2021年1月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
フォト
無料ブログはココログ

散策

間人かに旅行(下)

城崎温泉散策
 翌朝は、やはりカニをベースとした朝食からはじまった。前日夜にたらふくカニを食べて、空腹感もないのだが、丁寧に調理された彩り豊かな朝食は、これまたとても美味しかった。
Photo_20201225062601  この日は朝から好天に恵まれ、青空から透明感溢れる優しい冬の陽射しが降り注ぎ、とても快適な一日となった。京都丹後鉄道で網野から豊岡に向かう。車窓からは、昨日までの雪を被った田畑や家々を眺める。まさに「絵に描いたような」雪化粧の美しい景色なのだが、現実にそこに住んで生活する人々にとっては、雪はとても厄介なことだろう。雪が積もると、道路の移動・輸送の機能は著しく低下する。道の脇や家屋・店舗の廻りを雪かきする人たちをなんども見かけたが、大変な労力だろう。眺めるだけの我々旅行者は、美しい雪景色を愛でるのみですむのだが、それでも以前おなじこの地を訪れたときに、鉄道が積雪で停止して、何本もの列車が運休となり、駅で長時間再開通を待ったこともあった。
 豊岡から20分ほどJR線に乗ると、城崎温泉駅に着く。ここも何度も訪れているが、こんなに天気のよいのは、おそらく初めての経験である。Photo_20201225062701
 今回は、GoToトラベル・キャンペーンのお陰で、宿で大幅割引をもらったうえに、GoToトラベル地域共通クーポン券というのをいただいた。結構な金額だが、宿泊日とその翌日の2日間のみが有効期間なのである。急にカネを使おうと思っても、すぐにアイデアは出ず、なんとかこの地元に還元すべく頭をひねりながらの散策となった。
 いつものように観光案内所に立ち寄り、散策マップをもらって歩きはじめた。駅前通りの商店街を過ぎて地蔵の湯で左折し、旅館や外湯の立ち並ぶ通りを過ぎると、温泉神社への参道となる。
 山門をくぐるとき、突然頭上から雪の塊が落下してきて、危うく直撃を受けそうになった。屋根の上に降り積もった雪が、晴れて陽射しを受けて溶け出し、こうして次々に落下してくる。私たちの日常では経験できないことである。
Photo_20201225062801  続いて極楽禅寺にも立ち寄った。その道の途中には、最近新設されたと思われるお洒落でモダンなカフェができていた。伝統ある温泉街だが、時代を積み重ねるとともにこうした洋風のお店もますます増えてくるのだろう。ちょうど若いカップルが入っていった。
極楽禅寺は庭園の美しい寺院だが、この日ばかりは庭の全面が真っ白一色の雪に覆われていた。お寺の山門の前の多数のお地蔵様が立ち並ぶ小さな山のようなところも、この日は全面的に雪に覆われて、仏像のお顔がよくわからない。Photo_20201225062802
 極楽寺からもと来た道を帰るとき、やはりかなり新しいお土産店のコンプレックスがあり、少し見て回った。ここのお店の様式も、伝統的な純和風ではなく、大きなガラスや現代的照明を多用した明るいお洒落な雰囲気の施設となっている。
昼食をとろうと、シックな雰囲気のすし屋に立ち寄った。正面のファサードは地味だったが、なかは最近改装したのか新しく明るいきれいな店内であった。昭和17年創業で、まだ若そうなご主人は三代目だという。かつてはこの城崎温泉街にも多数のすし店があったそうだが、現在は3軒ほどになってしまったと話されていた。握りずしランチをいただいたが、海鮮なネタもシャリも美味で、添えられていたうどんも身体が温まりそうでおいしくいただいた。
 腹ごしらえもしっかりできたところで、念願の外湯に入った。なんどか同じ湯屋に来ているが、いつも温泉には大満足だ。漬かっているときは暑く感じずに自然に時間が経ち、出てくると身体の芯まで温まっていることを感じる。
Photo_20201225062901  着替えをしているとき、偶然この湯屋の従業員らしい人と地元のなじみの客らしい人との雑談が耳に入った。ひとりは、今回の政府の年末年始期間のGoToトラベル・キャンペーン中止宣言に対して強く憤慨していた。GoToトラベル・キャンペーンのお陰で、ようやっと来客が部分的にも復活して、いよいよこれからというときに、突然中止なんてとても受け入れられない、と。もうひとりが、多分日本中で同じ気持ちの人たちが多いだろうから、政府も宣言を至急取り消すのではないか、と。予約取り消しの電話対応には、ずいぶん困惑したとも。GoToトラベル・キャンペーン停止の混乱は、やはり関係者には大きな問題らしい。Photo_20201225063001
 外湯を出て、毎回訪れている地酒販売店に立ち寄り、いつものようにご主人が推奨する地酒を購入した。今回の酒は、イギリス人が日本に渡来して杜氏となり開発した純米酒である。フィリップ・ハーパー氏はバーミンガムに生まれオックスフォード大学英文学専攻を卒業した人で、日本に興味を持ち、英語の教師として過ごすうちに日本酒に出会い、やがて日本の酒造会社で働きながら醸造の実践を学んだという。日本人女性と結婚し、杜氏の資格を得て、いまではみずから開発した日本酒を製造している。今回買ったのは「純米酒ひやおろし『玉川』」という「生詰め酒」で、新酒を65℃で低温殺菌したものを、通常は出荷前にもう一度加熱して瓶詰するところを、最初の低温処理のみで出すものだという。店のご主人がとても薦めてくれるので、一升瓶を購入して提げて帰宅したが、果たしてほんとうに美味な酒であった。
 酒、入湯料、昼食の寿司ランチ、そして若干のお土産と、GoToトラベル・キャンペーンの地域共通クーポンは、無事順調に現地で消化できた。冬至に近い早い日没のころには、帰路の列車に乗りこんでいた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

間人かに旅行(上)

間人の宿とかに料理
 12月中旬に、北丹後へカニ旅行に出かけた。GoToトラベル・キャンペーンがあるので、今シーズンは年内に行ってみることにしたのだ。今年は2月に同じ宿にカニを食しにいったので、10か月ぶりということになる。今回は家人と、久しぶりに長女も一緒である。
 京都経由で福知山に向かったのだが、大雪のため綾部近くの線路に樹木が倒れ込んだとのことで、しばし運休となり、予定を変えて園部駅で途中下車して、少し早めの昼食をとることにした。天気予報では、この冬一番の大雪がこの日の朝から、翌日の午前中にわたって来襲しそうだとのことであった。Photo_20201223060701
 園部駅の周辺はいたって閑散としていて、飲食店も少ないうえに、まだ午前11時になっていなかったので、食堂の選択肢はなかった。折よく偶然開店していた一軒の食堂に入って、ランチ定食をいただいた。早朝のNHK-BSで「こころ旅」という全国散策の番組があり、地方の訪問先の通過点で道端の食堂に立ち寄っている情景が放送されているが、今回は私たち自身がその当事者になったような気分であった。さいわい店のご主人も、従業員の方たちも、とても気さくで親切な方ばかりで、1時間も過ごさなかったが日常とはちがう風景、気候、空気感のなか、気持ちの良いひとときを過ごすことができた。
 ふたたび山陰線の列車に乗って、福知山に到着したときは、すでに午後になっていた。
 福知山には今年2月に訪れて、福知山城や明智光秀が造営したと伝える由良川岸の「蛇ケ端御藪(じゃがはなおやぶ)」などを訪れたが、今回は地面に雪が積もっていて散策には不都合なので、屋内施設である駅前の私立図書館に立ち寄った。新しい最新設備の立派な図書館で、明るく快適な環境のなか、ひとときを寛いだ。
Photo_20201223060702  福知山から、京都丹後鉄道で網野に向かった。車窓からみる景色は、列車の進行につれてますます雪が深くなっていく。少し内陸の福知山と日本海に面した宮津や天橋立では、かなり積雪の量がちがう。
 網野駅から送迎バスで宿に向かう。バスの運転をしていただいたご主人の話では、今年はここ2~3年ではもっとも積雪が早く、雪も深いとのことであった。折しもコロナウイルス肺炎の蔓延で、当初計画されていたGoToトラベル・キャンペーンが年末年始休暇期間に取りやめとなり、その期間の予約取消でかなり混乱したとの由である。私個人の見通しとしては、コロナウイルス感染拡大とGoToトラベル・キャンペーンとはほとんど関係がないと思うが、メディアに煽られた世論なるものが強く中止を叫ぶようになり、政府もやむを得ず中止したのだろう。


Photo_20201223060801

 早速温泉に漬かって、待望のかに料理を満喫した。かにの刺身から始まって、焼きガニ、かに味噌、かに鍋が続き、かに雑炊で締める。さらにかに茶碗蒸し、アワビ飯、カニ汁が付く。途中から満腹感を感じながらも、不思議にコース最後まで食欲が追いかける。かに料理は、食べ飽きにくい、食べ過ぎても胃にもたれないのが特徴のようだ。新鮮なカニは、自然の心地よい甘味があって、ほんとうに美味である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

京都嵐山紅葉散策(3)

常寂光寺へ
 広大な大河内山荘の順路をめぐったうえで、今度は北方向に、常寂光寺に向かって歩いた。
 この途中の道も嵐山らしい美しい風情である。Photo_20201207060101
 途中に工房にカフェテラスが併設されて軽食を提供するお店があったので、ピザとホット・コーヒーをいただいた。快晴の秋の陽射しを浴びた屋外のテーブルで、のんびり軽い昼食を楽しんだ。
Photo_20201207060102  カフェテラスを出て少し歩くと、常寂光寺に着く。
 常寂光寺は、もと本圀寺の住持であった日禎上人が文禄5年(1596)開基した寺である。日禎は、藤原北家日野氏流、広橋国光の子で、本圀寺で日栖に入門しわずか16歳で本圀寺16世に任ぜられたが、文禄4年(1595)豊臣秀吉が東山方広寺大仏殿を建立し、全国から宗派に関係なく多数の高僧を集めて「千僧供養」を実施したとき、出仕に応じず秀吉から排除されたのを機に、本圀寺を出て小倉山のこの地に新たに隠棲の場としてこの常寂光寺を開創したのであった。秀吉が露骨な方法で宗教を屈服させようとしたのに対して、日蓮宗の不受不施派(『法華経』の信者ではない者からは布施を受けず,施業を与えないという方針の派閥)の立場を貫いたのである。Photo_20201207060201
 境内は小倉山の山麓斜面にあり、仁王門をくぐって登っていくと、途中に多宝塔がある。日禎上人が文禄5年からここに隠棲を始めたのち、第2世日韶上人が小早川秀秋の助力を得て桃山城の客殿を移築して本堂とし、元和2年(1616)本圀寺客殿の南門を移築して山門にしたと寺伝にある。それらの経緯から、この多宝塔は江戸時代初期、慶長から元和ころの創建であったと推測されている。Photo_20201207060401
 嵐山エリアの一部を、のんびり散策した。紅葉のピークは少し過ぎていたが、絶好の好天と優しい日差しに恵まれ、京都の秋を満喫することはでき、満足感を感じる散策であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

京都嵐山紅葉散策(1)

渡月橋から宝厳院へ
 東京から友人が京都に来るというので、晩秋の紅葉見物を兼ねて、京都嵐山を散策した。Photo_20201203060301
 阪急嵐山駅で落ち合い、渡月橋に向かう。例年ならこの季節は、駅から降り立った直後から人だかりで混雑するのだが、今年は新型コロナウイルス肺炎の大流行のため、かなり人出が少ないようだ。渡月橋に来ると、例年なら橋の北側の欄干沿い歩道が嵐山方面行き、反対側歩道が駅行きと、完全一歩通行になっているところが、今年はさほど混雑していないお陰で自由通行である。幸い雲一つないほどの絶好の秋晴れの下で、川面には遊覧船が出ていた。好天の青空を反映した水面が美しい。


Photo_20201203060601


 渡月橋を渡って、宝厳院に向かう。宝厳院に来たのは、10年余り以前であったが、京都とは言え観光地であり、途中の道の景観がかなり変わっていた。Photo_20201203060501  
 宝厳院は、天龍寺の塔頭のひとつで、室町幕府の細川頼之管領が天龍寺開山夢想国師の第三世聖仲永光禅師を迎えて寛正2年(1461)創建した寺院である。当初はかなり大規模な寺院であったと説明があるが、応仁の乱で焼失し、なんどか再建を繰り返して現在に至っている。ここは天龍寺庭園に比べると規模は小さいが、こじんまりしたきれいな紅葉が楽しめることで有名になっていて、この季節はにぎわう。それでも今年はコロナ騒ぎでそんなに混雑していない。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

京都洛西 松尾大社(下)

庭園
 本殿向って右側に歩くと社務所があり、ここで拝観料を支払って庭園に入る。
 松尾大社の庭園は、昭和50年(1975)に再建された新しいものである。昭和期の代表的作庭家重森三玲(しげもりみれい)の設計によるもので、重森の絶作ともなった。


 Photo_20201112061701 入場して最初の庭園が「曲水の庭」である。もとあった奈良・平安の時代に造営された曲水式庭園を範とし、曲がりくねった川のような池を中心に、背後の築山の斜面に石組を連続させ、石組の間にサツキの大きな刈込を配置した立体的な構成となっている。流れの中にも石組を取り入れ石橋を架けるなどモダンな雰囲気もある。重森三玲が得意とした伝統とモダンの組み合わせである。Photo_20201112061801
 次に進むと「上古の庭」がある。上古の時代にはどこにも神社の社はなく、山の中の巨岩などが神霊の宿る聖地となった。そんな場所を「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」と呼んだ。いまから1300年以上昔、大宝元年(701)に本殿が建立される以前には、この地の後方の松尾山の頂上近くにある磐座で人々が集まり祭祀を執り行った。その古代祭祀の場であった磐座を模して山麓に造営されたのがこの「上古の庭」である。庭の奥中央にある巨石ふたつは当社御祭神の男女二神を象徴している。その周りを囲む大小多数の岩は、随従する諸神を象徴している。一面に植えられた笹は、高山の趣を象徴している。一見、なにもない藪と石だけのようだが、こうして解説を読んでしばらく眺めると、普通の庭園とはまたひとあじ違う抽象的表現の趣が理解できる。
Photo_20201112061901  いったん庭園エリアを出て、楼門からも出て、茶店の裏側にまわると、「蓬莱の庭」がある。この庭は回遊式庭園の様式で、私にも多少既視感のある美しい庭園である。全体が羽を広げた鶴の形をしている、という説明があるが、低い目線から眺めるためか、私にはよくわからなかった。蓬莱というのは不老不死の仙人郷の意味であり、それに憧れる蓬莱思想は鎌倉時代にもっとも流行し、作庭デザインにも多く取り入れられた。源頼朝は、松尾大社に対して神馬10匹、黄金100両を献じて深い尊崇を表し、以後代々の武門は変わることなく明治時代まで崇敬を継承したという。
 池にはとても大きな鯉がたくさん泳いでいて、それを眺めていても飽きない。雲一つない青空のもと、湿気の少ない心地よい空気に包まれて、心身ともにすっきりくつろげるひとときであった。
 そうこうしているうちに短い秋の陽が傾き、夕暮れが迫ってきた。気持ちの良い秋の一日であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

京都洛西 松尾大社(上)

楼門と本殿
 雲一つないような珍しいくらいの秋晴れの日、はじめて松尾大社を家人と訪れた。
Photo_20201111060902   どういうわけかこれまで来たことがなかったが、阪急嵐山線の「松尾大社」駅の真ん前という交通至便の立地である。駅のすぐ前に大きな鳥居が聳え、鳥居をくぐると少し先に松尾山の緑と楼門が見える。
 楼門は、江戸時代前期の寛文7年(1667)建造された高さ11メートルの大きな古式の門である。間口(桁行)3間、奥行2間、正面の等間隔の間隔1間ずつの4本柱の中央の1間を通路とする「三間一戸」という様式である。装飾が少なく簡素でクラシックな、上品で美しい門である。
 まだ10月だが、早くも七五三詣に来ている家族連れも散見する。コロナウイルス流行の影響もあってか、全体の人出はさほど多くない。Photo_20201111060901
 この地は、古くは地元の人々が松尾山に神霊をみて、生活守護神として崇拝したとの由緒が伝えられている。5世紀ころに半島から渡来した秦氏がこの地に定住して、山城・丹波の両国を拓き、治水工事を行い、農業を定着させた。そして松尾の神を秦氏の氏神と仰ぎ、大宝元年(701)松尾山麓のこの地に社殿を造営した。京都で最古の神社であるという。秦氏は長岡京や平安京の開拓にも深く関わったとされ、皇族のこの社に対する崇敬も厚かったという。
 現在残る社殿は、室町初期の応永年間(1394~)に建造されたものを、戦国期の天文11年(1542)大修理したものである。建坪35坪、桁行3間、梁間4間の珍しい両流造りで「松尾造り」とも呼ばれている。箱棟の棟端が唐破風になっているのが大きな特徴である。柱・長押の直線と屋根の曲線の形状の調和、さらに木部と檜皮と柱間の白壁の色彩の調和が気高い美しさを実現している。なお、この本殿に続く釣殿・中門・回廊は江戸時代の建築だという。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

鎌倉散策 (7)

円覚寺
 建長寺を出て、北鎌倉駅に向かってしばらく歩くと、北鎌倉駅の前に円覚寺がある。Photo_20200525065701
円覚寺は、鎌倉時代後半、建長寺創建から29年後の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が創建した禅宗寺院である。蒙古襲来による戦争の殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、そして国家の鎮護を祈り禅を弘めたいという願いから建立にいたったとされる。
 開祖は、中国に生まれて12歳で出家し、修行を積んだ無学祖元であった。無学祖元は、文永12年(1275)50歳の時、蒙古(元)の軍隊が南宋に侵入して、温州の能仁寺に避難していたとき元軍に包囲された。しかしそこで無学祖元が「臨刃偈」(りんじんげ「臨剣の頌」ともいう)を詠むと、元軍は黙って去ったと伝わる。
Photo_20200525070001  弘安2年(1279)北条時宗は、中国から無学祖元を招聘して建長寺の住持とし、深く帰依した。弘安4年(1281)、2度めの元の侵入である弘安の役に際して、無学祖元はその一月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫かれ)と書を与えたという。そして弘安の役の翌年、円覚寺の建設に至ったのであった。
 円覚寺もなんども大火に見舞われて、衰微したことがあった。しかし江戸時代末期に、誠拙和尚が出て伽藍を復興し、現在残る円覚寺の基礎がかたまった。明治期には、今北洪川・釈宗演のもとに多くの雲水や居士が参禅して関東禅会の忠臣的存在となり、多くの人々に親しまれて「心の寺」と呼ばれるようになった。Photo_20200525070101
 山門(三門)は、円覚寺中興の祖とされる大用国師誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ)禅師が、天明5年(1785)再建した。掲げられた額の「円覚寺興聖禅寺」の書は、伏見上皇の筆になるものである。
 私はかつて学生時代に一度だけ、京都の臨済宗禅道場に1週間余り禅の実践をしたことがあるが、禅について詳しいわけではない。建長寺にしてもこの円覚寺にしても、具体的に宗教的な感銘を深く感じるわけではないが、人気の少ない禅宗寺院の広大な境内をゆっくり散策するのは、とくに根拠もないままに贅沢で清々しい気分になる。そして、人生の一部ではあったが鎌倉に過ごしたことで、故郷のような懐かしい心の落ち着くことを感じる。これからも、機会があればなんどでも訪れたい場所である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

鎌倉散策 (6)

建長寺 河村瑞賢顕彰碑と墓地
 建長寺の寺域はとても広くて、境内にはたくさんの塔頭もあり、ハイキングコースに連なる裏山付近もどこまでが寺域なのかさだかでないが、その一隅に河村瑞賢の墓があった。
 河村瑞賢は、元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の農家に生まれた。10歳代前半にして江戸に出て、江戸幕府の土木工事の人夫頭などを勤めつつ懸命に働き、徐々に資産を増やしたという。やがて材木屋を営み、明暦3年(1657)明暦の大火の際に木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負って莫大な利益を得た。そして寛文年間に老中稲葉正則と出会い、以後政商として幕府の公共事業に関わってきた。
 河村瑞賢の功績は、大きくは海運ルートの開拓と河川治水事業である。Photo_20200521082401
 まず海運ルートについては、それまで奥州から年貢米を江戸へ輸送する廻米は、本州沿いの海運を利用して危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。瑞賢は寛文11年(1671)、阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回して伊豆半島下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米する外海江戸廻りの「東廻り航路」を開いた。さらに奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島下田に至り、やはり西南風を待って江戸に廻米する「西廻り航路」を開いた。加えて途中の寄港地を定め、入港税免除や水先案内船の設置を行い、わが国近世の海運の発展に大きな貢献をした。
 河川治水事業については、延宝2年(1674)に発生した淀川の大洪水がきっかけとなり、貞享元年(1684)から同4年(1687)までの貞享期淀川治水事業、続いて元禄11年(1698)から12年(1699)までの元禄期期淀川治水事業を指導し、淀川の河川整備・治水に大きく貢献した。彼は、上流山間部で発生した土砂が川を下って下流の川底を埋めて洪水が発生する、したがって上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべき、と考えてその基本方針のもとで治水事業を実施して成功したのであった。
 ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を始動・実施して、その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛された。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

鎌倉散策 (5)

建長寺
 鶴岡八幡宮に参拝して、本殿から階段を降りずに西側に出て巨福呂坂を経て建長寺に向かう。鎌倉に住んでいたころは私もまだ若く、週末には自宅から由比ガ浜・七里ヶ浜を経てこのさほど急ではないが長くて苦しい巨福呂坂を登り、植木の自宅まで15キロ余りのコースをジョギングしていた。すでに時間が経過して私の記憶も鮮明とは言えないが、道路の景観も少しずつ変化していて、それでもとても懐かしい。Photo_20200519062401
 建長寺の総門に着く。これは近世後期の天明3年(1783)、京都に建立された般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)の門を、昭和15年(1940)に移築したものである。建長寺第十世住持一山一寧の筆になる「巨福山」の額がかかっている。
 この建長寺は、建長5年(1253)鎌倉幕府第五代執権北条時頼が建立したわが国最初の禅宗専門寺院である。正式には「巨福山建長興国禅寺」といい、鎌倉五山のひとつ、臨済宗建長寺派大本山である。
Photo_20200519062402  開山は中国からの渡来僧蘭渓道隆で、彼は中国の高僧無明慧性(むみょうえしょう)を師とし、寛元4年(1246)に33歳で来日した。肖像画を見てもとても聡明そうでなかなかの美貌である。彼は九州と京都に過ごしたのち、北条時頼に請われて鎌倉に来たという。禅風は中国宋時代の純粋かつ厳しいもので、多くの僧を集めて中国文化を広く普及させたと言い、その教えは「法語規則」に残されている。北条時頼自身も深く禅の教えに帰依し、覚了房道崇(かくりょうぼうどうすう)の名をもっていた。Photo_20200519062501
 創建当時の建長寺は、中国宋時代の禅宗寺院の伽藍配置を踏襲し、総門・三門・仏殿・法堂・方丈を直線状に細長く並べ、その両脇に大禅堂・大食堂などを配置するものであった。14~15世紀には、幾度かの大火に見舞われ、建物の多くが焼失した。近世にはいって、沢庵和尚や金地院崇伝などの進言で、徳川幕府が支援して再建・復興が進められた。現代になって、平成15年の創建150周年記念事業によって、ほぼ現在の形に整備された。
Photo_20200519062601  20年余り以前に私は何度となくここを訪れ、さらに代表的なハイキングコースであった「天園ハイキングコース」の終着点であったため、ハイキングのときもこの境内を通過したのだが、当時から少し様子が変わっているらしいことになる。最後に訪れてからずいぶん時間が経過したこともあり、正直なところこまかいところは記憶があいまいなままである。たしかに、こんなに金色が輝く勅旨門は、観た覚えがないと思う。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

鎌倉散策 (4)

鶴岡八幡宮
 銭洗弁財天を出て、半時間ほどのんびり坂を下り鎌倉の市街地に入る。鎌倉駅の周辺は工事中で、かつてあった駅の真下をくぐって駅の東側にでるトンネル通路が無くなっていた。しかたなく駅北側の信号まで歩いたが、途中に「鎌倉六弥太」というお店があり、独自の豆腐を使ったハンバーグを提供するというので、立ち寄ってみた。Photo_20200515061001
 果たして豆腐を合わせたオリジナルのフワフワのハンバーグは、とても美味であった。
Photo_20200515061101  信号を渡って小町通りに出て、お土産の漬物を購入し、若宮大路に出た。ここの段蔓は、数年前に全面的に改修して新しく整備されたいささか現代風の並木と舗装された通路となっている。たまたま大勢の高校生らしい集団とすれ違った。鎌倉に住んでいた時も、こうして旅行で訪れるようになった現在も、ここには何度となく訪れる。若宮大路が少し改修されたり、大銀杏が強風で倒れてしまったり、隣接する県立美術館が廃館になったり、旧跡とはいえ変化は絶え間なく続くが、私にとっての鶴岡八幡宮はほとんど変わりのない落ち着く場所である。この地に生まれたわけでも、人生の大半をすごした場所でもないが、それでも私にとって故郷に準ずる懐かしい落ち着く場所のひとつなのである。
 今回は、かつて県立美術館があったところに新しく「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」がこの春の開館に向けて建物の外観が完成していた。そしてそのすぐ前に「鶴岡ミュージアムカフェ」ができていて、昨年の10月から開業しているということであった。Photo_20200515061102
 まさに最先端のシステムなのだろう、入場するとタッチパネルで注文品を指定して、指示された代金を機械に投入し、発行される品物の引換券を受け取って座席で待つ。やがて注文品の準備ができたとのスピーカーからのアナウンスを受けて、カウンターまで品物を受け取りに行く。喫食を終わり退場するときも、セルフサービスで食器を指定のカウンターに返却する。トイレも常時鍵がかかっていて、顧客はカウンターに申し出て鍵を預かり、自分で開錠・施錠して使用する。
 室内は天井が高く、きれいな内装で快適である。こうして新しいきれいな施設ができたことは、私もうれしい。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

より以前の記事一覧