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美術

ミナ ペルホネン/皆川明 つづく 展 兵庫県立美術館(下)

 生活環境に適合するような服装を創作しようとすると、材料たる生地そのものから創作することが必要となる。そして生地を飾る刺繍やプリントのデザインも、日常の視線に耐え、時間の経過に耐え、時間とともに蓄積される人生の記憶に向き合い寄り添えるような、優しく包容力のあるデザインが求められる。こうして皆川明は「タンバリン」「たば」「ユキノヒ」などをはじめとする実に多数のモチーフを生地のデザインとして創作した。Photo_20200905084501
 生地の製造は、皆川明が納得する素材を日本国のみならず、世界各国から探し出し、求め、信頼のおける確かな工房・工場で製造する。製造には、惜しみなく人手と手間が傾注される。丹念に製造された貴重な生地は、精一杯無駄を省いて効率よく採用できるように、型紙は精一杯の工夫を凝らす。
 このように丹念に制作された作品なのだから、当然ミナ ペルホネンの製品は高価であろう。”the memory of clothes”というコーナーには、ユーザーから借りた15点の服が展示され、それぞれにその服の長期間にわたるユーザーの記憶・思い出が表明されている。ユーザーとともに貴重な時間を過ごした人生の一部としての服は、ユーザー個人としては当然大切な自分の一部である。私の個人的経験では、私にも思いがけず30年余りにわたって着用したスーツがあり、すでに裏地の一部はすり切れて見すぼらしくなってはいるが、私個人にはとても思い出多い私の一部である。私は、これまで服装に特段の思いもなく、ただ望ましい均整から多少外れる私の日本人的な体形になんとか適応してくれるというだけで購入した量産の既製品であったが、ごく最近そのメーカーであったレナウンが倒産し、ついに清算するというニュースを知って、長い時間の経過の回顧とともに、そこはかとない淋しさと喪失感を覚えた。いまから思えば、ミナ ペルホネンのコンセプトにならって、もっと値段は高くとも長持ちするスーツを買っていたならもっと価値はあっただろう、と後知恵で思ったりする。
Oip-1  わが国は、建造物や家屋の多くが木造で、基本的に長期間の耐久性は必ずしも高くなかったこともあり、さらに戦災で大量に焼失したという経緯もあって、とくに近代以降は住居も服装も、長持ちさせることに意識や努力を注いでこなかった面があるのではないか、と思う。それでも、故郷の景観や生活の雰囲気には、長い時間の経過にもかかわらず不変な要素も残っていて、そのなかに生きる日常人としては、もっと長期的視点で服装を考えることが意味あるかも知れないとも思う。
 一方では、世界的なファッションの流行に乗って、雰囲気を常に一新して新しい気分で前進を期するという姿勢も、経済的発展だけでなく人間の心性としてそれなりに価値があるという側面も理解できる。
 それにしても、戦後の高度成長を経たわが国の服飾という世界で、このように流行を追うことを否定し、自分のライフスタイルを意識してとことん追求する、とういう意味できわめて保守的な方針でデザインを極め、そして成功した、という皆川明というデザイナーの、信念と実行力と美的想像力には、ほんとうに敬意を感じた。

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ミナ ペルホネン/皆川明 つづく 展 兵庫県立美術館(上)

 典型的な真夏の盛りのような日、家人とともに神戸市の兵庫県立美術館に「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」というタイトルの展覧会を鑑賞した。生地と洋服などを生業とするデザイナーの展覧会なので、いつもの純粋美術の展覧会とは少し雰囲気がちがう、ユニークな展覧会であった。Oip-2
 皆川明は、1967年東京に生まれた。祖父が輸入家具屋さんだったというから、幼少期から生活空間内の美的状況に興味があったのかも知れない。高校時代まで陸上競技の長距離走競技に打ち込んでいたという。高校を卒業すると、大学に進学するかわりにヨーロッパ諸国を漫遊して、生活やライフスタイルに意識的な国としてフィンランドに出会った。さらにパリコレクションに出会って、ファッションに興味を持つようになったという。
 工場などに勤務しながら文化服装学院II部服装科(夜間部)を修了して、デザインの基礎を身に着けた。そして1995年、27歳で『ミナ(minä)』を設立して独立した。このとき自分で描いた方形にならべた30個の不規則な形のドットの塊の絵を以後のブランド・ロゴとしている。
Photo_20200903081501  2003年には、フィンランド語で蝶を意味するペルホネンを取り入れて、ブランド名を「ミナ ペルホネン」と改めて現在に至っている。
 “life and design”と題したコーナーでは、山形・沖縄・東京・パリの4つの都市を背景として、ミナ ペルホネンの服装をまとった登場人物の日常生活の様子を、ビデオ映像で淡々と示している。それぞれの都市がもつ自然、光、植物、都市風景、などのなかに、ミナ ペルホネンをまとった普通の人々が普通に生活しているのだが、背景のなかにしっくり溶け込んだ人間たちが、ミナ ペルホネンの服装とともに実に美しい絵となっている。皆川明は服装を、生活環境のなかに溶け込み、活かしながら共存する、共生することを目指しているのだということがよくわかる。服飾という存在が、自己表現以上に自分と環境とを整合させる手段なのであり、人間が同じ環境のなかで時間をかけて生活していく限り、自然や風景などの周辺環境の構成要素が短時間で変わることはなく、したがって服飾も短期間に変わるべきではない、というのが皆川明の思想であり、主張なのだ。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(5)

ポーランド以外の各国の映画のポスター(下)
 「昼顔」(1970)は、世界的に大ヒットしたカトリーヌ・ドヌーヴ主演の名作である。裕福なのに興味から時間限定の娼婦となったヒロインを、娼婦としての時間のみを残す時計の文字盤と、眼を隠す顔として描いている。この映画の魅力を暗示する表現として、ひとつ納得させるものがある。Photo_20200703080801
 「暗殺の森」(1970)は、この展覧会自体のポスターに採用されたベルナルド・ベルトルッチ監督作品である。イタリア、フランス、西ドイツの3か国の共同制作の映画で、原作の原題は「順応者」で、ポスターの下段にポーランド語で書かれている。ファシストの命令に徹底して従順にしたがって反ファシストの夫妻を暗殺する主人公は、幼い時に同性愛者の相手を間違って殺したトラウマを背負っていた。後にその事件の真相を知り、さらに命をかけたファシズムが敗戦で崩壊し、とうとう自分自身の崩壊を迎えるという物語である。ポスターは、自分自身の顔と頭脳をかたくなに封印した主人公の男の絵である。反ファシズムは社会主義政権のモットーとされていたから、このような表現はポーランド国家にとっては受け入れ得るものなのだったのだろう。外からシニカルに見れば、社会主義ポーランド自身がこのような「順応者」を、国民に強いていたのであった。ポスターのデザイナーは、実はそれがわかったうえで、皮肉としてこの作品を描いたのかもしれない、とも思いたい。
 全体の作品数は、会期中の入れ替え作品がいくらかあったため80点余りで、私の鑑賞可能のキャパシティからみてちょうどよい規模であった。精神医学的、心理学的には、非常に繊細で微妙かつ複雑なテーマを扱いながら、かなり思い切った斬新な表現を積極的に取り入れていて、私の当初の期待を大きく上回る興味深い、印象的な鑑賞となった。あわせてポーランドの戦後には、興味深い映画作品がかなりありそうなことも、あらためて知ることになった。私はこれまでポーランド映画は、ごく少数しか観ていないので、これを機会に積極的に鑑賞するようにしたいと思った。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(4)

ポーランド以外の各国の映画のポスター(上)
Photo_20200701061001  社会主義体制下のポーランドでは、外国の映画のポスターはすべてポーランドのなかで独自のものを制作することが求められた。それは当然ながら日本映画も同様であった。社会主義国家のなかに、映画製作国のプロダクションが映画宣伝に介入することは許されなかったのである。それは当然映画の解釈や宣伝方法に、ポーランドとしての偏りを発生したが、その半面では海外から新しいテーマを得て、映画ポスターというジャンルの芸術を実験的・挑戦的に創作するチャンスとなり、独特の多様な作品が創作されることにもなった。そのような範囲の中で、自由な作風が開発され、アール・ヌーボー、ポップ・アートがポーランド独自の発展を遂げたのであった。
 「めまい」(1963)は、アルフレッド・ヒッチコックの代表的作品で、キム・ノヴァクが主演したヒット映画である。仕事のストレスによる高所恐怖症、亡霊の恐怖、不思議な因縁をともなう恋、複雑で周到な完全犯罪、人間の心の深い闇など、さまざまな不条理を折りこんだ物語である。ロマン・チェシレヴィチによるポスターは、髑髏の頭部に狂気を表わすのか多重の円が色を変えて描かれている。たしかにこの物語の不気味さをいかんなく表わしていると思う。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(3)

日本映画のポスター
 日本の映画もかなりの数が、戦後の社会主義ポーランドで上映されていたようである。ポーランド側のお国事情から、ポーランドの日本映画は3つのグループに分類できる。一つは、社会主義的な方針と親和性のある、自由主義日本の国家体制や社会に対して批判的な映画であった。二つめは国際的に高名な世界的に認められた映画で、この典型的な例が黒沢明監督作品であった。そして三つめは、特殊撮影技術を開発して世界に売り出すことに成功した怪獣映画であった。
Photo_20200629063001  「東京湾」(1962、野村芳太郎)は、戦友であった二人の男が、片方は刑事としてそしてもう一方は殺人犯として再会するという物語で、ともに暗く重い戦争体験を背負っている。ポスターの画面は、殺人者のスナイパーとしての姿である。
 「姿三四郎」(1971)は、すでに日本国内でも大ヒットした柔道の青春物語である。ポスターでは柔道を競う二人の姿が、かなり抽象デザイン化して描かれているのがおもしろい。
 「七人の侍」(1960)は、黒沢明作品として日本でも大ヒットした。ポスターの絵は、ポーランド人からみた「アジア的」な表現なのか、ポーランド人を描く時とはずいぶん異なり、なぜか汚く醜く描かれている。それは「上意討ち」(1968)でも同様で、ここでは中国の鍾馗をそのまま取り入れて一部を汚く変形させて日本の武士を表わしている。こういう表現は、ポーランド人からみれば自然なのかも知れないが、日本人から見ると一種の「人種差別」のようにも感じ得るものである。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(2)

ポーランド映画のポスター(下)
 「大事故」(1965)は、稲妻のように激しく斜行する白と、グレーの縞模様だけの単純で大胆な構成だが、激しい衝撃や心理的動揺を遺憾なく表現するポスターである。大きな橋が突然崩壊し、その原因が規格外れの部品の採用によることが判明したという。大胆にも、ポーランドの社会主義国家機構の深い闇を寓意するのだろうか、と思ってみる。
 「婚礼」(1972)は、アンジェイ・ワイダ監督の名作のひとつとされ、一夜の婚礼の宴に集った人々の幻想を通じて、象徴的にポーランドの歴史を描く映画である。幻想のなかに実在した歴史的人物の幽霊や亡霊が現れ、民衆蜂起を煽られる。人々は蜂起の準備をはじめ、芸術家やインテリたちに参加と指導を求めるが、彼らはそれは陶酔と幻想のなかのことだと動こうとしない。やがて人々はみな魔法をかけられたように動けなくなり、明け方になると何かに衝かれたかのように踊りだした。そして花嫁の前で一頭の白馬がゆっくり倒れ息をひきとる。ポーランドの悲しい歴史を表現する映画であるためか、ポスターに描かれた新郎と新婦の表情に笑顔はなく、孤独、寂しさ、虚脱が漂っている。Photo_20200625063401
 「イルミネーション」(1973)は、ヒトとムシ、そして不気味な泡のような物体がいわくありげに組合せて構成されている、かなり抽象絵画的な作品である。登山を趣味とする物理学者がある日突然自分の仕事に疑問を抱き始め、職を捨てて工場で働き始めるという。映画の物語のなかには、実在の哲学者も登場し、かなり理屈っぽいストーリーなのだそうだ。
 「心電図」(1971)は、若い医師が田舎町に赴任して、地元のひとびとと接することになるが、地元の人たちは医学などの科学知識から遠い伝統的思考に固執して、若い医師と対立し軋轢を生じることがテーマなのだそうだ。
 ポーランドの映画とそのポスターは、たいてい大きな社会全体ではなく、家族、恋人、個人などのごく狭い範囲のなかでの人間の精神・心理の機微や複雑さ、あるいは意外さを扱った作品が多く、その範囲内ではかなり斬新な表現を取り入れているように感じた。一党独裁の社会主義体制でもあり、芸術も狭い世界を深耕する方向にしか進めなかったのかも知れない。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館 (1)

 新型コロナウィルス感染対策の自粛要請がようやく終わって、6月初めころから各所の美術館が平常に戻りつつある。しかしまだ美術館によっては入場が事前予約のみとか、同一府県内からのみとかの制限がある。岡崎の京都国立近代美術館は、開場時間が少し短いが再開し、「ポーランドの映画ポスター展」は、3月初めから5月初めであった会期を臨時休館を配慮して延長し、7月12日までとなったのを鑑賞したのであった。

ポーランド映画のポスター(上)
 今回は、社会主義政権下であったころのポーランドの映画ポスターの展覧会である。映画ポスターの展覧会という企画そのものが私にははじめでてあり、アートにもいろいろ制約が多かったであろう社会主義政権下の時代の作品展なので、私の正直な気持ちとしては、期待というより好奇心で観に行ったのであった。
 考えてみれば戦後のポーランドの映画界には、アンジェイ・ワイダ、イェジ・カヴァレロヴィチ、ロマン・ポランスキーなど世界的にも高名な監督・プロデューサーがいた。展覧会の解説によれば、1950年代半ばから社会主義リアリズムを脱して新時代のアーティストたちが自由な表現を最大限に推し進め得たのが映画とグラフィックデザインであったという。映画のポスターについても、国際的に注目されるような斬新なアートが出現して、映画作品とグラフィックデザイナーによるポスターとで「ポーランド派」と呼ばれるグループが形成された。今回は、1950年代後半から1990年代前半ころまでに制作された96点のポスターを紹介するのだという。
 冒頭の展示作品である「黄色のジャージを得るために」(1954)は、グラフィックデザイナーのイェジ・ヤヴロフスキが、イェジ・ボサク監督の映画「黄色のジャージを得るために」のために制作したポスターで、「平和のためのレース」と名付けられたポーランドの自転車レースのドキュメンタリー映画であった。画面はグレーと薄い青色のみで黄色はないが、オリンピックの勝者に与えられるとおなじ黄色のジャージが優勝者に授与されたので、この題がつけられた。社会主義体制の圧迫からか、スポーツの映画なのにポスターには弾けたような快活さはなく、そこはかとなく鬱屈したエネルギーを感じさせる。Photo_20200623062601
 「悪魔との別れ」(1957)は、暗色の険しい表情の男の顔が強烈な暗い印象を与えるポスター作品である。ジャーナリストが殺人を犯すが、その背後に複雑な事情があったことが徐々に解明されるという映画だそうだ。登場人物の心理表現が軸となる映画だという。
 「さよなら、また明日」(1960)は、週末だけワルシャワに来るフランス領事の娘に恋したポーランド青年の物語だそうで、ヤヌシュ・モルゲンシュテルン監督のデビュー作品であった。可憐なヒロインの写真が中心に配置され、この時代のさまざまな制約の中での男女の恋の物語である。
 ロマン・ポランスキー監督の映画「水の中のナイフ」(1962)のポスターがある。ポランスキー監督のデビュー作品で、私はたまたまこれをテレビ番組で観たことをかすかに覚えている。裕福な中年夫妻と若い行きがかりの男のたった3人の登場人物で、性的欲望、世間的欲望、殺意、善意などの人間の内面の多様性と葛藤をテーマとしたドラマであった。ポスターは、夫妻を表わす魚が上と下に描かれ、その間に挑戦的な面構えの攻撃的な印象の魚が描かれる。いずれの魚も太い輪郭で囲まれ、葛藤・緊張や孤独が表現されている。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(6)

第二次世界大戦までの昭和時代(下)
 昭和に入ると、絵画と彫刻に加えて、写真や版画がより普及して美術の分野としての地位を確立するようになった。
Photo_20200619060801  安井仲治「公園」(1936)という写真作品がある。明治36年(1903)大阪市の裕福な商店の長男として生まれた。早くも10代半ば頃から写真を始め、大正11年(1922)には浪華写真倶楽部に入会し、写真展でなんども入選を果たし、また浪華写真倶楽部の代表格のメンバーとして活躍した。若くして関西写壇に欠かせない写真家であったが、さきの大戦最中の昭和17年(1942)、腎不全のため神戸の病院で38歳で早世した。 彼はアマチュアリズムを徹底して、初期のピクトリアリスムから、ストレートフォトグラフィ、フォトモンタージュ、街角のスナップにまで、自由に活動範囲を広げた。枠にとらわれず自由に撮影対象を選択し、それに対応しうる確実な撮影技術をもっていた。現代の代表的なプロ写真家である森山大道や土門拳も、安井を敬愛し高く評価している。
 昭和期も戦後になると、金山平三、恩地幸四郎、田中敦子、草間彌生、片岡球子、佐藤忠良、篠原有司男などが登場するが、これらは別の機会になんども眺めたので、今回の記録としては省略する。
 今回の展覧会は、「超・名品展」とあり、日本の近代絵画の歩みを100年にわたって回顧するということで、正直な気持ちとしてはさほど期待は大きくなかった。ただ、新型コロナウィルス問題で2か月近く全国の美術館が閉鎖され、久しぶりに美術作品を観ることができるというその一点のみで飛びついたようなところがあった。しかし実際に鑑賞に訪れてみて、とくに明治初期のわが国の西洋画草創期の画家たちの作品に感銘を受けた。オリジナリティとか、社会との関係とか、ダダイズムとか、マルクス主義とか、芸術としては当然大切な要因だとしても、いろいろ考える以前に、先ずはひたすら西洋の油彩という新しい技術、技能を習得することに、ひたすら職人的に邁進したころの画家たちの作品である。そんな初期でも、個人的な技術・技量はかなりの水準のものであった。そういう時期の日本人の能力は、とくに優れている。そんななかにも、図らずも控えめながら印象に残るオリジナリティが発揚したりする。私は自分自身で絵を描いたり彫刻を制作したりしない、いやできないが、観るだけでもこうして感銘を受けるし、至福を感じることもできる。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(5)

第二次世界大戦までの昭和時代(上)
 村上華岳「岩の山」(1939)という少し変わった作品が気になった。岩の山というわりには、なにかモコモコしたカタマリがいくつか描かれるのみで、ある意味抽象画のようでもある。彼は、「山は遠くから眺めるだけでなく、自分が入り込めないといけない」と言って、自ら山登りや山道の散策を好んだと、絵の説明文にあるのをみて、この絵は親しみを感じた岩山と自分を心理的に一体化したものを描いたものかも知れない、と勝手に想像してみた。そう思って絵をしげしげと見つめると、やはり一瞥したときとは異なるなにか迫るものを感じる。甲州武田氏の末裔の家に生まれ、早くから両親と別れて複雑な家庭に育ち、美術の才能を武器として日本画を研鑽しながら喘息の持病に苦しみ、51歳で没した画家の人生は、今でこそ早世のようだが、当時の本人としてはそれなりに生き切ったのかもしれぬ。Photo_20200617061201
 富岡鉄斎「夏景山水図」(1912)がある。この人の絵は、これまでにも何点かは見ているが、実に自由奔放でかつ知的である。大正・昭和期のわが国の洋画家たちから高い評価と人気を博したのも自然に頷ける。天保期の京都に法衣師の子として生まれ、猛烈な勉学好きで、富岡家の家学である石門心学をはじめ、国学、勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを広く学んだ。さらに出家した大田垣蓮月尼が少年であった鉄斎を侍童として受け入れ育て、人格形成に大きな影響を与えたという。わが国最後の文人と言われるだけあって、生涯にわたって詩文、教育、そして画業に膨大な作品を残した。本人は画家と呼ばれることを嫌い、あくまで学者であると主張したというが、それだけに描く絵は何を気にする必要もなく、自由そのもので魅力に満ちている。
 洋画家の巨匠、安井曽太郎の「座像」(1929)がある。美しい女性を描くというには少し画面の緊張感が過ぎていて、画家の猛烈なエネルギーと集中とが強調されているような重い作品である。説明にあるとおり、画面の隅々まで周到に設計して描き込まれ、一分のスキもない力作である。説明文によると、彼は同じモデルを複数回採用したことはめったになかったのに、この絵のモデルの女性だけは、なんどか描いたという。絵を観てなにかざわつく感じを受けるのは、そんな事情もあるのかも知れない。でもそれならもっと女性を美しく描くこともできたと思うが、そこは真剣に画業に取り組む安井曽太郎の矜持なのだろうか。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(4)

大正時代の美術(下)
Photo_20200615060701  中原實「乾坤」(1925)がある。乾坤=天地・陰陽という抽象的概念を題材にしているので、必然的になんらかの抽象的表現の作品となっている。中原實は、明治26年(1893)東京に生まれた。父は日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の創設者であった。中原も同校を卒業し、そのあとハーバード大学に編入学して、当時の先端的な歯学を学んだ。第一次世界大戦中には渡仏し、フランス陸軍の歯科医として兵士の治療にあたった。第一次世界大戦終結後には、こんどはパリの芸術学校に入学した。そこで油絵を学び、美術の才能を開花させた。芸術学校を卒業したあとに移ったベルリンは、当時「ダダイズム」の最盛期であった。ダダは既成の価値観を否定し、秩序や調和を壊そうとする芸術運動で、写真を切り貼りするフォトモンタージュという手法はこのころに生まれたといわれている。その後も画家、教育人、医師のいずれにも真剣に取り組み活躍し、二科展で知られる芸術団体「二科会」の理事や、日本歯科大学学長、日本歯科医師会会長などを歴任した。画家としてはアバンギャルド=前衛であり続けることをモットーとしていたという。この時代には、このようなマルチな才能を発揮する人がいたのである。Photo_20200615060801
 萬鐵五郎「ねて居るひと」(1923)という裸婦像がある。このころは萬だけでなくわが国の画家は西洋の豊満な女体ではなく、日本人女性の体格の特徴を積極的に取りあげ、独自の裸婦像を開拓したという。この絵の女性は、たしかに豊満さには欠けるが、よく観ると自分独自の性的魅力を、自信をもって主張しているようにも思える。
 戸張孤雁「煌めく嫉妬」(1924)という彫刻がある。俯いた女性の顔の表情はわからないが、右手は右足の指をつかみ、左手は左脚のふくらはぎを撫でている。この所作は女性の内面のしっと葛藤を表すという。
 佐伯祐三「リュクサンブール公園」(1927)がある。この画家の人気は当時から高く、多くの贋作が出ていたが、この作品は、厳正な鑑定を経て真作と認定されたものだという。すっきりした構図、明暗の配置にも色彩の選択にもアクセント・メリハリがあり、素人の私にもインパクトのある良い絵だとわかる。この大いに期待された青年画家が夭逝したときの世間の落胆が、私にもわかるような気がする。

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