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美術

「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (3)

ローマとグレゴリウス13世拝謁
Gregory_xiii   そしてついに遣欧少年使節は1585年3月23日、ローマで、ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁した。グレゴリウス13世は、ボローニアの富裕な商人の家に生れ、名門ボローニア大学で法学を修め、後進に教鞭をとった。36歳のとき教皇パウルス3世に招かれてローマに移り、教会の法務を勤めた。教皇ピウス4世のとき枢機卿に任命され、宗教革命に対抗してカトリック教会の刷新と自己改革を議論したトリエント会議にも参加した。自ら学問を好み、また周囲にも奨励した。有名なグレゴリウス暦を採用したことでも広く知られている。このグレゴリウス13世が中央に描かれた絵画「ヨーロッパ内外にセミナリオを設立するグレゴリウス13世」(17世紀初頭)が展示されている。
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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (2)

トスカーナ大公国(下)
Photo  絵画の最初は「フランチェスコ1世・デ・メディチの肖像」(1570年)である。遣欧少年使節がトスカーナを訪れたとき、トスカーナ大公であった人物である。遣欧少年使節は、1585年3月2日ピサに着き、ピサ宮殿において、このフランチェスコ1世・デ・メディチに拝謁した。フランチェスコ1世・デ・メディチは、神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世の娘ジョバンナを妃とし、8人の子供を得たが、ジョバンナが存命中からヴェネツィア富豪の美貌の娘ビアンカ・カッペロを愛人とし、ジョバンナが急死するやビアンカを妃とした。ビアンカの肖像画も2点展示されている。遣欧少年使節が訪問したとき、伊東マンショとダンスをしたと伝える。その肖像画も展示されているが、たしかに美人である。
  フランチェスコ1世・デ・メディチの一族にはスキャンダルが多く、悪名高い大公であったとされる。肖像画も、この類の肖像画にありがちな聡明さ、優雅さを敢えて表現したというよりは、いささか狡猾な、あるいは高慢な人柄を表したようにも思えるのは、観る側の先入観からだろうか。Photo_2
 そのメディチ家の少し先代にあたる人物に、この展覧会のポスターに用いられた美しいヒロインがいた。「ビア・デ・メディチの肖像」(1542年ころ)である。富も権力もあるメディチ家に誕生し、その可憐さから一族の愛情と期待を一身に背負ったであろう王女であったが、不幸にも6歳を待たずに亡くなったという。幼いにも関わらず完成された優雅さと美貌をもって描かれている。もちろん彼女が生きた時代は、日本の遣欧少年使節が到着する以前のことであった。

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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (1)

 神戸市立博物館に「遙かなるルネサンス―天正遣欧少年使節がたどったイタリア」という展覧会を鑑賞した。日曜日ということもあってか、かなりの来場者で賑わっていた。
 わが国戦国時代の後期、九州のキリシタン大名たちが派遣した遣欧少年使節があった。大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンが、天正10年(1582)2月長崎を出航し、マカオ、マラッカ、ゴアを経て、1584年8月ようやくポルトガルのリスボンに到着、それから7カ月後の1585年3月イタリアに着き、約1年近くイタリアを廻り、1586年4月ポルトガルのリスボンから帰途につき、長い航海を経てようやく1590年7月長崎に帰着したのであった。8年半にわたる大旅行であった。旅行の最中に、派遣元の大名であった大村純忠、大友宗麟が相次いで死去し、帰国時には天下人となった豊臣秀吉によってバテレン追法令が出るなど、日本国内の事情は大きく変わってしまっていた。

トスカーナ大公国(上)
Photo  冒頭には、当時ヨーロッパでつくられた地図のうち、日本が登場するもの2つが展示されている。いずれも形が実際と大きく異なるうえに蝦夷すなわち北海道が存在しない。当時の日本人の認識と同じということは、日本国内の情報から作成したものなのだろうか。またいずれも日本の国土面積を少し大きめに見積もっている。金銀の世界的生産国として、存在感が多少は実際以上に大きかったということだろうか。
  そして美術工芸品の最初は「リヴォルノ港の景観を表したテーブル天板」(1604年)である。貴重な瑪瑙やジェルストーンを多用し、象嵌技術で豪華に制作された調度品であり、ヨーロッパの豊かさを誇りたい意志を感じる。

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ライアン・ガンダー展 国立国際美術館

  イギリスの特異な芸術家ライアン・ガンダーの展覧会が、大阪中之島の国立国際美術館で開催された。1_3
  ライアン・ガンダーは、1976年生れのイギリス人で、イギリスとオランダで美術を学んだ。日常出会うさまざまな事象を、独創的な感覚でとらえ直して芸術にする、というアプローチらしい。日常の平凡なものを取り上げて、架空の状況を設定したり、意外なもの同志を結合したり、意図的に一部を除去したり隠したり、時空を超えるような発想をしたり、など既存の前衛芸術をさらに超えようとする斬新な芸術を目指しているようだ。
Gander_pic02_2   絵画については、彼は制作された絵画作品そのものではなく、絵画を描くときに用いたパレットに注目する。そのパレットをたくさん並べてアートとする。つまり絵そのもののでき映えではなく、その絵が創作された過程に思いをいたす、ということだろう。
  人間の姿あるいは姿勢を表現するものとして、金属の棒、長いねじ、金属球とスペーサーからなる人工的な関節、などを組み合わせた人体模型をつくり、それをさまざまな姿勢にセットして、人間の心理や行動を現す。「機械と安定のための演劇的枠組み」という副題がついている。G
  部屋の空間に、多数の「矢」のような鉄線を多数突き刺して並べる。「ひゅん、ひゅん、ひゅうううん  あるいは同時代的行為の発生の現代的表象と斜線の動的境界についてのテオとピエトによる論争の物質的図解と」という長たらしいタイトルの作品である。おそらく「矢」の配置や方向などが問題なのではなく、それが多数群衆していること、全体として勢い・エネルギーが感じられることがポイントなのだろう。
Img_6_m   展覧会ポスターのタイトルを飾ったのは「あの最高傑作」という題をつけられた作品で、人間の眼と眉毛の模型を壁に埋め込んだもので、その前に人が対峙すると、人の気配を感じて眼を閉じたり廻したり、眉を動かしたりするしかけとなっている。なんとなくユーモラスであり、しかし見方を替えると「人間の豊かな表情」なるもの、も実はこんな具合にパターンが決まったきわめて条件反射的なものが多いのかもしれない、などと考えてしまう。
  今回の展覧会では、この美術館の常設展のレイアウト・デザインをライアン・ガンダーが担当していた。これはこの美術館の収蔵作品を展示するもので、ライアン・ガンダーはなんらかの類似点をもつ作品をふたつずつ並べて展示することで、観るものに新しい発見、発想、感覚を引き起こそうとしている。ここで展示されている作品はライアン・ガンダーのものではないが、むしろそれゆえに、彼がどのようにモノを観ているのか、なにを考えているのか、が却ってわかりやすい、というおもしろさを感じることができる。
  「コンセプチュアル・アート」というらしいが、私にはあまりに奇抜でわかりにくいが、新しい発想の視角芸術というものが、わからないながらも少しは楽しめたように思った。
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「若冲の京都」京都市美術館(3)

 珍しい作品として滋賀の義仲寺の天井画として制作された「花卉図」がある。これは板地着色の作品だが、年月の経過により色彩はかなり褪せている。3段5列の15個に区分された画面に、15種の花卉を描いたものである。保存状況から一見古ぼけているが、よくみると構図や表現は現代的とも言えるとても新鮮な雰囲気がある。さすがである。

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  若冲の作品は、卓越し安定した描写力をベースにしながらも、観るものにサービス精神が旺盛で、眺めていて楽しいし心地よい。
  若冲は、京都錦小路にあった富裕な青物屋の嫡嗣として生れ、23歳のとき父の死により家督を相続し、商いにはさほど熱心ではなかったというものの立派に家業を守り、40歳を過ぎてからようやく弟に店を譲って画業に専念したという。当初は趣味としてはじめた画業と禅に熱中するあまり、他の芸事も酒も、ほとんどの雑事に無頓着で、妻も生涯娶らなかった。若いころから絵とともに熱心に修行した禅の師であった大典禅師梅荘顕常(ばいしょうけんじょう)との縁で、相国寺に出入りし、やがて相国寺の塔頭である鹿苑寺(金閣寺)に大書院障壁画を制作したりした。晩年を過ごした京都伏見深草の石峯寺には、3年ほどまえに訪れたことがある。若冲は、まさに京都の人であった。
  展覧会の閉会前になんとか鑑賞できて、ほんとうに幸いであった。

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「若冲の京都」京都市美術館(2)

Photo_2  「雪梅雄鶏図」(制作時期不明) がある。これは今回の展覧会では少數派の彩色だが、その彩色は、鶏の鶏冠と花だけで、やはり墨絵に近い。雪のしんしんとした冷たさと空間的な拡がりをじっくり感じさせ、そこはかとなく懐かしさのようなものを感じる。Photo_3
  定番の「登龍門図」も2点展示されていた。これも墨絵だが、すがすがしく凛とした絵である。
  「波濤鯉魚図」がある。竪に細長い画面に一部が現れる大胆な構図で、荒々しい波濤から飛び上がったエネルギッシュだがすこし愛嬌のある鯉である。敢えて描写を単純化して、鯉の勢いと精悍さとユーモアを表現している。
 若冲には珍しく人間を描いたものとして「布袋図」が2点展示されている。いずれも愛嬌ある布袋さんの絵で、みていて楽しいものである。「アッカンベー」をしている布袋がある。竪に細長い紙幅から、覗き込むようなアッカンベーである。
 若冲は、色彩だけでなく、構図も描写の自由自在な巧みさも、やはり卓越した画家であったようだ。

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「若冲の京都」京都市美術館(1)

京都市美術館で伊藤若冲の展覧会があるというので、そのうちに是非観たいと思っていたら、会期がまもなく終了ということに気づいて、あわてて京都に出かけた。
  若冲は、長らくさまざまな日本画の展覧会で断片的に観たが、さほど強く惹かれることもなく過ぎていた。ところが一昨年の夏、京都相国寺の承天閣美術館で琳派の画家たちとの複合展覧会を観て、すっかりその魅力に惹かれた。それまでいささか派手派手しい鶏だけしか知らなかったが、とても深い充実した作品がたっぷりあることを知ったのであった。
  今回は、伊藤若冲の生誕300年を記念して、日頃展示されないような作品を紹介する、とのことであった。
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 会場に入ると、冒頭には墨絵の屏風がならぶ。「花鳥図押絵貼屏風」というタイトルの6曲1双の屏風が2つ、そして鶏や菊花の屏風がつづく。若冲の絵というと、私は未だに極彩色の華やかな絵を想定していたが、とても渋い墨絵のシリーズである。ところがこの墨絵が、実にすばらしい。濃淡で奥行きを表現していて、立体感もある。
Photo_4   「鶏図押絵貼屏風」(1797) は、若冲81歳の晩年の作で、まさに円熟をきわめた絵である。白黒だけでここまで描けるのは、さすがである。同じころに描かれた少し風変わりな絵が「象と鯨図屏風」(1795) である。近世後期で、いささか洋風の画風の影響があったのか、やはり墨の濃淡のみで、おそらく実際には見たことがない象を描いている。構図を思い切って単純化しつつ、海水の泡や鯨や象の部分はとても丁寧かつ精緻に描いていて、そのコントラストがまたすばらしい。
 やはりまたユニークな作品として「髑髏図」(制作時期不明) がある。黒地に白で髑髏を描いていて、不気味というよりなにか不思議なユーモアを感じる。石摺という手法で紙本拓版の作品となっている。

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彫刻大集合 兵庫県立美術館(3)

原有司男 など
  篠原有司男「モーターサイクル・ママ」(1973) がある。この人は、モーターサイクルに関わる作品が多数あるが、そのうちのひとつである。篠原有司男は、詩人の父と日本画家の母の子として昭和7年(1932) 東京に生れた。東京芸術大学に進学して、林武に師事して洋画を学ぶが、やがて中退して昭和35年(1960)「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を新宿ホワイトハウスで結成し、独自の前衛的な芸術創作活動を活発に行った。頭を「モヒカン刈り」にして、週刊誌のグラビアに掲載され、またテレビにもよく登場して有名となった。昭和39年(1969)、ロックフェラー三世基金の奨学金を得て、妻子とともに渡米しニューヨークに在住した。Photo
  そこでゴミ置き場から拾い集めた段ボールで制作したのが、この作品である。デフォルメされているが、いかにも高速でぶっとばしそうなバイクに乗っている人物は、半身が虹色の服を着た男性、半身がグラマラスでエロティックな裸体の女性である。男性が虹色の服を着ているのは、ゲイを現すという。当時はアメリカでも、現在いうところのLGBTは認められておらず、こうした異端的な人物を取り入れて、体制批判をしているようだ。
  内田晴之「静止 82-1」(1982) というおもしろい作品がある。見掛けは重量感がある金属の直方体が2つ、実はアルミ製でおそらくは軽量だろう。ひとつの直方体の上にもう一つの直方体が乗っかり、これがほとんど接合面積がない突き合わせで繋がっている。実は、空洞のアルミ直方体のなかに強力な永久磁石が内蔵され、その磁力の斥力で浮かんでいて、非常にあやうい静止が表現されている。実際、この地で地震が発生したとき、上側の直方体は、ゆっくり振動していたそうである。単純そうに見えて、実に奇抜な作品である。
  以上の他にも、いくつか興味深い造形があった。細部を省略したヴォリューム感で暖かみを表現するヘンリー・ムーア「母子像」(1978) と、その長年の親友であるというバーバラ・ヘップワースの「曲がった形」(1961)、鋼線と不織布で構成され風によってゆらゆら動くモビール彫刻を連作している新宮晋、などなどはこれからも是非作品を鑑賞したい。
小規模な企画展だが、私にとっては新しい発見があり、たのしい鑑賞であった。

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彫刻大集合 兵庫県立美術館 (1)

ロシア・アヴァンギャルド ガボ・ナウム
  兵庫県立美術館の「2016県美プレミアムⅢ 彫刻大集合」を鑑賞した。
  オーギュスト・ロダンとその弟子たちの作品からはじめて、現代彫刻のさまざまなヴァリエーションと発展について、簡潔にわかりやすく整理して展示したものである。41pptosm8vl
  まずガボ・ナウムの「構成された頭部No.2」(1966)がある。この兵庫県立美術館が阪神淡路大震災復興事業の一貫として2002年に開館したとき、美術展示室に向かう玄関のような場所に、この彫刻が展示されていた。私たち兵庫県立美術館を訪れる者にとって、長らく親しんできた彫刻でもある。ガボ・ナウムは、ロシア・アヴァンギャルドを代表する美術家・彫刻家である。1890年ロシアに生れ、1910年ドイツ・ミュンヘンで美術に関わらない薬学・工学・数学など、いわゆる理科系の学問に励んだという。その最中に、ヴァシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが提唱した「青騎士」を知り、深く感銘を受けた。1913年ころ、兄が滞在していたパリを訪れ、キュビスムに影響を受けた。まもなく第一次世界大戦のため、デンマークを経てノルウェーのオスロに移った。1917年のロシア・2月革命をきっかけとしてモスクワに戻ったが、1923年にはスターリンから逃れるために再びドイツに渡り、ベルリンに滞在した。ここでバウハウスとも交流し、創作活動を展開した。1932年以降は、パリ、ロンドンを経てアメリカに活動拠点を移した。この「構成された頭部」は、ガボ・ナウムの代表作ともされる美しい作品である。創作の最初、ガボ・ナウムは、これを20センチメートルくらいのごく小型の紙模型として試作し、そのあと鉄を溶接した構成でこの2メートルを超えるような大きな作品として完成したという。
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「ハナヤ勘兵衛の時代デェ」 兵庫県立美術館

  兵庫県立美術館の小企画として「ハナヤ勘兵衛の時代デェ」という写真展があった。
Photo   「ハナヤ勘兵衛」とは、昭和初期から戦後にわたって兵庫県芦屋市を拠点に、写真機材店、カメラ設計者、そして写真家とし活動した桑田和雄の写真家としてのニックネームである。桑田和雄は、明治36年(1903) 大阪市西区に生れた。大正時代の17歳のとき父からカメラを与えられ、写真に強く興味をいだくようになり、やがて写真家をめざすようになった。大阪の写真機材商で見習いとして働くかたわら、写真の修行として上海に出かけて写真を撮った。昭和4年(1929) 富裕層の多い芦屋市に目をつけ、ここで写真機材店「桑田商会」を開業した。写真家としては「ハナヤ勘兵衛」を名乗って、当時芦屋を中心に活動していた中山岩太、紅谷吉之助、高麗清治、松原重三たちと「芦屋カメラクラブ」を結成した。当時は、世界的に新興写真運動が活性化しつつあった時期であった。
  戦後の昭和22年(1927) に、京都大学卒の技術者西村雅貫とともに「甲南カメラ研究所」を設立し、カメラの設計にも参画した。ここで開発されて話題となった小型カメラが「コーナン16」であり、製造はミノルタが行った。「コーナン16」は、私も中学生のころ、カメラに興味をもっていたときに実物に触れたことがあった。また、甲南カメラ研究所は、私が現役で技術者として働いていたとき、ささやかなコンタクトがあった。Photo_2
  ハナヤ勘兵衛の代表作とされるのが、昭和12年(1937) の「ナンデェ!!」である。これは、同一人物の動きをブレで表現し、少し動きのずれた3つの画像を一枚に配置シモノデ、躍動的な人物の動きを表現している。
  昭和初期の街の風景や、戦中・戦後のさまざまな風景、さらに写真の現像・構成技術を駆使したコンポジション的な作品など、多様な作品群がある。
  時代の制限もあって小さな作品が多く、現代では普通になってしまった大型プリントはないので、鑑賞は目を凝らしてすることになる。写真作品から感じられるのは、感覚的に感性で撮影する、というより思索的・構成的な作品が多いように思う。
  モノクロームの作品のみだが、色彩がないことで却って想像が刺激されて、画面がいっそう美しく感じるという効果がある。
Photo_3   多数の作品が展示され、私としては、カメラに興味をもち始めた少年時代、現像などに熱中した中学・高校時代を思い出し、また子供時代の街の風景を思い出し、全体に郷愁を楽しむ鑑賞となった。
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