2019年6月
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散策

スカイツリー (2)

  スカイツリーからの展望
Photo_52  スカイツリーの展望室は、構造上360度の眺望というわけではなく、北方向から東方向の間は多少見えない角度がある。説明板やパンフレットの図と眼前の眺めを比較しつつ、見える対象を照合しようとするが、なかなか容易ではない。
 ゆっくり展望室を1周してから、今度はより高い450メートルの天望回廊に上る。しかし率直な実感としては、350メートルから450メートルまで、100メートルさらに上がっても、景観の印象には大きな差がないように思えた。もちろんいずれも値打ちある景観だけど。Photo_54
 ここからほぼ真北の100キロメートルあまり先には、日光があるはずだという。その背景に男体山や赤城山らしい山影がうっすらと見えるようにも思えるが、定かではない。それらのはるか手前では、北西から南東に向けて流れる荒川の大きな流れがあり、そこに向かって北上して荒川の手前間近で西に急カーブを描く隅田川が見える。今では、荒川の手前は高層ビルが林立し、荒川の向こう側にも多数のビルが立て込んでいることに改めて感銘を受ける。
 西方向には、真下にアサヒビールの黄金のモニュメントがあり、隅田川の対岸には浅草寺の建物と仲見世も見える。上野公園と皇居の緑地の拡がりも見える。その右奥には、新宿副都心の高層ビル街があり、ビルの多い東京市街地のなかでも、とりわけ高層ビルが多いのがわかる。
 早春の絶好の快晴に恵まれて、のんびりと展望室から下界を眺めて回っただけでも、十分満足できたひとときであった。

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スカイツリー (1)

 東京に出かける機会があり、当初は別の訪問先を予定していたが、たまたま快晴との天気予報に予定を変更して、はじめてのスカイツリー訪問となった。

スカイツリーへの行程と富士の眺め
 地下鉄浅草駅から京浜急行線に乗り換えて、スカイツリー最寄りの押上駅に向かう。Photo_50
 浅草駅からは、スカイツリーが間近に見える。私は中学1年生の夏休みに初めて東京に来て、東京タワーを見た。そのときは東京タワーが建ってからまだまる3年が経っていなかった。当時はビルの高さは31メートル以下に規制されていて、東京市街といえどもせいぜい8回建てのビルしかなかったので、東京タワーは大東京の市街地にさっそうと聳え立つ、とても高い、とてもインパクトの大きい建造物であった。その思い出に比べると、たとえ視角による錯覚とはいえ、現代のスカイツリーは、高さが東京タワーの2倍近くあるにも関わらず、高層ビルの間から覗くことのできる、なにか可愛らしい塔という印象である。
Photo_51  押上駅の地下コンコースには「Tokyo Skytree Town」の看板を掲げた回廊があり、そこから地上4階までエスカレーターで上ると、スカイツリー入り口に着く。スカイツリーには、地上高350メートルの「天望デッキ」と地上高450メートルの「天望回廊」の2つの展望施設がある。まずは入場券を購入して「天望デッキ」まで、長い高速エレベータで上る。
 地上高350メートルまで上ると、たしかに遠くまで眺望が開ける。少し春霞のためか、うっすらと霞がかかっているけれど、南西方向にはるか100キロメートルかなたの雪を冠った富士山が見える。
 その左手の方に、8キロメートルほど離れている東京タワーが見える。これは高層ビルに挟まれて、塔の上部のみが覗いているという感じである。

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2019年の京都花見

Photo_41   今年は3月下旬から暖かくなって、開花は例年より早かった。ところが開花の半ばで急に寒の戻りがあって、桜花があたかもフリーズドライのように凍結されて、満開までにかなり時間がかかった。結果として桜を愛でる期間は2週間ほどにおよび、ゆっくり桜を楽しめる春であったとも言える。
平野神社と京都の桜
   京都に平野神社を訪れた。阪急電車京都線の大宮駅で降りたち、京福電鉄に乗り換えて帷子ノ辻駅からさらに北野線に乗り換える。終着の北野白梅町駅までの間に、有名な桜のトンネルをくぐることになる。しかし、桜のシーズンの最中には、車中の桜のトンネル鑑賞に好都合な場所は、早くから大勢の乗客に占領されてしまって、事情を知らずにのんびり座席にすわった私たちは、大勢の人々の頭ばかりを鑑賞することになった。
Photo_42  北野白梅町からは、10分あまり歩いて、ようやく平野神社に着いた。
 平野神社は、由緒によると創建は平安京のはじめに遡る。もとは奈良の平城京に、桓武天皇生母の高野新笠の祖神、つまり桓武天皇外戚神として祀られた神祠があった。それが平安京遷都にともない大内裏近くに移し祀られたのがこの御社だという。平安時代には例祭として「平野祭」が執り行われ、皇太子自ら奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から、氏神として崇敬された。
 現在の本殿は4殿2棟からなる「平野造」と称される独特の形式の造りで、国の重要文化財に指定されている。現在は、江戸時代前期寛永年間(1624-1644)に西洞院時慶によって再建された建物が残っている。1_3
 境内に着くと、さっそく多数の満開の桜に囲まれた。この神社は、ソメイヨシノ以外の品種もバランスよく植樹されていて、1か月弱ほどの長い期間にわたって桜花が楽しめるのが特長だという。でも今回は、ソメイヨシノの満開時に訪れたので、普通の花見と同様に、専ら満開のソメイヨシノを楽しむことになった。
 境内のなかに、花見専用に特別の区域が仕切られ、料金を支払って入場するようになっている場所がある。せっかく来たので、迷わず入場したが、たしかに立派な桜花があるのだが、この場所以外も負けず劣らず立派な桜花が並んでいる、というのが率直な感想である。
Photo_46   桜木は樹木の中では、比較的寿命が短いという。とくに日本の桜の代表であるソメイヨシノは、寿命が40年くらいで、だいたい30~50年ごとに植え替えるのだそうだ。こうして見つめている桜も、私が若いころに植樹されたものだということになる。思えば、こうして眼前に愛でている桜は、私と同じ時代を生きてきた桜木なのである。私も喜寿を超えて、死期を考えるようになった。自分と同じ時代をともに生きた桜木と思うと、親近感を感じて愛しさも一入である。おたがいこれまで生きてこられたんだね、と語りかけたい気がするのである。
 この日は、平野神社のあと隣接する北野天満宮を訪れ、そこには桜はなかったが、帰り道で阪急電車河原町駅近くの、高瀬川沿いを少し散策したところ、満開を少し過ぎて散り際の美しい桜花をゆっくり見ることができた。
 こうして今年も桜を存分に楽しむことができたことを、天に感謝したい気持ちである。

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那覇・台湾クルーズ (20)

航行中の船内生活
Photo_37    今回のクルーズ旅行は、沖縄、横浜、名古屋と、唯一の外国台湾基隆への寄港で、主に国内の旅行であり、雰囲気も台湾と日本のものであった。以前に参加した中東やブリテン島などのクルーズ旅行ではアメリカや欧州の乗客が多かったのと異なり、乗客は日本人が多く、それに合わせて食事も日本食的なものも多くあり、その意味では馴染みやすい面もあった。
1_2  毎晩、40分から1時間弱のショーが劇場で催される。この度はこれがいつも満員で、開演時刻の20分程度前から入場しないと座席が確保できない、という状況であった。ショーは、マジック、オペラや映画の音楽の演奏、オペラ歌手のワンマンショー、アクロバット、などで、半分以上の演目はまずまず満足できるものであった。 Photo_38
  劇場以外の場所でも、たとえばイギリス人落語家「ダイアン吉日」の英語・日本語混淆の落語という興味深い演目などもあった。ダイアン吉日さんは、イギリスのリバプール生まれの女性で、若いころにバックパッカーとして世界20か国以上を放浪して、たまたま30年近く前に日本の文化、とくに着物に出会い、深く感銘し魅せられて、日本に定住した。そして桂枝雀の英語落語を知り、弟子入りして1998年から本格的に落語を勉強したという。外国人にも日本人にもわかりやすいように工夫をこらした英語での創作落語、古典落語を得意とする。今回は古典落語「ときそば」を、現在の彼女の住処であり大好きな大阪にちなんで「ときたこやき」として、英語と日本語の両方で解説的に話を進めていく。日本語も完璧で、なにより落語の技能もしっかりしている。私たちは、たまたま「キャプテン・パーティー」に参加したいため、途中で退席したが、なかなか印象的なパフォーマンスであった。
Photo_39  私たち乗客が参加する催しは、さほど多くはなかったが、フィットネス・クラブのほか、ズンバ・ダンス、バルーン・ドロップ、日本語と英語のカラオケなどがあった。
 旅行日程のうち2回はフォーマルの服装でのディナーがあった。食事時などの従業員のサービスは、まずまず良好であった。

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那覇・台湾クルーズ (19)

ヘリコプターによるクルーズ客の緊急救出
 私たちの船が、台湾の基隆港を出て、2日間の行程で横浜に向かっているその1日目の午前11時ころ、船室に緊急放送が鳴り響いた。船内に緊急を要する事態の人が発生したので、まもなくヘリコプターが飛来して、最寄りの沖縄の病院に緊急移送する、ついては甲板の上と一部上層階の部屋(フィットネス・クラブなど)はしばらく立ち入り禁止となる、というものであった。放送の内容には、どのような緊急を要する病態なのかは不明だが、なんらかの重篤な病変が乗客のひとりに発生したのだろう。
 私たち乗客は、冷静に昼食を摂りにカフェテリアに行ったが、ここでも2回目の放送があり、今から30分ほどのうちにヘリコプターが飛来するが、乗客は冷静に待機ください、という。しかし1時間以上経過しても、ヘリコプターが飛来するような音はない。
 かなりたくさんの人たちが、立ち入り禁止が出ていない範囲の最上階の露天の場所に出て、ヘリコプターを待った。そのうちに、ヘリコプターではない哨戒機のような小型飛行機が上空を旋回して、やがて去っていった。たくさんの人たちが、かなり寒い屋外で、上空を見上げつつヘリコプターの到来を待ち続けた。
 ヘリコプターが飛来したのは、最初の放送があってから3時間以上が経過したころであった。そのとき船は往路の航路から少し北側の沖縄沖を通過していて、航行速度は大幅に落としていた。それでも停止したわけではない。ヘリコプターは、最初に接近したときは旋回し、やがて最接近してピタリと船の真上10メートルくらいの位置に相対的に停止した。ヘリコプターは、精密に船と同じ方向に同じ速度で動いているのである。ヘリコプターのホバリングは、映像ではなんども見たことがあるが、こうして実際に直視すると、その優れた精度に改めて感動する。
ヘリコプターから、人がひとりロープを下げて船の甲板に降り立った。その降りるスピードの速さに、私たちは一様に驚いた。こんなに急速に甲板に降り立って、よく骨折などを生じないものだと感心した。まもなく二人目が、同じように下りた。
 するとヘリコプターはいったん船から離れ、遠くへ飛び去った。ここまでは、ヘリコプターから2人の救助員が船に降り立ったところである。おそらく救助対象の患者の船室から甲板への移動や、その患者のヘリコプターへのつり上げの準備を、2人の救助隊員を中心に進めているのだろう。

Photo_35

 数分して、遠方から再びヘリコプターが来て、船の上に位置を固定した。もちろん船は、低速とはいえ進行中である。ヘリコプターは船の真上にしっかり位置を固定し、ローブを船の上に垂れ落とした。するとまもなく、隊員のひとりが患者を抱きかかえてロープで吊り上げられた。これもかなり速かった。もうひとりも追ってロープで吊り上げられ、直後にヘリコプターは飛び去った。甲板上の乗客たちから拍手が起こった。
 予想以上に待ち時間が長かったが、救出の瞬間は感動的であった。

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那覇・台湾クルーズ (18)

  徳川園 徳川美術館「尾張徳川家の雛まつり」
 ちょうど雛祭りシーズンで、それにちなんで「尾張徳川家の雛まつり」という特別展が開催されていた。Photo_33
 京都を起点として花開いた寛永文化をうけて、寛文期(1660年代)に京都の雛屋次郎左衛門が創作した雛人形は「次郎左衛門雛」と呼ばれ、平安時代の王朝風を連想させる大きな丸顔、細い目、かぎ鼻、小さな口が特徴である。
その発展様式として、「享保雛」(享保年間、1720年代ころ)は面長な顔、切れ目、そして静的な能面のような表情が特徴となる。しかし衣装は装飾性に富むようななった。この様式は、元禄時代を経て発展した富裕な商人のあいだで普及したという。
 そして雛人形の様式は「有職雛」で朝廷の仕来りを基準に徐々に整理され、幕末以降の標準的な様式となった。内裏様は衣冠束帯、直衣、狩衣が、御姫様は十二単がそれぞれ基準となった。
Photo_34    今回の展示のハイライトは、第11代藩主徳川斉温(なりはる 文政2年(1819)5月~天保10年(1839)3月)の継室として京都近衛家から輿入れした福君(さちぎみ)の輿入れにかかわる諸道具と、雛祭り関係の人形道具との展示である。天保期の道具と人形であるが、輿入れにともなって制作されたさまざまな道具や衣装が展示され、それらを忠実に模し制作技術も忠実に踏襲した、際立って手の込んだミニチュア版としての雛人形・道具があわせて展示されているのである。不幸にも20歳そこそこで夫君の徳川斉温が亡くなり、それを追うように福君も同様な夭逝であったこともあり、こうしてほとんど手つかずのきれいな状態でそれらの道具や人形が残されているのである。たしかにこれは、見応えがあった。
 ともあれ帰船の制限時間が早かったので、私たちは早々に徳川園から立ち去らねばならなかった。

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那覇・台湾クルーズ (17)

徳川園の庭園
Photo_28  この日は、たまたま桃の節句の当日であり、庭園内の「龍仙湖」で「流し雛」が行われると、バス停から徳川園まで案内いただいた人から聞いたが、入園時に受付の人に尋ねてみると、「流し雛」はまず流す雛人形をそれぞれ自分で制作し、そのあと順番に自分で湖に浮かべるという段取りであり、全体で数時間を要するとの由であった。私たちは、船に午後3時半までに帰ることが必要であり、徳川園に着いたときがすでに午前10時を過ぎていたから、確実に帰船するための余裕を考慮すると2時間余りしか時間がなく、到底無理であった。
Photo_30   庭園入り口から入ると、最初に「虎仙橋 こせんきょう」を渡ることになる。渓谷美を表現する人工的な清流が設えられ、虎仙橋はその上に架かっている。この流れは、秋には紅葉が樹木の間を縫うように流れて龍仙湖にそそぐので、「虎の尾」と名付けられている。
 虎仙橋を渡り終えると、林の中の小路のような設えとなって、そこをさらに進むと「大曾根の瀧」がある。この瀧は、落差6メートルの三段の滝で、上・中・下の各段の岩の組み方を変えて、水しぶきの表情をそれぞれに異なるように設えてある。この滝の背後の山は、この徳川園のなかでもっとも高く、龍仙湖の水面から約11メートルの標高差であるという。Photo_31
 大曾根の瀧の後ろ側にまわると、木立にかこまれたこじんまりした休み処として「四睡庵」がある。「四睡」とは、禅の境地を表す画題のひとつで、豊千禅士・寒山・拾得の三人が虎と寄り添って眠る情景で、禅の真理、妙理、境地を示すとされる。この四睡庵のすぐ脇に「水琴窟」という名のちいさな蹲がある。手水鉢の地下に穴をあけた常滑焼の瓶を逆さにして埋め、水滴が穴から下に落ちると、瓶が共鳴体となって反響して澄んだ音を奏でる。小堀遠州がアイデアを考案したとも伝えられている。私たちも実際に水を落として、反響の音を聴くことができた。
Photo_29  四睡庵から庭園の縁に沿って少し歩くと、龍仙湖を区切る「西湖堤 せいこてい」がある。白楽天や蘇東坡など、中国の文化人たちが愛した景勝である中国杭州の西湖の湖面を分ける堤防を模したもので、東京小石川後楽園、広島縮景園などの大名庭園にも取り入れられている様式である。
 龍仙湖の脇の緑のなかに、藁でおおわれた牡丹の花がところどころにある。冬牡丹も華やかで美しい。

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那覇・台湾クルーズ (16)

名古屋 徳川園の沿革
 いよいよ最終日程の名古屋港に着いた。港の金城埠頭ターミナルからシャトルバスが出て、数分であおなみ線「金城ふ頭」駅に着く。ここから約30分で名古屋駅に行くことができる。この「あおなみ線」は、昭和25年から国鉄貨物船として名古屋港金城埠頭と名古屋駅の間で運行していたものを、平成16年(2004)から旅客営業をはじめ、名古屋臨海高速鉄道株式会社に営業移管して運営されている、名古屋港と名古屋都心をむすぶ貴重な交通機関である。Photo_26
 あおなみ線で名古屋駅に着いたが、ここで徳川園に行く市バスに乗り継がなければならない。改札口で市バスの乗り場を聞いたが、あおなみ線の改札口は太閤通口にしかなく、大きな駅構内をぐるっと歩いて、ようやく桜通り口の南側にある市バス停留所にたどり着いた。
 バスに乗ったが名古屋の市街は広く、「徳川園新出来」のバス停まで30分近くかかった。バスを降りて間もなく、徳川園にこれから行くという地元の人に出会い、ついていくことができた。バス停から10分近く歩いて、ようやく徳川園の入り口に着いた。船を降りてから、早くも1時間半ほどが過ぎていた。
Photo_27  徳川園は、第二代藩主であった徳川光友が、元禄8年(1695)自らの隠居所として名古屋城本丸から東に3キロメートルほど隔てたところに大曾根屋敷を造営したことを起源とする。13万坪におよぶ広大な屋敷であったが、光友の没後この地は尾張藩家老の成瀬・石河・渡邊の三家に譲られ、さらに明治22年(1889)からは名古屋城を明け渡した尾張徳川家の邸宅となっていた。
 第19代当主義親は昭和6年(1931)、邸宅と庭園を名古屋市に寄贈し、市が改修工事ののち「徳川園」として一般に公開した。しかしさきの大戦で大空襲により、ほとんどの建物と樹林が焼失した。戦後は、近代的な都市公園として全面改修し、運動公園などとして市民に利用されてきたが、平成13年(2001)から日本庭園として全面的な再整備を行い、平成16年(2004)に新しい徳川園として開園したのであった。したがって園内の庭園と建造物のほとんどは、平成13年以降に新築されたものである。

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那覇・台湾クルーズ (14)

山下公園からアメリカ山へ
 赤レンガ倉庫の中のお店で、少し買い物をしたり焙煎珈琲をいただいたりして、海側に出てみると、ちょうど市民マラソン・リレーの大会が行われていた。絶好の早春の快晴のなか、さぞ心地良いことであろう。Photo_21
 海沿いの小路をのんびり歩いて過ぎて、山下臨海線プロムナードの橋上路に入った。左手に私たちのダイヤモンドプリンセス号を眺めつつ、山下公園へ向かう。
 山下公園は、20年弱ほど湘南に住んでいたころは、たびたび訪れたなつかしい場所である。ベイエリアのあちらこちらが四半世紀以前とはかなり印象が変わってしまったが、この山下公園はじゅうぶんに以前の面影をとどめている。
 山下公園を過ぎて元町商店街のスタート地点にくると、ここは以前とはずいぶん変わっていた。アメリカ山の山裾を切り開いて地下鉄元町・中華街駅の上に商店のビルを建設し、そのビルのなかのエレベーターやエスカレーターを介して、地下鉄駅から直ちにアメリカ山に登られるようになっている。
Photo_22

 アメリカ山公園は、全国初の立体都市公園であり、横浜開港150周年となる平成21年(2009)に一部開園し、平成24年(2012)に全面開園となった新しい施設である。
 このあたり一帯は慶応3年(1867)以来、開港された横浜港の外国人居留地があったところである。このアメリカ山がある場所は、当初アメリカ公使館のために予定されていたが、当時のアメリカ公使ヴァルケンバーグはこの地に住まず、現在の山手中・高等学校の場所に住んで、ここには代わりにアメリカ公使館書記官であったポートマンが住んだ。明治9年(1876)からはイギリス人医師ウィーラーが住み、大正12年(1923)9月の関東大震災でウィーラーが死ぬと、永代借地権が民間に売り渡され、以後は民有地となった。
 さきの大戦敗戦後、アメリカ軍によって接収され、米軍の住宅が建てられた。昭和46年(1971)になって返還されて国有地となり、平成16年(2004)横浜市が取得して、ようやくアメリカ山の整備に至ったのであった。

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那覇・台湾クルーズ (13)

横浜 汽車道から赤レンガ倉庫へ
Photo_19  船を降りると、シャトルバス・サービスでJR桜木町駅まで行くことができた。ここから横浜港周辺の景色を楽しみながら、汽車道を歩いて赤レンガ倉庫へ向かった。汽車道は、明治44年(1911)開通した旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(税関線)の廃線跡の一部にあたる約500mの区間を、レールを残したうえで緑地として整備したものである。私たちが大阪に移転する少し前に整備されたので、あまりなじみがなかった。板張りを取り入れた、快適な遊歩道である。
 この汽車道の中ほどには、「港二号橋梁」という古い鉄橋がある。通行する機関車の重量化にともない明治30年ころから導入されたアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものだそうだ。
 汽車道を渡りきると、ナビオス横浜の下をくぐって赤レンガ倉庫に向かうが、その南側の広場では「パンのフェス2019」という催しが開催されていた。入場料を支払って会場に入り、さまざまなパンを味わうということらしいが、私たちは時間の制約があり、参加できなかった。

2-2019
 赤レンガ倉庫のそれぞれの建物は、明治末から大正初めに新港埠頭保税倉庫として建てられたものである。当時、幕末の横浜開港からすでに半世紀が経ち、港湾施設として近代化が課題となっていた。明治38年(1905)施設拡張のための埋立てが完了し、引き続いて埠頭の拡張と陸上設備(上屋、倉庫、鉄道、道路)の整備が進められた。赤レンガ倉庫はこの後期工事の中で、国営保税倉庫として建設されたのであった。さきの大戦の敗戦後には、GHQによって接収され、接収解除ののち1960年代までは貿易の拡大にともなって大いに活躍したが、1970年代以降は貨物のコンテナ化が進展して取り扱い貨物量が激減して本来の用途がなくなり、1980年代からはテレビドラマや映画のロケ用としての場所となった。 Photo_20
 昭和末年のテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされて注目を浴びたこともあった。平成元年(1989)には倉庫としての役割を終え、その後しばらく放置されていた。
 1992年(平成4年)、「横浜みなとみらい21」の整備にともない、横浜市が赤レンガ倉庫を国から取得し、周辺地域と一体的に再整備がすすめられた。また関東大震災で倒壊した横浜税関事務所の遺構や旧・横浜港(よこはまみなと)駅のプラットホームなども復元され、山下公園まで続く山下臨港線プロムナード(汽車道)も整備された。こうして、平成14年(2002)、赤レンガ倉庫を中心とした付近一帯は、展示スペース、ホール、広場、店舗からなる横浜赤レンガパークとしてオープンした。

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