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散策

鎌倉 天園ハイキング(下)

Photo_20240118054401  天園から20分弱ほど、上がったり下がったりの道を歩くと、大平山という鎌倉市最高地点の海抜160メートルにいたる。
 ここからしばらくは少し下りが多いものの、やはり上り下りの繰り返しが続く。下りの道は、ときにかなり険しく、昨晩の雨で少しぬかるんでいて滑りやすいので注意が必要である。
 スタートから1時間半ほどで「十王岩」に来た。ハイキング・コースもいよいよ終盤である。
 十王岩から10分ほどで、建長寺半僧坊への降り口の道標があるところに来る。私は建長寺方向に向かう。Photo_20240118054402
 まもなく少し眺望が開けて、海側の景色が眺められる。さらに少し降りると、勝上嶽展望台からの眺望がある。
 そしてさらに10分ほどで、建長寺半僧坊にいたる。朝はいささか曇っていた空も、すっかり晴れ渡って気温も上昇したのだろう、歩き続けたこともあり、上着を脱いで厚めの長袖シャツ1枚でも、少し汗ばんでいた。
 Photo_20240118054501 建長寺の法堂近くまで降りると、大勢の子供たちが集まって、餅つき大会が開催されていた。もうすぐ新年を迎えることになることをあらためて思う。恒例年中行事も、季節感があって、微笑ましく楽しいものだ。
 若いころ何度か訪れたコースなのに、一部にかすかな記憶があるもののほとんどを忘れてしまっていた。それにしても、結果的には冬の好天に恵まれて、楽しいハイキングができた。Photo_20240118054502
 帰途は北鎌倉に向かった。久しぶりのハイキングで、いささか腹も減ったので、途中の高台のレストランで軽く昼食を摂った。ここも寛げる心地よいレストランであった。

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鎌倉 天園ハイキング(上)

Photo_20240117062601  もう四半世紀の昔となるが、20年弱ほど鎌倉に住んで、その間なんどか天園ハイキング・コースを歩いた。このたび、ほんとうに久しぶりにこのハイキング・コースをまた歩くことにした。
 鎌倉駅から大塔宮までバスに乗る。バス停でバスを待つ間に列をつくる人たちは、私と同年代に近いと思われる高齢者が多い。多くが、申し合わせてバス停で待合わせているらしく、挨拶と懐かしさの話題が溢れている。Photo_20240117062602
 バスに乗り終点大塔宮、つまり鎌倉宮につくと、天園ハイキング・コースを目指す人たちは、瑞泉寺方向に向かう。ここでかなり人数が減ったが、一緒にハイキング・コースを行く人たちがいるのは、久しぶりに来て道に疎い私としては心強い。
 スタートしてまもなく「永福寺跡」の石碑があるところに来る。ここは、現在鎌倉市が史跡の整備に向けて、発掘調査と土地の買収を進めている最中で、その整備工事の途中であるとの解説標示板がある。解説板の日付が2012年なので、私がこれまでまったく知らなかったのも当然か、と納得する。
Photo_20240117062603  天園への登り口に向かって進む。最初のころは比較的道幅も広く、傾斜も緩やかである。30分ほど歩くと、紅葉がまとまって鑑賞できるエリアに来る。もう12月中旬で本来なら紅葉には遅いのだが、今年は9月末まで残暑が厳しかったためか、今頃でもかなり美しい紅葉が残っている。
 スタートして45分くらいで天園に着く。ここからは海側に眺望が開けている。解説板と休憩エリアが設置されている。何人かの人たちが、座り込んでひと休みして、水やお菓子を採っている。
 昨晩雨が降り、今日は少し天候が危ぶまれるとの天気予報であったが、幸いに本格的な雨はないとの朝の予報であった。まだ少し雲が多いが、まずまずの天候と言える。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(15)

吉田松陰終焉之地
 水天宮通りをさらに南下すると、散策コース終点の地下鉄日比谷線小伝馬町駅にいたる。その駅の地上の一角が十思公園(じっしこうえん)となっていて、そこに吉田松陰の終焉にかんする石碑が建っている。Photo_20240116060301
 吉田松陰は、嘉永7年(1854)ペリーが浦賀に来航したとき、アメリカへの密航を図って自首して捕らえられた下田渡海事件のあと、国許蟄居となり、実家の杉家に幽閉の身となった。そのような状況下ではあったが、安政4年(1857)実家に隣接して松下村塾を開き、わずか1年程度の短い期間に幕末維新の大きな変革を推進して日本の運命を背負い切り開いた多数の志士たちを教育・育成した。
 しかし翌安政5年(1858)幕府が勅許なく日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝要撃、毛利敬親の伏見要駕などを試みようとした。いずれも期待した同志の協力を得られず実行できなかったため、草莽崛起を唱えるようになり、倒幕までも訴えるにいたった。
Photo_20240116060401  安政6年(1859)安政の大獄に連座し、江戸に送られこの地にあった伝馬町牢屋敷に投獄された。ここでの評定所の尋問において、松陰はみずから老中暗殺計画への加担を告白し、死刑を宣告された。安政6年10月27日、この場所で処刑された。
 この十思公園に、「吉田松陰終焉之地碑」も隣接して建っている。
 また辞世の句「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂」の石碑がある。
 吉田松陰の学問や講義の内容の詳細は明らかでないが、研究者によると松陰の思想の内容に特段の独創性は見られないという。ただ松陰の生き方や生活態度そのものが真に一途で強烈に熱を帯びたものであったことはさまざまな記録や伝承から判明している。頭脳だけでなく、その高潔な人格を前提とした全身全霊での教育だったようだ。【完】

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(14)

お玉ケ池種痘所記念碑
 昭和通りの岩本町交差点から靖国通りを東に向かうと、すぐに水天宮通りに差しかかる。水天宮通りを南下してすぐ次の交差点・岩本町三丁目の右角に、四角く黒く大きな「お玉ケ池種痘所記念碑」がある。Photo_20240115060501
 さらに進むと、次の角の少し入った小路のなかほどに「お玉が池稲荷」があり、そこから2つ先の角の右に「お玉ケ池種痘所跡」のレリーフと標柱がある。
 わが国では嘉永2年(1849)長崎出島のオランダ商館の医師によって最初の種痘所が開設された。それとは別に、長崎の通詞から京都へ痘苗が送られ、日野鼎哉により京都でも少し遅れて「除痘館」が開設され、種痘が開始された。これを知った緒方洪庵は、すぐ後に大坂でも「除痘館」をつくった。これらの動きは、さらに備中、越前などへかなり速く波及していった。
 江戸では、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし安政5年(1858)蘭方解禁となり、革新的な蘭方医たちが幕閣の開明派であった川路聖謨に働きかけ、川路を通して幕閣に働きかけ、種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとした。
Photo_20240115060502  安政5年(1858)老中堀田正睦から許可が下り、蘭方医83名の資金拠出により、この地にあった川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された。この種痘所は11月に火災で類焼するが、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮所として種痘は継続され、翌安政6年(1859)9月に別な場所に再建された。こののち幕府直轄とされ「西洋医学所」(東京大学医学部の前身)と改名し、種痘は同施設の一部門となった。
 医学所初代頭取は大槻俊斎であったが、大槻の死後、伊東玄朴らが大坂の緒方洪庵を推薦し、幕府の強い要請に応えて緒方が大坂から江戸に来て頭取に就任した。文久3年(1863)2月に医学所と改称した。緒方の死後、新選組の沖田総司を診察したことでも知られる松本良順が頭取となった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(13)

玄武館・瑶池塾跡
 中央通りに出たら南へ向かう。万世橋を渡って須田町交差点で左折して東方向に進む。須田町2丁目交差点で右に入り、すぐ左へ折れた先の右手に「玄武館・瑶池塾跡」の解説板が建っている。Photo_20240114061801
 北辰一刀流開祖の千葉周作は、文政5年(1822)日本橋品川町に道場「玄武館」を開いた。やがてそれはこの神田お玉が池の地に移転し、練兵館・士学館と並び称せられて、幕末の江戸三大道場に数えられた。
 この地は、当時学者が多数いて、門人たちも学門に接する機会が多く、政治に関心を持つ者が増えて、幕末の志士の運動に影響を与えた。千葉周作以下の千葉一門は、道場を経営しつつ水戸藩の師範となった者も多い。
 玄武館の東隣には、文政4年(1821)儒者東条一堂が儒学と詩文を教授するために「瑶池塾」を開いた。一堂は、京都の皆川淇園(みながわ きえん)の下で儒学を学んだ後、江戸で亀田鵬斎に師事して儒学をおさめたのであった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(12)

講武稲荷
 聖橋の脇の階段を下り、橋の下を東へ行くと、左側には湯島聖堂の壁が続く。坂を下りきると昌平橋交差点に行き当たるが、そのまま直進して、中央通りの方に少し行くと、左手に赤い小さな神社の祠が見える。これが「講武稲荷社」である。Photo_20240113060001
 神田旅籠町と呼ばれたこの付近は、もともと防災目的の火除地であったが、その目的に反しない範囲で食物屋や娯楽などに使用されていた。講武所を設置するとき、この地はその附属地とされ、附属地の利用料を徴収して講武所運営の資金の一部としていた。
 その後、大貫伝兵衛という男が講武所付属地の払い下げを出願した。大貫伝兵衛は、浅草の長昌寺にあった稲荷社に払い下げ成就の祈願をし、無事成就したので、感謝の意を込めて安政4年(1857)当地に稲荷神社を創建したのが当社の起源とされる。
 当地が火除地だったことから「火伏せの神」として、また幕末以降花街として発展したことから「水商売の神」として尊崇されるようになったという。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(11)

近代教育発祥の地
 明大通りをそのまま直進すると、まもなくJR御茶ノ水駅に出会うが、右折してその駅の前の道を少し行くと神田川にかかる聖橋があり、それを渡って右に行くと相生坂になる。かつてこのあたり一帯は昌平坂学問所がひろがっていたという。道の左側は東京医科歯科大学が聳えるが、その敷地内道寄りに「近代教育発祥の地」との解説板が建っている。Photo_20240112054801
 江戸時代このあたりは儒学の府たる孔子廟(聖堂)があり、その一部が昌平坂学問所(昌平黌)となっていた。寛政9年(1797)昌平坂学問所の学寮と宿舎が建てられ、旗本や諸藩の藩士に対して教育が与えられていた。
 明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校・大学校・東京大学と発展して行くことになった。
 明治4年(1871)政府に文部省が設置され、わが国の教育行政が本格的に着手された。この地には、明治5年師範学校(翌年、東京高等師範学校と改称)が開校し、ついで隣接地に東京女子師範学校が開設された。
 東京高等師範学校は、明治36年に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学、さらに筑波大学となった。東京女子高等師範学校は、昭和7年大塚に移転し、後に新制大学となるときこの地の地名を校名に冠して「お茶の水女子大学」となって現在にいたっている。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(10)

法政大学発祥の地碑
 明大通りを御茶ノ水駅の方向に少し上ると、杏雲堂病院の前に「法政大学発祥の地」の石碑が建っている。実際の発祥の地は、明大通りからこの杏雲堂病院の後ろ側に入ったところであったらしい。Photo_20240111060601
 明治13年(1880)フランス法学に属する金丸鉄・伊藤修・薩埵正邦・堀田正忠・元田直ら7名の法律家・司法省関係者によって、この地に東京法学社が創立された。フランス法学とわが国の新法を講義する構法局と、裁判の代言(弁護)を勤める人材を育成する代言局で構成されていた。翌年、構法局が分離・独立して東京法学校となった。学生に弁護士体験をさせるリーガル・クリニックを備えた現代の法科大学院の原型でもあった。
 明治16年(1883)には明治初期から来日し、わが国の不平等条約改定、日本の法制整備に大きな貢献をしたフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを初代教頭に迎えた。
 一方で明治政府は、明治19年(1886)フランス学の普及を目的とする教育機関の設立を計画し、「仏学会」を組織し、同年11月東京仏学校を設立した。この学校は、当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置の後は法律学校としての性格を強めた。やがて明治22年(1889)の仏学会臨時総会で、東京法学校と東京仏学校の合併ならびに和仏法律学校への改称が決議された。明治36年(1903)学校名を法政大学と改称した。さらに、大正9年(1920)大学令に基づく大学となり、わが国で慶応義塾大学、早稲田大学とともに、最も古い段階で大学令に基づく大学になったのであった。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(9)

小栗上野介生誕の地
 そのまま猿楽通りを進み、左折して金華公園の横の坂を登ると山の上ホテルの前に出る。このホテルのレストランは、とても居心地の良いところで、鎌倉に住んで居たころは何度か訪れたのが懐かしい。そこを経て明大通りに出会うと、YWCAビルがあり、その前に「小栗上野介ここに生まれる」と書いた解説板が建っている。Photo_20240110055401
 小栗上忠順(おぐり ただまさ、文政10年1827~慶応4年1868)は、2500石の旗本小栗忠高の子としてこの地に生まれた。成長するにつれて文武に卓越した才能を認められ、少年時代から自身の意志を憚りなく主張する性格となった。小栗家の屋敷内に安積艮歳が私塾を営んでいたので、ここで栗本鋤雲と知り合った。剣術は直臣影流免許皆伝を得た。
 結城敬之助から開国論を学び、大きな影響を受けた。天保14年(1843)17歳にして登城し、傑出した文武の才から若くして両御番となった。
 嘉永6年(1853)アメリカからペリー総督が来航したので、小栗は異国船に対処する詰警備役となった。小栗は、このころから外国との積極的通商を主張し、まず造船所の必要を主張するようになった。
 安政7年(1860年)幕府遣米使節一行の目付として、ポーハタン号で渡米した。代表は外国奉行新見正興であったが、目付の小栗が代表と勘違いされた。新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いて堂々としており、そのため代表に見えたとされる。
 フィラデルフィアでは通貨の交換比率見直しを交渉した。日米修好通商条約で定められた交換比率が不公平で、経済の混乱が生じていたのである。小栗は小判と金貨の分析実験データをもとに主張の正しさを論理的に説明したが、比率の改定には至らなかった。しかしこの交渉で、多くのアメリカの新聞は記事で小栗を絶賛した。また小栗はワシントン海軍工廠を見学し、日本との製鉄や金属加工技術の差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。帰国後は渡米時の功績を認められ加増され、外国奉行に就任した。
 慶応元年(1965)には横須賀に製鉄所の建造に着工し、また小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した。これらは、明治維新の後もわが国の近代化におおきく貢献した。
 鳥羽伏見の戦で幕府軍が敗北した後も、小栗はあくまで幕府と徳川慶喜の政権維持を絶対視し、恭順でなく主戦論を主張した。
 慶応4年(1868)1月、慶喜の天皇恭順方針にもとづき御役御免を申渡された後、小栗は自身の領知たる上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町)に隠棲した。まもなく同年閏4月4日、小栗は新政府東山道軍の命を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩の兵により捕縛され、取り調べもされぬまま家臣と共に引き出され、すぐ斬首された。享年42であった。徳川氏への忠誠の断固たる主張と、卓越した能力のために、新政府は彼の存在に危機感を抱いたのだろう。

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東京都心歴史散策─徳川氏関連を中心に(8)

東京音楽大学発祥の地の石碑
Photo_20240109054001  三崎町交差点に戻り、白山通りを南下して次の信号で左折して明大附属高・中等学校に突き当たったところで右折すると猿楽通りになる。まもなく左手の建物の前に「東京音楽大学発祥の地」の石碑が建っている。
 明治40年(1907)作曲家・音楽教育家であった鈴木米次郎によって、この地に「東洋音楽学校」が創立された。これを前身とし、昭和38年(1963)東洋音楽大学となったので、わが国最初の私立音楽大学ということになる。昭和44年(1969)名称を「東京音楽大学」に改称して今日にいたる。
 「音楽を通して社会に貢献する」という理念に基づき、西洋音楽に関する学問の探求と高度な音楽技量の修得を通じて、教養豊かな音楽家および音楽教育者を育成することをモットーとしてきた。これまで卒業生には淡谷のり子、黒柳徹子、船村徹、広上淳一、池田理代子、佐藤直紀、松下奈緒、藤田真央、小野あつこなどがおり、クラシック音楽界だけでなく広く芸術、芸能分野に多数の人材を輩出している。

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