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美術

ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (2)

ロシアの風景
 展覧会の展示では、春・夏・秋・冬の四季に分けて、それぞれの季節の風景画を展示している。ロシアは広大な土地があり、またその四季は大きく気候が変化する。Photo_2Photo_3 緯度が高く、相対的に陽射しが多くなく気温も低い期間が長いロシアでは、人々が短い春を待ちかね、愛おしむ。アレクセイ・サヴラーソフ「田園風景」(1867)を見ても、彼が春を心から慈しむ気持ちが伝わってくる。穏やかで暖かい春風、そのそよぎを浴びて陽光に輝くリンゴの木と枝、陽光を反射して輝く湖面、が気持ちよく描かれている。アレクセイ・サヴラーソフも、移動展覧会教会の創設メンバーのひとりであった。
 同じく移動派のイサーク・レヴィタン「樫の木」(1880)がある。樫の老木の力強さ、威厳を強調しつつ、穏やかな春の雰囲気を繊細に描写している。
 イワン・シーシキン「雨の樫林」(1891)は、夏とはいえさほど高温にならず、むしろ穏やかで快適そうな雨の日の風景である。ドラマのシーンのような抒情的な描写で、雨の日の湿度感まで表現している。
Photo_4 同じシーシキンの「正午、モスクワ郊外」(1869)は、高い空とその下の地平線まで続く道でロシアの広大な大地を表現している。さすがにこれだけ広大な平野は、日本では関東平野でさえ見いだせない。土地の広さを、空の高さと広がりで見事に表現している。
 ロシアの長く厳しい冬は、決して快いのもではないが、それでも樹氷の壮大で息をのむような美は存在する。ワシーリー・バクシェーエフ「樹氷」(1900)がそれである。彼は、何度も樹氷を描いているという。
 ほかにも、清く静かな雪景色を精緻に描いたミハイル・ゲルマーシェフの「雪が降った」(1897)がある。ニコライ・サモーキシュ「トロイカ」(1917)は、大胆な構図で躍動感あふれるトロイカのエネルギーを表現している。厳しいロシアの冬にも、それなりに大きな活気がある、と主張しているようである。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (1)

ロシア世紀末と移動展覧会協会
 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ロマンティック・ロシア」と題された少しユニークな展覧会が開催された。ロシアの国立トレチャコフ美術館の所蔵品のなかから、19世紀末からロシア革命の前までの絵画を選出して展示するものである。

Photo_2
 トレチャコフ美術館は、歴史的には1851年帝政ロシア時代に、モスクワの商人で工場主であったパーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフ(1832年-1898年)とセルゲイ・ミハイロヴィッチ・トレチャコフの兄弟が自邸に開いた美術ギャラリーから始まった。トレチャコフ兄弟により様々なロシアの芸術家たちの作品が収集され、現在では約13万点にのぼる収蔵品を誇るロシア最大級の美術館のひとつにまで成長している。
 ロシアの19世紀末は近代化が遅れ、社会に広範囲に歪が目立つようになり、不安定な社会情勢であった。農奴解放令が出されたのちも身分の違いは残り、民衆の権威や権力に対する反発は増加していった。そうした緊張した環境のなかで、文学ではトルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなど、諸分野に傑出した才能が叢生した。民衆を啓蒙しようとする動きも盛んになっていった。
 そのようななか、美術では「移動展覧会協会」が、アカデミズムの制約を嫌うイワン・クラムスコイらによって、1870年にサンクトペテルブルクに設立された。社会の問題や矛盾を告発し、また祖国愛をもとに郷土の自然の美にも注目する活動として、当時の民衆の生活に根ざした絵を写実的な手法で描き出した。イワン・クラムスコイによる人物画のひとつが、この展覧会のポスターに採用された「忘れえぬひと」(1883)である。
 移動展覧会協会は、ロシア国内、キエフ、ワルシャワなどまで、広範囲に移動展覧会を巡回し、地方に暮らすひとびとに芸術に触れる機会を与え、幅広く啓蒙的な貢献をした。この協会に加入した芸術家たちは「移動派」とよばれた。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (5)

晩年の画業
Photo 1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに邸宅を購入して、そこに定住した。このころの作品に「星月夜」(1924)がある。エーケリーの自宅玄関先から眺める夜の景色を描いたもので、遠く見下ろす街の灯り、邸宅を囲む林、ゆったりした庭の拡がり、その地面に長く伸びる、おそらくムンク自身の月光の影、そして景色の上半分を覆う満天の星と、ここでは老年を迎えてようやく落ち着いたムンクの精神状態が現れているように思う。マルク・シャガールを連想させるような優しい絵である。
 1912年からは、ケルン分離派展の招待作家に登録され、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンとならんで特別展示室を与えられた。1922年からは、フレイヤ・チョコレート工場の食堂の壁画を制作し、1925年には、クリスチャニアからオスロに改名した首都の、新市庁舎大ホール正面壁画を手掛けた。Photo_2
 このころでも、若いころから何度も描いてきた同じテーマで、作品を制作している。「二人、孤独な人たち」(1935)も30年近く描き続けているように見えるが、こうしてわざわざ2人の男女を近接させて描くことで孤独を表現するという発想がおもしろい。この2人の登場人物が、見事に背景に溶け込まず、なぜか遊離している。「浜辺にいる二人の女」(1935)もムンクがながらく格闘してきたテーマである。ムンクにしてみれば、このような画題は自分の「課題」としてどこまでも探求することができたのだろう。
Photo_3 最晩年の「自画像、時計とベッドの間」(1943)は、それまでに自分が描いてきた、まるで自分の子供たちのような作品群を壁にぎっしり貼りつめて、大きな時計を配置し、斬新な赤と黒のボーダー模様の毛布を敷いたベッドを置いた部屋に、飄々とたたずむムンクがいる。針のない時計は、永遠を表すのだろうか。名声を獲得して何不自由ない画家だが、自分はこれだけあればじゅうぶん満足だ、と宣言しているようである。
 ムンクは、「自然をカンバスの上に表現する」印象派の隆盛のあと、世紀末芸術と呼ばれる「人間の内面を表現する」絵画の先駆者として、当初は「ムンク事件」のように排斥されたこともあったものの、アール・ヌーボーのフランス、ドイツ表現主義が流行したドイツなどで好意的に迎えられ、中年期には大いに名声を獲得した。
 しかし個人的な内面としては、肉親の多くを失い、また蝕んだ病気や精神病に悩まされた。その一方では、その苦悩こそが彼の独創性の原動力になり、結果として偉大な画業を達成したともいえる。
 今回の展示は、101点という多数の作品で鑑賞する私もずいぶん疲れたが、10年前の展覧会以来のまとまった展覧会で、ムンクを見つめなおすとても良い機会であった。
 ムンクは、もちろん傑出した画家であったが、彼が生前から認められて画家としては恵まれた生涯を送ったことにかんして、考えるところがあった。彼は芸術家として、精神的な自由をなにより重視したはずである。ただ、彼はあわせて自分の画業のために、単なる精神の自由、発想の自由のみでなく、生涯をかけた画業の戦略をとても大切にしていたように思う。「生命のフリーズ」などの大きなテーマを設定し、その構成を設計し、時間をかけて構築し、構成要素を着々と蓄積する賢明な戦略と実行力があった。このような画家は、さほど多くないだろう。興味深い鑑賞であった。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (4)

画業の成功と精神病院入院
Photo こうして画業は順調に推移し、名声を博したが、1902年6月恋人のトゥラ・ラーセンとの行き違いからピストルの暴発事件に遭遇し、左手中指を損傷するという災難に遭った。このあと、彼は精神的にも不安定となり、アルコールにのめり込むようになり、画家仲間との喧嘩沙汰など生活が荒れるようになって、画業を進めつつも、ついに1908年コペンハーゲンのダニエル・ヤコブソン教授の精神病院に、自発的に入院した。
Photo_2 翌年退院して、ノルウェーの郊外の町を移りつつアトリエをつくり、画業に励み、1911年からはクリスチャニア大学講堂の大壁画の制作に取り掛かった。これは1916年完成した。
 この時の作品のひとつが、「太陽」(1913)である。退院以後のムンクは緊張感を失い、生気がなくなったと批評されることもあるらしいが、私は、これはこれでなかなか充実した良い作品だと思う。クリスチャニア大学、すなわち現在のオスロ大学の講堂大壁画の中心的な作品であるとされる。
 同じころの作品として「疾駆する馬」(1912)がある。たしかにこれはかつてのように人間の内面をえぐるような絵ではないが、強調された遠近法と色彩のインパクトで、馬の力強い疾駆のようすが見事に表現されている。Photo_3
 肖像画としては「フリードリヒ・ニーチェ」(1906)が印象深い。ニーチェは、すでに1900年に死去していたので、写真を頼りに描くのだが、ムンクは当初書斎のなかにニーチェを描こうとしてその試作もあるらしい。しかし結局「絶望」や「叫び」と同様な構図の背景のなかに描くこととした。ムンクの中では、登場人物の内面を描こうとするとき、彼なりのいくつかのモチーフとしての画面構成があって、自分の意図にもっとも適合するものを、その持ちコマから選び出して採用するのだろう。描き方も、対象として巨匠を描くという物々しさよりも、むしろさっぱりと簡潔な筆で鋭く描いているのが新鮮に感じる。画家が描く巨匠の作品として、むしろふさわしいと思う。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (3)

「生命のフリーズ」の完成
Photo ムンクは、ドイツ滞在の後しばらくパリに住み、1897年中ごろからクリスチャニアの南の町オースゴールストランに住み、油彩画の制作に集中するようになった。まもなく彼は、トゥラ・ラーセンという女性と深くつきあうようになった。そしてベルリン分離派展で、これまでの30年近くにわたる「愛」「死」「不安」つまり「生命」をテーマとする一連の作品22点をまとめて、「生命のフリーズ」として公表した。ここには、後にムンクの重要作品とされるものの大部分が包含されている。
 魂の叫びとして「叫び」「絶望」「不安」「赤い蔦」など、女性が主導権をにぎる男女の愛として「吸血鬼」「灰」「マドンナ」など、強く融合しまたどうしても行き違える愛としての「接吻」「別離」「二人、孤独なひとたち」などがある。
 世界的に有名な絵「叫び」(1910ころなど)は、実は描かれた人物が叫ぶのではないらしい。ムンク自身がフィヨルドと市街を見渡すところでの実経験として、日没の陽光と炎を吐くような雲が、自然を貫いてひどく大きな終わりのない叫びを発するように感じたのだ、というのである。

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ムンク展─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (2)

パり留学とベルリン時代
1895 1889年、政府奨学金を獲得したムンクは、2年半のパリ留学の機会を得た。しかしパリに到着して間もなく、父の訃報を受け取った。ムンクは、その直後移ったサン・クルーという町で「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書き残した。これは「サン・クルー宣言」と呼ばれるようになった。これは、後のライフワークたる「生命のフリーズ」のモチーフの契機であると言われている。
 このころ、ムンクは、ピサロやモネなど印象派から多いに啓発を受け、またゴッホやロートレックから技法を学んだという。デッサンにも励み、ムンクの重要な修行時代となった。
 1892年初めにいったん帰国したムンクは、まもなくドイツにわたり、1896年初めまでベルリンに滞在した。このころからムンクは「生命のフリーズ」の構想を意識するようになったという。このころから、彼の絵は、戦略的な単純化、平面化とともに、デフォルメを導入するようになった。
Photo このころ30歳を過ぎた自画像(1895)は、野心・活気・エネルギーよりも、メメント・モリともいうべき、死を意識した内向的なものと変わっている。画面の下には、腕が2本の骨として、寓意的に配置されている。
 「死と春」(1893)は、窓辺の明るい春の陽光と、ベッドに横たわる少女の死体とを対比させた重い雰囲気の絵である。両親の死に加えて姉と弟まで失った影響が、深い悲しみと不安に結実していて、生、死、転生などを連想させる。「絶望」(1894)は、このころから何回か描かれた有名な「叫び」と非常によく似た構図で描かれている。ノルウェーに生まれ育ったムンクにとって、フィヨルドの光景は故郷であり、レーゾンデートルのように心に貼りついたものなのかもしれない。
Photo_3 「接吻」(1895)は、愛し合い抱き合う男女が、裸で分離しがたく融合している。窓のカーテンは、ここでは開かれ、外見を構わない態度が示されている。この「接吻」というテーマも、ムンクによって何度も描かれ、それぞれ微妙にニュアンスの異なった表現がなされた。
 ブローチ、エヴァ・ムドッチ(1903)は、ムンクが魅せられた女性のひとりだそうだ。この画面構成は、このころに前後して多数描かれた「マドンナ」(1902)とも共通している。「マドンナ」では、胸が開けられ、画面の縁に胎児あるいは精子が描き込まれて、人間の性欲やエロティシズムがより一層強調されている。
Photo_4 このように、彼の絵は1890年ころの印象派などと異なり、人間の内面を主題とする精神性の強い表現となっていった。それは1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いたムンクの個展が、理事の過半数の反対表決によりわずか1週間で打ち切りを強いられた、いわゆる「ムンク事件」などの強烈な周囲からの反発とともに、徐々に「世紀末芸術」を追求していたフランスやドイツの芸術家たちから共感と賛同を得るようになっていった。
 「赤と白」(1900)は、二人の女性を描き、その服の色で女性の性格を大胆に割り切って表現する、という観念的な絵としている。白は無垢・純真を代表して表現し、対して赤は情熱・奔放。成熟を表すのである。そのため、色のコントラストを戦略的に強調する描写となっている。

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「ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─」東京都美術館 (1)

 東京都美術館で、10年半ぶりにエドゥァルト・ムンクの特集展覧会が開催されたので、ともかく鑑賞した。

誕生から青年期まで
 エドゥァルト・ムンクは、1863年ノルウェーのオスロ(当時の名は、クリスチャニア)から100キロメートルほど北東の町ロイテンに、軍医も務めた富裕な医師の長男として生まれた。彼には1歳年長の姉、2歳年少の弟など、4人の兄弟がいたが、5歳の時母を結核で亡くし、14歳のとき姉をやはり結核で亡くし、26歳でパリ留学中に父を亡くした。さらに、30歳代前半ドイツ滞在中に、医師であった弟を亡くし、妹は精神病院に入院した。こうして幼いときから生涯にわたって家族に多数の深刻な病気と死を経験し、ムンクは人間の死や精神にいやおうなく深刻に向き合うこととなった。1882
 信心深かった父は、母の死後いちだんとキリスト教にのめり込み、厳格な態度で子供の教育に臨んだという。それでも初期の「自画像」(1882)は、青年の意志と力にあふれる姿でオーソドックスに描かれている。
 妹ラウラを描いた油彩化画や、母の死後ずっとムンク家にいて家政と子育てをしてくれた母の妹であるカーレン・ビョルスタの肖像画もある。ごく正統的な画法による、丁寧な作品である。
 技術者になることを求める父をなんとか説得し、首都クリスチャニアの工芸学校に進学したムンクは、ここでクリスチャニア・ボヘミアンと呼ばれるアナーキスト作家ハンス・イェーゲルが率いる文化活動グループに参加し、ボヘミアンやマルクス主義に接近した。ムンクは、ボヘミアンから霊感と活気を与えられたが、独断的なその態度には嫌悪感を持った。1885年ころから数年間、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、恋の苦悩も味わった。

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「ロス・カプリチョスにみる奇想と創意」伊丹市立美術館 

 伊丹に出かけたとき偶然ゴヤの展覧会があるのを知り、仕事のあとの慌ただしい時間帯であったが、鑑賞することにした。Photo
 フランシス・ゴヤは1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードスに鍍金師の子として生まれた。14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をし、1770年、大画家を目指してイタリアのローマに出た。イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学んだ。1774年、マドリードへ出て、その翌年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わった。そうして1786年、ようやく40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となり、とうとうスペイン最高の画家としての地位と名声を得た。
 しかしゴヤは、画家の個性を重視し、当時の封建的な絵画制度に強い反感を抱いていた。さらに宮廷画家になった直後に隣国のフランスでフランス革命が起こり、その残虐さを見ることになった。1792年、病気のため聴覚を失ってからは、内面の世界に沈潜し、特異な想像力を発揮して、独自の版画作品を創作した。今回のテーマである「ロス・カプリチョス」は、ゴヤの最初の版画集であり、1799年2月6日、カーニバルが終わった直後に公刊された。つまり、18世紀最後のカーニバルの締めくくりの位置づけを狙ったとも解釈されている。ロス・カプリチョスとは、気まぐれ、戯れ、奇想を意味する。ここでは、ゴヤは自分が仕える宮廷社会でさえも、風刺の対象としている。
Photo_2 この版画集全体を象徴する作品が「理性の眠りは怪物を生む」である。眠る男のまわりに、人間を惑わすさまざまな悪徳が、コウモリやミミズクなど闇にはばたく鳥獣の姿でまとわりつく。理性の不在を思わせるような画面には、力強い想像力の勇躍をも思わせるものがある。
 この版画集の冒頭には、ゴヤの自画像がある。いささか斜に構えた傲慢な表情にみえる。この作品集で、宮廷社会を含む当時の世の中にモノ申す、と宣言しているようでもある。
 展示作品には、娼婦とそれをめぐる「紳士」を気取った欲望に狂う惨めな男たちがしばしば登場する。
 たしかに版画を観ても、ゴヤの緻密で鋭い画面描写はよくわかる。そしてそれ以上に、この一連の作品は、絵画というより、ゴヤの「詩」あるいは「エッセイ」である。こういう作品群をみると、画家すなわち芸術家は高度なブレイン・ワークが求められることがよくわかる。「アール・ブリュット」などというものが、けしてほんものの芸術たりえないことが、明瞭である。Photo_3
 一方で、この作品群のように、画家の憤り、不平・不満、皮肉などが全面に出ていて、かつそういうものばかりというのは、観ていて楽しさがなく、やはり素直に楽しめないのも事実である。ゴヤは画家として、自分がもっとも得意とする手段で自らの主張を表現したのだろうが、鑑賞する側としては、やはりいささかキツイのである。

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プラド美術館展 兵庫県立美術館 (6)

宗教と世俗
Photo スペインはカソリック国であり、ルネサンス以降は対抗宗教改革のリーダーでもあった。プロテスタントは、聖書を重視して、教えを絵画で表現することは偶像崇拝につながるものとして排斥した。これに対してカソリック側は、神の教えをわかりやすく伝え、かつ民衆の心に直接訴えかける有力な手段として、美術を最大限活用しようとした。そのような要請から17世紀初頭には、テネブリズム(Tenebrism)と呼ばれる明暗のコントラストを強調した写実的な光の表現を特徴とする様式が流行した。暗闇から人物が浮かび上がったような画面が、その典型的なものである。絵画の題材としては、熱い信仰を集めた聖母や聖家族、さまざまな聖人の殉教や幻視といった場面が多く描かれるようになった。
 ベラスケスがまだ宮廷で働く以前の20歳ころの作品に「東方三博士の礼拝」(1619)がある。イエスを確認する為にベツレヘムの厩を訪れた三博士が、神の子の存在に礼拝する場面で、キリスト教の代表的な場面の絵だが、興味深いのは、登場人物の表現がとても庶民的なことである。三博士のひとりはベラスケス自身、もうひとりは岳父パチューコ、聖母マリアはベラスケスの妻フアナ、そして幼子キリストはベラスケスの娘を、それぞれモデルにして描かれているという。画法はテネブリズムの典型で、見事に暗がりから人物を浮かび上がらせている。
Photo_2 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「小鳥のいる聖家族」(1650)は、ベラスケスより一世代のちの画家による作品だが、これも登場人物は庶民的である。ここでは聖母マリアが画面の脇に退き、従来表面に出ることの少なかったヨゼフが中心にきて、一家を取り仕切っている。キリストはほとんど聖的なイメージを漂わせることなく、小鳥を手にして無邪気に犬と戯れている。
 こうした聖的イメージを敢えて払拭し、日常性を前面に出した表現が取り入れられることで、多くの一般の人々に宗教を身近に具体的に感じて受け入れさせようとの意図がある、というが、たしかに対抗宗教改革としては正しい方向だったろうと思う。対抗宗教改革の時代に、宗教画がむしろ形式ばった中世的宗教絵画を脱して、俗的・庶民的に変貌したこと、その理由を改めて理解した。
 展示された作品数は全部で70点と、私が考える適正量であり、平日の早めに出かけたので場内はかなり空いていて、鑑賞するのにとても好条件であった。にもかかわらず、鑑賞のみで正味4時間近くを費やし、終わった後はほとんどヘトヘトになった。出展されている作品のほとんどすべてが、なかなかの名作で、ほとんど全部をじっくり鑑賞せざるを得なかったのである。
 スペイン・ハプスブルク家の最後のあだ花となった全盛期の絵画を、たっぷり楽しんだひとときであった。

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プラド美術館展 兵庫県立美術館 (5)

静物
Photo 静物画は、スペインでは「酒蔵」を意味するボデガ(bodega)から、「ボデゴン」と呼ばれた。酒や食べ物にかんする絵のことで、緻密な観察にもとづく精密な描写、さらに進んで神秘的な表現が取り入れられ、画家の絵画の技能を磨き証明するものとしても愛好家に注目されるようになった。
 ファン・デ・エスピノーザ「ブドウのある八角形の静物」(1646)がある。ブドウ、なし、リンゴなどさまざまな果物が描かれるが、とくに透明感のあるブドウの美しさが際立つ。薄い色彩の絵の具を何回も塗り重ねて透明感を表現したという。また、ブドウは画面の真ん中で吊り下げられているが、この構図はファン・デ・エスピノーザの独創であったという。17世紀時点で、静物画の技量はここまで達していたのである。Photo_2
 少し変わったおもしろい絵として、パウル・デ・フォス「犬と肉の寓話」(1636)がある。肉の塊を加えた一匹の犬が、小川にかかる小さな橋を渡ろうとした。ふと見ると、犬が大きな肉を咥えてこちらを見ている。犬は、こいつは大きな肉を咥えていると、思わず口を開けてしまった。犬は肉を川の水に流してしまい、さっき見た肉を加えた犬が、実は自分の姿が川の水面に映っていたことを知った、というイソップ物語からの引用である。欲張りは控えて、堅実な道を行け、という教訓である。この絵の場合は、絵そのものがどうこうというより、このような題材の絵を宮廷が収蔵していたという事実のほうが興味深い。

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