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美術

コレクション:1968年展 NMAO(上)

Photo_20220125062801  大阪中之島国立国際美術館のコレクション展で「1968年展」というタイトルのテーマ展覧会があった。1968年といえば、わが国のみならず世界中の各地で学生運動が活発に展開した。とりわけフランスのパリで5月、800万人を超えたともいうきわめて大規模のゼネストが実施され、先進国ではじめて共産主義革命が実現するかと、世界中から注目を集めたが、しかしまさにその寸前で革命が回避された、という革命未遂事件があった。展覧会案内のリードは、この1968年パリ事件にかんして、『ポスト・モダンの条件』(1979)を書いた現代フランス思想のリーダーのひとりジャン・フランソワ・リオタールの言葉を引用して、触れているのである。そういう次第で、私も興味を惹かれて鑑賞してみたのであった。
 第1章は、「視ることへの問い」と題して、高松次郎の彫刻「波の柱」(1968)など計8点の作品がある。われわれがモノを見るとき、どのような見方をしているか、造形にどういう効果があるのか、を問うのだそうだが、私にはあまりよくわからない。
Photo_20220125063001  第2章は、「集団の論理」と題して、1件のアクションと、10件の絵画・写真・映画フィルム展示がある。「現代美術の流れ」というタイトルがつけられ、8人ほどが載ることができる発砲スチロール製の矢印の形をした大きな筏をつくり、12時間ほどかけて集団で淀川を下ったというアクションについて、筏の本体の展示と、1969年7月のアクション実施時の記録映画の放映がある。
 美術界も、当時の美術のあり方への批判・反省を経て、作品の制作のみに止まらず、このような具体的行動の実行を求めたのであろうか。これらのアクションは、「ハプニング」と呼ばれたそうだ。冬の新潟県で、積雪の上にさまざまな色で大きな絵を描くというハプニングも行われた。画家の子として生まれ、東京芸術大学では油彩を学び、若くしてヨーロッパを歴訪し25年間ほど滞在、その後帰国して東京芸術大学教授となった工藤哲巳のコラージュ作品がある。私には不気味に感じることはあっても、率直なところよくわからない。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(8)

3.革命と人々のための芸術(下
Photo_20220119061301  ポール・セザンヌの「リンゴと洋ナシのある静物」(1891-92年ころ)がある。この作品に描かれたリンゴと洋ナシは、堅固な形態を持ち、並々ならぬ存在感を放っている。セザンヌが物の表面を描く特別ともいえる充実感・密度・強さの効果ではないだろうか。机は傾き、壁は歪んでいるようにも見えるが、画面内の全ての要素が絶妙なバランスで描かれ、構図には確固とした安定感がある。南仏のエクス=アン=プロヴァンスで制作に没頭したポール・セザンヌは、観察から得た生き生きとした感覚をカンヴァスに再現することに挑み続けた。セザンヌの作品は、あまりに革新的であったためか、当時の大衆からは受け入れらなかったという。しかし先進的な画家や美術批評家たちからは大いに称賛され、その死後にはキュビスムをはじめとする20世紀初頭の前衛芸術に多大な影響を与え続けた。
Photo_20220119061302  クロード・モネの「睡蓮」(1916-19)がある。モネは、パリから70キロほど離れた小さな町ジヴェルニーの自邸で、庭に造った睡蓮の池を1897年頃からモチーフとし、約30年間描き続けた。モネはこれを描き始めた時から、睡蓮のテーマで一室を飾る構想を立て、1915年頃から「大装飾画」と呼んだ大画面の作品を次々と制作した。その中のひとつであるこの作品には、当時白内障に侵されていたモネに見えていた遠近感のない不思議な光景が広がっているのだろう。空や様々な植物が池の水に反映する虚構と、水面の睡蓮の葉や水中の水草といった現実の対比から画面が構成され、それが青、緑、黄、白などの縦横無尽な筆致で彩られる。こうした抽象化された画面は、抽象表現主義の先駆けとして評価されるようになっていった。
 今回の展覧会は、コロナ騒動もあって入場時刻を予約するシステムが採用されていたが、それでも人気が高いためか会場内はかなりの数の観衆であった。私は、とくに500~600年もの時間の経過にも関わらず色彩の鮮やかさを見事に維持するテンペラ画に感銘を受けた。テンペラは、卵などの有機物を使用すると思うので、経時変化などあっても不思議はないのに、このように長い年月に耐えるというのは、化学に詳しくない私としては不思議にも思える。もっとも世界でも有数の美術館なので、保存や修復の技術も優れているのだろう。展示作品数は65点と私の鑑賞能力には最適の規模で、これなら疲労困憊にならず、またあとで目録を眺めたとき観た作品を鮮明に思いだすこともできて、とても楽しく快適な鑑賞であった。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(7)

3.革命と人々のための芸術(中)
Photo_20220117061301  エドガー・ドガ「踊り子たち、ピンクと緑」(1890年ころ)がある。印象派の画家として知られるドガは、踊り子を好んで多く描き残した。ここでは、物陰から覗き見るような視点から、舞台裏で衣装を整える踊り子たちの姿を描いている。ドガは人物のこうした何気ない動作を瞬間的に切り取って描くことを好み得意とした。クローズアップや唐突に切断された構図には、当時すでにヨーロッパで人気が高かった日本の浮世絵や、19世紀に発展した写真からの影響が明らかに窺がえる。この作品が描かれた頃、ドガの視力はすでに著しく衰えていたらしいが、それでも踊り子たちのふとした仕草を捉えるドガの目は鋭く、画面はたしかな描写と鮮やかな色彩で輝いている。Photo_20220117061302
 1888年2月、フィンセント・ファン・ゴッホはパリを離れ、南仏のアルルに移り住んだ。アルルの風景、とくに豊かな果樹園に魅せられたゴッホは、その年の春、果樹園の絵を多数描いたという。「花咲く果樹園」(1888年)の画面下半分には、色鮮やかな花咲く草地が広がり、新緑の木々は生き生きと空を覆い、人気のない風景には穏やかな空気が流れている。ゴッホの絵画のなかでも、とりわけ穏やかな作品である。浮世絵を愛好したゴッホは日本に憧れと夢を抱き、陽光と色彩であふれる南仏とユートピアとしての「日本」を重ねたと言われている。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(6)

3.革命と人々のための芸術(上)
 19世紀は、ヨーロッパ全土に猛烈な近代化の波が押し寄せ、激動の時代となった。
 1776年アメリカ独立宣言があり、『コモンセンス』を書いてそれを触発したアメリカのジャーナリスト、トマス・ペインがフランスにもやってきて、遠い大陸の後進国の激しい動向が多くの人々に改革・革命への動機を与えた。そして1789年に勃発したフランス革命は、フランスのみならず、全ヨーロッパの近代社会成立の転換点となった。社会の急速な変化を受け、美術にも新たな潮流が次々と出現した。19世紀前半には、それまでの普遍的な理想美を憧憬して求めるアカデミズムに対して、個人の感性や自由な想像力に基づいて、幻想的な風景や物語の場面を大胆に描くロマン主義が台頭した。そして19世紀半ばになると、農民や労働者の生活や身近な風景を、理想化せずにありのままに描く自然主義的なレアリスム(写実主義)が隆盛した。Photo_20220113061401
 レアリスムの成果は、近代化が進むパリの都市生活の諸相を描いたマネやドガ、そして1870年代に印象派と呼ばれることになるモネやルノワールの絵画に受け継がれていった。印象派の画家たちは、新しいパリの街並みや郊外の風景を、様々な気候・気象条件のなかで率直に観察し、その一瞬の印象を、原色の絵具と斑点のような筆致の集合で描き留めようと試みた。
 1880年代後半になると、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなど、ポスト印象派と称される画家たちが登場し躍進した。彼らの作風はそれぞれに異なるものの、日本の浮世絵からも啓発を得て形態の単純化、構図の平面性、原色を多用した鮮烈な色彩表現など、20世紀初頭の前衛芸術の先触れとなる要素を豊富に含むようになった。
 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、イギリスのロマン主義を代表する風景画家である。44歳の時に初めてイタリアを旅して、イタリアの光と景観に魅せられ、とりわけ水の都ヴェネツィアを愛した。ヴェネツィアのカナル・グランデ(大運河)を描いたこの作品「ヴェネツィア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む」(1835年)は、湿気をはらんだ大気のなかで、水面と建物、船、空などを、明確な輪郭で分離せずに溶け合わせ、幻想的に描出している。ここでターナーは、建物の位置や高さ、運河の幅などを実際とは微妙に変えて、風景の魅力を巧みに強調した。水彩画のような透明感があり、画面の景観そのものが宙に漂って金色に輝くような色彩がとても美しい。
Photo_20220113061402  ジャン=レオン・ジェロームはフランス19世紀後半のアカデミズム絵画を主導した、どちらかと言えば保守的な画風の画家であった。それでもこの時代の市民社会の趣味の変化・発展が、保守的なアカデミズムにも様々な影響を与え、歴史画の主題も変化していった。テーマとしても教訓性や難解さは敬遠され、感傷的でロマンティックな物語が好まれるようになった。ギリシア神話のキプロス島の王ピュグマリオンとガラテアの物語は、その好例である。自分が彫刻した女性像に恋をして苦しんだピュグマリオンが、その苦悩を美神ヴィーナスに訴えると、女神は願いを聞き届け、彫刻に命を吹き込んだ。ジェロームは、均整のとれた美しいヌードの女性像が硬い大理石から柔らかな生身の人間に変容する瞬間の様子と、ピュグマリオンとキスを交わす一瞬をドラマティックに描出している。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(5)

2.絶対主義と啓蒙主義の時代(下)
Photo_20220111064901  そしていよいよヨハネス・フェルメールである。フェルメールは、17世紀オランダ市民の日常を描いた小ぶりの静謐で緻密な風俗画で有名だが、晩年のこの作品は彼の全作品の中でも異例の、比較的大型の寓意画である。キリストの磔刑の絵画を背にして座る女性は、「信仰」の擬人である。胸に手を当てる仕草は心のなかの信仰を示し、地球儀を踏む構図はカトリック教会による世界支配を暗示するものと解釈されている。十字架、杯、ミサ典書が載ったテーブルは聖餐儀礼を暗示する。床には原罪を表すリンゴと、キリストの隠喩である教会の「隅の親石」に押しつぶされた蛇が描かれている。プロテスタントを公認宗教としたオランダ共和国では、カトリック教徒は公の場での礼拝を禁じられていたが、「隠れ教会」と呼ばれる家の中の教会でミサや集会を行っていた。ここに描かれた部屋は、こうした「教会」なのかもしれない。フェルメールは1653年の結婚を機にカトリックに改宗したとも伝える。いつもながら、画面全体のどこにも一部の隙もない、フェルメールの完璧な構造設計に感銘を受ける。
Photo_20220111064902  17世紀オランダの巨匠レンブラント・ファン・レインが描いた「フローラ」(1654年)がある。春、花、豊穣を司る古代ローマの女神フローラは、ルネサンス期に多くのイタリアの画家が描いている。聖書や神話を主題とする歴史画と肖像画の両ジャンルで活躍したレンブラントは、神々や歴史上の人物に扮装した肖像画を得意としていた。結婚した1634年には、新妻サスキアをフローラとして描いていた。サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にその作品がある。そのような事情から本作品のフローラも、サスキアの肖像とする見方があった。しかしサスキアは、この作品の制作から10年以上さかのぼる1642年に他界していたので、その真偽は不明のままだという。モデルの同定が不明だとしても、描かれた女性の容貌は、明らかに実在の女性だと思う。
Photo_20220111064903  フランソワ・ブーシェは、18世紀フランスのロココ美術を最盛期に導いた代表的な画家であった。官能的な神話場面や田園で男女が憩う情景をパステル調の鮮やかな色彩で華麗に描くことで、王侯貴族に絶大な人気を博し、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人から15年以上にわたって寵愛された。「ヴィーナスの化粧」(1751年)は、ポンパドゥール夫人のためにパリ近郊に建造されたベルヴュー城の「湯殿のアパルトマン」の装飾画として制作された。小首を傾げて愛らしく座るヴィーナスの裸身は、磁器のように白く滑らかで、甘い官能性を漂わせている。キューピッドと白いハトは、ヴィーナスの伝統的な象徴物である。豪奢な布地の質感もみごとに描写され、全体としてきらきらと華やいだ雰囲気のとても美しい絵である。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(4)

2.絶対主義と啓蒙主義の時代(中)
Photo_20220107062001  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、近年日本でも再発見されて人気を博している画家である。17世紀のロレーヌ公国(現フランス北東部)で活躍し、ルイ13世の王宮画家に任命されたほどの技量の持ち主であったが、没後急速に忘れ去られていた。彼の作品は、明るい光に照らされた「昼の絵」と、蝋燭の灯が人物を照らしだす「夜の絵」の二つに大別され、近年日本で高名となっているのは、「夜の絵」の方のようだ。今回展示されているのは「昼の絵」に属するもので「女占い師」(1630年代)である。占い師の老婆を見つめる若者が、周りの女性たちから財布や宝飾品を盗み取られる場面が描かれている。硬直したようなポーズ、にらみつけるような眼差し、日常性から外れたなにか不自然な派手な色の風変りな衣服が、そこはかとない強烈な印象を残す。
Photo_20220107062101  ニコラ・プッサンは、フランス古典主義絵画の礎を築いた代表的な画家とされているが、17世紀の美術の中心地であったローマで活動しながら、古代美術とラファエロを手本として研鑽を積んだ画家であった。物語場面を理知的に構築したプッサンの歴史画は、フランス王立彫刻絵画アカデミーで模範とされ、フランス美術の展開に決定的な影響を与えたという。「足の不自由な男を癒す聖ペテロと聖ヨハネ」(1655年)は、彼の古典主義様式の典型とされる。エルサレムの神殿の入口で、キリストの弟子の聖ペテロと聖ヨハネが、足の不自由な物乞いの男を癒す奇跡の場面が描かれている。階段や柱など水平・垂直を強調する建築要素を巧みに用いて静謐で整然かつ安定した空間を構成し、多数の登場人物を三角形に配置している。聖ペテロ(右)と聖ヨハネ(左)が、その三角形の頂点に位置する。各人物の衣服には、赤と緑、黄色と青など、互いに引き立てあう色がバランスよく用いられている。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(3)

2.絶対主義と啓蒙主義の時代(上
 17世紀に入ると、君主が主権を掌握する絶対主義体制がヨーロッパ各国で展開した。さらに18世紀にかけて啓蒙思想が隆盛し、美術ではバロック様式が展開していく。
  カトリック世界の中心都市ローマでは、17世紀初頭に、思い切った明暗の対比や劇的な構図を特徴とするバロック様式が生まれ、やがてヨーロッパ各地に伝播していった。ドラマティックなバロック美術は、カトリック教会と専制君主の宮廷という、聖俗ふたつの権力の喧伝に積極的に役立てられた。
 カトリック圏のイタリア、スペイン、フランドルでは、信仰心を高揚させる宗教画がたくさん制作された。スペイン国王フェリペ4世の宮廷では、王侯貴族の壮麗な肖像画も盛んに描かれた。一方オランダは、共和国として市民社会をいち早く実現し、プロテスタントを公認宗教とし、自国の豊かな自然を描いた風景画、花や事物を主題とする静物画、市民や農民の日常生活に題材を得た風俗画などを、それぞれ独立したジャンルとして大きく発展させた。フランスでは、太陽王ルイ14世の治世下で、王権を称揚する美術政策の中枢を担ったアカデミーの理論に基づき、古代とルネサンスの美術を模範とする古典主義様式の絵画が華々しく展開した。そして18世紀初頭、ルイ14世の治世晩年には、軽やかで優美なロココ様式の絵画が現れ、世紀半ばにかけて流行した。風俗画・静物画の分野で優れた作品が生まれ、女性画家が躍進した。Photo_20220105062401
 17世紀イタリアの鬼才ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、破天荒な私生活に加えて、あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く迫真的な写実描写と劇的な明暗表現によって、バロック様式美術の大スター・立役者となった。「音楽家たち」(1597年)は、今回の展覧会のポスターともなった作品である。26歳のカラヴァッジョが、最初のパトロンとなったデル・モンテ枢機卿のために描いたものという。この年、カラヴァッジョはデル・モンテ邸に食客として迎えられていた。芸術を庇護したデル・モンテの館では、若者たちが音楽や演劇の集いを開いており、カラヴァッジョは彼らをモデルとしてこの作品を描いたようだ。左端には背中に羽根を持つキューピットが描かれているので、合奏の情景の単なる再現ではなく、「音楽」と「愛」の寓意が主題ではないかと推測されてきた。右から2番目、角笛を手にした若者はカラヴァッジョの自画像と言われている。両性具有的な滑らかな白い肌の若者たちは、カラヴァッジョ特有のけだるい官能性を漂わせている。まるで現代のロック・バンドの雰囲気を連想させるかのような斬新さを感じる。
Photo_20220105062402  17世紀のオランダでは、事物や花を描く静物画が新しく独立したジャンルとなった。ピーテル・クラースは、生命や現世の富・名声のはかなさの寓意を伝える「ヴァニタス(虚栄)」の静物画を得意としていた。「髑髏と羽根ペンのある静物」(1628年)は、まさにヴァニタスの典型である。髑髏は死を意味し、その下にある本は、いまや虚しい人間の努力と叡智の蓄積を象徴している。左側の背景では、油ランプの燃え尽きた芯からうっすらと煙が立ち昇っているが、これは人間が現世でなしたことは、絶えず過ぎ行く時間のなかではなんら重要ではないと暗示しているという。グラスに映りこんだ窓の像、髑髏の不ぞろいな歯並びの描写など、きわめて克明な写実表現も本作品の大きな魅力である。油彩による写実の技術は、すでにこのころにはほぼ完成していたようだ。

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メトロポリタン美術館展 大阪市立美術館(2)

1.信仰とルネサンス(下
Photo_20220104061301  やはりルネサンス期の画家として名高いクラーナッハの作品として「パリスの審判」(1528年ころ)がある。ユノ、ミネルヴァ、ヴィーナスの3人の美神の、誰が「最も美しい者」と選ばれて黄金のリンゴを手にすべきか、トロイアの王子パリスは判定を一任された。伝令の神メルクリウスが、森のなかで目覚めたパリスに3人の女神を引き合わせている。パリスは、世界一の美女を与えると約束してくれたヴィーナスを勝者に選んだ。官能的に描かれた女神たちの生々しい裸体の描写が、もはや中世絵画ではないことを示していて、印象的である。宝飾品や服装の精緻な描写、険しい山岳風景、うっそうと茂る草木など、自然の細やかな描写も緻密で見事である。Photo_20220104061401
 エル・グレコの「羊飼いの礼拝」(1605-10年ころ)がある。まだ幼子のイエスが、画面中央に配され、その身体からこの世ならぬ白い光が発している。暗闇のなかに、その光が周囲の聖母や羊飼いたちの表情や身振りを浮かび上がらせる。ドラマティックな明暗表現、細部描写を省略した大胆で生き生きとした筆致で奇跡の場面の神秘性を強調している。こうしてルネサンス絵画のなかにエル・グレコの作品を観ると、突然際立った近代的絵画のように感じる。宗教画という枠を超越したエル・グレコの時代を超えた魅力を改めて感じることができた。
Photo_20220104061402  やはりルネサンス期の巨匠として高名なティツィアーノの「ヴィーナスとアドニス」(1550年代)がある。ルネサンス期に人気を博した女神ヴィーナスと美青年アドニスの悲劇の物語を描く作品で、ティツィアーノは何度も絵画に描いているそうだ。危険な狩りに向かうアドニスにヴィーナスが追いすがる場面を表している。ヴィーナスの不安は的中し、この後アドニスはイノシシに突き殺されてしまう。片足を踏み出すアドニスと、彼を引き留めるヴィーナスの姿勢と動作を、絶妙な対比と、雲間から差すドラマティックな光を導入して、緊迫した雰囲気を構成している。

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ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(6)

パレルモの挑戦
1969  1969年の作品に「無題(布絵画:緑/青)」というのがある。一見、マーク・レスコーの作品などに似通っているように見えたが、よくみるとことは既製商品として販売されている染色された布地2枚を、白色の布地の上に貼り付けただけの、制作過程からいえばレディメードの一種と言える。「布絵画」と名付けられたこの作品は、色彩の選択と絶妙な組み合わせで、独特の静謐かつ上品な抽象表現を達成しており、彫刻家ウルリッヒ・リュックリームは「布絵画はまったく愉快な作品だよ、何といっても絵具も絵筆も使わずに、絵画をご破算にしてしまったのだから」と高く評価したという。Photo_20211213061901
 「青い三角形」(1969)という作品がある。この群青色で底辺に比べて少し高さを抑えた三角形は、パレルモがさまざまな作品でモチーフとしているそうだ。この「独自の」三角形を、誰もが購入しさえすれば自分で描けるように、三角形の型のステンシルと、絵の具と、筆と、さらにパレルモ自身がそのステンシルを使って制作した青い三角形のシートとをセットにした制作キットが、ひとつの作品となっている。これには注意書が添付されていて、この描画セットを使って自分の三角形を制作したら、使用者はただちにパレルモから与えられた三角形の原型を破棄しなければならない、と書いてある。こうしてパレルモの青い三角形は、購入者の数以上には増えてしまわないようになっている。
 1977年の作品に「無題」として、アルミ板の上に、黒いラインの枠と、黄色のアクリル絵具でかなり荒っぽく塗った4枚を並べたものがある。パレルモ自身は、この出来栄えにとても満足していたらしく、友人にその率直な満足感を興奮して伝えていたという。金属板の上に描くということ、そしてとくにこの作品の場合、大きな白い壁を背景とすることが大きなポイントであったのだろう、となんとなく思う。


1977

 気軽にちょっと観て、適当なところで終わりにすればよい、と軽く考えていたのだったが、見つめても、改めて眺め直しても、わからないことだらけで、ところが不思議に退屈一辺倒とはならず、ついつい深入りして眺め続け、思案し続けることとなり、時間の経つのを忘れていたようだ。ようやく展覧会の終わりに近づいたかなと思ったら、突然場内アナウンスがあり、あと15分で展示を終了して閉館となります、と知らされ、慌ただしく最後の展示コーナーを駆け足で観て、短い秋の日がとっぷり暮れてから美術館を後にすることになった。
 今回の展示は、正直なところあまりわからなくて、いつもは観るのにすっかりくたびれても満足感に満たされて帰ることが多いのに、この度はとても満足感などなく、頭のなかにクエスチョン・マークがいくつもならんだまま会場を出ることとなった。でもその反面で、不思議にわからないものを見続けながら、とりとめもなく観たり考たりしていると、その間他のことは一切忘れて、不思議な「気持ちの集中」があったようにも思う。作家の真摯な創作が、私にも自覚できないような不思議な魅力を持ちえたのだろうか。あるいは、それこそが作家の目論みだったのだろうか。島敦彦館長がいうごとく、分からないままに余韻を残して帰るのも、もしかしたら次の新しい発見の準備なのかも知れないと、ごくかすかにではあるけれども、思えた。

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ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(5)

ブリンキー・パレルモ
 ブリンキー・パレルモは、1943年戦時下のライプツィヒで双子の兄として生まれた。生まれてすぐハイスターカンプ家に養子にだされ、ペーター・ハイスターカンプが実名であった。1949年の東西ドイツ分割に際して、西側のミュンスターに移動し、ジャズなどの音楽と美術に関心をもつ高校生時代を過ごした。1962年デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学すると、シュールレアリスムの影響を受けた絵画を描いていた。しかし1964年にヨーゼフ・ボイスのクラスに移ってからは、ボイスに魅了され、自らの作家名としてイタリア風のブリンキー・パレルモと改めて、自由な境地で作品創作に没頭するようになった。教授となって3年目のボイスは、教員が自らの様式を学生に教え込もうとするアカデミーの教条的な指導法では、既存のスタイルの真似に終始する無批判な学生ばかりを育てかねないと考え、むしろ学生に「それぞれの個性がもつ可能性を探求し発展させる」よう導こうとした。Photo_20211209063201
 アカデミー在籍時代から、パレルモは20世紀初頭の抽象絵画、同時代のアメリカ美術の動向に関心を持ち、影響をうけながら、カンヴァスや木枠、絵の具などといった絵画の構成要素自体を問い直す独自の作品を発表するようになった。絵画を方法・手段としながらも、意味の生成や感情の表出へは向かわず、ボイスの言葉によれば「芸術によってかたちとなるような秩序」、すなわちまったく新しい世界の秩序を芸術の領域に提示した、と評価されるようになった。その作風は、きわめて繊細でありながら、絶妙な止め時で意図的に中止されたり、大胆なやりっぱなしであったりするという。レディメードも積極的に導入している。
 1977年にわずか33歳にして、モルディブに客死してしまったので、残された作品数はけして多くないが、今なお「作家のための作家」として尊敬されているという。

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