと、行きたいところはあるのだが、「不要不急か否か」と詰問されたら、大部分のことは不要不急ということになってしまうだろう。
 そうであるにしても、である。われわれ市井の凡人は老人に限らず、日常のかなりの部分を「不要不急」の事象に費やし、さらにそこから楽しみ、癒し、安らぎ、もっと大げさに言うなら生き甲斐を感じて生きているのではないだろうか。多少大げさかも知れないが、そういった「不要不急の事象」こそが、文化を養い、先進国らしい材料を提供し、健康で文化的な人間らしい生活を実現しているのだと思う。
 だいぶ前に、あるテレビ番組で「老後は、キョウイクとキョウヨウが大切。今日行くところがある、今日用がある、ということこそが大切」というのを聞いた。老人も、いろいろ行きたいし、用事をしてみたい。それは、むしろとても大切だという見解もあるのだ。
 そして現実の国家の経済構造も、いわゆる第三次産業がスケールアップしており、そのかなりの範囲がひとびとの不要不急の行動で支えられている。「不要不急」とはいえ、「不必要」とは断じがたいものが多いのである。
 そうは言うものの、コロナウイルス感染者が増加し、医療体制が崩壊することは望ましくないので、要請に応じて自分の行いはできるだけ慎みたいとは思う。
 そうであるにしても、である。コトバ尻を捉えたいわけではないが、「不要不急」をキーワードにする限り、私にはやはりオリンピック実施断行というのが、率直に抵抗を感じる。オリンピックは魅力に満ちた世界的行事であり、青少年の健康な成長にも良い影響が多々あり、本来は経済的効果も大きなものが期待できる。なによりオリンピックを目指して、人生の貴重な時間を捧げてきた選手たちがたくさん存在する。少し前に、こんなときはオリンピックなど中止にした方が良いのではないか、と何気なくある知人に話したら、その人はオリンピック強化選手に関わりがあり「とんでもない発言」と厳しく叱られた。それでも「不要不急か否か」、と詰問されたら、やはり「断じて不要不急ではない」とは言えないだろう。オリンピック実施を重視する人たちの気持ちも、私はよく理解できるつもりだが、やはり他の「不要不急」の多くの事象と比較して、オリンピックがそうでないとは言えないと思う。
 私個人の見解としては、コロナ騒動についての多くの無責任なメディアの姿勢に大いに疑問と不満と反感があり、率直に言って思い付きが多くて偏向していて、騒ぎすぎ、煽りすぎだと思っている。政府や自治体の「不要不急」発言も、精一杯の協力要請の表現であることは理解できるし、できるだけ協力するつもりである。それでも、個人的には思うところが残るのである。

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コロナ騒動とワクチン

 新型コロナウイルス肺炎の流行が収まらず、最近はメディアで、ワクチンこそが最後の救いだと、藁にも縋るかのように、まるで「ワクチン大魔神」「ワクチン一神教」の出現のような大騒ぎである。なぜ日本で良いワクチンが開発されていないのか、なぜ早急にワクチン接種が進まないのか、など例によって政府や自治体をなんとかして攻撃したいメディアからの、思いつきの無責任な発言が多い。
 いつからわが国の世論が「ワクチンこそ救世主」というムードになったのだろうか。これまでわが国では、ワクチンの副作用(正しくは「副反応」というらしい)こそがメディアが好む大騒ぎとなり、ポリオ、インフルエンザ、さらに比較的最近では子宮頸がんのワクチンが、いずれも副反応で大きな話題となった。実際に開発した製薬会社や許認可した政府が、法廷闘争で敗訴を重ねた。子宮頸がんワクチンの場合は、長年の開発、疫学的検証を経て、政府も予算化を達成し、無償で希望者全員に接種できる体制を確立したのに、副反応が発生したと煽り立てる(直接の死亡例はないようだが)メディアの貢献で、現在は実質的に接種体制が機能していない。
 他の薬品も基本的・定性的には同様だが、ワクチンにも効用=罹患・病状抑止効果=メリットとともに、かならず危険性=副反応=デメリットがある。かならずリスクがあるのだ。厳密には副反応のないワクチンはないのである。したがって接種するか否かは、病気の罹患を防ぐメリットと、副反応に苦しむデメリットとのバランスで判断するしかない。
 子宮頸がんは、ずっと継続して毎年1万人近い罹患者があり、そのうち毎年3,000人近い死亡者が発生している。罹患したときの死亡率は、コロナウイルス肺炎の日本の実績1.7%と比較してはるかに危険といえるのに、死者の累積絶対数もコロナウイルス肺炎の死者数よりずっと多いのに、なぜかメディアではそれは話題にならない。
 わが国の場合、新型コロナウイルス肺炎の罹患率(本来は発症したもののみで定義するため、ここでは正しくは「検査陽性者の比率」だが)は全国で平均すると0.5%である。いま政府が主に使用する予定のm-RNA型ワクチンは疫学的データとして抑制効果が90%以上とされており、ワクチン接種で罹患率は約1桁改善が期待でき、0.05%程度まで押し下げることが期待できるだろう。しかし一方でワクチンの副反応が出現するだろう。この比率はまだわかっていないが、子宮頸がんワクチンの悲観的(悪いケース)な値0.1%を想定するなら、ワクチン接種件数の0.1%、すなわちワクチンが効いて押し下げられた新型コロナウイルス肺炎の罹患者の2倍程度の比率で副反応患者が出るということになる。
 このバランスを冷静に考えるなら、日本の現状が、メディアが朝から晩まで騒ぎ立てるにも関わらず、幸いにして罹患者がごく少ないので、ワクチン接種を躊躇うひとがいるのも当然である。これに対してヨーロッパ諸国、アメリカ、インドなどの場合は、桁違いに罹患者数が多い、つまり罹患率が大きいので、ワクチンの副反応のリスクを罹患抑止効果が大きく上回ることが期待できるので、人々がワクチン接種に殺到するのも当然なのである。

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