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美術

ボストン美術館展 神戸市立博物館 (9)

現代美術
 現代美術となると、アメリカは中心的な活動の舞台になるようだ。アンディ・ウォーホル「ジャッキー」(1964ころ)は、J.F.ケネディ大統領暗殺事件のあと、喪服に身を包んだ夫人ジャクリーヌ・ケネディの顔写真を合成ポリマー塗料とシルクスクリーンで色を変えつつ複数に複写した作品である。手法はアンディ・ウォーホルの常套手段で、私は個人的にはいささか飽きてしまっている。

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 このほか、アンディ・ウォーホルからも影響を受けたとされるデイヴィッド・ホックニーの作品がある。ホックニーは、明るい色彩を自由に用いて、絵画の他にもコラージュや舞台美術など多彩な活動を続けている。「ギャロービー・ヒル」(1998)も明るく多様な色彩が特徴的な作品である。
 ボストン美術館収蔵品の展覧会は、ここ神戸市立博物館などで、近世日本版画など何度か鑑賞してきたが、今回もとても充実したよい展示であった。東洋の中国・日本と、西欧のフランス・アメリカ、そして古代エジプト、写真・版画と現代美術と、適正に区分・整理された展示企画は、観るものにとってわかりやすく親しみがもてた。展示作品数も80点と、私にとって鑑賞の緊張感が持続でき疲労しないちょうどよいくらいであった。展示作品の選択も、とくに古典作品は申し分なく優良な作品ぞろいで、じゅうぶんに楽しめた。

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ボストン美術館展 神戸市立博物館 (8)

版画・写真
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 ウィンスロー・ホーマー「八点鐘」(1887)は、エッチングの精緻な描写で、海上で船の位置を測定する二人の船員を描く。どうやら海は時化ていて、緊迫感漂う画面となっている。八点鐘とは、甲板当直の交代時刻を、鐘を8回連打することで伝えるのだそうだ。交代の意味から、死者に対する別れの追悼の鐘として鳴らされることもあるともいう。エドワード・ホッパー「線路」(1922)は、線路のカーブの脇にたたずむひとりの男の姿を暗い画面で描く。アメリカで開発が進展し経済成長が目覚ましくなり、豊かさが広がりつつあったなかで、それでもそこに生きる個々の人間は、孤独や絶望を感じることもあった、ということの表現のように思える。同じエドワード・ホッパーの「機関車」(1923)は、解説によると、当時版画作品では、微妙な色彩やトーンの導入、台紙の繊細な色目の選択が流行していたが、エドワード・ホッパーは敢えて単純な純白の紙の上に、真っ黒の墨で版画を制作したのがこの作品だという。とくに精緻に描き込んだわけでもないようなのに、金属光沢で重量感のある機関車が有無を言わさず力強く突き進む様子が伝わる。新興国アメリカのパワーの象徴のようである。Photo_2
 アンセル・アダムス「白い枝、モノ湖」(1947)がある。かなり大きな樹木の枯れ枝がすっかり白くなって、まるで白骨のような相貌となって、湖畔の荒れた岸に打ち上げられている。湖の様子も天候のせいなのか、なにかあやしい不穏な雰囲気に包まれている。解説に「時間の消滅」とあるが、そのように思えないこともない。なにか理由のわからない不条理の表現のようにも思える。
 ここでの展示は、豊かさの陰にある孤独、不安、絶望などの負の側面を訴える作品が多いように感じた。

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ボストン美術館展 神戸市立博物館 (7)

アメリカ美術
Photo アメリカ美術は、古典というよりほとんどすべてが近現代美術とみてよいと思う。私がとくに好きなのが、ジョージア・オキーフである。「赤い木、黄色い空」(1952)は、永住するようになったニューメキシコの景観を象徴的に切り取り、抽象化と大胆な構図と色彩で描いた絵である。照り付ける強烈な陽光を黄色で描き、この地特有の赤っぽい樹木をまるで大きな鳥のように描き、しかも鮮やかな赤色に彩色する。アメリカの原始的な自然と、そこに生きる自分自身の心象を表している。「グレーの上のカラー・リリー」は、緑色の茎をもつ一輪のユリを描く。ユリの花の柔らかな優しい曲面がなんともなまめかしい。愛・性・死などの寓意を自然に感じる。ジョージア・オキーフ・ワールドだ。Photo_2
 ジョン・シンガー・サージェント「フィスク・ウォレン夫人と娘レイチェル」(1903)という作品がある。私はこの画家は初見である。画家はこの絵を請け負って制作に入るとき、夫人がお好みの緑色のベルベットの服を身につけていたのを、華やかさを描くために光沢のあるこのドレスに着替えさせたという。そのドレスの華やかさに負けない夫人の美貌を描き得たのも立派である。新大陸アメリカの活力・豊かさを表現したかったのだろう。
 トマス・エイキンス「クイナ漁への出発」(1874)という作品がある。小さな船で漁に漕ぎ出すが、強い風に帆柱が大きく傾く瞬間をとらえる。光の方向と陰影、船のバランスなど、かなり詳細に計算されたしっかりした構図と表現だと解説に記されているが、私にはそこまではわからない。
 フィッツ・ヘンリー・レーン「ニューヨーク港」(1855)がある。この画家も私は初見だが、当時のアメリカでは名の通った風景画家であったという。丁寧でしっかりした筆致だが、いまひとつ画家の主張が伝わってこない。

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ボストン美術館展 神戸市立博物館 (6)

フランス絵画・下
Photo  ポール・セザンヌの「卓上のブドウとクルミ」(1890ころ)は、セザンヌらしい生命も動きも感じさせる静物画だ。セザンヌは「果物は、よく見ると私の目の前に現れるまでの自身の履歴を現していて、興味深い対象だ」として、好んで描いたという。たしかにこの作品も、果物の地味な色彩のなかに、その表面のちいさな傷も含めて、それら果物のそれぞれがそれまでに経験してきたことを探ろうとするかのように、きめ細かく丁寧に描かれている。Photo_2
 フィンセント・ファン・ゴッホの作品は、人づきあいが苦手で友人が少なかったゴッホが、たまたま親しく接した数少ない友人であった郵便取扱を生業とするジョゼフ・ルーランの肖像画と、その夫人の肖像画のペア作品2点である。ジョゼフの肖像は、朴訥で正直で暖かみを感じさせる人柄が現れている。ルーアン夫人の肖像は、一見不愛想な表情の背景に、花をちりばめた豪華な雰囲気の背景を配して、夫人の内面の豊かさを象徴している。ふたつの作品は、ともにこの二人に対するゴッホの親しみと愛情と暖かみを感じさせる。ルーアン夫人の絵について、ゴッホは「子守歌を思い出すような絵を描こうと思った」と述懐していたそうである。

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ボストン美術館展 神戸市立博物館 (3)

日本美術・上
Photo 日本美術も、岡倉天心の師でありパートナーでもあったアーネスト・フランシスコ・フェノロサが研究し蒐集したもの、ウィリアム・スタージス・ビゲローのコレクション、など多数がある。「錆絵観瀑図角皿」(宝永7、1710)は、小さな正方形の白っぽい陶器製の皿だが、漢詩を尾形乾山が、滝見する日本の高人を兄の尾形光琳が描き、尾形乾山が焼き上げたという極めて贅沢な工芸品である。
Photo_2 英一蝶(はなぶさ いっちょう)の「月次風俗図屏風」(18世紀前半)がある。「月次」とは、ここでは月々の子供の遊びを言い、江戸下町のほのぼのとした風俗画になっている。江戸時代の庶民文化の繁栄が描かれている。英一蝶「涅槃図」(正徳3、1713)は、2.9×1.7メートルの大きな色彩絵である。釈迦の入滅を囲んで嘆き悲しむ多くの人々や動物を丹念に描く。人物として家族や子供が多いのが特徴であり、お釈迦さまが広範囲に慕われていたことを表している。
 姫路藩の藩主の弟であった酒井抱一の「花魁図」(18世紀)がある。琳派の達人らしく、みごとに引き締まった美しい絵である。

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ボストン美術館展 神戸市立博物館 (2)

中国美術

 12世紀初めころ、北宋は王安石・司馬光の対立にはじまる「新法・旧法の争い」で政治が混乱していた。1100年、父哲宗の崩御を受けて弟の趙佶が即位して徽宗となった。徽宗即位の直後は、皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みたがまもなく向氏が死去し、徽宗の親政が始まった。徽宗は新法派の蔡京を重用して宰相とした。徽宗・蔡京共に北宋時代を代表する芸術家であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。政治的には混乱を収拾することはできず、やがて女真の台頭を許して1126年には首都開封が陥落し、北宋は滅亡する。このような北宋の最末期に、芸術的には花開いたのが皇帝徽宗であった。

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 「五色鸚鵡図鑑」(1110年ころ)が展示されている。保存状態もよく、美しい大型の絵画である。ここで蔡京が文章を書き、皇帝徽宗が絵を描いている。
 時代がくだり南宋の時代となってからの作品に、陳容「九龍図鑑」(1244)がある。陳容は、南宋末の画家で長楽 (福建省) の人で、太守をつとめた進士で、水墨画を得意とし、龍画の名手として高名であった。また詩文にも長じていたという。この作品は、約10mに及ぶ長大な紙に描かれた九匹の龍である。墨の黒が主だが、ごく一部に朱を使い、それが生きている。沸き立つ雲と荒れ狂う波のなか、あるいは悠然と飛翔し、あるいは佇むさまが、奔放な筆墨で描き出されている。自然に対して超越して生きぬく孤高で勇壮な龍というイメージであり、かつて清朝の乾隆帝も旧蔵したと伝える龍図の名品である。
 岡倉天心は、明治35年(1902)来日したアメリカの外科医ウィリアム・スタージス・ビゲローと出会い、その縁で明治37年(1904)、ボストン美術館の中国・日本美術部に顧問として迎えられた。やがて岡倉天心の発案で「中国日本特別基金」がエドワード・ジャクソン・ホームズ家の寄付を得て設立され、中国の美術作品が積極的に収集された。
 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(7)

神の領域
Photo_2 小波瀬と江戸を往復しつつ老躯にむち打ち、なおエネルギッシュに創作に励んでいた北斎は、80歳代の後半になっても新しい表現を追求し続けた。「流水に鴨図」(弘化4年1847)では、流水は大胆に様式化を遂げ、表現に余分が一切無くなり、とても簡素で、それだけに一層鮮烈な表現を達成している。
 90歳にあと少しという嘉永2年4月に亡くなるが、その年の正月に、絶筆ともいうべき作品群のうち2点が展示されている。そのひとつが「雪中虎図」(嘉永2年1月1849)である。
死期の近づいていることを明確に知りながら、なお前を向き上を目指して、まるで龍のような手足で力強く逞しく突き進もうとする北斎自身が、ストレートに表現されている。
 そしてもうひとつの作品が「富士越龍図」(嘉永2年1月1849)である。北斎が終生愛してやまなかった富士から火葬を連想させる黒々した煙が立ち上り、その煙のなかに北斎の魂たる龍が昇天して行く。北斎は「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」という辞世を残しているが、私はこの絵こそが北斎の真の辞世だと思っている。
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 展覧会の会期末が迫っていたからなのか、それとも北斎の人気がやはりずば抜けて高すぎるのか、大変な混雑のなかで、「恐れ入りますが大変混雑しています。あと少し早めにお進みいただくよう、お願い申し上げます。」と何度も係員に急き立てられ、多くの作品を群衆のわずかな隙間越し、頭越しに鑑賞するという、まれにしか体験しないような厳しい鑑賞であった。それにもかかわらず、やはり思い切って鑑賞に出かけて、待ち行列に耐えて、鑑賞を達成したことを、全く後悔なく幸福であった、と思う。
 卓越した基本的な技能を備え、人並み優れた長寿に恵まれ、それでいて常人の何倍もの苦労を重ねた上に到達した葛飾北斎の芸術は、際立って独創的で完成度が高く、自由奔放で、エネルギッシュで、さらに畏まらずのびやかで、遊びがあり明るくて、とても楽しい芸術であることを、何度鑑賞しても感じることができる。いかに天才とは言え、真剣に集中して禁欲的に全身全霊を打ち込んでこその見事な出来栄えなのに、そうしたことに伴いがちな重さ・堅苦しさ・近寄りがたさなどがまったく感じられず、そこはかとなく余裕・ユーモア・ホスピタリティ・やさしさが感じられる。やはり希代の芸術家である。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(6)

想像の世界と北斎の周辺(後)
 北斎は80歳を超えた最晩年にいたって、天保の改革による理不尽ともいうべき質素倹約令で仕事が激減したり、放蕩者であった孫の行状で悩んだり、脳卒中あるいは尿路結石の持病が悪化したり、と経済的にも身体的にも精神的にも苦労の多い老後をすごしていたらしい。

1 そんななか、信濃国小布施の豪商高井鴻山の招聘に応じて北斎は娘のお栄=葛飾応為とともに小布施を訪れ、そこで逗留して画業に励んだのであった。
 85歳のころ小布施に半年ほど逗留した北斎は、東町祭屋台の天井絵『龍図』と『鳳凰図』を描いた。小布施ではかつて夏祭りの際に、各町が一基ずつ祭屋台を巡行させていた。このときの『鳳凰図』の下絵が、今回展示されている。「鳳凰図天井絵彩色下絵」である。暗い藍を基調にした背景に鮮やかな朱色で彩られた鳳凰が描かれる。
翌年、再び小布施を訪れた北斎は上町祭屋台に取り組み、濤図(なみず)『男浪(おなみ)』と『女浪(めなみ)』を描いた。小布施町の外では初めての公開となった「濤図(なみず)」(弘化2年1845)である。
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 ここで濃い青色つまり群青色の絵の具として当時最先端の画材たるプルシアンブルーを用い、薄い青には顔彩の藍を、そして薄い緑色には緑青(ろくしょう)を用いている。渦の奥の波をプルシアンブルーの濃い群青で、前面の波を藍の薄い青で、さらに手前の波を緑青の薄い緑で描くことにより、色の明るさと濃度の階層の使い分けで見事に立体的な表現を実現している。この作品の制作には、浅からず娘のお栄=葛飾応為が貢献しているというのが、最近の研究の結論であるらしい。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (5)

想像の世界と北斎の周辺(前)
Photo 想像の世界についても、北斎は多数の作品を残している。今回の展示ではほとんど無かったが、さまざまな妖怪や髑髏の絵があることも有名である。
 「鍾馗図」(文政9年1826)は、朱一色の濃淡のみで鍾馗像を巧みに描きあげた作品である。鍾馗(しょうき)とは、もとは中国の民間伝承に伝わる道教系の神のひとつであった。わが国では鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりすることもあったという。鍾馗の図像は、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で睨みつけている姿として描かれた。端午の節句に絵や人形を奉納したりした。
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 北斎の三女お栄は、はやくから北斎の側で画業を手伝いつつ習い、文化期半ば(1810ころ)から作品を出していたと伝える。美人画では北斎でさえも、「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」と、お栄の技量を称賛していたという。お栄は葛飾応為という画号で作品を残している。「月下砧打ち美人図」(弘化-嘉永期1844-54)が展示されている。この人の作品では、とくに光の効果、あるいは光の表情が重視されているようだ。光の表現が印象的な作品として、「吉原格子先之図」(弘化-嘉永期1844-54)がある。Photo_5


 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (3)

目に見える世界
Photo 冨嶽三十六景シリーズに続いて、書肆西村屋与八の企画で「諸国滝廻り」というシリーズが発刊された。「諸国滝廻り 美濃ノ国養老の滝」(天保4年1833)がある。実際の養老の滝は、見上げるようなとても高い滝のはずだが、ここではかなり低めのコンパクトサイズとして描かれている。展示説明では、登場する人物像があまりに小さくならないように、敢えてデフォルメしたのであろうとの由。さらに滝はかなり抽象化され、滝の上方と滝つぼ付近を残して描写が大胆に省略されている。しかしながら簡素化された滝の水流は、一層勢いを増す。200年ほど昔とはとても信じがたいほどの思い切った表現である。そうした表現の斬新さ・新規性とともに、この絵からは北斎の敬虔ともいうべき滝に対する宗教的な真摯さをも感じることができる。
 滝に続いて次は「諸国名橋奇覧」が、おなじく書肆西村屋与八の入れ知恵で発刊されたらしい。「諸国名橋奇覧 摂州阿治川口天保山」(天保5年1834)がある。天保山は江戸時代の淀川河川整備事業で出た土砂を積み上げて作られた人口の小山である。海に近い安治川の河口にできたため大阪湾を一望でき、当時から行楽地として賑わった。この絵は橋の絵というよりは、パノラマ的な画面を意識して描かれたようだ。
 

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