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美術

海北友松展 京都国立博物館 (4)

龍の連作と集大成の月下渓流図
  展示の最終付近に一括して現れるのが「雲龍図」である。北野天満宮、建仁寺塔頭霊洞院、勧修寺など、さらに遠く海外にまで買い取られて行った「雲龍図」は、海北友松のひとつの代表的な作品群なのだろう。たしかにいずれも迫力満点で充実した名作尽くしである。しばし黙して眺め入る。
 

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  そして、最後の展示作品が「月下渓流図屏風」である。 

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  この作品は、1958年からアメリカ・カンザスシティーの「ネルソン・アトキンズ美術館」に所蔵されているものを出張展示しているものである。高さ1.7メートル、幅3.5メートルの屏風2双構成となっている。早春の夜明けとおぼろ月の優しい光が、もやに煙る渓谷を照らす景観が情感豊かに描写されていて、光と影が交錯し、やさしく暖かく、とても心地よい日本の自然が見事に表現されている。海北友松の集大成との説明がある。
  会場はかなり混雑していて、自由に自分のペースで鑑賞することが少しむずかしい状況だったが、全部で76点、しかもすべてがかなりの大作で名作ぞろいであり、3時間弱ほどの疲労を感じながらも緊張を継続できる充実した鑑賞であった。

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海北友松展 京都国立博物館 (3)

円熟の全盛期
  60歳から70歳といえば、とくにこの安土桃山から江戸時代初期のころを考えると、すっかり老境のはずだが、この海北友松という人はなんとこのころ絶頂期を迎えたのである。
  画風に余裕というか、遊びというか、独自のおおらかさと優しさが出てくる。

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  「野馬図屏風」という作品がある。ここで描かれる馬は、速筆で一筆書きのように簡潔に、かつユーモラスでかわいらしく描いている。これを描いている友松の顔が微笑んでいるように思える。  

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  「浜松図屏風」という作品がある。ここでは、まるで俵屋宗達や尾形光琳をずっと先駆けるかのような、時代を超越してモダンな感覚あふれる絵である。金色、緑色、そして茶色のたった3色で大きな画面を埋め、その大胆さ、単純さ、自由さ、そして大きさは観るものを圧倒する。
Photo_3  「網干図屏風」となると、さらにおもしろい。このように漁場の干し網を主題に絵を描くというのは、当時は友松の他には決していなかったろう。しかもここでは、網の干し具合、つまりまだ濡れている網、かなり乾いた網、すっかり渇ききった網のそれぞれを、緻密に見事に描き分けている。題材や構図が大胆なうえに、技術が冴えわたっている。どうだ、よく見ろ、と友松がつぶやくのが聞こえるような感じがする。
  「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」は、とても美しい絵である。友松の技巧のすべてが現れているように見える。

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海北友松展 京都国立博物館 (2)

建仁寺での飛躍
  友松の作品が多く残されている寺院として、京都建仁寺がある。かねて友松と交友があった安国寺恵瓊は、慶長4年(1599)前身の安国寺方丈を建仁寺本坊方丈として移設するにあたり、障壁画をすべて新調することとし、その制作を海北友松に依頼した。こうした経緯で建仁寺の方丈には友松の大作が一挙に採用された。さらに大中院・霊洞院・禅居院の3塔頭にも多数の友松の作品が取り入れられ、あたかも海北友松の博物館のような様相となった。
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  建仁寺方丈障壁画のひとつに「竹林七賢図」がある。描かれた七賢人の身の丈はもっとも大きなものでは1.3メートルを超え、安土桃山時代の人物画のなかでも最大級の大きさである。賢人の飄々とした表情が良い。
 塔頭の禅居院には「松に叭々鳥図」がある。鋭いスピード感で上に鳥2羽と枝が描かれ、狩野派では見られない大胆な余白を活かしたひきしまった絵である。力強さと落ち着いた情趣を兼ね備えた味わい深い絵となっている。

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  「花鳥図」では、ふつう繊細に毛並まで絵がきこむことが多い孔雀を、敢えて荒々しい筆致でスピード感溢れる表現とし、躍動感を与えている。「山水図」では、草体画という手法で書道の草書のように筆数を省いて墨のにじみや墨自体の重量感を活かす表現を用いている。また一方で「琴棋書画図」では真体画という書道の楷書のような細部まできっちり描き込む手法の冴えも見せている。
  このころになると、狩野派の影響はすっかり退き、海北友松の独自の世界が満開となってくるようだ。

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海北友松展 京都国立博物館 (1)

海北友松の出自と交友関係
  NHKテレビ番組の「日用美術館」で海北友松(かいほゆうしょう)の紹介を観て、ぜひ観たいと思っていた。
  会場に出かけてみると、会期末が近づいていたためか、平日の午後というのに入場者は多く、入場制限で20分待たされた。
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  海北友松は、天文2年(1533) 近江湖北に海北綱親の子として生れた。海北家は源氏の系譜を主張する武家で、父綱親は浅井長政の家臣であった。天文4年に父が戦死し、幼い友松は寺院に預けられた。禅門に入り、東福寺で修行するとともに、幼いころから画才を認められて、狩野派に絵画を学び、狩野派の一員となった。
 天正元年(1573) 浅井長政が織田信長に亡ぼされ、兄たちはすべて討ち死にしたが、友松は寺にいたおかげで難を逃れることができた。友松は武門に未練を残し還俗したいとしたが、秀吉に画才を認められたこともあり、武門を去って画業に専念することになった。

Photo_2 友松は、武芸にも秀でたうえに、絵のみならず歌や茶道にも嗜みが深かった。そうしたこともあり、当時一流の文化人でもあった細川幽斎とは交流が深く、幽斎の縁から明智光秀重臣の斉藤利光と生涯の親友となった。公家の中院通勝、八条宮智仁親王、大名の亀井茲矩、東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊など、その芸術を通じての交友関係はきわめて広かった。
 幼少期にはじまる狩野家とのかかわりは深く長く、絵の師でもあった狩野永徳が亡くなってから、友松はようやく狩野家を離れ、独自の境地を開いていくことになった。すでに年齢は60歳に近づいていた。まだ狩野派のなかにいたころ、友松が50歳代のころの作品として「柏に猿図」がある。背景の草木は狩野派的な表現だが、猿を没骨法で柔らかく優しく表現するところに友松の特徴がある。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (4)

バベルの塔
  1569年、ブリューゲルは「バベルの塔」という作品を発表した。ブリューゲルは同じテーマで3つの作品を創作したと伝える。そのうち最初のものは残されていないが、あとのふたつはそれぞれ異なる美術館に収蔵されている。そのうちのひとつが今回展示されているボイマンス美術館所蔵のものである。

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   約60cm×75cmの板に油彩で描いた作品で、現代のアートに比べるとむしろ小型の作品にみえる。しかし近づいてじっくり眺めると、その描き込みの詳細で繊細で緻密なことに驚嘆する。さほど大きくない画面の下方に、どっしりした地面と海面が描かれ、上方には地平線と水平線を超えて無限にひろがる空が描かれる。その画面の中央にらせん状に登り詰めるレンガ造りの巨大な建造物があり、その建造物の途中に雲がかかっていて、この建造物の尋常ならざる壮大さを表現する。ここまではまだ見るものにとっても想定内と言えるだろう。
 しかし、近づいてまず地面をみると、古代ではないが16世紀ころらしい村の農耕の様子が丁寧に描かれ、耕作に励む農夫の姿もある。ヒトは大きさがわずかに2~3ミリ程度だと思うが、丁寧かつ正確に描かれている。

  建物は建設の途中で、画面左手には、レンガが地上からカゴに載せられ、ロープでつり上げられ、それを受け取る上層階の作業員がいる。その横には、漆喰を同じようにつり上げる様子が描かれ、一部その漆喰がぶちまけられたのか、体中まっしろに染まってしまった作業員もいる。画面中央近い建造物の正面付近には、ステンドグラスがはめられた教会のような部屋があり、そこに向かって大勢の人たちが列をつくって入場しようとしている。
  画面右手下方には港の桟橋があり、多数の船が行き交っている。それらのすべての要素に、多数の働くひとびとの様子が、ごく小さくではあるが、とても丁寧かつ精緻に描かれている。展示会場には、この絵画作品の近くに、この絵を10倍程度に拡大した写真の一部が展示されているが、いかに細かく、小さく、しかし正確・精緻に細部が描かれているのかがよくわかる。
  これだけ微細で詳細で緻密な絵画を創作した、その動機・支えたエネルギーの要因はなんだったのだろう、と思ってしまう。
  たしかに造形芸術としてこの絵が価値があるだろうし、作品を創作した技量も驚嘆すべきものがあるが、それ以上にこのような大変な作品をブリューゲルに造らしめたものは何であったのかと考えてしまう。その厖大な情熱の源は、宗教なのか、人間の行いへの思いなのか、人間の運命への感慨なのか、絵画技術の極限への挑戦なのか。
  展覧会場に来るまでは、私はさほど高い関心もなかったが、こうしてブリューゲルの作品を実際に目前に眺めてみて、これまで経験した美術作品に対する感銘と少しちがうタイプの強い感銘を経験した。
 今年は少し前に、神戸市立博物館で天正遣欧少年使節に関わるヨーロッパの美術を紹介した「遙かなるルネサンス」という展覧会を鑑賞した。ほぼ同じ時期なので、私個人としてはその意味でも感慨があった。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (3)

ピーテル・ブリューゲルの登場
  おそらく1525-30年のころ、アントワープ近郊あるいはブレダ近くのブリューゲルという街で、ピーテル・ブリューゲルは誕生したらしい。伝記学者によると、彼は農民の出身というより、人文主義者たちと交流があった都市民の知識階層の出自であるという。
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  1551年にアントワープの画家組合=ギルドであった聖ルカ組合にピーテル・ブリューゲルという名前で登録されているのが、今に残る彼の軌跡の初出である。宮廷画家であったピーテル・クック・ファン・アールストやアントワープの版画業者ヒエロニムス・コックのもとで修行を積み、数年間イタリアに渡ってイタリア・ルネサンスの息吹を学んだという。
 1563年、ブリューゲルはピーテル・クックの娘と結婚し、ブリュセルに移り住んだ。彼の主な作品は、このブリュセルで創作されることになる。

Photo_2  「大きな魚は小さな魚を食う」(1572年ころ) という作品がある。これはいわゆる弱肉強食を表現した寓意画である。ヒエロニムス・ボスが始めた、寓意的で部分的にはきわめて緻密で詳細な表現が随所に見られる。
  彼は版画もたくさん創作している。ほとんどの作品では、下絵を創作して専門の版画業者に版木をつくらせ、版画として販売したのだが、残るうちで唯一、版画専門家に頼らずすべて自分で彫版したという作品が「野うさぎ狩り」(1569年)である。エッチングの作品で、こまかい線のそれぞれに周到な設計が感じられる繊細で緻密な版画である。

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16世紀ネーデルラントの芸術 (2)

奇想の画家ヒエロニムス・ボス
 オランダ南部にスヘルトーヘンボスという中世から交易・芸術で繁栄した街があった。宗教革命ののちカソリック教区に指定されたが,八十年戦争(オランダ独立戦争)を経て1629年に北部七州が主導権を握るオランダの一部となり、さらに1792年にはフランス革命軍の侵攻を受けフランス帝国の支配下になった。ネーデルラント連合王国にもどったのは1815年のことである。
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  スヘルトーヘンボスという街はそのように複雑な歴史をもつ地域だが、まだカソリック教区であったころ、1450年ころに父・兄・祖父・叔父たちが画家という一家にヒエロニムス・ボスは生れた。父のもとで画家としての基礎的な素養を積み、富裕な家の娘と結婚したことで彼は王侯貴族からの注文を得るチャンスを得たという。
  聖書にもとづく宗教絵画をベースにしつつ、現代絵画に通じるような奇抜なシュールレアリズム的な表現や、皮肉・批評を導入して人気画家となり、多数の作品を創作したと伝える。しかし16世紀宗教改革の偶像破壊運動によりその多数が失われ、現在はわずかに30点に満たない作品のみが残っているという。
  「放浪者(行商人)」(1500年ころ)という作品がある。70×70cmほどの、さほど大きな作品ではないが、大きな構図のなかに、部分的にきわめて精緻で詳細な表現を取り入れている。猫皮の袋の販売や金物修理などを営む貧しい行商人が、あやしい娼館から出てきて、なにやら後ろ髪を惹かれるような躊躇の表情を示している。彼を木の枝にとまる梟が冷たく見つめている。梟は悪徳と智恵の象徴であるという。

Photo_2  もうひとつ「聖クリストフォロス」(1500年ころ)という作品がある。クリストフォロスは、もとはレプロブスという名のローマの青年であった。ある日小さな男の子がレプロブスに向かって「私を背負って川を渡してほしい」と頼んだ。子供が小さかったので引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れそうになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは、丁重にその名前をたずねると、男の子は自らがイエス・キリストであることを明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのであった。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた、という伝説にもとづいた絵である。
  いずれも非常に小さく精緻な説明的な絵を、主題の周辺にたくさん丁寧に描きこむのが特徴で、この手法が後のブリューゲルなどに伝えられ、発展することになった。
  ヒエロニムス・ボスには、この他にも「樹木人間」(1600年ころ)という版画が展示されていた。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (1)

  私はこれまでルネセンス期の美術には特段の関心がなかったが、やはりブリューゲルという存在は気になるということで、今回暑いなかを中之島の国立国際美術館に出かけた。
会場は意外に人出が多く、さほどのんびりと鑑賞できる雰囲気でもなかった。私の知識や推測を超えて、ブリューゲルは非常に人気が高いようだ。


16世紀ネーデルラントの芸術
  今回の展覧会は、16世紀のネーデルラントの美術である。ネーデルラントとは「低い地」という意味で、ちょうどプロテスタントのオランダとカソリックのベルギーの領域に一致する。

Photo  展示冒頭に「四大ラテン教父 聖グレゴリウス、聖ヒエロニムス、聖アンプロシウス、聖アウグスティヌス」の小型の木彫刻がある。この作品はアルント・ファン・ズヴォレと推定されているものの、この時期の彫刻の多くは、作者が記銘・同定されていないことと、近代に一連の彫刻あるいはひと繋がりであった作品が、適当に切り離されバラバラに離散されて売却されたりしたため、業界の評価が高くならなかったという。しかし作品を直接眺めてみると、高さ70cmほどの小さな木彫ながら顔の表情の表現も丁寧で、性格や人格がわかるような気がする。服装の優雅なひだも美しい。Photo_3
  現在のオランダ西部地域は、かつてホラント地方と呼ばれ、アムステルダム・ロッテルダム・ハーグなど通商・経済の主要地がある地域である。16世紀に、ルカス・ファン・レイデンというレイデン生れの画家・彫刻家がいた。宗教画家であるが、すでに遠くイタリアのルネサンスの影響なのか、世俗的な興味深い作品がある。「ヨセフの衣服を見せるポテパルの妻」(1553年)という作品がある。召使のヨセフに不倫を迫って拒絶され、逆恨みしてヨセフが襲ってきた、とヨセフの衣服を示して夫に訴える妻を描く。こうなると日本の歌舞伎でいう「世話物」の世界である。
Photo_4  もう少し南、現在のベルギー南部に生れたヨアキム・パティニールという画家がいた。北方ルネサンス風景画の先駆者とされるひとで、今回は「ソドムとゴモラの滅亡がある風景」(1520年ころ)という作品が展示されている。神の教えを蔑ろにして奔放で紊乱な性習慣を生きた人びとが住む町が、神の怒りで滅亡するという旧約聖書「創世記」の神話だが、ここでは主人公である罪を犯した人びとが画面右下隅に小さく描かれるのみで、画面の大部分を風景が占めている。宗教画から風景画へ脱皮した絵画であるといわれている。

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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (4)

ヴェネツィア
  ローマで2カ月余りを過ごした遣欧少年使節は、1585年6月3日ローマを発って、ペーザロ・イモラ・フェッラーラなどの内陸都市を歴訪し、アドリア海の港ヴェネツィアに到着した。当時ヴェネツィアは豪華絢爛な最先端の街であり、遣欧少年使節は大いに驚嘆したという。「サン・マルコ広場での聖十字架の行列」(1586年)の油彩画が展示されているが、たしかにサン・マルコ宮殿のような大きく豪華な宮殿は、当時の日本では想像もできなかったろうと推測する。

Photo_3  当時もっとも高名な画家のひとりティントレットの「レダと白鳥」(1550年)が展示されている。白鳥に化けたゼウスが、スパルタ王テュンダレオースの妻であるレダを誘惑する場面を描いた作品で、全裸のレダが描かれる輪郭線は、繊細な多数の線が精緻に描きこまれ、レダの裸体の立体感を独自の手法で豊かに表現するとともに、膚の下から熱気や香りが沸きだしているかのような妖艶な雰囲気を現している。遣欧少年使節がヴェネツィアを訪問した記念として、ヴェネツィアでのホストがティントレットに遣欧少年使節の絵を描いてくれるように発注したという説がある。結局実現しなかったようだが、一部の準備作業の痕跡は今に残っているという。
 「伊東マンショの肖像」(1585年)という作品も展示されている。大友宗麟の名代として遣欧少年使節の主席正使として遣わされた伊東マンショは、当然教養も品格もあった少年であったと思われるが、ここでは当時のヨーロッパ人がアジア人を描くときにありがちな西欧人化も、あるいはアジア人蔑視による未開人的な表現もなく、ごく自然な品格ある、控えめでしかし自信を偲ばせるアジア人の人物像となっている。
遣欧少年使節は、ヴェネツィアのあと、陸路を西に向かって進み、パドヴァ・ヴィチェンツァ・ヴェローナ・ミラノを経て1586年4月、ポルトガルのリスボンを発って帰途についた。Photo_4
 遣欧少年使節は、その旅程のなかでゴンゴーザ家の宮廷で『宮廷人』という著作に出会い、感銘を受けたという。『宮廷人』は、当時の宮廷に仕える貴族や上層階級の人びとのあるべき姿、嗜むべきさまざまな教養やマナーなどを記した本で、遣欧少年使節の少年たちは日本に持ち帰って日本語訳を作成したいと考えたと伝える。現在は、この本の日本語訳も出版されているそうである。この本の著者であるバルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画も展示されている。16世紀初めミラノ公に仕え、そののちウルヴィーノの宮廷に仕え、各国への外交使節も勤めた。人文学者であり、宮廷の実務にも携わった教養人である。肖像画の表情からも、その深い教養と品格が感じられる。
 私は中世やルネサンスの美術についてあまり知識がないこともあって、さほど期待せずに訪れた展覧会であったが、非常に興味深く、充実したひとときとなった。

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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (3)

ローマとグレゴリウス13世拝謁
Gregory_xiii   そしてついに遣欧少年使節は1585年3月23日、ローマで、ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁した。グレゴリウス13世は、ボローニアの富裕な商人の家に生れ、名門ボローニア大学で法学を修め、後進に教鞭をとった。36歳のとき教皇パウルス3世に招かれてローマに移り、教会の法務を勤めた。教皇ピウス4世のとき枢機卿に任命され、宗教革命に対抗してカトリック教会の刷新と自己改革を議論したトリエント会議にも参加した。自ら学問を好み、また周囲にも奨励した。有名なグレゴリウス暦を採用したことでも広く知られている。このグレゴリウス13世が中央に描かれた絵画「ヨーロッパ内外にセミナリオを設立するグレゴリウス13世」(17世紀初頭)が展示されている。
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