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美術

ルーベンス展 国立西洋美術館 (3)

ヌードの登場
Photo 「ヘスペリデスの園のヘラクレス」(1638)がある。ヘラクレスはアポロンの神託にしたがい、ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、エウリュステウスの命令にしたがって12の功業を果たした。そのひとつが「ヘスペリデスの黄金の林檎」で、ニンフの園の在り処を探し出し、首尾よく黄金の林檎を手に入れるのだが、その場面のひとつを描いたものである。ヘラクレスの頑強で大きな肉体が強調されている。これもイタリア、しかもギリシア・ローマ時代の古代美術から多くのものを取り入れた成果である、とされている。
 裸体の強調は、女性にもおよぶ。「スザンナと長老たち」(1611)がある。主題は『旧約聖書』の「ダニエル書」にあるスザンナの物語から取られている。
 裕福で貞淑な人妻スザンナは、毎日庭の泉で水浴びすることが日課であった。そこへ2人の好色な老人が彼女の美しさに目をつけ、スザンナに言い寄る機会を狙っていた。彼らは町の長老で裁判官でもあった。ある日スザンナが召使に戸口を固く締めさせて水浴びを始めると、召使たちがいなくなったのを見計らって庭に隠れていた長老たちが現れて、スザンナを脅迫しながら関係を迫った。

Photo_2 スザンナはこれを拒否したが、長老たちによって姦淫の罪を着せられて処刑されそうになった。しかしダニエルという少年が長老たちに異を唱え、長老たちをたがいに引き離したうえで別々に尋問したところ、2人の証言は食い違いが生じ、虚偽によってスザンナを陥れようとしていることが判明した。こうして長老たちは石打ちの刑に処され、スザンナは解放された。
 イタリアでは、すでにティントレットが、同じテーマで名作を描いており、大胆な構図とポーズ、官能性と明暗法は後期マニエリスムの典型的絵画とされ、ティントレットの代表的傑作のひとつと見なされている。ルーベンスの絵は、マニエリスム的な定式をさらに打ち破って、より写実的な表現となっている。ルーベンスは、すでに取り上げられていたテーマについての先行作品をよく研究して、自分の独自の表現を開発して前進するとともに、絵のそれぞれの部分を以後の創作の構成要素のパーツとして、技術的にも素材的にも蓄積しようという、戦略的な指向性があったように思われる。

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ルーベンス展 国立西洋美術館 (2)

英雄と聖人─宗教画とバロック
1612 「キリスト哀悼」(1612)という作品がある。これは、それまでのキリストの十字架をしたから見上げる、あるいは十字架を担ぐキリストを横から眺める、といった構図を大胆に変革し、キリストの右足の直近から生々しく描くもので、バロック絵画の到来を告げるような、当時としては斬新な構図であったと思われる。キリストの肉体も逞しく、キリストを取り囲む人々の動作や表情も多彩で写実的である。登場人物のすべてが、美化・観念化・理想化よりも、生身の人間として、しっかり描かれている。Photo
 今回の展覧会のパンフレットにも大きく掲載された作品に「聖アンデレの殉教」(1639)がある。ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』にある物語の一場面である。十二使徒のひとりであるアンデレは、ギリシアのパトラスで、ローマ総督アイゲアテスによって磔にされる。ところがアンデレは磔にされながらも、処刑場に彼を取り巻く2万人の人々に教えを説くと、怒った人々が総督に迫って、ついに十字架から外されることになった。しかしアンデレはそれを拒み、祈りを唱えたところ、その瞬間に天から光が差して、天使が現れ、光とともに彼の魂は昇天した、という物語の場面である。画面右手に騎馬で登場する総督に対して、助命を訴える左手の女性は、すでに信仰に入った総督の妻とも言われる。ここでも聖人は人間らしく、しかも逞しい肉体で描かれ、登場人物もそれぞれ写実的に生き生きと描かれている。

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ルーベンス展 国立西洋美術館 (1)

 東京上野の国立西洋美術館に「ルーベンス展」を鑑賞した。
 私にはルーベンスは、ベラスケスなどとならんでヨーロッパ近代絵画の草創期の大画家というイメージはあったが、私はよくは知らなかったいので、今回の展覧会はありがたい企画であった。


誕生からイタリア遊学まで
Photo_2 ペーテル・パウル・ルーベンスは、1577年6月両親が故郷のアントウェルペンから、スペイン領ネーデルラント総督フェルナンドのプロテスタント迫害から逃れるためにドイツへ亡命していたときに生まれた。父は、カルヴァン派のプロテスタントの法律家で、オランダ総督オラニエ公ウィレム1世の妃アンナの法律顧問さらには愛人を勤めるなど、社会的地位の高い出自であった。その父は、ペーテルが10歳のころ亡くなり、そんなことも関係してかペーテル自身は熱心なカソリック教徒として以後活動した。
 幼少期からペーテルは、アントウェルペンで人文学者(ユマニスト)としての教育を受け、古典や語学を広く学んだ。家計を助けるためもあって13歳のとき、フィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュのもとへ小姓に出されたが、ここで非凡な芸術的才能を認められて、アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドに入会を認められ、画家としての修行を始めた。彼は、それまでに一流教養人の基礎知識のエリート教育をうけていたのである。やがて21歳で基礎的な修行を終え、一人前の組合員となった。そして23歳の1600年から8年間、芸術家としての成長期に、彼はイタリアに滞在した。ルーベンスは、生涯の活動を通じて、イタリアの芸術・美術に強く影響をうけていたとされる。今回の展覧会は、とくにルーベンスとイタリア美術の関係をメインテーマとして企画されている。
Photo ルーベンスは、イタリアでルネサンス美術と、さらに遡ってギリシア・ローマ時代の美術を深く研究した。「ラオコーンの群像の模写素描」(1601)は、古代ギリシアの大理石像とされるものを緻密に模写したデッサンである。彼は、以後のさまざまな作品のなかで、男性の苦悩の表情を表現するとき、このイメージを適宜採用した。
 「セネカの死」(1616)は、2世紀前半の作とされる「偽セネカ像のヘルメ柱」という古代彫像などを見て、インスピレーションを得つつ独自に描いたものである。中世のカソリック宗教画にはない、人間の肉体の古代的な写実表現が導入されている。
 ルネサンスは宗教改革と連動して展開したが、カソリック教会側の「対抗宗教改革」も、広く大衆に訴えかける視覚的手段として、観てわかり易い絵画表現を必要とし、その結果プロテスタントと同様に、ギリシア・ローマの古代美術が改めて見直されることになったのである。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (3)

ロシアの街と人々
 イリヤ・レーピン「画家イワン・クラムスコイの肖像」(1882)がある。レーピンは、移動派の年長の先輩イワン・クラムスコイとは、ともに当時のロシア社会の問題に向き合い、改革のために戦う同志であった。彼は、音楽家アントン・ルービンシュテインの肖像も描いている。Photo
 市井のひとびとのようすについても作品がある。フィリップ・マリャーヴィン「本を手に」(1895)やパーヴェル・チスチャコーフ「ヘアバンドをした少女の頭部」(1874)、ニコライ・カサートキン「柵によりかかる少女」となど、いずれも穏やかで静かな絵である。
 ウラジーミル・マコフキー「ジャム作り」(1876)がある。ウラジーミル・マコフキーは、移動派の代表的な画家として、当時の社会問題や政治などにかんする発信が多かったが、あわせて庶民生活を描いた穏やかな世俗絵画も多く残している。「ジャム作り」では、農村の生活に多少の余裕のある農民なのだろうか、亭主らしい男が、あたかもとても大切な儀式であるかのように、荘重な表情と態度でジャムを作ろうとしている。ある意味、平穏でのどかな光景である。

Photo_2
 ワシーリー・コマロフ「ワーリャ・ホダセーヴィチの肖像」(1900)のように、愛らしい幼い女の子を描いた肖像画もある。
Photo_3 イワン・クラムスコイ「月明りの夜」(1880)は、幻想的な美しい絵である。白い装飾的な衣装をまとった若い女性がなぜかひとり森のなかで、ベンチに座っている。ただ、少し身体を斜めに傾げ、なにかを探っているのか、それとも何かの考えに耽っているのか、そこはかとなく不思議な光景である。この女性が姿をあらわしているのは、おそらく明るい月光に照らされているためであろう。樹木の間をくぐり抜けた月の光なのか周囲は暗いままで、そのコントラストが女性の姿を引き立てている。
 街の風景を描いたものとしてニコライ・グリツェンコ「イワン大帝の鐘楼からのモスクワの眺望」(1896)がある。
このころ、移動展覧会教会とは別に、モスクワ北東郊外のアブラムツェヴォに集まった芸術家グルーブがあった。スラヴ派の先駆けであるセルゲイ・アクサーコフが、このアブラムツェヴォの地を1843年買い入れ、ニコライ・ゴーゴリやイワン・ツルゲーネフといった作家を含む数々の文化人を暖かく迎え入れた。Photo_6
 この地は、そののち1870年に、先駆的なモスクワの実業家であったイワン・マモントフの息子、サッヴァ・マモントフに売却された。サッヴァは、父親と同様に、ロシアにおける鉄道敷設をリードした人物で、芸術やロシアの伝統文化へも関心も高く、その別荘に著名な芸術家を集め、芸術家村を作り上げた。そこにレーピン、コローヴィン、ワスネツォフ兄弟など画家や彫刻家が集まり、「アブラムツェヴォ派」と呼ばれた。彼らも、祖国ロシアへの愛情という点では、移動派と共通する。
 アブラムツェヴォ派のコンスタンチン・コローヴィンの作品として「小舟にて」(1888)がある。
Photo_5 20世紀となって1917年にはいよいよロシア革命が起こり、混乱と大変革の時代に突入する。世紀末のロシアは、その嵐の前の静けさともいうべき、全体として穏やかで優しい、しかしひそかな不安を隠した静かな芸術が存在した。もっともこの展覧会では、写実的絵画の、かつ移動派を中心とした一部の作品の展示なので、当時のロシアを代表するという保証はないのかも知れない。それでも、そのころのロシアに、精緻で丁寧で端正なさまざまな絵画があったことを、知ることができた。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (2)

ロシアの風景
 展覧会の展示では、春・夏・秋・冬の四季に分けて、それぞれの季節の風景画を展示している。ロシアは広大な土地があり、またその四季は大きく気候が変化する。Photo_2Photo_3 緯度が高く、相対的に陽射しが多くなく気温も低い期間が長いロシアでは、人々が短い春を待ちかね、愛おしむ。アレクセイ・サヴラーソフ「田園風景」(1867)を見ても、彼が春を心から慈しむ気持ちが伝わってくる。穏やかで暖かい春風、そのそよぎを浴びて陽光に輝くリンゴの木と枝、陽光を反射して輝く湖面、が気持ちよく描かれている。アレクセイ・サヴラーソフも、移動展覧会教会の創設メンバーのひとりであった。
 同じく移動派のイサーク・レヴィタン「樫の木」(1880)がある。樫の老木の力強さ、威厳を強調しつつ、穏やかな春の雰囲気を繊細に描写している。
 イワン・シーシキン「雨の樫林」(1891)は、夏とはいえさほど高温にならず、むしろ穏やかで快適そうな雨の日の風景である。ドラマのシーンのような抒情的な描写で、雨の日の湿度感まで表現している。
Photo_4 同じシーシキンの「正午、モスクワ郊外」(1869)は、高い空とその下の地平線まで続く道でロシアの広大な大地を表現している。さすがにこれだけ広大な平野は、日本では関東平野でさえ見いだせない。土地の広さを、空の高さと広がりで見事に表現している。
 ロシアの長く厳しい冬は、決して快いのもではないが、それでも樹氷の壮大で息をのむような美は存在する。ワシーリー・バクシェーエフ「樹氷」(1900)がそれである。彼は、何度も樹氷を描いているという。
 ほかにも、清く静かな雪景色を精緻に描いたミハイル・ゲルマーシェフの「雪が降った」(1897)がある。ニコライ・サモーキシュ「トロイカ」(1917)は、大胆な構図で躍動感あふれるトロイカのエネルギーを表現している。厳しいロシアの冬にも、それなりに大きな活気がある、と主張しているようである。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (1)

ロシア世紀末と移動展覧会協会
 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ロマンティック・ロシア」と題された少しユニークな展覧会が開催された。ロシアの国立トレチャコフ美術館の所蔵品のなかから、19世紀末からロシア革命の前までの絵画を選出して展示するものである。

Photo_2
 トレチャコフ美術館は、歴史的には1851年帝政ロシア時代に、モスクワの商人で工場主であったパーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフ(1832年-1898年)とセルゲイ・ミハイロヴィッチ・トレチャコフの兄弟が自邸に開いた美術ギャラリーから始まった。トレチャコフ兄弟により様々なロシアの芸術家たちの作品が収集され、現在では約13万点にのぼる収蔵品を誇るロシア最大級の美術館のひとつにまで成長している。
 ロシアの19世紀末は近代化が遅れ、社会に広範囲に歪が目立つようになり、不安定な社会情勢であった。農奴解放令が出されたのちも身分の違いは残り、民衆の権威や権力に対する反発は増加していった。そうした緊張した環境のなかで、文学ではトルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなど、諸分野に傑出した才能が叢生した。民衆を啓蒙しようとする動きも盛んになっていった。
 そのようななか、美術では「移動展覧会協会」が、アカデミズムの制約を嫌うイワン・クラムスコイらによって、1870年にサンクトペテルブルクに設立された。社会の問題や矛盾を告発し、また祖国愛をもとに郷土の自然の美にも注目する活動として、当時の民衆の生活に根ざした絵を写実的な手法で描き出した。イワン・クラムスコイによる人物画のひとつが、この展覧会のポスターに採用された「忘れえぬひと」(1883)である。
 移動展覧会協会は、ロシア国内、キエフ、ワルシャワなどまで、広範囲に移動展覧会を巡回し、地方に暮らすひとびとに芸術に触れる機会を与え、幅広く啓蒙的な貢献をした。この協会に加入した芸術家たちは「移動派」とよばれた。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (5)

晩年の画業
Photo 1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに邸宅を購入して、そこに定住した。このころの作品に「星月夜」(1924)がある。エーケリーの自宅玄関先から眺める夜の景色を描いたもので、遠く見下ろす街の灯り、邸宅を囲む林、ゆったりした庭の拡がり、その地面に長く伸びる、おそらくムンク自身の月光の影、そして景色の上半分を覆う満天の星と、ここでは老年を迎えてようやく落ち着いたムンクの精神状態が現れているように思う。マルク・シャガールを連想させるような優しい絵である。
 1912年からは、ケルン分離派展の招待作家に登録され、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンとならんで特別展示室を与えられた。1922年からは、フレイヤ・チョコレート工場の食堂の壁画を制作し、1925年には、クリスチャニアからオスロに改名した首都の、新市庁舎大ホール正面壁画を手掛けた。Photo_2
 このころでも、若いころから何度も描いてきた同じテーマで、作品を制作している。「二人、孤独な人たち」(1935)も30年近く描き続けているように見えるが、こうしてわざわざ2人の男女を近接させて描くことで孤独を表現するという発想がおもしろい。この2人の登場人物が、見事に背景に溶け込まず、なぜか遊離している。「浜辺にいる二人の女」(1935)もムンクがながらく格闘してきたテーマである。ムンクにしてみれば、このような画題は自分の「課題」としてどこまでも探求することができたのだろう。
Photo_3 最晩年の「自画像、時計とベッドの間」(1943)は、それまでに自分が描いてきた、まるで自分の子供たちのような作品群を壁にぎっしり貼りつめて、大きな時計を配置し、斬新な赤と黒のボーダー模様の毛布を敷いたベッドを置いた部屋に、飄々とたたずむムンクがいる。針のない時計は、永遠を表すのだろうか。名声を獲得して何不自由ない画家だが、自分はこれだけあればじゅうぶん満足だ、と宣言しているようである。
 ムンクは、「自然をカンバスの上に表現する」印象派の隆盛のあと、世紀末芸術と呼ばれる「人間の内面を表現する」絵画の先駆者として、当初は「ムンク事件」のように排斥されたこともあったものの、アール・ヌーボーのフランス、ドイツ表現主義が流行したドイツなどで好意的に迎えられ、中年期には大いに名声を獲得した。
 しかし個人的な内面としては、肉親の多くを失い、また蝕んだ病気や精神病に悩まされた。その一方では、その苦悩こそが彼の独創性の原動力になり、結果として偉大な画業を達成したともいえる。
 今回の展示は、101点という多数の作品で鑑賞する私もずいぶん疲れたが、10年前の展覧会以来のまとまった展覧会で、ムンクを見つめなおすとても良い機会であった。
 ムンクは、もちろん傑出した画家であったが、彼が生前から認められて画家としては恵まれた生涯を送ったことにかんして、考えるところがあった。彼は芸術家として、精神的な自由をなにより重視したはずである。ただ、彼はあわせて自分の画業のために、単なる精神の自由、発想の自由のみでなく、生涯をかけた画業の戦略をとても大切にしていたように思う。「生命のフリーズ」などの大きなテーマを設定し、その構成を設計し、時間をかけて構築し、構成要素を着々と蓄積する賢明な戦略と実行力があった。このような画家は、さほど多くないだろう。興味深い鑑賞であった。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (4)

画業の成功と精神病院入院
Photo こうして画業は順調に推移し、名声を博したが、1902年6月恋人のトゥラ・ラーセンとの行き違いからピストルの暴発事件に遭遇し、左手中指を損傷するという災難に遭った。このあと、彼は精神的にも不安定となり、アルコールにのめり込むようになり、画家仲間との喧嘩沙汰など生活が荒れるようになって、画業を進めつつも、ついに1908年コペンハーゲンのダニエル・ヤコブソン教授の精神病院に、自発的に入院した。
Photo_2 翌年退院して、ノルウェーの郊外の町を移りつつアトリエをつくり、画業に励み、1911年からはクリスチャニア大学講堂の大壁画の制作に取り掛かった。これは1916年完成した。
 この時の作品のひとつが、「太陽」(1913)である。退院以後のムンクは緊張感を失い、生気がなくなったと批評されることもあるらしいが、私は、これはこれでなかなか充実した良い作品だと思う。クリスチャニア大学、すなわち現在のオスロ大学の講堂大壁画の中心的な作品であるとされる。
 同じころの作品として「疾駆する馬」(1912)がある。たしかにこれはかつてのように人間の内面をえぐるような絵ではないが、強調された遠近法と色彩のインパクトで、馬の力強い疾駆のようすが見事に表現されている。Photo_3
 肖像画としては「フリードリヒ・ニーチェ」(1906)が印象深い。ニーチェは、すでに1900年に死去していたので、写真を頼りに描くのだが、ムンクは当初書斎のなかにニーチェを描こうとしてその試作もあるらしい。しかし結局「絶望」や「叫び」と同様な構図の背景のなかに描くこととした。ムンクの中では、登場人物の内面を描こうとするとき、彼なりのいくつかのモチーフとしての画面構成があって、自分の意図にもっとも適合するものを、その持ちコマから選び出して採用するのだろう。描き方も、対象として巨匠を描くという物々しさよりも、むしろさっぱりと簡潔な筆で鋭く描いているのが新鮮に感じる。画家が描く巨匠の作品として、むしろふさわしいと思う。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (3)

「生命のフリーズ」の完成
Photo ムンクは、ドイツ滞在の後しばらくパリに住み、1897年中ごろからクリスチャニアの南の町オースゴールストランに住み、油彩画の制作に集中するようになった。まもなく彼は、トゥラ・ラーセンという女性と深くつきあうようになった。そしてベルリン分離派展で、これまでの30年近くにわたる「愛」「死」「不安」つまり「生命」をテーマとする一連の作品22点をまとめて、「生命のフリーズ」として公表した。ここには、後にムンクの重要作品とされるものの大部分が包含されている。
 魂の叫びとして「叫び」「絶望」「不安」「赤い蔦」など、女性が主導権をにぎる男女の愛として「吸血鬼」「灰」「マドンナ」など、強く融合しまたどうしても行き違える愛としての「接吻」「別離」「二人、孤独なひとたち」などがある。
 世界的に有名な絵「叫び」(1910ころなど)は、実は描かれた人物が叫ぶのではないらしい。ムンク自身がフィヨルドと市街を見渡すところでの実経験として、日没の陽光と炎を吐くような雲が、自然を貫いてひどく大きな終わりのない叫びを発するように感じたのだ、というのである。

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ムンク展─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (2)

パり留学とベルリン時代
1895 1889年、政府奨学金を獲得したムンクは、2年半のパリ留学の機会を得た。しかしパリに到着して間もなく、父の訃報を受け取った。ムンクは、その直後移ったサン・クルーという町で「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書き残した。これは「サン・クルー宣言」と呼ばれるようになった。これは、後のライフワークたる「生命のフリーズ」のモチーフの契機であると言われている。
 このころ、ムンクは、ピサロやモネなど印象派から多いに啓発を受け、またゴッホやロートレックから技法を学んだという。デッサンにも励み、ムンクの重要な修行時代となった。
 1892年初めにいったん帰国したムンクは、まもなくドイツにわたり、1896年初めまでベルリンに滞在した。このころからムンクは「生命のフリーズ」の構想を意識するようになったという。このころから、彼の絵は、戦略的な単純化、平面化とともに、デフォルメを導入するようになった。
Photo このころ30歳を過ぎた自画像(1895)は、野心・活気・エネルギーよりも、メメント・モリともいうべき、死を意識した内向的なものと変わっている。画面の下には、腕が2本の骨として、寓意的に配置されている。
 「死と春」(1893)は、窓辺の明るい春の陽光と、ベッドに横たわる少女の死体とを対比させた重い雰囲気の絵である。両親の死に加えて姉と弟まで失った影響が、深い悲しみと不安に結実していて、生、死、転生などを連想させる。「絶望」(1894)は、このころから何回か描かれた有名な「叫び」と非常によく似た構図で描かれている。ノルウェーに生まれ育ったムンクにとって、フィヨルドの光景は故郷であり、レーゾンデートルのように心に貼りついたものなのかもしれない。
Photo_3 「接吻」(1895)は、愛し合い抱き合う男女が、裸で分離しがたく融合している。窓のカーテンは、ここでは開かれ、外見を構わない態度が示されている。この「接吻」というテーマも、ムンクによって何度も描かれ、それぞれ微妙にニュアンスの異なった表現がなされた。
 ブローチ、エヴァ・ムドッチ(1903)は、ムンクが魅せられた女性のひとりだそうだ。この画面構成は、このころに前後して多数描かれた「マドンナ」(1902)とも共通している。「マドンナ」では、胸が開けられ、画面の縁に胎児あるいは精子が描き込まれて、人間の性欲やエロティシズムがより一層強調されている。
Photo_4 このように、彼の絵は1890年ころの印象派などと異なり、人間の内面を主題とする精神性の強い表現となっていった。それは1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いたムンクの個展が、理事の過半数の反対表決によりわずか1週間で打ち切りを強いられた、いわゆる「ムンク事件」などの強烈な周囲からの反発とともに、徐々に「世紀末芸術」を追求していたフランスやドイツの芸術家たちから共感と賛同を得るようになっていった。
 「赤と白」(1900)は、二人の女性を描き、その服の色で女性の性格を大胆に割り切って表現する、という観念的な絵としている。白は無垢・純真を代表して表現し、対して赤は情熱・奔放。成熟を表すのである。そのため、色のコントラストを戦略的に強調する描写となっている。

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