2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
フォト
無料ブログはココログ

散策

2017年の紅葉見物(1)

 今年はかなり暑い真夏のあと、短い秋がすぎて急速に寒くなった。この気候の推移から、なんとなく紅葉は期待できそうだと思っていた。ところが11月に入って葉が色づくころから雨の多い秋となった。予定した紅葉見物の日程が相次いで雨天となり、ともかく雨を逃れて紅葉を見たいと出かけたのが今回であった。

青蓮院3

  阪急河原町駅から、四条通りを東に歩き、祇園に八坂神社を抜けて円山公園に出て、知恩院の前を北に少し上ると青蓮院である。
 入り口には、天然記念物のクスノキの大木が2本聳える。一見はさほど大きそうには見えない門構えをくぐり、寺院のなかに入る。
 青蓮院は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡寺院のひとつである。当初は比叡山山頂の東塔南谷にあった房のひとつであった。平安末期に行玄大僧正が京都に院の御所に準じて殿舎を建てられ住居とした。久安6年(1150)最勝寺経供養の日を祈祷により晴天にしたことにより、この住房を皇后の祈願寺として、青蓮院と称されることとなった。行玄大僧正は藤原師実の子であったが、そのあとも明治にいたるまで門主は皇族あるいは五摂家の子弟に限られた。

1 室町時代に第17世門主となった尊圓親王は、書道にとくに秀でて和風と唐風を融合した日本独自の書風を樹立し、これが「青蓮院流」として後世に伝えられた。私たちが目にできる多くの古文書の書風も、基本的にはこの書法を基準としている。
 応仁の乱では兵火に逢ったが、徳川幕府は殿舎の造営に尽力し、17世紀に東福門院の旧殿を移して宸殿とした。18世紀後半には、天明の皇居火災のときこの青蓮院を仮御所とされ、ここ境内の小御所に滞在された。
2
 境内は外から想像するよりもはるかに広大で、仮御所として用いられただけあってか、洗練された美にあふれた空間である。相阿弥・小堀遠州・大森有斐がそれぞれ作庭したという庭園も素晴らしい。
 肝心の紅葉だが、期待していたほどには真っ赤な紅葉が多くはなかった。庭園の手入れをしているらしい人に、家人が訪ねてみたが、今年はちょうど今くらいが盛りでしょうとのことであった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東大阪散策 田辺聖子文学館

  近鉄奈良線河内小阪駅から線路沿いに少し西に歩いたところに、大阪樟蔭女子大学がある。このキャンパス内にある大学図書館の一角に「田辺聖子文学館」がある。
  大学の門を入ってすぐの守衛さんを訪ね、文学館への入門許可証をもらって、それを首にかけて入ることになる。
Photo
  大小4つの部屋展示室からなり、田辺聖子の生い立ち、文学作品一覧と箴言のディスプレイ、作家活動をする部屋の再現模型、そしてビデオ鑑賞室となっている。
  田辺聖子は昭和3年(1928)大阪市福島区の祖父の代から写真館を経営する家に長女として生れた。幼いころから読書が大好きで、とくに日本の古典文学に傾倒した。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校の日本文学専攻科へ進学した。そのころの目標は、母校の国語、とくに古典の先生になることであったという。樟蔭女子専門学校で学んだ3年間は、戦中と戦後がちょうど半分ずつという数奇な経験であった。

Photo_2  専門学校卒業ころに父が亡くなり、弟・妹を支えるために給料の良い民間会社に勤務することにした。昭和22年(1947)から大阪の金物問屋に勤めたが、ここで大阪商人の生きざまを目の当たりにするとともに、大阪の庶民文化に深く親しむ機会となったという。
  すでに専門学校在学中に『少女の友』に投稿した「さら」という作品が川端康成に認められて活字となっていた。勤務するようになっても、大阪文学学校の同人として書き続け、『花狩』がラジオドラマに採用されたこともあった。大阪弁を敢えて導入し、恋愛小説などを書いていた。
昭和39年(1964)39歳のとき『感傷旅行』で芥川賞を受賞し、いちやく人気作家となった。しかし本人としては大衆小説に重点を移していき、戦後の活気にあふれた大衆文学界の寵児となった。昭和41年(1966)文学仲間のひとりであった川野彰子の追悼文を書いたことがきっかけで、その元夫であった開業医川野純夫と結婚した。
平成7年(1955)紫綬褒章、平成12年(2000)文化功労者、平成20年(2008)文化勲章を受賞している。
今回、ビデオ鑑賞室で平成19年(2007)ここ田辺聖子文学館が設立されたときの記念ロング・インタビューと、翌平成20年(2008)文化勲章授章時のインタビューとを観た。かなり長時間にわたる収録だが、話す内容がなかなか充実していて、あっという間に終わったように思えた。
田辺聖子は、個々の人間にとっては、他人からはなんでもないごく些細なことのなかに、とても大事なことがあって、それを丁寧に取り上げることが自分の大衆文学の使命である、とする。たしかに天下国家や大社会からみたら、個々人の「大切なこと」の大部分は取るに足らないことであろう。自信をもって視点を転換して、そういう個々人の「大事」を文学にすることこそが、田辺聖子の文学であるというのは、とても説得性がある。
展示室でディスプレイされる田辺聖子のアフォリズムもそれぞれ心を打つし、展示されている原稿の軽妙な大阪弁の文章も、改めて眺める見事な表現である。
思いの外長時間を過ごしてしまったが、なかなか充実した時間であった。

 人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東大阪散策 司馬遼太郎記念館

  近鉄奈良線で石切駅から八戸ノ里駅に向かう。駅の数はあっても同じ市内、10分あまりの行程である。八戸ノ里駅に降り立つと、道路の脇や地面上に「司馬遼太郎記念館」への行き先標示がたくさん設置されている。おかげで迷うことなく約10分弱歩いて、記念館に到着できた。Photo
  ここは、作家司馬遼太郎の自宅があり、隣接して安藤忠男設計による記念館がある。われわれ一般人が入館できるのは、記念館だけである。
  自然の植生を尊重したという広い庭園を進み、安藤忠男らしいコンクリート打ち放ちの記念館の外側通路を歩き、入り口に着く。階高の高い円筒型の特徴ある建物である。

Photo_2
  司馬遼太郎は、大正12年(1923)大阪市に生れたが、乳児脚気を煩い、3歳まで奈良県北葛城郡当麻町の母の実家に預けられた。小学校から大阪市に戻り、旧制大阪外国語学校に入学した。中学時代から本に没頭し、そのなかで世界地図に出てくる奇妙な蒙古語由来の地名に興味をもったことが、外国語学校で蒙古語を専攻した動機であった、と館内の紹介ビデオで説明があった。
  昭和18年(1943)学徒出陣のため大阪外国語学校を仮卒業し、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊、満州の陸軍戦車学校を経て、満州牡丹江にいた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属された。昭和20年(1945)本土決戦のためとして内地に帰還し、栃木県佐野市で陸軍少尉として終戦を迎えた。この戦争体験が、強い「反陸軍」意識を醸成して、以後の司馬遼太郎に大きく影響を与えたという。
 戦後は、在日朝鮮人経営の新世界新聞社を経た後、昭和23年(1948)から産経新聞社の記者となった。このころから30歳をすぎたら作家になろう、と決心したと本人は言っていたそうである。
  昭和30年(1955)初めての作品『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を、福田定一の本名で発表した。翌昭和31年からは司馬遼太郎のペンネームを使用して小説を発表するようになった。昭和34年(1959)同じ産経新聞社に記者として勤務していた松見みどりと結婚した。そして昭和35年(1960)小説「梟の城」で直木賞を受賞したことをきっかけに産経新聞社を退社し、以後作家活動に専念するようになった。
 以後平成8年(1996)腹部大動脈瘤破裂のため72歳で急死するまで、華々しい作家活動を精力的に続けた。
 記念館には、4万冊にのぼる蔵書のうち約半数を収蔵するという。壁やショーケースに展示されている原稿などを垣間見ても、その筆力、読者の心に迫ってくる表現力のすごさには、あらためて敬服する。
 司馬遼太郎という人の存在は、わが国ではとくに歴史および歴史学の一般読者への普及と洗脳に絶大な影響があった。司馬遼太郎は、圧倒的な文章力・表現力により、日本の歴史を広く多数の読者に親しみをもって伝達したという偉大な業績がある。その一方で、彼がいかに原典まで適宜遡って丁寧に考察したといっても、やはり学問的アプローチとは異なり、他の研究者のコメントを聴いて再考したり修正したりする機会がなかったがため、どうしても独特、率直に言えば独善的となってしまう。敢えて単純化すると、司馬遼太郎の「歴史」は、少数の「偉大な人物」がその特異な能力によってほとんど単独で歴史を切り拓いたという歴史観である。その結果、歴史を良い方向に進めた「善き指導者」と、悪い方向に導いた「悪い指導者」とがいた、という単純な構図となりがちである。現実の歴史はさほど単純ではなく、ひとりの指導者の偉大な業績の背景には、実にさまざまな要因があるのだが、そういう部分はわかりにくいためか表現から除外される傾向がある。そういう意味で、功罪ともに偉大な作家ではある。
 それにしても、高い関心と強い興味をベースに、厖大なエネルギーを傾注した司馬遼太郎の文学の業績は、やはり偉大とおもわざるを得ない。
 半日以上ゆっくり過ごすことのできる記念館である。

 人気ブログランキングへお気に召せばクリックください 

東大阪散策 石切劔箭神社 (3)

石切劔箭神社絵馬殿と大鳥居
Photo  大鳥居の南側には「絵馬殿」という楼門がある。正面からみて右側には剣をもつ神像が、左側には弓矢をもつ神像が、それぞれ祀られている。神像のすぐとなり上方に大きな額が掲げられている。そこには、大正7年(1918)瘰癧(るいれき)と診断された男性が、ここ石切劔箭神社の大神に祈願して御霊験により快癒したとの事跡が記されている。瘰癧は、結核菌によって頸部などに発生するリンパ腫で、治療は簡単ではないが、この御社は「でんぼの神様」とも呼ばれ、腫れ物の快癒を祈願することでも親しまれている。
Photo_2
 「石切」という名前の由来にどう関係するのか、私にはよくわからないが、この石切劔箭神社には、御神刀として「石切丸」という名刀が奉納されている、という。河内有成あるいは三条有成共呼ばれる刀匠が鍛えた平安時代の刀だと伝える。平安時代に鍛造されたのち、戦火や火災によって焼け身となり、それを焼き直した「再刀」であるという。現代の金属工学からみると不思議だろうが、日本の刀は古い時代に製造されたものほど、性能が優れていると信じられてきた。鎌倉時代の名刀が多いなか、平安時代の刀というのだから、当然名刀なのだろう。
 この門をくぐると、正面に大鳥居が見え、その下から本殿が見える。

 人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東大阪散策 石切劔箭神社 (2)

石切参道商店街
 上之社を降りて、近鉄奈良線の線路をくぐると、石切参道商店街の入り口に着く。ここから石切劔箭神社の下之社すなわち本社へは、ほぼゆるやかに連続する下り坂となっている。高齢者のための杖が無料で貸し出されている。

Photo_2
 入り口近くの商店街の通りは、ところどころ一般民家もあり、また休業中の店もあるようだ。それにしても、たったひとつの神社がこれだけの多数のお店を支えているというのには、いささか驚きを感じる。
 途中、和菓子屋さんでヨモギ餅をいただいた。店頭で食べることにしたところ、わざわざ椅子を出していただき、お茶までごちそうになった。店員さんのこのようなちょっとした気遣いも、私たちには心地よく、町の印象がとてもよくなる。
 ゆっくり10分余りを歩いて、御社の鳥居に着いた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東大阪散策 石切劔箭神社 (1)

 東大阪市は、大阪府下で大阪市・堺市に次いで3番目に大きな市であり、人口は50万人にのぼる。こんな巨大な市になったのは、昭和42年(1967) 中河内の3市であった布施市・河内市・枚岡市が合併してひとつの市となったことによるが、西は大阪市に東は奈良県に隣接する、地域的ひろがりとしても大きな市である。まずは、近鉄奈良線石切駅を降りて、東側に歩き、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の上之社を訪れた。

石切劔箭神社上之社
Photo 近鉄石切駅を降り立って、改札口の駅員さんに「この付近で観光地はどこですか」と訪ねたが、石切劔箭神社しかない、という。観光案内所もない。駅から少し南に下ると、途中に案内所という看板の小さな建物があるが、これは最寄りのホテルが運営するもので、しかも午前中のみの営業だという。観光地としては、さほどやるきがない土地柄らしい。
Photo_2  気を取り直して、小さなガードで近鉄奈良線の線路をくぐり、線路の東側にでる。道で行き会わせた上品なおばさんに、石切劔箭神社上之社に行く道を聴くことができた。親切で上品なおばさんのお蔭で、石切の印象が俄然改善した。10分ほどゆっくり坂をのぼると、鳥居があり、鳥居下から参道の長い石段がある。
  少し長い石段をのぼると、真正面に本殿がある。大きくはないが存在感のある上品なつくりである。神官の方と行き会わせて、挨拶した。この方も感じのよい方で、暑い日なので扇風機と椅子がある休憩所はいかがですか? と言っていただいた。

Photo_3  本殿に参拝したあと、休憩所でひとやすみして、今度は左手から上る摂社・末社を訪れた。「御礼池」という小さな池がある。石切劔箭神社に祈願をして、満貫成就したあかつきには、この御礼池にきて、ちいさな陶器製の「御礼亀」を池に放つと、御礼亀が本人に成り代わっていつまでも静かに御礼のお参りをしてくれる、という。Photo_4
  御礼池のとなりには、婦道神社というちいさな御社がある。ここには弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が祀られている。この弟橘姫命は、日本武尊の妃である。景行天皇の御代、日本武尊が東国の平定に向かったとき、相模国の海上で暴風雨に逢われたとき、妃は「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中にた立ちて問ひし君はも」と歌って、船上より身を投げ日本武尊の安全を護ったと伝える。自らを顧みず夫に献身された弟橘姫命を、日本の婦道の鑑とするためここに祀ったと説明がある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策(16)

出石永楽館と現代歌舞伎・落語
Eirakukan2015omote2  永楽館が会場を貸し豊岡市出石町が興行主となって、毎年「永楽館大歌舞伎」が催されている。片岡愛之助が新妻藤原紀香を連れて会場に訪れると、大喝采を浴びるという。平成27年興行では「出石の桂小五郎」という演目で、片岡愛之助が出石に潜伏する桂小五郎を演じて好評を得たという。やはり出石と桂小五郎は、切り離せないエピソードとして今に生きているようだ。こういう地元独自の演目を組むことができるのも、伝統的な城下町のメリットである。地方自治体の予算を使うけれど、地域振興としては評判がよい。
 また、もうひとつの人気の興行が落語である。これも毎年桂米朝一門が訪れて寄席を行い、大層な盛況となるという。米朝が亡くなったあとでも、桂ざこばなどの高弟が来訪して、場を盛り上げる。Photo
 落語については、関連する興味深いエピソードもある。出石の町を散策していて、ふとあるお米屋さんの店先を通り掛かると、正面に「但馬国立いずし落語笑学校」と黒々と墨で記された立派な看板が掛かっていた。興味をひいたのでお店の方に聴くと、出石永楽館での落語寄席がきっかけとなって、毎週1回このお店の二階で希望者が集まり、落語家を先生として落語学校を実施しているという。
 こうして出石永楽館は、いまでも町の伝統遺産として町のシンボルのひとつであり、町の人びとに貢献している。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策 (15)

出石永楽館とその歩み
 出石の街の西端近くに、出石永楽館がある。道路に面したところではなく、少し路地を入ったところに入り口があり、若いお兄さんが入場券を扱ってくれた。靴を脱いで館内に入ってみると、そのお兄さんが館内にきて、永楽館について解説してくれた。
Photo_2  この永楽館は明治34年(1901)、ある芝居好きのお金持ちが自分の趣味の延長として芝居小屋を建設し開館させたものだという。だから開館当初から営利的指向は薄く、かなり自由に運営してきたらしい。出石藩主仙石氏の家紋が「永楽銭」であったのにちなんで「永楽館」と名付けそうだ。明治末ころの初午祭では歌舞伎を昼夜二回興行し、大入り札止めの盛況であったという。大正はじめまでは歌舞伎をはじめ、剣劇、壮士劇、新派劇、寄席、さらには政談演説などで賑わっていた。第一次世界大戦を経て大正期後半になると、活動写真の興行がはじまった。そして昭和5年(1930)にはこの永楽館にも映写室ができ、さきの大戦が終わるころには映画上映が主要な活動となって実質的には映画館となった。昭和26年(1951)からはカラー映画上映がはじまり盛況を迎え、一方舞台では地方劇団、関西で人気が高かった花菱アチャコ劇団、宝塚歌劇団などが来演した。しかしテレビが急速に普及してきて舞台や映画館が不況となり、とうとう昭和39年(1964)永楽館は60年余りの歴史を閉じることになった。2
 時が流れて往時の永楽館を懐かしむ人びとの努力で、44年ぶりに永楽館が再興されたのであった。館内の内装は、昭和初期のレトロな看板や広告で飾られており、郷愁を誘うものである。現在では自主興行はなく、会場を貸して運営しているという。この種の地方劇場は、座席が800くらいあって十分入っていればようやく採算がとれるというが、ここは座席368で自立は困難だという。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策 (14)

出石明治館と出石ゆかりの偉人・有名人たち
 おりゅう灯籠がある八木通りを東に突っ切ると、少し広い自動車道路に突き当たる。そのすぐ手前に、出石明治館がある。
 この木像洋式建築の建物は、明治25年(1892)出石郡役所として造営されたものである。正面玄関のある木造2階建と、その背部の平屋建を連結した構造となっている。正面玄関ポーチのペディメント(洋式建築の破風)やコリント式の柱頭が特徴的である。現在は博物館および各種展示会やカルチャーセンターとして活用されている。Photo
 館内では、出石出身の偉人や有名人を紹介する展示があった。中世後期の山名宗全、宗鏡寺中興の粗沢庵和尚、幕末期に出石藩の藩儒の子として生れ明治新政府に内務省官僚として勤務、わが国気象観測網の基礎を築き天気予報をはじめたとされる桜井勉、東京大学初代総長を勤めた加藤弘之、戦前の軍部に対して毅然とした態度で知られる弁護士・政治家斎藤隆夫、などがある。
  それら出石出身の人びとの他に、興味深いのは経済学者であり「大塚史學」で高名な大塚久雄や、文学者小林秀雄と出石とのかかわりである。
  大塚久雄の祖先の親族に、姉小路局という幕末期の大奥の実力者があった。姉小路局は、財政難に苦しむ出石藩の藩政改革を推進した藩校弘道館頭取兼勘定奉行を勤めた桜井一太郎(桜井勉の父)の働きかけに応じて幕閣を動かし、出石藩の「村替え」という藩政改革を推進した人物であった。大塚家そのものは京都の両替商であったが、大塚家からも姉小路局の異父弟大塚兵庫が出石藩に新治50石で召し抱えられ、出石に住んだという。
 小林秀雄の祖父小林市右衛門は出石藩士であり、文化年間(1810年前後)には出石城下町鉄砲町南側の長屋に10石4人扶持として住んでいたとの史料があるそうだ。小林家は明治維新ののち東京に移り住んだが、本籍は出石のままであったらしく、小林秀雄も本籍を出石にもつ両親の子として生れている。小林秀雄の随筆のなかの回想として、幼年時代に出石の親戚を訪れて遊んだ記憶があるとの記述がある、とも解説に記されている。
 最近の例としては、プロ野球阪神タイガースの能美篤史投手と女子バレーボールの井上香織選手が出石出身有名人として、通路に等身大パネルが展示されていた。
 江戸や大坂、京などに比べると当然ながら地方だが、出石も歴史ある城下町であり、人材も多様な人びとを輩出していることがわかる。
 なお、入場料はわずか100円で、しかも高齢者割引ということで私は50円で入場できて、そのことでも感動した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策 (13)

酒蔵と出石酒造
 桂小五郎潜居跡の石碑がある宵田通りを東に歩くと、通りの南側に古めかしい酒蔵跡の建物が残っている。ここは江戸時代中期から城下町の酒造所があった場所である。
 300年ほど前に、ここに「かずかや門垣屋」という造り酒屋があった。このときの藩主が大層お酒好きで、この造り酒屋に「女にも年寄りにも飲める酒を造れ」と命じたという。果たして酒屋は苦心惨憺して醸造したが、そのお酒に藩主はいたくお気に召され「名前を『緑』にせよ」と書付にカツオをつけて酒屋に遣わした。この「緑」は、古い漢詩「杯に緑を浮かぶ無からずんば、いずくんぞ鬢に青きを留むるを得ん」からとったという。こうしてお酒は「緑」という名になった。

Photo

 明治維新が過ぎ、明治9年(1876)、出石の町を焼き尽くす大火が発生し、かずかや門垣屋の酒蔵も焼け落ち、すべてが失われてしまった。それでも銘酒「緑」は、出石町内にほそぼそと命脈を保ったらしい。さきの大戦が終わるころ出石町に3つ、但東町に2つ造り酒屋があった。それらが昭和18年(1943)に合併して、現在の出石酒造となった。この時にそれぞれの銘柄を整理して新しく名付けたのが「楽々鶴」という現在に残る地酒である。
 この「楽々鶴」は今もこの酒蔵で販売されているというが、私がここを訪れたのは、少し朝が早すぎて、まだ営業していなかった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー