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美術

映画「ブーニン」

 角川シネマ有楽町で、カドカワ映画「ブーニン」を観た。たまたまこの日は、東京在住の友人と二人で、正午ころまで東京都心の両国から錦糸町近辺を、レンタサイクルを利用しながら歴史散策をしていたが、正午ころから雨が降り出し、屋外の散策が困難となって、途中で散策のスケジュールをギブアップした。Photo_20260514054301
 その友人が、スケジュールの変更・代替案として、この映画の鑑賞を提案してくれたので、鑑賞の機会を得たのであった。
 ピアニスト スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニンは、1966年、共産主義国家ソビエト連邦のモスクワに、両親もピアニストという音楽家の一家に生まれた。4歳のときから、母からピアノを学んだ。
 1983年17歳で、国際コンクールに優勝した後、1985年19歳のとき、ショパン国際ピアノコンクールに優勝して世界的に有名となった。このコンクールについては、日本のNHKが詳細に取材していて、かなり詳しくそのときの様子が映画に示されている。
 その翌1986年には、日本で初公演を行ったが、日本のクラシック演奏会では珍しいほどの大ブームを引き起こした。
 しかし全体主義国家たるソ連は、彼の才能も国家管理して政治的に利用する立場であった。演奏活動は制限され、自由が不十分であった。その環境から逃れるため、ブーニンは1988年、当時の西ドイツに亡命した。ヨーロッパと、そして日本を中心に、演奏活動をした。レパートリーは、ショパン中心だが、バッハ、ベートーンなども演奏した。
 2013年ころから、演奏による酷使もあってか、左手の麻痺や事故による骨折、さらに左足の大手術による左脚の短縮など、身体的にピアニストとして致命的な事態が発生した。脚の異常は全身のバランスを損ねて、身体全体で演奏するブーニンにとっては深刻な障害となった。左手が思うように動かせないことももちろん大きな苦痛となった。そんな事情で、約9年間表舞台から離れていた。
 ブーニンの妻は日本人であり、ブーニン自身もある程度は日本語を理解し話すこともできる。ブーニンの危機からの脱出に、もっとも貢献して背中を押し続けたのは、妻であった。
 まだまだ回復は不十分と言いつつも、2022年復帰公演を実現して、日本ツアーやリサイタルも再開した。
 そんなブーニンの40年間の苦闘の半生を、実録のつなぎ合わせでドキュメンタリー的に制作された、NHKの協力を得た角川の制作による映画である。
 演奏のシーンは10曲ほどあったが、すべて演奏の中断はなく、ブーニンの楽曲演奏をしっかり伝えるものであった。
 私は、音楽とりわけクラシック音楽に特段の素養がなく、まったくの素人であるけれども、ブーニンの全知全霊全力をつぎ込む精緻でダイナミックな演奏には、とても感動した。楽曲は、作曲家の原作を基礎としつつも、音楽に組み上げるのは演奏家である、ということを具体的に理解できたと思った。
 こんなにすばらしい映画作品なのだが、上映の機会はきわめて少ないようだ。私は、なんの知識も情報もなかったので、この映画を観ることができたのは、ひとえに友人のおかげであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(23)

宮脇愛子 (1929~2014)
 宮脇愛子は、昭和4年(1929)静岡県熱海の資産家の一人娘、荒木愛子として生まれた。幼少期から病弱であったため、戦時中もほとんど自宅で療養していた。昭和20年(1945)小説家の広津和郎が近所に転居してから、家族ぐるみの交流がはじまった。
4_20260512053901  昭和21年(1956)県立小田原高等女学校(現在の神奈川県立小田原高校)を卒業し、日本女子大学文学部史学科に入学した。在学中に東京大学西洋史学科学生であった宮脇俊三と結婚した。愛子は広津を宮脇に紹介し、後に宮脇は中央公論社編集者として広津を担当するようになった。
 昭和27年(1952)大学を卒業して、その翌年から文化学院美術科に学んだ。夫の実姉で画家の神谷信子を介して画家の阿部展也や斎藤義重に師事した。以後。昭和41年(1966)まで欧米各地に滞在して、画材の質感を強調した平面と、金属やガラスを素材にした立体を制作した。昭和42年(1967)には真鍮パイプによる彫刻でグッゲンハイム国際彫刻展買上賞を受賞した。「作品」昭和42年(1967)として、今回展示されている。
 すでに昭和40年(1965)宮脇とは離婚していたが、昭和47年(1972)建築家の磯崎新と再婚し、引き続き宮脇愛子の名で活動を続けた。Photo_20260512053901
 宮脇愛子「作品4」昭和34年(1959)が展示されている。
 かなり初期の作品だが、油彩をベースにしながら大理石の粉末を加え材料の質感を強調した、特異な知的な作品である。
 金属の彫刻作品として宮脇愛子「作品」昭和43年(1968)が展示されている。
 真鍮の角パイプを重ねて自在に構成し、光の効果は照明光と見る角度で自在に変化する。金属という素材のみならず、光そのものを不可欠な素材として働かせている。

 私自身よりも四半世紀ほど年長の世代の女性芸術家が特集された展覧会であった。たしかに私などはこれらの芸術家たちが置かれた環境や空気感がわからないのだが、戦後復興と社会改革、男性と女性、男女平等、ジェンダーの壁、など私が知らないような、理解できないような雰囲気やプレッシャーのなかで、懸命かつ果敢に絵画に取り組んだ人たちの紹介であった。
 少し前に個展でみた木下佳通代は、私たちよりひとまわり近く年少であり、やはり世代と背景、そして作品の印象がかなり違うことを感じた。
 それらの当時の環境や空気感を知らずに虚心坦懐にながめると、やはり個性がはっきりして主張が明確な作品は、いまでもいつでもインパクトがあり、感動する人たちもあったろうと思う。
 当日美術館に入るまでは、なにも知らずなにもわからず、期待もしていなかった企画展であったけれど、展示作品の多数は、それぞれ興味深いものであった。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(22)

田中敦子(1932~2005)
Photo_20260511060901  田中敦子は、昭和7年(1932)大阪市に生まれ、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)に入学したが、まもなく退学し、大阪市立美術館研究所に通った。そこで金山明と出会い、金山を通じて研究グループ「0会」を知り、昭和30年(1955)0会とともに「具体美術協会」に参加した。
 電球と電気コードによる昭和31年(1956)の「電気服」から展開した絵画が、ミシェル・タピエの高い評価を得て、欧米の多数の展覧会に参加するようになった。
 昭和40年(1965)金山とともに具体を脱会し、金山と結婚した。
 昭和45年(1970)以降は、奈良の明日香村を拠点に制作活動を続けた。
 田中敦子「地獄門」昭和40-44年(1965-69)が展示されている。
 田中は、芸術作品がどのように現れるべきであるか、あるいは「為される」べきか、という従来の概念を拒否した。田中の作品は、抽象画、彫刻、パフォーマンスの他、織物やドアベル、電球などの日用品を特徴としたインスタレーションなどがある。そして中でも有名なのが「電気服」であり、電線と電球からなるムスリムのブルカのような衣装である。
 そしてその電気服から派生して、この作品のような電球の集合が描かれる。
 このひとの絵画は、これまでなんども見てきた。こんなに同じテーマと手法で、ほんとに長い間制作を続けられたものだと、素人は思ってしまう。それでも、社会的価値を広く認められて、国際的に重要とされているニューヨーク近代美術館のパブリックコレクションとされている。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(21)

榎本和子(1930~2019)
Meditation  榎本和子「Meditation」昭和35年(1960)が展示されている。
 ここでは「Meditation=瞑想」という精神の営為を表現しようと、これもシュルレアリスム的描写なのだろう。とりとめのない想念が浮かんでは消えてゆく。それは意図的なものも、無意識のものもあるだろうから、表現は偶発的な印象も多い。この場合には、明確なものがあまりなくても仕方がないのだろう。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(20)

榎本和子(1930~2019)
Photo_20260507060901  榎本和子は、昭和5年(1930)兵庫県に生まれ、名古屋で育った。旧制金城女子専門学校卒業間近の昭和24年(1949)3月、美術文化協会展に初入選した。それをきっかけに、同会の阿部展也、瀧口修造と出会った。
 昭和26年(1951)京都に移り、昭和28年(1953)瀧口の推薦を得てタケミヤ画廊にて初の個展を開催した。阿部を接点に福島秀子と知り合い、以後親密になった。「二人展」も開催した。福島が病魔に倒れると、「人間業の限界をすすんで選び取った」と言われるほどに献身的に看病した。
 昭和32年(1957)上京し、さまざまな画面での技法上の実験を深めるとともに、シュルレアリスム的なイメージの探求も進めた。
 昭和39年(1964)批評家の東野芳明と結婚して、一時制作から遠ざかった。しかし昭和45年(1970)離婚した後は、絵画の数理的研究に関心の軸を移して活動を再開した。
 榎本和子「記憶の時」昭和26年(1951)が展示されている。
 「記憶」という抽象的な概念の表現のために、すでにシュルレアリスム的な傾向が顕れているように思う。「記憶の構造」のようなものを、形と色彩で表現しようとしているようだ。「記憶」はおぼろげな背景のなかにあっても、それなりに明確でなければならない、という表現だと思う。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(19)

福島秀子(1927~1997)
Photo_20260506065401  福島秀子は、昭和2年(1927)東京市赤坂に生まれた。文化学院を卒業後、昭和23年(1948)北代省三、山口勝弘らとともに前衛美術グループ「七耀会」を結成し、昭和26年(1951)には瀧口修造が命名した「実験工房」に参加し、舞台芸術や映像、美術などジャンルを越えた表現に取り組んだ。福島秀子は、実験工房の舞台のために、華やかな衣装のデザインも行った。女性の美術家にとって、衣服が外見の社会的な役割を別の角度から考え直すきっかけともなった。見せ方を自分で組み立てることは、構成や彩色にともなう判断と同じく、創作に通じる営為である。
 草間彌生の場合と同様に、ファッションは女性美術家ならではの貢献でもあった。福島秀子は、多様なメディアを横断しながら、総合的な芸術実践に携わる一方で、独自の抽象絵画を追求した。
 昭和30年ころ(1950年代後半)には、 型押し(スタンピング)によって円や矩形、線を画面に浮かび上がらせる独自の技法を確立し、自らの表現を深化させていった。その制作は1950年代から1990年代にかけて国内外で継続的に発表され、フランスの批評家ミシェル・タピエの評価を得つつ、パリ青年ビエンナーレ(1961)への出品を契機に渡仏するなど、国際的にも活動の場を広げた。109
 モノクロームによる「弧」シリーズや、青を基調とした作品、パラフィン・ワックスを用いたコラージュなど、時代ごとに異なる手法を取り入れながら、一貫して静謐かつ探究的な姿勢を貫いた。
 福島秀子「ささげもの」昭和32年(1957)が展示されている。
 スタンピングなどの応用と、画面を引き締め骨組みとする黒色の活用が見られる。
 福島秀子「作品109」昭和34年(1959)が展示されている。ここでもスタンピングの応用が見られるが、画面の構成は、ずいぶん変化している。
 また、早くから榎本和子との信頼・協力関係もよく知られていた。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(18)

山崎つる子 (1925~2019)
32  山崎つる子は、大正14年(1925)兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)に生まれた。小林聖心女子学院英語専修科を卒業して昭和22年(1947)芦屋市主催の美術講習会で二科会の前衛画家 吉原治良に出会い、指導を受けるようになった。
 昭和29年(1954)吉原をリーダーに結成された「具体美術協会」の会員となり、光を反射する金属の板やブリキ缶、ビニールシートなどによる立体や、ストライプを基調とする色鮮やかな絵画などを制作した。ときには具象的なモチーフも取り入れつつ、鮮烈な色彩表現を追求し続けた。
 今回の展覧会の、代表的存在として昭和39年(1964)制作の「作品」がポスターに用いられている。36
山崎つる子「作品」昭和32年(1957)は、ブリキで緩やかな塊をつくり、表面を鮮やかな色彩で飾ったうえで、強い色彩の照明で輝かせるものである。
 山崎つる子「作品」昭和36年(1961)が展示されている。
これは幾何学的に形、フリーハンドの自由な線、自然物の立体的形態などを適冝取り入れて、感性にまかせて鮮明な色彩を施した装飾的な作品である。この展覧会のポスターに採用された作品にも類似してとりわけ色彩の鮮やかな作品である。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(16)

田部光子(1933~2024)
Photo_20260501055301  田部光子(たべ みつこ)は、昭和8年(1933)日本統治下の台湾に、石橋光子として生まれた。終戦後の昭和21年(1946)福岡に引き揚げ、浮羽高等女学校を卒業後、岩田屋百貨店に勤め、その絵画部でデッサンを研修した。
 やがて福岡県展などに出品するようになり、昭和32年(1957)前衛美術グループ「九州派」の結成に参加した。翌昭和33年(1958)新聞社員の田部健二と結婚し、自宅で絵画教室をはじめた。
 社会運動や妊娠の実体験にもとづく社会と性への問題意識から、生活者の視点を重視する九州派のなかでも特異な表現活動を展開した。
 田部光子「作品」昭和37年(1962)が展示されている。
 敷き詰められたピンポン玉を囲う花びらのような形は、下地の襖に焼き付けられたアイロンの焦げ跡であり、女性の家事労働の証である。焦げ跡のうえには、さらにキスマークを施して女性性を誇張している。社会における女性の労働者的立場からの視点を、当事者として作品に盛り込んでいる。田部光子は、自らは「社会主義的なメッセージを作品に表すのは好きではない」と語りながらも、地元福岡の炭鉱を訪れたり、大正炭鉱の炭鉱夫の写真を摂ったり、オブジェを発表したり、労働問題に強い関心を寄せていた。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(14)

多田美波(1924~2014)
Photo_20260429112001  多田美波(ただ みなみ)は、大正13年(1924)父の赴任先であった台湾高雄に生まれた。幼少期を韓国ソウルで過ごした後、昭和19年(1944)女子美術専門学校(現在の女子美術大学)を卒業した。昭和31年(1956)二科展に入選した。
 多田美波「炭鉱」昭和32年(1957)が展示されている。
 当時、日本は高度成長にともなって労働運動が活発化した時期であった。日本の労働運動を牽引した日本炭鉱労働組合本部があった炭労会館を飾るレリーフの下絵として描かれたものである。
 炭鉱技師であった父の縁で実際に炭鉱を取材した経験に基づく力作で、コンペを勝ち取り、幅5mの巨大なレリーフがつくられた。歯車と組み合わせられた逞しい労働者の腕、その左側には深く奥へと続く坑道がみえる。

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「アンチ・アクション」展 兵庫県立美術館(13)

白髪富士子(1928~2015)
 No1_20260428061701 白髪富士子「作品No.1」昭和36年(1961)が展示されている。
 色彩の組み合わせになんらかの意図が感じられるが、描写においては敢えて技巧を示さない、夫一雄がやったオートマティズムに通じるような荒々しさを示した作品である。
 夫とともに制作していた富士子であったが、やがて夫一雄の活動が多忙となり、自らの制作の中止を決意し、昭和36年(1961)「具体」を退会し、以後は夫の制作を二人三脚で支えた。途中で夫を支えようと筆を折ったところは、毛利眞美と共通している。平成27年(2015)87歳で死去した。

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