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散策

北米東海岸クルーズ (38)

クルーズ船内の楽しみ-2 IFly
 この船には、もうひとつユニークなエンターテインメント施設がある。IFlyと名付けられた空中遊泳である。縦に設置した大型の円筒風洞の中に入り、下から強烈な風を送り込んで、なかのヒトを空中に浮遊させるというものである。スカイダイビングを、一定の場所でシミュレーションするような装置といえる。Ifly
 これに参加するには、耳栓で風圧から鼓膜を護り、ゴーグルで眼を護り、宇宙服のようなツナギの専用服に身を包む。そして指導員から基本的な技術と注意事項を教えられる。大まかには、両手・両足を自然に広げて、大の字になり、身体の力を抜いて下からの風圧を受ける。そうすれば、身体は全体としては水平に弓ぞりになり、安定に浮遊することができる。
いよいよ順番にひとりひとり遊泳を試みる段取りになる。
 私たちのメンバーには、以前のクルーズで経験して今回は2回目の人もいたが、私と家内とはまったくの初めてであり、つい緊張したが、指導員が私の身体を適宜支えてくれるので、短時間の間なら空中に浮かぶことができた。指導員から、もっと力を抜いてリラックスしろ、と指示を受けた。たしかにリラックスできている短い間のみは、比較的安定していられた。いずれにしても、正味はほんの10秒間も遊泳状態にならなかったが、興味深い経験となった。
Ifly_20200207064301  この船には、もうひとつユニークなエンターテインメント施設がある。IFlyと名付けられた空中遊泳である。縦に設置した大型の円筒風洞の中に入り、下から強烈な風を送り込んで、なかのヒトを空中に浮遊させるというものである。スカイダイビングを、一定の場所でシミュレーションするような装置といえる。
 これに参加するには、耳栓で風圧から鼓膜を護り、ゴーグルで眼を護り、宇宙服のようなツナギの専用服に身を包む。そして指導員から基本的な技術と注意事項を教えられる。大まかには、両手・両足を自然に広げて、大の字になり、身体の力を抜いて下からの風圧を受ける。そうすれば、身体は全体としては水平に弓ぞりになり、安定に浮遊することができる。
 いよいよ順番にひとりひとり遊泳を試みる段取りになる。
 私たちのメンバーには、以前のクルーズで経験して今回は2回目の人もいたが、私と家内とはまったくの初めてであり、つい緊張したが、指導員が私の身体を適宜支えてくれるので、短時間の間なら空中に浮かぶことができた。指導員から、もっと力を抜いてリラックスしろ、と指示を受けた。たしかにリラックスできている短い間のみは、比較的安定していられた。いずれにしても、正味はほんの10秒間も遊泳状態にならなかったが、興味深い経験となった。


北米東海岸クルーズを終えて
 今回のクルーズ客には、私たち6人以外には日本人がいなかったように思う。それだけに、ある意味のびのびと旅することができた。
訪問先は、港がある比較的小さな町が多いが、これが私にはうれしいのである。今回訪問した、ポートランド、ハリファックス、セント・ジョンなどは、自分で企画したら訪問先に取り入れようと思いつくことすらもなかっただろう。観光地ズレしていない小さな町は、そこで生活する人々の日常の生活の雰囲気を感じることができ、現地のひとびとと雑談できると、ひとびとの素の部分にほんの少しでも触れた様に思えるときがある。
 ボストンは、かつて仕事で何度か訪れたが、訪問先の建物の中と、仕事で関係ある人々との夕食の会話など、ごく一部の範囲しか触れることがなかった。ゆっくり街を歩いてみて、アメリカの歴史を、サミュエル・モリソンの本で読んだことが、ところどころで思い起こされて楽しかった。
 こうして紀行をささやかにでもまとめてみると、あんなに短時間の訪問に過ぎなかったのに、印象は充分大きく心に残っていることがある。百聞は一見に如かず、とはこういうことなのだろうと、勝手に納得した [完]。

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北米東海岸クルーズ (37)

クルーズ船内の楽しみ-1
 クルーズ船内の日常は、いつものクルーズのように至れり尽くせりともいうべきものだが、今回はとくにAnthem of the Seasというクァンタム級と呼ばれる17万トンの大型船であったので、この船ならではのノーススターNorth Starと風力浮遊IFlyを記しておく。

ノーススター
 この船の船首近くの甲板上には、ノーススターNorth Starという可動式の展望施設がある。10人程度の観客を乗せたカプセルが、船体の上から2~30メートルさらに上に持ち上げ、海面から90メートルほどの高さから船上とその周囲を見下ろすことができる。Photo_20200205212301
 私たちは、今回のクルーズ旅行中、このノーススターに2回乗ることができた。
 1回目は、船がニューアーク港を出発した翌日、どこにも寄港せずに航海のみの日であった。ノーススターは、機能的には船の中心線から大きくそれたところまでカプセルを移動して、クルーズ船の船体を横から眺めることもできるそうだが、この日はあいにく風が強いなどの問題で、左右には±20度ていどの移動にとどまった。
 2回目は、バーハーバーに着岸し、バーハーバーの市街を散策して帰船した夕刻であった。
 この日も、諸般の事情でノーススターの視界は、ほぼ船の真上からに限られ、また残念ながら雲が多くて、バーハーバーの美しい日没をノーススターから眺める、という目論見は果たせなかった。

Photo_20200205212201

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北米東海岸クルーズ (36)

ニューヨークちょっとだけ-5  グランドセントラル駅

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 ブロードウェイを少し南下し42丁目通りを東に歩いて、グランドセントラル駅に来た。大きな地下コンコースがある重厚で美しい駅だ。それにしても大きな建物である。Photo_20200203060801
 高名なオイスター・バーもあったが、年齢のせいなのかクルーズ船の毎晩のディナーの連続で、いささか食べ疲れを感じていて、今回はパスした。
 グランドセントラル駅の1階フロアの一角に、グランドセントラル・マーケットという日常生活用の市場がある。休日の夕方だが、かなりの来客で混雑していた。

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北米東海岸クルーズ (35)

ニューヨークちょっとだけ-4 タイムズスクエア
Photo_20200201062801  ニューヨークのこの季節は、もっと涼しいのではないのか、とホテルの従業員に聞いてみたが、それは年による、との回答であった。日本の札幌とあまり違わない緯度だし、めったに訪れない私でさえ冬の寒さは経験したことがあるし、少しは涼しいことを期待していたが、この日は25℃を超えていたようだ。汗もかいたし、喉も乾いた。そういえばニューヨークの街は、日本よりトイレに困る。それやこれやでタイムズスクエアに向かう途中に、コーヒーショップに入り、喉の渇きをとめた。カウンターで料金を支払うと紙コップをくれて、自分でコーヒー焙煎器を操作して入れる。日本のコンビニと同様なシステムだ。渇いていたので、コーヒーは美味かった。
Photo_20200201062802  5番街の大通りから7番アベニューにシフトして、ゆっくり南下する。景観は、高級商店街からミュージカル、映画などの施設がひしめく歓楽街に、雰囲気ががらりと変わっていく。
 かつて製造業で働いていたころ、何度かこのあたり、あるいは少しはずれて、ブロードウェイ・ミュージカルあるいはオフ・ブロードウェイ・ミュージカルを楽しんだこともあったが、いずれも関係先や駐在員の人たちに車で連れて行ってもらうばかりだったので、こうしてミュージカルを実際に観るでもなくタイムズスクエアを散策するのは、はじめての経験である。

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北米東海岸クルーズ (34)

ニューヨークちょっとだけ-3 セントラルパーク

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 トランプ・タワーからセントラルパークの南端までの間にも、それぞれに世界的ブランドの店舗が軒を連ねている。
Jeanmarie-appriou  セントラルパークにさしかかると、公園の一角の野外に、期間限定で造形アートの展示がある。Jean-Marie Appriouという芸術家の作品らしい。灰色のボール紙細工のように見える大きな造形で、具象的なのか抽象的なのか、そんな区別を超越するような、いささかユニークなアートである。紙のように見えて、実は金属だったりするのかも知れない。彼は、フランスの若手アーティストの一人だそうだ。このような、誰でもが触れることができる場所に展示する、ということ自体がかなりアナーキーな表現活動だ。
 土曜日ということで、公園に集まる人の数はかなり多い。カップル、家族連れ、観光客らしい人たち、ひとりでぶらつく人、など。ベンチに座っているだけで、興味深いマン・ウオッチングができる。

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北米東海岸クルーズ (33)

ニューヨークちょっとだけ-2 トランプ・タワー
Photo_20200129063001  5番街の大通りを北に歩く。ニューヨークのもっとも中心の商店街というだけあって、有名店がひしめいている。今回は、ときの話題もあってトランプ・タワーを覗いてみることにした。
 入り口には、銃を構えた警官が2人両側に立っている。歩き始めて街に警官が多いことに気づいていたので、ちょうど良い機会と、なぜここで警戒しているのかと聴いてみ た。すると、国連総会が明日から始まるのだという。会 期中の 2 週間は、この厳重な警戒が続くのだろう。
 館内に入ってみると、入ってすぐのところで手荷物検査があった。
 館内の1~2階には、「トランプ」のタイトルを冠にした雑貨店、カフェ、グリル、バー、そしてスターバックス珈琲店がある。その上の階は、オフィスなり住宅なりになっているようだ。
 大統領のトランプ氏を嫌いな人も多いらしく、5番通りの道路の反対側だけれども「アンチ・トランプ・バッジ」を売っている男もいた。
 話題の多い人だから、私たちみたいな物見遊山の来場者も多いことだろう。なにより「トランプ」という名前自体が、平凡でなくインパクトがあって、それはそれでおもしろい。Photo_20200129063101

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北米東海岸クルーズ (32)

ニューヨークちょっとだけ-1
Photo_20200127061301  クルーズ旅行の日程が完了して、ニューアーク港に早朝に帰着したので、わずかな時間だがニューヨークの市街を散策した。
 当日泊はニューヨークのレキシントン50丁目という都心のホテルだったので、とりあえず散策は徒歩のみとして、ミッドタウンだけをのんびり歩き回ることにした。


聖パトリック大聖堂
 51番通りを西に少し歩くと、5番街アベニューと交わるところに聖パトリック教会がある。こんな大都市のまんなかにこんなに大きな大聖堂があることに驚く。
Photo_20200127061201  1850年にニューヨーク司教区が大司教区に格上げになったことを記念して、ここに大聖堂を建立することが決定され、1858年8月に礎石が据えられ、ゴシック様式の建築が着工した。しかし折からの南北戦争のため工事は長らく中断し、完成したのは1878年であった。
 私たちが訪れたときは、2人の赤い僧服の僧侶が壇に上り、礼拝を執り行っている最中であった。都心にあるだけに、身廊は大勢の信者でほぼ埋まっている。
 身廊をゆっくり1周したが、さすがに大聖堂だけあって、屋内とは言え時間がかかった。ステンドグラスも壮大で美しかった。

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北米東海岸クルーズ (31)

セント・ジョン-5 ニューブランズウィック博物館
セント・ジョンの造船業
Photo_20200125061601  セント・ジョンの産業で、特筆されるべきは木造帆船である。1799年から1805年までヨーロッパを席巻したナポレオン戦争は、ここニューブランズウィックに大きな影響を与えた。ナポレオンのフランスが、軍事力でヨーロッパ全体に侵略をはじめ、イギリスは対応を迫られた。島国イギリスにとって、海軍は軍事力の要であったが、当時の戦艦は木造帆船であり、それを製造するための木材の不足が大問題であった。
 そこでイギリスが眼をつけたのが、ノヴァスコシアやニューブランズウィックなどのアメリカ大陸東北部の植民地であった。莫大な森林資源に恵まれ、しかも陸地の周囲は天然の良港に恵まれていたのである。
 イギリス政府は、さっそくニューブランズウィックの豊富な木材をイギリスまで船で輸送して、イギリスの造船所で木造帆船の戦艦を増産した。しかし、大量の木材を遠くへ運ぶ費用と時間、さらに海難などのリスクを考えると、造船技術をカナダ側に移して、木材原産地の近傍で造船することの合理性に気づいた。その結果、19世紀初めからニューブランズウィックの、とくにセント・ジョンの造船は急速に成長・拡大した。セント・ジョンには、造船業で莫大な富を蓄えた富豪がたくさん生まれた。Photo_20200125061501
 ナポレオン戦争の後には、商船や客船の普及拡大があり、さらに1860年代にはアメリカの南北戦争が莫大な戦艦の需要を発生した。木造帆船全体としては1820~1890年代が隆盛期であったが、とくにセント・ジョンでは1840~1890年が黄金時代であったと伝えられている。
より大きな船、より速い船が要求され、帆船としての最高峰を飾ったのが設計技師ジェイムズ・スミスによる、1851年進水のマルコポーロ号であった。Photo_20200125061502
 当時の木造帆船は、主要な材料は木材であったが、木材を継ぎ合わせたり、帆を固定したり操ったりする器具や装置をつくるための、金具・金属部品がとても重要であった。その需要からセント・ジョンでは、鍛冶屋の技術の開発・高度化・蓄積が進み、この技術は造船業が衰退してからも、セント・ジョンの産業界にとって重要な基礎技術であり続けた。
 1880年代には、蒸気船が急速に発達・普及し、船体にも木材より鉄が用いられるようになった。そうなるとニューブランズウィックの木材資源は必要でなくなり、新しい蒸気機関や鉄製船体製造の技術を欠くセント・ジョンは、造船業の衰退を余儀なくされた。
 ただ、造船の黄金時代の経済的蓄積は、19世紀後半からの鉄道の敷設、電気の導入、電気通信の普及などに大きく貢献し、今日のセント・ジョンの経済・文化の礎となった。

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北米東海岸クルーズ (30)

セント・ジョン-4 ニューブランズウィック州とセント・ジョン
 市街地の海岸寄りの一角に、マーケット・スクエアという真新しく大規模なモールがあり、そのなかにニューブランズウィック博物館がある。この博物館は、もとは1842年に設立されたカナダでもっとも歴史ある博物館だが、1996年にこのマーケット・スクエア内に移転したものである。3階にわたって展示室があり、1階は自然史、2階は地域史、3階は美術館となっている。時間の都合もあり、私は2階の地域史を中心に見学した。 Photo_20200123064401
 ニューブランズウィック州のある地域は、アメリカ新大陸にフランス人が入植したケベクと、イギリス人が入植したニューイングランドの間に位置し、アカディア地方と呼ばれて18世紀から仏英の勢力が対抗するところであった。
 この地域で1755年、フレンチ・インディアン戦争を機に、イギリスはフランス系住民(アカディアン)に対し、イギリスに忠誠を誓うことを強制した。そしてこれを拒否しあくまで中立を維持しようとしたフランス系住民に対し、イギリス軍は1755年から1763年までにその住居を焼き、フランス本国またはイギリス植民地に強制送還した。この事件は「大艱難Great Upheavalと呼ばれている。強制送還を逃れたフランス系住民の多くは先住民の手を借りて仏領ヌーベル・フランス(ケベック)に逃亡した。なお、現在のルイジアナ州にあたる地域に定住した人々の子孫は、現在ケイジャンと呼ばれている。
Photo_20200123064402  強制送還されたアカディアの人々の多くは、1763年ごろから旧アカディア地方に帰還し、イギリス系住民の居住地を避けて旧アカディアより北のニューブランズウィック州、ノヴァスコシア州、プリンスエドワード島沿岸部に定住した。年配のフランス系住民の間では、現在に至るまでイギリスおよび英語を母国語とする住民に対する反感が根強いという。
 アメリカ独立が宣言されると、アメリカ新政府よりイギリス本国に忠誠を尽くす王党派 Loyalists の植民たちが南からやってきて、1784年にノヴァスコシアから分離して、ニューブランズウィック植民地が創設された。ニューブランズウィックは1867年のカナダ自治領の成立した当初の4州のうちの一つである。

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北米東海岸クルーズ (29)

セント・ジョン-3 ロイヤリスト・ハウス
 カールトン・マーテロー・タワーからタクシーで旧市街に戻り、シティ・マーケットで買い物をしたあと、シティ・マーケットすぐ前のシャーロットストリートを少し北上して、ロイヤリスト・ハウスを見学した。Photo_20200121061501
 1776年のアメリカ独立宣言を受けて、1783年5月10日アメリカ独立に反対する王党派Loyalistsと呼ばれるひとたち2,000人が、私たちのクルーズ船が停泊している場所のすぐそば、セント・ジョン川河口の地に上陸した。彼らは、主にパールやカールトンに新しく住居を建設し、この地に定着した。6月と9月には第二波と第三波の上陸があり、そのなかには王党派の軍隊が含まれていた。しかしさらなる来航者たちを受け入れる準備は不十分で、やがて大勢の王党派たちはこの地域にやってきて、テント住まいで厳しい冬をすごさなければならないひとびとも発生した。それらの人々が土地を探して農耕生活を開始できるようになるまで、少なくとも数年間を要した。
Photo_20200121061502  ともあれ、こうしてセント・ジョンはアメリカ独立反対派の元イギリス植民地住民が多数入り込んだ地域となった。こうした王党派Loyalistsの人々は、質素で自給自足的な生活をすることが多かった。それらのひとびとのうちのひとりの家が、現在ここに残っているのである。Photo_20200121061601
 さほど大きな住宅ではなく、生活で使用する家具、衣類、日用道具、子供のおもちゃ、など住人が自ら手作りしたものが多いという。母親は娘に縫物を教え、父親は息子に大工仕事を教えた。家具や調度品は、ごく質素なものが多いが、個々の品物に、この家で生活した代々のひとびとの心血がしみこんでいる。住宅の内装にも、手作りのものが多い。彼らは遅れてきた開拓者ともいうべき人々だったのだろう。

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