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美術

「奇想の系譜」展 東京都美術館 (9)

歌川国芳
 歌川国芳(1797~1861)の絵は、10年ほどまえに個展を観たことがある。あまり期待せずに見に行ったが、途中からその技術の高さと迫力を知り、惹きこまれた。役者絵の国貞、風景画の広重と並んで、武者絵の国芳として第一人者であったという。豊かな発想で近代的感覚を取り込んだ戯画、美人画、洋風風景画を多数残している。その一方、役者絵や風刺画などで、幕府の取り締まりをかいくぐった機知に富んだ作品で、庶民の支持と喝采を博したという。Photo_20190731063501 「相馬の古内裏」(弘化2~3年1845~46)がある。山東京伝の読本『忠義伝』に取材した作品で、源頼信の家老大宅光国と平将門の遺児で妖術を操る滝夜叉姫との対決の場面である。御簾(みす)を破って、闇の中からおどろおどろしい骸骨が現れている。国芳は三枚続を、それまでの一枚刷りの組み合わせとしてではなく、全体をワイド画面として構成し、思い切った独創的構図を展開している。葛飾北斎の晩年の作品にも通じるような大胆な構図である。Photo_20190731063601 「宮本武蔵の鯨退治」(弘化4年1847)がある。剣豪宮本武蔵の鯨退治伝説をもとに、これも三枚続の画面いっぱいに大鯨を配する大胆な構図の作品である。「武者絵の国芳」の面目躍如である。
Photo_20190731063701  「一ツ家」(安政2年1855)がある。国芳が描いたのは、台東区花川戸に伝わる鬼女伝説である。あばら家の宿に老婆と娘が住んでいた。実はこの老婆「浅茅が原の鬼婆」と呼ばれる極悪人で、一夜の宿を求める旅人があれば、寝ている隙に殺害し金品を奪うという非道を重ねていた。999人を殺したのち、ある夜ひとりの稚児が宿を求めてきて、老婆はいつものように殺害したが、よく見ると殺した相手は、稚児ではなく老婆の娘であった。老婆の悪事に心を痛めていた娘が千人目の旅人の身代わりとなって、老婆に改心を求めたのだった。そこへ稚児が現れ、実はその稚児が近くの浅草寺の観音菩薩の化身であったことも判明した、というシーンである。
 このような猟奇的な題材や大胆な構図から、従来「奇想」とされてきたのだろう。
 今回観た8人の作品は、いずれも現在では「奇想」という枠組みではなく、「斬新」「独創的」とみなされ、いずれも高い評価を得ている。この半世紀で、私たちの日本画に対する見方もかなり変わったのだろうか。私が率直に観ての感想としても、いずれも卓越した技量に裏付けられた優れた作品が多かったと感じた。
 私はこの展覧会場に平日の開場直後から入場したが、それでもかなりの混雑であった。2時間ほど経過すると、展示場は観衆でぎっしり満員となった。さいわい早めに入ったお陰でじっくり鑑賞することができ、充実したひとときであった。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (8)

鈴木其一
 鈴木其一(1796~1858)は、生い立ちは確かなことは不明だが、近江に紺屋の息子として寛政8年(1796)に生まれ、のちに兄弟子鈴木蠣潭(れいたん)の病死後、蠣潭の姉リヨを妻として鈴木家の婿養子になったとされている。尾形光琳に私淑した江戸琳派の祖であった酒井抱一に師事し、優れた技能を認められ、その忠実な弟子としてしばしば代作をも勤めるほどだった。しかし師の没後は個性的な作風に変わっていった。自然の景物を人工的に再構成する、優れて知的な画風で、師の抱一の瀟洒な描写とは一線を画している。描写力に優れ、明快な色彩と構図、驚きや面白みを潜ませる機知に富む趣向を持ち味とし、敢えて余情を配するかのような理知的な画風である。近代に通じる都会的洗練と理知的な装飾性が特徴で、それが従来は「奇想」とされたのかも知れない。今では近代日本画の先駆と位置づけられている。

Photo_20190729061401 今回の展示数は6点で、8人のうちもっとも少なかった。「百鳥百獣図」(天保14年1843)は、其一の特徴をよく表している作品とされる。緻密な筆致で、さまざまな鳥と獣を、現実離れしたシチュエーションに配置して幻想的に描き出している。ありとあらゆる生き物を描き出そうとする構想は、若冲から感化された可能性が高いともいわれている。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (7)

白隠慧鶴
Photo_20190727061201  白隠慧鶴(1685~1768)は、駿河国原宿(現在の静岡県沼津市原)に生まれた。15歳で出家して諸国を行脚し、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験したと自任した。ところが信濃飯山の正受老人(道鏡慧端)に出会うと「あなぐら禅坊主」と厳しく指弾され、その門に下って修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得たという。更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成し、臨済宗中興の祖と呼ばれるほどの禅僧となった。
「不立文字(言葉に頼るな)」といわれる禅宗において、白隠は夥しい数の禅画や墨跡を遺した。職業画家としてではなく、仏の教えを伝えるための手段として描かれた一見ユーモラスで軽妙、かつ大胆な書画は、蕭白、芦雪、若冲など18世紀京都画壇や奇想の画家たちを大いに刺激する起爆剤となった。
Photo_20190727061301  白隠の作品でよく知られているのが「達磨図」である。私もすでになんどか観ているが、いつみても大胆で力強い筆致と表現に惹かれる。通称「朱達磨」と呼ばれて、画風から最晩年の作と推定されている。80歳を超えて縦2メートル近くあるこんな大作を描ききったのである。下書きの線をそのまま残したり、何度も線を引き重ねるなど、従来の筆法をくつがえす斬新な表現が新たな魅力である。
 もうひとつ、こんどは横顔の「達磨図」も展示されている。これはまた、禅の精神を表すのだろうか、無駄を一切省き、濃い墨で一筆書きのように一気呵成に描かれた横向きの達磨である。単刀直入に本質に迫ろうとする強烈なエネルギーを感じる。賛は左から「どう見ても」とある。この表現は、超現代的なアートに通じるようにも思う。Photo_20190727061401
 「隻手」という墨絵がある。「両手をたたけば音がするが、では片手の音はどうか。それを聞いてこい」という意味の、白隠の公案「隻手の音声」を絵画化して表現した一幅であるという。こんな抽象的なことを敢えて絵にするのだから、すでに抽象絵画と言える。おもしろい。
 他にも、鍾馗さまが鬼をすり鉢に放り込んですり潰して味噌にしてしまうという「鍾馗鬼味噌図」や、京都大徳寺開山の大燈国師が若いころ乞食行をしていたころを描いた「乞食大燈図」なども、興味深い作品である。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (6)

狩野山雪
 狩野山雪(1590~1651)は、九州肥前国に生まれ、幼名を彦三と言った。父に従い大阪に移り住むが、慶長10年(1605)に父と死に別れた。16歳のとき、僧であった叔父は彦三に画才があることを見出し、当時豊臣氏の絵師であった狩野山楽に弟子入りさせた。弟子となった彦三は次第に頭角を現し、山楽の長男が早世すると代わりに後継者となった。遅くとも元和5年(1619)までに山楽の娘の婿となり、名も平四郎と改め、狩野姓を授けられた。さらに遅くとも30代半ばまでには山楽を名乗るようになったと推定されている。正保4年(1647)九条幸家の命により、東福寺所蔵の明兆筆三十三身観音像の内、欠けていた2幅を補作し、その功績により法橋に叙せられた。伝統的な画題を独自の視点で再解釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学構図で知られる。
Photo_20190725060601  「梅花遊禽図襖」(寛永8年1631)がある。画面からはみ出して描かれた巨大な一本の老梅の幹は、「コ」の字形に屈折しさらに激しい屈曲を繰り返して左手に伸びる。幹には赤白の蔦がからみ、一羽の小鳥が宿っている。枝にまばらな梅の花が咲き、背景にはすべて金箔を張り詰めた金色が輝く。幾何的な、計算され緻密に設計された構図であり、山雪の冷徹な形態感覚が感じられる。

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 「龍虎図屏風」は、六曲一双の屏風である。彩色で描かれた虎は、なぜか自信満々で、岸辺から海の波間の龍を睨みつけている。虎と対峙する龍は、水墨で描かれ、なんとなく自身なさげで虎の眼力に気圧されているようである。山楽の画風を継承しつつ個性を発揮しはじめた頃の初期作であるという。
 「四季耕作図屏風」は、八曲一双の屏風を一隻ずつ順次入れ替えて展示していて、この日は秋の取り入れの部分を展示していた。近世初期の農村風景を表す貴重な資料でもある。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (5)

岩佐又兵衛
 つぎはこの展覧会に登場する画家の中で、もっとも早い時期、安土桃山時代に活動した岩佐又兵衛(1578~1650)のコーナーである。
 岩佐又兵衛は、摂津国河辺郡に、織田信長の家臣であった伊丹有岡城主荒木村重の子として生まれた。生まれた翌年の天正7年(1579)、父村重は信長に反逆を企て失敗した。有岡城落城のとき荒木一族はそのほとんどが斬殺されたが、わずか2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護された。幼少期から大和絵などを学んでいたという。
又兵衛は長じて母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として、絵などの芸能をもって仕えたと伝える。信雄が改易後に浪人となった又兵衛は、勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めた。Photo_20190723062101

 大坂の陣の後、すでに30歳代後半となった又兵衛は、伝手を頼って北の庄(現在の福井市)に移住し、この地に、20年近く過ごした。寛永14年(1637年)二代将軍徳川秀忠の意志により、三代将軍徳川家光の娘千代姫の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住んだ。そして20年近く江戸で活躍して73歳で生涯を終えた。大和絵と漢画双方の高度な技術を駆使し、どの流派にも属さない個性的な感覚で、後の絵師に大きな影響を与えた。長谷川等伯の養子になった長谷川等哲は、又兵衛の子といわれている。
Photo_20190723062601  「山中常盤物語絵巻」がある。源義経伝説のうち、義経の母である常盤御前の仇討ちを題材とした極彩色絵巻である。全12巻のうち、山中の宿で常盤御前が賊に殺される、物語のクライマックスシーンに当たる画面が描かれている。これは、『奇想の系譜』の著者である辻惟雄が、修士論文のテーマに選んだ作品である。現代の美術の水準からみても、この絵巻の表現はかなりグロテスクでエロティックである。

 「官女観菊図」がある。これは福井の豪商金谷家に伝来した「旧金屋屏風」と通称される屏風の一図で、六曲一双の押絵貼屏風であったものを、明治時代末に分割して軸装としたものである。牛車の簾を侍女に上げさせ、菊花を愛でる二人の官女を描いている。繊細かつしっかりした線が生きている。
 岩佐又兵衛の作と伝えられている「妖怪退治図屏風」がある。 

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 正規の武士軍団が協力して雲の上の妖怪と戦うという、他には見られないきわめてユニークな画題である。筆致、形態感覚からは又兵衛の作とは考えにくいが、又兵衛の工房の制作であることは確実らしい。岩佐派のレパートリーの広さを物語る重要な作といえる。本展のための調査の過程で見出された新出作品のひとつである。
これらの他にも、いかにも枯淡の武士のような風貌を見せる「自画像」や、個性的な「達磨図」も展示されている。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (4)

長沢芦雪
 「京のエンターテイナー」との副題がついた長沢芦雪(1754~1799)のコーナーである。
 長沢芦雪は、丹波国篠山に生まれ、その父は丹波国篠山藩と山城国淀藩に仕えた武士であった、と本人は言っていたという。ともかく彼は、遅くとも25歳までには円山応挙に師事し、やがて高弟となったことは事実らしい。ただ、落款から応挙入門以前と思われる作品も発見され、入門前から十分な力量を持っていたと推測されている。長沢芦雪が生きて活躍した時代は、主に田沼意次の統治時代であった。

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 「龍図襖」という八面の墨絵がある。龍は画面をはみ出さんばかりに大きく描かれるが、墨は薄く、あるいはまあるく描かれていて、敢えて猛々しさは抑制されている。それでも龍の素早い動きと鋭さは遺憾なく表現されている。
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  「白象黒牛図屏風」は、六曲一双の水墨画屏風である。これも画面をはみ出すように大きな白い象と、大きな黒い牛とが向き合っているが、お互いに柔和な表情で敵対あるいは対抗の気配はない。牛の傍には小さな可愛い犬がいて、平和な気配を強調している。白象は微笑んでいるようにも見える。世間ではなんだかんだと喧しいが、そんな小さなことで目に角をたてるな、と諫めているかのようである。
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 「郡猿図襖」も四面の水墨襖絵である。たくさんの猿たちが描かれていて、それぞれが擬人化して、まるで人間の下世話なふるまいをいろいろな面から表しているように見える。
 「京のエンターテイナー」との副題にふさわしく、いずれの作品も画風は題材の世界から少し距離を置いて、軽妙にアイロニーを漂わせた表現となっている。
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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (3)

曽我蕭白
 つぎのコーナーは、曽我蕭白(そが しょうはく 1730~1781)である。
 6年ほどまえに、ボストン美術館の日本美術コレクションの展覧会があり、そのひとつのコーナーとして曽我蕭白の絵を数点観たことがある。なかなか力強い描写が印象に残ったが、今回の展示で副題とされている「醒めたグロテスク」という感じはなかった。

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 最初に「郡仙図屏風」(明和元年1764)がある。この絵は、6年前に観た曽我蕭白の絵とはかなり違って、たしかにサイケデリックな、あるいはグロテスクな印象すらある強烈な絵である。中国の逸話などからテーマを摂っているのか、全体に中国風の風俗で少し世離れした人物が登場して、画面全体として奇妙で調和がないのである。そして、描写のトーンとして現代の横尾忠則のポスター画のような雰囲気がある。そういう意味では、とても新しい絵なのかも知れない。

Photo_20190719061601  「雪山童子図」(明和元年1764頃)がある。鈍重な大きな鬼をあざけるかのように木の上に上って見下ろす女の絵である。「童子」と題されているが、描かれているのは成熟して色気たっぷりの若い娘のように見える。白い肌に際立つ腰巻の鮮やかな赤色と、青鬼のぎらつくような青色の対比が鮮明というか、むしろどぎつい。釈迦が前世で若いバラモン僧たる雪山童子として修行していたとき、青鬼の姿に身を窶した帝釈天から、修行の熱意を試される場面を描いたものというが、どういうわけか釈迦が若い娘に表されているし、全体として煽情的なイメージがある。「群仙図屏風」とほぼ同時期、蕭白35歳頃の制作とされる。美しく描こうとしたら十分華麗に描ける力を見せながら、敢えて観る者に挑戦を仕掛けているような描きぶりとも思える。現代の写真家荒木経惟にも通ずるような表現といえる。Photo_20190719061701
 「美人図」(明和元年1764頃)がある。題に「美人図」とあるが、描かれた女性はあきらかに尋常ではない。裸足で河原に立ち、びりびりと破いた手紙を丸めて口にくわえている。河原にひさぐ夜鷹が、恋に破れて狂ってしまったのだろうか。画面構成としては、青い着物の柄は中国的な水墨山水画が描かれ、その背景には水墨の蘭が配され、中国古代の文人・屈原のイメージを重ねあわせているとされる。
 これらの他にも、恐ろしさというよりいささか軽妙で可愛げのある虎を描いた「虎図」や、力強く獅子と虎を描いた「獅子虎図屏風」が展示されている。
 6年前にみた力強さの目立つ龍の水墨画から得ていた曽我蕭白とは、ひとあじ違う蕭白を鑑賞することができた。

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「奇想の系譜」展 東京都美術館 (2)

伊藤若冲・続
Photo_20190717061801  「梔子(くちなし)雄鶏図」は、若冲がまだ画業に専念する前の30歳代のときに描いたものとされる貴重な作品である。まだ使用する色彩の数も限られ、後年のような豪華絢爛さはまだないが、線の明確さ、力強さはただものでないことがわかる。この展覧会のための調査で、あらたに再発見された作品のひとつであるという。
 「象と鯨図屏風」(寛政9年1797)は、若冲晩年の大作で、私はこれを観るのは2回目である。そこはかとなくユーモアが漂う夢の中の景色のような作品である。このような作品を含むことで、辻惟雄は若冲を「奇想の系譜」としたのかも知れない。可愛く描かれた白い象が、顔を波間に沈めて隠し大きく潮を吹く黒い鯨と対峙していて、陸の王と海の王の対比、あわせて白と黒の対比が画面にリズムを作っている。暗く重くなりそうな水墨画を一新して、軽妙な情趣にあふれている。
 

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 「鶏図押絵貼屏風」は、それぞれの面に一対ずつの鶏を、それぞれ動きやポーズを変えて描写した水墨画で、ただ鶏のみ、かつ墨一色のみでもこれだけの多彩な鶏の姿と動きを表現できるのだ、と誇示するかのような見事な六曲一双の屏風である。筆の二度書きをまったく許さない、卓越した筆さばきがもたらすことのできる鋭く躍動的な表現である。Photo_20190717062002

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「奇想の系譜」展 東京都美術館

 東京都美術館で「奇想の系譜」というタイトルの展覧会を鑑賞した。Photo_20190715061701
これは、1970年発刊の辻惟雄『奇想の系譜』にちなんだものである。『奇想の系譜』は、美術史研究者であった東京大学教授辻惟雄が、当時はほとんど顧みられていなかった近世の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我簫白、長沢芦雪、歌川国芳の6人を取りあげて、その時代を超えた独創性を取りあげ、再評価を促すものであったという。半世紀が経過して、現在ではこれら画家の多くがブームを呼ぶほどに人気を得るようになったが、この6人に加えて、白隠慧鶴、鈴木其一をあわせた8人の作品を取りあげて、特別展としたものである。

伊藤若冲
 最初のコーナーは、「幻想の博物誌」という副題を付けた伊藤若冲(1716~1800)である。私も、この画家の作品を20年ほど前に単品で見たときは、なにかけばけばしく描かれた鶏、というイメージで、さほど魅せられることもなかったが、4年ほどまえに琳派の画家として伊藤若冲を特集した展覧会で、はじめてまとめて作品を眺めてからは、その緻密で大胆な筆致と迫力に感銘を受けた。今回は12点が展示されていた。
Photo_20190715061702  まず「紫陽花双鶏図」がある。若冲自身が絵のために飼育していた鶏を、丹念に観察して、雄と雌の一対の鶏を濃厚な色彩でダイナミックに描いている。明るい色と落ち着いた色の2つの微妙にトーンの異なる群青色を巧みに使いこなして、紫陽花を立体的に表現している。
 「旭日鳳凰図」がある。装飾的な華やかな羽毛をもつ鳳凰を、緑が生立つ岩か老木かの上に立たせ、背景には旭日が輝く、華やいだ雅な絵である。主役の鳳凰だけでなく、エネルギッシュに成長する緑の草木を鮮やかに描いているのが、画面全体に生気溢れる華麗さをもたらしている。

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ル・コルビュジエ─ピュリスムの時代 国立西洋美術館(3)

  ピュリスム以後のル・コルビュジエ
Photo_20190623061501  1925年、それまでともにピュリスムを推進してきたアメデ・オザンファンと決別することになったル・コルビュジエは、以後従弟のピエール・ジャンヌレや、女性デザイナーのシャルロット・ペリアン等と建築・家具などの造形を進めていくことになった。ただル・コルビュジエは、建築と並行して、公表はしないが私的には絵を描き続けていた。
 ル・コルビュジエ、シャルロット・ペリアン、ピエール・ジャンヌレ「寝椅子(シェーズ・ロング)」(1928)がある。これは今でも製造・販売されている簡素な造形美をもつ機能的な寝椅子で、使用する人間の身体の寸法や姿勢に応じて形を調整できるように設計されている。Photo_20190623061601  
 ピュリスムの時代を経てル・コルビュジエの思想は大きく発展し、絵画から建築、都市計画、インテリア・デザインまで、きわめて広い領域にわたって「近代の精神」の実現をめざす活動を繰り広げた。
 1925年のパリ万国博覧会、いわゆる「アール・デコ(装飾芸術)博」では敢えて装飾のない『エスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコ装飾の展示館が並ぶなかで異彩を放って話題を集めた。1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』をあいついで発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であると提案するもので、パリでは実現しなかったが、以降の世界の都市計画の考え方に大きな影響を与えた。
1929  第二次世界大戦以後は、日本でこの国立西洋美術館などを「ドミノシステム」の延長で設計する一方で、異なったコンセプトの、後期の代表作とされる『ロンシャンの礼拝堂』(1955年竣工)を設計した。カニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、シェル構造の採用など鉄筋コンクリートで可能になった、曲面の多い自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達したが、それはこの展覧会の範囲の外である。
 今回の展覧会を観て、ル・コルビュジエが当時の時代背景からどのように影響を受け、先行する芸術をどのように受けとり、創造して発展していったのか、その経緯の概要を知ることができた。

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