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散策

ブリテン島周遊クルーズ (62)

トリニティ礼拝堂とブラック・プリンスの墓など
 聖歌隊席を奥へ進むと、大聖堂の端に突き当たり、そこがトリニティ礼拝堂である。Photo
 ここは1220年から1538年まで、聖トマス・ベケットの廟が祀られていた。ステンドグラスは12世紀のもので、聖トマスにかんする奇跡や物語が描かれているというが、私たちにはよくわからない。
 トリニティ礼拝堂から側廊に向かうとすぐのところに「ブラック・プリンスの墓」が鉄の柵に守られて安置されている。ブラック・プリンスとは、「エドワード黒太子(こくたいし)」と呼ばれ、1330年イングランド王エドワード3世の子として生まれ、16歳にしてフランス王フィリップ6世の軍と白兵戦を戦い勝利するなど、早くから優秀な軍人として活躍した王子であった。45歳で病死したとき、まだ父王が健在であったため、王にはならなかった。
Photo_2 さすが連合王国の国教の総本山で、すべての規模や装飾が抜きんでている。オーディオ・ガイドを聞きながら歩くだけでも、ずいぶん時間がかかる。
 聖堂の見学を終えて大聖堂を出て、境内の庭園でひと休みしていたとき、私たちが座っていたベンチに、ひとりのおばあさんが、端の空き席に座っても良いか、と尋ねてきた。もちろん結構です、と答え、ついでにしばし話ができた。彼女は、このカンタベリーの住人であった。彼女の古い友人のひとりに、最近仕事をリタイヤーした日本人女性がいて、少し前にベルギーを訪れたのちに彼女の自宅を訪れて1週間ほど滞在し、付近を観光して帰ったという。その日本人は、イギリスをたいへん気に入って、できたらしばらくの間住んでみたい、と言ってくれた、と。自分もぜひ日本を訪れてみたいが、残念ながらまだ果たしていない、と。ゆっくりきれいな英語で話してくれたので、私にもわかり易かった。彼女の日本に対する印象はとても良くて、日本人は穏やかで礼儀正しく、親切だと思っている、と。この日本人への好感は、彼女が遭遇したその日本人の方々の態度のお陰である。こうしてまた、地元の人とゆっくり話せたのは幸運であった。[完]

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ブリテン島周遊クルーズ (61)

カンタベリー大聖堂 ベルハリー・タワーと聖歌隊席の門
Photo 地下聖堂を周囲をめぐって、入った時と反対側の階段から登って、再び地階に出ると、上にはベルハリー・タワーの丸天井が見える。繊細な扇形を組み合わせた美しい天井である。
 その下に、大理石で造られたとても大きな、奥行きも大きな門がある。これは14世紀に造られたという。

Photo_2
 この門をくぐると、聖歌隊席(クワイヤ)に入る。ここの聖歌隊席はとても大きく、両脇の聖歌隊にはさまれて、多数の信者たちがここに入り、正式な礼拝を行う場所となっている。12世紀に大火災にみまわれ、いったんほとんどが崩壊してしまったが再建され、現在は、ゴシック様式の壮麗な内装となっている。

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ブリテン島周遊クルーズ (60)

カンタベリー大聖堂 地下聖堂(クリプト)
Photo 殉教の場から脇の階段を降りると、大きな地下聖堂(クリプト)に行く。ここは祈りを捧げ、黙想を行う静かな場所であり、中心部は撮影も禁止されている。
 この部屋は、カンタベリー大聖堂のなかでも最も古い部分で、11世紀のロマネスク様式(ノルマン様式)が今に残っている。半円型のアーチ、丸みのある天井、装飾が施された円柱などが特徴である。
 1170年の暗殺事件直後から1220年までの間、トマス・ベケットの遺体はこの場所に埋葬されていた。
 この日も、静かに祈る信者が何人もいて、キリスト教者でないものには少し憚られるような、荘厳な厳しい雰囲気があった。

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ブリテン島周遊クルーズ (59)

カンタベリー大聖堂 大司教トマス・ベケットの殉教
 1170年、この大聖堂のなかで、悲惨な事件が発生した。ときの大司教トマス・ベケットが、4人の騎士に突然殺害されたのである。
 フランス出身のイングランド王ヘンリー2世は、ノルマンディー公を兼帯して、長い内戦で疲弊していたイングランドを安定させた有能で学識に優れたエネルギッシュな王であった。彼は、トマス・ベケットを腹心とし、息子のヘンリー(若ヘンリー)の家庭教師をも任せるほど、信頼し愛顧していた。
 ヘンリー2世は王による教会支配を強化するため、また政教関係の難しい調整をさせるため、トマス・ベケットを1162年にイギリスの総司教座につかせた。しかしトマス・ベケットは、宗教と政治の関係にかんする限り、実はヘンリー2世の方針に真っ向から反対していた。大司教となったトマス・ベケットは教会の自由を主張し、ことあるごとにヘンリー2世と激しく対立するようになった。トマス・ベケットは1164年、国外追放に処せられた。
 1170年、イングランドに帰国したベケットは、直ちに親国王派の司教たちを解任した。これに対し、国王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士が、ヘンリー2世に無断で、カンタベリー大聖堂においてベケットを暗殺してしまった。ヘンリー2世が「あの厄介者を、誰か始末してくれないものか」と口走ったのを伝え聞いたともいわれている。その暗殺現場となったのが、ベルハリー北側の小さな部屋で、殉教の場(マータダム)として不気味な「剣先の祭壇」が設えられているところである。

Photo
 この事件で人々はベケットを殉教者とみなして深く崇敬するようになり、ローマ教会は即座にトマス・ベケットを列聖した。ヘンリー2世は追い詰められ、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額づき懺悔をするとともに、ローマ教皇に降伏しなければならなくなった。この事件はさらに、ローマ教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反、さらには十字軍派遣問題まで招いたのであった。

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ブリテン島周遊クルーズ (58)

カンタベリー大聖堂の発祥
 いよいよ大聖堂に入る。私たちが訪れたとき、大聖堂は大修復の最中であり、外壁の養生や天井などへの木材や布幕の覆いなどがあり、すべての様子を見ることはできなかった。Photo
 596年、聖アンドレアス修道院長であったカンタベリーのアウグスティヌスは、教皇グレゴリウス1世の命により、サクソン人が治めるケント王国への布教のために、約40人の修道士とともにイギリスへ派遣された。597年、ケント王国の王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められた。アウグスティヌスはその年に初代カンタベリー司教に任ぜられ、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施し、翌年にはカンタベリー大司教に叙階された。601年、聖マルティンを記念してカンタベリーに建設されていた教会を復興するとともに、カンタベリー東方には後に聖アウグスティヌス修道院として知られる建物を建てた。
Photo_2 カンタベリーのアウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入したが、慎重にイングランドの国情・習慣をよく尊重した。これはグレゴリウス1世の指導によるもので、すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会の影響を考慮したのであった。
 11世紀はじめ、ノルマン朝を興したアングロ・ノルマン人であるウィリアム1世は、アングロ・サクソン式の典礼や聖堂を嫌い、新たにロマネスク様式の大聖堂の建設を命じた。ウィリアム1世の死後の1130年、カンタベリー大聖堂が完成した。
 入場すると、ここも日本語をカバーするオーディオ・ガイドがある。あわせて、大聖堂の案内パンフレットに英語版と日本語版がある。あとで気づいたが、日本語版は、パンフレットもオーディオ・ガイドも、ともに英語版より改定が遅れていて、案内対象に記されている附番号がいくつかずれていて、混乱した。日本人の立場からは、もっとしっかり維持管理してほしいと思うが、多数の言語につねに対応するのは教会側も大変だろうとも思う。
 ひときわ広く大きく高い身廊の天井から、修復中のためなのか、いささか場違いのようなモダンな電球が多数並んで吊り下げられている。
身廊から聖歌隊席へ向かう境界付近の中央で、驚いたことに大きな三脚を立てて一眼レフカメラで、我が物顔に妻かガールフレンドかとおぼしき若い女性と、大きな声を掛け合いながら長々と写真を撮り耽っている不届きな若い中国人がいた。中国人のすべてがこのようだとも思わないが、マナーをまったく顧みない傍若無人な者がしばしばいて、世界中の人々の強い顰蹙を買っていることも事実である。同様な所業を、私も仕出かしたりすることが決してないよう、改めて心を戒める思いであった。

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ブリテン島周遊クルーズ (57)

カンタベリーの駅からカンタベリー大聖堂へ
Photo クルーズ船は、ドーバー港に降ろしてくれるという。ドーバーはホワイト・クリフ以外にはさほど目ぼしいものも知らないので、少しだけ脚を伸ばして、イギリス国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂を訪れることとした。前日クルーズ船のカスタマーサービスで、港からドーバー・プライオリー駅まで行く交通手段について問い合わせたら、桟橋からバスが出ていて、一人5ポンド(750円程度)だという。4人で20ポンドになり、2km程度にしてはずいぶん高いな、との印象であった。
 ドーバー港に着くと、この港の建物はずいぶん大きく、かなり歩いてようやく外に出た。カスタマーサービスの言うとおり、バスが待っているが、これはまたクルーズ船会社との親密な提携が明白である。ちょうどタクシーも少数ながら待っていたので、4人でもあり、タクシーで行くことにした。ドーバー・プライオリー駅まで10分あまり8ポンドで済んだ。Photo_2
 ドーバー駅から、列車でカンタベリー・イースト駅まで乗車する。車中では、またフリーWi-Fiとスマホが活躍する。
 カンタベリー・イースト駅から、カンタベリー大聖堂まで、かつてカンタベリーの町を囲む壁であったシティ・ウォール要塞の上をたどって歩く。さすがにカンタベリー大聖堂に行く人が多いのか、私たちの周囲にも何人かの歩行者が常にいる。シティ・ウォールは日本にはないが、ヨーロッパの旧市街にはよくある光景である。ここでは壁のところどころに、見張ったり射撃したりするのに好都合な、小屋のような構造物がある。
Photo_3 町に入るとますます人が多くなり、同じ方向に歩く人たちが多かったので、少し安心して、あまり自分の位置を確認しないまま進んだが、少し不安になった。マップを示して現在地を通行人に聴くと、市街のメインストリートを行き過ぎていたことが判明した。やはりはじめて訪れる場所は、基本に忠実に、ストリート名を丁寧に確認しながら歩くべきだと、改めて反省した。
 ようやくメインストリートから折れるべき交差点を見極めて、カンタベリー大聖堂の入り口に来た。やはり入場希望者は多く、長い待ち行列ができていた。
 私たちのすぐ後ろに、同じクルーズ船のカードを胸に下げた4人の家族連れがいた。声をかけると、アメリカのテキサスから来たという。夫は白人だが、妻はかなり濃い色の黒人だ。いずれもかなりのインテリのようだ。ご夫婦ともにとても気さくな人で、待ち行列で待つ間いろいろ話ができた。彼らは家族連れでもあり、1台タクシーを借り切って、港からホワイト・クリフ、カンタベリーと、順次周遊しているという。それはなかなか良いアイデアですね、私も2度ほどテキサスに行ったことがあるが、テキサスはアメリカの中でも、人々のテキサス人としての独立意識が強いらしく、独特の雰囲気だ、というと、にっこり頷いていた。この人たちは、私たちがこの日の帰り道の途中、ドーバー港の近くを歩いているとき、チャーターしたタクシーのなかから、手を振って声をかけてくれた。

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ブリテン島周遊クルーズ (56)

ドーバーのホワイト・クリフ
 いよいよこの度のクルーズ旅行の最終日程となった。朝起きて、バッフェ・スタイルのレストランに行くと、眼前に大きくホワイト・クリフが広がっている。
 ブリテン島の東南端ドーバー海峡に面している有名な断崖である。ロンドン南方の低丘陵地帯ノース・ダウンズの東端にあり、断崖の高さは110メートルもあり、なかなか壮観である。断崖は主に白亜(白ないし灰白色の軟質泥状の石灰質岩石細粒)で構成されているため白く輝いて見え、所々に黒いフリント(燧石)が混ざっている。断崖の一部が途切れ、そこにドーバーの港がある。対岸の大陸のひとびとが、イギリスを「白の国(Albionアルビヨン)」と呼んだのも、このホワイト・クリフをもってブリテン島を指したことによる。
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 イギリス海峡の最も狭い部分でヨーロッパ大陸に対峙しているドーバーの白い崖は、イギリスにとって重要な自然の要害であった。地政学上つねに大陸からの侵略に脅かされてきた地であり、断崖は侵略に対抗する自然の防壁として大きな機能を有していた。また飛行機の時代が到来するまでは、ドーバー海峡の船運が大陸との間の主要交通路であったので、白い断崖はイギリスを訪れる人たちが最初に見るイギリスの景色であり、同時にイギリスを去る人たちが最後に見る景色でもあった。

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ブリテン島周遊クルーズ (55)

セントピータース・ポートについて
Photo セントピータース・ポートは、ガーンジーの首都である。人口18,000人の小さな町だが、歴史的経緯から、フランス・ノルマンディーとイングランドの文化が両立しているという。ただ今回私たちは、コーネット城とハイ・ストリート付近しか見ていないものの、表示や地元の人々の言葉など、やはりイギリス的な雰囲気の方が優勢に思えた。1940
 中世以来のこの町の主な産業は、一部の農業の他は漁業であった。アナゴやサバなどを塩漬けにして外国まで輸出することも行われ、魚市も繁盛したという。19世紀末ころから蒸気船が普及し始め、1930年代には灯油エンジンが漁船に搭載されるようになった。
 また19世紀には、セントピータース・ポートの港は、帆船を駆使して、ロンドンと提携しつつ世界の貿易港に発展した。しかし、1880年代には蒸気船が台頭して一時衰退した。一方、人々のビジネスや観光などの海外旅行が海路で増加したことで、ヒトの海上交通の拠点として、セントピータース・ポートは繁盛した。これは、蒸気船の台頭にも対応したが、20世紀後半の飛行機旅行の台頭で大きく後退を余儀なくされた。
1930 20世紀初頭から、重要な輸出品目としてガーンジー種の牛が加わった。ガーンジー原産の乳用種で、黄色味が強く風味がよい乳質を特徴とする。フランスのブルトン種やノルマン種を基礎に改良したもので、毛色は黄褐色の地に白斑があり、多くは額に星がある。おなじチャネル諸島のジャージー島で産するジャージー牛にくらべてひとまわり大型で、骨太で粗野な感がある。性格はジャージー種ほど神経質でなく、環境に対する適応性も優れている。その適応性がかわれて、海軍士官リチャード・E・バード少将率いるアメリカ南極探検隊に参加し、基地で牛乳生産をしたという有名なエピソードがある。日本にも明治末から輸入され、かなり広く販売されている。
 また、1900年代から、花崗岩を蒸気船でロンドンに運び、空の船をニューPhoto_2
カッスルにまわし、そこで石炭を搭載して島に持ち帰る、という形の貿易が繁盛した。ガーンジー島の暖房や温室栽培のための石油の需要が急増したのであった。
Photo_3 文化面のエピソードとしては、ヴィクトル・ユーゴーの滞在がある。彼は53歳のとき、第二帝政をはじめたナポレオン3世を批判して、ここセントピータース・ポートに15年間亡命することになった。ここに滞在しているとき、彼は海事の安全と人命救助に大きな関心を寄せ、1859年10月の北海の嵐で難破した2隻の船から45人の人命を救済したアブラハム・マーチン船長を個人的に褒章して話題となった。
コーネット城でずんぶん長い時間を過ごしたが、残り少しの時間を、セントピータース・ポートの町の散策とした。
 セントピータース・ポートは、現在は、観光と金融をおもな産業とする近代的な町に生まれ変わっている。町の景観もすっかり近代化し、ハイ・ストリートのいたるところで、銀行や商店が提供するフリーWi-Fiが、建物の外、道路上で、誰でもが利用することができる。

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ブリテン島周遊クルーズ (54)

ガーンジー コーネット城の歴史
 コーネット城の歴史は、日本ではなかなか知る機会がない。幸い城内に「コーネット城の物語の博物館」があり、その歴史を説明パネルと人形や模型を駆使して説明している。Photo
 考古学的には、8,000年ほど前から中石器時代のヒトが狩猟・漁労の生活をしていた形跡がある。紀元前4,000年ころ農業がはじまり、人びとは定住へと向かったようだ。紀元前2,000年ころまでに鉄器が導入され、この地域でブリテン島と大陸ノルマンディー地方との人々の交流が始まっていた。ノルマンディー公ギヨーム2世が1066年イングランドを征服して、イングランド王ウィリアム1世(ウィリアム征服王)となり、ガーンジー島はイギリス王室直轄地とされた。ガーンジーは、イギリス王室の代官である総督が統括・支配し、そのもとに守備のための駐屯兵が配備された。
Photo_2 大きな画期は、イギリスの清教徒革命であった。これは「内戦Civil War」時代として大きく展示されている。1642年発生した清教徒革命にかんして、ガーンジーのピーター・オズボーン総督は一貫して議会派を支持したので、国王派から攻撃を受けることになった。コーネット城は国王派に包囲されたが8年間持ちこたえ、1751年議会派の艦隊によって解放された。しかし1672年末、ハットン総督のとき、一筋の稲妻が火薬庫を大爆発させ、総督の家族を含む多数の死者を出すという悲惨な大事件が発生した。これは、コーネット城の防衛能力を著しく削ぐような大事件であった。3
 1786~90年には、爆発対策の兵舎が多数建設された。しかし恐るべき湿気で、役に立つものとはならなかった。1847年にはすべてを作り替える提案がなされた。このように修復は図られたものの1790年ころまでにコーネット城は衰退していて、ナポレオン戦争のころには、ほとんど役に立たなかった。
1800年代に入ると、城内の要塞は砲弾対策のため屋根がつけられ、主要砲台には大型の大砲が整備され、地下火薬庫も追加された。1860年にコーネット城は、セントピータース港の整備の一環として防波堤で港と結合された。1901年には、12ポンド速射砲が設置された。このころまでは未だフランスを仮想敵国として懸念していたが、1914年第一次世界大戦がはじまると、フランスは同盟国となった。コーネット城の役割は、セントピータース港を防衛することであった。要塞の上の見張り台からセントピータースの町に向けて、手旗信号が頻繁に発せられた。
Photo_3  第二次世界大戦のときの1940年、フランスがドイツ軍によって陥落し、ガーンジーを含むチャネル諸島を維持できる見込みがなくなり、コーネット城はドイツ軍に占領された。
 ドイツ軍は、コーネット城を大西洋に対する防衛拠点とみなし、さらに海軍からの防衛のみならず空爆に対する防衛を加え、城内に多数のコンクリート屋根やコンクリート壁を増設し、艦船と飛行機を砲撃するための新たな砲台を追加した。こうして城内の様子は短期間に大きく変貌させられた。この結果コーネット城は、イギリスで唯一大英帝国空軍の痛烈な爆撃を受けた要塞となってしまった。

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ブリテン島周遊クルーズ (53)

セントピータース港とガーンジー
 北ウェールズのホーリーヘッドを出たわれわれのクルーズ船は、1日半の航海を経てブリテン島の南、フランスのノルマンディーの北西の海に浮かぶチャネル諸島の2番目に大きな島であるガーンジー島セントピータース港に着いた。この港は9万トンのわれわれのクルーズ船は着岸できず、艀船による上陸である。Photo
 ガーンジーは、イギリス女王を君主とするイギリス王室の属領である。ただしイギリス連合王国には含まれないので、内政に関してイギリス議会の支配を受けず、独自の議会と政府を持つ。欧州連合に加盟せず、通貨はスターリング・ポントである。イギリスの海外領土や植民地と異なり高度の自治権をもち、イギリスの法律や税制および欧州連合の共通政策は適用されない。ただし、外交と国防に関してはイギリス政府に委任しており、主権国家ではない。
 紀元前6,500年頃までガーンジー島は現在のフランス本土ノルマンディー地方と陸続きであった。先住民は紀元前5,000年頃に農耕民族に追い払われた狩猟民族であるといわれている。933年、ノルマンディー公ギヨーム1世はチャンネル諸島を含む領地をブルターニュ公国から奪った。1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世はイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世(ウィリアム征服王)として戴冠した。ノルマンディー公ウィリアムである。それ以来ガーンジー島は、歴代イギリス王室の直轄地となっている。住民は、イギリス人とアングロ・ノルマン系フランス人で、宗教はイギリス国教会が65%、カソリックが35%である。
Photo_2 ブリテン島とフランスの間の交通・軍事の要衝に位置する天然の良港であるため、日本の沖縄にも似て、古代から大国に狙われ、後で述べるように複雑な歴史を経てきた。かつては漁業、貿易、軍事がおもな生業であったが、近年は観光とタックス・ヘイヴンの金融を生業としている。
 私たちが上陸した日は日曜日だったこともあり、クルーズ船で押し寄せる我々観光客や、自撮りをいたるところでやりまくり声が大きい中国人らしいアジア系の観光客に加えて、地元や近在からの観光客も多く、セントピータース港はとても混雑して賑わっていた。
 私たちは、まずコーネット城に行った。桟橋から徒歩で20分くらいであった。

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