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時事アーカイヴ

佐々木信夫「都知事は時代が決める」

  中央公論4月号に、元都庁の役人であった佐々木信夫氏の「都知事は時代が決める」と題した論文があった。美濃部3期と鈴木4期の時代を都政の現場の中にいた著者が、都知事に求められる資質や態度を随筆風に書いたものである。
  高度成長時代の問題が顕在化していたころに、その反動から都民の支持を受けて67年から79年にわたる3期を勤めた美濃部亮吉、美濃部都政の大きな負の遺産であった赤字財政を手直しすることを求められて79年から95年まで4期にわたって知事をつとめた鈴木、そして官僚的政治への不信へのアンチテーゼとして登場した青島幸夫、それぞれ振り返ってみると、都民がしかるべく要請を投票に反映したものであると著者はいう。
  そういう認識のうえで、著者は、3つのポイントを新都知事候補に対して指摘する。先ず、財政12兆円、人口1,200万人、都庁職員数19万人という巨大都市の経営である。インドの国家財政にも匹敵する巨大都市の政府は、すでに大きくなりすぎており、大きな改革が必要である。
  第二に、98年度だけで1,000億円、さらに今後数年は同じ規模の赤字が避けられないと思われる膨大な財政危機の修復である。
  第三に、急速に進む高齢化社会への対応である。
  この都知事選挙については、現在約6名の「有力候補」が名乗りをあげ、ここ1カ月くらいは、テレビなどのマスコミを通じて熱心な政策論議が報道されており、非常に興味深い議論が全国的に視聴されている。私は神奈川県民であり、直接当事者ではないが、この首都の首長選挙の動向と政策論議は非常に興味がある。
  現在の6名の主要候補がそろうまでに、すでにさまざまな興味ある経緯があった。青島現知事が続投表明することを前提に、あて馬として指名候補としていた柿沢氏に対して、青島氏の選挙不出馬表明で一転して自民党が勝ち馬候補として指名を決めたのが、公明党の協力を期待できる明石康氏であった。自民党は柿沢氏擁立を取りやめ、この処置に怒った柿沢氏が自民党の意思を無視して立候補するや、ついに自民党は柿沢氏を除名した。また、当初「税金を大切に使う」ことをモットーとして立候補していた野末陳平氏が当選の見込みがないとして立候補を取りやめ、さほど政策が似ていたとも思えぬ枡添氏の支持に回ったが、どうやら野末氏の票がそのまま枡添氏に回るようにも思えない。こうして5名の有力候補が出そろったところに、24年前に美濃部氏に敗退した石原氏が捲土重来と名乗りをあげてきたのである。
  このところ、土曜日や日曜日のテレビ番組では、これらの候補者達を出演させての「激論」が定番となっている。こうした政見の議論は、我々にとっても興味深いもので、こうした番組企画は良いことだと思う。
  石原氏は、主張している内容は私にとって妥当な範囲であると思うが、会社の運営と同様、実際の政治遂行では、泥臭い、粘り強い努力が要求されるのだが、彼がどの程度そういった地味な面に能力を発揮できるかは不明である。明石氏は、そういう点では国連という非常に複雑で困難な団体を率いてきたという実績を認めてもよいのではないかと思う。
   いずれにしても、こうした機会に政治家たちが、詳細な議論を展開して、それがマスコミによって報道されるということは、わが国の市民レベル民主主義の育成・発展のために非常に意味があると思う。(1999.3.21)

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経済原則と公害

 応用物理学会の機関誌「応用物理」の巻頭言に、筑波大学の南日康夫先生が「炭酸ガスやフロンなどによる地球規模の汚染は、近視眼的コストに目の眩んだ現代工業社会が責任をとるべきである」と書いておられる。私自身、ながらく自由主義経済と社会主義経済と、これらの公害や環境汚染の問題との関係について興味を持っていたので、ここで少しコメントしたい。
 私は結論から言うと、環境汚染や公害などの問題を、できるだけ早期に妥当に「コスト」の問題に反映できるようにする社会構造を構築することが、これらの問題を予防し、最小化し、かつ解決する最良の手段であると思う。
 私は、早くから社会主義経済がそのなかで働く人々にとって、妥当なインセンティブを与えにくいために、基本的に効率が悪かろうとは思っていた。けれども長い間、その成果を利益のみで評価しない構造を基本とすることから、公害や環境汚染などの利益と直接結び付かない問題に対しては、根本的に優れた対応をなしうるものであって、少なくともその点では自由主義経済よりも優れているはずであると考えていたのである。
 実際、戦後の復興が目に見えて軌道にのり、奇跡的な経済成長が定着した1970年ころから、公害問題が大きな話題となり、これこそ資本主義体制、自由主義経済の弱点の露呈であるかに見えたのであった。これに対し、当時の社会主義国家では、このような問題は報道されなかった。ところが、1989年の東欧革命の前後から、社会主義経済体制の下でも、甚だしい環境汚染や公害が存在し、その程度は自由主義経済下よりもさらにひどいものであることが判明したのである。
 このような皮肉な結果をもたらした原因は、中央集権の硬直性、計画経済の非効率、など運営の問題もあるが、基本的には「経済原理に基づく妥当な負帰還が存在しない」ということが根本的問題なのである。
 類似の現象として、日本の家庭電化製品の品質や信頼性が、米国の軍事用エレクトロニクス製品のそれよりもはるかに高いことがある。当初の思想からいうと、必要十分なコストが認められる軍事用の方が、コスト・プレッシャーの大きい家電製品よりも品質や信頼性が上であるべきように思える。しかし現実はこれに反して、大量に出回る低コストの商品がもし問題を起こすと、その対策費用が収益を容易に上回る可能性があるという深刻な経済的リスクがあって、これを予防する努力の結果として、家電製品のほうが軍事用エレクトロニクスよりもはるかに信頼性が高いという、一見意外とも思える事態が起こるのである。
 現実に公害や環境汚染の問題が存在し、一部の企業活動が企業の外の人々に困難をもたらしているのも事実である。これは政治の分野に属するのであろうが、この対策としては、社会主義的アプローチよりも、このような問題が的確に「コストの問題」を引き起こすような体制を構築することの方が重要であると考える。
 かつて三重県四日市市で中部電力の火力発電施設の排出する煤煙が公害の原因となっているとの裁判で、敗訴した中部電力社長が、このままでは日本中のすべての電力会社が敗訴して国家的問題になるとして、当時の東京電力社長木川田氏に、協力して逆提訴する相談をもちかけた。しかし木川田氏は、当面の国家的利益を優先して公害をそのままにするのでなく、技術的に排出ガスを改善すべきであるとして同調しなかったという。この背景には、当時の東京都知事美濃部亮吉、神奈川県知事飛鳥田の両革新知事の存在が大きく影響を与えたと推測されている。このように、自由主義のわが国では環境問題の解決に何らかの貢献をした社会主義者が存在するのに、社会主義国家では逆に甚だしい環境汚染をもたらしたというのは、悲惨な皮肉である。
 また、かつて米国でマスキー法という当時としては非常に厳しい自動車の排ガスに関する規制が提案され、米国への輸出と日本市場への波及で話題となったとき、わが国最大手のトヨタ、日産の2社は、製造コストの上昇とそれにともなう価格上昇による普及の鈍化を根拠に、わが国での立法化に反対したのに、下位メーカーである三菱自動車と東洋工業は技術的にメドありとして規制導入に前向きであったという。この結果、いずれの自動車メーカーにおいても競争で技術開発が行われ、米国の立法化が遅れ、米国企業の対応が遅れているすきに、わが国の自動車が技術的に圧倒的に優れたものとなり、国際的競争力の向上に結果的に大きな貢献をしたという。この例は、自由主義経済の競争原理が、技術の進歩を促し、結果的に公害を克服したというものである。
 巨額の税金を徴収し、国民の保護を義務づけられた政府としては、最大限公害防止と対策に努力すべきことはいうまでもないが、社会主義国家が幻想したように、国家の能力を過大にみてはいけないというのも厳然たる歴史的事実である。かつての社会主義国家がそうであったように、唯一の中央権力だけがすべてを決めるような体制では、本当に有効な対策が複数提案されて、その中からもっとも有効なものが選択されて、効率よく実行されるという保証がまったくないのである。妥当な経済原理は、まさに見えざる手として強力な問題解決能力を発揮することがある。公害の問題も、コストに反映させる方法によって、または自由主義的競争原理に還元して、解決を図るのがよいと考える。(1994.12.4)

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北京オリンピックとチベット騒動

  3月チベットで平和的な行進をしていた僧侶が共産党政府に大量逮捕された事件が発端となり、大規模な騒動が発生した。百数十人を越えるチベット人の死者が出た、とチベット側は主張している。この事件に対して、世界中でオリンピックの聖火リレーに対して、さまざまな形の抗議行動、妨害行動が発生している。
  中国共産党政府のチベットに対する暴虐と圧政は、今にはじまったことではない。中華人民共和国政権を確立した直後から、共産党政府はチベットに侵略を進め、軍事力、暴力による制圧を基盤として、チベット地域に漢民族を強制的に植民し、鉄道を敷設して中央政府から軍事力を速やかに搬入できるようにした。チベットの人びとの宗教、習慣、伝統にお構いなしに観光地化開発を進め、固有の民俗文化を破壊し、さらには民族浄化を着々と進めている。こういう事態は、わが国ではエスタブリッシュト・ペーパーと自称する大新聞をはじめてとして、ほとんど報道されることがなかった。こういう政治的暴虐が現在行われていることを、世界中に知らしめたという点では、今回の事件も意味があったと言えるだろう。
  日本のエスタブリッシュト・ペーパーを自称するある大新聞は、この事態に対して、福田首相はもっと中国政府に抗議せよ、オリンピックは平和の祭典として無事に行われるべきだ、としている。私はこの安直で無責任な意見は、二重に間違っていると思う。
  チベットが暴力で併合されたことは事実であるが、ともかく結果として中国国内に取り込まれている限り、国家同志の外交としては、チベットの扱いに対して直接容喙することは、中国政府が主張するとおり、内政干渉となるだろう。たとえば北朝鮮の場合のように、日本人が直接被害を受けた場合とは異なり、わが国の首相が中国の首脳に対して、チベットの扱いについて明確な要求を述べることは、きわめて慎重でなければならない。
  しかし世界中の人びとが考えるとおり、中国が平和の祭典を挙行する資格があるのかどうか、きわめて怪しい。私は、国家としてではなく、市民、一般人として、わが国のアスリート団体が自主的な判断として、北京オリンピック参加をボイコットするのがもっとも妥当であると思う。
  わが国は、中国共産党の政府と異なり、国民に「自由」を保証している。われわれは、国家としてでなく、一般人として北京オリンピックに強く抗議し、行動すべきである。(2008.4.13)

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社会保険庁不祥事と年金から騒ぎ

  最近、社会保険庁が扱う年金をめぐる不祥事が、連日メディアを賑わしている。5,000万件にのぼる帰属不明の年金記録が発覚し、さらにそれ以外にも多数のコンピューター入力ミスがある、などなど。さらに、支払った自分の年金の帰属が認められず、窓口に駆けつけた加入者が、ずっと以前の領収書など確証がないという理由で、冷たくあしらわれる、とにかく窓口の役所的対応がなっていない、など加入者の経験にもとづく不満も爆発した。新聞やテレビなど、マスコミは監督官庁最高責任者である厚生労働大臣を一斉に攻撃し、安倍首相の政治責任を追求している。
  少し前には、やはり社会保険庁が管轄するグリーンピアなどの保険基金による保養所が、購入価格よりもはるかに安価に民間に払い下げられ、多額の差損を発生したことを、野党やメディアが指摘、追求していた。
メディアは「普通の民間会社なら、そもそもこのような杜撰な事務管理をすれば倒産する。また、このような杜撰な事態が発覚したら、厳しい処分を受ける」と指摘している。
  たしかに、社会保険庁の事務の杜撰さはひどいものであり、責任を免れない。このような事態を、ただしく監視、監督できなかったことについては、厚生労働省に責任がある。しかし、現在のような感情的な社会保険庁叩き、あるいは政府攻撃は、問題の解決に結びつく本質的な議論とは決してならない、と私は思う。
  多くの年金加入者が、人生の途中で職場を変え婚姻などで姓を変える現実があり、しかもそのたびごとに必要な変更手続きが、加入者側の申請のみに依存するような状況で、現在の基礎年金番号のような個人ID番号なしで、加入者の年金記録が間違いなく正しく維持管理できる、ということは、本来ほとんど不可能ではないか。社会保険庁の態度の根本的な問題は、仕事の結果が杜撰であったことよりも、仕事に着手する以前に自分達に手に負える作業条件ではないという状況をきちんと説明して事態の改善を真剣に要請しなかったことの方にこそある、と私は思う。こういう事態こそ、普通の民間の会社では、ありえないのである。
  加入者のIDが一元的にできる基礎年金番号が導入されたのは、ごく最近である。そして皮肉なことに、複雑に変化する個人情報を合理的な基礎年金番号によって一元的に管理できるように変換するプロセスで、それまでのシステムの矛盾や非合理性が一挙に露呈したのである。かつて加入者ID番号システムの必要性が政府から説明されたにもかかわらず、国民に背番号を付番するのは個人の国家管理につながる、人権が脅かされるなどという非合理的な理由で、野党、メディア、そして国民は拒否してきた。そういう仕組みなしに、複雑に変化を繰り返す年金記録管理が、とても実行でき得る状況にないことを、無謀にも無視してきたと言える。そういう意味では、加入者ID番号に反対した国民にも責任がある。ただ繰り返しになるが、それと同時に、仕事の実行側、つまり役所や社会保険庁で、事情説明と真剣な要請の努力が不足であったとは言えるだろう。
  グリーンピアなどの保養所の問題についても、野党の態度やメディアの報道姿勢は公正さに欠ける側面がある、と私は思っている。1980年代以前のわが国経済右肩上がりの時代には、多くの人々が、積み立てた保健基金がインフレのために目減りすることを恐れていた。インフレヘッジこそが多くの加入者の深刻な関心事であり、当時は堅実な投資先と考えられていた保養所など不動産投資は、多くの国民あるいは加入者から、奨励され支持されていたのであった。もっとも、それ以後のバブル崩壊をはじめとする著しい経済状況の変化があったにもかかわらず、不動産投資の運営管理を放置した社会保険庁などの役所側にも、もちろん大きな責任がある。ただ、かつてはみんなが不動産投資に期待し支持した事実に一切触れずに、国民から集めた保健基金を用いて不動産投資をしたということ自体を責める、という現在の野党やメディアの姿勢は、あきらかに不公正だと思う。
  また、国民年金や厚生年金というシステムは、基本はあくまで契約であり、当事者の請求にもとづいて処理を行う、という基本方針は正しいのである。いま無責任なメディアで氾濫しているような、役所や政府に無限責任を要求するかのような議論、あるいは感情的な不満や反感は、自然感情的なレベルで共感を得る側面はあっても、本質的には間違いなのである。本来あるべきメディアの態度とは、国民が感情的になったときには、国民に冷静さを取り戻すことを促すような方向に報道すべきであると思うのだが、現実のメディアは、感情的に煽動することに専念している。まったく無責任であると思う。
  もっと重要なことは、現在問題として取り上げられているようなことがらは、国民年金や厚生年金の長期的な維持という観点からみて、けして本質的な問題でも、重要な問題でもない、ということである。これから、われわれ団塊の世代が年金の受給者側にまわり、年金を支えるひと達の人口が減る。年金を含む社会保障関係年間予算の規模が、現在の約90兆円から、ほんの20年くらいの後には、140兆円を越えると試算されている。この膨大に膨らむ必要資金に対して、それを支払い負担する側の労働人口はどんどん減少するのである。この大きな致命的とも言えるギャップをどうするのか、これこそ全国民が真剣に考えなければならない大問題である。団塊世代の私は、現状の延長だけでは、きっと将来受け取る年金が減少することを受け入れざるをえなくなるだろう、と覚悟している。対策のひとつには、かつて実行しようとしてきちんと管理せずに失敗した不動産投資などの投資活動や、さまざまな形の金融活動があるだろう。
  年金のような国民全体にかかわる重要でむずかしい問題は、たまたま不祥事や問題が発覚したときの政府を攻撃して責任をとらせて辞任させたら解決する、というような生易しい問題ではない。レベルの低いメディアの煽動にまどわされず、われわれ国民は長期的な視点で冷静に考えて判断して行かねばならない。 (2007.6..9)

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死刑廃止論についての所感

  テレビの討論番組で、わが国の死刑廃止論者のひとりである明治大学 菊田幸一氏が発言していた。最近、あいつぐ凶悪事件の発生や死刑を回避した裁判のやり直しなど、この問題に関わる話題が続いて出ているので、この討論番組を見ての私の感想を記しておく。
  菊田氏がいう死刑廃止の理由として、次の6点があげられていた。
(1)死刑に犯罪抑止効果はない
(2)犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない
(3)死刑は、国家権力による殺人であり、国民をまもるべき国家がやるべきことではない
(4)裁判は常に完全を期することはできないため、どうしても冤罪が発生し、無実の人を死刑に処して殺してしまうことがある
(5)世界的趨勢は死刑全廃であり、日本は文明国・先進国として、率先して死刑全廃を実施すべきである
(6)死刑制度が存在するために、誤審を誘発することがある
  全体的に感じるのは、菊田氏の場合、犯罪の加害者側の立場を忖度すること厚く、被害者側の立場にきわめて無頓着なことである。上記6点のうち、唯一被害者側の立場を考えるものとして「犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない」という主張がある。これは当然であろう。かけがえのない人を殺された被害者にとって、加害者がいかに処罰されようと、たとえ死刑に処されようと、けっして癒されるわけがないことは容易に推測できる。被害者側に立てば、取り返しのつかない事態であるが、せめて加害者がこの世からいなくなってほしい、というものであろう。近代刑事裁判制度が始まるまでは、「仇討ち」制度など、わが国でも復讐権が被害者側に担保されていたが、現在の制度では、この復讐権を個人から強制的に取り上げ国家管理としたのである。したがって、国家が被害者に代わって必要な刑罰を代行することは、国家の義務の一部である。必要ならば、裁判などの正当な手続きを経たうえで、国家が加害者を死刑に処するのは当然なのである。
  死刑に犯罪抑止効果がない、という議論は、一部分では正しい側面もあろうが、すべて正しいわけではない。「殺してしまうのは簡単だが、ほんとうに加害者を悔い改めさせるためには、生かして時間を与えたうえで、深く反省させるべきだ。その方がより厳しい刑罰になりうるし、人道的でもある」という意見がある。これも正しい面があるが、一方では「『死』は『すべての可能性』を当事者から奪うから、もっとも厳しい悪条件である」という側面もある。とくに、殺された側から考えると、加害者側だけに「可能性が残される」ことに納得できないのも当然であろう。多数の人びとや移り行く時代をかかえた多様な実社会において、こういう微妙な問題に単純なひとつの回答など存在しない。つまるところ死刑は、抑止効果を主目的とするものではないだろう。
死刑に代えて終身刑を設けるべき、というのが菊田氏の主張らしい。終身刑の方が死刑よりも懲罰効果がある、という意見も、抑止効果と同様で、正しい側面と、そうでない側面を併せ持つのである。私は、終身刑を導入するときに、その面倒を観ることになる看守など職員の負担と、彼らの生計を支える税金をもあわせて考えるべきであると思う。少なくとも、終身刑が死刑に代行できる制度にはならない、と思う。
  冤罪による刑死の問題は、衆議院議員の亀井静香氏も指摘している。たしかにこの問題は非常に大きな問題であると思う。しかし、およそ人間が行う判断に一切の誤りがないということは期待できないという厳然たる事実の一方で、現実社会に生涯を送る人間の生きる時間は有限である。完全を求めるために問題を先送りにして、人の生命の時間を越えたところで判断したのでは、社会制度の意味がなくなる。裁判は過ちをもたらす可能性を認めるがために三審制を導入しており、しかも時限を導入するがために3回の審議を限度としているのであろう。誠実・真剣な裁判は当然必要であるが、その結果に対しては、たとえ完全ではなくとも従うべきだ、とするのが健全な法治主義である。ついでながら、死刑執行に法務大臣の判断すなわち署名が必要な現行規則を改変して、法務大臣の実質的な判断なしに死刑執行を行うようにすべきという意見を、現法務大臣が述べたところ、「人ひとりの命に関わる重大な問題にたいして、不見識である」という非難が出ているそうだ。私は、慎重な裁判の結果をこそ重視すべきであり、判決が決定したあと、しかも時間が経過したあとで、再度法務大臣が執行の可否に介入する方がはるかにおかしい、と思う。
  死刑制度廃止が世界的潮流であり、先進国のひとつとして、わが国もそれに倣うべきである、という主張は、私には説得性が感じられない。他人がやるから、自分もやるべき、などという稚拙な議論は、本来とりあげるにたらない。
  死刑制度があるがために誤審を誘発する、という菊田氏の主張は、その論拠が私には理解できない。
  菊田氏は「死刑制度存続論者は、高学歴、高収入の人に多い。そういうひと達は、自分が殺人事件の加害者になることを想定しない。」という。たしかに私自身、殺人事件の加害者になることを想定することは、通常はない。ただしこれまでの生涯で、一度も他人に殺意を持たなかったということでもない。自分自身が、環境によっては、場合によっては、殺人を犯すかもしれないということについて、想像は可能である。そういう場合、自分だけが死を免れて相手だけが死ぬのが当然だ、とは考えない。菊田氏の主張は、明らかにピントが外れていると思う。
  私は、終身刑の導入の如何にかかわらず、死刑制度は当面存続せざるをえないと思う。理想としては、死刑制度が存続するにもかかわらず実際には死刑が判決されることがない、という状態であろう。現実には、むしろ今後一層被害者側の立場をより忖度した裁判を行うべきだと思う。ひとつの実例として、朝日新聞の販売促進員がインターネットを通じて知り合った2人の男と共謀して、母ひとり子ひとりで慎ましく暮らしていた結婚前の若い女性を強盗目的で惨殺するという凶悪事件が、今年あった。従来の判例にしたがうと、ひとりの犯人が3人以上殺害しない限り死刑は稀だったそうである。この場合、3人でひとりの被害者を殺害したので、犯人ひとりあたり1/3人しか殺害していないから、とても死刑の条件には該当しない、というような論理が成り立つのだろうか。そういうことをもっともらしく声高に言いたてる弁護士が何人かいそうである。そういう馬鹿馬鹿しい判断だけは、ぜひ避けてほしいと思う。(2007.10.8)

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小沢一郎「今こそ国際安全保証の原則確立を」

  岩波書店の総合雑誌「世界」11月号に、民主党代表 小沢一郎氏の論文「今こそ国際安全保証の原則確立を」が掲載された。ある国連関係者への手紙という形式で、自らの安全保障政策の基本方針を述べている。ちょうど海上自衛隊のインド洋沖給油延長問題の最中であり、参議院で第一党となった民主党代表者としての発言は、ひろく注目を浴びている。
  要旨は以下のようである。わが国の安全保障において、日米関係は中軸ではあるが、同時に国連中心主義を両立させるべきである。海上自衛隊の洋上給油行為は、集団的自衛権を違法とした日本国憲法に違反している。一方、国連決議にもとづく国際治安支援部隊(ISAF)参加は、たとえ武力行使を含むものであっても、自国のための軍事行動ではなく、あくまで国連憲章にもとづく国際的平和維持行動であり、憲法9条の不戦条項に違反しない。むしろ憲法の前文に謳われる平和精神に叶う行為である。したがって、国際治安支援部隊(ISAF)に参加することはわが国にとって可能な行為ではあるが、現実に行動に参加するか否かは、その都度の政治的判断による。そして、テロリズムに対する戦いで重要なのは、軍事力ではなく「貧困の撲滅」である。わが国は今後「貧困の撲滅」にこそ努力しなければならない。
  国民のひとりとして、私の所感を簡単に記しておく。
  私は、若いころから一貫して「国連中心主義」には大きな疑問がある。中国やロシアのように、日本には資金負担だけをさせて常任理事国参加を拒否しつづける国家が主導権を握っている。国際的な重要局面で、国連がほんとうに役に立ったケースは現実にはきわめて少ない。さらに国連も巨大な組織・官僚機構のひとつであり、他の組織と同様にさまざまな腐敗が現実に存在している。とはいえ、もちろん貴重な国際関係の調停機関として、重要な存在のひとつではある。それでも、そういう懸念の大きい機関の決定を、わが国の安全保障の主軸に据えることがほんとうに妥当であろうか。私は、わが国の安全保障の判断と行動の主体は、あくまでわが国自身の意志であるべきだと思う。いわゆる「国連中心主義」には、私は反対である。
  国連決議があるからといって、わが国の軍隊すなわち自衛隊を海外に派遣する、という考えが、いまの日本にとって現実的なのだろうか。たとえば、すでに終息したイラク復興支援活動において、一人の死者をも出さなかったことが、わが国で自衛隊派遣が問題化しなかった最大の要因である、とされている。私は小沢氏がいうように、わが国も応分の負担と、必要なら血で贖う貢献を覚悟すべきだという主張には、意味があると思う。しかしながら、現在のわが国の軍事行動に対する国民的理解を考えると、国際治安支援部隊(ISAF)が容易に受け入れられるとも思えない。実際、参議院第一党とはいえ、民主党はその参議院でさえ過半数に達しない。共産党や社会民主党だけでなく、民主党内でも反対者が出そうでもある。国際治安支援部隊(ISAF)は、当面は実現しそうにない。
  海上自衛隊のインド洋沖給油が憲法違反で、国際治安支援部隊(ISAF)参加が合憲である、というようなテクニカルな議論については、専門家の考察に任せたい。われわれ普通の市民から見ると、現実の国際政治においてわが国がどうすべきかという観点からは、そういう理論的な議論がどっちの結論となっても、やるべき行動の判断に大きな影響があるようには思えない。
  「貧困の撲滅」という命題は、いわゆる正論であり、誰も真っ向から反対できない。しかし、これは容易ではない。経済的に豊かな国が貧しい国に対して援助を与えれば解決する、というような単純な問題ではないのである。私が東南アジアで働いたとき、直面した体験としての事実がある。中国系のひと達は、倫理観などに多少の問題は指摘されているものの、経済活動に対して総じて前向き、積極的である。優秀な学生の多くが、製造、金融、商業、など経済を支える職業につき、よく働く。最近の中国の経済発展には、それなりに理由があるのだ。これに対して、イスラム系のアジア人の多くは、経済活動に対してきわめて消極的である。高い価値を認めていない、という理解が正しいかも知れない。その結果、イスラム系の優秀な学生の多くは、イスラム教の研究者や文学者や教師になりたがるが、決して経済活動に参加したがらない。イスラム系の工場従業員は、祈祷の時刻になると、製造ラインをその場で直ちに放棄して、祈祷に参加することが珍しくない。こういう傾向に対して、私は非難するつもりはない。彼らにとって、お金より心のほうが大切であるだろうし、そういう価値観にもそれなりの良さがあるだろう。ただし経済活動を重視しない文明は、豊かになることはできない。冷たく言えば、彼らは貧しくなるべくして貧しくなっているという側面がたしかにある。こういうひと達と状況に対して、単純な価値判断も簡単な対策もない。私は、先進国の協力・努力による低開発国の「貧困の撲滅」という活動は、労多くして効果が小さいと思う。
  総じて、小沢氏の主張は、ひとつの見識であり、ひとつの議論であるとは思う。彼がひとりの学者あるいは「識者」であれば、「そういう説も傾聴に値する」というべき議論のひとつである。しかし彼は現役の政治家であり、政権奪取を目指す民主党の代表である。現実の政治にかかわる政治家の発言としては、私は疑問がある。現実の政治家の仕事は「正論」を述べることではない。「国民にとってよい結果をもたらす政治行動」を「実行」してこそ、はじめて値打ちがある。今回の小沢氏の論は、私には実行性と妥当性の両面で疑問がある。
彼はこの論文のなかで「こういう主張を、私は以前からずっとしてきた」と言っている。ならば、何故この時期、このタイミングで雑誌に論文発表したのか。外交・安全保障上で懸案の重大案件となっている海上自衛隊給油問題に対して、憲法違反の疑義と対案を出して、現在の自民公明連立政権に対して揺さぶりをかけ、一方では「貧困の撲滅」という左派に受け入れられやすい主張を取り混ぜて、民主党左派の取り込みを図っているのではないか、と邪推したくなる。
あるいは小沢氏は、理屈としてひとつの筋を通すことができ、一方で現実には実行できそうにない主張を提案することで、民主党左派をはじめとするメディアを含む左派勢力を取り込み、同時に自民公明与党を攻撃する、外国には国際治安支援部隊(ISAF)への賛同を表明して反感を抑制し、いずれ政権を掌握して左派の支援を必要としなくなってから、おもむろに国際治安支援部隊(ISAF)に対応する、それまで海外諸国は待ってくれるだろう、と深慮遠謀を目論んでいるのかも知れない。
しかし、現在の外国の視点はそんなに生易しいものではないようである。インド洋給油も、国際治安支援部隊(ISAF)も実行できない、という状況になったら、きっと諸外国は日本のテロリズムに対する戦いへの不作為を、強く責めるだろうと推測する。
小沢一郎という政治家は、かつて「ふつうの国」という、当時としては思い切ったコンセプトを打ち出して、私はおおいに期待した。思慮、実力、実行力、行動力を併せ持つ、貴重な人材であるとも思う。小沢氏は、思考力と実行力のある政治家であると思うので、よい方向に豹変して、よい政治貢献をしてくれることを願っている。(2007.10.14)

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沖縄米軍基地問題の本質

鳩山首相が与党三党の協議結果を受けて、普天間基地移設先の決定を無期限延長する方針を決めた、と発表した。要するに先送りで、なにも進展させるつもりがない、ということである。当然ながらメディアでもいろいろな非難が説かれている。民主党政権に対しては、当初から外交問題では大きな不安をもっていたが、いやな予感ほど的中してしまうということのようだ。
  私は一介の市井の庶民であり、防衛に関しても、外交に関しても、当然ながら素人であるから、こういう複雑な問題は専門家としての政治家に任せたい。それでも、素人でも考える当たり前と思えることについて、若干のコメントをしたい。
  国家は、最低限の必要機能として対外的な軍事的防衛と国内的な治安警察に関しては無限責任を負う。このふたつが実現できない場合、国としてのそれ以外の機能はすべて実現不可能となる。たとえば社会福祉や景気対策などの政策も、国家の独立と治安維持という前提があってこそはじめて意味をもつ。
そこで防衛力を必要とするが、その防衛力は有事に対応することが目的である。有事が一切なければ、当然防衛力など無意味であり、無駄である。かつての社会党などの立場は、有事は絶対ない、と主張していたから、その主張は間違っているが論理は整合している。現在の政権与党である民主党は、有事発生の可能性を認めているはずである。実際、中国はわが国に直接敵対しているわけではないものの南シナ海油田問題などの例もあり友好国とも言えず、突出した軍事予算を長年にわたって投入し、軍事超大国になろうとしているのは厳然たる事実である。北朝鮮が核軍備をしたうえに公然と日本に敵対的言動をしているのも事実である。有事の可能性はない、という説得性のある根拠はどこにもない。
  そこで有事に対応するために、どのような軍備が必要なのか、という点が次のポイントである。沖縄米軍基地が問題となるのは、有事に対応するために、米軍の協力・支援が必須で、しかも米海軍・海兵隊がこの場所に常駐することが必要だ、という判断にもとづくはずである。もし一部の「識者」が言うように、沖縄に米海兵隊が常駐しなくてよい、という判断がほんとうに正しいのであれば、沖縄住民に負担の大きい沖縄米軍基地は、当然撤去することを実行すべきだろう。これまでわが国の国益のために米軍に駐留してもらっているのであり、アメリカのために基地があるではない。一方、軍事的戦術的にこの地に米海兵隊常駐がやはり必要だというなら、結論としては、たとえ環境破壊や住民の負担などの諸問題があったとしても、基地の存在は必須で免れがたいということになる。国家の安全保障のために必要という判断なら、当然、環境への対処、基地周辺住民への手当てが別途必要となるにしても、結論としてはあくまで基地を設置せざるを得ない。
  独立国に他国の軍隊が常駐しているのは異常である、とか、駐留米軍に数兆円の資金投入を続けてきたことを考え直すべきだとか、あるいはアメリカの機嫌を損ねるとか、そういう次元のちがう視点や観念論で判断できる問題ではない。純粋にわが国の有事に対する防衛の具体的手段という視点から、観念的・理念的ではなく現実的に判断しなければならない問題である。
  政府がやるべきことは、まず国家防衛のために有事の可能性をどう考えるか、有事の可能性を認めるなら、その有事に対処するためにどういう軍事体制が必要となるのか、沖縄に米海兵隊常駐が必要なのか否か、その軍事体制を実現・維持するためにどういう対応をするのか、これらを正しい順序できちんとした論理で国民に説明することである。説明の順序や論理の優先順位を混乱させたまま、住民の意向も大切、日米同盟も大切、などという焦点も論理もない発言では、首相と政府の信用がなくなるだけである。
  最後にもう一点。政治というのは「起こりうる最悪の事態のレベルを、もっともマシにする努力である」と思う。「もしうまく行けばこんなに良い結果となるかもしれない」という場合であっても、「もしうまく行かなかったら、こんなひどいことになる」というのでは、そのわるいケースを規準に判断しなければならない。テレビ番組であるお笑い芸人が「政治家は理想を語らねばならない」と発言し、同席した現役政治家が同意するという場面があったが、とんでもない話である。国民を勇気づけるために「理想を語る」ことはときには大切であっても、政治家は「理想を求めるあまり、リスクを考えない、あるいはリスクを侵す」のであれば、それは最悪の政治となる、ということを肝に命じるべきである。(2009.12.16)

クリーンな人物と優れた政治家

  韓国の盧武鉉前大統領が自宅近くの山中で投身自殺した。不正金銭授受の疑惑を、現在の李明博大統領政権の検察から追求され、耐えきれずに自殺に追い込まれたという。依然として韓国内でかなりの勢力を占める盧武鉉氏支持派からは、現政権の政治的訴追だ、政権の強権による殺人だ、として現政権に対する強い反発があり、韓国国民の分裂が懸念されるともいう。
  私は、政治家の評価はその政治家としての仕事の中身で評価すべきだと考えている。ある政治家が優れている、立派だ、というのは、その政治家がその仕事を通じてなし遂げた政治的成果によって決めるべきであって、その政治家が清廉潔白か否か、ということはその政治家が立派か否かには直接関係がない、という考えである。
  もちろん政治家は本来清廉潔白であるべきで、ダーティな政治家は断じて望ましくないのは当然である。不正を働いた政治家は、法治国家の下では法律にもとづいて厳正に処罰されるべきである。しかしたとえその政治家がダーティな面を持っていたとしても、その政治家としての仕事に優れていたなら、よい政治をしたなら、それはそれで認められ、政治家として称賛されるべきである。一方、いくら清廉潔白であったとしても、政治家としての仕事がよくなければ政治家として優れているとは言えず、なんら立派でもない。他の職業と異なり、政治家はとりわけその仕事の出来ばえが多数の国民に跳ね返ってくるだけに、政治家は仕事を通じての国民への貢献こそがなにより大切であり、重視されるべきである。政治家の評価において、クリーンか否か、というモラル的側面と、政治家としての政治上の仕事とを混同してはならない。
  もちろん政治家もクリーンであることが望ましいし、むしろ当然クリーンであるべきであって、そういう徳がない政治家は、たとえ法的制裁からなんとか免れても、敵対者から弱みをつかまれやすいだろう。たとえば明治時代の元勲であった伊藤博文は、少なくとも金銭的には恬淡であったことが、長期にわたる権力維持に大いに貢献したと思う。最近では、小泉純一郎がやはり金銭的に恬淡であったがために、かなり大胆なことを断行して多くの政敵がいたのに関わらず、ついに打倒されることがなかったという実例がある。
  盧武鉉氏が優れた大統領であったか、立派な政治家であったか、それはひとえに彼の政治を通じての仕事の成果によって判断すべきである。もし盧武鉉氏が、政治家本来の仕事ではなく、クリーンさを売り物にしていたとするなら、政治家の態度としては断じて間違いである。ダーティな政治家が、その「ダーティさ」を売りにできるはずがない一方で、クリーンな政治家が「クリーンさ」を売りにするのは全く馬鹿げている。そんなことは、まともな政治家なら「当然のこと」とわきまえなければならない。金銭授受というような外に現れる態度に関わらず心底がクリーンな人物は、自らの「クリーンさ」を当然のこととして、決して「クリーンさ」を誇るようなことはしないであろう。自分の売りであった「クリーンさ」を棄損されそうになったことで自殺してしまうなら、盧武鉉氏は「心底からクリーン」な人物ではないだろうし、政治家として一流からほど遠いと言わざるをえない。逆に盧武鉉氏が金銭上の不正で処罰されるようなことがあったとしても、もし仮に彼の5年間の治世が優れていたとするなら、優れた政治家として評価されるべきであったろう。
  最近の、不正資金受領疑惑による民主党小沢一郎氏の代表辞任も同様である。私は、法的に問われていない段階で小沢氏を非難する気はない。むしろ、代表を降りて陰にまわった小沢氏が、かつて細川政権時代にやったように、黒子の実力者として首相を操り、政治の失敗を首相に負わせて自分自身は一切責任をとらない、という無責任を再現するなら、その方がはるかに大きな問題であると思う。(2009.5.27)

湯浅誠「反貧困」岩波新書

  東京大学在学中からホームレス問題に身を挺して取り組み、昨年末には「派遣村」の村長をつとめ、メディアを通じて多方面に発言し問題提起を続け、さらにはこの度の政権交代で民主党政権のアドバイザーをも努めている湯浅誠氏の著作である。昨年の春に発行以来、話題を集めた書でもある。
  湯浅氏が言う通り、貧困の実態はなかなか見えづらいのは事実であり、その現場に直接関わって活動している湯浅氏の発言にはそれなりの重みがある。自分と直接関わらない「貧困・低所得」をネタに「貧困対策」の本を書き、印税をたっぷり得て趣味のブリキ製ミニカー玩具で数千万円を費やしている某評論家とは違う。湯浅氏の地道な努力は、日本人のひとつの良質な部分を代表していることは事実であり、その意味では深く敬意を表する。
  しかしその一方で、湯浅氏の状況分析と政府批判に、私は同意できない点が多々ある。
  湯浅氏は「自己責任論」を徹底的に批判するが、国民の自己責任を一切問わないのであれば、それは政府に無限責任を求めることになる。政府が貧困問題を解決する無限責任がある、という主張に対しては、私は断じて賛同できない。貧困対策の助け合いネットを創立して活動する湯浅氏が「私たちでさえ可能なことを、なぜ行政がやらないのか」と説くのは、感情的には同情できても、やはり誤りであると思う。行政がやるときには、かならず役人あるいは公務員の介入が必要となり、その結果、湯浅氏自身がいくつも例をあげて非難している「公務員の不正、怠惰」を確率的必然としてともなうのである。国の政府の最低限の責務は、まず国家の安全保障であり、国内治安の安全保証である。そのために国際的な国防と国内の治安に関しては国家が無限責任をもつ。これが実現できなければ、そもそも国家が成り立たないのである。しかし湯浅氏がいうように、貧困対策に国が全面的責任・無限責任を負うことは、不可能である。あるいはごく控えめに言って、不可能なことが多々ある。私は全面的に自己責任を主張するのは行き過ぎであると思う一方で、自己責任を全く問わないのは大きな過ちであると思う。
  湯浅氏がこの本で解説して主張している「貧困の増加」は、半分は正しいが、半分は間違っている。「相対的貧困率で日本はアメリカについで2番目に悪い状況だ。だから日本では貧困が非常に増加している。」という論理は、明らかに事実に反する。相対的貧困率は、OECDが定義を定めているが、単純に言えば可処分所得の国全体の中央値に対して、その半分以下の人口が占める割合である。しかもその可処分所得には、貯蓄は含まれていない。そういう指標であれば、景気が低迷している上に高齢化が進んで退職者が急速に進行している日本では、その定義による相対的貧困率が近年急速に上昇しているのは当然である。私もまもなく会社勤務を辞めて無職になるので、この定義にもとづく「相対的貧困層」に仲間入りすることになる。残念ながらこの本には、そのような誇張、あるいは誤りがある。
  とはいえ、湯浅氏が貧困の現場に直接関わり、現場の実感として貧困層の人々が増加していること、それらの人々が困窮しているのを目の当たりにしていることも事実である。政府としては、湯浅氏のいうように全面的に対処すべきとは言えないにしても、少しでも対応することが国家の成り立ちのためにも求められる。その一方で、長期的な国家政策を考えるとき、福祉予算の新たな設定や増額にはきわめて慎重でなければならないことも歴史的事実である。たとえばアメリカでは、ベトナム戦争敗戦による世論攻撃に対応するためだったのか、ジョンソン大統領のときに大幅に社会保障を導入した。それが発端となって以後どんどんその予算規模は膨張し、すでに10年ほどで有名な双子の赤字の最大原因となった。そうして膨大な予算を費やしているにも関わらず、湯浅氏が指摘するとおり、いまだにアメリカは貧困者の多い国なのである。わが国の年金も同様であるが、社会福祉制度は一度できてしまうと、国民はその存在を前提にして自分の生活設計をするようになる。したがって、その削減には非常に大きな抵抗をともなう。政府は国民の支持を失わないために、社会福祉予算の減額にはなかなか手をつけたがらない。しかし冷静に考えれば、歳入が減少するときにすべての予算の削減を真剣に考えることは当然であり、小泉政権や安倍政権がこれに取り組んだことは当然のことなのである。一方的にこれらの努力を非難するのは、冷静でまともな政策論議ではない。
  まず貧困者の増加の原因を突き止めることが大切である。現在の経済環境のように、デフレ、株安、円高、と三拍子そろった「理想的な不況条件」の下では、税収の増加も見込めず、当然新たな財源など望めそうにない。湯浅氏の求める政府の対応が不可能であったとしても、それは自民党政権だからでも民主党政権だからでもなく、どの政党の政権でも不可能だろう。
  この日本の経済環境の悪化の基本的原因は、政府の経済政策の失策ではなく、2000年ころから顕在化してきた「新興国家群の世界経済参加にともなう世界的過剰労働力の発生」であると思う。実際、過去10年ほどのわが国の製造業の動きを見ると、いずれのメーカー企業も、製造の海外移転が顕著な傾向として認められる。いまやグローバル化した経済環境の下では、コストの国際競争は必至であり、日本国内での製造は、労働者の賃金水準の国際競争から、海外製造業に対抗できなくなっている。したがって賃金の上昇もできない。この結果、大多数のメーカーで製造の海外移転が進行しているが、それを少しでも抑制しよう、遅らせようとして制定されたのが派遣労働者の制度であり、ホワイトカラー・エグザンブションの提案であった。企業は赤字では存続できないので、最低賃金引き上げも、派遣労働者をなくすという規制も、いずれも製造業の海外移転を促進して、国内での就業機会を減少させることになってしまうのは必然である。
  ただ、湯浅氏の指摘からわれわれが考えるべきことは、これだけ国内労働力が余っている事実をよく認識して、一部で謳われているような「労働力としての外国人の受け入れ促進」という意見には、十分慎重であるべきである。私自身が直接関わった範囲でも、「日本人のワーカーにくらべて、外国人労働者はまじめでよく働く」という側面がある。それでも「職に就けない貧困者」を含む日本国民全体の事情を考えれば、わが国は安易に外国人労働者に頼るべきではないだろう。
  また湯浅氏は、そもそも貧困に陥っている人たちには職の選択肢などない、というけれども、たとえば介護従事者などは決定的に労働力不足が続いている。もちろんこのような仕事は誰にでもできるものではないので、職業訓練の補強、労働条件や処遇の見直しなど、対処すべきことも多いだろう。長年この分野に携わっている民主党の山井和則議員などは、今こそこれらの具体化に向けて活躍すべきではないのか。
  湯浅氏が問題提起する貧困問題に対して、日本国家がどのように対処できるか、政府もわれわれ一般国民も、真剣に考えなければならない。基本的には、これから「日本国家がなにを生業にして生き延びていくのか」という命題を逃れることはできない。すでに経済規模が大きくなって成長余力・伸び代に飽和感があるうえに、中国、インド、ブラジル、東南アジアなどの新興経済諸国の低賃金労働力に支えられたローコスト経済との激しい競争にさらされているわが国が、高齢化が急速に進み急拡大する福祉財源を支え得るだけの経済成長をいかに実現していくのか、非常に大きな、かつ重要な課題である。
  私が幼いころには、身の回りに「目に見える」貧しい人々がたくさんいた。それを見て、私たちの世代は、「がんばらないと自分自身が大変なことになる」と感じていた。現在の貧困増加の事実も、もしこれで幼い年代が、豊かさは当たり前ではない、努力を続けてがんばらねば食うにもこまることになるかも知れない、と危機意識を持つようになるなら、一面の効用にはなるだろう。
  またもうひとつ、湯浅氏がなんども繰り返し強調する「溜め」の確保、アマルティア・センのいう「潜在能力」の確保の指摘は、重要であると思う。湯浅氏は「溜め」あるいは「潜在能力」のなかに、金銭以外に「孤独に陥らないための人脈、あるいは人間関係の重要性」を指摘している。私はこの視点から、現代では失われた、日本人の共同体の価値の見直し、それを喪失させた過去の経緯の検証と反省が必要であると思う。戦後の「個人」、「個性」、「自立」の過剰なまでの称揚・追求から、家族、親族、地縁、職縁、などの人的ネットワークの軽視、あるいはそれ以上に反発・排斥の風潮が広く強くはびこっていた。会社の職縁を「社畜」と蔑称して排斥する進歩派の一部評論家もいた。その結果、今では「カネの切れ目が縁の切れ目、そして命の切れ目」という渇き切った寂しい人間関係が普及してしまった。民主党山井和則議員をはじめ福祉社会を求める人々が理想郷のように賞賛するスウェーデンで、現実に高福祉下での犯罪の激増や自殺の増加が起こっており、その原因こそが人的ネットワークの欠如、個人の孤独、なのである。わが国も、江戸時代や明治時代のような濃密で窮屈すぎる共同体に回帰することが良いとは決して言えないが、かつての共同体の長所について真摯に受け止めて、いかにして個人の環境としての人間関係を改善し構築していくか、われわれのこれからの課題であると思う。
  湯浅氏の文章は明晰で、論理展開もしっかりしていて、非常に読みやすい。私は、湯浅氏の活動には敬意を惜しまない一方で、その主張には多々異議がある。しかし貴重な現場の声として、引き続き湯浅氏の発言には注意していきたい。(2009.11.28)

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年功賃金制から能力主義へ

  わが国企業は長らく年功賃金制であったと言われている。学校を卒業すると、あるひとつの会社に入り、定年を迎えるまでその同じ会社で過ごす。その間、賃金は主にその会社での在籍期間の長さで決まる。戦後の順調な経済成長にともなう社会福祉の進展は、会社内での福利厚生の充実をもたらした。定期健康診断で健康管理されて健康保険制度に守られ、社宅に住み、余暇の家族旅行は会社の保養所を利用し、子供ができ家族が増え、家計が増加するにしたがって収入の増加が基本的に保証されていた。「サラリーマンは気楽な稼業」とも言われた。
  しかしもう一方で、この年功賃金制に対する批判も早くから根強くあった。メディアからは、サラリーマンは会社に飼い馴らされて「社畜」となっているという口汚い非難があった。同じ会社にいても、社内での人材ニーズは時代によって変化するので、会社人生という長い期間で見ると、同じ会社にいる限り必ずしも本人がやりたい仕事を続けることができる保証はなく、本人の希望にかかわらず会社が必要とする仕事をやらされることも多い。その結果、年功賃金制を支えるいわゆる終身雇用制が「人材を潰している」という批判があった。ひるがえって「より進んでいる欧米では」年功に拘らない「能力主義」をすでに導入していて、人材が活性化し、能力がより開発され、企業活動にも活力がもたらされている、と主張する人々からの批判もあった。
  こうしてさまざまな批判を受けつつも、バブル時代までは、ほとんどの大企業で年功賃金制が続いていた。しかしバブル崩壊のころから、様子がかなり変わってきた。この変化の背景としては、いくつかの要因がある。
  まず、企業側の内部事情がある。年功賃金制を安定に維持するためには、右肩上がりの業績の成長が必要である。さいわいに戦後復興期からバブル崩壊の1990年代初期までは、多少の凸凹は経つつも、経済の右肩上がりが継続した。しかしその後、わが国経済成長の成熟に加えて、経済活動のグローバル化と開発途上国の急速な経済成長と追い上げの影響などを受けて、もはやわが国の急速な経済成長は期待できなくなった。これは、団塊世代以後の人口構成の変化を反映した従業員をかかえた企業にとって、年功賃金制を維持することがもはやできなくなったことを意味する。企業としては、少なくとも中長期的には高齢従業員の賃金を抑制することが、生き残りのために必要となった。併せて、若手の優れた労働力を確保するために、「能力主義」の掛け声のもとに、若手人材への給与を必要に応じて改善して、選良人材の争奪競争が激しくなった。
  企業の外部からは、「能力主義」の導入要請、「労働市場の流動性」つまりは転職の増加期待、がずっと以前からあったが、それがますます強まった。実際、多くのメディアや「識者」は、口を極めて「能力主義」、「転職の勧め」、そして「社畜」への侮蔑を言い募った。
  「失われた10年」と言われた1990年代を通じて、わが国の大企業にもなんらかの形で、広範囲に「能力主義」が導入された。若手人材の流動化も進み、「第二新卒」という言葉もできた。しかしその一方では、「勝ち組、負け組」、さらに「格差時代」という「メディア語」も発生した。
  「能力主義」は、人事評価を妥当性、納得性、公正さをもって実現できる限りにおいて、ただしい方向であり、あるべき姿である。しかし、中村修二氏の青色発光ダイオードに関する特許訴訟の議論でも見られたように、個人レベルに遡る公正で納得性のある人事評価は、現実には非常にむずかしい。その渦中にいる当事者の個人にとっても、また周囲の人々にとっても、多くの場合納得できない部分が残るのが普通である。さらに、たとえ納得性があり公正な人事評価が実施できたとしても、「能力主義」であるかぎり、高い評価を得る側と低い評価に甘んじざるを得ない側とが、必ず生ずる。メディアがいうところの「勝ち組」と「負け組」が、必然的に発生するのである。私は言葉の意味があいまいなので好まないが、いわゆる「格差社会」というのも、「能力主義」を実行するならば、当然避けられない結果なのである。
  そもそも、メディアがかつて「社畜」とまで蔑んで罵った「終身雇用」という慣習も、実は従来から労働市場のごく一部しか占めない大企業のみの現象であった。多くの中小企業あるいは中堅企業と呼ばれる企業では、長らく「転職」は普通の現象であった。実際、私の友人の多くも、大企業に勤務していないひと達のほとんどは、数回の転職を経験している。メディアや「識者」の議論は、実際には常に大きく偏っているのである。さらに「社畜」という口汚い軽蔑語まで導入して、会社による従業員の長期的確保を非難した同じ側の人々が、労働市場流動化、転職の増加、そして能力主義の普及を現実にみると、こんどは「負け組」の発生、「無責任な人材放出」、「格差社会」の発生、などと否定的に囃し立てて、あらためて問題化している。メディアや「識者」の大部分は、なんの見通しも、展望も、具体策もない、と言わざるを得ない。
  成熟したわが国経済も、今後着実な成長を目指すべきではあるが、かつてのような高い成長率の右肩上がりはもはや期待できない。さらに中国をはじめとする人件費の安い開発途上国の追い上げがあり、企業は生き残りのためにも「能力主義」の導入、「終身雇用」、「年功賃金制の見直し」は必須となっている。
  個人の能力が年齢や経歴に関わらず公正に認められて、その能力を最大限発揮し、企業に妥当に効率よく貢献できるようになることは、当然ながら望ましいことである。グローバルな競争にさらされるわが国の企業活動にとって、能力主義的な公平さにもとづく企業活動の活性化は、必要な要素だろう。ただ、その実現のためには、企業側からも、従業員側からも、双方が納得できる公正な「能力評価」をなんとしても実現しなければならない。しかし現実には、これがけして容易ではない。それでも、今後時間をかけてでも、試行錯誤を経てでも、よりよい方向に努力を蓄積して行かざるを得ないだろう。
  つぎに必要なこととして、「勝ち組」、「負け組」という差別的な区別や呼び方を控えるべきである。たとえばアメリカでは、わが国よりもずっと以前から、もっと激しく厳しく、自由競争とその結果としての淘汰が徹底していて、貧富の格差もはるかに大きいし、いわゆる「負け組」も実はたくさん存在する。それでも、わが国ではやし立てるほどには「負け組」と罵ることも、罵られることもない。競争で負けた側も、貧しい人々も、けして悪びれることなく、堂々と生きている、という側面がある。
  そして、たとえば企業での競争で勝つこと、負けることが、その当事者の人生のすべてではなく、いくつかある大切な要素のうちの、ただひとつだけの結果である、という健全な価値観が大切であろう。
  さらに、ヒトの人生において、その価値基準を、たとえば「金」や「地位」という少数の評価軸だけで判定する風潮を見直すべきであろう。わが国は、ながらく多様でゆったりした「品格ある」価値基準が普及していた。たとえば、磯田道史「武士の家計簿」(新潮新書) に記されているように、江戸時代の武士は社会的地位が高いとされていた反面、多くの場合金銭的にはむしろ貧しい場合が多かった。一方で、町人や農民の多くは、地位は高くとも窮屈な生活を強いられる武士になりたいとも思っていなかった。「身分制社会」の不合理があった反面、価値観の多様性が併存して、武士、町人、そして農民のそれぞれが、自分の存在価値に誇りと自信をもち、充実して生きていたようである。つまり、多様な価値観が広く認められていたようである。現在のような、一元的な「金」一辺倒の偏重指向は、わが国では普遍的なものではなかったはずである。最近の「カネ至上主義」的な風潮に関して、「ライブドア事件「や「村上ファンド事件」も、問題が発覚する前の、さまざまなメディアの異常なほどの「称賛」を思い出すべきである。
   今後は、必然的に「終身雇用の減少」、「年功賃金制の希薄化」、「能力主義の着実な普及」が進まざるを得ないだろう。私は、これが望ましいというよりも、やむを得ない傾向だと思う。その結果として、当然いわゆる「負け組」が発生し、意味不明ながらも「格差」が生ずるであろう。その弊害を最小化するために、職業倫理のレベルアップが必要であり、さらには国民としての真の意味での品性の向上が求められているのだと思う。(2007.6.24)

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