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散策

秋の東北旅行(6)

本堂
 庫裡に入って順路標識にしたがって進むと、本堂に着く。本堂は正面38m、奥行24.2m、棟高17.3m、入母屋造の本瓦葺で、室中(孔雀の間)・仏間・文王の間・上段の間・上々段の間・鷹の間・松の間・菊の間・墨絵の間・羅漢の間の10室から成る大規模な建物である。それぞれの間は、部屋の使用目的にふさわしいテーマに沿って描かれた絵画や彫刻で装飾されていて、それぞれ天井も造りが異なる。昭和28年(1953)国宝に指定された。
 墨絵の間以外の障壁画は昭和60年(1985)から制作が開始された精巧な復元模写が導入されている。本堂の中は、写真撮影が全面的禁止となっている。Photo_20231130060301
 法要が営まれる室中孔雀の間(しっちゅうくじゃくのま)は、本堂の中心となる部屋である。襖絵は仙台藩最初のお抱え絵師 狩野左京による「松孔雀図」で、手前右側より左回りに冬→春→秋と四季の移ろいを描くことで、世俗的な時間を超越した場所であることを表現している。正面の「雲に飛天」の彫刻や虹梁の迦陵頻伽の絵画とともに、この部屋が「この世の浄土」を具現化した空間であることを示している。
 室中の奥に位置する仏間は、本尊の聖観世音菩薩像、初代藩主政宗から12代藩主斉邦までの位牌、瑞巌寺三代開山の木像、歴代住職の位牌が祀られている。襖絵は金地の上に咲き誇る「桜図」で、黄金世界を表現することで浄土を表わしている。須弥壇前面の「牡丹唐獅子図」は、獅子が文殊菩薩の乗り物であることから、仏の智慧を象徴するものである。
 文王(ぶんおう)の間は、伊達家一門の控えの間で、藩主との対面の場である。襖絵は狩野派と共に桃山絵画を担った長谷川等伯の高弟であった長谷川等胤による「文王呂尚図」で、理想の国家とされる周王朝の基礎を築いた文王と名補臣太公望呂尚との出会い、国都洛陽の繁栄、さらに狩猟場面を描いている。
 上段の間(じょうだんのま)は藩主御成の間で、他の部屋より畳面が一段高くなっている。明り取りの火頭窓と違棚が正面奥に、帳台構が右手に設えられている。襖絵「四季花卉図」は平和と豊かさを、床の間「梅竹図」は藩主の理想的資質として求められる「高潔と清操」を、帳台構の「牡丹図」は富貴を、それぞれ表している。さらにこの間には、伊達政宗甲冑倚像復元像がある。これらは平成の大修理完了を記念して制作され、平成30年(2018)の藩祖忌において開眼法要が執り行われた後、ここに安置された。
 上々段の間(じょうじょうだんのま)は、天皇あるいは皇族をお迎えするための部屋である。藩主御成の間よりさらに一段高くなり、付書院、違い棚を設え、天井の格子が花菱格子となっている。違棚の「紅白椿図」に描かれた大椿は、32,000年に一つ年輪を加えるとされ、皇室の永遠の繁栄を願ったものとされている。明治9年(1876) 6月明治天皇の東北御巡幸の際に行在所となり、一夜をお過ごしになった。

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秋の東北旅行(5)

庫裡
Photo_20231128055101  庫裡(くり)は「庫裏」とも表記され、仏教寺院における伽藍のひとつで、主として台所の役割を担う建物である。瑞巌寺では、本堂などの館内の拝観は、ここから入場する。正面13.8m、奥行23.6m、切妻造の本瓦葺で、大屋根の上には入母屋造の煙出しがある。
 庫裡は実用本位の建物なので、通常は装飾が施されないが、瑞巌寺では正面上部の複雑に組み上げられた梁と束、妻飾の豪華な唐草彫刻が漆喰上に美しく設えられている。
昭和34年(1959)に国宝に指定さている。

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秋の東北旅行(4)

松島・瑞巌寺
 2日目の朝は、かみのやま温泉の宿を出て、宮城県仙台市の傍を走り、松島湾岸の瑞巌寺に向かった。ここには13年前、東日本大震災の半年前に訪れたことがあった。そのときは、平成20年(2008)11月から平成30年(2018)までを予定していた「平成の大修理」が行われている最中で、拝観ができなかったので、円通院を主に見学したあと、小雨の中を周遊船で松島湾の島々を観たのであった。

瑞巌寺の概要
 道路45号線からほぼ海岸線に直角に瑞巌寺に向かって歩くと、まもなく総門がある。切妻造、本瓦葺の薬医門である。ここから境内に入ると、長い参道がある。Photo_20231127054901
 参道両脇には「忠魂碑」、「鉄道殉職者弔魂碑」などが並ぶ。参道の杉並木も、真っすぐ高く聳えて、壮観である。
 瑞巌寺の正式名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)という。
 平安時代の天長5年(828)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の延福寺であったと伝えるが、事実だという確証はない。
 鎌倉時代、禅に傾倒した鎌倉幕府執権北条時頼は、この寺に来て武力で天台派の僧徒を追払い、法身性西を住職に据え、臨済宗建長寺派円福寺と改め、禅宗寺院に変えたという。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、ついに死に至らしめたともいう。臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。
しかし戦国時代の終わりには、火災によって廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573)ころ、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
Photo_20231127055001  江戸時代に入り、仙台藩を支配した伊達政宗は、自領内の円福寺復興に着手し、慶長9年(1604)から全面改築を行った。慶長14年(1609)5年の歳月を投入した全面的修復工事が完成し、このときから寺の名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改められた。元和6年(1620)から2年を費やして障壁画の制作が行われた。今に伝わる本堂など桃山風の国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営による。
 以後、伊達藩歴代の藩主は、瑞巌寺を厚く保護し、幕末まで隆盛を極めたという。
 しかし、明治維新で、仙台藩(伊達藩)が盟主となった奥羽列藩同盟は戊辰戦争に敗れた。続く新政府の神仏稀釈方針により、瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多くが荒廃した。
 その後の復興としては、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際の下賜金、大正12年(1923)地元民の寄付金、などの支援もあり徐々に修復が進み、さきの大戦後の昭和28年(1953)本堂が国宝に指定された。
 平成20年(2008)11月から、東日本大震災をはさんで、平成30年(2018)まで「平成の大修理」が行われ、平成30年6月落慶法要が営まれた。

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秋の東北旅行(3)

荒川峡と鷹の巣吊り橋
Photo_20231126054701  日本海東北自動車道の荒川胎内ICを出て、国道113号線で東に行くと、景観はそれまでの平野と田園から、山岳と森林とわずかの田園へと大きく変化する。このあたりは、とりわけ過疎化が進んでいる地区であり、また最近は線状降水帯による集中豪雨の被害で、数少ない民家から住人に大きな被害が出たという。復旧に時間を要して、最近ようやく原状に戻りつつあるというが、厳しい環境である。過疎化が進み、産業が期待できない地区なので、行政としても支援が難しいのは理解できる。Photo_20231126054702
 関川村から山形県小国町までの約20kmに渡って続く荒川峡もみじラインと呼ばれる紅葉の名所がある。渓谷のなかの観光スポットとして鷹の巣吊り橋があり、ここでバスから降りて、渓谷を観る機会をえた。ただ、令和5年は吊り橋工事中のため、吊り橋の外観が「工事中」の養生姿となるとともに、通行が制限されている。実際、この橋を渡ると、吊り橋特有の揺らぎに加えて、底板のギシギシという軋み音が聞こえる。少し危なっかしい雰囲気である。
 この鷹の巣吊り橋付近は、新潟県景勝100選に指定されていて、清流荒川、山々の紅葉、さらに風情のあるつり橋を一緒に眺められる絶好の観光スポットであるという。しかし今年は橋の工事中に加えて、今年の夏の猛暑を受けて、紅葉が順調でなく、紅葉になりきる前に葉が枯れる樹木が多いという。
 このあと、山形県かみのやま温泉に移動して、1泊した。

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秋の東北旅行(2)

新発田付近の白鳥飛来
Photo_20231125060201  北陸自動車道を北上し、磐越自動車道と交わる新潟中央ICを過ぎると、高速道路の名が日本海東北自動車道と変わる。この高速道路は未完成で、現在は村上市の朝日地区までのごく短い間しか通じていないが、その入口付近は阿賀野市である。このあたりから、新発田市にかけて、田んぼに毎年冬になると、野生の白鳥の群れが飛来する。新潟県全体では毎年10月頃から3月頃にかけて15,000羽もの白鳥が中国北部やロシアなどの北方から飛来するのである。
 はじめて野生白鳥の飛来が観測されたのは、昭和25年(1950)であった。その後、昭和29年(1954)吉川重三郎(通称白鳥おじさん)が、日本で初めて野生のハクチョウの餌付けに成功した。この年「水原のハクチョウ渡来地」として国の天然記念物に指定された。平成20年(2008)には湿地の生態系を守る国際条約であるラムサール条約の登録湿地に指定されている。

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秋の東北旅行(1)

 残暑が厳しかったこの夏も、ようやく秋らしくなった11月の上旬、3泊4日で旅行会社のバス・パッケージ旅行で東北を訪れた。
 早朝から湖西線・北陸線を走るサンダーバードで金沢に行き、北陸新幹線に乗り換えて上越妙高駅まで鉄道で移動する。そのあとは大型バスによる旅程となる。
 さいわい2日ほどは少し天候が悪化したが、いずれも小雨に収まり、この地方のこの時期としては気温も高めでとても過ごしやすかった。
 下記の地図に、今回の旅程の概要を示す。
 大阪府の自宅を出て、京都府、福井県、石川県、富山県を鉄道で通過して新潟県に入り、ここらかバスで新潟県、宮城県、岩手県、秋田県、山形県を駆け抜ける強行スケジュールであった。それでも荷物はいつもバスに預け、移動に時間的ロスがなく、バスでは眠くなったらうたた寝できるという気楽さがあり、総合的にはとても快適な旅であった。
東北旅行旅程図
①新発田付近の白鳥飛来 ②荒川峡と鷹の巣吊り橋
②松島・瑞巌寺 ④松島から中尊寺へ
⑤中尊寺 ⑥中尊寺から田沢湖へ
⑦田沢湖畔のたつ子像と秋田駒ヶ岳 ⑧角館
⑨立石寺 ⑩五色沼と裏磐梯
⑪大内宿 ⑫湯之上温泉駅から西若松へ
⑬会津鶴ケ城

駿府城とその周辺(9)

静岡浅間神社
 浅間通りは大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)の鳥居が終点となっていて、ここから境内に入る。
 神社の背景には、賎機山(しずはたやま)の茂みが見え、浅間神社がこの山の麓に建っていることがわかる。Photo_20230615060501
 この神社の登記上の宗教法人名称は神部神社(かんべじんじゃ)・淺間神社(あさまじんじゃ)・大歳御祖神社の三社からなり「静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)」は総称なのである。三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。式内社は神部神社・大歳御祖神社の二社で、駿河国総社が神部神社である。三社合わせての旧社格は「国幣小社」で、現在は神社本庁の別表神社に位置づけられる。
 三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。明治21年(1888)三社別々に国幣小社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となったが、現在は一つの法人格となっている。
社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なもので、計26棟が国の重要文化財に指定されている。この社殿群は文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造された。
Photo_20230615060502  境内には昭和50年(1975)から令和3年(2021)まで、静岡市に関する歴史資料を保管・展示する静岡市文化財資料館があった。閉館後は、資料館が果たしてきた役割や展示品は、駿府城公園の隣にできた静岡市歴史博物館に引き継がれ、資料館跡の建物は2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送に合わせて「大河ドラマ館」として整備されている。さらに、神部神社と浅間神社は令和3年(2021)11月から令和7年(2025)3月まで、大規模な保存修復工事が行われている最中であり、今はかなりの範囲が工事の幕で覆われて拝観できない。
 鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地としても知られ、古代より神聖な神奈備山(かんなびやま)としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳も、浅間神社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺(たきょうじ)、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが浅間神社の発祥であるともいわれている。Photo_20230615060601
 当地に鎮座して以来、浅間神社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などが行われた。
 とくに徳川家康は、幼少時に今川氏の人質として浅間神社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていたころから、生涯に渡って浅間神社を篤く崇敬していた。
 家康は、弘治元年(1555)14歳の時、浅間神社で元服を行った。そして天正10年(1582)三河遠江の戦国大名となった家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞たる賤機山城を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの請願を立てたうえで、社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の壮大な社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の慶長12年(1607)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納した。
 以来この神社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下賜されるなど、徳川将軍家から手厚く庇護された。明治初年に至るまでの社領等の総石高は2,313石にも及んでいた。
静岡市には、かつて仕事に関係して何度か訪れていたが、こうして市街を散策する機会はなかった。半日ほどを散策してみて、この地のひとびとの徳川家康に対する、また江戸時代にたいする郷愁と誇りを、そこはかとなく、しかしたしかに感じることができた。

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駿府城とその周辺(8)

浅間通り
Photo_20230614053901  「家康公の散歩道」は「四ツ足御門跡」で終わり、左折して御幸通りに出て、すぐY字路を右の浅間通りに入る。この道は、浅間神社への参道であり、また静岡市のセンター街的な商店街である。おりしもNHK大河ドラマ「どうする家康」にあやかって、ところどころに大河ドラマの幟や「てくてく家康たび」などの標識が立っている。
 浅間神社までの道の途中、商店の前に「山田長政像」がある。
 山田長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物である。通称は仁左衛門(にざえもん)であった。
Photo_20230614053902  このブロンズ像の碑文には、天正18年(1590)ころにここ駿府馬場町の紺屋に生まれた、とある。しかし生地については、他に駿河国の富厚里、または伊勢国や尾張国とする説もあるらしい。
 沼津藩主大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後慶長17年(1612)朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。その後、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わって頭角を現し、アユタヤの日本人町の頭領となった。アユタヤ国王より「オークヤー・セーナピモック」という高い官位を得て高官に任せられ、王女と結婚したという伝説まで生まれたが、シャム側の記録に該当する人物は見あたらず、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。
 長政は、所願成就を感謝して、静岡浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納したという。

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駿府城とその周辺(7)

家康公の散歩道
 東御門をくぐって城から出て、浅間神社に向かう。堀沿いの道を巽櫓の外側の角を曲がると、駿府城公園の石垣を背景に、「家康公の散歩道」と石に刻んだ道標が建っている。この道の途中には、いくつかの歴史的な石碑が立っている。Photo_20230613080601
 「わさび漬け発祥の地」というモニュメント的な碑がある。昭和43年(1968)静岡県山葵漬工業協同組合が建てたと碑文にある。420年ほど前の徳川幕府草創期のころ、安倍川を上流へ30キロメートルほど遡った標高500メートルほどの山間部の有東木(うとぎ)という地で山葵(わさび)の栽培が始まったという。以来、山葵の茶葉の改良のために、土壌改良が着々と進められた。そして江戸時代中期のころ、駿府のわさび商人によってわさび漬けが考案され、駿府城下のひとびとに受け継がれ、改良・進歩・発展してきた。明治維新の後は、交通機関の発達によりわさび漬け産業は大きく発展し、全国的に普及するようになった。
 さらに道を進むと、道の反対側に自然石に「静岡学問所之碑」と刻んだ石碑がある。
 明治維新で江戸城から駿府城に移ってきた徳川家(府中藩)は、早くも明治元年(1868)藩の人材養成を目的として、元定番組頭屋敷(現静岡市民文化会館付近)に「府中学問所」を創設した。明治2年(1869)には、「駿府」が「静岡」に改められたことから名称は「静岡学問所」となり、さらに四ツ足門の元定番屋敷(現合同庁舎一帯、この碑があるあたり)に移った。
Photo_20230613080801  維新直後には、駿府藩は崩壊した旧江戸幕府の元幕臣たちを中心にして構成されていたが、開成所など旧幕府の教育機関に所属していた学者たちも駿府に移住し、旧幕府の蔵書も移された。こうした旧幕府の知的遺産が漢学、国学、洋学を総合した静岡学問所の原動力となり、当時おかれた「沼津兵学校」と並び、高度な水準の教育が実施された。学問所頭には漢学者向山黄村と洋学者津田真一郎(真道)が就任し、『西国立志編』や『自由之理』を翻訳した中村正直(敬宇)は一等教授に就任した。
 明治4年(1871)にはアメリカ人の理化学の学者エドワード・ワレン・クラークが招かれて、物理・化学、さらに哲学や法学などまでも教授したという。
 その後、廃藩置県を経て、明治5年(1872)5月の学制発令施行とともに廃校となり、わずか4年間でその教育活動を終えた。なお、学問所にあった江戸幕府旧蔵書は、現在「葵文庫」と呼ばれて静岡県立中央図書館に保管されている。

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駿府城とその周辺(6)

紅葉山庭園と茶室
Photo_20230612072001  駿府城公園の紅葉山庭園は、駿府城跡の歴史的遺構を背景に、新しく造営された大名庭園のようである。
 入場券を購入して玄関門を入ると、四阿(あずまや)周辺の「里の庭」がある。牡丹、飛び石で巡る梅林があり、八つ橋周辺の花菖蒲と続く花園である。庭園も水辺が近いというのは、やはり潤いがあって気分が落ち着く。
 さらに進んで池の方を見下ろすと、「海の庭」のエリアとなる。箱根越えの石畳を思い出させる玉石の延段と、伊豆の代表的な風景である城ヶ崎・七滝・石廊崎・堂ヶ島・三滝・大瀬崎を池の石組みで表現した荒磯周辺の景観が広がる。州浜が広がる松原周辺は、伸びやかで悠々としている。Photo_20230612072101
 茶畑に見立てたサツキの畝と芝に囲まれた築山は、駿河の国の象徴たる富士山を擬している。紅葉山庭園の中心をなす中腹の展望台からは、庭園全体が見渡せる。また築山足元のゴロタ州浜は、穏やかな安倍川の流れを表現したものとなっている。このあたりは山から里へ、高低の変化も楽しい「山里の庭」である。
 Photo_20230612072102 築山中腹からの斜路は、ツタのからまる樹木が茂る山間の小径へ進む「山の庭」である。この細道を、曲がりくねって落ちる川の流れと紅葉谷を眺めながら行くと、奥には可愛らしい滝がある。Photo_20230612072301
 山の庭の近くに、数寄屋造りの茶室「雲海」がある。日本建築の伝統的様式に則ったこの空間は、現在は茶の湯をはじめ、生け花や句会など、伝統文化に親しむ場として多目的に利用されているそうだ。
玄関を入ると「寄付」「次の間」「広間」と、襖をへだててつながった座敷があり、広間の奥の床の間には、「雲海」と揮毫した掛軸がかけられて、荘重な雰囲気がある。
Photo_20230612072302  3つの座敷の横の入側縁(いりかわえん)からは、ゆったりとした広い庭園から陽光が差し込む。
 入側縁奥に進むと、廊下は細くなり、その奥に「静月庵(せいげつあん)」と名づけられた小さな茶室がある。五畳半の正統的な小間で、時を超えて佇む草庵のような趣がある。
南北に細長い「雲海」の建物の、最南端に少し細長い「立礼席(りゅうれいせき)」の小部屋があり、一般訪問客に対して御茶を振舞っている。私も、お抹茶を一杯いただいた。

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