2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ

徒然雑感

突然のパソコン故障とささやかな新たな挑戦と

 実は去る7月末ころから9月初旬まで1か月以上、私のパソコンが故障して作文・メール・ブログなどの作業一切がまったくできなかった。
 今年も2011年の東日本大震災以来、酷暑の1週間弱を除いてエアコン無しで過ごし、したがってPCも36℃ほどの中で使っていた最中、突然PCが停止して動作しなくなってしまった。「熱暴走」という現象で、CPUの空冷ファンの故障が想定されるとのことで、やむなく修理に出した。ところが、修理の過程でハードディスク・ドライブのエラーが異常に増えていることが判明して、ハードディスク・ドライブの取り換えが必要となり、当初の予想をはるかに超える大ごとになってしまった。
 旧ハードディスクのテータの救済は、幸いにしてほぼデータ回収でき、1か月以上かかった修理を終えたPCが9月初めに帰ってきたのだったが、そこからがまたひと騒動であった。
 OSは5年前近く前に購入した時点のWindows 8にもどり、故障時点で存在していたすべてのデータはすっかり空になっていた。OS をWindows 8から Windows 8.1にヴァージョンアップ、メールとインターネットの回線接続、メールアドレスとメール送受信データの復元、ワークファイルの復元、自分が追加して使用していたすべてのアプリケーション・プログラムの再インストール、プリンターとの接続、などなど実際にやってみると思いのほか手間と時間を要した。OSのヴァージョンアップや種々の設定は、日ごろやる作業ではないので、PCメーカーやネットワーク・プロバイダーに電話して、細かに指示を仰ぐことになる。その間、インストールや再起動、ソフトの更新などマシン時間がかかる場合は、いったん電話を切って、PCが落ち着いてから再度電話をかけなおす、というサイクルを何度も繰り返さなければならない。
 PCメーカーもネットワーク・プロバイダーも、電話すればすぐ出てくれるわけではなく、短くて10分、長いときは数十分待たされる。これが何度も繰り返される。
結局、PCの再立ち上げに、ほぼまる4日を費やした。
 この度は、これまでのテータの復帰と原状回復を最優先に、ともかく修理・再立ち上げとしたが、このPCもすでに5年近く経っており、近いうちに新機種に更新する必要もあるだろう。そこで、今回の事故で考えたのが、私自身が「親指シフトキーボード」から卒業すること、であった。私はキーボードを使い始めた28年前からずっと「親指シフトキーボード」を使用してきた。「親指シフトキーボード」だと老人の私でも、なんの苦労なく迅速に日本文のキーホード入力ができた。しかしながら、最近はいよいよ「親指シフトキーボード」愛用者の絶対数が減ってしまったのか、OSのヴァージョンアップへの対応が覚束なくなってきたようだ。私としても今後のPC更新に備えて、準備に取り掛かる必要を切実に感じ始めたのであった。
 日本語入力を「ローマ字変換」にすべきか、「ひらがな直接入力」にすべきか、という悩ましい選択がある。これまで「親指シフトキーボード」でワンストロークで1文字を入力することに慣れ親しんできた身には、いまさら1文字ツーストロークの「ローマ字変換」は、やはり抵抗があった。そういうわけで、68歳を過ぎた老骨に鞭打ちつつ「ひらがな直接入力」を修行中であり、いまもこの文章を覚束ない手つきで「ひらがな直接入力」で綴っている。
 そういう次第で、老身に様々なことが立ち向かってきた盛夏がようやく過ぎつつある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

民進党は「日本死ね党」に改名したら!?

つるの剛士さん「保育園落ちた日本死ね、が流行語大賞なんて…」
Photo  タレントのつるの剛士さん(41)が自身のツイッター上で、「保育園落ちた日本死ね」の流行語大賞トップテン入りに「とても悲しい気持ちになった」と投稿し、議論になっている。
 つるのさんは2日、「『保育園落ちた日本死ね』が流行語。しかもこんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました。きっともっと選ばれるべき言葉や、神ってる流行あったよね。皆さんは如何ですか?」(原文のまま)とツイートした。
 1日に「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表となり、トップテンに「日本死ね」が入っていた。都内で開かれた授賞式には、国会でこの問題を追及した民進党の山尾志桜里衆院議員(42)が満面の笑みで登場。表彰され「年の締めにもう1度スポットライトが当たり、うれしい」と喜んだ。(産経新聞ウエブ版2016.12.2)

  授賞式に登壇した山尾とか言う民進党議員と異なり、つるの剛士さんはごく健全な正常な感覚を持っているな、と思った。昨年の安全保障関連法案、今年の年金改正関連法案、憲法審査会、そしてTPP法案への対応の酷さ・お粗末さ・稚拙さを見るにつけ、この病んだ政党には将来を期待できないと思っていた。そしてこの議員の信じがたいような破廉恥な行状を見て、心底呆れてしまった。たしかに民進党は、日本がよりよくなる方向のことはまったく目指していないようだ。それほど「日本死ね」がお気に入りなら、民進党は再び党名変更をして「日本死ね党」と名乗るのがふさわしいのではないか、とふと感じた次第。以上

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

アメリカ大統領選挙に思う

  11月9日の夕方、トランプ氏がアメリカ大統領選挙に勝利した。これは私にとって、7月はじめの英国EU離脱国民投票と同様に、とても意外であり、また大きな懸念を引き起こす結果であった。
  トランプ氏が勝利した要因について、今頃になってさまざまな人たちが発言しているが、やはりもっとも大きな原因は、オバマ政権に対するアメリカ国民の不満であろう。オバマ大統領は、演説を得意とする「言うだけ」のリーダーであった。ほとんどなにも実行せず、アメリカの地位と威信を漸減させ、国際的にはアメリカの関与の低下を顕在化して、ISの発展、中国の増長、ロシアの暴挙などを招いた。国内に対しては、ジャーナリズムの基盤でもある中間層や、一部の不法移民やまじめに働かない人たちにケアをした反面で、経済的下層の人たち、普通にまともに働き納税して黙っていた多くの人たちを放置した、少なくともそのように捉えられたことが問題である、とされる。リベラルというより典型的左派のマイケル・ムーア監督が、忘れられた階層をまともに取り上げた偉大なリーダーとしてトランプを応援する演説をしたこともあった。
  さらに関連するが、国民の切実な変革への希求があったようだ。オバマ政権閣僚のヒラリー・クリントンでは現状からの変化がまったく期待できず、もううんざり、というイメージが、とくに女性を含む若年層に強かったようだ。
  それにしてもである。英国の国民投票といい、今回のアメリカ大統領選挙といい、メディアが報道する情報がいかにいいかげんか、あるいは著しく偏っているか、という事実に改めて呆れ返る。全米100社ほどのメディアのうち、共和党を支持するものは1割以下、トランプを支持したのはわずかに1社だったという。メディアは、公正・真実の報道と謳いつつ、実際には自分が支持する勢力に不都合なこと、不愉快なことは報道しない。われわれは常にそう実態をしっかり認識しつつ、常に情報を吟味して判断する必要がある。
  いわゆる識者というのも、ほとんどアテにならなかった。国内でトランプの勝利を明確に予言していたのは、元大阪市長の橋下徹氏と超ベテラン・ジャーナリスト 木村太郎氏のみであった。
  私は保守派だから、どうしてもトランプのような破天荒な人物が大統領になることに、不安と懸念を禁じ得ない。たとえば、アメリカ・ファーストで外国の防衛には深入りしないと発言するトランプに対して、あと半年も経たないうちに中国軍が尖閣諸島に上陸して、トランプの出方を試す可能性がある。そのとき、わが国がどう対応するのか、すべきなのか、それこそ政治家は深く真剣に議論すべきである。議員のつまらぬ失言などで揚げ足をとって審議が停止する、などという怠慢で馬鹿げた態度はまったく国益に反するのである。
ともあれ外国のリーダーをわれわれが選べるわけではないから、よくも悪くも与件として、それを前提条件として、日本のこと自分のことを考えて行動していかねばならない。わが国の政治も、新たな厳しい試練が課せられたということだろう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

「生命政治」の時代と個人の健康

 ミシェル・フーコーは「生命政治」という概念を提唱し、現代の医学は人間を精神や魂をもつ存在としてではなく、人口として、他の生物と同じ次元の生物の「数」として、その最大化の維持に専念する存在である、とする。そのため医療の論理は、本人の意志に関わらず病気の予防として、生活態度の改善や運動の奨励さらに予防健診と先取りの治療としての投薬、さらには延命治療など、病気で苦しむ人間を救済するという以上に、福祉を達成する社会的・政治的利益を重視するという、民衆からも否定しにくい名目で人を縛りつけるという。たしかにこの指摘は、一面の真理をついている。「禁煙ファシズム」とも揶揄されるような強硬な禁煙強制、喫煙者への不当なまでの非難の風潮も同じような事情だろう。このようないささかヒステリックな禁煙運動には、たばこを吸わない私ですら違和感をもつ。
 私の母は、昨年初秋に95歳6カ月で亡くなったが、認知症が進んで判断があやしくなるまでは、めったに医師にかからない生活であった。本人の意識では、自分は健康保険に加入して保険料を支払ったが、自分自身が疾病で使用した給付額は些少であったと思っていたに違いない。しかし亡くなる前の2年間ほどは入退院を繰り返し、大きな疾病をもたなかった母は胃ろうで生命を長らえ、保険診療で自己負担分は大きくなかったものの、結局大きな医療費を費やして死んだ。生命を重視するというある意味反論しにくい論理で、本人の意識がまどろんだなかで巨額の医療費を費やされたのも事実である。私自身を含む国民の大多数が同じことをやるようでは、わが国の健康保険制度は、いずれ破綻を免れないだろう。
 ただこの問題に関しては、幸いにして現在のわが国ではさほど強い強制力が働いていない側面もある。私たちに残された自由度はまだかなりあるとも思う。私は自分が納得する以上の予防健診は避けているし、そのためにたとえば癌の発見が遅れて死亡が早まったとしても、幸いにしてこれまで生きてこられたことで満足していて、生を終えることに大きな未練はない。私の認知能力が低下したときには、延命治療を断る旨の遺言書のようなものを認めて、家族に配布している。
 テレビなどの多くのメディアでは、毎日のようにあれを食べず飲まず、これを食べなさい、これを続けなさいという類の無数のアドバイスが流されるが、私はほとんど興味がない。家人がつくってくれるおいしい食事を楽しんで、自分が抵抗なく無理なくできる範囲の生活習慣を続けて、結果として適当なところで命が尽きれば、それで十分幸せなことであると思っているのである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

民主主義の課題と行方

 「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀に満ちたこの世界中で試みられていくだろう。民主制が完全で賢明であると見せかけることは誰にもできない。実際のところ、民主制は最悪の政治形態ということができる。これまで試みられてきた民主制以外のあらゆる政治形態を除けばだが」。これは、さきの大戦後の1947年に英国下院で行ったウインストン・チャーチルの演説であり、名言とされる一節である。
  ごく最近でも、この重大で解決困難な課題を見せつけられる事態が絶えない。なぜ「民主制は最悪の政治形態」なのか? 私なりにこれを考えてみる。
  民主主義は、選挙を通じて「民意」を政権の選択・委任を通じて政策に反映することができる、とされる。ここで「民意」なるものの本質が基本的な問題となる。「民意」とされるものの本質が、実は「政策」ではなく、民の単なる「希望」に過ぎない、ということである。「このようなことが実現できたらいいな」ということは表明されるが、それを実現するための「プロセス」については、ほとんど無頓着なことが通常である。
 現実の政治では、あるひとつの要望を実現しようとすると、別の要望を抑制せざる得ないことが通常である。さまざまな民の要望を同時・並行に実現することができる、という環境は現実世界にほとんど存在しない。もしそうなら、専門家としての政治家など不必要である。現実の政治の課題は、相反する利益相互間の妥協・調整の積み重ねとなる。
  そういう状況の下、実現不可能なさまざまな「要望」「希望」が「民意」となる。民主主義のルールは、このような「民意」を「票数」で政治に影響を与える。その結果、国民の「民意」である「要望」「希望」に対して、政治家は「票を獲得したい」がために、政策の実現性を真剣に顧みず寄り添おうとする傾向が発生する。これこそが「ポピュリズム」である。
  「民主主義」において、政治家は票を獲得することでようやく存在できるがために、「票を獲得」することが常に優先される。このため、具体的な政策を通じてそれが実現されるか否かの真剣な考察を飛び越えて、国民の「民意」、つまり「要望」「希望」を重視せざるをえない、という誘惑が常に存在する。その結果、国民すなわち有権者の「無責任」が政治家の「無責任」として展開することになる。
  あるべき姿は、国民の「要望=民意」を実現するために、政治家が政治のプロフェショナルとして、有効で有益な「政策」を具体化し検討し、その実現のためにいかなるコスト(=その実現のために犠牲とならざるをえない別の要望事項への影響)をきちんと説明し、そのうえで国民の「要望=民意」を受け入れて対峙することである。ほんとうは、実現できる目処のない国民の「要望=民意」を、安易に「公約」してはならない。
  しかし現実の状況は、政治家にとって選挙で当選しななければ政治を主導することができないがために、先ずはなにをさて置いても「要望=民意」に寄り添い、実現できる目処のない「要望=民意」を「公約」してしまうのである。これは、いずれの政党も陥りやすい、根強い傾向である。
  この大問題を是正しないかぎり、少し前の民主党政権のような悲惨な状況を招くことになるし、現在の自民党政権でさえ、本来最優先で実行すべき大切な政策を後回しにすることになる。
 国民の側でも、政策を通じて具体化・実現が可能か否かを深く問わずに、自分たちの「要望」をストレートに安易に聴いてくれる政治家に期待しがちである。これは日本に限ったことではなく、現在アメリカ大統領候補予備選挙で発生している「トランプ旋風」も、同じ現象である。
  この困難な問題を少しでも是正するためには、政治家の真摯な反省と「覚悟」が必要であると同時に、国民の側も諦めずにほんの少しでも「政治的に賢くなる」ことを積み重ねていく必要がある。そのためには、あたかも衆愚化を煽るかのような低レベルのマスメディアを信用せず、われわれが自分自身で少しずつ考え抜くこと、かつその地道な積み重ねが必要である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

高齢者の誕生日

  私は67歳の誕生日を迎えた。
  若いころは、誕生日と言っても「またひとつ馬齢を重ねてしまったか」「あまりパッとしないまま年齢だけ過ぎていくな」などと思うことが多かった。しかし今では、こうして無事に年齢を重ねることができることだけで、その境遇と家族、そして周囲の友人・関係者に感謝する気持ちになる。
  ついここ2~3年に急に多数の同年齢のひとたち、たとえば高校や大学の同窓生が鬼籍に入った。それ以前は、たしかにたまに友人の死があったものの、私の主観としては「事故」的な死として捉えていた。ところがここ2~3年、私の感覚としては、急増した友人の死は「事故」ではなく「寿命」として切実に感じるようになった。
  死に至らなくとも、たとえば同窓会では、参加者の約四分の一程度の比率で「昨年は病気が発覚して、いろいろあって、幸運にもこうして復帰できて、同窓会に参加できた」という話題がある。ひとごととして見ると、そもそも病気になることが不運で、復帰できて「幸運」というのは腑に落ちない、などと傲慢に考えていたが、いまでは違って、こうして無事であること自体がとても幸福に思えるようになった。
  さらにそういう病災が、とてもひとごととして考えにくくなってきた。私は幸いにして今のところ内科的には問題はなく、しかし右脚膝が加齢型変形性関節炎で少し痛みがあり走ることができない、数年前腰痛に悩まされ、いまはマッケンジー法と腕立て伏せで骨格の矯正と腹筋・背筋の維持でなんとか無事に凌いでいる状況である。それでも、いつなんどき「致命的な疾患が見つかりました」ということにならないとは言えない、と本心から思うようになった。
  病気が現れなくても、老化現象はあきらかに発現している。かつては時間の有効利用のため、複数のタスクを並行して行っていた。ところが数年前から、そんなことすると、ときどきとんでもない失敗をするようになった。同時に確実にできることは、唯一になったのである。新たにものを覚えることはとても困難になり、かつて覚えていたことも、思い出すのに時間がかかる。
  思えば、20年くらい以前に読んだ文芸評論家中村光夫のエッセイに、老後の心身の変化や衰えを小説にしようとした、というエピソードがあった。私も今ではその中村光夫の心境がとても良く理解できる。
  あれができていない、これも不十分、という若いころの心境から、年齢を重ねた今では、いろいろ思うように行かなくとも、こうして何事もなく暮らせるということが、それだけでとても幸せなことだ、と素直に思えるようになったのである。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

母の死に関して思ったこと

  母が逝った。臨終の後、葬儀社へ搬送し、湯灌に立ち会った。遺体はすでに生命は失われているが、遺族にとっては単なる物体ではない。通夜式・葬儀で宗教的様式にしたがって弔い、告別式で親族・知音が最後の面会を行い、火葬場に送り届けるまで、特別なものである。母の遺体を包む装束も、遺体を納める棺桶も、棺桶を埋めつくす花も、すべて遺族や親族、そして母の死を痛む人たち全員の心が乗り移ったものである。
  母は、幸いにして94歳6カ月の天寿を全うした。母の遺体を身近にして、ふと思った。この遺体が、もし自分の幼い子だったとしたら、あるいは将来を楽しみにする青年だったとしたら、または働き盛りの仕事をやり残した壮年だったとしたら、悲しみや悔しさはいかばかりであったろう。ましてその生命が、事故あるいは事件で突然奪われたものであったとしたら、私はとても平静ではいられなかっただろう。
  すでに生命が失われても、こうして形が残っている段階では、遺体はただの物体ではない。天寿を全うした母に対しても、私たち遺族は、母の在りし日のシーンをさまざまにフラッシュバックのように思う。もしもこの遺体が、事件などで殺害された遺体であったとしたら、遺族の心は想像すらできないくらいにひどく深く傷つくだろう。その犯人に対する憎しみが、強烈に増倍されるのは当然であろう。
  たとえば16年前の桶川ストーカー殺人事件では、母親がかけつけた警察の冷え冷えとした遺体置き場で、被害者女性の遺体は全裸で処置台の上に放置されていたという。たとえ遺体ですでに生命が失われていたとしても、警察側のそんな処置や態度は到底許されるものではない。そんなに極端でひどい場合でなくとも、殺害された被害者の遺体を引き取ったときの遺族の悲しみ、犯人に対する憎しみ、無念さは、多少とも想像できるような気がする。私的な報復・復讐が法的に禁じられているわが国で、安易に「死刑廃止」などと主張する人たちには、是非真剣に考えていただきたい。
  母が天寿を全うし、ひとは誰しも死を迎えることに納得し、私たちはこうして遺族・親族・知音で丁寧に母を見送ることができて、幸いであった。悲しみというよりも寂しさがあるが、私たちも母もそれなりに納得できると思うからである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

蝉の声

 熱帯夜の朝、目覚めると蝉の声が賑やかである。ただ、蝉の声がうるさいから目覚めたというわけではない。
  昼間、私は部屋で仕事するとき、いつもごく小さな音量でクラシック音楽をBGMとして聞き流している。ところが、蝉が賑やかに合唱を始めると、そんなBGMの音などほとんどかき消されてしまう。そういうときはBGMを止めて、蝉の声をBGM代わりにして過ごす。BGMとしては音量が過大だが、決して喧しくなく快適なのである。もっとも洗濯機からの洗浄完了のメロディー音も、訪問者が押す門のピンポン音も、蝉の声にかき消されてしまうことがしばしばである。
  私の部屋から窓越しに見る木々のどこかに、大量の蝉がいるらしい。たまに蝉が部屋の窓ガラスに衝突してくることもある。私にとって、蝉の声は大切な夏の風物詩でもある。
  海岸縁に宿をとったときの潮騒の音、川べりの宿で聞く清流の音、そしてこの蝉の声など、自然の音はときとしてかなり音量は大きいこともあるが、不思議にうるさくはない。むしろとても心地よい。人類が太古から聞き馴染んだ音だからなのだろうか。
  この蝉の声が小さくなって、やがて消えていくとき、また季節がひとつ進む。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ワールドカップ予選リーグ日本敗退への感想

  ワールドカップ予選C組で、日本の予選敗退が決まった。私の独断と偏見による私見を記す。私はサッカーに関して全くの素人であり、何の知識もない。だから私の感想は、門外漢の勝手な意見に過ぎない。
  予選の3試合をすべて観戦した。第一戦のコートジボアールに対しては、前半は硬さが残りつつもまだエネルギーを感じたが、後半コートジボアールのエースとされるドログバが登場するや、そのカリスマ性に気押されたかのようにまったく主導権を奪われてしまい、あっという間に逆転されてしまった。第二戦のギリシアに対しては、ラッキーにも前半の早い時間帯に相手選手の反則・退場によって、11対10の人数的なアドバンテージを得てしまった。このことが相手に防衛中心としたカウンター狙いの戦術をとらせ、日本側の不自然な慎重さと終盤の焦りをもたらし、結局双方に得点なしの引き分けという日本側にとって欲求不満の結果となった。第三戦のコロンビアに対しては、日本チームとしては今大会でもっともよく動き、果敢に攻めたものの、実力で劣ることが明白となり、結局大差で破れた。
  観戦していて、サッカーという世界的なスポーツに関する限り、日本はまだまだ弱小であることをまざまざと見せつけられた。
  ここ数年は、日本のサッカー選手もかなりの人数がヨーロッパ・リーグのチームに参加し、しかも中心選手・主力選手としての待遇で招聘される選手もいたりして、日本のレベルが随分上がっていたのかと勝手に思い込んでいた。しかし、今回の予選リーグの3戦をみて、世界にはまだまだ上には上がいる、日本の代表選手レベルよりも上回る選手は数多実在する、という厳しい現実を目の当たりにした。
  香川は、ドリブルやパス廻しは上手だが、ゴールは上手とは言えない。本田は、ツボに入るとゴールできるが、自ら走り込んでドリブルで相手をかわして突き進むほどのスピードも技能もない。日本選手のなかで相対的に国際レベルに見えたのは、ワントップの岡崎と、サイドの長友であった。岡崎は、よく走り込んでむずかしいシュートを決めた。長友は、終始よく走り、スピードで相手チームの選手にほとんど引けをとらなかった。それでも、傑出した存在とまでは見えなかった。
  比較の対象ではないだろうが、たとえば女子サッカーでは、相手がいやがるような場所に頻繁に出現し、いざというとき決定力を見せる澤、世界的にみてもトップレベルの精確なキックを放つ宮間、タフに走り回りゴールもできる川澄など、まさに世界のトップレベルらしい人材がいる。
  日本の男子サーカーは、世界のトップレベルから見たらまだまだということなのだろう。今回の相手チームだけでも、本田や香川に勝るとも劣らない選手が数多いたように見えた。観戦して応援する立場としては、当分気長に日本チームの成長を見守るしかないのだろう。
  気楽に観戦するだけの私としては、そんなふうに日本選手に対して不満をいうものの、日本選手たちは彼らなりにベストを尽くしてよくがんばったとは思う。決して卑下することはない。堂々と帰国してほしい。われわれ凡庸で無責任な観衆は、サッカーに関しても無責任なメディアの煽りに乗せられてしまったのかも知れない。
  日本チームの選手たちには、心から「ご苦労さま」、「ありがとう」と言いたい。今回の結果は厳しい現実だったが、後輩の指導も含めて、これからも気を取り直して頑張っていただきたいと思う。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

懐かしのメロディー

  NHK-BSのテレビ番組で、懐かしのメロディーのような放送を、ふと視聴した。
 私が小学校のころ、高校生のころ、中学生のころ、大学生のころ、そして若い会社員のころ、半世紀余りにわたるさまざまな時期の古い歌を放送している。半分以上の歌は、もとの歌手が死んだりあるいは引退したりで、別の歌手が歌っている。それでも歌そのものには、深く郷愁をさそうものがある。なんとなく聴いていても、その歌を初めて聴いたころ、何度も聴いたころのことが、フラッシュバックのように鮮明に甦ることがある。
 ただ私自身が若いころ、その時点では、歌を聴いて何かを思い出すということは全くなかった。そのころは、歌を聴いて感動しているときは、頭が真っ白になって、その歌の世界に没入し、過去は存在せず、その現在と歌の世界から想像する未来のみが頭の中を占有していた。その歌の世界、その歌によって思い浮かぶ未来が、すべてであった。
 年齢を重ねて、こうして懐かしのメロディーとして聞く今では、歌の世界で頭のなかを真っ白にすることは到底できず、代りに頭の中を想い出の景色や心象風景、感覚の記憶が占有する。良いこと、悪いことにかかわらず、さまざまなことが頭をよぎる。もはや、歌だけの世界に没入する、没頭できることは不可能となっているのである。そういう意味では、頭の中が真っ白になった、そのようにできた若いころが、改めて懐かしいとも思う。
 わたしはとくに流行歌や歌謡曲を好んだわけではないが、振り返ってみれば、私の記憶にたくさんの流行歌があり想い出があることに、改めて気付く。そしてそれとともに、年齢を重ねて、自分のそうしたものに対する受容の仕方がおおきく変わってきたことにも思い至るのである。

人気ブログランキングへ

その他のカテゴリー