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美術

「第75回研水会展」宝塚市立文化芸術センター(下)

Photo_20240612055901  他の作品を観た感想としては、今回の作品はそれぞれの画家が「なにに興味を持ったのか」「なにに美をみいだしたのか」について、その有無、強弱がかなりわかり易かったように感じた。
 木原徳子「来福門扉」という作品がある。「笑門来福」すなわち、笑う門には福来る、という言葉があるが、ここに描かれた門扉は、すっかり古ぼけて塗装も剥がれ落ち、幸せそうには見えない。この門扉がみてきた家族やその人生などを、つい想像してしまう。画家が、この画面に興味を持ったことが、私なりに理解できるような気がする。Photo_20240612060001
 芝田順子「昼下がり」は、ごくなんでもない秋の好天のなか、とてもおいしそうに成熟した柿の実がなっている、という風景である。平凡な題材で平凡な絵とも思えるが、柿のいかにもおいしそうに熟れたその輝きが見事に描かれていると思った。描く対象とそのアピールポイントを明確に意識してその表現に注力する、という一つの絵画の基本として、私は好きな絵である。
 Photo_20240612060002 児玉真澄「夕暮れ」がある。この絵は、描かれる対象はきわめて現実的な都会のビルの連なりと道路の景観なのだが、表現、とくに色彩がシュールレアル=超現実的である。ごく平凡な市民たる私でさえ、ときに都会の街並みの景観のなかで、周辺の景観と自分の存在とのあいだにふと距離を感じて、なにか不思議な超自然のなかに孤立しているように感じる瞬間がある。その感覚からは、この絵がよく理解できる気がする。ユトリロが描く爛れた人肌をあらわすかのような人間臭い建物とは対照的な表現である。Photo_20240612060101
 このところ不慣れな英語の本を読んでいて、辞書に疲れ、気分転換を兼ねて軽い気持ちでリラックスしながら絵を見てまわったので、丹精込めて作品を制作された画家の方たちには失礼だったかも、といささか後ろめたい気持ちもありつつ、全体としては楽しい鑑賞であった。
 帰途は、すぐ近くのカフェでお薦めメニューというバンケーキを食して快適な小休止を過ごしてから、再び花の道を取って返して駅までの散策を楽しんだ。ほのぼのとした初夏の快適な半日であった。

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「第75回研水会展」宝塚市立文化芸術センター(上)

Photo_20240611072701  絵画団体一水会に参加している友人が、その関西支部にあたる研水会の展覧会を紹介してくれたので、鑑賞した。6月に入ったが、今年は寒気が上空に停滞していて、梅雨をもたらす停滞前線が東南の太平洋に押しやられ、不安定な天気ながら湿度が低く、カラッとした穏やかな初夏の天候が続いている。その快適な日を、久しぶりに宝塚の街並みを楽しみつつ、絵画鑑賞に過ごした。
 阪急宝塚駅を降りて、東方向に「花の道」という緑にかこまれた快適な道を歩くと、宝塚ホテル、そして宝塚大劇場の前を経て手塚治虫記念館に突き当たる。そのすぐ隣が少し低い公園のようになっていて、宝塚市立文化芸術センターがある。私は社会人になったばかりのころ、勤務先の新人研修寮が宝塚市の東端にあったこともあり、また友人の結婚式などもあったり、宝塚にはなんどか訪れたが、こうしてゆっくり花の道を歩いたのは初めてであった。
Photo_20240611072702  休日でもあってか、宝塚市立文化芸術センターの建物の前の公園には、快適な天候のなかで寛ぐ多くの家族連れで賑わっていた。
 会場は1階と2階で、計200点ほどの作品が展示されている。
 まずは、友人の作品を観た。「飯豊連峰の朝」とのタイトルである。
 彼の作品は昨年11月に兵庫県立美術館で観て以来である。今回もおだやかな山の光景である。飯豊連峰は、新潟・宮城両県との県境に近い山形県南部の山だが、山登りを嗜むわけでもない私は、実際のこの景色を見たことはない。澄み切った朝の透明な光に輝く山肌と、おだやかな空気が描かれている美しい作品だ。尾根伝いの小径も、人間を受け入れる山の穏やかさ、あたたかさを表している。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(20)

江戸開城会見之地
 慶応義塾大学正門を出て、桜田通りへ戻り、慶応仲通り商店街を抜けて地下鉄三田駅に向かう。田町タワーにある三菱UFJ銀行三田支店の東側に入ると「江戸開城会見之地」の丸い石碑が建っている。Photo_20240610053401
 円形の石に「江戸開城/西郷南州/勝海舟/会見之地/西郷吉之助書」と大書され、裏には「慶応四年三月十四日此地薩摩邸に於いて西郷勝両雄会見し江戸城開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す」と記されている。なお西郷吉之助は、西郷隆盛の孫である。
 慶応4年(1868)年3月13日、高輪の薩摩藩下屋敷で第1回目の会談が行なわれ、続いて翌3月14日に田町にあった薩摩蔵屋敷で会談が行われた。第1回目の会談のとき、勝と西郷が一緒に愛宕山に上ったことはすでに記した。
蔵屋敷の陸側にあった田町の薩摩藩上屋敷は前年暮の「江戸薩摩藩邸焼討事件」で焼失していたため、当時は江戸湾に面していた蔵屋敷が利用されたのであった。
 会見の地については諸説あるが、通説は高輪の薩摩藩下屋敷と田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)だとされているようである。
この「江戸開城会見之地」が今回の散策コースの終点であり、私たちはJR田町駅ガード下のレンタサイクルのステーションに、借りていた自転車を返納して、散策を無事終えた。
 今年2月の突然の左脚膝関節の故障で、一時は旅行を断念しかけたが、レンタサイクルのお陰で、一日がかりの散策も無事完了することができた。前日とは打って変わって絶好の晴天のなか、とても充実した楽しい歴史散策であった。

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東京都心「幕末維新動乱コース」散策(12)

遣米使節記念碑
 同じ緑地内のペルリ提督の像に向かい合うかのように建っているのが「遣米使節記念碑」である。
 安政7年(1860)1月、米国海軍の外輪フリゲート艦「ポーハタン号」は、日米修好通商条約の批准書を交換する正使の大役を帯びた新見正興(しんみまさおき)、副使村垣範正(むらがきのりまさ)、監察小栗忠順(おぐりただまさ)など日本使節団77人(役人20人、従者51人、賄方3人など)を乗せ横浜を出港した。
 途中で時化(しけ)に遭遇し、石炭を余分に消費したためハワイ王国・ホノルルに立ち寄り、サンフランシスコに寄港の後、ようやくパナマへ着いた。Photo_20240602060701
 パナマ地峡鉄道(パナマ〜コロン、世界最短の大陸横断鉄道)で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク」に乗って大西洋を北上し、さらに小蒸気船に乗り換えてポトマック川を遡り、首都ワシントンD.C.に万延元年(1860)閏3月25日到着した。
 一行は大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日国務長官ルイス・カスと日米修好通商条約の批准書を交換した。
 同時に別船として派遣された幕府海軍の「咸臨丸」(木村喜毅、勝海舟、福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎などが乗船)が知られているが、勝海舟は船酔いに悩まされて実務ができず、往路の嵐はジョン・マーサー・ブルック大尉などアメリカ人11人が運航に携わったなど、後世に伝えられる「活躍」「勇躍」とは異なる状況であった。それでも、勝海舟はアメリカでの砲台、製鉄所、ガス灯などの視察を行い、帰国後に神戸に海軍操練所を設けるなどして活かしていた。
 使節団が渡米していた9ヶ月の間、日本国内では桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されるなど、尊皇攘夷運動が高まり、アメリカでの経験を十分に直ちに幕政に活かすことはできなかった。
記念碑はちょうど100年後となる昭和35年(1960)、日米修好通商百年記念行事運営会が建立した。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(5)

木島桜谷
 私は、木島桜谷の個展を10年余り前に泉屋博古館と木島桜谷旧邸での特別展で観たことがある。今回の展示作品も、10年余りぶりの再会である。
 木島桜谷(このしま おうこく、櫻谷とも、明治10年1877~昭和13年1938)は、京都市三条室町に木島周吉(二代)の次男として生まれた。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師、祖父周吉の代から内裏に高級調度を納入する「有識舎」という店を興し、父もその店を継いでいた。父は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったという。
 木島は、京都府立商業学校予科へ進んだが、簿記や算術に興味を持てず中途退学した。明治25年(1892)末、同年亡くなった父の知己で当時の京都画壇での大家であった今尾景年に弟子入りした。景年は「桜谷」の号を与え、父を早く亡くした桜谷の父親的存在となった。
また同じころ、儒医・本草学者・写生画家だった山本渓愚に儒学、本草学、経文漢学を学んだ。元来文学少年だった桜谷は「論語読みの桜谷さん」とあだ名されるほどの愛読家となり、昼は絵画制作、夜は漢籍読書の生活を送った。
 明治30年(1897)「景年塾」を卒業した桜谷は、展覧会への出品が増えていった。四条・円山派の流れを汲む写生を基本とし、初期は動物画を得意とし、一気呵成な筆さばきで迫力ある大作をあいついで発表した。明治32年(1899)全国絵画共進会に出品した『瓜生兄弟』は宮内省買い上げとなり、桜谷の出世作となった。明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会出品作『揺落』も天皇買い上げの栄誉に浴した。
 画題も花鳥画、山水画、歴史人物画へと広がっていった。文展では明治40年(1907)の第1回から第6回まで、連続受賞し、早熟の天才という印象を与えた。この躍進は、桜谷自身の画才に加えて、その作風が展覧会の時代に適合していたからとも考えられる。展覧会が西洋建築の大空間で頻繁に開かれるようになると、大きな画面への要求が高まった。桜谷は、左右を対として描かれることが多い屏風絵を、連続する一つの絵画空間として構成し直し、幅広な横長の画面を動感のある充実した構図によってパノラマ的に描き出した。

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 こうして制作された作品のひとつが「寒月」(大正元年、1912)であった。
 冬の夜、静けさに包まれた冬枯れの竹林を下弦の月が明るく照らす。冴えわたる雪面には、まばらに生える竹や若木のシルエットが浮かび、凍てついた空気が流れる。さまよう狐は餌を求めて鋭い視線であたりを窺っている。孤独な生命が広大な厳冬の静寂を深めている。
 大正元年(1912)京都市立美術工芸学校(現 京都市立芸術大学)教授を委嘱され、大正2年には早くも文展の審査員に挙げられた。同年、京都市街北西の衣笠村に建設した邸宅(現在は旧宅として残る)に移り住んだ。竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。ただ、絵の依頼は引きも切らず、制作数も多かった。
 昭和に入ると平明な作風となったが、帝展にも変わらず出品を重ねた。昭和8年(1933)の第一四回帝展に『峡中の秋』出展を最後に、衣笠村に隠棲するようになった。祇園などにも遊びに出ず、野人とあだ名されるほど粗末な服を着て、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の隠遁者のような生活を送った。しかし、徐々に精神を病み、昭和13年(1938)11月3日、枚方近くで京阪電車に轢かれて非業の死を遂げた。享年62であった。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(4)

梥本一洋(下)
「鵺」(昭和11年、1936)が展示されている。Photo_20240520054401
 鵺(ぬえ)は『平家物語』にも登場する、平安時代からよく取り上げられる想像上の怪物である。猿の顔と狸の胴体を持ち、足は虎、尻尾は蛇という奇天烈な妖獣だが、そのような怪物の姿ではなく、三人の上臈とみられる高貴な身分の女性が舟上で悲嘆にくれている様子が、洗練された筆致と抑制的に施された色彩で端正に表現されている。
 この絵は謡曲の名作「鵺」を題材に描かれた作品とされている。
 武勇の貴族源三位頼政(1104-1180)によって退治された鵺の亡霊と旅の僧による対話劇で、零落した妖怪が成仏を願い僧に回向を頼みつつ消えていくという、陰々滅々とした悲しい幻想譚である。ただ、謡曲の筋を追っても、鵺の正体が貴顕の女性とは明示されてはいない。そもそもこの妖獣の性別すら明確ではない。しかし、梥本一洋は鵺を三人の上臈として描いた。
 どういう思いで画家はこのように絵を仕上げたのだろうか。かつてここ京都市美術館で学芸員を務めていた美術評論家の加藤一雄(1905-1980)によれば「一洋が描いた上臈たちの姿には、懊悩した近衛ノ院をみることができる」という。
 頼政によって仕留められる前、鵺は夜な夜な内裏に出現し奇怪な鳴き声を発しながら、ときの近衛天皇(1139-1155)を苦しめていたとされている。天皇が鵺のせいで重病に罹ってしまったため、武勇で名高い頼政に成敗の命が下された、というのである。3人の女性は、それぞれ猿の顔と狸の胴体の部、虎の脚部、蛇の尻尾部のアレゴリーとすると、絵でも折れた矢が女性に突き刺さっているようだ。
 しかしこの絵の3人の女性からは、派手な化物退治奇談とも違う、何やら妖しげに官能的な空気すら立ち上っている。近衛院は荒々しい幻獣の剛力に苦しめられたというより、艶やかに妖しい女性(にょしょう)の色香に悶え悩んでいたという連想すら浮かんでくる。それで加藤一雄は、「懊悩」とは、鵺ではなく近衛ノ院のものだと解したのだろう。
 いずれにしても、一洋の古典への憧れ、尊敬が窺える作品である。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(3)

梥本一洋(上)
 梥本一洋(まつもと いちよう、明治26年1893~昭和27年1952)は、京都市中京区油小路に、染色図案を営む家の長男として生まれた。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号したが途中で諦め、息子たちを日本画家に向けて教育した。Photo_20240519055601
 梥本一洋は、京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校に進み、大正4年(1915)に卒業した。卒業後、山元春挙の画塾早苗会に入門して、一洋の号を名乗るようになった。春挙死後は川村曼舟に師事し、同会の重鎮となり歴史画を得意とした。
 大正4年(1915)第9回文展に「壬生狂言の楽屋」で初入選、大正8年(1919)第1回帝展で「秋の夜長物語」が入選、以降帝展において常連となった。
 昭和3年(1928)第9回帝展で特選を獲得したのが、この「餞春」であった。
 朱色の着物姿の舞妓が扇子で拍子をとりながら唄の稽古にいそしんでいる。背後の日本庭園には見事な枝ぶりの松を中心に、立石や築山が配され、池には橋が渡されている。藤の花が咲き、松の新芽が立ちあがる様子から、春が過ぎて新緑の季節を迎えていることがうかがえる。
 これ以降の帝展・新文展では無鑑査となり、しばしば審査員を務めた。また大正13年(1924)京都府立美術工芸学校教授に就任、翌年京都市立絵画専門学校助教授となり、昭和11年(1936)から同校教授としてさきの大戦後の昭和24年(1949)まで後進の指導にあたった。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(2)

菊池契月(下)Photo_20240518054301
 大正7年(1918)師であり義父でもあった芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員に就任した。文展が翌年帝展に改組されたのちも、引き続き審査委員をつとめた。このように画壇での地位を着実に高めながらも、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、生々しいまでの写実的表現を導入し、師匠から受け継いだ四条派の伝統を守るだけでなく、それを踏まえたうえでの新しい独自の画風を確立しようとした。
 大正11年(1922)1年間ほど欧州滞在の機会を得て、フランス、イタリアを中心に各地を歴訪し、ルネサンス期のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、いくつもの作品を模写した。古典的作品の偉大さや価値を再認識し、帰国後も仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究し、収集した。
 昭和に入るころからは、こうした傾向の作品と並行して、均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の作品が生み出されるようになり、作品に二つの系統が認められるようになった。こうした路線の最初が「敦盛」(昭和2年、1927)である。
 治承・寿永の乱(源平合戦)の一の谷の戦いにおいて、源氏の攻撃から逃れようと味方の船へ急ぐ平敦盛は、ついに敵方の熊谷直実に見つかり捕らえられる。直実は、わが子に近いまだ16、7歳の美しい少年の敦盛を討つことを躊躇ったが、苦悩しながらも斬殺する。敦盛は藝術を愛し笛の名手であったとされ、この逸話は若き才能が戦で散り果てる悲劇を伝えるものとして『平家物語』や幸若舞の演目として伝えられてきた。この絵では、聡明で美しい敦盛の姿を繊細な筆致で表現している。全体に抑制された色彩と、経典を手にする無常観を示すような姿が、儚い最後をきわだたせている。
 契月は昭和7年(1932)京都市立絵画専門学校と京都市立美術工芸学校両校の校長となり、その翌年にはそれらの職を退いて絵画専門学校専任の教授となった。
Photo_20240518054302  昭和11年(1936)絵画専門学校専任教授を退官して帝国芸術院会員となったが、この前後から当時の日本を巡る情勢を反映してか、戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになった。とくに昭和16年(1941)の日米開戦以降は、日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などの展覧会に作品を出品し、地位と名声のある画家として、戦争画を通じて戦時下における銃後の志気高揚に協力した。
 そのころの作品のひとつが「紫騮(しりゅう)」(昭和17年、1942)である。
 これは平安時代の名馬を描いたものとされている。紫騮とは馬の種類で、黒栗毛の馬をいう。『源平盛衰記』に、紫騮であった「いけずき(生食)」という馬が登場する。高さ4尺8寸(145センチメートル)で太くて逞しく、生き物に食らいつく猛々しい気性であったという。もとは源頼朝の所有であったが、家来の佐々木高綱に与えられ、高綱とともに戦場で活躍したことから、戦勝をもたらす神馬として有名となった。
六曲一隻の屏風の大画面に、いけずきが胸を張り前を見据える堂々とした姿で描かれる。張りのある輪郭線が立派な体格を強調する。栗毛の毛色は丁寧で緻密な筆致できれいな彩色となっている。洗練された上品な雰囲気の、緊張感ある作品である。

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京セラ美術館 コレクションルーム展(1)

 冬晴れの午後、京都市京セラ美術館のコレクションルーム冬期展を鑑賞した。Photo_20240517060401
 コレクション展なので展覧会そのものの企画に明確な方向性はないが、「昭和前期の日本画と古典」という副題があり、そのような範囲の作品が展示されていた。
 私もすでに観たことがある作品もかなりあり、一部の気にとまったものについてメモしておく。

菊池契月(上)
 冒頭に、菊池契月の5点の作品が「昭和前期の日本画」として展示されている。
 菊池契月(きくち けいげつ、明治12年1879~昭和30年1955)は、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)の素封家の次男として生まれた。少年時代から絵を描くことを好み、13歳で南画家児玉果亭に入門して「契月」の画号を与えられたという。小学校高等科卒業後、呉服屋・製糸工場・町役場などで勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑した。
 明治29年(1896)17歳のころ、同郷の友人町田曲江とともに故郷を出奔、京都に出て南画家内海吉堂に入門した。やがて翌明治30年(1897)18歳で京都の日本画家菊池芳文(きくちほうぶん)の門下となった。
師の菊池芳文は、竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「幸野楳嶺門下の四天王」と呼ばれて、京都画壇正統派の四条派の高名な画家であった。彼のもとで研鑽を積み、入門翌年の明治31年(1898)には第4回新古美術品展で『文殊』で一等賞を得た。さらにその翌年にも第2回絵画共進会展出品の『資忠決死』が一等賞となり、その後も毎年受賞を重ねた。
 明治39年(1906)27歳のとき、芳文の娘アキと結婚し、菊池家の婿養子となった。以後菊池姓を名乗るようになった。
明治41年(1908)創設されたばかりの文部省美術展覧会(文展)の第2回展で『名士弔葬』が二等賞、翌年の第3回展で『悪童の童』が3等賞、その翌年の第4回展では『供燈』で二等賞をあいついで受賞した。同作は1911年にローマで開催された万国芸術博覧会にも出品された。この年には京都市立絵画専門学校の助教諭となった。

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2024年度 第26回高槻ジャズストリート(上)

 5月2日まで天気が芳しくなくて心配したが、3日から急に気温が上昇するとともに夏のような快晴となり、それでも湿気はなく快適な天候に恵まれて、恒例の高槻ジャズストリートを迎えた。

高槻ジャズストリート 5月3日
 今年は、3日にまず高槻城公園芸術文化劇場北館3階で「西成ジャズクインテット」、「リエ様ですけど何か(クインテット)」、「菊池英亮カルテット」、「古谷充とThe Freshmen」を聴いた。いずれも演奏はそれぞれ、なかなかの達者ぶりを発揮して、十分楽しめた。会場での写真撮影は禁止であった。
 菊池英亮カルテットは、正統的ジャズらしい、メリハリのある美しい演奏であった。
 古谷充とThe Freshmenは、ピアノ担当の山崎善章から、2022年古谷充が84歳で亡くなったのちもグループの名前として「古谷充」を残し、息子の古谷充広をサックス奏者として加えて活動していたが、その古谷充広が今年2月、リハーサル中に心臓停止で急逝した、と経過説明があった。50歳であった。若いメンバー2名を補填して、引き続き同じグループ名で活動を続ける意向であるとの声明があった。ベテランのトランペット田中洋一の軽快で鋭い演奏も素晴らしいが、なんといっても山崎善章の90歳の年齢を感じさせない元気な姿と演奏に感動した。26
 このあと、20分ほど費やして高槻市立桃園小学校グランドに移動し、ここでは「新羅慎二(にら しんじ、若旦那)」、「Shiho with 桑原あい」、「TOKU」を聴いた。
 Shiho with 桑原あいは、これまでShihoをなんどかこの高槻ジャズストリートで聴いたので、今回また聴いたわけである。悪くはないが、今年は野外ステージだったからか、少し物足りなかった。
 TOKUは、フリューゲル・ホルンという独特の楽器とヴーカルを演奏するユニークな音楽家である。私は、彼のヴーカルよりは、楽器演奏の方が好きである。
 そのあとも、もうひとつ聴いてから帰るつもりであったが、夜の7時ころ太陽が沈んでから急激に気温が下がり、弱いながらも風が感じられて一気に寒くなったので、予定より早く帰途に就いた。

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