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散策

鎌倉・金沢文庫散策 (3)

金沢文庫
 庭園の脇の隧道をくぐると、神奈川県立金沢文庫がある。
Photo 称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、北条実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に蔵書を集めて金沢文庫を創設したのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる大量の文書や書籍が収められていた。嘉元4年(1306)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧俊如房(快誉)が乗船したことが、金沢文庫の古文書に記録されている。
 金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸してしまった。徳川家康や前田綱紀などのときの権力者も、ここからかなりの数の文書や書籍を抜き出したと言われている。現在も日本各地に「金澤文庫」の蔵書印が捺された古写本が残っている。
現在、頼朝および北条家にかかわる重要な史料が、鶴ケ丘八幡宮をはじめ他の場所ではほとんど散逸したりなくなったりしたりしているなか、ここ金沢文庫のみ貴重な史料が豊富に残存するという。ここは貴重な史料の宝庫なのである。Photo_4
 ちょうど私が訪れたときは、「顕れた神々」というタイトルの特別展が開催されていた。中世の仏教について、「唱導資料」を軸にして、関連する美術品や仏像とともに展示するものである。唱導資料とは、法要や勧進などの儀礼の場で読み上げられた、表白や説草などの文集で、いわば説教の台本のような資料である。中世の主要な社寺の縁起や神仏にまつわることが説かれている。具体的には、伊勢神宮、春日大社、八幡宮などのさまざまな神のすがたを浮かび上がらせる。展示内容はかなり専門的で、私自身は仏教の歴史についても、またとくに中世の仏教についても、あまり知識がないので、展示内容がかなり難しく感じた。この分野に興味あるひとたちには、充実した内容の濃い展示だったのかも知れない。
 むずかしい展示と格闘して、疲れて展示館を出て、称名寺庭園に帰ってくると、すでに傾いた陽光が池の水面と朱塗りの太鼓橋を照らして、美しい光景を楽しむことができた。

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鎌倉・金沢文庫散策 (2)

称名寺
Photo たまたま観たテレビ番組で、称名寺と金沢文庫についての紹介があり、私自身この地をじっくり訪れたことがこれまでなかったので、このたび訪れることにした。
 鶴ケ丘八幡宮からバスで簡単に行くことができる。バスが京急金沢八景駅に着くと、この付近は大規模な道路工事の最中で、通常とは少し違う道らしいところを通って金沢シーサイドラインというモノレールに乗り、「海の公園南口」という駅で降りた。シーズンオフでもあり、ここで降りたのは私一人きりで、駅には観光地案内マップもなく、道には称名寺への道案内の標示も見当たらず、少しとまどいながらもなんとか称名寺の南端の、赤門に行きつくことができた。
Photo_2 称名寺は、北条氏一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224-1276)が正嘉2年(1258)、六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。文永4年(1267)から、真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として発展・拡張し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。しかし鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏が滅び、以後寺も衰退した。降って江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存する建物が再建された。さらに、大正・昭和にわたって順次文化財指定と再整備が進められ、昭和62年の庭園苑池の保存整備事業を経て、現在の姿になった。Photo_3
 北条実時は、金沢実時(かねさわ さねとき)とも称し、金沢流北条氏の初代である。鎌倉幕府第2代執権として、北条氏執権体制を確立した北条義時の子実泰(さねやす)の子として元仁元年(1224)生まれた。つまり北条義時の孫である。やがて伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において、烏帽子親泰時のもとで元服した。泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐにあたり、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図った。4代執権北条経時、5代北条時頼政権の側近として引付衆を務め、建長5年(1253)には評定衆を務めた。文永元年(1264)には得宗家外戚の安達泰盛とともに越訴頭人として幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。このように、みずから得宗となることはなかったが、得宗の側近として政権中枢に深くかかわる重鎮であった。
 赤門をくぐって参道を進むと、やがて仁王門が見えてくる。ここをくぐると、広大な庭園と池があり、池にかかる朱塗りの太鼓橋を渡ると、金堂があり、その右手には釈迦堂がある。

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鎌倉・金沢文庫散策 (1)

鶴ケ丘八幡宮
 小旅行の最終日、鎌倉と金沢文庫に少しだけ脚を伸ばした。Photo
 久しぶりの総武横須賀線で、鎌倉に着く。東京市街に比べればここ鎌倉の街の風情は相対的には変化が少ないといえる。駅を降りたって鶴ケ丘八幡宮の段蔓に行く。
 ここで、段蔓の設えがかなり変わっていることに気づいた。本宮にお参りしたときに任務に就いておられた警備員の方に聴いてわかったが、4年前の2014年秋、通路のメンテナンスと桜木の老朽化の整備の一環として、全面的な修復工事をしたとのことであった。2016年3月に完成し、若木のため心配された春の桜花も、今年はきれいに満開して、ひとびとを喜ばせたとのことである。路面は、最近よく用いられている滑りを抑制した舗装がなされ、石灯篭の列も一心された。かつての赤い木製の灯篭はすべてなくなった。あの赤い木の灯篭も、地元名士の名前が書いてあったりして、それなりに雰囲気があったが、全体にすっきり、さっぱりと、清潔感ある参道になっている。
Photo_2 段蔓を過ぎて大鳥居をくぐり、参道を本宮に向かって進むと、大銀杏が見えてくる。東日本大震災の前年にあたる2010年3月、春の嵐の強風で思いがけず名物の大銀杏が根元から倒れたのであった。倒伏の後、境内に設けられた「芽吹きを祈る記帳所」には多くの人々が訪れ、わずか1ヶ月半で記帳数は6万人を超えたという。倒伏から1か月の後には元の場所のヒコバエから小さな若芽が芽吹し、小さな銀杏の葉を茂らせながら枝は成長して、現在は数メートルにまでに成長している。Photo_4
 倒れたた樹幹部分は、再生可能な高さ4メートルに切断し、元の場所の近く西側に移し替えられた。ここからも新芽が出ている。双方はともに「御神木」として祀られている。
 かつて鎌倉市内に18年ほど住んで、関西に帰ってすでに15年以上が経ったが、この地に滞在したころは私も若かったし、子供の成長期でもあり、思い出は多い。かつては境内のなかに県立美術館があって、なんども鑑賞に訪れた。週末のジョギングのコースの通過点でもあった。たしか2回ほどのみだが、ここに初詣にきたとき、あまりの参拝者の多さに驚いたことも鮮明に思い出す。私にとっては、かけがえのない思い出の場所である。

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文部科学省「情報ひろば」

 文部科学省の広報施設として霞が関の旧文部省本館に設置されたミニ博物館「情報ひろば」を見学した。
Photo 入場すると、最初の部屋が「旧大臣室」である。明治新政府によって明治4年(1871)に新設された文部省は、現在の東京医科歯科大学の場所を最初として何度か場所を移転し、昭和8年(1933)この旧文部省本館に設置された。その部屋が、昭和8年(1933)創建当時に忠実に復元されて、今に残っている。この部屋の初代の主は、犬養内閣の第40代文部大臣鳩山一郎であった。明治18年(1885)大日本帝国憲法が制定され、文部省が設置されたときの初代文部大臣は森有正で、その森が職員に対して文部省職員の心構えを説いた「自警」という文章が掲示されている。大きな仕事机と、来訪者と語らう10人あまりが座ることのできるソファが目につく。
 次の「教育」の展示室では、古代以来のわが国の教育の歴史がパネル展示でまとめられている。このうち中世の「金沢文庫」は、この2日のちに訪れることになった。また、小学校の机が2連で10台設置され、さきの大戦直後から20年単位くらいで順番に推移がわかるような文具や教科書、鉛筆・クレヨンなどが展示されている。私自身は、1955年~1961年に小学校、1964年まで中学校、1967年まで高校だったので、展示物にノスタルジーを重ね合わせる範囲がかなり広く、展示を眺めてさまざまな思い出がよみがえった。戦争で敗戦したあと、米軍の駐留を含めてわずか10年という時代に、なんとかまともな教育を授かることができたのは、何か不思議でもある。
 「スポーツ」の展示室では、文字通りスポーツにかんする教育行政について展示があるのだが、興味深かったのは、わが国のトップ・アスリートの「歩幅」であった。短距離100メートル走ではじめてわが国で10秒の壁を突破した桐生祥秀(よしひで)選手の競技中の歩幅は、最大2.4メートル、歩数は約47歩だという。参考として足跡で歩幅を展示してあるが、あらためてトップ・アスリートの凄さを思う。マラソンの谷口浩美選手のマラソンでの平均歩幅が1.4メートル、歩数は約3万歩だという。この1.4メートルも、実に大きい。私たち一般人が歩く時の歩幅は1メートルを十分下回ることを考えると、この歩幅で3万歩も走るということの偉大さを改めて思う。冷静に考えて計算すれば、ごく当たり前のようなことでも、こうして目に見える形で提示されると、改めて感動するのである。
 「科学技術・学術」の展示では、わが国科学技術にかかわるノーベル賞受賞者22人のそれぞれの業績と顔写真がある。これも大部分かなり以前の研究に対する受賞であり、今後も同じように受賞者が続くのかどうかは、懸念される面もある。
 そのほか、文化行政にかんする展示や、国内の大学・高専の活動展示もある。
 展示内容はそれなりに充実しているが、少なくとも常設展示の内容については、詳細までインターネットで英語版も含めて、公開した方がよいのではないか、と思った。詳細に公開すれば、それを通じて興味をもつひとは、きっと直接観たくなると思う。
 たまたま、この近くを訪問する機会があったので立ち寄ったのだが、充実した時間であった。

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伊能忠敬と佐原 (4)

樋橋と伊能忠敬旧宅Photo
 伊能忠敬記念館に対して、小野川を隔てた向かい側に伊能忠敬旧宅がある。
 記念館から旧宅へ行くには、「樋橋(とよはし)」という名の橋を渡ることになる。この名は、水を運ぶための小野川をまたぐ大きな樋に由来する。江戸時代初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送水するため、木製の大きな樋を小野川のうえに架けていたのであった。当時は、あくまで水を送るための施設であり、人がわたる橋ではなかった。やがて人がわたる便を考えて、木製の箱型樋の上面に、丸太の手すりをつけて、人が通れるようにしたのであった。その樋から、水がジャージャーと流れ落ちることが多々あったらしく、「ジャージャー橋」とのあだ名が残っている。昭和になって、コンクリート造の橋になったが、平成4年(1992)に現在の木製の橋に改められたという。
Photo_2 樋橋を渡って少し北側に正門がある。正門をくぐり抜けて右折すると、この屋敷の入り口がある。
 入り口を入ると、土間があり、土間に面した座敷が店舗の「帳場」となっている。この建物こそが、伊能忠敬が17歳で婿として入り、49歳で隠居するまで、30年間を生活した場所である。正門・店舗・炊事場・書院・土蔵からなる典型的な豪商の屋敷である。ここは昭和20年代まで実際の伊能家の居宅として使用され、貴重な伊能家史料を守ってきた屋敷であった。

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 現在残る店舗は、もとは土蔵であった場所を改装したもので、細長い帳場の奥に7畳半の部屋2間が続いている。店舗から本宅・居間である書院へつなぐ位置に炊事場がある。炊事場には、竈のそばに、忠敬が愛用した測量器具が現在は展示されている。
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 屋敷だけでなく、敷地も江戸時代より縮小したというが、建物の南側と東側には、水路を取り入れた端正な庭園がある。縁側からは、書院の部屋も覗くことができる。屋敷は、全体として贅沢さはなく、機能的でむしろ質素である。伊能忠敬とその子孫たちの質実さがうかがえるように思う。Photo_5
 屋敷の東側に、土蔵がある。これは、忠敬が養子に入る前からあったもので。近世中期の様式を忠実に残す貴重な建造物である。切妻造り、桟瓦葺き桁行7.28メートル、梁間4.53メートル、建坪46.23平米(14坪)で、土壁を厚く塗って耐火性を向上した構造となっている。もとは専ら穀物を貯蔵する蔵であった。昭和59年(1984)解体修復のとき、土蔵内部から文政5年(1822)の修理墨書銘が発見されたという。
 関東地方で古くから繁栄した都市は、「小江戸」とアピールすることがあり、ここ佐原もそのひとつである。ここの旧市街の町並みは、たしかにゆったりとした豊かさを感じさせるものがある。初冬のひととき、幸い天候にも恵まれ、快適で印象深いひとときを過ごすことができた。

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伊能忠敬と佐原 (3)

伊能忠敬記念館
Photo_2 旧市街地域のほぼ南端に、伊能忠敬記念館はある。旧記念館は昭和36年(1961)に建設されたが、展示面積が狭かった。平成元年(1989)に地元出身の高木啓司氏が3億円の寄付をしたことで、新記念館建設構想がスタートした。平成6年度に基本構想委員会からの最終答申、平成7年度に実施設計を行って建物建設に着工し、平成8年度に現在の建物が完成した。そして、平成9年度(1997)に展示室の工事を行い、平成10年(1998)5月開館した。

Photo_3
 入館すると、最初に日本全図の大きなディスプレイがある。現在の観測衛星ランドサットによる正確な地図と、伊能忠敬の制作による地図とが、一定時間間隔で交互に表示される。経度方向は少しだけズレがあるが、緯度方向はきわめて正確である。200年以上昔、航空写真どころか、測量器械にさえこと欠いた時代に、歩測と間縄、路程車、鉄鎖など簡単な測量器具と初歩的な天体観測だけでこれだけ
の成果を得たのであった。落語家立川志の輔さんはこれを見て、心から感動して、長い時間をかけて自作の伊能忠敬の1時間半にわたる長編伝記落語、内容はほとんど講談のような作品を制作されたのであった。
 伊能忠敬は、延享2年(1745)九十九里の小関三治郎の子として生まれた。17歳のとき、当主が亡くなって21歳の寡婦 達(みち)が子供とともに残されていた佐原の名家伊能家へ、婿養子として入った。忠敬は米商・運輸・酒造・炭・金融など多角的に営業を拡大し、36歳で名主を拝命し、3万両(30~40億円)ともいわれる財産を蓄積した。
この間、34歳のときには、奥州松島へ旅し、また48歳のときには伊勢神宮へ旅している。このころには、すでに天体観測や測量に興味を持っていたらしく、旅のなかで緯度・方位の観測を行っていたという記録がある。
そして49歳の時、息子を説得して隠居を決め、翌年から江戸に移って幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、若いころより読書・俳諧に加えて、天文学などいわゆる理科系の学問に深く興味を持ち、中国経由の文献を収集してかなりの勉学を積んでいたので、高橋至時はそれを認め、早くから高度な西洋式天文学を教えたという。Photo_4
 彼は、地球の寸法を知りたかった。江戸のなかを歩き、歩測での距離と、天文観測での緯度から、緯度1度の地表面の距離を計算した。しかし師の至時は、それでは計測距離が短すぎて誤差が大きい、せめて江戸から蝦夷までくらいの距離を測らないといけない、と指導した。これに応えて忠敬は、まったくの自腹で現在の貨幣価値で1,000万円以上を投入して、蝦夷までの測量旅行を断行した。第一回の測量は、寛政12年(1800)忠敬55歳のときであった。この結果副産物として、第2次測量の結果を合わせて、江戸から蝦夷までの海岸線の詳細な地形が明らかになった。享和3年(1803)まで毎年、計3回の測量を行い、東海~北海道南部までの詳細な地図が完成した。それまでの測量で、緯度1度の地表長は28.198里と見積もった。この数値は、当時の世界最先端であったフランスのジェローム・ラランドによる計測値28.206里とほとんど一致していた。忠敬の地図の出来栄えが将軍徳川家斉の知る処となり、その地図の精緻さに感動した家斉が忠敬を登用することとなった。これ以後、第5回(畿内・中国)から第10回(江戸)まで、文化13年(1816)までに6回にわたる測量が、幕府の後ろ盾を得て実施された。私の祖先(明石大蔵村大庄屋)が協力したのは第5回のことであった。
 忠敬が用いた各種の測量器具が展示されている。24時間を59,000カウントで時間を計測する垂揺球儀という振り子時計や、当時最先端の国産望遠鏡(堺の業者の製造による)などもある。
 記念館を出て、すぐ前のレトロな喫茶店「東京バンドワゴン」でカフェオレを頂いた。大きなカップに、ミルクコーヒーがなみなみと注がれていた。

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伊能忠敬と佐原 (2)

小野川と伝統的な商店など
 JR成田線の線路沿いの道から小野川両岸の旧市街に入ると、古くは江戸時代以来、比較的新しいものでは大正・昭和時代のレトロな建物が軒を連ねている。

Photo_2

 小野川は、ここからほんの1キロメートルほど北で利根川に合流する、この地域の母なる川である。小野川両岸には、ところどころに船着き場が設えられ、それぞれの商店が舟運へのアクセスを確保していたことがわかる。
 小野川周辺の旧市街地区を川面から眺める遊覧船が運行していて、観光客を乗せて、30分に一回程度川面を往復する。いまは冬に差し掛かりシーズン・オフなためか、観光客は多くない。
Photo_3 「忠敬橋」と名付けられた橋を軸にして、旧市街が小野川と直角方向にもひろがっている。
その入り口にあたるところに「植田屋荒物店」がある。このお店は、江戸時代後期から営業する荒物屋で、金物、蝋燭などの生活消耗品、生活雑貨品など、さまざまな日用商品の、もとは卸売業であったという。大きな土蔵は天保期のものを明治期に建て替えたものがいまに残っているといい、さすがに太い丸太と白壁が印象的である。今は、この土蔵のなかを店舗に使用している。

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 小野川の東側、ちょうど「町並み観光中央案内処」の対岸に「正上」という商店がある。寛政3年(1832)の建造という商家の建物で、もとは油商であったが、天保3年(1832)から醤油業を営んだ。このあたりは醤油の醸造でも江戸時代から有名であった。戦後は醤油を用いた佃煮の製造販売を主に営業した。明治初年に建築された袖蔵とともに、建築当初のまま残っている貴重な建物だという。現在は「いかだ焼き」という佃煮のお店となっている。Photo_5
 「忠敬橋」を東に折れて少し歩いたところに、赤いレンガ造りの西洋風建築がある。これは大正3年に建てられた三菱銀行佐原支店本館の建物で、現在は「三菱館」として、市の観光業務に使用されている。明治13年(1880)川崎銀行佐原支店として、当時の清水満之助本店、現在の清水建設が設計・施行したものを、三菱銀行が引き継いだのであった。階高の高い総2階建てで、懐かしい美しい外観である。
  これらの他にも、多くの伝統的建築物が並んでいる。

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ブリテン島周遊クルーズ (62)

トリニティ礼拝堂とブラック・プリンスの墓など
 聖歌隊席を奥へ進むと、大聖堂の端に突き当たり、そこがトリニティ礼拝堂である。Photo
 ここは1220年から1538年まで、聖トマス・ベケットの廟が祀られていた。ステンドグラスは12世紀のもので、聖トマスにかんする奇跡や物語が描かれているというが、私たちにはよくわからない。
 トリニティ礼拝堂から側廊に向かうとすぐのところに「ブラック・プリンスの墓」が鉄の柵に守られて安置されている。ブラック・プリンスとは、「エドワード黒太子(こくたいし)」と呼ばれ、1330年イングランド王エドワード3世の子として生まれ、16歳にしてフランス王フィリップ6世の軍と白兵戦を戦い勝利するなど、早くから優秀な軍人として活躍した王子であった。45歳で病死したとき、まだ父王が健在であったため、王にはならなかった。
Photo_2 さすが連合王国の国教の総本山で、すべての規模や装飾が抜きんでている。オーディオ・ガイドを聞きながら歩くだけでも、ずいぶん時間がかかる。
 聖堂の見学を終えて大聖堂を出て、境内の庭園でひと休みしていたとき、私たちが座っていたベンチに、ひとりのおばあさんが、端の空き席に座っても良いか、と尋ねてきた。もちろん結構です、と答え、ついでにしばし話ができた。彼女は、このカンタベリーの住人であった。彼女の古い友人のひとりに、最近仕事をリタイヤーした日本人女性がいて、少し前にベルギーを訪れたのちに彼女の自宅を訪れて1週間ほど滞在し、付近を観光して帰ったという。その日本人は、イギリスをたいへん気に入って、できたらしばらくの間住んでみたい、と言ってくれた、と。自分もぜひ日本を訪れてみたいが、残念ながらまだ果たしていない、と。ゆっくりきれいな英語で話してくれたので、私にもわかり易かった。彼女の日本に対する印象はとても良くて、日本人は穏やかで礼儀正しく、親切だと思っている、と。この日本人への好感は、彼女が遭遇したその日本人の方々の態度のお陰である。こうしてまた、地元の人とゆっくり話せたのは幸運であった。[完]

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ブリテン島周遊クルーズ (61)

カンタベリー大聖堂 ベルハリー・タワーと聖歌隊席の門
Photo 地下聖堂を周囲をめぐって、入った時と反対側の階段から登って、再び地階に出ると、上にはベルハリー・タワーの丸天井が見える。繊細な扇形を組み合わせた美しい天井である。
 その下に、大理石で造られたとても大きな、奥行きも大きな門がある。これは14世紀に造られたという。

Photo_2
 この門をくぐると、聖歌隊席(クワイヤ)に入る。ここの聖歌隊席はとても大きく、両脇の聖歌隊にはさまれて、多数の信者たちがここに入り、正式な礼拝を行う場所となっている。12世紀に大火災にみまわれ、いったんほとんどが崩壊してしまったが再建され、現在は、ゴシック様式の壮麗な内装となっている。

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ブリテン島周遊クルーズ (60)

カンタベリー大聖堂 地下聖堂(クリプト)
Photo 殉教の場から脇の階段を降りると、大きな地下聖堂(クリプト)に行く。ここは祈りを捧げ、黙想を行う静かな場所であり、中心部は撮影も禁止されている。
 この部屋は、カンタベリー大聖堂のなかでも最も古い部分で、11世紀のロマネスク様式(ノルマン様式)が今に残っている。半円型のアーチ、丸みのある天井、装飾が施された円柱などが特徴である。
 1170年の暗殺事件直後から1220年までの間、トマス・ベケットの遺体はこの場所に埋葬されていた。
 この日も、静かに祈る信者が何人もいて、キリスト教者でないものには少し憚られるような、荘厳な厳しい雰囲気があった。

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