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散策

長岡京紅葉散策(7)

医王門からもみじ参道へ
Photo_20211231061101  拝観の順路は、実は本来の道順とは逆となっているらしく、勅旨門を眺めて大書院におりたら、最後に玄関に着いて、ここから履物を着けて建物から退出することになる。ここから総門までの、医王門を通り、緩やかにカーブして総門まで続く小路がもみじ参道と呼ばれる、紅葉のトンネルを抜けるような、この寺院の紅葉見物のハイライトとなっている。10年ほど前になるが、JR東海の京都観光キャンペーンで「そうだ京都、行こう」というのがあり、テレビでなんども放映された景観が、この小路の燃え立つような紅葉であった。Photo_20211231061201
 紅葉のピーク時には、小路を囲むすべての樹木が紅葉し、その紅葉が落葉して地面を紅葉で埋め、まさに極楽浄土のような雰囲気となるらしい。残念ながら今日はまだそれには早すぎたが、たしかにもみじの樹木は多い。
 この光明寺には、たしか10年余り前に一度訪れたことがあった。しかし今となっては記憶があいまいで、この度再訪して紅葉を真新しく楽しんだように思う。自宅からそんなに遠くないこの地に、こんな紅葉の名所があったことに、改めて感動した次第であった。

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長岡京紅葉散策(6)

信楽庭から勅旨門へ
Photo_20211229060701  御影堂のご本尊「張子の御影」の周辺は宮殿(くうでん)と呼ばれる。宮殿は黄金の蓮や天蓋をはじめとして様々に美しく飾られている。このような装飾がほどこされているのは、御影堂の内陣が極楽の荘厳の様子を現すように見立てられているからである。極楽の様子は『仏説阿弥陀経』という経典にくわしく述べられていて、極楽の美しさ、素晴らしさが目の前に浮かびあがってくるような、生き生きとした描写が続くという。阿弥陀様がおいでになる極楽には、七種類の宝石でできた池があり、池の蓮華は車輪のように大きく清らかな香りを放つ。池の上にある楼閣も金銀、ルビー、水晶、メノウなどで華やかに飾られているそうだ。この浄土には絶えず美しい音楽が流れ、昼と夜に三回ずつ曼荼羅華の花びらが散ってくるのだそうだ。
Photo_20211229060801  阿弥陀堂から入って、御影堂を通り、釈迦堂に至るその廊下から、信楽庭を眺めることができる。この辺りは廊下の装飾も豪華で、庭園の樹木、そして紅葉も華やかである。
 信楽庭を眺めてから釈迦堂に至ると、その正面には手入の行き届いた枯山水の石庭があり、対面して勅旨門がある。

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長岡京紅葉散策(5)

光明寺 御影堂と花手水
 走田神社を出て、さらに起伏に富んだ道をまた40分余り歩いて、ようやく光明寺に着いた。さすがに光明寺はかなりの人出だ、というのが境内入口の拝観受付の混雑を見ての最初の感想であった。Photo_20211227062901
 法然上人が24歳の時、学匠となるべき師を求めて叡山を降り奈良へ向かう途次、この粟生野の里で、村役人を勤めていた高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた。その時茂右衛門夫妻は、上人の真剣な求法の志と、広く大衆を救う道を求めての旅である事を知って「まことの教えを見いだされたならば、最初に私共にその尊い御教えをお説き下さいませ」とお願いした。そして時は流れ、承安五年(1175)3月、ついに浄土宗を開いた法然上人は、20年前の約束の通り、この粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたという。
Photo_20211227063201  さらに10年が経った文治元年(1185)、源平の戦いの戦功で有名な熊谷次郎直実が、戦いの明け暮れから積もる罪業を悔い、極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねた。そして「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に称えれば必ず救われる」との、あまりにも有り難い教えに歓喜し心酔した直実は、直ちに弟子となり剃髪した。
 直実は法力房蓮生と名付けられ、数年の修行の後、喧噪の地を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久9年(1198)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂くことができた。これが光明寺の発祥であると伝える。Photo_20211227063202
 さて、拝観料を支払って境内に入ると、最初に通るのが有名な表参道の広くゆるやかな石段と、それを囲む紅葉である。さすがに紅葉の盛りには少しばかり早いようだ。拝観料の窓口ではかなり人出が多いと感じたが、こうして広々した通路に出てみると、まだ人出は少ないのだろうとも思った。まだコロナ騒動の余波は残っているのだろう。
 長い石段を登り切ると、紅葉に囲まれた参道の正面に御影堂と大きな法然上人像が見えてくる。高さが4.8メートルもあり、法然上人の誕生850年を記念して、昭和57年(1982)に建てられたものだ。
 法然上人像の少し左手に手水舎があるが、コロナ騒動の煽りを受けて手洗いは禁止となっていて、ただ手水鉢のなかはきれいに花を活けて花手水として参拝客を和ませている。たしか京都市内の金戒光明寺では花手水があると聞いたことがあるが、私は迂闊にもなんどか金戒光明寺を訪れたのに、気がつかなかったままである。
Photo_20211227063001  御影堂(みえどう)は通常の寺院様式では本堂に相当する、浄土宗系の寺院に独特の中核となる建物である。御影堂には、法然上人の「張子の御影」が祀られている。法然上人がお母様からのお手紙を水にひたし、紙粘土のようにして、水面に映った御自分の姿を見ながら、自ら肖像を作られたのだという。この像を受け取り京都へ持ち帰った湛空という僧が、漆を塗って仕上げたと伝えられている。長らく二尊院に祀られていたというが、いつしか光明寺に移されたのだともいう。お堂のなかは、さほど明るくはないのでこの御影像もあまりよく見えない。
 この建物も応仁の乱をはじめ、何度も火災にあって元の建物は残っておらず、現在のものは宝暦4年(1754)に再建されたものである。大きさは18間四面(約33m四方、建築様式は入母屋、総欅(ケヤキ)造りとなっている。

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長岡京紅葉散策(4)

長岡天満宮から走田神社へ
 絶好の秋日和でもあって、久しぶりに西山の一角を散策したいと思い、北の方角に走田神社を経て、紅葉の名所たる光明寺まで歩くことを考えついた。Photo_20211223061901
 しかし長岡天満宮に東側の八条ケ池から入ったので、北に向かって出る出口がすぐにはわからず、社務所でまず尋ね、駐車場の出入り口で再び尋ねて、ようやく境内を出たものの、走田神社に向かう道がなかなかわからず、前方から自転車でやってきた親子連れに尋ねて、やっと走田神社の前を通るという光風美竹通りにたどり着いた。途中なんどかバス停に出くわしたが、バス停の時刻表は、1日に数便というごく稀な運行サービスが多い。しかし住宅地がひろがり、しかもかなり古くから開発されている地域のように思える。
 急ではないが、かなりの起伏が続く道を1時間弱ほど歩いて、ようやく走田神社に着いた。長い階段の途中に勧請縄(かんじょうなわ)があり、さらに登り切ったかなり高いところに社殿がある。
Photo_20211223062001  平成30年(2018)、台風21号の影響で境内を囲む鎮守の森の木々が多数倒れ、参道がふさがれた。それが除去されたあとは、森の木々が排除されてしまい、以前の走田神社を知っている人からは想像のできない雰囲気になってしまったという。
 走田神社の創建・由緒についてはよくわかっていないが、927年の延喜式の神名帳に記載されていたことから、平安時代にはあったようである。現在は藤原氏の祖神である春日神を祀っているが、近世以前は「妙見社」と呼ばれて妙見菩薩を祀っていて、隣接する寂照院という寺院の鎮守であった。
この地にはかつて海印寺という空海の弟子である道雄によって創建された寺院があったが、応仁の乱により焼失し現在は塔頭である寂照院のみが残っている。長岡天満宮といい、この走田神社といい、応仁の乱の被害というのは、この西山地区のような、京都中心部からずいぶん離れたところにまで甚大に及んでいることに、改めて驚く。明治の神仏分離によって、寂照院は走田神社と分離された。式内社では丹波国桑田郡にも同名の「走田神社」があり、社名から推測して早稲を作る田の守護神だったと言われている。

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長岡京紅葉散策(3)

紅葉庭園「錦景苑」
Photo_20211221071001   長岡天満宮の境内に、平成19年(2007)造営された紅葉庭園である。四阿(あずまや)に腰かけて滝の方を眺めると、大小の紅葉が拡がり、迂回して坂を登り絵馬殿の窓から東を望めば、眼下には大銀杏の黄と楓の紅を眺めることができる。今日はまだ銀杏は少し早いけれど。
 庭園の中ほどに南北に延びる弁天池には、大きな石橋が架けられている。庭園の一角にある菅原道真の歌碑は、貴船石の銘石でつくられているという。

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長岡京紅葉散策(2)

長岡天満宮
 八条ケ池を渡る中堤小路を突き抜けると、長岡天満宮への参道に至る。長岡天満宮の参道に入ると、紅葉の密度が高くなって赤色が鮮やかになる。Photo_20211217061001
 長岡天満宮は、文章博士菅原道真のゆかりのお社である。もともとこの地が道真の所領だったとの説もあるが、若き日々のひとときをここで過ごし、菅原道真が昌泰4年(901)に大宰府へ左遷される時、長岡に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだと伝えられている。この縁故によって、道真が自作したと伝える木像をお祀りしたのがこの神社の創立であった。創立年月は不明だが、応仁の乱(1467~1477)で兵火を罹り社殿が消失し、明応7年(1498)に再建したとの記録がある。以来、皇室の崇敬篤く度々の寄進造営が行われた。
Photo_20211217061101  その後荒廃していたが、明治になり中興の祖である宮司の中小路宗城が境内や奉賛会の整備を行って復興、長岡天満宮は宗城の代に村社から郷社、さらに府社へと社格を上げた。一代で二度の社格昇格は極めて珍しい例であるという。その後昭和3年(1928)には新京阪鉄道(現・阪急電鉄京都本線)が長岡天神の名前を冠した駅を開業させ、多くの参詣客と花見・紅葉見物で賑わうようになった。

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長岡京紅葉散策(1)

 今年は秋の声を聞いたのちしばらく雨も少なく温度も下がらず、秋らしい気分が訪れなかったのに、急に秋らしくなったと思うと涼しくなり、結局紅葉の見ごろは例年よりも早いという。思いだしたようにネットで紅葉の状況を探ったら、いろいろな名所で軒並み「見ごろ」表示が乱発していた。そんなわけで、慌ただしく家人と出かけた。ごく近い紅葉見物の名所として京都西山の長岡京がある。ここを久しぶりに散策した。阪急長岡天神駅を降りて、阪急電鉄の長岡天神駅周辺の散策マップをたよりに、晴天の下を歩いてみることにした。

八条ケ池Photo_20211215080401
 駅から10分ほど歩くと八条ケ池に着く。こんなに駅から近いのに、急に視界が開けて穏やかな水面と紅葉が楽しめる。
 江戸時代前期の寛永14年(1637)、八条宮智仁親王の寄進によって、長岡天満宮の灌漑用の溜池として造営された池である。細長い池を横断するように中堤の長い細道が続き、長岡天満宮の参道に続いている。途中にある石太鼓橋は加賀藩「前田候」の寄進と言われている。週末で絶好の快晴なのに、思ったほど混雑していないのは、緊急事態宣言が終わって2ヶ月近く経ったとはいえ、まだ人出が復活していないのだろう。中堤両側には、樹齢百数十年の霧島ツツジが多数植えられており、まだ少し盛りには早いが、そこそこ紅葉が楽しめる。

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赤穂小旅行(9)

赤穂温泉の食事と満月
 今回の小旅行のメインは赤穂温泉であった。グルメ・ガイドで食事がおいしいと評判だという旅館に宿泊した。
 ディナーはたしかに豪華であった。鯛の塩釜という名物メニューがあった。鯛1匹を3キロの赤穂の塩でくるみ、丸焼きする。


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大型のたい焼き用のような型に入れて、鯛の形の塩の塊として出てくる。鯛を包み込む殻となる大量の塩は、卵白をバインダーとして混ぜているので、再利用はできないという。これを木槌で叩き割る。塩の浸透圧でちょうど良い具合に塩味が鯛に浸みこみ、おだやかな鯛の塩焼きが出来上がるという料理である。鯛の捌きは、給仕係の女性が実に見事な箸づかいでテキパキとやってくれる。大きな鯛と思っても、3人で分けるとさほどの量はない。実に贅沢な食べ方である。そのあとビーフステーキも出てきたし、高齢者にはいささかキツイほどに満腹した。Photo_20211027061701
 せっかくの温泉であり、今回も夜2回、朝1回と、たっぷり温泉を楽しんだ。
 ちょうどこの日は、中秋の名月であった。しかも暦の関係でまったくの完全な満月と重なっているという。少し薄雲があったが、さいわい満月にはかかっていなかった。持参してしたポケット・デジカメで撮影したが、やはり多少ブレたのか、たしかに眼で見たような満月としては撮影できなかった。
 翌日の朝食も、なかなか充実した内容であった。ヒトは、おいしい食べ物で満腹できれば、それだけで幸福になれることを、再確認した。


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赤穂小旅行(8)

御崎の大石名残の松
Photo_20211025061201  伊和都比売神社の正面から、海沿いの遊歩道に降りる石段があり、往復1時間弱程度の海岸散策ができるようになっている。
 東にむかって少し歩いたところに「大石名残の松」という石碑があり、小ぶりの松の木がある。江戸吉良邸討ち入りの前年、元禄14年(1701)6月、大石内蔵助は妻子を御崎港から発たせ、大坂に移した。そしてそのしばらく後に、自らも御崎港から海路、山科に向かった。その出航のとき、御崎の岸壁に立つ老松を眺め、赤穂に名残を惜しんだと伝える。それがどの松なのかはおそらく不分明で、またどの松かが判明しても今ではすでに枯果てたであろうが、その故事にちなんで松の木を植えて、このように顕彰しているらしい。Photo_20211025061301
 この付近からは、海を隔てて家島諸島らしき岩陰が遠くに見える。切り立った美しい白い岩肌が印象的である。

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赤穂小旅行(7)

赤穂御崎伊和都比売神社
 今回は、御崎温泉街にある温泉旅館に泊まった。宿について夕食までに、赤穂御崎の散策ルートを歩いた。宿からすぐ近くにあるお社が伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)である。海に向かって鎮座する、航海安全と縁結びのお社である。Photo_20211021061101
 1000年余り前の延喜式神名帳に記載されている古社で、元々は伊勢外宮の豊受比売を祀っていたとも、あるいは播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社(現在の伊和神社)の神(大穴牟遅神 おおなむちのかみ)の比売神とも伝えられて、古くから「御崎明神」と呼ばれている。奥の山に洞窟があり、月読命と天鈿女命が祀られているが、公開はされていない。ここの前方海上の八丁岩の上にお祀りしてあったのを、天和3年(1683)浅野内匠頭長直がこの地に移したもので、「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞみる」と謡われているに、奇岩のうえに老松が舞う岩礁の社であった。東郷平八郎をはじめ、歴代の連合艦隊司令官の崇敬あつく、しばしば海から艦隊を率いて帝国海軍が参拝したという。

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