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美術

小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館 (4)

成熟の時代と晩年
Photo 小磯良平は、母校である東京芸術大学の講師に招聘され、のちに教授となり、後進の指導にあたるようになった。このような環境変化もあってか、「窓の静物」(1955年)のようにマチスの画風を思わせるような構図や描写があったり、「神戸風景」(1957年)のように意図的に表現を簡素化あるいは抽象化したりする試みも見られるようになった。「静物」(1964年)では、静物と題しながら人物が大きく描かれているのもおもしろい。学生たちと接することで刺激もあり、ときに葛藤もあったかも知れない。いずれにしても小磯良平は、画業にますます邁進したようである。
 吉原治良は、1952年抽象芸術の振興を図って「現代美術懇談会」を結成し、さらに吉原のもとに糾合した関西の若手の作家たちで1954年「具体美術協会」をつくり、そのリーダーとなった。吉原治良も、自分のもとに集まってくる若手たちに、かつて自分が藤田嗣治から教えられたように「決して他人の真似をするな」と説いて、わが国の抽象芸術の発展に邁進した。
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 1960年代になって、吉原治良は「円」を自分の抽象表現の主要テーマとして打ち出すようになった。「まるをひとつ描くだけでも、大変むずかしくてエネルギーが要る」と言っていたという。私にとっては、このような抽象表現はむしろわかりやすい。彼が描くさまざまな「円」は、それぞれに個性や表情が感じられて魅力的である。
 1964年の東京オリンピックは、経済的に戦後のひとつの画期であったが、美術界にとっても、とくに小磯良平と吉原治良にとって大きな転換期であったようだ。

Photo_3 小磯良平は、後進たちとの葛藤を乗り越えて再び独自の静謐で上品な絵画世界、小磯ワールドの完成に向かって突き進んだ。小磯の描く女性像は大部分が上品な美人である。そして小磯は、モデルの女性のとくに外面の美の特徴に細かく注意して観察しているようだ。彼の「好み」のバターンがあり、自分の好みの顔にであったとき、とりわけ描写に気持ちよく打ち込むことができたのではないだろうか。絵画ではないが写真家の荒木経惟の場合、写真技術としては美しい人をとてもきれいに撮影する十分な技術を持ちながら、被写体の内面を投影するためなのか、意図的に微妙な醜さや蔭を映しこむことがある。小磯の場合は、モデルの内面に関心をもつよりも、美しい対象を美しく描くことに専念したように思う。これはこれで、画家としてのひとつの王道だと思う。
 吉原治良は、吉原製油株式会社の社長を勤めつつわが国の抽象芸術の牽引者のひとりとしてエネルギッシュに創作活動を展開したが、1972年67歳のとき、クモ膜下出血で急逝した。指導者を喪失した芸術家団体「具体」は彼の死とともに消滅してしまったが、その先駆性はいまでも高く評価されている。
 今回の展示会は、兵庫県出身の同年代の二人の画家を取り上げ、昭和の初期から昭和末まで、昭和時代全体を通じてのわが国美術の展開を概観したものであった。たったふたりだけの座標軸でもこれだけの深みのある展望ができるということに、改めて感慨があった。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館 (2)

1930-40年代前期の充実と激動の時代
 小磯良平は、美術界でも世評でもその高い技量と上品な作風から高い評価を得て、活発に作品を発表していった。「横たわる裸婦」(1931年)、「裁縫女」(1932年)など、精緻で上品な、まさに正統派の絵画である。「踊りの前」(1934年)は、小磯の充実した技量を遺憾なく発揮した絵となっている。「中禅寺湖」(1935年)では、それまでよりは少し光を意識したような、また描写に一部抽象化を取り入れる試みなどが窺える。
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 吉原治良は、それまでにもシュールレアリスムの影響はあったが、藤田嗣治の批判の影響か、このころには抽象絵画の方向に進んでいった。「海辺の静物」(1931年)、「菊(仮題)」「朝顔の女」(1931-33年)、「潜水夫と犬」(1931年)などは、なにか見たことがあるような感じがするが、溌溂とした新鮮さが魅力である。「作品3」(1934年)くらいになると、なにかよくわからないなりに独自性があるように思える。
3 小磯良平は、その描写技術と品格の高さが軍部にも注目されるに至り、1938年から陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に派遣された。従軍画家としての作品には、人物を描いた「軍人の肖像」「外国の兵士」「外人肖像」(1942年)などがあるが、小磯は軍事に関係なく、対象となる人間の表情を素直に正面からとらえて描いている。戦場を描いたものとして「香港黄泥涌高射砲陣地奪取」(1943年)、「カンパル攻略」(1944年)などがあるが、絵は場面の景観としての美を淡々ととらえて描いたかのようで、戦意高揚とか軍人礼賛とかの印象はほとんど感じられない美しい絵である。興味深い絵として大型の「ビルマ独立式典図」(1944年)がある。アウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が、日本軍の支援を得てイギリスと戦い、昭和18年(1943)8月1日、独立準備委員会が建国議会の成立と独立を宣言して「ビルマ国」が誕生した、その式典を描いたものである。美術評論家植村鷹千代によると、大勢のビルマ新政府関係者や日本軍関係者の人だかりの後方から情景をとらえざるを得ず、式典の中心たる場所と人々に視線を導くために、大勢の取り巻きを暗く描き、中心部は遠くて小さいがしかし明るく描くことで画面に浮かび上がらせるという巧妙な手法が導入されている。このような戦争絵画の経験は、小磯に「群像表現」という彼にとって新鮮な経験をもたらし、このあとの展開に繋がっていくことになる。
 戦争に入ると、抽象絵画は世間から忌避されるようになり、吉原治良はひっそりと抽象絵画を描くとともに、写生画を二科展に出すなどの雌伏期を過ごした。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館(1)

 小磯良平と吉原治良という、ともに阪神地区出身の二人の個性が異なる画家の特集展示会である。正統派で優等生的な画家である小磯良平と、独学の前衛抽象画家のリーダーであった吉原治良という、一見ずいぶん違う組み合わせである。 

1920年代初期の作品
 小磯良平は、1903年(明治36年)神戸市に富裕な貿易商の子として生まれ、兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)に進学、そこで生涯の友で後に詩人となる竹中郁と出会った。その後小磯良平は東京美術学校に進学して主席で卒業した。友人の竹中郁は、旧制中学時代にラグビーをしていたらしく、小磯良平の卒業作品でラグビーのユニフォーム姿でモデルを勤めている。
  吉原治良は、1905年(明治38年)大阪市の油問屋の御曹司として生まれた。その家業は後に吉原製油となり、現在のJ-オイルミルズとなっている。大阪府立北野中学校在学中に油絵をはじめ、関西学院高等商業学部に進学、卒業した。フランスに遊学して帰国ののち、1928年に初個展を開き、また公募展などにも絵画を出展した。
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  展示の冒頭に、ともに20歳過ぎ1925年ころの自画像がある。小磯良平の自画像は、いかにも優等生の絵で、生真面目にていねいに描かれている。吉原治良の自画像は、ヨーロッパの近代絵画の知識からなのか、少しキュビスム的で、画面右側は陰で暗くして背景の黒に連続的に溶け込むような表現となっていて、素人ながらモダンでしっかりした絵となっている。その2~3年後1927-28年ころの、やはり自画像がともにあるが、この短期間のうちにいずれも肩の力が抜けて、より自由にしなやかに自分をとらえて描いている。
 小磯良平は、学生時代から裸婦、着物婦人などを端正に描き、有名な出世作「T嬢の像」(1926年)で帝展特選を受賞した。順風満帆・新進気鋭の青年時代であった。
 吉原治良は、父の稼業を継承すべく製油工場に働きつつ、工場の空き部屋をアトリエとして絵を描くなど、オーナー一族のメリットを生かしつつ独自路線で画業を研鑽し続けた。「人形のある静物」(1924年)は、静物画というより夢のなかの世界を自由に描いたような絵である。決して上手に描いてやろうとはしていない。このころ吉原治良は、好んでさまざまな魚を描いていた。魚は、非常に多くの種類が容易に入手でき、絵のモデルとして便利だった、と述懐している。「鯔とチューリップ」(1928年)は、当時吉原治良がある程度自信をもつに至ったころの作品であったらしい。伝手を頼って藤田嗣治に会う機会を得たとき、吉原治良は、かなり期待を抱いてこの絵を藤田に見せた。ところが藤田からは、この絵ではあまりにさまざまな他の画家の特徴や要素が入りすぎていて個性が全くないと、厳しく批判されてしまい、そのときはかなり落ち込んだという。

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伊丹市芸術家協会展 伊丹市立美術館

 伊丹市立美術館で「伊丹市芸術家協会」の創立30周年を記念して美術展が開催された。今回は、絵画・工芸・彫刻・書・写真の60点ほどの展示である。
 絵画部門では、まず興味をひいたのが熊木清一「愛は、愛を愛することをバナナアイス」という奇妙な題名の、絵画というより金属のコラージュの作品である。中央に女性と思えるトルソが金属の溶接板金加工で立体的に造形されていて、周囲をやはり金属の細い枝が伸びた樹木が囲み、リンゴの果実もある。おもしろいきれいな作品だが、題名は私には不可解である。小林富士男「往き交う刻」は、海岸に面する風景を極端に視点を上昇させて、通常の風景画であれば青空にあたる画面上半分に海を配置して、多くの船を浮かばせる。特異な超現実的な構図を導入することで絵に時間と動きを暗示させている。芝原千恵「箱の生物」は、一見ごく普通の生物のように見えるが、なんでもない普通の木の枠(箱)を果物などの生物に少し不自然な配置でからませるだけで、絵としてはとてもシュール・レアリスティクになっている。意外にもおもしろい絵である。今回の展示では、全体に抽象化した絵画作品が多数をしめる中で、東海林恭子「花の窓辺」がその具象性でかえって際立っている。実際の窓にふさわしいほどの大きめのカンバスに、窓、窓から見える庭の景観、窓の周辺の鉢植えの花、花瓶などなど、ありふれた身近な対象をごく普通に描写している。ただきわめて巧妙な技法なのか、描かれた画面がごくわずかひずみを含み、揺らいでいる。この揺らぎが静かな動きを与えて画面をそこはかとない超現実的な明るいダイナミックな雰囲気にしている。今回の絵画作品のなかでは、私にはこの絵がいちばん印象が深かった。
 工芸部門では、片山晴被古「共生(漆・木)」が新鮮であった。壁掛けの絵のような風情の作品だが、素材は漆器でコラージュのように組み合わせていて、漆によるピンク・茶色・銀色などの色彩が鮮やかで「漆は美しいな」と自然に感じさせる。星野尚「ラマンチャ」は、寄木細工のような手法で、木材の木目や木地の色をうまく使って絵を構成する。素朴な木の色彩と質感が、中世の南欧を連想させる素朴さに不思議にぴったりしていて、とても雰囲気のある作品となっている。
 彫刻部門では、黒野敬三「ナースの誇り」がインパクトがある。がっちりした、しかし少し疲れたような表情のナースの頭部だが、眼が前に焦点を結んでいない。なにか内面に葛藤かあるいは不満があるようだ。
 写真部門では、木下毅「秋思(しゅうし)」が新鮮である。秋の落ち葉が積もった山の水辺の景観を撮影したものだが、よほど明るい景色であったのかあるいは思い切った長い露光時間で十分絞り込まれたシボリにより大きな被写界深度をとって、近景も遠景もまるで絵画のように焦点が合っている。そして画面の真ん中には、赤や黄色に紅葉した落ち葉があり、それらが個々には特段のものではないのに、景観としてとても美しい。「写真のような絵」と言われることがあるが、これは「絵のような写真」だ。
 全体を通じて思ったのは、このような作家ひとりにほとんど作品ひとつのみいう展覧会は、観るものにはなかなかむずかしいということである。典型的には「個展」のように、ひとりの作家について年代を追って作品の変化や進化が追えるような場合は、作家と作品について理解しやすいが、そうではなく突然唯一の作品だけに向きあうというのは、観るほうはかなりしんどい。このような場合、せめて作品の題名が観る側にとってヒントになるような、意味のある、意味の深いタイトルにしていただきたい、というのが私の素朴な願いである。
 伊丹市にこんなに大勢の芸術家がいたのか、といささか驚いた。予想以上に興味深い鑑賞であった。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (7)

日本人のゴッホ巡礼
Photo ゴッホの亡骸はオーヴェールの墓地に葬られた。わずか半年後の1891年(明治24年)1月にユトレヒトで没したテオの亡骸は、ユトレヒトの墓地に埋葬されたが、1914年(大正3年)年兄フィンセントの隣に移葬され、これ以後兄弟は仲良く永遠の眠りについた。
 フランスでのゴッホの死から間もなく、こんどは日本で、かねてから西欧の芸術に深い関心を示していた小説家の武者小路実篤、画家の岸田劉生・斎藤與里や、美術史家の児島喜久雄らの「白樺派」やその周辺の文学者・美術家たちが、ゴッホの作品や生涯を熱心に日本国内に向けて紹介し始めた。それは静かな熱狂の渦となり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がゴッホの作品と人生の軌跡を求めてオーヴェールへと赴くことになった。
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 大正3年(1914)、洋画家の山本鼎と森田恒友がオーヴェールを訪れた。ゴッホの最期を看取ったポール=フェルディナン・ガシェは、すでに明治42年(1909)に亡くなっていた。生前ほとんど売れなかったこともあり、ゴッホの作品の多くが没後もガシェの元に残され、息子ポール=ルイ・ガシェがそれらを大切に保管していた。当時はパリで見ることのできたゴッホの作品はごくわずかであり、彼の作品と足跡に触れることを求めた日本人たちは、オーヴェールをゴッホ巡礼の地と定めることになった。
 モーリス・ド・ヴラマンクとモーリス・ユトリロに傾倒した佐伯祐三も、ゴッホに深い感銘を受けたらしく、オーヴェールを訪れて「オーヴェールの教会」(1924)を描いている。

1933  土田麦僊・小野竹喬ら国画創作協会の中心メンバーとなった日本画家たちも、オーヴェールを訪れていた。近代ヨーロッパ絵画の表現を積極的に摂取し、清新な日本画の創造を目指した彼らにとって、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンに代表されるポスト印象派の芸術は、大きなインスピレーション源となったらしい。
  新潟県に生まれた精神科医式場隆三郎は、ゴッホの精神疾患に関する論文で学位を取得したのち、多数のゴッホの研究書、書簡集の翻訳、複製画による展覧会、複製版画制作などの活動を通じて、ゴッホの芸術と生涯を世に広めるのに多大な貢献をした。
  式場隆三郎の歌の師でもあった斎藤茂吉も、医学研究のためヨーロッパに留学し、西洋美術、とりわけゴッホへの関心を深めていった。オーヴェールで茂吉は、ゴッホをテーマに歌を詠んでいる。斎藤茂吉は、オーヴェール巡礼に先立って、オランダのハーグに、当時まとまったゴッホ・コレクションを有していたクレラー=ミュラー家をおとずれた。実業家アントン・クレラーの妻ヘレーネが収集したそのコレクションは、現在は貴重なゴッホ・コレクションとしてオッテルローのクレラー=ミュラー美術館で公開されている。
  今回のゴッホ展は、日本の浮世絵がゴッホの芸術に与えた影響、そしてゴッホの芸術とその生涯が日本の芸術や文化に与えた影響について考えるという視角から、かなりユニークな企画に基づくものであった。関連する浮世絵や日本人画家の作品もかなり多数展示された。こうして展示を観賞してみると、日本の美術の水準の高さ、その普遍性を改めて認識する。また日本の芸術家が、早くから西欧の芸術に単なる模倣目的でない、本質的な視点での関心を持っていたことにも気づかされた。総展示点数が180余りと、いささか多すぎて疲れたけれど、とても良い展覧会であった。[完]

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (6)

遠ざかるジャポニズム (下)
 ぶりかえす精神疾患の発作の合間にもゴッホは描き続け、それらの作品の中にはまだなお浮世絵の影響を感じさせるものが残った。

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「ポプラ林の中のふたり」(1890)がある。ポプラがいちめんに立ち並ぶ樹林だが、左手には道が画面奥に向かって展開し、林のなかに立つカップルは、顔が不分明なままで、脚もとは茂みのなかに溶け込んでいて、なにか現世の人間でないかのような雰囲気さえ漂う。背景は空が見通せるわけでなく、暗い群青色に沈んでいる。この明るいポプラの樹林は、絶望的な闇のなかにけなげに咲く夢の世界なのだろうか。おそらくゴッホの精神の内面が表現されたものだろう。Photo_2
 サン・レミの精神病療養所に入ってからは、庭の片隅や植物をクローズアップで描いた作品が増えた。「蝶とけし」(1889)という絵がある。これはまるで日本画の花鳥図のようでもある。
 フランス政府は植民地画家デュムーランを日本に派遣した。彼は日本主題の絵を発表しはじめた。
ゴッホが日本の浮世絵に魅せられる契機にかかわった画商ビング は、1890年に国立美術学校で大浮世絵展を開いた。そして1891年、日本美術が初めてルーヴル美術館に購入された。
 1890年7月28日、画商ビングは、浮世絵展の功績をみとめられて、レジオン・ドヌール勲章を授与された。まさにこの同じ日ゴッホは、オーヴェールの屋根裏部屋で死の床に横たわり、日付の変わった翌29日、しずかにこの世を去った。ゴッホの最期を看取ったのは、医師ポール=フェルディナン・ガシェであった。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (5)

遠ざかるジャポニズム (上)
Photo ゴーギャンとの共同生活に破綻したゴッホは、精神を病んでしまった。そして一方では、日本という国そのものも1889年に立憲制国家になり、ヨーロッパにおいても、日本はもはや想像を膨らませる対象としての「楽園」ではなく、現実の国家として見られるようになっていった。ヨーロッパの多くの人々が「日本の夢」から目覚めさせられるようになったのである。ゴッホからも、ジャポニズムは徐々に遠ざかり、手紙でも日本について語ることはほとんどなくなった。
 「オリーブ園」(1889)という作品がある。このころからゴッホの描写には、独特のうねりが増加してゆく。なにかの寓意が写実に折り重なっているようでもある。それでも表現は力強さを増し、青色を基調とした独自の描写からは、自然の生命力が感じられる。

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 「渓谷」(1889)という作品がある。全体の描写のトーンからは、かつてのジャポニズム的な印象ははるかに弱まっているが、画面構成を見ると、中央の遠景に小さく山肌が配置され、人物が風景に溶け込んだように控えめに描きこまれ、まるでデフォルメされた山水画のようでもある。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (4)

南フランスでのジャポニズム時代 (下)
 「アイリスの咲くアルル風景」(1888)は、ゴッホが想像する「日本的な」明るい光に満ちた、太陽光があふれる黄色の世界として描かれている。
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 南フランスで、ゴッホの絵は、いよいよ日本の浮世絵に強く影響されるようになった。「寝室」(1888)は、ゴッホがゴーギャンの到来を待ちわびていたアルルの「黄色い家」の寝室を描いた作品である。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか」、「陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」といった言葉がテオへの手紙に残っている。陰影は排除され、平坦で鮮やかな色面で構成されていて、ジャポニズムの深化がうかがえる。
Photo_2 「タラスコンの乗合馬車」(1888)も、高い地平線が導入され、鮮やかで平坦な色面遣いで構成され、はしごの斜めのラインが画面を引き締めている。いずれも浮世絵の影響だという。ゴッホは「タルタラン(ドーデの小説)に出てくる年老いたタラスコンの乗合馬車の嘆きをおぼえているだろうか」と言っている。
 ゴッホは、自然の中に生き、深い思想と真の宗教をもち、信頼できる友人と兄弟のように生活する貧しく素朴な人間として創作に専念する、というような生活を理想とした。そしてその理想を実現すべく、ゴーギャンと「黄色い家」での共同生活を始めたが、その生活は1888年12月の「耳切り事件」で崩壊してしまった。それでもその直前までの、ゴッホが日本を夢見ていたわずか1年ほどの期間は、彼にとってもっとも創造力に満ち、そしておそらくもっとも幸福な時期だったのだろう。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館(2)

ゴッホ誕生からパリ時代まで(下)
Photo 浮世絵に魅了されたのはゴッホだけではなく、当時のパリはジャポニズム(日本趣味)がまさに最盛期を迎えていた。アンリ・トゥールーズ=ロートレックは「ディヴァン・ジャポネ」(1881)という内装を日本の浮世絵からとったデザインにしたことで人気を博したパリのキャバレーのようすを描いている。でも私には、壁に日本の川船の切っ先などがわずかにうかがえるだけで、「日本風」とまでは見えないのだが。エミール・ベルナール「ポンタヴェンの市場」(1888)がある。描く対象は簡素化され、暗色で縁取りした内側はグラデーションのない平坦な色合いで描く。このような描写法は「クロワソニスム」と呼ばれ、ベルナールやゴーギャンが創始者とされる。この名称は、素地に金属線(cloisons=仕切り)を貼付けたのち、粉末ガラスを満たして焼く「クロワゾネ (cloisonné)」、日本では七宝焼と呼ばれる伝統的金属工芸の技法からきている。
 パリ時代のゴッホの浮世絵との格闘を示す代表的な作品として「花魁」(1887)がある。1886年、『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号が出された。その日本紹介文は林忠正が書いたもので、日本の美しい風景の記述はゴッホや彼の同時代人に、美しい日本のイメージを強く印象づけたらしい。ゴッホはこの表紙に使われていた渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」(1820~30年代)を拡大模写して「花魁」として描いたのである。ゴッホは、渓斎英泉の浮世絵を、写実的にではなく、自分の意志で特徴や技法を取捨選択しデフォルメして描きなおしたのであった。
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 めずらしい作品として、楕円形の木板の上に油彩を描いた「三冊の小説」という作品がある。この板の裏側には「起立工商会社」と漢字で記されている。これは長らくどのような目的で制作されたのか不明であったが、日本の美術品をフランスに輸入して商売していた会社が、パリ国際博覧会に商品展示コーナーを設営し、そのなかで説明用ボードとして使用されたらしいことが判明している。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館

 ゴッホの展覧会が京都で開かれるというので、寒波の谷間を狙って岡崎公園に出かけた。
 会場に着いてはじめて知ったのだったが、今回のゴッホ展はただコッホの作品をならべるのではなく、ゴッホの芸術と日本の芸術・文化との関連性や日本との交流に焦点をあてた展覧会だという。展覧会企画総合監修者の圀府寺司大阪大学教授のもと、学芸員たちがアムステルダムのファン・ゴッホ美術館のスタッフたちと綿密な打合せを重ね、世界各地のコレクションと交渉しながらつくりあげた準備周到な展覧会だという。

ゴッホ誕生からパリ時代まで(上)
Photo フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ南部のフロート・ズンデルトに1853年(日本の嘉永6年)に生まれた。これは、奇しくも日本にアメリカ艦隊のペリー総督が来航した年であった。やがて日本は開港して、多数の日本美術作品、とくに浮世絵がヨーロッパに紹介されることになった。ゴッホは、16歳ころから数年間は4歳年少の弟とともに画商の手伝いをし、24歳からは父が牧師であったこともあってか聖職者を目指してブリュッセルの伝道師養成学校に仮入学したりした。
 さらに伝道活動にもかかわったが挫折し、27歳ころから画家を志した。1886年、33歳になってアントウェルペンの王立美術アカデミーに入るが、まもなく弟が居たパリに移った。このパリでゴッホはフランスの印象派と日本の浮世絵に出会った。印象派芸術はゴッホに、光と明るい色彩を与えた。浮世絵はゴッホに、大胆な構図、新しいモチーフ、そして平坦で思い切った色遣いを与えた。
 パリの画商サムュエル・ビングの蔵には、日本から輸入した1万点を超える大量の浮世絵があったという。浮世絵に魅せられたゴッホは、そこに入り浸って熱心に浮世絵を研究し、また行きつけのカフェで浮世絵展を催すこともあった。「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」(1887)は、そのカフェの女主人とともに壁面に浮世絵が展示されているのが描かれている。

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