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近江八幡散策(6)

白雲館
 日牟禮八幡宮の大鳥居の真正面に、かなり目立つ大きな洋風木造建築物が聳える。
 白雲館は、見かけがいかにも洋風で、この地がヴォーリスの居住地でもあったことから、ヴォーリスの設計作品と誤解されることも多いと言うが、そのヴォーリスが生まれる3年も前の明治10年(1877)まったくの日本人大工たる高木作右衛門の設計で創建された疑似洋風建築物である。Photo_20220720055001
 近江商人たちが明治維新を迎えて、自分たちの子供の新時代の教育のために、商人や地域住民の熱意の寄付を募り、当時の金で6,000円を集めてつくった八幡東学校であった。開設当初、約200名の児童が在籍したが、興味深いのはわずかながら女児が男児よりも多かったという。男児は丁稚奉公などで江戸や大阪に出ていく者も多く、地域での男女バランスが偏っていたとの推測もあるが、とはいえ女性に対する初等教育への理解もかなり進んでいたと評価できよう。
 学校として建設された白雲館であったが、生徒数の増加のため需要を満たすことができなくなり、わずか15年で学校としての役割を終えた。その後は、役場、郡役所、信用金庫などに流用され、昭和初期ころからは老朽化もあって空き家となっていた。
 平成4年(1992)近江八幡市が修復工事に取り掛かり、平成6年(1994)八幡東学校当時の姿に復元された。現在は、近江八幡観光物産協会の事務所およびギャラリー・スペースとなっている。
 なお「白雲館」の名前の由来については、日牟禮八幡宮のところで触れた藤原不比等の和歌から引用されたという説、鎌倉時代の臨済宗の僧白雲慧暁(はくうんえぎょう)に因んだとする説などがあるが、確かなことはわかっていないとの由である。
 東日本大震災が起きたのは11年前のことであったが、その傷跡はいまだに大きい。そんなことを考えると、明治維新からわずか10年ほどで、まったく日本人だけでここまでの疑似洋風建築物を実現した、当時のわが国の大工さんの水準の高さに驚き、大いに敬服する。すでに江戸時代に、そこまでの素地を培っていたからだとも言える。

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近江八幡散策(5)

ふとんの西川」家
 「ふとんの西川」として現在でも有名な西川甚五郎本店が現存している。かつての蔵のひとつを、この商店の歴史博物館として一般公開している。
 西川家初代の仁右衛門は、天文18年(1549)、近江国蒲生郡南津田村に生まれ、数え18歳で商売を始めた。西川家では、永禄9年(1566)を創業の年と定めている。やがて天正15年(1587)八幡町に店を設け、本格的な事業活動を開始した。これが西川家の本店山形屋の発祥である。そのころは、能登国(石川県)へ息子たちを交互にともなって、さまざまな物産の行商をして歩いたという。Photo_20220719055301
 文禄4年(1595)秀次は切腹に追い込まれ、八幡山城は築城からわずか10年で廃城となった。城下町も厳しさを増すなかで、のちに近江商人の特徴といわれる「倹約」と外地へ出てゆく「開拓」の気質が形成されていったという。慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いがあり、石田三成を中心とする西軍が徳川家康の東軍に敗れ、慶長8年(1603)江戸幕府が開かれ、元和元年(1615)、大坂夏の陣で政権が豊臣氏から徳川氏へ完全に移行した。初代は同年、すばやく江戸・日本橋に出店し、近江八幡には本店を構えた。仁右衛門は96歳の天寿を全うするまで、織田信長から徳川家康までの目まぐるしい天下人の争いや遷都など情勢変化に対して柔軟に対応し、西川の基礎を築き上げた。
 西川家の2代目甚五は蚊帳について研究を重ね、近江蚊帳の象徴となる萌黄蚊帳(もえぎかや)を創案したと伝える。
 3代目利助が家督を相続した寛文7年(1667)から、江戸店の営業成績を残した毎年の勘定帳が残っており、そこから3代目の時代から江戸店の経営が安定したことが窺える。
 寛文11年(1671)ころ東回り・西回りの航路が開かれ、近江・伊勢・京坂の商人が江戸に出店し、江戸の商業が定着してきた。元禄中期である元禄8年(1695)ころになると武家屋敷よりも、江戸町人の大衆需要が増大するようになった。そこで西川家は、江戸市中の発展に対応して経営の内容を構造転換し、大衆販売に対応して取扱高を急速に伸ばした。また営業規模の拡大にともなって、得意先の武家屋敷の数も増え、十数人の大名屋敷とのつながりをも大切に続けて西川家は繁栄していった。
 元禄時代は、町人が台頭し商業が著しく繁栄した時代であった。
 5代目利助が西川家の経営にあたった正徳5年(1715)から延享2年(1745)までの30年間は、8代将軍徳川吉宗の享保の改革が行われた時代である。この改革政治での緊縮・倹約政策と、貨幣の改鋳によって貨幣価値が高まり、物価下落と不景気が進行する極めて多難な時代となった。そのような中、当時経営不振に陥っていた京橋の弓屋・木屋久右衛門の店を5代目が買い取り、翌年から弓の営業に乗り出した。やがて西川家は、京都下地屋(生産者)等と仕入れの独占契約を結び、京都で製造される弓の江戸販売を独占することとなった。
 7代目利助は、経営組織に大改革を加え、まさに西川家の中興の祖であった。
 家督を継いだときは、重商主義的な政策を進める田沼意次時代であり、世の中は華やかではあったが、全国各地で災害が多発して、大火災、旱魃、水害、飢饉が相次いだ。天明3年(1783)は、浅間山の大噴火に続いて大飢饉となり、全国規模で数年間続いた。この「天明の大飢饉」による餓死者は数十万人に上るといわれた。
 西川家では、このような不時の出費に備えるための工夫として、積立金制度である「除銀(よけぎん)」の制度を整えた。江戸中期には、各店の純益を本家の総収入から一応区別して積み立て、臨時の出費に充てるという制度を確立した。その後、各支店から「地代」を徴収し、商人に貸し付けることを開始した。西川家では、このように自己資金でさまざまな難局を切り抜けていった。
 そのような中、7代目は第二の改革である「三ツ割銀制度」を実施し、店員の士気高揚を図った。従来の店の利益配分を改めて、毎年純益を3等分し、そのひとつを奉公人に配分することにした。これによって意気に感じた各店の奉公人はいっそう勤勉に奉公するようになった。
 第三の改革は、西川家がすでに実施していた、奉公人に分家の資格を与える別家制度の別家の権限・義務を明確化であった。これは、本家・親類・別家の3者の共同責任体制を明確にして、末長い発展を期すものであった。
 このような画期的な改革だけでなく、7代目はこれらの改革にあたって、創業以来の古記録を整理複写してその参考とした。現在でも西川家創業以来の経過を知り得る手掛かりとなるほとんどの史料は、7代目によって整理されたものである。
 9代目甚五郎は、7代目の孫で、文化9年(1812)7代目の後見の下、わずか8歳で家督を継いだ。幕府は天保の改革で、当時の物価騰貴に対処するため、流通組織の大改革に着手し、旧来の十組問屋仲間をはじめ株仲間を解散させ、物価値下げ令を発した。これによって市中は大変な不景気となり、西川家も大きな影響を受けて、売上高は大幅に減少した。こうした困難な時期に、9代目甚五郎は積極経営で事業を発展させた。
Photo_20220719055302  時代は明治に移り日本の社会が大きく転換する中、西川家は明治9年(1876)大阪本町に大阪店を開設し、青莚(あおむしろ)<琉球表>を本店と支店に仲介を始めた。好景気の中で大阪店の経営は軌道に乗った。さらに明治20年(1887)には、蒲団の取り扱いを開始したのであった。明治維新後、弓の営業がなくなり、西川家の主要商品は蚊帳と畳表の二つになっていた。蒲団を加えたのは、単に弓の穴埋めだけにとどまらず、生活必需品の商品化の拡大という新時代の動きをいち早く見通したのであった。とくに蚊帳が夏に集中する季節商品であったことを考えるならば、冬に集中する蒲団を加えたことは、経営の安定面でも大きな意味があった。こうして「布団と蚊帳の西川」の基礎ができた。
 大正12年(1923)の関東大震災は、西川の東京店を破壊し、莫大な商品を焼失させ、大きな痛手であった。しかし、近江商人としての本家の財力、本家を中心とする支店組織の完備など、多年にわたって培ってきた総合力を結集し、震災後の緊急需要に対して供給が途絶する中で、寝具を並べて直ちに営業を再開させた。罹災者に必要な商品はまたたく間に売り切れ、西川の店員は昼夜なく働き商品を提供した。
 大正の終わりから昭和の初めにかけて、日本は不景気のどん底にあった。このころ西川では、百貨店を業とするべきか、専門店としての道をいくべきか、という問題が真剣に取り上げられていた。ここにおいて、12代目甚五郎は、専門店としての道を歩むべきであるとの方針を明確に打ち出した。
 以上のような展示の解説は、当然この会社の宣伝目的があるだろう。しかし時代の動きを的確に把握し、タイムリーに対策を立案・実行して難局を乗り越え、さらに前進する、しかもそれを世代を超えて伝承・発展させる、という歴史は、成功した近江商人の典型的な例のひとつであろう。

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近江八幡散策(4)

近江商人と近世商業の発展
 天正13年(1585)豊臣秀次が八幡山頂に築城し、本能寺の変で織田信長という主を失った城下町安土から町をこの八幡に移し、八幡山下町掟書を交付した。こうして縦12通り、横4筋の整然とした城下町が誕生した。
 しかしわずか10年の後、文禄4年(1595)城主秀次が自害に追い込まれ、城は廃城となってしまった。それでも、その後もこの地の商人たちは、北は北海道、南は九州、さらには東南アジアにまで商業を発展させ、近江商人の名を轟かせた。江戸にも、日本橋などに近江商人の多い地区があった。ここ近江八幡では今なお、碁盤目状の町並みは旧市街によく残されていて、とくに新町や永原町には名だたる近江商人たちの本宅跡が立ち並び、かつての在郷町としての繁栄を伺うことができる。

旧伴庄右衛門家住宅
Photo_20220718061801  江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国から国王親書をもって「朝鮮通信使」の一行が江戸城に向かったが、そのとき通過する道は「朝鮮人街道」と呼ばれていた。ここは「京街道」と呼ばれた道と重なる部分であった。
 この京街道と近江八幡のひとつのメインストリートであった新町通りとの交差点にあたるところに建つのが旧伴庄右衛門家住宅である。この大きな和風建築物は、市指定文化財である本家部分と、明治時代に小学校として建てられた教室部分の合体となっている。かつて校庭として使われた中庭の一部も残っているそうである。
Photo_20220718061802  この建物は、江戸時代のものとしてはいささか特異な特徴が2つある。現在は窓が大きく多いこと、もうひとつは3階建てという構造である。
 当時は一般に、防犯上から商家の窓は極力少なく建てられたが、伴庄右衛門家の本宅であったこの建物に窓が多いことの理由としては、井原西鶴の遺稿集「西鶴織留」のなかに「八幡では百人の女たちが蚊帳を縫っているところがある」と記されていて、多数の縫子を抱える蚊帳工場だったのではないか、と推測されている。この家の古文書から、江戸時代には畳表・蚊帳・扇子・朝織物などを商っていたという。この建物の1階と2階を合わせれば縫子百人は作業できそうであり、大勢の縫子のために明りをとった、とする理解は説得力があると思われている。とくに2階の和室は幅3間、奥行7間半のなかに柱が一本もない構造となっていて、これだけ大きな畳間は市内には他に存在しない。また、江戸時代は天井の低い物置場を除いて2階建ては制限されていたのに、この3階建ては特異である。3階部分は、かつて「じしんの間」と呼ばれていたとの記録があり、歴史学者の解釈では、かつて新町通りの「自身番」が居たところではないだろうか、という。たしかにこの部屋には新町通り側に窓がついていて、城下町のかなりの部分を見渡すことができるそうである。
 この伴庄右衛門家本宅は、近代になってからは女子高校や図書館としても使用されたという。

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近江八幡散策(3)

八幡掘と豊臣秀次と近江商人
 牟禮八幡宮を少し遠巻きに囲むように流れる八幡堀という水路がある。
豊臣秀次が八幡山城を築城したとき、城下町の都市計画として整備された水路であり、市街地と琵琶湖を連結している。掘割として城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する運河としての商業的役割とを兼ね備えていた。1_20220717061601
 文禄4年(1595)、秀次の自害を受けて八幡山城は廃城となったが、城下町は商家町として存続し、近江商人の活躍により繁栄を極めた。近江商人は八幡堀の地の利を活かして、地場産物(畳表、蚊帳、米、酒など)を陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、再び各地へ送り出した。
 この八幡堀は、建造当初から「背割り」と呼ばれる排水路による下水システムがあり、堀に溜まった汚泥は、船の運航に支障をきたす前に随時浚渫され、近隣の田畑の肥料として使われていた。また、その田の粘土を使って八幡瓦が作られていた。 
 この水路の有効活用は350年以上も続き、さきの大戦の後まで、150 石船が行きかい、水運業者などによる定期的な浚渫も行なわれていた。堀には背割りから住民の生活排水が流れ込んでいたが、汚物やゴミは流さないという住民の心遣いもあり、昭和20 年代ごろまではきれいな川であった。
2_20220717061701  しかし昭和の後半、高度成長期に入ると、交通網の変化から運河の機能を失い、汚泥を掬い上げる「川ざらえ」も廃れ、堀には下水が流入し、川底にはヘドロが堆積し、悪臭を放つようになった。昭和45年(1970)地元自治会は堀の改修計画を市に陳情し、昭和47年(1972)市議会は堀を埋め立てて公園と駐車場に作り替える造成計画を議決した。
 しかし近江八幡青年会議所が、堀を近江八幡の誇りとして蘇らせようと、改修計画の見直しを市に迫り、八幡堀復活を求めて署名運動・自主清掃活動を行った。そして昭和50年(1975)、ついにいったん議決されていた埋め立て・公園造成計画が廃止され、「よみがえる近江八幡の会」が設立され、翌昭和51年(1976)堀の保存修景のための堀の全面浚渫工事が着工された。こうした紆余曲折を経て、かつての八幡堀すなわち水路は景観も含めて修復され、平成18年(2006)八幡掘・長命寺川・西の湖一帯が、全国で初めての重要文化的景観に選定されたのであった。

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近江八幡散策(2)

左義長と日牟礼八幡宮
 この日牟禮八幡宮は左義長祭(さぎちょうさい)でも有名である。左義長は、中国から伝来した爆竹などを使う祭りとする説もあるが、ここでは承和元年(834)仁明天皇が鎮護国家安泰を祈願する宮中行事として行った祭礼が、京都を中心に「とんど焼」と呼ばれる民間行事になったものとされている。「信長記」において、織田信長が正月盛大に左義長を行い、自ら異粧華美な姿で踊ったと伝えている。Photo_20220716054801
 日牟禮八幡宮では、天正18年(1590)八幡開町以来、氏神八幡宮の祭礼として恒例行事となった。
 左義長は、十二段祝着という新藁で美しく一束毎に揃え7尺余り(2.5メートルほど)の三角錐の松明を胴体として、その上に1丈余り(5メートルほど)の青竹の笹に赤紙を中心に吉書・扇などをつけ、杉の葉でつくった頭に、竹につけた火打・巾着・薬王などをつけ、三つの耳に御幣を立てて左義長の中心というべき「だし」を正面につける。「だし」の主な材料は、穀物(大豆・黒豆・小豆・ゴマなど)、海産物(鰹節・昆布・するめ・干魚など)、その他の地元特産物の食べ物である。これが左義長のハレの象徴で、費用を惜しまず手間を凝らし、毎年干支にちなんだ造り物を町内自慢として制作する。胴体には4本の棒を通して神輿と同じように、賑やかに掛声で囃しながら担ぎまわる。そして籤で決めた奉火順が決められ、夜に順次潔く奉火により焼き尽くす。天下の火祭りであり、奇祭である。

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近江八幡散策(1)

 滋賀県近江八幡市に、一泊二日の小旅行に出かけた。高槻から新快速一本で49分である。こんなに近いのに、行ってみると町の感じはかなり違う。
 JR近江八幡駅を降り立ち、バス15分ほどで、旧市街地に着く。近江八幡の場合、鉄道は旧市街から北西方向に2キロメートルほど離れている。

日牟礼八幡宮─近江八幡の名前の由来
Photo_20220715060901  近江八幡旧市街のほぼ北端に、日牟礼八幡宮がある。
 伝記によると、第十三代 成務天皇が高穴穂の宮に即位したとき(西暦131年)、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じてこの地に地主神である大嶋大神(大国主神)を祀らしめたのが草創であるとされている。
 応神天皇6年(275)、応神天皇が近江奥津嶋神社に行幸し、還幸の際に宇津野々辺(現在の神社近く)に御座所を設けて休憩した。その後、この仮屋跡では日輪(太陽)の形を二つ見るという奇瑞があり、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けたと伝承されている。
 持統天皇5年(691)に、藤原不比等が参拝して歌を詠んだ。「天降(あめふり)の 神(かみ)の誕生(みあれ)の八幡(はちまん)かも ひむれの杜(もり)に なびく白雲(しらくも)」

 この和歌にちなみ、社の名称を「比牟禮社」と改めたと伝える。
 一方で、日牟禮社の社名については、和珥氏日觸使主(わにうじひふれのおみ)という人物の「日觸」が転じたものとする説もある。和珥氏とは、應神天皇に縁の深い江州(現在の滋賀県)土着の氏族であり、自らの祖神を祀る当地の斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものとも考えられている。
 正暦2年(991)一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに寛弘2年(1005)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けた。現在の社殿は下の社に相当する。
 大きな転機は、天正13年(1585)豊臣秀次の八幡山城の築城であった。これにともない城下町が形成され、この地では天正18年(1590)を八幡開町としている。しかし八幡山に城を建てるため、上の八幡宮を下の社に合祀し、替地として日杉山に社殿を建てる計画であった。豊臣秀次のあと城主として京極高次が入ったが、文禄4年(1595)に前城主秀次が高野山で自害したことにより、秀次ゆかりの八幡山城は廃城とされ、高次は大津城に移った。これにともない、日杉山への社殿の移転は中止とされ、現在のように一社のみの姿に落ち着いてしまった。八幡山城は廃城となったが、「八幡」の名を残した城下町は近江商人の町として発展し、八幡宮はその守護神として崇敬を集めた。
Photo_20220715061101  慶長5年(1600)9月、徳川家康が関ヶ原の戦いの後に、武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領50石の地を寄附した。後に徳川家光や徳川家綱も御朱印を下している。
 明治維新の後は、明治9年(1876)に郷社、1916年(大正5年)には県社となり、昭和41年(1966)に神社本庁の別表神社に加列され、神社名を日牟禮八幡宮と改称した。
 ここ近江八幡では、豊臣秀次を発展の祖として現在でも尊敬を集めているそうだ。

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小田原市内散策と小田原城(9)

小田原城公園
4. 摩利支天像と天守型厨子
Photo_20220622073301  小田原城天守閣の最上層には、武士の守り本尊として広く崇敬されていた摩利支天像が安置されていた。これは大久保忠朝が貞享3年(1686)佐倉藩から小田原城主に復帰したとき、天守に祀ったと伝える。摩利支天は、古代インドの『リグ・ヴェーダ』にあるウシャスという暁の女神に由来する、陽炎、太陽光、月光を意味する「マリーチ」Marīciの神で、陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かないという特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。小田原城の摩利支天は、三面六臂でイノシシに乗っている。Photo_20220622073302
 この摩利支天像が納められていたのが、天守型の厨子である。この形は小田原城の天守を模したものであろうと考えられている。高さ161センチメートル、三層構造で、最下層には観音開きの扉があり、内部は金箔が貼られている。明治3年の廃城・解体のとき摩利支天像が預けられていた小田原市城山の永久寺の「天守七尊」図に摩利支天像がこの厨子に納められていたことが記録されている。昭和35年(1960)天守閣再興のとき、摩利支天像とともに小田原城天守閣に戻された。
 今回、ほぼ四半世紀ぶりで小田原を訪れ、散策と小田原城公園を観たが、旧跡を訪ねるとはいえ、時が経てば旧跡もそれなりに整備や保存状況が変わり、多くはきれいになっている、ということを強く実感した。

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小田原市内散策と小田原城(8)

小田原城公園
3.天守閣
 そしていよいよ天守閣である。元来は武力による戦争のための施設で、城内外を見渡し、監視するためのものであるから、徳川幕府が定着した後には、敢えて謀反の疑義を起こさないためにも、たとえば播磨の赤穂城のように立派な城郭でありながら天守閣を置かない城もあった。もっとも赤穂城の場合でも、周辺の大名が謀反をおこした場合には鎮圧の軍事行動に参加することが必須なので、天守台までは構築していざというときには見張り櫓をつくることができるように準備はしていた。天守閣は平時には、監視のほか、他の櫓と同様に武具などの収納庫として用いられた。Photo_20220621070101
 この小田原城天守閣は、江戸時代のうちに2度も再建されるという全国的にも稀有な経緯をたどった。初代の慶長度天守は、「相州小田原古地図」(加藤図)によると「望楼型」と呼ばれる大きな入母屋造(いりもやづくり)の上に、一階から三階建ての大きさの望楼(ぼうろう)すなわち物見櫓を載せたものであった。天守の様式としては最初のシンプルなもので、織田信長の安土城や、残存する例では犬山城がある。これは寛永7年(1630)までには失われたらしい。
 寛永期後半に相次いで発生した大地震のあと再建されたのは、層塔型と呼ばれる様式のもので「相模国小田原城絵図」(正保図)に記されている。これは藤堂高虎が慶長年間に今治城に建てたものが嚆矢とされるもので、一階から何段階かの階層を下から積み上げていくもので、建築の効率が良いとされる。この場合は、地面に接する建物からほぼ正方形となっている。江戸時代の天守閣建設ブームでもっとも普及した様式である。これは元禄16年(1703)大地震で倒壊した。
 三代目の天守は、宝永2年(1705)江戸城の天守閣に似せたような、層塔型天守の下層の屋根に、唐破風と千鳥破風の飾り破風を加えたもので、その意味で外観を意識したものとなっている。
 小田原城の大部分は、元禄16年(1703)の大地震で倒壊・焼失したが、天守は宝永2年(1705)再建以後は、明治3年の廃城・解体まで持ちこたえていた。

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小田原市内散策と小田原城(7)

小田原城公園
2.常盤木橋・常盤木門と本丸跡
Photo_20220620060001  銅門をくぐり抜けると二の丸になる。かつてここには二の丸御屋形があった。通常のお城では、城主たる大名は家族とともに本丸に住むのだが、小田原城はいささか異例で、徳川将軍家の常宿所となっていたため、本丸は将軍のために確保してあり、大名は二の丸に住まざるを得なかったのだ。かくて二の丸御屋形は、大名とその家族の住処、また藩政を司る政庁がある場所となった。ここには明治維新の廃城のあと、皇室のための御用邸が建てられたが、大正12年(1923)の関東大震災で全壊し、以後は広場となっている。
 二の丸広場の西側に、朱塗りアーチ型の常盤木橋(ときわぎばし)がある。かつて本丸は内堀で囲まれていて、そこを渡る橋であった。現在その堀に水はなく、畑や花苑となっている。
Photo_20220620060002  石段を上り、常盤木橋を渡ると、常盤木門がある。「常盤木」とは、常緑樹のことで、戦国時代から本丸にあった7本の松(通称七本松と呼ばれた)に由来し、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠に繁栄するようにとの願いが込められていたという。かつては常盤木門に南多聞櫓と北多聞櫓が付随して桝形が形成され、櫓や櫓門の内部は倉庫や武器保管庫となっていた。この門も、明治3年(1870)解体されたが、昭和46年(1971)小田原市制30周年記念事業の一環として再建された。
 常盤木門をくぐると、天守閣のある本丸跡の広場となる。石垣と土塀に囲まれた東西83間(150メートル)、南北63間(114メートル)の面積があり、本丸正門の常盤木門の他に、北側に裏門たる鉄門(くろがねもん)があった。ここには、将軍が旅のとき御成になり宿所となる本丸御殿があった。第三代将軍家光の以後、将軍家の上洛も絶えたが、本丸御殿は維持されていた。しかし元禄16年(1703)大地震で倒壊・焼失してからは再建されることはなかった。

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小田原市内散策と小田原城(6)

小田原城公園
1.馬出門と銅門
Photo_20220619054301  食事を済ませ、国道一号線を渡って小田原城箱根口へ向かった。南入口から入って、最初の堀に架かる御茶壺橋を渡って右に曲がると、二の丸観光案内所がある。ここでは一日二回、決まった時刻にボランティアによるガイド・ツアーをサービスしてくれるという。しかし私は時間の都合から、ひとりで散策することにして、城内の案内マップをいただいて歩き始めた。神奈川に住んでいたころ、四半世紀以上も前に、ごく簡単にこの小田原城を見て回ったことがあったが、ほとんど忘れてしまっている。ただ、小田原城公園はずいぶん整備が進んできれいになっているような気がする。
 マップの推奨ルートにしたがって、まず東側の正面入口をいったん出て、馬出門をくぐって入るところからスタートした。お堀端通りから見る最初の門「馬出門(うまだしもん)」は真新しい。平成21年(2009)の復元というから、それもそのはずだ。元の馬出門は幕末までは存在していたという。
Photo_20220619054401  かつては、現在の小田原城公園の東南に三の丸があり、その三の丸から二の丸へ向かう大手筋にある門が高麗門様式の馬出門である。寛文2年(1672)から、この門の次の内冠木門(うちかぶきもん)との間に石垣と土塀で四角く囲みこむ馬出門桝形を形成している。城外から侵入してきた敵兵をこの桝形に閉じ込め、敵兵がさらに奥に入り込む前に、四方から攻め滅ぼす構造であるという。
 桝形から馬屋曲輪の島に入り、住吉橋を経て「銅門(あかがねもん)」に至る。これも石垣と土塀で桝形を形成する防御の門で、扉の飾り金具に銅を使用していたことからこの名がある。この門も幕末まで維持されて残ったが、明治維新の廃城令により明治5年(1872)解体された。現在の銅門は、平成9年(1997)復元されたものである。

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