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美術

「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3)

パリでのショパン
 パリでショパンは芸術家や他分野の著名人と出会い、名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得ることができた。彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者ではあったが、フランスではフランス式の名前を名乗った。ショパンに対してフランスの旅券が1835年8月1日発行され、これを境にショパンはフランスの市民となった。Photo_20200215072201
 フランスに移ってからのショパンは、公開演奏会ではなく、貴族やエリートたちが集うサロンでの演奏をおもに行った。すでに結核を患って健康状態が芳しくなかったこともあり、教えることと作曲で十分な収入を得ることができたので、めったに公の舞台に出ることはなかった。伝記研究者によれば、このように内向的な音楽活動にも関わらず高い名声を得たのは、ショパン以外には世界的にも歴史的にもほとんど例がないという。
 25歳の時、5年前から顔見知りだったヴォジンスキ伯爵の娘マリアに再会した。マリアはその時16歳になっていて、その知的で芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちた。翌年の9月にショパンは彼女にプロポーズし、彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄した。傷心のなかショパンは、マリアに対する想いから「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』を作曲した。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」とした。さらに、彼はマリアに7つの歌曲をつくって贈った。それらはポーランドロマン派の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものであった。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (2)

ワルシャワからパリへ
 ショパンは、20歳に満たずしてすでに演奏家・作曲家としてワルシャワで名声を博していた。そして1830年11月2日、彼はオーストリアに向けてワルシャワをあとにした。彼はそれ以後、ワルシャワに、ポーランドに帰ることはついになかった。1831
 彼がワルシャワを発った直後の11月29日に、ワルシャワで11月蜂起が発生した。それまでにポーランドは、ロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割され、独立国としての実態を失っていた。ロシア皇帝がポーランド王を兼ね、ポーランド国家は独自のセイム(国家議会)と政府をもち、裁判所、軍隊、国家財政の面で独立していたとはいうものの、立憲王国に与えられていた自由は徐々に削減され、憲法は次第にロシア当局から無視されるようになった。ロシアのアレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠することはなかったものの、その代わりに皇帝は憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。このようなロシアの振る舞いに対して、若い士官学校の生徒たちが反発して陰謀を計画し、1830年11月29日夜に武装してコンスタンチン大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲ったのが蜂起のはじまりであった。この蜂起は、結局はロシア・ポーランド戦争に拡大し、約1年後にロシアの圧倒的な軍事力の前にポーランドが屈する結果となった。フレデリク・ショパンは、この祖国の事態を、外国ウィーンから心配しつつ見守っていた。
 この蜂起の結果、ショパンの居所ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。当時、パリをはじめフランス各地に、多くのポーランド人が祖国を逃れて移住した。

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「村瀬裕子展」京都galleryMain

 「揺れる、響く、香るを絵にする」というテーマで、京都市下京区の古民家風のギャラリーで、個展が開催された。会場は木造の工場の建物だったそうで、天井も高く、スペースがゆったりして、心地よい雰囲気の展示場である。
 最近の3年間ほどの間に描いた10点の作品が展示されている。
 いずれも遠近法のような方法でなく、色彩の明暗・影・グラデーションで自然な遠近感と量感・立体感を表現している。背景も丁寧に描かれている。「砂と布」という副題のある作品が、その典型のようで、やわらかな感覚の網が、穏やかな立体感を表現している。
 人物画だけでなく、草花の表現でもそれは同じである。私は「チューリップ」と題された絵が好きである。
 「揺れる、響く、香るを絵にする」というテーマだが、私には、描く対象の表面から湧き出てくるもの以上に、むしろ描く対象の内部に込められたエネルギーの表現を感じた。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (5)

セザンヌとゴッホ
Photo_20191031063701  ポール・セザンヌは、印象派の画家としての活動の後、独自の境地の活動を展開して発展させ、ポスト印象派の代表的画家として高名である。セザンヌは、後に若手の画家たちの主要な活動拠点となった南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、富裕な銀行家の子として1839年生まれた。中等学校では、下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い銀行家を目指していたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあって、1861年画家を志してパリに出た。  パリでは、後の印象派を形成するピサロ、モネ、ルノワールらと親交を持った。しかしこの時期のセザンヌの作品は、ロマン主義的な暗い色調で、印象派らしいものではなかった。このころ彼は、サロンに応募しては落選を続ける日々であった。やがてピサロとともに戸外での絵画活動をすることで、印象主義の技法を身につけ、明るい画風に変わった。第1回と第3回の印象派展に出展したが、芳しい評価はなかった。1879年から、故郷のエクス=アン=プロヴァンスに移転し、印象派を離れ、独自のコンセプトの絵画を追求するようになった。1882年に1回サロンに入選したものの、広く認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。1895年にパリで開いた個展がようやく成功し、パリでも知られるようになった。晩年までエクス=アン=プロヴァンスで制作を続け、その間若い画家たちが次々に彼を求めて訪れた。そのころ発した「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも大きな影響を与えた。
 ここでは「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む」(1877-79年)がある。この作品で興味深いのは、海にかんしては印象派的な表現が取り入れられているのに対して、陸地にかんしてはセザンヌらしい構築的な筆触が感じられることである。印象派から独自の構成的表現への移行期の作品のひとつと考えられる。Photo_20191031063702
 フィンセント・ファン・ゴッホについては、短い画業の前期に属する絵である「雪原で薪を運ぶ人々」(1884年)が展示されている。まだオランダで絵を描いていたころの作品で、受注して制作したものであったという。このころのゴッホは、ミレーを憧憬していて、構図や表現にその影響が認められる。しっかり丁寧に、古典的な画風で描いている。画面左手には、すでに後の作品で重要なモチーフとなる太陽が描き込まれている。人物の描写には、彼らそれぞれの心理が現れているようだ。
 以上の他にも、ルオー、マティス、ブラマンク、ルソー、ミロ、ピカソ、カンディンスキー、ユトリロ、ローランサン、キスリング、シャガールなど、実に多彩な作品が展示されている。吉野石膏コレクションの充実が私にもわかる。
 全体で72点と、私の鑑賞できるキャパシティに対して適当な規模の展覧会であった。それでも鑑賞には2時間半を要して、鑑賞を終えるといつものようにぐったりしてしまった。予想以上に充実した良い展覧会であった。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (4)

印象派のひとびと ドガ・ピサロ
Photo_20191029085501  エドガー・ドガの「踊り子たち(ピンクと緑)」(1894年)がある。ドガ特有の、一瞬の画像を写真の画像のように鮮やかに切り出したもので、舞台に出ていく寸前の、待機する踊り子たちの緊張と息遣いまでがひしひしと伝わってくる。光の効果も素晴らしい。説明に、写真が一瞬を切り取る機能を普及させたがその先駆けだとあるが、写真ではここまで緊迫感のある画面を得るのは容易ではないだろう。ドガが、場面から瞬間を鮮明に切り出して正確に記憶する能力に優れていたことは、その通りだろう。改めてながめると、画面のトリミングも大胆である。二人目の踊り子を、頭と身体の一部を画面から切り離すことで、二人どころではない大勢の踊り子の存在と、その混雑、多数の踊り子が発散する熱気など、観る者の想像力を掻き立てて、一層魅力ある絵となっている。Photo_20191029085601
 カミーユ・ピサロの「ポントワーズの橋」(1878年)がある。左手奥には工場が連なり、煙を噴き上げていて、この地が経済発展の最中にあることがわかる。それでも空は明るく青く、きれいな雲が漂っている。この日は休日なのかかなりの人々が道に出て橋に差し掛かっている。明るい新興都市の生活をしっとりと描いている。この都市は、ちょうどこの絵が描かれたころに鉄道が敷設され、賑わいが進んだという。
 ピサロは、8回開催された印象派展のすべてに出展した唯一の画家であった。正確で精緻な描写力だけでなく、人格的にも穏やかであったらしく、印象派の画家たちから信頼され慕われたらしい。作家のエミール・ゾラも、彼の絵を愛し、絶賛する文章を残している。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (3)

印象派のひとびと シスレー・ルノワール
Photo_20191027062301  アルフレッド・シスレーは、イギリス人の両親のもとに誕生したが、生まれたのもほとんどの人生を過ごしたのもフランスであった。18歳のときロンドンに帰り、ビジネスを試みたが美術への憧れを断ち切れず、4年後にはパリに戻って本格的に絵画に専念した。サロンに出展した絵は、入選することもあったが売れなかった。30歳前に普仏戦争で家財を失い、さらに富裕な商人であった父の死により経済的に困窮するようになった。
 「モレ=シュル=ロワン、朝の光」(1888年)がある。水辺に建つ家のベージュ色の壁が朝日に輝いている。鮮烈なまでの光の表現は、たしかに印象派のものだろう。「モレのポプラ並木」(1888年)がある。この絵の樹木も、光に輝いている。
 シスレーは、900点もの油彩画を残したが、その大部分はパリ周辺の風景を題材にした風景画で、人物、室内画、静物などの他の題材は合わせても20点に満たないという。印象派の画家の多くが、後に印象派の技法から離れていったなかで、シスレーは終始一貫して印象派の画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家とされている。印象派最古参の画家として知られるカミーユ・ピサロは、アンリ・マティスから「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねられたとき直ちに、「それはシスレーだ」と答えたという。
Photo_20191027062401  ピエール=オーギュスト・ルノワールの「庭で犬を膝にのせて読書する少女」(1874年)がある。それまでの油彩画は、筆跡を残すような描き方はしなかったが、ルノワールは堂々とその習慣を破り、そのふんわりした質感を生かして樹木やその葉の生命力と、光の暖かさをみごとに表現した。ルノワールは、磁器の絵付け職人や扇子の装飾職人などを経験して、画家としてもアルチザン的なこだわりで、徹底して独自の丁寧な画法を磨いた。Photo_20191027062501
 「シュザンヌ・アダン嬢の肖像」(1887年)がある。このころから少しずつルノアールの絵は評価されはじめたようで、この絵のモデルは高名な銀行家の10歳の令嬢である。これは油彩画ではなく、紙の上へのパステル画である。幼い少女だが、パッチリした眼は、大人になろうと意識し始めた幼いエロスを発散している。今回の展覧会のポスターに採用された作品で、ふと見たときはさほどの印象もなかったが、ゆっくり観ると顔の描写もなかなか凝っていて、長い間長めても飽きない内容の濃い作品である。長い髪の毛の描写に用いられた色彩だけでも、実に多彩な色が用いられている。
 この少しあとの作品として「幼年期(ジャック・ガリマールの肖像)」(1891年)がある。幼い男の子の肖像だが、興味深いのは、子供の歯並みの上にごく小さな黒い点を描き込むだけで、幼い子供の歯がまだきれいに生え揃っていないのをみごとに表現している。ルノアールの絵は、どれも安心して楽しめるという感覚は、まったく変わらない。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (2)

印象派のひとびと マネ・モネ
Photo_20191025061401  エドゥアール・マネ「イザベル・ルモニエ嬢の肖像」(1879年)は、とても魅力的な作品である。当時のパリは、詩人ボードレールが現代性「モデルニテ」を主張し、都市生活を題材とした作品が流行した。ボードレールが愛した画家のひとりが、このモネであった。この絵の描写は、顔を丹念に描く一方で、身体や衣装は平面的に速筆で描き、その対比がかえってルモニエ嬢の清楚さを引き立てている。顔の描写も、類型的な美人の描写からはほど遠く、生身の生命感がより鮮明に表れている。マネは、保守的で写実主義的絵画を通したが類型的な表現を嫌い、独自な表現を磨き、サロン・ド・パリへの出展を続けた。若手画家であったモネやルノアールに慕われ、多くの影響を与えたとされるが、結局一度も印象派としては展覧会に参加しなかったという。Photo_20191025061402
 クロード・モネ「サン=ジェルマンの森の中で」(1882年)がある。森の中の樹木のトンネルを、もっぱら光のニュアンスのみでみごとに描いている。普通はこのような題材は、絵画の対象としても、それ以前にとくに美として注目されることすらない対象のように思える、ごくなんでもない題材だが、こうして柔らかな光の陰影を強調して取り出してみごとに表現されると、とても印象的な美となっている。この作品はかなり後のものだが、彼は18歳のとき少年時代を過ごしたノルマンディー地方のアーヴルで、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられたという。
Photo_20191025061501  1898年ころからは、モネは睡蓮を頻繁に描くようになった。そのひとつが「睡蓮」(1906年)である。1900年ころから彼は睡蓮の絵を縦長の正方形に近い画面に、より上からの角度で描くことが増えたという。上方から眺めた水面に漂う睡蓮と、水面と、水面に映る空をそこはかとなく描いている。描かれる対象は、どれひとつとしてとどまるものがない。描かれた画面は静止していても、眺める我々は、描かれた睡蓮も水も、そこに映る空も、みんな浮遊していることを知っている。光が時間とともに過ぎていく。美しさというより、なにかとても豊かな、贅沢なものが表現されている。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (4)

伝統と文明開化と
Photo_20191013061501  暁斎は、幕末の若い時代から明治中期の晩年まで、一貫して日本の伝統的なテーマの作品を制作していた。晩年には、毎日『日課観音図』と日記のように、観音様の絵を一枚ずつ描き、一定数が貯まると、上野護国院、浅草寺、知恩院などに奉納したという。その作品の一部も展示されている。
 「閻魔・奪衣婆図」(明治12-22年)がある。人間の死期の世界を仕切る閻魔と奪衣婆という妖怪なのだが、その怖さもわきまえずに、閻魔の背中に乗っかって一心に恋文か御籤かを木の枝に結び付けている、あるいは奪衣婆の髪の毛を搔き分けて虱を除いてやっている、いずれも無心に熱中している美しい若い女を描いている。死期の世界では大きな存在である閻魔と奪衣婆も、死とは縁遠い若くて美しい女性にはかなわないな、という自嘲ぎみの表情である。伝統的な画材を丁寧に描く一方で、軽妙なユーモアがある。
Photo_20191013061601  「文昌星之図」(明治20年1887)がある。文昌星は、北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第一星のことで、魁星(かいせい)ともいう。中国では科挙受験の守り神とされ、日本では文学の神となった。本作では右手に筆、左手に斗(ます)を持った鬼として描かれる。「魁」の字を絵解きしたものだという。
 明治の文明開化にかんして「東京名所之内 上野山内一覧之図」(明治14年1881)がある。画面の上方には、誇らしく近代的建築たる上野博物館が描かれている。この博物館こそ、彼の弟子であったジョサイア・コンドルが設計したものであった。ここではさまざまな新しい風物が描かれている。
 河鍋暁斎は、若いころは師から「画鬼」と才能を認められ、弟子のジョサイア・コンドルからも驚異の眼をもって尊敬され、じっさい誰が見ても卓越した技能を持っていた。その基本の上に、日本の伝統的芸術としての絵画を、伝統から連続的に発展させ、自分の意志で新たな西欧文化に対峙しつつ取り入れるべきは取り入れ、独自の世界を自力で構築した。Photo_20191013061701

 河鍋暁斎が生きた幕末から維新の時期は、日本が大きく変動する時代であり、世相にはかなりの困惑や混乱があり、人々の価値観にも大きな動揺があったはずである。そのなかで暁斎は、政治・社会に対して十分関心を注ぎ、批判的、風刺的な作品を多数残した。明治3年に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主でもあった。しかし、彼の思考は古い日本文化ばかりを攻撃したり、あるいは新たに入ってきた西洋文化を排撃したりするものではなく、彼なりの「江戸時代から連続性をもって変遷しつつある日本」という確かな意識と意志があった。地に足が着いた、自信あふれる批評であった。こうした激動の時代にあって、決して自分を見失うことなく、また広く多くの知己を得て、自分の才能を遺憾なく発揮しつつ大いに活動した。このような逞しい優れた人材が当時のわが国に存在したことは、わが国の誇りとして良いだろうと思う。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (2)

河鍋暁斎が見た幕末維新
 その翌年文久3年に描いた「海上安全万代寿」がある。ときの将軍家茂は、条約勅許を天皇から得るために陸路上洛し、果たせぬまま江戸に帰ったが、その帰路は軍艦順道丸での海路であった。京で天皇から石清水八幡宮参拝への供奉を打診されたが、健康上の事情を理由に断ったのに対して、尊王派から命を狙われたため、安全上の配慮で海路に変更したという。河鍋暁斎は、命の危険を避けて逃げ帰ったこと、その警備と帯同者の物々しかったこと、を風刺しているようである。
Photo_20191009061401  明治維新になっても、暁斎の世情への関心と鋭い批評は続く。「九尾の狐図屏風」(明治3年1870以前)がある。九尾の狐(九尾狐九尾狐狸)とは、中国神話上の生物で、9本の尻尾をもつ狐の霊獣または妖怪である。 中国の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることそのものが、泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされている。しかしこの絵では、画面上半分に大きく描かれた九尾の狐に対して、左手下には中国の、右手下にはインドの、それぞれいささかみすぼらしい裸体の神が、富士山を囮にして、粗末な罠で捕らえようとしている。西欧列強に圧倒されて無駄な抵抗を試みる中国とインド、それら弱小連合にさえ勝手に利用されかねない日本、という構図か。Photo_20191009061501 
 「三味線を弾く女と踊る外国人」という絵がある。色香漂う芸者の三味線に魅せられた外国人の男ふたりが、酔っ払ってもいるのか、すっかり我を忘れて踊り狂っている。暁斎は、日本や日本人に対して厳しい批評の眼を向けるとともに、外国や外国人に対しても違う側面での厳しい批評を浴びせている。
Photo_20191009061601  河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』から「パリス劇場表掛りの場」を描いた絵(明治12年1879)がある。明治12年に新富座で上演された有名な歌舞伎である。漁師三保蔵は、難船によって父と生き別れになり、アメリカの蒸気船に救助されてサンフランシスコに渡る。領事秋津の義妹若葉とともに大陸横断鉄道でニューヨークに向おうとするが、「米国砂漠原野」でアメリカ原住民の一団に襲われ、若葉は酋長に誘拐される。このような危難に遭遇しながらも終幕、パリのオペラ座で秋津や若葉と再会した主人公父子の幕切れの台詞は、「外国のお方ほど親しみの深いものはない」であった。ジャーナリスト福地桜痴、およびプロデューサー守田勘弥の意見を勘案して河竹黙阿弥作が設定した、このいささか荒唐無稽な外国に対する認識の設定も、当時のアメリカ原住民とヨーロッパ系アメリカ人の関係、日本と西欧諸国の関係、それに対応する日本国内の政治的状況、などが反映しているのだろう。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (1)

河鍋暁斎とは
 ぜひ観たいと思っていた「河鍋暁斎」を、会期最終日前日にようやく観ることができた。
 河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)は、天保2年(1831)下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)に、下級武士の次男として生まれた。父は古河の米穀商亀屋の次男として生まれたが、古河藩士河鍋喜太夫信正の養嗣子に入り、母は浜田藩松平家の藩士三田氏の娘であった。天保3年(1832)に一家は揃って江戸に出た。父は幕臣の定火消同心の株を買い、本郷御茶の水の火消し屋敷に住み、甲斐の姓を名乗った。河鍋暁斎の幼名は周三郎といい、直次郎という兄がいて、周三郎は河鍋氏を継いだ。天保4年(1833)周三郎は母に連れられて館林の親類、田口家へ移った。このころ、周三郎わずか2歳のとき、初めて蛙の写生をしたと伝える。
Photo_20191007060001   天保8年(1837)かぞえ7歳とき暁斎は、浮世絵師歌川国芳に入門した。国芳は門弟に、人間のさまざまな姿勢・形態を注意深く観察すべきだと厳しく教えていた。若き暁斎はこの師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を携え貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いた。天保10年(1839)5月、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、「生首の写生」の奇怪な伝説を残した。これらのエピソードは、後の暁斎の行動に繋がっているようだ。
 天保11年(1840年)、画師国芳の素行を心配した父により、国芳のもとを去って狩野派の絵師前村洞和に入門した。洞和は暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んだという。しかし洞和が病に倒れたため、駿河台狩野家当主の狩野洞白に預けられた。この狩野派門弟時代の逸話に、鯉の写生の話がある。修行に熱中し過ぎた疲れを癒そうと、暁斎は塾生たちと川遊びに出かけ、そこで3尺近い大きな鯉を生け捕った。暁斎は遊び仲間を置いて急いで画塾に戻り、この鯉のあらゆる部分を忠実に写生し、鱗の数までも正確に数え上げた。写生を終えると仲間たちは鯉を殺して食べようとしたが、暁斎は鯉に恩義を感じて殺すことに反対した。しかし兄弟子たちは聞く耳持たず料理を始めようとしたところ、鯉は突然激しく飛び上がり、結局暁斎の意見が通って近くの池に放たれた。後年暁斎は、自分の鯉を描く技倆が優れているとすれば、それはこの事件によるものだ、とよく語ったという。卓越した才能とも、かなりの変人とも思えるエピソードではある。
 嘉永2年(1849)暁斎はわずか17歳にして、洞白より洞郁陳之(とういく のりゆき)の画号を与えられた。やはり狩野派から出た橋本雅邦によると、狩野派の修業は通常入門から卒業まで11、2年かかると記していて、9年で卒業した暁斎は非常に優秀であるといえる。嘉永3年(1850)館林藩の絵師坪山洞山の養子になり、坪山洞郁と称した。
 Photo_20191007060301 暁斎は、事情あって坪山家を離縁されたが、その後は土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の諸画流を広く学んだ。そして23歳の安政2年(1855)10月に起こった安政江戸大地震の時に、同年代の戯作家仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出た。
 安政4年(1857)25歳のとき、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに、父の希望で河鍋姓を継承した。
安政5年(1858)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を得た。万延元年(1860)からは、周麿と称して錦絵を描き始めている。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵などを多作した。
 暁斎31歳のときの「鐘呂伝道図」(文久2年1862)がある。中国五代の高名な仙人鐘離権が、その弟子呂洞賓に東華帝君の教えを記した書を伝えたという伝説を表現する絵である。この題材には、山城西源院に伝狩野正信筆があり、狩野派のひとつの定番の題材だったのだろう。素人の私が見ても、その筆力が卓越していることは一目瞭然である。

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