岩倉具視幽棲旧宅 京都洛北歴史散策(2)
安政7年(1860)和宮降嫁については、幕府の権威と権力が低下してきたため、幕府が天皇の威光によって権威回復を狙うものであることを見透かし、公武一和を実現し、決定は朝廷・実施は幕府の 両立体制を主張した。岩倉は、朝廷のために将軍家茂に「廃帝を望まない」との誓紙まで出させた。将軍が誓紙を出すということ自体が、前代未聞であった。
しかし和宮降嫁は、結果として朝廷も尊王攘夷をいっそう高まらせ、薩摩に近い、よって幕府に近いと見られた岩倉は、公家の実力者たちから排斥されてしまった。三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通等を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾した。岩倉は蟄居・辞官を余儀なくされ朝廷を去った。
こうして岩倉は短期間を寺などで過ごした後、5年間近くをこの岩倉村の居宅で過ごした。
やがて慶応3年(1867)10月将軍 慶喜から「大政奉還」がなされ、このままでは幼少の天皇に対して狡猾な慶喜が実権を維持してしまう可能性を考え、とうとう岩倉は表舞台に復帰して慶応3年末(新暦では慶応4年初)の「小御所会議」を主導して「王政復古」の大号令を発し、明治維新の中心人物のひとりとして政権中央に躍り出ることとなった。
蟄居のはじめころは、この住処も半分程度の広さであったのを、薩摩を中心に多くの武士たちと直に会って接待するために増築を繰り返して現在に残る広さになった。
蟄居中にも、元治元年(1864)の禁門の変、慶応元年(1865)から2年間にわたる長州戦争などの大事件が起こり、いつも岩倉はこの住処で薩摩をはじめとする多くの要人と情報交換を続け、熟考を重ねていた。この5年間は、岩倉具視の以後の飛躍のための、大切な充電期間であった。
この家の片隅に、岩倉具視の遺髪を埋葬した遺髪碑がある。













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