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美術

第85回記念一水会展 京セラ美術館(2)

2.その他の作品
 村上千晶「午后の漁港」がある。Photo_20241121054001
 漁猟は早朝から働くだろうから、午後は猟師さんも陸にあがって一息つくのだろう。この絵は漁に使う網やロープがふわりとゆるくまとめられて、岸の港に置かれている。これらの漁猟の道具たちも、一仕事の後のリラックス・タイムという風情である。
 漁猟の厳しさと、その合間の貴重な休息、そのメリハリを感じさせる、ほのぼのと暖かい作品だと思う。
 河西昭治「瞑想にふける」がある。
Photo_20241121054002  おそらく川の水面に静かに浮かぶ小舟なのだろう。その小さな舟に、ひとりの男が腕を組んで物思いに耽って、後ろ向きに座っている。岸の雑踏を逃れ、ただひとりだけで過ごす、彼にとって貴重で贅沢な時間なのかもしれない。波らしい揺らぎもほとんどなく、心理的にも静かに瞑想できているのだろう。画面に描かれた周囲の静謐が、彼の心の中の静穏を象徴している。しっかりしたタッチの、落ち着いた良い絵だと思った。
 城本明子「鉄橋の支柱」がある。
 なんとPhoto_20241121054003 いう特徴のある絵ではないのかも知れないが、この絵をみると、ふと自分の心象風景を連想する。私は、「この思考の土台は」とか「この発想の基盤は」など、何らかのむしろ抽象的なことを考えているとき、頭の中には漠然とこの絵のようなシーンをイメージするのである。
 そういうこともあってか、絵を自分では描かない私も、このような光景を目の当りにするとなんとなく気になってしまうのである。
 森本光英「自画像・95才記念」がある。
95  この作品は、題名から考えて、絵を嗜むご高齢の女性が、95歳の誕生日を記念して自画像を描いたものらしい。達者な絵で描かれた姿が若々しいのも感動するが、なによりそのご高齢でなお筆をとって絵を描けるということに敬服する。
私たちも、出来得るならそのように歳をとっていきたい、と思う。
 私は、絵は見るだけで自ら制作することはないが、絵を嗜み、かつすてきな作品を完成させる人たちが、このようにかなりの多数おられることに、改めて感銘を受けた。

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第85回記念一水会展 京セラ美術館(1)

1.並川靖生「岩稜」
 並川さんからこの展覧会の案内をいただき、秋の晴天のなか京都に出かけた。Photo_20241120054201
 一水会展の会場は、思っていたより大きくて、並川さんの絵にたどり着くのに少し手間取った。
 作品「岩稜」は、タイトル通り険しい山の稜線に注目した絵である。夏の早朝なのだろうか、晴天の澄み切った空気のなか、少し低めの方向から射す陽光と、その光に映える清涼な山肌と緑、そして自然の厳しい美しさを顕わす岩稜が聳える。彼は山の絵をたくさん描いていて、なんどか見ているので、見る側にとっては安心感がある。静謐で雄大で爽やかな、心地よい作品である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(10)

5.歴史
 谷原菜摘子「創世記」令和3年(2021)がある。

Photo_20241119055401

 谷原菜摘子(たにはらなつこ、平成元年1889~)は、埼玉県に生まれ、京都市立芸術大学美術研究家を終了後、兵庫県に住んで、多数の作品を発表してきた。
この作品は、ベルベットを支持体として、油彩、アクリル、グリッターなどで玉虫色に輝く独特の画面を実現している。画題として「創世記」という世界の始まりの物語を取りあげるが、怪しげな美しい人魚たち、電車のつり革のような情景など、そこはかとなく現代的な要素が混入していて、作家が自由に新しく編んだおとぎ話のような世界として描かれている。今回の展示のなかで、もっとも新しい作品である。
 ソニア・ドローネ=テルク「リズム・色」(1936/1973)がある。
 ソニア・ドローネ=テルク(1885~1979)は、ロシア帝国の現在のウクライナに、ユダヤ人の両親のもとに生まれた。幼いころに母の兄弟でサンクトペテルブルクの富裕な弁護士であったヘンリ・テルク夫妻のもとに預けられ、やがて正式にテルク夫妻の養子となった。18歳でドイツのカールスルーエ美術学校に留学し、20歳を過ぎてパリに出た。
Photo_20241119055501  1910年、画家のロベール・ドローネーと結婚した。ソニアは「私は、ロベールに詩人を見出しました。言葉でなく、色で書く詩人です」と語っている。翌年、息子のシャルルのためにパッチワークキルトを作った。ソニアが「キュビスム的着想」というように、幾何的な模様と色を用いた作品であった。ドローネー夫妻の作品は、批評家のギョーム・アポリネールから「オルフィスム」と名づけられた。これはキュビスムの形態重視による色彩の排除の傾向に反発し、明るく豊潤な色彩を積極的に取り入れるものとして、ギリシア神話の音楽家オルペウスからとった命名であった。色彩のニュアンスや対比と形など、さまざまな組み合わせで豊かな表現が生まれるというもので、科学的知見にもとづく研究がベースとなっている。
 ソニアの芸術において、テキスタイルデザインはその初期から重要な位置を占めていた。この作品「リズム・色」においても、抽象画のように見えつつも、頭・肩・身体のシルエットが浮かび上がってくるようでもあり、服飾との深い関連性を感じさせる。

 今回は常設コレクション展だが、女性の制作を軸にテーマを絞りこみ、分野と歴史を包括的にまとめる企画により、期待した以上におもしろく、私にとっては大いに勉強になった。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(9)

5.歴史
 ニキ・ド・サンファール「ボンジュール マックス・エルンストより」(1976)がある。Photo_20241118055101
 ニキ・ド・サンファール(1930~2002)は、フランス貴族を先祖とする父と、アメリカ人実業家とフランス女性の間の子であった母との娘として、パリ郊外に生まれた。富裕な家の子として幼少期からアメリカのニューヨークに住み、「ナナ」というニックネームをもつ乳母に育てられた。両親ともに愛人をもつという複雑な家族関係もあって、ニキはナナをひとつの理想化された女性像に形成していく一方で、反抗的な少女となり、優れた容姿からモデルにスカウトされ、『ヴォーグ』『タイム』の表紙にも載った。
 幼馴染でやはり富裕層出身の作家ハリーと結婚し、モデル、女優などを遍歴した後、統合失調症となり、そのときのアートセラピストにより絵画を勧められ、はじめた。
 1960年ころからアサンブラージュ(立体を含むコラージュ)の制作を経て、独自の「射撃絵画(ティール)」を創出した。これは絵具を入れた袋や缶を石膏でキャンバスに固定し、離れた場所からピストルやライフル銃で撃つパフォーマンスによる絵画である。「私は絵が血を流して死ぬのを見たかった。誰も殺さない殺害だ。」と語っている。過激な射撃絵画シリーズは、ニキを世界に知らしめた。
 1965年ころには、豊満な女性像「ナナ」シリーズを発表し、ひとつの開放的な女性の理想像を提示した。
 展示されている「ボンジュール マックス・エルンストより」は、シュルレアリストの芸術家マックス・エルンストが逝去した年に発表された版画集『ボンジュール マックス・エルンスト』に参加したものである。本作には、エルンストとパートナーであったドロテア・タニングが描かれている。「ナナ」としてのドロテアと、鳥の姿をしたエルンスト、そしてガラガラヘビ、サボテンなどが、エルンストたちが暮らしたアリゾナのピンク色の夕日を背景に描かれている。ニキは、自分自身の人生を通じて精神世界や神話、文化、政治への関心を、独自の芸術世界として展開した。
Photo_20241118055102  マックス・エルンストのパートナーたるドロテア・タニングによる「ボンジュール マックス・エルンストより」(1976)も展示されている。
 ドロテア・タニング(1910~2012)は、アメリカ合衆国イリノイ州に生まれたシュルレアリスムの画家・版画家・彫刻家・作家である。
 1936年ニューヨーク近代美術館で開催された、ダダとシュルレアリスムの展覧会に衝撃を受け、作品制作をはじめたという。その後、シカゴの美術学校に通ったものの、ほとんど独学で画業を成したという。
 1943年フランスからアメリカに亡命してきたマックス・エルンストと出会い、結婚し、マックスの最後の伴侶となった。
 マックス・エルンストの死去の年に編纂された版画集『ボンジュール マックス・エルンスト』に収録されたのがこの作品で、このなかには"I LOVE MAX"が組み込まれ、その感情が窺える。
 ただ、ドロテア・タニングは晩年、マックス・エルンストの妻という型にはめられることを嫌い「マックス・エルンストと過ごしたのは30年だが、それから私は36年も生きている」と語り、その後も豊かな制作を継続していった。
この作品での裸体のような部分は、同時期に制作していた布と綿による身体を模した作品と類似していて、ドロテア・タニング独自の表現である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(8)

4.女性と風景
 神中糸子「揖保川風景」明治21-26年(1888-92)がある。Photo_20241117055001
 明治期前半のころは、女性の画家が少ないのみでなく、女性が風景画を描くとき、ひとりで旅行することや、写生旅行のために長く家を留守にすることにも困難があり、女性による風景画はごく稀であった。現在では、性別に関わらず遠方まで自由に出かける機会は増えている。
 この神中糸子の作品は、そういう意味でも貴重な初期の例である。落ち着いた静謐な筆致の立派な作品だと思う。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(7)

3.女性と身体
 イイタニ ミチコ「無題 ハイポイント・コンタクトより」平成5年(1993)がある。Photo_20241116061001
 イイタニ ミチコは、昭和23年(1948)兵庫県に生まれ、大学卒業後に単身渡米した。アメリカのシカゴ・アート・インスティテュート在学中から、アメリカ・日本・ヨーロッパなどで作品を発表した。
 この絵にあるのは、まぎれもなくエネルギッシュな力強い肉体の表現だが、敢えて性別を避けているようだ。具体的な肉体の機能だけでない何かを表現しようとしているのだろうか。さらに、あわせて描かれる直線は、肉体や生物から離れた、空間の区切りとして、あるいは力強い運動の表現として、肉体とは対照的に印象づけられて描かれている。ちょっと不思議な絵である。
 青木千絵「BODY 10-1」平成10年(1998)がある。
 青木千絵(あおき ちえ、昭和56年(1981)~)は、岐阜県に生まれ、金沢美術工芸大学美術工芸学部を修了した彫刻家である。布、発泡体、ラッカーなどを駆使した独特の彫刻作品を制作している。
Body-101  この作品は、スタイロフォーム(発泡スチロール)と麻布と漆を用いて、自分の肉体を表現している。しかし頭や顔は塊だけの造形である。不安定な人体を表現するのが、この彫刻家の特徴だという。「自分のなかにある得体の知れないなにかを、この素材で表現できると感じた」と語る。実存的な葛藤を表現するアルベルト・ジャコメッティの彫刻作品から影響を受けているとも語っている。
 溶けだした塊のような上半身と艶のある漆黒の身体は、作家が自身の潜在意識と向き合うことの結果である。作家自身が自分の身体をモチーフとして不安定・不完全ながらも具象的な人体を表現することで、人間の内面、不安や悲しみ、あわせて力強さを、普遍的なものとして伝えようとしているようだ。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(6)

3.女性と身体
 ルイーズ・ネヴェルスン「セルフ・ポートレイト─サイレント ミュージックⅣ」(1964)がある。Photo_20241115054301
 ルイーズ・ネヴェルスン(1899~1988)は、ロシアのキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)に生まれ、後にアメリカへ家族とともに移住し、1920年結婚を機にニューヨークに住んだ。既製品や廃材を寄せ集めて芸術作品に昇華させるアッサンブラージュの手法で、1940年代には立体作品を制作し、1957年ころからは、この作品のように箱状の形態を積み重ねる手法を確立した。
 具体的な形を持たず、木箱のなかで黒一色に調和された小片は、タイトルの「サイレント ミュージック」を奏でているように思わせる。1950年代から発表された黒や白で塗装された木材による作品は、一色で統一されてもなお、塗りつぶされることのない作家自身の主張と個性が投影されているようだ。
木下佳通代「88-CA497」昭和63年(1988)がある。
 昭和14年(1939)神戸に生まれた木下佳通代は、すでに別記事で書いた通り生涯を通じて「存在」を問いかける制作を続けた。京都市立芸術大学で学んだ後、1970年代は写真を用いた作品を主に発表し、1980年ころからはキャンパスに油彩で描いた絵具を拭うことで画面にニュアンスを形成する方法で絵画に取り組んだ。
88ca497  この「88-CA497」は、そうした拭う絵画を経た後、線の描写が目立ち始めた時期の作品である。線が往復する画面の制作論を、木下佳通代は以下のように語っている。
 私には、ひとつのイメージとして成り立たないことが必要でした。見えかけたと思ってもすぐなくなってしまう、それでいて存在する。何も見えなくて、どんなイメージにもならない、描かれた線とか色とか形が、空間の緊張感をつくっていて、それぞれが必然的にそこに必要になれば、作品が完成するのです。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(4)

2.女性と生活
 吉原英里「夏の影─七本のチューリップ」平成18年(2006)がある。Photo_20241113054901
吉原英里(よしはらえり、昭和34年1959~)は、大阪に生まれ、昭和58年(1983)嵯峨美術短期大学版画専攻科を修了した。
 昭和59年(1984)大阪の画廊で初個展を開催し華々しいデビューを飾った。帽子やティーバッグ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作した。版画紙と雁皮紙の間に本物のティーバッグや荷札、新聞記事などを挟んでプレスする手法で、版画にコラージュ的な要素を導入することで表現の幅を拡大した。
 実物の帽子などを版画や絵画に組み合わせたインスタレーション作品も展開している。2000年代からは寒冷紗(かんれいしゃ)と呼ばれる平織の布を組み合わせた絵画作品も発表している。
 この「夏の影─七本のチューリップ」にも見られる「影」の表現によって、描かれたモチーフや人物の不在と時間の経過が表現されるとともに、生花の瑞々しさが際立つ作品となっている。
1530  田菊ふみ「15:30の石」平成19年(2007)がある。
 田菊ふみは、昭和15年(1940)新潟県に生れ、昭和35年(1960)ブラジルに移った。1980年ころからサンパウロ在住の廣田健一に師事していた。廣田健一は抽象的な繰り返しのモチーフを特徴としたが、田菊ふみは具象的な表現で作画している。
 この作品は、タイトルの「15:30の石」が示すように、昼下がりの強い日差しを受けて大きな画面が色面によって分割されている。石、鍵、蝶番、スパナなどの生活に結びついた道具が描かれているが、自然物と人工物が平面と奥行きの表現で、全体として軽やかなリズムを感じさせる作品となっている。題材はごく地味な生活用品だが、画面全体に明るく、活動的で前向きな意欲が感じられる作品である。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(3)

2.女性と生活
Photo_20241112061001  ユタカ順子「あの窓のそばで」昭和43年(1968)がある。
 ユタカ順子は昭和12年(1937)兵庫県西宮市に生まれ、昭和33年(1958)武庫川学院国文科を卒業した。その年に初の個展を催した。マクダウェル・コロニー・フェローシップによる渡米を経て、関西を中心に精力的に政策を続けた。この兵庫県立美術館の前身であった兵庫県立近代美術館の公募展に多数出品した。平成6年(1994)には亀高文子記念兵庫県文化協力会赤艸社賞を受賞した。
 この絵の、椅子や草花はいずれもユタカが好むモチーフであり、ユタカの絵は、背景とモチーフが入り混じる、いささかシュルレアリスムの風情の表現である。ユタカは「私の絵は、私から私への手紙である」と語っていたという。
 奥村リディア「エネルギー・アンサンブル」平成4年(1992)がある。
 奥村リディアは昭和23年(1948)サンパウロにブラジル移民の子として生まれ、1973年アルマンド・アルバレス・ベンテアード美術大学を卒業した。美術集団"Equipe3"に所属して活動したが、このグループは1973年サンパウロ・ビエンナーレでサンパウロ文化庁賞を受賞した。
 1970年代には個人の制作活動においても、ドローイングや針金・糸などで空間を分割して構成するインスタレーション作品を発表した。Photo_20241112061101
 「エネルギー・アンサンブル」は、力強い色面がエネルギッシュに空間に展開するもので、モチーフの分割と再合成が特徴である。
 奥村リディアは、1974年に渡米し、ニューヨークでミニマル・アートやコンセプチュアル・アートなどの芸術活動で知られる彫刻家ソル・ルウィットの助手を勤めながら活動した。1978年国際交流基金の奨学金を得て日本に滞在し、その後はニューヨークとブラジルを拠点として活動している。メトロポリタン美術館や原美術館などにも作品が収蔵されている。

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「わたしのいる場所─みるわたし」兵庫県立美術館コレクション展(2)

2.女性と生活
Photo_20241111055201  女性、とくに絵を描く女性にとって、生活はどのように関わったのか。わが国の女性画家の先駆者のひとり亀高文子(1886~1977)は、「私の作画活動は絶えず生活の中心に直結している。つまりは、絵は作者であり、生活である」と語っている。亀高は、1910年代から20年代には子供の絵、その後50年代には花の絵を、しばしば描いている。子供を育てているときは子供を、花を育てているときは花を、というその変化には、女性がしばしば強いられる性役割が反映されているとともに、日常と制作活動とが固く結びついた画家の矜持も含まれているとも思える。
 神中糸子「はるの像」明治27年(1894)がある。
 神中糸子(じんなか いとこ、万延元年1860~昭和18年1943)は、明治期に活躍した数少ない女流画家のひとりであった。明治9年(1876)日本最初の美術教育機関として、工部省の管轄である「工部大学校」の付属機関として工部美術学校が設立されると、神中糸子ら女性たちの一部は、ここに絵を学んだ。しかし明治16年工部美術学校は廃校となり、明治33年(1900)女子美術学校が設立されるまで、女性は学校で美術を学ぶことはできなかった。
「はるの像」は、神中糸子が姪の春野を描いたもので、たどたどしくお茶を給仕する頬を赤く染めた可愛い少女を描いている。背景には、さりげなく軍帽とサーベルがあり、日清戦争の世相を反映している。明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会に出品されたものである。前年から日清戦争が勃発していたが、「殖産興業は戦時中であっても重要である」として開催された。同時期、かつて工部美術学校で学び舎を共にした浅井忠などの男性画家たちは、戦地での兵士たちを描いた戦争画を多く残していた。神中糸子は戦地に向かうことはなかったが、戦時下の女性の生活を表しているという意味では、女性や子供の戦争画でもあったのかも知れない。
Photo_20241111055301  亀高文子「けしの花」昭和45年(1970)がある。先述の亀高文子の晩年の花の時代の作品である。
 亀高文子(かめたか ふみこ、明治19年1886~昭和52年1977)は、横浜に生まれ、明治35年(1902)女子美術学校洋画科に入学した。卒業後、満谷国四郎に師事し、明治42年(1909)第3回文展に初出品した「白かすり」が入選した。その後も入選を繰り返し、神戸に移った後、大正15年(1926)赤艸社女子絵画研究所を創設して、後進の指導にも注力した。当初、女性の油絵は単なるお稽古事と見られていたが、亀高の赤艸社からは帝展出品者を輩出した。
 この晩年期の「けしの花」は、菊の花の質量感と色彩に現代的な感覚と表現が取り入れられていて、亀高文子がたゆまず進歩・変化・充実を実現していたことが現れている。

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