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散策

出石散策(16)

出石永楽館と現代歌舞伎・落語
Eirakukan2015omote2  永楽館が会場を貸し豊岡市出石町が興行主となって、毎年「永楽館大歌舞伎」が催されている。片岡愛之助が新妻藤原紀香を連れて会場に訪れると、大喝采を浴びるという。平成27年興行では「出石の桂小五郎」という演目で、片岡愛之助が出石に潜伏する桂小五郎を演じて好評を得たという。やはり出石と桂小五郎は、切り離せないエピソードとして今に生きているようだ。こういう地元独自の演目を組むことができるのも、伝統的な城下町のメリットである。地方自治体の予算を使うけれど、地域振興としては評判がよい。
 また、もうひとつの人気の興行が落語である。これも毎年桂米朝一門が訪れて寄席を行い、大層な盛況となるという。米朝が亡くなったあとでも、桂ざこばなどの高弟が来訪して、場を盛り上げる。Photo
 落語については、関連する興味深いエピソードもある。出石の町を散策していて、ふとあるお米屋さんの店先を通り掛かると、正面に「但馬国立いずし落語笑学校」と黒々と墨で記された立派な看板が掛かっていた。興味をひいたのでお店の方に聴くと、出石永楽館での落語寄席がきっかけとなって、毎週1回このお店の二階で希望者が集まり、落語家を先生として落語学校を実施しているという。
 こうして出石永楽館は、いまでも町の伝統遺産として町のシンボルのひとつであり、町の人びとに貢献している。
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出石散策 (15)

出石永楽館とその歩み
 出石の街の西端近くに、出石永楽館がある。道路に面したところではなく、少し路地を入ったところに入り口があり、若いお兄さんが入場券を扱ってくれた。靴を脱いで館内に入ってみると、そのお兄さんが館内にきて、永楽館について解説してくれた。
Photo_2  この永楽館は明治34年(1901)、ある芝居好きのお金持ちが自分の趣味の延長として芝居小屋を建設し開館させたものだという。だから開館当初から営利的指向は薄く、かなり自由に運営してきたらしい。出石藩主仙石氏の家紋が「永楽銭」であったのにちなんで「永楽館」と名付けそうだ。明治末ころの初午祭では歌舞伎を昼夜二回興行し、大入り札止めの盛況であったという。大正はじめまでは歌舞伎をはじめ、剣劇、壮士劇、新派劇、寄席、さらには政談演説などで賑わっていた。第一次世界大戦を経て大正期後半になると、活動写真の興行がはじまった。そして昭和5年(1930)にはこの永楽館にも映写室ができ、さきの大戦が終わるころには映画上映が主要な活動となって実質的には映画館となった。昭和26年(1951)からはカラー映画上映がはじまり盛況を迎え、一方舞台では地方劇団、関西で人気が高かった花菱アチャコ劇団、宝塚歌劇団などが来演した。しかしテレビが急速に普及してきて舞台や映画館が不況となり、とうとう昭和39年(1964)永楽館は60年余りの歴史を閉じることになった。2
 時が流れて往時の永楽館を懐かしむ人びとの努力で、44年ぶりに永楽館が再興されたのであった。館内の内装は、昭和初期のレトロな看板や広告で飾られており、郷愁を誘うものである。現在では自主興行はなく、会場を貸して運営しているという。この種の地方劇場は、座席が800くらいあって十分入っていればようやく採算がとれるというが、ここは座席368で自立は困難だという。
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出石散策 (14)

出石明治館と出石ゆかりの偉人・有名人たち
 おりゅう灯籠がある八木通りを東に突っ切ると、少し広い自動車道路に突き当たる。そのすぐ手前に、出石明治館がある。
 この木像洋式建築の建物は、明治25年(1892)出石郡役所として造営されたものである。正面玄関のある木造2階建と、その背部の平屋建を連結した構造となっている。正面玄関ポーチのペディメント(洋式建築の破風)やコリント式の柱頭が特徴的である。現在は博物館および各種展示会やカルチャーセンターとして活用されている。Photo
 館内では、出石出身の偉人や有名人を紹介する展示があった。中世後期の山名宗全、宗鏡寺中興の粗沢庵和尚、幕末期に出石藩の藩儒の子として生れ明治新政府に内務省官僚として勤務、わが国気象観測網の基礎を築き天気予報をはじめたとされる桜井勉、東京大学初代総長を勤めた加藤弘之、戦前の軍部に対して毅然とした態度で知られる弁護士・政治家斎藤隆夫、などがある。
  それら出石出身の人びとの他に、興味深いのは経済学者であり「大塚史學」で高名な大塚久雄や、文学者小林秀雄と出石とのかかわりである。
  大塚久雄の祖先の親族に、姉小路局という幕末期の大奥の実力者があった。姉小路局は、財政難に苦しむ出石藩の藩政改革を推進した藩校弘道館頭取兼勘定奉行を勤めた桜井一太郎(桜井勉の父)の働きかけに応じて幕閣を動かし、出石藩の「村替え」という藩政改革を推進した人物であった。大塚家そのものは京都の両替商であったが、大塚家からも姉小路局の異父弟大塚兵庫が出石藩に新治50石で召し抱えられ、出石に住んだという。
 小林秀雄の祖父小林市右衛門は出石藩士であり、文化年間(1810年前後)には出石城下町鉄砲町南側の長屋に10石4人扶持として住んでいたとの史料があるそうだ。小林家は明治維新ののち東京に移り住んだが、本籍は出石のままであったらしく、小林秀雄も本籍を出石にもつ両親の子として生れている。小林秀雄の随筆のなかの回想として、幼年時代に出石の親戚を訪れて遊んだ記憶があるとの記述がある、とも解説に記されている。
 最近の例としては、プロ野球阪神タイガースの能美篤史投手と女子バレーボールの井上香織選手が出石出身有名人として、通路に等身大パネルが展示されていた。
 江戸や大坂、京などに比べると当然ながら地方だが、出石も歴史ある城下町であり、人材も多様な人びとを輩出していることがわかる。
 なお、入場料はわずか100円で、しかも高齢者割引ということで私は50円で入場できて、そのことでも感動した。

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出石散策 (13)

酒蔵と出石酒造
 桂小五郎潜居跡の石碑がある宵田通りを東に歩くと、通りの南側に古めかしい酒蔵跡の建物が残っている。ここは江戸時代中期から城下町の酒造所があった場所である。
 300年ほど前に、ここに「かずかや門垣屋」という造り酒屋があった。このときの藩主が大層お酒好きで、この造り酒屋に「女にも年寄りにも飲める酒を造れ」と命じたという。果たして酒屋は苦心惨憺して醸造したが、そのお酒に藩主はいたくお気に召され「名前を『緑』にせよ」と書付にカツオをつけて酒屋に遣わした。この「緑」は、古い漢詩「杯に緑を浮かぶ無からずんば、いずくんぞ鬢に青きを留むるを得ん」からとったという。こうしてお酒は「緑」という名になった。

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 明治維新が過ぎ、明治9年(1876)、出石の町を焼き尽くす大火が発生し、かずかや門垣屋の酒蔵も焼け落ち、すべてが失われてしまった。それでも銘酒「緑」は、出石町内にほそぼそと命脈を保ったらしい。さきの大戦が終わるころ出石町に3つ、但東町に2つ造り酒屋があった。それらが昭和18年(1943)に合併して、現在の出石酒造となった。この時にそれぞれの銘柄を整理して新しく名付けたのが「楽々鶴」という現在に残る地酒である。
 この「楽々鶴」は今もこの酒蔵で販売されているというが、私がここを訪れたのは、少し朝が早すぎて、まだ営業していなかった。

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出石散策 (12)

桂小五郎と潜伏先
 桂小五郎は、石碑のある宵田通りの旧荒物屋跡だけでなく、出石城下町のさまざまなところに転々と居場所を替えた。そのひとつが、大手前通りのひとつ東側の小道に面する昌念寺である。観光案内マップには潜伏地跡のひとつとして記してあるが、昌念寺の門あるいは境内には、桂小五郎とのかかわりを説明する掲示などは一切ない。

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 小五郎が潜伏しているうち、京では禁門の変を引き起こして敗戦した長州藩は朝敵となって、朝廷の命を受けて幕府軍により第一次長州戦争が始められようとしていた。この危機におよんで長州藩内では、幕府に対して恭順を主張する保守派が台頭し、幕府・薩摩藩側からの毛利家三家老の切腹、三条実美等急進派公卿の他藩への移転、さらに山口城の破壊を和議の条件として受け入れた。この結果、第一次長州戦争は戦わずして終わった。
 しかし長州藩内では、高杉晋作等が奇兵隊を率いてクーデターを起こして成功させ、高杉晋作・大村益次郎等は、潜伏している桂小五郎を、新生長州藩のリーダーとして呼び戻した。こうして出石に幾末が訪れて帰国を求め、一年もたたず桂小五郎は萩に帰ることになった。
 以後の桂小五郎、のちの木戸孝允の活躍は有名である。明治三傑ひとりの危機を救った避難地として、出石は忘れてはならない場所なのだろう。
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出石散策(11)

桂小五郎潜居跡石碑
 宗鏡寺を出て、西に歩くと宵田通りに面して「桂小五郎潜居跡」と刻んだ石碑が道に面して建っている。

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  元治元年(1864)京で禁門の変が勃発し、それをしかけた長州軍が敗れ、長州藩士であった桂小五郎は追われる身となった。かねてから江戸や京で親しくなっていた対馬藩士大島友之允によって、まずは対馬藩の京屋敷に身をひそめた。しかしまもなく会津藩や新撰組などの長州藩士の残党狩りが厳しくなり、京を脱出せざるをえなくなり、大島友之允の紹介で出石の商人広戸甚助・直蔵兄弟の世話を受け、しばらく出石に潜伏することとなった。桂小五郎は、ここ出石で荒物屋を営んで潜伏した。剣術の稽古に熱心であった小五郎は、手に剣ダコがめだったため、鋳掛けの槌をもつ荒物屋が偽装に適したこと、荒物屋なら武士にとって特段大きな違和感なく仮装しやすいと思われたことなどが想定される理由だという。小五郎は積極的かつ気さくに近所の子供たちや町の男女に声をかけ、親しくつきあっていたという。

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出石散策 (10)

宗鏡寺と川崎尚之助之碑
 順路に沿って歩くと、沢庵和尚のお墓があり、沢庵和尚が隠棲したという投淵軒と、自ら作庭したと伝える「心字の池」を巡る。Photo
 順路の後半に、開山堂がある。開山大道一以禅師を顕彰している。雪のなか、ひっそりと佇むお堂は、なかなか風情があって美しい。
 宗鏡寺の門を出たところに墓地があり、その入り口正面に「川崎尚之助之碑」がある。
4年前の大河ドラマ「八重の桜」で一般に知られるようになった出石出身の学者川崎尚之助を顕彰するための新しい石碑である。天保7年(1836)出石の城下町に、藩士川崎才兵衛の子として生れ、江戸で洋学を学び、そこで同門の会津藩士山本覚馬と出合う。それが縁で会津に行き、会津藩校日新館で山本覚馬とともに洋学・砲術を教授した。そして山本の妹八重と結婚、戊辰戦争の会津城戦では八重とともに懸命に戦った。戊辰戦争後の混乱から八重とは離ればなれになってしまったが、会津と日本のために命を捧げた人物、出石出身の偉人として、このドラマを機会に寄付を募り、有志が集まって顕彰碑を建てたものである。
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出石散策 (9)

宗鏡寺と鶴亀庭園
 出石の町の東北部にある入佐山(いるさやま)の麓に、宗鏡寺(すきょうじ)がある。
Photo  室町時代の元中9年(1392)当時この地を統治していた山名氏清が菩提寺として創建したお寺である。開山は京都東福寺の大道一以禅師であった。山陰随一の伽藍と言われるほどの大寺院であったというが、織田信長が但馬を平定し山名氏を滅亡させたあと、長らくこの寺も荒廃していたらしい。
 近世になって、小出吉英が元和2年(1616)この地に生れ京都大徳寺の住持にまで登り詰めた高僧沢庵を招いて呼び戻し再興した。沢庵は将軍徳川家光に仕えていたが、たびたび故郷の出石に戻り、通算30年間以上を当寺で過ごしたという。沢庵の墓も境内に在る。Photo_2
 門をくぐって境内に入ると、順路が案内されていて、行き先のポイントごとに押しボタンによる案内放送を聴くことができる。境内にはまだ雪が残り、脚元はいささか歩きにくい。
 本堂東側の「鶴亀の庭」は、宗鏡寺再建にあたり沢庵和尚がみずから作庭したと伝える。鶴の形を見立てた池のなかに、亀の形をした小さな島を配置する。縁起のよい鶴亀にちなんで、宗鏡寺の永劫繁栄を願うものである。Photo_3
 庭園をさらに進むと、沢庵和尚手植えの「わびすけ椿」がある。枝は三本にわかれ、4~5月ころには猪口咲きと呼ばれる小さな可憐な花をつける。「詫助」の名は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した小出家家臣であった志野詫助に由来すると伝える。志野詫助は、朝鮮から持ち帰った新種の椿を主君小出公に献上し、そのあと小出公から沢庵和尚に献上されてこの庭に植えられたという。
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出石散策 (8)

おりゅう灯籠
Photo_2  出石城下町の西を南北に流れる谷山川は、かつての出石川で、北上して現在の豊岡市で円山川に合流して日本海に注ぎ込む河川であり、江戸時代には現在より川幅が広く、日本海を経て全国に物資をやりとりする流通の幹線であった。この旧出石川に掛かる大橋の東詰の八木通り沿いにおりゅう灯籠が建っている。「おりゅう」の名は、鎌倉時代のある悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだものと伝えるが、この灯籠との関係はよくわからない。
 江戸時代、出石藩とその城下町は、年貢の輸送、生活や軍事のための物資の輸入・輸出など大量の荷物を、舟を用いて播州・美作・丹後など近隣地域、さらには江戸・大坂などと流通していた。この灯籠は、その重要幹線たる出石川の夜間の舟行を守り、かつ出石城下町の船着場を示す重要な施設であった。
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出石散策 (7)

見性寺・経王寺の隠し砦
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 出石家老屋敷の長屋門を出て、内町通りを少し西に行くと、福成寺というお寺がある。このお寺は単なる寺院ではなく、お城の周囲に立地して鐘撞堂や櫓などを設え、また塀には狭間を設け、外敵が侵入したときには臨時の砦として機能するように建造されていた。
 かつての出石川沿いに立地する見性寺も同様の寺院である。見性寺は、狭間を兼ねた格子窓を備えた高い鐘楼をもち、砦としての戦闘能力を確保した。出石城下町の経済的生命線であった出石川のすぐそばで、舟運を監視する任務もあったという。Photo_4
 出石城のすぐ東側にある経王寺も、やはり高い鐘楼と窓をもち、出石城の脇を固める重要な戦術的拠点であった。
 
出石城がいかに慎重に警衛・軍事に備えていたかが窺える。

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