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美術

「GUTAI 分化と統合」展 中之島美術館(2)

具体結成時のメンバーたちの作品(続)
 山崎つる子「図形による題」(1963)がある。Photo_20230127055401
 山崎つる子(やまざき つるこ、大正14年1925~令和元年2019)は、兵庫県芦屋市に生まれた。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進んだ。大学卒業前のころ、芦屋市主催の市民講座に聴講に行ったことで、講師として呼ばれていた吉原治良に出会い、その講義に強い感銘を受けた。これを機に、山崎は吉原の自宅で開催された絵画教室に友人と通い、指導を受けるようになったという。
 初期の風景を対象にした抽象画にはじまり、キュビズム風の「顔」、金属の光沢を利用した作品群、赤いビニールを木に括って張り巡らせた蚊帳状の立体作品、など、作風に大きな変化を見せるとともに、ブリキ、染料、光、影などといったそれぞれの物質感が連鎖作用を起こすことで存在感を表すユニークな作品を発表し続けた。この絵では「色は渇き、色は叱咤、色次第」との言葉とともに、色彩を追求したのだろう。
 正延正俊「作品」(1964)がある。
Photo_20230127055402  正延正俊(まさのぶ まさとし、明治44年1911~平成7年1995)は、高知県高岡郡須崎町(現在の須崎市)に生まれ、高知県師範学校(現在の高知大学教育学部)専攻科を卒業した、抽象絵画を手がけた画家である。昭和10年(1935)東京に移り、数年後に神戸市に移ったが、この間、高知県内、東京、神戸市内で小学校の図工教員として勤務し、昭和43年(1968)まで教員生活を送った。Photo_20230127055501
 戦前期から具象的な絵画を公募展に出品していたが、昭和23年(1948)ころ神戸で吉原治良に出会い、師事するようになった。この後急速に抽象絵画に傾注するようになり、「油絵具やエナメル塗料で幾層にも塗り重ねられた地肌」の上に「おびただしい数の微細な筆触」を置く、あるいは「糸くずを丸めたような形態や手書きの線が画面全体を覆う」と表現される、独特の作風に達した。正延は言う「ペインティングナイフの下から、筆の裏から、また流れ出る線の集積の間から、チラリと胸に響くなにかがのぞくとき、また思いがけない線が画面のなかで存在を主張し始めるとき、画面空間はにわかに息づいてくる。消え去りやすいものを掘りだし、ムーヴマン(主に絵画や彫刻における動勢や動き)をしてより生気をもたせようとつとめる。画面が次第に胸の中のものとつながりはじめると、仕事が方向づく。偶然の効果と意識的操作をからませつつ、胸の中の響きかけの強さ・深さ・微妙さ・爽やかさ・烈しさ・新鮮さ・・・などの真実さを確かめていく。ここ数年の作品の多くは、こうして形らしい形がなくなり、次第にタッチ、動き、リズムのようなものだけが画面を占めるようになっていった。無意識のうちのこうした取捨選択による制作進行を、画面を、僕の内部に近づけていく方法のひとつだと思っている。」この概念は、フランス現代思想のジル・ドゥルーズたちが主張する「スキゾ」に関係しているのかも知れない。
 吉原通雄「作品」(1965)がある。吉原通雄(よしはら みちお、昭和8年1933~平成8年1996)は、吉原治良の次男であり、日本の現代美術家であった。今回展示されているこの作品は、材料が紙テープで耐久性の問題から、この展示用に再制作されたものである。

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「GUTAI 分化と統合」展 中之島美術館(1)

 中之島美術館の企画展として「GUTAI 分化と統合」展が開催された。私もこれまでに「具体」運動の作品は断片的にしばしば観てきたが、今回はその総集編のようなものであった。
 「具体」(具体美術協会)は、日本における前衛的なアーティスト集団を目指す芸術家たちによって、抽象性を超えて純粋な創造の可能性を追求することを目的に、昭和29年(1954)結成された。物質の特性を変化させるのではなく、物質に生命を付与して、精神と物質との密なる相互作用を図る、そして究極的にはアート自身に語らせしめる、と強調した。「具体」という名称は「我々の精神が自由であることの具体的な証明」という意味だとする。「精神」は各個人に固有であるが、ひとつの大きな全体をも成す。「具体」は、吉原治良というカリスマ指導者によって率いられた若いアーティストたちによって、伝統的なアートの境界に挑み続けた運動であ った。
 結成時のメンバーは機関紙『具体』の創刊号に作品が掲載された17人とされ、吉原を筆頭に、嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、吉原通雄、上前智祐、吉田稔郎、東貞美、船井裕、辻村茂、吉原英雄、山田民子、岡田博、関根美夫、伊勢谷ケイ、岡本一、藤川東一郎である。「具体」という名の提案者は嶋本だったという。やがて「0会」と呼ばれる別のグループを結成していた白髪一雄、村上三郎、金山明、田中敦子らが合流し、続いて元永定正が参加してきた。

具体結成時のメンバーたちの作品
 嶋本昭三「1962-1」(1962)がある。19621
 嶋本昭三(しまもと しょうぞう、昭和3年1928~平成25年2013)は、大阪府生まれ、関西学院大学文学部を卒業した現代美術家であり、京都教育大学名誉教授、宝塚造形芸術大学教授、日本障害者芸術協会会長などを歴任した。
 昭和29年(1954)「具体」という名を提案して、「具体美術協会」の創立メンバーとなった。以降主な具体美術展の全展覧会に出展した。瓶詰した絵具を画面上で炸裂させる大砲絵画パフォーマンスや、ヘリコプターからペイントを落としての絵画制作パフォーマンスなどが有名である。平成10年(1998)アメリカMOCA「戦後の世界展」で、世界の四大アーティストの一人に選ばれた。イタリアでの活躍が目立っていた事もあり海外における嶋本の評価は高い。兵庫県西宮市にアトリエを構えた。
 「絵具の質を歪曲して用いたくない。絵具は、あらゆる絵画のなかで、その質を絵筆に去勢されながらその美しさを保ってきた。絵具を先ず絵筆から解放してやるべきだ。制作にあたって、絵筆は折られ、捨てられなければならない。絵筆に代えてあらゆる道具を動員すべきだ。ペインティングナイフ、素手、ジョーロ、バイブレータ、ソロバン、番傘、素足、大砲など。絵具の「質」を活かし躍動させるものとして。」とは、嶋本の言葉である。
Photo_20230125060401  上前智祐「作品」(1962)がある。
 上前智祐(うえまえ ちゆう、大正9年1920~平成30年2018)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家である。1歳のとき父が亡くなり、舞鶴市の中村京染店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となったという。困難な生活のなか独学で洋画を学んだ後に、昭和28年(1953)吉原治良と出会い、自作を吉原邸に持参するなどして批評を受けた。この後、具体美術協会の結成に参加した。生活としては、以後はクレーンマンとして、川崎重工業と神戸製鋼所の工場で60歳まで勤めた。

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ルートヴィヒ美術館展 京都国立近代美術館(5)

シュルレアリスムから抽象へ ─大戦後のヨーロッパとアメリカ
 マックス・エルンスト(1891~1976)は、シュルレアリスムの代表的作家である。Photo_20230123055001
 ケルン近郊のブリュールに厳格なクリスチァンの聾唖学校の教師かつアマチュア画家であった父の子として生まれた。ボン大学で哲学、心理学、美術史を学んだが、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画に深く感銘を受け、画家を志すようになって、絵画を独学した。やがて「青騎士」のグルーブと接触し、1913年ダダイズムの芸術家であったジャン・アルプに会った。
 1919年頃からアルプとともにケルン・ダダを牽引し、1921年頃からパリに移りシュルレアリスム運動の胎動期から参加した。プリミティヴ美術の熱心なコレクターであり、本作に描かれた頭部の造形にはオセアニアやアフリカ美術の影響がうかがえる。また、エルンストは青年期にジークムント・フロイトやフリードリヒ・ニーチェの著作に親しんでおり、本作のタイトルはニーチェの『悲劇の誕生』に由来している。
 ヴォルスWols(1913~1951)は、20世紀前半に活動したドイツ人芸術家で、おもにフランスで活動した。
 ヴォルス(本名はアルフレート・オットー・ヴォルフガング・シュルツェ)は1913年、裕福なプロテスタント家庭の息子としてベルリンに生まれた。父はワイマール共和国の高級官僚であり、当時の新しい絵画にも理解を示す教養人であった。その息子オットー(ヴォルス)は、幼少時からバイオリンを習い、絵画、写真、音楽などに多彩な才能を示す少年であった。
Photo_20230123055101  しかし1929年父が死去し、翌1930年オットーは高校を退学処分になった。ユダヤ系の級友をかばいすぎたことが原因でとされる。裕福な家庭に育ったヴォルスの生活はこの頃から大きく変わりはじめ、帰るべき故郷をもたないボヘミアンとしての人生が始まった。
 メルセデス・ベンツの工場で働いたり、写真家のスタジオで助手を務めたりした。フランクフルトにあったレオ・フロベニウス(民族学者、1873 - 1938)のアフリカ研究所に入り民族学と人類学を学んだこともあったが、数か月でここを去った。その後、前衛的な美術教育機関であるバウハウスにも入り、画家パウル・クレーの指導を受けたが、ここにも短期間通っただけであった。
 ナチスの支配に嫌気のさしたヴォルスは、ドイツを去る決心をし、バウハウスのラースロー・モホイ=ナジの勧めもあって、1932年パリに移った。パリではマックス・エルンスト、ジョアン・ミロなど、同時代の美術家とも知り合ったが、まだ本格的に絵画制作を始めたわけではなかったらしい。パリで妻となる女性と知り合い、1933年彼女とともに隣国スペインへ旅立った。スペイン滞在中にドイツ軍から召集を受けたが拒否し、政治亡命者となった。バルセロナでは、危険人物として投獄されたこともあった。
 その後フランスに戻ったヴォルスは写真家として生計を立てようとした。1937年パリ万国博覧会では公式フォトグラファーに任命され、その年に写真の個展を開いた。本名のWolfgang Shulzeを略したヴォルス(Wols)という名前を、この時から使い始めた。
 第二次世界大戦が勃発した1939年、ヴォルスは敵性外国人として捕えられ、収容所を転々とさせられた。エクス=アン=プロヴァンスのレ・ミル収容所では、芸術活動が認められていて、エルンストやハンス・ベルメールと一緒となった。この頃から、ヴォルスは本格的に水彩画の制作を始めた。
 終戦後の1945年、ヴォルスはパリで個展を開催し、この頃からようやく美術家として評価されるようになった。ジャン=ポール・サルトルはヴォルスの作品を高く評価し、ヴォルスはサルトルやアントナン・アルトーの作品の挿絵を担当した。1947年にはドルーアン画廊で第2回の個展を開催し、彼の画家としての名声は次第に高まっていった。しかし、常にラム酒の瓶を手放さなかったという彼の身体はアルコール中毒に蝕まれて、健康は次第に悪化していった。1951年食中毒を起こしたことがきっかけで、38歳の若さで死去した。
 ヴォルスは、特定の画派や芸術運動のグループに属したことのない、孤立した存在であったが、近年その作品は第二次大戦後の主要な美術運動の1つであった「アンフォルメル」(フランス語:Art informelは、1940年代半ばから1950年代にかけてフランスを中心としたヨーロッパ各地に現れた、激しい抽象絵画を中心とした非定型の芸術の動向をあらわす言葉)を代表するものと見なされており、アメリカで発展した抽象表現主義の先駆者とする見方もある。
 この展覧会では「タペストリー」(1949)という抽象絵画が展示されている。会場の解説には、「ユーモラスな表現」とあるが、私には苦痛に満ちた心象風景が表現されているようにしか見えなかった。

まとめ
 今回は、現代美術ばかり150点あまりが展示され、個々になかなか難解なものも多く、その意味でも疲れる鑑賞であった。それでも、強く印象に残るものもかなりあって、充実したひとときであった。
 私は、ルネサンス以降、近代美術まで、活動のセンターはフランスであり、先の大戦後にアメリカに移ったと、漠然と思っていた。マクロにはそのようなことかも知れないが、具体的なアクティビティとしては、ドイツ表現主義、新即物主義、キュビスム、ロシア・アヴァンギャルド、バウハウス、シュルレアリスム、そしてポップアートや前衛芸術など、フランスでもアメリカでもないドイツを活動の場とする独自の目覚ましい活動と蓄積があったらしいことを、この展覧会で垣間見ることができたように思った。

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ルートヴィヒ美術館展 京都国立近代美術館(4)

ピカソとその周辺 ─色と形の解放
Photo_20230121070801  パブロ・ピカソは、青年時代の写実的で静かな「青の時代」(1901~1904)、急激に華やかさを得た「バラ色の時代」(1904~1906)、アフリカや古代イベリアの彫刻に興味を注いだ「アフリカ彫刻の時代」(1906~1908)、セザンヌの影響を加えた「初期キュビスムの時代」(1907~1908)、対象の分解が進み抽象絵画のようになった「分析的キュビスムの時代」(1908~1912)、コラージュが導入され、色彩表現も豊かになった「総合的キュビスムの時代」(1912~1921)、ルネサンスやバロックの影響を受けたのか量感ある具象的な作品が増えた「新古典主義の時代」(1917~1925)、シュルレアリスムのグルーブに参加した「シュルレアリスムの時代」(1925~1936)と、途轍もなくダイナミックで豊穣なな変遷を経て、1936年のスペイン内戦勃発から1945年の第二次世界大戦終結まで、ピカソは暗く不穏な雰囲気の作品を数多く描いた。ピカソの有名な「ゲルニカ」(1937)が制作された時期である。
 この時期の作品のひとつに「アーティチョークを持つ女」(1941)がある。肘掛け椅子に座る女が描かれているが、女性の頭部は激しく歪み、左手の爪は威嚇的に尖っていて、その雰囲気はまったく穏やかでない。右手に握られたアーティチョーク(チョウセンアザミ)の茎は、中世の打撃用の武器モルゲンシュテルンを想像させる。空間を覆うグレーは、戦場に立ち込める煙のようだ。直接的な戦争の描写こそないが、悲惨な戦争の暗示で満ちているように見える。
 ピカソの作品としては、戦後から時間が経ち1930年に描かれた「眠る女」も展示されている。晩年の作風は、それまで経てきたスタイルが混合して現れている。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入して、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
Photo_20230121070901  マン・レイ「レイヨグラフ」(1927)がある。
 本作は、印画紙と光源の間に物を置くことにより、カメラを使用せずに図像を写しとるレイヨグラフの技法による。人間の手と鳥、そして鳥の足跡のようなものを写した奇妙な組み合わせは、無意識のイメージを重視したシュルレアリスムと共鳴する。
 アメリカ出身のマン・レイは、ニューヨーク・ダダ運動に参加したのち、1921年にパリに移住してヨーロッパのダダイストやシュルレアリストのグループと交友を深め、写真を中心に作品を発表した。レイヨグラフやソラリゼーションの技法を用いて実験的な写真を手がける傍ら、文筆家や芸術家などの肖像写真やファッション写真を雑誌などで発表した。

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ルートヴィヒ美術館展 京都国立近代美術館(3)

ロシア・アヴァンギャルド ─芸術における革命的革新
 カジミール・マレーヴィチ(1879 ~1935)は、ロシアのアヴァンギャルド芸術家であり芸術理論家である。彼の草分け的絵画や著作は、20世紀の非対象芸術、すなわち抽象芸術の発展に多大な影響を与えた。38_20230119060601
 彼のシュプレマティスムの概念は「至上の純粋な感覚」や精神性に近づくために、自然形態(客観性)の世界や主題からできるだけ遠い表現形式、芸術的な感性で禁欲的で抽象的な表現方法を求めた。マレーヴィッチは早くからさまざまなスタイルに取り組み、印象主義、象徴主義、フォービズムの運動を吸収した。1912年にパリを訪れた後、キュビスムによって彼のスタイルは徐々に単純化され、純粋な幾何学図形とその相互の関係性だけからなる重要な作品を制作した。
 「スプレムス38番《シュプレマティスム コンポジション》」(1916)は青、黒、緑、黄色、オレンジ、ピンクで彩られたいくつもの長方形が描かれている。ごく限られた色彩のみの使用であったが、視覚的にとても鮮やかに描かれ、とても正確に絵画の特徴を表している。きわめてシンプルで抽象的であるために、この作品の解釈はとても難しいものであった。そこでマレーヴィチはこの作品について目的や意味、さらには哲学までも4000語の論文にして発表した。芸術史家たちはこれを元に独自の解釈を広げていった。たとえば解釈の一つとして、小さなスペースに描かれた幾学的でカラフルな物体が無秩序に並べられた様子から、彼の過去の作品と比べるとこれは全く新しい作風になっており、当時の社会情勢からの脱却を望む心情が反映されている、と捉えられている。
 マレーヴィッチは1927年のワルシャワやベルリンにおける個展で西側諸国にも認められるようになったが、ロシアへの帰国後、スターリン新政府により弾圧され絵を描くことを禁じられた。抽象画を放棄するよう強いられ、1935年に56歳で死亡するまでの数年間は具象絵画を描いた。それにもかかわらず、彼の芸術や著作は同時代人に、またアド・ラインハートやミニマリストなど後の抽象画家たちの世代に、大きな影響を与えた。
Photo_20230119060701  アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ロトチェンコ(1891~1956)は、ロシア構成主義の芸術家で、絵画、デザイン、舞台芸術、さらに写真など、幅広い分野に亘って活躍した。
 ロトチェンコは、サンクトペテルブルクで生まれ、タタールスタン共和国のカザンとモスクワでアートを学んだ。1915年、カジミール・マレーヴィッチの影響を受けたと思われる抽象画作品を制作しているが、その後シュプレマティスムによる自律的な純粋芸術を否定し、実生活に役立つ芸術また社会的目的のための芸術を創造しようとしたウラジミール・タトリンに師事して転換し「ロシア構成主義」グループのメンバーとなった。
 このロトチェンコの写真作品「ライカを持つ少女」(1934)が展示されている。構成主義的な斬新な感覚を積極的に持ち込み、特別な技術・技法を用いずに、たとえば、画面を斜めにする、しかも強い線を画面に持ち込み、斜めであることを強調する、人物像などにおける極端な画角とアップを用いる、急な角度で見上げたり見下ろしたりする、といった極めてシンプルな手法で、カメラの機能を最大限利用して作品を構成している。

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ルートヴィヒ美術館展 京都国立近代美術館(2)

ドイツ・モダニズム ─新たな芸術表現を求めて
 ドイツ出身の画家ジョージ・エーレンフリート・グロス(1893~1959)は、20世紀最大の風刺画家と呼ばれている。Photo_20230118060601
 グロスは1893年に労働者の子としてドイツのベルリンに生まれた。7歳で父が亡くなり、暴力的な教師に殴り返して中学校を退学した。しかし16歳からドレスデン・アカデミーで、19歳からベルリンの美術工芸学校で、そして20歳からはフランス・パリのアトリエ・コラロッシでデッサンを学んだ。1914年21歳のとき第一次世界大戦を賛美し、志願して兵役に就いたが重症を負い、また戦争の現実に深く失望して翌年除隊した。ドイツの民族主義・愛国主義を憎むようになり、ベルリンのダダイスト・グループに入り、激しい反戦の絵やドイツの社会的腐敗を非難するドローイングや絵画を制作した。写真家のジョン・ハートフィールドや、オーストリアの画家で写真家のラウル・ハウスマンと共にフォトモンタージュの発明にも取り組んだ。彼が描き出版された絵の多くは、軍隊への侮辱や冒涜の罪で訴追されることもあった。
 ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義運動)の代表的な作家として知られるようになり、戦間期のドイツの政治腐敗や社会不正を 鋭く批評・風刺して非難するドローイングや絵画、版画を制作した。この「新即物主義」とは、20世紀初頭に勃興した「表現主義」とよばれた、主観的ともいえる個人の内面と探求の表現を目指した芸術運動に反対し、社会の中の無名性や匿名性として存在している人間に対し冷徹な視線を注いで、即物的に表現することを目指すものであった。1925年にマンハイム市立美術館で開催された展覧会『ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)』で、この名が定着した。その過酷なまでの人物描写は「魔術的リアリスム」という言葉を生んだ。後に音楽分野にも波及したが、ナチスの台頭とともに退廃芸術として迫害を受けて収束した。
 グロスは風刺画や政治的人物の象徴的な表現に、未来派やキュビスムの抽象性、大衆的なイラストレーションの美学を融合させた。
 この時期の1928年に描いた「エドゥアルト・プリーチュ博士の肖像」が展示されている。
 グロスは1932年に ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで教えるためにアメリカを訪れ、ヒトラーが首相になる前にドイツから脱出し1933年にアメリカに移住した。第一次、第二次世界大戦の惨状を目の当たりにしたグロスは意気消沈し、その後の数十年間は純粋な風景画や静物画などソフトな作風へと移行したが、絶望的で深く厭世的な作品も多く描いている。1959年ドイツ・ベルリンに帰国後、間もなく65歳で亡くなった。
Photo_20230118060701  ワシリー・カンディンスキー(1866~1944)は、ロシア出身の画家・美術理論家である。美術史においては、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチと共に、純粋抽象絵画の理論の創始者として知られ、抽象芸術の理論を述べた「芸術における精神的なもの」が代表的著作である。
 1866年にモスクワで生まれ、オデッサで幼少期を過ごし、グレゴフ・オデッサ美術大学で美術を学んだ。卒業後はモスクワ大学に入学し、美術ではなく法律と経済を学び、タルトゥ大学にてローマ法に関する教授職に就いたが、その教職の道を捨て、30歳を過ぎてから絵画を本格的に学び始めた。1896年にドイツに渡り、ミュンヘンのアントン・アズベの私立学校、さらにミュンヘン美術学校でも学んだ。1911年には、フランツ・マルクと共に、ドイツの前衛芸術運動グループ「青騎士」を結成して活躍を始めた。
 カンディスキーは、内面に働きかけるような色彩を重視し、1910年から1913年の間に制作された「コンポジション」シリーズは、カンディスキーの代表的な精神的表現となっている。これらの表現は、ロシア象徴派の神秘的・包括的な世界観や、彼が関心を持っていた人智学からの影響によるところが大きいとされる。
 第一次世界大戦が勃発すると、カンディスキーは1914年モスクワに戻った。
 1920年の作品「白いストローク」が展示されている。
レーニンの時代には、「革命的」な前衛芸術派と認められ、カンディスキーも政治委員を務めたが、ヨシフ・スターリンが台頭してくると、モスクワ共産主義の中でカンディスキーの抽象美術理論は疎んじられるようになってしまった。スターリンが共産党書記長に就任後の1921年、カンディスキーはドイツへ戻り、ナチス政権に閉鎖されるまでバウハウスの美術学校で教鞭をとった。その後フランスへ移住し、1939年にフランス市民権を獲得し、最も重要な前衛美術家の一人としての地位を確立した。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去した。
 このコーナーでは、20世紀初頭に表現主義集団「ブリュッケ」を設立して活動した、ドイツ・ザクセン出身の画家ユーリヒ・ヘッケルの「森の中の情景」(1913)も展示されている。ヨーロッパというよりアフリカなど南の国を思わせる緑と赤の原色の森のなかに、裸体の女性とそれをみつめるやはり裸体の男性を原始的なトーンで描いている。これはナチス政権時、退廃芸術として排斥された作品の例である。Photo_20230118060702
 エルンスト・バルラハ Ernst Barlach(1870~1938)は20世紀ドイツの表現主義を代表する彫刻家、画家、劇作家である。バルラハも、当初賛同していた第一次世界大戦において自身が戦争を体験することで転向し、以後は反戦的、厭戦的な作品を多く残すようになった芸術家であった。しかし、そのためにナチスによって退廃芸術の烙印を押され、多くの作品が没収、あるいは破壊された。
 バルラハは、1870年ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のヴェーデルに、医師の長男として生まれたが、中学生のとき父がなくなった。18歳からはハンブルクの職業学校に通ったが、まもなく美術彫刻の才能を認められ、1891年から1895年までドレスデン王立美術学校で彫刻の勉強をした。さらに一年間フランスに渡り、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだが、ドイツの芸術家がフランスのスタイルを模倣しがちなことに対して批判精神をもつようになった。
 卒業後、バルラハは生まれ故郷のヴェーデルに戻り、戯曲の執筆を試みながら、ハンブルクの製陶工房でアール・ヌーヴォースタイルの彫刻家として働いた。
 1910年ころまでに、独自の表現主義のスタイルを発展させ、初期ゴシック・アート形式の、深い襞のついた木像や銅像も制作しはじめた。
第一次世界大戦終結後、彼の名声は高まり、多くの賞を受賞した。1919年にはプロイセン芸術アカデミー、1925にはミュンヘン芸術アカデミーの一員に選ばれたが、学位や教授の職は辞退した。
1928年以降もバルラハは自身の戦争体験に基づいた反戦的な作品を作り続けていたが、ナチズムの台頭により作品は様々な批判の対象となった。
 そのころの作品のひとつが「うずくまる老女」(1933)である。
 バルラハの代表作のひとつ「マクデブルク戦没者記念碑 Magdeburger Ehrenmal」は、英雄的なドイツ兵が国家の栄光のために戦った場面を期待されてマクデブルク市から制作を依頼されたが、バルラハはフランス兵、ドイツ兵、ロシア兵が戦争による恐怖と痛みに絶望の表情を顕わす作品を作った。当然ながらこの作品は戦争支持者による激しい非難を浴びられ、結局1934年に撤去された。このような攻撃はバルラハが死去するまで続いた。
 彼は彫刻家として最もよく知られているが、絵画、陶芸、版画、戯曲、小説といった幅広い分野で作品を残している。初期のアール・ヌーヴォースタイルの絵画は日本の浮世絵の影響を受けているという。

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ルートヴィヒ美術館展 京都国立近代美術館(1)

 ルートヴィヒ美術館 Museum Ludwig はドイツ第4の都市であり、ローマ時代からの交通の要衝であり、ケルン大聖堂など文化の蓄積豊かな古都であるケルンにある、主に近代美術作品を所蔵する美術館である。対象はポップアート、抽象絵画、シュルレアリスムに及び、ヨーロッパで最大級のパブロ・ピカソの収蔵点数を持つ美術館のひとつとして知られる。またアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインの絵画も多数所蔵している。

ヨーゼフ・ハウプリヒとルートヴィヒ夫妻
 この美術館はケルン市が運営するが、収蔵品は民間の市民コレクターたちの寄贈品を軸に形成されてきた。Photo_20230117061401
 ケルンで弁護士として活動していたヨーゼフ・ハウプリヒ博士は、美術品の収集を嗜み、1923年ころから表現主義や新即物主義などのドイツ近代美術を重点にコレクションを進めた。しかし1933年政権を掌握したヒットラー率いるナチス党は、1937年に「退廃芸術展」を開催して貴重な近代芸術や抽象芸術を「退廃芸術」と一方的に決めつけて、ドイツ全土の公立美術館から没収し排斥した。ハウプリヒは、第二次世界大戦中においても、没収された作品をナチスの御用画商から購入するなど、細々と蒐集を続けた。大戦がようやく終わった1946年に、戦火から守り抜いた貴重なコレクションをケルン市に寄贈した。それらの作品群は、まず旧ケルン大学に預けられ、公開された。
Photo_20230117061501  それを観たペーター・ルートヴィヒは深く感銘し、後の彼の美術館支援活動につながった。ハウプリヒのコレクションは、その後ドイツ国内のみならずヨーロッパ各地を巡回し、ドイツとヨーロッパの戦後復興をおおいに励ました。
 ペーター・ルートヴィヒとその妻イレーネ・モンハイムは、ともにマインツ大学で美術を学び、ペーターはピカソの研究で1950年博士号を取得した。モンハイム家の事業を受け継いだペーターは、実業家として成功し、夫妻で早くから美術作品の収集に取り組み、「世界芸術」という構想で、古代・中世の美術から民族芸術や現代美術にいたるまで、幅広く収集活動を推進した。
 1960年代からはポップアートに注力し、その成果を「1960年代の美術展」(1969)としてケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館で公開すると、大きな話題を呼んだ。ルートヴィヒ夫妻は、この展覧会への反響の大きさにコレクターとしての社会的役割を覚醒した。ペーターは「現代美術は、まだその評価が定着していないので、公的資金で購入することが困難であることは理解できる。われわれ民間のコレクターの使命のひとつは、このギャップを埋めることにある」と発言している。夫妻は、20世紀の近代美術に特化した新しい美術館の創設を条件に、1976年自分のコレクションをケルン市に寄贈した。公立美術館への協力を介してコレクションを社会に還元したことが、ルートヴィヒ夫妻の美術への貢献のユニークな点であった。

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正倉院展 奈良国立博物館(4)

正倉院の宝物など
 今回の展示品は、ほとんどが8世紀の作品だと表示されている。つまり奈良時代の最新流行、あるいは当時の最先端の芸術・工芸品が正倉院に保管されてきたことになるのだろう。Photo_20230109054801
 そのなかで、今回展示されていた宝物の何点かを例として取り上げる。
 「白石鎮子 寅・卯(はくせきのちんすとら・う)」は、大理石のレリーフである。白石鎮子は、横35センチメートル、縦20センチメートル余の比較的小型の大理石板に、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神(しじん)や、十二支の動物たちが一枚につき2つずつ絡まり合う様子を表したもので、この場合は十二支の虎と卯(うさぎ)が登場する。2体の動物が絡まる構図は、遊牧民族のスキタイ文化圏で好まれた動物闘争文様に淵源するとされるが、このように中国由来の四神や十二支が登場する点に東西の文化交流の様子がうかがえる。鎮子というのは、元来は文鎮のごとくなんらかの重石だったのが、ここでは特段重石としての用途ではないようだ。明治時代の宝物整理で『国家珍宝帳』記載の「白石鎮子」に比定されたが、現在では別物と考えられている。用途も不明であるという。
Photo_20230109054802  「鳥獣花背円鏡(ちょうじゅうかはいのえんきょう)」がある。直径30センチメートルほどの青銅製の円鏡である。この場合、青銅といっても銀色味がより強く硬質の、錫の含量が多い、いわゆる白銅であるらしい。様式は海獣葡萄鏡といい、鏡の背面に鳥獣たちと蒲萄唐草文様がぎっしりレリーフで描きこまれている。中央には、鹿に噛みつく狻猊(さんげい: 獅子に似た霊獣)をあらわす鈕(ひもを通す孔のためのふくらみ)を配し、その周辺に狻猊の親子がたわむれる様子を描く。その外周には、狻猊・孔雀・鹿・鶏・翼をもつ馬・鳳凰・鴛鴦(おしどり)などを、2匹一組のつがいとして駆け巡らせている。これは、おそらく中国・唐で制作されたものだろうという。これと同型の鏡が、千葉県の香取神宮に伝来していて国宝に指定されているそうだ。あまり大きくない鏡の背面にとても多くの霊獣たちが細かく描きこまれているため、実物をガラスケース越しに眺めるかぎりは、詳細な絵柄がよくわからない。こんな場合は、壁に示されている拡大写真に頼らなければならない。
Photo_20230109054901  「象木臈纈屏風(ぞうきろうけちのびょうぶ)」というのがある。臈纈というのは、いわゆるろうけつ染めの手法で、文様部分を蠟で防染加工した後に染料で重ね染めして。さらに熱で蠟を除去して文様を染め抜く技法である。ここに描かれている象の脚の表現に注目した学者が、この脚の表現は、象の実物をよく観察した者にしか描けないと判定して、この作者はきっと実物の像を間近に観察し得た人物で、したがって当時の日本のヒトではない、としている。『国家珍宝帳』に記載される「臈纈屏風十畳(各六扇)」のうちのひとつである。
 「金銀平脱皮箱(きんぎんへいだつのかわばこ)」がある。33センチメートル×27センチメートルで高さ8.6センチメートルの小箱である。蓋表は中央に鳳凰、そのまわりに鳥と花枝を組み合わせて旋回するように配している。動物の皮の上に漆を何層にも塗りこめて箱を成形したものである。漆を塗り重ねるとき、文様の形に切り取った金銀の薄板を貼り付け、板に線状の彫りこみを加えて図柄を表現し、その上に漆を塗りこめたあと、金銀の部分を剥いで図柄を出す「平脱(へいだつ)」の技法を用いている。いわば貴金属の象嵌のようなものだと思う。銀は黒くなっているが、金の部分はまだ光沢が残っていて美しい。
Photo_20230109054902   「錦繍綾絁等雑張(にしきしゅうあやあしぎぬなどざっちょう)」という端切れがある。宝物には、衣服をはじめとするさまざまな布製の物品があるが、金属や紙、そして絵などと比較して経時的変化を受け易く、かつての華やかさ、美しさをいまに残すものは少ない。そんななかで、この横25センチメートル、縦20センチメートルほどのごくちいさな布切れではあるが、この布はかなり保存状況が優れたものだと言えるだろう。
 東大寺屛風にかつて貼り交ぜられていた染織品の一部である。江戸時代末期に近い天保4年(1833)、正倉院宝庫御開帳のとき、古裂の断片を貼り交ぜた屏風がつくられ、それが後に東大寺屛風と呼ばれるようになった。これは正倉院の染織品に対する初の本格的な整理として重要な意義があった。しかしその後東大寺屛風は虫損が進んだため、昭和26年(1951)から3年を費やして解体され、屏風下地と染織品とが別々に保存されるようになったのであった。
Photo_20230109055001  「続々修正倉院古文書(部分) 二部大般若経用度申請解案 762書写」がある。奈良時代には、官営写経所があり、天平宝字6年(762)『大般若経』1部600巻を2セット、計1200巻を書写するプロジェクトが進められた。この写真は、そのプロジェクトの予算書の一部にあたる。紙や墨・筆など写経に直接必要な物品の他に、作業着のための絹、写経従事者への給与や食糧、さらに刀子(とうす)や辛櫃(からびつ)などの諸物品にいたるまで、数量・金額などが記されている。ここではすべて楷書であり、くずし字はないので、漢字そのものの読解さえできれば翻刻は難しくない。きれいな文字史料である。

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 今回の正倉院展の出展物は、全体に見て寸法のちいさいものが多かったように思った。会場は人数制限があったこともあり、そんなに混雑して見にくいというわけではなかったが、対象物が総じて小さかったので、細かい部分が良くわからず、壁に張られた拡大写真を見るというケースが多かった。
 私個人としては、日本の近世以降の方に興味の中心があり、古代については知識も乏しく、鑑賞能力も乏しいが、私なりには宝物鑑賞ができたと思う。

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正倉院展 奈良国立博物館(3)

護国仏教荘厳の宝物
 奈良時代は仏教が国家鎮護の役割を担い、国家をあげて法会が盛んに営まれていた。「粉地彩絵(ふんじさいえ)の几」(献物をのせる台)の脚の鮮やかな彩色文様や、「金銅の幡(ばん)」(金銅製の旗)に見る見事な透彫(すかしぼり)文様もまた、法会のきらびやかさを引き立たる。このほか、空海が後の平安初期に本格的に密教を伝える以前のこの時期にもちいられた、儀式の法具「鉄三鈷(てつのさんこ)」(古密教の法具)も展示されている。Photo_20230107055001
 「伎楽面 力士」(楽舞の面)は、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会で使用されたことが墨書に記録されている品で、表面に施された鮮烈な赤が華やかな法会の情景を浮かび上がらせる。「伎楽面 力士」は、伎楽に用いる仮面である。髻(もとどり)を結い、口を閉じて下唇をかみしめる勇猛な力士の表情を表している。力士は、伎楽に登場する唯一の女性で蛮人の崑崙に居寄られる呉女(ごじょ)を助ける、力持ちの正義の味方という役回りらしい。桐の一材から彫り出し、表面には彩色を施し、髭には猪毛を植毛しているという。一見しただけでもとても精緻な木彫作品であることがわかる。ヘルメットと面とが一体化したような仮面であり、頭上から顔面にかけて覆う。仮面の裏側が、下に置かれた鏡で見ることができるように展示されていて、天平勝宝4年(752)4月の大仏開眼会のために将李魚成(しょうりのうおなり)という人物が制作したと書かれている。
Photo_20230107055002  「粉地彩絵几 附 白橡綾几褥(ふんじさいえのき つけたり しろつるばみあやのきじょく)」という、仏前に献物を供えるための台がある。ほぼ40センチメートル角のヒノキの一枚板で作られた天板に、花葉形に彫出された華足(けそく)がつけられている。観た感じでは、天板もその側面の飾りも質素な感じで高貴には見えないが、華足は小さいながらもとても目を引く印象の深い工芸品である。陶器に非常にデリケートな色彩のグラデーションが導入されていて、診ていて飽きない魅力がある。Photo_20230107055101
 「金銅幡(こんどうのばん)」という透かし彫り金属製の旗がある。長さ170センチメートルほどもある。幡は、仏教の法会において掲げられる旗で、仏堂の内装の装飾具としても使用される。正倉院に伝わったものも含めて、多くは織物製であるが、この展示品は金属で造られ、法隆寺献納宝物の灌頂幡(かんじょうばん)とともに、古代の金銅幡を代表する貴重な遺品である。花唐草、亀甲、花卉、双鳥など種々の文様が透かし彫りされ、その透かし目には多くの鈴がつけられている。さすがに金箔が剥がれ落ちてきらびやかさは減少しているが、法会や仏堂を華やかに演出したことは想像できる。
Photo_20230107055102  鉄三鈷(てつのさんこ)がある。長さ30センチメートルほどの鍛造の鉄製の三鈷であり、しかも平面的な配置の三本の鈷からなっている。把(つか)の両側に銛(もり)形をあらわし、三本の鈷(古代インドの護身用兵器)をもつことから三鈷杵(さんこしょ)であることがわかる。中鈷・脇鈷ともに鋭い逆刺(さかし)をもち、さらに中鈷には把との間に節をつけるなど、古代インドの武器を源流とする金剛杵(こんごうしょ)の様式が強く現れている。このような形の三鈷杵は、空海による密教請来より以前の古密教(雑密:ぞうみつとも呼ばれる)の儀式で用いられていたと考えられている。
 興味深いのは、この三鈷杵の形状を精密にくりぬいた、きっちり収納する木製の収納箱(素木三鈷箱:しらきさんこのはこ)が附属していて、あわせて展示されている。

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正倉院展 奈良国立博物館(2)

称徳天皇ゆかりの大型銀壺
Photo_20230105063501  聖武天皇と光明皇后の娘たる称徳天皇にまつわる「銀壺」(大型の銀製の壺)がある。称徳天皇が東大寺に行幸したときの大仏への献納品と考えられている。胴径60センチメートル余という破格の大きさの壺は、上に大きな口が開き、底が丸くすぼまって鉄鉢(てっぱつ)形を成し、別造りの高台(こうだい)に載せられている。胴の表面には、騎馬人物たちが山野で鹿、羊、猪など鳥獣を追うダイナミックな様子が細かな線刻文様で刻み込まれているが、薄くて繊細な文様はガラスケースの外から覗いても判別しがたく、壁に貼られた拡大写真に頼ることになる。天平神護3年(767)2月4日の年紀が刻まれていて『続日本紀』によれば、この日に称徳天皇が東大寺に行幸されたとあるので、この銀壺はこの日に献納されたものと推測されている。正倉院にはもうひとつ、この品とほぼ同じ大きさで同じ形のものがあり、文様もよく似ていることから、一対で献納されたものとみられている。


腰飾りの飾り具
 古代の貴人たちが、腰帯から下げたり、衣服に縫い付けたりして用いたと考えられる飾り具がある。現代のブローチのようなものか。「彩絵の水鳥形(さいえのみずどりがた)」や「犀角の魚形」は、わずか数センチのごく小さな宝物である。Photo_20230105063502
 「彩絵の水鳥形」は、長さ3センチメートル足らず、厚さ2ミリメートルほどのごくちいさな工芸品である。ヒノキの薄板を、飛翔する鳥の形に切り出し、精緻に色彩を施して一対の作品としている。名前にあるとおり、かつては水鳥を現わしたものと考えられていた。しかし現在は、頭の冠羽や翼の白黒の横斑に特徴のあるヤツガシラと同定されている。こんなに小さくて薄いのに、背に緑色、腹に白色、嘴に赤色を丁寧に配し、冠羽・翼・尾にはカケスの初列雨覆(しょれつあまおおい)という羽毛を貼り付けて横斑を表現し、その上から金箔の小片を蒔くという念の入れ方である。衣服の飾りに用いられたと考えられている。
 「犀角の魚形」も、テレビの紹介番組では画面大きく表示されたので、ある程度寸法のある造形物なのではないかと勝手に推測していたが、実物は数センチメートルもないほどのごくちいさなものであった。もちろんちいさいなりに精緻に技術と工夫を凝らして制作してあるので、美しくてなかなか存在感はあるのだが、こんなにちいさな宝物だとは思わなかったというのが、正直な感覚である。

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