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時事

アメリカの追加関税と石破首相

 2025年7月7日トランプ大統領は、8月1日から日本からのすべての輸入品に25%の関税を課すと石破首相宛に書簡を送付したことを公表した。これに対して石破首相は、「(米国との関税交渉は)国益をかけた戦いだ。なめられてたまるか。私たちは言うべきことは、たとえ同盟国であっても正々堂々言わねばならない」、「私はトランプ大統領と直接首脳会談してでも、改善を図ってまいりたい」と参議院選挙の街頭演説で発言した。
 もしほんとうに大規模な追加関税が課せられると、その影響は現在日本経済の基幹産業たる自動車産業を中心に、まず一番弱いところ、具体的には製造の下請け、およびサプライチェーンや流通の中小企業に打撃を与え、やがて日本の全産業に波及するであろう。「もっとも苦しんでいる人たちを救わねばならない」と連呼している石破首相としては、なんとしても打開せねばならない事態のはずである。自ら「小物中の小物」と称するいかにも頼りない赤澤さんを、なんど訪米させてもなんの成果もないのが現実だ。
 私は、石破首相は参議院選挙の応援をするのでなく、直ちに訪米して首脳会談で事態改善に集中すべきだと思う。参議院選挙投票日7月20日までは待てない。
 もちろんトランプ大統領という難しい相手のある問題であり、石破さんが動いたからと言って問題が好転する保証はない。「トランプ大統領とは相性が良さそう」などという石破さんの言葉を信じるわけでもない。それでも問題の大きさと緊急性を考えると、日本全体の最高責任者として、自分の政党の選挙運動よりもこの関税問題を最優先にすべきだと思う。
 たしかに自民党と与党にとっては、苦戦を極めているとされる今回の参議院選挙がとても重要なのは理解できる。それでも誰が見ても、石破さんが応援演説することが与党にさほど役に立たないという可能性も大きい。また、石破さんが直接トランプ大統領と対峙したとして、その会談と折衝が成功するかどうかもまことに心許無い。それでもなお、首相の責任としては、国内の選挙よりも国益の方が大切だと判断して、最大限の努力を傾注する必要があろう。
 政治は、結果がすべてである。それでも状況を正しく判断して、なすべきことを実行しなければ、なにも生まれない。
 そもそも参議院選挙に対する石破首相の「目標」に大きな疑問がある。参議院での与党過半数たる125議席を実現するために、与党合算での当選議席数50(非改選75+今次50=125)という目標は、本来あまりに少なすぎる卑屈な目標と言わざるを得ない。これまでより16議席(25%)も減らして「選挙に勝った」などとは、とても言えない。今回改選議席数総数の125議席の過半数63議席を下回るようでは、与党政権が信任されているとはとうてい言えないであろう。
 すでにNATO国際会議を欠席した石破首相が、こんどはトランプ大統領との関税問題の折衝に動かない、という事態は、トランプのTACO(Tramp Always Chicken Out)ならぬIARA(Ishiba Always Run Away)と、世界から軽蔑されるであろう。

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気分の晴れない日日

 6月22日に国会が閉会したことを受け記者会見を開いた石破首相は、「今日より明日はよくなる」と実感できる日本を実現させたい、と宣言した。今年1月には「楽しい日本」を目指すと言っていたが、まあ類似の発想なのだろう。
 2040年に名目GDPを1000兆円に引き上げる、平均所得を5割以上増加させる、を改めて自民党の参院選公約の目標に掲げた。これらを実現するため「今日の悩みを取り除く」「明日への不安を払拭する」「希望ある未来を創る」の3つのアプローチで政策を推進させると訴えた。しかしこれらは具体性のない目標の羅列に過ぎず、到底「政策」とは言えない。誰しも「結構なことですね」と思うだけである。どうやってそれらを達成するかの具体的行動こそが肝要である。
 石破首相は、賃上げや物価高対策、アメリカによる関税措置への対応や社会保障改革、肝入り政策である地方創生などに注力していくという。その上で「まずは既存の予算、施策、それを総動員して的確な経済財政運営を行っていく」と言うのだが、これらも石破さん得意の「○○(に向けて)マイリタイ」に過ぎず、具体性のある政策には至らない。希少な具体的な政策は、国民一人ずつ2万円給付のようだが、アクションとしては小さ過ぎて、高邁な目標との関連は見えない。いまのところ大きな目標実現のためにはどこが問題でなにが打開策なのかは不明なままである。
 あれほど「アジア版NATO」などと夢想を吹聴していたのに、実在のNATO会議には欠席というのも情けない。これこそ外交的「熟議」の大きなチャンスだったのに、世界のリーダーたちからは、熟議を避けて逃げていると見られるであろう。
 直接の責任主体でなかったときに鋭く政治の現状を批判できた石破さんは、馬鹿でも不誠実でもないとは思う。「きちんとした行動してるのに、なぜ酷評ばかりされるの?」と身近なヒトに嘆いているらしい。責任のない評論として批判はできても、責任を引き受けて実現するのは容易ではない。政治は簡単ではない、という本来政治家には簡単な真理が未だにわかっていないのかも知れない。すでに願望的な目標を公約として掲げ、その結果「政治ドットコム」からは、公約達成率ゼロという厳しい評価を得る結果になっている。
 そしてなにより政治家はヒトを動かそうとするなら、見た目の雰囲気は決定的に重要である。疲れ果てて夢も希望もない暗い表情で、「今日より明日はよくなる」「希望ある未来」などと発言しても、到底響かないし説得力はない。「このヒトがわが国の首相であることが誇らしい」と思う国民が沢山いるのが正常な状況のはずである。せめてどこに出しても恥ずかしい、と思われることのないようになんとかしていただきたい。
 昨年の石破政権の衆議院選挙惨敗の直後、英誌エコノミスト(2024年10月28日付)は「有権者が連立与党に歴史的な一撃を与えた。しかし自民党は政権にしがみつく可能性がある」「選挙後の混乱からどんな政権が誕生しても、構造改革や防衛力増強のための増税など不人気な課題に取り組む可能性は低いだろう。安倍首相の下、日本が世界的なリーダーシップを発揮していた時期も終わりを告げるだろう。日本政治の次の段階は波乱に満ちたものになる」と記していた。イギリスでは、かように冷徹な観測をしていた。それからすでに8か月が経過したが、エコノミスト紙の予測は着実に現実化する一方で、石破さんが説く「今日より明日はよくなる」気配は皆無のように感じる。
7月の参院選は、石破さんの3連敗となる可能性もあるが、もし参院での与党過半数をなんとか維持(参院選の自民党改選議席は少なく1/4減っても過半数は維持可)しても、石破さんの茨の道は続く。そもそも惨めな少数与党をもたらしたのは石破さん本人であり、その石破さんを首相に選出したのは自民党なのである。なによりその茨の道でいちばん被害を受けるのは、われわれ国民なのである。

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山尾志桜里元衆院議員の公認を見送る国民民主党

国民民主党は(6月)11日の両院議員総会で、夏の参院選比例代表への擁立を発表していた山尾志桜里元衆院議員の公認を見送る方針を決めた。過去の不倫疑惑への批判が相次いでおり、玉木雄一郎代表は「十分な理解と信頼が得られないと判断した」と説明した。
山尾氏は衆院議員だった2017年に不倫疑惑が持ち上がり、事実関係の説明をしないまま21年にいったん政界を引退した。先月、同党が公認内定を公表すると、SNS上には疑問、批判の声が殺到。このまま擁立すれば、あす13日告示の東京都議選、夏の参院選での党勢拡大への影響が大きいと判断した。(日刊スポーツ)
 私個人は、「日本死ね」という「流行語大賞」の授賞式に、不愉快極まりない喜色満面で登場した山尾氏に対して、まったく良い印象を持っておらず、嫌悪感さえある。それにもかかわらず、今回の国民民主党の態度には強烈な違和感をもつ。
 不倫という非道徳的な行動は、もちろん咎められてしかるべきである。しかしそれが直ちに選挙に出馬すべきでない、というのも極論である。そんなことを言いだしたら、わが国でも外国でも、歴史的な政治家で失格者が続出する。たとえば世界中のとくに進歩派が称賛するF.D.ルーズベルトなどは、猛烈な不倫者であった。私は、不倫者を政治家から排除すべきだとまでは思わない。
 その上、今回のケースをみると、国民民主党のトップたる玉木雄一郎氏自身が高名な前科者なのだ。どういう論理で玉木が許されて山尾が許されないのか。「(国民/有権者に)十分な理解と信頼が得られないと判断した」という説明のようだが、玉木は十分な理解を得たというのだろうか。
 政党にとって、選挙は死活的に重要だというのは、当然であり、私もよく理解できる。しかし有権者に理解を得る、という内容が問題である。政治運営と不倫とが、同じレベルで重要である、と宣言するならそれもひとつの考え方であろう。しかし今回の場合、そうは言えまい。玉木氏がいったん腹を据えて、山尾氏の政治家としての能力を認めて出馬を求めたのであれば、たとえ「国民民主党=『不倫党』」とメディアに罵られようが、あくまで踏ん張るべきであった。山尾氏の不倫を懸命に糾弾しているのも、いつもの無責任なメディアである。メディアの無責任な煽りに簡単に屈するようでは、国民民主党の今後も期待できない。
 なんとも情けない思いがするのは、私だけだろうか。

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石破首相の政治とsocial capital

 昨年10月以来のわが国政治の混乱と低迷をみて、馬鹿でも悪人でもなさそうな石破茂首相の、なにが問題の核心なのだろうか、と政治のド素人ながら考えた。
 つまるところ、聞こえよく言えば「孤高」、率直に言えば「孤独」なのが石破さんの最大の弱点かつ問題なのだろうと思う。
 J.D.Vance "Hillbilly Elegy"を読んで、私は「アメリカの貧困層の状況とその問題の本質」にまず関心があって、ヴァンス副大統領がアメリカ白人貧困層の出自からどのようにして貧困のネガティヴ・スパイラルから脱出したのか、貧困の当事者としてのヴァンスの貴重な経験に先ず注目した。
 ただこの本のなかでは、貧困問題の他に、アメリカのトップエリートたちの注目すべき特質としてsocial capital(社会関係資本)についても具体的に書かれていた。たしかにHillbillyの貧困スパイラルから脱出するキーポイントは家族・親族・共同体であったけれど、ヴァンスがアメリカの本格的エリートになれたのは、ヴァンスのアイデンティティたるHillbillyには決して存在しない、イエール大学というsocietyの全米トップクラスの学力に加えての「social capital=社会関係資本」のお陰であった。
 ヴァンスは、イエール・ロースクールの恩師Amy Chua教授から推薦してもらったお陰で、将来の就職のために彼が求めていた学術専門誌の編集委員になることができた。しかしそれだけではない。ヴァンスがよくわからないまま推薦を求めた厳しいハードワークを求められる就職先を、その恩師は、ヴァンスのごく個人的事情にまで踏み込んで敢えて否定して、恋人との時間と関係を最優先すべきことを忠告したのであった。この恩師の忠告がなければ、その後のヴァンスの上院議員から副大統領という現在の経歴はあり得なかった。
 ヴァンスは「成功者たちの世界が実際にどう働いているかがやっとわかった。身の回りにあるsocial capitalを、うまく使えば成功につながるが、うまく使えなければ大きなハンデを抱えたまま走ることになる。」と書いている。このようなある種のネットワーク、あるいは特殊な狭い人間関係が、ときとしてヒトの成功の決定的要因となる。Hillbillyのアイデンティティに基づく家族・親族・身近なコミュニティの愛情を基礎とするネットワークとも異なる、信頼・尊敬にもとづく知的で合理的で積極的な協力関係による強力なネットワークの力をヴァンスは発見したのだ。
 どんな分野であれ、ヒトは個人的能力のみでできることは限られている。とりわけ、政治という、実現へ向けてのプロセスが複雑で困難で時間と手間を必要とする仕事は、決して個人の能力と努力だけでは達成できない。そして政治のトップの成功は国家と国民の全体におよぶし、その失敗は国家と国民全体の不幸をもたらすのである。
 石破さんが孤立しているのは、いまに始まったことではないらしい。オタクを自称し、友人たちとの会食や雑談を好まず、自宅でひとりプラモデルをいじるのが趣味という。
 これまでの政治活動において、もっぱら「党内野党」と自称・他称して政権トップへの批判を励行してきた。その結果、自ら主体的に政治を担うという姿勢が退き、政治を他人事と位置づけて、責任を引き受けることなく客観的に「批判」「評論」する術を磨いてきた。その「評論家気質」が石破さんの本質になってしまっているように思う。
 首相就任前に議会解散宣言をフライングして顰蹙を買い、政治資金規正法にてらしてグレーだとして安倍派議員多数を総選挙で非公認として排斥し、選挙が始まると立候補者の事務局にひっそり資金をばらまいて有権者の反感を買い、総選挙に大敗して少数与党となって連日青息吐息で妥協・譲歩を余儀なくされ、医療費の重要法案への態度を二転三転して民意の怒りを買い、野党の一部を裏切ってまで無理やり予算成立の目処まで漕ぎつけたのに、新たに当選した一年生議員への「お土産商品券問題」という政治資金規正法にてらしてグレーな行為を自らしでかして与野党両方からサンドバッグ状態に陥った。そのうえ、予算案議決の直前になって、まるで自分が主導した予算案の中味がまるきり不完全だといわんばかりに「予算案が成立したら、それから強力な物価対策を行う」などと気楽に発言した。
 石破さんというヒトは、肝心なところで姑息なことをやりがちで、やはり評論家はできても首相はムリだったのだろうと思ってしまう。このタイミングでこれだけは絶対マズイということを、見事に残らずやらかして自ら墓穴を掘り続けているのが実情である。
 とくに一年生議員へのお土産商品券問題は、「これまで人づきあいが悪い、ケチだと言われ続けたことが気になっていた」と自ら述懐している。内閣の「仲間」をみても、たとえば村上誠一郎総務大臣は「アベノミクスは評価しない」「安倍首相は国賊だ」などと威勢のよい批判・評論をするものの、はたして自分の政治家としての代案政策が具体的に示されない点で、石破首相と同類の「評論家気質」のようだ。石破さんは、これまで孤独あるいは孤高に過ごしてきたため、政治家に仲間が少なすぎて信頼し合える議員、親しい有能な議員に事欠き、せっかく野党に比べて人材が豊富であった自民党なのに、内閣と党幹部の顔ぶれはこれまでより数段見劣りする。力を発揮できそうなネットワークとは程遠いのだが、そのことに石破さんは気づいていないようだ。
 他人事のように、評論家のように、「皆様のご協力のおかけで熟議を尽くしました」というが、貴重な議事の時間を延々と、政策の本論でない政治資金疑惑や商品券問題などで空費しても、国民にとってはなんの利益も意味も無い。少数与党政権の脆弱さそのものが、わが国の国際的地位を確実に低下させ国益を毀損している。政治は、なによりも結果が重要だ。
 石破さんの「評論家的傾向」も、彼のsocial capital欠如の結果でもあるのだろう。批判・評論ならひとりで言い放題で済むが、責任を担って政治を進めるには、個人の思考だけではとうてい不可能であり、なんとしても何人もの信頼できる仲間を得なければならない、という政治家としての初歩の初歩を、教えてくれるヒトがいなかったのだろう。
 私の個人的希望としては、政治資金の禁止や抑制など些末なことよりも、多少カネを使ってでも他の議員たちとの関係をきちんと構築して、議員たちから真に信頼され尊敬されるリーダーになって、抽象的な「議論」ではなく、具体的・実際的な「行動」で政治を導き、さっさと進めて欲しい。それが無理なら、せめて早めに辞職していただきたいと思う。

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フジテレビ・中居正広不祥事疑惑騒動

 今年は、年明けから情けない話題がテレビ番組を占拠している。
 人気タレント中居正広が、ある女性に性的加害したらしいが、それがフジテレビからの「女性上納」であった可能性がある、という事件である。
 事件から長い時間が経過しており、ずいぶん以前に加害者たる中居氏と被害女性の間には金銭的示談が成立していて、被害者のプライバシー問題から事件の詳細は秘密事項となっている。その事件に、間接的であれ大手のテレビ局が関与したということであれば、貴重な公共有限資源たる電波を使用して公共活動を担うべきテレビ局としては、大きな問題だというのである。
 私は関心を持って詳しく調べたわけではないが、垣間見るに本件は、事件にかかわる多くのステークホルダーがそれぞれ問題・欠点・汚点を露呈している。
(1)ことのはじまりは、週刊誌「週刊文春」の記事であった。フジテレビが独自取材したわけではない。
 マスコミが元ネタを自ら取材するのでなく、週刊誌に依存する傾向は最近珍しくない、情けない状況である。
(2)フジテレビは、この事件に関わりが疑われて、釈明・説明を求められたが、報道機関としてあるまじき非公開の不完全な会見を行い、しかも事件に関わるほとんどすべての事情・経過について質問に答え得なかった。
 他者に対して厳しく追及することをモットーとするマスメディアが、自分の不都合はひた隠しにしたいとの姿勢を露呈した。
(3)そのため激しい非難を浴びたフジテレビは、今度は長時間のオープンな記者会見を実施したが、記者の質問に十分対応していない、と参加した記者たち、さらに外部マスコミからまたも非難を浴びた。
 フジテレビは、問題が発生した時の社内関係者の情報共有、コンプライアンスの重視、社内のガバナンスに、多くの欠点を露呈した。
(4)一方で、フジテレビに質問と罵声を浴びせた記者たちは、その態度・マナーのみならず、知的水準までもが酷いものであった。
 第三者委員会をフジテレビが設定して事実確認作業を委任した以上、すでに示談が成立し被害者のプライバシー毀損の可能性がある事実の詮索は、フジテレビとして勝手に回答できないのは当然である。それにも拘わらず、第三者委員会の存在価値を毀損するような質問を執拗に迫ることは明らかに不当で、質問者の知的水準が疑われる。我々がテレビやメディアをみるとき、こんな連中がつくる番組や記事が、実はたくさんありそうだとうことを肝に銘じたい。こんな連中がSNSなど「オールドメディア」以外の発信を批判しても、なんの説得力もない。
(5)問題の震源地たる週刊文春は、フジテレビの公開記者会見の後に、実は「些細な」誤報があったと密やかに報じた。
 しかしその内容は、今回のフジテレビの責任範囲に大きくかかわる「重大な」内容であり、このような週刊文春の態度は、十分な裏付けの取材を実行していないうえに、姑息なものであった。危うい報道をしていると思わざるを得ない。「正義の味方」を装って、多くの人たちを破綻に追い込んだメディアなのだが、こんな連中なのだ。
 フジテレビも、社内のコンプライアンス、ガバナンスなどに大きな問題を抱えていることが明らかとなったが、フジテレビを攻撃する側の他のテレビ会社、マスコミの記者たちも、大きな問題や懸念を露呈している。「どっちもどっち」ということでは済ませない、双方ともに重大な問題を抱えているのだ、というのが実態である。
 フジテレビに限らずテレビというメディアは、大きなエンタメ媒体であり、視聴率を競うために、有名人や人気タレントを大切にしたいとするのは自然であろう。ただそれに止まらず最近のテレビの報道は、しっかり自分で取材して裏付けの努力を尽くしたうえでその事実を正確に伝達する、という基本から乖離して、取材を他のメディアや週刊誌に依存し、視聴率を稼ぐ目的で敢えて非ジャーナリストたる芸能人・お笑い芸人・その他素人を動員して放送している。ニュースをエンターテイメントにすり替えているのである。
 私たち団塊の世代が若いころの「小川宏ショー」「木島則夫モーニングショー」などは、当時としては新しい試みで、ニュースに「ショー」的あるいはエンタメ的な要素を取り入れた番組であったが、ニュースに関わらない話題で芸能人をゲストに呼んだりすることはあっても、ニュースのコメントをさせるのはジャーナリストであり、芸能人やお笑い芸人ではなかった。現在は、ニュースのエンタメ化がいささか度を越してしまっている。
 こんなことで「社会の木鐸」たるまともなジャーナリズムを実現できるはずもない。テレビ業界全体が、他山の石として真剣に反省・内省してくれることを望みたい。
 この事件は、事件当事者にとっては重大な事件だろうが、世の中全体からみてトップ・プライオリティの事件とは到底思えないにも関わらず、いつものように延々と毎日マスコミをにぎわす騒動となっている。これも、嘆かわしい「ニュースのエンタメ化」の結果の一部なのだろう。

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石破首相の第217回国会所信表明演説への雑感

 2025年となり1月24日、石破首相の第217回国会所信表明演説が表明された。私の雑感を簡単に記しておく。
国づくりの基本軸としては「人財尊重社会」を築いていく。そのためには価値観の転換が必要で「楽しい日本」を目指していきたい。構想として「令和の日本列島改造」を打ち出し、地域の持つ潜在力を最大限引き出し、若者や女性にも選ばれる地方の実現のため、ハードだけではないソフトの魅力が新たな人の流れを生み出すようにしたい。省庁機能の地方移転や地方公務員の兼業・副業の推進も、具体的手段とする。
新時代のインフラ整備として、脱炭素電源の整備と新たな産業用地や関連インフラの整備を促す施策を具体化したい。150兆円超のGX投資を呼び込むための成長志向型カーボンプライシングの制度化及び循環経済への移行に向けた法案を提出する。
などが述べられている。
 石破氏は、田中角栄を師とあおぎ、あやかって「令和の日本列島改造」としたようだが、名前は似ていても、中身の濃さ・具体性がまったく違う。田中角栄の日本列島改造論は「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成により、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させて地方分散を推進する」というしっかりした基本構想にもとづき、日本国土に広範囲にわたる新幹線や高速道路・海上架橋などの高速交通網を設置して、過疎と過密を解決し、公害問題も解決していくなど、かなりのページ数の単行本ができるほど詳細で具体的な内容であった。実際にはさまざまな経緯から全面的な予定とおりの実現には至らなかったが、形を変えながらも日本の高度経済成長に貢献したことは、現役時代には徹底的に田中角栄に反対していた石原慎太郎氏が認めている。翻って石破氏の「令和の日本列島改造」は、現状の日本の問題点をピックアップして、改善の「目標」を部分的にリストアップするにほぼとどまり、その具体化は石破氏お得意の「これから熟議せねばならない」ということらしい。田中角栄の「ハード重視」から石破氏は「ソフト重視」だというが、「アンコンシャス・バイアス、すなわち無意識の思い込みの解消」などの抽象的な難しい言葉を用いてみても、内容の希薄さは明らかである。
 さらに私は、国連がもてはやす「脱炭素の推進」にはかねてから懐疑的である。過去120年間で日本・東京の平均気温が1.5℃ほど上昇したことは事実だが、その上昇がほんとうに致命的なものだとは到底思えない。ましてそれが二酸化炭素の増加に起因することは、仮説はあっても証明されてはいない。妥当な範囲で対策に努力することはあっても、150兆円超もの驚くべき巨額を投入すべきだとは決して思えない。政府としてやるのであれば、しっかり評価して、国民に向けて明瞭に説明してからにすべきである。
 その他の内容も、これまで前任の首相たちがすでに問題として取り上げてきたことの範囲を出るものは少ないし、しかも抽象的な目標のリストアップはあっても、解決の方法はこれも漠然とした抽象的な表現にとどまり、具体的な内容に乏しい。この演説では「内閣府に『防災監』を設置」とされているが、かねてより石破氏は「防災省」たる新しい省庁を造りたいとなんども発言している。首相就任前には「アジア版NATO」などというよくわからない構想をアメリカのシンクタンクに投稿していた。どうもこのヒトは、新しいハコを造ることを好むらしく、それらの中味については「これから熟議せねばならない」ということなのか、具体的な言及はきわめて少ないのが気になる。いずれの組織・機構も、新設する前に、そこではどのような目的でなにをどのように実施するつもりなのか、しっかり具体的に説明してほしい。
 今回の所信表明演説を聞いて私は、やはり石破氏は「実践する政治家」というよりは「評論する学者」という人なのだろうな、と思った。学者は、自分の思考を自由に膨らませて論ずれば済むし、周囲とコミュニケーションを深めたりする必要もないし、税金を費やしたり、国民の生活に直接関与することはしない。一方政治家は、税金を使って、国民・議員たちにコミュニケーションを深め、広範囲に訴えかけてその気にさせて、国民の生活に関与・貢献することが必要である。人柄がどうかとか、素質が優れているか否かとかいう問題ではなく、そういうしんどいことをできそうなヒトとは思えないと感じるのである。知的能力や人柄のことではなく、本人の指向性の問題である。私たち国民が権力を委任する政治家、とくにそのトップたる首相としては、もっと具体的で実践的であって欲しいと思うのである。

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テレビ報道番組のコメンテーターと元アイドルの嘆き

 最近、テレビの報道番組あるいはいわゆる「ニュース・バラエティー」で、コメンテーターとして「活躍」する、元アイドル出身がウリの山崎怜奈が、別の番組で嘆いている。
「専門家でもない人間がメディアでフランクに政治の話をしても受け入れてもらえる世の中になったと思ったけど、私、間違ってました。(中略)フランクに自分たちの生活に直結する話ができた方がいいじゃないですか? 本当は。高尚な賢い人だけがしゃべっていいものだから取っつきにくいのに、経験のない何者かよく分からないタレントって人間がフワッとしゃべると、すっごい怒られる。徹夜ですっごいメモしていっても、すごい怒られる。もう少し血の通った人間だと思って話していたのにAIに返されたみたいな。寂しい気持ちになる。私は怒ってはいないけど、悲しい気持ちになる。」
 ニュースあるいは報道番組は
(1)事実の伝達が基本(NHKの定時ニュースは、ほぼこれのみ)であり、
(2)伝達される内容・問題の解説が付随していることがある。
さらに最近の多くの報道番組やニュース・バラエティーでは
(3)事実とその解説に対する感想というのが追加されている。
 まず、本筋としてできるだけ正確を期した事実の伝達が必須であって、報道番組の基本である。それに「解説」があることは望ましいが必須ではない。ただ、解説はその問題に真剣に取り組んでいる本当の意味での専門家がするべきだ。視聴者は、それで新しい知識を得て、理解が深まり、自分で考えてより正しく判断することに役立つ。
 最近のテレビでは、報道番組の多くがバラエティー化していて、事実の伝達、その内容の解説のあと、ひな壇にならんだ「コメンテーター」と呼ばれる作家、普通の弁護士、俳優・モデル、芸人などの非専門家が、適当に思い思いの感想を喋る、という構成のものが多い。これはおそらく視聴率の向上手段の一環なのだろうが、これが問題である。それは視聴者にとって新しい情報あるいは学ぶべきことというより、その場の思い付き、あるいは単なる「感想」に過ぎないことが多い。単になんとなく共感できる気がする意見に逢うと、同感・付和雷同して、なんらかの有名人がこう言っていた、世の中の多くの人たちはこう思ってるのだろう、という受けとめをして、視聴者の判断材料になってしまう懸念がある。そんな無責任な感想がメディアに蔓延することで、視聴者の側に、知識を蓄えるより感覚的に判断していいんだ、という無責任な文化を伝染させることさえある。個人的になにを考えようが、どんな意見を持とうが勝手であり、フランクに話し合うのも結構なことである。ただ、メディアを通じて、とくにテレビなど有限な資源たる電波を通じて広く不特定の視聴者に向けて発信するのであれば、それは悪影響さえあり得るのだ。
 ニュースに関心の低い視聴者にもわかりやすく、親しみを持たせて関心を高めたい、という説明があるが、実は関心が高まるというよりも、知識も十分でなく真剣にものを考えないままで、感覚的に判断していいのだ、という文化を拡散する。話題が政治なら、衆愚政治を促進するのである。
 専門家でもない人の話は、聴く立場からは有益なことはほとんど無い。私は、必要な知識と真剣な思考をともなわない「感想」「コメント」は、不要であり、往々にして有害でさえあると思う。
 本来コメンテーターは解説者であるべきで、解説はその問題に真剣に取り組んでいる本当の意味での専門家が行うべきである。専門家はその専門対象とする問題に対して、自分の立場、存在、あるいは人生を賭けて発言すべきであり、発言した内容に完全に責任を負わなければならない。そうであってこそ、視聴者は意味のある知識を得て、自分で考える材料を獲得することができるのである。
 山崎のような「フワッと喋りたい」というコメンテーターの一方で、話題の当事者を口を極めて罵ることで、視聴者と話題の当事者を極力刺激し、むしろ炎上することで視聴率を稼ぐ戦略らしい者として、たとえば玉川徹がいる。彼は自称ジャーナリストだが、自ら取材するケースは少ないらしく、虚勢を張りたいのか「その件は、ヒアリングを受けたんだけど」などと吐露している。その発言内容の多くは、論理的な主張ではなく単なる感想、あるいはその場での思いつきである。これらこそ視聴者にとってなんの知識にも参考にもならない。ただ、なにも考えないで同感したいヒトには好評で、視聴率を稼いでいるらしい。
 山崎も、自分のセカンドキャリアとして無責任なコメンテーターではなく責任ある解説者になりたいのであれば、「元アイドル」に縋りついてたった一度の徹夜でメモをつくる程度の努力で罵られて悲しくなるようなことではなく、自分の専門領域を定めて、時間をかけてまじめに知識を蓄積して、さらにそれ以上に真剣に自分で論理的に考え抜いて、視聴者を納得させ得る準備をした上で仕事に挑まなければならない。フワッと感想を呟くのでなく、ビシッと論理的に主張しなければならないのだ。現状のテレビでは、実際にそこまでできている評論家やコメンテーターは希少なので、きっと視聴者から歓迎されるだろう。

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フーバーの著作からウクライナ戦争と日本を考える

 ハーバート・フーバー『裏切られた自由』を読んで、私は大きな衝撃を受けた。私たちが教えられてきた近現代史に間違いがあることも大きな問題だが、現在の世界情勢を考えると、目の前にもっと切実な懸念がある。いちばん具体的なのは2年以上続くウクライナ戦争である。そしてそれは日本にとって、決して他人ごとではない。

フーバーの考え方
 著書でフーバーが主張していることを簡単にまとめる。
(1)もっとも重要なのは国民の自由であり、その前提のもとに民主主義の政治を行うことである。共産主義・社会主義は、必然的に独裁体制をともなうので、間違っている。
(2)自国に直接関係しない戦争・紛争には関わってはならない、という原則、は自国にとっても相手国にとっても重要である。
(3)相手国が戦争に直面しているなら、その国の行動はその国の判断・行動に任せ、戦争が終わってから、その国が望む支援に努めるべきである。
(4)それぞれの国がどのような方針でどのような政治体制を選ぶかは、その国の意志によるべきであり、相手の国に自国の政治信条(自由、民主主義など)を押し付けてはならない。
 フーバーは、第二次世界大戦直前にヨーロッパ諸国を歴訪して、ヒトラーのドイツの猛威に脅かされるベルギーなどヨーロッパのいくつかの国々の首脳に面談した。そこでアメリカから軍事支援が欲しいわけではない、自分たちの国にも独自の考えがあり、アメリカの政治方法・政治文化をそのまま取り入れることも望まない、しかしもし戦争になったら終戦後に復興支援をして欲しい、アメリカは自由で開かれた大国として悠然と構えていて欲しい、と要望された。
 しかしドイツの脅威に怯えたチャーチルは、アメリカの参戦を熱望するとともに、ヒトラーに対抗するためにソビエトのスターリンに接近した。なぜか容共的で共産主義シンパともとれるルーズベルトは、ヨーロッパに積極的に介入し、チャーチルとともにスターリンに接近し、日本に真珠湾攻撃を起こさせてアメリカを参戦させ、大戦末期になってソ連に対日参戦を働きかけた。
 このようなチャーチルとルーズベルトの行動、とくにルーズベルトのヨーロッパ介入とスターリンへの接近に対して、フーバーは厳しく非難している。
 第二次世界大戦とその後の冷戦において、フーバーの考えは、戦争の拡大と戦後の共産主義国の拡大を回避するうえで、きわめて妥当で合理的なものであったと思われる。

第二次世界大戦におけるルーズベルト大統領について
 ルーズベルトは意外にも、ソビエトのスターリンに対して異常なほど好意的で依存してさえいた。その要因を考える。
(1)ニューディールをはじめ、経済に政府が介入する計画経済を重視する考えを持ち、アメリカでも保守派から「共産主義的」と非難されることさえあったように、反社会主義、反共産主義の意思はなく、ある程度共産主義を許容する傾向があったようだ。
(2)その傾向とも関連して、身近にアルジャー・ヒス、ディーン・アチソンなど多くの共産主義者を抱えていた。
(3)当時は、ソ連が建国してまだ10年余り(東日本大震災から現在まで程度)だったので、共産主義の深刻な問題、数々の裏切り、その悪辣さをまだよく理解していなかったのではないだろうか。
(4)戦争が始まってしまうと、勝つことこそが最大の目標と義務になって、利用できるものは最大限利用することが当たり前になってしまった。対日戦争の勝利のために、建国後まだ日の浅いソ連の指導者スターリンを、都合よく利用できると楽観したと推測する。
(5)もとから積極的であったかどうかはともかく、イギリス・フランスなどヨーロッパの国々の首脳から頼まれると、なんらかの支援をせざるを得ないと考えたようだ。

自由・民主主義の他国への要請
 第二次世界大戦終戦後、アメリカがまもなく始めたVoice of Americaなどの情報戦のアプローチは、冷戦の始まりが明確になると強化され、1989年の冷戦の終焉(ソビエトの崩壊)まで、軍事力を行使しないで共産主義国家を攻撃する有力な手段であった。アメリカは、このアプローチの成功を受けて、相手国に、アメリカの自由の重視、民主主義の政治体制を宣伝し教え込み、その実現を求める傾向があった。この傾向は、1989年のソビエト崩壊のあと、ますます強くなり、アフリカなどの新興国をはじめ、ソビエト体制が崩壊した後のロシアや、アフガニスタンに適用しようとしたが、いずれも失敗している。

ウクライナ戦争にどう対処すべきか
 現在、私たちの目の前に大きな脅威が立ちはだかっている。これまでの経緯としては
・バイデン政権は、ウクライナ戦争に対して、武器供与という手段でウクライナを支援している。理不尽なロシアの侵略行為という国家の悪にたいする正義の行動と考えられる。そしてヨーロッパ諸国も日本も、このバイデンの考えに同意している。
・しかしこれは、フーバーの考える方針とは食い違っている。ウクライナはヨーロッパではあるが、アメリカからは遠く、アメリカが直接侵略されたわけではない。
・バイデンは、これまではロシアとの直接戦争に突入することを慎重に回避しようと、ウクライナに提供した武器の使用に対して、大きな制限を加えてきたが、戦争の当事者たるウクライナにすれば、このままでは戦争に勝利できる見込みが立たず、バイデンの要請を遵守するにも限度があるだろう。
・しかし最近になって、北朝鮮の参戦などウクライナ戦争がより激化し、複雑化し、さらにバイデンの政権も終わりに近づいて、ウクライナに対する武器使用範囲の制限も緩和の傾向にある。
 さて、これらがルーズベルトの時代と大きく異なるのは、現在では共産主義国家を母体とする現在のロシアの非正義・悪辣さがよくわかっている。また、バイデンは、ルーズベルトよりはるかに反共産主義、反社会主義の意志が明確である。しかしロシアが核の脅しなどを持ち出してきて、この局地的戦争がロシアとアメリカの全面戦争になる可能性も否定できなくなっている。
 これからどうなりそうかを考えると
・アメリカの大統領がバイデンからトランプに代わることとなった。トランプは、ウクライナへの武器供与に否定的で、ウクライナとロシアに対して停戦を呼びかけると言っている。その表明には、ウクライナのみならず、多くの西側諸国が違和感と反感で困惑している。しかしこのトランプの方針は基本的にはフーバーの意見により近いと言える。
・しかし、その場合大きな確率で、不当に侵略されたウクライナが、ロシアに大きな譲歩(領土割譲)を強いられる見込みである。プーチンの残虐な暴力が、結局は成果を獲得するという結果を導くのだ。

日本の立場から考えた場合
・日本は、法文的には憲法九条で軍事力保持まで否定し、防衛のための交戦さえ明確には保証されていない。防衛の軍事力は大きくアメリカに依存している(つもりである)。
・日本がもしウクライナのように、他国から侵略を受けたとき、どのようにして国土を防衛するのかは、われわれ国民にとって深刻で重大な問題である。
・フーバーの考えによれば、地理的に日本はアメリカから遠く離れていて、アメリカが介入すべきでない、すなわち日本を軍事的に支援すべきでない、ということになる。日本は、まずは自分で(自国の力で)防衛を実行すべきである、ということになる。
・十分な防衛力を保持しない日本は、軍事的に強大な国から蹂躙されたら、ほぼ無抵抗に降伏して、ひれ伏さざるを得ないことになる可能性が高いが、独立主権国家としてそれがほんとうに正しいのか。
・日米安全保障条約はあるものの、当然ながら直接的な世界大戦への拡大を回避したいアメリカが、日本が自力で十分に戦えないとき、どこまで日本の防衛に関与してくれるのか。
・そもそも現時点では、他国から侵略を受けたとき、自国の防衛のために(自衛隊はともかく)日本人が自ら戦う意志と覚悟があるのか。
 このような深刻な問題が迫ってきている状況下で、私たちは憲法改正ができないのを傍観し、被団協のノーベル平和賞を喜んでいて良いのだろうか。マスコミも野党も学者先生も評論家も芸人も、毎日朝から晩までさまざまな「疑惑問題」や「政治とカネ」ばかりを、ほとんど同じことを繰り返し報道している。それで視聴率や支持率を支えるわれわれ視聴者や国民にも大いに問題があろう。
 フーバーの時代と現在とでは、状況や条件が異なる、という指摘も可能性もあるかも知れない。それならそれで政府も国民も、そういうことも併せて真剣に考えて、対処方法と手段を具体化しなければならないであろう。

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第50回衆議院選挙を考える

 昨日10月27日、第50回衆議院選挙の投票・即日開票が行われ、15年ぶりに与党が過半数割れの大敗という結果となった。この結果に関して思うところを書きとめておく。
 今回の選挙だけでなく、私が最近思うのは、日本の国民に政治と政治家への冷静な評価とリスペクトが欠けているということである。
 政治という営為は、政治の執行者にとってもなかなか思ったようにはいかない、という本質がある。平たく言えば「あっちをたてれば、こっちがたたず」というもので、到底アタマで考えたようには実現できない。そういう意味ではとても難しい仕事・生業である。
 したがって具体的には、妥当に妥協を重ねて、弱いところ・良くないところをできるだけ抑制して、良いところ・見込みのあるところを正しく認識して伸ばしていく努力を積み重ねる、その努力を繰り返す、ということしかない。それは、日本の政治にかぎらない、世界共通の問題、課題、現実である。
 政治がけしからん、というが、政治が実質的に存在しない国も実在していて、その現実は悲惨である。たとえばソマリアやニジェールなどは、国民の大部分が貧困と飢餓に苦しみ、そのうえロシアや中国など世界の独裁者の餌食となってしまっている。ロシアや北朝鮮などの冷酷な独裁国家でさえ、政治リーダーは、ないよりはある方がはるかにマシなのだ。
 政治という「難しい仕事・生業」は、評論家にはできない。まして作家やアイドルが副業として思い付きを放言するのを「論客」扱いで登場させるテレビなどの情報だけで、政治を考え判断して「世論」ができるのは危ういかぎりである。
 今回の選挙の争点は「政治とカネ」であったという。しかし政治にはカネが必要である。わかりやすいのはアメリカ大統領選挙で、カマラ・ハリス候補が選挙資金集めのためのパーティーを開催し、24時間に17億円余りの資金集めを達成した、という記事を朝日新聞がさも嬉しそうに頼もしそうに書いていた。それは彼らが国内向けに懸命に喚いている「裏金」と関係がないのか。
 政治資金においても、もちろん脱税は不正であり、きちんと法律に基づいて取締り、問題あれば懲罰されるべきである。しかし政治資金パーティー収入の政治資金収支報告書への一部記載漏れだけで、政治資金全般を「裏金」と決めつけて、いかにも悪辣なもののように扱うのは間違いである。
 そんなウラガネモンダイで政権与党が脱落するというのは、情けないことである。最近デフレ脱却への過渡期もあって、インフレで多くの人々が物価高騰に悩んでいるなか、いかにも怪しげで悪辣に聞こえる「裏金」というコトバを聞いて、ふと憤るのも感情的には理解できる面がある。そういう気配を把握できず、配慮できなかったことは、与党の問題だったろう。これまでの「与党一強」のたるみと指摘されても仕方ないであろう。
 しかしメディアが叫ぶような安直な「政治改革、政治の刷新」は、悲惨な結果をもたらしかねない。外国から見て、政治の弱い国は軽視され、信用を失い、福祉を支えるためにも必要な経済を低迷させ、さらには独裁国家の餌食にもなりかねないのである。
 ただ、現政権に期待する私でさえ、石破氏にはいささか懸念がある。発言がまだ評論家的で、語尾が「重要事項として議論してゆく」というような、他人事なのかアイマイなのか不安な傾向がある。さらに彼の「アジア版NATO」である。ヨーロッパのNATOに類似の国際軍事協力の枠組みを新たに提案したいとするものだが、具体的にどの国と協力関係を造りたいのか、日本として他国に供与できることが、憲法9条の日本に何があるのか。血を流すことを拒むなら、血を吐くくらいの資金供与をせよ、などと多額の金銭供与を請求されかねない。さらにQUADやAUKUSなどの(安倍前首相などの努力による)既存の枠組みとの関係をどうするのか、肝心なことがまったく脱落しているのである。自他ともに認める「軍事オタク」に到底ふさわしくない、まさに評論家的なお粗末なアイデアのように、私には思えるのである。

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ジャニーズ性被害問題にかんして

 ジャニーズ事務所の元所属タレントなどから前社長たるジャニー喜多川氏による性被害の訴えが、ジャニー喜多川氏の死後、それも最近になって相次いでいる。これについて外部の専門家による再発防止のための特別チームが会見を開き、今後の調査の方針や活動内容について説明した。元所属タレント2人は自民党の会合に出席して、子どもの性被害を防ぐため、児童虐待防止法を改正するよう求めた。ジャニーズ事務所では、再発防止策の策定などのため法律や性被害などの外部の専門家による特別チームを設置した。
 この問題も、かなり複雑な要因が絡んでいるようだ。
 まず性被害の事実があれば、ジャニー喜多川氏の犯罪は明らかなのだろう。
 しかしこの問題が、ジャニー喜多川氏の死後、しかもかなり時間が経過して表面化してきたこと、すくなくとも広く知られるようになったことの事情が分かりにくい。マスコミの忖度、音楽業界の忖度、なども考えられるが、なにより被害者だと訴え出る若者たちの行動にも、なにがしかの疑問がぬぐえない。
 デビ夫人の「ジャニー氏は半世紀に渡って日本の芸能界を牽引し、スターを育ててきた。昨今の流れは偉大なジャニー氏の慰霊に対する冒涜、日本の恥である」などとジャニー氏を擁護し「ジャニー氏が亡くなってから、我も我もと被害を訴える人が出てきた。死人に鞭打ちではないか。本当に嫌な思いをしたのなら、その時なぜすぐに訴えない。代わって(現在のジャニーズ事務所代表たる)ジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか」というコメントも、全面的に否定されるものではなく、一分の理がある。
 ジャニーズ事務所からの正式な謝罪が足りない、という非難もあるが、組織の犯罪とできるか否かも不分明である。ジャニー喜多川氏自身が組織のトップであり、犯罪の当事者なのだから、組織として、上司の犯罪に組織の部下が責任をどこまで引き受けるべきかについては、議論の余地がある。株式会社なのだから最高決定機関の取締役会に全責任がある、という論理もあろうが、問題が経営そのものではなく、トップの個人的・道徳的問題であり犯罪なのだから、簡単には断定できない。
 このような性的犯罪は、これほど大規模でなければ、さまざまなところで発生している可能性があると推測する。「立場上、拒否することは不可能だった」というが、すべてがそうであったとは想定しがたい。今回訴え出ている「被害者」たちの全部とは言わないまでも、そのうちの幾ばくかは、自分の目的達成のための手段として覚悟して被害者になった者もいると推測する。「被害者」側も、自分の身を護るためにとるべき方法・手段があった可能性はある。
 明確だと推定できる範囲では、加害者たるジャニー喜多川氏が死んでしまっているので、いまから犯罪を訴求することは難しいと思う。LGBTQを尊重すべき、という風潮になりつつある以上、男性の男性に対する性的欲望も正当として肯定されるべきだから、その性的暴力を性犯罪の一部としてまともに取り組むことが必要である。性的犯罪は、とりわけ個人的でプライバシーに深くかかわる側面がある。これから免れるためには、外部の法律に依存するだけでなく、自分自身を護る努力と覚悟と「自己責任」が重要かつ必要である。

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