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散策

鎌倉散策 (7)

円覚寺
 建長寺を出て、北鎌倉駅に向かってしばらく歩くと、北鎌倉駅の前に円覚寺がある。Photo_20200525065701
円覚寺は、鎌倉時代後半、建長寺創建から29年後の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が創建した禅宗寺院である。蒙古襲来による戦争の殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、そして国家の鎮護を祈り禅を弘めたいという願いから建立にいたったとされる。
 開祖は、中国に生まれて12歳で出家し、修行を積んだ無学祖元であった。無学祖元は、文永12年(1275)50歳の時、蒙古(元)の軍隊が南宋に侵入して、温州の能仁寺に避難していたとき元軍に包囲された。しかしそこで無学祖元が「臨刃偈」(りんじんげ「臨剣の頌」ともいう)を詠むと、元軍は黙って去ったと伝わる。
Photo_20200525070001  弘安2年(1279)北条時宗は、中国から無学祖元を招聘して建長寺の住持とし、深く帰依した。弘安4年(1281)、2度めの元の侵入である弘安の役に際して、無学祖元はその一月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫かれ)と書を与えたという。そして弘安の役の翌年、円覚寺の建設に至ったのであった。
 円覚寺もなんども大火に見舞われて、衰微したことがあった。しかし江戸時代末期に、誠拙和尚が出て伽藍を復興し、現在残る円覚寺の基礎がかたまった。明治期には、今北洪川・釈宗演のもとに多くの雲水や居士が参禅して関東禅会の忠臣的存在となり、多くの人々に親しまれて「心の寺」と呼ばれるようになった。Photo_20200525070101
 山門(三門)は、円覚寺中興の祖とされる大用国師誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ)禅師が、天明5年(1785)再建した。掲げられた額の「円覚寺興聖禅寺」の書は、伏見上皇の筆になるものである。
 私はかつて学生時代に一度だけ、京都の臨済宗禅道場に1週間余り禅の実践をしたことがあるが、禅について詳しいわけではない。建長寺にしてもこの円覚寺にしても、具体的に宗教的な感銘を深く感じるわけではないが、人気の少ない禅宗寺院の広大な境内をゆっくり散策するのは、とくに根拠もないままに贅沢で清々しい気分になる。そして、人生の一部ではあったが鎌倉に過ごしたことで、故郷のような懐かしい心の落ち着くことを感じる。これからも、機会があればなんどでも訪れたい場所である。

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鎌倉散策 (6)

建長寺 河村瑞賢顕彰碑と墓地
 建長寺の寺域はとても広くて、境内にはたくさんの塔頭もあり、ハイキングコースに連なる裏山付近もどこまでが寺域なのかさだかでないが、その一隅に河村瑞賢の墓があった。
 河村瑞賢は、元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の農家に生まれた。10歳代前半にして江戸に出て、江戸幕府の土木工事の人夫頭などを勤めつつ懸命に働き、徐々に資産を増やしたという。やがて材木屋を営み、明暦3年(1657)明暦の大火の際に木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負って莫大な利益を得た。そして寛文年間に老中稲葉正則と出会い、以後政商として幕府の公共事業に関わってきた。
 河村瑞賢の功績は、大きくは海運ルートの開拓と河川治水事業である。Photo_20200521082401
 まず海運ルートについては、それまで奥州から年貢米を江戸へ輸送する廻米は、本州沿いの海運を利用して危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。瑞賢は寛文11年(1671)、阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回して伊豆半島下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米する外海江戸廻りの「東廻り航路」を開いた。さらに奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島下田に至り、やはり西南風を待って江戸に廻米する「西廻り航路」を開いた。加えて途中の寄港地を定め、入港税免除や水先案内船の設置を行い、わが国近世の海運の発展に大きな貢献をした。
 河川治水事業については、延宝2年(1674)に発生した淀川の大洪水がきっかけとなり、貞享元年(1684)から同4年(1687)までの貞享期淀川治水事業、続いて元禄11年(1698)から12年(1699)までの元禄期期淀川治水事業を指導し、淀川の河川整備・治水に大きく貢献した。彼は、上流山間部で発生した土砂が川を下って下流の川底を埋めて洪水が発生する、したがって上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべき、と考えてその基本方針のもとで治水事業を実施して成功したのであった。
 ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を始動・実施して、その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛された。

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鎌倉散策 (5)

建長寺
 鶴岡八幡宮に参拝して、本殿から階段を降りずに西側に出て巨福呂坂を経て建長寺に向かう。鎌倉に住んでいたころは私もまだ若く、週末には自宅から由比ガ浜・七里ヶ浜を経てこのさほど急ではないが長くて苦しい巨福呂坂を登り、植木の自宅まで15キロ余りのコースをジョギングしていた。すでに時間が経過して私の記憶も鮮明とは言えないが、道路の景観も少しずつ変化していて、それでもとても懐かしい。Photo_20200519062401
 建長寺の総門に着く。これは近世後期の天明3年(1783)、京都に建立された般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)の門を、昭和15年(1940)に移築したものである。建長寺第十世住持一山一寧の筆になる「巨福山」の額がかかっている。
 この建長寺は、建長5年(1253)鎌倉幕府第五代執権北条時頼が建立したわが国最初の禅宗専門寺院である。正式には「巨福山建長興国禅寺」といい、鎌倉五山のひとつ、臨済宗建長寺派大本山である。
Photo_20200519062402  開山は中国からの渡来僧蘭渓道隆で、彼は中国の高僧無明慧性(むみょうえしょう)を師とし、寛元4年(1246)に33歳で来日した。肖像画を見てもとても聡明そうでなかなかの美貌である。彼は九州と京都に過ごしたのち、北条時頼に請われて鎌倉に来たという。禅風は中国宋時代の純粋かつ厳しいもので、多くの僧を集めて中国文化を広く普及させたと言い、その教えは「法語規則」に残されている。北条時頼自身も深く禅の教えに帰依し、覚了房道崇(かくりょうぼうどうすう)の名をもっていた。Photo_20200519062501
 創建当時の建長寺は、中国宋時代の禅宗寺院の伽藍配置を踏襲し、総門・三門・仏殿・法堂・方丈を直線状に細長く並べ、その両脇に大禅堂・大食堂などを配置するものであった。14~15世紀には、幾度かの大火に見舞われ、建物の多くが焼失した。近世にはいって、沢庵和尚や金地院崇伝などの進言で、徳川幕府が支援して再建・復興が進められた。現代になって、平成15年の創建150周年記念事業によって、ほぼ現在の形に整備された。
Photo_20200519062601  20年余り以前に私は何度となくここを訪れ、さらに代表的なハイキングコースであった「天園ハイキングコース」の終着点であったため、ハイキングのときもこの境内を通過したのだが、当時から少し様子が変わっているらしいことになる。最後に訪れてからずいぶん時間が経過したこともあり、正直なところこまかいところは記憶があいまいなままである。たしかに、こんなに金色が輝く勅旨門は、観た覚えがないと思う。

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鎌倉散策 (4)

鶴岡八幡宮
 銭洗弁財天を出て、半時間ほどのんびり坂を下り鎌倉の市街地に入る。鎌倉駅の周辺は工事中で、かつてあった駅の真下をくぐって駅の東側にでるトンネル通路が無くなっていた。しかたなく駅北側の信号まで歩いたが、途中に「鎌倉六弥太」というお店があり、独自の豆腐を使ったハンバーグを提供するというので、立ち寄ってみた。Photo_20200515061001
 果たして豆腐を合わせたオリジナルのフワフワのハンバーグは、とても美味であった。
Photo_20200515061101  信号を渡って小町通りに出て、お土産の漬物を購入し、若宮大路に出た。ここの段蔓は、数年前に全面的に改修して新しく整備されたいささか現代風の並木と舗装された通路となっている。たまたま大勢の高校生らしい集団とすれ違った。鎌倉に住んでいた時も、こうして旅行で訪れるようになった現在も、ここには何度となく訪れる。若宮大路が少し改修されたり、大銀杏が強風で倒れてしまったり、隣接する県立美術館が廃館になったり、旧跡とはいえ変化は絶え間なく続くが、私にとっての鶴岡八幡宮はほとんど変わりのない落ち着く場所である。この地に生まれたわけでも、人生の大半をすごした場所でもないが、それでも私にとって故郷に準ずる懐かしい落ち着く場所のひとつなのである。
 今回は、かつて県立美術館があったところに新しく「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」がこの春の開館に向けて建物の外観が完成していた。そしてそのすぐ前に「鶴岡ミュージアムカフェ」ができていて、昨年の10月から開業しているということであった。Photo_20200515061102
 まさに最先端のシステムなのだろう、入場するとタッチパネルで注文品を指定して、指示された代金を機械に投入し、発行される品物の引換券を受け取って座席で待つ。やがて注文品の準備ができたとのスピーカーからのアナウンスを受けて、カウンターまで品物を受け取りに行く。喫食を終わり退場するときも、セルフサービスで食器を指定のカウンターに返却する。トイレも常時鍵がかかっていて、顧客はカウンターに申し出て鍵を預かり、自分で開錠・施錠して使用する。
 室内は天井が高く、きれいな内装で快適である。こうして新しいきれいな施設ができたことは、私もうれしい。

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鎌倉散策 (3)

銭洗弁財天
Photo_20200513061401  葛原岡神社がある源氏山公園から佐助を経由して鎌倉駅に向かう途中に、銭洗弁財天宇賀福神社がある。
 巳年の文治元年(1185)、巳の月(旧暦4月)、巳の日に、源頼朝が見た霊夢に、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水が現れ、そこに洞を穿ち社を建てて宇賀神を祀ったのがはじまりと伝えられている。同じく巳年の正嘉元年(1257)北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったことが「銭洗」の始まりだと伝える。Photo_20200513061501
 30年以上も前に、一度父と一緒に源氏山を経由するなんらかのハイキングコースを歩き、この銭洗弁財天を訪れたことを思い出す。私が鎌倉に転勤で転居した後、父の死まで4年弱しかなかったので、今から思えば父の晩年のごくわずかのチャンスに、幸運にもこの地を一緒に歩くことができたという貴重な経験であった。

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鎌倉散策 (2)

葛原岡神社
Photo_20200511063701  梶原の住宅地に出てS字坂を下り、源氏山方面への道に入る。気温は高くないと思うが陽射しが強くなってきて、歩くとわずかに汗ばんでくる。
 道の案内標識は、必ずしもわかり易いものばかりではなく少し回り道もあったが、ともかく葛原岡神社にたどり着いた。ここには何度か訪れたが、あらためて訪れるとずいぶん昔のこと故か印象がかなり改まった。
 お社はごくささやかな小さなもので、それでも凛とした品格を感じさせる。Photo_20200511063801
 ここに祀られているのは日野俊基という人物である。建武の中興として知られる後醍醐天皇の執権の少し前、元弘の乱において捕らえられ処刑されてしまった。後醍醐天皇が文保2年(1318)即位すると、蔵人として側近に仕え、天皇親政実現を目指して鎌倉幕府討幕の謀議に加わった。しかし反幕府勢力の統合・集結は思うようには進まず、正中元年(1324)の正中の変で、同族の日野資朝らとともに逮捕された。処罰を逃れたあと京都へ戻り、元弘元年(1331二度目の討幕計画「元弘の乱」で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられ、ここ鎌倉の葛原岡で処刑された。
 明治維新ののち南朝が正統と認められ、日野俊基は朝廷の忠臣、討幕の功労者として顕彰されるようになり、日野俊基を祀る葛原岡神社が彼の処刑地であったこの場所に建てられ、従三位が追贈された。
 神社に隣接して、その日野俊基の墓がある。

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鎌倉散策 (1)

モノレール湘南町屋から鎌倉中央公園へ
Photo_20200507060801  十数年前まで二十年近く住んだ鎌倉市だが、歩いていないところもまだまだ残っている。今回は、懐かしい天園ハイキングコースや大仏ハイキングコースなど、主だったいくつかのハイキングコースが昨年の台風被害で未だに通行禁止が続いていて、今回はまだ行ったことがなかった鎌倉中央公園を経由するコースを試みた。
 午前9時にモノレール湘南町屋駅に降り立った。おそらく三菱電機へ通勤する人たちと推測するが、意外にモノレールの車内は混雑していた。Photo_20200507060901
 駅からしばらく住宅街を縦貫する道路を登っていく。
 15分ほど歩くと、道の左手に「中央公園入口」との案内があり、左折すると公園の門があった。公園内は、平日の朝でもあり、人はごく少ない。一人でウォーキングをしている人、あるいは犬の散歩をさせている人などにポツポツと出会う。
 公園はかなり広大で、広場や遊歩道の他に田んぼや果樹園もあり、気候の良い時期には一日楽しめるだろう。
 源氏山公園への道に続く梶原方面への出口がなかなかわからず、犬の散歩で来ているひとりの方に聞いた。こうして幸い迷わずに適当な出口にたどり着くことができた。

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野田市郷土博物館と野田市街 (5)

旧野田商誘銀行と茂木本家美術館
 キノエネ醤油から本町通りを南に取って返し、東手に郷土博物館があるあたりよりもさらに少し南下すると、通りの東側に「株式会社 千秋社」の表札と、「近代化産業遺産」のプレートがあるクラシックなビルがある。これは元「野田商誘銀行(のだしょうゆうぎんこう)」の建物であった。Photo_20200505060701
 野田商誘銀行は、この地域の醤油産業の金融のために、野田の醤油醸造業者たちによって明治33年(1900)資本金25万円で設立された銀行であった。したがって株主も融資先も、醤油の関係者が中心の銀行であった。銀行名までも、「醤油」に因んで「商誘」としている。
 堅実経営をモットーとして明治34年(1901)の金融恐慌を乗り切り、大正期に入るころには千葉県でも大手の銀行に成長した。しかし、第二次世界大戦時に戦時政策のため政府に千葉銀行との合併を余儀なくされた。やがてこの建物は銀行業務には使用されなくなったが、昭和45年(1970)キッコーマン系列の株式会社千秋社の所有となった。
Photo_20200505060801  野田商誘銀行は、この町がいかに醤油産業とかかわりが深いかを表わす例のひとつである。これらの他にも、キッコーマン株式会社が寄付してできた学校教育・社会教育のための財団法人「興風会」の建物、「茂木本家美術館」、醸造にかんする研究を行う公益社団法人野田産業科学研究所、などなど醤油産業、とりわけキッコーマンおよび茂木家によって成り立つ活動がいたるところに見受けられる。
 野田市郷土博物館にボランティア・スタッフとして案内をされている人と雑談する機会があったが、ここ野田市はキッコーマン、茂木氏の存在がとても大きく、野田市に長く生活している「地のひとびと」はそれを身をもって知り尽くしているので、その認識の差から新しく入ってきた人たちと折り合いづらいことさえもある、とのことであった。
食品産業という新製品の開発が容易でない、したがって成長速度を改善しにくい業界にかかわらず、こうして地元にとても大きな貢献と影響力を維持していることに、あらためて感銘を受けた。

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野田市郷土博物館と野田市街(4)

キノエネ醤油
 野田市郷土博物館と茂木佐平治邸庭園を訪れたあと、野田市の市街を少し散策した。本町通りに出て少し北上すると、キノエネ醤油の工場がある。Photo_20200501061101
 いささかユニークに響く社名(屋号)の由来は、十干十二支の最初が「甲子」(キノエネ)であることから銘々したものである。
 天保元年(1830)に山下平兵衛が醤油醸造を始めたのが創業である。近代になって、大正6年(1917)に8家合同の野田醤油株式会社が結成され、このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流したが、キノエネ醤油だけは合同に参加せず、現在まで独立した事業者として存続している。
 本社社屋は明治30年(1897)に建設された伝統建築で、作業を行う工場建物も確認できる最古のものが大正10年(1921)建築の鉄筋コンクリート造とされ、これらの建物群は「近代産業遺跡」として歴史的価値が高いと評価されている。キノエネ醤油工場群は、平成19年(2007)経済産業省認定の近代化産業遺産「野田市の醸造関連遺産」として認定されている。

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野田市郷土博物館と野田市街 (3)

茂木佐平治邸庭園
 郷土博物館の建屋の向かいに、茂木佐平治邸庭園への門がある。そして庭園は、茂木佐平治家の屋敷の庭である。Photo_20200429065301
 茂木佐平治家はこの地域の人々から「茂木佐さん」と呼び親しまれて来たというが、「茂木佐家」とも呼ばれ、茂木本家にあたる茂木七右衛門家の初代の二男が分家独立した家で、当初は穀物商であったが、第3代茂木佐平治は天明2年(1782)から醤油醸造をはじめた。茂木佐家の登録商標(「本印」と呼ばれた)が「亀甲萬(きっこうまん)」であり、これが現在の「キッコーマン」ブランドにつながる。
1_20200429065501   この家は以降も常に野田で最有力の造醤油家の一角を占め続け、4代目の天保9年(1838)には幕府御用醤油造の下命があった。また4代目、5代目は地代官をも務めた典型的な豪商農であった。
 大正6年(1917)野田と流山の醸造家8家が合同して「野田醤油株式会社」を創設したが、そのときこの「キッコーマン」印がこの新会社の本印となった。2_20200429065501
 この邸宅は、大正13年(1924)建てられた。のちに野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)に所有が移され、昭和31年(1956)10月に同社の創立40周年記念事業として、郷土博物館建設資金とともに宅地と建物が野田市に寄贈された。
 折しもこの建物を建設している最中に関東大震災(大正12年9月)があり、建物の基礎や土台は一段と強固に設計しなおされたという。
 現存の建物は平成9年(1997)国の登録有形文化財に、庭園は平成20年(2008)県内初の国登録記念物に認定された。

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