近江八幡散策(6)
白雲館
日牟禮八幡宮の大鳥居の真正面に、かなり目立つ大きな洋風木造建築物が聳える。
白雲館は、見かけがいかにも洋風で、この地がヴォーリスの居住地でもあったことから、ヴォーリスの設計作品と誤解されることも多いと言うが、そのヴォーリスが生まれる3年も前の明治10年(1877)まったくの日本人大工たる高木作右衛門の設計で創建された疑似洋風建築物である。
近江商人たちが明治維新を迎えて、自分たちの子供の新時代の教育のために、商人や地域住民の熱意の寄付を募り、当時の金で6,000円を集めてつくった八幡東学校であった。開設当初、約200名の児童が在籍したが、興味深いのはわずかながら女児が男児よりも多かったという。男児は丁稚奉公などで江戸や大阪に出ていく者も多く、地域での男女バランスが偏っていたとの推測もあるが、とはいえ女性に対する初等教育への理解もかなり進んでいたと評価できよう。
学校として建設された白雲館であったが、生徒数の増加のため需要を満たすことができなくなり、わずか15年で学校としての役割を終えた。その後は、役場、郡役所、信用金庫などに流用され、昭和初期ころからは老朽化もあって空き家となっていた。
平成4年(1992)近江八幡市が修復工事に取り掛かり、平成6年(1994)八幡東学校当時の姿に復元された。現在は、近江八幡観光物産協会の事務所およびギャラリー・スペースとなっている。
なお「白雲館」の名前の由来については、日牟禮八幡宮のところで触れた藤原不比等の和歌から引用されたという説、鎌倉時代の臨済宗の僧白雲慧暁(はくうんえぎょう)に因んだとする説などがあるが、確かなことはわかっていないとの由である。
東日本大震災が起きたのは11年前のことであったが、その傷跡はいまだに大きい。そんなことを考えると、明治維新からわずか10年ほどで、まったく日本人だけでここまでの疑似洋風建築物を実現した、当時のわが国の大工さんの水準の高さに驚き、大いに敬服する。すでに江戸時代に、そこまでの素地を培っていたからだとも言える。

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