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美術

10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (5)

1928年・1918年
 昭和3年(1928)は、金融恐慌を受けて経済低迷と財政難に苦しむなか、田中義一内閣が、国際協調外交から軍事重視の傾向へ転換し、山東出兵から張作霖爆殺事件にいたる不安定化の時代であった。海外では、ソ連でトロツキーが失脚し、イタリアでファシスト党が創立した。国内では日本共産党の一斉検挙があった。Photo
 このように不安感をはらむ時代ではあったが、大正デモクラシーの余韻も残り、美術活動も活発で、多くの若手画家は西欧絵画の習得に励んでいた。経済的に余裕のある者、あるいはスポンサーを得た者は、積極的に海外に留学して才能を研鑽した。外国に出ることが叶わなかった者は、国内で研鑽を積んだ。
 明治以来のひとつの目標であった西欧絵画の技術の習得という点では、多くの画家が未だぎこちないが、留学というチャンスのお陰かあるいは才能なのか、佐伯祐三と国吉康雄は、ひときわ一段群を抜いたレベルを感じる。
Photo_2 大正7年(1918)は、私の父が就職活動に苦労した大不況の最中であった。「大学は出たけれど」という言葉が流行した時代であったと聞いている。ロシア革命の余波を受けたシベリア出兵から派生した米騒動への対応で失脚した寺内内閣のあとを受けて、わが国初の本格的政党内閣との触れ込みで原敬内閣が誕生した年であった。日露戦争以来続く厳しい財政難と軍拡の慢性的過重負担のなか、国民生活のためのインフラ整備と大正デモクラシーの醸成が務められた。
 64年も後の1982年になって、少年時代の記憶をもとに描かれた絵として岡本唐貴「『自伝的回想録』より」として米騒動のことが描かれている。岡本唐貴にとって、米騒動はよほど強烈な印象だったのだろう。
 展示されているこの時期の絵画は、日本の古くからの伝統的絵画の延長戦上のものと、新たに取り入れた西欧絵画の系統のものとのふたつの流れがある。とくに版画では、日本の伝統的技術と表現に則った作品は、当然ながらしっかりした優れたものが多いように思える。
 こうして100年間にわたるわが国の美術を概観できた。ヒトの人生は短いもので、高齢の私でさえ自分の経験したこととつきあわせて鑑賞できるのはせいぜい50年程度に過ぎない。それでもこうして時代を軸に美術作品を眺めると、当然ながら美術創作活動も時代背景に規定されている面があるわけで、その意味ではより理解しやすい、鑑賞しやすい側面があることを改めて感じた。同時に、これまで過ごしてきたささやかな自分の道のりを、美術を通して見つめなおすひとときでもあった。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (4)

 

1948年・1938年
 昭和23年(1948)となると、私が生まれる前年であり、私個人の経験からは完全に離れる。インド独立の父マハトマ・ガンジーが暗殺され、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国ができた。国内では、美空ひばりが全国的にデビューし、現在のホンダの前身である本田技研工業株式会社ができた。極東国際軍事裁判が東京で行われた年でもあった。Photo
 さきの大戦の敗戦からまだ日が浅く、日本国内は荒廃が収まっておらず、物資も食糧も不足し、多くの人々は貧しい生活を余儀なくされていた。
 芸術では、文芸評論家の花田清輝、美術家の岡本太郎、文学者の野間宏が、前衛的な総合芸術の研究会として「夜の会」をつくった。椎名鱗三、埴谷雄高、佐々木基一、安部公房、関根弘らもくわわった。「リアリズム序説」「対極主義」「反時代精神」「創造のモメント」といった研究発表を軸に、アヴァンギャルド芸術をめぐる熱い討論がかわされたという。
 展示された絵画を見ると、田中幸之介「ミシンと女」、伊藤清永「室内」のように、戦争が終わって貧しくとも平和が到来したことに安堵した作品と、田中忠雄「鉄」、上野省吾の『銅版画集』のように、敗戦後の厳しい生活を暗示的にあるいは直接的に表現した作品との、大別して二通りがみられる。当時のひとびとにとっては、そのいずれもが実感だったのたろう。山本敬輔「ヒロシマ」は、あまりにパブロ・ピカソの「ゲルニカ」に似すぎていて、さすがにいかがなものか、と感じてしまう。
Photo_2 昭和13年(1938)は、さきの大戦がいよいよ抜き差しならぬ段階に陥っていく時期であった。私が生まれる10年以上前のことで、当然私に当時の記憶はありえないのだが。ヨーロッパではドイツ・ナチスがオーストリアを併合してますます勢力を拡大し、ユダヤ人への迫害がはじまっていた。日本は、中国との戦争がはじまり、国家総動員法が公布され、1940年開催予定であった東京オリンピックを返上した。当然不穏な環境であったろう。
 阿部合成の「見送る人々」は、すでに何回かみたことがある。青森に生まれ、旧制中学で太宰治と同級で過ごし、京都で絵を学び、この「見送る人々」で画壇から認められた。出征していく若者を見送るひとびとを描くが、画面の右手に自分の顔を描き込んでいる。他の大勢の登場人物が醜く付和雷同するのに距離を置き、視線もそらして一線を画している。この描き方は、大衆に対する侮蔑と自分は知的に優越していることを強調したい表現に思えて、あまり感じのよいものではない。まあしかし、当時の不穏な世情を表したとは言えるだろう。一方で、浅原清隆「郷愁」や古家新「養魚場」のように、平穏できれいな作品もある。
 

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (3)

1968年・1958年
Photo 昭和43年(1968)は、私はまだ大学生であった。この年は国内外で激動の年であった。ソビエト連邦の強圧下に呻吟していた東欧諸国がようやく動きだし、チェコスロバキアでブラハの春がはじまり、また長びいていたベトナム戦争では、転換点となったテト攻勢がはじまり、アメリカではマーティン・ルーサー・キング師が暗殺され、戦後世界の進歩的知識人たちが大きな期待を注いでいたフランスの五月革命が敗北に終わった。日本の一般社会では1989年のベルリンの壁崩壊が社会主義の終焉との印象だが、ヨーロッパ思想界では、五月革命敗北をうけてフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」を発表して、すでにベルリンの壁崩壊の20年以前から共産主義・社会主義革命実現への希望が潰えていた。国内では、霞が関ビルが竣工し、イタイイタイ病が公害病に認定され、川端康成のノーベル賞受賞が決まった。三億円事件も発生した。そして日本全国の大学で学園紛争がまん延し、学生ストライキ、学舎籠城、デモ、内ゲバなどが各所で発生していた。
 私は、この年はじめてアメリカのロサンゼルスを訪れ、いろいろ印象深い経験をした。美術界では、マムセル・デュシャンが亡くなって、わが国でもささやかながら展覧会などの話題となったことを覚えている。Photo_2
 理科系に興味が偏重していた私が偶然美術に興味を持ち始めたのは、高校生活後半時代の片恋からであり、本格的には大学に入ってからであった。
 横尾忠則は、大学紛争たけなわのこの時期ころから学生たちにも人気者となったが、このころはまだアングラ芸術家であり、日陰のアーティストという感じであった。
 このたびの展示でも、マルセル・デュシャンのコーナーがあり、彼が美術を眼に訴える芸術から精神に訴えることを唱道したと説明があるが、私たちには、レディメード、すなわち芸術家が自ら制作しなくとも、有り合わせのモノであっても視角を変えて新しい美術的価値を見つけ出すことができれば、それは芸術的創造だ、と主張したことが新鮮であった。この時期の美術作品として、サルバトール・ダリの作品が何点か展示されている。見方によってはきれいな絵の日本のマンガにも見えるが、当時からなんとも不思議な魅力を感じた。
Photo_3 昭和33年(1958)は、私は小学校4年生であった。この年に月光仮面がテレビドラマとして放送されたこと、今上天皇が正田美智子さん、つまり現皇后と婚約されたことなどは、朧気ながら記憶に残っている。ほかにも東京タワーが竣工したこと、日清食品がチキンラーメンを発売したことなどがあるらしいが、私の記憶にはさだかでない。
 展示には、アルベルト・ジャコメッティの「石碑Ⅰ」というブロンズ像がある。ジャコメッティは、独特のやせ細った人物の塑像で人気が高かったそうだが、このころはすでに晩年であったようだ。国内では1951年に戦後前衛芸術活動の代表的な画家のひとりであった瑛九が、既存の画壇の権威主義的な傾向に異議をとなえて「デモクラート美術協会」を設立し、泉茂、池田満寿夫、吉原英雄、靉嘔などが集まった。関西では、吉原治良のもとに糾合した関西の若手の作家たちで1954年「具体美術協会」ができた。こうしてわが国の抽象絵画の活動は大いに勢いづいた。ここでは、瑛九の版画集の作品や靉嘔「アダムとイブ」、白髪一雄の「作品Ⅱ」などが展示されている。
 しかし、ここにならんでいる抽象絵画の油彩は、なぜこんなに申し合わせたように絵の具を徹底的に厚塗りしているのだろう。それぞれに独創的な絵画表現を探求した、と聞いているが、これではみんなワンパターンではないか。さすがに、当時小学生の私がこれらを知ることはなかった。渡辺一郎の「架線」もある。浜田知明「飛翔」も、今となってはありふれた表現かも知れないが、四角の箱からヒトの顔と脚が出て、空中に浮遊するという構成の発想はおもしろい。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (2)

1988年・1978年
B_2 昭和63年(1988)は、バブルの真最中で、そのあと20年間続く平成不況直前の昭和最終年であった。ファミコンのドラゴンクエストが大流行し、青函トンネルが開業し、東京ドームが開場し、瀬戸大橋が開通した。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件という奇怪な悲劇もあった。そして昭和天皇が危篤となり、急遽日本国内に自粛ムードが広がったときでもあった。私自身の思い出としては、長らく過ごしてきた関西を離れ、首都圏に生活するようになってすっかり落ち着いたころであった。仕事でもさまざまな問題を抱えて、残業時間もずいぶん長かったけれど、好景気の環境から後のような逼塞感はなく、それなりに明るく過ごしていた。最近過労死がメディアに取り上げられて大問題になっているが、当時はもっと長時間の残業も珍しくなかった。やはり将来に希望がもてる時代だったと言えるのかも知れない。しかし一方では、地価が上昇しすぎてまともな給料取りの生活では生涯かかっても土地付きの住宅を購入することは至難のこととも思えた。Photo
 当時人気が高かった写真週刊誌の表紙を担当していた三尾公三の「画室の女(B)」(1988)は、画面を構成するそれぞれの要素は小ぎれいで貧しくないけれど、それらのモノも人物もなにか足りず、満足感がなく、虚無的でさえある。
 木下佳通代「88-CA497」(1988)は、意味不明のタイトルの抽象画だが、カンバスの白地に長短・太細のさまざまな黒い直線を描き込んだ作品で、印象として活気・混迷・逼塞の諸要素を感じさせる。
 その10年前の昭和53年(1978)は、東京池袋にサンシャイン60が竣工し、成田に新東京国際空港が開港し、日中平和友好条約が調印された年であった。私は企業勤務の生活に順応して、社員組合の役員を勤めたりして、予想外の本務以外の仕事で忙しいという経験をしていた時期であった。横尾忠則がすっかり大家となって、大手メーカーの商業宣伝ポスターの制作をしている。浜田知明や元永定正の象徴的あるいは超現実的な表現の作品も、このころには違和感なく定着しているように思える。
 前田常作の仏教画がいくつか展示されている。私はこれまでこの画家については知らなかったが、充実した落ち着いた作品が並んでいる。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で「10年ひとむかしと人は言う」との、少しおもしろそうなタイトルの企画展が開催されたので、大型連休の初日を神戸に出かけた。
 ちょうどこの日から「ジブリの大博覧会」という別の特別展が始まることもあって、美術館のエントランスはかなりの人だかりであった。ところが私が入場した企画展の展示場は非常に空いていて、肩透かしのようであったが、その分ゆったりと快適に鑑賞できたのであった。
 この企画は、兵庫県立美術館所蔵品を、大正7年(1918)から10年おきに、平成20年(2008)まで、のべ100年間にわたってそれぞれの10年おきの代表的な美術作品を展示する、というものである。

2008年・1998年
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 展示の順序は、現在に近い平成20年からはじまり、順次遡って大正7年が最後となっている。冒頭の平成20年(2008)も、すでに10年も昔ではある。この年のできごととしては、2月のアメリカの狂牛病騒動とインドネシア・スマトラ島の大地震、5月の中国の大地震、北京オリンピック、9月のリーマンショック、そして年末のバラク・オバマ氏の大統領当選などがあった。Photo_2
  展示作品で興味深いのは、大岩オスカールの「雪雨」(2002)が、雪があるような寒い季節なのに、なぜか嵐のようにさまざまな家屋・車・動物などが吹き飛ばされ、洪水にながされる悲惨な大きな風景画である。この2008年の内外で発生した大地震や、少しのちの2011年の東日本大地震を予見したかのような絵である。やはり大岩オスカールの「www.com」(2003)は、これもまた5年ほど後の狂牛病騒動を予見したかのような絵である。
 平成10年(1998)のコーナーは、この展覧会でもっとも展示が少なく、この年に亡くなった高松次郎のインスタレーションと絵の2点のみである。この年には、長野冬季オリンピック、明石海峡大橋開通、米英のイラク空爆などがあった。当時私は、製造業で働いていたが、長期化した不況であまりあかるい雰囲気ではなかった。

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ルーブル美術館展 (3)

コードとモード
 ルネサンス以降のヨーロッパでは、社会の近代化にともなってブルジョワ階級が次第に台頭し、有力な商人や銀行家から、さらに下の階層まで、自らの肖像を絵画や彫像で顕示したい、残したいという需要が発生した。こうした肖像は、古代より培われた上流階級の肖像表現のコード(決まった表現の仕方・表現上のルール)を踏襲しつつ、一方では時代・地域・社会に特有のモード(流行)を反映しながら、じつに多様な展開を遂げていった。Photo
  コードとしての衣服や装身具の描写は、モデルの社会的地位や役割を伝え、その存在の永遠性を記念する機能を担った。さらに時代のモードに即した衣服や装飾品は、モデルの人柄や個性、そして彼らの一瞬の生の輝きを伝える役割を果たした。
 ヴェロネーゼ「美しきナーニ」(1560年)は、ルネサンスのヴェネツィア女性ならではの優雅なドレスや宝飾品の繊細な描写によって、モデルの魅力を際立たせている。これは、1914年にルーブル美術館に所蔵されて以来、ルネサンスの肖像の最高傑作の一つとされてきた。高級娼婦、貴族の女性、あるいは観念的な理想の女性像、などこの絵のモデルが誰かについては、さまざまな議論があったという。具体的な人物として、ヴェネツィアの貴族マルカントニオ・バルバロの妻、ジュスティニアーナ・ジュスティニアーニとする説も有力であった。
Photo_2 結局多くの研究者は「美しきナーニ」をジュスティニアーナというよりも、貴族の既婚女性の肖像とみなし、かつ貴族の家庭の理想的な母親像の表現をそこに読み取った。彼女の上質なビロードのドレス、真珠の首飾りなどの豪奢で優雅な装いと、左手の薬指にはめられた指輪が、この説を裏付ける。胸元を四角い形に大きく開けたドレスは、当時ヴェネツィアで流行していたスタイルだが、未婚の女性は着用できなかった。また手を胸に当てるしぐさは、伴侶への忠実を示すポーズと解釈されている。
 サンドロ・ボッティチェリと工房「赤い縁なし帽をかぶった若い男性の肖像」(1480年頃)がある。今回の展覧会の目玉らしく、この絵もポスターやパンフレットを大きく飾っている。縁なし帽とカールした長い髪は、当時のフィレンツェの富裕階級の男性に特有の装いとされている。モデルは特定されていないが、フィレンツェのメディチ家最盛期の当主ロレンツォ・イル・マニフィコの従兄弟であった、ロレンツォ・トルナブオーニ(1465-1497)とする説もある。若々しく利発で生気に満ちた容貌である。
 中世ヨーロッパでは、宗教画が主役で、宗教的場面の片隅に寄進者を描き入れるかたちで肖像表現が慎ましやかに挿入されたりした。しかし14世紀イタリアのフィレンツェに始まったルネサンスの時代になると、人間性を尊重する文化のなかで独立した肖像画が誕生した。当初は古代の肖像メダルにならい、モデルをプロフィール(横顔)で描くのが一般的であったが、15世紀後半には正面や斜めを向いた肖像が描かれるようになった。フィレンツェで活躍したボッティチェリとその工房が手がけたこの絵でも、男性はやや斜めを向き、涼しげな眼差しをこちらに向けている。Photo_3
 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン「ヴィーナスとキューピッド」(1657年)がある。この絵は一見、愛の女神ヴィーナスとキューピッドを描いた宗教画に見えるが、ヴィーナスは内縁の妻として後半生のレンブラントを支えたヘンドリッキェをモデルとし、またキューピッドも、おそらく彼らの間の娘コルネリアをモデルとして描かれたと考えられている。最初の妻サスキアを1642年に亡くしたレンブラントは、息子ティトゥスの乳母ヘールチェを愛人としたのちに、家政婦として雇ったヘンドリッキェとも愛情を育み、彼女の肖像画を何点も手がけた。ヴィーナスの優しげな微笑みは、ヘンドリッキェの穏やかな人柄をしのばせているようだ。17世紀オランダのレンブラントは、聖書や神話を主題にした歴史画のほか、肖像画・自画像によって名声を博した巨匠である。この絵は長年、レンブラントの弟子や工房による制作とされてきたが、近年の研究によって見直され、レンブラント自身の作とされた。
Photo_4 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン「エカチェリーナ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスキー伯爵夫人の肖像」(1796年)という絵がある。
 絵のモデルはロシアのスカヴロンスキー伯爵の美貌の妻、エカチェリーナ(1761-1829)である。画家ヴィジェ・ル・ブランは、伯爵が大使としてナポリに駐在していた1790年に夫妻と親交を結ぶ機会を得て、以後夫人の肖像画を何度も手がけた。
 王妃マリー=アントワネットのお気に入りとして肖像画家としての名声を得ていたヴィジェ・ル・ブランは、1789年に勃発したフランス革命のためにフランスを逃れ、ヨーロッパ各国に新たな活動の舞台を求めていたのであった。
 この絵の制作時点でエカチェリーナは34歳で、3年前に夫に先立たれ、若くして未亡人となっていた。絵のなかでエカチェリーナは、白い首筋に豊かな巻き毛を垂らし、東洋風のターバンと青いショールで美しく装い、甘い眼差しを投げかけている。たしかに誰が見てもにおいたつような典型的な美女である。モデルの魅力を最大限に引き出すヴィジェ・ル・ブランの肖像画は、上流階級の女性たちの間でどこの国でも大いに人気を博したという。
 フランツ・クサファー・メッサーシュミット「性格表現の頭像」(1771~1783年頃)という奇妙な頭部の彫像がある。ぎゅっと目をつぶり、への字に曲げた口をテープでとめて、耐え忍ぶような、なんとも苦渋に満ちた表情である。Photo_5
 オーストリア人フランツ・クサファー・メッサーシュミットは、後期バロック様式と初期新古典主義様式の彫刻家であり、ウィーンのアカデミーで教授を務め、伝統的な肖像彫刻を制作していた。しかしある時から次第に精神を病み、1774年に離職し、1777年に移り住んだブラスティラヴァで1783年に没するまで、自分をモデルにしながら、さまざまな表情の奇妙な頭部像を連作した。それらは生前には公開されず、没後にアトリエで69点が発見され「性格表現の頭像」と名付けられた。展示作品はそのうちの1点である。
 多くはない同時代の証言によれば、妄想に悩まされ続けた彫刻家は、顔と身体の一部をつまんでしかめっ面をし、自身を苦しめる病をなんとかコントロールしようとしていたそうである。それゆえ「性格表現の頭像」の制作は治療のためであったとも考えられるが、少し違う角度からは、顔立ちと性格の相関関係を研究した近代観相学の先駆けとも考えられる。
 オーギュスタン・パジュー「エリザベート・ルィーズ・ヴィジェ・ル・ブラン」(1783)というタイトルのテラコッタの胸像がある。素焼きなのにとても繊細な塑像で、モデルの表現としても、美術作品としても、とても美しい。モデルに対する強い愛情の結果なのだろうか、印象に残る作品である。
今回の展覧会は全部で112点と、少し多めの展示だが、なんとか集中力を維持して鑑賞できた。私にとって、初めて観る作品が多く、非常に興味深いひとときであった。

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ルーブル美術館展 (2)

権力の顔
Photo 肖像芸術の大きな役割のひとつが、権力の表現であった。王や皇帝など最高権力を掌握した君主たちは、自らの似姿である肖像をつくらせ顕示して、配下や民衆に権勢を広く知らしめようとした。このような場合、誰が見ても権力者だと分かるように、時代・地域・社会の文脈に応じて構築された表現コード(決まった表現の仕方・表現上のルール)が用いられている。
 「ハンムラビ王の頭部」(イラン出土)というごく小さな金属の像がある。しかしこれは、古代オリエントの最も有名な肖像作品の一つに数えられるという。縁のある被り物と、頬からあごを覆う髭は、古代メソポタミアの王の肖像表現として典型的なものだそうだ。この男性の相貌はかなり高齢に見え、そのため43年の治世を誇り「目には目を、歯には歯を」で高名なハンムラビ法典を制定した老練な賢者であったバビロニアのハンムラビ王(在位:前1792-前1750)を表現したものと推測されていた。しかし今日の鑑定では、ハンムラビ王の治世より前の制作と推定されていて、モデルについては、ハンムラビ王に攻略された都市国家ラルサの王リム・シン1世(在位:前1822-前1763)、あるいは彼の祖父で、バビロン第1王朝の2代目の王スムラエル(在位:前1880-前1845)とする説がある。Photo_2
 「アレクサンドロス大王の肖像」(イタリア出土)がある。一見なんでもないようだが、大王の肖像と聞いてじっくり眺めると、その立派な鼻筋と、賢そうな眼差しが印象的である。古代ギリシア北部のマケドニアから出て大帝国を作り上げたアレクサンドロス大王(在位:前336-前323)は、ごく限られた芸術家のみに自身の肖像制作を許したという。その一人が、ギリシアのクラシック期を代表する彫刻家リュシッポス(前390-?)であった。展示されている彫像は、リュシッポスが制作したブロンズの全身像「槍を持つアレクサンドロス」(BC330頃、現存せず)の頭部のみをローマ時代に模刻したものである。現在ではリュシッポスの作品は1点も現存しないが、その作風は適度な理想化を加えつつ、モデルの個性を生き生きと表現したものであったと伝えられている。前髪を逆立てた独特の髪形をはじめ、大王の容貌の特徴を最もよく伝える貴重な作例とみなされており、後世の芸術家たちからも常に手本とされたという。
Photo_3 「トガをまとったティベリウス帝の彫像」(1世紀)は、大きな彫刻である。第二代ローマ皇帝として、質素な一枚布の羽織り物たるトガを纏ってまだローマ市民の意識を保ち、左手に演説原稿を持ち、人々に語りかけるため右手を前方に向け、熱意をもって語りかける姿である。彫刻家は、ローマ市民の心を維持した理想的な皇帝として、表現したかったのであろう。絵画「銅鎧をまとったカラカラ帝の胸像」(3世紀)は、すでに皇帝として超絶した権力を掌握し、傲岸不遜な表情である。しかし当時のローマは内外に不安と危機がせまり、カラカラ帝の強力なリーダーシップがローマ市民の人気を得たという。いずれの彫像も、皇帝の異様とも思えるほどの大きく立派な鼻が印象的である。
 フランス革命で断頭台に消えたヒロインの胸像がある。ルイ=シモン・ボワゾ「フランス王妃マリー=アントワネットの胸像」(1782)である。私たちがよく見る美術作品のアントワネットの容貌は、いずれもよく似通っていて、王妃の容貌をかなり忠実に表したものと思われる。Photo_4
  ただ、ルイ=シモン・ボワゾは、最初に制作した作品で、もう少し大きめに目鼻などを表現したところ、傲岸不遜に見えたらしく大いに不評であったので、少し控えめに見えるよう修正したところ好評を得て、たくさんの複製をつくることになったという。展示されている胸像もその複製の一つである。同じような容貌でも、些細な部分を少し変えただけで印象が大きく変わるという事実は、私たちの日常でも遭遇する。
 アントワーヌ=ジャン・グロ「アレコレ橋のボナパルト」(1796)は、オーストリア軍に敢然と立ち向かい撃破した27歳のナポレオンの雄姿で。この展覧会のポスターにも用いられている絵である。ナポレオンは、グロが自分の姿を描くことを高く評価し、とくに取り立てて多くの作品を作らせた。

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ルーブル美術館展 (1)

 大阪市立美術館で、ルーブル美術館展が開催された。今回のテーマは「肖像芸術 ─人は人をどう表現してきたか─」というものである。


記憶のための肖像
 なぜ人は肖像画あるいは肖像彫刻を制作し残すのか? その理由のひとつは「記憶のため」であるという。古代エジプトでは、棺にミイラを格納し、その上からマスク彫刻をかぶせた。そのマスクの肖像は、亡くなった貴人の写実よりも、未来に蘇ったときの理想の顔であったという。しかし時代が下ると、同じエジプトでもマスク彫刻は板に描いた絵に替わり、さらに理想像でなく故人の面影を偲んで写実的な肖像に変遷したという。Photo
  そのひとつの例として「女性の肖像」(AD2世紀、エジプト・テーベ)がある。王族の若い女性のようだが、写実といいつつも美化しているのか、とても清楚で美しい肖像画である。それでも同時に、現代でも街を歩いていそうな、とても身近な感じもする。2,000年も昔から、実は人間の容貌がさほど変わっていないことをあらためて感じる。たしかにそういう意味では、写実的なのかも知れないと思う。
 シリア・パルミラから出土した「女性の頭部」(AD150-250年、石灰岩)がある。これは副葬品としてかなり量産されたというが、当然手作りで、とても美しい女性の彫刻である。
Photo_2 時代が大きく下って、18世紀末のフランス革命時の油彩画がある。ジャック=ルイ・ダヴッド「マラーの死」(1794年頃)である。フランス革命のジャコバン派の闘士ジャン=ポール・マラー(1743-1793)は、『人民の友』紙で激しい王政批判を展開した。しかしマラーは、1793年7月13日、皮膚病の治療のため湯につかっていたとき、対立するジロンド派の若い女性シャルロット・コルデーによって刺殺された。その翌日国民公会は、ジャコバン派の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドに、マラーの肖像画の制作を依頼した。4ヶ月後に国民公会に寄贈された肖像画はたちまち評判となり、レプリカが制作された。そのうちの1点がここに展示されている絵である。ダヴィッドはカラヴァッジョの「キリストの埋葬」から、だらりと腕を垂らすポーズを取り入れ、左手にはなにかメモを広げ、入浴中も革命のために懸命に思考をめぐらせていたようだ。なかなか逞しい肉体として描かれている。光はマラーの姿を荘厳して浮かび上がらせ、マラーは革命の「殉教者」として表されている。

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ビュールレ・コレクション展 (9)

モダン・アート
 ビュールレ・コレクションの大半は1940年以降の10数年間に収集されたが、抽象絵画など当時の現代美術は含まれていない。コレクションの中で最も新しいものは20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスムなど、その後の絵画の急激な変革を導いたモダン・アートの作品群である。短い時間に目まぐるしい変化を遂げたそれらの作品群は、20世紀初頭の絵画革命の熱気を生き生きと伝える。Photo
 ジョルジュ・ブラックは1908年以降、ピカソと共に物体を平面的な小さな面に解体して、それらを再構成するキュビスムの絵画を創り上げた。「ヴァイオリニスト」(1912)は、切子面で分割された画面要素が、立体的に再合成される典型的なキュビスムの絵である。演奏者のイメージは細かく分解されているが、ヴァイオリンの4本の弦とf字孔ははっきりと認識できるように描かれ、よくみると演奏者の姿が浮かび上がる、と解説に書いてあったが、私にはついに演奏者が浮かばなかった。
 そしていよいよパブロ・ピカソである。「イタリアの女」(1917)は、私にはとても魅力的な作品だ。平面に分割された要素のそれぞれの色彩のバランスが、とても絶妙で心地よいのである。「花とレモンのある静物」(1941)も分割要素の立体的再合成というコンセプトの典型的な例であるが、画面構成にしまりがあって、心地よい緊張感があり、観ていて楽しい作品である。
Photo_2 アンドレ・ドラン「室内の情景」(1904)は、精密に設計された画面構成で、タッチはフォーヴィスムのようで、なかなか理知的な魅力的な作品だと思う。
 展示の最後は、クロード・モネ「睡蓮の池、緑の反映」(1920ころ)の大型油彩で締めくくられている。
 ドイツに公務員として生まれたエミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956)が、さきの大戦前から武器商人として活躍し成功して財を成し、スイスに移住してスイスで印象派とポスト印象派を中心としたコレクションを蓄積した。このたびはそのコレクションから日本初公開の作品群を多数含む展示をしたのであった。全展示点数は64点と、最近の企画展覧会としては少なめだが、鑑賞するにはちょうど良いレベルの数で、しかもほとんどが人気の高い印象派の名品ばかりで、とても充実した鑑賞であった。

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ビュールレ・コレクション展 (8)

20世紀初頭のフランス絵画
Photo 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポスト印象派やセザンヌ、ゴーギャンなどの独創的な芸術を追って、さまざまな新しい流れが派生した。この展覧会では、主にゴーギャンから影響を受けた流れについて、8点の展示があった。
 まず多くの芸術家が憧れたポール・ゴーギャンである。タヒチに移ったゴーギャンは、パペーテを経て1901年に、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島アトゥオナに移住した。西洋の文明社会から逃れ、タヒチでの生活を始めて以降、ゴーギャンは現地の人々を鮮やかな色彩と平面的な表現で描き出した。「贈りもの」(1902)は、新しい命の誕生を祝って花を贈る現地の風習を描いた作品で、タヒチ時代の様式に加えて、女性の肌のより繊細な色調表現が認められる。この平面的で原色を多用する技法は、後進の多くの芸術家に強い影響を与えた。Photo_2
 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「コンフェッティ」(1894)は、イギリスの製紙会社J.&E.ベラ社のために制作されたポスターの習作だそうである。コンフェッティとは、カーニバルの時に使用される紙吹雪を意味している。楽しげな表情を浮かべる女性は、ロートレックが長年描き続けていた女優のジャンヌ・グラニエをモデルとしている。おそらくごく短時間に、最低限必要なところだけをサッサッと描いたように思えるが、実に簡にして要を得た、ミニマムだけど忘れがたい魅力的な絵である。ロートレックの典型的な、面目躍如の作品だと思う。

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