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散策

鎌倉歴史文化交流館

 鎌倉歴史文化交流館は、平成29年(2017) 5月に開館した新しい鎌倉市の施設であり、私にとっては初めての訪問であった。

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 この地はかつて無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれた谷戸で、鎌倉幕府御家人の安達氏ゆかりの無量寿院という大きな寺院があったと言われている。江戸時代には刀工正宗の末裔である綱廣の屋敷があったと伝えられている。大正時代には三菱財閥の岩崎小弥太が別荘を構えていた。Photo_20190713061601
 鎌倉歴史文化交流館の敷地及び建物は、一般財団法人センチュリー文化財団等が所有していたが、2013年に鎌倉市に寄贈された。建物は、イギリスの建築家ノーマン・フォスターが代表を務めるフォスター・アンド・パートナーズが設計した「Kamakura House」として、個人住宅として2004年に竣工したものである。遠くから見たときは、キュビックな鉄筋コンクリート造かと思ったが、コンクリートではなく、大理石を多用した贅沢な建造物である。
Photo_20190713061602  展示場はすべて1階のみで、本館に3つ、別館に2つの展示室があり、それぞれ鎌倉の通史、中世、近世・近現代、特別展として鎌倉の災害時の展示、そしてコンピュータを使ったヴァーチャル・リアリティらよる永福寺(ようふくじ)の再現シミュレーションが展示されている。
 とくに、永福寺のVRは非常に印象深いものであった。 Photo_20190713061501
 文治5年(1189)9月の奥州合戦を契機に、源頼朝は源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめるため寺院の建立を発願し、その年12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の動員があったことが『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月に本堂が完成し、落慶供養が行われた。しかし、応永12年(1405)の火災に見舞われ、やがて廃絶してしまった。
 昭和58年(1983)から跡地の調査が開始され、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40~70メートルの園池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊をもつ中心伽藍があったことが確認された。この伽藍全体の空間構成は、無量光院をモデルにしたものと考えられている。現在、永福寺跡の周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっていると推測されている。

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七里ヶ浜海岸沿い (2)

稲村ヶ崎
 江ノ電七里ヶ浜駅から、またひと駅だけ電車に乗り、稲村ヶ崎駅でおりた。Photo_20190707061201
 ここも私には、とても懐かしいところである。もう20年近くも前にここを訪れて書いた短い文章があるので、引用しておく。展望台や新たな石碑が追加されたりして岬の雰囲気が少し変わり、公園のような形に整備されている。しかしここから見る七里ヶ浜と江の島の景観は以前の、あの時のままである。

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 天気予報では終日雨ということで、久しぶりに滞在している鎌倉のわが家にゆっくりくつろぐつもりだったのに、朝から思いがけず快晴である。 落ち着いていられず、そそくさとひとり江ノ電に乗って出かけた。稲村ヶ崎は、海岸縁をジョギングするときに、いつも通過するところで、私にとっては十分なじんでいるつもりの場所だ。しかし、いつも稲村ヶ崎の付け根の、切り通しの舗装道路を走り過ぎるだけなので、今日はゆっくり岬の先端まで歩いて、展望台を散策することにした。
  展望台から西の方角に相模湾を見る。視界の中央には、江ノ島のトンボリの砂州の上に掛かる橋が見え、その真上に半分雲がかかった富士山が浮かび上がって大きく見える。左下手には、深緑の森に覆われた江ノ島があり、真ん中に小さく鉄塔が見える。右手の江ノ島対岸には、七里ヶ浜海岸がゆったり蛇行して続き、海岸に沿ってゆるい3の字を描いて道路が走る。その道路には、いつものように自動車がきれめなく連なっている。緑も、海も、海岸の砂も、道路も、道路を走る自動車も、すべて春の暖かい日差しを浴びて光っている。Photo_20190707061001

  海は、ここでは優しい風と遠浅のためか、あくまで穏やかだ。沖あいから寄せるわずかな波は、やがて白い優しげな波頭を作るが、渚に近づいても急激に形を変えることはなく、徐々に白い絨毯を押し広げるように、白い面を成長させ、ゆっくりと岸に進む。波間には、ぽつぽつとサーファーが散らばり、波に遊んでいる。沖合には、ヨットがところどころに浮かんでいる。ほとんど雲もない晴れわたった青空を映した真っ青な水面に、暖かい日差しが注ぎ、きらきら光っている。風はゆるやかで暖かい。
  この風景は、そのままいっぷくの絵のようだ。しかし、絵に描いたり、写真にとったりすると、この広がり、匂い、風の心地よさが、なかなか表現しがたいだろう。正午付近のひととき、ぼんやり贅沢な時間を過ごした。

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七里ヶ浜海岸沿い (1)

満福寺と七里ヶ浜
Photo_20190705063101  江ノ電江ノ島駅から電車に乗り、ひと駅めの腰越駅で降りる。江ノ電の名物区間である龍口寺前の路面電車走行区間をもう一度乗ってみたかったのである。
 腰越駅から海岸に行く途中に、満福寺がある。開山はかなり古く、天平16年(744)行基によると伝える。この満福寺は、元暦2年(1185)5月、源義経が兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められたときに、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られている。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が所蔵され、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々がある。2_20190705063101
 満福寺を出て、海岸に向かう。この海岸は若いころ週末の休日にジョギングしたコースであった。転勤で鎌倉に住むようになり、たまたまこの海岸沿いの道を散歩したが、天候の良好な日は体感が快適であるうえに景観が素晴らしく、なんども繰り返し散策した。やがて歩くには距離が長すぎて所要時間が長すぎることから、駆け足を始めた。そうこうするうち、ジョギングの服装で全コース15キロメートルほどを走るようになったのであった。
 モノレール江ノ島駅から、腰越、鎌倉高校前、七里ヶ浜、稲村ケ崎、由比ガ浜を経て、鶴ケ丘八幡宮の参道に入り、八幡宮境内から巨福呂坂(こぶくろざか)に出て小坂、山崎、植木までのコースである。真冬の厳寒期と真夏の炎天下を除けば、これ以上ない絶景の連続で、夢のような心地よいジョギングであった。

Photo_20190705063201  この度、十数年ぶりに七里ヶ浜を見下ろす道路の海岸側を、かつて走ったコースで歩こうとしたが、道路の内陸側に以前より拡幅した歩道が設えられたしわ寄せか、海岸側には歩行者が歩くことができる余裕がなくなり、ジョギングどころか歩行すら危険になっていた。月日が経過すると、少しずつ環境は変わるものであることを改めて知った。

江の島 (5)

児玉神社
Photo_20190703063202  稚児ケ淵から、帰路をほぼもと来た道をとって返す。稚児ケ淵から山ふたつを通過して頂上広場までは、当然ながら急な石段を連続して上ることになり、早春とは言えかなり汗ばむことになった。
 中津宮広場から、来た道と違う下りの石段を下ると、児玉神社に行く分岐がある。児玉神社に向かう人はごくわずかで、ここから児玉神社まではずいぶんひっそりしていた。
Photo_20190703063001  児玉源太郎は幕末に長州支藩徳山藩の中級武士の子として生まれ、父の早世、そのあと養ってくれた義兄の暗殺死など、不遇と困窮のなかに幼少期を過ごした。やがて明治新政府を指導した長州の軍に参加し、戦功を重ねて頭角を現した。明治31年(1898)から8年間、台湾総督を勤め、後藤新平を見出し抜擢して活躍せしめ、台湾統治を成功に導いた。Photo_20190703063201
 明治37年(1904)の日露戦争開戦時には、台湾総督と内務大臣を兼務していたが、陸軍参謀本部次長の急死などで、急遽大山巌参謀総長の懇請を受けて陸軍参謀本部次長に就任した。有名な旅順作戦などに戦功を重ね、日露戦争後には陸軍参謀総長に就任した。軍功においても、政治においても多くの尊敬を集めた人物であった。
 参道には、児玉顕彰のための後藤新平の詩碑がある。台湾統治時代の上司であった児玉源太郎を、文武の功績と忠孝の徳を深くたたえて漢詩を奉納しているのである。石碑がならぶなか、日露戦争の激戦地であった203高地の石も置かれている。
 神社は、大正10年(1921)創建され、勝運の神として崇敬を集めてきた。社殿は台湾から贈られたヒノキで造られ、鳥居と狛犬は台湾産の石が使用されている。

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江の島 (3)

  江の島の頂上を経て奥津宮へ
Photo_20190630095601     中津宮を過ぎてしばらく石段を上ると、江の島シーキャンドルと名付けられた天望灯台がある頂上広場に着く。この一角に「一遍上人の島井戸」の碑がある。鎌倉時代に時宗の祖であった一遍上人がここを訪れ、この地の人々が飲料水に窮しているのを救うために掘り当てた井戸であると伝えられている。水は今でも湧き出るという。また「一遍成就水」と一遍上人が自ら書いたと伝える額が、江島神社に残っているそうである。行基といい、一遍上人といい、昔の高僧は日本のあちこちを実にくまなく歩き回ったものである。
Photo_20190629061901   頂上の広場から西の方角に少し降りたところに「山ふたつ」という立て札がある。これはは、辺津宮や中津宮、そして港などがあるメインランドたる東島の部分と、これから行く江の島西側の奥津宮や稚児ケ淵などがある相対的に小さな西島との境目である。海面が鋭く陸地にせり込んでいて、二つの陸地の間に海が開け、ひとつの景勝になっている。 Photo_20190629062002
断層に沿って海蝕されてできた海蝕洞が崩落してできた谷であり、両側が高くなっているので、このように呼ばれてきたという。東島側の崖面には、赤茶色の地層が見えていて、これは箱根・富士山の火山灰が堆積した関東ローム層であるとされている。
 山ふたつを過ぎて奥津宮、さらに稚児ケ淵に至る急な下り坂は「御岩屋道通り」と呼ばれている。稚児ケ淵の奥にある「江の島岩屋」に通ずる道だからである。しかし現在は安全上の懸念から江の島岩屋は閉鎖されている。
Photo_20190629061902  御岩屋道通りを少し進んだところに「奥津宮」がある。その社殿の前の鳥居は、いまではコンクリート造の鳥居だが、もとは源頼朝が寄進したと伝える鳥居である。『吾妻鑑』によると、養和2年(1182)頼朝は、奥州平泉の藤原秀衡を調伏するために、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁財天を江の島岩屋に勧請し、参詣のときに鳥居を寄進したと伝える。平成16年(2004)の台風で破損し、全面的に建て替えたものである。ただ、様式はわかっている範囲でかつてのものに従っているという。
 さてその奥津宮だが、ここには宗像三女神のうちの「多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)」を祀っている。江戸時代まで本宮御旅所と言って、岩屋の御本尊をこの奥津宮に移し、4~10月の間に台風などで海岸崖の岩屋に波浪が入り込み本尊が水浸し、あるいは流出するのを避難していた。社殿は、天保12年(1841)全焼し、その翌年に再建されたときに現在の様式である入母屋造りとなった。平成23年(2011)に全面改修を経ている。Photo_20190629062101
 拝殿の天井の絵は、「八方睨みの亀」と呼ばれるもので、どの方向から眺めても亀が睨みつけているように見えるという。江戸時代の高名な画家であった酒井抱一が描いた絵である。

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江の島 (2)

辺津宮と中津宮
Photo_20190627060801  弁財天仲見世通りの商店街を抜けると、目の前に朱色が鮮やかな鳥居が見え、鳥居をくぐってすぐの急な石段のうえに竜宮城を連想させるような、どこか中華風の「瑞心門」がある。
 ここをくぐってさらに石段を上ると「辺津宮(へつのみや)」の社殿に着く。
 江の島には、辺津宮・中津宮・奥津宮の3つの宮があり、これらが「江島神社」を構成している。この3つの宮は、それぞれ宗像三女神を祀り、このうち辺津宮は田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)を祀っている。社殿は、もとは僧良真が建永元年(1206)遷宮したと伝えるが、現在の社殿は昭和51年(1976)に改修されたものである。Photo_20190627060901
 辺津宮を過ぎて八坂神社の前を通り過ぎると、絵の島港を見下ろす天望台がある。そのすぐ手前は「中津宮広場」というお花畑となっている。ちょうど春の草花が色とりどりに咲き誇っていて美しい。展望台から見下ろす港の景観も、絶好の快晴の中、海面が青く輝いてとても美しい。
Photo_20190627061001  中津宮広場から石段を上がったところに「中津宮」がある。鮮やかな朱色のお社である。ここは宗像三女神のうちの「市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)」を祀る。仁寿3年(853)に、慈覚大師が創建したと伝える。江戸時代の元禄2年(1689)に再建され、さらに平成8年(1996)に大改修を経て、現在の姿になった。江戸歌舞伎の中村座と市村座から寄進された石灯篭が残っていて、江戸時代に江の島参詣が盛況であったことを偲ばせている。

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江の島 (1)

江ノ電江ノ島駅から江の島まで
 私たち家族が鎌倉に住んでいたのは15年以上も前であるが、当時はときどき江の島を訪れることがあった。この度、久方ぶりに江の島を散策した。Photo_20190625060201
 江ノ電江ノ島駅は、大きく変わったとまでは言えないまでも、随所にマイナーな改装がされて、きれいになっている。
 駅から江の島弁天橋までの小路も、たしか以前はこんなに小ぎれいに舗装されていなかったように記憶する。
Photo_20190625060401  この途中に「江の島弁財天道標」が建っている。先端部は少し損傷しているが、四角錐の頭頂部を持つ四角柱で、正面に弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」と彫り込まれ、右側面には「一切衆生」、左側面には「二世安楽」と記されている。江の島弁財天に参拝するすべてのひとびとの、現世・来世の二世での安楽を願うものである。このような道標は、藤沢市の内外で十数基が残っていて、そのうち藤沢市内の12基が市重要文化財に指定されている。もともとこれらは、この地で「菅鍼術」という管を併用して鍼を刺す施術法を開発したとされる杉山検校という鍼灸師が建てたという。20
 この小路を数分歩くと、海岸に着き、江ノ島のトンボリの砂洲の上に架かる江の島弁天橋に着く。江の島は、三浦丘陵や多摩丘陵と同じく第三紀層の凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質構造をもつ、周囲4キロメートル、標高60メートルほどの陸繋島である。遠い昔は、引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなった。大正12年(1923)の関東大地震で島全体が隆起して以降は、ほぼ地続きとなった。対岸の片瀬川河口付近の形状が時代とともに変遷し、満潮のときのみ冠水した時期や、常時陸続きとなった時期があり、砂嘴の位置も少し移動している。
 江の島弁天橋を渡ると、弁財天仲見世通りの商店街となる。このなかに江の島郵便局があり、その建物の前には、明治20年ころの黒い郵便ポストが建っている。

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スカイツリー (2)

  スカイツリーからの展望
Photo_52  スカイツリーの展望室は、構造上360度の眺望というわけではなく、北方向から東方向の間は多少見えない角度がある。説明板やパンフレットの図と眼前の眺めを比較しつつ、見える対象を照合しようとするが、なかなか容易ではない。
 ゆっくり展望室を1周してから、今度はより高い450メートルの天望回廊に上る。しかし率直な実感としては、350メートルから450メートルまで、100メートルさらに上がっても、景観の印象には大きな差がないように思えた。もちろんいずれも値打ちある景観だけど。Photo_54
 ここからほぼ真北の100キロメートルあまり先には、日光があるはずだという。その背景に男体山や赤城山らしい山影がうっすらと見えるようにも思えるが、定かではない。それらのはるか手前では、北西から南東に向けて流れる荒川の大きな流れがあり、そこに向かって北上して荒川の手前間近で西に急カーブを描く隅田川が見える。今では、荒川の手前は高層ビルが林立し、荒川の向こう側にも多数のビルが立て込んでいることに改めて感銘を受ける。
 西方向には、真下にアサヒビールの黄金のモニュメントがあり、隅田川の対岸には浅草寺の建物と仲見世も見える。上野公園と皇居の緑地の拡がりも見える。その右奥には、新宿副都心の高層ビル街があり、ビルの多い東京市街地のなかでも、とりわけ高層ビルが多いのがわかる。
 早春の絶好の快晴に恵まれて、のんびりと展望室から下界を眺めて回っただけでも、十分満足できたひとときであった。

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スカイツリー (1)

 東京に出かける機会があり、当初は別の訪問先を予定していたが、たまたま快晴との天気予報に予定を変更して、はじめてのスカイツリー訪問となった。

スカイツリーへの行程と富士の眺め
 地下鉄浅草駅から京浜急行線に乗り換えて、スカイツリー最寄りの押上駅に向かう。Photo_50
 浅草駅からは、スカイツリーが間近に見える。私は中学1年生の夏休みに初めて東京に来て、東京タワーを見た。そのときは東京タワーが建ってからまだまる3年が経っていなかった。当時はビルの高さは31メートル以下に規制されていて、東京市街といえどもせいぜい8回建てのビルしかなかったので、東京タワーは大東京の市街地にさっそうと聳え立つ、とても高い、とてもインパクトの大きい建造物であった。その思い出に比べると、たとえ視角による錯覚とはいえ、現代のスカイツリーは、高さが東京タワーの2倍近くあるにも関わらず、高層ビルの間から覗くことのできる、なにか可愛らしい塔という印象である。
Photo_51  押上駅の地下コンコースには「Tokyo Skytree Town」の看板を掲げた回廊があり、そこから地上4階までエスカレーターで上ると、スカイツリー入り口に着く。スカイツリーには、地上高350メートルの「天望デッキ」と地上高450メートルの「天望回廊」の2つの展望施設がある。まずは入場券を購入して「天望デッキ」まで、長い高速エレベータで上る。
 地上高350メートルまで上ると、たしかに遠くまで眺望が開ける。少し春霞のためか、うっすらと霞がかかっているけれど、南西方向にはるか100キロメートルかなたの雪を冠った富士山が見える。
 その左手の方に、8キロメートルほど離れている東京タワーが見える。これは高層ビルに挟まれて、塔の上部のみが覗いているという感じである。

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2019年の京都花見

Photo_41   今年は3月下旬から暖かくなって、開花は例年より早かった。ところが開花の半ばで急に寒の戻りがあって、桜花があたかもフリーズドライのように凍結されて、満開までにかなり時間がかかった。結果として桜を愛でる期間は2週間ほどにおよび、ゆっくり桜を楽しめる春であったとも言える。
平野神社と京都の桜
   京都に平野神社を訪れた。阪急電車京都線の大宮駅で降りたち、京福電鉄に乗り換えて帷子ノ辻駅からさらに北野線に乗り換える。終着の北野白梅町駅までの間に、有名な桜のトンネルをくぐることになる。しかし、桜のシーズンの最中には、車中の桜のトンネル鑑賞に好都合な場所は、早くから大勢の乗客に占領されてしまって、事情を知らずにのんびり座席にすわった私たちは、大勢の人々の頭ばかりを鑑賞することになった。
Photo_42  北野白梅町からは、10分あまり歩いて、ようやく平野神社に着いた。
 平野神社は、由緒によると創建は平安京のはじめに遡る。もとは奈良の平城京に、桓武天皇生母の高野新笠の祖神、つまり桓武天皇外戚神として祀られた神祠があった。それが平安京遷都にともない大内裏近くに移し祀られたのがこの御社だという。平安時代には例祭として「平野祭」が執り行われ、皇太子自ら奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から、氏神として崇敬された。
 現在の本殿は4殿2棟からなる「平野造」と称される独特の形式の造りで、国の重要文化財に指定されている。現在は、江戸時代前期寛永年間(1624-1644)に西洞院時慶によって再建された建物が残っている。1_3
 境内に着くと、さっそく多数の満開の桜に囲まれた。この神社は、ソメイヨシノ以外の品種もバランスよく植樹されていて、1か月弱ほどの長い期間にわたって桜花が楽しめるのが特長だという。でも今回は、ソメイヨシノの満開時に訪れたので、普通の花見と同様に、専ら満開のソメイヨシノを楽しむことになった。
 境内のなかに、花見専用に特別の区域が仕切られ、料金を支払って入場するようになっている場所がある。せっかく来たので、迷わず入場したが、たしかに立派な桜花があるのだが、この場所以外も負けず劣らず立派な桜花が並んでいる、というのが率直な感想である。
Photo_46   桜木は樹木の中では、比較的寿命が短いという。とくに日本の桜の代表であるソメイヨシノは、寿命が40年くらいで、だいたい30~50年ごとに植え替えるのだそうだ。こうして見つめている桜も、私が若いころに植樹されたものだということになる。思えば、こうして眼前に愛でている桜は、私と同じ時代を生きてきた桜木なのである。私も喜寿を超えて、死期を考えるようになった。自分と同じ時代をともに生きた桜木と思うと、親近感を感じて愛しさも一入である。おたがいこれまで生きてこられたんだね、と語りかけたい気がするのである。
 この日は、平野神社のあと隣接する北野天満宮を訪れ、そこには桜はなかったが、帰り道で阪急電車河原町駅近くの、高瀬川沿いを少し散策したところ、満開を少し過ぎて散り際の美しい桜花をゆっくり見ることができた。
 こうして今年も桜を存分に楽しむことができたことを、天に感謝したい気持ちである。

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